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  1. 肇論略註 (肇論略註)
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  4. 問答決疑 (問答決疑)
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肇論略註 (肇論略注)


難曰(一有知不矜難。由前云智有窮幽之鑒而無知焉,神有應會之用而無慮焉,故躡此二句以興難。意謂既有知有會,豈可言無知無會也。但聖人有知而不矜耳):夫聖人真心獨朗,物物斯照;應接無方,動與事會。物物斯照,故知無所遺(萬境齊觀);動與事會,故會不失機(有感即赴。上領旨也,下敘計)。會不失機,故必有會於可會(謂必定有機可會);知無所遺,故必有知於可知(謂必有能知之心,知於可知之境)。必有知於可知,故聖不虗知;必有會於可會,故聖不虗會(謂既有知有會,必有可知可會之境。此則知不虗知、會非虗會矣。下正難)。既知既會,而曰無知無會者,何耶(此正申難也。既有知有會,而曰無者,豈不謬耶?下敘救)?若夫忘知遺會者,則是聖人無私於知會,以成其私耳(此敘救也。謂若以忘知遺會為救者,則是聖人雖有知會,而不自矜恃為己能,返以成其知會之名耳。無私成私,語出《老子》「後其身而身先,外其身而身存。」不自貴愛其身而身返存。謂聖人但以不矜其知會為己私,故人以知會歸之,其實非無知會也)。斯可謂不自有其知,安得無知哉(此轉破也。謂如所救云:聖人不矜恃知會為己長,斯可謂不自有其知,豈得謂無知哉?○下約知無知相答)?答曰(約真諦可亡而知以答。先立理):夫聖人功高二儀(仁也)而不仁(大仁不仁),明逾日月而彌昏(功高,謂權智應物。明逾等,謂實智證真。無為而應,故不仁。不慮而知,故彌昏),豈曰木石瞽其懷?其於無知而已哉(此揀異無情也。若謂無知,不同於木石)。誠以異於人者神明,故不可以事相求之耳(此揀異有情也。若謂有知,不同凡夫)。子意欲令聖人不自(矜恃)有其知,而聖人未嘗不有知(此牒審難意。若以此為得者),無乃乖於聖心、失於文旨者乎(總責不但不知聖心,抑且失於文旨)?何者(徵釋通難)?經云:「真般若者,清淨如虗空,無知無見、無作無緣。」斯則知自無知矣,豈待返照(絕無)然後無知哉(此引經證成般若但無惑取之知,非絕無真知也。義引《大品》等文。言真般若者,意在離妄。以體絕纖塵,故清淨如空;以無惑取,故無知無見;以非有為,故無作無緣。以此而觀,則般若真知獨照,知自無知耳。豈待泯絕靈明,然後為無知哉)?若有知性空而稱淨者(此牒轉救也。謂若以般若實實有知,但以性空而稱淨者),則不辨於惑智(此返責也。謂若以般若性空為淨者,則不辨於惑智。以煩惱亦性空,豈稱般若哉),三毒四倒亦皆清淨,有何獨尊於般若(若謂般若以性空為清淨者,則三毒四倒亦皆性空,如此則真妄不分,有何獨尊於般若哉)?若以所知(真諦)美般若(此敘轉救也。謂若以所知之真諦清淨,以此美般若為清淨者),所知(真諦)非般若(真諦為所觀之境,般若為能觀之心。心境不一,故非般若),所知自常淨,故般若未嘗淨(謂若以真諦清淨美般若者,然在真諦體固常淨。今為所觀,則對待未忘,是般若未嘗淨,則是真諦返累於般若),亦無緣(因也)致淨歎於般若(若真諦有累於般若,則亦無因以淨致歎於般若。下正釋)。然經云「般若清淨」者,將無(豈非)以般若體性真淨,本無惑取之知。本無惑取之知,不可以知名哉(此正釋經義也。經云般若清淨者,豈非以般若性淨,本無惑取之知。既無惑取之知,是不可以真知名哉。但無妄知,非無真知也。如此)?豈唯無知名無知,知自無知矣(何獨以絕然無知為無知?良以真知自無妄知耳)。是以聖人以無知之般若,照彼無相之真諦。真諦無兔馬之遺,般若無不窮之鑒,所以會而不差、當而無是,寂怕無知而無不知者矣。

問いかけていうには、「智には窮幽の鑑あり而して知なし、神には応会の用あり而して慮なし」と先に述べたので、この二句に基づいて疑問を提起する。意は、すでに知と会があるならば、どうして知も会もなしと言えるだろうか。ただ聖人は知がありながらも誇らないだけだ、と。すなわち、聖人の真心はひとり明らかに照らし、すべての物をことごとく照らす。応接は方なく、動けば事に会する。物物を照らすゆえに、知は遺すところなし。動けば事に会するゆえに、会は機を失わず。会が機を失わないゆえに、必ず会すべきところに会することがある。知が遺すところなきゆえに、必ず知るべきところに知ることがある。必ず知るべきところに知るゆえに、聖人は虚しく知ることなし。必ず会すべきところに会するゆえに、聖人は虚しく会することなし。すでに知し会すといいながら、『知なし会なし』というのは、どういうわけか。もし知を忘れ会を遺すというならば、これは聖人が知会について私せずして、かえってその私を成すだけのことだ。これは「知会を誇らないことで、かえって知会の名声を成す」という意味である。これをもって「自分の知を有るものとしない」とは言えようが、どうして『知なし』と言えようか。

答えて言う。聖人の功は二儀より高くして仁ならず、明は日月に逾えてなお昏し。どうして木石のようにその心を盲目にすると言えようか。彼の無知はそれだけのことではないのだ。誠に異なるのは、人に勝れて神明なるがゆえに、事相をもって求めるべきではないのである。あなたの意図は聖人に自分の知を誇らせないようにさせようとするものだが、聖人はかつて知がなかったわけではない。これは聖心に背き、文旨を失うことではないか。なぜか。経に「真般若は清浄なること虚空のごとく、知なく見なく、作なく縁なし」という。これはすなわち知が自ら無知なのであって、どうして返照してその後無知となるのを待とうか。もし知の性が空なるをもって浄と称するならば、惑と智とを弁別しないことになり、三毒四倒もみな清浄となって、般若に何の独尊があろうか。もし所知の真諦をもって般若を美とするならば、所知の真諦は般若にあらず。所知は自ずから常に浄であるがゆえに、般若は未だかつて浄ならず、また般若に浄の歎を致すべき縁もない。しかし経に「般若清浄」というのは、般若の体性が真に浄で、もとより惑取の知がないことをもってではなかろうか。もとより惑取の知がなければ、もって知の名をもってすべきではない。どうしてただ知を絶つのみをもって無知としようか、知は自ら無知なのである。かくのごとく、聖人は無知の般若をもって、無相の真諦を照らす。真諦には兔馬の遺すところなく、般若には窮めざる鑑なし。ゆえに会しては差わず、当たっては是とするところなく、寂怕として知なしといえども、知らざるはなし。

此結答問意也。謂能觀之智無知、所觀之理無相,以無知之智、照無相之理,故心境如如,一道齊平,所以理絕三乘之跡。兔馬,三乘淺深之喻也,而般若照徹無餘,故無不窮之鑒。如此,所以權智應會羣機而不差,觸事當理而無是。實智則寂然不動,怕然無為,故無知而無不知矣。聖智如此,豈以不矜其知為無知,又豈絕然無知為無知哉?

これは、質問への答えの意図を結びつけたものである。すなわち、観察する智慧は「知る」という概念を超えており、観察される道理も「形」を超えている。この「知る」ことを超えた智慧をもって、形なき道理を照らし出すのである。ゆえに、心と対象は一体となり、一本の道として平らかに等しい。それゆえ、その道理は三乗(声聞・縁覚・菩薩)の悟りの段階を超えているのである。「兎と馬」のたとえは、三乗の悟りの浅い深いを表しているが、般若の智慧はすべてを照らし尽くし、余すところがない。したがって、見通せないものは何もないのである。このようにして、方便の智慧はあらゆる人々の機根に応じて、少しの狂いもなく対処し、すべての事柄に触れて道理に適い、誤ることがない。一方、真実の智慧は静かに動かず、安らかで作為がない。それゆえ、「知る」ことを超えているが、知らないことは何もないのである。聖者の智慧がこのようであるならば、どうして知識をひけらかさないことをもって「無知」としたり、あるいはまったく無知であることをもって「無知」とするのであろうか。

難曰(此二名互違難。問家約俗諦以名求實,以難名實相違。下約二名順成以答):夫物無以自通,故立名以通物(物本非名,因名以達物)。物雖非名,果有可名之物當於此名矣(名不虗召,必有物以當之。如呼甲乙,則有人以應之)。是以即名求物,物不能隱(此立理也。以俗諦有名必有物,設難。般若既有其實,而今云無知者,是空有其名而無實也。次申難),而論云「聖心無知」,又云「無所不知」(此出互違),意謂無知未嘗知、知未嘗無知,斯則名教之所通,立言之本意也(難者意若言無知,則未嘗有知;若言有知,則未嘗無知。此是名教立言之旨也)。然論者欲一於聖心、異於文旨,尋文求實,未見其當(此正相違也。若聖心是一,則不應名異)。何者?若知得於聖心,無知無所辨。若無知得於聖心,知亦無所辨。若二都無得,無所復論哉(此徵難聖心定應居一也。謂知契於聖心,則不必言無。若無知契於聖心,則不必言有。若有無俱不契,則無復置論矣。今言知而無知,二語相違,豈正論哉)。答曰(二名順成答。約真諦無相,故知不可以名求。以破):經云:「般若義者,無名無說,非有非無、非實非虗,虗不失照、照不失虗,斯則無名之法,故非言所能言也(此引經立理以遮難也。然難者以名求實,故責有無互違。今引經義,謂般若無名,故不可以實求;無說,故不可以言得。以有無虗實一切皆非,但以體虗而不失照用,雖照應萬有而不離真際。此無名之法,固不可以言傳也)。」言雖不能言,然非言無以傳,是以聖人終日言而未嘗言也。今試為子狂言辨之(道本無言,非言不顯。聖人處絕言之道,故終日言而未嘗言。今試狂言以辨之,蓋言其無言也)。夫聖心者(下正答。初顯聖心有無雙絕以遣名),微妙無相,不可為有(聖心實智離相,不比俗諦可以名求);用之彌勤,不可為無(權智應用,會不失宜,不比外道斷滅)。不可為無,故聖智存焉(靈知獨照);不可為有,故名教絕焉(但以虗而照物,雖大用昭昭,而言詮不及、名言路絕)。是以言知不為知,欲以通其鑒(以虗而照,所以言知,不是真箇有知,但假知字以通曉其鑒照之用耳);不知非不知,欲以辨其相(言不知,不是絕然無知,但以無字以辨無惑取之知相耳)。辨相不為無(但無妄知之相,不是絕無真知)、通鑒不為有(但以虗而照物,故非有知之可取)。非有,故知而無知(以真照體虗,故雖知而無知);非無,故無知而知(言非無者,以無妄知,故真知彌照)。是以知即無知、無知即知,無以言異而異於聖心也(良以聖心,真窮惑盡、真知獨照,不墮有無,豈可以遮遣之寄言而異於聖心哉)。

難じて曰く、そもそも物はそれ自体では自らを通じえない。故に名を立てて物を通じるのである。物はもとより名ではないが、果たしてこの名に当たる名づけうる物がある。ここをもって名によって物を求めれば、物は隠しおおせない。しかるに論に「聖心は知なし」といい、また「知らざるところなし」という。意は、無知とはかつて知るということではなく、知とはかつて無知ということではない、と。これはすなわち名教の通ずるところであり、立言の本意である。しかし論者は聖心を一つにしようとして、文の旨と異ならしめる。文を尋ねて実を求めれば、その当たるを見ない。何となれば、もし知が聖心に得られれば、無知は辨ずるところなし。もし無知が聖心に得られれば、知もまた辨ずるところなし。もし二つともに得るところがなければ、さらに論ずることがないであろう。

答えて曰く、経に云わく、「般若の義は、名なく説なく、非有非無、非実非虚、虚は照を失わず、照は虚を失わず。これすなわち無名の法なるが故に、言をもって言うべきにあらず」と。言はもとより言う能わざれども、言にあらずんば伝うることなし。ここをもって聖人は終日言いて、かつて言わず。いま試みに子のため狂言もってこれを辨ぜん。あの聖心は、微妙にして相なく、もって有とすべからず。用いること弥よ勤しくして、もって無とすべからず。もって無とすべからざるが故に、聖智は存す。もって有とすべからざるが故に、名教は絶ゆ。ここをもって言いて知とすれば知にあらず、その鑑を疎通せんと欲するのみ。知らずといえば知らざるにあらず、その相を辨ぜんと欲するのみ。相を辨ずるもって無となさず、鑑を疎通するもって有となさず。有にあらざるが故に、知にして知なし。無にあらざるが故に、無知にして知る。ここをもって知はすなわち無知、無知はすなわち知なり。言の異なるをもって聖心に異ならしむることなきなり。

難曰(以緣會求知難。謂真諦為所緣之境,既有所緣,定有能緣之智,非無知也):夫真諦深玄,非智不測,聖智之能在茲而顯(言非智不能照真諦)。故經云:「不得般若,不見真諦。」真諦則般若之緣也(境知歷然)。以緣求智,智則知矣(謂真諦為所緣之境,般若乃能緣之智。以緣求智,智即知矣,豈無知哉?此以心境對待立難)。答曰(此以非緣無知答。意謂真諦離緣,故智亦非知):以緣求智,智非知也(此牒難斥非也。謂若就緣以求智,然真諦離緣,故智亦非知)。何者(徵釋)?《放光》云:「不緣色生識,是名不見色(文云『不以五陰因緣起識者,是名不見五陰。』謂不因五陰起分別者,以離身心,故不見身心相。此則離緣之知,不可以緣求也)。」又云:「五陰清淨故,般若清淨(清淨者,空之異稱。以五陰本空,故般若亦空。空則離緣,非有知也)。」般若即能知也,五陰即所知也。所知即緣也(此楷定知緣,以明離緣無知也。謂若以緣求知,今般若乃能緣之知、五陰乃所緣之境。今云五陰本空,則非所緣也。所緣既空,則能緣亦空。以空則非有所知,由照見皆空,故知即無知,但不從緣耳)。夫知(能知之心)與所知(所知之境),相與(待也)而有、相與而無。相與而無,故物(物字通該心境)莫之有(心境皆真故不有);相與而有,故物莫之無(心境角立,故對待不無)。物莫之無,故為緣之所起(心境未忘,則妄緣斯起);物莫之有,故則緣所不能生(心境兩忘,則照體獨立,不因境有、不借緣生)。緣所不能生,故照緣而非知(以離緣之智,照寂滅之境,故非有所知);為緣之所起,故知緣相因而生(以對緣所起之妄心,故心境未忘,知緣相因待而生,此妄而非真。下雙結釋成)。是以知(妄知)與無知(真知),生(因也)於所知(境通真妄)矣(釋上心境相待而有,故妄心取相故有知。以真知離緣故無知,此所以知與無知皆因心境,但有取不取耳)。何者(通徵真妄)?夫智(真智)以(因也)知所知(之境),取相故名知(以有對待,故名妄知);真諦自(本來)無相(無相可取),真智何由知(以真諦離相,故真智無知,以無緣故無知也○次真妄各辨。初辨妄)?所以然者(釋真妄各有所以),夫所知(之妄境)非所知(以妄境本空,故本非所知),所知(之妄境)生(因也)於知(能知之妄心)所知(妄境)既生知(妄心),知(妄心)亦生所知(妄境)。所(妄境)、知(妄心)既相生(妄心妄境相因而生),相生即緣法(心境相待,因緣而生,故對待未忘,是為緣法),緣法故非真(緣生之法假而非真)。非真,故非真諦也(難家以真諦為所緣之境,今答以緣生乃妄法,非真諦也,何為所緣)。故《中觀》云(通證真妄):「物從因緣有,故不真(此證緣乃妄法);不從因緣有,故即真(此證離緣乃真○下顯真)。」今真諦曰真,真則非緣(真則不借緣生)。真非緣(真諦既非緣),故無物從緣而生也(前難家以緣真諦,故以般若為有知。今論主答以真諦離緣,離緣之真諦豈能生般若之知哉?從緣,應云從非緣,謂無有一法從非緣而生者,意責難者不達真諦離緣而妄擬也)。故經云:「不見有法無(非也)緣而生(證成上義,非緣不能生物,則真諦離緣,必不生知矣)。」是以真智觀真諦,未嘗取所知(謂真智照真諦,未嘗取為所知之境)。智不取所知,此智何由知(謂真智既不取所知之境,則此智何由而知哉)?然智非無知(此遮過也。謂真智但不取所知之境耳,非是絕無知體也。良以獨照為知,非有待也),但真諦非所知(但真諦無相,非所知之境耳),故真智亦非知(由真諦非所知,故真智亦非知。此二句結盡般若無知之妙○下返責)。而子欲以緣求智,故以智為知(然智無分別、知有分別,以知為智則真妄不分,何以興難)。緣自非緣,於何而求知(由難意以緣求知,今答以真諦離緣。然緣本非緣,向何而求知哉?此則境智雙忘、能所齊泯,般若玄旨妙極於斯)?

難じて曰く、真諦は深遠で玄妙であり、智慧なくしては測り知ることができない。聖人の智慧の働きは、ここにこそ顕れるのである。ゆえに経典に「般若を得なければ、真諦を見ることはできない」と説かれている。真諦はすなわち般若の所縁の境である。縁に基づいて智を求めれば、智はすなわち知るのである。

答えて曰く、縁に基づいて智を求めても、智は知るのではない。なぜか。『放光経』に「色に縁って識を生じないことを、色を見ないと名づける」と説かれている。また「五陰が清浄であるがゆえに、般若も清浄である」と説かれている。般若はすなわち能知であり、五陰はすなわち所知である。所知はすなわち縁である。知と所知とは、相互に依存して存在し、相互に依存して消滅する。相互に依存して消滅するがゆえに、物として有るものはない。相互に依存して存在するがゆえに、物として無いものはない。物として無いものがないがゆえに、縁によって生じるものとなる。物として有るものがないがゆえに、縁によって生じることができない。縁によって生じることができないがゆえに、縁を照らしても知るのではない。縁によって生じるものとなるがゆえに、知と縁とは相い寄って生じるのである。ここをもって知と無知とは、所知に起因して生じるのである。

なぜか。智が所知の境を対象として、相を取るがゆえに知と名づけるのである。真諦は本来、相がなく、真智は何によって知るのであろうか。そうであるわけは、所知の妄境は本来、所知ではないのである。所知の妄境は知の妄心によって生じ、所知の妄境がすでに知の妄心を生じ、知の妄心もまた所知の妄境を生じる。所と知とがすでに相生するならば、相生するものはすなわち縁法である。縁法であるがゆえに真ではない。真でないがゆえに、真諦ではないのである。

ゆえに『中観論』に「物が因縁から有るならば、真ではない。因縁から有るのでなければ、すなわち真である」と説かれている。今、真諦は真と名づけられる。真であれば縁ではない。真が縁でないならば、物として縁から生じるものはないのである。ゆえに経典に「縁によらずして生じる法のあることを見ない」と説かれているのである。

ここをもって真智が真諦を観ずるとき、未尝に所知を取ることがないのである。智が所知を取らないならば、この智は何によって知るのであろうか。しかし智は無知なのではない。ただ真諦が所知でないだけであり、ゆえに真智もまた知るのではないのである。

しかるに、あなたは縁に基づいて智を求めようとして、智を知であるとする。縁は自ら縁に非ず、いずれのところにか知を求めんや。

難曰(前云不取之知,今以有知無知不取皆非,二義雙關難):論云不取者(牒論申難),為無知故不取?為知然後不取耶(立定下難)?若無知故不取,聖人則冥若夜游,不辨緇素之異耶(此則瞢然無知)?若知然後不取,知則異於不取矣(謂若有知,則有所取之物。此則既已有知,難言不取矣○上以心境兩異難,下以心境冥一答)。答曰(有無雙非不取以答)非無知故不取,又非知然後不取(有無皆非不取),知即不取,故能不取而知(此明兩是。謂由知處當下不取,故能不取而知)。

問い<注:前は「取らざる」を知と説いたが、今は「有る知」も「無き知」も取らざるは皆非とする。二義が双び関わる難である>:論に「取らず」と説くのは<注:論を掲げて難を申し述べる>、無知ゆえに取らざるのか?それとも知った上で取らざるのか<注:下の難を定め立てる>?もし無知ゆえに取らざるなら、聖人は闇夜を遊行するように冥く、黒と白の違いも弁別しないのか<注:これは懵然として無知なること>?もし知った上で取らざるなら、知ることは取らざることとは異なるのではないか<注:もし知るがあれば、取るべき物がある。これはすでに知るがある以上、取らずと言い難い。上は心と境の二つが異なることを以て難じ、下は心と境が冥合して一つになることを以て答える>。答え<注:有るも無きも双び非とし、取らざることを以て答える>:無知ゆえに取らざるに非ず、また知った上で取らざるにも非ず<注:有るも無きも皆、取らずに非ず>、知ることが即ち取らざること、ゆえに取らずして知ることができる<注:これは両方が是なることを明かす。知る処に当下に取らざるゆえに、取らずして知ることができる>。

難曰(因聞上心境皆非,故約不取心境俱成斷滅以難):論云不取者,誠以聖心不物(不取著也)於物,故無惑取也(上立理,下申難)。無取則無是(是者,印可於物不繆之稱,能知之心也),無是則無當(當者應物不謬,主質不差,言所知之境也),誰當聖心(謂無境可知,誰當聖心?無境可當,豈非斷滅)?而云聖心無所不知耶(謂無境可當聖心,則絕然無所知矣。而云無所不知,豈不謬耶)?答曰(以是當混成答):然(縱可之辭)。無是無當者(牒難意),夫無當則物無不當(言當者,當心之境也。若一境當心,則滯而不通。若無當心,則境寂心空。真心任徧知,故無物不當),無是則物無不是(謂無能取之心,則心空境寂,法法皆真,故物無不是)。物無不是,故是而無是(了境唯心,則心境兩忘、是非齊泯,故是亦無是);物無不當,故當而無當(以唯心之境,則更無心外境,能與心為緣。故雖照境,而萬法皆空,故當而無當)。故經云:「盡見諸法而無所見(以萬法唯心,則無一法可當情者,故盡見諸法而無所見)。」

問いかけ(上の教えで心も境もともに実体がないと聞いたので、心と境を取らないことがすべてを失う断滅になるのではないかと問う):論に「取らない」と言うのは、実に聖人の心は物(執着しないこと)に執着しないので、迷いの執着がないのです(上に道理を示し、下に問いを述べる)。執着がなければ「是」もない(「是」とは、物事を間違いなく認めることで、知る心のこと)、「是」がなければ「当」もない(「当」とは、物事に応じて誤りなく、主体と対象が一致することで、知られる境のこと)。誰が聖人の心に当たるのでしょうか(知られる境がなければ、誰が聖人の心に当たるのか。境として当たるものがなければ、断滅ではないか)?なのに聖人の心は知らないことはないと言うのですか(境が聖心に当たることがなければ、まったく知ることがないことになる。それなのに「知らないことはない」と言うのは、誤りではないか)?答え(「是」と「当」を一つに混ぜて答える):その通り(認める言葉)。「是」も「当」もないとは(問いの意図を引き受ける)、「当」がなければ、物として当たらないものはない(「当」とは、心に当たる境のこと。一つの境が心に当たれば、滞って通じない。当たる心がなければ、境は静まり心は空となる。真心はあまねく知ることを任せるので、物として当たらないものはない)、「是」がなければ、物として正しくないものはない(取る心がなければ、心は空で境は静まり、すべてのものが真実となるので、物として正しくないものはない)。物として正しくないものがないので、「是」でありながら「是」がない(境が唯心であると理解すれば、心と境はともに忘れ、是と非はともに消えるので、「是」もまた「是」がない);物として当たらないものがないので、「当」でありながら「当」がない(唯心の境であるから、心の外に心と縁をなす境はさらにない。それゆえ境を照らしても、すべてのものは空であるので、「当」でありながら「当」がない)。それゆえ経典にこう言う:「すべてのものを尽くして見るが、見るものはない(すべてのものが唯心であるから、感情に当たるものは一つもない。それゆえすべてのものを尽くして見るが、見るものはない)。」

難曰(聞心境俱泯,遂疑捨有入無,故以立難):聖心非不能是,誠以無是可是(敘聖心捨有以領旨也)。雖無是可是(縱成),故當是於無是矣(以為入無)。是以經云「真諦無相故般若無知」者(引證無知,此述領意),誠以般若無有有相之知(此釋經正義,下以謬解申難)。若以無相為無相,有何累於真諦耶(意謂若以有相累於般若。今若以無相為無相,又何累於般若耶?此不達般若真知獨照,故以絕無為般若)?答曰(難以捨有入無,答以兼亡無相):聖人無無相也(難家認取無相。答以無相亦無,總答問意也)。何者(徵釋無相亦非)?若以無相為無相(若認著於無相,則心有所住;聖心則不然),無相即為相(若取著無相,則無相亦成相。永嘉云「棄有著空病亦然」)。捨有而之無,譬猶逃峰而赴壑,俱不免於患矣(猶如避溺而投火,此外道斷滅也。聖心豈然哉?下申聖心無住)。是以至人處有而不有、居無而不無(雖涉有無而不住有無,所謂二邊不住),雖不取於有無,然亦不捨於有無(有無不住,中道亦不安),所以和光塵勞(老子曰「和其光,同其塵」)周旋五趣(此能有為),寂然而往(不動本際,應現一切)、怕爾而來(萬化不遷,冥心絕域),恬淡無為而無不為(聖人以無住為心,豈可以有無而擬之哉)。

難じて曰く、心も境界も共に泯ぶと聞いて、遂に有を捨てて無に入ることを疑う。ゆえに難を立てる:聖人の心は能く是とすること無きにしもあらず。誠に是とすべき無きを以て是とす。無は是とすべき無しと雖も、故に当に是を無に於いてす。これ無に入ることを為す。是を以て經に「真諦無相の故に般若無知なり」と云うは、無知を引證し、これは頷く意を述ぶ。誠に般若に有相の知有ること無きを以てなり。これは經の正義を釋す。下に謬解を以て難を申す。若し無相を以て無相と為さば、何ぞ真諦に累あらんや。意は謂う、若し有相を以て般若に累とせん。今若し無相を以て無相と為さば、又何ぞ般若に累あらんや。これは般若の真知獨照を達せず、故に絶無を以て般若と為す。答えて曰く、難は有を捨てて無に入ることを為し、答へは無相を兼ね亡ずることを以てす:聖人は無相無きなり。難家は無相を取り認む。答へは無相も亦無しとし、總じて問意に答う。何者ぞ、無相亦非なるを徵釋す。若し無相を以て無相と為さば、即ち無相は相と為る。若し無相を取り著せば、則ち無相も亦相と成る。永嘉云く「有を棄てて空に著するも病亦然り」。有を捨てて無に之くは、譬えば峰を逃れて壑に赴くが如く、倶に患を免れず。猶お溺を避けて火に投ずるが如し。これは外道の斷滅なり。聖心豈に然らんや。下に聖心無住を申す。是を以て至人は有に處して有せず、無に居して無せざるなり。有無に涉ると雖も有無に住せず、所謂二邊に住せず。有無を取らざると雖も、然も有無を捨てざるなり。有無に住せず、中道にも安ぜず。是を以て光を和らげ塵に同じて、五趣に周旋す。これ有為を能くす。寂然而して往き、本際を動ぜずして一切に應現す。怕爾として來たり、萬化遷らず、冥心して絕域す。恬淡無為にして而も為さざる無し。聖人無住を以て心と為す。豈に有無を以て之を擬せんや。

難曰(難以權智生滅。以不達動靜一如,故立此難):聖心雖無知,然其應會之道不差(此領旨也),是以可應者應之,不可應者存之(此疑聖心有揀擇可否,故以為有生有滅)。然則聖心有時而生、有時而滅,可得然乎(不了生本無生,故立此難)?答曰(答以聖心本無生滅):生滅者,生滅心也(此凡夫心也,聖豈然哉)。聖人無心,生滅焉起(真顯無生)?然非無心(不同木石無情),但是無心心耳(但無生滅之心為心耳)。又非不應(不同孤吊),但是不應應耳(但是隨感而應,本無將迎之心也)。是以聖人應會之道,則信若四時之質(質,實也。由聖人之心,無緣應物、感而遂通,如谷響水月,故信如四時之實,應不失時)。直以虗無(寂滅)為體,斯不可得而生、不可得而滅也(以寂滅真知隨緣應現,故本無生滅)。

難じて曰く、聖心は無知なるも、その応会の道は差し違うことなし。これにより応ずべき者には応じ、応ずべからざる者はこれを存す。しかれば聖心は時として生じ、時として滅すとも、得んや。答えて曰く、生滅は生滅の心なり。聖人は心なく、生滅いずくにか起こらん。しかしながら無心にあらず、ただ無心を心とせり。また応ぜずにあらず、ただ応ぜずして応ずるのみ。ここをもって聖人の応会の道は、信に四時の質のごとし。直に虚無を体とす。これによって生ずべくもあらず、滅すべくもあらざるなり。

難曰(聞無生滅,不達惑智俱空,故以申難):聖智之無、惑智之無(前云聖智無惑取之知,故疑惑智之無),俱無生滅,何以異之(謂根本實智靈鑒獨照,本自無知,故云聖智之無。後得權智照破無明,妄惑本空,故無惑取之知。二者皆無,不識無義何辨?故此興難)?答曰(先智惑雙辨,示空義之淺深):聖智之無者,無知(真知獨照,心境兩忘,故云無知)。惑智之無者,知無(權智照破惑取之妄知本無,故曰知無)。其無雖同,所以無者異也(聖知天然無知,不假功勳;惑智因修而得。故無意雖同,所以則異)。何者(徵釋不同)?夫聖心虗靜,無知可無,可曰無知,非謂知無(聖人真心獨朗,寂然不動,絕無妄法,故無知可無,但可曰無知,不可言知無)。惑智有知,故有知可無,可謂知無,非曰無知也(後得照惑,了妄本空,但可言知妄元無,不可言無知)。無知,即般若之無也(般若本絕諸妄,故不可說知無)。知無,即真諦之無也(知無者,謂知真諦無妄知也)。是以般若之與真諦(此下心境合明,會寂用之同異。先同異雙明),言用即同而異(即寂而照),言寂即異而同(即照而寂)。同故,無心於彼此(心境也。同則心境雙泯);異故,不失於照功(境智歷然)是。以辨同者同於異(同其所不同),辨異者異於同(異其所不異,此則心境俱存、照用同時),斯則不可得而異、不可得而同也(以俱非雙泯,故不可以同異定名)。何者(微辨寂用)?內有獨鑒之明(照體獨立,寂也),外有萬法之實(萬法皆真,用也)。萬法雖實,然非照不得(萬法雖真,非智照不得其實),內(心也)外(境也)相與以成其照功(智得境而照用全彰,境得智而真常獨露,故云內外相與以成其功),此則聖所不能同用也(非境無以顯智,故不能同)。內雖照而無知(非有對待之知)、外雖實而無相(諸法實相不可以相求,故云無相),內外寂然(內智無知、外境無相,心境雙泯,故曰寂然),相與俱無(由心空故境寂,以境寂故心空,故心境相與一道齊平),此則聖所不能異寂也(寂則心境雙亡,故不能異)。是以經云「諸法不異」者,豈曰續鳧截鶴、夷嶽盈壑,然後無異哉(引證本來不異也。《大品》云:「諸法無相,非一相、非異相。」豈曰下,引釋不異。《莊子》曰:「𠒎脛雖短,續之則憂;鶴脛雖長,斷之則悲。」謂天生長短,不必裁齊。嶽高壑下,本來自定,不必夷嶽之高以填壑之下。意引諸法當體真常,本無差別,所謂「是法住法位,世間相常住。」不待造作然後齊平。謂若以不二之智,照一真之境,故法法真常、本來不異,斯則自然不異,非安排而後不異也)?誠以不異於異,故雖異而不異也(不以境異而異其心,故境隨心一、即異而同,故云雖異而不異),故經云:「甚奇世尊!於無異法中而說諸法異(謂依一真法界,演說無量差別法門,故云無異法而說異法)。」又云:「般若與諸法。亦不一相,亦不異相。」信矣(引證不一不異。《大品》云:「世尊!云何於無異法中而說諸法異?」又云:「諸法無相,非一相、非異相。」是知諸法一異,乃外道邪見。以般若而觀,則非一非異。實相般若,理極於斯)。

難じて曰く、聞くところの無生滅は、惑智と聖智の空なることを達せず、故に難を申す。聖智の無も、惑智の無も、俱に生滅なし。何をもって之を異とするや。答えていわく、聖智の無とは、無知なり。惑智の無とは、知無なり。其の無は同じといえども、無ならしむる所以は異なり。何となれば、聖心は虚静にして、無かるべき知なし。之を無知と曰うべし、知無というにあらず。惑智は知あるが故に、無かるべき知あり。之を知無と謂うべし、無知というにあらず。無知は即ち般若の無なり。知無は即ち真諦の無なり。是を以て般若と真諦と、用を言えば即ち同じくして異なり、寂を言えば即ち異にして同じ。同じが故に彼此に心を用いず、異なるが故に照功を失わず。是を以て同じきを弁ずるは同じきを同じくして異なるものと同じくし、異なるを弁ずるは異なるを異にして同じきものと異にす。斯れ即ち得て異にすべからず、得て同じくすべからざるなり。何となれば、内に独鑒の明あり、外に万法の実あり。万法は実なりといえども、照に非ずんば得ず。内外相与にして以て其の照功を成す。此れ則ち聖の同じく用いる能わざる所なり。内は照といえども知なく、外は実といえども相なし。内外寂然として、相与に俱に無し。此れ則ち聖の同じく寂する能わざる所なり。是を以て経に「諸法不異」と云うは、豈に鳧の脛を続ぎ、鶴の脛を截り、嶽を夷らげ、壑を盈たして、然る後に異無しとせんや。誠に異に於いて異ならざるを以てなり。故に異といえども異ならず。故に経に云わく「甚だ奇なり、世尊! 異無き法の中に於いて而も諸法の異なるを説く」と。又云わく「般若と諸法とは、亦た一相ならず、亦た異相ならず」と。信ずべきかな。

難曰(因聞寂用,遂疑有二,故此立難):論云「言用則異、言寂則同」,未詳般若之內,則有用寂之異乎(不達動靜一源,故疑寂用兩殊)?答曰(答以寂用一致):用即寂、寂即用,用寂體一,同出而異名(同出異名,語出《老子》,彼意有無同出一玄。此言寂用本乎一心,但約動靜言之耳),更無無用之寂而主於用也(言寂體必有照用,如明鏡之光。未有光明之鏡而無照者)。是以智彌昧、照逾明(此言實智照理,泯絕所知,故彌昧。真明逾發,故照逾明。此言即寂之用也),神彌靜、應逾動(由實智彌寂,故權用無方。此言用不離體,故云應逾動)。豈曰明昧動靜之異哉(總結寂用不二)?故《成具》云:「不為而過為(此證權智即實之權)。」《寶積》曰:「無心無識,無不覺知(此證離妄之智,顯即寂之用)。」斯則窮神(權智應物)盡智(實智照理),極象外之談也(釋引二經雙明寂用,乃極象外之談)。即之明文,聖心可知矣(以此而觀,羣疑冰釋矣)。
般若無知論(終)
肇論略注卷三

般若無知論
劉遺民書問附

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