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title: "俱舍論疏 · 2"
description: "《俱舍論疏》是唐代高僧法宝所撰的一部重要佛教论疏，主要诠释世亲菩萨的《俱舍论》。法宝为玄奘大师的弟子，精通唯识与俱舍学说，其疏解以严谨精详著称，系统阐释了《俱舍论》中的阿毗达磨思想，涵盖业果、轮回、宇宙观等核心教义。该疏反映了唐代中国佛教对印度佛学的吸收与发展，是研究说一切有部哲学的重要文献，在汉传佛教史上具有承前启后的学术地位，为后世研究俱舍学提供了权威依据。"
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## 俱舍論疏卷第四

沙門法寶撰

### 分別根品第二之二

> 第二品 諸根の分別（その二）

「論曰今應思擇至決定俱生」，此品大文第二，有二十七頌明俱生法。文中有二：一問、二答。此即問也。問：何故作此論耶？《正理論》云何緣思擇諸法俱生？為破邪宗顯正理故。謂或有執諸行無因自然而起、或復有執由一因故諸行得生、或復有執由自性等不平等因而生諸行，為對此執故作斯論。此論問意，意云：一切有為如其體相，色，心等法種種不同，此法生時亦各別起，為有諸法決定俱生。

> 論に曰く「今、まさに思択すべし、決定して倶生するに至るまで」。この品の大文の第二に、二十七の頌ありて倶生の法を明かす。文の中に二あり。一には問い、二には答え。これすなわち問いなり。問う：何ゆえにこの論を作すや？『正理論』に云く：「何の縁によりて諸法の倶生を思択するや？邪宗を破して正理を顕さんがためなり。」謂ゆる、あるいは諸行は無因にして自然に起こると執するあり。あるいはまた、一つの因によりて諸行得て生ずと執するあり。あるいはまた、自性等の不平等の因によりて諸行を生ずと執するあり。この執に対せんがために、故にこの論を作す。この論の問意は、意わく、一切の有為はその体相の如く、色・心等の法、種種に同じからず。この法の生ずる時もまた各別に起こる。諸法の決定して倶生することあるか、と。

論「有定俱生」，答也。答中有三：一即略答、二開章門、三依章別釋。此略答也。

> 「有定倶生」について論じる。それに対する答えを示す。答えには三つの段階がある。第一に簡潔な答え、第二に要点を示す、第三にその要点に従って詳しく説明する。これが簡潔な答えである。

論「謂一切法至此中不說」，第二開章門也。雖標五法，唯釋四章，無為不生此中不說。

> 「あらゆる法（存在）については、ここでは説かない」と論じるのが、第二の章の門を開くことである。五つの法を掲げながらも、四つの章だけを解説する。無為は生じることがないため、ここでは説かないのである。

論「今先辨色決定俱生」，已下第三依章別釋。此一頌，第一釋色定俱生。

> さて、「まず色の決定と俱生（同時に生じること）を弁別する」というところから、第三の章では各項目を個別に解説します。この一つの偈頌では、第一に、色が決まって俱生することを説明しています。

「論曰至細於此者」，此釋頌「微聚」也。極微非聚，微是七微，聚色之中微聚最細。此文亦顯色等極微自類聚集成其微聚。又釋：同《正理》。《正理》云「色之極少更無分故，立極少名。如一剎那名時極少，更不可折為半剎那。如是眾微展轉和合定不離者，說為微聚。」准此論文，微是極微，聚是八、九微等。二釋之中後釋為善。

論「此在欲界至色香味觸」，此釋欲界無聲無根。

> 「欲界から色・香・味・触に至るまで」と論じるのは、欲界には声と五根（眼・耳・鼻・舌・身）が存在しないことを説明している。

論「無聲有根至身為第九」，此釋無聲有身根也。

> 「無声に根があり、身が第九に至る」とは、無声に身根があることを説いたものである。

論「有餘根聚至處各別故」，釋有餘根處各別也。

論「於前諸聚至大種因起」，釋有聲也。《婆沙》九十云「身、色、聲、觸界，欲、色界定成就，無色界不成就者，問：身、色、觸界可爾，聲界云何恒時成就？有作是說：大種離合必生聲界。有情若在欲、色界中、大種恒有故常發聲。評曰：彼不應作是說，若四大種必恒生聲。此所生聲何大種造？若即此造，應多有對色一四大種生。若說餘造，餘四大種復必生聲，如是展轉有無窮過。應作是說：生欲、色界有情身中，多四大種在一身內，有相擊者便發生聲，不相擊者即無聲起。雖一身中必有聲起，非諸身分皆悉發聲。又此論等云無聲八等。」准此等文，定成聲者據一有情於一身中定成聲故，非定遍有。有聲九等，據相隣近。二文意別，互不相違。詳諸論意，有眼等根定有身根及有餘八，有身根處亦定有八。雖根四境定不相離、必定俱生，亦有內四境有定俱生、有不定者。定者如有感眼必感身等，有唯不離根非俱生滅，如有表色、聲，及造表、無表大、變化色等。此等與根雖有無不定，依總處說云定不相離。雖聲不定，然聲起時必擊色等大種方生，色與香等必定俱起，由此有聲定有八事。有餘八事非定有聲，有香味境定有色觸，有欲色觸非定有香、味。有一師說：身在色界作欲界化，不化香、味。此非正義，此即外境決定有八。造道、定戒四大種等雖依身等，不定俱生。若取必相依有，即無四大起而無色等容有無聲。舊《毘婆沙》有二師說。第一師云：一切四大必不離色聲，一切欲界色必不離香、味。第二師云：一切四大不必有色、聲，一切欲色不必有香、味。念法師云：「兩師竝非正義，各取少分方可為正。應言一切四大必不離色、不必有聲，一切欲界色必不離香、味。故《雜心》云『極微在四根，十種應當知，身根九餘八，謂是有香地。』」泰法師云：「念法師意，以《雜心論》不說有聲，明知此聲非恒成就。」泰法師云：「念法師若作斯釋，此大謬也。《發智論》云『誰成就聲持？答曰欲、色界。』又《雜心》云『無想眾生入十入性。』聲既恒成，故知《婆沙》初師一切四大必不離色、聲，一切欲界色必不離香、味，是其正義。然《雜心》、《俱舍》頌不說聲者，以聲因大種相擊故生，非如香等恒時有故。其聲此論別加，《雜心》略而不說。」泰法師意說聲既恒成，明知一切四大必不離聲。

> 「これまでの諸々の集まりから大種が原因として生じる」という点について、音声（声）に関する解釈を述べる。 『阿毘達磨大毘婆沙論』九十巻にはこうある。「身・色・声・触の各領域（界）は、欲界と色界においては常にそなわり、無色界ではそなわらない。 問う：身・色・触の領域については理解できるが、音声の領域はなぜ常にそなわると言えるのか？ ある説によれば、四大種が離れ合うときには必ず音声の領域が生じる。欲界や色界にいる生きとし生けるものは、四大種が常に存在するため、絶えず音声を発するという。 しかし評者は言う。そのような説は正しくない。もし四大種が必ず常に音声を生むのであれば、この生じた音声はどの四大種によって作られるのか。もしその四大種自身が作るのであれば、「多くの有対色は一つの四大種から生じる」という誤りが生じる。もし他の四大種が作ると言うなら、その他の四大種もまた必ず音声を生むことになり、このようにして無限の過失が生じる。 正しくはこう言うべきである。欲界・色界に生まれた有情の身体の中には、多くの四大種が一つ身内に存在し、互いに衝突するものがあれば音声が生じ、衝突しなければ音声は生じない。一つの身体の中に必ず音声が生じる場合があっても、すべての身体の部分が音声を発するわけではない。また、この論などでは「音声のない八つのもの」などと言われている。」 このような文に照らせば、音声が常にそなわるとされるのは、一人の有情が一つの身体の中に必ず音声をそなえているという意味であり、常にすべての場所に音声があるわけではない。「音声のある九つのもの」などは、互いに隣接していることに基づく。両者の文意は異なり、互いに矛盾しない。 諸々の論の意図を詳しく見れば、眼などの感覚器官（根）があれば必ず身根があり、さらに残りの八つのものがある。身根がある場所にも必ず八つのものがある。 根と四つの領域（境）は必ず互いに離れず、必ず共に生じるが、内の四つの領域には必ず共に生じるものと、必ずしもそうでないものがある。 必ず共に生じるものとは、例えば眼を感じれば必ず身などを感じるようなものである。また、根から離れずに共に生じはするが、共に滅するわけではないものもある。例えば、表色や音声、表と無表を作る大種、変化色などがこれである。 これらは根と共にあるかないかが一定しないが、総体的に「離れずにある」と言われる。音声は一定しないが、音声が生じる時は必ず色などの大種を打って生じる。色と香などは必ず共に起きる。このことから、音声がある時は必ず八つの事柄がある。 残りの八つの事柄は必ずしも音声があるとは限らない。香や味の領域がある時は必ず色と触があり、欲界の色や触があっても必ずしも香や味があるとは限らない。 一つの師の説によれば、色界にいて欲界の変化を行う者は、香や味を変化させないという。これは正しい説ではない。すなわち、外の領域は必ず八つが決定している。 道共戒や定共戒の四大種などは身などに依るが、必ずしも共に生じるわけではない。もし「必ず互いに依って存在する」という意味に取れば、四大が起きて色などがないということはなく、音声がないこともあり得る。 古い『毘婆沙論』には二つの師の説がある。第一の師は「すべての四大は必ず色と音声を離れず、すべての欲界の色は必ず香と味を離れない」と言う。第二の師は「すべての四大は必ずしも色や音声があるとは限らず、すべての欲界の色も必ずしも香や味があるとは限らない」と言う。 念法師は言う。「両師ともに正しい説ではなく、それぞれの一部を取って初めて正しいと言える。『すべての四大は必ず色を離れず、必ずしも音声があるとは限らない。すべての欲界の色は必ず香と味を離れない』と言うべきである。よって『雑心論』には『極微が四根にある時は、十種と知るべきである。身根の場合は九種、残りの八種は、香がある地である』とある。」 泰法師は言う。「念法師の意図は、『雑心論』が音声を説かないため、この音声は常にそなわるものではないと明らかにしているということだ。」 しかし泰法師はさらに言う。「念法師がこのように解釈するのは大いに誤りである。『発智論』には『誰が音声の持（そなえ）を成就するか？ 答え：欲界・色界である』とある。また『雑心論』にも『無想天の衆生は十の入（処）の性質に入る』とある。音声は常にそなわるものであるから、『毘婆沙論』の初めの師の説、すなわち『すべての四大は必ず色と音声を離れず、すべての欲界の色は必ず香と味を離れない』というのが正しい説である。しかし『雑心論』や『倶舎論』の頌（詩句）が音声を説かないのは、音声は大種が衝突して生じるものであり、香などが常に存在するのとは異なるからである。その音声は、この論では別に加えられており、『雑心論』では省略して説かなかったのである。」 泰法師の意図は、音声が常にそなわるものであるなら、すべての四大は必ず音声を離れないと明らかである、というものである。

今詳念法師釋深得論意。一切四大不必有聲，與《婆沙》評家義同。一切欲、色界定成就聲者，據一身說。一切欲界色必不離香、味，同《婆沙》一百四十五評家，身在色界作欲界化，亦化香、味而不成就。泰法師解：若言定成就聲，此說即是。若言一切四大必不離色、聲者，此即非也。只可言不離色，何得必不離聲？准《婆沙》評家義，有四大種不離聲、有四大種離聲，何得說言一切四大必不離聲？若言大種皆遍發聲，還同婆沙評家所破，故亦非理。又言一切欲界色必不離香、味，還同念法師。准念法師一切四大必不離色、不必有聲者，此同《婆沙》評家所說，擊發四大方名有聲，自餘四大不名有聲，非是一身不必有聲名為不定。若說同在一身，即合必有聲也，應定九、十等。今詳《婆沙》二說，前師欲界必不離香、味者，是色界亦化香、味如莊嚴具而不成就。後師一切欲界色不必有香、味者，是身在色界，唯化欲界色、觸二境。泰師、光師妄解念法師意，以《雜心》不說有聲，明知此聲非恒成就。此即謬釋法師意也。念法師既講迦延，豈不知《發智》云「誰成就聲持？答曰欲、色界。」又豈不知無想十入？念法師以非是一切四大恒有聲故不必有聲，非謂一身全無聲也。如此論等云「無聲八、九、十，有聲九、十、十一」等，此同《雜心》。此言無聲，豈說不成就聲耶？法師既取此文，意亦如是。

> 詳かに念法師の解釈を考えれば、論の意をよく得ている。すべての四大に必ず声があるわけではないというのは、『婆沙』の評家の義と同じである。すべての欲界・色界において声を成就すると説くのは、一つの身体について言ったものである。すべての欲界の色には必ず香・味が離れないというのは、『婆沙』第百四十五の評家と同じであり、身体が色界にありながら欲界の化現を作るとき、香・味も化現するが、それを成就することはない。泰法師の解釈には、「必ず声を成就すると言うなら、この説は正しい。しかし、すべての四大は必ず色・声を離れないと言うなら、これは誤りである。ただ色を離れないと言うべきで、どうして必ず声を離れないと言えようか」とある。『婆沙』の評家の義に照らせば、声を離れない四大種もあれば、声を離れる四大種もある。どうしてすべての四大が必ず声を離れないと言えるだろうか。また、すべての大種が遍く声を発するというなら、それは『婆沙』の評家が破するところと同じであり、理にかなわない。また、すべての欲界の色は必ず香・味を離れないというのは、念法師と同じである。念法師によれば、すべての四大は必ず色を離れないが、必ず声があるわけではない。これは『婆沙』の評家の説と同じであり、打撃・発生される四大を声ありとし、その他の四大は声ありとしない。一つの身体に必ず声があるわけではないことを「不定」と名付けるのではない。もし同一の身体に声があると言うなら、必ず声があるはずであり、九つ、十の数も定まるべきである。今、『婆沙』の二説を詳しく見ると、前の師は「欲界は必ず香・味を離れない」と説き、これは色界でも香・味を化現し、装飾具のようであるが成就しない、という意味である。後の師は「すべての欲界の色は必ずしも香・味があるわけではない」と説き、これは身体が色界にあって、欲界の色・触の二境のみを化現するという意味である。泰師と光師は念法師の意を誤って解釈し、『雑心』に声が説かれていないことから、この声は常に成就するものではないと明らかにしたとしている。これは法師の意を誤って解釈したものである。念法師は迦延を講じた身であり、『発智』に「誰が声持を成就するか？答えて曰く、欲界・色界」とあるのを知らないはずがない。また、無想天の十処を知らないはずがない。念法師は、すべての四大に常に声があるわけではないから「必ず声があるわけではない」と言っているのであり、一つの身体に全く声がないと言っているわけではない。この論などに「声なきは八・九・十、声あるは九・十・十一」などとあるのは、『雑心』と同じである。この「声なし」とは、声を成就しないと言っているのだろうか？法師がこの文を取ったのも、その意は同じである。

泰法師復引《發智》等論破念法師，為大謬也。又自釋云「故知婆沙初師一切四大必不離色、聲，一切欲界色必不離香、味，是正義也。」此更大謬。即違《婆沙》有四大無聲，此論、《雜心》無聲八等。念法師義既順論文，泰、光二師即謬破耳。

> 泰法師はさらに『発智論』などを引いて、念法師の説を破ろうとしたが、これは大きな誤りである。また自ら解釈して「故に知るべし、婆沙の初師は、一切の四大は必ず色・声を離れず、一切の欲界の色は必ず香・味を離れず、これが正義である」と述べた。これもさらに大きな誤りである。これは『婆沙論』にある「四大にして声なし」、この論や『雑心論』にある「声なき八種」などに反する。念法師の義はすでに論文に順っているのに、泰・光の二師は誤ってこれを破ったのである。

論「若四大種至可得非餘」，此明四大體用增減。此是問也。

> 四大元素について「もし四大種が至って、その他を得ることができない」という議論があります。これは、四大元素の本質と働きの増減を明らかにするものです。これは問いです。

論「於彼聚中至與󰉓合味」，此以用增答也。《婆沙》一百三十一有其兩說：一云體增、二云用增。此論是後師，《正理》是前師。《正理》救前師云「豈不色法亦見用增？如酢和水、良藥和毒、鹽和水等。雖兩數同而用有異，如何言色就體說增？此不相違。以酢與水觸微雖等而味不同，酢味微多、水味微少，故酢味勝還是體增。於諸聚中有味等物體增強故，謂是用增。良藥、毒等緣起，理門有差別故，體類如是。由此雖少而能伏多，非異體類有別用生。故執用增是為邪計。或如類別，品別亦爾，故唯心等就用說增、就體說增，謂諸色法，譬如依多、依一成故。」釋曰：色、心依一依多不同，用增、體增亦非一例。詳其兩說，竝是《婆沙》之文，正理論師此中不合彈斥論主為非。然詳體增、用增，未為盡理。如若干水具有六味，如有六人同食此水，先覺不同，何者體增？何者用增？故知法性隨緣不定，非體、用。

> 論じる。「かの聚中に於いて味等と合し味を有するに至る」とは、これは作用の増加によって答えたものである。『婆沙』百三十一には二説がある。一には「体の増加」といい、二には「用の増加」という。この論は後の師の説であり、『正理』は前の師の説である。『正理』が前の師を擁護して言うには「そもそも色法も作用の増加が見られるではないか？例えば酢と水を混ぜる、良薬と毒を混ぜる、塩と水を混ぜるなどの場合である。両者の数量は同じでも作用に違いがある。どうして色は体によって増加を説くと言えるのか？これは矛盾しない。酢と水の触れる微細は等しくても味は異なり、酢の味の微細が多く水の味の微細が少ない。ゆえに酢の味が勝っているが、これもまた体の増加である。諸々の聚の中に味などの物の体が強まることによって、作用が増加すると言うのである。良薬や毒などの縁起は、理の門に差別があるために、体の種類がこのようである。これによって、量は少なくても多くのものを抑えられるが、異なる体の種類から別の作用が生じるのではない。ゆえに作用の増加を主張するのは誤った見解である。あるいは種類が異なるように、品別もまた同じである。ゆえに、心などのみは作用によって増加を説き、体によって増加を説くのは、色法の場合であると謂う。例えば、多くに依るか一つに依るかの違いによる。」と釈する。 色と心は、一つに依るか多くに依るかという違いがあり、作用の増加と体の増加も一律ではない。この二説を詳しく見れば、いずれも『婆沙』の文であり、正理論師はここで論主を非難してはならない。しかし、体の増加と作用の増加を詳しく見れば、必ずしも理を尽くしているとは言えない。例えば、多量の水に六つの味が備わっている場合、六人の人が同じ水を味わっても、最初に感じる味は異なる。何が体の増加であり、何が作用の増加であろうか？ゆえに、法の本性は縁に従って一定ではなく、体や作用に固定されないことを知るべきである。

論「云何於彼知亦有餘」，問也。

> 「どうして、あの（涅槃の）状態についても、なお『余りのものがある』と知るのか」という問いかけです。

論「由有攝熟長持業故」，答也。於中有二：此第一答。以業有故，知體有也。

> 「物事にはたらきがある」というのは、すべてのものを集め育て保ち続けるという働きがあるからである、という答えです。この中には二つの答えがあり、これが第一の答えです。はたらきが存在するからこそ、その本体が存在することがわかります。

論「有說遇緣至用有勝劣」，此第二答。以後有相，知前有體。遇火等緣，蘇、臈、鐵等物便流動。如冬水中由極冷故，有煖等相。及由先觸極冷水故，後觸次冷，覺中有煖。雖四大種體不相離，以用勝故唯一相顯，如多境相雜勝者先受，多聲同發唯聞勝者。《婆沙》一百四十一云「問：云何得知此四大種恒不相離？答：自相、作業一切聚中皆可得故。謂堅聚中地界自相現可得故，有義極成。於此聚中若無水界，金、銀、錫等應不可銷。又水若無，彼應分散。若無火界，石等相擊火不應生。又火若無，無能成熟，彼應腐敗。若無風界，應無動搖。又若無風，應無增長。於濕聚中，水界自相現可得故，有義極成。於此聚中若無地界，至嚴寒位應不成水。又地若無，船等應沒。若無火界，應無煖時。又火若無，彼應腐敗。若無風界，應不動搖。又風若無，應無增長。於煖聚中，火界自相現可得故，有義極成。於此聚中若無地界，燈燭等焰應不可迴。又地若無，不應持物。若無水界，應不生流。又水若無，焰不應聚。若無風界，應不動搖。又若無風，應不增長。於動聚中，風界自相現可得故，有義極成。於此聚中若無地界，觸牆等障應不折迴。又地若無，應不持物。若無水界，應無冷風。又水若無，彼應分散。若無火界，應無煖風。又火若無，彼應腐敗。」

> <span>「縁に出会うと、その働きに優劣が生じる」という議論がある。これが第二の答えである。後のものに形があることから、前のものに本体があることが分かる。火などの縁に出会うと、酥（バター）、蝋（ろうそく）、鉄などの物質は流動する。まるで冬の水が非常に冷たいことによって温かさなどの性質を持つように。また、最初に非常に冷たい水に触れた後、次にやや冷たい水に触れると、その感覚の中に温かさを感じることと同じである。</span> <span>四大種（地・水・火・風）はその本体において互いに離れていないが、その働きが勝っているために一つの性質だけが現れる。例えば、多くの境（対象）が混ざっている場合、勝っているものが先に受け取られるように。多くの音が同時に発せられても、勝っている音だけが聞かれるのと同じである。</span> <span>『大毘婆沙論』第百四十一巻にはこうある。「問う：どうしてこの四大種が常に互いに離れていないと知るのか？ 答える：自らの性質と働きが、あらゆる集まりの中に見出されるからである。すなわち、固い集まりの中では地界の自らの性質が現れて見出される。この意味は極めて確かである。この集まりの中に水界がなければ、金・銀・錫などは溶けるはずがない。また、水がなければ、それらは分散してしまうはずである。もし火界がなければ、石などを打ち付けても火は生じないはずである。また、火がなければ、成熟させる力がなく、それらは腐敗してしまうはずである。もし風界がなければ、動きや揺れはないはずである。また、風がなければ、成長もないはずである。</span> <span>湿った集まりの中では、水界の自らの性質が現れて見出される。この意味は極めて確かである。この集まりの中に地界がなければ、非常に寒い時でも水にはならないはずである。また、地がなければ、船などは沈んでしまうはずである。もし火界がなければ、暖かい時がないはずである。また、火がなければ、それらは腐敗してしまうはずである。もし風界がなければ、動きや揺れはないはずである。また、風がなければ、成長もないはずである。</span> <span>暖かい集まりの中では、火界の自らの性質が現れて見出される。この意味は極めて確かである。この集まりの中に地界がなければ、灯明やろうそくの炎は曲げることはできないはずである。また、地がなければ、物を支えることができないはずである。もし水界がなければ、流れは生じないはずである。また、水がなければ、炎は集まらないはずである。もし風界がなければ、動きや揺れはないはずである。また、風がなければ、成長もないはずである。</span> <span>動く集まりの中では、風界の自らの性質が現れて見出される。この意味は極めて確かである。この集まりの中に地界がなければ、壁などの障害に触れても跳ね返らないはずである。また、地がなければ、物を支えることができないはずである。もし水界がなければ、冷たい風はないはずである。また、水がなければ、それらは分散してしまうはずである。もし火界がなければ、暖かい風はないはずである。また、火がなければ、それらは腐敗してしまうはずである。」</span>

論「有餘師說至界謂種子」，此是經部也。唯有種子，無其體相。大乘不言種子，然許或有一大乃至四大，許一造色乃至五境，然同處不相離，非和雜也。經部大意亦同。

> 「有餘師が『界とは種子である』と説く」というのは、経部（経量部）の立場です。彼らは、ただ種子（潜在的な力）のみを認め、実体や形相は存在しないとします。大乗仏教では種子という用語は使いませんが、ひとつの大きなものから四つの大きなものまでを許容し、あるいはひとつの造られた色から五つの認識対象までを認めます。しかし、これらは同じ場所にあっても互いに混ざり合うのではなく、分離せずに共存するのです。経部の考えも、大体これと同様です。

論「如何風中知有顯色」，問也。若言外境定有八微如外風中無塵埃者，長等形色共許定無，如何得知風中有顯色？若無顯色即唯有觸，孰有八微？

> 問う：「風の中に顕色（色）があるとどうして知るのか？」 もし外の世界には必ず八つの微細な要素があり、例えば外の風に塵がなければ、長さなどの形色は誰もが認めて存在しない。では、どうして風の中に顕色があると知るのか？もし顕色がなければ、ただ触覚（触）だけがあることになる。それで八つの微細な要素をどうして持つと言えるのか？

論「此義可信至不相離故」，答也。風中顯色但可依教信有，不可比知。或所合香現可取者，雖不可見而香可嗅，香、顯必俱定有顯也。

> この「この意味は信ずるに足る。互いに離れないからである」と論じるのは、その答えである。風の中に現れる色は、ただ教えに従ってその存在を信じることはできても、類推して知ることはできない。あるいは、混ざり合った香りが現に感じ取れる場合、それは見ることはできなくとも香りを嗅ぐことはできる。香りと色は必ず共に存在し、確かに色があるのである。

論「前說色界至故不別說」，類釋色界，可知。

> 「前に、色界について『乃至、故に別に説かず』と説いた」という解釈は、色界についての類推による説明であると理解できる。

論「此中言事至為依處說」，自此已下問答分別。此是問也。

> さて、「ここに言う『事』とは、何を拠り所として説かれているのか」という、この部分以降は、問答による解説である。これは、その問いの部分である。

論「若爾何過」，此反問也。

> では、そのように主張した場合、どのような誤りが生じるのか。これは、反対に問い返している言葉である。

論「二俱有過至有太少過」，此責依體有太少過。

> 二つの立場のいずれも過ちがあるという議論…それは「数が多すぎる、あるいは少なすぎる誤りがある」という主張である。これは、本質（体）に基づいて数えれば、過大あるいは過小の誤りが生じるという非難である。

論「若依處說至有太多失」，此明依處太多失也。

> もし「基盤として説くならば、あまりにも多くの過失がある」と言うならば、これは基盤があまりにも多いことによる過失を明らかにしている。

論「二俱無過至能依造色」，答二難也。

> 「二俱に過無く、能依の造色に至る」について論じ、二つの難問に答える。

論「若爾大種至四大種故」，此就異類大種為難。

> もし「では、大きな種（大種）が四つの大きな種（四大種）に至るとはどういうことか」と論じるなら、これは異なる種類の大種を対象として問いかけるものです。

論「應知此中至類無別故」，此以類同合說答也。然《正理論》更有二說，故彼論云「或唯依體亦無有失，由此中說定俱生故。形色等體非決定有，光、明等中則無有故。或唯依處，然為遮遣多誹謗故，別說大種。多誹謗者，謂或謗言：大種造色無別有性謂譬喻部及覺天等。或復謗言：無別觸處所造色體室利邏多說許餘色。或復謗言：非一切聚皆具一切。經部諸師或有總無四大，或復謗言數不決定，別說大種此謗皆除經部諸師同大乘說，或言定有大種不必具四。」

> よって、「この中にては、もろもろの種類は同じであって、区別がないからである」と論じられているのは、これらを種類が同じであるとして合わせて説き、答えたものである。 しかしながら、『正理論』にはさらに二つの説がある。その論にはこうある。「あるいはただ依体（よりどころとなる本体）のみによるとしても、過失はない。なぜならここでは、必ず俱生（共に生じる）と説かれているからである。形色などの体は、必定して存在するものではない。光明などの中には、それが存在しないからである。あるいはただ依処（よりどころとなる場所）のみによるのである。しかし、多くの誹謗を遮断するために、別して大種（四大元素）を説くのである。多くの誹謗とは、すなわち、ある者は誹謗して『大種が造色（作られた物質）を生じるという、別個の性質は存在しない』と言う<note>譬喻部および覚天などを指す</note>。あるいはまた誹謗して『別個の触処に属する所造色の体は存在しない』と言う<note>室利邏多は、他の色（物質）が許される、と説く</note>。あるいはまた誹謗して『すべての集まりが、すべての要素を具えているわけではない』と言う。経部の諸師の中には、あるいは全く四大がないとする者もあり、あるいはまた誹謗して『その数が決定していない』と言う者もある。別して大種を説くことによって、これらの誹謗はすべて除去されるのである<note>経部の諸師は、大乗の説と同じく、あるいは『必ず大種は存在するが、必ずしも四つすべてを具えるわけではない』と説く</note>。」

論「何用分別至義應思擇」，此論主止諍也。

> 「なぜわざわざ分別を立てて、その意味をよく考える必要があるのか」という問いに対して、論主は論争を鎮めるためにこのように述べている。

論「如是已辨至今次當說」，此下半頌釋餘俱生。

> さて、「すでにこのように説明しましたが、今から次に述べるべきこと」というのが、この下の半偈であり、残りの「俱生」（ともに生じるもの）を説明しています。

「論曰至餘則不起」，釋心、心所必定俱也。無有心王起時不兼心所，心所起時不兼心王，故言必俱。非謂心王而與一切種類心所俱也。

> 「論に曰く『至れば余は則ち起たず』」とは、心と心所が必ず共に生じることを説明している。心王が生じる時に心所を伴わないことはなく、心所が生じる時に心王を伴わないことはない。だから「必ず共に（生じる）」と言うのである。しかし、心王があらゆる種類の心所と共に生じるという意味ではない。

論「諸行即是至四相俱起」，言「諸行相」者，謂一切有為與四種相必定俱起。上句「必俱」二字流至下句，諸行相必俱也。

> 「諸行とは、すなわち四つの相を共に生じるものである」という意味です。「諸行の相」とは、あらゆる因縁によって生じるもの（有為法）が、必ず四つの相（生・住・異・滅）とともに現れることを指します。前の文にある「必ずともに」という二文字が次の文にもかかっており、「諸行の相は共に生じるのである」と説かれています。

論「言或得者至是故言或」，釋頌「或得」二字。於諸行中，或與得俱起，謂有情法；或與得不俱，謂無情法，故言或也。

> 「或いは得るものあり」から「故に或いはいふ」までの論において、偈頌の「或いは得る」の二字を解説する。 諸々の行（現象）の中には、あるものは獲得と共に生じるものもある。これを有情法（生命あるものの現象）という。また、あるものは獲得と共に生じないものもある。これを無情法（生命なきものの現象）という。ゆえに「或いは」と言うのである。

論「向言心所何者是耶」，此下乘便廣明心所。言心所者，是心所有。《正理論》云「四有為中廣辨色、心，如前品說。」心所等法猶未廣辨，自下有十一頌半廣明心所。文中有四：一述名體、二述俱生、三述簡濫、四述眾名。就述名體中復分為二：一開章列名、二牒章別釋。此下半頌開章列名。

> さて、「さきに『心所とは何か』と問うたが」という点について、この下から広く心所を明らかにしていく。心所とは、心に所属するものである。『正理論』には「四有為の中では、色と心はすでに前の品で述べたように広く説いた」とある。心所などの法はまだ広く説いていないので、この下から十一頌半にかけて心所を広く明らかにする。文中には四つの部分がある。一に名体を述べ、二に俱生を述べ、三に簡濫を述べ、四に衆名を述べる。名体を述べる中でさらに二つに分かれる。一に章を開き名を列挙し、二に章に基づいて別々に解釈する。この下半頌が章を開き名を列挙する部分である。

「論曰至五小煩惱地法」，列五地名，可知。依《婆沙》四十二，五地法外更有大有覆無記地，謂有覆無記心、心所法。大無覆無記地法，謂即一切無覆無記。此二地法無別心所，故此不說。

> 「論が『五小煩悩地法に至る』と言うのは、五つの地の名前を列挙していることがわかる。『婆沙』（巻四十二）によれば、五つの地の法の他に、さらに「大有覆無記地」がある。これは有覆無記の心と心所の法を指す。「大無覆無記地の法」とは、一切の無覆無記を指す。この二つの地の法には、別個の心所がないため、ここでは説かれていない。」

論「地謂行處至為彼法地」，總釋五地名也。

> 「地とは行くところをいい、彼の法の地となるに至る」とは、五つの地の名称を総合的に解釈したものである。

論「大法地故名為大地」，別釋大法地也。謂地是心王，大法是心所。

> 「大法の地を論じて、故に大地と名づく」とは、別して大法の地を解釈したものである。ここで「地」とは心王を指し、「大法」とは心所を指す。

論「此中若法至名大地法」，別釋大地法也，謂即心所。此是兩重屬主釋也。

> この中で、もしある法が大地法と名付けられるなら、それは別に大地法を説明したものであり、すなわち心所を指す。これは二重の「主従関係による解釈」である。

論「謂法怛於一切心有」，示大地法體也。

> 「すべての心には、常に必ず存在する法がある」と論じるのは、大地法の本質を示している。

論「彼法是何」，此重問也。自下別釋五大地法，即為五段。此下第一，一頌別釋大地法也。將釋名體，先釋總名，如前所述。《正理論》云「地即是心，大法地故名為大地。此中若法，大地所有，名大地法。謂法遍與一切品類一切心俱生，由此故心非大地法，非心俱生故。」准上論文，受等十法遍一切心故名為大。心王與大為所依故，名為大地。受等十法與心俱生，名大地法。心與心王不俱生故，非大地法。《婆沙》十六「問：大地法是何義？答大者謂心。如是十法是心起處，大之地故，名為大地。大地即法，名大地法。有說：心名為大，體、用勝故。即大是地，故名大地，是諸心所所依處故。受等十法於諸大地遍可得故，名大地法。有說：受等十法遍諸心品故名為大，心是彼地故名大地。受等即是大地所有，名大地法。」前之二釋與二論異，後之一釋與二論同。自古諸師或以三義、或以五義簡五地別，恐煩不敘。今此論主唯以一義簡地法別，勝於三義五義簡也。即以遍於一切心簡，自餘心所皆不能遍一切心也。

> 「かの法は何か」と論じるのは、これは重ねて問うことである。以下に、五つの大地法を別々に解釈し、五つの段落とする。この下が第一で、一つの偈頌で大地法を別々に解釈する。名前と本体を解釈するにあたり、まず総名を解釈するのは、前述の通りである。『正理論』に「地とは心である。大なる法の地であるから、大地と名づける。この中で、もし法が大地に所有されるなら、大地法と名づける。すなわち、法がすべての種類、すべての心とともに生じることを遍くする。このゆえに、心は大地法ではない。心とともに生じないからである。」とある。上記の論の文に基づけば、受などの十の法はすべての心に遍くするから「大」と名づける。心王は「大」にとって依るところとなるから、「大地」と名づける。受などの十の法は心とともに生じるから、大地法と名づける。心は心王とともに生じないから、大地法ではない。『婆沙』第十六に「問う：大地法とはどのような意味か。答える：大とは心をいう。これらの十の法は心の生起する処であり、大の地であるから、大地と名づける。大地すなわち法であり、大地法と名づける。ある説：心を大と名づけるのは、体と用が勝れているからである。すなわち大が地であるから、大地と名づけ、これは諸々の心所の依るところとなるからである。受などの十の法は諸々の大地に遍く得られるから、大地法と名づける。ある説：受などの十の法は諸々の心の品に遍くするから大と名づけ、心はそれらの地であるから大地と名づける。受などはすなわち大地に所有されるから、大地法と名づける。」とある。前の二つの解釈は二つの論と異なり、後の一つの解釈は二つの論と同じである。古来の諸々の師は、あるいは三つの義、あるいは五つの義をもって五つの地の違いを簡別したが、煩わしいのでここでは述べない。今、この論の主はただ一つの義をもって地と法の違いを簡別する。これは三つの義や五つの義による簡別よりも勝れている。すなわち、すべての心に遍くすることをもって簡別するので、残りの心所はすべての心に遍くすることができないのである。

「論曰至和合遍有」，先總釋遍有。謂傳婆沙師說，故言傳說。

> 論に曰く「至れりと和合して遍く有り」とは、まず総じて遍く有ることを釈する。これは毘婆沙師の説き伝えるところによるゆえに「伝説」と言う。

論「此中受謂至有差別故」，准釋受蘊。言領隨觸，及於此中正理不破，故知此言即謂領順苦、樂等觸，非謂領順苦、樂等境。有人定為領納前境，非決定也。故《正理》云「於所依身能益、能損、或俱相違，領愛、非愛、俱相違觸，說名為受。」准此論文，領同時觸。

> 「ここに『受』というのは、触れに従って領納することを意味し、差別があるからである」と論じられており、受蘊についての解釈が示されています。「触に従って領納する」という言葉は、この中で正理によって破られることがありません。したがって、この言葉は、苦・楽などの触れに従って領納することを意味しており、苦・楽などの境地に従って領納することを意味するわけではありません。ある人々は、これを必ずしも前の境地を領納すると決めつけていますが、それは確定的な見解ではありません。ゆえに『正理論』には「身体に利益をもたらし、または損害をもたらし、あるいはその両方に反すること、愛しい・愛しくない・その両方に反する触れを領納することを、受と名付ける」とあります。この論旨に従えば、同時の触れを領納するのです。

論「想謂於境取差別相」，即是取男、女等差別之相。《正理論》云「安立執取男、女等境差別相因，說名為想。」述曰：謂能為因，令心、心所安立男、女等相而執取故。

> 「想とは、対象に対して様々な違いを捉える心のはたらき」と説かれます。つまり、男・女といった区別のある姿を捉えることです。 『正理論』にはこうあります。「男・女などの対象の違いを確定して捉えるための原因を、想と名づける」と。 これをかみ砕いて述べると、想とは、心や心のはたらきが、男・女などの区別を確かにとらえさせる原因となるものなのです。

論「思謂能令心有造作」，《正理論》云「令心造作善、不善、無記，成妙、劣、中性，說名為思。由有思故，令心於境有動作用，猶如磁石勢力能令鐵有動用。」

> 「思」とは、心をはたらかせる力のことです。『正理論』にはこう説かれています。「心をして善・不善・無記（善悪どちらでもない性質）の行為を起こさせ、優れたもの・劣ったもの・中程度のものに作り変える。これを思と名づける。思があるからこそ、心が対象に対して動きはたらく作用が生じる。それはちょうど、磁石の力が鉄を動かすようなものである。」

論「觸謂根境至能有觸對」，《正理論》云「由根、境、識和合而生，能為受因有所觸對，說名為觸。」

> 触（ふれ）とは、感覚器官（根）と対象（境）とが接触することで生じる心の働きを指します。『正理論』では、「根・境・識の三つが和合して生じ、感覚（受）の原因となり、対象に触れて対する働きがあることから、これを触と名づける」と説かれています。

論「欲謂希求所作事業」，《正理論》云「希求取境說名為欲。」

> 「欲とは、なすべき事業を求め願うこと」と論じられている。『正理論』には「境を希求して取りたてることを、欲と名づける」と説かれている。

論「慧謂於法能有簡擇」，《正理論》云「簡擇所緣邪、正等相、說名為慧。簡擇未決，亦得疑俱。」

> 智慧とは、「事物（法）を正しく見分け（簡択）選び取る（択）はたらき」を言います。 『正理論』にはこう説かれています。 「分別して対象の正邪などの相を明らかにするはたらきを、智慧と名づける。まだ決断していない分別も、疑いとともに存在する。」

論「念謂於緣明記不忘」，《正理論》：「於境明記不忘失因，說名為念。」述曰：由念力故，於緣境明記顯了，能為後時不忘失因，非謂但據緣過去境。

> 「念とは、対象を明らかに心に留め、忘れないことである」と論じます。『正理論』には「対象を明らかに覚えていて忘れない原因となるものを、念と名づける」とあります。説明すると、念の力によって、対象をはっきりと記憶し明らかにし、後になっても忘れない原因となるのです。ただし、これは単に過去の対象を覚えているという意味ではありません。

論「作意謂能令心警覺」，《正理論》云「引心、心所，令於所緣有所警覺，說名作意，此即世間說為留意。」述曰：諸心：心所沈沒不行，由作意力警令發覺，策之令造能屬於境，即世間言留心於此。

> 作意とは、心を目覚めさせ、気づかせる働きのことです。 『正理論』にはこう説かれています。「心と心所を引き出し、対象に対して気づきを生じさせる。これを『作意』と名づける。これは世間でいう『留意』（注意を向けること）と同じである。」 解説すると、あらゆる心や心所は本来、沈んで働かなくなる性質を持っています。しかし、作意の力によってそれらを呼び覚まし、対象へと向かわせ、その対象と結びつけるのです。これが、世間でいう「ここに心を留める（注意を集中する）」という意味です。

論「勝解謂能於境印可」，《正理論》云「於境印可，說名勝解。有餘師言：勝謂增勝，解謂解脫。此能令心於境無礙自在而轉，如勝戒等。」述曰：於境分明印可，審定是事如是、非不如是殊勝之解，名為勝解。問：若然者，與疑相應，云何有勝解耶？解云：有耶無耶，於二心中一一皆能印可取相，故有勝解。言餘師者，《雜心》等師。彼說令心於境自在為勝，境不能礙故。得改易名解，解謂解脫。故舊《雜心》謂名解脫。言勝戒等，等取勝定、勝慧。如說由觸故心屬於境，由勝解故心離於境。即其義也。

> 「勝解とは、対象（境）に対して確かに認め定める（印可）はたらきをいう」とされる。『正理論』には「対象を認め定めることを勝解と名づける。またある論師は言う。『勝』とはすぐれたという意味であり、『解』とは解脱することである。これは心をして対象に対して妨げなく自在に作用させる。例えば勝戒などのように」とある。これを解説すれば、対象をはっきりと認め定め、それが確かにこうであると判断し、そうでないとしない、このすぐれた認識作用を勝解という。 問：それならば、疑いの心と一緒にあるときに、どうして勝解が存在するのか。 答：そうであるか、そうでないかという二つの心のそれぞれにおいて、どちらも対象の相を認め取ることができるので、勝解は存在する。 「余師」とは『雑心論』などの論師のことである。彼らは、心を対象に対して自在にすることを「勝」とし、対象が妨げとならないからである。また、変化させることができることを「解」といい、「解」は解脱を意味する。ゆえに旧訳の『雑心論』ではこれを解脱と名づけたのである。「勝戒」などというのは、勝定や勝慧をも含めた表現である。例えば、「触によって心は対象に属し、勝解によって心は対象から離れる」と言われるが、これがその意味である。

論「三摩地謂心一境性」，《正理論》云「令心無亂取所緣境不流散因，名三摩地。」述曰：由定力故，當剎那中令心、心所同屬一境，至此非餘。三摩地者，此云等持，即平等持心於一境住。上釋諸心所，言於心者亦兼心所。諸相相違而俱起者，如理思之，恐煩不述。略舉兩論辨其體相，欲述多文，恐繁不敘。

> 三摩地とは、心が一つの対象に集中する状態を指します。『正理論』には「心を乱さず、捉えた対象に散乱しない因となるものを三摩地という」と説かれています。これについて、定の力によって、その瞬間に心と心所が同じ一つの対象に向かい、それ以外に逸れることがなくなるのです。三摩地は「等持」と訳され、心を平等に保ちながら一つの対象に留めることを意味します。上の心所の説明において『心』と言及した場合には、心所も含まれていることに注意してください。様々な心所が互いに相反しながらも同時に生起する点については、道理に沿ってよく考えるべきであり、煩雑を避けるためここでは述べません。ここでは二つの論書を簡潔に挙げてその本質と特徴を明らかにしましたが、あまり多くの文を費やすと冗長になるため、これ以上は述べないこととします。

論「諸心心所至唯覺慧取」，此難心、心所法微細難知。有部之宗十法遍行，大乘之中唯五遍行。《正理》中云「彼上坐言：但有三種，謂受、想、思。此即唯三名為遍行。亦有不立心所，唯心差別說名受等。」應錄之。

> 「あらゆる心と心所は、ただ認識だけが捉える」という論ですが、 これは心と心所の法が微細で理解しがたいからです。 有部の教えでは十の法が心の働き全体にわたってありますが、 大乗では五つだけがそれにあたります。 『正理論』にはこうあります： 「かの上座（大徳）は言った。ただ三種――受、想、思――がある。 この三つのみを遍行と名づける。 また心所を立てず、心の違いによって受などを説く立場もある。」 これを書き留めるべきです。

論「如是已說至彼法是何」，自下第二，一頌釋大善地法。先釋大善地。彼善地法兩重屬主，如前可知。

> さて、「このようにして…から…の法は何か」と述べましたが、以下は第二の部分です。一つの偈頌で「大善地法」を説明します。まず「大善地」を解釈します。その「善地法」には二重の主従関係があることは、先に述べた通りです。

「論曰至唯遍善心」，此釋大善法名，諸心所中有，唯是善不遍善心，謂欣、厭也。有遍善心非唯是善，謂大地法。有唯是善亦遍善心，謂信等十。有不遍善心及非唯是善，謂尋伺二、睡眠、惡作。唯染心所非善性故，善言已簡。

> 「論に曰く『至は唯だ善心に遍ず』とは、これは大善法の名を釈したものです。諸々の心所の中には、唯だ善であるものがあるが、善心に遍じないもの、すなわち欣（喜び）と厭（嫌悪）があります。善心に遍じるが、唯だ善ではないもの、すなわち大地法があります。唯だ善であって、しかも善心に遍じるもの、すなわち信等の十善心所があります。善心に遍じず、かつ唯だ善でもないもの、すなわち尋・伺・睡眠・悪作があります。唯だ染（けがれた）心所は善性ではないので、『善』という言葉で既に区別されています。」

論「此中信者至故名為信」，《正理論》云「心濁相違，現前忍許。無倒因果各別相屬，為欲所依能資勝解，說名為信。」《入阿毘達磨》云「是能除遣心濁穢法。如水清珠置於池內，令濁穢水皆即澄淨。如是信珠在心池內，心諸濁穢皆悉除遣。」

> ここで「信」と呼ばれるものは、「心の中にある濁り（心濁）に対抗して、目の前の事柄を正しく受け入れ、誤りのない因果関係（因果）や、それぞれの事柄のつながり（相属）を認める心の働きです。そして、そのような確信が願い（欲）の基盤となり、さらなる理解（勝解）を育てる力となるもの、それを「信」と名付けます。 『入阿毘達磨論』では、次のように説かれています。「信とは、心の濁りや汚れを取り除く働きです。ちょうど、水を清める宝石（水清珠）を池の中に入れると、濁った水がすぐに澄み渡るように、信という宝石が心の池にあるならば、心のあらゆる濁りや汚れはすべて取り除かれます。」

論「不放逸者至名不放逸」，《正理論》云「專於己利，防身、語、意。放逸相違，名不放逸。」述曰：己利即是三乘涅槃及世愛果。是己所專，舉所依也。防身、語、意，舉作用。放逸相違，明所治。

> 「不放逸」という言葉について、『正理論』にはこう説かれています。「自らの利益に専念し、身体・言葉・心の行いを慎むこと。放逸の反対の状態を、不放逸という。」とあります。 解説します。「己利」とは、声聞・独覚・菩薩の三つの道による涅槃（悟りの境地）と、世俗における望ましい果報のことです。これは自分自身が専らとすべき利益であり、そのよりどころとなるものを示しています。「身・語・意を防ぐ」とは、その働きを挙げたものです。「放逸に相違する」とは、対治すべき対象を明らかにしています。

論「輕安者謂心堪任性」，《正理論》云「正作意轉，身心輕利安適之因。心堪任性，說名輕安。」述曰：正作意轉，明所依位，即如理作意正現起時。能為身心輕利安適之因，舉作用也。心堪任性，指其體也。

> 「軽安（きょうあん）とは、心が物事に対応できる性質である」と説かれています。 『正理論』にはこうあります。「正しい心の働きが生じると、身心が軽やかで機敏、そして安らかで快適になる原因となる。心がよく対応できるという性質を、軽安と名づける」と。 これを解説します。「正しい心の働きが生じる」とは、その働きが現れる段階を示しています。つまり、道理にかなった心の使い方がまさに起こっている時のことです。その時、身心が軽やかで機敏、安らかで快適になる原因となります——これはその働きを挙げたものです。「心がよく対応できる性質」とは、その本質を指しています。

論「豈無經亦說有身輕安耶」，經部問也。既有經說有身輕安，如何唯是心堪任性？

> 問い：「経典には『身体の軽安（心身の軽やかさ）』があると説かれているのでは？」（経部の問いかけ） 答え：経典に確かに身体の軽安が説かれているとしても、それは心の堪任性（物事に耐えられる性質）だけを指しているわけではないのです。

論「雖無非說至應知亦爾」，有部釋也。此如身受非是色身，即是五識相應受也。輕安亦爾。

> 「たとえ説くところがなくとも、……また同じように知るべきである」という部分は、有部の解釈です。これは、身体で受ける感受が物質的な身体ではなく、五識（五つの感覚意識）に対応する感受であるのと同じです。軽安（心身の軽やかさや安らぎ）もまた、同様です。

論「如何可立此為覺支」，經部難也。若五識相應有輕安者，如何可說此為覺支？此難絕也。今詳此難非為切當。即心輕安當非皆是覺支，如何五識輕安令是覺支？

> さて、「どうしてこれを覚支として立てることができるのか」という経部の難問があります。「もし五識に相応する軽安があるなら、どうしてこれを覚支と言えるのか」という難問は、まったく見当違いです。この疑問を詳しく検討してみると、適切なものではありません。心の軽安はすべてが覚支というわけではなく、ましてや五識に対応する軽安が覚支であるはずがありません。

論「應知此中至身堪任性」，此文經部釋經與有部不同。經說身輕安性，即是色身有堪任性，身中輕觸。

> 「この中で『身の堪任性に至るまで』というのは、経部が経典を解釈する仕方と有部とで異なる。経典に説かれる身の軽安性とは、すなわち物質的な身体が堪任性を備えていることであり、身体の中の軽やかな感触（軽触）である。」

論「復如何說此為覺支」，有部難也。覺支是心所，輕安是色法，如何可說此為覺支？

> では、どうして「これを覚支である」と言えるのか。これは有部の問いである。覚支は心所であり、軽安は色法である。どのようにして、これを覚支だと言えるのか。

論「能順覺支至心輕安故」，經部通也。由入定時身輕安性，隨順定中心輕安故，名為覺支。

> 「覚支を順じて心の軽安に至るまで」という論点は、経部の解釈に通ずるものです。禅定に入るとき、身体の軽安性が、定の中にある心の軽安に随順するから、これを覚支と名づけます。

論「於餘亦見有是說耶」，有部問也。於餘亦有如是相從立名耶？

> 「他にもそのような説があるか」というのは、有部の問いかけです。他の場合にも、このように相関関係に基づいて名前を付けることがあるのでしょうか？

論「有如經說至得名無失」，引經例釋。亦見餘處嗔及嗔因緣名嗔恚蓋，見、思惟、及勤名為慧蘊。雖彼嗔因、思惟及勤，非嗔、非慧，然順彼故亦得彼名。此亦應爾。經部亦許有心輕安，而無別體，即思差別。唯定心有，於散即無，五識相應理即非有。身輕安者即是輕觸，身輕利因。《正理論》云「有作是言：此中既說身輕安故，非唯心所說名輕安。此言非理，受等亦應同此說故。然五識身相應諸受說名身受。有作是說：設有輕安，體非心所。然此中說心所法故，不應說彼，以能隨順覺支體亦名覺支。謂身輕安，能引覺支心輕安故。亦見餘處，嗔及嗔因名嗔恚蓋，見、思惟、勤名為慧蘊。雖彼嗔因，思惟及勤非嗔非慧，然順彼故亦得彼名。此亦應爾。」今詳此《正理》既言有作是說敘兩師說，有人所釋似不得意。亦見餘處已下，似通述彼計，非是欲說五識輕安名覺支也。《婆沙》上下無說身輕安名覺支故。設有此說，是引證自宗，即是別有經說身輕安名覺支也。

> 論に「経に説くが如く、至り得て名づけて無失と為す」とあり、経典を引いて例証している。また他の箇所では、瞋（いかり）および瞋の因縁を「瞋恚蓋（しんにがい）」と名づけ、見（けん）・思惟（しゆい）・勤（ごん）を「慧蘊（えうん）」と名づけると見える。それらの瞋の因・思惟・勤は、瞋でも慧でもないけれども、それらに順ずるがゆえに、その名を得る。この場合も同様であるべきだ。経部（きょうぶ）も心の軽安（きょうあん）を認めるが、別の体はなく、思（し）の差別である。ただ定（じょう）の心にはあり、散（さん）の心にはなく、五識（ごしき）と相応する道理では、すなわち存在しない。身の軽安とは、すなわち軽触（きょうそく）であり、身が軽利（きょうり）となる因である。 『正理論』に「ある者はこう言う。この中にすでに身軽安（しんきょうあん）と説かれているので、心のみに説かれるものだけを軽安と名づけるのではない。この言葉は道理にかなわない。受（じゅ）なども同じように説かれるべきだからである。しかし五識身（ごしきしん）と相応する諸々の受は、身受（しんじゅ）と説かれる。ある者はこう説く。仮に軽安があったとしても、その体は心所（しんじょ）ではない。しかしここでは心所法（しんじょほう）を説いているので、それを説くべきではない。能（よ）く覚支（かくし）の体に随順するものも、また覚支と名づけるからである。すなわち身軽安は、心軽安という覚支を引き起こすことができる。また他の箇所では、瞋および瞋の因を瞋恚蓋と名づけ、見・思惟・勤を慧蘊と名づけると見える。それらの瞋の因・思惟・勤は、瞋でも慧でもないけれども、それらに順ずるがゆえに、その名を得る。この場合も同様であるべきである」とある。 今、この『正理論』を詳しく見ると、すでに「ある者はこう言う」とあって、二師の説を述べている。ある人の解釈は、その意を得ていないようである。「また他の箇所では」以下は、おそらく彼らの主張を述べ伝えているのであって、五識の軽安を覚支と名づけると言おうとしているのではない。『婆沙』（ばしゃ）の上下を通じて、身軽安を覚支と名づけるという説はないからである。仮にこの説があるとすれば、それは自宗を引証するものであり、すなわち別に経典で身軽安を覚支と名づけると説かれていることになる。

論「心平等性至說名為捨」，《正理論》云「心平等性說名為捨。掉舉相違如理所引令心不越，是為捨義。」述曰：心平等性即指其體。對治沈掉不平等性，故名平等。掉舉相違，舉所治也。掉行麁動，違捨義強，所以偏說。如理所引等者，釋捨義。謂捨是善性，是如理心引生，能調伏心令不越所作。此論「無警覺性」者，即是無掉舉也。

> 「心の平等性を『捨』と名づける」と論じる。『正理論』には「心の平等性を『捨』と説く。掉挙（じょうこ）に相反し、理にかなった心の所産として心を逸脱させないこと、これが捨の意味である」とある。これを解釈すれば、心の平等性とはその本体を指す。昏沈（こんじん）と掉挙という不平等性に対治するから平等と名づける。掉挙に相反するとは、対治すべきものを挙げたものである。掉挙の働きは粗く動くものであり、捨の意味に反する度合いが強いため、特に言及されているのである。「理にかなった心の所産として」などとは、捨の意味を説き明かしたものである。すなわち、捨は善なる性質であり、理にかなった心によって引き起こされ、心を調伏してなすべきことを逸脱させないのである。この論書で「警覚性（けいかくしょう）のないこと」と言うのは、まさに掉挙がないということである。

論「如何可說至二相應起」，難也。通中作意是有警覺，善中行捨是無警覺，如何同一剎那二相應起？

> 「どのようにして、二つの相応（はたらき）が同時に生じうるのか」と論じるのは難しい。 通（善・不善・無記のいずれにも通じる心所）の中の作意（意識を向けるはたらき）には警覚（はっきりと気づく作用）があるが、善の中の行捨（心の平静を保つはたらき）には警覚がない。 それなのに、どうして同じ一瞬のうちに、この二つが相応して起こるのか？

論「豈不前說至難可了知」，論主答也。

> 論の「『すでに前に説いたところは、至って悟り難く、了知し難い』というのではないか」という問いに対して、論主が答えた部分である。

論「有雖難了至而不乖反」，外重難也。

> たとえ「有」を理解するのが難しくても、そこに至って背くことはない（という言葉について論じるのは）、さらに重ねて難しいことである。

論「此有警覺至有何乖反」，答也。作意有警覺，捨即無警覺。二體既殊，有何乖反？

> 「この『（作意に）警覚の働きがある』という点と、『（捨には）警覚がない』という点に関して、どこに矛盾があるのか」という問いに対し、答えて言う。 作意には警覚の働きがあり、捨には警覚がない。両者の性質がもともと異なる以上、いったいどこに矛盾があるというのか。

論「若爾不應至皆互相應」，外重難也。一有警覺、一無警覺，二既有殊，如何同緣一境？又若有警覺與無警覺二得相應，亦應一切貪、無貪等皆互相應。

> 「では、互いに対応するはずがない」という外部からの再批判があります。 一方は警覚（さとりの心）があり、他方は警覚がありません。この二つに違いがあるなら、どうして同じ一つの境を対象とできるのでしょうか。 また、もし警覚があるものとないものが相互に対応するのなら、すべての貪りと貪りなき心も互いに対応することになるでしょう。

論「如是種類至應知亦爾」，答也。如是體別、用殊種類所餘諸法，此中應皆引來為例。如彼用別同一心起，今於此中捨及作意同一心起，應知亦爾。

> 「このように種類について論じ、『…に至るまで、同じように知るべきである』と答えている。このように、本体は異なるが、作用が異なる種類の残りの諸法についても、ここで全て引き合いに出して例とすべきである。あの作用の違いが同一の心から生じるように、ここでいう『捨』と『作意』も同一の心から生じる。同じように知るべきである。」

論「慚愧二種如後當釋」，指下釋也。

> 「慚と愧の二つについては、後に説明する」とは、後の解説を指している。

論「二根者謂至大善地法」，《正理論》云「已得、未得境界，耽著希求相違，無愛染心名為無貪；於情非情無恚害意，哀愍種子說名無嗔。」

> 「二根とは、すなわち大善地法に至るもの」について、『正理論』では次のように説かれています。「すでに得たもの、まだ得ていないものに対して、執着や強い思い入れを求めず、それらと相反する心、すなわち愛着や染まりの心がないことを『無貪』と名づける。また、有情に対しても、そうでないものに対しても、怒りや害そうとする心がなく、憐れみの種子があることを『無瞋』と名づける。」

論「言不害者謂無損惱」，《正理論》云「與樂、損惱有情相違，心賢善性，說名不害。」

> 「害しない」とは、他者を悩ませたり傷つけたりしないことを意味します。 『正理論』にはこうあります。「楽を与えることや、他者を悩ませ傷つけることと反対の、心のやさしく善い性質を、不害（害さないこと）と名づける。」

論「勤謂令心勇悍為性」，《正理論》云「於諸已生功德、過失，守護、棄捨。於諸未生功德、過失，令生、不生。心無墮性，說名為勤。由有此故，心於如理所作事業堅進不息。」依《正理論》，於善法中更立欣、厭，然不遍於一切善心。故彼論云「說二及言，兼攝欣、厭。厭謂善心審觀無量過患法性，此增上力所起順無貪心厭背性，與此相應名厭作意。欣謂善心希求過患出離對治，此增上力所起順其證修心欣尚性。此於離喜未至等地亦有現行，故非喜受，與此相應名欣作意。此二行相更互相違，故一心中無容竝起，是故此中不正顯說，大善地法性不成故。亦有喜根、厭行俱轉，定無有欣、厭行俱轉。為表此二定不俱行，說二及言，行相違故。」又《阿毘達磨論》云「欣謂欣尚。於還滅品見功德已，令心欣慕隨順修善。心有此故欣樂涅槃，與此相應名欣作意。厭謂厭患。於流轉品見過失已，令心厭離隨順離染。心有此故厭惡生死，與此相應名厭作意。」又《婆沙》二十八云「評曰：有別法名厭，非慧非無貪，是心所法，與心相應。」此說在復有所餘如是類諸心所法與心相應。然見蘊說苦、集、忍智名能厭者，由彼忍智與厭相應故名能厭，非厭自性。又《婆沙》一百九十六，評家別說有厭體。與前文同。此厭唯善，通漏、無漏。又《婆沙》一百四十三亦別立欣、厭。然諸小論多不說者，以非恒起不遍善心，不說以為大善地法。諸心、心所有相應起，非自力起，有二十八，通中除慧，善大地十，煩惱地除無明一，不善地二，不定取二謂尋、伺。有自力起非相應起，有十六法，謂小惑十，不定中六謂貪、嗔、慢、悔、睡眠及疑。其睡眠所以是自力起者，由於睡位起貪、嗔等及諸善心。此是貪等、善等隨眠而起，非是眠睡隨貪等起。故《婆沙》五十云「睡眠、惡作雖亦獨立而不離二，不立結中。問：若爾，貪等應是亦自力起亦隨從起。答：於睡眠中若自力起、若他力起，或皆隨眠，故相無差別，所以不說。又雖隨眠起，性不隨彼成不善等，故不別說。亦相應起亦自力起，謂有二法，謂大惑中無明及通中慧。若作五見則自力起，餘即相應無明。若與九種隨眠、十種小惑及與悔俱則是相應，不共無明則是自力。非相應起非自力起，謂有一法，即是心王。」

> 論に曰く「勤とは、心を勇猛・悍強ならしめることを体性とする」とある。『正理論』には「すでに生じた功徳についてはこれを守り、すでに生じた過失についてはこれを捨てる。まだ生じていない功徳についてはこれを生じさせ、まだ生じていない過失についてはこれを生じさせない。心に退堕の性質がないこと、これを勤と名づける。この勤があるがゆえに、心は理にかなった事業に対して、堅固に進み、休むことがない」と説かれている。 『正理論』によれば、善心の中にさらに「欣（喜び慕う心）」と「厭（嫌い避ける心）」を立てているが、これらはすべての善心に遍く存在するわけではない。そのため同論では「『二』という言葉は、欣と厭の両方を兼ね含めて示している。厭とは、善心が無量の過患の法性を詳しく観察し、その増上力によって起こる、無貪に随順する心の厭背の性質である。これと相応するものを厭作意と名づける。欣とは、善心が過患からの出離という対治を希求し、その増上力によって起こる、証・修に随順する心の欣尚の性質である。これは離喜の未至地などにおいても現行するから、喜受ではない。これと相応するものを欣作意と名づける。この二つの行相は互いに相違するので、一つの心の中に併せ起こることはありえない。それゆえここでは正しく顕説せず、大善地法の体性が成立しないからである。また、喜根と厭行が共に転じることはあるが、欣と厭行が共に転じることは決してない。この二つが決して同時に起こらないことを表すために、『二』という言葉を用いたのである。行相が相違するからである」と説かれている。 また『阿毘達磨論』には「欣とは、欣尚することである。還滅の品において功徳を見た後、心に欣慕を起こさせ、善を修することに随順させる。心にこの欣があるがゆえに涅槃を欣楽する。これと相応するものを欣作意と名づける。厭とは、厭患することである。流転の品において過失を見た後、心に厭離を起こさせ、染まりを離れることに随順させる。心にこの厭があるがゆえに生死を厭悪する。これと相応するものを厭作意と名づける」と説かれている。 さらに『婆沙論』第二十八には「評して曰く、別の法があって、これを厭と名づける。これは慧でもなく無貪でもなく、心所法であって、心と相応する」とある。この説は、他にもこのような類の心所法が心と相応することを述べている。しかし『見蘊』では、苦・集・忍・智を「能厭」と名づけると説く。それは、その忍と智が厭と相応するから能厭と名づけるのであって、厭そのものが自性であるわけではない。 また『婆沙論』第百九十六では、評家が別に厭の体があると説いており、前文と同じである。この厭は善のみであって、有漏・無漏に通じる。 また『婆沙論』第百四十三でも、別に欣と厭を立てている。しかし、諸々の小論では多くは説かない。それは、常に起こるものではなく、善心に遍く現れるものでもないから、大善地法としないのである。 心・心所には、相応して起きるもの（他力によって起きるもの）と、自力で起きるものとがある。相応して起きるものは二十八法ある。通大地の中から慧を除き、善大地の十、煩悩地から無明を除いたもの、不善地の二、不定から尋・伺の二つを取る。自力で起きて、相応して起きるのではないものは十六法ある。すなわち小随惑の十、不定の中から貪・瞋・慢・悔・睡眠・疑の六つである。睡眠が自力で起きるものである理由は、睡眠の位において貪・瞋などや諸々の善心が起きるからである。これは貪などや善などが睡眠に随って起きるのであって、睡眠が貪などに随って起きるのではない。 ゆえに『婆沙論』第五十には「睡眠と悪作は、独立して起こることもあるが、二つから離れないために、結縛の中には立てない」とある。問う「もしそうならば、貪などもまた自力で起き、かつ随従して起きることもあるのではないか」。答える「睡眠の中において、自力で起きるものも他力で起きるものも、あるいはすべて随眠であるから、その相に差別はない。それゆえ特に説かないのである。また、随眠から起きるものであっても、その性質が他の不善などに従って変化するわけではないから、別に説かないのである。また、相応して起き、かつ自力でも起きるものが二法ある。すなわち、大随惑の中の無明と、通大地の中の慧である。もし五見をなすならば自力で起き、その他の場合は相応の無明である。不共無明は自力である。相応して起きるのでもなく、自力で起きるのでもないものは一法ある。すなわち心王である」とある。

論「如是已說至彼法是何」，自下第三明大煩惱地法。兩重依主，如文可知。此有四句。有唯染非遍，謂忿、覆等，及貪、嗔等，并無慚等。有遍染非唯，謂通中十。有遍亦唯，謂大惑地。非唯非遍，謂即尋、伺、睡眠、惡作。唯善心所非染性故，染言已簡。

> さて、「以上の説明で、その法は何か」という問いに対して、以下第三に「大煩悩地法」を明らかにする。二重の「依主」については文章の通りで理解できる。ここには四つの条件がある。 - ただ「染」であって「徧」ではないもの：忿、覆など、および貪、瞋など、および無慚などをいう。 - 「徧」であってただ「染」ではないもの：十の普通の心所を通じて現れるものをいう。 - 「徧」でもありかつ「唯」でもあるもの：大煩悩地の法をいう。 - 「唯」でも「徧」でもないもの：尋・伺・睡眠・悪作をいう。 ただ善の心所は染の性質ではないため、「染」という言葉で既に除外されている。

「論曰至無智無顯」，此釋無明相也。《正理論》云「癡謂愚癡。於所知境，障如理解、無辨了相，即是無明。無智、無顯故說名愚。」

> 【論に曰く「智なく顯なし」に至るまで、これは無明の相を釈するものである。『正理論』に云う「癡とは愚癡のことである。知るべき対象に対して、正しい理解を妨げ、明らかに弁別することを欠く相、それがすなわち無明である。智がなく、明らかさがないから、愚と名づける」と。】

論「逸謂放逸至所對治法」，《正理論》云「於專己利，棄捨縱情，名為放逸。」述曰：專己利者，如不放逸中釋。

> 「逸とは放逸のことで、対治法に至る」とあることについて、『正理論』では「自分の利益に専念することを放棄し、心を勝手に任せることを、放逸という」と述べています。解説には、自分の利益に専念するとは、不放逸の箇所で説明した通りです。

論「怠謂懈怠至勤所對治」，《正理論》云「於善事業闕減勝能，於惡事業順成勇悍，無明等流名為懈怠。由此說為鄙劣勤性，勤習鄙穢故名懈怠。」

> 怠とは懈怠（けたい）のことであり、精進に対治されるものである。『正理論』にはこう述べられている。「善い行いに対しては、その力を欠き減退させ、悪い行いに対しては、これを促進し勇み立たせる。無明（むみょう）の類流を懈怠という。ゆえにこれは、劣った怠惰な性質であると説かれる。怠惰や汚らわしいことに慣れ親しむから、懈怠と名づけるのである。」

論「不信者謂至信所對治」，《正理論》云「心不澄淨、邪見等流，於諸諦、寶、靜慮、等至現前輕毀，於施等因及於彼果心不現許，名為不信。」

> 「不信の者は、至信によって対治されるものとされる。」と論じる。『正理論』にはこう説かれている。「心が清らかに澄み渡らず、誤った見解が流れ込むことで、真理や三宝、静慮や等至を目の前にして軽んじ毀る。また、施しなどの因やその果報について心の中で認めようとしない。これを不信と名づける。」

論「惛謂惛沈至是名惛沈」，此引對法釋也。

> 「惛とは、心が沈みかすむことをいい、これが惛沈である」と述べられています。これは、対法（アビダルマ）の教えを引用して説明したものです。

論「此是心所如何名身」，問也。既是心所，如何對法說身重等？

> 「これは心所であるのに、なぜ『身』と呼ぶのか」という問いです。心所であるならば、どうして『対法』（アビダルマ）の中で『身』や『重』などと言うのでしょうか？

論「如身受言故亦無失」，答也。如言身受，非即是身而是心所。言身惛沈，義亦應爾。《正理論》云「𧄼瞢不樂等所生心重性，說名惛沈。由斯覆蔽，心便惛昧無所堪任，瞢憒性故。由是說為輕安所治。」

> 「身体で受け取ったように言うから、誤りはない」という主張に対して、答えはこうです。「身体で受け取る」と言っても、それは身体そのものではなく、心のはたらき（心所）です。「身体が沈む」という表現も、同じように考えられます。 『正理論』にはこうあります。「ぼんやりしたり、何も楽しくないなどから生じる、心の重だるい性質を、惛沈（こんじん）と言います。これによって覆い隠されるので、心はぼんやりして暗く、何もできなくなります。それは、ぼんやりとして鈍い状態だからです。このことから、軽安（きょうあん）によって治されると説かれています。」

論「掉謂掉舉令心不靜」，《正理論》云「親里尋等所生令心不寧靜性，說名掉舉。心與此合，越路而行」。

> 「掉とは、心が落ち着かず騒ぎ立てることを言います。『正理論』にはこう説かれています。『親族や故郷などについての考えから生じる、心が静かでなく騒がしい性質を、掉挙と呼ぶ。心がこれと結びつくと、道を外れて進んでしまう』と。」

論「唯有如是至煩惱地法」，總結數也。

> 「このような煩悩の地の法のみがある」と論じ、その数をまとめたものである。

論「豈不根本至掉舉放逸」，此舉本論難也。本論六中不說惛沈，大地法中復取其五合成十數名大煩惱地法，今將本論難唯有六。

> 「そもそも根本の教えに反して掉挙（じょうこ）や放逸（ほういつ）に陥るのではないか」というのは、この論が根本の教えを問うているのです。根本の教え（本論）の六つの中では、惛沈（こんじん）は説かれていません。大地法の中からさらに五つを取り出して、十の数にまとめて大煩悩地法と名づけていますが、今ここでは、根本の教えに従って問えば、六つしかないことになります。

論「天愛汝今至不閑意旨」，總非難也。汝但知本論說十之言，而不知彼後五即是大地法也。惛沈就勝雖障等持，明其體性誰無掉舉？既同唯遍染心，如何非是煩惱地法也？

> 「天が汝を愛し、今や汝の意図は明らかならず」と論じるのは、総じて非難に値しません。汝は本論が「十」という言葉を述べていることだけを知り、その後の五つがまさに大地法であることを知らないのです。惛沈は優れた点において等持を妨げるとはいえ、その体性を明らかにすれば、誰に掉挙がないというのでしょう？同じく染汚心のみに遍くあるならば、どうして煩悩地法ではないのでしょうか。

論「意旨者何」，此却問也。

> 「心の働きとは何か」——これは、自らへの問いかけである。

論「謂失念至及邪勝解」，廣答意旨，如文可解。問：失念、不正知、邪勝解、心亂及非理作意，何故本論說此五法而許通入大煩惱地，受等五法而不入耶？答：仰測論意，由此五法於善品中所起業用順自名體；於染分中所起業用違自名體故，染位名失念、不正知、邪勝解、心亂、非理作意等相違名也。受、想、思、觸、欲，於染、淨位中所起業用不失本名，故不重說。論主將為有過，不勞廣釋。

> 「いわゆる失念から邪勝解に至るまで」という問いに対して、その広範な意味を解き明かすと、本文に示された通り理解できる。 問う：失念、不正知、邪勝解、心乱、そして非理作意の五つの法について、なぜ本論ではこれらを大煩悩地に通じるものと認めつつ、受などの五法はそうしないのか？ 答える：推測するに、本論の意図はこうである。これら五つの法は、善なるものにおいてはその名の通りの働きをするが、煩悩の状態においてはその名に反する働きをする。そのため、煩悩の状態では失念、不正知、邪勝解、心乱、非理作意といった、本来の名とは相違する呼び名となる。 一方、受、想、思、触、欲の五法は、善・煩悩のいずれの状態においてもその働きが本来の名を失わないため、あえて別の名で説く必要がない。論主はこれを過ちと見なされたのか、あえて詳しく説かれたわけではない。

論「故說若是至謂除前相」，廣作四句分別，如文可解。

> 「だから『前に示した相を除くことを、このように説く』と言うのである」と述べ、これを広く四句に分けて説明していることは、本文の通りに理解すればよい。

論「有執邪等持至與此不同」，敘異說四句也。

> ある者は執着や邪な三昧などが「至」とは異なると論じており、異なる説を四つの句で述べている。

論「又許惛沈至於誰有過」，通惛沈入大煩惱地，與本論說不同難也。共許惛沈與餘掉舉等通與一切煩惱相應，其義是同，而不說在大煩惱地，於誰有過？此即乃是不立者過，非我有過，與餘同故。

> なお、「さらに、『惛沈』をいずれの煩悩のうちに含めることに過失があるのか』と論じる場合、この惛沈を大煩悩地法に含めることは、本論の説明と異なるという難点がある。しかし、惛沈が他の掉挙などと共に、すべての煩悩と対応するという点では、その意味は同じである。それにもかかわらず、大煩悩地法として説かなかったことについて、いったい誰に過失があるのか？ これは、まさに（大煩悩地法を）立てなかった側の過失であって、私（＝有宗の立場）に過失があるわけではない。なぜなら、他の煩悩と同一の性質を持つからである。」

論「有作是言至非至掉舉行」，此敘異釋惛沈不入大煩惱地所以。此是《雜心》等釋。《正理論》釋本論意云「然此惛沈無明覆故，本論不說為大煩惱地法。有言：彼論說無明名唯目惛沈，相相似故，無明性是大遍行故。是此地法，不說而成。」准上論文，此云本論十煩惱地說無明者即是惛沈，惛沈相似無明。所以不說無明者，無明與一切染心相應，不說而成故。《正理》有說此名總目二義。已上論文，此說本論大煩惱地法中，說無明者名一，所目通二，謂無明、惛沈。

> 「『ある者は言う、乃至、非至掉舉行』と論じて、これは惛沈が大煩惱地法に含まれない理由を、異なる解釈に基づいて述べたものです。これは『雑心』などの解釈です。『正理論』では、本論の意図を次のように解釈しています。『しかし、この惛沈は無明に覆われているため、本論では大煩惱地法として説かなかった。ある者は言う、あの論（本論）で無明という名を用いるのは、ただ惛沈を指すものであり、その性質が似ているからである。無明の本質は大遍行である。よって、これは大煩惱地法であるが、説かれなくても成立する。』と。以上の論文に基づけば、本論の十煩惱地で無明と説くものは、すなわち惛沈であり、惛沈は無明に類似している。無明を説かなかった理由は、無明はすべての染汚心と対応するため、説かなくても成立するからである。『正理』には、この名が二つの義を総括するとの説がある。以上が論文の内容であり、これは本論の大煩惱地法の中で、無明と説くものは一つの名であるが、その指し示す対象は無明と惛沈の二つに通じる、と述べているのです。」

論「誰惛沈行至不俱行故」，論主難《雜心》等釋。誰有惛沈而無掉舉？誰有掉舉而無惛沈？此二未嘗不俱行故，何得有惛沈行順等持也？

> 論主が問う。「誰が惛沈（昏沈）の作用だけを持ち、掉挙（掉挙）を伴わないのか？また、誰が掉挙だけを持ち、惛沈を伴わないのか？この二つは常に同時に現れるものである。それなのに、どうして惛沈の作用が等持（三昧）に適うなどと言えるのか？」と。これは『雑心論』などの解釈を否定するものである。

論「雖爾應知隨增說行」，外人答論主也。雖掉舉、惛沈二常俱行，而惛沈偏增者名惛沈行。

> ただし、「このように理解すべきである。随増するという説は行（実践）に基づくものである」と論じるのは、外的な立場から論主に答えたものである。たとえ掉挙（じょうこ）と惛沈（こんじん）の二つが常に共に働くとしても、惛沈が偏って強まる場合、それを惛沈の行（特徴的な働き）と名付けるのである。

論「雖知說行至建立地法」，此縱奪外人也。

> たとえ「説くところを行じて地の法を建立するに至る」と知るといえども、これは外の人を論じ、あるいは許し、あるいは奪うのである。

論「故此地法至俱起非餘故」，總結成也。

> したがって、この境地の法（現象）は「俱起」（同時に生じる）の状態に至り、それ以外の状態ではない」と論じ、これをまとめて結論としています。

論「如是已說至彼法是何」，已下半頌第四釋不善地法。有兩重釋，如前可知。頌云「唯遍不善心」者，此有四句。有不善非遍不善，謂忿等七及不定中嗔。有遍不善非唯不善，謂大地十，大煩惱六，不定中尋、伺。有遍不善亦唯不善，謂不善地二法。有非唯不善非遍不善，謂小惑三，不定之中睡眠、惡作、貪、慢、疑等。唯善心所，不善已簡，不勞唯、遍。

> 「さて、以上のように不善地法について説き終えたが、『それは何か』という問いに対して」という部分から、下の半頌の第四の部分で不善地法の解釈が行われている。そこには二重の解釈があり、先述の通りである。 頌に「ただ不善心に遍く行くもの」とあるのは、四つのケースに分けられる。 \* 「不善であるが、遍く不善ではない」もの：これには、忿（怒り）などの七つと、不定地法の中の瞋（憎しみ）が該当する。 \* 「遍く不善であるが、ただ不善だけではない」もの：これには、大地法の十、大煩悩地法の六、不定地法の中の尋（思考）と伺（微細な思考）が該当する。 \* 「遍く不善であり、かつただ不善だけである」もの：これには、不善地法の二つの法が該当する。 \* 「ただ不善だけでもなく、遍く不善でもない」もの：これには、小煩悩地法の三つと、不定地法の中の睡眠、悪作（後悔）、貪（むさぼり）、慢（傲慢）、疑などが該当する。 \* ただ善心だけにある心所については、不善の分類で既に除外されているため、あえて「ただ」や「遍く」を使

「論曰至如後當辨」，指下釋也。

> 論に曰く「至如、後に当に辨ず」とは、下の解釈を示す。

論「如是已說至彼法是何」，自下第五，有一頌釋小煩惱地法。有兩重釋，如前可知。謂以小分染污心俱，故名為小。

> 「このように、すでに説明したが、それらの法とは何か」という問いから、以下第五の、一つの偈頌によって小煩惱地の法を釈明する。これには二重の解釈があり、先述の通りである。すなわち、少部分の染污心と共にあることから、小と名づけるのである。

「論曰至煩惱地法」，釋小義也。一唯修所斷、二唯意識地起、三唯無明相應、四各別現行。大善地法不與一切染心相應，煩惱之名以簡此法。尋、伺雖通染心，闕四義故，不名為小煩惱地法。大煩惱地、大不善地雖復唯與無明相應，闕三義故，不得名小。慢、疑二種雖唯意地起，唯無明相應，各別頭起，非唯修斷，闕一義故，不得名小。惡作一種雖唯修斷，唯意地起，以非唯與無明相應，雖別頭起，不名為小。睡眠一種雖唯意地，闕三義故，不名為小。貪、嗔二種雖復唯與無明相應，各別頭起，闕二義故，不名為小。前之四地皆名為大，此之一地不得大名者，通大地法以遍一切心故名大，大善地法以遍一切善心名大，大煩惱地以遍一切染心名大，大不善地以遍一切不善心故名為大。又上四地法皆竝頭起，故名為大。

> 論に「至煩惱地法」とあるのは、小煩惱地法の意味を説明したものです。この法には四つの特徴があります。第一に、修道によってのみ断たれること、第二に、意識の領域でのみ生じること、第三に、無明とのみ対応すること、第四に、それぞれが個別に現れることです。大善地法は全ての汚れた心とは対応しないので、煩惱という名前はこの法を区別するためのものです。尋・伺は汚れた心にも通じますが、四つの意味を欠くため、小煩惱地法とは呼ばれません。大煩惱地法や大不善地法は、無明とのみ対応するものの、三つの意味を欠くため、小煩惱地法とは呼べません。慢・疑の二つは意識の領域でのみ生じ、無明とのみ対応し、それぞれ個別に現れるものの、修道のみで断たれるわけではないため、一つの意味を欠き、小煩惱地法とは呼べません。悪作は修道のみで断たれ、意識の領域でのみ生じますが、無明とのみ対応するわけではなく、個別に現れるとはいえ、小煩惱地法とは呼ばれません。睡眠は意識の領域でのみ生じますが、三つの意味を欠くため、小煩惱地法とは呼べません。貪・瞋は無明とのみ対応し、個別に現れるものの、二つの意味を欠くため、小煩惱地法とは呼べません。前の四つの地は全て「大」と呼ばれますが、この一つの地だけが「大」の名を得ないのは、通大地法は全ての心に遍くあるため大と呼ばれ、大善地法は全ての善心に遍くあるため大と呼ばれ、大煩惱地は全ての汚れた心に遍くあるため大と呼ばれ、大不善地は全ての不善心に遍くあるため大と呼ばれるからです。また、上の四つの地の法は全て同時に生じるため、「大」と呼ばれます。

論「此法如後至當廣分別」，指後釋也。

> この法については、後ほど詳しく説明する」というのは、後の解釈を指している。

論「如是已說至尋伺等法」，已下第六明不定也。言不定者，謂不定入餘五地故，故言不定。惡作、睡眠、尋、伺等法者，此舉四法等餘貪、瞋、慢、疑。《婆沙》四十五云「睡眠、惡作、怖、尋、伺心。」又七十五云「評曰：應作是說：此心所中應別說怖。所以者何？有別心所與心相應是怖自性，此即說在復有所餘如是類法與心相應心所法內，非諸煩惱。復說怖唯欲界；上界言怖，於厭說怖。」又云「問：若爾厭、怖有何差別？答：尊者世友作如是說：怖唯欲界，厭通三界。復作是說：怖在煩惱品，厭在善品。復作是說：怖染污無覆無記，厭唯是善准上，怖不通善，厭唯善性。」《正理論》云「類言為攝不忍、不樂、憤發等義。」准此論文，不忍等法既是小煩惱類，亦是少分染心相應，各別頭起，唯修所斷，在意識地，唯無明相應。又此忿等，大乘中說謂嗔分等，故是假法。此宗皆是實有性，故《正理論》云「如前所說一切心所，應知其性皆是實有。所以者何？非一品類所緣義中，種種行相俱時起故。一體同時，如所緣義，差別行相無容有故。然由餘法所制伏故，見其相續變異而起。現見清油、垢、水、風等勢力制持，燈相續中便有明、昧、聲、動等故。」已上論文。然諸心所差別功能難可了知。且如睡眠、惡作，非唯不善，而取一分入十纏中。尋亦雖通無漏，而為道障。勝解、定、慧雖通三性，而立五分法身。一種五根，三是通攝，二是善地。如是等類法性難知，心所相翻義亦如是。古來相傳廢立，依此論有四十六種，謂大地法十至不定有八。於四十六中，如大地法十，尋、伺、睡眠、惡作，以通三性或通二性，故此十四不別翻名。餘三十二中總有二類：一淨品有十，謂信等；二染品有二十二，謂大煩惱地法六，大不善地法二，小煩惱地十，及貪、嗔、慢、疑。若於染中通五斷、遍六識者，即正翻入淨。若不通五斷、不遍六識者，但可傍翻。總有十法，謂大煩惱地法六，不善地法二，及與貪、嗔。大煩惱地法六中翻癡為無癡，無癡即是大地慧故，故於善中不立無癡。翻放逸為不放逸，翻懈怠為精進，翻不信為信，翻惛沈為輕安，翻掉舉為行捨。不善地法二中翻無慚為慚，翻無愧為愧。不定中翻貪為無貪，翻瞋為無瞋。於小惑中，害雖不通五斷、非遍六識，而亦翻者，以過重故惱亂菩薩、障趣菩提。菩薩將證無上菩提，仍起欲、恚、害覺，所以別翻。餘九及與慢、疑，二義不具，但可傍翻，非正翻也。謂餘九及疑，非通五斷、非遍六識。慢雖通五斷，而不遍六識，故不翻也。此十一種但可傍翻者，就中有二：一約等流門翻、二約行相相似門翻。言等流者，謂是本惑等流果故。忿、恨、嫉是嗔等流果，翻入無嗔。惱是見等流，翻見取為正見，正見即是大地中慧，所以善中不可別立。覆或是貪等流，翻入無貪；或是癡等流，翻入無癡。無癡是慧，故於善中不別立也。慳、誑、憍、欲貪等流，翻入無貪。諂是諸見等流，翻入正見，正見還是慧數，故善不立。約等流門但翻得九。慢、疑本惑，非等流故，二種不可翻也。害雖是嗔等流，過重別翻，已如前釋。言約行相相似翻者，如忿、恨、嫉、惱與嗔行相相似，翻入無嗔。覆若貪等流，與貪行相相，似翻入無貪；若是癡等流，與癡行相相似，翻入無癡，即是慧攝。慳、誑二種與貪行相相似，翻入無貪。諂謂諂曲，翻曲即為正直，正直是捨。《品類足》第三云「身正直，心正直。」憍之與慢，憍自傲逸，慢陵蔑他、不恭敬師。若不憍、慢，心便恭敬，敬即是慚，翻入無慚。疑謂猶豫不決行相，若能正決即是智慧，翻入慧中。害雖似瞋，過重別翻，已如前釋。

> 「かくのごとく已に説き終わりて尋・伺等の法に至る」とは、以下第六の不定心所を明かす。不定とは、他の五地に定まって入らないことをいうがゆえに不定と名づける。悪作・睡眠・尋・伺等の法とは、これら四つの法を挙げて、その他の貪・瞋・慢・疑を「等」で含めるのである。 『婆沙論』第四十五巻には「睡眠・悪作・怖・尋・伺の心」とある。また第七十五巻には「評して曰く、この心所の中において別に怖を説くべきである。なぜならば、別の心所が心と相応して、この怖を自性とするものがあるからである。これは、『またさらにこのような類いの法が心と相応する心所法の内にある』という中に説かれるのであり、煩悩ではないのである。さらに、怖は欲界にのみ存在すると説く。上界で怖というのは、厭のことを怖と説くのである。」ともある。また「問う、では厭と怖にはどのような違いがあるのか。答える、尊者世友は次のように説く。怖は欲界のみにあり、厭は三界に通じる。また次のように説く、怖は煩悩の品に属し、厭は善の品に属する。また次のように説く、怖は染汚と無覆無記であり、厭は善のみである<note>上の説に従えば、怖は善に通じず、厭は善性のみである</note>。」とある。 『正理論』には「『類』という言葉は、不忍・不楽・憤発などの義を摂めるためのものである。」とある。この論文に従えば、不忍などの法は小煩悩の類いであり、また一部の染心と相応し、個別に生起し、修所断のみであり、意識の地にあり、無明とのみ相応する。また、これらの忿などの法は、大乗では瞋の一分などと説かれ、仮の法である。この宗（説一切有部）ではこれらはすべて実有の自性である。ゆえに『正理論』には「先に説いたすべての心所は、その自性がすべて実有であると知るべきである。なぜならば、一品類の所縁の義の中において、種々の行相が同時に生起するからである。一つの体が同時に、所縁の義のように、異なる行相が存在することはありえないからである。しかし、他の法によって制伏されるがゆえに、その相続が変異して生起するのを見る。現に見られるように、清油や垢や水や風などの勢力によって制持されると、灯の相続の中に明・昧・声・動などの相が生じるのである。」とある。以上が論文の引用である。 しかし、諸々の心所の差別機能は知り難い。たとえば睡眠や悪作は、不善だけではなく、その一分が十纏の中に取り入れられる。尋もまた無漏に通じるが、道の障礙となる。勝解・定・慧は三性に通じるが、五分法身を立てる。五根の一種（慧根）は、三つは善地に通じ、二つは善地である。このような法性は知り難く、心所を翻す義もまた同じである。 古来より伝えられてきた廃立によれば、この論には四十六種の心所がある。すなわち、大地法十から不定の八つまでである。この四十六の中、大地法十、尋・伺・睡眠・悪作は、三性に通じるか、または二性に通じるので、この十四は別に名を翻さない。残りの三十二は、総じて二つの類がある。第一に清浄品として十、すなわち信等である。第二に染汚品として二十二、すなわち大煩悩地法六、大不善地法二、小煩悩地十、および貪・瞋・慢・疑である。 もし染汚の法の中で、五断に通じ、六識に遍するものは、正しく清浄に翻す。もし五断に通じず、六識に遍しないものは、傍らに翻すことができるのみである。総じて十の法がある。すなわち、大煩悩地法六、不善地法二、および貪・瞋である。大煩悩地法六の中では、癡を翻して無癡とする。無癡はすなわち大地の慧であるから、善の中に無癡を立てない。放逸を翻して不放逸とし、懈怠を翻して精進とし、不信を翻して信とし、惛沈を翻して軽安とし、掉挙を翻して行捨とする。不善地法二の中では、無慚を翻して慚とし、無愧を翻して愧とする。不定の中では、貪を翻して無貪とし、瞋を翻して無瞋とする。 小煩悩の中では、害は五断に通じず、六識に遍しないが、それでも翻すのは、その過失が重く、菩薩を悩乱し、菩提への到達を障礙するからである。菩薩が無上菩提を証しようとする時にも、なお欲・恚・害の覚想を起こすので、特に翻すのである。 残りの九つおよび慢と疑は、二つの条件（五断に通じること、六識に遍すること）を備えないので、傍らに翻すことのみでき、正しく翻すことはできない。すなわち、残りの九つおよび疑は、五断に通じず、六識に遍しない。慢は五断に通じるが、六識に遍しないので、翻さないのである。 この十一種は傍らに翻すことのみできるが、これには二つの方法がある。第一に等流門によって翻すこと、第二に行相相似門によって翻すことである。 「等流」とは、本惑の等流果であることをいう。忿・恨・嫉は瞋の等流果であり、無瞋に翻す。悩は見の等流果であり、見取を翻して正見とする。正見はすなわち大地の慧であるから、善の中に別に立てることはない。覆は貪の等流果であるか、または癡の等流果である。貪の等流果ならば無貪に翻し、癡の等流果ならば無癡に翻す。無癡は慧であるから、善の中に別に立てない。慳・誑・憍は欲貪の等流果であり、無貪に翻す。諂は諸見の等流果であり、正見に翻す。正見はやはり慧の数であるから、善の中に立てない。等流門によって翻すのは九つだけである。慢と疑は本惑であり、等流ではないので、この二つは翻すことができない。害は瞋の等流果であるが、過失が重いので特に翻すことは、先に述べた通りである。 「行相相似によって翻す」とは、例えば忿・恨・嫉・悩は瞋と行相が相似であるので、無瞋に翻す。覆がもし貪の等流果であるなら、貪と行相が相似であり、無貪に翻す。もし癡の等流果であるなら、癡と行相が相似であり、無癡に翻す。これは慧に摂められる。慳・誑の二つは貪と行相が相似であり、無貪に翻す。諂とは諂曲であり、曲を翻せば正直となる。正直は捨である。『品類足論』第三巻には「身正直、心正直」とある。憍と慢は、憍は自ら傲逸し、慢は他を陵蔑し師を恭敬しない。もし憍慢でなければ、心は恭敬する。敬はすなわち慚であり、無慚に翻す。疑とは猶豫決せざる行相であり、もし正しく決断すれば智慧であるので、慧に翻す。害は瞋に似ているが、過失が重いので特に翻すことは、先に述べた通りである。

論「此中應說至決定俱生」，上來五頌辨大地法等。自下有四頌，大文第二辨心、心所決定俱生。於中有二：初三頌辨欲界俱生、後一頌明上界俱生。此三頌釋欲界俱生。

> 以上で、大地法などを説明する5つの偈頌は終わりました。 次に、心と心所が必ず同時に生じることを説明する4つの偈頌があります。そのうち、最初の3つの偈頌で欲界において同時に生じる場合を説明し、最後の1つの偈頌で上界（色界・無色界）における同時生起を説明します。こちらでは、その最初の3つの偈頌によって、欲界における心と心所の必ず同時に生じる関係を明らかにします。

「論曰至無覆無記」，此即總分欲界心可為五類也。下釋五品，即為五數。

> 「論に曰く、至無覆無記」とは、欲界の心を五つの種類に大別したものです。以下、五つの分類を詳しく説明し、それぞれについて述べます。

論「然欲界心至至二十三」，此第一釋善心起數，如文可解。

> 然るに「欲界の心、第二十三に至るまで」と論ずるは、これ第一の解釈にて善心の起こる数、文の如く解すべし。

論「惡作者何」，自下便釋惡作。此問起也。

> 「悪作とは何か」——これより下で、悪作について説明する。これは問いかけの言葉である。

論「惡所作體名為惡作」，略釋名體。

> 「悪をなしたという体を、悪作と名づける」と論じます。その名前と体を簡単に解き明かします。

論「應知此中至心追悔性」，廣釋體也。謂不稱情所作事業，名為惡作，非是不如理事名為惡作。如不善悔，緣善所作。能追悔心緣其惡作，從境為名。即是有惡作故名為惡作，是多財釋。准下三喻，有三義釋：一從所緣得名、二從所依得名、三從因受稱也。

> 「ここにおいて『至心に追悔する体』というのは、心から悔いることの本質を広く説明したものです。心にかなわない行いを『悪作』（わるさ）と呼びます。道理にそぐわない事柄を単に『悪作』というのではありません。例えば、善い行いを基にして生じる不善の後悔のように、悪作を対象として生じる追悔の心は、その対象から名付けられています。すなわち、悪作があるからこそ『悪作』と名乗るのであり、これは多財釈（多数のものに所有される解釈）にあたります。 次の三つのたとえに従えば、三つの解釈があります。第一に、対象となるものから名を得る。第二に、拠り所から名を得る。第三に、原因から名づけられる、ということです。」

論「如緣空解脫門至說為不淨」，從所緣境立此名也。

> 縁空解脱門から不浄と説かれるに至るまで、それが「所縁の境」に基づいて名づけられている、と論じる。

論「又見世間至說為惡作」，從其所依立此名也。

> また、世間において「悪作」と呼ばれるものについて論じるならば、それはそのよりどころ（依処）に従って、この名前が付けられているのです。

論「又於果體至名宿作業」，此是從因受其稱也。

> また、「果体（結果そのもの）に至って、『宿作（過去の行為）』と名づける働き」については、これは原因に従ってその働きの名前がつけられたものです。

論「若緣未作事云何名惡作」，問也。謂若有所作，此可說為從境等故名為惡作。若有追悔不作之事，何得相從名惡作耶？

> 「もし、まだ為されていないことを縁として、どうして悪作（くやみ）と名づけることができるのか」という問いです。 もし何かを為したのであれば、それは状況などに基づいて「悪作」と呼ぶことができます。しかし、為されなかったことを後悔する場合、どうしてそれに「悪作」という名が相応しいのでしょうか。

論「於未作事至是我惡作」，答也。謂即不作亦名惡作。如有人言：「我於今日不施此物，是我惡作。」此即是作，此之不作亦名惡作。《婆沙》三十七云「此中惡作總有四句：一有惡作是善，於不善處起。二有惡作是不善，於善處起。三有惡作是善，於善處起。四有惡作是不善，於不善處起。」

> 「しかるに、『未だ為さざる事に至りて、是れ我が悪作なり』と論ずるに、答えて曰く。すなわち、為さざるをもまた悪作と名づく。例えば、ある人の言うがごとし、『我、今日この物を施さず。是れ我が悪作なり』と。これすなわち、為さざるということもまた悪作と名づく。『婆沙』三十七に云わく、『ここに悪作は総じて四句あり。一には悪作の善なるあり、不善の処において起こる。二には悪作の不善なるあり、善の処において起こる。三には悪作の善なるあり、善の処において起こる。四には悪作の不善なるあり、不善の処において起こる』と。」

論「何等惡作說名為善」，問也。

> 「どのような悪作が善と言われるのか」という問いがある。

論「謂於善惡至二處而起」，答也。謂於善不作、於惡作中心追悔性、名之為善。於惡不作，於善作中心追悔者，不善。惡作皆悉依於善及不善二處而起，或皆依作、不作二處而起。

> 「善悪の二つの場所に基づいて起こる」という意味です。善いことに対して行わず、悪いことに対して行ったことに対する心の後悔の性質を「善」と名づけます。悪いことに対して行わず、善いことに対して行ったことに対する心の後悔は「不善」です。悪作（後悔）はすべて、善と不善の二つの場所に基づいて起こるか、あるいは「行う」と「行わない」の二つの場所に基づいて起こります。

論「若於不善至謂尋與伺」，此第二釋不共心品。

> 不善な心の状態について「尋および伺に至るまで」と説かれるものは、第二の解釈において、共通しない心の作用について述べたものである。

論「何等名為不共心品」，此問不共心品法也。

> 「いかなるものを不共心品と名づけるのか」という問いは、不共心品という法について尋ねるものです。

論「謂此心品至貪煩惱等」，答也。謂不共心者，不與貪等煩惱相應名為不共。《婆沙》三十八有二說，云「第一師說：唯見所斷，不與貪等、忿等相應，自力而起，名為不共。以修所斷忿等相應，非自力起，不名不共。第二師云：通見、修斷。不與貪等本惑相應，皆名不共。忿等相應，非自力起，皆是不共。」准此論文，第二師釋不與隨眠相應起故名為不共。此中俱起，依前師說，唯是見道。問：此中所說不共無明，於何位起？答：若諸異生由勝解力，發起正見或起邪見，心勞倦時數數間起迷四諦理不共無明，謂緣四諦不欲、不忍、不了行相。准《正理論》釋頌「唯」字，即不共通二十一也。《正理》釋頌中「見俱唯二十」，云「頌唯言者，是簡別義。謂唯見俱，定有二十。表不共品中容有惡作等，謂若惡作是不善者，唯無明俱，非餘煩惱，貪、慢二種，欣行轉故。惡作愁慼行相轉故。嗔外門轉，行相麁故；惡作行細，內門轉故。疑非惡作俱，疑不決定，惡作決定，故不俱起。有身見等，欣行轉故，極猛利故，惡作不爾。然此惡作依善、惡行事處轉故，諸見不爾，故不相應。邪見一分雖慼行轉，而二因故，非惡作俱。言二因者，謂極猛利、理處轉故。是故惡作是不善者，唯無明俱。」詳其惡作具六義：一愁慼行，違情方起故。二內門轉，審察是非故。三行相細，諦思方起故。四決定故，解知方悔故。五不猛利，追戀心昧故。六但緣事，緣善、惡行故。邪見雖有四義，無二義故，非惡作俱。《正理》但云「或惡作俱有二十一」，即是不共無明，通修所斷，故知亦取後師義也。

> 論じて「この心の品、貪の煩悩などに至る」と言うのは、答えである。「不共の心」とは、貪などの煩悩と相応しないことから「不共」と名づける。『婆沙』第三十八に二説ある。「第一の師の説では、ただ見道において断ぜられるものであり、貪などや忿などと相応せず、自力で生起するものを不共と名づける。修道において断ぜられる忿などと相応するものは、自力で生起しないので不共とは名づけない。第二の師は、見道・修道の両方に通じて断ぜられると説く。貪などの根本煩悩と相応しないものを、すべて不共と名づける。忿などと相応するものでも、自力で生起しないものは、すべて不共である。」この論文に準ずれば、第二の師の解釈では、随眠と相応して生起しないから不共と名づけるのである。ここでの俱起は、前の師の説に従えば、ただ見道のみである。 問：ここで説かれる不共無明は、どのような位において生起するのか。 答：凡夫が勝解の力によって正見あるいは邪見を発起し、心が疲労する時、しばしば間に挟んで四諦の道理に迷う不共無明が生起する。すなわち、四諦に対して欲しない、忍びない、了解しないという行相である。『正理論』の頌の「唯」の字の解釈に従えば、不共通の二十一も含まれる。『正理論』が頌中の「見俱唯二十」を解釈して、「頌の『唯』の字は、簡別の意味である。すなわち、ただ見と俱に在るものは、必ず二十と定まる。不共の品中にも悪作などが有り得ることを示す。もし悪作が不善であるならば、ただ無明とのみ俱にあり、他の煩悩とは俱にない。貪と慢の二つは、喜びの行相をもって転ずるからである。悪作は憂い悲しみの行相をもって転ずるからである。瞋は外の門に転じ、行相が粗雑である。悪作の行相は細やかで、内の門に転ずる。疑は悪作と俱にならない。疑は決定せず、悪作は決定するから、俱に生起しない。有身見などは、喜びの行相をもって転じ、極めて猛利である。悪作はそうではない。しかし、この悪作は善・悪の行った事柄に基づいて転ずるから、諸々の見はそうではない。よって相応しない。邪見の一分は、憂いの行相をもって転ずるが、二つの因があるから、悪作と俱にならない。二つの因とは、極めて猛利であることと、理に基づいて転ずることである。ゆえに、悪作が不善であるならば、ただ無明とのみ俱にあり、他の煩悩と俱にない。」詳細に見れば、悪作は六つの義を持つ。一、憂い悲しみの行相であり、心に反する事柄に遭って生起するからである。二、内の門に転じ、善悪を審らかに察するからである。三、行相が細やかであり、よく考えてから生起するからである。四、決定であり、はっきりと理解してから悔いるからである。五、猛利ではなく、過去を追憶して心が暗くなるからである。六、ただ事に縁り、善・悪の行いに縁るからである。邪見は四つの義を持つが、二つの義が欠けるので、悪作と俱にならない。『正理論』は単に「あるいは悪作と俱に二十一となる」と言う。これは、不共無明は修道において断ぜられるものに通じるから、後者の師の説も取ることが知られる。

論「於不善見至說為見故」，釋不善見，同不共品有二十也。如文可解。

> 「不善の見について、『至るところで説かれることにより、見と呼ばれる』という理由から、不善の見を解釈すれば、不共品と同じく二十種類がある」。文の通りに理解できる。

論「言不善見至或戒禁取」，釋三不善見也。

> 「不善の見、すなわち戒禁取に至るまで」について論じます。これは三つの不善の見を解き明かしたものです。

論「於四不善至貪等隨一」，此第二釋貪等俱起。

> 四つの不善法（無慚・無愧・悭・嫉など）について述べる「貪などのいずれかと共に生じる」という語句について、これは第二の解釈として、貪などの心所と同時に生じることを示す。

論「於前所說至加忿等隨一」，第三釋忿等也。

> 「前に説いたところの、『からむ等、あるいは怒る等のいずれか一つに至るまで』について」、第三に、怒りなどを説明する。

論「不善惡作至第二十一」，此第四釋不善惡作相應品也。

> 不善悪作について（第二十一段）。ここでは第四として、不善悪作と対応する品を解説する。

論「略說不善至有二十一」，總結上也。

> 「不善法を略説すれば二十一に至る」とは、以上の内容をまとめたものです。

論「別於無記至謂尋與伺」，第四釋有覆無記相應品也。性是染污，能有隱覆，名為有覆。體非巧便，無果記故，名為無記。

> 「無記（善でも悪でもないもの）の違いについて、『尋（心を粗く働かせる作用）と伺（心を細かく働かせる作用）に至る』と説くのは、第四の解説で、有覆無記（悪い心で覆われるが、結果を生まないもの）と対応する部類のことです。 その性質は煩悩に染まっており、それによって善心を覆い隠すことができるため、「有覆」と呼ばれます。その体性は巧みで適切な働きではなく、善悪の結果を生じる原因とならないため、「無記」と名付けられています。」

論「欲界無記至應知如前」，釋。此出有覆無記體也。

> 問う、「欲界の無記は、前に述べた通りと知るべきである」と。これを釈する。これは有覆無記の体を示すものである。

論「於餘無記至并不定尋伺」，此第五釋無覆無記。體非染污，不障聖道，無果記故，名無覆無記。

> 「その他の無記および不定の尋伺について」——これは第五の説明で、無覆無記について述べています。その体は煩悩に染まっておらず、聖なる道を妨げることもなく、さらにその結果が明らかでないため、無覆無記と名づけられます。

論「外方諸師至心所俱起」，敘異師說。異師意云：憂如喜根，非唯有記，由此惡作亦通三性，此相應品便有十三心所俱起。《正理論云》「然此惡作通善、不善，不通無記，隨憂行故，離欲貪者不成就故。非無記法有如是事，然有追戀：我頃何為不消而食？我頃何為不畫此壁？如是等類。彼心乃至未觸憂根，但是省察未起惡作，若觸憂根便起惡作。爾時惡作理同憂根，故說惡作有如是相，謂令心慼惡作心品。若離憂根，誰令心慼名省察誤？」

> 『外方の諸師が至心と俱起することを論ず』において、異なる師の説を述べる。異師の意はこうである。「憂は喜根のように、有記性だけではなく、無記性も通じる。したがって、この悪作（後悔）も三性に通じる。この相応品には十三の心所が俱起することになる。」『正理論』にはこう説かれている。「しかしながら、この悪作は善と不善に通じ、無記には通じない。なぜなら、憂と共に働くからであり、また欲欲を離れた者には成就しないからである。無記の法にこのようなことはない。しかし、次のような悔恨が生じることがある。『私はなぜ、食べずに置いたのか？』『なぜこの壁に絵を描かなかったのか？』などといった類である。その心は、まだ憂根に触れていない間は、単なる反省・観察であり、まだ悪作は起きていない。もし憂根に触れるならば、悪作が生じる。その時の悪作は、理の上では憂根と同じである。したがって、悪作にはこのような相があると説かれる。すなわち、心を憂鬱にさせることであり、悪作は心の品を憂鬱にする。もし憂根がなければ、何が心を憂鬱にさせるのだろうか？<note>これは単なる反省・観察の誤りを指摘するものである。</note>」

論「應知睡眠至如例應知」，此述睡眠遍前一切心品中故，皆悉無遮。睡眠無夢，性唯無記；據有夢說，故通三性。即不定中總有四例：一貪、瞋、慢、疑唯自力起；二惡作善及不共俱起通二、不善自力、善即共起。三睡眠有時亦容與一切心品俱起。四尋、伺定與欲界一切心品俱起。

> 「眠（ねむり）について『眠（すいみん）に至るまでは、先の例に従って知るべし』と説かれるのは、眠はすべての心の働き（心品）に遍く存在するため、どの心にも遮られることなく生じることを述べる。眠に夢がない場合は、その性質は無記（善でも悪でもない）のみである。夢がある場合に基づいて説くならば、善・悪・無記の三性に通じる。 すなわち、不定心所（定まらない心の働き）には、全体で四つの例がある。 第一に、貪（むさぼり）、瞋（いかり）、慢（おごり）、疑（うたがい）は、自力（自分だけで）起こる。 第二に、悪作（後悔）は、善（善心）と共に起こる場合と、不善（悪心）と共に起こる場合とがある。不善の場合は自力で、善の場合は他の心と共に起こる。 第三に、眠は、時には一切の心

論「已說欲界至當說上界」，自此已下一頌第三明上界也。

> では、以上の「欲界から上界を説くに至るまで」を論じましたので、ここから次の一偈によって、第三に上界について明らかにします。

「論曰至如欲界說」，文中有三：一明初定、二明中間、三明二禪已上。此文第一明初定也。不定除瞋、惡作、睡眠，小惑除七，不善地二，餘皆同欲。以於上界無不善法眠、惡作故。

> 論に曰く、「例えば欲界と言うように」という文には三つの意味がある。第一に初禅を明かし、第二に中間を明かし、第三に第二禅以上を明かす。この文は第一に初禅を明かすものである。 不定煩悩からは、瞋・悪作・睡眠を除く。小煩悩からは七つを除く。不善地からは二つを除く。その他は全て欲界と同じである。なぜなら、上界には不善法である眠・悪作が存在しないからである。

論「中間靜慮至餘皆具有」，此第二明中間禪也。此地除尋與初禪異，自餘心所皆同初定。

> 問う、「中間静慮は、至（他の禅定に至る）餘（その他の心所）は皆具有する」について。これは第二に、中間禅を明らかにするものである。この地は尋（粗い思考）を除けば初禅（第一禅定）と異なり、その他の心所はすべて初禅と同じである。

論「第二靜慮至如前具有」，此第三明二定已上。文中有二：一正釋、二引證。此文初也。二定已上如前所除，兼伺、諂、誑，自餘皆與中間定同。

> 論典の「第二静慮から前と同じく有す」とは、第三に、二つの禅定以上を明らかにする部分です。文章には二つの点があります。第一に正しい解釈、第二に引用による証明です。この文はその最初の部分です。 二つの禅定以上では、前述のように除かれるものに加えて、尋（粗い思考）・諂（おもねり）・誑（偽り）も含まれます。それ以外はすべて中間定と同じです。

論「經說諂誑至令還問佛」，第二引證，如文可解。梵王不知四大若無漏定，依六禪地皆容可盡、皆悉能斷，第四靜慮修煩惱故。若有漏定，唯空處近分，唯此近分能盡色故。

> 「『経に諂誑の言説より、還って仏に問うことを令む』に至るまで」という第二の引用証拠は、本文の通りに理解できます。梵王は知りませんでしたが、四大がもし無漏の定（煩悩を断つ禅定）であれば、六つの禅定の地に依るものはすべて尽くすことができ、すべて断じることが可能です。なぜなら、第四静慮においても修行すべき煩悩があるからです。もし有漏の定（煩悩を伴う禅定）であれば、空無辺処の近分定だけがこれに当たります。この近分定のみが色界を尽くすことができるからです。

論「如是已說至差別云何」，自此已下有兩頌，大文第三簡相濫也。

> このように「すでに説き終わった。そこから差別はどのようなものか」と問う。ここから下に二つの頌があり、大きな区分の第三段として、相の混同を区別するのである。

「論曰至所敵對法」，此釋第一對中無慚相也。「於諸功德」，謂尸羅等。「及有德者」，謂親教等。此二是無慚境，故言「於」也。於此二境不尊敬故，名為「無敬」。不崇重故，名「無崇」也。或如次第各屬其一，於德不敬、於人不重。於諸功德無所忌難，於有德者無所隨屬，此無慚相。「即是恭敬所敵對」者，明能治也。

> 論に曰く「至る所、敵対する法」とは、これは第一の対における無慚の相を解くものです。「諸の功徳」とは、尸羅などを指します。「及び有徳者」とは、親教師などを指します。この二つは無慚の境であるため、「於（において）」と説かれています。この二つの境に対して尊敬しないから、「無敬」と名づけます。崇め重んじないから、「無崇」と名づけます。あるいは順にそれぞれに属して、功徳には敬わず、人には重んじないのです。諸の功徳に対して何の畏れ憚ることもなく、有徳者に対して何の従うこともない、これが無慚の相です。「即ち是れ恭敬の所敵対す」とは、能治（対治法）を明かすものです。

論「為諸善士至能生怖故」，此釋第二無愧相也。「為諸善士所訶厭法說名為罪」者，出罪體也。即不善法無愧境也。「於此罪中不見怖畏」者，明無愧行相也。「此中怖言顯非愛果能生怖故」者，釋怖名也。此之怖言，因受果名，以不善果能生怖故，故名為怖。即是無愧不見惡果，名不見怖。惡果有二：一是現果，譏毀謫罰等；二異熟果，三惡道等。

> 「諸の善士が恐れを生じる所の故」と論じているのは、第二の無慚の相を説明するものである。「諸の善士が訶責し厭う所の法を罪と名づく」とは、罪の体を示す。即ち不善法が無慚の境である。「此の罪の中に怖畏を見ず」とは、無慚の行相を明かす。「此の中の怖と言うは、愛果に非ざるが故に能く怖を生ずるを示す」とは、怖の名を釈する。此の怖という言葉は、果を受けて名と為す。不善の果が能く怖を生ずるが故に、怖と名づく。即ち無慚が悪果を見ざるを、怖を見ずと名づく。悪果に二あり：一つは現果、譏り毀り謫め罰する等。二つは異熟果、三悪道等。

論「不見怖言至名不見怖」，外問。無愧行相名不見怖，為見怖果而不生怖名不見怖？為不見怖果名不見怖？

> 「恐れを見ない」という語の意味について考えます。「恥じることのない心のあり様」を「恐れを見ない」と言いますが、これは『恐れの結果を実際に見て、恐れが生じない』という意味でしょうか？それとも『恐れの結果そのものを認識しない』という意味でしょうか？

論「若爾何失」，反問。

> 「もしそうなら、何が問題なのか」と問い返す。

論「二俱有過至應顯無明」，外出過也。「若見而不怖應顯智慧」，《正理論》意，慧是邪見，慧為體故名為智慧。邪見雖見三惡道等，而撥因果相屬之理，故無怖也。「若不見彼，怖應顯無明」者，無明無智，不了因果，名不見也。

> 「二俱有過乃至應顯無明」とは、外から過失を指摘する文である。「若し見て而も怖れずんば、智慧を顕すべきなり」というのは、『正理論』の意図するところで、慧は邪見であり、慧を体とするから智慧と名づける。邪見は三悪道などを『見る』けれども、因果の相属する理を撥無するので、怖れることがない。「若し彼を見ずんば、怖れは無明を顕すべきなり」とは、無明には智がなく、因果を了知しないことを『見ず』と名づけるのである。

論「此意不顯見與不見」，論主答也。不見怖言，不顯見與不見。

> 「この『心が見えるか見えないかは明らかでない』という論点について、論主が答えている。」 恐れの対象が見えないと言っても、それは「見えるか見えないかが明らかでない」という意味ではないのだ。

論「何所顯耶」，外人問也。既不離二，更何所顯？

> 「何を顕すのか」というのは、外部の者が問うた言葉です。すでに二つのものから離れていないのなら、さらに何を顕すというのでしょうか？

論「此顯有法至說名無愧」，論主答也。此顯無愧別有體性，非是無明亦非邪見，與二為因，名為無愧。即是無愧與邪見無明為因，令雖見不怖、或不見彼怖。

> 「この文は『有法（存在するもの）が無愧と名づけられること』を示しており、論主の答えである。これは、無愧が独自の本質を持つこと、つまり無明（無知）でも邪見（誤った見解）でもないことを明らかにしている。無愧はこれら二つと因縁関係にあり、そのために『無愧』と呼ばれる。すなわち、無愧が邪見や無明の原因となり、たとえ（悪行を）見ても恐れなくさせ、あるいは（その恐れを）見えなくさせるのである。」

論「有餘師說至說名無愧」，述異說也。此師意說：造罪之時，觀自無恥是無慚相，觀他無恥是無愧相。無恥是同，就自、他別。

> 「余師の説に、これを説いて無愧と名づくに至る」と論じて、異説を述べています。この師の意図するところは、罪を造る時に、自らを省みて恥じないことを無慚の相とし、他者を顧みて恥じないことを無愧の相とする、というものです。恥じないという点は同じですが、それが自分に向かうか、他者に向かうかによって区別されるのです。

論「若爾此二至云何俱起」，外人難。觀自即緣自，觀他即緣他，此二境別，云何俱起？

> 「では、この二つの観察はどうして同時に起こりうるのか」という外部者の疑問があります。自己を観察するときは自己を対象とし、他者を観察するときは他者を対象とします。この二つは対象が異なるのに、どうして同時に生じるのでしょうか。

論「不說此二至說名無愧」，餘師答也。就勝而說，非是別緣。

> 「この二者を説かず、これを説いて無慚と名づく」というのは、他の師（別の論師）の答えである。優れた点に基づいて説いたのであって、別の因縁によるものではない。

論「慚愧差別至說名為愧」，翻第一釋，可知。

> 慚愧の違いについて論じ、「惭愧の差別（区別）」が「愧」と呼ばれるに至るまでを説明した、最初の解釈を翻訳すれば、理解できるでしょう。

論「翻第二釋至說名為愧」，翻第二釋，可知。《正理論》云「趣向如理，自、法二種增上所生。違愛等流心自在性，說名為慚。」述曰：慚以不作惡為義。聖道、涅槃皆名如理，善心趣彼，舉所依也。自增上者，即恐自落三塗。法增上者，即恐廢傳法。二增上力所生，舉其因也。愛等流，即無慚。違無慚，即明對治。由此不為惡法所牽，名自在性，指其體也。《正理》又云「愛樂修習功德為先，違癡等流、厭惡劣法，說名為愧。有說：怖畏謫罰、惡趣、自他謗因，說名為愧。」述曰：愧以滅諸惡為義。愛樂功德為先，舉所依也。癡等流，即無愧。違無愧者，即明對治。劣法，謂諸有過失法。於中生惡，即作用也。有說已下，敘有別釋。現遭屈辱為讁罰，當來三惡為惡趣，己遭塵點為自謗，令他受謗為他謗。此四法因，謂諸煩惱。於如是因生怖畏，亦舉作用。

> 「第二の解釈を翻（くつがえ）して『これを愧（はじ）という』に至る」とは、第二の解釈を覆すことで理解できる。『正理論』に「理（ことわり）にかなうことに趣き、自己と法（教え）という二つの増上（ちからづよさ）によって生じる。愛（むさぼり）の等流（どうながれ）に逆らい、心の自在なる性質を、慚（はじ）という」とある。これを述べれば、慚とは悪をなさないことを意味する。聖道や涅槃（ねはん）はいずれも「理にかなうこと」と呼ばれ、善心がそれに趣くのは、そのよりどころを示す。自己の増上とは、自らが三悪道に落ちるのを恐れることである。法の増上とは、教えの伝承が絶えるのを恐れることである。この二つの増上の力によって生じることは、その原因を示す。愛の等流とは、無慚（むざん）である。無慚に逆らうことは、これを対治（たいじ）することを明らかにする。これによって悪法にひかれることがなく、心の自在なる性質と名づけられるのは、その本体を示す。『正理』にまた「功徳を愛楽し修習することをもって先とし、痴（むち）の等流に逆らい、劣った法を厭い悪（にく）むことを、愧という。ある説には、罪の責めや悪趣（あくしゅ）、自他の謗（そしり）の因を怖れることを、愧という」とある。述べれば、愧とは諸々の悪を滅することを意味する。功徳を愛楽し修習することを先とするのは、そのよりどころを示す。痴の等流とは、無愧（むき）である。無愧に逆らうことは、これを対治することを明らかにする。劣った法とは、過失ある諸々の法をいう。それに対して悪（にく）み嫌うこと、これが働きである。「ある説には」以下は、別の解釈を述べる。現世で屈辱を受けることが罪の責めであり、来世の三悪道が悪趣であり、自らがけがれを被ることが自分の謗りであり、他者に謗りを受けさせるのが他者の謗りである。この四つの法の因とは、諸々の煩悩（ぼんのう）である。このような因に対して恐怖を生じることも、その働きを示す。

論「已說無慚至謂除前三相」，釋第二對愛、敬相別。與忻相應信，名之為愛，即是愛樂可忻尚法。貪染前境亦名為愛，即是染著愛也。由此愛妻子等，是染著愛；愛師長等，是信愛也。緣滅、道諦忻相應故，亦信亦愛。緣苦、集諦厭相應故，是信非愛。染愛貪故，是愛非信。

> 「すでに無慚（むざん）から前三相（ぜんさんそう）を除くというところまで述べましたが」と論じて、第二の対である愛（あい）と敬（けい）の違いについて説明します。 喜びの心と相応する信心を「愛」と名づけます。つまり、喜び好むべき対象を慕い楽しむことです。対象に対して貪欲に染まること（渇愛）もまた「愛」と呼ばれますが、これは執着による愛着のことです。このため、妻や子を愛するのは執着に基づく愛であり、師や長を敬愛するのは信心による愛となります。 滅諦（めったい）や道諦（どうたい）を対象とする場合は喜びの心と相応するので、それは信心でもあり愛でもあります。苦諦（くたい）や集諦（じったい）を対象とする場合は厭（いと）う心と相応するので、それは信心であっても愛ではありません。また、煩悩の貪りによって染

論「有說信者至謂有敬等」，述異說也。此師意說：信是忍許有德，由此為先方生愛樂，故信非愛，信因愛果故。敬謂敬重，以慚為體。

> 「ある論師は『信とは、心が相手に従うことである。また、ある論師は『信があるからこそ敬いが生まれる』と言う』と述べ、異なる説を解説しています。 この論師の意図は、信とは徳のある対象を認め受け入れることである、と説くことにあります。この信が先に立つことで、はじめて愛（好み慕う心）が生まれます。したがって、信そのものは愛ではなく、信が原因で愛が結果として生じるのです。 敬いとは、相手を重んじることです。その本質は慚（自らを省みる心）です。」

論「有慚非敬至謂緣滅道慚」，此第二師，成兩句也。於忻上境名敬名慚，於厭劣境是慚非敬，故成兩句。

> 「慚ありて敬にあらざるものから、滅と道を縁として慚を生ずるに至る」と論じるのは、これが第二の師の説で、二つの文が成立する。喜ぶべき対象に対しては、敬とも慚とも名づける。嫌うべき劣った対象に対しては、慚であって敬ではない。ゆえに二つの文が成立するのである。

論「有說敬者至故敬非慚」，此第三師釋慚、敬。此師意說：敬是有所崇重，由此為先方生慚、恥，即敬為慚因也。

> 「敬ある者は説く、至るが故に敬は慚にあらず」と。これは第三の師による慚と敬の解釈です。この師の考えでは、敬とは何かを崇め重んじることであり、これを先立てて慚（恥じる心）が生じるのです。すなわち、敬が慚の因となる、ということです。

論「望所緣境至謂除前三相」，四句分別，如文可知。

> 「観察すべき対象について」は、「前に示した三つの相を除く」という意味です。四つの句によって分類すると、本文に示されている通りです。

論「如是愛敬至無色界無」，此明界通局也。無色界中無色身故，不能緣他起敬愛也。亦不緣下佛世尊等，故無有敬。

> 「このように敬愛は無色界には及ばない」とは、諸界における範囲の広狭を明らかにしています。無色界には色身（物質的な身体）が存在しないため、他者を縁として敬愛を起こすことができません。また、下界の仏世尊などを対象とすることもないため、敬う心も生じないのです。

論「豈不信慚至無色亦有」，問也。

> 「どうして慚（はじ）と愧（はずかしめ）は無色界にもあると信じないのか」という問いである。

論「愛敬有二至無色界無」，答文，可解。

> 「愛敬には二あり。無色界に至るまで無し」という問いの答えの文は、理解できるはずです。

論「如是已說至差別云何」，已下一頌第二明尋、伺、慢、憍別也。

> 「このように、すでに説き終わったが、その差違はどのようなものか」と述べられた以降の一偈は、第二に尋・伺・慢・憍の違いを明らかにする。

「論曰至細性名伺」，此釋尋、伺二別相也。

> 「論の中で『至細性』を伺（し）という」とある。これは、尋（じん）と伺（し）の二つの違いを説明したものだ。

論「云何此二一心相應」，經部問也。麁、細相違，如何許二一心俱起？

> 問う、「なぜこの二つ（尋と伺）が一心に相応するのか」とは、経部の質問である。粗いものと細かいものとは相違しているのに、どうしてこの二つが一心に同時に起こることを許すのか。

論「有作是釋至俱有作用」，有部答，如文可解。

> 「このような解釈（『作用を持つ』と説くこと）について論じるならば、有部の答えは、文の通りに理解できる。」

論「若爾尋伺至體非凝釋」，此是麁、細之因，體非麁、細。第一難也。

> では、「もしも、尋（最初の心の動き）と伺（その後の細かい心の動き）が…体は凝り固まったものではない」という論に対してですが、これは「粗い」「細かい」という性質の原因であり、その本体自体は粗くも細かくもありません。これが第一の難点です。

論「又麁細性至應有尋伺」，第二難也。此即應至上地亦有，如何唯至初定有耶？

> 「また、粗さや細かさの性質があるならば、尋と伺（ざんね、と、し）も存在するはずだ」というのが、第二の難問です。これはすなわち、上の境地にもそれが及ぶべきであり、なぜ初禅の境地にだけ存在すると説くのか、ということです。

論「又麁細性至以別尋伺」，第三難也。麁、細無體，何得有實尋、伺體耶？

> さらに、「粗さや細かさといった性質に至るまで、もしくは別の尋・伺というものがある」というのが、第三の難問です。 粗や細には実体がありません。それなのに、どうして実際に存在する尋や伺という体（本質）があり得るのでしょうか？

論「復有釋言至於理何違」，敘異釋也。

> さらに、ある解釈者は「道理に何の違（たが）いがあろうか」と述べている。これは異なる説を説明したものである。

論「若有別體至俱時起故」，難也。麁、細一法上下不同，如何俱起？此經部宗不許有別體性。

> 「もし別の実体があるなら、同時に生じるはずだ」という主張は難しい点です。粗いものと細かいものが一つの法でありながら、上下の違いがあるのに、どうして同時に生じるのでしょうか。この経量部の宗派では、別々の実体があるとは認めていません。

論「若言體類至別相云何」，縱釋，徵也。

> 「もし主体の分類が異なるのなら、その具体的な相違はどのようなものか」という問いが立てられました。ここで詳しくその意味を解き明かし、問いかけを行っています。

論「此二體類至顯其別相」，答也。

> 「この二つの本体と種類は極めて明らかで、その異なる相は顕著である」と論じたことに対する答えです。

論「非由上下至有上下故」，此重難也。

> 「乗り物のようなものによって上下があるわけではなく、上下があるから乗り物があるのだ」という論もあります。これは、さらに深い困難をはらんだ問いです。

論「由是應知至一心相應」，總結難也。

> したがって、「ゆえに『一心相応』に至るまでを知るべし」と論じているのは、難しさを総括しているのである。

論「若爾云何至具足五支」，有部難經部也。

> では、「もしそうであれば、どのようにして\[禅定が\]五支を具足するのか」という問いに対して、有部が経部を難じたものである。

論「具五支言至故無有過」，經部答也。《正理論》云「若爾麁、細性相違故，不應尋、伺一心俱生。雖一心中二體可得，用增時別，故不相違。如水與酢等分和合，體雖平等，而用有增。麁心品中尋用增故，伺用被損有而難覺。細心品中伺用增故，尋用被損有而難覺。若謂酢用一切時增故非喻者，此言非理，我不定說以酢喻尋、伺喻於水，但有用增者即說如酢故。若心品中尋、伺二法隨用增者，即說如酢，微便喻水。由是尋、伺雖心中體俱可得，用時別故，而無一心即麁即細。如貪癡性雖竝現行，而得說心為有貪行。隨何心品有法用增，由此為門總標心品。」

> 【経部の反論】「五支（尋・伺）がそろっていると言うが、その理由がない」という主張は、経部の答えである。 『正理論』にはこう説かれている。「もしそうならば、粗いものと細かいものは性質が相反するため、尋（粗い思考）と伺（細かい思考）が同一の心の中で同時に生じることはありえないはずである。しかし実際には、一つの心の中に両方の体（本体）が存在し得る。それは作用が強まる時に違いがあるためであり、互いに矛盾しない。例えば、水と酢を等分に混ぜ合わせた時、本体（分量）は等しいが、作用（味や香り）に強弱の差が生じるようなものである。 粗い心の状態では、尋の作用が強まるため、伺の作用は損なわれて存在していても気づきにくい。細かい心の状態では、伺の作用が強まるため、尋の作用は損なわれて存在していても気づきにくい。 もし『酢の作用は常に強まるので、この例えは適切ではない』と言うならば、その言葉は道理に適わない。なぜなら、私は必ずしも酢を尋に、水を伺になぞらえると決めて言っているわけではないからだ。ただ、作用が強まるものがあるならば、それを酢のように例えているに過ぎない。したがって、心の状態において尋と伺の二つの法（現象）が、それぞれ作用を強める方に従って、強まるものを酢に例え、微弱なものを水に例えるのである。 このようにして、尋と伺は心の中でその本体が共に存在し得るが、作用の時に違いがあるため、同一の心が同時に粗くかつ細かいということはない。例えば、貪り（むさぼり）と痴（無知）の性質が同時に現れていても、その心を『貪りある心』と総称して言えるのと同じである。どの心の状態においても、ある法（現象）の作用が強まれば、それを手がかりとして、その心の状態全体を総

論「如是已說至故名為慢」，自此下釋慢、憍差別。此即慢相。《正理論》云「慢謂對他心自舉性，稱量自、他德類勝、劣，若實不實，心自舉恃陵蔑於他，故名為慢。」

> さて、これより「かくのごとく已に説けり、乃至、故に慢と名づく」に至るまで、慢（まん）と驕（きょう）の違いを解き明かす。これが慢の相である。 『正理論』にはこう説かれている。「慢とは、他に対して心が自らを高ぶらせる性質である。自己と他者の徳の優劣を比較して、それが真実であってもなくても、心が自らを恃み、他を蔑む。これを慢と名づける。」

論「憍謂染著至無所顧性」，釋憍相也。《正理論》云「憍謂染著自法為先，令心傲逸無所顧性。於自勇健、財、位、戒、慧、族等法中，先起染著心生傲逸，於諸善本無所顧盻、故名為憍。」於諸善本無所顧者，謂由心傲，於諸善業不欣修習。是謂憍、慢差別之相。

> 「おごり（憍）とは、自らのものに執着し、あらゆる善いことを顧みなくなる性質である」と説かれ、これは「おごり」の特徴を明らかにしたものです。『正理論』には次のようにあります。「おごりとは、まず自らのものに染まり執着することで、心を高ぶらせ、あらゆるものを顧みなくなる性質である。自分の体力、財産、地位、戒律、智慧、家柄などの事柄において、まず執着の心を起こし、高ぶった心が生まれる。そして、すべての善い行いの根源を顧みなくなる。これを『おごり』と呼ぶ。」「善い行いの根源を顧みない」とは、心が高ぶることによって、善い行いを喜んで修行しなくなることです。これが「おごり」と「慢（思い上がり）」の違いを示したものです。

論「有餘師說至差別之相」，自此已下敘異說也，如文可解。准上論文，慢謂方他、憍唯自傲，是謂慢、憍二相差別。

> 「余師の説くところより差別の相に至るまで」とは、この以降で異なる説を述べるものであり、本文の通りに解すれば理解できる。上の論の文に照らせば、慢とは他と比べて上に立つことであり、憍とはただ自ら誇ることに過ぎない。これが慢と憍という二つの心の状態の違いである。

論「如是已說至名義差別」，自此已下有一頌，大文第四明心、心所眾名義也。

> 「このように、すでに『名前と意味の違い』について説いた」という一文から下には、一つの偈（げ）があります。大まかな区分の第四番目として、心と心所（心のはたらき）の様々な名前と意味を明らかにする部分です。

「論曰至故名識」，就長行中有二：初唯釋心王眾名，後通釋心、心所眾名。此釋心王。以三義別，立三種名。梵云質多，此言心，是集起義，謂由心力引諸心所及諸一切所作事業，如樹界之心，集起皮膚及枝葉等。梵云末那，此言意，是思量義，以心能思量故名為意也。梵云毘毘必反若南，此言識，是了別之義，謂心於境能了別故謂之為識。

> 論に曰く「至る故に識と名づく」とある、長行の中に二つあり。初めに唯だ心王の衆名を釈し、後に心・心所の衆名を通じて釈す。これは心王を釈す。三つの義によって別ち、三種の名を立てる。 梵語で「質多」という、これを心と訳す。これは集起の義であり、心の力によって諸々の心所や一切の所作事業を引き起こすことを謂う。あたかも樹の心が皮膚や枝葉などを集め起こすようなものである。 梵語で「末那」という、これを意と訳す。これは思量の義であり、心が思量することができる故に意と名づける。 梵語で「毘若南」という、これを識と訳す。これは了別の義であり、心が境に対して了別することができる故に、これを識と謂う。

論「復有釋言至而體是一」，述異說也。界是性義、因義。淨、不淨品緣境差別，作種種因差別不同，故名為心。如一樹心與大小枝葉種種不同而為界性。餘文易了。

> さらに、「また解釈では『……至って……体は一つである』と言う」とあり、異なる説を述べている。界とは性質や原因を意味する。清らかなものと清らかでないものの二種の対象（境）の違いによって、様々な原因の違いが生じる。そのため、それを「心」と名付ける。例えば、一本の木の中心が、大小の枝葉など様々に異なるものに対する性質（界性）となるようなものである。それ以外の文は容易に理解できる。

論「如心意識至而體是一」，類釋心所。於中有二：一結前引後，二釋心、心所眾名。此即初也。

> 問う、「心・意・識は至るまで体は一つである」という理屈について、心所を類比して解釈する。この中に二つある。第一に、前を結んで後を導くこと。第二に、心と心所のさまざまな名称を説明すること。これはすなわち最初の部分である。

論「謂心心所至等和合故」者，第二釋眾名也。即心、心所五義。然心王三義別，故立三種名依訓詞釋。心、心所五義亦訓詞釋。以託依根故，名有所依等。又所依等三，亦可說名就多財釋。相應一種，唯訓詞釋，等和合故，名相應故。有所依、有所緣，如文可解。有行相者，即於所緣品類差別起行相故。准此論文，即是能緣心法，於所緣境品類不同，行解心上起品類相。如鏡照物，如其物類於鏡面上有種種像差別之相，與其心法不即不離，非如像色與鏡不同。問：諸心、心所名有行相者，何故十六行相中但言唯慧？答：准《正理》有三解。一解意云：諸心、心所名有行相者，不同十六行相亦以慧為體，但是心、心所等於所緣品類相中有能取義名有行相。又解：諸心：心所亦是有慧行相，名有行相。若爾，慧不自有，如何得說慧有行相？答：此中行相亦以慧為體，而言諸心、心所者與行相等。行相於所緣，起必俱時，相從總名行相。猶如諸漏同時諸法，體非是漏，以同對治總得漏名。此亦如是。又解：或依無間亦說有聲，如有所依，故無有過。謂如心、心所皆名有所依。意識相應諸心所法，與所依識亦俱時生，識之所依唯無間滅，有行相理應知亦然。泰法師云：「依《婆沙》，影像相非蘊、處、界攝，亦非所緣緣。然心、心所皆同取慧所現行相名同行相。」瑜師又云：「不同行相違諸處文。」詳泰法師云非蘊、界、處攝，恐非盡理。若非三科攝，即是無法，不得言其同、異；若是有法，不合不攝。既云是慧之相，理合攝入行蘊。若通諸心、心所，即合攝屬四蘊。如何說全不攝耶？故相應法名同行相。言行相者，行解之相名為行相。或名相應，等和合故。

> 「心と心所が等しく和合するからである」というのは、第二の「衆名」の解釈です。これは心・心所の五つの意味を説いています。まず、心王には三つの異なる意味があるので、訓詞釈（語義解釈）によって三種の名称を立てています。また、心・心所の五つの意味も訓詞釈で説明されます。根に依託するから「有所依」などと呼ばれるのです。 さらに、「所依」などの三つは、多財釈（複合語解釈）で説明することもできます。一方、「相応」という一つの意味は訓詞釈のみで、「等しく和合するから相応という」と説かれています。 「有所依」と「有所縁」については、文の通り理解できます。「有行相」とは、すなわち、所縁の対象における種類の違いに対して、行相（はたらきとしてのイメージ）を起こすからです。この論文に従えば、これは能縁の心法が、所縁の境における種類の違いに応じて、心の上に種類ごとの相を起こすことを意味します。ちょうど鏡が物を映す時、その物の種類に応じて鏡の面に様々な像の違いが現れるようなものです。その像は心法と「即さず離れず」の関係にあり、像の色と鏡が別物であるような関係とは異なります。 問う：諸々の心・心所が「有行相」と呼ばれるならば、なぜ十六行相の中では慧だけが行相と言われるのか？ 答：『正理』によれば三つの解釈があります。第一の解釈の意図は、諸々の心・心所が「有行相」と呼ばれるのは、十六行相のように慧を体とするからではなく、心・心所などが所縁の種類ごとの相において、対象を捉える能力を持つことを意味するからです。第二の解釈：諸々の心・心所にも慧の行相があり、それゆえ「有行相」と呼ばれる。では、慧は自ら独立して存在するものではないのに、なぜ慧に「有行相」と言えるのか？答：この文脈での「行相」も慧を体とするが、「諸心・心所」と言うのは、行相と等しいからです。行相は所縁に対して必ず同時に起こるので、互いに従って総じて行相と名付けられます。例えば、諸々の煩悩と同時に存在する諸法は、その体は煩悩ではないが、同時に対治されるので総じて「漏」と呼ばれるのと同じです。これも同様です。 第三の解釈：あるいは無間（直前に滅したもの）に依っても「有」と言うことがあります。例えば「有所依」の場合がそうです。よって過失はありません。つまり、心・心所はすべて「有所依」と呼ばれますが、意識と相応する諸々の心所は、その所依の識と同時に生じます。識の所依は無間滅（直前に滅したもの）だけであり、「有行相」もこれと同じように理解すべきです。 泰法師は言う：「『婆沙』によれば、影像の相は蘊・処・界に含まれず、所縁縁でもない。しかし、心・心所はすべて、慧が現す行相を同じく取るので、同じ行相（同行相）と呼ばれる。」と。瑜師はまた言う：「異なる行相（不同行相）というのは、諸処の文と矛盾する。」と。詳しく言えば、泰法師の「蘊・界・処に含まれない」という説は、道理を尽くしていない恐れがあります。もし三科（蘊・処・界）に含まれなければ、それは無法であり、同・異を言うことはできません。もし有法であれば、含まれないというのは不合理です。「慧の相」と言う以上、理の上で行蘊に含まれるべきです。もしそれが諸々の心・心所に通じるなら、四蘊に属するはずです。どうして全く含まれないと言えるのでしょうか？ゆえに、相応する法は「同一の行相（同行相）」と呼ばれます。「行相」とは、行解の相（認識作用が対象に映し出す像）を意味します。あるいは「相応」とも呼ばれ、「等しく和合するから」です。

論「依何義故名等和合」，問等和合義。

> 「どのような意味で『等和合』というのか」と問うことを論じる。そして、等和合の義について問う。

論「有五義故至皆平等故」，釋和合義，可知。

> 「五つの意味があるから、すべてが平等であるから」と論じて、和合の意味を解き明かしていると理解すべきである。

論「事平等者至各各亦爾」，逐難釋也。有人云：一、所依平等，謂必同所依根。意識及相應法有一種依，謂無間滅意根。五識及相應法各有二依，一同時依止根、二無間滅意根，隨應皆是所依平等。此文欲攝二種所依，故不別言同一所依。諸論中說心、心所法同一依者，且據別依，故說六識及相應法名同一依。又解：所依平等，此顯六識及相應法各同一依。故解相應因中云「此中同言顯所依一」，雖復五識亦依意根，此文且據同時依說。二、所緣平等，謂必同所緣。於所緣中，或時緣一或復緣多，隨應皆是所緣平等。諸論中說心、心所法同一緣者，且據別緣一法說也。若不爾者，如無我觀，除自相應、俱有，通緣一切，此豈同一所緣？又解：所緣平等，此顯六識及相應法各同一緣。故諸論中說心、心所法同一所緣。雖復亦有緣多境者，此文且據緣一境說。三、行相平等。心、心所法其體明淨，隨緣何境各起行相，或緣一法各一行相，或緣多法各多行相，若一若多行相皆別，隨應皆是行相平等。以多現時各有多相，故不言同一行相。諸論中說心、心所法同一行相者，且據緣一境相似義同，理實皆別。又解：行相平等，此顯心、心所法同緣一境名同一行相。故諸論說心、心所法同一行相，雖復行相各別不同，據相似同故言同一行相。雖復亦有緣多境時多行相現，各互相望而不相似，此中且約緣一境說。詳其此釋同一所依、同一所緣、同一行相，不得論意。論言同一所依者，非謂所依唯一根故名同一所依，是心、心所法雖多不同，共一所依，名同一所依。若一若二皆名同一，如何得說所依雖二且據一說？同一所緣者，謂心、心所雖復不同，若想緣青，受等亦緣青等，由此故說同一所緣。即心、心所法共緣無量百千多法雖復不同，所緣共故，皆名同一所緣。如何將無我觀難一所緣？即自解：云且據一說。同一行相者，心王起一青行相時，諸心所等亦同起此相；如心王緣多境時起多行相，心所亦爾，名同一行相。如何得言且據一說？

> 「事の平等とは、各々もまた同じである」という点について、困難を解釈する説明。ある人は言う。第一に、所依の平等とは、必ず同じ所依の根を持つことである。意識とその相応する法には一つの依、すなわち無間滅意根がある。五識とその相応する法にはそれぞれ二つの依がある。一つは同時に依止する根、もう一つは無間滅意根であり、それぞれに応じて皆、所依が平等である。この文は二種類の所依を包括しようとしているため、特に「同一所依」とは述べていない。諸論において「心・心所法は同一の依を持つ」と言うのは、暫定的に別の依に基づいて述べており、六識とその相応する法を「同一依」と名付けている。また別の解釈として、所依の平等とは、六識とその相応する法がそれぞれ同一の依を持つことを示す。ゆえに相応因の解説に「この中の『同』は、所依が一つであることを示す」と言う。五識も意根に依るが、この文は暫定的に同時依に基づいて述べている。 第二に、所縁の平等とは、必ず同じ所縁を持つことである。所縁において、時に一つの対象を縁じ、また時に複数を縁じることもあり、それぞれに応じて皆、所縁が平等である。諸論において「心・心所法は同一の縁を持つ」と言うのは、暫定的に別々に一つの法を縁じることに基づいて述べている。そうでなければ、例えば無我観のように、自らの相応・倶有を除いて一切を縁じる場合、これが同一の所縁だと言えるだろうか？また別の解釈として、所縁の平等とは、六識とその相応する法がそれぞれ同一の縁を持つことを示す。ゆえに諸論で「心・心所法は同一の所縁を持つ」と言う。複数の境を縁じる場合もあるが、この文は暫定的に一つの境を縁じることに基づいて述べている。 第三に、行相の平等について。心・心所法はその体が明瞭で清らかであり、どのような境に縁じてもそれぞれに応じて行相を起こす。あるいは一つの法を縁じれば一つの行相、あるいは多くの法を縁じれば多くの行相を起こし、一つであれ多くであれ行相はそれぞれ異なるが、それぞれに応じて皆、行相が平等である。多くの行相が現れる時にはそれぞれ多くの相があるため、「同一行相」とは言わない。諸論で「心・心所法は同一の行相を持つ」と言うのは、暫定的に一つの境を縁じるという類似した意味に基づいており、理の上では実際には全て異なる。また別の解釈として、行相の平等とは、心・心所法が同じ境を縁じることを「同一行相」と名付けることを示す。ゆえに諸論で「心・心所法は同一行相を持つ」と言う。行相は各々異なっていても、相似しているという点で同一と見なし「同一行相」と言うのである。複数の境を縁じる時に多くの行相が現れ、それぞれ互いに見渡しても相似していなくても、ここでは暫定的に一つの境を縁じることに基づいて述べている。 この「同一所依」「同一所縁」「同一行相」の釈義を詳しく検討すると、論の意図を得ていない。論で「同一所依」と言うのは、所依が唯一の根であるから「同一所依」と名付けるという意味ではなく、心・心所法は多くて異なっていても、共に一つの所依を持つから「同一所依」と名付けるのである。一つであれ二つであれ「同一」と名付けられるのに、どうして所依が二つであるのに暫定的に一つに基づいて述べると言えるだろうか？「同一所縁」とは、心・心所法は異なっていても、例えば心が青を縁じるならば、受なども青を縁じるなど、これによって「同一所縁」と言うのである。すなわち心・心所法が共に無量百千の多くの法を縁じても異なっていても、所縁が共通であるから、皆「同一所縁」と名付けられる。どうして無我観を用いて一つの所縁を難じることができようか？そして自ら解釈して「暫定的に一つに基づいて述べている」と言うのである。「同一行相」とは、心王が一つの青い行相を起こす時、諸々の心所なども同じくこの相を起こす。心王が多くの境を縁じて多くの行相を起こす時も、心所もまた同様であり、これを「同一行相」と名付ける。どうして「暫定的に一つに基づいて述べている」と言えるだろうか？

論「已說心心所至何者是耶」，自下大文第二，有十四頌明非色非心不相應行。初一頌列不相應總別名，後十三頌一一牒釋。此文初也。

「論曰至不相應行」，「如是諸法」者，總舉不相應法。「心不相應」者，簡心、心所。「非色等性行蘊所攝者」，簡色及無為法。「是故名心不相應行」，略結名也。廣應言非色非心不相應行，今但言不相應行，亦得簡諸法盡。言不相應，簡一切心、心所；言行，行是行蘊，簡色、無為。由此諸論多存略名。有人自釋頌云：等謂等取句身、文身。類謂流類，即是得等。今案此論，心不相應但有十四。若依《正理》，加和合性。故《正理》云「等者等取句身、文身及和合性。」詳光師以二說不同，廣為問答。此論雖不別說和合，亦不述無。《正理》釋此論頌言等和合，故知不是兩論相違。若謂不說即是無者，此論頌中不說怖等，應無其怖。怖等既不定無，和合寧知非有？今詳此論只是略而不論，非是所明之外更無心所。心所既爾，和合應同。不依論文，信自胸襟問答往還，徒煩紙墨。自云《品類足論》不說非得，說有十三，同《俱舍論》。又云：彼論云「復有所餘如是類法與心不相應。」《法蘊足論》第十同《品類足》。彼論既言所餘如是類法，焉知唯有非得？此論不說更無，《正理》不彈《俱舍》。六足言有所餘，《正理》說有和合。餘文皆通兩解，《正理》更無異端。教既分明，理須依釋，故知十四之外更有不相應行。《婆沙》說言類者，顯是餘師所計度法。《正理》云類者，顯餘所計度法，即前種類，謂有計度離得等有蘊得等性。與《婆沙》少同也。

論「於中且辨得非得相」，自下有十三頌，別釋不相應也。前五頌明得、非得。就中，前一頌明得、非得自性，後四頌明得、非得差別。此文初也。

「論曰至與此相違」，此明得、非得相。然此得名，有總、有別。總名得者，得及成就皆名為得。非得亦爾，捨及不成皆名非得。別名得者，曾來未得及得已失，將成就法得至生相，初獲名得。二者得已不失，得至現在，名為成就。即是先不屬己，初獲屬己，名之為得。此謂生時決定屬己故名之為得，未在身故不名成就。成就謂得現在於身。捨及不成亦准於得。若望同類，即唯初剎那生相名得，最後剎那滅相名捨。爾時非得至生相故，於其中間雖後後念至其生相，然此類法恒名成就，非今獲故，此類之得現在身故。若別望剎那三相前後者，生相定獲，此時名得，至住、異相時總名成就，至滅相位方名為捨，落謝過去名不成就。於諸論中依總類說，不約剎那。故《婆沙》、《正理》四通行等，皆約初剎那生相名得，非於後念。若就諸法，具得、成就，及捨、不成，四種差別即有不同。如非想見惑，唯有成就及捨、不成，無有得也。以無始來恒成就故，後雖容斷，必無退故。若利根無學諸無漏法，有得、成就及不成就。在凡位時名不成就，金剛心時名之為得，盡智已去名為成就。無其捨也，至無學位更無退故。涅槃捨時，無非得故。若有得、捨，定有成就、不成就。所以最初得至生時不名成就，以彼身中成就非得故。最初非得生時不名不成，以彼身中成彼法故。於生位中正得、捨故，名為得、捨。《正理論》云「得、獲、成就，義雖是一，而依門異說差別名。得有二種，謂先未得及先已得。先未得得，說名為獲。先已得得，說名成就。應知非得與此相違，謂先未得及得已失。未得非得說名不獲，已失非得名不成就。故說異生性名不獲聖法。」今詳《正理》，文雖少異，其義亦同。先未得說名為獲者，有二種：一曾來未得，如無漏道等；二得已失，如生上地、生下地等。先未得得說名為獲者，即是於二位初得至生相時。先已得得說名成就者，有二：一無始已來恒成就者、二初得已後第二念去皆名先已得得。應知非得與此相違者，非得有二種：一無始已來曾未得者名為不獲，通其前後名為不獲；二謂已得後捨，於初念生相名為不獲，第二念去名不成就。

論「於何法中有得非得」，自此已下明得所依。於中有二：先問、後答。此即問也。

論「於自相續至決定如是」，此即答也。總明得等所依有二：一有為法，謂自相續；二無為法，謂即二滅。此即初也。若成他身即趣雜亂。若成非情，即共成有為過，及無情不定過，壞法性故。

論「無為法中至有得非得」，此釋無為得所依也。

論「一切有情至謂一切有情」，此以一切有情無始已來必有無邊闕緣，不生法故。故引對法中云「誰成無漏法？謂一切有情者」，即是非擇滅也。

論「除初剎那至皆成擇滅」，釋定成擇滅。「除初剎那」者，謂苦法忍。「具縛聖者」，簡先離染。「及餘一切具縛異生者」，簡具縛異生未成擇滅，未斷惑故。「諸餘有情」者，舉成擇滅人也，已斷惑故。

論「決定無有至相翻而立故」，此釋虛空無得、非得，非是礙法不生故，非是道力引故。

論「諸有得者至故不別釋」，准釋非得可知。

論「何緣知有別物名得」，自下經部破薩婆多得實有也。此文即是經部師問也。

論「契經說故至乃至廣說」，有部引經答也。「十無學法」，謂八道支，及正解脫、正智。「五支」，五順上分結，成就十無學法，明有得也。已斷五支，明捨得也。

論「若爾非情至乃至廣說」，經部難也。於輪寶等無情之物，於馬寶等他相續中，應亦有得，經說成就七寶故。故知成就是假非實。

論「此中自在至隨樂轉故」，有部答也。

論「此既自在至知有別物」，經部徵。

論「許有別物有何非理」，有部反問。

論「如是非理至是為非理」，經部責無如色、聲等，為其眼、耳現量可知。如貪、瞋等他心智知，如眼、耳等比量可知，以有見、聞用故，故知別有體性。其得既無現量可知，復無用故比量可知，故無體也。既無二量，可知是為非理。

論「若謂此得至理不成立」，經部縱計為生因破。若得是法生因名為有用，無為無生，應無有得。又所得法未得，及已捨，及界地轉易，及離染，彼皆無有法前之得，如何後法得生？又縱計云：若以俱得為生因者，大生、小生復何所作？得能生故。又無情法無俱生得，應定不生。「又具縛者下、中、上惑煩惱現起差別應無。得用無別故。」若謂由餘境界同類因等有差別者，即應由彼餘因諸法得生，得復何用？故彼言得作法生因，理不成立。

論「誰言此得作法生因」，有部反拒。誰言此得作法生因？汝輒為斯難也。

論「若爾此得有何作用」，經部徵也。

論「謂於諸法至建立差別」，有部反難答也。

論「豈不煩惱至應有差別」，經部釋也。

論「若執無得至離未離故」，有部反難。

論「此由所依至未斷義成」，此經部總釋也。所依謂身。所依身中種子斷、未斷別，分其凡、聖，不由其得。

論「謂諸聖者至但假非實」，下別釋也。謂諸聖者見修道力，令所依身種子能生之力，轉變無力異本現起，乃至如是二種但假非實。如文可解。

論「善法有二至亦假非實」，經部敘自宗也。此明成就、不成就也。此當大乘，若生得善種子成就，亦名不成就。若加行善自在現行，名自在成就。竝假非實。生得善種被邪見損，善不得生，名不成就，不畢竟斷種子成就。此當大乘種子成就，故成就亦名不成就。「要由功力修得」者，即加行善。彼法已起，生彼功能自在無損，說名成就。此當大乘自在成就。餘文可解。

論「故所依中至無有別物」，總結可知。

論「此中何法名為種子」，有部問。

論「謂名與色至轉變差別」，經部答也。此即經部有二師執：一色持種、二心持種。此中合說色、心持種。

論「何名轉變」，有部問也。

論「謂相續中前後異性」，經部答也。此是將生果時前色、心上力用起也。

論「何名相續」，有部徵也。

論「謂因果性三世諸行」，經部答也。

論「何名差別」，有部徵也。

論「謂有無間生果功能」，經部答也。

論「然有處說至必不能修」，此經部通經也。經部上文云：若有種子即有隣近生果功能。又云：一切異生二道未起皆成就惑，經說若成就貪即不能修四念住故，此即聖法無由得起。故通經云：彼說耽著貪煩惱者，不能厭捨故名成就。由隨耽著貪愛時分，於四念住必不能修。此說增盛貪位名為成就，非謂但是有種子者不能修也。

論「如是成就至亦假非實」，經部結宗義也。如文可解。《正理論》破經部種子云「且執何法名為種子」，有部徵也。「謂名與色於生自果所有展轉隣近功能，此由相續轉變差別經部答也。名色者何徵也？謂即五蘊答也。如何執此為種子性？問也。能為善等諸法生因，答也。為總？為別？為自種類問也。為總一身五蘊為異熟等別？為自類為種？若言是總，種體應假，假為實因不應正理若合諸色、心總為種子，即是假法。假法如無，非種子也。若言是別，如何可執無記色種為善、不善諸法生因若身中別取色法為種子者，色是無記，如何與善不善為因？若自種類善法無間不善法生，或復相違，以何為種？」已上三義徵破。已下經部異師釋種子也。「天愛非汝解種子性。前心俱生思差別故，後心功能差別而起，即後心上功能差別說為種子。由此相續轉變差別，當來果生。」此中意說：不善心中有善所引展轉隣近功能差別以為種子，從此無間善法得生。或善心中，不善所引展轉隣近功能差別以為種子，從此無間不善法生。已上經部異師立種子也。自下正理破也。「今汝所執功能差別種子，與彼善、不善心，為有別體？為無別體？此無別體，豈不許善為不善種，及許不善為善種耶？誰有心者，執煖與火無有別體，而復執言唯煖能燒、火不能燒？云何能感那落迦等諸異熟果？不善心中安置能感可愛異熟，善思差別所引功能差別種子。復云何感末奴沙人也等諸異熟果？淨善心中安置能感非愛異熟惡思差別所引功能差別種子。」乃至廣說。具如彼也。

論「毘婆沙師至實而非假」，結有部示宗義也。

論「如是二途至我所宗故」，評薄兩宗說也。

論「已辨自性差別云何」，自下明得、非得差別。

論「且應辨得」者，辨差別中，先明得、後明非得，故言「且」也。自此已下有兩頌半明得差別。此一頌半，五門分別。

「論曰至各有三得」，此明三世門也。言三得者，有其二義：一三世得不據在法前後，雖是法前仍名未來，雖是法後仍名過去。二法前、法後、法俱三得不據世別，雖是過去仍名法後，雖是未來仍名法前。今此中言三世各三者，是據三世分得為三，不據法前後也。過去法有三世得者，如過去世有一善心，橫望今日，已前所有得起，若在法前、法俱、法後皆名過去。即如今日現起剎那名現在得，此現在剎那後所有得名未來得，其過去世法於未來無前得。得無決定，隨起說前後故。若現世法得，即法前名過去，法俱名現在，法後名未來。若未來世法得，法前通三得，法後、法俱唯未來。《婆沙》一百五十八明法前、法俱、法後得不同。此文明三世得。然就法辨得，即有四種，謂法前、法俱、法後，非法前法俱法後。若能得辨法，即有六種：一唯有法俱得，如異熟生等，由力劣故。二唯有法前得，謂如見道三類智邊修世俗智，畢竟不生故。三唯有法俱得及法後得，如別解脫戒等，無逆得故。四唯有俱得及法前得，如道類忍等，即此剎那時捨故。五具有法前、法俱、法後三得，如所餘善、不善等，有逆得、追成，行三世故。六有非法前、法後、法俱得，謂得二滅，所得法無三世故。必無有法唯有法後得，以可得法至現在時必有得故。如道類忍唯有法前、法俱者，以不定故。若現起者、若未來者皆容有二得，不應言各有一得及定有二得。若爾，同四行相隨從義過。若定法俱，過如後述。

論「又善等法至無記三得」，此三性分別也。三性法得與所得法雖定同性，然得起時所由即異。諸有為法由所得法，擇滅由道，非擇滅由命根、眾同分。《婆沙》一百五十八云「問：何故得與所得法，性類或同或異耶？答：得有三種，一有為、二擇滅、三非擇滅得。有為法得，隨所得法性類差別，以有為法能有作用引自得故。擇滅得隨能證道性類差別，以諸擇滅自無作用，但由道力求證彼時引彼得故。非擇滅得隨自所依性類差別，以非擇滅自無作用非道所求，彼得但依命根、眾同分而現前故。由此三性之法各自性得得，雖得擇滅不由所得，得非擇滅依眾同分等。道與擇滅同性，同分與非擇滅同性，由此二種雖不由所得，而與所得必定同性，由此三性必同性得。」

論「又有繫法至得有四種」，此繫、不繫門也。其所得法有其四種，謂三界繫為三，及不繫法為四。其能得得亦有四種，亦如上說。又所得法有其二種：一者有為，謂三界法及道聖諦；二者無為，謂二種滅。能得之得，唯是有為。所得之法又有二種：一有漏，謂三界繫法；二無漏，謂道聖諦、二滅。能得得亦有二種：一有漏，謂三界繫；二無漏，謂道聖諦。三界繫法是有為故，能得之得從其所得唯三界繫，不繫之法通無為故。非擇滅得從依身繫。其擇滅得從能斷道，道通有漏及無漏故。若有漏道，色無色繫；若無漏道，從道不繫。非擇滅得以隨身故通三界繫。所以有繫法得唯有三種，無繫法得通四種也。

論「又有學法至得即無學」，此明三學門也。學、無學法是有為故，能得之得從所得法是學、無學得。非學非無學通無為故，三種得得，有為有漏，及非擇滅、非學非無學得得。擇滅三種得得，若有學道引得是有學，若無學道引得是無學，若有漏道引得是非學非無學。

論「又見修所斷法至皆非所斷」，此明三斷門也。見斷、修斷法是有為故，得從所得法通二斷也。非所斷法即通三種，謂有為無漏、擇滅、非擇滅。有為無漏得從所得法，唯非所斷。擇滅得從道故，通漏及無漏，有漏修道斷，無漏得不斷。非擇滅得從眾同分、命根故，唯修道斷。餘文可解，故不牒釋。

論「前雖總釋至其中差別相」，自下有一頌就法辨得差別。

「論曰至得亦現在」，此明無覆無記勢力劣故，唯引法俱得，即在三世各自世得。

論「一切無覆至不爾云何」，重問差別。

論「除眼耳通至及俱起得」，答也。二通、變化二緣故，通前、後得。一以勢力勝故、二以加行所引起故，有三世得。

論「若工巧處至得亦許爾」，此明威儀、工巧極善數習，亦許有前、後、俱得。此說心不說色，有覆無記色當無前、後得，況無覆無記色。《婆沙》一百二十六云「工巧處者，謂色、聲、香、味、觸五處為體。起工巧處者，謂能起彼意、法二處為體。」准《婆沙》一百五十七解欲界威儀、工巧四蘊，即云善習者三世得，解色界威儀即無簡別。復云「一切有覆無記、無覆無記，及威儀路異熟四蘊，彼得世不雜，隨在彼世即唯有彼世得。」准此故知，色界二無記心無前、後得。《識身足論》云「成就欲界善心、不善心，皆云定成就欲界無覆無記心。」准此文，定有無覆無記心有三世得。

論「唯有無覆至法前後得」，此明有覆無記色也。如文可解。此即初禪、中間靜慮，染心所起身、語表故。自餘諸地更無此業。欲界唯身、邊二見有覆無記不能發業，上地無發業心。

論「如無記法至及後起得」，此明欲界善、不善色無法前得，唯法俱、法後，勢力不能引前得故。此色若在未來，未來得；若至現在，未來、現在得；若至過去，三世得。初無漏心及加行善最初起者，若在未來，未來得；若至現在，未來、現在得；若至過去，有三世得。餘法不同，思之可解。

論「非得如得至不爾云何」，自下有一頌半明非得差別。

「論曰至無記性攝」，第一、三性門也。故《婆沙》一百五十八云「問：非得隨何性類差別？答：彼定不隨所不得法，以相違故。又不隨道，非道所求但依命根、眾同分轉故。隨所依性類差別。問：若諸非得、非擇滅得俱隨所依性類別者，所依或異熟、或唯等流，此二隨何性類差別？答：隨等流性，以義遍故。異熟非遍，故不隨立。問：非得若隨所不得法性類差別，有何過耶？答：斷善根者應成就善，已離欲染者應成就不善，諸無學者應成就染，異生應成三乘無漏法，退果應成果，捨向應成向，二滅非得應是無為。由此等過，非得不可隨所不得。」

論「世差別者至三世非得」，第二、三世門也。過去、未來各有三世，與前得同。現在唯二，無法俱非得，有情之法住現在時必成就故。若現在法，法前為過去、法後為未來。若過去，法前唯過去、法後通三世。若未來，法後唯未來、法前通三世。故《婆沙》一百五十八解非得云「一切非得總有三種：一在彼法前；二在彼法後；三非彼法前、法後及俱。所不得法亦有三種：一唯有法前非得，謂未來情數等畢竟不生法，及入無餘涅槃最後剎那心等；二有法通有法前、法後非得，謂餘隨所應有情數法；三有法無彼前、後、俱非得，而有非得，謂擇滅、非擇滅。必無非得可與法俱，以法現在前時，是所得法必有得故，非所得法無非得故。亦無唯有彼法後非得非無始來恒成就，彼未捨必起彼類盡故。然諸非得性羸劣故，唯成現在，一一剎那得已即捨。於未得彼法及已捨位，恒有此非得應知。」今詳有部畢竟無涅槃法，以時遠故名為畢竟。若不爾，即合有一類法唯有得無非得，謂無涅槃法非想地惑。有一類法唯有非得而無有得，謂無涅槃法三乘聖人道。即違有得必有非得相翻而立。若謂無涅槃法、三乘聖道亦無非得，即應此人非是異生，無異生性故。又世親菩薩《佛性論》釋有部無涅槃法，就位建立，非法爾定言一闡提犯重禁等無涅槃法。故〈聲聞地〉中說法爾者，寄客說本。如《唯識論》釋《攝論》云「聞熏習為無漏因，寄客說本。」又《婆沙論》簡唯法前非得云「謂未來情數畢竟不生法，及入無餘涅槃最後剎那心等。」言未來者，簡過、現也。言情數者，簡非情也。言畢竟不生者，簡暫不生法也。如眼識等闕緣不生，皆亦得名畢竟不生，得非擇滅故。此論云「畢竟礙當生別得非擇滅」，即此不生眼亦是未來情數畢竟不生。如何此文即表定是唯見道邊俗智？若言此唯世俗智者，即是《婆沙》闕字。若通取餘不生諸法，雖無所闕，即與非想過去見惑義同。今解《婆沙》，應改「竟」字為其「定」字。定者即是始、末不生，此即無過，以餘五識等法不是始、末不生法。見道俗智始、末不生，名唯法前；若得非擇已去，即俱名畢竟也。此字應是抄寫者錯耳。又准俱有因，有對造色非俱有因，而名必定俱起；得即或前、或後，不說定俱。若總說者，何不言法俱得雖定俱生，而非因也。前、後、俱得若言決定，如何論言或前、或後。亦不可言總同類說，於此類中有定俱者應須簡故。故知言有法前、後、俱皆是不定，據容有說，非得准此。又《婆沙》釋無唯法後非得云「非無始來恒成就彼，未捨必起，彼類盡故。」准此文意，所不得法約法種類說有非得。「有頂見惑種類眾多已入過去，雖復但有法後非得在未來者，即有法前非得。」然此文是被難之後重改《婆沙》。然此不順得中六句，應云：以不定故容有二種非得。以非想地過去見道煩惱，於過去世中煩惱未起之前皆容入聖。若未起煩惱即斷見惑，即此煩惱即有法前非得。由此說過去煩惱不得名為唯法後非得。若作此釋，即順得中六句，即同自餘通二非得。由不得此意，被將過去見惑唯法後難，應成四句通難不得，遂改《婆沙》以為四句。見今長安多本流行猶作四句，於後數年重改論文云唯有三句，遂加文遮難，云非無始等一十六字通此妨難。由未得《婆沙》意故，由未盡理。

論「界差別者至是無漏者」，第三界繫門也。非得隨身繫故，故三界法各各皆有三界非得。身在下界，欲界非得，非得三界。色、無色界義亦准此。欲界繫法有三界非得，色、無色界義亦准此。非得隨身不隨法故，所以非得不通無漏。無漏非得亦通三界，三界異生皆不成故。

論「所以者何」，自此已下明異生性。《婆沙》四十五云「犢子部執，異生性是欲界見苦斷十隨眠。」《瑜伽》五十二云「復次云何異生性？謂三界見所斷法種子唯未永害量，名異生性。」今詳「唯未永害」言即是世第一法已前，非是無間道已後，即是害見所斷惑故。既言唯未永害量，即是不取一分害量，名異生性，唯言所遮故。今時人釋云：二障種子上建立異生性。聲聞之人斷煩惱障，名非異生；有所知障故，名為異生。若爾，二障通其見、修，唯佛能盡二障種子，即合唯佛一人名為聖人。自餘皆是亦凡亦聖，以障種有斷、不斷故。譬喻者說，其異生性無有實體。

論「由許聖道至是無漏應理」，引文證也。異生既非聖人、非無漏性，應道理也。

論「不獲何聖法名異生性」，問也。

論「謂不獲一切至應名異生」，答也。謂總不獲一切聖法也。此不獲言，表離於獲故。若隨獲少多，即應言有簡別；既無簡別，但言不獲，故知此言表離於獲。此若不表離於獲者，此即諸佛亦不成就二乘聖法，應名異生。

論「若爾彼論應說純言」，問也。彼本論中，應言純不獲聖法名異生性，隨獲一、二即非純也。

論「不要須說至食水食風」，答也。立一句言，不獲聖法，即是純義。隨獲少多，是雜非純，不名不獲。如說蟬食於風、蚊食於水，即顯蟬唯食風、蚊唯食水，不要須言純食風、水。有人云：如魚食水、如龜食風，以釋純義。不得意也，魚不純食水，龜不純食風故。

論「有說不獲至彼非得故」，敘異說也。謂不得三乘苦法智忍及俱生法，名異生性。文外伏難。難云：若爾，至道類智捨前向故，捨苦忍等，爾時亦名不得苦忍，應名異生。由遮此難故，言前已永害彼非得故。謂前不獲一切苦忍名異生性，此之非得已被永害入於過去，至道類智時更起非得，非是未曾得苦法忍，故非異生。

論「若爾此性至唐捐其功」，難也。既若同前，何須重說唐捐其功？

論「如經師所說為善」，論主意信經部，故云所說為善。

論「經部所說其義云何」，問經部宗。

論「謂曾未生至名異生性」，答經部義。

論「如是非得何時當捨」，自此已下第四明捨時。此即問也。

論「此法非得至類此應思」，答捨時也。捨有二種：一有雖不易地，得此法時捨此非得。二有雖非新得此法，由易地故，捨此地非得，得彼地非得。

論「若非得得斷至捨於非得」，釋捨非得相也。即非得上得斷，名捨非得。

論「得與非得至得與非得」，問也。

論「應言此二至得及非得」，答也。

論「若爾至有無窮過」，難也。

論「無無窮過至無無窮過」，此廣答也。雖雙問得與非得，然二不同。得有大得小得同時相得，非得不爾，以於現在無非得故，故知非得不如其得有小非得。就其別義，亦有大小非得不同。謂翻大得名大非得，即非得大得所得之法本法及大小相故。翻於小得名小非得，此唯非得大得及四相。故《婆沙》一百五十八云「如是說者，法與生等同一得得，相與所相極親近故。由此善通色蘊、行蘊一得得等。」已上論文。得與非得相翻而立，不可不同。雖無大小非得更互非得，以得非無窮故，非得亦非無窮。故答無窮唯釋於得，即顯非得無無窮也，翻得立故。

論「如是若善至有無邊得」，釋增數也。如第一剎那善心起時，唯說善心不說相應，即此剎那本法為一、大得為二、小得為三。第二剎那有六法起，不說第二剎那所起善心，但說前剎那法後得有六法起，謂前本法、大得、小得，即此三法法後之得大小各三，故有六得。第三剎那即此六法，謂三大得，及三小得，及初剎那法大小得。此之九法，法後得起，有九大得、有九小得，合成十八。如是後後漸增，有無邊得。

論「且一有情至況第二等」，此顯諸得極多，無對礙故，得相容受。如文可解。

## 俱舍論疏卷第四

保延三年十月二日朝南新屋點了。

角　樹

以黃薗古本一交了。教俊　一交了。