序品第一
序品第一
自歸能仁第七仙, 演說賢聖無上軌;
永在生死長流河, 世尊今為度𪏭庶。
尊長迦葉及眾僧, 賢哲阿難無量聞;
善逝泥曰供舍利, 從拘夷國至摩竭。
迦葉端思行四等, 此眾生類墜五道;
正覺演道今去世, 憶尊巧訓懷悲泣。
迦葉思惟正法本, 云何流布久在世?
最尊種種吐言教, 總持懷抱不漏失。
誰有此力集眾法, 在在處處因緣本?
今此眾中智慧士, 阿難賢善無量聞。
即擊揵椎集四部, 比丘八萬四千眾,
盡得羅漢心解脫, 以脫縛著處福田。
迦葉哀愍於世故, 加憶尊恩過去報;
世尊授法付阿難, 願布演法長存世。
云何次第不失緒? 三阿僧祇集法寶,
使後四部得聞法, 已聞便得離眾苦。
阿難便辭吾不堪, 諸法甚深若干種,
豈敢分別如來教, 佛法功德無量智!
今尊迦葉能堪任, 世雄以法付耆舊;
大迦葉今為眾人, 如來在世請半坐。
迦葉報言雖有是, 年衰朽老多忘失,
汝今總持智慧業, 能使法本恒在世。
我今有三清淨眼, 亦復能知他心智,
一切眾生種種類, 無有能勝尊阿難。
梵天下降及帝釋, 護世四王及諸天,
彌勒兜術尋來集, 菩薩數億不可計。
彌勒梵釋及四王, 皆悉叉手而啟白:
一切諸法佛所印, 阿難是我法之器。
若使不欲法存者, 便為壞敗如來教;
願存本要為眾生, 得濟危厄度眾難!
釋師出世壽極短, 肉體雖逝法身在;
當令法本不斷絕, 阿難勿辭時說法!
迦葉最尊及聖眾, 彌勒梵釋及四王,
哀請阿難時發言, 使如來教不滅盡。
阿難仁和四等具, 意轉入微師子吼,
顧眄四部瞻虛空, 悲泣揮淚不自勝。
便奮光明和顏色, 普照眾生如日初;
彌勒覩光及釋梵, 收捨遲聞無上法。
四部寂靜專一心, 欲得聞法意不亂;
尊長迦葉及聖眾, 直視覩顏目不眴。
時阿難說經無量, 誰能備具為一聚?
我今當為作三分, 造立十經為一偈。
契經一分律二分, 阿毘曇經復三分;
過去三佛皆三分: 契經、律、法為三藏。
契經今當分四段, 次名增一、二名中,
三名曰長多瓔珞, 雜經在後為四分。
尊者阿難作是念: 如來法身不敗壞,
永存於世不斷絕, 天人得聞成道果。
或有一法義亦深, 難持難誦不可憶;
我今當集一法義, 一一相從不失緒。
亦有二法還就二, 三法就三如連珠,
四法就四五亦然, 五法次六六次七,
八法義廣九次第, 十法從十至十一;
如是法寶終不忘, 亦恒處世久存在,
於大眾中集此法, 即時阿難昇乎座;
彌勒稱善快哉說, 諸法義合宜配之。
更有諸法宜分部, 世尊所說各各異;
菩薩發意趣大乘, 如來說此種種別。
人尊說六度無極: 布施、持戒、忍、精進、
禪、智慧力如月初, 逮度無極覩諸法。
諸有勇猛施頭目, 身體血肉無所惜,
妻妾國財及男女, 此名檀度不應棄。
戒度無極如金剛, 不毀不犯無漏失,
持心護戒如坏瓶, 此名戒度不應棄。
或有人來截手足, 不起瞋恚忍力強,
如海含容無增減, 此名忍度不應棄。
諸有造作善惡行, 身口意三無厭足,
妨人諸行不至道, 此名進度不應棄。
諸有坐禪出入息, 心意堅固無亂念,
正使地動身不傾, 此名禪度不應棄。
以智慧力知塵數, 劫數兆載不可稱,
書䟽業聚意不亂, 此名智度不應棄。
諸法甚深論空理, 難明難了不可觀,
將來後進懷狐疑, 此菩薩德不應棄。
阿難自陳有是念: 菩薩之行愚不信,
除諸羅漢信解脫, 爾乃有信無猶豫。
四部之眾發道意, 及諸一切眾生類;
彼有牢信不狐疑, 集此諸法為一分。
彌勒稱善快哉說, 發趣大乘意甚廣;
或有諸法斷結使, 或有諸法成道果。
阿難說曰此云何? 我見如來演此法,
亦有不從如來聞, 此法豈非當有疑?
設我言見此義非, 於將來眾便有虛;
今稱諸經聞如是, 佛處所在城國土,
波羅捺國初說法, 摩竭國降三迦葉;
釋翅、拘薩、迦尸國, 瞻波、句留、毘舍離。
天宮、龍宮、阿須倫, 乾沓和等拘尸城;
正使不得說經處, 當稱原本在舍衛。
吾所從聞一時事, 佛在舍衛及弟子,
祇桓精舍修善業, 孤獨長者所施園。
時佛在中告比丘: 當修一法專一心,
思惟一法無放逸。 云何一法?謂念佛,
法念、僧念及戒念, 施念去相次天念,
息念、安般及身念, 死念除亂謂十念。
此名十念更有十, 次後當稱尊弟子;
初化拘隣真佛子, 最後小者名須拔。
以此方便了一法, 二從二法三從三,
四五六七八九十, 十一之法無不了。
從一增一至諸法, 義豐慧廣不可盡;
一一契經義亦深, 是故名曰增壹含。
今尋一法難明了, 難持難曉不可明;
比丘自稱功德業, 今當稱之尊第一。
猶如陶家所造器, 隨意所作無狐疑;
如是阿含增一法, 三乘教化無差別。
佛經微妙極甚深, 能除結使如流河;
然此增一最在上, 能淨三眼除三垢。
其有專心持增一, 便為總持如來藏;
正使今身不盡結, 後生便得高才智。
若有書寫經卷者, 繒綵花蓋持供養,
此福無量不可計, 以此法寶難遇故。
說此語時地大動, 雨天華香至于膝,
諸天在空歎善哉! 上尊所說盡順宜。
契經一藏律二藏, 阿毘曇經為三藏;
方等大乘義玄邃, 及諸契經為雜藏。
安處佛語終不異, 因緣本末皆隨順;
彌勒諸天皆稱善, 釋迦文經得久存。
彌勒尋起手執華, 歡喜持用散阿難;
此經真實如來說, 使阿難尋道果成。
自ら能仁なる第七の仙に帰依します。賢聖の無上の軌を演説されました。 永遠に生死の長き流れの河にありながら、世尊は今、多くの人々を度するためにいらっしゃいます。 尊長なる迦葉と多くの僧、賢哲なる阿難の無量の聞を持ちます。 善逝が泥洹に入られ、舎利を供養することは、拘夷国から摩竭に至ります。 迦葉は端然と思い、四等を行じます。この衆生の類は五道に墜ちています。 正覚は道を演説され、今、世を去られました。尊の巧みな訓えを思い、悲しみに泣きます。 迦葉は思惟します。正法の本は、どうすれば世に長く流布するのでしょうか。 最尊なる方は種々の言教を吐かれ、総持として懐に抱き、漏失することはありません。 誰にこの力があり、衆法を集め、在々処処に因縁の本とすることができるのでしょうか。 今、この会衆のうちの智慧ある士、阿難は賢善にして無量の聞を持ちます。 そこで揵椎を撃って四部を集めます。比丘八万四千の衆は、 ことごとく羅漢を得て心解脱し、縛着を脱して福田に処します。 迦葉は世を哀愍するがゆえに、尊の恩と過去の報いを加えて思い起こします。 世尊は法を阿難に授けて付嘱されました。願わくは法を布演し、長く世に存続させてください。 どうすれば次第を失わずに済むのでしょうか。三阿僧祇に法宝を集め、 後の四部が法を聞くことを得て、聞き終わればただちに衆苦を離れるようにするのです。 阿難はそこで辞して言います。私は堪えられません。諸法は甚深にして種々あります。 どうして敢えて如来の教えを分別できましょうか。仏法の功徳は無量の智慧です。 今、尊き迦葉こそ堪任できます。世雄は法を耆旧に付嘱されました。 大迦葉よ、今、人々のために、如来在世のとき、半座を請うてください。 迦葉は答えて言います。そのとおりではありますが、年衰え朽ち老いて忘失することが多いのです。 そなたは今、総持と智慧の業を持ち、法の本を恒に世に在らしめることができます。 私には今、三つの清浄眼があり、また他心智をも知ることができます。 一切衆生の種々の類のうち、尊き阿難に勝るものはありません。 梵天が降下し、帝釈、護世の四王と諸天、 弥勒は兜術から尋ねて来集し、菩薩は数億にして計ることができません。 弥勒、梵天、帝釈および四王は、ことごとく合掌して申し上げます。 一切の諸法は仏の印せられたものです。阿難は私の法の器です。 もし法を存続させようと欲しないならば、それは如来の教えを壊敗することになります。 願わくは本要を存続させ、衆生のために、危厄を済い、衆難を度してください。 釈師は世に出られ、寿命は極めて短く、肉体は逝かれても法身は在ります。 まさに法の本を断絶させてはなりません。阿難よ、辞さずに時に説法してください。 迦葉最尊と聖衆、弥勒、梵天、帝釈および四王は、 哀れみ請うて阿難に時に発言させ、如来の教えを滅尽させないようにします。 阿難は仁和にして四等を具え、意を転じて微に入り、師子吼します。 四部を顧み、虚空を瞻み、悲しみ泣いて涙を揮い、自ら勝えません。 そこで光明と和やかな色を奮い、衆生を普く照らすこと初日のようです。 弥勒は光と釈梵を見て、遅く無上の法を聞くことを収め捨てます。 四部は寂静に一心に専念し、法を聞こうと欲して意は乱れません。 尊長なる迦葉と聖衆は、直ちに顔を視て目を瞬きません。 時に阿難は経の無量を説きます。誰がよく備え具して一聚とすることができるでしょうか。 私は今、まさに三分を作り、十経を造立して一偈とします。 契経は一分、律は二分、阿毘曇経はまた三分です。 過去の三仏も皆三分されました。契経・律・法が三蔵です。 契経は今、まさに四段に分けます。次を増一と名づけ、二を中と名づけ、 三を長と名づけて瓔珞を多くし、雑経は後に在って四分とします。 尊者阿難はこのように念じます。如来の法身は敗壊せず、 永遠に世に存して断絶せず、天人は聞いて道果を成じます。 あるいは一法あり、義もまた深く、持ち難く誦し難く憶い難い。 私は今、まさに一法の義を集め、一一相従って緒を失わないようにします。 また二法あれば還って二に就き、三法は三に就くこと連珠のようです。 四法は四に就き、五もまた然り、五法は次に六、六は次に七、 八法は義広く、九は次第し、十法は十から十一に至ります。 このように法宝は終に忘れず、また恒に世に処して久しく存在し、 大衆のうちでこの法を集めます。時に阿難はただちに座に昇ります。 弥勒は称えて善いかな、快いかなと説き、諸法の義は合して宜しく之に配します。 さらに諸法あり、宜しく分部すべきものがあります。世尊の説かれたことは各々異なります。 菩薩は意を発して大乗に趣き、如来はこの種々の別を説かれました。 人尊は六度無極を説かれました。布施・持戒・忍・精進、 禅・智慧の力は月初のようで、度無極に逮び諸法を観ます。 もろもろの勇猛にして頭目を施し、身体血肉を惜しまない者、 妻妾・国財および男女、これを檀度と名づけ、棄てるべきではありません。 戒度無極は金剛のようで、毀らず犯さず漏失がありません。 心を持して戒を護ること坏瓶のようで、これを戒度と名づけ、棄てるべきではありません。 あるいは人来たりて手足を截っても、瞋恚を起こさず忍力強く、 海が含容して増減がないようで、これを忍度と名づけ、棄てるべきではありません。 もろもろの善悪の行を造作し、身口意の三に厭足がない者、 人の諸行を妨げて道に至らせない、これを進度と名づけ、棄てるべきではありません。 もろもろの坐禅して出入息を観、心意堅固にして乱念がない者、 まさに地が動いても身は傾がず、これを禅度と名づけ、棄てるべきではありません。 智慧の力をもって塵数を知り、劫数兆載も称することができず、 書疏業聚に意乱れず、これを智度と名づけ、棄てるべきではありません。 諸法は甚深にして空理を論じ、明らかにし難く了し難く観じ難い。 将来の後進は狐疑を懐く、この菩薩の徳は棄てるべきではありません。 阿難は自ら陳べてこの念ありと言います。菩薩の行は愚かな者には信じません。 もろもろの羅漢が信じて解脱するを除いて、そこで乃ち信ありて猶豫がありません。 四部の衆は道意を発し、および一切の衆生の類、 彼らに牢信ありて狐疑がなければ、この諸法を集めて一分とします。 弥勒は称えて善いかな、快いかなと説き、大乗に発趣する意は甚だ広いのです。 あるいは諸法ありて結使を断じ、あるいは諸法ありて道果を成じます。 阿難は説いて言います。これはいかがでしょうか。私は如来がこの法を演説されるのを見ました。 また如来から聞かないものもあります。この法はまさに疑いがあるべきではないでしょうか。 もし私がこの義を見たと言うのが非であるなら、将来の衆に便ち虚があります。 今、諸経を称して聞くこと是のごとし。仏の処在された城国国土、 波羅捺国で初めて法を説き、摩竭国で三迦葉を降されました。 釈翅・拘薩・迦尸国、瞻波・句留・毘舎離。 天宮・龍宮・阿須倫、乾沓和など、拘尸城。 まさに経を説く処を得なくとも、まさに原本を称して舎衛に在りとすべきです。 私が聞いたところの一時の事は、仏は舎衛に在して弟子とともにあり、 祇桓精舎で善業を修し、孤独長者の施した園でした。 時に仏はその中で比丘に告げられました。まさに一法を修して一心に専念し、 一法を思惟して放逸なることなかれと。 いかがなるが一法でしょうか。いわゆる念仏、 法念・僧念および戒念、施念は相を去り次に天念、 息念・安般および身念、死念は乱を除く、これを十念と謂います。 これを十念と名づけ、さらに十があります。次に後で尊き弟子を称えます。 初めに拘隣を化して真の仏子とし、最後の小なる者は須抜と名づけます。 この方便をもって一法を了し、二は二法に従い、三は三に従い、 四・五・六・七・八・九・十、十一の法は了せざるはありません。 一から一を増して諸法に至るまで、義は豊かにして慧は広く尽くすことはできません。 一一の契経の義もまた深い。それゆえに名づけて増壱含と曰います。 今、一法を尋ぬるに明了し難く、持ち難く暁し難く明らかにし難い。 比丘は自ら功徳の業を称します。今、まさにこれを称して尊第一とします。 ちょうど陶家の造る器が、意のままに作られて狐疑がないようなものです。 このように阿含の増一の法は、三乗の教化に差別がありません。 仏経は微妙にして極めて甚深で、よく結使を除くこと流れる河のようです。 しかるにこの増一は最も上に在り、よく三眼を浄め三垢を除きます。 その専心に増一を持つ者あれば、便ち総持如来蔵となります。 まさに今身に結を尽くさなくとも、後生に便ち高き才智を得ます。 もし経巻を書写する者あれば、繒綵・花蓋を持って供養し、 この福は無量にして計ることができません。この法宝は遇い難いがゆえです。 この語を説く時に地は大いに動き、天は花香を雨ふらし膝に至りました。 諸天は空に在って善いかなと歎じます。上尊の説かれたことはことごとく宜に順じています。 契経は一蔵、律は二蔵、阿毘曇経は三蔵とします。 方等大乗の義は玄邃にして、および諸契経は雑蔵とします。 仏語を安処すること終に異ならず、因縁本末は皆順じます。 弥勒と諸天は皆善いかなと称え、釈迦文の経は久しく存することを得ます。 弥勒は尋いで起ち手に華を執り、歓喜して持ちて用いて阿難に散じます。 この経は真実に如来の説かれたもので、阿難に道果を尋いで成ぜしめます。
是時,尊者阿難及梵天將諸梵迦夷天,皆來會集;化自在天將諸營從,皆來會聚;他化自在天將諸營從,皆悉來會;兜術天王將諸天之眾,皆來會聚;豔天將諸營從,悉來會聚;釋提桓因將諸三十三天眾,悉來集會;提頭賴吒天王將乾沓和等,悉來會聚;毘留勒叉天王將諸厭鬼,悉來會聚;毘留跛叉天王將諸龍眾,悉來會聚;毘沙門天王將閱叉、羅剎眾,悉來會聚。
そのとき、尊者阿難と梵天は、諸々の梵迦夷天を率いて、みな集まってきました。化自在天は諸々の従者を率いて、みな集まってきました。他化自在天も諸々の従者を率いて、みな集まってきました。兜術天王は諸々の天の衆を率いて、みな集まってきました。豔天は諸々の従者を率いて、みな集まってきました。釈提桓因は諸々の三十三天の衆を率いて、みな集まってきました。提頭頼吒天王は乾沓和などを率いて、みな集まってきました。毘留勒叉天王は諸々の厭鬼を率いて、みな集まってきました。毘留跛叉天王は諸々の龍の衆を率いて、みな集まってきました。毘沙門天王は閲叉・羅刹の衆を率いて、みな集まってきました。
是時,彌勒大士告賢劫中諸菩薩等:「卿等勸勵諸族姓子、族姓女,諷誦受持增一尊法,廣演流布,使天、人奉行。」
そこで弥勒大士は、賢劫の諸菩薩たちに告げました。「あなたがたは、諸々の族姓子・族姓女を勧め励まして、増一の尊法を諷誦し受持させ、広く演説して流布し、天と人とに奉行させなさい。」
說是語時,諸天、世人、乾沓和、阿須倫、伽留羅、摩睺勒、甄陀羅等,各各白言:「我等盡共擁護是善男子、善女人,諷誦受持增一尊法,廣演流布,終不中絕。」
この言葉が説かれると、諸天・世人・乾沓和・阿須倫・伽留羅・摩睺勒・甄陀羅などは、それぞれこう申し上げました。「私たちは皆でこの善男子・善女人を擁護し、増一の尊法を諷誦し受持して、広く演説し流布し、決して途中で絶やすことはいたしません。」
時,尊者阿難告優多羅曰:「我今以此增一阿含囑累於汝,善諷誦讀,莫令漏減,所以者何?其有輕慢此尊經者,便為墮落為凡夫行。何以故?此,優多羅,增一阿含,出三十七道品之教,及諸法皆由此生。」
そこで、尊者阿難は優多羅に告げました。「私は今、この増一阿含をそなたに委ねます。よく諷誦し読誦して、決して漏れ減ずることのないようにしなさい。なぜでしょうか。この尊い経を軽んじ慢る者があれば、その者は堕落して凡夫の行いとなるからです。なぜでしょうか。優多羅よ、この増一阿含は三十七道品の教えを説き出し、もろもろの法はみなこれによって生じるからです。」
時,大迦葉問阿難曰:「云何,阿難!增一阿含乃能出生三十七道品之教,及諸法皆由此生?」
そこで、大迦葉が阿難に問いました。「阿難よ、どうでしょうか。増一阿含は三十七道品の教えを生み出すことができ、もろもろの法もみなこれによって生じるのでしょうか。」
阿難報言:「如是,如是,尊者迦葉!增一阿含出生三十七品,及諸法皆由此生;且置增一阿含,一偈之中,便出生三十七品及諸法。」
阿難はお答えしました。「その通りです、その通りです、尊者迦葉よ。増一阿含は三十七品を生み出し、もろもろの法もみなこれによって生じます。まして増一阿含を措くとしても、一偈の中に、すでに三十七品ともろもろの法が生じるのです。」
迦葉問言:「何等偈中出生三十七品及諸法?」
迦葉が問いました。「どのような偈の中から、三十七品やもろもろの法が生じるのでしょうか。」
時,尊者阿難便說此偈:
そこで、尊者阿難はこの偈を説きました。
「諸惡莫作, 諸善奉行, 自淨其意,
是諸佛教。
「すべての悪を行わず、すべての善を実践し、自らの心を清らかにする。これが諸仏の教えです。
「所以然者,諸惡莫作,是諸法本,便出生一切善法;以生善法,心意清淨。是故,迦葉!諸佛世尊身、口、意行,常修清淨。」
その理由はこうです。もろもろの悪を行わないことは、もろもろの法の根本であり、そこからすべての善い法が生まれます。善い法が生まれると、心と意識が清らかになります。ですから迦葉よ、諸仏世尊の身と口と意の行いは、常に清らかに修められているのです。
迦葉問曰:「云何,阿難!增壹阿含獨出生三十七品及諸法,餘四阿含亦復出生乎?」
迦葉が問いました。「阿難よ、どうでしょうか。『増壹阿含』だけが三十七品や諸々の法を生み出すのでしょうか、それとも残りの四つの阿含もまた生み出すのでしょうか。」
阿難報言:「且置。迦葉!四阿含義,一偈之中,盡具足諸佛之教,及辟支佛、聲聞之教。所以然者,諸惡莫作,戒具之禁;清白之行,諸善奉行;心意清淨,自淨其意;除邪顛倒,是諸佛教,去愚惑想。云何,迦葉!戒清淨者,意豈不淨乎?意清淨者,則不顛倒;以無顛倒,愚惑想滅,諸三十七道品果便得成就。以成道果,豈非諸法乎?」
阿難が答えました。「ちょっと待ってください、迦葉よ。四阿含の意味は、一つの偈の中に、諸仏の教え、そして辟支仏と声聞の教えまでもがすべて具わっています。なぜそうかといいますと、『諸悪莫作』は戒を具える禁であり、『清白之行』は諸善を奉行することであり、『心意清浄』は自らその意を浄めることであり、『除邪顛倒』はこれ諸仏の教えであり、愚かな惑いの想いを取り除くことです。いかがでしょうか、迦葉よ。戒が清浄な者なら、その意は清らかではないでしょうか。意が清浄な者は顛倒することがありません。顛倒がないので、愚かな惑いの想いは滅し、三十七道品の果が成就するのです。道果を成し遂げることは、まさに諸法ではないでしょうか。」
迦葉問曰:「云何,阿難!以此增一付授優多羅,不囑累餘比丘一切諸法乎?」
迦葉が問いました。「どうですか、阿難よ。この増一を優多羅に付授して、他の比丘たちに一切の諸法を嘱累なさらなかったのですか。」
阿難報言:「增一阿含則是諸法,諸法則是增一阿含,一無有二。」
阿難は次のように答えました。「増一阿含はすなわち諸法であり、諸法はすなわち増一阿含です。一つであって二つはありません。」
迦葉問曰:「以何等故,以此增一阿含囑累優多羅,不囑累餘比丘乎?」
迦葉が問いました。「どのような理由で、この増一阿含を優多羅に付嘱され、他の比丘たちには付嘱されなかったのでしょうか。」
阿難報曰:「迦葉當知,昔者九十一劫,毘婆尸如來、至真、等正覺出現於世。爾時,此優多羅比丘名曰伊俱優多羅,爾時彼佛以增一之法囑累此人,使諷誦讀。自此以後三十一劫,次復有佛名式詰如來、至真、等正覺。爾時,此優多羅比丘名目伽優多羅。式詰如來復以此法囑累其人,使諷誦讀。即彼三十一劫中,毘舍婆如來、至真、等正覺,復出於世。爾時,此優多羅比丘名龍優多羅,復以此法囑累其人,使諷誦讀。
阿難が申し上げました。「迦葉よ、知っておきなさい。昔、九十一劫の昔に、毘婆尸如来・至真・等正覚が世に出現されました。そのとき、この優多羅という比丘は伊倶優多羅という名でした。そのとき、あの仏は増一の法をこの人に付嘱して、諷誦し読ませました。それから三十一劫ののち、次に式詰如来・至真・等正覚という仏が現れました。そのとき、この優多羅という比丘は目伽優多羅という名でした。式詰如来もまたこの法をその人に付嘱して、諷誦し読ませました。まさにその三十一劫のうちに、毘舎婆如来・至真・等正覚が再び世に出現されました。そのとき、この優多羅という比丘は龍優多羅という名で、またこの法をその人に付嘱して、諷誦し読ませました。
「迦葉當知,此賢劫中有拘留孫如來、至真、等正覺,出現於世。爾時,優多羅比丘名雷電優多羅,復以此法囑累其人,使諷誦讀。此賢劫中次復有佛,名拘那含如來、至真、等正覺,出現於世。爾時,優多羅比丘名天優多羅,復以此法囑累其人,使諷誦讀。此賢劫中次復有佛,名迦葉如來、至真、等正覺,出現於世。爾時,優多羅比丘名梵優多羅,復以此法囑累其人,使諷誦讀。
迦葉よ、知るがよい。この賢劫には拘留孫如来・至真・等正覚が出現されました。そのとき、優多羅という比丘は雷電優多羅という名で、またこの法をその人に付嘱して、諷誦し読ませました。この賢劫に次いでまた拘那含如来・至真・等正覚という仏が出現されました。そのとき、優多羅という比丘は天優多羅という名で、またこの法をその人に付嘱して、諷誦し読ませました。この賢劫に次いでまた迦葉如来・至真・等正覚という仏が出現されました。そのとき、優多羅という比丘は梵優多羅という名で、またこの法をその人に付嘱して、諷誦し読ませました。
「迦葉當知,今釋迦文如來、至真、等正覺,出現於世。今此比丘名優多羅,釋迦文佛雖般涅槃,比丘阿難猶存於世。世尊以法盡以囑累我,我今復以此法授與優多羅。所以者何?當觀其器,察知原本,然後授法。何以故?過去時於此賢劫中,拘留孫如來、至真、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師,號佛、眾祐,出現於世。爾時,有王名摩訶提婆,以法治化,未曾阿曲,壽命極長,端正無雙,世之希有,八萬四千歲中於童子身而自遊戲,八萬四千歲中以太子身以法治化,八萬四千歲中復以王法治化天下。
「迦葉よ、よく知りなさい。今、釈迦文如来・至真・等正覚が世に出現されています。今、この比丘は優多羅と名づけます。釈迦文仏はすでに般涅槃されましたが、比丘の阿難はなお世に存しています。世尊は法をもってことごとく私に付嘱され、私は今またこの法を優多羅に授けます。なぜでしょうか。その器をよく観察し、もとの資質を見きわめてから、法を授けるべきだからです。なぜでしょうか。過去のとき、この賢劫の中に、拘留孫如来・至真・等正覚・明行足・善逝・世間解・無上士・道法御・天人師、号して仏・衆祐が世に出現されました。そのとき、摩訶提婆という王がいて、法をもって治め教化し、かつて曲がったことはなく、寿命はきわめて長く、端正で並ぶものがなく、世にもまれな存在でした。八万四千歳の間は童子の身で自ら遊戯し、八万四千歳の間は太子の身で法をもって治め教化し、八万四千歳の間はまた王として天下を治め教化しました。
「迦葉當知,爾時世尊遊甘梨園中,食後如昔常法中庭經行,我及侍者,爾時世尊便笑,口出五色光。我見已,前長跪白世尊曰:『佛不妄笑,願聞本末。如來、至真、等正覺,終不妄笑。』爾時,迦葉!佛告我言:『過去世時於此賢劫中,有如來名拘留孫至真、等正覺,出現於世,復於此處為諸弟子而廣說法。復次,於此賢劫中,復有拘那含如來、至真、等正覺,出現於世,爾時彼佛亦於此處而廣說法。次復,此賢劫中迦葉如來、至真、等正覺,出現於世,迦葉如來亦於此處而廣說法。』
「迦葉よ、よく知るがよい。そのとき、世尊は甘梨園の中を遊行され、食後に昔からの常法に従って中庭を経行されました。私と侍者がその場にいたところ、世尊がほほえまれ、口から五色の光を放たれました。私はこれを見て、進み出て長跪し、世尊に申し上げました。『仏はむやみにほほえまれることはありません。どうかその本末を聞かせてください。如来・至真・等正覚は、決してむやみにほほえまれることはありません。』
そのとき、迦葉よ、仏は私に告げられました。『過去の世、この賢劫の中に、拘留孫という如来・至真・等正覚が世に出現され、またこの場所で弟子たちのために広く法を説かれました。さらに、この賢劫の中に、拘那含如来・至真・等正覚が世に出現され、そのとき彼の仏もまたこの場所で広く法を説かれました。次にまた、この賢劫の中に迦葉如来・至真・等正覚が世に出現され、迦葉如来もまたこの場所で広く法を説かれました。』」
「爾時,迦葉!我於佛前長跪白佛言:『願令後釋迦文佛亦於此處,與諸弟子具足說法,此處便為四如來金剛之座,恒不斷絕。』
そこで、迦葉よ、私は仏の前で長くひざまずき、仏に申し上げました。『どうか後の釈迦文仏もまたこの場所で、弟子たちとともに十分に法を説いてくださいますように。この場所がそのまま四如来の金剛の座となり、とこしえに絶えることがありませんように。』
「爾時,迦葉!釋迦文佛於彼坐,便告我言:『阿難!昔者此坐,賢劫之中有王出世,名摩訶提婆。乃至八萬四千歲以王法教化,訓之以德,經歷年歲,便告劫比言:「若見我首有白髮者,便時告吾。」爾時,彼人聞王教令,復經數年,見王首上有白髮生,便前長跪白大王曰:「大王當知,首上已生白髮。」時王告彼人言:「捉取金鑷,拔吾白髮,著吾手中。」爾時,彼人受王教令,便執金鑷,前拔白髮。
そのとき、迦葉よ。釈迦文仏はその座におられて、私にこう告げられました。『阿難よ、昔、この座において、賢劫の中に一人の王が世に現れ、摩訶提婆と名づけられました。八万四千歳に至るまで王の法をもって教化し、徳をもって導いて、長い年月を経たのち、劫比という者にこう告げました。「私の頭に白髪が生じるのを見たら、そのとき私に告げなさい。」そこで、その人は王の教えを聞き、さらに数年を経て、王の頭に白髪が生じたのを見ると、進み出て長跪し、大王にこう申し上げました。「大王よ、ご承知ください。頭にすでに白髪が生じました。」そのとき王はその人に告げました。「金の鑷を取って私の白髪を抜き、私の手に置きなさい。」そこで、その人は王の教えを受けて、金の鑷を執り、進み出て白髪を抜きました。
「『爾時,大王見白髮已,便說此偈:
そのとき、大王は白髪をご覧になると、次の偈を説かれました。
「『「於今我首上, 已生衰耗毛;
天使已來至, 宜當時出家。
そのとき、大王は白髪をご覧になると、次の偈を説かれました。
「今、私の頭の上には、 すでに衰えの毛が生じています。 天使がすでにやって来たのですから、 今こそ出家する時です。
「『「我今已食人中之福,宜當自勉昇天之德,剃除鬚髮,著三法衣,以信堅固,出家學道,離於眾苦。」
「私は今、人中の福をすでに受けたので、むしろ自ら努めて天に昇る徳を修め、鬚髪を剃り、三法衣を着て、信を堅固にして出家し道を学び、もろもろの苦を離れるべきです。」
「『爾時,王摩訶提婆便告第一太子,名曰長壽:「卿今知不?吾首已生白髮,意欲剃除鬚髮,著三法衣,以信堅固,出家學道,離於眾苦。汝紹吾位,以法治化,勿令有失,違吾言教,造凡夫行。所以然者,若有斯人,違吾言者,便為凡夫之行。凡夫者,長處三塗、八難之中。」爾時,王摩訶提婆以王之位授太子已,復以財寶賜與劫比,便於彼處剃除鬚髮,著三法衣,以信堅固,出家學道,離於眾苦。於八萬四千歲善修梵行,行四等心,慈、悲、喜、護,身逝命終,生梵天上。
そのとき、王の摩訶提婆は第一の太子で長寿という名の者に告げました。「そなたは今、知っているか。私の頭にはすでに白髪が生じた。鬚髪を剃り、三法衣を着て、信を堅固にして出家し道を学び、もろもろの苦を離れたいと思う。そなたは私の位を継ぎ、法をもって治め教化し、過ちを生じさせてはならない。私の言葉の教えに背き、凡夫の行いを造ってはならない。なぜなら、もしそのような者がいて私の言葉に背くなら、それは凡夫の行いとなるからだ。凡夫は、長く三塗・八難の中に留まるのである。」
そのとき、王の摩訶提婆は王の位を太子に授け終えると、さらに財宝を劫比に賜り、そこで鬚髪を剃り、三法衣を着て、信を堅固にして出家し道を学び、もろもろの苦を離れました。八万四千歳の間、よく梵行を修め、四等心、すなわち慈・悲・喜・護を行い、身は逝き命は終わって、梵天の上に生まれました。
「『時,長壽王憶父王教,未曾暫捨。以法治化,無有阿曲,未經旬日,便復得作轉輪聖王,七寶具足。所謂七寶者,輪寶、象寶、馬寶、珠寶、玉女寶、典藏寶、典兵寶,是謂七寶。復有千子,勇猛智慧,能除眾苦,統領四方。
そのとき、長寿王は父王の教えを心に刻み、片ときも忘れませんでした。法によって国を治め、曲がったことはせず、十日も経たないうちに、再び転輪聖王となることができ、七宝をすべて備えました。七宝とは、輪宝、象宝、馬宝、珠宝、玉女宝、典蔵宝、典兵宝であり、これが七宝です。また千人の子らがいて、勇猛で智慧があり、もろもろの苦を取り除き、四方を統領しました。
「『時,長壽王以前王法,如上作偈:
時に、長寿王は、先王の法に従って、次のように偈を唱えました。
「『「敬法奉所尊, 不忘本恩報;
復能崇三業, 智者之所貴!」』
「法を敬い、尊ぶべき方々に仕え、本来の恩を忘れずに報います。 さらに三業を尊ぶことができる——これこそ智者が貴ぶところです」
「我觀此義已,以此增一阿含授與優多羅比丘。何以故?一切諸法皆有所由。」
「私はこの義を観察し終えて、この『増一阿含』を優多羅比丘にお授けしました。なぜでしょうか。すべての諸法には、それぞれの由来があるからです。」
時,尊者阿難告優多羅曰:「汝前作轉輪聖王時,不失王教,今復以此法而相囑累,不失正教,莫作凡夫之行。汝今當知,若有違失如來善教者,便墮凡夫地中。何以故?時,王摩訶提婆不得至竟解脫之地,未得解脫至安隱處;雖受梵天福報,猶不至究竟;如來善業,乃名究竟安隱之處,快樂無極,天、人所敬,必得涅槃。以是之故,優多羅!當奉持此法,諷誦讀念:莫令缺漏。」
そこで、尊者阿難は優多羅に告げました。「そなたは以前、転輪聖王であったとき、王の教えを失いませんでした。今また、この法をもってそなたに嘱累します。正しい教えを失わず、凡夫の行いをしてはなりません。そなたは今、知るべきです。もし如来の善き教えに違背し失うことがあれば、その人は凡夫の地に堕ちます。なぜでしょうか。そのとき、王モークハーデーヴァ(摩訶提婆)は、ついに解脱の地に至ることができず、まだ解脱して安隠の処を得ていませんでした。梵天の福報を受けていても、なお究竟に至りませんでした。如来の善業こそが、究竟の安隠の処、無極の楽しみ、天と人に敬われるものと呼ばれ、必ず涅槃を得るのです。このようなわけですから、優多羅よ、この法を奉持し、諷誦し読念して、欠け漏れることのないようにしなさい。」
爾時,阿難便說偈曰:
そこで、阿難はすぐに偈を説きました。
「於法當念故, 如來由是生;
法興成正覺, 辟支羅漢道。
法能除眾苦, 亦能成果實;
念法不離心, 今報後亦受。
若欲成佛者, 猶如釋迦文;
受持三藏法, 句逗不錯亂。
三藏雖難持, 義理不可窮;
當誦四阿含, 便斷天人徑。
阿含雖難誦, 經義不可盡;
戒律勿令失, 此是如來寶。
禁律亦難持, 阿含亦復然;
牢持阿毘曇, 便降外道術。
宣暢阿毘曇, 其義亦難持;
當誦三阿含, 不失經句逗。
契經阿毘曇, 戒律流布世;
天人得奉行, 便生安隱處。
設無契經法, 亦復無戒律;
如盲投於冥, 何時當見明?
以是囑累汝, 并及四部眾,
當持勿輕慢, 於釋迦文尼!」
法を心に念じるべきです。如来はこれによって生まれます。 法によって正覚を成し、辟支と羅漢の道も開かれます。 法はもろもろの苦しみを取り除き、果実を結ばせることができます。 法を念じて心から離さなければ、今も報いを受け、後にもまた受けます。 もし仏になろうと願うなら、釈迦文のように、 三蔵の法を受持し、句読を乱さないことです。 三蔵は持つのが難しいといっても、その義理は窮め尽くせません。 四阿含を誦すべきです。そうすれば天や人へと至る道が断たれます。 阿含は誦しにくいといっても、その経の義は尽くすことができません。 戒律を失わせてはなりません。これは如来の宝です。 禁律もまた持つのが難しく、阿含も同じです。 阿毘曇をしっかりと保てば、外道の術を降伏させます。 阿毘曇を宣べ広めても、その義を持ち続けるのは難しいものです。 三阿含を誦し、経の句読を失わないようにしなさい。 契経と阿毘曇、戒律が世に流布すれば、 天や人はこれを受けて行い、安隠なところに生まれます。 もし契経の法がなく、また戒律もなければ、 盲人が暗闇に投げ込まれたようなもので、いつ明るさを見ることができるでしょうか。 こうしたわけで、あなたに、そして四部衆にも嘱累します。 軽んじることなく持ち続けなさい。釈迦文尼の教えを。
尊者阿難說是語時,天地六反震動,諸尊神天在虛空中,手執天華而散尊者阿難上,及散四部之眾。一切天、龍、鬼神、乾沓和、阿須倫、加留羅、甄陀羅、摩休勒等,皆懷歡喜而悉歎曰:「善哉!善哉!尊者阿難!上中下言,悉無不善,於法當恭敬。誠如所說,諸天、世人無不從法而得成就。若有行惡,便墮地獄、餓鬼、畜生。」
尊者阿難がこの言葉を説いたとき、天地は六たび震動しました。虚空の中にいた諸々の尊い神々は、手に天の華を持って尊者阿難の上に散らし、また四部の衆の上にも散らしました。一切の天・龍・鬼神・乾沓和・阿須倫・加留羅・甄陀羅・摩休勒などは、みな歓喜の心を抱いて、そろって嘆じました。「善いかな、善いかな、尊者阿難よ。上・中・下の言葉は、ことごとく不善ということがありません。法に対しては恭敬すべきです。まさに説かれた通りであり、諸天も世人も、法によらなければ成就を得ることはできません。もし悪を行うならば、地獄・餓鬼・畜生に堕ちるのです。」
爾時,尊者阿難於四部眾中而師子吼,勸一切人,奉行此法。爾時,座上三萬天、人得法眼淨。爾時,四部之眾、諸天、世人,聞尊者所說,歡喜奉行。
そのとき、尊者阿難は四部の衆のうちで師子吼して、すべての人にこの法を奉行するよう勧めました。そのとき、座にいた三万の天と人は法眼浄を得ました。そのとき、四部の衆、諸天、世人は、尊者が説いたことを聞いて、歓喜して奉行しました。