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  1. 八十八祖道影伝賛 (八十八祖道影傳贊)
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八十八祖道影伝賛 (八十八祖道影傳贊)


No. 1608-D重編憨山禪師八十八祖傳贊序

No. 1608-D 憨山禅師八十八祖伝讃序(再編)

吾友錢而介。曾刻八十八祖傳贊。余簡之。止七十有七。意未釋然。因至海鹽鷹窠頂寺。禮諸祖像及憨公手書傳贊。其有像無傳者。則雪巖欽。無用寬。鐵山瓊。斷崖義。絕學誠。季潭泐。松隱然。無一全。本空照。大滿大。以及慧約國師也。亟為補綴成書。編次四卷。西天祖師二十七人。又旁出一人。東土應真。則康居會佛圖澄寶誌公三人。教外別傳。凡四十有四人。自初祖傳至六祖。又四祖下。旁出鳥窠一人。五祖下旁出者一行。傳瑜珈密宗。六祖下旁出者永嘉。傳天台宗。清涼圭峯傳賢首宗。其得六祖真傳者。青原南嶽二甘露門。南嶽二十五人。未分宗派時四。溈仰一。臨濟二十。內中峯兼傳淨土。青原九人。未分宗派時亦四。曹洞雲門各二。法眼一。永明兼傳淨土。又未詳嗣法者。無一本空大滿三人。教主凡十有六人。淨土則遠公法照。合永明中峯而四。台宗則灌頂法智。合永嘉而三。賢首則法藏。合清涼圭峯而三。密宗則不空。合一行而二。慈恩則玄奘窺基而二。律師則鍾山惠約及南山道宣而二。凡有志于教與禪者。庶幾因憨公傳贊。見諸祖之道影。即恍得諸祖之心印乎。至憨公甞贊雲棲紫栢及自為贊。余各纂小傳。附其後。庶見聞者。知古今人不相遠也。噫憍陳如暨二十七祖外。東土僅六十人耳。而十五人為浙產。若律宗之惠約。若賢首之清凉。若台宗之灌頂永嘉法智。若禪宗之天皇鳥窠。若曹洞之始祖。若法眼之永明。若雲門之振宗。若臨濟之雪巖中峯斷崖千巖全室。亦可謂彬彬盛矣。且季漢延熈時。康僧會肇造三寺于孫吳境內。為建業之建初。太平之化城。與我郡海鹽金粟山之廣慧。實江南梵剎之始。唐會昌四年。黃檗運。建我郡水西寺。大中元年。又建祥符寺。後梁雪峯存。隱我郡之真如。手鑿一井。其泉甘冽。今在寺中。梁天監間。寶誌公。于許玄度宅址。建開善資寶寺。在今蕭山。達磨尊者開基之證果寺。在今湯溪。而靈芝之佛印。臯亭之黃龍。徑山之佛鑑。天目之高峯松隱。並開法杭境。又紹之大雲寺。更有大珠慧海。而法藏曾禮四明阿育王舍利墖。一行亦曾訪算法于天台國清寺異僧。溈山參方。則在杭州龍興寺。是兩浙尊宿。且有二十九人。豈諸方得同日而語哉。書成之十年。陳尚書秋濤年伯先父玄期府君已未同榜也。于曹溪錄示憨公原稿。為陳如尊者及三十三祖道影贊。為諸祖道影略傳贊四十有八。而婁約以下十一公仍闕。惟別見雲門法眼及傅大士白雲覺四贊。以無像故置之。或曰。獨不念及二宗始祖乎。余謂。佛教初流東土。譯經圖像。建立塔寺。剃度僧尼。實始于啟道圓通法師摩騰三藏。而竺法蘭偕至洛陽。受戒講經。及西遊取經。實始于穎川沙門朱士行。而法顯繼踰葱嶺。以至律宗之始法時。天台宗之始慧文。賢首宗之始法順。瑜伽密宗之始金剛智。咸不得與。蓮宗之祖慧遠。禪宗之祖達磨。慈恩宗東土之祖玄奘。同見集中者。正以傳贊。一視祖堂道影。道影所無。傳贊遂不得而有也。且楚石琦公為本朝第一流宗師。偶以祖。堂無像。遂爾傳贊闕如。原未甞以此為軒輊。夫復何疑。曹溪所錄憨公諸祖道影後語。與題辭逈異。因並存之。道影今供養鷹窠頂寺。前有董尚書思白。書覺影相承四大字。而金粟密雲悟公。亦書其端云。認影迷頭則昧。先覺覺後覺。一折一攝。妙旨泠然。徑山雪嶠信公序。及陳徵君眉公記。是又網魚弋兔。不惜筌蹄者也。賜同進士出身工部尚書郎前遷安寶坻涇縣令蒙溫旨敘功紀錄旌異𭬥李寓公高承埏澤外父纂。時崇禎閼逢涒灘之歲良月糓旦。

私の友人の銭而介が、かつて「八十八祖伝賛」を刻んだ。私はそれを整理して、七十七祖に減らしたが、まだ納得できずにいた。そこで海塩の鷹窠頂寺へ行き、諸祖の像と憨公(憨山)が自筆で書いた伝賛を礼拝した。像はあるが伝がない者として、雪巌欽、無用寛、鉄山瓊、断崖義、絶学誠、季潭泐、松隠然、無一全、本空照、大満大、そして慧約国師がいた。急いでこれらを補い、書物を完成させ、四巻に編纂した。

西天(インド)の祖師は二十七人、さらに傍系が一人。東土(中国)の応真(阿羅漢)は、康居会、仏図澄、宝誌公の三人。教外別伝(禅宗の宗旨)は、合わせて四十四人である。初祖から六祖まで伝え、さらに四祖の下からは鳥窠一人が傍系として出ており、五祖の下からは一行が、瑜伽密宗を伝えた。六祖の下からは永嘉が天台宗を伝え、清凉と圭峰は賢首宗を伝えた。六祖の真伝を得たのは、青原と南嶽という二つの甘露門である。

南嶽の系統は二十五人。宗派が分かれる前の者が四人、潙仰宗が一人、臨済宗が二十人。このうち中峰は浄土宗も兼ね伝えた。青原の系統は九人。宗派分かれ前の者も四人。曹洞宗と雲門宗が各二人、法眼宗が一人。永明は浄土宗も兼ね伝えた。また、嗣法(法を継ぐ者)が不明なのは、無一、本空、大満の三人である。

教主は合わせて十六人。浄土宗は遠公と法照、永明と中峰を加えて四人。天台宗は灌頂と法智、永嘉を加えて三人。賢首宗は法蔵、清凉と圭峰を加えて三人。密宗は不空、一行を加えて二人。慈恩宗は玄奘と窺基の二人。律宗は鍾山の慧約と南山の道宣の二人である。

教えと禅に志のある者は、どうか憨公の伝賛を通じて諸祖の道影(肖像)を見れば、すなわち諸祖の心印(真理)を自然と会得できるだろう。憨公はかつて雲棲、紫栢の賛を書き、また自らの賛も書いた。私はそれぞれに小伝を添えて、その後に付した。これを見聞する者は、古今の人が遠く隔たっていないことを知るだろう。

ああ、憍陳如と二十七祖を除けば、東土にはわずか六十人である。そのうち十五人が浙江の出身である。律宗の慧約、賢首宗の清凉、天台宗の灌頂、永嘉、法智、禅宗の天皇、鳥窠、曹洞宗の始祖、法眼宗の永明、雲門宗の振宗、臨済宗の雪巌、中峰、断崖、千巌、全室に至っては、実に文雅に盛んと言えるだろう。

また、季漢の延熙の時代に、康僧会が孫呉の領内に三つの寺を初めて建立した。それは建業の建初寺、太平の化城寺、そして私の郡(嘉興)海塩の金粟山にある広慧寺であり、実に江南の仏教寺院の始まりである。唐の会昌四年には、黄檗希運が私の郡に水西寺を建て、大中元年には祥符寺も建てた。後梁の時代、雪峰義存は私の郡の真如寺に隠棲し、自ら井戸を掘った。その水は甘く冷たく、今も寺の中にある。梁の天監年間に、宝誌公は許玄度の屋敷跡に開善資宝寺を建てた。これは現在の蕭山にある。達磨尊者が開基した証果寺は、現在の湯溪にある。そして、霊芝の仏印、皋亭の黄龍、径山の仏鑑、天目の高峰・松隠は、いずれも杭州の地で教えを広めた。

さらに、紹興の大雲寺には大珠慧海がいる。法蔵はかつて四明の阿育王舎利塔を礼拝し、一行もまた天台山国清寺の異僧のもとを訪ねて算法を学んだ。潙山霊祐も修行のため、杭州の龍興寺を訪れた。このように、両浙(浙江東部・西部)の高僧は二十九人に上る。どうして他の地方が同日に論じられようか。

この書が完成して十年後、陳秋濤尚書(父の友人)が、先父玄期府君(亡き父)と己未年の科挙で同榜であった。彼が曹溪から憨公の原稿を書き写し、示してくれた。その中には、憍陳如尊者および三十三祖の道影賛、さらに諸祖の道影略伝賛四十八篇があった。しかし、婁約以下十一公は依然として欠けていた。ただ、雲門、法眼、傅大士、白雲覚の四賛は別にあったが、像がないために省いた。

ある人が言った、「二宗の始祖をなぜ思わないのか」と。私は言った、「仏教が初めて東土に流布し、経典を翻訳し、仏像を描き、塔寺を建立し、僧尼を剃度したのは、実は啓道円通法師・摩騰三蔵から始まった。そして、竺法蘭が共に洛陽に至り、戒律を受け、経典を講じ、さらには西方へ旅して経典を求めたのは、実は穎川の沙門・朱士行から始まった。法顕はそれに続いて葱嶺を越えた。律宗の祖は法時に始まり、天台宗の祖は慧文に、賢首宗の祖は法順に、瑜伽密宗の祖は金剛智に始まるが、彼らは皆、この集録に加えられなかった。蓮宗の祖である慧遠、禅宗の祖である達磨、慈恩宗の東土の祖である玄奘が、同じ集録の中に見えるのは、まさに伝賛が祖堂の道影に合わせているからである。道影に無ければ、伝賛もまた有ることができない。

しかも、楚石梵琦禅師は我が朝(明朝)第一の宗師であるが、たまたま祖堂に像がなかったため、伝賛も欠けてしまった。もともとこれによって軽重を付けたわけではない。何の疑いがあろうか。

曹溪が録した憨公の諸祖道影の後語は、題辞とは全く異なるので、併せて保存した。道影は今、鷹窠頂寺に安置されている。前には董思白尚書が「覚影相承」の四大字を書いている。また、金粟の密雲悟禅師もその端に書いて言う、「影を認めて頭を迷えば、則ち昧し。先覚が後覚を覚ます。一折一摂、妙旨冷然たり」。径山の雪嶠信禅師の序文と、陳眉公の記文は、これはまた魚を網し兎を弋る(捕まえる)のに、筌蹄(道具)を惜しまないようなものである。

賜同進士出身、工部尚書郎、前遷安・宝坻・涇県令、蒙溫旨叙功記録旌異、樽李寓公 高承埏 澤外父 纂。 時は崇禎、閼逢涒灘(甲申)の歳、良月穀旦。


No. 1608-C 高寓公虞部補憨大師八十八祖道影傳贊敘
No. 1608-E 諸祖道影傳贊題辭

CBETA コード: X1608

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