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観音義疏 (觀音義疏)

「觀音義疏」について

隋 · 智顗說.灌頂記 著

2.1 万字 · 約 71 分

『観音義疏』は、隋の時代の高僧・智顗が口述し、弟子の灌頂が記録した仏教経典の注釈書であり、6世紀に成立しました。智顗は天台宗の開祖であり、この疏は『法華経』中の「観世音菩薩普門品」を体系的に解釈し、観音信仰の教義と実践を深く分析しています。内容は、観音の名号の由来、慈悲の願力、感応の事跡、修行の法門を網羅し、観音菩薩が衆生の声を聞き苦しみを救う円通の特性を強調しています。天台宗の重要な文献として、この疏は止観の思想と菩薩の行願を融合させ、漢伝仏教における観音信仰の理論体系の形成に基礎を築きました。今日でも、中国仏教の菩薩思想を研究する上で核心的な典籍の一つとされています。


觀音義疏卷上

観音義疏 巻上

隋天台智者大師說 門人灌頂記

隋の天台智者大師が説く 門人灌頂が記す

此文既別出大部,有人亦作三段分文,謂:初問去為序、佛答去為正、持地去為流通。復有云:「經家序者為序,無盡意白佛去為正,持地去為流通。」今師有時亦作三段,有時不作三段名,但分為三章:一、無盡意問,二、佛答,三、持地歎;或為四章,三如前,四者、聞品得益;或作二段,謂前後兩問答也,多種分章隨人意用也。

この経典はすでに「法華経」全体から抜き出されたものであり、ある人は三段に分けて解釈することもあります。すなわち、「無尽意菩薩の問い」を序分、「仏の答え」を正宗分、「持地菩薩の称賛」を通分とします。また「経典を編集した人が置いた序分とするならば、『無尽意菩薩が仏に申し上げる』からが正宗分で、『持地菩薩』以降を通分とする」という見解もあります。 私の師匠(智者大師)は、時にこの三段の区別を用い、時に三段という名称を用いず、単に三章として分けられることもありました。すなわち、一・無尽意の問い、二・仏の答え、三・持地の称賛。または四章とし、三章は同様に、四つ目として「聞法して利益を得たこと」を加えることもあります。また二段とし、「前の問答と後の問答」と見なすこともあります。 このように、章の分け方にはいくつもの方法があり、人の意のままに用いてよいのです。

若作問答分章,則有兩問答,初問答明觀音、樹王冥益等義,後問答明普門、珠王顯益等義。就前問答為二:一、問,二、答。就問為四:一、時節,二、標人,三、敬儀,四、正問。

問答を章に分けると、二つの問答がある。最初の問答は、観音と樹王の冥益(目に見えない功徳)などの意味を明らかにする。後の問答は、普門と珠王の顕益(はっきりと現れた功徳)などの意味を明らかにする。

最初の問答を二つに分ける。 一つは問い、二つは答えである。

問いを四つに分ける。 一、時節 二、人物の提示 三、敬う作法 四、正式な問い

一、爾時者,爾言即也,即是說東方妙音弘經已訖,次說西方觀音弘經之時,故言爾時。或可大眾已聞妙音弘經,歡喜已竟,宜聞觀音,發心生善之時,故言爾時。或可時眾疑於妙音,若為利益,上來說法,破眾疑情已竟,時眾有疑觀音之德,正破此疑之時,故言爾時。或可時眾機在妙音聞即得道,如二土菩薩得道已竟,八萬四千悟理之時須聞觀音,故言爾時。諸佛如來不空說法,有四悉檀因緣爾乃為說,正是敷演四悉檀時,故言爾時也。

「爾時」というのは、つまり、東方の妙音菩薩が経典を弘め終えた直後、次に西方の観音菩薩が経典を弘める時を指して「爾時」と言います。あるいは、大衆がすでに妙音菩薩の弘経を聞いて喜び終え、次に観音菩薩の教えを聞いて善い心を起こすのにふさわしい時であるから「爾時」と言います。あるいは、その時の大衆は妙音菩薩に対して疑問を抱いていましたが、その利益とは何かを説法によって疑いが打ち破られ終えた時、今度は観音菩薩の徳についての疑問を正に打ち破る時であるから「爾時」と言います。あるいは、その時の大衆の機根は妙音菩薩の教えを聞いてすぐに悟りを得るもので、例えば二土の菩薩が悟りを得終え、八万四千の者が真理を悟った後に観音菩薩の教えを聞く必要があったため「爾時」と言います。諸仏・如来は無意味に説法することはなく、四悉檀の因縁によって初めて説かれますが、まさにこの四悉檀を説き示す時であるから「爾時」と言うのです。

二、標人者,即是無盡意也。名無盡者,非盡、非無盡,為對小乘名盡,故言無盡。小乘明盡為對盡智、無生智滅色取空之盡,故名無盡也。又,云何無盡?所謂空不可盡、假不可盡、中不可盡,故言無盡。《大品經》云:「即色是空,非色滅空。」空故無盡也。

二、「人」を示すとは、すなわち無尽意菩薩のことです。「無尽」という名は、「尽きる」でも「尽きない」でもありません。小乗に対して「尽きる」と呼ぶため、あえて「無尽」と言うのです。小乗が説く「尽きる」とは、尽智・無生智によって色を滅し空を取るという意味での「尽き」であり、それに対して「無尽」と名付けられています。

また、なぜ「無尽」というのでしょうか。それは、空も尽きることなく、仮も尽きることなく、中も尽きることがないからです。故に「無尽」と言います。『大品経』にはこうあります。「色そのものが空であり、色を滅してから空になるのではない」。空であるからこそ、無限なのです。

又,《大集經》釋無盡意:「東方過十恒沙國微塵世界,國名不眴,佛號普賢,純諸菩薩,無二乘名,但修念佛三昧,不滅、不生、不出,心行平等,猶如虛空,是為念佛。即見佛時,即具六波羅蜜,得無生忍,所謂:不取色即檀、除色相即尸、觀色盡即羼提、觀色寂滅即毘黎耶、不行色即禪、不戲論色即般若也。身子問:『誰為汝作字,名無盡意?』答曰:『一切諸法因緣果報無盡,一切諸法不可盡,初發無上菩提心已不可盡,譬如虛空不可窮盡,為一切智發菩提心,豈可盡乎?諸佛戒定慧解脫、解脫知見、十力、無畏等無盡,因如是等發心故不可盡。眾生性無盡、教化眾生無盡、知一切法性無盡故無盡,是名菩薩發心無盡。又,檀波羅蜜無盡,乃至方便無盡,凡八十無盡,八十無盡悉能含受一切佛法,從是得名,名無盡意也。』」又,《淨名》云:「何謂為盡?謂不盡有為。何謂無盡?不住無為。」《華嚴》有十無盡法門,如此等經皆就假名分別一切諸法因緣果報,以明無盡意。

また『大集経』に、無尽意菩薩についての解説がある。 「東方、十恒河沙の塵ほどの世界を過ぎたところに、不眴という国がある。そこに仏の普賢がおわします。菩薩ばかりで、声聞や縁覚の名はなく、ただ念仏三昧を修行する。不生・不滅・不出であり、心の行いは平等で、虚空のようである。これを念仏という。仏を見るとき、すなわち六波羅蜜を具え、無生法忍を得る。すなわち、色を受け取らないのが布施、色の相を除くのが持戒、色が尽きるのを見るのが忍辱、色の寂滅を見るのが精進、色に行じないのが禅定、色について戯論しないのが般若である。」

舎利弗が問うた。「だれがあなたに『無尽意』という名をつけたのですか。」 無尽意菩薩が答えた。「すべての諸法の因縁果報は尽きることがない。すべての諸法は尽くすことができない。初めて無上菩提心を発してからも、それは尽きることがない。たとえば虚空が尽きることのないように。一切智のために菩提心を発する。どうして尽きることがあろうか。諸仏の戒・定・慧・解脱・解脱知見・十力・無所畏などは尽きることがない。これらのゆえに心を発して、尽きることがないのである。衆生の性は尽きることがなく、衆生を教化することも尽きることがなく、すべての法の性が尽きないことを知るゆえに尽きることがない。これを菩薩の心の発し方が尽きないという。また、檀波羅蜜も尽きることがなく、方便も尽きることがない。全部で八十の無尽がある。この八十の無尽がすべての仏法を含み受けることができる。ここから名を得て、無尽意というのである。」

また『浄名経』にはこうある。「尽きるとは何か。有為を尽くさないことである。無尽とは何か。無為に住しないことである。」 『華厳経』には十無尽法門がある。これらの経典は、みな仮名によって一切の諸法の因縁果報を分別し、無尽意の意味を明らかにしているのである。

又如《勝鬘經》云:「如來色無盡,智慧亦復然,一切法常住。」又,《大品經》云:「一切法趣意,是趣不過。」意為法界,意則非盡、非無盡。如是無盡,例如非常、非無常,是乃為常。又,《淨名》云:「法若盡、若不盡,皆是無盡相。無盡相即是空,空則無有盡與不盡,故知非盡、非無盡是真無盡義。」又,《大品經》云:「癡如虛空不可盡,乃至老、死如虛空不可盡,色不可盡,乃至識不可盡。」如此等經皆約中道之理以名無盡,通達空假中三諦之法不可盡,故名無盡意菩薩,亦名無盡心智識、色、受、想、行等義,不可說不可說,不能具載。

また『勝鬘経』にはこう説かれています。「如来の色身は尽きることがなく、智慧もまた同様に尽きることがない。一切の法は常住である」。また『大品経』にはこうあります。「一切の法は意に趣くものであり、その趣く先は超えられるものではない」。意とは法界のことであり、意は尽きるものでも尽きないものでもない。このように尽きることがないとは、例えば「常」でも「無常」でもないことが「常」であるのと同じです。また『維摩経』(浄名経)にはこうあります。「法が尽きるにせよ尽きないにせよ、いずれも尽きることのない相である。尽きることのない相とはすなわち空であり、空には尽きることも尽きないこともない。したがって、尽きるのでも尽きないのでもないことが真の無尽の義であると知るべきである」。さらに『大品経』にはこうあります。「無明は虚空のように尽きることがなく、同様に老・死も虚空のように尽きることがない。色も尽きることがなく、識も尽きることがない」。このような経典はすべて中道の理に基づいて無尽と名づけており、空・仮・中という三諦の法に通達する性質は尽きることがない。ゆえに無尽意菩薩と名づけられ、また無尽の心・智慧・識・色・受・想・行などの意味についても、説き尽くすことはできず、詳細に書き記すこともできない。

菩薩者,外國云摩訶菩提質多薩埵,此云大道心眾生。始心行者為煩惱所生、二乘為五分法身所生、六度菩薩為福德所生、別圓為中道所生,故《大品》云:「如來身者,不從一因一緣生如來身。」菩薩為眾行生,故言眾生發心求佛,故言為大道利益一切,以法道成他,或言成眾生,廣釋菩薩義如別記。

菩薩とは、外国で「摩訶菩提質多薩埵」と言い、この国では「大道心の衆生」と訳します。 修行を始めたばかりの菩薩は、煩悩によって生まれ、声聞・縁覚(二乗)は五分法身によって生まれ、六度の菩薩は福徳によって生まれます。別教や円教の菩薩は中道によって生まれるのです。だから『大品般若経』には、 「如来の身は、ただ一つの原因や一つの縁によって生まれたのではない」 と説かれています。 菩薩は多くの修行によって生まれるので、「衆生」と言います。 心を発して仏を求めるので、「道」を「大」とし、 すべての衆生を利益するので、「利益一切」と言います。 また、仏の教えで他者を成就させることから「法道成他」、 あるいは衆生を成就させることから「成衆生」とも言います。 菩薩の意味を広く詳しく説くことは、別の記録の通りです。

三、敬儀者,為三:一、起,二、袒,三、合掌。起者,《禮》云,請益起、請業起,菩薩於佛備其二儀,故言起也。觀釋者,菩薩常修遠離行故言起,亦是契諸法空,空即是座,於此空無所染著,故言起也。又,菩薩安住空理,理本無起,愍眾生故,乘機利益故言起。又,中道之寂,非起、非不起,而能起、能不起。無起之起,起即實相,亦起眾生實相,故言起也。

三、敬儀とは、三つのことを指す。一に起、二に袒、三に合掌である。「起」について、『礼記』に「教えを請う時は立ち、業を請う時は立つ」とある。菩薩は仏に対してこの二つの礼儀を尽くすため、「起」という。観じて解釈すれば、菩薩は常に遠離行を修するから「起」というのであり、また諸法の空に契い、空こそが座である。この空に何ら染著しないから「起」という。また、菩薩は空の理に安住し、理は本来「起」ではないが、衆生を哀れみ、機に乗じて利益するから「起」という。また、中道の寂は、「起」でもなく「不起」でもなく、しかも「起」もでき「不起」もできる。「起」なき「起」、すなわち「起」は実相である。また衆生の実相を「起」させるから、「起」というのである。

偏袒右肩者,外國以袒為敬。露右者,示執奉為便,表弟子事師充役之儀,是故以袒為恭也。此方以袒為慢,然古有須賈肉袒謝於張儀,露兩髀也,此方亦不一向是慢也。觀解者,覆露表空、假二諦,又表權實,實不可說,如覆左表有冥益;權於化便,如露右表有顯益也。

右肩を出すことについて、外国では肌を露わにすることが敬意を表す作法とされています。右肩を出すのは、供奉の際に動きやすくするためであり、弟子が師に仕え、その役目を果たす際の儀礼を示しています。そのため、肩を出すことが恭謙のしるしとされるのです。

一方、この国(中国)では、肌を露わにすることは無礼とみなされます。しかし、古くは須賈が張儀に対して、自ら肌を露わにして謝罪した例があり、その際には両方の腿を露出しました。このことからも、必ずしも肌を出すことが全て無礼であるとは言えません。

観解(観智による解釈)としては、覆うことと露わにすることは、空諦と仮諦の二諦を表し、また権(仮の教え)と実(真実の教え)を表します。実の教えは言葉で表し得ないものであり、左肩を覆うことは、それが内密に利益をもたらすことを示します。権の教えは教化の手段として適切であり、右肩を露わにすることは、それが顕著に利益をもたらすことを示しているのです。

合掌者,此方以拱手為恭,外國合掌為敬。手本二邊,今合為一,表不敢散誕,專至一心,一心相當,故以此表敬也。觀解者,昔權實不合而今得合。又,五指表陰。《仁王經》云:「法性,色、受、想、行、識。」此即實智真身亦有五陰也,應化因緣亦有五陰也,眾生性德之理亦有五陰也,眾生生死果報亦有五陰也。聖人為化眾生,示有應身五陰,是則權實陰殊。若眾生法性理顯,聖人亦息化歸真。權實不二,合掌表於返本還源,入非權、非實,事理契合,故合掌也。

合掌とは、この国では両手を合わせるのが敬いの形ですが、外国でも合掌が敬意の表れです。手というものは元々二つに分かれていますが、今これを一つに合わせることで、心を散らさず一つのことに専念する様子を表しています。心を一つにすることに相当するため、この形で敬意を示すのです。

道理として解き明かすなら、かつては方便の教えと真実の教えは一つになりませんでしたが、今はそれが一つになったことを示しています。また、五本の指は五蘊を表しています。『仁王経』には「法性とは、色・受・想・行・識である」とあります。つまり、真実の智慧を持つ真身にも五蘊があり、応現・教化のための因縁にも五蘊があり、衆生の本来的な性徳の理にも五蘊があり、衆生の生死という果報にも五蘊があるのです。

聖者は衆生を教化するために、応現した身に五蘊を備えていることを示します。これは方便と真実とで五蘊に違いがあることを意味します。しかし、もし衆生が法性の理を顕現させれば、聖者も教化をやめて真実へと帰っていきます。つまり、方便と真実は不二であり、この合掌は、本来の根源へと帰り、方便でも真実でもない、事と理が一つに合わさった境地に入ることを表しているのです。

向佛者,表萬善之因向萬德之果也,亦是行人分證權實合,向於究竟權實合,故言向佛也。

仏に向かうとは、あらゆる善い行いの原因(因)が、ありとあらゆる完全な徳の結果(果)へと向かうことを表します。また、修行者が、仮の教えと真実の教えを部分に分けて証得することを、完全な仮と真実の一致へと向け合わせることでもあり、そのため「仏に向かう」と言うのです。

四、發問者,此下有兩番問答,初番問觀世音,後番問普門。前問為三:一、稱歎,二、標所問人,三、正問。《大經》云:「汝具二莊嚴能問是義,我具二莊嚴能答是義。」今無盡意具二莊嚴,欲顯觀音二種莊嚴,諮發如來;如來究竟具二莊嚴,當答此義。《釋論》云:「問有多種,不解問、試問、赴機問,今無盡意即是赴機問也。」世尊者,即是稱歎尊號,十號具出。《釋論》:「用彼釋此觀世音菩薩,即是標所問之人也。」具如前釋。

第四に、問いを発する者について。ここには二つの問答がある。最初の問答は観世音について、後の問答は普門についてである。前の問答は三つに分かれる。一に、称賛すること、二に、問いの対象となる人を示すこと、三に、正式な問いを発することである。

『大経』にはこうある。「汝は二つの荘厳を備えて、この義を問うことができる。我もまた二つの荘厳を備えて、この義に答えることができる。」今、無尽意菩薩は二つの荘厳を備え、観音菩薩の二つの荘厳を明らかにしようとして、如来に問いかけ、発したのである。如来は究竟の二つの荘厳を備えておられるので、この義に答えられるのである。

『釈論』にはこうある。「問いには多くの種類がある。理解しないための問い、試すための問い、機に赴くための問いがある。今の無尽意菩薩の問いは、機に赴くための問いである。」

「世尊」とは、すなわち尊号を称賛したものであり、十号はすべて示されている。『釈論』では、これを用いてあの「観世音菩薩」を解釈しているが、これは問いの対象となる人を示したものである。詳しくは前に解釈した通りである。

何因緣者,因緣甚多,略言境智因緣。若就眾生,則以善、惡兩機為因,聖人靈智慈悲為緣;若就聖人,觀智慈悲為因,眾生機感為緣。以是因緣,名觀世音,如上釋也。

「因縁とは何か」といえば、因縁には実に多くの種類がありますが、簡潔に言えば、境(対象)と智(智慧)の因縁です。衆生の側から見れば、善の心と悪の心という二つの働きが「因」であり、聖者の霊妙な智慧と慈悲が「縁」となります。また、聖者の側から見れば、観察する智慧と慈悲が「因」であり、衆生の心の働きや感じる力が「縁」となります。こうした因縁によって「観世音」と名づけられたのです。以上が、先に述べた解釈の通りです。

第二、佛答,即為三:初總答,次別答,三、勸持。

第二に、仏の回答は三つに分かれています。最初に全体を答え、次に個別に答え、最後に実践を勧めています。

就初總答為二:一、明機,二、明應。就機為四:一、標人數,二、遭苦,三、聞名,四、稱號。

まず初めに全体をまとめると、二つのことがあります。一、教えを受ける人々の側面、二、それに応じる仏の側面です。さらに、教えを受ける人々の側面には四つの段階があります。一、その人々の数を示す、二、苦しみに遭う、三、仏の名を聞く、四、その名を唱える。

數者,十法界機實自無量,而言百千萬億者,此乃通途商略。

「数」というのは、十法界の機縁が実際には無量であることを指します。それにもかかわらず、百千万億と表現するのは、これは一般論としておおまかに述べたものです。

業同者,如一地獄界大略是同,其間優降復有何量?如一獄復有百千萬億品格之殊,一一品格復有百千萬億罪人,是罪業正同,所以同受一品罪苦,將此意廣歷餓鬼、畜生、修羅、人、天皆亦如是,故知此數是標同業之意也。所以舉多數者,明百千萬億種業遭苦稱名,一時有機,一時能應,皆得解脫,何況一人、一業、一機獨來而不能救?此舉境、眾、機多,以顯觀深應大也。

業が同じであるとは、例えば地獄界の大まかなあり方はおおむね同じであるが、その中での優劣や差別はどれほどあるだろうか。例えば一つの地獄にも百千万億の種類の違いがあり、その一つ一つの種類ごとにまた百千万億の罪人がいる。彼らの罪の業がまさに同じであるから、同じ種類の罪の苦しみを受けるのである。この考えを広く餓鬼・畜生・修羅・人・天に当てはめても、皆これと同じである。よって、この「多数」という語は、同じ業の意味を示しているのである。なぜ多数を挙げたのかといえば、百千万億の種類の業があっても、苦しみの中で名号を唱えれば、一度に機が熟し、一度に応じることができ、すべてが解脱を得られることを明らかにするためである。ましてや、一人・一業・一機だけが来て救われないことがあろうか。これは境・衆・機の多さを挙げて、観の深さと応の大きさを顕かにしているのである。

二、明遭苦者,即是受諸苦惱也。此語成上義,上百千是業同,此言諸苦惱。一苦惱是一業者,凡有百千萬億,故知有諸百千萬億。上明數同,下明業別。用此意歷十法界萬機之徒,不可說不可說也。今言受苦惱者,正是現遭苦厄也,此苦由於結業果多,故因亦多。此即總答,文略而意廣,遍該十界不止人道而已;後別答中文廣而意狹,別舉人間七難而已,故此處總答也。

二、苦しみに遭うとは、すなわち様々な苦しみや悩みを受けることである。この言葉は先の意味を明確にする。先に「百千」とあるのは業が同じであることを示し、ここで「諸の苦悩」と言うのは、一つの苦悩が一つの業に対応することを示す。およそ百千万億の苦悩があるなら、それに対応して百千万億の業があると知るべきである。先に述べたのは数の同じことを明らかにし、後に述べるのは業の異なることを明らかにする。この意味を十法界のあらゆる衆生に当てはめれば、その数は計り知れないほどである。ここで「苦悩を受ける」と言うのは、まさに現在苦しみや災いに遭っていることを指す。この苦しみは、過去の行いによる結果が多く、その原因もまた多いことによる。これが総答であり、文字は簡潔だが意味は広く、十法界のすべてに及んで、人道のみに限らない。後に続く別答は文章は広いが意味は狭く、特に人間世界の七難を挙げている。よってここは総答である。

三、聞名者,上明遭苦,次明生善。善惡合為機,此即明文聞有四義,如別記。若能如是通達四種聞義即聞慧,心無所依、無住、無著即是思慧,一心稱名即修慧,此文雖窄,三慧意顯。

三、名を聞くということについて、まず苦しみに遭うことを明かし、次に善を生じることを明かします。善と悪とを合わせて機とします。これは、名を聞くことに四つの義があることを明らかにしたもので、別記の通りです。このように四種の「聞く」義に通達すれば、それが聞慧です。心が何にも依らず、住せず、執着しないこと、それが思慧です。一心に名を称えること、それが修慧です。この文は狭い範囲ではありますが、三慧の意味は明らかに示されています。

四、稱名者,稱名有二:一、事,二、理。若用心存念,念念相續,餘心不間,故名一心;或可如《請觀音》中繫念數息,十息不亂名一念;或可無量息不雜異想,心想雖長,亦名一心;一心歸憑,更無二意,故名事一心也。稱名者,或可略稱如此文,或廣稱如下文。

四、念仏の称名には二種類あります。一つは「事」、もう一つは「理」です。心を込めて念じ、念念と絶え間なく続け、他の思いが入り込まないことを「一心」といいます。あるいは『請観音経』にあるように、心を集中して息を数え、十回の呼吸の間、乱れがないことを「一念」といいます。また、無数の呼吸の間、雑念が交じらず、心が長く続いても乱れがなければ、これも「一心」です。一心に阿弥陀仏に帰依し、二心がないこと、これを「事の一心」といいます。称名には、短くこの文のように唱える省略した方法もあれば、長く後述するように唱える広い方法もあります。

南無者,歸命之辭,皆是事一心稱名也。理一心者,達此心,自、他、共、無因不可得,無心、無念,空慧相應。此乃無一亦無心,知聲相空,呼響不實,能稱、所稱皆不可得,是名無稱,是為理一心稱名也。

南無とは、全てを仏に委ねるという意味の言葉です。これらはいずれも、事に徹した一心で名号を唱えることです。一方、理に徹した一心とは、この心において、自分、他人、双方、そして無因なものもすべて実体として捉えられず、心もなく、念もなく、空の智慧と調和する境地を指します。これは、「一」さえもなく、心さえもないと知り、声の相が空であり、呼びかけの響きが実体ではないと悟り、唱える主体も、唱えられる対象も捉えられないことです。これを「無称」と言い、これが理に徹した一心で名号を唱えることなのです。

二、應者,先明應,次明解脫。應有多種:三教之應,應不一時;圓教觀音一時圓應眾機,厄急應速。一時聞即稱是機速,稱即應是應速,皆得解脫者即是蒙應利益也。皆者,非但顯於多機眾益,亦是顯於圓遍之應也,或時為機速、應速、平等利益速。貼文。

二、応について まず「応」を明らかにし、次に「解脱」を明らかにする。応には様々な種類がある。三教における応は、一度にすべてに応じるわけではない。しかし、円教における観音は、一度にすべての機根に円満に応じる。苦難が差し迫っている時には、応じるのも速い。 その時に聞いて唱えることが、機根の速さであり、唱えればすぐに応じるのが応の速さである。そして、すべてが解脱を得るというのは、応による利益を受けることである。 「皆」とは、多くの機根に多くの利益があることを示すだけでなく、円満で遍く行き渡る応を示している。時には、機根の速さ、応の速さ、平等な利益の速さもある。 本文に即して述べる。

問:十法界眾生無量,機既無量,云何一時令得解脫?

問う:十法界の生きとし生けるものは無数であり、その機根もまた無数であるのに、どうして一時にすべてを解脱させることができるのでしょうか?

答:譬如父母,念子心重,多智多才,具大勢力,眾子在難即能俱拔之。菩薩亦如是,無緣慈悲重、權實二智深,聖財無量神通力大,十界雖多,應有餘裕。《安樂行》云:「忍辱大力智慧寶藏,以大慈悲如法化世。」即此意也。又如毒龍罪報,尚能以一眼遍視一切,視之皆死,何況菩薩種智圓明耶?又如礠石,亦類明鏡。又是入王三昧力,一時十番利益一切,此義具在《大本玄義》。

例えば、父母が子どもを深く想い、優れた智慧と才能、大きな力を持つならば、多くの子どもたちが困難にあっても、すべてを同時に救うことができる。菩薩もまた同じである。無縁の慈悲は深く、権仮と実相の二つの智慧は奥深く、聖なる財宝は無量で、神通力は偉大である。したがって、十界(すべての世界)の衆生が多くとも、余裕をもって救うことができるのである。

『安楽行品』には「忍辱の大力と智慧の宝蔵をもって、大いなる慈悲により法のままに世を教化する」とあるが、まさにこの意味である。

また、毒龍の罪報ですら、その一つの眼で一切を見渡し、見られたものはすべて死んでしまうという。ましてや、菩薩の一切種智が円満に輝く力は、どれほどであろうか。

さらに、これは磁石や明鏡にもたとえられる。

そしてまた、これは王の三昧に入る力によって、一時に十種の利益を一切の衆生にもたらすことである。この義は『大本玄義』に詳しい。

問:一心稱名,皆得解脫,今見稱唱,累年不蒙寸斆,何也?

問い:一心に名を唱えれば、皆、解脱を得られるはずなのに、今、見る所、長年にわたって唱えても、少しの効き目も得られないのは、なぜでしょうか。

答:經云:「一心稱名,有事一理一,二途無取,可能感聖。」譬如臨鏡背視、對谷閉口,何能致影響耶?

答え。経典にはこうある。「一心に名を称するには、事上の一心と理上の一心がある。この二つの道に執着がなければ、聖者に感応できる」と。例えば、鏡に向かいながら背を向けたり、谷に向かって口を閉じていて、どうして影や反響を得られようか。

第二、別答,為三:一、口機感應,二、意機感應,三、身機感應。就口機為二:初明七難,次結口機。有人云:「次第三機者,口顯居前,音成由意,意識成身也。」通論口機亦脫三種苦:但先除果苦,次除苦因,次滿願與樂。

第二に、別の答えとして三つに分ける。一、口による機の感応、二、意による機の感応、三、身による機の感応。口による機をさらに二つに分ける。初めに七つの難を明かし、次に口による機をまとめる。ある人が言う。「次第に三つの機について述べる時、口の働きが先に現れ、音声は意によって成り立ち、意識が身を成すのである。」一般に、口による機は三種の苦しみを取り除く。すなわち、まず果報の苦しみを除き、次に苦しみの原因を除き、次に願いを満たし楽しみを与える。

問:此中明拔苦,那忽與樂?

質問:ここで苦しみを取り除くことが明らかにされているのに、どうして楽しみを与えることになるのでしょうか?

答:少分與樂,欲引接之也。

答え:わずかな楽しみを与えて、彼らを導き引き寄せようとするのである。

問:何意不與其樂因?

問:なぜ意は楽の因を与えないのか?

答:因非引接故不與。又,其文在後,為說法是與樂因。

答え:教えに導くためのものではないから、与えないのです。 また、その後の文句は、説法をするために喜びの因を与えるということです。

問:悲門既少分與樂,慈門應少分拔苦。

問:悲の門がすでに楽を少し与えるなら、慈の門は苦を少し取り除くべきでしょうか。

答:前悲全拔苦已竟,後但與樂,無苦可拔,何論少分?有人解七難為兩雙一隻,火、水無識為一雙,鬼非類為一隻,王、賤是類為一雙,鬼開去、來,王論輕、重,故成七難也。

答え:まず「悲」によって全ての苦しみが完全に取り除かれました。その後はただ楽を与えるだけで、もはや取り除くべき苦しみはなく、わずかな苦しみを論じることもありません。ある人は七つの難について、二組と一つに分けて解釈しています。火と水は意識のないもの同士で一組、鬼は人間以外の生き物で一つ、王と賤しい者は人間同士で一組とします。さらに鬼には来ると去るがあり、王には軽い重いがあると論じることで、七つの難が成立するのです。

次第者,火水無識,為難則重;鬼雖有識,非類為次;王賊有識,是類故輕。然鬼王相間,初以鬼比王,王輕則鬼重;又以王比鬼,王重鬼輕。此二相似,故間出。有師以風足為八難,有人彈之,文云:「稱名皆得解脫羅剎之難。」不道風為難,今明聖人赴機,何必如此情卜次第?何必不次第?今不同前者,此本明赴機拔苦,那得更以與樂間之?

次第について言えば、火や水には意識がないため、それらが障害となる場合は重いとされる。鬼には意識があるが、人間とは類が異なるため、次に置かれる。王や賊には意識があり、人間と同じ類であるため、軽いとされる。

しかし、鬼と王を比べる場合、初めに鬼を王と比較すれば、王が軽く鬼が重くなる。また、王を鬼と比較すれば、王が重く鬼が軽くなる。この二つは似ているため、交互に出されるのである。

ある師は、風を加えて八難としているが、これを批判する人もいる。経典には「名を称えれば皆、羅刹の難から解脱する」とあり、風を難とは述べていない。今、聖者は機に応じて赴くのであり、どうしてこのように憶測で次第を決める必要があろうか?また、どうして次第を決めなくてはならないのであろうか?

今、私は前者の見解とは異なる。ここでの本義は、機に応じて苦しみを取り除くことにある。それなのに、どうしてさらに楽を与えることを混ぜ込むことができようか?

今言次第者,先入國隨俗,赴口機為初,意冥身顯以為次也。若尋經意,一時觀其音聲皆得解脫,經不云次第觀機,那可作次第釋耶?他既作七難次第,今還復作對之耳。入火即有焦身絕命之憂,最為卒重,故居初。水漂沈浮,小緩於火。羅剎雖暴,如經云:「有五百羅剎女,妻五百飄人,生子受樂,時節猶長,然後頓食。」此復緩於水。王難非即得即戮,研罪虛實,實刑虛赦,不同於鬼一概併食,故復次羅剎也。鬼來取者,無的所取,衰乃逢害,逃脫可免,不同王法定判死生,故復次王難也。枷鎖節身,不慮失命,但有禁固之苦,小緩於鬼。怨賊覓寶,輸寶即畢,若能卑辭,善巧方便即可免脫。此一往次第爾,至如兇賊忽發與火燒何異?

さて、ここで言う「次第」について説明します。まず、人はその国に入れば風俗に従い、相手の機根に合わせて語ることが基本です。そして、心が深く冥合し、身に現れた行いが次の段階となります。

経典の意図を追求すれば、一度にその声を聞いて皆が解脱を得ると説かれています。経典には「機根を見て次第に説く」とは記されていません。それなのに、どうして次第に解釈できるでしょうか?

先人が七つの難に対して次第を立てたので、今もそれに対応して順序を論じます。火の中に入れば、身を焼かれ命を絶つ憂いが最も急で重大ですから、最初に置かれます。水に漂い浮き沈みするのは、火よりは少し緩やかです。

羅刹は暴虐ですが、経典に「五百人の羅刹女が五百人の漂流者を配偶者とし、子を産み楽しみ、時はかなり長く続き、その後で一度に食べる」とあるように、水よりもさらに緩やかです。

王の難は、捕らえられれば即座に殺されるとは限らず、罪の有無を尋ねられ、実罪なら刑、虚偽なら赦されます。鬼のように一律に食べ尽くされるのとは異なるため、羅刹の次に置かれます。

鬼が来て取るのは、特定の対象が定まっているわけではなく、衰えに遭う時に害されるので、逃げれば免れることができます。王の法が生死を定めるのとは異なるため、王難の次とします。

枷鎖は体を縛るもので、命を失う心配はなく、ただ拘束の苦しみがあるだけなので、鬼よりは緩やかです。

怨敵が宝を求めて来た場合、宝を渡せば済みます。もしも丁寧な言葉を用い、巧みな方便を使えば免れることもできます。

以上が一貫した次第の説明です。しかし、凶悪な賊が突然襲ってくる場合は、火災に見舞われるのと何ら変わるところはありません。

問:諸難眾多,何意取七耶?

問う:多くの災難があるのに、なぜ七つだけを取り上げるのですか?

答:此有所表,人以六種成身,還以六種自害。如人共七難同住,復以七為難,今通用七難等來表六種也。火、水、風即表身內三種也,刀、杖、枷鎖表地種也,鬼、賊、王等表識種也,三千大千世界表空種也。云何空得為難?如人身有內空,四大圍之,識於中住,何異大千界圍,地、水、火、風,王、鬼、賊等於中住耶?空為難者,空是來難之由。如身體堅實,外病不侵;身若虛疎,眾疾逼惱。又如人家,宅無垣牆,盜賊則進,能來難故,空亦成難。識種是難者,心識耶計橫起愛見,毀滅法身慧命。如王、鬼、賊劫奪財寶,斷傷壽命,故識種是難。所以不多取者,正應表此,假令多舉諸難亦是表此。一、火難為四:一、持名即是善為機,二、遭苦即是惡為機,三、應,四、結。

答え:これは意味を示している。人は六つの要素によって身体を構成し、同じ六つの要素によって自らを害する。例えば人が七つの災難と共に住み、また七つをもって災難とするように、今は七つの災難などを用いて六つの要素を表している。火・水・風は身体の中の三つの要素を表し、刀・杖・枷・鎖は地の要素を表し、鬼・賊・王などは識の要素を表し、三千大千世界は空の要素を表す。どうして空が災難となり得るのか?例えば人の身体に内なる空があり、四大がこれを囲み、識がその中に住む。これが大千世界に囲まれ、地・水・火・風や王・鬼・賊などがその中に住むのと何の違いがあろうか?空が災難となるのは、空が災難が来る原因だからである。例えば身体が堅固であれば外の病は侵さないが、身体が虚ろで粗であれば多くの病が迫り悩ます。また例えば家に塀がなければ、盗賊が入り込む。災難を来たす原因となるから、空もまた災難となる。識の要素が災難となるのは、心識が誤って執着し、愛着や見解を勝手に起こし、法身や智慧の命を滅ぼし壊すからである。王・鬼・賊が財宝を奪い、寿命を断ち傷つけるように、識の要素もまた災難なのである。多くを取らないのは、まさにこれを表すためであり、仮に多くの災難を挙げても、やはりこれを表すのである。 一、火難は四つに分けられる。一、名号を保つことは善が機となること、二、苦しみに遭うことは悪が機となること、三、応じること、四、結ぶことである。

上總云受諸苦惱,未判其相,今別答,故舉水、火等也。釋諸難,例為三意:一、貼文,二、舉事證,三、觀行解釋。

総じて言えば「諸々の苦しみや悩みを受ける」とはありますが、その具体的な様相は明らかにされていません。そこで今、個別に答えるために、水や火などの例を挙げるのです。諸々の難(困難)を解き明かすには、大きく三つの意味合いがあります。第一に経文に即して説明すること、第二に実際の事例を挙げて証拠とすること、第三に観行(実践的な瞑想や修行)を通して解釈することです。

貼文者,持者,口為誦持、心為秉持,秉持為理不失,雖非口持,覺觀亦得是口行,故通屬口業機攝。若有、設有、復有,皆是不定挑脫之辭也,餘皆難起方稱名。此中前持名而遭難,此或是前後互出爾。今為火難卒暴,須預憶持,憶持必無此難。設脫有者,皆是放捨所持、背善從惡,稱之為設。如慈童女因緣,若能至意修孝,不遭火輪;違母絕髮,受地獄苦。此是秉孝不純,廣出因緣云云。行人持名本不應遭難,緣差忽忘,設入大火,若能憶先所持,即得免難。火難既重,機亦須深,故先持後脫,其義可見。威神力,是結火難也。

唱える者、保つ者。口で唱えることを「誦持」、心で保つことを「秉持」という。理を失わずに保つのが秉持である。口で唱えていなくても、心で観ずることも口の働きであるため、総じて口の業としての機根に含まれる。 「若有」「設有」「復有」はすべて、不特定で抜き出して述べる言葉である。その他は、すべて難難が起こってはじめて名号を称えるものである。 ここでは、まず名号を保っていて災難に遭う場合がある。これは前後の文脈で互いに示し合っているのである。 今、火難は突然に襲ってくるものであるから、あらかじめ心に憶念し保つことが必要である。憶念し保つ者は必ずこの災難に遭わない。 もし仮に災難に遭う者がいれば、それはすべて保つことを捨て、善に背き悪に従った者である。これを「設」という。 例えば、慈童女の因縁の話において、真心を尽くして孝行を修めれば火輪の災難に遭わなかったが、母の教えに背いて髪を切ったために地獄の苦しみを受けた。これは孝行の心が純粋ではなかった例であり、因縁の話は詳しく述べられている。 修行者が名号を保つならば、本来災難に遭うべきではない。しかし因縁が違って、忽ち忘れてしまい、仮に大火の中に入ったとしても、以前に保っていたことを憶い起こすことができれば、災難を免れることができる。 火難は非常に重いものであるから、機根もまた深くなければならない。そのため、まず名号を保ってから災難から脱するという、その意味が明らかである。 「威神力」とは、火難についての結びの言葉である。

次約證者,晉世謝敷作《觀世音應驗傳》,齊陸杲又續之,其傳云:「竺長舒,晉元康年中於洛陽為延火所及,草屋下風,豈有免理?一心稱名,風迴火轉隣舍而滅。鄉里淺見,謂為自爾。因風燥日,擲火燒之,三擲三滅,即叩頭懺謝。法力於魯郡起精舍,於上谷乞得一車麻,於空野遇火,法力疲極小臥,比覺火勢已及,因舉聲稱觀,未得稱世音,應聲火滅。又,法智遇野火,頭面作禮,至心稱名,餘處皆燒,智容身所無損。」又,吳興郡吏,此皆記傳所明,非為虛說信矣。三、就觀行釋者,火有多種,有果報火、業火、煩惱火。果報火至初禪,業火通三界,煩惱火通三乘人。

次に、この教えの証拠についてお話しします。西晋の時代、謝敷が『観世音応験伝』を著し、斉の陸杲がそれをさらに続けました。その伝記にはこうあります。「竺長舒という人が、西晋の元康年間(291〜299年)に洛陽で大火に遭いました。彼の家は藁ぶき屋根で風下にあり、焼けずに済むはずがありません。しかし一心に観音の名号を唱えると、風向きが変わり火は隣の家に移って、彼の家だけは焼けずにすみました。村人たちは無知で、これは自然にそうなっただけだと言いました。そこで、ある暑く乾燥した風の強い日に、わざと火を投げつけて彼の家を焼こうとしました。しかし三度投げても三度とも火は消え、ついにその人々は頭を下げて謝罪しました。また、法力という僧が魯郡に精舎を建てようとして、上谷で一車分の麻(繊維)を乞い、荒野で火事に遭いました。法力は疲れ果てて少し横になり、気がつくと火の手が迫っていました。そこで大声で『観』と唱えました。『世音』と唱え終わらないうちに、声に応じて火は消えました。さらに、法智という僧が野火に遭った時には、頭を地につけて礼拝し、心をこめて名号を唱えました。すると他の場所はすべて焼けましたが、法智の体がある場所だけは全く損傷がありませんでした。」また、呉興の郡吏に関する話もあります。これらはすべて記録や伝記に明らかにされていることであり、虚偽の話ではありません。確かなことです。

三つ目に、観行(観音の修行)の立場から説明すると、火には多くの種類があります。すなわち、果報の火、業の火、煩悩の火です。果報の火は初禅天にまで及び、業の火は三界全体に及び、煩悩の火は三乗の人々にまで及びます。

果報火難者,從地獄有,上至初禪皆有火難,如阿鼻鬲子八萬四千,內外洞徹,上下交炎;餓鬼支節煙起,舉體焦然;畜生燠煮湯炭;修羅亦有火難,人中焚燒現見故。若至劫盡,須彌洞然,諸天宮殿悉皆都盡,初禪已下無免火災。凡一十五有眾生百千萬億諸業苦惱,持是觀世音名,火不能燒,何但止就閻浮提人作解耶?直就一十五有果報,望舊解火,誠可笑哉,餘九番非彼所知。次明修因惡業火者,隨有改惡修善之處,若五戒十善,多為惡業所難,故經云:「燒諸善根無過瞋恚,雖生有頂,頭上火然。」術婆伽欲火所燒,《金光明》云:「憂愁盛火今來燒我。」能破善業,退上墮下,皆名為火。若能稱名,得離惡業,故《請觀音》云:「破梵行人作十惡業,蕩除糞穢,今得清淨,由斯菩薩威神之力也。」

果報としての火の災難は、地獄界から初禅天に至るまで存在します。例えば阿鼻地獄には八万四千の独房があり、内外に焼け抜け、上下に炎が燃え盛ります。餓鬼は手足の関節から煙が立ち、全身が焼け焦げます。畜生は熱湯や炭火で煮られ焼かれます。修羅にも火の災難はあり、人間界でも焼け死ぬことがあり、それは目の当たりにするところです。

劫が尽きる時には、須弥山さえも焼け尽くし、諸天の宮殿ことごとくが灰燼に帰し、初禅天より下は火災を免れません。

実に、十五有のあらゆる衆生は、百千万億もの業による苦しみを抱えています。それでも、この観世音菩薩の名を念じれば、火に焼かれることはありません。それをただ閻浮提(人間界)の人々だけのために説くと解釈するなど、誠に笑止千万です。そもそも十五有の果報について、旧来の「火」の解釈と比べても、実に滑稽と言うほかなく、残り九つの解釈など彼らの知るところではありません。

次に、修行の因としての悪業の火について説明します。悪を改め善を修めることには、それぞれ立場があります。五戒や十善を守ろうとしても、しばしば悪業に妨げられます。経典にも「善根を焼き尽くすものは、瞋り(怒り)に勝るものはない。たとえ有頂天に生まれても、頭の上に火が燃えているようなものだ」と説かれています。

術婆伽は欲望の火に焼かれました。『金光明経』には「憂いや悲しみの盛んな火が、今まさに私を焼き尽くす」とあります。これらは善業を破壊し、上の境地から下の境地へと落とすものです。そのすべてを「火」と呼びます。

もし観世音菩薩の名を称えれば、悪業から離れることができます。だから『請観音経』には「梵行を破り十悪の業をなした者でも、その汚れを洗い清め、今や清らかになることができる。これは菩薩の威神力によるものである」と説かれているのです。

次明煩惱火,若聲聞人厭惡生死,見三界因果猶如火宅,四倒結業,煙炎俱起,輪轉墮落,為火所燒,生死蔓延,晝夜不息,勤求方便,競共推排,爭出火宅,稱觀世音,機成感應,乘於羊車,速出火宅,入有餘、無餘涅槃,即得解脫也。次明支佛、次明六度行、次明通教、次明別教、次明圓教、次明變易土鈍根人、次明變易土利根人,凡有九番行人,修道之時並為五住煩惱惑火之所燒害,各修方便,方便未成,火難恒逼,稱觀世音,方便即成,便得解脫,一一當其法門細作機感之義。

次に、煩悩の火について説明します。 声聞のように生死を厭い、三界の因果を火宅のように見る者には、四つの倒見と結業が煙や炎のように立ち上がり、輪廻に堕ちて火に焼かれ、生死が広がり続けて昼も夜も止まない。彼らは方便を求めて励み、競い合って押しのけ合いながら火宅を出ようとし、「観世音」と唱える。その機が熟し感応が起こると、羊の車に乗って速やかに火宅を出て、有余涅槃・無余涅槃に入り、解脱を得るのである。

次に、縁覚、さらに六度の行、通教、別教、円教、そして変易土の鈍根の者、同じく変易土の利根の者について述べる。合わせて九つの種類の修行者がいる。彼らが道を修める時は、いずれも五住の煩悩という惑いの火に焼かれ害されている。それぞれが方便を修めるが、方便が未だ成就せず、火の難に常に迫られている中で、「観世音」と唱えるならば、やがて方便が成就し、解脱を得るのである。この一つ一つについて、その法門に即して機と感応の意味を細かく説くべきである。

問:菩薩住何法門而能如是耶?

問:菩薩はどのような教えの道に拠って、そのようなことができるのでしょうか。

答:菩薩法門無量,不出別、圓兩觀,本起慈悲,故能十番垂應。所以者何?菩薩元初發菩提心,見果報火燒諸眾生,即起慈悲,誓當度脫;受持禁戒,亦起慈悲救諸業火;修無漏觀,白骨流光發火光三昧、八勝處中有火勝處、十一切處中有火一切處,皆起慈悲,當為眾生滅煩惱火。又,觀諸火悉是因緣所生法,體之即空,又從火空而觀火假分別因緣,又觀火中見火實相,如是次第節節皆有慈悲,誓當利物。今住補處,力用無盡,以本誓力熏諸眾生,未曾捨離,隨有機感即能垂應。若事火起,稱名求救,即對本時果上慈悲拔苦與樂,惡業火起即用持戒、修定中慈悲,煩惱火起即用無漏入空、入假、入中等慈悲。節節相關。若眾機競起,一時牽感,慈悲遍應,皆得解脫。如《華嚴》第四十云:「善財詣進求國,見方便命婆羅門修苦行,求一切智,有大刀山四面火聚,從刀山上自投於火,語善財云:『能入此者是菩薩行。』善財生疑,言是邪法。梵語善財:『莫作此念,此是金剛大智人欲竭愛海。』自在天云:『此菩薩五熱炙身,令我滅邪見,離我心諸魔。』又云:『菩薩炙身時,我等宮殿猶如聚墨,我即發菩提心,乃至他化自在天於煩惱中得自在法門,乃至龍、鬼、阿鼻皆發菩提心,捨本惡念。』善財聞空中語已,即時悔過,登刀山,入大火聚,未至,得菩薩安住三昧;入火,得菩薩寂靜安樂照明三昧。此火山者,名為無盡法門,若入此門,能知諸法。」故舉彼經火法門如此,證成觀音火法門,慈悲救苦,十番利益也。

答え:菩薩の教えの道は無数にあるが、その根本は別教と円教の二つの観法に尽きる。この二つの観法に基づいて慈悲の心が生じ、その結果、十通りの形で衆生に応じて現れることができるのである。なぜか。菩薩が最初に菩提心を起こした時、焼け焦げるような苦しみに遭う衆生を見て、慈悲を起こし、必ず彼らを救い度そうと誓ったからだ。戒律を守ることも、業火から救うための慈悲である。煩悩を離れた智慧を修め、白骨から光を放ち、火の三昧を起こすことも、八勝処の中の火勝処、十一切処の中の火一切処に至るまで、すべて慈悲から起こり、衆生の煩悩の火を滅ぼそうとするものである。また、あらゆる火は因縁によって生じたものであると観じ、その本質は空であると体得し、次に、この火の空という観点から、因縁によって仮に存在する火を観じ、さらに火の中に火の真実の相を見る。こうして順を追って、段階ごとにすべて慈悲が伴い、衆生を利することを誓うのである。今、菩薩は補処の位にあり、その力は尽きることがない。本来の誓いの力で衆生を熏習し、決して捨て離れることがない。機が感じられれば、すぐに応じて現れる。もし物質的な火が起こり、名を唱えて救いを求めれば、その時、本来の果上の慈悲によって苦しみを除き楽を与える。悪業の火が起これば、戒律を守り、禅定を修める中の慈悲を用いる。煩悩の火が起これば、無漏の智慧によって空に入る慈悲、仮に入る慈悲、中道に入る慈悲を用いる。それぞれの段階が互いに関係している。もし多くの衆生の機が同時に起こり、一度に菩薩の慈悲を感じれば、その慈悲はすべてに行き渡り、すべての者が解脱を得る。例えば、『華厳経』第四十巻にはこうある。「善財が進求国に至り、方便命婆羅門が苦行を修め、一切智を求めているのを見た。そこには大きな刀山があり、四方は火の塊であった。その婆羅門は刀山から自ら火の中に身を投じ、善財に言った。『ここに入ることができる者こそ、菩薩行である。』善財は疑いを生じ、これを邪法だと言った。すると梵天が善財に語った。『そう思ってはならない。これは金剛の大智慧を持つ人が愛欲の海を干そうとしているのだ。』また、自在天は言った。『この菩薩が五熱で身を焼くことによって、私の邪見が滅し、我が心から諸々の魔が離れた。』また、『菩薩が身を焼く時、私たちの宮殿は墨の塊のようになる。私はそこで菩提心を起こした。他化自在天においても、煩悩の中から自在を得る法門を得たのである。』さらに、龍、鬼、阿鼻地獄の者に至るまで、皆菩提心を起こし、本来の悪い考えを捨てた。」と。善財は空中の声を聞くと、すぐに悔い改め、刀山に登り、大火の中に入ろうとしたが、まだ入らないうちに、菩薩の安住三昧を得た。火の中に入って、菩薩の寂静安楽照明三昧を得た。この火山は、無尽法門と名付けられている。この門に入れば、すべての法を知ることができる。」という。このように、あの経典の火の法門を挙げて、観音の火の法門が慈悲によって苦しみを救い、十通りの利益をもたらすことを証明しているのである。

次明菩薩本修圓觀所起慈悲者,但觀一火具十法界,一切諸法入火字門,於一火門雖無分別,明識一切果報火、業火、煩惱火等,明了通達,無緣慈悲遍覆一切,是為火門入王三昧。若法界火起,菩薩以本地誓願普應眾生,如磁石吸鐵。雖無分別而分別說者,以十五三昧救果報火,用二十四三昧救修因火;二十五三昧通救二乘通教六度別圓等入空煩惱火;還用二十五三昧救別教山假火;還用二十五三昧圓救圓教人入中煩惱火,雖應入諸火,不為諸火所燒。《大集經》云:「譬如虛空,火災起時所不能燒,菩薩亦如是,以不思議慈悲普應一切,皆得解脫也。」常途釋七難,止解得救人中苦,失二十四有及變易中苦,止得如幻三昧少分,全失二十四三昧廣大之用也。

次に、菩薩が本来修める円観から起こす慈悲について述べる。一つの火を観れば、十法界がすべて含まれ、一切の諸法が「火」という字の門に入る。一つの火門においては分別がないけれども、あらゆる果報の火、業の火、煩悩の火などを明らかに識り、はっきりと通達する。そして、無分別な慈悲がすべてを覆い尽くす。これが火門に入って王三昧を得るということである。

もし法界において火が起こったなら、菩薩は本来の誓願によってすべての衆生に応じる。それは磁石が鉄を吸い寄せるようなものである。分別がなくとも、あえて分別して説くならば、十五三昧を用いて果報の火を救い、二十四三昧を用いて修行の因による火を救う。さらに二十五三昧を用いて、二乗・通教・六度・別教・円教などの空に入る煩悩の火を救う。また、同じ二十五三昧を用いて、別教の仮の火を救い、さらに同じ二十五三昧を用いて、円教の人が中道に入る際の煩悩の火を円満に救う。このように様々な火に入りながらも、その火に焼かれることはない。

『大集経』にこうある。「例えば虚空は、火事が起きても焼かれることがない。菩薩もまた、不可思議な慈悲によってすべてに遍く応じ、すべてが解脱を得るのである。」通常の解釈では七難を説くが、それは単に人間の苦しみの中での救いに限られ、二十四有や変易の苦しみを忘れている。また、如幻三昧のわずかな一部分を得るだけで、二十四三昧の広大な働きを完全に失っているのである。

第二、水難者,亦為三意:一、貼文,二、引證,三、觀釋。貼文為三:一、遭水是有苦,二、稱名是善,三、得淺處是應也。

第二に、水難についても三つの意味があります。一、経文を引用すること、二、証拠を挙げること、三、観想して解釈することです。経文の引用も三つに分かれます。一、水に遭うという苦しみがあること、二、名号を唱えるという善行があること、三、浅い場所にたどり着くという仏の応答があることです。

問:何意言為大水所漂?

問:なぜ「大水に流される」と説かれたのですか?

答:小水不成難,或戲故入,水亦不成難。欲論其難,故言大水所漂。火難所以言入者,小火亦能斷命,若故入、若不故入,入則害命。今舉其重難,重難既救,何況其輕?是故言其入火,不言入水;言其大水,亦言大火。水論其淺即成應,火猶少在未成應也。

答:小さな水ならば難とはならない。あるいはふざけて入ったとしても、水もまた難とはならない。その難について論じたいがゆえに、「大水に漂われる」と言うのである。

火難について「入る」と言うのは、小さな火でも命を断つことができるからである。故意に入ろうと、故意でなく入ろうと、入れば命を害する。ここでは重い難を挙げている。重い難すら救われるのであれば、ましてや軽い難はなおさらである。ゆえに「火に入る」とは言うが、「水に入る」とは言わないのである。「その大水」と言い、また「その大火」とも言う。水は浅ければ即座に応じとなるが、火は少しでも残っていれば未だ応じとはならないからである。

二、引證者,《應驗傳》云:「海鹽有溺水,同伴皆沈,此人稱觀音,遇得一石,困倦如眠,夢見兩人乘船喚入,開眼果見有船人,送達岸,不復見人船,此人為沙門,大精進。又,劉澄隨費淹為廣州牧,行達宮停遭風,澄母及兩尼聲聲不絕唱觀世音,忽見兩人挾船,遂得安隱,澄妻在別船及他船皆不濟。道冏三人乘氷度孟津,垂半,一人前陷,一人次沒,冏進退氷上,必死不疑,一心稱觀世音,脚如蹋板,夜遇赤光,徑得至岸。」此例甚多,皆蒙聖力也。

以下は引用証拠である。『応験伝』にこうある。「海塩で水に落ちた人がいた。仲間は皆沈んでしまったが、この人は観音を唱え、たまたま石に出会い、疲れて眠っているようになった。夢の中で二人の人が船に乗って来て乗るよう促され、目を覚ますと確かに船に人がいて、岸まで送ってもらった。その後、人も船も見えなくなった。この人は後に僧侶となり、大いに精進した。また、劉澄が費淹に従って広州の牧(長官)となり、宮停を通りかかった時に風に遭った。澄の母と二人の尼僧が声を絶やさずに観世音を唱え続けたところ、突然二人の人が現れて船を支え、無事に過ごせた。しかし、澄の妻がいた別の船や他の船は助からなかった。道冏という三人の者が孟津の氷の上を渡ろうとした。半分ほど進んだ時、一人が前に落ち、もう一人が次に沈んだ。冏は氷の上で進退きわまり、死は免れないと覚悟したが、一心に観世音を唱えたところ、足が板を踏むようで、夜には赤い光に出会い、そのまま岸にたどり着いた。」このような例は非常に多く、すべて聖なる力によるものである。

三、約觀解者,果報水至二禪,惡業水通三界,煩惱水通大小乘,如地獄鑊湯沸屎、鹹海灰河,流漂沒溺;餓鬼道中亦有;填河塞海,畜生淹沒,衝波致患;阿脩羅亦有水難,人中可知。水災及二禪,汎瀁無岸,是時若不稱名,尚不致淺處,何況永免耶?

三、観解の立場から述べると、果報による水は第二禅天にまで及び、悪業の水は三界全体に通じ、煩悩の水は大乗・小乗の全てにわたります。例えば地獄では、熱湯の釜や糞尿の池、塩の海や灰の河があり、そこに流され、沈み、溺れます。餓鬼道にも同様のものがあり、川を埋め、海を満たしています。畜生道でも水に流され、波の難に遭います。阿修羅道にも水難があり、人間界では言うまでもありません。水害は第二禅天にまで及び、果てしなく広がる水に覆われ、その時、仏の名を呼ばなければ、浅い所にさえたどり着けず、ましてや永遠に免れることなどできましょうか?

次惡業水者,諸惡破壞善業者,悉名惡業波浪,愛欲因緣之所毀壞,澍入三惡道中,忘失正念,放捨浮囊,見思羅剎退善入惡者即是水漂,何必洪濤巨浪耶?若能一心稱名,即得淺處也。次次明煩惱水者,經云:「煩惱大河能漂香象。」緣覺觀愛欲之水增長二十五有稠林,潦水波蕩,惱亂我心,暴風巨浪有河洄澓,沒溺眾生,無明所盲而不能出,涅槃彼岸何由可登?二乘人修三十七品之機,運手動足截有生死險岸,前途遙遠,一心稱名,若發見諦三果皆名淺處,無學為彼岸。次支佛侵習為淺處,通教正習盡為彼岸。次別教,斷四住為淺處,斷無明為彼岸。次明圓教,六根清淨為淺處,入銅輪為彼岸;變易中分分是淺處,究竟無明方稱彼岸。

次に、悪業の水について説明します。さまざまな悪が善い行いを壊すこと、これをすべて悪業の波といいます。愛欲の原因によって壊され、三悪道に流れ込み、正しい心を忘れ、浮き袋を手放し、見解や思考の羅刹に押されて善から悪へと落ちていくこと、これが水に流されるという意味であり、必ずしも大きな波や激しい流れだけを指すわけではありません。一心に名号を唱えれば、すぐに浅い場所にたどり着くことができます。

次に、煩悩の水について説明します。経典にはこうあります。「煩悩の大河は香象さえも流し去る」。縁覚は愛欲の水が二十五有の密林を増大させるのを観じます。増水した水は荒れ狂い、心を悩ませます。暴風や大波、川の渦は、生きとし生けるものを溺れさせ、無明に盲目にされて救い出せません。涅槃の彼岸にどうして到達できるでしょうか。

二乗の人は三十七品の修行を実践し、手足を動かして生死という険しい岸辺を渡ろうとします。しかし前途は遠く、一心に名号を唱え、もし見諦の三果を得れば、これらをすべて浅い場所と名づけ、無学を彼岸とします。

次に、縁覚は煩悩の習気を断つのが浅い場所であり、通教では正しい煩悩とその習気をすべて断つのが彼岸です。次に別教では、四住の煩悩を断つのが浅い場所であり、無明を断つのが彼岸です。次に円教では、六根清浄を得るのが浅い場所であり、銅輪の位に入るのが彼岸です。変易生死の中で、段階的に進むことがそれぞれ浅い場所であり、無明を完全に断ち切って初めて彼岸と称されます。

復次,初果免見流、三果免欲流、四果免有流,乃至圓教方免無明流。菩薩所以遍應水難者,皆是本修別圓二觀慈悲,今日成就王三昧力。所以者何?菩薩修別觀時,見眾生漂果報水,起誓拯濟,菩薩修戒定時以善治惡,於諸禪定、水光三昧、水勝處、水一切處皆起慈悲,以善攻惡。又從水假入空,發真無漏,從空出假,達水因緣,入水中道,見水實相,節節法門皆起慈悲,熏諸眾生。今成王三昧,寂而常照,眾生報水所漂,稱名為機,對事慈悲救果報水、戒定慈悲救惡業水、三觀慈悲救煩惱水,一切一時皆得解脫。如《華嚴》三十八明:「善財至海門國,海雲比丘為說《普眼經》,云:『十二年來常觀此海漸漸轉深,大身居止,珍寶聚集。如是觀已,則見海底生大蓮華,無量天龍八部莊嚴華上,有佛相好無邊,即申右手摩於我頂,為說《普眼經》千二百歲,一日所受阿僧祇品無量無邊。若以海水為墨,須彌聚筆,書寫此經,不能得盡。』」當知水法門攝一切法,亦如《大品》阿字門具足一切義,觀音於水法門久已通達,故能遍應一切水難。

さらに、初果は見惑の流れを免れ、三果は欲界の流れを免れ、四果は三有の流れを免れ、そして円教に至って初めて無明の流れを免れます。菩薩が水難に広く応じるのは、すべて過去世において別教と円教の二つの観門と慈悲を修めたからであり、今日、王三昧の力を成就したのです。なぜなら、菩薩が別観を修める時、眾生が果報の水に漂うのを見て、誓いを立てて救済し、戒・定を修める時には善をもって悪を治め、さまざまな禅定、水光三昧、水勝処、水一切処においてすべて慈悲を起こし、善をもって悪を対治するからです。さらに、水の仮観から空観に入り、真の無漏を発し、空観から仮観に出て、水の因縁を悟り、水の中道に入り、水の実相を見る。その節々の法門においてすべて慈悲を起こし、眾生を薫習します。今、王三昧を成就し、寂静でありながらも常に照らし、眾生が報身の水に漂うとき、その名を呼ぶのが機縁となり、事に対する慈悲によって果報の水を救い、戒・定の慈悲によって悪業の水を救い、三観の慈悲によって煩悩の水を救う。すべてが一度に解脱を得るのです。

例えば『華厳経』第三十八巻に明かされている通りです。「善財童子が海門国に至り、海雲比丘が『普眼経』を説いて言うには、『十二年もの間、常にこの海を観察し、次第に深くなり、巨大な生物が住み、宝が集まるのを見た。このように観じてから、海底に大いなる蓮華が生じ、無量の天竜八部がその華を荘厳し、その上に仏が無限の相好を備えて現れた。その仏が右手を伸ばして私の頭を摩り、『普眼経』を千二百歳の間説き、一日に受ける阿僧祇の品も無量無辺であった。もし海水を墨とし、須弥山の筆を集めてこの経を書き写しても、到底書き尽くせない』と。」これにより、水の法門が一切の法を含むことが分かります。また『大品般若経』の阿字門が一切の義を具足するのと同じく、観音菩薩は水の法門において久しく通達しているため、すべての水難に広く応じることができるのです。

復次,本修圓觀法門,無緣慈悲遍應一切者,觀水字門,十法界趣水字,是趣不過,水尚不可得,云何當有趣、不趣?十法界趣水是俗諦,水尚不可得即真諦,云何當有趣、不趣?即雙非顯中道第一義諦。如此觀水字十法界三諦之法,即起無緣慈悲,遍熏三諦十法界眾生,故能圓應一切。若分別觀者,以十六三昧救果報水;以二十四三昧救惡業水;以二十五三昧救二乘通別圓入空有流等水;以二十五三昧救別教出假,於有流中令無染濕;以二十五三昧救圓教入中無明流水,一切一時俱得解脫也。

さらに、この円頓の観法を修行する者は、無縁の慈悲をもって一切に遍く応じます。「水」の字門を観ずる時、十法界がみな「水」の字に趣くとしても、その趣くところも超えられません。水そのものすらも得られないのに、どうして趣くとか趣かないということがありましょうか。十法界が水に趣くのは俗諦であり、水そのものが得られないのは真諦です。では、趣くとか趣かないというのは何か。それは両方とも否定することで中道第一義諦を顕わすのです。このように水の字を観じ、十法界の三諦の法を観じれば、すなわち無縁の慈悲が起こり、三諦の十法界の衆生に遍く熏習されるので、一切に円く応じることができるのです。もし分別して観じるならば、十六三昧をもって果報の水を救い、二十四三昧をもって悪業の水を救い、二十五三昧をもって二乗・通・別・円の入空や有流などの水を救い、二十五三昧をもって別教の出仮を救い、有流において染湿を生じさせず、二十五三昧をもって円教の入中・無明の流水を救う。このように一切が一時にみな解脱を得るのです。

第三、羅剎難者,亦為三:一、貼文,二、約事,三、觀釋。貼文又為二:一、明難,二、結名。難中為五:一、舉數,二、明遇難之由,三、遭苦,四、明機,五、明應。

第三に、羅刹の難についても三つの説明があります。第一に経文に即した解説、第二に事象に基づく解説、第三に観想による解釈です。経文に即した解説はさらに二つに分かれます。一つは難について明らかにすること、もう一つは名称をまとめることです。難の説明の中には五つの項目があります。第一に数を挙げること、第二に難に遭う理由を明らかにすること、第三に苦しみに遭うこと、第四に機根(救済を受ける側の条件)を明らかにすること、第五に応答(仏の救済)を明らかにすることです。

人數者,但舉百千總數,不定判多少,明入海求珍,結伴無定,難無定數,終不可獨往,故舉百千也。《賢愚》云:「田殖百倍、商估千倍、仕宦萬倍、入海吉還得無量倍,故入海也。」次遭風,是難由約下文證,今若開風為正難,下文云:「皆得解脫羅剎之難。」此豈不獨是羅剎難也?難由正應,無在由者,何但由風?由風墮難、由入海遭風,求寶入海,由貪求珍寶,展轉相由,風災難切,故風是墮難之由也。

人数について言えば、これは単に「百千」という大体の総数を挙げたもので、具体的に何人の定まった人数を示すわけではない。これは、海に入って珍宝を求める際、仲間の数は一定ではなく、困難の度合いも決まっていないことを明らかにしている。結局のところ、一人で行くことはできないため、「百千」と総称したのである。

『賢愚経』にはこうある。「田を耕せば百倍の収穫があり、商人は千倍、官職に就けば万倍の利益を得る。海に入って幸運にも帰還すれば、無量の倍の利益を得られる。だから海に入るのである。」

次に、風に遭うことが困難であるのは、以下の経文に基づいて考察される。もし風を主要な災難とすれば、後の経文に「皆、羅刹(らせつ)の難から解脱することを得る」とある。これは羅刹の難だけを指しているのではないだろうか?困難の原因は、本来、相互に対応するものである。原因がないわけがない。なぜ風だけが原因なのだろうか?風によって困難に陥るのであり、海に入れば風に遭うからである。宝を求めて海に入るのは、貪りによって珍宝を求めるからであり、これらは互いに原因となる。風の災いは切実であるため、風は困難に陥る原因なのである。

七寶是正寶,珠是偽寶。又,如意珠寶最上。今言等者,等上、等下諸寶也。《樓炭》云:「巨海有七種似寶,一百二十種真珠寶。」黑風者,舊云風無色,吹黑沙故爾。有人彈云:「沙中無船,水中無沙,非是吹黑沙,乃是吹黑雲爾。」今還例此難,水中無雲,雲中無船,何得彈沙而取雲?風能吹黑雲,何意不能吹黑沙?《請觀音》云:「黑風洄波」,《仁王般若》有六色,風黑、赤、青、天、地、火也。《受陰經》明五風。《阿含》亦云:「有黑風,風加以黑,怖之甚也。」羅剎,是食人鬼,人屍若臭,能呪養之令鮮。復有噉精氣鬼,人心中有七渧甜水、和氣精神,鬼噉一渧令頭痛、三渧悶絕、七渧盡即死。一人稱名,餘者悉脫者,同憂慼休否是共,雖口不同唱,心助覓福故,俱獲濟是均。若後值賊則同聲者,陸地心多不并決,須稱號令使齊,與水難為異。何意就此結觀音之名?此正就一人稱名而賴兼群黨,明慈力廣被,救護平等,顯觀音之名也。

七宝は真の宝であり、真珠は偽りの宝である。また、如意宝珠が最も優れている。ここで「等」と言うのは、上位の宝や下位の宝など、さまざまな宝を指している。『楼炭経』には「大海には七種の宝に似たものと、百二十種の真珠宝がある」と記されている。「黒風」について、古くは「風には色がないが、黒い砂を吹き飛ばすからそう呼ばれる」と説かれていた。ある人がこれを批判して「砂の中に船はなく、水の中に砂もない。黒砂を吹くのではなく、黒雲を吹くのだ」と言った。しかし今、同じ論法で反論するならば、水の中に雲はなく、雲の中に船もない。どうして砂を否定して雲を取るのだろうか。風が黒雲を吹くことができるなら、なぜ黒砂を吹くことができないのか。『請観世音経』には「黒風が逆巻く波」とあり、『仁王般若経』には六色の風、すなわち黒、赤、青、天、地、火の風が説かれている。『受陰経』には五風が明かされている。『阿含経』にも「黒風があり、風に黒が加わるのは、非常に恐ろしいものだ」とある。羅刹は人を食べる鬼であり、人の死体が腐っても、呪文で養って新鮮に保つことができる。また、精気を吸う鬼がいる。人の心臓には七滴の甘い水と和気の精神があり、鬼が一滴を吸うと頭痛がし、三滴で気絶し、七滴すべてを吸われると死に至る。一人が名号を唱えれば、残りの者が皆救われるというのは、共に憂いや困難を共にするからである。口では一緒に唱えなくとも、心で功徳を求めて助けるので、皆が等しく救済されるのである。もし後に賊に遭った時に同声で唱えるのは、陸地では心が一つにまとまりにくいため、号令をかけて揃える必要があり、水の災難とは異なるからである。なぜここで観音の名を結びつけるのか。これはまさに、一人が名号を唱えることでその恩恵が仲間全体に及び、慈悲の力が広く及んで、救いが平等であることを明らかにし、観音の名を示すためなのである。

二、約事證,《應驗傳》云:「外國百餘人從師子國汎海向扶南,忽遇惡風,墮鬼國,便欲盡食。一舶眾人怖稱觀音,中有一小乘沙門不信觀音,不肯稱名,鬼索此沙門,沙門狼狽學稱,亦得免脫。」

二つ目、実際の事例で証明すると、『応験伝』にこうあります。「外国の百余人が師子国から船で扶南へ向かう途中、突然の悪風に遭い、鬼国に流されてしまった。鬼たちは彼らを皆食べようとした。船中の人々は皆、恐れて観音様の名を唱えたが、その中に一人の小乗の僧がおり、彼は観音を信じず、名を唱えようとしなかった。鬼がその僧を要求すると、僧は慌てて仕方なく唱えたところ、やはり救われて難を免れた。」

次觀釋者,不但明世界中風,黑業名風。《華嚴》云:「嫌恨猛風吹罪心火常令熾然,吹諸行商人墮落惡道,失人道善寶及無漏聖財。」從地獄上至三禪皆有果報風難,如《僧護經》明地獄種種形相,疾風猛浪沒溺破壞,餓鬼所噉;若鬼道中,寒風裂骨,身碎碑䃀;畜生飛走之類傾巢覆卵,何可勝言?脩羅亦有風災,若風災起時,諸山擊搏,上至三禪宮殿碎為微塵,當此之時,誰能救濟?唯當一心稱觀世音菩薩,以王三昧力,或以手障、或以口吸,無量方便令得解脫也。次明若修諸善,惡業風吹,壞五戒十善船舫,墮三途鬼國及愛見境中,《大經》云:「羅剎婦女隨所生子而悉食之,食子既盡,復食其夫,急須稱觀世音菩薩,以慈悲力能令解脫。」

次に観音を釈するとは、ただ世の中の世界における風を明らかにするだけでなく、黒い業(くろいごう)を風と名づけるのである。『華厳経』にはこう説かれている。「恨みと怒りの猛風が、罪の心の火を吹き上げて常に熾んに燃え立たせ、諸々の行く者の商人を吹き払って悪道に落とし、人間界の善い宝や無漏の聖なる財を失わせる。」地獄から上は第三禅天に至るまで、みな果報としての風の難(わざわい)がある。例えば『僧護経』に明らかにされている地獄の様々な形相のように、疾風や猛浪が人を没し溺れさせ、破壊し、餓鬼に食われるのである。また鬼道においては、寒風が骨を裂き、身を砕き粉々にする。畜生の飛ぶ者や走る者などの類は、巣を覆され卵を潰され、その数を言い尽くせないほどである。阿修羅にもまた風の災いがある。風の災いが起こるとき、諸々の山々が打ち合い、上は第三禅天に至るまでの宮殿が砕けて微塵となる。このような時に、誰が救い済うことができようか。ただ一心に観世音菩薩を称えよ。王三昧の力をもって、あるいは手で遮り、あるいは口で吸い取り、無量の方便によって解脱を得させるのである。

次に、諸々の善を修めようとしても、悪業の風が吹いて、五戒や十善の船や筏を壊し、三途の鬼国や愛見の境に堕ちることを明らかにする。『大般涅槃経』にはこう説かれている。「羅刹の女は、生んだ子をことごとく食べてしまう。子を食べ尽くすと、さらにその夫を食べる。急いで観世音菩薩を称えよ。慈悲の力によって解脱を得させてくださるであろう。」

次明二乘人採聖財寶,為煩惱風吹慧行船,行行舫墮見愛境,為見愛羅剎所害,若能稱觀世音,得脫見愛二輪,永得免二十五有黑業也。次明支佛六度行通別圓變易等,入煩惱海採一切智寶,八倒暴風所吹,飄諸行船墮二邊鬼國,用正觀心體達諸法不生不滅,入實際中即得解脫。鬼義合前後章,故不重說也。法界風難無量,一時圓應者,皆由別圓慈悲所熏。菩薩本修別觀,見事中風即起慈悲修戒定、見惡業風即起慈悲修三觀時,節節慈悲令入風實相王三昧中,以事慈悲救果報風、以戒定慈悲救惡業風、三觀慈悲救煩惱風,故能十番拔難。若作圓觀論機應者,但觀風字門具照十法界,三諦宛然,通達無礙,慈悲遍覆。若分別說王三昧者,以十七三昧救果報風、以二十四三昧救修因風、以二十五三昧救二乘通別圓從假入空煩惱風、以二十五三昧救別教出假無知風、以二十五三昧救圓教入中無明風,變易可解,如是遍救法界,一切一時皆得解脫也。

次に、二乗(声聞・縁覚)の人々は聖なる財宝(仏法の教え)を求めますが、煩悩という風に吹かれて智慧の船が進み、その船は「見」(誤った見解)と「愛」(執着)の境地に流され、見愛の羅刹(悪鬼)に害されてしまいます。もし観世音菩薩を心に称えれば、見と愛という二つの輪から脱却し、二十五有(迷いの生存世界)の黒い業(悪業)から永遠に逃れられるのです。

次に、縁覚や菩薩の修行段階について。六度(六波羅蜜)の修行や、通教・別教・円教の教え、そして変易生死(聖者の迷い)を経て、煩悩の海に入り一切智の宝を求めますが、八倒(八つの誤った見解)という暴風に吹かれ、諸々の修行の船は二辺(有と無などの極端な見解)の鬼国に堕ちてしまいます。そこで正しい観想の心をもって、諸法は生じず滅しないと悟り、実相(真実の姿)に入れば即座に解脱を得られます。鬼の話は前後の章で述べているため、重ねて説きません。

法界(宇宙全体)の風による困難は無量ですが、それに一時に遍く応じられるのは、別教や円教の慈悲によって心が培われているからです。菩薩は元々別教の観想を修め、現象世界の風(苦難)を見れば慈悲を起こして戒律と禅定を修め、悪業の風を見れば慈悲を起こして三観(空・仮・中の三つの観想)を修めます。その段階ごとの慈悲によって、風の実相である王三昧(最高の禅定)に入らせます。具体的には、事相の慈悲で果報の風(苦しみの結果)を救い、戒律と禅定の慈悲で悪業の風を救い、三観の慈悲で煩悩の風を救うため、十種類の困難を救済できるのです。

もし円教の観想に基づいて機(衆生の資質)と応(菩薩の救い)を論じるなら、ただ「風」という字の法門を観じて十法界を照らし、三諦(空・仮・中の三つの真理)が明らかに現れ、すべてに通達して障碍なく、慈悲が遍く覆うと見ます。この王三昧を分類して述べるなら、十七三昧で果報の風を救い、二十四三昧で修行の因となる風を救い、二十五三昧で二乗や通教・別教・円教の修行者が「仮から空に入る」際の煩悩の風を救い、さらに二十五三昧で別教の修行者が「仮の世界に出る」際の無知の風を救い、また二十五三昧で円教の修行者が「中道に入る」際の無明の風を救います。変易生死における救いも同様に理解できます。このように法界全体を遍く救い、一切の者が一時に解脱を得るのです。

第四、明刀杖難者,亦為三:一、貼文,二、約證,三、觀釋。貼文為三:一、遭難即是苦,二、稱名即是善,三、應。

第四に、刀や杖による困難について明確にします。これも三つに分けられます。第一に、経典の言葉に即して説明すること、第二に、証拠となる教えに基づいて説明すること、第三に、観想を通じて解釈することです。

経典の言葉に即した説明はさらに三つです。第一に、困難に遭うこと自体が苦しみであること、第二に、仏の名を唱えることが善であること、第三に、それに応じた救いがあることです。

今言刀杖段段壞者,明人執殺具,一折一來,隨來隨斷,彌顯力大。

さて、「刀や杖が次々に壊れる」とは、人が殺害の道具を手に取り、一振りごとに折れては新たに現れ、現れてはまた折れる様子を指します。これにより、その力の大きさがますます明らかになるのです。

問:水火何不令再滅耶?

質問:火や水は、なぜ二度と消えないようにできないのでしょうか?

答:刀杖折再來,重明聖力。水火滅後,誰復持來?既無持來,滅何所顯?今只令絕炎不燒、洪流更淺,存顯力大,各有其意,不得一例作難也。

答える。刀や杖が折れて再び来たとしても、聖なる力は再び明らかになる。水や火が消えた後、誰が再び持ってくるだろうか?既に持ってくる者がいないならば、消えることは何によって示されるのか?今、ただ炎を絶って燃えず、大きな流れをさらに浅くさせ、力の大きさを存続させ示すことには、それぞれに意味がある。一律に難詰してはならない。

二、約事證者,《應驗傳》云:「晉太元中,彭城有一人被枉為賊,本供養金像帶在髻中。後伏法,刀下,但聞金聲,刀三斫,頸終無異。解看像有三痕,由是得放。又,蜀有一人,檀函盛像安髻中,值姚萇寇蜀,此人與萇相遇,萇以手斫之,聞頂有聲,退後看像果見有痕,其人悲感:『寧傷我身,反損聖容?』益加精進。晉太元高簡,滎陽京人,犯法臨刑,一心歸命,鉗鎖不復見處,下刀刀折,絞之寸斷,遂賣妻子及自身,起五層塔在京縣。宋太始初,四方兵亂,沈文秀牧青州,為土人明僧駿所攻,秀將杜賀刑妻司馬氏云云。」

**2.事実による証明について**

『応驗伝』にはこう記されている。

「晋の太元年間、彭城のある者が無実の罪で盗賊として捕らえられた。この者はもともと金の仏像を供養しており、それを髷の内に忍ばせていた。やがて処刑されることとなり、刀が振り下ろされたが、金属の音が聞こえただけで、三度斬りつけても首に異変はなかった。調べてみると仏像に三つの傷がついており、それによって彼は釈放された。

また、蜀のある者は、白檀の箱に仏像を入れて髷に収めていた。姚萇が蜀に侵攻した際、この男は姚萇と遭遇し、姚萇が手で彼を打ち据えたところ、頭頂から音がした。後に仏像を確かめてみると、確かに傷がついていた。この男は悲しみと感慨に打たれ、『我が身が傷つけられるのは我慢できても、どうして聖なる御姿を損なわせることがあろうか』と言い、ますます修行に励んだ。

晋の太元年間、高簡という人物がいた。滎陽の京県の出身で、法を犯して処刑に臨む際、一心に仏に帰依した。すると、足かせや鎖は見えなくなり、刃を下ろせば刀が折れ、絞めようとすれば寸断された。そこで彼は妻子と自身を売って、京県に五層の塔を建立した。

宋の太始の初め、四方で戦乱が起こった。沈文秀が青州の牧として治めていたが、地元の明僧駿に攻められた。文秀の部将・杜賀が、妻の司馬氏を処刑しようとした(ことについては、以下のように伝えられている)。」

三、明觀釋者,非但世間殺具名為刀杖,惡業亦能傷善業身命,煩惱、六塵、三毒等皆名刀箭。從地獄去即有刀山挂骨、劍樹傷身,鋸解屠膾,狼籍痛楚;餓鬼更相斬刺,互相殘害;畜生自有雌雄牙角自相觸突,又被剉切㓟剝;脩羅晝夜征戰;龍王降雨變成刀刃;人中前履白刃,却怖難誅,復有橫屍塞外,復有銜刀東市;天共脩羅鬪時五情失守,皆有刀杖怖畏失命之苦。若能稱觀世音,若應刑所,刀尋斷壞;若應戰陣立之等力,令得安和。
次明修諸善因,為三毒刀箭惡業破壞善心,割斷戒皮、定肉、慧骨,微妙心髓、法身慧命退失,墮落失人天道,乃至正命登難崩易,萬劫不復,起怖畏心,稱觀世音即蒙救護,三毒不傷,清昇受樂,即菩薩力也。次明聲聞人厭患生死,即時觀三界見思劇於刀箭,故《大經》云:「寧以終身近旃陀羅,不能暫時親近五陰愛詐、親善六拔刀賊,趣向正路如為怨逐。」《大論》云:「譬如臨陣白刃間,結賊未滅害未除,如共毒蛇同室居、如人被縛將去殺,爾時云何安可眠?」《五苦章句》云:「十二重城、三重棘舘、五拔刀人守門,爾時思惟:『如此怖畏何由得脫,著於正路?』須一心稱觀世音,三業至到,機成感徹,則能裂生死券、度恩愛河,不為煩惱刀杖所害,欲主魔王無如之何。」次明支佛,次明六度行,次明通別圓變易等,五住刀箭傷法身、損慧命者,若能稱名即蒙聖應,免離通別刀杖,脫二死地,豈非法身慈力耶?

次に、修行の善い行いが、貪欲・瞋恚・愚痴という三毒の刀や矢のような悪い行いによって、善い心を壊されてしまうことについて説明します。戒律という皮、禅定という肉、智慧という骨、そして微細な心髄、法身という智慧の命までもが失われ、退いてしまい、人間や天人の境地から堕落します。正しい命を保つことは難しく、崩れるのは容易で、万年経っても元に戻れないという、恐ろしい心を起こしたならば、観世音菩薩の名を一心に唱えなさい。そうすればすぐに救われ、三毒に傷つけられることなく、清らかに昇り、楽しみを得られます。これが菩薩の力なのです。

次に、声聞(しょうもん)の修行者は、生と死の世界を厭い嫌い、三界(欲界・色界・無色界)における見惑と思惑という煩悩が、刃や矢よりも激しいものであると即座に観じます。それゆえに『大般涅槃経』にはこう説かれています。「一生涯、屠殺者(チャンダーラ)のそばに近づくとしても、一時たりとも五蘊の執着という偽りの親や、六つの感覚器官を奪う盗人のような悪しき親しい者に近づいてはならない。正しい道へ向かうことは、あたかも怨敵に追われるかのようである」と。

『大智度論』にはこうあります。「まるで戦場で刀の光がひらめく中にいるようなものであり、煩悩という敵が滅ぼされず、害が除かれていない状態は、毒蛇と同じ部屋に住み、縛られた者が殺されようとしているようなものである。そのような時に、どうして安らかに眠っていられようか?」と。

『五苦章句経』にはこうあります。「十二の重なる城、三重の棘の檻(おり)、五人の抜刀した者たちが門を守っている。その時に考えよ。『このような恐ろしさから、どうやって逃れて、正しい道に進むことができるのだろうか?』と。一心に観世音菩薩の名を唱え、身・口・意の三つの行いを尽くして、その思いが届くなら、因果の縛りである券を破り、愛執という川を渡り、煩悩の刃や杖に害されることがなくなる。欲望の主や魔王でさえ、どうすることもできないのである」と。

次に、縁覚、さらに六波羅蜜の実践、そして通教・別教・円教における変易生死など、五住(ごじゅう)の煩悩という刀や矢が法身を傷つけ、智慧の命を損なう場合についても同様です。もしその名を唱えれば、たちまち聖なる応報を受けて、通教・別教の刃や杖による害から免れ、生死の二つの境地を脱することができるのです。これこそが、法身の慈悲の力ではないでしょうか。

復次,明刀杖機應遍法界者,良由本修別圓觀時,見諸鋒刃傷毀,即起慈悲,我當救護;修善遮惡時,於善惡業復起慈悲;若觀刀杖是因緣生法,修三觀時復起慈悲。願行填滿,今住王三昧中,無量神力,以本事慈悲對果報刀箭、修善慈悲救惡業刀箭、三觀慈悲救煩惱刀箭。

さらに、刀や杖の機(はたらき)が広く法界に及ぶ理由は、もともと別教や円教の観法を修行していた際に、鋭い刃や傷つけるものを見て、ただちに慈悲の心を起こし、「私は必ず救い護ろう」と誓ったからです。善を修め悪を防ぐ修行においても、善悪の業に対して慈悲を起こしました。また、刀や杖が縁によって生じる現象だと観察し、三つの観法を修めるごとに慈悲を起こしました。こうした誓願と行いが満ち満ちた結果、今や王三昧に安住し、無量の神通力をもって、本来の修行による慈悲で果報としての刀や矢に対応し、善を修める慈悲で悪業による刀や矢を救い、三観の慈悲で煩悩という刀や矢を救うのです。

刀杖是質礙,屬地字門攝,菩薩於質礙地門通達明了。如《華嚴》四十明:「彌多羅童女於師子奮迅城師子幢王宮中,處明淨寶藏法堂,不可思議莊校此堂,一瑠璃柱、一金剛壁、一摩尼鏡、諸寶、諸鈴、諸樹、諸形像、諸瓔珞中,住是一切質礙具內,悉見一切如來從初發心行菩薩道,乃至成等正覺、入滅皆於中現,無不明了,如於淨水見月影像,此法門名般若普莊嚴法門。善財入此地法門時,能得不可說陀羅尼、大慈大悲陀羅尼、能作佛事陀羅尼,一切法無不具足。」當知地字門普應一切,令得解脫也。

刀や杖は物質的な障害であり、これは「地」の字門に属します。菩薩はこの物質的な障害の地の門を、完全に理解し明らかにします。『華厳経』の「四十明」にこうあります。「弥多羅童女が師子奮迅城の師子幢王の宮殿において、明浄なる宝蔵の法堂にいました。この堂は不可思議なほど荘厳に飾られており、一つの瑠璃の柱、一つの金剛の壁、一つの摩尼の鏡、さまざまな宝、鈴、木々、像、瓔珞の中に、これらすべての物質的な道具の内に住みながら、そこにはすべての如来が初めて発心して菩薩の道を行じ、ついには正等覚を成し、涅槃に入るまでの姿がことごとく現れ、何一つとして明らかでないものはありませんでした。それはまるで、澄んだ水に月の影が映るかのようでした。この法門の名を般若普荘厳法門といいます。善財がこの地の法門に入った時、言い表しがたいほどの陀羅尼、大慈大悲の陀羅尼、仏の働きをなす陀羅尼を得て、一切の法がことごとく具わらないものはありませんでした。」このように、「地」の字門はあらゆるものに遍く応じ、人々を解脱へと導くものと知るべきです。

復次,圓觀觀地大質礙之法,攝一切十法界三諦宛然明了,在地門中圓起慈悲,遍於法界,寂而常照,無機不應。若欲分別說之令易解者,以十三昧救果報刀杖、以二十四三昧救三毒刀杖、以二十五三昧救入空煩惱刀杖、以二十五三昧救出假無知刀杖、以二十五三昧救入中無明刀杖,一切一時皆得解脫。

さらに、円観が地大の質碍の法を観ずるとき、あらゆる十法界の三諦を明らかに悟り、地の門において慈悲を円満に起こし、法界に遍く及ぶ。静かでありながら常に照らし、機縁無くして応じることなし。もしこれを解りやすく説き明かすならば、十三昧によって果報の刀杖を救い、二十四三昧によって三毒の刀杖を救い、二十五三昧によって空に入る煩悩の刀杖を救い、二十五三昧によって仮に出る無知の刀杖を救い、二十五三昧によって中に入る無明の刀杖を救う。すべては一時に解脱を得るのである。

第五、鬼難亦為三:一、貼文,二、約證,三、觀解。貼文為四:一、標處所,二、明遭難即是苦,三、稱名即是善,四、應。

第五に、鬼の災いも三つに分けられる。第一に経文に基づく解釈、第二に証拠による裏付け、第三に観想による理解である。経文に基づく解釈はさらに四つに分けられる。第一に場所を示すこと、第二に災いに遭うこと自体が苦しみであることを明らかにすること、第三に名号を唱えることが善であること、第四にその応えである。

三千大千滿中者,此假設之辭也。若言滿中,復更從何處來?知是假言爾。上水、火何不假設滿大千耶?鬼有心識相延故滿,假設為便;水、火無心,假設為難。鬼所以畏者,觀音有威有恩,若非懷恩則是畏威,所以聞名尚不能加於惡眼,豈容興害心?害心、惡眼二俱歇也。

三千大千世界に満ちているというのは、これは仮に立てた言葉です。もし満ちていると言うなら、さらにどこから来るのでしょうか。これは仮の言葉であると知るべきです。先の水や火は、なぜ大千世界に満ちていると仮に言わなかったのでしょうか。鬼には心識があり、互いに引き寄せ合うから満ちるという仮説が立てやすいのです。水や火には心がなく、仮説を立てるのが難しいのです。鬼が畏れる理由は、観音には威厳と恩恵があるからです。もし恩恵を感じなければ、威厳を畏れるのです。だから、名前を聞くだけで、悪眼をもって加えることさえできないのに、どうして害心を起こす余裕がありましょうか。害心と悪眼は、どちらも共に消え去るのです。

次約事證者、次觀解者,若果報論鬼難者,地獄道亦應有弊惡大力鬼惱諸罪人,鬼道中力大者惱於小鬼,畜生道鬼亦噉畜生,人中可知,諸天既領鬼,何容為鬼所惱?如《阿含》中云:「有大力鬼忽坐帝釋床,帝釋大瞋,鬼光明轉盛,釋還發慈心,鬼光明滅即去。」天主既為鬼所惱,何況四王、脩羅道耶?如是等處鬼難怖畏,稱觀世音即不能加害也。

次に、実際の証拠について述べる。次に、観察と解釈について述べる。もし、因果応報の観点から鬼の災いを論じるならば、地獄道にもまた、罪人を悩ます邪悪で大力な鬼がいるはずである。鬼道の中でも力の強い者は小さな鬼を悩ます。畜生道では、鬼は獣も食らう。人道においては言うまでもない。諸天は鬼を統率しているのだから、どうして鬼によって悩まされることがあろうか。 しかし、『阿含経』にこうある。「大力の鬼が、突然、帝釈天の座に坐った。帝釈天は大いに怒ったが、鬼の光明はますます盛んになった。そこで帝釈天は慈心を起こすと、鬼の光明は消え去り、去っていった。」 天主でさえも鬼に悩まされることがある。ましてや四天王や阿修羅道はなおさらである。このようなところでは鬼の災いによる恐れがあるが、観世音の名を唱えれば、鬼も害を加えることはできないのである。

次明修因者,自有惡業名為鬼,自有鬼動三毒。如《阿含》云:「婬亦有鬼,鬼入人心則使人婬佚無度,或鬼使瞋、使邪,當知鬼亦破善。」三毒當體是鬼者,婬破梵行、瞋破慈悲、貪鬼惱不盜戒、嗜鬼惱不飲戒,乃至十善諸禪亦如是,皆為惡業鬼毀損人天動、不動業,若能稱名即不加害也。次明煩惱鬼者,見心為男鬼、愛心為女鬼,若論此鬼即得滿三千大千世界,非復假設之言。何以故?以見使歷三界有八十八、愛歷三界合有九十八,豈不遍滿?此鬼欲來惱二乘人乃至六度通別圓等行人。《大經》云:「唯願世尊,善良呪師,當為我等除無明鬼。」又云:「愚癡羅剎止住其中」,豈非煩惱鬼耶?若稱名誦念,觀智成就,能令見愛塵勞隨意所轉,不能為害也。

次に、修行の因について明らかにする。自ら悪業をなすものを鬼と名づけ、また、自ら鬼となって三毒を動かすものがある。『阿含経』に次のように説かれている。「淫欲にも鬼がいる。鬼が人の心に入ると、その人をして淫欲に溺れ、際限なくさせる。あるいは、鬼が怒りを起こさせ、邪な心を起こさせる。このように、鬼もまた善を破るものであると知るべきである。」三毒そのものが鬼である場合、淫欲は清らかな行いを破り、怒りは慈悲を破り、貪りの鬼は不盗戒を悩ませ、執着の鬼は不飲酒戒を悩ませる。十善や様々な禅定もまた同様であり、すべて悪業の鬼によって、人間や天人の動・不動の業は損なわれてしまう。もし、仏の名号を称えれば、その害を受けることはない。

次に、煩悩の鬼について明らかにする。見解の心は男の鬼となり、愛執の心は女の鬼となる。この煩悩の鬼について論じれば、その数は三千大千世界に満ちるのであり、決してたとえ話ではない。なぜなら、見惑は三界にわたって八十八使あり、愛惑は三界にわたって九十八使あるのだから、これで世界中に満ちないことがあろうか。この煩悩の鬼は、声聞・縁覚の二乗を悩まそうとし、さらには六度・通教・別教・円教の修行者をも悩まそうとする。『大般涅槃経』にはこう説かれている。「どうか世尊よ、善き呪いの師よ、私たちのために無明の鬼を除いてください。」また、「愚痴という羅刹(鬼)がその中に住んでいる」ともある。これこそが煩悩の鬼ではないだろうか。もし、仏の名号を称え、経典を誦し、観智を成就すれば、見解や愛着といった煩悩の塵労を自在に転じることができ、害されることはないのである。

次別圓本觀慈悲機應者,別觀菩薩初發心時,見諸惡鬼惱亂世間,無能救解,如訖拏迦羅等惱毘舍離,是故菩薩興起慈悲,為作擁護,若修諸善為惡所壞,亦起慈悲令善成就。若觀此鬼及以業鬼皆是因緣生法,從假入空、出假入中,皆節節慈悲誓願,於諸煩惱深達實相,成王三昧,以誓願熏修法界眾生,若遭鬼難,能遍法界救護,以事中慈悲救果報上鬼、修善慈悲救惡業鬼、以三觀慈悲救愛見無明等鬼,悉令諸鬼堪任乘御,不能為惡眼視之。如《華嚴》四十三:「迦毘羅婆城,娑婆陀夜天於日沒後見處虛空,見其身上有一切星現一毛孔中,見所化眾生或生天上、或得二乘、或修菩薩行,種種方便皆悉見聞。爾時夜天告善財言:『我於惡眾生發大慈心,不善眾生發大悲心,於聲聞、緣覺發安立一切智道心,我見眾生遠離正道、趣於邪徑、著諸顛倒、虛妄迷惑、受眾苦惱,我見此已,無量方便除諸邪惑,安立正見。』」故知法身菩薩以夜叉、鬼身能作如此安立眾生。觀音菩薩於此鬼神法門豈不通達,普應一切令得無害?若圓觀識種是愛見鬼門,一切法趣此識種鬼法門,十法界三諦具足無緣慈悲,普被一切,即是鬼門王三昧力遍應法界。若分別說者,以十三昧救事鬼、二十四三昧救惡業鬼、以二十五三昧救二乘通別圓入空鬼,乃至入中道,一切一時俱不加害。

次に、別教的・円教的観点から慈悲と機根の対応を説く。

別教において、菩薩が初めて発心する時、世間を悩ます悪鬼が数多く存在し、それを救い解く者はいない様子を見る。例えば、毘舎離を悩ました訖拏迦羅などの鬼である。そのため菩薩は慈悲を起こし、それらから護り守る。また、善を修そうとしても悪に壊される場合にも、慈悲を起こして善を成就させる。さらに、この鬼や業鬼を観察すれば、いずれも因縁によって生じたものであると知る。仮諦から空諦に入り、空諦から仮諦を出て中諦に入る、という三観のそれぞれにおいて、慈悲と誓願を起こす。ついには、諸々の煩悩において深く実相に達し、王三昧を成就する。その誓願によって法界の衆生を熏習し、もし鬼の難に遭えば、法界全体にわたって救護する。すなわち、事相の慈悲で果報上の鬼を救い、善を修する慈悲で悪業の鬼を救い、三観の慈悲で愛見・無明などの鬼を救う。そして、これらの鬼をすべて乗り御すことができるようにし、悪をなすことができなくし、瞳を動かすだけで鬼を制するのである。

『華厳経』第四十三巻にこうある。 「迦毘羅婆城において、娑婆陀夜天は日没後、虚空にいるのを見られた。その身には、一つの毛穴の中にすべての星が現れ、教化された衆生が天上に生まれたり、二乗の果を得たり、菩薩行を修したりする様子など、様々な方便がすべて見聞きできた。その時、夜天は善財に告げられた。『私は悪い衆生に対して大慈の心を起こし、不善の衆生に対して大悲の心を起こす。声聞・縁覚に対しては、一切智の道に安立する心を起こす。私は、衆生が正道を遠ざかり邪径に向かい、諸々の顛倒に執着し、虚妄に惑わされ、多くの苦しみを受けているのを見る。これを見てから、無量の方便によって邪なる惑いを取り除き、正見に安立させるのである。』」 これにより、法身の菩薩は夜叉・鬼の身をもって、このように衆生を安立させることができると知るべきである。観音菩薩が、この鬼神の法門において、どうして通達していないことがあろうか。あらゆる者に普遍に応じて、害を受けないようにさせるのである。

円教の観点からすれば、識種は愛見の鬼門である。一切の法はこの識種の鬼法門に趣入する。十法界の三諦が具足し、無縁の慈悲があらゆるものに普く及ぶ。これがすなわち、鬼門の王三昧の力が法界に遍く応ずるということである。もし区別して説くならば、十三三昧で事の鬼を救い、二十四三昧で悪業の鬼を救い、二十五三昧で二乗・通別円の入空の鬼を救い、さらに中道に入るまで、すべての鬼が一時に害を加えることができなくなるのである。

第六、枷鎖難亦為三:一、貼文,二、約證,三、觀釋。貼文為四:一、標有罪無罪,二、遭難,三、稱名,四、應。

第六に、枷鎖の難にも三つの側面があります。第一に経文の引用、第二に根拠の提示、第三に解釈です。経文の引用は四つに分かれます。一、罪ある者と無き者を明示すること。二、苦難に遭うこと。三、名号を唱えること。四、それに応じること。

上臨當被害,此定入死目,此明有罪、無罪,或是推檢未定、或可判入徒流,若判、未判,俱被禁節,明聖心等本救其囚執,不論有罪、無罪也。

被害に遭う寸前の人も、死刑が確定した人も、この教えは明らかに有罪・無罪を問いません。あるいは取り調べが未確定の人、あるいは徒刑や流罪の判決を受ける人、判決が下った人も下っていない人も、すべて拘束されているのです。聖なる心は本来、囚われている人々を救うことを目的としており、有罪か無罪かは問題にしないのです。

在手名杻、在脚名械、在頸名枷、連身名鎖,此則三木一鐵之名也。繫名繫礙,檢是封檢,繫未必檢,檢必被繫,繫而具檢,憂怖亦深。鳥死聲哀,人死言善,若能稱觀世音者,重關自開,鐵木斷壞。

手にかかるものを「杻(ちゅう)」、足にかかるものを「械(かい)」、首にかかるものを「枷(か)」、全身をつなぐものを「鎖(さ)」といい、これらは三つの木と一つの鉄の名である。つなぐことを「繫(けい)」といい、とどめることを「検(けん)」という。繫がれても必ずしも検められるとは限らないが、検められる者は必ず繫がれている。繫がれた上に検められるならば、その憂いと恐れはさらに深い。鳥は死に際に悲しい声をあげ、人は死に際に善い言葉を残すという。もし観世音菩薩を唱えるならば、重い関所は自ら開き、鉄や木の束縛も断ち壊されるであろう。

次引事證者,《應驗傳》云:「蓋護,山陽人,繫獄應死,三日三夜心無間息,即眼見觀音放光照之,鎖脫門開,尋光而去,行二十里,光明方息。張暢為譙王長史,王及暢繫,廷尉誦經千遍,鎖寸寸斷,不日即散,虛丞相云云。」

次に、実際の証拠を引くと、『応験伝』にこうある。 「蓋護[がいご]は山陽の人で、獄につながれて死罪に当たっていた。三日三夜、心を途切れさせずに念じ続けると、たちまち眼の前に観音が光を放って照らすのを目にした。枷[かせ]は外れ、門は開き、その光を追って去ること二十里にして、ようやく光は消えた。 張暢は譙王の長史であったが、王も暢もともに捕らえられ、廷尉[じょうい]に囚われた。経を千遍誦すると、枷が寸寸に断ち切れ、数日も経たないうちに解放された。虚丞相はかくかくしかじかと言った。」

三、觀釋者,地獄體是囹圄,鬼及畜生亦有籠繫,修羅亦被五縛,北方及天上自在應無此難,降是已還,無免幽厄,若能稱名,皆得斷壞也。次明修因,惡業即名枷鎖也,諸業雖有力,不逐不作者;若有造業,果終不失,故云不失法如券。若人修習諸善,被惡業覆,如大山映覆於心,使善敗壞,更增惡業,惡業即招果縛,無由可解。若欲脫此業者,因時可救,急稱觀音,能令三惡業壞。故經云:「妻子以為鎖械、錢財以為牢獄、王法以為獄籍,遮礙行人不得修道,望現在是果報縛、望過去是業。」次明聲聞者,凡夫及三果皆是有罪,羅漢是無罪。《大品》云:「摩訶那伽,雖有罪、無罪,同在三界獄中,五陰繩所縛,三相無常,檢束印封之。」權實上惑名杻、定慧上惑名械、中道上惑名枷、法身上惑名鎖,如是等束縛行人不能得脫,稱名繫念必蒙靈應。若發定慧是械斷、若發權實是杻斷、若破無明是枷斷、法身顯現是鎖斷、入無餘涅槃是縛斷、免三相是離檢、出三界是出獄,此復有通別意。次明支佛六度行通別圓,若論枷鎖猶是地質礙。別圓本觀所起慈悲,遍應之義不異於前。若三千大千以表空種,王、賊、鬼等以表識種,論其十番普應,此亦如前論其本觀。

第三に、観音の救いについて解釈する。地獄の本体は牢獄であり、餓鬼や畜生もまた繋がれている。修羅も五つの束縛を受けており、北方(鬱単越)や天上の自在な境地にはこの苦難はないはずだが、それ以下に留まるものは幽閉の苦しみを免れない。しかし、もし観音の名を唱えるならば、すべての束縛は断ち切られ、滅ぼされるのである。

次に、因を作ることについて明かす。悪業はまさに枷や鎖である。諸々の業には力があるが、業を作らなければ追いかけてこない。しかし、もし業を作れば、その果報は決して失われることがない。ゆえに「法は失われず、証文のようなものである」と説かれている。もし人が諸々の善を修めても、悪業に覆われるならば、それは大山が心を覆い隠すように、善を損なわせ、さらに悪業を増す。悪業はすぐに果報による束縛を招き、逃れるすべはない。

もしこの業から脱したいと願うならば、因の時に救いは可能である。急いで観音の名を唱えれば、三悪道の業を壊すことができる。ゆえに経典には「妻や子は枷や鎖であり、金銭や財産は牢獄であり、王法は獄の戸籍である。これらは修行者を妨げ、道を修めることを遮る。現在を観れば果報の束縛であり、過去を観れば業である」と説かれている。

次に、声聞について明かす。凡夫から三果まではみな罪があるが、阿羅漢は無罪である。『大品般若経』には「摩訶那伽は、罪があるとも無罪であるとも言えるが、同じく三界の獄中にあり、五蘊の縄に縛られ、三つの相(無常・苦・無我)が無常であり、検められ封印されている」と説かれている。

権や実に関する迷いを「杻(手枷)」と名づけ、定や慧に関する迷いを「械(足枷)」と名づけ、中道に関する迷いを「枷(首枷)」と名づけ、法身に関する迷いを「鎖」と名づける。このように、様々な束縛が修行者を絡め取り、逃れることができない。しかし名を唱え、心を一つに念じれば、必ず霊妙な応えを得る。もし定や慧を発すれば械は断たれ、権や実を発せば杻は断たれ、無明を破れば枷は断たれ、法身が顕現すれば鎖は断たれ、無余涅槃に入れば束縛は断たれ、三相(無常・苦・無我)を免れれば検めから離れ、三界を出れば牢獄を出たことになる。これにはさらに通(共通の意味)と別(個別の意味)がある。

次に、独覚と菩薩の六度(六波羅蜜)の修行について、通・別・円の三教の立場から明かす。枷や鎖について論じるならば、それは依然として地大の質礙(物質的な障害)によるものである。別教や円教の本来の観行から起こる慈悲が、遍く応じるという意味は、前に述べたものと変わらない。三千大千世界をもって空種を表し、王・賊・鬼などをもって識種を表すと論じるならば、その十種の普遍的な応化についても、これは前に述べた本来の観行と同様に論じられる。

今當說菩薩見眾生以空識成果報身,還為空識所惱,修諸善時,空識之業亦能壞善,觀空識有三諦之障、有三諦之理,如是節節皆起慈悲,悲欲拔眾生苦;慈欲與眾生樂。故《淨名》云:「菩薩觀四大種、空種、識種皆空空故。」無四大、無空、無識,是為入不二法門,成王三昧,能遍十法界垂應,以事中慈悲救果報空識難、以修善慈悲救惡業空識難、以三觀慈悲救煩惱空識難,故知觀音於空識法門而得自在。《華嚴》三十九:「善住比丘於虛空中大作佛事。」若作圓觀,觀空種因緣性相本末究竟等,則一切十法界悉趣空門;識亦如是。起無綠慈悲熏諸眾生,十法界有機,即能一切一時而得解脫。

さて、菩薩が衆生を見るに、彼らは空や識によって果報の身を成就しながら、その同じ空と識に悩まされていることを説きます。 善を修める時にも、空と識の業が善を壊してしまうことがあります。 空と識には三つの真理を遮る障りと、三つの真理そのものの理があると観じます。 このように一つ一つの段階で慈悲が生じます。 悲は衆生の苦を取り除こうと願い、慈は衆生に楽を与えようと願います。 ゆえに『浄名経』にはこうあります。 「菩薩は四大の種、空の種、識の種を観じていずれも空であるゆえに空なりと見る。 四大もなく、空もなく、識もない。 これが不二の法門に入ることである」と。 こうして王三昧を成就し、十法界の全てにわたって応現することができます。 事の上の慈悲によって果報の空と識の苦しみを救い、 善を修める慈悲によって悪業の空と識の苦しみを救い、 三観の慈悲によって煩悩の空と識の苦しみを救います。 これにより、観音は空と識の法門において自在を得ていると知るべきです。 『華厳経』第三十九巻には、 「善住比丘は虚空の内で大いに仏事を行じた」とあります。 もし円融の観法によって、空の種の因縁・性・相・本・末・究竟などが平等であると観ずれば、 あらゆる十法界はことごとく空の門に向かいます。 識もまた同じです。 無縁の慈悲を起こして衆生を薫じ、十法界に機縁があれば、すべての者が一時に解脱を得ることができるのです。

第七、怨賊難亦為三:一、貼文,二、約證,三、觀釋。貼文為四:一、標難處,二、標遭難人,三、明有機,四、明應。

第七、怨賊の難もまた三あり。一には文に即して説明し、二には証によって説き、三には観に基づいて釈する。文に即した説明は四つに分かれる。一には難の場所を示し、二には難に遭う人を示し、三には機縁のあることを明らかにし、四には応答を明らかにする。

難處者,先明處,即是大千國土。次明難,即滿中怨賊。滿中,假設之辭也。國曠賊多,聖力能救,顯功之至也。怨者,此難重也。賊本求財,怨本奪命,今怨為賊,必財命兩圖。若過去流血名怨、現在奪財名賊,如此怨賊遍滿大千尚能護之,輕者豈不能救也?

苦難の場所とは、まず場所を示せば、それは大千世界です。次に苦難を示せば、すなわちその世界に満ちる怨敵のことです。「満ちる」とは、仮に立てた言葉です。国土は広く賊は多いが、聖なる力は救うことができる、その功徳の素晴らしさを示しています。「怨」とは、この苦難が重いことを意味します。賊は本来、財を求めるもの、怨は本来、命を奪うものです。今、怨が賊となるなら、必ず財と命の両方を狙うでしょう。もし過去に血を流させたものを怨、現在に財を奪うものを賊と言うなら、このような怨賊が大千世界に満ちていてもなお守ることができるのですから、軽いものはどうして救えないことがありましょうか。

二、標遭難人者,即商主也。此又為四:一、明主,二、有從,三、懷寶,四、涉險。商者訓量,此人擇識貴賤,善解財利,商量得宜,堪為商人之主。既有商主,即有將領。諸商人既涉險遠,所齎者必是難得之貨,故言重寶也。險路者,或可曠絕幽隘名為險路、或值怨賊衝出之處名為險路者也。

第二に、難に遭う人とは、すなわち商人の長のことです。これにはさらに四つの意味があります。第一に長を明らかにすること、第二に従う者があること、第三に宝を携えること、第四に危険な道を行くことです。「商」という字は「はかる」と訓じます。この人は品物の良し悪しを見分け、利益についてよく理解し、取引を適切に判断できるため、商人の長となるにふさわしいのです。商人の長がいれば、率いる者たちがいます。商人たちが危険で遠い道を行く以上、携えるものは必ず貴重で容易に手に入らない品物です。故に「重宝」と言うのです。危険な道とは、あるいは果てしなく人里離れた狭い道を「険路」と言い、あるいは恨みを持つ賊が襲いかかってくる場所を「険路」と言うのです。

機者亦四,先明:一、人安慰,二、勸稱名,三、歎德,四、眾人俱稱。所以安慰者,止其恐怖也;所以勸稱名者,設其上策也;所以歎德者,獎令定膽也。若不安慰則怖遽慞惶,雖安慰止怖,若不設計,唐慰何益?故勸稱名。雖勸稱名,若不歎德設計,則心不定,膽亦不勇,所以歎德。故知此菩薩決定能施無畏,決果依憑,三義既足,俱時稱唱,機應即得解脫也。南無云歸命,亦稱為救我,次結口機也。

機というのは四つの意味があります。まず明らかにします。第一に、人を安心させること、第二に、名号を称えることを勧めること、第三に、その功徳を讃えること、第四に、皆が一緒に称えることです。

安心させるのは、その人の恐怖を取り除くためです。名号を称えることを勧めるのは、最も優れた方法を示すためです。功徳を讃えるのは、勇気づけて心を定めさせるためです。

もし安心させなければ、怖れ慌てて戸惑うばかりでしょう。しかし、安心させて怖れを止めても、もし良い方法を提示しなければ、ただ慰めただけで何の益もありません。だから名号を称えることを勧めるのです。名号を称えることを勧めても、もしその功徳を讃えて方法を示さなければ、心は定まらず、勇気も湧きません。だから功徳を讃えるのです。

これによって、この菩薩は必ずや無畏(おそれのない心)を施すことができ、必ずや頼るべき確かなよりどころであると知るべきです。この三つの意味が備わったならば、共に声を揃えて称えれば、機(衆生の側)と応(菩薩の側)が即座に叶い、解脱を得ることができるのです。

「南無」とは「帰命」を意味し、「私を救え」とも訳されます。次に、口による機(衆生の側の行い)を結び示しています。

今言觀音勢力既大,加護亦曠,豈止七難而已?當知遍法界皆能救護,故言巍巍。巍巍者,重明高累之辭也。明觀音之力出於分段之外,豎應二土,故言重明;載沐神應,故言高累。以是義故,故言巍巍如是也。二、約事證者,《應驗傳》云:「慧達以晉隆安二年,北隴上掘甘草。于時羌餓,捕人食之。達為羌所得,閉在柵中,擇肥者先食。達急,一心稱名誦經,食餘人稍盡,唯達并一小兒,次擬明日,達竟夜誦,猶冀一感,向曉羌來取之,忽見一虎從草透出咆哮,諸羌散走,虎因齧柵,作一穴而去,達將小兒走叛得免。又,裴安起從虜叛還,南至河邊不能得過,望見追騎在後,死至須臾,於是稱觀世音,見一白狼,安起透抱,一擲便過南岸,即失狼所,追騎共在北岸望之,歎惋無極。道明於武原劫奪船道,往徑遇賊難等。」

さて、観音様の力は非常に大きく、そのご加護も広大であると説かれました。では、その力はわずか七難を救うだけに留まるのでしょうか?いいえ、そうではありません。『法界の全てにわたって救済の力が及ぶ』ことを知るべきであり、それゆえに「巍巍(ぎぎ)」と表現されるのです。

「巍巍」とは、「重ねて明らかにし、高く積み重ねる」という意味の言葉です。観音様の力が、迷いの世界である「分段生死」の枠を超え、さらに上の二つの国土(方便有余土・実報無障礙土)にも応じて働くことを「重明」と表し、その神々しい力の恵みを繰り返し受けることを「高累」と表現します。これらの意味から、観音様の力は「巍巍」たるものだと言えるのです。

次に、実際の出来事による証拠をご紹介しましょう。『応験伝』には次のような話があります。

「慧達という僧が、晋の隆安二年、北隴の地で甘草を掘っていたところ、その時は羌族が飢えており、人を捕らえて食べていました。慧達は羌に捕らえられ、柵の中に閉じ込められました。彼らは捕らえた者の中から肥えた者を選んで食べていました。慧達は差し迫り、一心に観音様の名を唱え経を誦していました。他の囚人は次々に食べられ、ついに慧達と一人の幼い少年だけが残り、翌日にはその順番が来るようになりました。慧達は一晩中誦経し、ただ一つの感応を願いました。夜が明けようとする頃、羌が二人を連れ出そうとやって来ました。すると突然、虎が草むらから飛び出し、大声で咆哮したのです。羌たちは驚き散り散りに逃げ、虎は柵を噛み破って穴を開け、立ち去りました。慧達は幼い少年を連れて逃亡し、難を逃れることができました。

また、裴安起という男が敵の捕虜から逃げ帰り、南の川岸まで来たものの川を渡れずにいました。背後には追跡の騎兵が迫り、今にも死が訪れようとしていました。そこで彼は観世音菩薩の名を唱えると、一匹の白い狼が現れました。安起はその狼に飛びつき、抱きつくと、ひと飛びで南岸に渡ることができ、すると狼は忽然と姿を消しました。追跡していた騎兵たちは皆、北岸からその光景を眺め、ただ嘆き悲しむばかりでした。

道明という者は武原で船の強奪に巻き込まれ、航行中に賊の難に遭遇した。」など、このような逸話が数多く伝えられています。

三、觀釋者,若果報論怨賊者,從地獄至第六天皆有鬪諍。如《阿含》云:「忉利戰不如修羅,索援至第六天。」如此怨會,稱名得脫也。次修善時,惡多是怨,猶如氷炭,稱名惡退,善業成就,如闇滅明生。次明煩惱為怨賊者,一切煩惱是出世法怨、商主是三師羯磨、受戒人是商人、無作戒是重寶、五塵是怨賊,或法師是商主、商人是徒眾、理教是重寶、兩遇魔事是怨賊,或心王是商主、心數是商人、正觀之智是重寶、覺觀為怨賊,或般若是商主、五度萬行是商人、法性實相是重寶、六蔽是怨賊,將此意歷諸教義自在作悉成,稱名即得解脫也。復次,約怨賊難結,成別圓慈悲應,例前可解云云。

三つ目の「観釈」について。まず、果報の面で怨賊を考えるなら、地獄から第六天に至るまで、あらゆる世界に争いがあります。『阿含経』にこうあります。「忉利天は阿修羅に勝てず、第六天にまで救援を求めた」。このように怨みの者が集まっても、名号を称えれば解脱できるのです。次に善を修する時、悪が多いことが怨みであり、それは氷と炭のように相容れませんが、名号を称えれば悪は退き、善業が成就します。これは闇が滅びて明かりが生じるようなものです。

次に、煩悩を怨賊とする見方です。一切の煩悩は、出世間の法にとっての怨みです。商主は三師(戒師・羯磨師・教授師)の羯磨に、商人は受戒する人に、無作の戒体は重宝に、五つの塵境は怨賊にたとえられます。あるいは、法師が商主で、弟子たちが商人、理と教えが重宝、魔の障害が怨賊です。また、心王が商主で、心数(心のはたらき)が商人、正観の智慧が重宝、覚りや分別思考が怨賊です。さらに、般若が商主で、五度(布施・持戒・忍辱・精進・禅定)の万行が商人、法性の実相が重宝、六蔽(六度を妨げる煩悩)が怨賊です。このような見方を様々な教えに当てはめて自由に解釈すれば、すべて成り立ち、名号を称えれば直ちに解脱を得られます。

さらに、この怨賊の難についてまとめて、別教・円教における慈悲の働きに結びつけることもできますが、その例は先に述べた通りです。

觀音義疏卷上

観音義疏 巻上


第二

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