觀音玄義卷上
観音玄義 巻上
隋天台智者大師說 門人灌頂記
隋の天台智者大師が説く 門人灌頂が記す
夫法界圓融,像無所像;真如清淨,化無所化。雖像無所像,無所而不像;化無所化,無所而不化。故無在、無不在,化應九道之身,處有不永寂,入不二之旨,是以三業致請蒙脫苦涯,四弘為誓使霑上樂,故娑婆世界受無畏之名,寶藏佛所稟觀音之目,已成種覺,號正法明,次當補處,稱為普光功德。其本迹若此,寧可測知?方便隨緣,趣舉一名耳。
そもそも法界は円融にして、像とすれば像するところなし。真如は清浄にして、化すれば化するところなし。像するところなしといえども、像せざるところなく、化するところなしといえども、化せざるところなし。ゆえに、在るところなくして在らざるところなし。その身は九つの道に応じて現れ、有に処しても永く寂滅せず、不二の旨に入る。ここをもって三業が請い願い、苦しみの岸を脱れ、四弘を誓いとして、もって最上の楽しみをうる。ゆえに娑婆世界において無畏の名を受け、宝蔵仏のもとで観音の目を授けられた。すでに種覚を成し、正法明と号し、次いで補処となるべきを、普光功徳と称す。その本地および迹はかくのごとし。いかんぞ測り知ることを得ん。ただ方便をもって縁にしたがい、かりに一つの名を挙げたるのみ。
今言觀世音者,西土正音名阿耶婆婁吉低輸,此言觀世音。能、所圓融,有、無兼暢,照窮正性,察其本末,故稱觀也。世音者,是所觀之境也。萬像流動,隔別不同,類音殊唱,俱蒙離苦,菩薩弘慈,一時普救,皆令解脫,故曰觀世音。此即境智雙舉,能所合標。經者由義,文理表發,織成行者之心,故曰經。普門者,普是遍義,門曰能通,用一實相開十普門,無所障閡故稱普門。品者類也,義類相從,故名為品也。
今、観世音について説く。西方の正しい音では「アヴァローキテーシュヴァラ」といい、これを「観世音」と訳す。「能(観る主体)」と「所(観られる対象)」が円融し、「有」と「無」がともに通じ、智慧の照らしが真実の本性を窮め、その本末を明らかにするので、「観」と称する。「世音」とは、観察される対象である。万象は流動し、隔たりや違いによって同じではないが、あらゆる音声や呼びかけに応じて、すべてが苦しみを離れることができる。菩薩は広大な慈悲をもって、一時にすべてを救済し、皆を解脱させる。ゆえに「観世音」という。これは境(対象)と智(智慧)を同時に掲げ、能と所を共に示したものである。経とは「由(よりどころ)」という意味であり、文理が表に現れて、修行者の心を織り成すものだから「経」という。普門の「普」は「遍(あまねく)」の意味で、「門」は「能く通ず(よく通じる)」ということ。一つの実相を用いて十の普門を開き、何の障りもないから「普門」と称する。「品」とは類(くくり)であり、意味や種類が同じものをまとめたものだから「品」という。
大部既有五章明義,今品例為此釋。五意者:一釋名、二出體、三明宗、四辯用、五教相。
大部にはすでに五章があり、その意味を明らかにしているが、今この品ではその例に従って解説を行う。五つの意図とは、第一に名称を解釈すること、第二に本体を示すこと、第三に宗旨を明らかにすること、第四に働きを弁別すること、第五に教相を示すことである。
釋名為二:一通釋、二別釋。通者,人法合明。別者,人法各辯。何故爾?緣有利鈍,說有廣略。
「釈」という言葉には二つの意味があります。 一つは「通釈(あまねく解釈すること)」、もう一つは「別釈(個別に解釈すること)」です。 通釈とは、人と法を合わせて明らかにすることです。 別釈とは、人と法をそれぞれに説明することです。 なぜこのように区別するのでしょうか。 それは、聞く人の機根(素質)に鋭い人と鈍い人があり、説く内容にも広いものと簡潔なものがあるからです。
今就通釋,為四:一列名、二次第、三解釋、四料簡。一列名者,十義以為通釋。所以者何?至理清淨,無名、無相,非法、非人,過諸數量,非一、二、三,但妙理虛通,無名相中假名相說,故立無名之名,假稱人法,雖非數量,亦論數量。故《大論》云「般若是一法,佛說種種名,隨諸眾生類,為之立異字。」今處中說,略用十義以釋通意也。十義者,一人法、二慈悲、三福慧、四真應、五藥珠、六冥顯、七權實、八本迹、九緣了、十智斷。
今、全体を解説するにあたり、四つの段落に分けます。 第一に名称の列挙、第二にその順序、第三に解釈、第四に詳細な検討です。
第一に名称の列挙です。「十の意味」をもって全体を解説します。 なぜかと言えば、最高の真理は清らかであり、名前も形もなく、法も人もなく、あらゆる数量を超え、「一」や「二」や「三」というものもありません。 しかし、素晴らしい真理はどこまでも通じるものであり、名前や形がないところに、仮に名前や形を借りて説くのです。 それゆえ、「名前がない」という名を立て、仮に人や法の名称を用います。数量を超えているとはいえ、あえて数量についても論じるのです。 ですから『大智度論』には、「般若は一つの法であるが、仏は様々な名前を説かれた。衆生の種類に従って、それぞれに異なる文字を立てられた」とあります。 今、ここでは中道の立場から、おおまかに十の意味を用いて全体の意を解説します。
その十の意味とは、 第一に「人と法」、 第二に「慈悲」、 第三に「福と智慧」、 第四に「真身と応身」、 第五に「薬と宝珠」、 第六に「冥と顕」、 第七に「権と実」、 第八に「本と迹」、 第九に「縁因と了因」、 第十に「智慧と断滅」です。
第二次第者,此有兩意:一約觀明次第、二約教明次第。約觀則總,初、中、後心因圓果滿;約教則該,括漸、頓,小、大諸經。約觀以人法為初者,欲明觀行,必有其人,人必秉法。譬如人受一期果報,攬陰成人,雖具無量德行,必先標名字,故以人法居初,意亦例此。人法居九義之初可爾,何意乘以人法為次耶?此須據經,經云「以是因緣名觀世音」,即前辯人,後云「方便之力,普門示現」,即却論於法,人能秉法,故言人法也。
第二の段階について、ここには二つの意味がある。一つは「観」に基づいて次第を明かすことであり、もう一つは「教」に基づいて次第を明かすことである。 「観」に基づけば、これは全体をまとめて説くものであり、初め・中・後の心において、因が円満し、果が成就することを示す。 「教」に基づけば、これは広く全てを包括するものであり、漸教・頓教、そして小乗・大乗の諸経典をすべて含んでいる。 「観」に基づいて人と法を初めに置くのは、観行を明らかにしようとするならば、必ずその行いを行う人がいて、その人は必ず法を受持するからである。 例えば、人が一つの果報を受けるとき、五陰を集めて人となる。無量の徳行を備えていても、必ず先に名前を標示する。そこで人と法を最初に置くのであり、その意図もこれに準じている。 人と法が九つの義の最初に置かれるのは当然として、ではなぜさらに「乗」の項目においても人と法が第一の次第とされるのか。 これは経典に基づいて説明する必要がある。経典に「この因縁によって観世音と名づく」とあるのは、先に人について論じたものであり、後に「方便の力によって普門を示現す」とあるのは、逆に法について論じたものである。人が法を受持することができるから、人法と言うのである。
二次慈悲者,良由觀音之人觀於實相普門之法,達於非人、非法實相之理,一切眾生亦復如是,故《華嚴》云「心、佛及眾生,是三無差別。」此理圓足,無有缺減,云何眾生理具情迷,顛倒苦惱?既觀是已,即起慈悲,誓拔苦與樂,是故明慈悲也。復次,若就言說為便,初慈後悲,亦是就菩薩本懷,欲大慈與樂,既不得樂,次大悲拔苦,故初慈後悲。若從用次第者,初以大悲拔苦,後方以大慈與樂,又就行者先脫苦、後蒙樂,故先悲後慈。今從前義次第也。
第二の慈悲について述べます。そもそも、観音という人物が実相である普門の法を観察し、人でもなく法でもない実相の道理に達すると、すべての衆生もまた同じであることを悟ります。ゆえに『華厳経』には「心と仏と衆生、この三つには差別がない」と説かれています。この道理は完全で欠けるところがありません。それなのに、なぜ衆生は道理を具えながら情に迷い、逆さまに苦しむのでしょうか。これを観察したならば、すぐに慈悲を起こし、苦しみを除き喜びを与えようと誓います。これが慈悲を明らかにする所以です。
また、言葉の上で便宜を図るならば、初めに慈、後に悲とします。これは菩薩の本来の願いに基づき、大慈によって喜びを与えようとし、喜びを得られないならば、次に大悲によって苦しみを除こうとするからです。故に初めに慈、後に悲とします。
一方、実践上の順序としては、初めに大悲によって苦しみを除き、その後で大慈によって喜びを与えます。また、修行者としては先に苦しみから脱し、後に喜びを受けるので、先に悲、後に慈とします。
今は前者の解釈に従って順序を定めています。
三福慧者,初則人法相成,此據其信;次則慈悲與拔者,此明其願。欲滿此願必須修行,修行不出福、慧,慧即般若、福即五度,互相資導,以行順願,事理圓足。若智慧增明,則大悲誓滿,拔苦義成;若福德深厚,則大慈誓滿,與樂義成。故福慧居三也。復次,言說為便,先福後慧;若化他本意,先欲實慧利益,如其不堪,方示福德。又,資故先福、導故先慧。
三つの福慧について、まず初めに「人と法が互いに成り立つ」とは、これを「信」に基づくものとします。次に「慈悲による抜苦与楽」とは、これを「願」に基づくものとします。この願いを満たすためには修行が欠かせず、修行は福と慧から出ます。慧とは般若(智慧)であり、福とは五度(五波羅蜜)のことです。これらは互いに助け導き合いながら、行が願いに沿うことで、事も理も満ち足ります。
もし智慧が増え明らかになれば、大悲の誓いが満たされ、苦しみを取り除く働きが成就します。もし福徳が厚くなれば、大慈の誓いが満たされ、楽を与える働きが成就します。したがって、福と慧は第三の位置にあるのです。
また、話の都合上、先に福を挙げて後に慧を説くのが一般的ですが、他者を導く本来の意図としては、まず真の智慧によって利益を与えようとし、それが叶わない場合に、次いで福徳を示します。さらに、福は修行を助けるものとして先に置かれ、慧は方向を導くものとして先に置かれるのです。
四真應者,若智慧轉明則契於法性,法性即實相,名為法身。法身既顯,能從真起應,真顯應起,只由福慧開發,故次第四也。又,若就方便化物,先用應、後用真。今從前義為次第也。
四つの真応について。智慧がより明らかになれば、法性(ものごとの本質)と一体化します。この法性こそが実相であり、法身(真理そのものの体)と呼ばれます。法身がはっきりと現れると、その真実の体から応身(現れの姿)が生じるのです。このように真実の体が現れ、そこから応身が現れるのは、ただ福徳と智慧が開かれたからであり、それが第四の段階の順序となります。
また、人々を導くための方便としては、まず応身を用い、その後に真身を用いるのが通例です。しかしここでは、先に述べた教理的な順序に従って説明しています。
五明藥珠二身者,先明真應,直語證得,未涉利人,今明兩身俱能益物,真身破取相諭如藥,應身對萬機類於珠。就兩字明次第者,與慈悲相似也。
五明と薬と珠との二身について、まず「真身」と「応身」を明かします。「真身」は直接的に悟りの境地を指し、まだ他者を利することには触れていません。ここで説く二つの身は、ともに衆生を利益する力を持ちます。真身は執着を打ち破ることから「薬」にたとえられ、応身は様々な機緣に応じることから「珠」にたとえられます。この「薬」と「珠」という二文字の順序については、慈悲の働きに似ていると言えます。
六明冥顯者,前明二身道理即能顯益,今辯被緣得冥益、或得顯益,故次二身後明也。
ここで「冥顕」について説明します。 先に述べた二身の理は、衆生に利益をもたらすことができる道理でした。ここでは、縁に触れることで得られる目に見えない利益と、あるいは目に見える利益について論じます。そのため、二身の説明の次にこれを明らかにするのです。
七明權實者,前緣得益,何意不同?良由權巧無方,赴機允當,不失其宜,二智之力,故以此為次也。先權後實者,此就淺深為次也。若依文者,先以實益,次以權度,此隨物為次。若就佛本意,先只為一大事因緣,先顯實益,眾生未堪,後用權度。
七「権実」を明らかにするとは、先の縁(過去の因縁)によって得られる利益が、なぜ異なるのでしょうか。 まさにそれは、権巧(方便の智慧)には一定の方法がなく、機(衆生の能力)に応じて適切に対応し、その時々に適った方法を失わないからです。 この二智(権智と実智)の力によって、このような順序となるのです。
まず権(方便)を説き、後に実(真実)を示すのは、これは浅いものから深いものへの順序です。 経典の文に従えば、まず実の利益(真実の教え)を与え、次に権(方便)によって教化する――これは衆生に応じた順序です。 しかし、仏の本来の意図に基づけば、最初はただ一つの大事因縁(最高の悟り)のためだけに、まず真実の利益を示そうとされたのです。 しかし衆生がそれに耐えられなかったため、後に権(方便)を用いることになったのです。
八明本迹者,雖復益物,權實之巧,而巧有優降,必是上、中、下智本迹之殊,權實略而且橫,今欲細判高下以明次位,若其本高,所作權實之迹則妙,是故次總略之後,辯其細妙之能也。非本無以垂迹,故先明本;非迹無以顯本,應先迹也。
**八、本迹を明かすとは** たとえ物事を広め、仮の教え(権)と真実の教え(実)を巧みに用いるとしても、その巧みさには優劣があります。それは必ず上・中・下の智慧による、根本(本)と現れ(迹)の違いです。権と実の関係は手短に言えば「横」の広がりですが、ここでは詳しく優劣を分けて、その位を明らかにしたいと思います。もし根本が高ければ、そこから現れる権と実の迹も優れています。だからこそ、総論の次に、その細やかな優れたはたらきを説くのです。
根本がなければ迹を現すことはできないので、まず根本を明かします。しかし、迹がなければ根本を顕すこともできないので、先に迹を説くべきです。
九明了因緣因者,上來行人發心修行,從因剋果,化他利物,深淺不同,從人法至真應是自行次第,藥珠至本迹是化他次第,此乃順論,未是却討根本。今原其性德種子,若觀智之人悲心誓願,智慧莊嚴顯出真身,皆是了因為種子;若是普門之法,慈心誓願,福德莊嚴,顯出應身者,皆是緣因為種子,故次第九也。
第九に、因縁の「因」を明らかにする。これまでの章で述べたように、修行者が心を起こして修行に励み、因を積んで果を得、他者を教化し利益する道には、深い浅いの違いがある。「人法」から「真応」に至るまでは、自らの修行の順序であり、「薬珠」から「本迹」に至るまでは、他者を教化する順序である。これは順序に従った解説であって、まだ根本を探求したものではない。
今、その本性の徳である種子を根源から考察すると、もし智慧を観ずる人において、慈悲の誓願と智慧の荘厳によって真身を顕すならば、これらはすべて「了因」を種子とする。もし普門の法において、慈悲の誓願と福徳の荘厳によって応身を顕すならば、これらはすべて「縁因」を種子とする。ゆえに、第九の章でこれを説くのである。
十明智斷者,前明緣了是却討因源,今明智斷是順論究竟。始則起自了因,終則菩提大智;始則起自緣因,終則涅槃斷德。若入涅槃,眾行休息,故居第十也。
十番目の明智と断とは、前に述べた縁因・了因は、さかのぼって因の源を明かすものである。今、明智と断とは、順に従って究竟を論じるものである。最初は了因から起こり、最後は菩提の大智に至る。最初は縁因から起こり、最後は涅槃の断徳に至る。もし涅槃に入れば、もろもろの修行は休息する。それゆえ、第十位に置かれるのである。
二約諸教明次第者,又為通別,通義可解,別今當說。如華嚴頓教,教名大方廣佛華嚴。依題初明人法,此人秉法必具慈悲。菩薩修因,居然福慧,既入地位,必證真應;既能利物,則辯藥珠,物得其益,有冥有顯,而未得別論權實本迹。緣了智斷者,通義則有,別意則無。何故爾?佛一期化物明於頓漸,頓教雖說,漸教未彰,故不明四意也。所以不明者,彼經明小隔於大,如聾如瘂,覆於此權,未顯其實,故云「久默斯要,不務速說」,故言無權實也。言無本迹者,彼經未發王宮生身之迹、寂滅道場法身之迹、未彈指謦欬發久遠所得生法二身之本,故言無本迹。言無緣了智斷者,不明小乘根性及有心之者,本自有常住之因,當剋智斷菩提本果,故言無也。
次に、諸経の教えに基づいてその次第を明らかにします。これには「通」と「別」があり、「通」の意味は理解しやすいため、ここでは「別」について述べましょう。
例えば、華厳経は頓教であり、経典名を「大方広仏華厳経」といいます。題名からまず「人」と「法」が示されます。この「人」が「法」を修めるなら、必ず慈悲を具えています。菩薩が因を修めれば、自然と福と慧が備わり、位に入れば、必ず真身と応身を証得します。そして、衆生を救済できるなら、法薬と宝珠を弁別し、衆生はその利益を得て、冥益・顕益があります。しかし、まだ権・実・本・迹については別に論じられていません。また、「縁因・了因」と「智・断」については、「通」の意味では存在しますが、「別」の意味では存在しません。なぜでしょうか? 仏が一時期に衆生を教化する際、頓と漸を明らかにされます。頓教は説かれましたが、漸教はまだ顕れていません。そのため、四つの意味(権・実・本・迹・縁因・了因・智・断)が明らかにされていないのです。
なぜ明らかにされないのか? 華厳経では、小乗が大乗から隔てられ、あたかも聾や唖のようであり、この「権」を覆い隠し、その「実」を顕していません。ゆえに「久しくこの要を黙し、速やかに説くことを務めず」と説かれ、「権・実」はないとされるのです。「本・迹」がないと言われる理由は、華厳経では、王宮における誕生の迹や、寂滅道場における法身の迹が説かれておらず、また、指を鳴らしたり咳をしたりすることを通じて、久遠に得た生身・法身の二つの身の本が発揮されていないからです。そのため、「本・迹」はないとされるのです。「縁因・了因」や「智・断」がないと言われる理由は、小乗の根性や心ある者たちが、本来常住の因(仏性)を持ち、将来必ず智・断の菩提の本果を得るという道理が明らかにされていないからです。ゆえに「ない」とされるのです。
次約三藏教,但明人法、慈悲、福慧三義,無真應等七種。何故爾?二乘教中但明灰身滅智,那得從真起應?既無真應,將何益物?私難:通論備十,別語但三,此三若約真諦,則隨通義乃具十意,何止但三?若言是別,別應約中道。既得有中道,人法三種,何意無七?私答:通論十意,此約三乘,別語三科,的據菩薩三藏。菩薩得有慈、悲、福、慧、伏惑之義,既伏而不斷,故無真應七法。師云:「齊教止三。」若約方等教對小明大,得有中道、大乘、人、法、至冥、顯兩益等六意,然猶帶方便調熟眾生,故不得說權實等四意。若明般若教,雖未會小乘之人,已會小法,皆是摩訶衍,但明人、法等六意,亦帶方便,未明權實等也。若約法華教則會小乘之人,汝實我子,我實汝父,汝等所行是菩薩道,開權顯實,發本顯迹,了義決定,不相疑難。故知法華得明中道人法至本迹八意,前諸教所不明,法華方說,故云「未曾向人說如此事。」今所說者,即是今當為汝說最實事也。三世諸佛調熟眾生,大事因緣究竟圓滿,備在法華,故二萬燈明但說法華息化入滅,迦葉如來亦復如是。若約涅槃,即有二種,所謂利、鈍,如身子之流皆於法華悟入,八義具足,不待涅槃。若鈍根弟子於法華未悟者,更為此人却討源由,廣說緣了,明三佛性。若論性德了因種子,修德即成般若,究竟即成智德菩提;性德緣因種子,修德成解脫斷德涅槃。若性德非緣非了即是正因,若修德成就則是不縱不橫三點法身。故知涅槃所明,却說八法之始終成智斷,十義具足。此歷五味論十法次第,約四教則可解,故知十法收束觀教、結撮始終,商略大意,何觀而不攝?何教而不收?意氣宏遠,義味深邃,前後有次第、麁細不相違,以釋生起意也。
三蔵教について言えば、人法、慈悲、福慧の三つの意味だけを明らかにし、真応などの七つは含まれません。なぜかと言えば、二乗教ではただ灰身滅智のみを説き、真諦から応身を起こすことがありえないからです。真応がなければ、何をもって衆生を利益するのでしょうか。
私が疑問に思うに、通じて論じれば十の意味を備え、別して語れば三つだけです。この三つを真諦に約すれば、通義に従って十の意味を具えることになり、なぜ三つだけなのでしょうか。もし別であると言うなら、別は中道に約すべきです。すでに中道を得ているなら、人法の三つがありながら、なぜ七つがないのでしょうか。
私の答えはこうです。通じて論じれば十の意味があり、これは三乗についてのものです。別して三科を語るのは、まさに菩薩の三蔵に限られます。菩薩は慈悲、福慧、煩悩を伏せる義を得ていますが、伏せても断ち切らないので、真応の七法はありません。
師は言われました。「教えに斉(ととの)えて三つに止まる」と。
方等教においては、小に対して大を明らかにするので、中道、大乗、人法、冥益・顕益の二益という六つの意味を得ます。しかし、なお方便を帯びて衆生を調熟するので、権実などの四つの意味を説くことはできません。
般若教を明らかにする場合も、まだ小乗の人を会得させてはいませんが、小乗の法はすでに会得させ、すべてが摩訶衍であり、人・法などの六つの意味を明らかにします。これも方便を帯びており、権実などを明らかにするには至りません。
法華教では、小乗の人を会得させ、「汝は実に我が子であり、我は実に汝の父である。汝らの行うところは菩薩道である」と説き、権を開いて実を顕し、本を発して迹を顕し、了義・決定にして疑い難むことがありません。ゆえに、法華は中道・人法から本迹に至る八つの意味を明らかにすることができます。これまでの諸教では明らかにされず、法華において初めて説かれたので、「かつて人にこのような事を説いたことはない」と言うのです。今ここで説くのは、すなわち「今まさにあなたがたのために最も真実の事を説こう」ということです。
三世の諸仏が衆生を調熟する大事因縁が究竟して円満するのは、すべて法華に備わっています。ゆえに二万の灯明仏もただ法華を説いて教化を止め入滅され、迦葉如来もまた同じです。
涅槃教については、利根と鈍根の二種があります。舎利弗などのように法華で悟入し八義を具足した者は、涅槃を待つ必要がありません。しかし、鈍根の弟子で法華で悟れなかった者のために、さらにその人に対して源由を討し、広く縁因・了因を説き、三仏性を明らかにします。
性徳の了因の種子を論じれば、修徳は般若となり、究竟して智徳の菩提となります。性徳の縁因の種子は、修徳により解脱・断徳の涅槃となります。性徳が非縁非了であれば、それは正因です。修徳が成就すれば、それは縦ならず横ならざる三点の法身となります。
ゆえに涅槃の教えは、八法の始終を却って説き、智断を成就し、十義を具足するのです。
このように五味にわたって十法の次第を論じ、四教に約して解することができます。ゆえに十法は観教を収め、始終を結撮し、大意を商略するものです。どの観がこれを摂さず、どの教がこれを収めないでしょうか。その意義は広大で、義味は深遠であり、前後には次第があり、粗細は相違しません。これをもって生起の意を釈するのです。
問:法華前教同有六意,云何為異?
問:法華経の前に説かれた教えにも、共通する六つの意味がありますが、どのように異なるのでしょうか?
答:華嚴六意,於利人成醍醐、於鈍人成乳;三藏中三意,於利人密去、於鈍人成酪;方等六意,於利人成醍醐、於鈍人成生酥;般若六意,約利人成醍醐、於鈍人成熟酥;若法華八意,於鈍人成醍醐。
華厳経の六つの意味は、利根の人には醍醐となり、鈍根の人には乳となる。三蔵教の三つの意味は、利根の人には密かに去り、鈍根の人には酪となる。方等経の六つの意味は、利根の人には醍醐となり、鈍根の人には生酥となる。般若経の六つの意味は、利根の人には醍醐となり、鈍根の人には熟酥となる。そして法華経の八つの意味は、鈍根の人にも醍醐となるのである。
第三解釋者,人即假名所成之人也,法即五陰能成之法,此之人法通於凡聖。若色、受、想、行、識是凡鄙法,攬此法能成生死之人;戒、定、慧、解脫、解脫知見是出世法,攬此成出世聖人。故《大論》云「眾生無上者,佛是;法無上者,涅槃是。」雖通凡聖,不無差別,上、中、下惡即成三途之人法,上、中、下善即成三善道之人法,故有六趣階差。若更細論,百千萬品聖人,人法亦復不同。若三藏有門,觀眾生、我、人,如龜毛、兔角,畢竟不可得,但有五陰之法,此即人空法不空。觀此法無常,生滅不住,發生煖頂等位,即是攬方便之法,成似道賢人;若發真成聖,生方便有餘土,攬法性、色識等,成彼土行人;若空門,明有實法之體,攬此實法得有假名之人。觀三假浮虛,會入空平,煖頂即攬方便法,成似道賢人;若發真成無學,生方便土,攬法性五陰,成彼土行人;餘兩門人法,例此可知。
第三の解釈を述べます。「人」とは、仮の名称によって成り立った存在としての人間を指し、「法」とは、五蘊という、人間を構成する要素を指します。この「人」と「法」は、凡夫にも聖者にも共通して見られるものです。
例えば、色・受・想・行・識という五蘊は凡庸な法であり、これらの法を集めて生死を繰り返す凡夫の身体が成立します。一方、戒・定・慧・解脱・解脱知見は出世間の法であり、これらを集めることで、この世を超えた聖者が生まれます。
ゆえに『大智度論』には、「衆生の中で最も優れているのは仏であり、法の中で最も優れているのは涅槃である」と説かれています。
「人」と「法」は凡夫と聖者の両方に共通していますが、その間には違いがないわけではありません。上・中・下の悪業によって、地獄・餓鬼・畜生という三悪道の「人」と「法」が生じ、上・中・下の善業によって、人間・天上・阿修羅という三善道の「人」と「法」が生じます。このようにして、六つの迷いの世界に段階的な違いが生じるのです。
さらに細かく見れば、聖者にも百千万の種類があり、それぞれの「人」と「法」もまた同じではありません。
例えば、三蔵教の「有門」の立場では、衆生や我、人は亀の毛や兎の角のように究極的には存在しないものと観察しますが、五蘊という「法」は存在すると見ます。これが「人は空だが、法は空ではない」という見方です。この「法」は無常であり、生まれては消えていくものと観察し、煖・頂といった位に進みます。これは、仮の方法を集めて、真理に似た境地に達した「賢人」となることです。やがて真実の智慧を得て聖者となれば、方便有余土に生まれ、法性の色・識などを集めて、その世界の修行者となります。
一方、「空門」の立場では、実在する「法」という本体があると説き、その実在する法を集めて仮の名称としての「人」が成立すると見ます。三つの仮のもの(三世の仮・縁によって生じる仮・言葉の仮)が虚ろで儚いものであると観察し、空の平等の境地に入ります。煖・頂の位では、仮の方便法を集めて、真理に似た境地の賢人となります。真実の智慧を得て無学となれば、方便土に生まれ、法性の五蘊を集めて、その世界の修行者となります。残りの二門(亦有亦空門・非有非空門)における「人」と「法」についても、この例に準じて理解することができます。
摩訶衍中明人法者,亦不言人空法不空,亦不言體有假用,但觀假名、陰入等性本自空。故《大品》云「色性如我性,我性如色性。」始從初心,終于後心,常觀人、法俱空。故《大論》云「菩薩常觀涅槃行道。」以觀人空即是了因種子者,論云「眾生無上者,佛是。」佛者即覺,覺是智慧,始覺人空,終覺法空,故知觀人空是了因種也。觀法空是緣因種者,《大論》云「法無上者,涅槃是。」以生死陰斷,涅槃陰興。《大經》云「因滅是色,獲得常色;乃至識亦如是。」《大品》云「菩薩行般若時,得無等等色,無等等受、想、行、識。」當知涅槃是無上法也。攬此法成無上之眾生,號之為佛,故知觀法空是緣因種也。
大乗仏教において「人」と「法」について説く場合、「人」は空でも「法」は空ではないとは言わず、また、本体は実在し作用は仮のものだとも言いません。ただ、仮の名称や、五蘊・十二処などの性質が本来空であると観察するのです。 ゆえに『大品般若経』には「色の性質は我の性質の如く、我の性質は色の性質の如し」とあります。 初発心の時から最終の悟りに至るまで、常に「人」も「法」も共に空であると観じるのです。 したがって『大智度論』には「菩薩は常に涅槃を観じながら道を歩む」とあります。
「人空」を観じることが「了因種子」であるとは、同じく論に「衆生において無上なるもの、それは仏である」とあるからです。「仏」とは「覚」、すなわち智慧のことです。初めに人空を覚り、最後に法空を覚ります。よって、人空を観じることが「了因の種」であると知るべきです。
「法空」を観じることが「縁因種子」であるとは、『大智度論』に「法において無上なるもの、それは涅槃である」とあるからです。生死の五蘊が断たれ、涅槃の五蘊が生じるのです。 『大般涅槃経』には「この色を滅ぼして、常住の色を得る。さらに識についても同様である」とあります。 『大品般若経』には「菩薩が般若を修行する時、比類なき色、比類なき受・想・行・識を得る」とあります。 かくのごとく、涅槃こそが無上の法であると知るべきです。この法を集めて無上の衆生を成就し、それを仏と名づけるのです。よって、法空を観じることが「縁因の種」であると知るべきです。
以觀人法空即識三種佛性,故《大經》云「眾生佛性不即六法,不離六法。」不即者,此明正因,佛性非陰、非我,非陰故非法、非我故非人、非人故非了、非陰故非緣,故言不即六法也。不離六法者,不離眾生空而有了因,不離陰空而有緣因,故言不離六法也。佛從初發心觀人法空,修三佛性,歷六即位,成六即人法。今觀世音未是究竟之人法,即是分證之人法,前一番問答是分釋無上之人稱觀世音,後一番問答分釋攬無上之法故稱普門,當知人法因緣故,故名觀世音普門也。
人・法の空を観ることで、すなわち三種の仏性を識る。ゆえに『大経』に「衆生の仏性は六法に即さず、六法を離れず」と説く。「即さず」とは、正因を明かすものであり、仏性は陰(五陰)ではなく、我(永遠不変の実体)でもない。陰でないゆえに法(対象)ではなく、我でないゆえに人(主体)ではなく、人でないゆえに了因(悟りの因)ではなく、陰でないゆえに縁因(助縁の因)ではない。ゆえに「六法に即さず」と言う。「六法を離れず」とは、衆生の空を離れずして了因があり、陰の空を離れずして縁因があることを指す。ゆえに「六法を離れず」と言うのである。
仏は初めて発心した時から、人と法の空を観じ、三種の仏性を修め、六即位を経て、六即における人と法を成就する。今、観世音は、まだ究竟(究極)の人・法ではなく、分証(部分的な悟り)の人・法である。前の問答は、無上なる人を「観世音」と称することを部分的に解き明かしたものであり、後の問答は、無上なる法を集めて「普門」と称することを部分的に解き明かしたものである。知るべきである、人と法の因縁によって、ゆえに「観世音普門」と名づけられるのである。
二釋慈悲者,悲名愍傷,慈名愛念,愍故拔苦,念故與樂。菩薩若但起慈悲,心不牢固,故須發弘誓加持使堅。譬如工匠造物節廨雖復相應,若無膠漆則有零落,誓願如膠亦復如是。悲心愍傷,拔於世間苦集因果,興兩誓願:所謂眾生無邊誓願度、煩惱無量誓願斷,此兩誓願從大悲心起。以慈愛故,欲與道滅出世因果之樂,興兩誓願:所謂法門無邊誓願知、無上佛道誓願成,此兩誓願從大慈心起。
慈悲について説明すると、「悲」とは哀れみや傷みを感じること、「慈」とは愛情をもって思いやることを指します。哀れみの心があるから苦しみを取り除き、愛情があるから喜びを与えるのです。
菩薩がただ慈悲の心だけを持っていても、その心はしっかりと定まらず弱いものです。そのため、誓願を発して慈悲の心を支え、堅固にする必要があります。例えるなら、職人が細工物を作る際、継ぎ目が合っていても、接着剤(膠漆)がなければ部品が外れてしまうのと同じです。誓願は、この接着剤のような役割を果たします。
苦しみを哀れみ、世間における苦と苦の原因である集という因果関係を取り除くために、二つの誓願が立てられます。すなわち、「衆生無辺誓願度(限りない生きとし生けるものを救う)」、「煩悩無量誓願断(限りない煩悩を断ち切る)」です。この二つの誓願は、大悲の心から生じます。
また、愛情をもって喜びを与えようとし、道(修行の道)と滅(煩悩の消滅)という、世間を超えた因果関係の喜びを施すために、二つの誓願が立てられます。すなわち、「法門無辺誓願知(限りない教えを学び知る)」、「無上仏道誓願成(この上ない仏の道を成就する)」です。この二つの誓願は、大慈の心から生じるのです。
但前明人法,凡聖不同;今辯慈悲,大小亦異。若三藏行人,觀分段生老病死八苦,即起誓願:眾生無邊誓願度;若觀分段顛倒結業,而起誓願:煩惱無量誓願斷;欲令眾生觀此因果無常生滅念念流動,修於道品,即起誓願:法門無量誓願知;若觀真諦無為之理,即起誓願:無上佛道誓願成。如此慈悲緣有作四諦所起也。
しかし、先に述べた人や法についての考えは、凡夫と聖人とで異なります。今、慈悲について論じるにあたり、大乗と小乗でもまた違いがあります。
三蔵の修行者が、分段の生・老・病・死という八つの苦しみを観察すると、すぐに誓いを立てます。「果てしなき衆生を、我は度そう」と。また、分段の迷いによる煩悩の結びつきを観察すると、誓いを立てます。「限りなき煩悩を、我は断ち切ろう」と。さらに、衆生にこの因果が無常であり、生滅して刹那ごとに流れ変わることを観察させ、道の品目を修めるように導くために、誓いを立てます。「無量の法門を、我は知り尽くそう」と。そして、真諦(無為の真理)を観察すると、誓いを立てます。「無上の仏道を、我は成就しよう」と。
このような慈悲は、有作の四諦(努力を伴う四つの真理)に基づいて生じるものです。
復次,通教觀老死八苦如幻如化,眾生顛倒謂為真實,即起誓願;貪、恚、癡等如幻如化,眾生顛倒為之受惱,即起誓願;觀即色是空、即識是空,即貪、癡等是空,非色滅空,色性自空,空亦不可得,而眾生不能即色是空,即起誓願;又觀涅槃,若有一法過涅槃者我亦說如幻化,而眾生謂有佛道可求,即起誓願。是約無生四諦起慈悲誓願也。
また、通教では、老いと死の八つの苦しみを幻や影のように観じ、衆生はそれを顛倒して真実だと誤解していると見ると、すぐに誓願を起こします。貪り、怒り、無知などの煩悩も幻や影のようなものであるのに、衆生はそれに惑わされ悩まされていると見て、誓願を起こします。また、色(物質)がそのまま空であり、識(心)がそのまま空であり、貪りや無知などもそのまま空であると観じます。これは色を滅ぼして空とするのではなく、色の本性それ自体が空であり、空でさえも捉えるべきものではないということを意味します。しかし、衆生は色がそのまま空であることを理解できず、それゆえに誓願を起こします。さらに、涅槃についても、もし涅槃を超えるような法が存在するならば、それもまた幻や影のようなものだと説きますが、衆生は悟りの道が実在し求められるものだと信じているため、誓願を起こすのです。これが、不生の四諦に基づいて慈悲と誓願を起こす教えです。
別教觀假名之法森羅萬象,應須分別導利眾生,那得沈空取證?觀此苦果非止一種,即起誓願;無量之苦由無量集,集既無量,治亦無量,滅亦無量,如此誓願緣界內外苦集因果無量四諦而起誓願也。
分別して仮の名を立てる教え(別教)において、森羅万象の一切の存在は、すべてを区別して衆生を導き利益するためにあるのであって、どうして空に沈んで悟りを得ることだけを求めてよいだろうか。
この苦しみという結果(苦果)は、決して一つの種類にとどまらない。そこで誓いの願いを起こす。無量の苦しみは、無量の原因(集)から生じる。原因が無量であれば、それを治す方法も無量であり、滅することも無量である。このような誓いの願いは、迷いの世界(界内)とその外(界外)における苦しみとその原因、そしてその因果関係にわたる無量の四諦に緣って起こされるのである。
圓教觀法界圓融,本非違、非順,非明、非闇。無明闇故則違,違之則有苦集因果;智慧明故則順,順之則有道滅因果,緣此違順因果而起慈悲。譬如磁石不作心想,任運吸鐵,今此慈悲不作眾生及以法想,任運拔苦與樂,故名無緣慈悲也。菩薩從初發心修無緣慈悲歷六即位,今此觀音是分證慈悲,若前一番問答明無緣大悲拔苦,一心稱名即得解脫;後一番問答從無緣大慈普門與樂,皆令得度。故知以大慈大悲因緣故,名觀世音普門也。
円教は、法界が円融(えんゆう)であると観じる。本来、それには「背く」も「従う」もなく、「明るい」も「暗い」もない。しかし、無明(むみょう)の闇があるゆえに背き、背くことによって苦しみとその原因(苦集)が生じる。智慧の明るさがあるゆえに従い、従うことによって悟りの道とその結果(道滅)が生じる。この背きと従い、原因と結果を縁として、慈悲の心が起こる。
たとえば、磁石は何も心に思うことなく、自然に鉄を吸い寄せるように、この慈悲は、衆生や法という考えを持たず、自然と苦しみを取り除き、安らぎを与える。そのため、「無縁の慈悲」と呼ばれるのである。
菩薩は初めて発心してから、この無縁の慈悲を修め、位の順序(六即位)を経ていく。ここで説かれる観音菩薩は、その位の一部を証得した「分証の慈悲」である。先の問答(第一番)は、無縁の大悲によって苦しみを取り除き、一心に名号を唱えれば解脱を得ることを示した。後の問答(第二番)は、無縁の大慈によって、普く門を開き、安らぎを与え、すべてを悟りの岸へ渡すことを示している。ゆえに知られるべきである。大慈大悲の因縁によって、観世音菩薩は「普門」と名づけられるのだ、と。
三釋福慧者,亦名定慧。定名靜愛,慧名觀策。《大論》云「定愛慧策,寂照之智無幽不朗。如明鏡高堂,福德禪定純厚資發。如明燈淨油,亦稱為目,足備得入清涼池。」池即涅槃,涅槃稱為二種莊嚴莊嚴法身。釋此定慧自有多種,三藏以無常觀理為慧、以事中諸禪定為福,以定資慧發真無漏天然之理名為法身。若通教,但以體法異於析法爾。若別教,以緣修智慧與諸禪定,助開中道法身也。圓教以實相觀為慧、實相寂定為福,共顯非定、非慧之理名實相法身。今圓教菩薩從初發心修此不二定慧,歷於六即,觀音所以用智光照苦者,苦是顛倒迷惑所致,智慧是破惑之法,故智慧能拔苦。《華嚴》云「又放光明名智慧;又放光明名無惱。」《思益》亦然。《請觀音》云「普放淨光明,滅除癡闇瞑。」故知前問答應機拔苦,是從慧莊嚴以得名;後問答住首楞嚴普現色身,不起滅定現此威儀,安禪千偈讚諸法王,故知普門示現從福德受名,良以福慧因緣故名觀世音普門也。
三に「福慧」を説くとは、別名「定慧」ともいう。定とは靜寂なる愛を意味し、慧とは観察し策勵することを意味する。『大智度論』には「定は愛、慧は策である。静寂にして照らす智慧は、暗いところなく明らかにしないものはない。それは、明鏡が高く掲げられ、福徳や禅定が厚く純粋に資となり発するようなものである。明るい灯明が清らかな油を必要とするように、また目と足のようなものであり、ともに備わることで清涼なる池に入ることができる」とある。池とは涅槃をいう。涅槃は二種の荘厳をもって法身を荘厳する、と称される。
この定慧について説くには、もとより多くの種類がある。三蔵教では、無常観をもって理を観じることを慧とし、事における諸々の禅定を福とし、定をもって慧を資け、真の無漏が自然に発する理を法身と名づける。
通教では、ただ体法が析法と異なるという点だけによる。別教では、縁修の智慧と諸々の禅定が、中道の法身を開くことを助けるとする。円教では、実相観を慧とし、実相寂静の定を福とし、ともに非定・非慧の理を顕わし、これを実相法身と名づける。
今、円教の菩薩は初めて発心するときより、この不二の定慧を修し、六即を歴る。観音が智光をもって苦を照らすのは、苦が顛倒迷惑によって生じるものであり、智慧こそが惑を破る法だからである。故に智慧は苦を抜くことができる。
『華厳経』には「また光明を放ちて智慧と名づく。また光明を放ちて無悩と名づく」とあり、『思益経』もまた同じである。『請観世音経』には「普く清浄の光明を放ち、癡闇・冥闇を滅除す」とある。
これらのことから、前の問答(章)が機に応じて苦を抜くのは、慧の荘厳をもって名を成すことが知られる。後の問答(章)が首楞厳に住し、普く色身を現じ、滅定を起こさずしてこの威儀を現じ、千偈に安禅して諸法王を讃えるのは、故に普門示現は福徳より名を受けることが知られる。まさしく、福慧の因縁により、観世音普門と名づけるのである。
四釋真應者,真名不偽、不動,應名稱適根緣、集藏名身,若契實相不偽、不動之理,即能稱機而應,譬如攬鏡像對即形。此之真應不得相離,苦外道作意修通,雖能變化,譬如瓦石光影不現,豈可以此為應?尚未破四住顯偏真理,那忽有中道真應?若二乘變化修通所得,此亦非應,譬如圖畫作意乃成,了不相似。大乘不爾,得實相真,譬得明鏡,不須作意,法界色像即對即應,如鏡寫像與真不殊,是時乃名真寂身應。菩薩從初發心歷於六即,今經前問答明於真寂而不動法界大益,觀音從真身得名;後問答明隨機廣利,出沒多端,普門是從應身得名。良以真應因緣故,名觀世音普門也。
四「真」と「応」について解釈する。「真」とは偽りなく、動じないことを意味する。「応」とは、相手の素質や縁に適った働きを意味する。「身」とは、これらの功徳を集めて一つの体とすることである。
もし、真実の姿(実相)という、偽りなく動じない理(ことわり)にかなうならば、その時こそ、相手の機根に応じて自在に働くことができる。例えば、鏡をかざせば、すぐにその姿が映し出されるようなものである。
この「真」と「応」は、切り離すことはできない。
もし、心を込めて修行したからといって、変化の力を得たとしても、それは本物の「応」ではない。あたかも瓦や石に映る光影が不鮮明なように、外道(仏教以外の宗教)の修行による変化は、これにあたらない。
そもそも、四つの住地の煩悩を破り、偏った真理(小乗の真理)すら明らかにしていない者が、どうして中道の「真」と「応」を体得できるだろうか?
小乗の聖者(二乗)が修行によって得た変化の力も、また真の「応」ではない。それはまるで、絵画を描くように、わざわざ意識して作られたものであり、本物とは似ても似つかないからである。
大乗はそうではない。真実の姿を体得すれば、それは鏡を得たようなものである。わざわざ意識しなくとも、全世界のあらゆる姿がそのまま映り、そのまま応じる。鏡が像を映すように、その応じ方は真実そのものと少しも変わらない。この時、初めて「真の静かなる身(真寂身)」としての応じ方と言えるのである。
菩薩は、最初に発心してから、六即(六つの段階)を経て修行を積む。
この経典の最初の問答では、真の静けさ(真寂)と、動くことなく法界に大きな利益を与えるという観音の「真身」としての側面が明かされている(ここから観音は真身の名を得る)。
後の問答では、機根に応じて広く利益を与え、様々な姿に現れ出るという「応身」としての側面が明かされている(ここから普門という名を得る)。
まさに、この「真身」と「応身」という縁によって、観世音普門と名付けられるのである。
五釋藥樹王身如意珠王身者,藥王療治苦患,出《柰女經》。珠是如意之寶,廣歷諸教明治病得寶。今約圓教明者,如《華嚴》云「有上藥樹,其根深入,枝葉四布,根、莖、枝、葉皆能愈病,聞香、觸身無不得益。」菩薩亦如是,大悲熏身,形聲利物,名大藥王,身又如如意珠,能雨大千珍寶,隨意而不窮不盡。菩薩大慈熏身,與眾生樂,名如意珠王,身此亦約六即判位。就前問答,遍救幽厄苦難,此從藥王身以得名;從後問答,稱適所求,雨實相雨,得涅槃樂,此從如意珠王身以得名。故知二身因緣名觀世音普門也。
①「薬樹王身」「如意珠王身」とは何か。薬王が苦しみを治療する話は『柰女経』に出ている。如意珠は思いのままに宝をかなえる珠であり、様々な教えで病を治し宝を得ることが説かれている。 今、円教の立場で言えば、『華厳経』に「ある妙薬の樹があり、その根は深く、枝葉は四方に広がる。根・茎・枝・葉すべてが病を癒し、香りを聞き、身に触れるだけで利益を得ない者はない」とある。菩薩もまた同じで、大悲が身を熏じ、形や声で衆生を利益するから、大薬王と名づける。 また、その身は如意珠のようなもので、三千世界の宝を降らせ、意のままに尽きることがない。菩薩の大慈が身を熏じ、衆生に楽を与えるから、如意珠王の身と名づける。これまた六即によって位を判じる。 先の問答では、あまねく幽閉や苦難を救うことを説く。これは「薬王身」による名である。後の問答では、願いに応じて実相の雨を降らせ、涅槃の楽を得させることを説く。これは「如意珠王身」による名である。 ゆえに、この二つの身の因縁をもって「観世音普門」と名づけると知るべきである。
六釋冥顯兩益者,冥是冥密、顯是彰露,大聖恒以二益利安一切,而眾生及以下地日用不知。譬如日月照世,盲雖不見,實荷深恩,故《藥草喻》云「而諸草木不覺不知」。只同是一地,下品不知上品,冥顯兩益,如文殊不知妙音神力所作,以不知故,名為冥益,此亦約六即判位。若就前問答,不見形聲,密荷深祐,名為冥益,聖人之益雖不可知,聖欲使知,蜫蟲能知;如後問答,親覩色身,得聞說法,視聽彰灼,法利顯然。故知觀音從冥益得名,普門從顯益得名,以冥、顯因緣故,名觀世音普門也。
六釋における「冥益」と「顕益」の二つの利益について説明する。冥とは、ひそかでおおい隠されていることであり、顕とは、あらわに現れていることである。大聖(観音)は常にこの二つの利益によって、すべての生きとし生けるものを安らかにし、恵みを与えている。しかし、迷いの衆生や、それより下の位の聖者たちは、日々その恩恵を受けていることに気づかない。例えば、太陽や月が世の中を照らしていても、目の見えない者はその光を見ることはできないが、実際には深い恩恵を受けているのと同じである。ゆえに『薬草喩品』には「様々な草木は、それを知ることも感じることもない」と説かれている。
同じ一つの大地であっても、下位のものは上位のものの境地を知ることができない。この冥益と顕益の二つの利益も、経文に説かれる通り、妙音菩薩の神通力によってなされる働きを、まるで知ることができない。このように知ることができないという理由から、これを「冥益」と名づけるのである。これはまた、六即の位に照らして解釈されるべきものである。
先の問答(前段)に基づけば、その姿や声を見聞きすることができなくとも、ひそかに深いご加護をいただくことを「冥益」という。聖者の利益は、たとえ凡夫には知り得なくとも、聖者は人々に知らせようと望み、虫でさえもそれを知ることができるのである。後の問答(後段)に基づけば、実際に美しい姿を目の当たりにし、説法を耳にすることができ、見聞きすることが明らかであり、その法の利益もはっきりとしている。
よって、観音という名は「冥益」に由来し、普門という名は「顕益」に由来する。この冥益と顕益の因縁によって、「観世音普門」と名づけられるのである。
七釋權實者,權是暫用,實非暫用。略言權實則有三種:一自行論權實,自觀中道為實,二觀為權;二就化他論權實,他根性不同,或說權為實、說實為權,不可定判,但約他意以明權實也;三自行化他合明權實者,若自觀三諦,有權、有實,皆名為實,化他隨緣亦有權、有實,皆名為權。用此三義歷四教。復就自行權實明六即判位,尋此品意是明自行化他論權實,前問答從自行化他之實智益物,後問答從自行化他之權以益物,故知權實因緣故,名觀世音普門也。
七種の権実の解釈について述べる。権とは一時的に用いるものであり、実とは一時的ではないものである。権実を簡潔に述べると、三種の区別がある。
第一に、自己の修行における権実である。自ら中道を観ずることを実とし、二諦の観法を権とする。 第二に、他者を教導する立場における権実である。相手の根機や性質は様々であるため、ある時は権を実として説き、ある時は実を権として説くことがあり、一概に決められるものではない。ただ相手の意図に沿って権実を明らかにするのである。 第三に、自己の修行と他者への教導の両方の立場から権実を明らかにするものである。自ら三諦を観ずる場合、権も実もすべて実と名づけられる。他者に応じて教えを施す場合も、権も実もすべて権と名づけられる。
これらの三つの意味を用いて、四つの教え(四教)を貫く。さらに、自己の修行における権実の立場から、六即(位を明らかにする六つの段階)によって位を判別する。この品の意図を尋ねるに、自己の修行と他者への教導の両方の立場から権実を論じている。前半の問答では、自己の修行と他者への教導における実の智慧によって衆生を利益し、後半の問答では、自己の修行と他者への教導における権の智慧によって衆生を利益することを示している。ゆえに、権実の縁によって、観世音菩薩の普門と名づけられるのである。
八釋本迹者,本名實得,迹名應現。若通途作本迹者,世智凡夫本意難測,乃至別教本迹。若圓教無始發心,初破無明所得法身者,名之為本;垂形百億,高下不定,稱之為迹。若一往判真應,多用上地為真、為本,下地為應、為迹。地地傳作此判,真本唯據於高,應迹唯指於下。此義不可,今細明本迹則與真應異。本是實得,始坐道場及初住所得法身即是其本;迹為上地之佛及作上地菩薩悉名為迹。不可以上地高故稱之為本,始得初住目之為迹。何以故?實不得上地,上地非本;實得下地,下地非迹。故〈壽量〉云「隨自意、隨他意,是本迹意也。」就本迹明六即,就前問答不可說示,但冥祐前人,從本地得名;後問答殊形異狀,應現度脫,從迹地得名。故知本迹因緣故,名觀世音普門也。
八、本迹について解釈する。 「本」とは実際に得たもの、「迹」とは現れ示すものである。
一般に「本」と「迹」という場合、世間の智慧ある凡夫でさえその本意は測り難く、別教の本迹に至ってはなおさらである。円教においては、無始の昔から発心し、初めて無明を破って得た法身を「本」と名づけ、百億の世界に姿を現し、高下不定であることを「迹」と称する。
もし一往、真身と応身を判別するならば、多くは上位の境地を真身・本とし、下位の境地を応身・迹とする。それぞれの位ごとにこのように判別するが、真身・本はただ高い位のみを指し、応身・迹はただ低い位のみを指すことになる。この考え方は適切ではない。そこで今、本迹を細かく明らかにすると、それは真身・応身とは異なる。
「本」とは実際に得たものであり、初めて道場に坐し、また初住の位で得た法身がすなわちその「本」である。「迹」とは、上位の仏や上位の菩薩として現れることをすべて「迹」という。上位の位が高いからといってそれを「本」とし、初めて得た初住を「迹」として見なしてはならない。なぜか。実際に上位を得ていないならば、上位は「本」ではない。実際に下位を得ているならば、下位は「迹」ではない。ゆえに『壽量品』に「自意に随い、他意に随う」とあるのは、この本迹の意味である。
本迹によって六即を明らかにする。先の問答では示し説くことはできないが、ただ黙って前に人を助けることから、本地の名を得る。後の問答では、様々な形や異なる姿で応現し、度脱することから、迹地の名を得る。ゆえに知るべし、本迹の因縁によって「観世音普門」と名づけるのである。
九釋了因緣因者,了是顯發,緣是資助,資助於了,顯發法身。了者,即是般若觀智,亦名慧行正道,智慧莊嚴。緣者,即是解脫,行行助道,福德莊嚴。《大論》云「一人能耘,一人能種。」種喻於緣,耘喻於了,通論教教皆具緣了義,今正明圓教二種莊嚴之因,佛具二種莊嚴之果,原此因果根本即是性德緣了也,此之性德本自有之,非適今也。《大經》云「一切諸法本性自空。」亦用菩薩修習空故,見諸法空,即了因種子本自有之。又云「一切眾生皆有初地味禪。」《思益》云「一切眾生即滅盡定。」此即緣因種子本自有之。以此二種方便修習,漸漸增長,起於毫末,得成修得合抱大樹,摩訶般若首楞嚴定,此一科不論六即,但就根本性德義爾。前問答從了種受名,後問答從緣種受名,故知了因、緣因,故名觀世音普門也。
#### 九釋「了因」「緣因」
「了」とは、明らかにし顕現させること、「緣」とは、助け支えることです。この緣が了を助け、法身を顕現させます。
「了」とは、すなわち般若の観智であり、慧行・正道とも呼ばれ、智慧の荘厳です。 「緣」とは、すなわち解脱であり、行行・助道とも呼ばれ、福徳の荘厳です。
『大智度論』に「一人はよく耕し、一人はよく種を蒔く」とあります。種は緣に譬えられ、耕すことは了に譬えられます。 広く論じれば、教え教えのすべてに、この緣と了の意味が備わっています。
今、正しく円教における二種の荘厳の因を明らかにします。仏は二種の荘厳の果を具えておられます。 この因果の根本をたどれば、すなわち性徳の緣・了にほかなりません。 この性徳は、もとより自ら備わっているものであり、今新たに生じたものではありません。
『大般涅槃経』に「一切の諸法は、本性より自ら空である」とあります。菩薩が修行によって空を修習するからこそ、諸法の空を見るのです。これが了因の種子であり、もとより自ら備わっているものです。
また、『大般涅槃経』には「一切の衆生は、みな初地の味禅を有している」とあり、『思益梵天所問経』には「一切の衆生は、すなわち滅尽定の中にある」とあります。これが緣因の種子であり、もとより自ら備わっているものです。
この二つの種子を方便によって修習し、次第に成長させれば、毫末(ごうまつ)のごとく小さなものから始まって、修行によって合抱(ごうほう)の大樹を得るように、摩訶般若(まかはんにゃ)や首楞厳定(しゅりょうごんじょう)を成就するのです。
この一節では、六即(ろくそく)については論じず、ただ根本の性徳の意義について述べるにとどめます。
前の問答では了の種から名づけられ、後の問答では緣の種から名づけられています。 ゆえに、了因と緣因があるからこそ、「観世音普門」と名づけられるのです。
十釋智斷者,通途意智即有為功德滿,亦名圓淨涅槃。言有為功德者,即是因時智慧,有照用修成之義,故稱有為。因雖無常,而果是常,將因來名果,故言有為功德滿也。斷即無為功德滿,亦名解脫,亦名方便淨涅槃。言無為者,若小乘但取煩惱滅、無為斷,但離虛妄,名為解脫,其實未得一切解脫,此乃無體之斷德也。大乘是有體之斷,不取滅無為斷,但取隨所調伏眾生之處惡不能染,縱任自在,無有累縛,名為斷德,指此名無為功德。故《淨名》云「不斷癡愛起諸明脫。」又云「於諸見不動而修三十七品,愛見為侍,亦名如來種,乃至五無間皆生解脫。」無所染礙名為一切解脫,即是斷德,無為也,寂而常照即智德也。小乘灰身滅智,既其無身,將何入生死而論調伏無礙、無染?滅智何所照寂?如此智斷圓極,故法身顯著,即是三種佛性義圓也。法身滿足即是非因非果正因滿,故云「隱名如來藏,顯名法身。」雖非是因而名為正因,雖非是果而名為法身。《大經》云「非因非果名佛性」者,即是此正因佛性也。又云「是因非果名為佛性」者,此據性德緣了,皆名為因也。又云「是果非因名佛性」者,此據修德緣了皆滿,了轉名般若,緣轉名解脫,亦名菩提果,亦名大涅槃果果,皆稱為果也。佛性通於因果,不縱不橫性德時三因,不縱不橫果滿時名三德,故《普賢觀》云「大乘因者,諸法實相;大乘果者,亦諸法實相。」智德既滿,湛然常照,隨機即應,一時解脫;斷德處處調伏,皆令得度。前問答從智德分滿受名,後問答從斷德分滿受名,故知以智斷因緣名觀世音普門也。
智慧と断惑について説明します。一般的な考え方では、智慧とは「有為の功徳が満ちた状態」であり、これは「円浄涅槃」とも呼ばれます。「有為の功徳」とは、修行の段階における智慧を指し、ものごとを照らし出し、修めて成就するという働きがあることから「有為」と称されます。因の段階では無常ですが、果の段階では常住であり、因の名をもって果を表すため、「有為の功徳が満ちた」と言うのです。
断惑とは「無為の功徳が満ちた状態」であり、これは「解脱」とも、「方便浄涅槃」とも呼ばれます。「無為」について、小乗では単に煩悩が滅した状態、つまり虚妄を離れただけを解脱と見なしますが、それは真の意味での一切解脱ではなく、実体のない断徳に過ぎません。大乗における断徳には実体があります。すなわち、煩悩を無理に断ち切るのではなく、教化すべき衆生のいる場所で悪に染まらず、自在に振る舞い、束縛や煩わしさがない状態を「断徳」と呼び、これを「無為の功徳」と指すのです。
ゆえに『維摩経』には「愚痴や愛欲を断ち切らずして、さまざまな明解脱を起こす」とあり、また「諸々の見解に動じることなく三十七品を修し、愛見を侍者とする。これを如来の種ともいい、五無間業でさえも解脱を生じさせる」と説かれています。何ものにも染まらず妨げられないことを「一切解脱」といい、これが断徳、すなわち無為の功徳です。寂静でありながら常に照らすのが智慧の徳です。
小乗では身体を灰と化し智慧を消滅させることを説きますが、身体が無ければ、どのようにして生死の世界に入り、自在に教化し、何ものにも染まらないということができるでしょうか?智慧を滅してしまえば、何を照らし、何を寂静とするのでしょうか?
このように智慧と断惑が円満に極まって初めて法身が顕著に現れ、これが三種の仏性の意味が円満であることになります。法身が満ち足りていることは、「因でも果でもない正因が満ちた状態」であり、「隠れたるを如来蔵と名づけ、顕れたるを法身と名づく」と説かれます。因ではないけれども正因と名づけられ、果ではないけれども法身と名づけられるのです。
『大般涅槃経』には「因でもなく果でもないものを仏性と名づく」とあり、これが正因仏性を指します。また「因であって果でないものを仏性と名づく」とあり、これは性徳の縁因・了因を指し、ともに因と名づけられます。さらに「果であって因でないものを仏性と名づく」とあり、これは修徳の縁因・了因が共に満ち、了因が般若と転名し、縁因が解脱と転名し、あるいは菩提果とも、大涅槃果果とも呼ばれ、すべて果と称されます。
仏性は因と果に通じ、縦でも横でもありません。性徳の段階では三因があり、果が満ちた段階では三徳と名づけられます。ゆえに『普賢観経』には「大乗の因は諸法実相であり、大乗の果もまた諸法実相である」と説かれています。智慧の徳が満ちれば、湛然として常に照らし、機に応じて即座に解脱をもたらします。断徳は至る所で衆生を調伏し、皆を救済へと導きます。
前の問答では智慧の徳の満ち欠けによって名称を得て、後の問答では断徳の満ち欠けによって名称を得ています。このことから、智慧と断惑という因縁によって「観世音普門」と名づけられたことが分かります。
問:此十義名字出餘經,那得用釋此品?
問い:この十の義の名前は他の経典に出てくるものですが、なぜこの品を解説するために用いるのですか?
答:大乘義通,眾經共用。若不許此者,佛性出《涅槃》、五住二死出《勝鬘》,諸師那得浪用通眾經耶?此品在文雖無十名,總將二問答帖十義意,宛然可解。今已如前,今更別點句句來證十義者,如文云:「以何因緣名觀世音」,又云「以是因緣名觀世音」,即是據人名也。後文云「普門示現」,即是明法也。「有如是等大威神力多所饒益」,即慈也。「愍諸四眾」,即悲也。欲知智在說,「十九說法」即智慧也。「一時禮拜,得無量無邊福德之利」,即福德也。「自在之業」,即法身也。何故爾?法身於一切得自在,智慧契此,故名為業。〈壽量〉云「慧光照無量,久修業所得。」威神之力巍巍如是,如是滿足之名即是真身也;普門示現神通力,即應身也。遊諸國土度脫眾生,即藥樹王身也;於怖畏急難之中能施無畏,即如意珠王身也。福不唐捐,即冥益也;三十三身,即顯益也。現佛身即實智也,現餘身即權智也。觀音身即本,餘身即迹也。又,大威神力是本,方便力是迹。聞是觀世音菩薩名者,若有聞是品者,即證了因;功德不少,即緣因。不肯受,常捨行故。及即時觀其音聲,觀即智;皆得解脫,種種調伏眾生八萬四千發心等是利益,即斷也。
答:大乗の教えの意味は、あらゆる経典に通じ、共通して用いられるものです。もしこれを認めないならば、仏性は『涅槃経』に、五住と二死は『勝鬘経』に由来するものであり、諸々の師がどうして勝手にこれらを用いてさまざまな経典を説明することができましょうか?
この品において、本文に十の名称は直接書かれていませんが、二つの問答を総合して十の義理の意図に当てはめれば、明らかに理解できます。今、すでに上で述べましたが、さらに改めて句ごとに取り上げて、十の義理を証拠づけるならば、本文に「何の因縁をもって観世音と名づく」とあり、また「この因縁をもって観世音と名づく」とあるのが、人に基づく名称です。後の文に「普門示現」とあるのは、法を明らかにしています。「このような大いなる威神力あり、多くを饒益す」は、慈です。「四衆を愍れむ」は、悲です。智慧を知りたければ説かれるところにあり、「十九の説法」は智慧です。「一時に礼拝して、無量無辺の福徳の利を得」は、福徳です。「自在の業」は、法身です。なぜそう言えるのか?法身は一切において自在であり、智慧はこれにかなうからであり、それゆえに業と名づけます。『寿量品』に「慧光は無量を照らし、久しく修めたる業の得るところ」とあります。威神の力はこのように巍巍としており、このような満足の名称はすなわち真身です。普門に示現し神通力を現じるのは、応身です。諸々の国々に遊行し、衆生を度脱するのは、薬樹王身です。怖畏や急難の中において、無畏を施すのは、如意珠王身です。福は徒らに捐てられることなし、すなわち冥益です。三十三身は、すなわち顕益です。仏身を現じるのは実智であり、余身を現じるのは権智です。観音身は本であり、余身は迹です。また、大威神力は本であり、方便力は迹です。「この観世音菩薩の名を聞く者」「もしこの品を聞く者あらば」は、了因を証するものです。「功徳少なからず」は、縁因です。「受けず、常に捨行す」からです。そして「即時にその音声を観ず」の「観」は智慧です。「皆解脱を得」「種々に衆生を調伏し、八万四千の発心等あり」の利益、すなわち断です。
第四料簡者,問:人對觀音、法對普門者,方等有普門法王子標於人名,此義云何同?答:此應作四句分別:人非法、法非人、人即法、法即人。若約華嚴次第意,地前生死行人未是實相之法,此法亦非彼人;若作不次第意者,人即實相、實相即人,人、法不二也。若三藏有門,明無假人、但實法,此法非人;若空門攬實法成假人,人、法兩異;若其不離人論法、不離法論人,此乃是二諦意,非中道之人法也。若方等對小明大論人法者,明小同三藏、明大同華嚴,般若涅槃等例爾。今方等中明普門者,即大乘意。今明普門是法,何得有法無人?彼明普門是人,何得但人無法?此則人法互舉,彼經標人,此處標法爾。例如小乘明身子智慧第一,餘弟子各就餘法門論第一,本以智慧斷惑,發真無漏,餘人無慧,那得入道?既得道果,果知有慧,但各舉其初門,別稱第一。譬如刀刃斷物,必藉於背方有利用,諸數如刀背,慧數如刀刃。今普門義亦爾,但以因緣之法當普門之名,何得無了因之人耶?若併從觀音標名者,此則通漫。欲使世諦不亂,互舉別名,如身具六根,但稱為淨眼淨意,豈得無餘根耶?
第四の分別について。問う:人が観音に、法が普門に対応するならば、方等経に「普門法王子」と人名として示されているのは、この意味ではどのように同じと言えるのか?答え:これは四句で分別すべきである。人は法にあらず、法は人にあらず、人は即ち法、法は即ち人である。華厳の次第の意に基づけば、地前の生死の行人は未だ実相の法ではなく、この法もまたその人にあらない。もし不次第の意であれば、人は即ち実相、実相は即ち人であり、人と法は不二である。三蔵の「有門」では、仮の人はなく、ただ実法のみあると明かし、この法は人ではない。「空門」では実法を集めて仮の人を成すとし、人と法は二つに異なる。もし人を離れずに法を論じ、法を離れずに人を論ずるならば、これは二諦の意であり、中道の人の法ではない。方等経で小乗に対して大乗の人の法を論じる場合、小乗は三蔵と同じであり、大乗は華厳と同じであると明かし、般若経や涅槃経もこれに準じる。今、方等経で「普門」と明かすのは、即ち大乗の意である。今、普門は法であると明かすなら、どうして法のみで人がないことがあろうか?彼らが普門は人であると明かすなら、どうして人だけで法がないことがあろうか?これは人と法を互いに挙げているのであり、彼の経では人を示し、この経では法を示しているのである。例えば、小乗では舎利弗が智慧第一とされ、他の弟子はそれぞれの法門に基づいて第一と論じられているが、そもそも智慧によって煩悩を断ち、真の無漏を発するのである。他の人に智慧がなければ、どうして道に入ることができようか?道の果を得たならば、その果に智慧があること知るべきだが、それぞれが初めの門を挙げて、別に第一と称している。譬えば、刃物が物を断つには、必ず背に頼ってこそ切れ味が生まれる。諸々の心数は刀の背の如く、慧の心数は刀の刃の如くである。今の普門の義もまた同じで、ただ因縁の法を以って普門の名としているのであって、どうして了因の人(智慧を具えた人)がないと言えようか?もしすべてを観音の名に従わせるならば、これは広汎にわたってしまう。世諦を乱さないために、互いに別の名を挙げるのである。例えば、身体に六根を備えていても、「浄眼」「浄意」とだけ呼ぶならば、どうして他の根がないと言えようか?
料簡慈悲者,問:若大悲拔苦,苦除即是得樂;大慈與樂,樂至即是拔苦。何意兩分?答:通論如此,別則不然。譬如拔罪於獄,未施五塵,身雖免痛,根情未娛,此但拔苦,未名與樂。又如施五塵於獄,耳、眼雖悅,不名拔苦。為從別義,各顯一邊,故別說爾。
「慈悲についての考察」―問う。「大悲が苦しみを取り除くなら、苦しみが除かれることは即ち楽を得ることである。大慈が楽を与えるなら、楽が至ることは即ち苦しみを抜くことである。それなのに、なぜ二つに分けるのか」 答え。「広く考えればその通りだが、別の観点から見ればそうではない。例えば、獄から罪を取り除いても、五つの感覚の楽しみを与えなければ、体は苦痛を免れても、感覚の情はまだ喜びを味わっていない。これはただ苦しみを抜いただけで、楽を与えたとは言えない。また、例えば、獄の中で五つの感覚の楽しみを与えても、耳や目は楽しいが、苦しみを抜いたとは言えない。別の意味から、それぞれが一つの側面を示すので、特に分けて説くのである。」
問:此中何意不論喜捨?答:四無量心名雖有四,但是三義。《大經》云「憂畢叉」,畢叉名捨,捨者,兩捨也,即是非慈、非悲,不二之意,不二而二即是慈悲。喜者,從樂生喜,初欲與樂,眾生苦重,不能得樂,則無所可喜;若拔苦竟,即能得樂,還遂本懷,故樂後加喜。苦後無此,故不開喜。如阿輸加王七日應死,雖有五欲之樂,憂苦切心;又如一身少許痛惱能奪一身之樂,故知苦重不得樂也。
問:ここでなぜ喜捨について論じないのですか? 答:四無量心は名前としては四つありますが、その本質は三つの意味に集約されます。『大経』には「憂畢叉(うひっしゃ)」と説かれています。畢叉とは捨のことであり、捨とは両方を捨てるという意味です。すなわち、慈でもなく悲でもない、不二の心であり、不二でありながら二つの働きを持つ、それが慈悲なのです。 喜について言えば、楽から喜びが生まれます。最初に楽を与えようとしても、苦しみの重い衆生には楽が得られず、喜ぶべきこともありません。しかし苦しみを取り除いた後には楽が得られ、本来の願いが叶うのです。だからこそ、楽の後に喜びが加わります。苦しみの後にはこのようなことがないため、喜びは立てられません。 例えばアシュカ王が七日の後に死ぬと決まった時、五欲の楽があっても憂いと苦しみが心をせめぎ合いました。また、一つの身に少しの痛みや悩みがあれば、その身全体の楽を奪い去ってしまうものです。これによって、苦しみが重ければ楽は得られないということが分かります。
問:禪支明喜在前,樂支在後,復云何?答:禪支就從麁入細,此中慶彼得樂,故喜心在後也。復次,外道修四無量,自證禪定,作想虛運,彼無實益,不能令他拔苦得樂,雖自獲定,虛妄世法,報盡還墮,不免於苦,自、他俱無利益。若二乘修四無量,但自拔苦,於他無益,自拔分段未免變易,灰身滅智非究竟樂。今菩薩不爾,非凡夫行、非賢聖行。非凡夫者,不同自受禪樂;非賢聖者,不同自拔於苦。不同自受樂故,即與他樂;不同自拔苦故,即拔他苦。亦是即拔苦是即與樂、即與樂亦即是拔苦,但分別說之,誓願相對,前明拔苦,後明與樂爾。
問:禅の支分において、喜(喜びの心)が先にあり、楽(安らぎの境地)が後にあるのは、なぜでしょうか?
答:禅の支分は、粗い状態から細やかな状態へと進んでいきます。ここで、彼(修行者)がその境地を得たことを喜ぶため、喜びの心は後から生じるのです。
また、外道(仏教以外の修行者)が四無量心を修めるとき、自ら禅定を証しようと空想を巡らせますが、そこには真の功徳はありません。他者の苦しみを除き、楽を与えることはできず、自らは禅定を得ても、それは虚ろで世の常に過ぎません。報いが尽きれば再び迷いの世界に堕ち、苦しみを免れず、自他ともに利益を得ることはありません。
一方、二乗(声聞・縁覚)が四無量心を修めても、ただ自分の苦しみを除くだけで、他者には利益がありません。自分は分断生死(迷いの世界での生まれ変わり)を脱しても、変易生死(聖者の迷いの境地での変化)を免れず、身心を滅し尽くして智恵も消し去ってしまうため、真の究極の安らぎとは言えません。
ところが、菩薩はこれとは異なります。凡夫の行いでもなく、賢聖の行いでもありません。凡夫の行いでないのは、自ら禅定の楽しみを受けることに満足しないからです。賢聖の行いでないのは、ただ自分の苦しみだけを除こうとしないからです。自らの楽しみのために禅定を受けないからこそ、他者に楽を与えることができるのです。また、自分の苦しみだけを除こうとしないからこそ、他者の苦しみも除くことができるのです。
そして、「他者の苦しみを除くこと」は、そのまま「他者に楽を与えること」と一体であり、「他者に楽を与えること」もまた、そのまま「他者の苦しみを除くこと」と一体なのです。ただ、説明の都合上、誓いの願いが互いに対応するように、まず苦しみを除くことを述べ、後に楽を与えることを述べたに過ぎません。
料簡福慧者,問:觀音對智稱之而拔苦,普門對福見之而得樂,何也?
智慧と福徳について考えてみると、次のような問いが生じます。観音さまは智に対応して呼べば苦しみを除き、普門は福に見合って拝めば楽を得られるのは、なぜでしょうか。
答:智是光明,正治闇惑,惑是生死苦惱,若治闇惑之苦,豈不用智解之光?故稱智慧人名即拔苦也。法是法門,門名能通,通至涅槃安樂之處,初習此法是得樂因,後證此法是得樂果,故對此普門明其與樂也。
智慧とは光明であり、暗い迷いを正しく治めるものです。迷いとは生死の苦しみや悩みのことです。暗い迷いの苦しみを治めるのに、智慧の光を用いないことがありましょうか。ですから、智慧という名前の人は、苦しみを除くことを表しています。
法とは教えの門であり、「門」とは通じることを意味し、涅槃という安らかな境地へ通じるものです。初めにこの教えを学ぶことは、楽しい因(原因)を得ることであり、後にこの教えを悟ることは、楽しい果(結果)を得ることです。ですから、この普遍の門に対応して、楽を与えることを明らかにしているのです。
問:福慧相須,本不相離,若定而無慧者,此定名癡定。譬如盲兒騎瞎馬,必墮坑落塹而無疑也。若慧而無定者,此慧名狂慧,譬如風中然燈搖颺,搖颺照物不了。故知福慧相資,二輪平等,堪能運載也。若爾,何意以智慧拔苦、福德與樂耶?
問い:福と智慧は互いに必要であり、本来は切り離せないものです。しかし、もし「定(心の統一)」があって「智慧」がないなら、その「定」は「愚かな定」と呼ばれます。たとえば、目の見えない子供が盲目の馬に乗るようなもので、必ず穴や溝に落ちてしまうことは間違いありません。反対に、智慧があって定がないなら、その智慧は「狂った智慧」と呼ばれます。これは、風の中で灯りを揺らすようなもので、揺れているため物事をはっきり照らし出せません。したがって、福と智慧は互いに助け合い、二つの車輪が平等であることで、初めて私たちを運んでくれるのです。それならば、なぜ智慧によって苦しみを取り除き、福徳によって安楽を与えると言うのでしょうか?
自有福德是智慧、智慧是福德,自有福德非智慧、智慧非福德,大小乘皆備四句,如六度菩薩修般若,分閻浮提為七分,此是世智,不能斷惑,此猶屬福德攝,即名此福是智故,此智是福,不斷惑故。若聲聞人智慧能斷,若名智慧非福德,如餓羅漢也。若福德非世智、亦非出世智者,如白象也。若大乘四句者,別教地前三十心,行行名福德,慧行名智慧,此慧不能破無明,此慧還屬福德攝,不破無明故,此福是智慧方便治取相故。若地前皆名福德,地上皆名智慧,此智慧非福德,福德非智慧。方等般若帶小明大,若帶小,福慧如前四句;明大,福慧如向四句。今此普門名福慧者,福即是慧、慧即是福,福、慧不二,故《大論》云「如是尊妙人則能見般若。」此慧那得無定?得首楞嚴定。何曾無慧?論云「健相三昧,能破彊敵。」《大經》云「佛性者,有五種名:亦名般若、亦名師子吼、亦名首楞嚴、亦名金剛。」佛性等即是定慧具足之名也。非禪不慧、非慧不禪,禪慧不二,不二而二,分門別說作定慧二解,故《釋論》解般若明十八空、解禪定明百八三昧,此是二說,二即不二。
智慧と福徳は一体であり、智慧はそのまま福徳、福徳はそのまま智慧です。しかし、智慧は福徳にあらず、福徳は智慧にあらず、という見方もあります。大小乗の教えにはいずれもこの四つの捉え方が備わっています。
例えば、六度を修行する菩薩が般若波羅蜜を修める際、閻浮提(人間世界)を七つに分けて考えるのは、世間の智慧であり、煩悩を断ち切ることはできません。これはまだ福徳の領域に属します。そこで、この福徳を智慧と呼び、この智慧を福徳と呼ぶのは、煩悩を断ち切らないからです。
一方、声聞(しょうもん)の智慧は煩悩を断ち切ることができます。この智慧を「智慧であって福徳ではない」と呼ぶなら、それは「餓羅漢(がらかん)」のような状態です。また、福徳であって世間の智慧でも出世間の智慧でもないものは、例えば白象のようなものです。
大乗における四つの句について述べます。別教の「地前」(初地に至る前の三十心)においては、実践の行いを福徳、智慧の行いを智慧と呼びます。しかし、この智慧は無明を破ることができず、やはり福徳に含まれます。無明を破らないからです。この福徳は智慧であり、方便を用いて執着の相を対治するからです。
地前(修行の初期段階)を全て福徳とし、地上(初地以上の段階)を全て智慧とする見方もあります。この場合、智慧は福徳ではなく、福徳は智慧ではありません。
方等経や般若経は、小乗の要素を含みつつ大乗の教えを明らかにします。小乗的な見方に従えば、福徳と智慧の関係は先に述べた四句の通りです。大乗的な見方で言えば、福徳と智慧の関係は上述の四句の通りです。
さて、ここで観音の普門を「福慧」と名付けるのは、福が即ち慧、慧が即ち福であり、福と慧が不二であるからです。ゆえに『大智度論』には「このように尊く優れた人は、よく般若を見る」と説かれています。この智慧に、どうして定(瞑想)が欠けていましょうか? 首楞厳定(しゅりょうごんじょう)を具えているのです。また、どうして智慧がないことがありましょうか? 論には「健相三昧(けんそうざんまい)は、強敵を打ち破ることができる」とあります。『大般涅槃経』には「仏性には五つの名前がある。すなわち般若、師子吼、首楞厳、金剛とも呼ばれる」と説かれています。仏性などは、定と慧を共に満たした名前です。
禅定なくして智慧はなく、智慧なくして禅定はありません。禅と智慧は不二です。しかし、不二でありながらも方便として二つに分け、別々の門として定と慧の二つの解釈を立てます。ゆえに『大智度論』では、般若を説く際に十八空を明かし、禅定を説く際に百八三昧を明かしています。これは二つの説明ですが、二つは即ち不二なのです。
料簡真應者,亦有四句之殊,非真非應、應而非真、真而非應、亦真亦應。若非真非應,此就理可解,又就凡夫不見理故,非真無用故非應,此亦可解。應而非真者,外道亦得五通,同他施化,通論亦得,是應而不得名真。真而非應者,二乘人入真斷結,灰身滅智不能起應,此亦是通論其真爾。亦真亦應者,此則別顯中道為真,即真而論用為應,真應不二,不二而二者,故言真應爾。今依文互舉,一往言其真應,前番問答明真身常益,後番問答明應身間益,常間不得相離,二鳥俱游,二往為論,真身亦恒、亦不恒,應身亦間、亦不間。若小乘明義,例如善吉石窟觀空見佛法身,蓮華尼則不見,此豈非小乘中真身恒益、不恒益義?丈六之應亦有見、不見,此豈非應身有間、有不間義?大乘法身亦爾,於理為恒益、於情為不恒益;應身亦爾,此緣滅、彼緣興,無有斷絕是不間義,同質異見是其間義。而今分別,一往前問答屬恒益,後問答屬不恒益也。
「真応」について詳しく考えると、四つの違いがあります。すなわち、「真でもなく応でもない」「応であって真ではない」「真であって応ではない」「真であり応でもある」です。
まず「真でもなく応でもない」とは、道理に基づいて理解できます。また、凡夫は道理を見ることができず、真としての働きがなく、役に立たないから応でもない、という意味でも理解できます。
「応であって真ではない」とは、外道も五通を得て、他者に教えを施すことができます。広い意味では、応の働きはあるものの、真とは呼べません。
「真であって応ではない」とは、二乗の者が真理に入り煩悩の束縛を断ち切り、肉体を灰とし知覚を消し去って、応としての働きを起こせないことです。これも広い意味での真の状態を指します。
「真であり応でもある」とは、これは特に中道を真として示し、その真の働きを応と見なします。真と応は本来一つであり、一つであるにもかかわらず、あえて二つとして区別するから、真・応と呼ぶのです。
ここでは、経典の文に従い互いに挙げて、ひとまず真と応について述べています。前の問答では真身が常に利益を与えることを明かし、後の問答では応身が間欠的に利益を与えることを明かしています。常なる利益と間欠的な利益は互いに離れることはなく、二羽の鳥が共に遊ぶようなものです。
さらに詳しく言えば、真身には常なる面と常ならざる面があり、応身にも間欠的な面と間断のない面があります。小乗の教えで言えば、例えば善吉(須菩提)が石窟で空を観じて仏の法身を見たのに対し、蓮華比丘尼は見えなかったことがあります。これは小乗においても真身に常に利益を与える面とそうでない面があることを示しています。また、丈六の応身にも、見える者と見えない者がいることは、応身に間欠的な面とそうでない面があることを示しています。
大乗の法身も同様で、道理の上では常に利益を与えますが、衆生の側からすれば常に利益を得られるわけではありません。応身もまた同様で、こちらの縁が尽きればあちらの縁が起こり、絶えることがないというのが間断のない面であり、同じ対象を見ても見え方が異なるのが間欠的な面です。
今このように区別して、ひとまず前の問答は恒常的な利益に属し、後の問答は恒常的でない利益に属するとします。
料簡藥珠二身者,藥有差病拔苦之功,亦有全身增命致寶之用,故經云「若全身命,便為已得玩好之具也。」如意珠王非但雨寶,亦能除病,大施太子入海得珠,還治父母眼,《大品》云「若人眼痛,珠著身上,病即除愈。」故知通具二義。若別據一邊,約除患以譬藥,證樂以況珠爾。
薬と珠という二つの身をたとえに用いるのは、薬には病気を治し苦しみを取り除く効能があり、また全身を生かし命を延ばす宝を得る働きもあるからです。経典には「もし全身の命を保つならば、すでに玩好の具を得たことになる」と説かれています。如意宝珠はただ宝を降らすだけでなく、病気も癒します。大施太子が海に入って宝珠を得、帰って父母の目を治した話もあり、『大品経』には「もし人の目が痛めば、珠を身につければ病はたちまち癒える」とあります。ゆえに、通じてこの二つの意味を併せ持つことがわかります。もし別々に一方だけに着目するならば、悩みを取り除く面を薬にたとえ、悟りの楽しみを得る面を珠にたとえるのです。
料簡冥顯兩益,凡有三十六句。料簡權實二智者,前問答,實智照真而眾生得脫,權智照假而眾生得度。度為度權,亦度於實;脫為脫真,亦脫於假。答此亦具四句,或因真智解脫於權,七難消除,二求願滿是也;或因真智解脫於實,三毒皆離是也;或因權智得度於實,三十三身得度是也;或因權智得度於權,於怖畏急難之中得無畏是也。或二俱度脫、或二俱不度不脫,今依文判,互出一邊,前文脫權、後文度實。
権実二智の意義を明らかにすべく、計三十六の句がある。権実二智を検討するに、先の問答において、実智は真実を照らして衆生を解脱させ、権智は仮の世界を照らして衆生を度すると説かれた。「度」とは権を度するとともに実をも度し、「脱」とは真を脱するとともに仮をも脱することを意味する。
これに対する答えには、四つの句がある。あるいは真智によって権から解脱する――すなわち七難を除かれ、二つの願いが満たされること。あるいは真智によって実から解脱する――すなわち三毒から離れること。あるいは権智によって実を度する――すなわち三十三身によって度されること。あるいは権智によって権を度する――すなわち怖れや急難の中で無畏を得ること。
あるいは、この二つが共に度脱されることもあれば、共に度されず脱されないこともある。今、経文に従って判断すれば、互いに一方を挙げており、前の文では権からの解脱を、後の文では実への度を示している。
料簡本迹者,通論本迹俱能拔苦與樂,故〈壽量〉云「聞佛壽無量,得清淨無漏無量之果報。」即是從本得樂。《請觀音》云「或遊戲地獄,大悲代受苦。」此是從迹拔苦。眾生不達本源,後流轉苦惱,若識本理即於苦而得解脫也。眾生若不見迹中施化,不能三業種福,則無功德之因,焉致樂果?非本無以垂迹,非迹無以顯本,前問答是明迹本,後問答是明本迹。
本と迹を考えるにあたり、広く論じれば、本も迹も共に苦しみを抜き去り、楽を与える力を持つ。ゆえに『寿量品』には「仏の寿命が無量であると聞けば、清らかで汚れのない、無量の果報を得る」とある。これは本によって楽を得ることを示す。『請観世音経』には「あるいは地獄に遊戯し、大悲の心で代わって苦しみを受ける」とある。これは迹によって苦しみを抜くことを示す。
衆生はこの本源を悟らず、後に流転して苦悩する。もし本の理を知れば、苦しみの中にあっても解脱を得ることができる。また、衆生が迹において行われた教化を見なければ、身・口・意の三業によって福を積むことができず、功徳の因が無ければ、どうして楽の果報を得られようか。
本無くして迹を垂れることはできず、迹無くして本を顕すことはできない。前の問答は迹の本を明らかにし、後の問答は本の迹を明らかにするのである。
問:本迹與真應云何異?答:真應就一世橫辯,如諸經所明。本迹就三世豎論,如〈壽量〉所說。
質問:「本地」と「垂迹」、そして「真身」と「応身」の違いは何ですか? 答え:「真身」と「応身」は、一つの世界における横の関係で説明されるもので、さまざまな経典に説かれています。一方、「本地」と「垂迹」は、三世にわたる縦の関係で論じられるもので、『法華経』寿量品で説かれている通りです。
料簡緣了者,問:緣了既有性德善,亦有性德惡否?答:具。
料簡(りょうけん)「縁了(えんりょう)」について問う。 「縁了に、もともと備わっている善(性徳の善)があるならば、 同じく、もともと備わっている悪(性徳の悪)もあるのでしょうか?」 答え。「具(そなわ)っている。」
問:闡提與佛斷,何等善惡?答:闡提斷修善盡,但性善在;佛斷修惡盡,但性惡在。
問い:「一闡提(仏性を断たれた者)と仏では、善悪はどのように異なるのですか?」 答え:「一闡提は修善(修行によって積む善)を断ち尽くしていますが、性善(本来備わっている善の性質)は残っています。仏は修悪(修行によって断つべき悪)を断ち尽くしていますが、性悪(本来備わっている悪の性質)は残っています。」
問:性德善惡何不可斷?答:性之善惡但是善惡之法門,性不可改,歷三世無誰能毀,復不可斷壞。譬如魔雖燒經,何能令性善法門盡?縱令佛燒惡譜,亦不能令惡法門盡。如秦焚典坑儒,豈能令善惡斷盡耶?
問う:性(本性)における善悪は、なぜ断ち切ることができないのか? 答える:本性の善悪とは、あくまでも善と悪という法(真理の在り方)への門戸である。本性そのものは変えられるものではなく、過去・現在・未来の三世を経ても、誰もそれを損なうことはできず、また断ち壊すこともできない。たとえば、悪魔が経典を焼き尽くそうとしても、本性の善という法門を消し尽くすことはできない。たとえ仏が悪の記録を焼き捨てようとしても、悪という法門を消し尽くすことはできない。秦の時代に典籍を焼き儒者を生き埋めにしたからといって、どうして善悪を完全に断ち切ることができただろうか?
問:闡提不斷性善,還能令修善起;佛不斷性惡,還令修惡起耶?答:闡提既不達性善,以不達故還為善所染,修善得起,廣治諸惡。佛雖不斷性惡,而能達於惡,以達惡故於惡自在,故不為惡所染,修惡不得起,故佛永無復惡,以自在故,廣用諸惡法門化度眾生,終日用之、終日不染,不染故不起,那得以闡提為例耶?若闡提能達此善惡,則不復名為一闡提也。若依他人明闡提斷善盡,為阿梨耶識所熏更能起善,梨耶即是無記無明,善惡依持為一切種子,闡提不斷無明無記故還生善。佛斷無記無明盡,無所可熏,故惡不復還生;若欲以惡化物,但作神通變現度眾生爾。
問:闡提は性善を断じていないので、まだ善を修める心を起こさせることができるのですか。仏は性悪を断じていないので、まだ悪を修める心を起こさせるのですか。
答:闡提は性善に達していないため、達していないがゆえに、かえって善に染められて、善を修める心が起こり、広くもろもろの悪を治めることができます。仏は性悪を断じていませんが、悪に達することができ、悪に達しているがゆえに悪に対して自在であり、それゆえ悪に染められることがなく、悪を修める心は起こりません。ですから仏には永遠に再び悪はありません。自在であるがゆえに、広くもろもろの悪の法門を用いて衆生を教化し救済します。一日中それを使いながら、一日中染まることがなく、染まらないがゆえに起こることもありません。どうして闡提を例に挙げることができましょうか。もし闡提がこの善悪に達することができれば、もはや一闡提とは名づけられません。
もし他の人の説に従えば、闡提は善を断じ尽くし、阿梨耶識に熏じられて、さらに善を起こすことができます。梨耶とはすなわち無記無明であり、善悪がそれに依って保たれ、すべての種子となります。闡提は無明無記を断じていないため、再び善を生じます。仏は無記無明を断じ尽くし、熏じられるべきものが何もないため、悪は再び生じることがありません。もし悪をもって衆生を教化しようと欲するならば、ただ神通を現じて変化作し、衆生を救済するだけです。
問:若佛地斷惡盡,作神通以惡化物者,此作意方能起惡。如人畫諸色像,非是任運,如明鏡不動,色像自形,可是不可思議理能應惡,若作意者與外道何異?今明闡提不斷性德之善,遇緣善發;佛亦不斷性惡,機緣所激,慈力所熏,入阿鼻同一切惡事化眾生。以有性惡故名不斷,無復修惡名不常,若修性俱盡則是斷,不得為不斷不常。闡提亦爾,性善不斷還生善根。如來性惡不斷,還能起惡,雖起於惡,而是解心無染,通達惡際即是實際,能以五逆相而得解脫,亦不縛不脫,行於非道,通達佛道;闡提染而不達,與此為異也。
問う:もし仏の境地では悪が完全に断たれているなら、神通力を使って悪で教化する場合、その働きかけによって初めて悪を起こすことになる。それは人が様々な絵や色を描くようなもので、自然にそうなるのではない。明鏡が動かずとも、そこに色や形が自然に映るように、不可思議な理が悪に応じるのであれば理解できる。しかし、もし働きかけを必要とするなら、外道と何が違うのか?
ここで明らかにする:一闡提は本性としての善の徳を断つことがなく、縁に遇えば善が発現する。仏もまた本性としての悪を断つことがない。機縁に刺激され、慈力に薫習されて、阿鼻地獄に入って一切の悪事を共に行い、衆生を教化する。性悪(本性としての悪)があるから「断たず」と言い、修悪(修行による悪)がないから「常ならず」と言う。もし修悪と性悪の両方が尽きてしまえば、それは断滅であり、「不断不常」とは言えない。
一闡堤もまた同じで、性善(本性としての善)が断たれていないので、善根を再び生じる。如来は性悪(本性としての悪)が断たれていないので、まだ悪を起こすことができる。悪を起こすとしても、それは解脱の智慧を持ち、染まりがない。悪の究極をつきつめれば、それがそのまま真実の境地(実際)である。五逆の相をもって解脱を得ることができ、束縛もなく解脱もない。非道を行いながら、仏道に通達する。一闡提は染まりはあるが、そこに通達しない。この点が異なるのである。
料簡智斷者,此是一法異名,不得相離,如人一體,何故從智拔苦、從斷與樂?然而慧解之心稱智,無縛礙身稱斷。譬如人被縛,運力屬智,肅然附外屬斷;運力屬心,故名智慧莊嚴;附斷體散屬色身,名福德莊嚴。今經文言說不得一時,故互舉智斷。若深得此十義意者,解一千從,廣釋觀世音普門義則不可盡也。
智慧と断とは、これは一つの法の異なる名であり、切り離すことができません。ちょうど人の一つの身体のようなものです。では、なぜ智慧によって苦しみを取り除き、断によって安楽を与えるのでしょうか。 しかし、物事を理解し判断する心の働きを智慧と呼び、束縛や障りのない身体を断と呼びます。例えば、人が縛られている時、力を働かせることは智慧に属し、静かにその外に出ることは断に属します。力を働かせるのは心なので、智慧の荘厳と呼ばれます。そして、断の本体がほどけて色身に属するものを、福徳の荘厳と呼びます。経典の文言では一時に説くことができないため、智慧と断を互いに挙げて示しているのです。 この十の義の意味を深く理解できれば、一つを解すれば千に従い、広く観世音菩薩の普門の義を解釈することも、尽きることがないのです。
第二別釋名者,為二:先明觀世音、次明普門。以何因緣名觀世音?通釋如前;別者則以境智因緣故名觀世音。云何境智?境智有二:一思議境智、二不思議境智。思議境智又二:一約理外、二約理內。
第二に、名前の意味を具体的に説明します。二つの観点からです。まず「観世音」を明らかにし、次に「普門」を明らかにします。どのような因縁で「観世音」という名がついたのでしょうか?全般的な説明は前の通りです。具体的には、境(対象)と智(認識)の因縁によって「観世音」と名づけられます。では、境と智とは何でしょうか?境と智には二種類あります。一つは思議の境智(言葉や思考でとらえられる対象と認識)、二つ目は不思議の境智(言葉や思考を超えた対象と認識)です。思議の境智にもさらに二つあります。一つは理の外に基づくもの、二つ目は理の内に基づくものです。
理外為四:一天然境智,只問此境為當,由境故境、由智故境;此智為當,由智故智、由境故智。若由境故境,此境是境,境即自生境;若智由智故智,亦是自生智,自生名性自爾,非佛、天、人所作,照與不照恒是境智,故名天然境智。二明相待者,若境不自境,因智故境;智不自智,因境故智,此即他生義。何故爾?境自生境,既稱為自,以境望智,智即是他。今境從智生,豈非他境?智亦如是,故名相待。次明因緣境智者,若境不由智故境,亦不由境故境,智境因緣故境;智亦如是,此即境智因緣共生義。共生有二過,墮自他性中。次絕待明境智者,非境非智而說境智,此即離境離智,無因緣而辯境智者,此是無因緣絕待,從因緣尚不可得,何況無因緣?一往謂絕理而窮之,不成絕待,並是理外行心妄想推計,故《中論》云「諸法不自生,亦不從他生,不共不無因,是故說無生。」那得如前四種計執是實,餘妄語。性實之執,見愛生著,九十八使,苦集浩然,流轉不息,云何執此而生苦集?隨執一種境智謂以為是,隨順讚歎,心則愛著而生歡喜,即是貪使;若人違逆責毀,心則忿怒而生瞋恚,即是瞋使。貪、恚既起,豈非癡使?我解此境智,他所不解,以其所執矜傲於人,豈非慢使?既執此為是,今雖無疑,後當大疑,豈非疑使?我知解此法,法中計我,豈非身見?六十二見隨墮一邊,豈非邊見?如此妄執不當道理,豈非邪見?執此是實,計為涅槃,豈非見取果盜?謂此為道,依之進行,豈非戒取因盜?十使宛然,皆從所執境智上起,將此歷三界四諦則有八十八使,就思惟歷三界則有九十八使,此則集諦結業,顛倒浩然,方招苦果,生死不絕。於其境智不識苦集,何處有道滅?既不識四諦,則破世間、出世間因果,無世、出世法,故無法寶;不識出世果,無佛寶;不識出世因,無僧寶,賢聖之義,一切俱失。若作如此執自生境智者,只是結構生死,增長結業,過患甚多。若非理外境智,更將何等為理外耶?故《大論》云「凡夫三種語,見、慢、名字;聖人,但一種語,名字。」今凡夫見慢取著,謬用佛語,介爾取著,乖理成諍。雖傍經論,引證文字,如蟲蝕木,偶得成字;尋其內心,實不能解是字非字,口言境智,不解境智,以不解故,如服甘露,則以境智起見,傷命早夭,故為龍樹所破,今不取此為境智以釋觀世音。自生境智既爾,餘三句亦然。
理を超えた境地と智慧には、四つの捉え方がある。第一に「天然の境地と智慧」である。これは、ただこの境地そのものを問うとき、「境地ゆえに境地である」のか、「智慧ゆえに境地である」のか、と考える。また、この智慧についても、「智慧ゆえに智慧である」のか、「境地ゆえに智慧である」のか、と問う。もし「境地ゆえに境地」であるならば、この境地はそれ自体で成り立つ境地であり、それは自ら生じた境地である。同様に、「智慧ゆえに智慧」であるならば、それもまた自ら生じた智慧である。自ら生じるということを「本来そのようである(性自爾)」と言い、仏や天や人が作ったものではない。照らすにせよ照らさないにせよ、常にこれが境地であり智慧であることから、「天然の境地と智慧」と呼ぶ。
第二に「相待(互いに依存する関係)」について明かす。もし境地がそれ自体で成り立たないなら、智慧によって境地となる。智慧もそれ自体で成り立たないなら、境地によって智慧となる。これは「他から生じる」という意味である。なぜそう言えるのか? 境地が自ら生じるという考え方では、それを「自」と呼ぶが、その境地を智慧の側から見れば、智慧は「他」となる。今、その境地が智慧から生じるのであれば、それは「他」によって生じた境地ではないだろうか? 智慧についても同様である。そのため、これを「相待」と呼ぶ。
次に「因縁による境地と智慧」について。もし境地が智慧によって境地となるのでもなく、また境地によって境地となるのでもなく、境地と智慧の因縁によって境地となるのであれば、智慧についても同様である。これは境地と智慧が因縁によって共に生じるという意味である。しかし、共に生じるという考え方には二つの過失がある。それは「自性」と「他性」という見解に陥ることである。
次に「絶待(相対を超えた絶対)」としての境地と智慧について。これは「境地ではないもの、智慧ではないもの」について、あえて「境地」「智慧」と言うのである。これは境地と智慧を離れ、因縁なしに境地と智慧を論じるものである。これを「無因縁の絶待」と言う。因縁によってすら得られないものを、まして因縁なしに得られるはずがない。ひとまずは「絶対の理」と考えて追求しても、真の絶待にはならない。これらはすべて、理を超えた分別心による妄想の推測に過ぎない。ゆえに『中論』は「諸々の法は自ら生じず、他からも生じず、共にも生じず、無因でもない。ゆえに無生を説く」と述べている。どうして上記の四つの捉え方が真実であり、それ以外は誤りだと言えるだろうか?
この「自性が実在する」という執着から、「見(誤った見解)」と「愛(執着)」が生まれ、そこに執着する。九十八の煩悩が生じ、苦諦と集諦が大きく広がり、生死の流転が止まらない。どうしてこのような執着から苦と集が生じると言えるのか? ある一つの境地と智慧の捉え方を正しいと執着し、それに随順して褒め称える心が生じれば、愛着して喜ぶ。これは貪りの煩悩である。もし誰かがそれに違反し非難すれば、心は怒り、腹を立てる。これは瞋りの煩悩である。貪りと瞋りが起これば、それは愚かさの煩悩ではないだろうか? 「私はこの境地と智慧を理解している」と、他者が理解していないことを誇り、人を見下すのは、慢の煩悩である。これを正しいと執着し、今は疑いがなくとも、後に大きな疑いが生じるのは、疑の煩悩である。私はこの法を知っていると、法の中に私を計るのは、身見である。六十二見のいずれか一方に堕ちるのは、辺見である。このような誤った執着は道理にかなわないから、邪見である。これを実在と執着し、涅槃であると計るのは、見取見(果を盗む見解)である。これが道であると考え、それに従って修行するのは、戒禁取見(因を盗む見解)である。このように十の煩悩がはっきりと現れ、すべて執着した境地と智慧から生じている。これを三界の四諦に当てはめれば八十八使となり、さらに思惟の分野で三界に当てはめれば九十八使となる。これが集諦の結びつく業であり、顛倒した見解が大きく広がり、苦の結果を招き、生死が絶えない。その境地と智慧において苦と集を悟らなければ、どこに道と滅があるだろうか? 四諦を悟らなければ、世間と出世間の因果を破ることになる。世間も出世間の法もなければ、法宝はない。出世間の果を悟らなければ、仏宝はない。出世間の因を悟らなければ、僧宝はない。賢聖の教えはすべて失われてしまう。もしこのように「自ら生じる境地と智慧」を執着するならば、それはただ生死を組み立て、結びつく業を増大させ、過ちや害が非常に多いのである。もしこれが「理を超えた境地と智慧」でなければ、一体何を以って理の外と言えるだろうか?
ゆえに『大智度論』は「凡夫には三種の言葉がある。見解と慢心と名前である。聖人にはただ一種の言葉がある。名前だけである」と述べている。今、凡夫は見解と慢心で執着し、誤って仏の言葉を用いる。ほんのわずかな執着でも、理に背いて争いを起こす。経典や論書に頼り、文字を引用して証拠としながらも、それはまるで虫が木を食って偶然に文字の形になるようなものである。その内心を尋ねれば、実はその文字が文字であるかどうかを理解していない。口では「境地」「智慧」と言いながら、その意味を理解していない。理解していないために、甘露を飲むようにして、その境地と智慧の見解によって命を損ない、早くに死んでしまう。ゆえに龍樹菩薩に破られたのである。今、ここではそのような境地と智慧の解釈を取って、観世音菩薩を説明することはしない。「自ら生じる境地と智慧」がこのようであるならば、残りの三つの句も同様である。
二明思議理內境智者,亦作上四門,名字雖同,觀智淳熟,不生執見,畢故不造新,成方便道,發生煖頂乃至十六心眼智明覺,豁然得悟,破諸見惑,與理相應。譬如盲人金錍抉膜,灼然不謬,此之真觀名之為智,所照之理名之為境,以發無漏故稱理內境智;雖見此理,終是作意入真,故名思議境智也。今明觀世音,亦不從此境智因緣得名也。
次に、「思議の理内の境智」について明かします。これも上の四つの門のように説かれますが、名称は同じでも、観智が純熟し、執着や見解を生じず、過去の業は尽きて新たな業を作らず、方便の道を成就します。そこから煖・頂などの位を経て、十六心に至り、心眼智明覚が生じ、豁然として悟りを得て、様々な見惑を破り、真理と相応するのです。それは、あたかも盲人が金の箆で膜を抉り開けられ、明らかに誤りないようなものです。この真実の観を「智」と名づけ、照らし出される理を「境」と名づけます。無漏を発するがゆえに「理内の境智」と呼びます。しかし、この理を見るといえども、結局は作意して真実に入るものであるため、「思議の境智」というのです。今、観世音を明かすにあたっては、このような境智の因縁によって名を得たわけではありません。
次明不思議境智者,若自他共無因等四句俱非境智者,今諸經論所明,或從自生、他生、共生、無因等,若不爾者,云何辯境智耶?答:經中所明,皆是四悉檀赴緣,假名字說,無四性執。若人樂聞自生境智,即說境是自境、智是自智,以赴其欣欲之心;或時宜聞自境、自智,聞必生善;或時對治,說自生境智,說必破惑;有時說此,令即悟道。若無四悉檀益,諸佛如來不空說法,雖作四說,無四種執,無執故無見愛,眾生聞者如快馬見鞭影,即破惑入道,故名為智,此智所照名之為境。如是通達則識苦集道滅,三寶四諦宛然具足。若以智照境,入空取證,成真諦理內思議境智,如前說。若不以果為證,知此境智但有名字,名為境智。是字不在內、外、中間,是字不住亦不不住,是字無所有故。雖作四句明境智,實不分別四句境智;雖作四句聞境智,實不得四句境智;雖體達四句境智,實不作四句思量境智。言語道斷,心行處滅,不可四句思惟圖度,故名不思議境智。《金光明》云「不思議智照不思議智境。」此具如《大本玄義》境智妙中廣說。龍樹先破一異時方,然後釋如是我聞等義,今類此先破理外境智,後明不思議四悉檀,悉檀義如《大本玄義》。夫依名字為便,應先明觀智,次辯世境之音;若解義為便,前明世境,次辯觀智。如先有境可得論觀,若未有境,何所可觀?譬如境鼓後方映擊,今從義便,先明世音,後論觀智也。
次に、思議できない境と智について明らかにします。 問う。もし、「自」「他」「共」「無因」の四つの句すべてが、境や智ではないのなら、今、諸経論で説かれている「自生」「他生」「共生」「無因生」などは、いったい何なのか。これらが境や智でないなら、どうやって境と智を論じるのか。 答える。経典に説かれていることは、すべて「四悉檀」によって人々の機縁に合わせ、仮に名づけて説いたものであり、四つのものに実体があると執着しているわけではない。 もし人が「自生の境と智」について聞くことを好むなら、境は自らの境、智は自らの智であると説き、その人の楽しみたいという心に合わせる。あるいは時には、「自境・自智」を聞くのにふさわしい機会であれば、それを聞くことで善を生じさせる。また、対治の為に「自生の境と智」を説けば、必ず迷いを打ち破る。また、ある時はこれを説いて、即座に悟りへ導く。 もし四悉檀の利益がなければ、諸仏如来は無意味に説法することはない。こうして四通りの説き方をしても、四つのものに執着はない。執着がないから、誤った見解や愛着もない。これを聞いた者は、あたかも名馬が鞭の影を見るように、瞬時に迷いを破り、悟りの道に入る。これが智慧である。この智慧が照らすものを境という。 このように悟れば、苦・集・道・滅が分かり、三宝と四諦がはっきりとそろう。もし智慧で境を照らし、空に入って証を得るならば、真諦の理に基づく思議できる境と智となる。これは先に述べた通りである。 もしこの悟りを究極とせず、この境と智はただ名前があるだけであり、その名前は「内」にも「外」にも「中間」にもなく、留まることもなければ留まらないこともなく、何の実体もないと知るならば、四つの句で境と智を明らかにしても、実際には四つの句の境と智に区別はない。四つの句で境と智を聞いても、実際には四つの句の境と智を得ることはない。四つの句の境と智を体得しても、実際には四つの句で境と智を思い計ることはない。言葉の道は絶え、心の働きも滅する。四つの句で考えることも、はかることもできない。ゆえに「思議できない境と智」というのである。 『金光明経』には「思議できない智慧が、思議できない智慧の境を照らす」とある。これについては『大本玄義』の境智の妙の章で詳しく説かれている。 龍樹菩薩はまず「一・異・時・方」などの概念を打ち破り、その後で「如是我聞」などの意味を説いた。今もこれに倣って、まず道理を超えた境と智を打ち破り、その後で思議できない四悉檀を明らかにする。悉檀の意味については『大本玄義』の通りである。 さて、言葉に便利さを求めるなら、まず観智を明らかにし、次に世間の境の響きを論じるべきだろう。しかし、意味の理解しやすさを優先するなら、まず世間の境を明らかにし、次に観智を論じる。あたかも境が先にあって、はじめて観を論じられるようなもので、もし境がなければ、何を観ればよいのか。たとえば、太鼓の胴があって初めて、打つことで響くようなものだ。そこで、意味の便利さに従い、まず世音を明らかにし、その後で観智を論じることにする。
世者為三:一五陰世間、二眾生世間、三國土世間。既有實法,即有假人,假實正成即有依報,故名三種世間也。世是隔別,即十法界之世,亦是十種五陰、十種假名、十種依報,隔別不同,故名為世也。間是間差,三十種世間差別,不相謬亂,故名為間。各各有因、各各有果,故名為法。各各有界畔分齊,故名為界。今就一法界復有十法,所謂如是相性究竟等,十界即有百法,十界相互則有千法,如是等法皆是因緣生法,六道是惑因緣法、四聖是解因緣法。《大經》云「無漏亦有因緣,因滅無明即是三菩提燈。」是諸因緣法即是三諦,「因緣所生法,我說即是空,亦名為假名,亦名中道義」,故明十種法界、三十種世間即是所觀之境也。此境復為二:所謂自、他。他者,謂眾生、佛;自者,即心而具。如《華嚴》云「心如工畫師,造種種五陰,一切世間中,莫不由心造。」
世の中には三つの種類があります。第一に五陰の世間、第二に衆生の世間、第三に国土の世間です。実体のある法(真実の存在)があれば、それに仮に名づけられた人(仮の存在)があり、この実体と仮のものが正しく成り立つとき、そこに依報(環境としての世界)が生じます。そこで、これらを三種の世間と呼ぶのです。
「世」とは、隔たりや違いを意味します。すなわち、十法界(迷いと悟りの十種類の世界)における「世」であり、それは同時に十種類の五陰、十種類の仮の名称、十種類の依報です。それぞれが隔たり、異なっているから「世」というのです。
「間」とは、区切りや違いを意味します。三十種の世間にはそれぞれ区別があり、互いに混ざり合ったり乱れたりすることがないので、「間」というのです。
それぞれの世間には原因があり、それぞれに結果があるので、これを「法」と呼びます。また、それぞれに境界や範囲があるので、これを「界」と呼びます。
さて、一つの法界の中にも、さらに十の法があります。いわゆる、如是相、如是性より如是究竟等に至る十如是です。十の法界にはそれぞれ百の法が存在します。さらに、十の法界が互いに関わり合うと千の法となります。このような法はすべて因縁によって生じたものです。六道(迷いの世界)は惑いの因縁による法であり、四聖(悟りの世界)は悟りの因縁による法です。
『大涅槃経』には、「無漏(煩悩を離れたもの)にも因縁がある。無明が滅する因縁こそが、菩提(悟り)の灯明である」と説かれています。これらの因縁の法は、すべて三諦(三つの真理)そのものです。「因縁によって生じた法、それを私は空と説き、また仮名ともいい、また中道の意味でもある」とある通りです。したがって、十種の法界と三十種の世間を明らかにすることは、まさに観察の対象である境を示すことになります。
この境にはさらに二つの側面があります。すなわち、自己と他者です。他者とは、衆生と仏のことです。自己とは、心そのものにすべてが備わっていることです。『華厳経』に「心は巧みな絵師のように、様々な五陰を造り出す。あらゆる世の中のものは、心によらずして造られるものはない」と説かれている通りです。
問:自、他那得各具十法界?答:觀身實相,觀佛亦然,《華嚴》云「心然佛亦然,心、佛及眾生,是三無差別」,豈不各各具三諦境耶?音者,即十法界口業之機也。界既不同,音亦有異。
問う:自と他のもの、どうしてそれぞれ十法界(じゅうほうかい)を具えているのか。 答え:身の実相を観ることも、仏を観ることも同じである。 『華厳経』には「心がそのまま仏であり、心も仏も衆生も、この三つに差別はない」と説かれている。どうしてそれぞれに三諦(さんたい)の境地をそなえていないことがあろうか。 「音」とは、十法界の衆生が口を通して起こす心の動きのことである。 法界が異なれば、その音にもまた違いがある。
問眾生各有三業,何意但觀音然?通論皆得。常念恭敬,得離三毒,即是觀世音;禮拜供養,所求願滿,即是觀世身。而今但言觀世音者,舊釋此義為六:一趣立者,諸名不可累出,舉一趣以標名,「若稱為觀世身者」已,復還問此言「何意不名觀世音」,此則非問。二隨俗者,釋迦所說以音聲為佛事,故言觀世音,若遊諸國土隨彼所宜。三互舉者,能觀所觀,所觀即眾生色心也,今從能觀故但言觀。能聞所聞,能聞是聖人耳識,所聞是眾生音聲,今取所聞之音聲。舉所聞得能聞,舉能觀得所觀,從此為名故言觀世音。舊問:能所既爾,何不取所觀之色心、能聞之耳識以標名稱,為聞色心菩薩耶?舊答云:菩薩一觀於色心,此是應廣;眾生之一音,此是機狹。若從難者,則機有兩字,應但一字,便是應狹機廣,故不如所難。今更作難,此語應從義理,那得逐字?菩薩以能觀色心,何意不能觀音聲?眾生何意但以聲感色,心不能感耶?若其俱感、俱應,此逐字為觀,則感應齊等,若為判其廣狹?今不作此明,互舉凡聖感應皆通三業,而聖人與意、凡夫與聲,故言觀世音爾。四義攝者,如發聲必先假意,氣觸脣口,其音能出;口業若成,則攝得身意。若觀於口業,亦攝得身意,觀餘不爾,故言義攝。五隱顯者,身雖禮拜、意雖存想,未知歸趣何等?故名隱。若口音宣暢,事義則彰,故名顯。舉顯沒隱,故言觀世音。六難易者,臨危在厄,意則十念難成,身則拜跪遲鈍,口唱為急故成機,從易受名也。又,第六為有緣,觀音昔為凡夫,居茲忍界,見苦發誓;今生西方,多還此土,既有誓緣,急須稱名。今明若如前六義,皆遍有所舉。若依《釋論》其義即圓。何以故?出入息是身行、覺觀是口行、受為心行,心覺觀故尚具三業,何況發音成聲而不備三業耶?但舉一觀即備三應、但舉一音即備三機,而凡情謂聲彊智利,逐物標名;圓義往推,悉皆具足。
お尋ねの趣旨は、「衆生にはそれぞれ身・口・意の三つの業があるのに、なぜ観音菩薩だけを『観音』(音を観ずる)とお呼びになるのか」という点にあります。
結論から申し上げますと、広く論じれば、すべてが観音の功徳に当たります。すなわち、常に観音を念じ敬えば三毒(貪・瞋・痴)から離れられる、これが「観世音」の働きです。また、礼拝し供養すれば願いが満たされる、これは「観世身」の働きです。しかし、あえて「観世音」とのみ称する理由について、古来より六つの解釈が伝えられています。
第一に「趣を立てる」という解釈です。諸々の名をすべて挙げることはできませんので、一つの趣旨を掲げて名とします。「もし『観世身』と呼んだならば」と問うと、また「なぜ『観世音』と呼ばないのか」と問い返すことになり、この問い自体が成り立ちません。
第二に「世俗に従う」という解釈です。釈迦の教えは音声を仏の働きとするため、「観世音」と言います。もし様々な国々を巡るならば、その土地に応じた呼び名となるでしょう。
第三に「互いに挙げる」という解釈です。能観(観る主体)と所観(観られる対象)があり、所観は衆生の色(物質)と心です。今は能観を取って「観」とのみ言います。また、能聞(聞く主体)と所聞(聞かれる対象)があり、能聞は聖者の耳の識、所聞は衆生の音声です。今は所聞の「音声」を取っています。所聞を挙げて能聞を得、能観を挙げて所観を得る、このように名付けて「観世音」とするのです。
古来の問いに「能所がそうであるなら、なぜ所観の色心や能聞の耳の識を取って名とせず、『色心を聞く菩薩』と呼ばないのか」とあります。それに対して古来の答えは「菩薩が色心を観るのは、これは応(仏の働き)が広いことです。衆生の一声は、これは機(衆生の側)が狭いことです。もし難じる方に従えば、機に二字あり、応に一字のみとなり、応が狭く機が広くなり、難じる通りにはなりません」としています。さらに今、改めて問うならば、「この言葉は義理に従うべきで、文字に従うものではありません。菩薩は色心を観ることができて、なぜ音声を観ることができないのでしょうか。また、衆生はどうして音声のみで感じ、色や心では感じることができないのでしょうか。もしすべて感じ、すべて応じるなら、この文字に従った観方は、感応が等しいことになります。どうやって広狭を判別できるのでしょうか」となります。
しかし、今はこうは説明しません。「互いに挙げる」とは、凡夫と聖者の感応はすべて三業に通じています。しかし、聖者は意(心)をもって応じ、凡夫は声をもって感じるのです。だから「観世音」と言うのです。
第四に「義理で摂める」という解釈です。例えば、声を発するには必ずまず心(意)が仮(助け)となり、気が唇や口に触れて音が出ます。口の業が成れば、身と意を摂め込んでいます。もし口の業を観れば、身と意も摂められますが、他の業を観てもそうではないので、「義理で摂める」と言います。
第五に「隠と顕」という解釈です。身は礼拝しても、意は思念しても、どこに帰依して何を願うのか明らかでないため、「隠」と言います。しかし、口で音声を唱えれば、事柄や意味が明らかになるので、「顕」と言います。「顕」を挙げて「隠」を没するため、「観世音」と言います。
第六に「難易」という解釈です。危急の際、心(意)で十念を修めるのは難しく、身で礼拝するのは鈍いのです。口で唱えるのが最も急務となるため、機(衆生の側の条件)が整いやすく、易しい方から名を取るのです。また、第六の解釈として「因縁がある」というものもあります。観音菩薩は昔、凡夫でありながらこの忍界(現実の苦しみの世界)に住み、苦しみを見て誓願を立てました。今、西方浄土に生まれながらも、しばしばこの世界に還って来られます。すでに誓いの因縁があるため、危急の際にはその名を唱えることが急務となるのです。
今、明らかにするならば、上の六つの解釈のように、すべては広く行き渡るものです。もし『大智度論』に従えば、その意味は円満です。なぜならば、出入りの息は身の行いであり、覚え考えることは口の行いであり、受けることは心の行いです。心が覚え考えるのであれば、すでに三業を備えています。ましてや、音声を発して声を成さないことがありましょうか。必ず三業を備えています。ただ、一つの観を挙げれば三つの応を備え、一つの音を挙げれば三つの機を備えます。しかし、凡夫の心は声が強く知恵が鋭いと思い、物に従って名を立てます。円満な意味で推し進めれば、すべてが十分に備わっているのです。
觀音玄義卷上
観音玄義 巻上