觀一異門第六
一と異を見る門 第六
復次,一切法空。何以故?
さらに、すべての存在は本質的に空である。それはなぜか。
相及與可相, 一、異不可得;
若無有一、異, 是二云何成?
互いに依存し合うものと、依存されるものとは、 同一であるとも、別であるとも言えません。 同一も別も成り立たないのなら、 この二つはどうして成り立つでしょうか。
是相、可相,若一不可得,異亦不可得;若一、異不可得,是二則不成,是故相、可相皆空。相、可相空故,一切法皆空。
相と可相は、もし一であることが成り立たなければ、異であることも成り立ちません。一も異も成り立たなければ、この二つは成立せず、それゆえ相も可相もともに空です。相と可相が空であるから、一切の法はすべて空なのです。
問曰:「相、可相常成,何故不成?汝說相、可相,一、異不可得,今當說:凡物,或相即是可相,或相異可相,或少分是相餘是可相。如識相是識,離所用識更無識;如受相是受,離所用受更無受,如是等相即是可相。如佛說滅愛名涅槃,愛是有為有漏法,滅是無為無漏法;如信者有三相,樂親近善人、樂欲聽法、樂行布施,是三事身、口業故色陰所攝,信是心數法故行陰所攝,是名相與可相異。如正見是道相,於道是少分;又生、住、滅是有為相,於有為法是少分,如是於可相中少分名相。是故,或相即可相,或相異可相,或可相少分為相;汝言一、異不成,故相、可相不成者,是事不然。」
問い:相と可相は常に成り立つはずなのに、なぜ成り立たないのか。あなたは相と可相について、一とも異とも捉えられないと言った。ここで説こう。およそものごとには、相がそのまま可相である場合もあれば、相が可相と異なる場合もあり、あるいは一部が相で残りが可相である場合もある。たとえば識の相は識であり、用いる識を離れてさらに識はない。受の相は受であり、用いる受を離れてさらに受はない。このように相がそのまま可相である。仏が説かれたように、愛を滅することが涅槃と名づけられる。愛は有為で有漏の法であり、滅は無為で無漏の法である。また信には三つの相がある。善人に親しむことを喜び、法を聞くことを願い、布施を行うことを喜ぶ。この三つは身業と口業であるから色陰に含まれ、信は心数法であるから行陰に含まれる。これが相と可相が異なるということである。正見が道の相である場合、道の一部である。また生・住・滅は有為の相であり、有為の法の一部である。このように可相の一部が相と名づけられる。したがって、相がそのまま可相である場合もあれば、相が可相と異なる場合もあり、可相の一部が相である場合もある。あなたが一とも異とも成り立たないから相と可相は成り立たないと言うのは、そうではない。
答曰:「汝說或相是可相,如識等。是事不然。何以故?以相故可知,名可相,所用者名為相。凡物不能自知,如指不能自觸,如眼不能自見,是故汝說識即是相、可相,是事不然。
そこで答えます。「あなたが、識などのように、あるものが同時に「相」でもあり「可相」でもあると言うのは、正しくありません。なぜでしょうか。あるものは「相」によって知ることができるのであって、知られるものを「可相」と呼び、そのために用いられるものを「相」と呼ぶのです。およそ物は自分自身を知ることはできません。たとえば指が自分自身に触れることができないのと同じであり、目が自分自身を見ることができないのと同じです。ですから、識がすなわち「相」であり「可相」であるというあなたの説は、正しくありません。」
「復次,若相即是可相者,不應分別是相、是可相;若分別是相、是可相者,不應言相即是可相。
また、もし「相」そのものが「可相」であるならば、「これは相であり、これは可相である」と区別すべきではありません。もし「これは相であり、これは可相である」と区別するならば、「相そのものが可相である」と言うべきではありません。
「復次,若相即是可相者,因果則一。何以故?相是因,可相是果,是二則一;而實不一,是故相即是可相,是事不然。
また、もし「相」がそのまま「可相」であるならば、原因と結果が同じになってしまいます。なぜでしょうか。「相」は原因であり、「可相」は結果です。この二つが同じであるならば一体となりますが、実際には一体ではありません。したがって、「相」がそのまま「可相」であるということは、成り立ちません。
「汝說相異可相者,是亦不然。汝說滅愛是涅槃相,不說愛是涅槃相;若說愛是涅槃相,應言相、可相異;若言滅愛是涅槃相者,則不得言相可相異。
あなたが「特徴と、特徴を持つものは別である」と言うのは、これも正しくありません。あなたは「愛を滅することが涅槃の特徴であり、愛が涅槃の特徴であるとは説いていない」と言っています。もし愛が涅槃の特徴であると言うなら、特徴と特徴を持つものは別であると言うべきでしょう。しかし、愛を滅することが涅槃の特徴であると言うのなら、特徴と特徴を持つものが別であるとは言えません。
「又汝說信者有三相,俱不異,信若無信則無此三事,是故不得相、可相異。又相、可相異者,相更復應有相,則為無窮。是事不然,是故相、可相不得異。」
また、あなたが「信には三つの相があり、それらは異ならない」と言うならば、もし信がなければこの三つの事柄も存在しない。だから、相と可相は異なることはできない。また、もし相と可相が異なるならば、相にはさらに相があるはずで、それは無限に続くことになる。しかし、そうではない。だから、相と可相は異なることはできない。
問曰:「如燈能自照亦能照彼,如是相能自相亦能相彼。」
問い:灯が自らを照らし、また他を照らすことができるように、相もまた自らを相し、他を相することができるのか。
答曰:「汝說燈喻,三有為相中已破。又自違先說,汝上言相、可相異,而今言相自能相亦能相彼。是事不然。又汝說可相中少分是相者。是事不然。何以故?此義或在一中、或在異中,一異義先已破故,當知少分相亦破。如是種種因緣相、可相,一不可得、異不可得,更無第三法成相可相,是故相、可相俱空。是二空故,一切法皆空。」
答えて言う。「あなたの灯のたとえ話は、三有為の相の中ですでに破られている。また、あなた自身が先の説に反している。あなたは以前、相と可相は異なると言ったのに、今は相が自らを相し、また他を相すると言う。これは正しくない。また、あなたが可相の中の少分が相であると言うのも、これも正しくない。なぜなら、この意味はあるいは一の中にあり、あるいは異の中にあるが、一と異の意味はすでに前に破られているからである。したがって、少分の相もまた破られると知るべきである。このように種々の因縁によって、相と可相は、一としても得られず、異としても得られず、さらに第三の法が相と可相を成り立たせることはない。それゆえ、相と可相はともに空である。この二つが空であるがゆえに、一切の法はすべて空である。」