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占察善悪業報経義疏 (佔察善惡業報經義疏)


△序段為二:初、證信序,二、發起序。今初。

初めに「序分」を二つに分けます。第一は「証信序」、第二は「発起序」です。今、第一の部分をご説明します。

如是我聞:一時,婆伽婆一切智人,在王舍城耆闍崛山中,以神通力示廣博嚴淨無礙道場,與無量無邊諸大眾俱,演說甚深根聚法門。

私がこのように聞きました。ある時、全てを知る尊き方(世尊)が、王舎城の霊鷲山において、神通力によって広大で厳かに清らかな、何の妨げもない悟りの場を示されました。そして、数え切れないほどの多くの人々と共に、深遠な「根の集まり」の教えを説かれました。

如是者,指所聞法體,謂如於一實境界之是,無錯謬也。我者,阿難分證法身、般若、解脫、常、樂、我、淨之德,得八自在,非我非無我,隨世假名而稱我也。聞者,阿難了達根性、聲性、識性,皆是一實境界,能所圓融,非聞非不聞而言聞也。一時者,圓感圓應,始終不出現前一念也。婆伽婆一切智人者,究竟圓證一實境界大覺世尊,由一切眾生同分善根所感,各于心中所現之教主也。梵語婆伽婆,亦云薄伽梵。具六義,故不翻。乃總眾德至尚之名。謂如來永不繫屬諸煩惱故,具自在義;猛𦦨智火所燒鍊故,具熾盛義;妙三十二大丈夫相,八十種好所莊飾故,具端嚴義;一切殊勝功德圓滿,無不聞故,具名稱義;一切世間親近供養,咸稱讚故,具吉祥義;自利滿足,常起方便,利益安樂一切有情,無懈廢故,具尊貴義。圓滿一切種智薩婆若果,于一實境界,若權若實,究盡明了,無有不知,無有不見,故名一切智人也。王舍城耆闍崛山者,王舍,梵稱羅閱祇伽羅,中天竺境,阿闍世王所都。耆闍崛,此翻靈鷲,離王舍城東北有三四里。此城此山,乃同居土,一切眾生共相識種所變器界,即是各各自第八識之相分境,更互為增上緣,更互為質為影,和合似一,而實各得其全,以為依報,無雜無障礙也。一切智人,亦在其中者,大慈悲力,應可化機,不離常寂光土,而垂凡聖同居穢土之相。秖此穢土,若在眾生分中,則是有漏相分;若在諸佛分中,則是無漏相分也。以神通力,示廣博嚴淨無礙道場者,秖此靈山,本是唯心所現,以心為體,心外無山。心廣博故,山亦廣博;心嚴淨故,山亦嚴淨;心無礙故,山亦無礙。廣博是性量,量同虗空,離一切相,故是般若德;嚴淨是性具,具無邊德,即一切法,故是解脫德;無礙是性體,體融遮照,非空非有,不礙空有,故是法身德。法身即常,解脫即寂,般若即光。蓋本是常寂光土,性德妙境,眾生迷之,而為同居穢土,于佛恒是廣博嚴淨無礙道場,修德滿足,恒自受用,稱性法樂,亦名上品實報淨土,無示不示。今為一類眾生,堪能返迷歸悟,佛以神通之力,加被令見,則是不離同居,橫覩他受用土,故名示也。神者,天然不測之體,即法身德;通者,照了無滯之慧,即般若德;力者,轉變自在之能,即解脫德。由諸佛心內眾生,修德有功,故能感于眾生心內之佛,為示妙境;由眾生心內之佛,性德圓證,故能應於諸佛心內眾生,令見道場。秖此道場,若在諸佛分中,則是無漏相分;若在眾生分中,則是有漏相分也。是故同居穢土眾生本質恒是有漏,佛托眾生有漏本質所變相分恒是無漏,同能變識是無漏故。無礙道場諸佛本質恒是無漏,眾生托佛無漏本質所變相分恒是有漏,同能變識是有漏故。離却佛及眾生之心,則有漏無漏.若質若影皆不可得,故云一切唯心惟是一實境界也。與無量無邊諸大眾俱者,同聞眾也。此諸大眾若已證同生性者,則與諸佛分同無漏,若猶在異生性者,則與眾生同屬有漏,應取圓住別地已上名同生性。若圓十信、別三賢、通八人以上、藏四果辟支,望偏真理得名同生,望此一實仍名為異生也。演說甚深根聚法門者,指所已說梵文未來,據後文云六根聚修多羅,應如央掘經所明具足無減修,亦如普賢觀經所明淨六根法也。蓋迷一實境界幻成六根,隨一一根一切諸法無不趣之,眼為法界具足出生十界百界千如三千性相無欠無餘,耳鼻舌身意亦復如是,故名根聚。秖此根聚全攬一實境界而成,即復圓具一實境界全體大用,故名甚深。秖此甚深根聚能生物解任持自性,故名為法。即法能通,復名為門。由演此法,誠恐末世鈍根不能信解,橫于一實境界而起疑悔,所以堅淨信菩薩重興哀請,當知已得為發起序,例如欲說法華先說無量義也。

これは、「如是」とは、聞いた法(道理)の本体を指し、「如」とは、一実境界の真実の姿に「是(その通り)」と、誤りなく合致していることを意味します。「我」とは、阿難が法身・般若・解脱・常・楽・我・浄の功徳を証得し、八つの自在を得て、「我」にも「無我」にも執着せず、世俗に従って仮に名前を借りて「我」と称しているのです。「聞」とは、阿難が根(感官)の性質・声の性質・識(認識)の性質をすべて悟り、それらすべてが一実境界であり、能(認識する側)と所(認識される側)が円融しており、「聞く」でも「聞かない」でもないことを「聞く」と言っているのです。「一時」とは、円満な感応が、始終、現在の一瞬の心を離れないことを意味します。「婆伽婆(一切智人)」とは、究極に一実境界を円満に証得した、大覚世尊(仏陀)のことです。これは、すべての衆生が共通して持つ善根の感応によって、各々の心の中に現れる教主です。梵語の「婆伽婆」は、また「薄伽梵」ともいいます。六つの意味を備えているため、翻訳されません。これは、あらゆる功徳を総合した至高の名であり、如来は決して煩悩に縛られることがないことから「自在」の義、智慧の猛火に鍛えられていることから「熾盛」の義、優れた三十二相や八十種好で荘厳されていることから「端厳」の義、あらゆる殊勝な功徳が円満で知られていないことがないことから「名称」の義、世間のすべてが親しく供養し称賛することから「吉祥」の義、自利を満足させ、常に方便を起こして利益と安楽をすべての有情(生きとし生けるもの)に与え、怠ることがないことから「尊貴」の義を表します。あらゆる種智、薩婆若(すべてを知る智慧)の果報を円満し、一実境界において、権(仮の教え)も実(真実の教え)も究めて明らかにし、知らないことも見えないこともないので、「一切智人」と呼ばれるのです。「王舎城耆闍崛山」とは、王舎城は梵語で「羅閲祇伽羅」といい、中天竺(中央インド)の地で、阿闍世王の都です。耆闍崛は、この国では「霊鷲(りんじゅう)」と訳し、王舎城の東北から三里四里ほど離れたところにあります。この城とこの山は、凡聖同居土(凡夫と聖者が共に住む世界)であり、すべての衆生が共通に認識する種子が変じてできた器の世界です。これは、各々の第八識(阿頼耶識)の相分(認識される対象)の境であり、互いに増上縁(助け合う縁)となり、互いに質(本体)となり影(影像)となり、和合して一つのように見えますが、実際には各々がその全体を得て、依報(環境)としており、混ざり合うことなく妨げもありません。一切智人(仏陀)もまたその中にいます。これは、大慈悲の力によって、教化できる機縁に応じ、常寂光土(永遠の真理の世界)を離れずに、凡聖同居の穢土(けがれた世界)の姿を現しているのです。この穢土も、衆生の側から見れば有漏(煩悩のある)の相分であり、諸仏の側から見れば無漏(煩悩のない)の相分なのです。神通力によって、広大で荘厳清浄な、障りのない道場を示すとは、ただこの霊山も、もとは唯心(心のみ)が現じたものであり、心を体とし、心の外に山はありません。心が広大であるから山も広大であり、心が荘厳清浄であるから山も荘厳清浄であり、心に障りがないから山も障りがありません。広大とは性(本質)の量であり、その量は虚空の如く、あらゆる相を離れているので、般若徳です。荘厳清浄とは性に備わるものであり、無辺の功徳を備え、あらゆる法(現象)に即しているので、解脱徳です。障りがないとは性の体であり、その体は遮(否定)と照(顕現)に融け合い、空でも有でもなく、空と有を妨げないので、法身徳です。法身は常(永遠)、解脱は寂(静けさ)、般若は光(智慧)です。もともとは常寂光土であり、性徳の妙境ですが、衆生はそれに迷って凡聖同居の穢土としています。仏にとっては、常に広大で荘厳清浄な、障りのない道場であり、修徳(修行による功徳)が満ちており、常に自ら受用し、性にかなった法の楽しみを味わっています。これは上品実報浄土とも呼ばれ、示すとか示さないとかいうことはありません。今、ある種の衆生で、迷いを離れて悟りに帰ることができる者たちのために、仏は神通力をもって彼らにこの境地を見せてくださいます。これは、同居土を離れずに、他受用土(他者のための仏の浄土)を横に見ることであり、これを「示す」と言うのです。「神」とは、天(自然)にして測り知れない体であり、法身徳です。「通」とは、照らし通す滞りのない智慧であり、般若徳です。「力」とは、転変自在の働きであり、解脱徳です。諸仏の心の中にある衆生が、修徳の功によって、衆生の心の中にある仏に感応して、妙境を示すのです。また、衆生の心の中にある仏が、性徳を円満に証得しているので、諸仏の心の中にある衆生に応じて、道場を見させるのです。この道場も、諸仏の側から見れば無漏の相分であり、衆生の側から見れば有漏の相分なのです。それゆえ、凡聖同居の穢土の衆生にとっての本質(本体)は常に有漏ですが、仏が衆生の有漏な本質に依って変じた相分(影像)は常に無漏です。なぜなら、能変の識(変化を起こす認識)が無漏だからです。障碍のない道場の諸仏の本質は常に無漏ですが、衆生が仏の無漏な本質に依って変じた相分は常に有漏です。なぜなら、能変の識が有漏だからです。仏と衆生の心を離れれば、有漏・無漏、質(本体)・影(影像)はすべて得られません。ゆえに「一切唯心(すべては心のみ)」であり、「ただ一実境界のみ」であると言われるのです。「無量無辺の諸大衆と倶に」とは、同じくこの教えを聞いた人々のことです。これらの大衆の中で、すでに同生性(仏と生まれを同じくする性質)を証得した者は、諸仏と同様に無漏の分を有し、まだ異生性(凡夫の性質)にある者は、衆生と同様に有漏に属します。円教の十住、別教の初地以上を同生性とすべきでしょう。もし、円教の十信、別教の三賢、通教の八人地以上、蔵教の四果や辟支仏なら、偏った真理に対しては同生性と言えますが、この一実境界に対しては、やはり異生性と呼ばれます。「甚深根聚法門を演説する」とは、すでに説かれたが梵文(サンスクリット語の原典)が伝わっていない教えを指します。後の文に「六根聚修多羅(経典)」とあるので、『央掘魔羅経』に説かれる「具足無減修」や、『普賢観経』に説かれる「六根を清める法」のようなものに相当するでしょう。すなわち、一実境界に迷って幻のように六根が生じ、それぞれの根に、あらゆる諸法がことごとく趣入します。眼は法界そのものであり、十界・百界・千如・三千性相を余すところなく具足して生じます。耳・鼻・舌・身・意もまた同様です。これが「根聚」です。この根聚は、すべて一実境界を集めて成り立っており、さらに一実境界の全体と大用を円満に具えています。これを「甚深」と言います。この甚深な根聚が、物(生きとし生けるもの)に対して理解を生じさせ、自らの性質を保ち持つことができるので、「法」と呼びます。この法が通ずるので、さらに「門」と呼びます。この法を説くのは、末世の鈍根の者が信解できず、一実境界に対して疑いや後悔を起こすことを恐れたからです。そこで堅浄信菩薩が再び哀れみをもって請願しました。これがすでに発起序(説法を引き出す導入部)となっていることを知るべきでしょう。例えば、法華経を説く前に『無量義経』が説かれたようなものです。

△二、發起序二:初、略請,二、正問。初中二:初、請,二、許。今初。

## 第二段 発起の序 二つに分かれる。第一に略請、第二に正問。略請の中はさらに二つに分かれる。第一に請、第二に許。今、その最初の部分を説く。

爾時,會中有菩薩名堅淨信,從座而起,整衣服,偏袒右肩,合掌白佛言:我今於此眾中欲有所問,諮請世尊,願垂聽許。

その時、その集いの中に「堅浄信」という名の菩薩がおりました。彼は座を立ち、衣を整え、右肩を露わにして、合掌して仏に申し上げました。 「私は今、この衆の中でお尋ねしたいことがございます。どうか世尊よ、私の問いをお聞き届けください。」

自于一實境界淨信堅固,又能令他淨信堅固,故名堅淨信菩薩也。若分釋者,正因名堅,緣因名淨,了因名信,緣、了二因同依正因,不可破壞,故名堅淨信也。偏袒右肩者,事釋則是表于敬順,理解則是表露善權。合掌白佛者,事釋則是表于一心,理解則是權實脗合,獨歸大覺。諮請聽許者,西國常儀,欲有所問,並須求聽,不同此土鹵莽搪揬,絕無敬慎禮節也。
△二許。
佛言:善男子!隨汝所問便可說之。
一切智人,有問必答,降佛以下,皆所不能。故舍利弗.富樓那等,有人問時,但云:我若知者,當隨力答耳。
△二、正問二:初、問法,二、問人。初中二:初、述佛語致問,二、佛指人為答。初又二:初、正述佛語,二、為眾致問。今初。
堅淨信菩薩言:如佛先說:若我去世正法滅後,像法向盡及入末世,如是之時眾生福薄多諸衰惱,國土數亂災害頻起,種種厄難怖懼逼繞,我諸弟子失其善念,唯長貪瞋嫉妬我慢。設有像似行善法者,但求世間利養名稱以之為主,不能專心修出要法。爾時眾生覩世災亂心常怯弱,憂畏己身及諸親屬,不得衣食充養軀命。以如此等眾多障礙因緣故,於佛法中鈍根少信得道者極少,乃至漸漸於三乘中信心成就者亦復甚尠,所有修學世間禪定發諸通業自知宿命者次轉無有,如是於後入末法中經久得道獲信禪定通業等一切全無。
福薄,是衰惱厄難之因。衰惱厄難,是失其善念之緣。失念,是長貪求利,不修出要之因。不修出要,是怯弱鈍根,少信之緣。所以非但不能獲一乘實道,亦復不能成三乘權信。非但不能修出世權實,亦復不能修世間禪定通業。所謂天人眾減少,三惡道充滿也。問:諸佛菩薩,大慈.大悲.大願.大力,何以不能救此末劫?答:譬如赫日當空,不能令覆盆之下,蒙其光照。同在太虗空中,自成障隔,非赫日之咎也。一切眾生,亦復如是。同在一實境界之中,自以無明虗幻覆障。故於廣博嚴淨無礙道場,妄見惱亂,而生憂畏。即於如來所證剎那際三昧中,妄見遷流,而為末世。今以慈悲願力,請問方便,為其作增上緣。倘依此法,撤去無明覆盆,則覩自心本具太空佛日矣。
△二、為眾致問。
我今為此未來惡世像法向盡,及末法中有微少善根者,請問如來,設何方便開示化導,令生信心得除衰惱?以彼眾生遭值惡時,多障礙故退其善心,於世間出世間因果法中數起疑惑,不能堅心專求善法,如是眾生可愍可救。世尊大慈一切種智,願興方便而曉喻之,令離疑網除諸障礙信得增長,隨於何乘速獲不退。
善根深者,必於正法像法時世,早得度脫,不致遭值法盡。及末世時,無善根者,縱令得遇正法像法,尚不見聞,況在末法,何由可度。今則正為有少善根,值障易退,故特求方便,以愍救之也。由多障礙故可愍,由有微少善根故可救。大慈則兼愍一切,況有少善根者而不愍耶。種智則無法不知,況此虗妄疑網而難救耶。然苟無善根,則大慈雖愍,而無由可救。苟非種智,則善根雖有,而無由決疑。故知感應相關,各有全力,不出一念,仍非共生也。隨於何乘者,為實施權,不得執一。速獲不退者,開權顯實,終無定三也。初述佛語致問竟。
△二、佛指人為答。
佛告堅淨信言:善哉,善哉!快問斯事,深適我意。今此眾中有菩薩摩訶薩,名曰地藏,汝應以此事而請問之。彼當為汝建立方便,開示演說,誠汝所願。
一善哉,讚其快問斯事,下逗羣機。一善哉,讚其深適我意,上契佛旨也。萬法由之,依持建立,故名曰地。多所容受,而無積聚,故名曰藏。地即心地,能載能生。藏即性藏,可出(去聲)可內(音納)。無不從此法界流,名之為出。無不還歸此法界,名之為內。又六根、六塵、六識,名為理藏。六度、四等、四攝、三十七品,名為行藏。一一理藏,各具行藏,則理名為地,行名為藏。一一行藏,並證理藏,則行名為地,理名為藏。又惟是一實境界,約持載義,名之為地。約含容義,名之為藏。秖一心性體上,有此持載.含容二義,證此體用,名地藏也。又大集經,有日藏.月藏.須彌藏.虗空藏.天藏等。諸大菩薩,各從所觀境而立名。如觀察虗空無邊,入三摩地,名虗空藏。今此菩薩觀地獄苦,發菩提心,證得地獄界之三德秘藏,能救十方大地獄苦,故名地藏。又如大集經中,海慧菩薩欲來,則眾見大水盈滿;虗空藏菩薩欲來,則大千世界忽皆不見;月藏菩薩欲來,則大眾頭上皆現半月;地藏菩薩欲來,則眾會手中各各現如意珠,雨寶放光,見十方土。又見身各地界增強,堅重難舉。當知一切依正、四大虗空、山海日月,無非如來藏性一實境界。諸佛菩薩隨以一法為所觀境,證得此法之實性已,即證一切法之實性。故一切法皆趣此法,即以此法名之為藏也。誠如所願,誠者,實也。疑或作成,成者,滿也。初問法竟。
△二、問人二:初、疑問,二、釋答。今初。
時堅淨信菩薩復白佛言:如來世尊無上大智,何意不說,乃欲令彼地藏菩薩而演說之?
恐眾有疑,故代騰請,世尊由此得發迹也。
△二、釋答三:初、總誡,二、別釋,三、結答。今初:
佛告堅淨信:汝莫生高下想。
眾生不知本迹無定,則必以佛為高,菩薩為下,皆是妄想分別。由此分別,不入堅信法門,故寄堅淨信以規一切也。
△二、別釋二:初、直明位高,二、兼明緣勝。今初。
此善男子發心已來,過無量無邊不可思議阿僧祇劫,久已能度薩婆若海功德滿足,但依本願自在力故,權巧現化影應十方。
發心過無量阿僧祇劫,明其本因深也。度薩婆若功德滿足,明其本果高也。權巧現化影應十方,明其迹用廣大也。
△二、兼明緣勝,又二:初、悲勝願,二、慧辯勝。今初:
雖復普遊一切剎土常起功業,而於五濁惡世化葢偏厚,亦依本願力所熏習故,及因眾生應受化業故也。彼從十一劫來莊嚴此世界成熟眾生,是故在斯會中身相端嚴威德殊勝,唯除如來無能過者。又於此世界所有化業,唯除遍吉、觀世音等,諸大菩薩皆不能及。以是菩薩本誓願力,速滿眾生一切所求,能滅眾生一切重罪,除諸障礙現得安隱。
雖復位高,仍須願力熏習;雖有願熏,又須應受化業。故唯識云:諸有情類,無始時來,種性法爾,更相繫屬,或多屬一,或一屬多,故所化生,有共不共。不爾,多佛久住世間,各事劬勞,實為無益,一佛能益一切生故。當知佛能度脫一切眾生,而終不能度無緣者,非虗語也。普遊一切剎土,常起功業,是無緣大慈,不捨一切也。而於五濁惡世,化益偏厚,是同體大悲,尤憫剛強也。本願力所熏習,謂往昔所發大願,眾生度盡,方證菩提,地獄未空,不取正覺也。眾生應受化業,謂多劫曾結法緣,聞名覩影,易起信心,聆法蒙光,能獲果證也。遍吉亦名普賢,觀世音亦名觀自在,此二菩薩,亦與此界有大因緣,故與地藏大士相同。餘大菩薩,縱令位高慧勝,不讓此三大士,而眾生緣淺,故皆不能及其化益也。
△二、慧辨勝。
又是菩薩名為善安慰說者,所謂巧說深法,能善開導初學發意求大乘者,令不怯弱。
即指下文善巧說法,及進趣大乘,方便占察三種輪相法也。二、別釋竟。
△三、結答。
以如是等因緣,於此世界眾生渴仰受化得度,是故我今令彼說之。
渴仰有世界益,受化有為人對治益,得度有第一義益,即是四悉檀因緣,故令說也。初序段竟。

科分
二正說段

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