No. 1452-B紫栢大師集序
莊生曰。卜梁倚。有聖人之才。無其道。吾有聖人之道。無其才。夫聖人矣。又何才與道之別。曰苟非其人。道不虗行。才者人也。予嘗披歷代祖圖於少室。其人無不魁傑有奇表。心竊異之。既而遇紫栢大師。見其旋尺之面。合圍之腰。坐若熊蹲。行如象步。士大夫得晉接者。不言而意已消。學徒瞻依者。未施棒喝而魂慮已慴。與向所見圖中諸宿。若或睹之。葢真其人哉。
神廟戊子己丑閒。大師駐錫吾地。與先正陸莊簡公。先師馮具區先生。深談不二。因築精舍。舍於棱嚴廢址。時灌莾極目。而大師說法如雲如雨。東南淨信。聞風趨向。施物填委。無何杞梓丹青。峩峩暉煥。不啻還舊觀而已。大師偕高足開公。創列規條。期為百世之守。江以南。海以北。諸剎不啻累百。而稱清規楚楚。遵蹈不踰尺寸者。必首棱嚴也。大師涉濤江。禮育王。躋雪棧。瞻峨嵋。躡冰壑。朝五頂。足跡徧天下。而後之京輦。以弘法故。示滅圜扉。所被顯晦大小鈍敏。諸機益廣。而語言亦益散落。其所說法。觸著信口所錄以示人。拈著信手絕組。絍蹊綫之迹。而波瀾橫溢。起沒自在。吞天沃日之勢。日澎湃於方幅之楮也。近代未見其儔。求之於古。妙喜幻住。庶或近之。金沙于潤甫大夫。赤心自行。混俗而扶大教。宛古淨名龐蘊之流。其於大師參領最深。契誼最篤。遇所攄撝。輒錄藏之。迨乎歸寂。聞有手筆落人家者。不遠千里。必力致之。二十年餘。裒然成大帙矣。近則謹書精刻。以寵同學。既而又幡然曰。大師生平所棲託注念。無如棱嚴。所發弘願。無如方冊法藏為第一事。剞劂之役。近在雙徑。去棱嚴不五六舍。是錄宜歸棱嚴。俾模印以行。稍取其直。以資刻藏。於大師寂光土中必所欣也。且弘法維人。棱嚴主者。白法師為大師克家之子。興廢舉墜。靡不殫力。是錄宜并入荷法擔中。乃以今上崇禎辛未嘉平月。舁板於堂。白法師受之。馳告於予。予曰。大夫之意良矣。嘗試與子爇一片檀。詣大師影堂相對。繙閱告語之意。必有浮於紙墨之上者。言誠可味。人誠可追也。是以吾貴其合。且也大師之言行。則於法得其綱骨。大師之願滿。令佛菩薩之言盡行。則於法徹其源底。不可謂非佛日崦嵫時。弩力魯陽之戈也。師與吾輩其必勉之。無負大夫無負大夫。 就李竹嬾居士李日華沐手撰書
神廟(万暦帝)の戊子・己丑の年、大師は我々の地に錫を止められた。先正・陸荘簡公や先師・馮具区先生と共に、不二の真理を深く論じ合われた。そこで精舎を建立し、楞厳の廃墟に建てられた。当時は雑草が目を覆うばかりであったが、大師の説法は雲の如く雨の如く広がり、東南の清らかな信者たちは風の便りに聞き集まり、施し物が山積みとなった。やがて材木や彩色が見事に施され、堂々と輝き渡る様は、ただ昔の姿を取り戻すにとどまらなかった。大師は高弟の開公と共に、規則を創設し、永遠の守りとされることを願われた。江南から北海に至るまで、数多くの寺院が何百とあるが、清らかな規律を守り、寸分も違えず遵守するところがあれば、必ずや楞厳が筆頭とされるだろう。
大師は荒波を渡り、育王に礼し、雪山の桟道を登り、峨眉を仰ぎ、氷の谷を踏み、五台山に詣で、足跡は天下に及んだ。その後、都へ向かわれたが、弘法の故をもって、獄中で示寂された。しかし、その教化は顕・晦、大・小、鈍・敏と機根に応じて広がり、法語もまた散逸していった。大師の説法は、口に触れれば随筆を録して人に示し、手に触れれば筆を取って、わざとらしい筋道の跡を絶ち、波瀾が横溢し、起伏が自由自在で、天を飲み日を洗う勢いが、日々に小さな紙の上で澎湃としていた。近代にはその類を見ない。古に求めるならば、妙喜や幻住に近いと言えよう。
金沙の于潤甫大夫は、赤心をもって自ら行い、俗世に交わりながら大法を扶け、まるで古の維摩や龐蘊の流れを汲む者である。大師に対する参究は最も深く、契りの情は最も厚く、大師が示される教えに出会うごとに、録して収めた。大師の寂後も、手筆が他人の手にあると聞けば、千里を遠しとせず、必ず力づくで入手した。二十余年を経て、ついに大冊となった。近年は丁寧に書き写し精巧に刻んで、学友たちのために供された。さらに、ふとこう思われた。「大師が生涯にわたって思いを託された場所は、楞厳に勝るものはない。発した大願も、方冊法蔵を第一義とすることに勝るものはない。版木の刻みは双径に近く、楞厳からも五、六里を隔てない。ゆえにこの録は楞厳に帰し、版を刷らせて広めるべきである。その収益を少し取り、蔵経の刻印の資とすれば、大師の寂光土においても必ず喜ばれるであろう。そして法を弘めるのは人による。楞厳の主である白法師は、大師の家を継ぐにふさわしい方であり、廃れたものを起こし、失われたものを挙げることに尽力している。この録は、ともに法の担い手に加えるべきである。」そこで、今上の崇禎辛未の嘉平月、板木を堂に運び入れ、白法師がこれを受け取った。そして私に知らせてきた。私は言った。「大夫のお心は実に良い。一度、一片の栴檀を焚き、大師の影像の前で向かい合い、この録をひもときながら、その意を尋ねてみよう。言葉は確かに味わうべきであり、人は確かに追慕すべきものである。ゆえに私は、このように合わさったことを尊ぶのである。また、大師の行いは法においてその骨格を得、大師の願いが満たされ、仏・菩薩の言葉をことごとく行わせれば、法においてその源底を徹することになる。これを、仏日が崦嵫(山の西)に沈もうとする時、奮励して魯陽の戈を振るうのと同じでないとは言えない。師と我々は、必ずや努め励まねばならない。大夫の志を裏切ってはならない。大夫の志を裏切ってはならない。」
就李竹嬾居士 李日華 沐手して撰し書す