大乘百法明門論解卷上(本地分中略錄名數)
大乗百法明門論解 上巻
天親菩薩造
天親菩薩造
唐三藏法師玄奘奉 詔譯
三蔵法師玄奘奉詔訳
唐慈恩法師窺基註解
唐の慈恩法師 窺基 註解
明魯庵法師普泰增修
明魯庵法師普泰増修
大者揀小為義,乘者運載得名,(名義互言)百數也,法謂世出世之法,故心法八、心所五十有一、色乃十一、不相應二十有四、無為法六,故為大乘百法也。明乃菩薩無漏之慧,以能破暗故。門以開通無壅滯為言,論乃揀擇性相,教誡學徒之稱。
「大」とは小を簡別するという意味であり、「乗」とは運び載せるという名である。(「名」と「義」は互いに言い換えられる。)「百」とは数のことである。「法」とは世間・出世間の法を指す。すなわち、心法が八つ、心所法が五十一、色法が十一、不相応行法が二十四、無為法が六つあり、これらを合わせて大乗の百法とする。「明」とは菩薩の無漏の智慧であり、闇を破ることができるからである。「門」とは開き通して滞りがないことを意味する。「論」とは、諸法の自相と共相を選び分け、学ぶ者たちを教え戒める呼称である。
〈本地分〉中者,乃《瑜伽論》五分之一。略錄名數者,於六百六十法中,提綱挈領,取此百法名件數目。此論主急於為人,而欲學者知要也。
「本地分」とは、『瑜伽師地論』の五分の一にあたる部分です。 「略録名数」とは、六百六十もの法の中から、要点をまとめて百の法の名称と数を取り出したものです。 この論の作者は、人々のためを急ぎ、学ぶ人に重要なことを知ってほしいと願ったのです。
又會六釋云:大乘者,是能詮教,唯聲、名、句、文四法故劣;百法乃所詮事,理通一百法故勝。將勝就劣,以劣顯勝,云大乘之百法,依士釋也。
また、六種の解釈(六釈)によれば、「大乗」とは、教えを伝えるものであり、ただ声・名・句・文の四つの要素からなるため、劣っている。一方、「百法」とは、説かれる事柄であり、その道理は百の法すべてに通じるため、優れている。そこで、優れたものを劣ったものに結びつけ、劣ったものによって優れたものを明らかにする。このように、「大乗の百法」という表現は、依士釈(えじしゃく)によるものである。
又百法是所緣,乃舉全數故勝,明是能緣之慧,即別境五中之一,法爾故劣。將劣就勝,以勝顯劣,云百法之明,依主釋也。
また、百法は認識の対象となるものであり、全体の数を挙げているから優れている。明とは認識する側の智慧であり、別境の五つのうちの一つであって、自然の理として劣っている。劣ったものを優れたものに寄せて、優れたもので劣ったものを明らかにするため、「百法の明」という。これは依主釈である。
又明是能緣,即別境中慧故劣;門是所緣,通舉百法故勝。將勝就劣,以劣顯勝,云明之門,依士釋也。
また、明は対象を捉えるはたらきであり、別境のなかの慧にあたるので劣っている。門は対象となるもので、百法を広く挙げるので勝れている。勝れたものを劣ったものに合わせ、劣ったものによって勝れたものを示すので、「明の門」といい、これは依士釈である。
又門是所詮事理,乃通指百法故勝;論是能詮教,唯聲、名、句、文故劣。將劣就勝,以勝顯劣,云門之論,依主釋也。
また、門は究極的には事と理を指し、百法すべてを広く指すため優れています。論は教えを説き示すもので、声・名・句・文だけであるため劣っています。劣ったものを優れたものに近づけ、優れたものによって劣ったものを示すので、「門の論」と言い、これは依主釈です。
又論為體,乃聲、名、句、文;門為用,於論上有不壅滯之功能。以體就用,攝用歸體,云門即論,持業釋也。
また、体について論じれば、それは声・名・句・文であり、門は働きとして、論の上に妨げのない功能がある。体を用に即し、用を体に帰して、門すなわち論というのは、持業釈である。
又論乃體,則取聲、名、句、文四法;大乘為用,此論體上有揀小運載二義,故云大乘。以體就用,攝用歸體,云大乘即論,持業釋也。
また、この論の本体について述べれば、声・名・句・文の四つの法を取ります。大乗をはたらきとするのは、この論の本体の上に、小乗を排除し、運び載せるという二つの意味があるからです。それゆえ「大乗」と言います。本体をもってはたらきとし、はたらきを摂めて本体に帰す、これを「大乗すなわち論」といい、持業釈であります。
又大乘通教理行果,是所詮故勝;論是能詮,唯教故劣。將劣就勝,以勝顯劣,云大乘之論,依主釋也。
また、大乗は教・理・行・果のすべてに通じているので、その教えの内容として勝れています。それに対して論は、その内容を説き示す手段であり、教えだけにとどまるので劣っています。劣ったものを勝れたものに寄せて、勝れたものによって劣ったものを示すという意味で、「大乗の論」というのです。これは依主釈です。
又大等六字,是所詮故勝;論是能詮,唯教故劣。將劣就勝,以勝顯劣,云大乘百法明門之論,依主釋也(亦可謂帶數依主)。
また「大乗百法明門」という六つの言葉は、説明される内容そのものであるから勝れている。それに対して「論」という言葉は、説明する手段であって、教えにすぎないから劣っている。この劣ったものを勝れたものに従わせ、勝れたものによって劣ったものを示して、「大乗百法明門の論」と言う。これは依主釈である。
又大乘等五字,通一百法,屬所詮故勝;門論二字乃能詮故劣。將劣就勝,以勝顯劣,云大乘百法明之門論,依主釋也(亦帶數依主釋也)。
また「大乗」など五つの文字は、百の法すべてに通じており、説かれる内容にあたるため勝れています。「門論」の二文字は、説く側の言葉にあたるため劣っています。劣ったものを勝れたものに従わせ、勝れたものによって劣ったものを明かして、「大乗百法明の門論」と言うのです。これは依主釈です。(また数えを伴う依主釈でもあります)。
又大乘是能詮教體,門論是用。此教體上有妙旨悟入之義門,決擇性相,教誡學徒,斷惡生善之功用,故名論。將體就用,攝用歸體,云大乘即門論,持業釋也。(作十釋竟)。
また、大乗は教えを説く本体であり、門論はその働きです。この教えの本体には、すぐれた真理を悟り入るための意味の門があり、性質と姿をはっきりと見極め、学ぶ者たちを教えさとし、悪を断ち善を生じさせる働きがあります。それゆえ「論」と名づけます。本体を働きの面から捉え、働きを本体に帰すことを、「大乗すなわち門論」といい、これは持業釈です。(十の解釈を述べ終わる)
北天竺富婁沙富羅,此云丈夫。國有國師,婆羅門姓嬌尸迦,生三子,同名婆藪盤豆。此云天親,乃帝釋之弟,毘搜紐天王之後,雖同一名,復有別號:長曰阿僧迦,此云無著,乃菩薩根性。季子別名比隣持跋婆,此云母兒,蓋比隣持,此云母;跋婆云子,亦云兒。中子博學多聞,遍通墳籍,神才俊朗,戒行清白,無與儔匹,兄弟皆兼別號故,法師但名婆藪盤豆,不相濫也。依《瑜伽論》廣造諸論,以釋大乘,發揮非空非有中道之教。(詳於舊藏經甚字函《婆藪盤豆傳》)。
北インドの富婁沙富羅(プルシャプラ)は、漢訳で「丈夫」といいます。この国に国師がおり、バラモンの姓は嬌尸迦(カウシカ)といいました。三子をもうけ、いずれも婆藪盤豆(ヴァスバンドゥ)と同名でした。これは漢訳で「天親」といい、帝釈天の弟で、毘搜紐天王(ヴィシュヌ)の子孫にあたります。同じ名でありながら、さらに別の呼び名がありました。長男は阿僧迦(アサンガ)といい、漢訳で「無著」といい、菩薩としての素質を備えていました。末子は別名を比隣持跋婆(ヴィリンチヴァスパ)といい、漢訳で「母児」といいます。比隣持は漢訳で「母」、跋婆は「子」、また「児」ともいいます。次男は博学で多聞、あらゆる典籍に通じ、才気は優れて秀で、戒行は清らかで、比べる者もありませんでした。兄弟が皆それぞれ別名を持っていたため、法師はただ婆藪盤豆とのみ呼ばれ、混同されることはありませんでした。『瑜伽論』に基づいて多くの論書を著し、大乗を解釈し、空でも有でもない中道の教えを明らかにしました。(詳しくは旧蔵経の甚字函『婆藪盤豆伝』に述べられています。)
如世尊言:「一切法無我。」
世尊がおっしゃったように、「すべてのものは我(われ)ではない」。
如世尊言,原為佛說,乃論主推尊法有所自。一切法等者,總標百法及二無我以為宗旨,乃一論之綱領也。若究所宗,總一代聖教淺深為次,分而為八:
世尊が説かれたとおり、もともと仏の教えであり、論主がこの法に尊さを見出し、その由来するところを示したのです。一切法などとは、百の法と二つの無我を総じて示し、これを宗旨としており、この論全体の綱領なのです。その宗旨を突き詰めれば、一代の聖教全体を浅いものから深いものへと順序づけ、八つに分けることができます。
一、我法俱有宗,此宗攝二十部、五部之義,謂犢子部、法上部、賢胄部、正量部、密林山部,或亦取經部根本一分之義。
一、我と法の両方が実在すると説く立場。この立場は二十部・五部の教えをまとめたもので、犢子部・法上部・賢冑部・正量部・密林山部がこれにあたり、あるいは経部の根本の一分の教えも含まれます。
二、法有我無宗,攝三部全,謂一切有部、雪山部、多聞部,更兼化地部末計一分之義。
二、法があって我がないという立場。この立場は三つの部派のすべてを包含します。すなわち、一切有部、雪山部、多聞部であり、さらに化地部の末派の一部の主張も含まれます。
三、法無去來宗,攝七全部,謂大眾部、鷄胤部、制多山部、西山住部、北山住部、法藏部、飲光部,兼取化地部,根本一分之義。
三、法に去来なしとする宗は、七部全体を包含する。すなわち大衆部、鶏胤部、制多山部、西山住部、北山住部、法蔵部、飲光部であり、さらに化地部の根本の一部の教えも取り入れている。
四、現通假實宗,攝說假部全末、經部一分之義。此上四宗,唯為小乘。
四、現通仮実宗は、説仮部の全体と末節、および経部の一部の教えを集めたものです。以上四つの宗派は、ただ小乗のみです。
五、俗妄真實宗,即說出世部。
五、俗妄真実宗、すなわち説出世部です。
六、諸法但名宗,即一說部,此二通於大小乘。
六、諸法はただ名のみとする宗、すなわち一説部であり、この二つは大乗と小乗の両方に通じます。
七、勝義俱空宗。八、應理圓實宗。後二唯大,此論旨趣即第八宗;於深密三時,乃第三時也。
七、勝義俱空宗。八、応理円実宗。後の二つは大乗のみであり、この論の趣旨はすなわち第八の宗にあり、深密の三時においては、すなわち第三時である。
言三時者,初四阿含言有,第二時八部般若言空,第三時即解深密經空有雙彰,中道教也。
三時の教えについて言えば、最初の四阿含では「有」を説き、第二時には八部般若で「空」を説き、第三時である解深密経では空と有の両方を明らかにし、中道の教えが示されています。
何等一切法?云何為無我?
一切の法とは何か。無我とは何か。
問有五種,謂利樂有情問、不解問、愚癡問、試驗問、輕觸問。此即利樂有情問也。
問いには五つの種類があります。生きとし生けるものの利益と安楽を願う問い、理解できないままの問い、愚かな問い、試しに尋ねる問い、軽率に触れるような問いです。ここで説かれているのは、生きとし生けるものの利益と安楽を願う問いです。
一切法者,略有五種:
すべての法は、大きく分けて五つの種類があります。
此總標諸法也。稱理言之,實有無量,以眾生性欲無量,是以瑜伽始五識身,歷至法界六百六十等法。今言五位百法,豈非要略乎?故云略有五種。自此至真如無為,總答初問。
これは、もろもろの法をまとめて示したものである。真理に即して言えば、実に無量である。なぜなら、衆生の性質や望みは無量であり、それゆえ『瑜伽論』では、最初の五識身から説き起こし、法界に至るまで六百六十もの法を数え上げている。ここで五位百法と説くのは、まさに要点を簡潔にまとめたものではないだろうか。ゆえに「略して五種あり」と言うのである。ここから真如無為に至るまでが、最初の問いへの全体的な答えである。
一者、心法,二者、心所有法,三者、色法,四者、心不相應行法,五者、無為法。
一つ目は心の働きそのもの、二つ目は心に伴って起こる働き、三つ目は物質的なもの、四つ目は心にも物質にも属さないもの、五つ目は変化を超えた永遠の真理です。
心法者,總有六義:一、集起名心,唯屬第八,集諸種子,起現行故。二、積集名心,屬前七轉識能熏,積集諸法種故;或集起屬前七轉現行共集,熏起種故;或積集名心,屬於第八含藏,積集諸法種故。三、緣慮名心,俱能緣慮自分境故。四、或名為識,了別義故。五、或名為意,等無間故。六、或第八名心,第七名意,前六名識,斯皆心分也。
心についての教えには、六つの意味があります。
一、集起(しゅうき)を心と呼ぶ場合。これは第八識(阿頼耶識)だけを指します。あらゆる種子を集め、そこから現象を生み出すからです。
二、積集(しゃくじゅう)を心と呼ぶ場合。これは前七識(転識)を指し、諸法の種子を積み集めて熏習するはたらきがあるからです。あるいは、集起が前七識の現行がともに集まることを指し、種子を熏じて起こす場合もあります。また、積集を心と呼び、第八識が諸法の種子を蓄えることを指す場合もあります。
三、縁慮(えんりゅう)を心と呼ぶ場合。それぞれが自分の対象を認識するはたらきがあるからです。
四、識(しき)と呼ぶ場合。対象を見分ける意味があるからです。
五、意(い)と呼ぶ場合。途切れることなく次へと続くからです。
六、第八識を心、第七識を意、前六識を識と呼ぶ場合。これらはすべて心のはたらきの一面です。
言心所有法者,具三義故:一、恒依心起;二、與心相應;三、繫屬於心。具此三義,名為心所故;要心為依,方得起故;觸等恒與心相應故。既云與心相應,蓋心不與心自相應故;心非心所故;他性相應,非自性故。
心所有法について言えば、三つの意味を備えているからである。一には、常に心に依って起こる。二には、心と相応する。三には、心に属している。この三つの意味を備えているので、心所と名づけるのである。すなわち、心をよりどころとして初めて起こることができるからであり、触などは常に心と相応するからである。すでに心と相応すると言う以上、心は心自身と相応することはないからであり、心は心所ではないからであり、他の性質が相応するのであって、自らの性質ではないからである。
相應之義有四:謂時、依、所緣及事皆同,乃相應也。觸等看與何心生時,便屬彼心之觸等,故如次為三義也。
相応の意味には四つあります。すなわち、時・依・所縁・事のすべてが同じであるとき、相応というのです。触などは、どの心が生じる時にあるかを見て、その心に属する触などとなるので、順に三つの意味があります。
色法者,識之所依、所緣,乃五根、五境質礙之色,亦名有對色,以能、所造八法而成,乃十有色也;無對色即法處色也。
色法とは、識が依りどころとし、対象とするもので、五根と五境という質や碍りをもつ色をいいます。これは有対色とも呼ばれ、能造と所造の八法によって成り立つ、十の有色のことです。無対色とは、法処色のことです。
言不相應行法者,行蘊有二:一、相應行,即心所法。二、不相應行,即始自得、終至不和合性,二十四法是也。
言葉にできない行法についてですが、行蘊には二つあります。一つは相応行で、これは心所法です。二つは不相応行で、得から始まり不和合性に至るまでの二十四法です。
言無為法者,即不生不滅、無去無來、非彼非此、絕得絕失,簡異有為,無造作故,名曰無為也。
無為の法とは、生まれることも滅することもなく、去ることも来ることもなく、あちらでもなくこちらでもなく、得ることも失うこともまったくないものです。これは、つくられ造られることのある為法とは異なり、何かを作り出すことがないので、無為と呼ぶのです。
一者、最勝故,二、與此相應故,三、所現影故,四、分位差別故,五、所顯示故。
一、最もすぐれているからです。二、これと対応しているからです。三、映し出された影像であるからです。四、段階の違いによるからです。五、示し表されたものであるからです。
言初心法八種,造善造惡,五趣輪轉,乃至成佛,皆此心也。有為法中此最勝故,所以先言。言與此相應故者,謂此心所與其心王常相應故。望於心王,此即為劣,先勝後劣,所以次明。所現影故者,即前色法,謂此色法不能自起,要藉前二所變現故;自證雖變,不能親緣故。置影言簡,其見分亦自證變,則非是影。或與自證通為本質故,或簡受所引色非識變影。第六緣時以彼為質,質從影攝,前二能變,此為所變,先能後所故次言之。分位差別者,言此不相應行,不能自起,藉前三位差別,假立前三是實,此一為假,所以第四明之。言所顯示者,此第五無為之法,乃有六種,謂此無為體性甚深,若不約事以明,無由彰顯故。藉前四斷染成淨之所顯示,前四有為,此即無為,先有後無,所以最後明也。
初心の法には八種類があり、善を造り悪を造り、五趣を輪転し、さらには成仏するまで、すべてこの心によるものです。有為法の中でこれが最も勝れているため、最初に説かれます。「これと相応するから」とは、この心所が心王と常に相応しているということです。心王から見ればこれは劣ったものとなり、勝れたものを先に、劣ったものを後に、という順序で次に説かれます。「所現の影だから」とは、先の色法のことです。この色法は自ら生じることはできず、必ず前の二つが変現したものに依るからです。自証は変じても、直接に縁じることはできないからです。影という言葉を置くのは、見分もまた自証が変じたものであり、影ではないからです。あるいは自証と通じて本質となるからです。あるいは受所引色が識の変じた影ではないことを簡別するためです。第六識が縁じる時、それを本質とし、本質は影に摂められ、前の二つは能変、これは所変であり、能を先に所を後に、という順序で次に説かれます。「分位差別」とは、この不相応行は自ら生じることはできず、前の三位の差別に藉って仮に立てられたものであり、前の三つは実、この一つは仮であるため、第四に説かれます。「所顯示」とは、この第五の無為の法には六種類があり、この無為の体性は非常に深く、もし事に即して明かさなければ、彰顕する由がないからです。前の四つが染を断ち浄を成すことによって顯示されるところであり、前の四つは有為、これは無為であり、有を先に無を後に、という順序で最後に説かれます。
如是次第,
このように順を追って、
此結答也。由上如是勝劣、能所、實假、有無故,云如是次第。此略結上文,總標五位章門,下乃備列百法名數也。
これがまとめの答えです。以上のように、すぐれたものと劣ったもの、主体と対象、実体と仮のもの、有と無という区分があるため、「このような順序」と言うのです。ここでは簡単に前の内容をまとめ、五位という全体の区分を示しました。このあとに百法の名称と数を詳しく並べていきます。
第一、心法略有八種:
第一に、心の働きには大きく分けて八つの種類があります。
此總標,下別列。
ここで全体を示し、次に項目ごとに説明します。
一、眼識,二、耳識,三、鼻識,四、舌識,五、身識,六、意識,
一、眼の意識、二、耳の意識、三、鼻の意識、四、舌の意識、五、体の意識、六、心の意識、
隨根立名,具五義故,謂依發屬助。如除根發之識,餘四皆依根之識等,依主也;根發,依士也。雖六識身皆依意轉,此隨不共意識名依發等,故五識無相濫矣。蓋兼未自在位言之爾,或唯依意故名意識,辨識得名,心、意非例。
その名は基づくはたらきに従って立てられ、「依・発・属・助」という五つの意味を備えています。たとえば、根を除いて発せられる識についていえば、残りの四つはみな「根に依る識」などとなり、これは「依主釈」です。「根より発する」は「依士釈」です。六つの識はみな意に依って働きますが、ここでは他不共の意識に従って「依発」などと名づけるので、五識と混同されることはありません。これはまだ自在を得ていない段階について述べたものです。あるいはただ意に依るという意味で意識と名づけるともいえ、識の名を得るあり方を弁別すれば、心と意は同じ例ではありません。
七、末那識,
七、末那識(マナ識)
華言意識,如藏識名識,即意故;第六意識,如眼識名識,異意故。然諸聖教,恐此濫彼故,於第七但立意名;又以簡心之與識,以積集、了別劣餘識故;或欲顯此與彼意識為近所依故,但立意名爾。
華言では「意識」といい、藏識(アーラヤ識)を「識」と呼ぶ場合、それは意そのものであるからである。第六意識は、眼識を「識」と呼ぶように、意とは異なるものだからである。しかし諸々の聖教では、これが彼と混同されるのを恐れるため、第七についてはただ「意」という名だけを立てる。また、心と識とを区別するためでもあり、積集と了別が他の識よりも劣っているからである。あるいは、これがかの意識にとって近い所依となることを示そうとして、ただ「意」という名を立てるだけなのである。
八、阿賴耶識。
八、アーラヤ識(深層意識)。
華言藏識,能含藏諸種故;又具三藏義故,謂能藏、所藏、執藏也;與雜染互為緣故,有情執為自內我故。由斯三義,而得藏名,藏即識也。
日本語で言えば「蔵識(ぞうしき)」とは、さまざまな種(しゅ)を内に含み保つはたらきがあるからです。また、三つの蔵という意味も備えています。すなわち「能蔵(のうぞう)」「所蔵(しょぞう)」「執蔵(しゅうぞう)」です。雑染(ぞうぜん)と互いに縁となり合うためであり、生きとし生けるものはこれを自らの内なる我(が)として執着するからです。この三つの意味によって「蔵」という名が得られます。「蔵」とはすなわち識(しき)のことです。
第二心所有法,略有五十一種,分為六位:一、遍行有五,二、別境有五,三、善有十一,四、煩惱有六,五、隨煩惱有二十,六、不定有四。
第二の心所有法は、概ね五十一種類あり、六つに分類されます。第一に遍行が五つ、第二に別境が五つ、第三に善が十一、第四に煩悩が六つ、第五に随煩悩が二十、第六に不定が四つです。
此舉總數,以標列章門,下乃隨章列名。言遍行者,遍四一切心得行故。謂三性、八識、九地,一切時俱能遍故。言別境者,別別緣境,而得生故。所緣之境則有四,乃所樂之境、決定境、曾習境、所觀境,各緣不同,故云別境。解現下文。言善十一者,唯善心中可得生故,此世、他世俱順益故,性離愆穢,勝過惡故。言煩惱者,性是根本煩惱攝故;又能生隨惑,名為根本煩擾也。惱,亂也。擾亂有情,恒處生死也。言隨煩惱者,隨他根本煩惱,分位差別,等流性故,此亦見下文。言不定者,由不同前五位心所,於善染等皆不定故,非如觸等定遍心故,非如欲等定遍地故,不立定名也。
ここではまず総数を示して章の区分を立て、以下で順にそれぞれの名称を挙げていきます。遍行とは、四つのすべてにわたって心が働くからです。つまり善・悪・無記の三性、八つの識、九つの地のいずれにおいても、いつでも遍く働くことができるからです。別境とは、それぞれ別々に境を対象として生じるからです。対象となる境には四つあり、すなわち好む対象、決められた対象、かつて慣れ親しんだ対象、観察する対象であり、それぞれ対象が異なるため、別境といいます。詳しい解説は以下の本文に現れます。善の十一とは、善い心の中にのみ生じることができるからであり、この世でも来世でもともに利益をもたらし、その性質は過ちや穢れを離れ、悪に勝れているからです。煩悩とは、その性質が根本煩悩に含まれるからであり、また随惑を生み出すことができるため、根本の煩わしさと呼ばれます。悩とは、乱れることです。有情を乱し、常に生死にとどまらせるのです。随煩悩とは、根本煩悩に従い、その分位の違いによる等流の性質のものであるからです。これも以下の本文に現れます。不定とは、前の五つの心所とは異なり、善にも汚れにも等しく定まらないからです。触などのように必ず心に遍く働くものではなく、欲などのように必ず地に遍くものではないため、定という名を立てないのです。
一、遍行五者:
一、遍行の五つとは:
此別標,下列名。
これは別の見出しであり、以下に名を列挙します。
一、作意,二、觸,三、受,四、想,五、思。
一、注意を向けること、二、接触すること、三、感受すること、四、思い描くこと、五、意志すること。
言作意者,謂警覺應起心種為性,引心令趣自境為業。觸者,令心心所觸境為性,想、受、思等所依為業。受者,領納順、違、俱非境相為性,起欲為業,能起合離,非二欲故;亦云令心等起歡、慼、捨相(此解詞異意同),想則於境取相為性,施設種種名言為業,謂安立自境分齊故,方能隨起種種名言。思則令心造作為性,於善品等役心為業,為能取境正因等相,驅役自心能造善等。
作意とは、心を目覚めさせて対象に向かわせる心の種のようなものを本性とし、心を引き連れてそれぞれの対象へ向かわせることを働きとする。触とは、心と心の働きとを対象に接触させることを本性とし、想・受・思などがそれに依拠することを働きとする。受とは、好ましい対象・好ましくない対象・どちらでもない対象を受け取ることを本性とし、欲望を起こすことを働きとする。合わさりたい・離れたいという二つの欲望を起こすからである。また、心にともに喜び・悲しみ・平淡な様相を起こさせるともいう。想とは、対象にしるしを取ることを本性とし、さまざまな名前や言葉を打ち立てることを働きとする。自らの対象の範囲を定めることによって、はじめてさまざまな名前や言葉を随時生じさせることができるからである。思とは、心を動かして行為させることを本性とし、善などの諸領域へ心を駆り立てることを働きとする。対象を正しく捉えるための根本原因などの相を取ることができ、自らの心を駆り立てて善などを行うことができるからである。
二、別境五者:
二、別境の五つとは:
此別標,下列名。
これは別の見出しであり、以下に名を列挙します。
一、欲,二、勝解,三、念,四、三麼地,五、慧。
一、欲、二、勝解、三、念、四、三昧、五、慧。
言欲者,於所樂境希望為性,勤依為業。勝解者,於決定境印持為性,不可引轉為業。謂邪正等教理證力,於所取境,審決印持,由此異緣不能引轉故,若猶豫境,勝解全無,勝即是解。念者,於曾習境令心明記不忘為性,定依為業。謂數憶持曾所受境而不忘失,能引定故。三麼地者,此云等持,於所觀境令心專注不散為性,智依為業。謂得、失、俱非境中,由定令心專注不散,依斯便有決定智,生心專注言顯,所欲住即便能住,非唯一境;不爾,見道歷觀諸諦,前後境別,應無等持也。言慧者,於所觀境揀擇為性,斷疑為業。謂觀得、失、俱非境中,由慧推求得決定故。上言解現下文者,義在此爾。(欲益得其詳,請閱成唯識第五卷)。
欲とは、好ましい対象に対して希望を抱くことをその本質とし、勤めがそれに依存することを働きとする。勝解とは、決定した対象を確信をもって保持することを本質とし、引き動かされないことを働きとする。すなわち、邪・正などの教えや道理、証明の力によって、取る対象について審らかに決定し確信を持つならば、それによって他の縁があっても引き動かされることがないからである。もし迷いためらう対象であれば、勝解はまったくない。「勝」とはすなわち解である。念とは、かつて慣れ親しんだ対象に対して、心を明瞭に記憶して忘れないことを本質とし、定がそれに依存することを働きとする。たびたびかつて受けた対象を思い保ち忘れないことによって、定を引き起こすことができるからである。三麼地とは、これを等持と訳す。観察する対象に対して心を専注し散乱させないことを本質とし、智慧がそれに依存することを働きとする。得・失・いずれでもない対象において、定によって心を専注し散乱させない。これに基づいて決定の智慧が生じる。心が専注するとは、住したいと思うところにただちに住することができるという意味であり、ただ一つの対象だけではない。そうでなければ、見道において諸々の真理を次々に観察するとき、前後の対象が異なるので、等持がないことになってしまうであろう。慧とは、観察する対象に対して選び分けることを本質とし、疑いを断つことを働きとする。得・失・いずれでもない対象において、慧によって推し求めて決定を得るからである。上述の「解」以下の文の意味はここにある。(さらに詳しく知りたい方は、『成唯識論』第五巻をご覧ください)。
三、善十一者:
三、善の十一種類について:
此標章下別列。
この印の下に、別に並べる。
一、信,二、精進,三、慚,四、愧,五、無貪,六、無瞋,七、無癡,八、輕安,九、不放逸,十、行捨,十一、不害。
言信者,於實德能深忍樂欲,心淨為性,對治不信,樂善為業。謂於諸法實事理中,深信忍故;於三寶真淨德中,深信樂故;於一切世出世善深信有力,能得能成,起希望故。此三種信也。言心淨為性者,謂此性澄清能淨心等,如水清珠能清濁水,故云心淨為性也。言精進者,於善惡品修斷事中勇捍為性,對治懈怠,滿善為業。謂善品修、惡品斷,勇表勝進,簡諸染法;捍表精純,簡淨無記。又云勇而無怯、捍而無懼。言滿善者,圓了善事名為滿善。故三根為作善,此名滿善,能滿彼故。或曰:「《唯識論》言精進一法,在三根後;《百法》則信後即言。何耶?」曰:「唯識乃立依次第,此乃因依次第。蓋信為欲依,欲為勤依,故此信後而便言勤,勤即精進也,但勤通三性,進唯善性攝也。」立依者,謂根依精進立捨等三,所依四法,立理須合說,故三根後方說精進。言慚者,依自法力崇重賢善為性,對治無慚,止息惡行為業。自法力者,自謂自身,法謂教法,言我如是身、解如是法,敢作諸惡耶?言愧者,依世間力,輕拒暴惡為性,對治無愧,止息惡行為業。世人譏呵名世間力輕,有惡者而不親,拒惡法業而不作也。言無貪者,於有、有具無著為性,對治貪著,作善為業。言有、有具者,上一有字,即三有之果,有具即三有之因。言無瞋者,於苦、苦具無恚為性,對治瞋恚,作善為業。言苦、苦具者,苦謂三苦,苦具者苦因。無癡者,於諸事理明解為性,對治愚癡,作善為業。言輕安者,遠離麁重,調暢身心,堪任為性,對治昏沈,轉依為業。離重名輕,調暢身心名安,謂此伏除能障定法,令所依止轉安適故。言堪任者,有所堪可,有所任受。言轉依者,令所依身心,去麁重、得安隱故。言不放逸者,精進三根,於所修斷防修為性,對治放逸,成滿一切世出世善事為業。防修者,於所斷惡防令不起,於所修善法,修令增長。言精進三根者,此不放逸,即四法防修功能,非別有體;或云:「信等亦有防修功能,何不依立?」曰:「餘六比四,勢用微劣,故不依立。偏何微劣?非善根故,非遍策故。」言行捨者,精進三根,令心平等、正直,無功用住為性,對治掉舉,靜住為業。言行捨者,乃行蘊中捨,簡受蘊捨故。言令心平等等者,由捨令心離昏掉時,初心平等,次心正直,後無功用,此初中後差別之位也。此亦即四法者,離彼四法,無別相用矣。何知無別?曰:「若能令靜即是四法,若所令靜即心等故。」或曰:「既即四法,何須別立?」曰:「若不別立,隱此能故。」言不害者,於諸有情不為損惱,無瞋為性,能對治害,悲愍為業。謂即無瞋,於有情所不為損惱,假名不害。無瞋翻對斷物命,瞋不害,但違損惱物害。無瞋與樂,不害拔苦,此二麁相差別,理實無瞋,實有自體,不害依彼,一分假立,為顯慈悲,二相別故,利樂有情,彼二勝故。
信とは、実・徳・能に対して深く理解し、喜び求める心をいい、心が清らかであることを本性とし、不信を対治し、善を楽しむことを働きとする。すなわち、諸法の真理と事実に対して深く信じ理解するためであり、三宝の真実で清らかな功徳に対して深く信じ喜ぶためであり、すべての世間と出世間の善には力があり、得ることも成し遂げることもできると深く信じ、希望を起こすためである。これが三種の信である。心が清らかであることを本性とするとは、この本性が澄み清らかで、心などを清めることができるということである。ちょうど水を清める珠が濁った水を清めるように。それゆえ心浄を本性とするのである。精進とは、善と悪の品において修め断ずる事柄において、勇猛に努めることを本性とし、懈怠を対治し、善を満たすことを働きとする。すなわち善を修め、悪を断じ、勇は勝れた進みを示し、もろもろの煩悩の法と区別し、捍は精純を示し、清浄無記と区別する。また勇にして怯まず、捍にして恐れないという。善を満たすとは、善き事を円満に理解することを満善という。ゆえに三善根は善を作すことであり、これを満善といい、それらを満たすことができるからである。ある人が問うた。「『唯識論』には精進という一つの法が三善根の後に説かれているが、『百法』では信のすぐ後に説かれている。なぜか。」答えて言う。「唯識は立てる順序に従い、これは因の順序に従う。それゆえ信は欲のよりどころであり、欲は勤のよりどころであるから、この信の後にすぐ勤を説くのである。勤とはすなわち精進である。ただし勤は三性に通じ、進はただ善性にのみ属する。」立てる順序とは、根が精進に依って捨などの三を立てるということである。所依の四つの法は、道理を立てるには必ず合わせて説かねばならない。ゆえに三善根の後に精進を説くのである。慚とは、自と法の力に依り、賢善を尊び重んずることを本性とし、無慚を対治し、悪行を止息することを働きとする。自と法の力とは、自とは自身をいい、法とは教法をいう。我はこのような身であり、このような法を理解しているのに、敢えてもろもろの悪を作すだろうか、ということである。愧とは、世間の力に依り、粗暴で悪いことを軽んじ拒むことを本性とし、無愧を対治し、悪行を止息することを働きとする。世間の人が讥り呵ることを世間の力という。軽とは、悪ある者を親しまず、悪法の業を拒んで作さないことである。無貪とは、有と有具に対して執着しないことを本性とし、貪著を対治し、善を作すことを働きとする。有と有具とは、前の有の字はすなわち三有の果であり、有具はすなわち三有の因である。無瞋とは、苦と苦具に対して怒らないことを本性とし、瞋恚を対治し、善を作すことを働きとする。苦と苦具とは、苦は三苦をいい、苦具とは苦の因である。無癡とは、もろもろの事と理に対して明らかに理解することを本性とし、愚癡を対治し、善を作すことを働きとする。軽安とは、粗重を遠離し、身心を調えて暢やかにし、堪任を本性とし、昏沈を対治し、転依を働きとする。重を離れることを軽といい、身心を調えて暢やかにすることを安という。すなわちこれが定を障える法を伏し除き、所依の止を転じて安らかで快適にさせるからである。堪任とは、堪えるところがあり、任受するところがあるということである。転依とは、所依の身心をして、粗重を去り、安隠を得させるからである。不放逸とは、精進と三善根が、修め断ずる事柄において防ぎ修めることを本性とし、放逸を対治し、すべての世間と出世間の善事を成し満たすことを働きとする。防修とは、断ずべき悪を防いで起こさせず、修すべき善法を修めて増長させることである。精進と三善根とは、この不放逸はすなわち四つの法の防修の機能であり、別に体があるのではない。あるいは言う。「信などにもまた防修の機能があるのに、なぜ依って立てないのか。」答えて言う。「他の六は四に比べて、作用が微劣であるため、依って立てない。なぜ偏に微劣なのか。善根ではないからであり、遍く策励しないからである。」行捨とは、精進と三善根が、心を平等にし、正直にし、無功用に住させることを本性とし、掉挙を対治し、静住を働きとする。行捨とは、すなわち行蘊の中の捨であり、受蘊の捨と区別するためである。心を平等などにさせるとは、捨によって心をして昏沈と掉挙を離れさせる時、初めの心は平等、次の心は正直、後の心は無功用であり、この初・中・後の差異の位である。これもすなわち四つの法であるとは、それらの四法を離れて、別の相と用はないからである。どうして別がないと知るのか。答えて言う。「もし能令静がすなわち四法であり、もし所令静がすなわち心などであるからである。」あるいは言う。「すでに四法そのものであるなら、なぜ別に立てる必要があるのか。」答えて言う。「もし別に立てなければ、この功能が隠れてしまうからである。」不害とは、もろもろの有情に対して損悩しないことであり、無瞋を本性とし、害を対治し、悲愍を働きとする。すなわち無瞋が、有情のもとで損悩しないことを、仮に不害と名づける。無瞋は物の命を断つことに反対し、瞋は害を損悩せず、ただ物を損悩する害に違反する。無瞋は楽を与え、不害は苦を抜く。この二つは粗い相の違いである。理としては実に無瞋は実に自体があり、不害はそれに依って一分を仮に立てたものであり、慈悲の二つの相が異なることを顕すためであり、有情を利楽することが、それらの二つが勝れているからである。
四、煩惱六者:
四、煩悩の六つ:
此別標章,下別列名。
これは別に章を標示し、次に別に名を列挙する。
一、貪,二、瞋,三、慢,四、無明,五、疑,六、不正見。
一、貪(むさぼり)、二、瞋(いかり)、三、慢(おごり)、四、無明(むみょう)、五、疑(うたがい)、六、不正見(ふしょうけん)。
言貪者,於有、有具染著為性,能障無貪,生苦為業。生苦者,謂由愛力取蘊生故。瞋者,於苦、苦具憎恚為性,能障無瞋,不安、惡行所依為業。不安者,心懷憎恚,多住苦故,所以不安。慢者,恃己於他,高舉為性,能障不慢,生苦為業。生苦者,謂若有慢,於德有德心不謙下,由此死生輪轉無窮,受諸苦故。無明者,於諸理事迷暗為性,能障無癡,一切雜染所依為業。雜染所依者,由無明起癡、邪定、貪等煩惱隨煩惱業,能招後生雜染法故。疑者,於諸諦理猶豫為性,能障不疑、善品為業。障善品者,以猶豫故善不生也。惡見者,於諸諦理顛倒推度,染慧為性,能障善見,招苦為業。蓋惡見者,多受苦故,此見有五:謂身、邊、邪見、取戒、禁取也。此六即俱生,若開惡見成十,即分別惑也。又十惑中,瞋唯不善,餘九皆通有覆不善。
貪とは、存在や存在の条件に執着し染まることを本質とし、無貪を妨げ、苦を生じさせることを働きとする。苦を生じさせるとは、愛の力によって五蘊が生じるからである。瞋とは、苦や苦の条件に対して憎しみ怒ることを本質とし、無瞋を妨げ、不安と悪行の拠り所となることを働きとする。不安とは、心に憎しみ怒りを抱き、多く苦にとどまるため、安らかでないのである。慢とは、自分を頼みとして他に対して高ぶることを本質とし、不慢を妨げ、苦を生じさせることを働きとする。苦を生じさせるとは、もし慢があれば、徳や徳ある人に対して心が謙虚でなく、それによって生死を輪廻して窮まりなく、さまざまな苦を受けるからである。無明とは、さまざまな道理や事象について迷い暗いことを本質とし、無癡を妨げ、あらゆる雑染の拠り所となることを働きとする。雑染の拠り所とは、無明によって痴・邪定・貪などの煩悩や随煩悩の働きが起こり、後の生における雑染の法を招くからである。疑とは、さまざまな真理についてためらい迷うことを本質とし、不疑と善きものを妨げることを働きとする。善きものを妨げるとは、ためらいがあるために善が生じないのである。悪見とは、さまざまな真理について倒った推測をなし、汚れた慧を本質とし、善き見方を妨げ、苦を招くことを働きとする。そもそも悪見ある者は、多くの苦を受けるからである。この見には五つある。すなわち身見・辺見・邪見・見取・戒禁取である。この六つは俱生であり、もし悪見を開いて十とすれば、分別の惑である。また十の惑のうち、瞋だけは不善であり、残りの九つはすべて有覆と不善に通じる。
大乘百法明門論解卷上
大乗百法明門論解 上巻