ご支援淨心禪堂すべての経典
メインコンテンツにスキップ
  1. 金剛般若論会釈 (金剛般若論會釋)
  2. 第一 (第一)
  3. 第一 (第一)
←と→
矢印キーでページをめくれます

金剛般若論会釈 (金剛般若論會釋)

「金剛般若論會釋」について

唐 · 窺基撰 著

8.6 万字 · 約 286 分

窺基は、唐代の高僧であり、唯識宗の創始者の一人で、玄奘三蔵の弟子です。彼が著した『金剛般若論会釈』は、『金剛経』に対する権威ある注釈書であり、唯識思想を融合させて般若の空性を解説しています。本書は玄奘が伝えたインドの無著・世親の論釈に基づき、菩提心を発し、菩薩行を修め、般若智を証得する深遠な意義を体系的に論じています。仏教において極めて高い地位を占め、唯識学と般若思想の融合を研究する上で重要な文献であり、漢伝仏教の教義学における宝です。


金剛般若論會釋卷第一

金剛般若論会釈 巻第一

大乘基撰

大乗基撰

一部分三,初、敬所師,敘標作意;次、科宗義,正釋經文;後、嘆愚深法成隱滅。初中三頌分二,初二頌半歸敬所師,後半頌敘標作意。初中復二,初二頌別顯三寶,後半頌總禮所師。初中復二,初一頌半唯敬法,後半頌敬佛、僧。法中分三,初半頌歎佛法神功,出生報、化,顯法身故,次半頌歎法深妙,詞理堅貞,群聖迷故,後半頌歎法玄約,文略義廣,威勢勝故。智者,佛也。聞已為我說者,慈氏菩薩僧也,天親論偈,彌勒菩薩為無著說,無著授與天親,令造釋故。天親偈云,「法門句義及次第,世間不解離明慧,大智通達教我等」,即明彌勒親教無著,無著轉教天親也。歸敬福田理應周普,但說此三者,是經所依及能起故,能說、所說,教依、義依,各敬勝首,攝餘一切。

全体を三つに分けます。最初に、師を敬い、意図を示します。次に、教えの核心を整理し、経文を解釈します。最後に、愚かさゆえに深遠な法が隠れ滅びることを嘆きます。

最初の部分は三つの偈に分かれ、前半の二偈半で師を敬い、後半の偈で意図を示します。前半はさらに二つに分かれ、最初の二偈で三宝を具体的に示し、後半の偈で師を総礼します。最初の二偈はさらに分かれ、最初の一偈半は法のみを敬い、後半の偈で仏と僧を敬います。

法の部分は三つに分かれます。最初の半偈は、仏法の神妙な功徳を称え、報身と化身を生み出し、法身を明らかにします。次の半偈は、法の深遠さと妙なる言葉と道理の堅固さを称え、多くの聖者も迷うほどです。最後の半偈は、法の玄妙で簡約された性質を称え、言葉は簡潔でも意味は広く、威勢が勝っていることを示します。

「智者」とは仏のことです。「聞已為我說」とは、慈氏菩薩(弥勒菩薩)が僧として説いたことを指します。天親(世親)の論偈では、弥勒菩薩が無著に説き、無著が天親に授けて解説を造らせたとあります。天親の偈に「法門の句義と次第は、世間は理解せず、明慧から離れている。大智はこれを通達し、我らに教える」とあり、弥勒が直接無著に教え、無著が天親に伝えたことを明らかにしています。

福田を敬う理屈は普遍的ですが、ここで三つだけを説くのは、この経が依る所と起こす所だからです。説く者と説かれるもの、教えの依り所と義の依り所、それぞれの勝れた首を敬い、残る一切を摂めます。

次科宗義,正釋經文分二,初、明七句,申正述之宏綱。後、「世尊為何故以寂靜」者下,重解前文,釋玄宗之巨委。初文復二,初、標七句,彰一部之大旨;後、釋前文配經文之所在。所明名義,能詮名句,以教詮義,名為有義句,義之句故。或義是所詮,文為能詮,以文隨義,皆有七故,名七義句。若文若義,皆有七故。若依天親法門句義及次第法門句義者,為句之義,名為句義,或唯義故。初標七句中分二,初、標列七句,後、顯七有異。初文有三,初、標,次、列,後、釋結。七中前六是所詮義,菩薩事故;第七是能詮句,能詮義句故。二釋義句,皆能詮也。前六之中,初三文之次第,分段義意,流三住處所明,其對治是所斷邊執,不失是所修中道。地是此二法之別位,總名為住處,發大乘心者所依處故,別名為地。彼位有漏、無漏諸法,順生彼位各別勝法能持不失,名之為地。總法所依,所止名住;別法能持,能生名地,是二差別。

次に科判の宗義を述べ、経文を正しく解釈する部分は二つに分かれる。初めに七つの句を明らかにし、正しい叙述の大綱を述べる。その後、「世尊はなぜ寂静を以てするのか」以下では、前文を重ねて解釈し、玄妙な宗義の細部を解き明かす。初めの文はさらに二つに分かれ、初めに七つの句を標示し、一経全体の大旨を明らかにする。その後、前文を解釈し、経文の対応する箇所を配当する。ここで明らかにされる名義は、能詮としての名句であり、教えによって義を解き明かすため、「有義句」と呼ばれる。すなわち、義を表す句である。あるいは、義が所詮であり、文が能詮であるため、文が義に従って、いずれも七つあるので、「七義句」と名づけられる。文であれ義であれ、いずれも七つあるからである。もし天親(世親)の法門句義および次第法門句義に依るならば、句の義として「句義」と名づけられ、あるいは単に義である。初めに七つの句を標示する部分は二つに分かれ、初めに七つの句を列挙し、後に七つに異なる意味があることを示す。初めの文は三つに分かれ、初めに標示し、次に列挙し、後に解釈して結ぶ。七つのうち、前の六つは所詮の義であり、菩薩の行いである。第七は能詮の句であり、義を解き明かす句である。二つ目の解釈では、義句もまたすべて能詮である。前の六つのうち、初めの三つは文の次第であり、分段の義意である。流れの三つの住処において明らかにされるものは、その対治は断ずべき辺執であり、不失は修すべき中道である。地はこの二つの法の別位であり、総じて住処と名づけられる。大乗の心を発する者の依り処であるから、別に地と名づける。その位には有漏・無漏の諸法があり、その位に順じて生じる各別の勝れた法を能持して失わないので、地と名づける。総法の依り処、止まる所を住と名づけ、別法を能持し、能生することを地と名づける。これが二つの違いである。

後釋前文,配經文之所在分七,隨前標釋故。佛種不斷有二義,一者、明佛能為善攝、善付,善現發請,欣佛為說,令諸菩薩當依修學,得紹佛種姓不斷故。論下解有六因故,善現發問,令佛種不斷。二者、明佛能為善攝、善付,令所攝、付諸菩薩等依位而修,由佛能令紹種不斷。故論結云,此善攝、付囑二種,顯示種姓不斷。故經說云,教發菩提心,令佛種不斷,即是此也。

前の文章を解釈し、経文の位置に合わせて七つに分けます。これは前に示された解釈に従うためです。

仏の種が絶えないことには二つの意味があります。

一つは、仏が巧みに摂取し、巧みに付嘱することができることを明らかにし、善現(須菩提)が発問を起こして仏に説いてもらうことを喜び、菩薩たちがこれに従って修行し学ぶことで、仏の種姓を受け継いで絶やさないようにするためです。論の下の解釈には、善現が発問を起こして仏の種を絶やさないようにする六つの理由があります。

二つは、仏が巧みに摂取し、巧みに付嘱することができることを明らかにし、摂取され付嘱された菩薩たちがそれぞれの位に応じて修行し、仏によって種姓を受け継いで絶やさないようにするためです。したがって、論は結んで言います。この善き摂取と付嘱の二つは、種姓が絶えないことを示している、と。経にも説かれているように、菩提心を起こすように教え、仏の種を絶やさないようにする、これがまさにこのことです。

文分為四,初、標佛種不斷,是問答之大綱,玄宗之巨意;二、別配文;三、逐難釋;四、結成前難。雖一部經問答之意皆為願欲令佛種不斷,由能問故,方能答生,初從勝名,故次別指,准在問中。此中初標論其實義,故言般若為佛種不斷,流行於世。

本文は四つの部分に分けられます。

第一に、仏の種が絶えることなく続くことを示す。これは問答の大綱であり、深遠な教えの核心です。

第二に、それぞれの文を対応させます。

第三に、難解な点を一つずつ解釈します。

第四に、先の難問をまとめて結論づけます。

この経典全体の問答の意図は、すべて仏の種が絶えることなく続くことを願うことにあります。

問いがあるからこそ、答えが生まれるのです。

最初は優れた名前に従い、次にそれぞれを指し示しますが、基準は問いの中にあります。

ここで最初に示すのは、その真実の意味を論じるためです。

ですから、般若こそが仏の種を絶やさず、世に広めていくものであると言うのです。

別配文中,「希有世尊」,意總標歎。「如來」以下,別顯。歎希有有三義,一、由能攝、付,佛成希有,餘不能故;二、時一出現,經多劫中不可見故;三、福德、智慧生可度種種莊嚴,無與等故。此中世尊是第十號,如來是初號,舉終括始,以略中間,故《能斷》云,「乃至如來、應、正等覺」,由舉終一,略其中間六,至於初三,餘文皆略無,乃至言十號,如《瑜伽》八十二釋。又此論牒經,云何如來以第一善攝等,云何之言,經本皆無。又此欲歎佛希有攝、付,乃言云何,翻成問佛,非是歎詞,深為乖角。善攝等者,《能斷》云,言「最勝攝受」,餘文但言善護念等,下文遂開第一及善,二義有異。最勝之言,其具第一、善二義故,此能攝受法,下論自解。

別の部分の解説において、「希有世尊」という言葉は、全体として称賛を表す総括的な標語です。「如來」以下は、それぞれの特徴を明らかにしています。希有を称える理由には三つの意味があります。第一に、仏陀が衆生を摂取し付嘱する能力を持つことによって希有であり、他の者にはできないからです。第二に、仏陀は長い時間を経て一度だけ出現し、多くの劫の間見ることができないからです。第三に、福徳と智慧によって救うべき衆生の種々の資質を生み出し、その荘厳さは比類がないからです。ここで「世尊」は第十の称号であり、「如來」は最初の称号です。終わりを挙げて始めを包括し、中間を省略しているため、『能断金剛般若波羅蜜多経』には「乃至如來、応、正等覚」とあります。終わりの一つを挙げて中間の六つを省略し、最初の三つに至るまで、残りの文章はすべて省略されています。「乃至」という言葉は十号を指し、『瑜伽師地論』第八十二巻に解説されています。また、この論では経文を引用して、「云何如來以第一善攝等」と述べていますが、「云何」という言葉は経典の原本にはありません。さらに、ここでは仏陀の希有な摂取と付嘱を称えようとして「云何」と言っていますが、これを仏陀への問いと翻訳すると称賛の言葉ではなくなり、非常に矛盾したものになります。「善攝」などについては、『能断金剛般若波羅蜜多経』では「最勝摂受」と言い、他の文章では単に「善護念等」と述べています。後の文章では「第一」と「善」の二つの意味を分けており、「最勝」という言葉には第一と善の両方の意味が含まれているからです。この摂受の法については、後の論で自ら解説されています。

逐難釋云,於中善攝等者,合經及二論,攝、付有六義,一、能攝、付者,如來唯在果位,《瑜伽》三十七,能成就有六,一、勝解行地菩薩,二、淨勝意樂地菩薩,三、行正行地菩薩,四、隨決定地菩薩,五、決定行地菩薩,六、到究竟地菩薩。彼在因位,此說果位,說一切位,極深妙法,非餘能故。又此說法王,彼說佛在世時及佛無後能成熟者,故不相違。二、所攝、付者,謂諸菩薩雖所成就通有四乘,行二利行,通他三乘,餘解不能故,此唯菩薩。此上二種,經文自有。三、攝、付之時,此中論云,於佛證正覺轉法輪時,以五義中菩薩乘法化根已熟,名為善攝;於佛涅槃時,亦以五義化已得攝受菩薩,名善付囑。四、所攝、付類,天親論云,善攝化根已熟,善付化根未熟,此中二時俱化根熟。一解,二論義同,此中意說,根熟菩薩,佛初成道,佛自攝受,令依教行,稟於佛訓。佛入滅時,佛化既無,無能攝付,但以佛法,付根已熟,令根未熟於彼受化,名善付囑。故此說言,已得攝受菩薩於佛滅時,亦以五義而建立之,非是二時俱以五菩薩法建立已熟名善付囑,故二論同。由佛若在,未熟菩薩亦自攝、付,劣故隱之。或此中付論遇佛皆熟,名善攝受;滅後令度是根未熟,名善付囑,便無有妨。故真諦經云,善攝受者由無上利益故,善付囑者由無上教故。二解,兩論意別,此依二時俱依根熟,已顯攝、付,佛在所化,當來之世成能化故,根未熟者,非當能化,故略不說。彼依一時、當來能化、所化二類,以分攝、付,各聖義別。彼所無者,此便解之。五、所攝、付法,論云,五種義中,菩薩法而建立故。或有解云,謂五乘法中菩薩之法。若爾,云何名為五義,不名五乘?既法付五乘,如何言攝付菩薩?今為二解,一云,即下重釋前之玄宗之巨委中,釋布施云,自此已後,餘住處中,有五種隨所相應而解釋,一、依義,二、說相,三、攝持,四、安立,五、顯現,即是經中所明,理事二行,善惡二門,菩薩修斷之法,是佛二時所攝、付法。二云,即前七義句中,後五句義所明菩薩行法,前二門問,後五佛答,是正所明能攝、付法。天親釋此能攝、付法,彼云,護念是此攝受,攝受根熟有二,一、與智慧力,令自成就佛法;二、與教化力,即是大悲令攝取眾生。付囑中,彼論有二,一、總解云,謂根未熟,於得、未得功德中,懼其退失,付授智者。二、別解云,又得不退者,不捨大乘故。此所付法,謂十住第六住已前所已得法,未得不退,於大乘中欲令勝進故;此所付法,第七住後所未得法。此中總顯根熟菩薩在七住後不退位中,未熟菩薩在六住前可退位內故,《瑜伽論》說,能成熟有六種住。又勝解行位亦名能熟,即是此中在七住後所善攝者;六住已前即是此中所付囑者,由此位可退,令不捨大乘,攝、付囑故。又此意言說,不捨大乘定信,非不捨位。若作此解,十信之中,第六已前名根未熟,專信大乘猶未定故,第六心已後名根已熟,信決定故。又不論定故,若全未信名根未熟,猶住劫外,若起信心名根已熟,即入劫內,故《瑜伽》言,能成就者,通勝解行。上來且說三位二類,初地、八地證行二種,有退、不退兩位二類,亦應分別,上化下故,下稟上故。下文已成熟有三品,其所善攝、付囑在此明之二類隨應當知。六、所攝、付相,此卷下文,利樂相應為善攝第一,有六種;第二付囑亦有六種,自下當解。

『逐難釈』に説く。この中で「善く摂め」などとは、経典と二つの論書を合わせて、摂め付けることには六つの意味がある。

一、能く摂め付けるもの。如来はただ果位に在り、『瑜伽論』第三十七巻に、能く成就するものに六種あると説く。一、勝解行地の菩薩、二、浄勝意楽地の菩薩、三、行正行地の菩薩、四、随決定地の菩薩、五、決定行地の菩薩、六、到究竟地の菩薩。それらは因位にあるが、ここでは果位を説き、一切の位を説く。極めて深遠微妙なる法は、他の者が能うるところではないからである。また、ここでは法王が説法することを説き、『瑜伽論』では仏が在世の時及び仏の滅後に能く成熟させる者を説くので、互いに矛盾しない。

二、摂め付けられるもの。諸菩薩は、成就する所が四乗に通じ、自利利他の行を修め、他の三乗にも通じるが、他の解釈ではこれを能わないので、ここではただ菩薩のみを説く。この上記の二種は、経文自体に備わっている。

三、摂め付ける時。ここで論に云う。仏が正覚を証し法輪を転ずる時に、五つの意義の中で菩薩乗の法をもって根機の熟した者を教化し、これを「善く摂める」と名づける。仏が涅槃に入る時にも、また五つの意義をもって既に摂受を得た菩薩を教化し、これを「善く付嘱する」と名づける。

四、摂め付けられる種類。天親の論に云う。善く摂めるとは、根機の熟した者を教化すること。善く付嘱するとは、根機の未熟な者を教化すること。ここでは、二つの時ともに根機の熟した者を教化する。一つの解釈によれば、二つの論の意義は同じである。ここで意図するのは、根機の熟した菩薩について、仏が初めて成道した時、仏自らが摂受し、教えに依って行じさせ、仏の訓戒を承けしめること。仏が入滅する時、仏の教化が既に無ければ、能く摂め付ける者はいない。ただ仏法を以て、根機の既に熟した者に付嘱し、根機の未熟な者をして彼らから教化を受けるようにさせることを、「善く付嘱する」と名づける。故にここで説くには、既に摂受を得た菩薩は、仏の滅する時にも、また五つの意義によってこれを建立するのであって、二つの時ともに五つの菩薩法によって既に熟した者を建立して「善く付嘱する」と名づけるのではない。故に二つの論は同じである。仏がもし在世であれば、未熟の菩薩も自ら摂め付けるが、劣っているのでこれを隠すのである。あるいは、ここでの付嘱の論では、仏に遇えば皆熟するので、「善く摂受する」と名づけ、滅後には度することを命じるのは根機の未熟な者であるので、「善く付嘱する」と名づけても妨げはない。故に真諦訳の経に云う。善く摂受するとは、無上の利益による故に。善く付嘱するとは、無上の教えによる故に。

もう一つの解釈によれば、両論の意図は別である。ここでは二つの時ともに根機の熟した者に依って、既に摂め付けることを顕わし、仏が在世の時は所化であり、将来の世において能化となるべき故に、根機の未熟な者は、将来能化となるべきではないので、略して説かないのである。『瑜伽論』は一時(仏在世)に依り、将来能化となるべき者と所化となるべき者の二類によって、摂め付けることを分け、各聖者の義が別である。彼の論に無いものを、ここで解き明かすのである。

五、摂め付けられる法。論に云う。五種の義の中において、菩薩の法によって建立する故に。ある解釈に云う。五乗の法の中の菩薩の法を謂う。もしそうならば、どうして「五義」と名づけて、「五乗」と名づけないのか。既に法を五乗に付嘱するならば、どうして「菩薩を摂め付ける」と言うのか。今、二つの解釈を為す。一つには、即ち下文中で前の玄宗の巨委を重ねて釈する中で、布施を釈して云う。ここより以後、他の住処の中に、五種の随所相応して解釈するものがある。一、義に依る、二、相を説く、三、摂持、四、安立、五、顕現。これが即ち経中に明かされる所の、理と事の二行、善と悪の二門、菩薩が修断する法であり、これが仏の二時に摂め付けられる法である。

二つには、即ち前の七義句の中の、後の五句の義に明かされる菩薩の行法であり、前の二門は問い、後の五つは仏の答えであり、これが正しく明かされる能く摂め付ける法である。天親がこの能く摂め付ける法を釈するに、彼は云う。護念とはこれ摂受なり。根機の熟した者を摂受するには二つある。一、智慧の力を与え、自ら仏法を成就せしめる。二、教化の力を与える。即ちこれ大悲にして、衆生を摂取せしめる。付嘱の中に、彼の論に二つある。一、総じて解して云う。根機の未熟な者を謂い、得たる、未だ得ざる功徳の中において、その退失を懼れ、智者に付嘱授ける。二、別に解して云う。また不退を得たる者は、大乗を捨てざる故に。この付嘱される法とは、十住の第六住以前に既に得た法を謂い、未だ不退を得ず、大乗中において勝進せしめんが為に。この付嘱される法とは、第七住以後に未だ得ざる法を謂う。ここでは総じて、根機の熟した菩薩は七住以後の不退位の中に在り、未熟の菩薩は六住以前の可退位の内に在ることを顕わす。故に『瑜伽論』に説く。能く成熟するものに六種の住がある。また勝解行位もまた能熟と名づけ、これが即ちここで七住以後にある善く摂められる者である。六住以前は即ちここで付嘱される者である。この位は退転し得る故に、大乗を捨てさせず、摂め付嘱するのである。またこの意は、大乗を捨てない定信を説くのであって、位を捨てないのではない。もしこのように解するならば、十信の中、第六心以前を根機未熟と名づけ、専ら大乗を信ずるも未だ定まらざる故に。第六心以後を根機已熟と名づけ、信が決定する故に。また、定で論じない故に、もし全く未だ信ぜざるを根機未熟と名づけ、猶劫外に住する。もし信心を起こすを根機已熟と名づけ、即ち劫内に入る。故に『瑜伽論』に言う。能く成就する者は、勝解行に通ず。上来、且く三位二類を説く。初地、八地の証行二種には、退・不退の兩位二類があり、また応に分別すべきである。上が下を化し、下が上を承ける故に。下文に、已成熟に三品あり、その善く摂め付嘱される所は、ここに明かす二類に在り、随応して知るべし。

六、摂め付けられる相。この巻の下文に、利楽相応を以て善く摂める第一と為し、六種あり。第二の付嘱にもまた六種あり。自り下りて当に解くべし。

上六義中,經文有二,一、能攝、付者,二、所攝、付者。無著論有二全一少分,二全者,一、攝付之時,二、所攝付相;一少分者,所攝付法。天親論有一全一少分,一全者,所攝付類;一少分者,所攝付法。二論但解攝受、付囑,即總言故,合開四總或六義。天親論以一頌頌前文義,《菩薩地》說,菩薩已成就有三品,初劫名下品,第二劫名中品,第三劫名上品,唯三品前名未熟。

第六の義において、経文には二つあります。一つは、能く摂め付ける者、二つは、所摂め付けられる者です。

無著の論には、二つの全体と一つの少分があります。二つの全体とは、一つは摂め付ける時、二つは所摂め付ける相です。一つの少分とは、所摂め付ける法です。

天親の論には、一つの全体と一つの少分があります。一つの全体とは、所摂め付ける類です。一つの少分とは、所摂め付ける法です。

二つの論は、ただ摂受と付囑を解き明かすのみで、つまり総括して述べているため、四つの総括または六つの義にまとめ開示しています。

天親の論は、一つの頌で前の文の意義を称えています。『菩薩地』には、菩薩が既に成就したものには三品があり、初劫を下品と名付け、第二劫を中品と名付け、第三劫を上品と名付け、ただ三品の前を未熟と名付けていると説かれています。

二發起行相者,發起了於行,謂般若行解,即慧體名相,以無相故,非是相狀,如十六行慧勝得名,三問皆因慧行相,佛所正答,是慧行相。今為問起,名發起於行相,能起佛說慧行相故。或此三問皆問所修行之體狀,名為行相,於中修慧雖標總稱,而得自名,別名修行。若依前解,雖諸福智、有無為等皆所修諸法,慧為般若之體,獨得其名,若依後解,唯在有為,無為非行,便成大過,以問有為行,無為自證,亦無有失。以此理微,前解有典據,文有三,初、指文,次、釋三,後、結。第二文有二,初、總顯,後、別解。

発起行相とは、行において発起したことをいう。すなわち般若の行解であり、慧の本体を名相とする。無相であるゆえ、相状ではない。たとえば十六行の慧が勝れているゆえに名を得るように、三つの問いはいずれも慧の行相に因り、仏が正しく答えられたのは、これが慧の行相であるからである。今、問いが起こされたゆえに、発起行相と名づけ、仏が説かれる慧の行相を起こすことができるからである。あるいは、この三つの問いはすべて修行する体状を問うものであり、行相と名づける。この中で修慧は総称として掲げられながらも、自らの名を得て、別名を修行という。もし前の解釈に依れば、すべての福智や有為・無為などはすべて修行すべき諸法であるが、慧は般若の本体であるゆえ、ただこれのみがその名を得る。もし後の解釈に依れば、ただ有為のみにあり、無為は行ではないとなれば、大きな過ちとなる。有為の行を問い、無為を自ら証するとしても、また過ちはない。この道理は微細である。前の解釈には典拠があり、文は三つに分かれる。初めに文を指し、次に三つを解釈し、後に結ぶ。第二の文は二つに分かれ、初めに総じて顕し、後に別に解する。

欲者希求,初希也;願謂思念,復欲也。願以欲、勝解為體,入諸善法,欲為根本。本名正求,次生勝解,名欲思念。欲願體通聞、思二慧,三摩鉢底名等至,唯定非散,非通有無心,此簡唯取無分別定,非散、無心,正修慧法相應等至,三慧相應無分別定,正名等持、三摩地也。有放逸分別生如實覺悟,雖住散位,非無分別,亦不生執,尋當攝念,通等持位及等至位,名降伏心。下文云,乍觀此論,在此文明之,觀此文意,初一聞、思,次一修慧,後一若放逸生心,尋還入定,制之一處,無事不辨。

欲とは希求であり、初めの希求です。願とは思念であり、再び欲することです。願は欲と勝解を本体とし、すべての善法に入るには、欲が根本となります。根本を正求といい、次に生じる勝解を欲思念といいます。欲願の本体は、聞慧と思慧の二つの慧に通じます。

三摩鉢底は等至と呼ばれ、ただ禅定にあり散乱にはありません。有心にも無心にも通じず、これはただ無分別の禅定をとることを簡別したもので、散乱や無心ではなく、正しく修慧の法と相応する等至です。三慧と相応する無分別の禅定は、正しく等持、すなわち三摩地と呼ばれます。

放逸の分別が生じても、そのままの覚悟があります。たとえ散位に住していても、無分別ではなく、また執着も生じず、まもなく心を摂めて、等持位および等至位に通じることを、心を降伏するといいます。

下文に言うように、この論を一見すれば、この文において明らかです。この文の意味を観ると、初めは聞慧と思慧、次は修慧、最後はもし放逸が心に生じても、まもなく再び定に入り、一か所に制して、成し遂げられないことはありません。

故下論解經名中,能斷者,般若波羅蜜中,聞、思、修所斷,如金剛斷處而斷故,由此聞、思皆折伏名能斷。又在修位學勝慧時,最初證得心平等性,次後證得明心正直性,最後證得心無功用住性,故為三問。經云,第一顯前攝道,攝彼彼行故;第二顯成熟道,勝修慧位故;第三顯不失道,不過故,正解此同。又初是加行道,次是無間、解脫道,後是勝進道,但在因中,非佛位有。信行地中,三皆有漏;八地已前,初地已後,通有、無漏;八地已上純是無漏,無勉勵加行,有任運加行故,無別發勝進,即於一念外,行身、語亦無放逸,故此具三。或一剎那真俗並用,剎那剎那皆具三種,任運欣趣內平等觀、外起化故。然天親論中,初住心深念眾生,次修行菩提心,後降伏厭離有為。又此三問,初、恩德因,次、智德因,後、斷德因,即是化身、報身、法身因。亦逆次第,斷惡,修善,度脫眾生,此初名攝道,攝受眾生故;次成熟道,修佛法故;次不失道,離惡盡故。乍觀此論,以聞、思、修解,初二似有別;不離修慧位,有此三種,故不相違。然依《菩薩地》,初答有三持,謂諸菩薩自乘種姓,為第一堪任性持,以此為依,堪證大菩提故;最初發心,為第二行加行持,以此為依,行於能證大菩提行,皆圓滿故;所修一切菩提分等一切萬行,為第三所圓滿大菩提持。故無種姓不名為持,其有種姓,雖未發心,望彼為勝。若依天親論,別答三問,前後文別。由初能持故,可起菩提心,有初住問;由有第二能持故,別起行,有第二修行問;由有第三能持故,得大菩提,有第三伏心問。或天親文與此無別,文中一一皆有三答,據文顯相,且就偏說。別配經文,不遮一一文皆具三故,前所解三佛因緣不爾,便與二論相違,三持義別,不次此配文。又初二問能治道,第三問斷所障故,但三問不增不減。羅什二問,住中合故。

そこで下の論で経の名前を解釈する中で、「能断」とは、般若波羅蜜において、聞・思・修によって断じられるものが、金剛が物を断つように断じられるからである。これによって聞と思もまた、折伏して断じることを「能断」という。また、修行の位で勝れた智慧を学ぶ時、最初に心の平等性を証得し、次に明らかな心の正直性を証得し、最後に心の無功用住性を証得する。だから三つの問いがあるのである。経には、第一は前に述べた摂道を顕わし、様々な行いを摂するからであり、第二は成熟道を顕わし、勝れた修慧の位であるからであり、第三は不失道を顕わし、過ちがないからであると説かれている。この解釈は同じである。また、初めは加行道であり、次は無間・解脱道であり、後は勝進道である。ただし、これは因の位にあり、仏の位にはない。信行地においては、三つとも有漏である。八地より前、初地より後は、有漏・無漏の両方を含む。八地以上は純粋に無漏であり、努力する加行はなく、任運の加行があるからである。別に勝進を起こすことはなく、一瞬の外においても、身と言葉の行いに放逸がない。だから三つを具えているのである。あるいは、一刹那に真諦と俗諦を併せ用い、刹那刹那に三種をすべて具え、任運に内なる平等観に欣趣し、外には教化を起こすのである。しかし天親の論では、初めは衆生を深く念じる住心であり、次は菩提心を修行し、後は有為を厭離して降伏する。またこの三つの問いは、初めは恩徳の因であり、次は智徳の因であり、後は断徳の因である。つまり化身・報身・法身の因である。また逆の次第では、悪を断ち、善を修め、衆生を度脱する。これが初めに摂道といい、衆生を摂受するからである。次は成熟道といい、仏法を修めるからである。次は不失道といい、悪を離れ尽くすからである。一見この論は、聞・思・修によって解釈し、初めの二つは別々のように見えるが、修慧の位を離れずにこの三種があるので、矛盾しない。しかし『菩薩地』によれば、初めの答えには三つの持がある。すなわち、諸菩薩の自乗の種姓を第一の堪任性持といい、これによって大菩提を証得することができるからである。最初の発心を第二の行加行持といい、これによって大菩提を証得する行をすべて円満に行うことができるからである。修める一切の菩提分などすべての万行を第三の所円満大菩提持という。だから種姓がなければ持とはいえず、種姓があってもまだ発心していなければ、それに比べて勝れているとはいえない。もし天親の論によれば、三つの問いに別々に答え、前後の文は異なる。初めに能持があるから、菩提心を起こすことができ、初めの住の問いがある。第二の能持があるから、別に行いを起こし、第二の修行の問いがある。第三の能持があるから、大菩提を得ることができ、第三の伏心の問いがある。あるいは天親の文とこれとは違いはなく、文中の一つ一つに三つの答えがあり、文に顕われた相に基づき、偏りを説いているに過ぎない。経文に別々に配当するが、一つの文にすべて三つを具えていることを妨げない。前に解釈した三つの仏の因縁はそうではなく、二つの論と矛盾し、三つの持の意味が異なるので、このように文に配当しない。また、初めの二つの問いは能治の道であり、第三の問いは断ずべき障りであるから、三つの問いは増えも減りもしない。羅什は二つの問いとし、住の中で合わせている。

准下解五種相文,從初發心,次修行布施等,乃至未入佛地,皆通此三,即勝解行位,有無分別三摩鉢底。《攝論》等文云,尋伺、實智、唯識觀等,皆在決擇分位,便與此文相違。解云,別作無相三性觀等在決擇分位,總觀無相起無分別修慧在勝解行,何妨亦得?天親菩薩明此道理,不得別作無相觀故,修行但說散布施等,三輪清淨修無相行,不說入等至;無著菩薩以總觀作無相觀等,說勝解行位,亦作無相等至。即以此理,天親菩薩住心初發,修行次生,後降心斷障,方作無相觀,斷分別故,初二聞、思伏,後方修慧斷,故答三問,前後別,文別,修行別別位故。無著菩薩以總得作無相觀,修折伏、正斷,俱名為斷,隨應位位皆運得作,故於文文皆答三問。以有二義故,二論主各各別解,各據一義,亦不相違,合二論義方是。由此順古,無著一周為利根一人,久修行者樂聞凡夫、十地及佛三位者說,天親二周為鈍根一人,初修者未聞凡夫發心、修行、斷障有疑者說,亦不相違。由不樂聞十地等行,合說二義,方周備故,經然今給審觀,天親論主作兩周說,讀者自錯,應以無著成就天親,天親義𨷂無著方解,但是捨迷。天親論頌,彌勒所說,無著菩薩豈與相違?有少不同,至經當釋。又依古釋,利根一聞即解,鈍人再聞方悟,利根初後二時而至,無著一周,天親兩周,兩論釋別,所望異故。依此釋經,全無相合違,文似重昏,乍謂兩周,據後釋經,全無重相,下自當悉,預解難知。

まず、五つの相についての解釈を述べます。最初に発心し、次に布施などの修行を始めてから、仏の境地に入る前までは、すべてこの三つを通じます。これが勝解行位であり、無分別三摩鉢底があります。『摂論』などの文には、尋伺・実智・唯識観などはすべて決択分位にあると説かれていますが、これはこの文と矛盾しているように見えます。解釈としては、別々に無相・三性観などを行うのは決択分位であり、総合的に無相を観じて無分別の修慧を起こすのは勝解行位です。これらが両立しないわけではありません。天親菩薩はこの道理を明らかにし、別々に無相観を作ることはできないとされ、修行においてはただ布施などを広く行い、三輪清浄の無相行を修めると説き、等至に入ることは説きませんでした。一方、無著菩薩は総合的な観想によって無相観などを行い、勝解行位においても無相等至を行うと説かれています。この理により、天親菩薩はまず心を発起させ、次に修行を生じさせ、その後で心を降伏させて障礙を断じ、ようやく無相観を行って分別を断じるとされます。初めの二つは聞・思によって伏せられ、後に修慧によって断じられるため、三つの問いに対する答えも前後が別れ、文も別れ、修行もそれぞれの位で別々に行われます。無著菩薩は総合的に無相観を得て、折伏と正断の両方を修め、ともに「断」と名づけ、それぞれの位に応じてすべて行うことができるとされます。そのため、文ごとに三つの問いに答えています。この二つの意味があるため、二つの論の主はそれぞれ別の解釈をし、それぞれ一つの義に依拠していますが、互いに矛盾するものではなく、両方の論の義を合わせて初めて完全となります。これにより古説に順じ、無著は一つの周りで利根の一人、久しく修行する者、凡夫・十地・仏の三位を喜んで聞く者に対して説き、天親は二つの周りで鈍根の一人、初めて修行する者、凡夫の発心・修行・断障について疑いを持つ者に対して説きましたが、これも矛盾しません。十地などの行を喜んで聞かない者に対しては、二つの義を合わせて説くことで、初めて完全となるからです。経典はこのようですが、今ここで詳しく観察すると、天親論主が二周説を立てたのは、読者が自ら誤解したものであり、無著によって天親が成就され、天親の義は無著によって初めて解き明かされるべきです。これはただ迷いを捨てることにすぎません。天親の論頌は弥勒によって説かれたものであり、無著菩薩がこれと矛盾するわけがありません。少しの違いがある場合は、経典に至って解釈すべきです。また、古い解釈に依れば、利根は一度聞いて即座に理解し、鈍根は再び聞いて初めて悟ります。利根は初めと後ろの二時に至り、無著は一周、天親は二周とし、二つの論の解釈が異なるのは、依拠するものが異なるからです。この解釈に依って経典を解釈すれば、全く矛盾する点はなく、文が重複しているように見えるのは、一見して二周説と思われるかもしれませんが、後の解釈に基づいて経典を見れば、全く重複はありません。以下で自ら明らかになるでしょうが、事前に理解するのは難しいことです。

行所住處者,行謂三問所發起行相,住處謂所依止,彼修行相所依止道理處所。文有二,初、說初處,後、結已說住處。初中復二,初、說十八住處,後、說八住處。初中有三,初、標名列,次、解次第,後、別配文。標名列有二,初、標名釋,次、列名。列名有三,一、標,二、列,三、結。解次第中有三,初、以七義攝十八處,次、解次第,後、結成釋。

行の住処について。行とは、三つの問いによって引き起こされる行いの様相を指し、住処とは、それに依りどころとすることを指す。その修行の様相が依りどころとする道理と場所である。

本文は二つに分かれる。初めに、最初の住処を説き、後に、すでに説かれた住処をまとめる。初めの部分もさらに二つに分かれる。初めに十八の住処を説き、後に八つの住処を説く。十八の住処を説く部分は三つに分かれる。初めに名称を掲げて列挙し、次に順序を解き明かし、後にそれぞれの文に対応づける。

名称を掲げて列挙する部分は二つに分かれる。初めに名称を掲げて説明し、次に名称を列挙する。名称の列挙は三つに分かれる。一に標を示し、二に列挙し、三にまとめる。

順序を解き明かす部分は三つに分かれる。初めに七つの意義によって十八の住処を包括し、次に順序を解き明かし、後にまとめて解釈を完成させる。

八住處中,前六住處即此七種次第是,彼後三住處通一切處,後文自解。六中第四合名離障礙,此中開為二,一、離障,二、求教授。據實求教授,亦離無教授障故,八住處中第四合名離障礙處,論下卷初亦言。今說離障處十二種障礙對治,無教授障亦入障中,今此以外求法為名,名求教授,餘說離障,故離障外說求教授。又此名證道,八住處中名為淨心,名異義同。然發心等皆雖離障,復離障等皆亦有行,各據增上為名,不相違。前十六住處,信行地中分三,一、發心住處,是十住位;波羅蜜行、欲得色身、欲得法身,是十行位;餘十二種,是十迴向位。後文牒釋中有二名不同,初、名智相至得,後、名福相至得,此依可樂對智名福,彼依證獲故名至得,又彼依能得、所得通名至得,此總對智俱總名福。

八つの住処のうち、前六つはこの七種の次第に当たります。後の三つの住処はすべての場所に通じるもので、後の文で自ずと解かれます。六つのうち第四は「障礙を離れる」と総称されますが、ここでは二つに分けられています。一つは「障礙を離れる」、もう一つは「教授を求める」です。実際には教授を求めることも、教授のない障礙を離れることになるため、八住処の第四は「障礙を離れる住処」と総称され、論の下巻の初めにも述べられています。今ここでは、離障処の十二種の障礙に対する対治を説き、無教授の障礙も障礙の中に入ります。しかし、ここではそれを別にし、法を求めることを名として「教授を求める」と名付け、他の説では障礙を離れることを説くため、離障の外に教授を求めることを説きます。また、ここでは「道を証する」と名付け、八住処では「心を浄める」と名付けられています。名は異なりますが、意味は同じです。しかし、発心などは皆、障礙を離れることではありますが、また離障なども皆、行を有しています。それぞれが増上に基づいて名付けられているため、矛盾はありません。前の十六の住処は、信行地の中で三つに分けられます。一つは「発心の住処」で、十住の位に当たります。波羅蜜行、色身を得たいと願うこと、法身を得たいと願うことは、十行の位に当たります。残りの十二種は、十廻向の位に当たります。後の文の引用と解釈の中には、二つの異なる名があります。初めは「智相の至得」、後は「福相の至得」と名付けられています。これは、楽しむべきものに対して智を福と名付けることに依り、あちらは証して得ることに依って至得と名付けられています。また、あちらは能得と所得に依って通じて至得と名付けられ、こちらは総じて智に対して共に総じて福と名付けられています。

問:「何故欲得色身,不名欲得法、得法身?餘名欲法?」答:「四蘊、無為名法,不可見故;色蘊可見而守自名,餘名少別,及分三位,由相難知,皆至文解。」

問:「なぜ色身を得ようと欲することは、法を得ること、法身を得ることとは言わないのでしょうか?他のものは法を欲すると言われるのはなぜですか?」

答:「四蘊と無為は法と呼ばれます。それは目に見えないからです。色蘊は目に見えるため、そのままの名で呼ばれます。他のものは少し異なる名称で呼ばれ、また三つの位に分けられます。その相が理解しにくいため、すべて本文に至って説明されます。」

證道中解妙身、大身、至得身、成就身,得畢竟轉依故名妙身,此意說無為法身名至得身,報化名成就身,或自受用、真如合名至得身。依《金光明經》,俱法身故,能得、所得性故,他報、化佛為佛形,佛不為佛形,佛皆名成就身。後卷重解中意,明得三身皆妙身故,至彼當知。大身謂一切眾生身攝身故下文,由得五平等故,攝一切生與已無別,攝一切生以為自體,故名大身,普度故。此中應說,一切道品染品,在證道、離慢二中配屬,即十障、十度,略無十如,但明能證。

悟りの境地において、妙身・大身・至得身・成就身を解き明かします。

究極の転依を得たゆえに妙身と呼ばれます。 ここでいう「至得身」とは無為の法身を指し、「成就身」とは報身と化身を指します。 あるいは自受用身と真如が一体となったものを至得身と呼ぶこともあります。

『金光明経』によれば、 すべては法身であるがゆえに、 能得と所得の性質を持つゆえに、 他者の報身・化身は仏の形をとりますが、 仏自身は仏の形にとらわれず、 すべて成就身と呼ばれます。

後の巻で重ねて解き明かされるように、 三身すべてが妙身であることが示されます。 詳細はその時に明らかになります。

大身とは、一切衆生の身を自らの身に摂め取ることを意味します。 下文では、五つの平等を得たゆえに、 一切の衆生を自分と別なきものとして摂取し、 一切の衆生を自らの本体とすることから大身と呼ばれ、 広くすべてを救い渡すからです。

ここで述べるべきは、 一切の道品と染品が、 証道と慢離の二つに配属されることです。 つまり十の障りと十の波羅蜜であり、 十如是については簡略にし、 能証の側面のみを明らかにしています。

求佛地中有三,初、標,次、曲列釋,後、別指經。為十地菩薩所求佛地故說後經,故名上求,上求佛位故。此上總顯住前前位所起之障障後後位,因彼位起障後位故,隨其所應俱生、分別斷之位,次能伏即異前位所起,後位能伏即佛地障,十地中起,八地以前名起彼故,佛位國土淨等通三佛國,如是一一皆當了知。

仏地を求めることには三つの段階があります。初めに目標を示し、次に詳しく説明し、最後に経典を指し示します。十地の菩薩が求める仏地のために後の経典が説かれるので、「上求」と呼ばれます。上に向かって仏の位を求めるからです。

ここまでに述べたことは、前の位に住している時に起こる煩悩が後の位を妨げることを全体的に示しています。その位で起こった煩悩が後の位を妨げるため、それぞれの位に応じて、俱生煩悩と分別煩悩が断たれる段階があります。次の位でそれを抑えることができるようになるのです。

前の位で起こった煩悩を、後の位で抑えることができるようになるのが仏地の障りです。十地の中で起こる煩悩は、八地以前では「その位で起こる」と言われます。

仏の位における国土清浄などは、三身仏の国土すべてに通じます。このように、一つひとつをしっかりと理解していくべきです。

為流轉不染中有二,初、配經,後、別解九喻。九喻中有二,初、標四有為相,後、別解。標四中,天親論束九為三,一、觀相,二、觀受用,三、觀受於三世事。束此四中,第二者、所住味,第三、隨順過失,為一觀受用,彼以所受用境、能受用身,能受用、所受用合為一受用,此以境處為所受用,其身及受為能受,二別分為所味及過失,能味身、身受皆過失故。又此論以相為初,以星為喻,以見為次,以翳為喻,彼論以見為初,以星為喻,以相為次,以翳為喻。略有二解,一云,二論望別,亦不相違。二云,此義錯彼論正義,准第二觀受用中,以所著味境為初,後方說能受,故知觀自性相中亦爾,以相為初,以見為次。故此論初舉相,取能見相之見,第二舉見,取所見相,翻文有別,亦不相違。前後俱是作者,異端以相通,是見識義二相,故初舉之。彼論心亦同,彼初皆舉境,後方舉能,餘皆同也。自性相總談世間外道邪妄一切凡夫法性,見相為妄性,識相為凡性,著所住味,隨順過失,別明二類,不知因生或業,由外五塵為所味著,能依止身,能用之受,因生過失,無常等執為常、我等,其能受用順生三苦,而彼不知。

流れ動くも染まらざるものについて、二つの点がある。まず経文に対応させ、次に九つの譬えを個別に解釈する。九つの譬えの中にも二つあり、初めに四つの有為の相を示し、後に個別に解釈する。四つの相を示す中で、天親の論は九つを三つにまとめている。第一に相を観じ、第二に受用を観じ、第三に三世の事を受けることを観じる。この四つをまとめる中で、第二は住むところの味わい、第三は過失に順ずることで、一つの受用観とされる。彼は受用される境と受用する身とを合わせて一つの受用とし、ここでは境の処を受用されるものとし、その身と受とを受用するものとし、二つを別々に味わいの対象と過失とに分ける。味わう身と身受とはともに過失であるから。またこの論では相を初めとし、星を譬えとし、見を次とし、翳(かすみ)を譬えとする。彼の論では見を初めとし、星を譬えとし、相を次とし、翳を譬えとする。おおよそ二つの解釈がある。一つには、二つの論は別の立場から見ても矛盾しないという。二つには、この意味は彼の論の正しい義に照らして誤りであり、第二の受用観の中では、まず執着する味わいの境を初めとし、後に受用するものを説く。ゆえに自性相を観ずる中でも同様に、相を初めとし、見を次とすることがわかる。したがってこの論では初めに相を挙げて、相を見る見を取り、第二に見を挙げて、見られる相を取る。文の順序が異なるだけで、矛盾はない。前後ともに作者の意図であり、異なる端緒によって相通じる。すなわち相は見識の義という二つの相であるから、初めにこれを挙げる。彼の論の心も同じく、初めにすべて境を挙げ、後に能を挙げる。その他はすべて同じである。自性相は総じて世間の外道の邪妄なる一切の凡夫の法性を語り、見相は妄りの性、識相は凡夫の性である。住むところの味わいに執着し、過失に順ずることは、二つの類を別々に明らかにする。因から生じるか業から生じるかを知らず、外の五塵を味わい執着する対象とし、それに依り止まる身、それを用いる受が、因から生じる過失であり、無常なるものを常と執し、無我なるものを我と執する。その受用するものは三苦を生じさせるのに順ずるが、彼らはそれを知らない。

若有受皆苦,是經文下,是論解苦受,彼苦生故是苦苦,樂受破滅故是壞苦,與前二無常不相離是行苦,欲界具三,色界有二,第四禪已上有一。後說三世喻,隨順出離相,以離三世不生前失,順二無我便得出離,以攀緣三世,則知二我無得出離故,由此但說九喻,不增不減,與八喻、五喻等有差別,應會釋之。然天親論云,觀此九法得何功德,亦與此「同觀相及受用,於三世事,於有為法中,得無垢自在」,由觀此九法依他性,不為生死惡業所拘,便得勝果,出離自在。

もしも苦しみを受けることがあれば、すべてが苦である。この経文の下に、論が苦しみを受けることを解き明かしている。その苦しみが生じるゆえに「苦苦」であり、楽の受が破壊されるゆえに「壊苦」であり、前の二つと無常が離れないゆえに「行苦」である。欲界には三つが備わり、色界には二つがあり、第四禅以上には一つがある。

後に三世のたとえを説く。出離の相に随順する。三世を離れれば生じる前の過ちがないからである。二つの無我に順じれば出離を得ることができる。三世に縁を攀じれば、二つの我が出離を得られないことが分かるからである。これによってただ九つのたとえを説き、増やさず減らさない。八つのたとえや五つのたとえなどとは違いがあるから、これらを合わせて解釈すべきである。

しかし天親の論には、この九つの法を観じてどのような功徳を得るかとある。これもまた「相と受用を共に観じ、三世の事において、有為の法の中に、垢なき自在を得る」と同じである。この九つの法の依他性を観ずることによって、生死の悪業に束縛されず、すぐれた果報を得て、出離の自在を得るのである。

隨順過失文有二,一、標,二、釋。初中有三,初、總釋;次、引經,若有受皆是苦故;後、釋義。

随順の過失についての文には二つあり、一つは標示、二つは解釈です。初めの標示には三つあり、初めは総論的な解釈、次に経典を引用して「もし受があれば、すべてこれ苦であるから」とし、最後にその意味を解釈します。

順出離中有三,初、標解順出離,次、別解三喻,後、結順出離。初有三,初、牒名;次、釋出離,以二無我為出離體,即是真如滅諦性故;後、解隨順,以三世喻知無實相,便能順彼出離無我。

順に出離へと向かう中に三つの段階がある。

初めに、順に出離へと向かうことの理解を示す。 次に、三つの喩えを個別に解き明かす。 最後に、順に出離へと向かうことをまとめる。

初めの段階には三つある。 第一に、その名を挙げる。 第二に、出離を解き明かす。二つの無我を出離の本体とし、これは真如であり、滅諦の性質であるからだ。 第三に、随順を解き明かす。三世の喩えによって実体のない相を知り、それによって無我への出離に順じることができるようになる。

上說十八住處,後別說八住處攝經文,或復重攝前十八住處為八,亦無過失。八住處中分二,初、說八,後、釋通局。初中有三,初、標,次、列,後、配釋。住處謂初發心攝持正法、攝受菩提、利生功能,波羅蜜淨住處行勝善故,淨諸障故;淨心住處,以無漏名淨心。餘皆可解。

まず十八の住処について説き、後に八つの住処に経文をまとめて説く。あるいはまた、先の十八の住処を八つにまとめ直しても、過ちとはならない。

八つの住処は二つに分けられる。初めに八つを説き、後にその適用範囲を解釈する。初めの部分は三つに分かれる。初めに標示し、次に列挙し、後に配当と解釈を行う。

住処とは、初発心において正法を摂持し、菩提を摂受し、衆生を利益する働きであり、波羅蜜の清浄な住処は、行いが殊勝で善いゆえに、あらゆる障りを浄めるからである。清浄心の住処は、無漏をもって心を清浄とするゆえである。その他の住処については、すべて理解できるであろう。

已上求佛地者,佛位果尊位極名上求,或後文名上,自此以後十地等中,求佛地也。解通局中有三,初、標二通,次、解通相,後、結成通。

以上、仏の境地を求めることについて述べました。仏の位は果報の尊い位であり、極まりを「上求」と名づけます。あるいは後の文では「上」と名づけ、これ以降の十地などにおいて、仏の境地を求めるのです。解釈の通じる範囲と限定される範囲について三つに分けます。初めに、二つの通じる範囲を示し、次に、通じる範囲の相を解き明かし、最後に、通じる範囲をまとめます。

四下解對治,上來三相,問答俱有,次下三義唯在答中。對治是障所治金剛,由此經明二障,或唯所知障法執及三業故,不失是能治金剛地,是闊狹金剛,由不失中明中道理、智、境,正是能治體故。對治中有二,初、問,後、答。答中有二,初、標二,後、解二。標二中有解。邪行者是法執分別,是菩薩煩惱,名邪行故。共見正行者,共見是生執,是正行之所對治。由前以標對治之言,列名中略但言共見正行,正行非所治故,邪行即對治,後共見是正行之所對治。法執唯菩薩斷,但言邪行,是菩薩邪行,即知法執。其生執三乘通斷,故言共見,見是分別,違生空無分別智名分別,非是俱生、分別之惑名為分別。彼義不然,此論後卷上求佛地國土中云,若菩薩言我成就莊嚴國土,則非菩薩,此義為共見正行中轉,為斷彼故,安立第一義等。又云,若言我成就即為人我取,莊嚴國土者是法我取,故知二取俱名共見,障於正行。今正解者,邪行者是身、語、意行,二執所起行,今論多說是意邪行,生如是心意分別邪行業故。第二住處中應行布施,是邪行對治故,共見正行對治方是二執,見謂分別故,分別執著是菩薩煩惱,正是所除。如次前引後卷中說,此中二種如第二地說,斷二愚誤犯三業,即是此中二種對治。邪行對治,於彼彼位,各各因行彼行方起,不名為共,但名邪行。共見正行,見煩惱障及所知障,分別見體,諸位之中共所斷故。此解雖通人、法二執,准所知障名金剛,不說煩惱障,彼唯佛菩提智之所能斷故。復異釋如前既說,解二中有二,初、總解見義,後、配二經文。經文有二依,初二住處,解二治故。

以下に四つの対治法を解く。先の三相は問答ともに備わっているが、次の三義は答の中にのみある。対治は障りを治める金剛であり、この経は二つの障り、すなわち所知障の法執と三業を明らかにするため、不失は能治の金剛の境地であり、広狭の金剛である。不失の中に中道の理、智、境を明らかにし、まさに能治の本体であるからだ。対治の中には二つあり、初めに問、後に答がある。答の中には二つあり、初めに二つを標し、後に二つを解く。標の中に解がある。邪行とは法執の分別であり、菩薩の煩悩であり、邪行と呼ばれる。共見正行とは、共見は生執であり、正行が対治するところのものである。先に対治という言葉を標したため、列名の中では略して共見正行と言うだけで、正行自体は対治されるものではない。邪行こそが対治であり、後の共見は正行が対治するところのものである。法執は菩薩のみが断じ、ただ邪行と言うのは、菩薩の邪行であり、すなわち法執を知る。生執は三乗に通じて断じられるため、共見と言い、見は分別であり、生空無分別智に違背するものを分別と呼ぶのであって、俱生や分別の惑を分別と呼ぶのではない。その解釈は正しくない。この論の後巻の上求仏地国土の中に、「もし菩薩が『我は荘厳国土を成就す』と言うならば、すなわち菩薩に非ず」とある。この義は共見正行の中に転じ、それを断じるために第一義などを安立する。また、「もし『我は成就す』と言うならば、すなわち人我の執着となり、『荘厳国土』と言うのは法我の執着である」とある。よって、二つの執着はともに共見と呼ばれ、正行を妨げると知る。今、正しく解釈すれば、邪行とは身・口・意の行であり、二つの執着から起こる行である。今、この論は多く意の邪行を説き、このような心意分別の邪行業を生じるからだ。第二の住処において布施を行うべきは、邪行を対治するためである。共見正行を対治するのはまさに二つの執着であり、見は分別を意味する。分別執着は菩薩の煩悩であり、まさに除くべきものである。先に引いた後巻の説くところのごとく、ここでの二種は第二地に説くように、二つの愚を断じて三業に誤って犯すことを防ぎ、すなわちここでの二種の対治である。邪行対治は、それぞれの位において、それぞれの因によってその行が起こるため、共とは呼ばず、ただ邪行と呼ぶ。共見正行は、煩悩障および所知障を対治し、分別見の本体であり、諸位の中で共に断じられるものである。この解釈は人執と法執の両方に通じるが、所知障に準じて金剛と名づけ、煩悩障は説かない。煩悩障は唯仏の菩提智のみが断じうるからである。また、異なる解釈は先に既に説いた通りである。二つを解く中には二つあり、初めに見の義を総括的に解き、後に二つの経文に配する。経文には二つの依り所があり、初めの二つの住処によって、二つの対治を解くのである。

五不失中有二,初、徵,後、顯。顯中有二,初、解不失之義,後、指經文,有遍計所執名增益,無依他、圓成名損減,此是無著義。依龍樹義,執有俗諦名增益,撥無真諦名損減;又真諦中非無非有故,執有為增,執無為損。

「五不失」には二つの部分があります。まず、問いかけ、次に説明です。説明の中にも二つあり、まず「不失」の意味を解き明かし、その後、経文を指し示します。遍計所執の名を有ると執することを「増益」といい、依他起性・円成実性を無いと撥ねることを「損減」といいます。これは無着の解釈です。龍樹の解釈によれば、俗諦を有ると執することを「増益」といい、真諦を無いと撥ねることを「損減」といいます。また、真諦においては「無」でも「有」でもないため、有ると執するのは「増」であり、無いと執するのは「損」となります。

於中若說言下,指經文配,有二復次,釋福聚及佛法二文,即福聚、佛法俱是第四住處欲得法身,第三欲得福相法身文。解佛法中有二復次,解初復次中有三,初、配經增損,次、解不共相應義,後、指通配不共者,不與相應義,謂妄所執佛所說不與相應,相應者相契當故,所說契理故。解不共相應中,初、標二,後、重解。重解中但解相應,所不相應即是不共。以雖不說亦自知故者,謂依真諦,妄計所執不共之法,佛雖不說以為真道般若之體令人修學,佛亦自知為無,故無自性。今就世諦說名佛法,由離二邊境,斷除法執故,能斷對治,無分別道。

この中で、もし「言下」について述べるならば、経文の内容に合わせて二つの補足説明があり、福聚と仏法の二つの文を解釈しています。すなわち福聚と仏法はともに第四の境地であり、法身を得ようとするものであり、第三は福相法身を得ようとする文です。

仏法の解釈の中には二つの補足説明があり、最初の補足説明の中には三つの段階があります。第一に、経文の増減に合わせる。第二に、不共と相応の意味を解く。第三に、全体を通して不共に合わせることを指す。不共とは、相応しないという意味であり、つまり妄執によって捉えられた仏の教えは相応しないということです。相応とは、互いに合致することを意味し、説かれたことが真理に合致するからです。

不共と相応の解釈の中で、最初に二つを示し、後に重ねて解釈します。重ねて解釈する中では、ただ相応について解き明かし、相応しないことがすなわち不共であるとします。「たとえ説かなくても自ら知るがゆえに」というのは、真諦に基づけば、妄執によって捉えられた不共の法は、たとえ仏が真実の道や般若の本体として説き、人々に修学させることがなくても、仏自身はそれが空であり、自性がないことを知っているからです。

今、世俗諦においてこれを仏法と名づけるのは、二辺の境地を離れ、法執を断じるからです。それゆえに対治を断じ、無分別の道が可能となるのです。

不復更失地文,可解地前勝解行地名信行,以信為首而起於行,未為證故。又勝解長時必由斯初信,信於一切功德有故為名。又信自是初住處,行是餘住處,合以為目。十地證得無漏智見,得四證淨心,分除障名淨心地,如來地顯,不須別配,即究竟住處故。

もう二度と地の文を失うことはありません。地前の勝解行地は、信行と理解できます。信を最初として行が起こるからです。まだ証得していないからです。また、勝解が長く続くのは、必ずこの最初の信によるものです。すべての功徳があることを信じるから、その名があるのです。また、信それ自体が最初の住処であり、行はその他の住処です。これらを合わせて名としています。十地において無漏の智見を証得し、四証浄心を得て、障りを部分的に除いた状態を浄心地と呼びます。如来地は明らかであり、別に配当する必要はありません。究極の住処だからです。

問:「何故前問唯問因中發大乘心,初信行地種性發心,次淨心地是證發心中三種義,不問佛位及其佛答答如來地?」答:「因中三行是成佛位,三德之因,若不答佛三身三德,果位明顯,何以勸行?因中三行故,乘言便答佛三身,今前前故趣後後故。又問者問以可修,修通凡聖、現當修位,答者答已前所證,證通因果,通現證故。」

問:「なぜ前の問いでは、ただ因位における大乗心の発起、つまり初信行地における種性発心と、次に浄心地における証発心という三種の義についてのみ問い、仏位(如来地)については問わず、また仏の答えも如来地について答えなかったのですか?」

答:「因位における三つの行いは、仏位を成じる三徳の因となるものです。もし仏の三身三徳という果位を明らかにせずに、どうして人々に行いを勧めることができましょうか。因位の三行について述べるに際し、言葉の流れに乗って仏の三身についても答えたのです。これは、前の段階を明らかにすることが後の段階へと導くためです。また、問う者は『修すべきこと』を問うており、『修』は凡夫から聖者に至るまで、現在および将来の修行の位に通じます。答える者は、すでに前に証得されたことを答えるのであり、『証』は因果に通じ、現在において証得されるものだからです。」

七立名中有二,初、問,後、答。答中有三,初、解金剛,次、解能斷并般若體,後、重解不共義。初解金剛有二,初、顯金剛通能治、所治二義相;後、解能治金剛,如說入正見行、入邪見行者,正見謂正定聚,邪見謂邪定聚,行善惡行,能入彼聚,名彼二行。或汎指言,如說說善惡二人行善惡,此行入正見聚類,此行入邪見聚類,邪正雖殊,俱名見行。今者能治三慧,所治二障,染善雖殊,俱名金剛。《涅槃》經云,金剛極堅,萬物不能壞,除白羊角及以龜甲。智障雖堅,凡夫俗智、二乘菩提智皆不能斷;惑障雖堅,凡夫智不能斷種,二乘真智不能斷習;唯發大乘佛菩提心,三慧方能折伏或斷,此喻入邪見行。又如玉石性極堅牢,非物所壞,唯除金剛方能摧破;二障亦爾,性極堅牢,非凡俗智、二乘真智之所摧壞,大乘三慧如彼金剛方能伏斷,究竟斷位金剛修慧,故經唯說金剛喻定,此喻正見行。是謂金剛名有二義相,一、所破義,二、能破義,非是能斷亦有二義,非所斷故,亦非以金剛及能斷為有二義故,邪正二見喻不相應故,故不可以金剛唯為所斷,智因堅細不成故,亦不可以金剛唯為能斷,二義相不成故。由此應如此中所解,然文略不解。出所治金剛,於能斷中菴含方顯,解能治金剛中,標細牢固。以隋時翻國諱堅,遂改為細。智固者種子,不可壞者現行;現行中初是聞、思,後是修慧;修慧之中,初是有漏修,後是無漏修;無漏修中,初是十地位,後是如來位;十地中,初加行道,後是無間、解脫道;無間、解脫道中,初是無間道,後是解脫道。佛位中,初是種子,後是現行。能斷中,聞、思修為能斷,觀照能斷之體。七地已前,初二有漏,後一通二。設前二慧修中通成,雖無文說,然為修慧等,別時起作用,八地已上念念俱能起二用,初二伏惑,後一正斷。如金剛斷處而斷者,智如金剛,所斷如玉石,二障處而斷。又障如金剛,能斷為地如白羊角,聞、思、修能斷處而斷。

「金剛」という名には二つの意味があります。まず最初に問いがあり、その後で答えが続きます。答えの中には三つの部分があります。第一に「金剛」の解釈、第二に「能断」と「般若」の本体の解釈、第三に「不共」の意味を改めて解釈することです。

まず「金剛」の解釈には二つあります。一つは、金剛が「能治(煩悩を断つ力)」と「所治(断たれるべき煩悩)」の両方の意味を持つことを示すこと。もう一つは、「能治としての金剛」を解釈することです。例えば、「正見行に入る者」と「邪見行に入る者」と言われるように、正見とは正定聚(正しい悟りに向かう者)を指し、邪見とは邪定聚(誤った見解に陥る者)を指します。善行や悪行を行い、それらの集団に入ることを、それぞれ「正見行」「邪見行」と呼びます。あるいは一般的に、善人と悪人がそれぞれ善行・悪行を行うように、この行いは正見の類に入り、あの行いは邪見の類に入ると言うこともできます。邪正は異なりますが、ともに「見行」と呼ばれます。

今ここで言う「能治」とは三慧(聞・思・修の智慧)を指し、「所治」とは二障(煩悩障・所知障)を指します。染(煩悩)と善(功徳)は異なりますが、ともに「金剛」と呼ばれる所以です。

『涅槃経』にはこうあります。「金剛は極めて堅く、万物でも壊すことができない。ただし白羊の角と亀の甲羅だけは例外である」。同様に、智障(所知障)は堅固で、凡夫の俗智や二乗(声聞・縁覚)の菩提智では断じることができません。惑障(煩悩障)も堅固で、凡夫の智ではその種子を断じられず、二乗の真智ではその習気を断じられません。ただ大乗の仏菩提心を発し、三慧によって初めて伏せたり断じたりできるのです。これは「邪見行に入る」譬えに相当します。

また、玉や石は性質が極めて堅牢で、普通の物では壊せませんが、金剛だけはそれを打ち砕くことができます。二障も同様に、その性質は極めて堅牢で、凡夫の俗智や二乗の真智では打ち破ることができません。大乗の三慧は、あの金剛のように伏断することができ、完全に断じる位においては金剛のような修慧となります。だから経典には「金剛喩定」だけが説かれているのです。これは「正見行に入る」譬えに相当します。

以上が「金剛」という名に二つの意味(所破の義と能破の義)がある所以です。ただし、「能断」にも二つの意味があるわけではありません(所断ではないからです)。また、金剛と能断がそれぞれ二義を持つというわけでもありません(邪正二見の譬えが対応しないからです)。したがって、金剛を単に「所断」とだけ見なすことはできません(智が堅く細かいという性質が成り立たないからです)。また、金剛を単に「能断」とだけ見なすこともできません(二つの意味が成り立たないからです)。

このことから、ここで解釈されている内容を理解すべきですが、本文では簡略に述べられているだけです。所治としての金剛については、能断の中に含めて後に明らかにされます。能治としての金剛を解釈する中では、「細く牢固」と標示されています。隋の時代に翻訳された際、国諱(皇帝の諱を避ける)のために「堅」を「細」に改めたのです。

「智が牢固である」とは種子(潜在的な力)を指し、「壊せない」とは現行(現れている作用)を指します。現行の中では、最初が聞慧・思慧、後が修慧です。修慧の中では、最初が有漏の修、後が無漏の修です。無漏の修の中では、最初が十地の位、後が如来の位です。十地の中では、最初が加行道、後が無間道・解脱道です。無間道・解脱道の中では、最初が無間道、後が解脱道です。仏位の中では、最初が種子、後が現行です。

能断の中では、聞・思・修の三慧が能断となり、観照が能断の本体となります。七地までは、最初の二つ(聞・思)が有漏、後の一つ(修)が有漏・無漏の両方を含みます。仮に最初の二慧が修の中に通じるとしても、経文には明記されていませんが、修慧などと別の時に作用を起こすためです。八地以上では、念念ごとに二つの作用を同時に起こすことができ、最初の二つ(聞・思)が煩悩を伏せ、後の一つ(修)が正しく断じます。

「金剛が断つところに断つ」とは、智が金剛のようであり、断たれるべきものが玉石のようであり、二障が断たれるべき場所で断たれるということです。また、障が金剛のようであり、能断が地のようであって白羊の角のようであるならば、聞・思・修の三慧が能断として断つべき場所で断つということです。

解不共義有二,初、標指,如畫金剛等;後、顯五通。依此不共義,初中有三,一、標,二、指,三、結。如畫金剛有二,一、如畫金剛,膊、跨則闊,其腰則狹,有動作故,喻令進趣。二、如畫金剛杵,兩頭闊,其腰狹,極堅勝故,令知深妙在信行地,佛地闊者,此喻文義俱長,淨心地狹,文義狹故。所以然者,有二義。以凡夫時,凡所修行,求佛果萬行究修,欲願廣大,雖有四善根位,欲入見道少別修行,從長時多分廣大意樂,故名闊。佛位中通業智見,證達利樂,皆是廣大,故說二文,正所廣闊。十地菩薩等地皆修一行,進求後地,雖少求佛位,非無分齊而修,故名狹。故隨三位,說經闊狹。又今為不定性及定性先未有種性發心者為問三,答有三,種性、發心、無分別行,令求佛果故,佛果及初位皆文義闊,十地行相彼雖有,而由不能修因言而顯,不須廣指,非二乘等初發心所行,故略指狹。結云,此顯不共義,諸經不爾,不名不共,由此所明理智闊狹故,此文字教,獨名曰金剛故。第三金剛稱不共義,顯五通依不共中意說,下文所說,五種依義,說相、攝持、安立、顯現,皆依此三地,離此地外,無別所明故。此三地各有多行所住處,故名上上依止,以非一故名上上,此中略不解般若,但說三慧,不論實相等不盡法故。

不共の意味を解釈するには二つあり、初めに標指を示し、例えば金剛の絵画などに例える。後に五つの神通を明らかにする。この不共の意味に基づき、初めには三つあり、一に標、二に指、三に結びである。

金剛の絵画に例えると二つある。一つは、金剛の絵画のように、肩や股は広く、腰は狭い。動作があるため、進むことを促す喩えである。二つは、金剛杵の絵画のように、両端は広く、腰は狭い。極めて堅固で勝れているため、信行の地に深妙なものがあることを知らせる。仏の地が広いのは、この喩えでは文と義の両方が長いためであり、浄心の地が狭いのは、文と義が狭いためである。

その理由は二つある。凡夫の時には、すべての修行において仏果を求め、万行を究め修めようとする欲願が広大である。四善根の位があっても、見道に入ろうとするわずかな別の修行があり、長い時を経て広大な意楽から、広いと言われる。仏の位においては、業・智・見を通じ、証達と利楽がすべて広大であるため、二つの文が広く説かれる。十地の菩薩などの地では、すべて一行を修め、後の地を進んで求める。仏の位をわずかに求めることはあっても、分限なく修めるわけではないため、狭いと言われる。したがって、三つの位に従って経の広狭が説かれる。

また今、不定性および定性で、先に種性がなく発心した者に対して三つの問いがある。答えも三つあり、種性、発心、無分別行である。仏果を求めるため、仏果と初位は文と義が広く、十地の行相はそれらがあっても、修因の言葉によって明らかにされるため、広く指し示す必要はない。二乗などの初発心の行ではないため、簡略に指し示して狭いとされる。

結びに言う、これは不共の意味を明らかにし、他の経典にはないため不共と呼ばれない。ここで明らかにされる理と智の広狭により、この文字の教えだけが金剛と名付けられるのである。

第三の金剛は不共の意味を称え、五つの神通を明らかにする。不共の中の意味に基づき説かれ、下文で説かれる五種の依義、すなわち相・摂持・安立・顕現は、すべてこの三つの地に依る。この地を離れて別に明らかにされるものはない。この三つの地にはそれぞれ多くの行の住処があるため、上上の依止と呼ばれる。一つのものではないため上上と言われる。ここでは般若を詳しく解さず、ただ三つの慧を説き、実相など尽きない法については論じない。

上來解七句中,正述之宏綱竟,自下正釋經文中,第二大段重解前文。釋玄宗之巨委中分二,初、解序中威儀成就、結加趺坐、正念不動,後、解正宗。雖行住坐皆可說法,今顯靜坐於覺說勝,表內心覺安真理,外相方說利生,但以一義解之,餘義如說《法華》威儀安坐中說。後、解正宗分三,初、解種姓不斷中文,次、解何故唯問發行菩薩乘等解發起行相中文,後、解以善問故於上座下解行所住處中文。初中分三,初、解三問意,次、解發趣菩薩乘者菩薩摩訶薩言,後、解次前最勝受等義。於經文中,從後向前釋,觀此論所釋上下等文,皆是天親釋彌勒頌中所無文者,方始解釋,非是昆季自知相𭿺楯。

前段の七句の解釈において、正述の大綱が終わりました。ここからは経文の正式な解釈に入り、第二の大段として前文を重ねて解き明かします。

玄宗の深遠な教えを解釈するにあたり、二つに分けます。まず初めに、序分の中の「威儀成就」「結加趺坐」「正念不動」を解き、その後で正宗分を解釈します。行住坐臥すべてが説法となり得ますが、ここでは静座している姿が覚りの説法に勝ることを示しています。内には覚りによる真理の安らぎを表し、外には衆生を利益する説法の相を現すのです。ただし、ここでは一つの意味に絞って解釈し、他の意味については『法華経』の威儀安坐の説き方に従います。

次に正宗分の解釈は三つに分けます。まず「種姓不断」の文を解き、次に「何故唯問発行菩薩乗等」という発起行相の文を解き、最後に「善問故於上座下」という行所住処の文を解きます。

最初の「種姓不断」の解釈はさらに三つに分けます。まず三つの問いの意図を解き、次に「発趣菩薩乗者菩薩摩訶薩」という言葉を解き、最後にその前の「最勝受等」の意味を解きます。

経文の解釈にあたっては、後の文から前の文に向かって進めます。この論が解釈する前後の文を見ると、すべて天親が弥勒の頌を解釈する中で触れられていない部分を、新たに解き明かしていることがわかります。これは兄弟弟子たちが独自に矛盾を感じたからではなく、あくまで補完的な解釈なのです。

初文有二,初、問,次、答。答中有三,初、標,次、解,後、結。略標中有三,初、總標,次、別列,後、結所為。別列六中,初五為利樂眾生,後一為正法久住。前五之中,初二佛法外人心有疑惑,不生定信;次二已入佛法,欣佛法者,不解進修;後一已進修者,不能證達。此但問因,是須菩提所欲修故,唯問種性及證發心二所修法,不問佛位、十地菩薩己證達者心所欣求出離解脫佛果之位。

最初の構成は二つに分かれます。最初が質問、次が回答です。回答の中は三つの部分から成り、最初に概要を示し、次に解説し、最後にまとめます。概要を示す部分も三つに分かれ、最初に全体の要旨を示し、次に個別に列挙し、最後にその目的をまとめます。個別に列挙した六つの項目のうち、最初の五つは衆生の利益と安楽のためであり、最後の一つは正しい教えが長く世に留まるためです。前の五つのうち、最初の二つは仏法の外にいる人々が疑いを抱き、確固たる信仰を持てないためです。次の二つはすでに仏法に入ったものの、仏法を喜びながらも修行を進める方法がわからないためです。最後の一つはすでに修行を進めているものの、悟りに到達できないためです。ここではただ原因を問うており、これは須菩提が修行しようと望んでいることだからです。種性と悟りを開く発心という二つの修行法についてのみ問い、仏の位や十地の菩薩がすでに悟りに達している者たちが心から望み求める、解脱と仏果の位については問うていません。

總顯種性不斷有二義,一、此中已聞欲令當來佛種不斷,二、明佛能令佛種不斷,以能善攝及付囑故。此中六因依古所說,合有四解。一云,第一、住佛法外,由有疑惑,多生誹謗,今問冀答,以斷彼疑,令發信心,不生謗誹,起菩提心。二、起信解者,若先雖不疑惑誹謗,但處中位,由不聞解,不能發心,今為於彼聞法起信,入十信中前五心位。三、若入十信住第六心後信決定位,名入甚深義位。若先雖發大菩提心,猶在十信前五心位,尚斷善根,未信決定,不名入甚深義位。今為令入第六心後得信決定,深識佛法因果理智信智不退屈,由解深義,方無退信,名入深義。四、若先雖得信不退屈,入甚深義,十住位中入前六位,尚有退作二乘之心,今為彼等無退大意,入第七位後名不退。五、若先雖得入位不退,乃至得入十迴向後,得四善根,入決擇分位,猶未證達真淨法界,不名生如來家,未名住極喜地,未得法苑樂,未證諸相增上喜愛,不名生喜。今為彼等得入十地,證得法界,入後後道。六、由人信學、進趣、證達,當來正法,教、行、果三久住於世,為此六因生隨喜故,以發三問,地前、地上皆有發心、修行、斷障三義別故。結云,此是問者欲令佛種不斷故問,以上一位配,下更三義位配。

仏の種性が絶えることのない理由を総じて明らかにするには、二つの意味があります。第一に、ここで既に聞いた者が将来も仏の種が絶えないように願うこと。第二に、仏が仏の種を絶やさないようにできること、それは善く摂取し付嘱するからです。ここでの六つの因について、古来の説に依れば、四つの解釈にまとめられます。

一つに言う。第一は、仏法の外に住する者で、疑惑があり多く誹謗を生じる。今問うのは答えを期待し、その疑いを断ち、信心を起こさせ、誹謗を生じさせず、菩提心を起こさせるためである。

二つに、信解を起こす者である。先には疑惑や誹謗がなくとも、中位にあり、聞き解かないため発心できない。今、彼らが法を聞いて信を起こし、十信の中の前五心の位に入るためである。

三つに、もし十信に入り第六心以降の信が決定した位にあるなら、それは甚深の義に入った位と呼ばれる。先に大菩提心を起こしたとしても、まだ十信の前五心の位にあれば、善根を断つこともあり、信が決定せず、甚深の義に入ったとは言えない。今、第六心以降に入り信が決定し、仏法の因果と理を深く識り、信と智が退屈しないようにするためである。深義を解することによって初めて信が退せず、深義に入ったと言える。

四つに、先に信が退屈せず甚深の義に入ったとしても、十住の位の中の前六位にあれば、まだ二乗の心に退くことがある。今、彼らが大乗を退かず、第七位以降に入ることを不退という。

五つに、先に不退の位に入ったとしても、十廻向を経て四善根を得、決択分の位に入っても、まだ真実清浄の法界を証達せず、如来の家に生まれたとは言えず、極喜地に住したとは言えず、法苑の楽を得ず、諸相の増上なる喜愛を証せず、生喜とは言えない。今、彼らが十地に入り、法界を証得し、後々の道に入るためである。

六つに、人が信じて学び、進み趣き、証達することによって、将来の正法である教・行・果の三つが久しく世に住するためである。この六つの因によって随喜が生じ、三つの問いが発せられる。地前と地上の両方に、発心・修行・断障の三つの意味の違いがあるからである。

結びに言う。これは問う者が仏の種が絶えないように願うが故に問うのであり、上の一位に対応させ、下の三つの義の位に対応させている。

次解中有二,初、問,後、答。答中順第一解,初人可解。第二「有樂福德」等者,有先凡位不謗不信佛法三乘,但處中住意,其何在世耶?有樂為福德,未發信心,名未成就,今為令彼起信解故得入十信。第三入甚深義,即前二人深達因果得信不退。第四若已得入信不退位,名為已得不輕賤者,常住法決定出離,堪當得果,名不輕賤,入位不退。第五已得順攝,是先根熟,但在位不退後,及淨心者位不退前諸菩薩等,不由於他,起根本智,於法自證入,起後得智,於法得見,得入十地,後後亦復如是,生歡喜故。又第二解,初一人法外令入十信前五心,第二人五心前入信第六心後,信決定名信解。從初人作第二,第三入甚深義,即第二人在六住前者得入位不退中,第七住後名入深義。第四人不退轉者,已得位不退,得入初地證不退。第五為生喜者,即是次前得入初地,根已就者名為順攝,展轉得入二、三地等。若已入位不退後人名淨心者,得入初地,合名生喜。又第三解,初人法外初入十信位,第二人業五心前得入第六信不退後,第三漸入初地,證入甚深真如法界,第四證入第八地後行不退後,第五見道已後,證不退後,名順攝,入八地名淨心,得無漏心,恒相續故,皆生歡喜,初地順攝展轉得入佛地,生歡喜,八地淨心不久得入佛位,皆生大歡喜。雖有三釋,此解似佳。由問但問因中三行,今因得證後後勝品乃至成佛,具答三位諸行,從初發心,及至佛果,是前前位所修入故。今細審勘,地前凡夫唯三十心,初住法外令信入法,次在六住已前令入七住,次在地前令入初地,次在七地已前令入八地,後在因中令入佛地,各隨彼位以釋其相,令法久住故。眾生可得入前五因,由眾生得入前五因故,法成久住故,發問者廣為六因,略為二因,餘如《玄記》說。

次に、解釈の中に二つある。初めは問い、後は答えである。答えの中は第一の解釈に順じて、初めの人は理解できる。第二の「楽を有し福徳を為す」などとは、先に凡夫の位において仏法・三乗を謗らず信じず、ただ中道に住する意があり、その何ぞ世にあらんや。楽を有して福徳を為すも、未だ信心を発せず、未成就と名づけ、今、彼をして信解を起こさせんがために、十信に入ることを得る。第三に甚深の義に入るとは、即ち前の二人が因果を深く達して信不退を得ることをいう。第四に、もしすでに信不退の位に入ることを得たならば、已得不軽賤者と名づけ、常住の法に決定して出離し、果を得るに堪え、軽賤せずと名づけ、位不退に入る。第五に已得順摂とは、先に根が熟したものであるが、ただ位不退の後にあり、及び浄心者とは位不退の前の諸菩薩等であり、他によることなく、根本智を起こし、法において自ら証入し、後得智を起こし、法において見を得、十地に入ることを得、後後もまたかくのごとく、歓喜を生ずるがゆえである。

また第二の解釈では、初めの一人は法の外より十信の前五心に入らしめ、第二の人は五心の前に第六心の後の信決定に入り、信解と名づける。初めの人より第二をなし、第三に甚深の義に入るとは、即ち第二の人が六住の前にあって位不退の中に入ることを得、第七住の後を深義に入ると名づける。第四の人不退転者は、すでに位不退を得、初地に入り証不退を得る。第五の為生喜者とは、即ち次に前に初地に入ることを得、根がすでに熟した者を順摂と名づけ、展転して二・三地等に入ることを得る。もしすでに位不退の後の人を浄心者と名づけ、初地に入ることを得、合わせて生喜と名づける。

また第三の解釈では、初めの人は法の外より初めて十信の位に入り、第二の人は業五心の前に第六信不退の後に入ることを得、第三に漸く初地に入り、甚深の真如法界に証入し、第四に証入第八地の後行不退の後、第五に見道の已後、証不退の後を順摂と名づけ、八地に入ることを浄心と名づけ、無漏の心を得、恒に相続するがゆえに、皆歓喜を生ず。初地の順摂は展転して仏地に入り、歓喜を生じ、八地の浄心は久からずして仏位に入ることを得、皆大歓喜を生ず。三つの解釈があるが、この解釈がよろしいようである。問いはただ因中の三行を問うたが、今、因によって後後勝品の証を得、乃至成仏に至り、三位の諸行を具えて答え、初発心より及び仏果に至るまで、是れ前前の位の修入するがゆえである。

今、細かに審らかに勘うるに、地前の凡夫はただ三十心あり、初住は法の外より信じて法に入らしめ、次に六住の已前に在って七住に入らしめ、次に地前に在って初地に入らしめ、次に七地の已前に在って八地に入らしめ、後に因中に在って仏地に入らしめ、各々彼の位に随ってその相を釈し、法をして久住せしむるがゆえである。衆生は前五因に入ることを得、衆生が前五因に入ることを得るがゆえに、法は久住を成ずるがゆえである。発問者は広く六因と為し、略して二因と為し、余は『玄記』の説く如し。

結略為四,但結前五,所學教、理,即法久住,故不說之。其法外人疑者,令見因果等理,發生信心,入佛法內。如已發心樂福德信未定者,能攝受信及勝解定,已信解定成就之人,攝受初地,入甚深義故。今此二名為攝受,攝受信定及證定故,得入初地,知紹佛位,名得不輕賤;欣八地後勝品妙行,令精懃心,不生行退;八地已後無漏觀心,念念相續名為淨心,得入佛位,令生歡喜。此結次第依行位說,但說淨心生大歡喜,前廣釋中并說順攝令生大喜,即入初地,順可世尊善攝受故,總令作佛,故二合說。若依次第,應依結略,略為四因中,初一因為法外入法,第二人為內凡入聖,第三為七地前入八地,第四為第八後入佛位,說信行地為初人,說淨心地為第二、第三,說佛地為第四人。上來三解,依位配之。第四解作三問者,初問為初人令發心,次問為第二、第三人具修行,後問為第四人令斷障,由三人各修自所求行已,淨心生喜,乃至作佛,故結略中合第二、第三為一攝受,攝受行故。

要約すると四つにまとめられるが、前の五つを結びつけるものである。学んだ教えと道理は、すなわち法が久しく住するものであるから、ここでは説かない。法の外にいる疑いを持つ者に対しては、因果などの道理を見せて信心を起こさせ、仏法の内に入らせる。すでに発心して福徳を喜び信じるが未だ定まらない者に対しては、信と勝解定を摂受することができ、すでに信解定が成就した人に対しては、初地を摂受し、甚深の義に入らせるからである。今この二つを「摂受」と名づけるのは、信定と証定を摂受するからであり、初地に入り、仏位を継ぐことを知って「軽賤されないことを得る」と名づけられる。八地以後の勝れた品の妙行を欣求し、精進の心を起こさせ、行の退転を生じさせない。八地以後の無漏の観心は、念念相続して「浄心」と名づけられ、仏位に入り、歓喜を生じさせる。この結びの次第は行位に依って説かれるが、ただ浄心が大歓喜を生じることを説く。前の広い解釈の中では、順摂を併せて説き大歓喜を生じさせ、すなわち初地に入り、世尊の善き摂受に順ずるからである。総じて仏となることを促すから、二つを合わせて説くのである。もし次第に従うならば、要約して四つの因の中の、最初の一因は法外から法内に入るため、第二の人は内凡から聖に入るため、第三は七地以前から八地に入るため、第四は第八地以後から仏位に入るためである。信行地を初めの人と説き、浄心地を第二・第三の人と説き、仏地を第四の人と説く。以上の三つの解釈は、位に依って配分される。第四の解釈で三つの問いとするのは、初めの問いは初めの人に発心を促し、次の問いは第二・第三の人が修行を具足し、後の問いは第四の人が障りを断つためである。三人がそれぞれ自ら求める行を修した後に、浄心が歓喜を生じ、ついには仏となるから、要約の中では第二・第三を合わせて一つの摂受とし、行を摂受するためである。

解種性不斷中,自下第二解摩訶薩言,即兼解大乘義中大義。諸譯並略無摩訶薩言,大唐及隋並有七大。七大者,一、法大,《對法》第一名境大,緣於廣大教法為境。二、心大,彼第七名業大,窮生死際,示成菩提,建立佛事。三、信解大,彼名智大,即了二無我。四、淨心大,彼第五名方便善巧大,不住生死及於涅槃。五、資糧大,彼第二名行大,行二種行。六、時大,彼第四名精進大,經三大劫,修難行行。七、果大,彼第六名證得大,證大功德。彼論意說,緣教起行,達甚深理,精懃長時,不滯二邊,證大勝果,窮生死際,建立佛法,故名為大。此論翻倒,或此意說,緣教發願,建立佛法事,得智達理,不同凡夫、二乘有所住著,常行二利,長時精懃,便得勝果。二論意別,前後不同,更勘《菩薩地》、《十地論》初卷說摩訶薩者有三種大,一、願大,二、行大,三、利眾生大。

種性が断絶することなく続く中で、次に「摩訶薩」という言葉を解釈します。これは同時に「大乗」の意味の中の「大」の意義をも説明するものです。諸訳では「摩訶薩」の語が省略されており、大唐と隋の訳には七つの「大」があります。七つの大とは、第一に法の大(『対法』では第一に境の大と名づけ、広大な教えの法を縁として境とする)、第二に心の大(同論第七に業の大と名づけ、生死の果てまで窮め、菩提の成就を示し、仏事を建立する)、第三に信解の大(同論では智の大と名づけ、二無我を了知する)、第四に浄心の大(同論第五に方便善巧の大と名づけ、生死にも涅槃にも住しない)、第五に資糧の大(同論第二に行の大と名づけ、二種の行を行う)、第六に時の大(同論第四に精進の大と名づけ、三大劫を経て難行の行を修する)、第七に果の大(同論第六に証得の大と名づけ、大いなる功徳を証得する)です。その論の意は、教えを縁として行を起こし、深遠な理を達し、長時にわたり精勤して二辺に滞らず、大いなる勝れた果を証得し、生死の果てまで窮めて仏法を建立するゆえに、大と名づけると説いています。この論では順序が逆になっており、あるいはこの意は、教えを縁として願を発し、仏法の事を建立し、智を得て理を達し、凡夫や二乗のように何かに住着することなく、常に自利利他の行を行い、長時にわたり精勤して、勝れた果を得ることを説いているのです。二つの論の意は異なり、前後が一致しません。さらに『菩薩地』と『十地論』の初巻を参照すると、摩訶薩には三種の大があると説かれています。第一に願の大、第二に行の大、第三に衆生を利する大です。

第三解攝受菩薩等文中分二,初、攝受,後、付囑。前解攝、付時,初成正覺及入涅槃時及所攝、付根器。天親云,根熟名攝受,未熟名付囑,而未解釋二種自性。天親但解所攝、付者及攝、付之意,即此種姓不斷,未釋彼自性,故今釋之。於中有二,初、標問,後、別解。此中分二,一、善攝,二、第一攝。羅什、菩提流支、真諦並無兩文,唯大唐本云,「最勝攝受攝受諸菩薩摩訶薩,最勝付囑付囑諸菩薩摩訶薩」。經文但以一最勝言,前文牒經文云,第一善攝攝受所有菩薩等,遂開為二,以最勝言具善攝、第一兩義故。下解付囑,唯言第一付囑,道理定爾。又善攝是總出體,第一是別解義,善攝、第一攝為二。第一攝中有三,一、標,二、列,三、解。樂謂與現在利益,利謂與後世益,即差別中世間定是現樂,三乘果是後利。利樂有十義,如《唯識疏》,此中唯在第四牢固,謂後益畢竟果體,現益畢竟因體,俱名畢竟。第六異相未淨菩薩者,謂地前信行地未得淨勝意樂故,於彼菩薩不可善攝中,此善攝法最為勝上,畢竟難壞,能利自他,更無過上,為二世益。解付囑中亦三,初、標問,次、列,後、解。善友所者,謂將入涅槃時,根熟菩薩為所入處,為根未熟者之善友故,故知天親依根未熟說後付囑,付囑與根熟,無著說在入涅槃時,解不相違。以根未熟為能入者,其根已熟為所入處,其根已熟法爾教化,佛教根熟,汝既得已,可轉教他,由此未熟不失善友所入之處,法爾根熟悲愍未熟,佛令轉教,令根已熟轉生尊重求佛教故。

第三に、菩薩たちを摂受する解釈について、本文は二つに分かれています。最初が摂受、後が付嘱です。

前の解釈で摂受と付嘱について述べた時、釈尊が初めて悟りを開かれた時と入滅の時、そして摂受・付嘱される弟子たちの資質について触れました。天親(世親)は、資質が熟した者を「摂受」、未熟な者を「付嘱」と説明しましたが、この二つの性質自体については詳しく述べていません。天親は、誰が摂受・付嘱されるのか、その意図は何かについては解きました。つまり、この種姓(仏性)が絶えることはないということです。しかし、それらの性質については未解釈でしたので、今ここで解釈を加えます。

この中で二つに分けます。最初に問いを掲げ、後に個別に解釈します。ここではさらに二つに分けます。一、善き摂受。二、第一の摂受。羅什、菩提流支、真諦の訳にはこの二文はなく、ただ大唐本(玄奘訳)にのみ「最勝の摂受は諸の菩薩摩訶薩を摂受し、最勝の付嘱は諸の菩薩摩訶薩を付嘱す」とあります。経文はただ一つの「最勝」という言葉を用いていますが、前文で経文を引用した際には「第一の善き摂受は所有の菩薩等を摂受す」とあり、それゆえ二つに分けて解釈したのです。「最勝」という言葉には「善き摂受」と「第一の摂受」という二つの意味が具わっているからです。以下の付嘱の解釈では、「第一の付嘱」とのみ言っていますが、道理は定まっています。また、「善き摂受」は総体としてその本質を示し、「第一の摂受」は別にその意味を解くものです。善き摂受と第一の摂受を二つとします。

第一の摂受の中には三つあります。一、標示。二、列挙。三、解釈。「楽」とは現在の利益を与えること、「利」とは後世の益を与えることを指します。つまり、区別の中で、世間的な安楽は現世の楽であり、三乗の果は後世の利です。利楽には十の意味があり、『唯識疏』に説かれていますが、ここでは第四の「牢固(堅固で壊れないこと)」にのみ着目します。後世の益とは畢竟の果の体であり、現世の益とは畢竟の因の体です。どちらも畢竟(究極的)と名づけられます。第六の「異相未浄の菩薩」とは、地前の信行地において、まだ清浄なる勝れた意楽を得ていない菩薩を指します。そのような菩薩に対しては善く摂受することができない中で、この善き摂受の法は最も勝れ、畢竟として壊れ難く、自他を利益し、これ以上に勝れたものはなく、二世(現世・後世)の益をもたらすものです。

付嘱の解釈の中にも三つあります。初めに問いを掲げ、次に列挙し、後に解釈します。「善友の所」とは、入涅槃の時に、資質が熟した菩薩が「入るべき所(依り所)」となり、資質が未熟な者の善き友となることを指します。それゆえ、天親は資質が未熟な者について後で付嘱すると説き、付嘱は資質が熟した者に対して行われると理解できます。無着は入涅槃の時に説くとしていますが、解釈は矛盾しません。資質が未熟な者を「能入する者(入る側)」とし、その資質が既に熟した者を「所入の処(入られる側、依り所)」とするのです。その資質が既に熟した者は、法爾(自然の道理)として教化を行います。仏が資質の熟した者に教えを授け、「汝は既に得たのだから、転じて他を教えよ」とされます。これによって、未熟な者は善き友たる入るべき所を失うことなく、法爾として資質の熟した者は未熟な者を悲愍し、仏が転教を命じることで、資質が既に熟した者に仏の教えを求める尊重の心を転じて生じさせるのです。

下解正宗,第二以發起行相總文,初二句問,後二句答。答有三意,一答,由三乘菩提果各差別,唯問大者發大乘心,最勝乘者所趣究竟果故,能廣益故,不問餘二。二答,以能化法化所化生,後得果時,有三身果別,若問發行菩薩乘者,能以三乘法化所化生,令得三菩提,二乘不能,故不為問。三由三乘者菩提有異,涅槃無差別,大乘菩提斷二障,證二理,行二利,成二智,唯問趣此,不得取餘。三問別義,如前已解。

下解正宗、第二に発起行相の総文を述べる。初めの二句は問い、後の二句は答えである。答えには三つの意味がある。

第一の答え。三乗の菩提の果報にはそれぞれ違いがあり、ただ大乗を問うのは、大乗の心を発起する者が最勝の乗に趣き、究極の果報を得て、広く利益をもたらすからである。残りの二乗は問わない。

第二の答え。能化の法をもって所化の衆生を教化し、後に果報を得る時、三身の果報に違いがある。もし発行の菩薩乗を問うならば、三乗の法をもって所化の衆生を教化し、三菩提を得させることができる。二乗にはそれができないので、問いの対象とはしない。

第三に、三乗の菩提には違いがあるが、涅槃には差別がない。大乗の菩提は二障を断ち、二理を証し、二利を行い、二智を成ずる。ただこれに趣くことを問い、他の乗を取ることはできない。

三問の別義については、前にすでに解釈した通りである。

下第三段解行所住處中文分二,初、解讚印中善哉言,後、解正陳。以須菩提問順可深理,是五問中為欲利益有情故問,佛讚其問,故言善哉,重讚歎之。然菩薩行見善說者,施言善哉,今以須菩提問契玄宗、深可道理,重言善哉。准《十地論》第一卷解善哉云,所說法中,善具足故。善哉有三,一、所緣謂淨慧,二、體性謂說諸地未曾說法,三、果謂具十力等無障礙佛菩提故,此亦如是,准彼應說。

下第三段、理解と実践の基盤となる境地について、その内容を二つに分けて解説します。

まず初めに、仏が「善いかな」と賞賛の言葉を述べられた理由を解き明かし、その後、本題の教えを詳しく説いていきます。

須菩提の質問は、深遠な真理に合致するものでした。五つの問いの中でも、特に一切の生きとし生けるものの利益を願って発せられたものです。それゆえに仏はその問いを賞賛し、「善いかな」と重ねて称えられたのです。

菩薩の行いにおいては、優れた説法に出会えば「善いかな」と声をかけるのが常です。今、須菩提の問いが玄妙な宗旨にかない、深く道理に適っていることを受け、重ねて「善いかな」と称えられたのです。

『十地論』第一巻の「善哉」の解釈に準えると、「説かれた法の中に、善が具足しているから」とあります。この「善哉」には三つの意味があります。

一、対象とするもの(所縁)…それは清らかな智慧であること。 二、その本質(体性)…これまで説かれなかった諸々の境地について説くこと。 三、その結果(果)…十力など、何ものにも妨げられない仏の悟りを具えること。

ここで仏が「善哉」と称えられた理由も、これと同じように理解すべきでしょう。

正陳之中,大分為三,初、明信行地;次、後卷中為證道下,解淨心地;後、上求佛地下,解如來地。說彼彼地,令住前前下位欣趣,下皆准知。初文分四,初、解攝住處在十住位,創則安其心於彼彼法,行猶未勝,故名為住。次、自此後餘住處中下,第二解波羅蜜多淨住處;次、為欲得色身住處下,第三解欲住處,合欲得色身、法身二住處,為一欲住處。此上二住處在十行位,行六度諸行勝故,名之為行。次後卷初已說欲住處竟下,第四解離障礙住處,在十迴向位,凡所修行皆為迴向,立迴向名。依前略為八住處中,初六住處說為三地,以彼八住處中後二住處通諸住處,非別配地故。後卷初云,今說離障礙住處有十二種障礙對治,十八住處中合十二為第四離障故。前十六住處為信行地,分為四文,初二各一,合二為第三,合餘十二為第四故。或分為二,初、解攝住處,後、解餘三住處,以波羅蜜住處文初云自此後餘住處中有五種等,合明以下文各以五義解之,故合為一段。初、名攝住處,若遠解者,亦發大心,遠期攝受大菩提故;近解釋者,發心已攝受正法,攝眾生故;通二解者,發期願,攝受正法、成佛利生,近遠二攝皆在中故。前十八住處中名發心,是種性發心,初所起行相為名,此名攝者,以當成果及能利眾生而為名目。文分為二,初、別解四心,後、總答三問。依天親論,初文為四,初、解廣大心,即是初住;次、所有眾生界施設住施設已者下,解第一心,即第二住;次、如是無量眾生入涅槃已者,解第三常心,即次四住;何以故?若眾生相、命、人相相則不名菩薩下,解第四不顛倒心,即後四住。

正しく述べる中で、大きく三つに分けます。初めに、信行の地を明らかにし、次に後巻の中で証道の下として、浄心地を解き明かし、後に、上求仏地の下として、如来地を解き明かします。それぞれの地を説き、前の下位に住む者が喜んで進むように促します。下位も皆これに準じて理解します。

初めの文は四つに分かれます。初めに、摂住処を解き明かし、十住の位にあります。初めにその心をそれぞれの法に安んじますが、行いはまだ勝れていないため、住と名づけます。次に、ここから後の余りの住処の中で下、第二に波羅蜜多浄住処を解き明かします。次に、色身を得ようとする住処の下、第三に欲住処を解き明かし、色身を得ようとする住処と法身を得ようとする住処の二つを合わせて一つの欲住処とします。この上の二つの住処は十行の位にあり、六度の諸行を行うことが勝れているため、行と名づけます。次に後巻の初めに、すでに欲住処を説き終えた下、第四に離障礙住処を解き明かし、十廻向の位にあります。凡ての修行は皆廻向のためであり、廻向と名づけます。

前に略して八つの住処とした中で、初めの六つの住処を三つの地として説きます。なぜなら、その八つの住処の中の後の二つの住処は諸々の住処に通じ、別に地に配当しないからです。後巻の初めに云う、今、離障礙住処を説くには十二種の障礙に対する対治があり、十八の住処の中で十二を合わせて第四の離障礙とします。前の十六の住処は信行の地であり、四つの文に分けます。初めの二つはそれぞれ一つずつ、二つを合わせて第三とし、余りの十二を合わせて第四とするからです。あるいは二つに分け、初めに摂住処を解き明かし、後に余りの三つの住処を解き明かします。波羅蜜住処の文の初めに「ここから後の余りの住処の中に五種などがある」と云い、以下の文を合わせてそれぞれ五つの義で解き明かすため、一つの段にまとめます。

初めに、名を摂住処とします。遠く解釈するならば、また大いなる心を発し、遠く大菩提を摂受することを期するからです。近く解釈するならば、発心してすでに正法を摂受し、衆生を摂するからです。二つを通じて解釈するならば、期願を発し、正法を摂受し、仏となり衆生を利することを近遠二つの摂受の中に含むからです。前の十八の住処の中で発心と名づけるのは、種性の発心であり、初めに起こす行相を以て名とします。この名を摂とするのは、将来果を成し、衆生を利することを以て名目とするからです。

文は二つに分かれます。初めに、別に四心を解き明かし、後に総じて三つの問いに答えます。天親の論に依れば、初めの文は四つに分かれます。初めに広大心を解き明かし、即ち初住です。次に「所有の衆生界施設住施設已む者」の下、第一心を解き明かし、即ち第二住です。次に「かくの如く無量の衆生涅槃に入り已む者」、第三の常心を解き明かし、即ち次の四住です。「何を以ての故か?もし衆生相・命・人相相あれば、則ち菩薩と名づけず」の下、第四の不顛倒心を解き明かし、即ち後の四住です。

如中卷釋,彌勒、天親總科文意,此中別釋。釋彼所無,初文分二,初、解總所有眾生文,與羅什同,單言一切眾生故,後卵生下別解三類。流支重言,「所有眾生、眾生所攝」。大唐本云,「所有諸有情、有情攝所攝」,初言有情總談也,後言有情者,世間有二,一、有情,二、器,今有情世間類攝之所攝,不是器世間類攝之所攝。又不佛化眾生,菩薩觀行有五無量,如障廣說,一、有情界無量,二、法界無量,三、世界無量,四、所調伏界無量,五、調伏方便界無量,今總言所有眾生,在五無量中初有情界無量有情攝所攝,是第五調伏方便界無量。此調伏方便界無量,名為能攝,是諸有情之能攝故,為此有情能攝之心所攝者,即所堪化一切有情。初總欲化度,先觀有情,有情無實,唯有諸法以為自體。彼諸有情必住世界,依彼界處,觀察所化性、欲、勝解所調伏異,然後應彼設調伏方便。由初有情數非一故,名為無量,故經總言所有諸有情,乃至最後設調方便亦復非一,故言所有有情攝所攝。初所有言,貫通下人、法,人、法即是五無量中初、後二種,令初發意當成初觀,故舉初、後,以例中三。廣大、第一等義皆如《玄記》說,五無量如章說,恐繁不引。

前巻の解説にて、弥勒菩薩と天親菩薩が経文の大意を総括的に示されたが、ここでは別途に解釈を加える。彼らの説かれなかった点を補うため、初めの文を二つに分ける。まず、「すべての衆生」という総称の解釈は、羅什訳と同じく「一切衆生」と単純に表している。その後、「卵生以下の三類」について個別に解説する。

流支訳では「所有衆生、衆生所摂」と重ねて説き、大唐訳では「所有諸有情、有情摂所摂」とある。初めの「有情」は総称であり、後の「有情」は世間を二種――有情世間と器世間――に分けたうちの有情世間を指し、器世間には含まれない。

また、仏が衆生を教化される際、菩薩の観行には五無量がある(詳細は『障広説』参照)。一に有情界無量、二に法界無量、三に世界無量、四に所調伏界無量、五に調伏方便界無量である。ここで「すべての衆生」と総称するのは、五無量の最初である有情界無量に属する「有情摂所摂」を指し、同時に第五の調伏方便界無量にも通じる。この調伏方便界無量は「能摂」と呼ばれ、一切の有情を包摂する働きを持つ。つまり、有情を包摂する心によって捉えられる対象こそ、教化に堪えうる一切の有情である。

初めに総じて教化を志す者は、まず有情を観察する。有情には実体がなく、ただ諸法を以て自性とする。それらの有情は必ず世界に住し、その環境に依って、教化すべき対象の性質・願望・理解力などの差異を見極め、それに応じた教化の方便を設ける。初めの有情の数が無数であるゆえに「無量」と名付けられ、経文に「すべての諸有情」と総称される。さらに最後に設ける教化の方便もまた無数であるため、「すべての有情摂所摂」と説かれるのである。

初めの「所有」という言葉は、後の「人」と「法」にも通じる。ここでいう「人・法」とは、五無量の最初(有情界無量)と最後(調伏方便界無量)を指し、初心の発意者がまず最初の観察を成就できるよう、初めと終わりを挙げて中間の三つを例示しているのである。

広大・第一義などの詳しい意味は『玄記』に説かれ、五無量については別章に述べられている。煩雑を避けるため、ここでは引用しない。

卵生等者,別顯三類分三,初、總標差別,顯前文總;次、略舉三別;後、配別三。受生、依止二義可知,境界別者,無所有處已下乃至欲界中,除住無想天、二無心定、無心睡眠、無心悶絕,此五有情外,餘皆有麁境,有明利想,名為有想,顯五位中無六識故不緣境界,皆名無想。在有頂地,極闇劣故,即以無少所有地法而為境界,不如於前有想地境界麁顯,心想分明,名非有想,亦不同前五無心位全無心想,名非無想,有少細想,無麁明想,是故雙非。想能取境分齊像貌,對境名想,外道多計為生死因,故偏說想,不名有心、心所等,舉想攝餘諸非。色蘊、色像之身,相狀易知,心以想微隱故,對依止名有色等,不名有心等。死滅為終,生起為始,因初有後無,故依生類,名為卵生等,不名卵死等。此顯初心願意所化,總說一切無不周盡,應依界、趣、地、居止等種種義門分別此三。

卵生などの分類について、三つの種類に分けて説明します。まず、全体的な区別を示し、前の文の総括を明らかにします。次に、三つの区別を簡潔に挙げます。最後に、それぞれの三つを対応させます。

生まれ方と依りどころの二つの意味は理解できるでしょう。境界の区別については、無所有処以下から欲界までの中で、無想天に住む者、二つの無心定、無心の睡眠、無心の悶絶という五つの有情を除いた、残りのすべてには粗い境界があります。明らかで鋭い想いがあるので、「有想」と呼ばれます。五位の中に六識がないため、境界を縁としないことを示し、すべて「無想」と呼ばれます。

有頂地では、非常に暗く劣っているため、わずかな所有地の法さえも境界として持たず、前に述べた有想地の境界のように粗く明らかではありません。心の想いははっきりとせず、「非有想」と呼ばれます。また、前に述べた五つの無心の位相のように完全に心の想いがないわけでもなく、「非無想」と呼ばれます。わずかながら細やかな想いはありますが、粗く明らかな想いはないため、両方に当てはまらないのです。

想いは境界を捉える区分や様相であり、境界に対して想いと名付けられます。外道はしばしばこれを生死の原因と考えるため、特に想いを説き、心や心所などとは呼びません。想いを挙げることで、他のすべてを含めます。

色蘊、すなわち色像の身は、その形や様子が容易に知られます。心は想いが微細で隠れているため、依りどころに対して「有色」などと呼ばれ、心などとは呼びません。

死滅が終わりであり、生起が始まりです。初めにあり、後に無くなるため、生まれる種類に基づいて「卵生」などと呼ばれ、「卵死」などとは呼びません。

これは初めの心の願いと意図によって教化されるべき者を示し、すべてを総説して漏れなく含みます。界、趣、地、居止など、さまざまな観点からこの三つを区別すべきです。

問:「何故不明界、趣所化,但明此三?」答:「受生通五蘊,總也,依止於五蘊中色、非色蘊以辨差別;境界復依四非色蘊,能有境界,而顯差別。從麁至細,展轉而談,亦顯界、趣在於中矣。欲令捨生死而得涅槃,故說受生;欲令捨無常色等得常色等,故說依止;欲令斷除分別因故,故說境界,心想為分別因故,斷此疑想,成無分別智。又外道說想為生死之因,無想為涅槃之果,今說彼俱生死可度,更不說餘。故論說言,受生、依止、境界所攝。」

問:「なぜ不明界、趣所化を明かさず、ただこの三つだけを明かすのですか?」 答:「受生は五蘊を通じて総括的に捉え、依止は五蘊の中の色蘊と非色蘊によって差別を弁じ、境界はさらに四つの非色蘊に依って、境界を持つことができることを示し、差別を明らかにします。粗から細へと次第に展開して語ることで、界と趣がその中にあることも示しているのです。生死を捨てて涅槃を得させるために、受生を説き、無常の色などを捨てて常なる色などを得させるために、依止を説き、分別の因を断じさせるために、境界を説きます。心の想いが分別の因となるからです。この疑わしい想いを断ち切って、無分別智を成就させるのです。また外道は想を生死の因とし、無想を涅槃の果と説きますが、今ここでは、それらがともに生死を超えるべきものであり、それ以外を説く必要はないと示しています。それゆえ論には、受生、依止、境界によって摂せられると説かれているのです。」

問:「依《勝鬘經》及《瑜伽》三十七,有四所化,謂三乘眾及無種姓;或依《楞伽》,說五乘等;此中言總亦攝法盡,何故次須言,我皆令入無餘涅槃?無餘涅槃三乘眾入,非第四故。其《勝鬘》云,『無聞非法眾生,以人天善根而成熟之』。《善戒經》、《菩薩地》亦爾,豈無種性亦入涅槃?經皆令作佛者,說一乘一道皆得作佛,應解佛意。」答:「有三解。一解,若久學行,識知根性,於無種姓人天善化,《勝鬘經》文云,若初學行,未識根性,但總發意皆令入滅,此經文是,亦不相違。二解,望其願意,皆令入滅,此經文是。據實而論,有無姓者,人天善根成,不得入滅,彼等經是。三解,彼別此總,理不相違。」

問:「『勝鬘経』や『瑜伽師地論』第三十七巻によると、教化すべき対象は四種あり、三乗の衆生と無種姓(仏種を持たない者)とされています。また、『楞伽経』に依れば五乗などが説かれています。ここで『一切衆生』と総称しているのは、すべての存在を含んでいるはずです。では、なぜ次に『我は皆、無余涅槃に入らしめん』と言うのでしょうか。無余涅槃に入るのは三乗の衆生であり、第四の無種姓は入ることができないからです。『勝鬘経』には、『法を聞かず、正しからざる衆生は、人天の善根をもって成熟させる』とあります。『善戒経』や『菩薩地』にも同様の記述があります。無種姓の者も涅槃に入るというのでしょうか。経典に『皆、仏とならしめる』とあるのは、一乗一道、すべての者が仏となることができるという趣旨であり、仏の真意を理解すべきです。」

答:「三つの解釈があります。第一の解釈。もし長く修行を積み、衆生の根性を知る者であれば、無種姓の者に対しては人天の善で教化します。これは『勝鬘経』の文に合致します。もし修行の初歩で、まだ根性を見分けられないならば、ただ総じて『すべてを涅槃に入らしめよう』と発意するのです。この経文もまた、矛盾しません。第二の解釈。願いの上からは、すべてを涅槃に入らしめようとする、これがこの経文の趣旨です。実際のところを論じれば、無種姓の者は人天の善根によって成熟させられ、涅槃に入ることはできません。それが先に挙げた経典の説くところです。第三の解釈。あれは別の経典、これは総合的な経典であり、道理として矛盾はありません。」

解第二段第一心中分二,初、解「所有眾生界、眾生所攝」文,後、解「皆令入無餘涅槃」。總中羅什全無;流支云,「所有眾生界、眾生所攝」,此論云,所有眾生界施設住施設已,與《能斷》同;《能斷》云,「乃至有情界施設、所施設」,此中意說,外道尼乾說草木皆悉有命,佛則不爾。於五無量中,彼初說有情界無量是也,此中施設者名也,能詮之名。或名為想,因想起故;或名無體,但是心想之所意解,能起於想,故名為想;或名施設,法本無名,名者皆是假所施設,施設不稱法體。非但名是法上施設,亦是世尊為異外道說草木等以為眾生,唯說若有內五蘊者以為有情,能施設者佛也,正施設體名所施設。有情之體皆欲度之,非度外道所說有情諸草木等亦欲令其入涅槃也,是此中意。論云,謂上種種等者,謂上所說三類差別,種種體相在眾生界,為世尊施設有情之名,所辨施以為有情體者,總牒上來所說眾生。

第二段の第一の心中は二つに分かれる。初めに、「すべての衆生界、衆生の摂する所」という文を解釈し、後で「皆、無余涅槃に入らしめん」を解釈する。

全体において、鳩摩羅什の訳には全くない。菩提流支の訳では、「すべての衆生界、衆生の摂する所」とある。この論では、「すべての衆生界施設住施設已」とあり、『能断金剛般若波羅蜜多経』と同じである。『能断』には、「乃至有情界施設、所施設」とある。

ここでの意味は、外道のニガンタ(ジャイナ教の修行者)が草木にもすべて命があると説くのに対し、仏はそうではないと説くことである。五無量の中の最初に説かれる「有情界無量」がこれにあたる。

ここで「施設」とは名のことである。すなわち、ものを表す言葉である。あるいは「想」とも呼ばれる。想いによって起こるからである。あるいは「無体」とも呼ばれる。ただ心の想いによって理解されるものであり、想いを起こすことができるからである。あるいは「施設」とも呼ばれる。法にはもともと名はなく、名はすべて仮に施設されたものであり、施設は法の本体に合致しない。

ただ名が法の上に施設されるだけでなく、世尊が外道と異なり、草木などを衆生とするのではなく、内に五蘊を持つものだけを有情として説き、施設するのは仏である。正しく施設される本体が「所施設」である。

有情の本体はすべて度脱しようとするものであり、外道が説くような草木などの有情を度脱し、涅槃に入らせようとするのではない。これがここでの意味である。

論に「謂上種種等者」とあるのは、上に説かれた三類の差別、種々の体相が衆生界にあり、世尊が有情という名を施設し、有情の本体として説かれたものを総括して、上に説かれた衆生を指しているのである。

下期化度我皆令入無餘涅槃分三,初、解何故不願與餘法而願與涅槃,次、解卵生、濕生等願得涅槃義,後、解唯設令入無餘不說令入餘義。初文問云,何故願此樂果體通世間、出世間,何故不願與世樂果?出世有二,一、菩提,二、涅槃,何故不願與菩提果?《善戒經》第一及《菩薩地》說,發菩提心,願令眾生得大涅槃及如來智,何故此中唯願與涅槃?依初解,問何故唯願與此涅槃不可得義,而不願與世間之樂可得之果;依第二解,問何故唯願與此涅槃,而不願與當菩提果,其不可得義,是答之文攝。依初問解答云,生所攝故無過。以皆是生故者,前說四生,而生有死,以生為苦,滅生為樂,世間樂果增生不滅,涅槃滅生,故願與之,故言生所攝故無過,以所度者皆是生攝故,與違生涅槃樂果。依第二問解答者,以菩提者不可得義,二乘定性不可得菩提,一切種智故,然依所度化者皆生所攝,故與涅槃,皆是生故為滅其生,與涅槃樂,同《華嚴經》初發心願言樂普令入涅槃故,非三乘者皆得菩提故。不說與非一切生皆悉得入無餘涅槃,此中說者,如前已解。又解,雖菩提智非皆可得,《瑜伽》初願,一、意樂普廣,二、由未解故,發願與之,此文據實故不說與,更有別解,至下當知。

次に、衆生を教化し、すべてを無余涅槃に入らしめることを願うことについて、三つに分けて説く。

初めに、なぜ他の法ではなく、涅槃を願うのかを解く。 次に、卵生・湿生などの衆生が涅槃を得ることを願う意味を解く。 最後に、ただ無余涅槃に入らしめることを説き、他の境地に入らしめることを説かない理由を解く。

初めの文で問う。 なぜこの楽果(涅槃)は世間と出世間に通じるのに、世間の楽果を願わないのか。 出世間には二つあり、一つは菩提、もう一つは涅槃である。 なぜ菩提の果を願わないのか。 『善戒経』第一巻及び『菩薩地』には、菩提心を発して、衆生に大涅槃と如来の智を得させんことを願うと説かれている。 なぜここではただ涅槃を願うのか。

第一の解釈に依れば、なぜただこの涅槃という不可得の義を願い、世間の楽という可得の果を願わないのかを問う。 第二の解釈に依れば、なぜただこの涅槃を願い、当来の菩提の果を願わないのかを問う。 その不可得の義は、答える文に含まれる。

第一の問いに答えて言う。 「生に摂せられるが故に過ちなし」と。 「すべてこれ生なるが故に」とは、前に説かれた四種の生を指す。 生あるところには死があり、生は苦であり、生を滅することが楽である。 世間の楽果は生を増やし滅さないが、涅槃は生を滅する。 それゆえ、涅槃を願って与えるのである。 故に「生に摂せられるが故に過ちなし」と言う。 度そうとする衆生はすべて生に摂せられるから、生に違背する涅槃の楽果を与えるのである。

第二の問いに答える。 菩提は不可得の義であるから、二乗の定性の者は菩提(一切種智)を得ることができない。 しかし、度化しようとする衆生はすべて生に摂せられるから、涅槃を与えるのである。 すべて生であるが故に、その生を滅して涅槃の楽を与える。 これは『華厳経』の初発心の願いに「楽しく普く涅槃に入らしめん」と言うのと同じである。 三乗の者が皆菩提を得るのではないからである。

すべての衆生が悉く無余涅槃に入るとは説かない。 ここで説くことは、前に既に解いた通りである。

また別の解釈がある。 菩提の智は皆が得られるものではないが、『瑜伽論』の初願には、 一に意楽が普く広大であること、 二に未だ解せざるが故に、発願して与えると説かれている。 この文は実義に依るが故に与えるとは説かない。 さらに別の解釈があるが、後で知るであろう。

「如所說卵生等」者下,解第二卵、濕生等得涅槃義。謂有難言:「四生之內,胎、化二生人天所攝,可有令得入涅槃義,濕生、卵生多分鬼畜,云何能令入涅槃也?境界三中,有想一種可令入涅槃,既住無想及非有想非無想天,云何皆入涅槃也?」依彼身現身入聖涅槃義,皆悉不得,故為此問,非是餘地先已入聖,後生有頂,不能入涅槃。若依此文,不作此解,即生有頂,無入涅槃者,便與一切聖教相違。又言等者,於依止二,現住有色少分可令入涅槃,現住無色少分云何亦令入涅槃也?有色中地獄等,不能入涅槃故。一一義中,皆應疎失。初問意言,如此亦有無性有情不入涅槃,此問略無,以宜聞有,不宜聞無。又初發心宜聞總有,不宜聞別無,故略不問。又彼義謂決定不得,故不須問。答有三義,隨應料簡。八難處生,待時而濟出難,根熟必化之故,如小山比丘、鴿鬘比丘、頂生王等。卵、濕二生皆亦可化。此中據總以為問也,答中以有彼類可化之者,但約難處決定為答。

「如所説卵生等」の下には、第二の卵生・湿生などが涅槃を得る意味を解釈しています。ある難問にこうあります。「四生のうち、胎生と化生は人間や天界に属し、涅槃に入ることができると説くのは理解できます。しかし、湿生や卵生は多くが餓鬼や畜生の類です。どうして彼らが涅槃に入れるというのでしょうか。また、境界の三つの中では、有想の一種だけが涅槃に入れると説かれますが、無想天や非有想非無想天に住む者は、どうして皆涅槃に入れるのでしょうか。彼らの身に依って現身で聖なる涅槃に入るという意味では、いずれも得られません。だからこそこの問いが起こるのです。これは、他の境地で先に聖位に入り、後に有頂天に生まれた者が涅槃に入れないという話ではありません。もしこの文に従ってこの解釈をしないなら、有頂天に生まれた者は涅槃に入る者がいないことになり、すべての聖教に反することになります。また『等』という言葉は、依止の二つについて、現に有色に住む者は一部が涅槃に入れるとしても、現に無色に住む者はどうして一部も涅槃に入れると言えるのでしょうか。有色の中でも地獄などは涅槃に入れないからです。一々の意味において、すべて疎かになる恐れがあります。最初の問いの意は、このように無性有情も涅槃に入らない者がいるということです。この問いは簡略化されており、聞くにふさわしいものは有であり、聞くにふさわしくないものは無であるからです。また、初発心の者には総じて有を聞かせるのがふさわしく、個別の無を聞かせるのはふさわしくないので、略して問わないのです。さらに、その意味は決して得られないとされるので、問う必要がないのです。答えには三つの意味があり、応じて整理されます。八難処に生まれた者は、時を待って救い出されるべきであり、根が熟せば必ず教化されるからです。例えば、小山比丘、鴿鬘比丘、頂生王などがそうです。卵生や湿生もまた教化できる可能性があります。ここでは総体に基づいて問いが立てられていますが、答えでは、その類いの中に教化できる者がいるということで、難処についてのみ確定的に答えているのです。

何故說無餘涅槃界等者下,解皆令入無餘涅槃義有二,初、問,次、答。前問可知,何故不總言得一切涅槃,而但言無餘耶?然涅槃義諸教不同,《涅槃經》說,具足四德大般涅槃,大般涅槃具常、樂、我、淨四勝德故。《攝論》但說一無住處涅槃,又說二聲聞之人以小涅槃而般涅槃,大乘之人以大涅槃而般涅槃。《十地論》說二,謂同相、別相。《勝鬘》說二,有餘、無餘。《金光明》說三,有餘、無餘及無住處涅槃;又說四,自性淨、方便淨、有餘、無餘。《唯識》、舊梁《攝論》說四,自性淨、無住、有餘及無餘涅槃;又說三事具足入大涅槃,具足三事,非是三个涅槃,涅槃亦非三種,體成一涅槃。此中但簡世間六行所得彼分涅槃及有餘涅槃,不簡自性。簡中有四,一、但簡彼分涅槃非擇滅者;二、但簡有餘涅槃擇滅少分;三、「自以宿業」下,雙簡前二涅槃;四、「如是涅槃」等下,結釋簡不說二涅槃因。初中但總言得涅槃,與佛所說凡夫、外道所得世間六行伏惑所得非擇滅攝彼分涅槃,不異言中濫故。彼是五果中士用果,丈夫力得故,非離繫果,體因所得,無佛亦得,由非究竟,故不願與此。彼分涅槃亦名方便涅槃,行世間方便因之所得故。無餘不爾 下,第二簡不說有餘涅槃。前問可知,次答云彼共果故,彼有餘涅槃,有苦所依身、無苦所依身,皆共得之,雖解脫果,非如無餘。三乘聖人要無苦依,方始能得不共之果,是故偏說令入無餘。第三雙簡不說前二涅槃中,自以宿業,又值佛說而得果故,以二因解不說方便涅槃所以,又「非一向故」,以一因緣解不說有餘涅槃之所由,謂世間得彼分涅槃,不但丈夫力果,而非究竟,亦由宿業、數習為因,而得現入,如劫壞時任運而得。又如下地曾習次上地定,退生次下地,生已彼下地,由宿習力,任運漸習,上定現前。豈無餘滅亦宿業得?其無餘涅槃要由外緣聞法力等,值佛說得,不同彼分方便涅槃不待佛說,方便而得。又無餘涅槃一得已後,圓滿安樂,更無微苦,其有餘涅槃,惑業雖盡,苦依未除,而非一向果,「身苦有餘故」,故但說無餘,不說二涅槃。此通三乘二涅槃義,若依佛位,有漏身智無名無餘依涅槃,無漏身智在名為有餘滅,便無是義。

なぜ「無余涅槃界などと説く」のかという問いに対して、以下では「皆をして無余涅槃に入らしむ」という意味を解釈する。二つの部分があり、最初に問い、次に答えている。前の問いは理解できるが、なぜ「一切の涅槃を得る」と総括して言わずに、ただ「無余」と言うのか?

さて、涅槃の意味は諸教によって異なる。『涅槃経』では、四徳を具足した大般涅槃を説く。大般涅槃は常・楽・我・浄の四つの勝れた徳を具えているからである。『摂論』ではただ一つの無住処涅槃を説き、また二種を説く。声聞の人は小涅槃によって般涅槃し、大乗の人は大涅槃によって般涅槃すると。『十地論』では二種を説き、同相と別相とする。『勝鬘経』では二種を説き、有余と無余とする。『金光明経』では三種を説き、有余・無余および無住処涅槃とする。また四種を説き、自性浄・方便浄・有余・無余とする。『唯識論』や旧梁訳の『摂論』では四種を説き、自性浄・無住・有余および無余涅槃とする。また三事を具足して大涅槃に入ると説く。三事を具足するとは、三つの涅槃があるわけではなく、涅槃の本体は一つの涅槃であることを意味する。

ここではただ、世間の六行によって得られる部分的な涅槃(彼分涅槃)および有余涅槃を区別し、自性涅槃は区別しない。区別には四つある。第一に、彼分涅槃(非択滅)を区別する。第二に、有余涅槃(択滅の一部)を区別する。第三に、「自ら宿業をもって」以下で、前の二つの涅槃を同時に区別する。第四に、「かくのごとく涅槃」以下で、二つの涅槃を説かない理由をまとめて解釈する。

最初の部分では、ただ総じて「涅槃を得る」と言うが、仏の説かれる凡夫や外道が得る世間の六行によって煩悩を抑えて得る非択滅に属する彼分涅槃と混同されないようにしている。それは五果のうちの士用果であり、人の力によって得られるもので、離繫果ではない。本体は因によって得られるもので、仏がいなくても得られる。究極的ではないため、これと願わない。彼分涅槃はまた方便涅槃とも呼ばれ、世間の方便因によって得られるからである。無余涅槃はそうではない。

次に、第二の区別として、有余涅槃を説かない理由を述べる。前の問いは理解できる。答えは「彼は共の果であるから」とある。有余涅槃は、苦を依りどころとする身があってもなくても、共に得られるものである。解脱の果ではあるが、無余涅槃のようではない。三乗の聖者は、苦を依りどころとする身がなくなって初めて、共でない果を得ることができる。だから特に「無余に入らしむ」と説くのである。

第三に、前の二つの涅槃を説かない理由を同時に区別する。「自ら宿業をもち、また仏の説法に値って果を得るから」と、二つの因によって方便涅槃を説かない理由を解釈する。また「一方向ではないから」と、一つの因縁によって有余涅槃を説かない理由を解釈する。つまり、世間で彼分涅槃を得るのは、ただ人の力による果であるだけでなく、究極的ではない。また宿業や繰り返しの修習を因として、現に涅槃に入ることができる。たとえば劫が壊れる時、自然に得られるようなものである。また、下地でかつて上地の定を修習し、退転して次の中間地に生まれ、生まれた後その下地で、宿習の力によって自然に次第に修習し、上の定が現前する。無余滅もまた宿業によって得られるだろうか?無余涅槃は外縁である法を聞く力などによって、仏の説法に値って得られるものであり、彼分方便涅槃のように仏の説法を待たずに方便によって得られるものとは異なる。また、無余涅槃は一度得た後は、円満で安楽であり、微細な苦もなくなる。これに対して有余涅槃は、煩悩や業は尽きているが、苦を依りどころとする身は除かれておらず、一方向の果ではない。「身の苦が残っているから」である。だからただ無余涅槃を説き、二つの涅槃を説かないのである。

これは三乗に通じる二涅槃の意味である。もし仏の位に依れば、有漏の身と智がないことを無余依涅槃とし、無漏の身と智があることを有余滅とすれば、このような意味はなくなる。

上來已說不說彼分、有餘所由,細料簡者,由度三乘,不說令得大般涅槃及無住處及三別相、自性清淨并大菩提,論中以經說發大心所度令得三乘通化,故但簡二。今彼如有餘,三乘通得,餘非涅槃,論亦自說非究竟。第四結釋不說二涅槃所以,初、牒二涅槃,次、別以四因結,後、總結是故說無餘。一、「丈夫力果故」,二、「非究竟果故」,即前習業果,其究竟果必加行因得故,此二因結釋不說方便涅槃。一、是「共果故」,二、「非一向果故」,此二因結釋不說方便、有餘涅槃。總結是故,但說無餘,便無是過,其無住處及大般涅槃,大乘得,二乘定性皆所不得,亦不說與。然《菩薩地》及《善戒經》第一卷,初發心願大般涅槃及大菩提,與此全別,此同《華嚴經》初發心位願得無餘,略有三解。一云,彼即同此說,大乘無餘涅槃勝故,影彰亦得菩提。二云,此依種性,非皆得佛,故得無餘。彼說意,想願作佛,亦不相違。三云,初猶未解,彼願皆得。此依種性不說菩提,此皆發願故略不問,亦不願得自性清淨涅槃,彼已舊成,不須問說,故但簡二。

前に、説かれなかった部分とその理由について述べましたが、さらに詳しく検討します。

三乗を度するという点で、大般涅槃や無住処涅槃、三つの別相、自性清浄、大菩提を得させることについては説かれていません。論中では、経典に説かれる「大心を発して三乗を通じて化する」という教えに基づき、二つだけを簡別しているのです。

さて、ここで「余がある」とは、三乗が共通して得るものの、それは涅槃そのものではないという意味です。論自体も、これが究竟ではないと説いています。

第四に、二種の涅槃が説かれない理由を結びつけて解釈します。まず、二種の涅槃を挙げ、次に四つの理由によって結び、最後に「故に無余涅槃のみを説く」とまとめます。

一、「丈夫の力の果であるから」。 二、「究竟の果ではないから」。これは以前の習業の果であって、究竟の果は必ず加行の因によって得られるからです。この二つの理由によって、方便涅槃が説かれないことを結びつけて解釈します。

一、「共の果であるから」。 二、「一向の果ではないから」。この二つの理由によって、方便涅槃と有余涅槃が説かれないことを結びつけて解釈します。

まとめると、故に無余涅槃のみを説くのであれば、このような過ちは生じません。無住処涅槃と大般涅槃は大乗が得るものであり、二乗の定性はどちらも得られないため、これらについても説かれないのです。

しかし、『菩薩地』や『善戒経』の第一卷では、初発心の時に大般涅槃と大菩提を願うと説かれており、ここでの説き方とは全く異なります。ここでは『華厳経』の初発心の位で無余涅槃を得ることを願うのと同じです。これについて、主に三つの解釈があります。

一つには、それらの経典もここでの説き方と同じであり、大乗の無余涅槃が勝れていることを影のように示し、菩提をも得ると解する説。 二つには、ここでは種性に依って説かれており、全てが仏を得るわけではないため、無余涅槃を得るとする説。それらの経典の意は、思い願って仏となろうとすることであり、矛盾しないとする説。 三つには、初発心の時にはまだ理解が及ばず、それらの経典では全てを得ることを願うが、ここでは種性に依って菩提を説かないという説。これらは全て発願に関わるため、詳しく問われず、自性清浄涅槃を得ることも願われません。それは既に古くから成就されているものであり、改めて問うたり説いたりする必要がないからです。故に、二つだけを簡別しているのです。

第三段解常心中分三,初、解經牒已所度生,次、正顯常行,後、釋成常義。初文可知,「無有眾生得涅槃者」下,顯經常行。初牒經文問可知。解云,如菩薩自得涅槃,無別眾生,雖度入滅,如菩薩身自入涅槃,不見身外別有眾生,故是常行。何以故?「若菩薩」等者,第三釋成常行,初牒經文問可知。唯言有眾生想,對自明他,故唯說一,不說餘名。解云,若菩薩於眾生所起他身想,不作攝他同已想者,不名菩薩。下解證道等中,由諸菩薩證真智,後得攝諸有情同自性意,令初發心設雖未證亦依此解,由無此彼,不生勞倦,故能常度。若見身外有別眾生,無同體意,執生勞倦,便不能度,設度不常。故《辨中邊》十六空中畢竟空云,「為常益有情」,由觀有情畢竟皆空,故能常益,此亦如是,不見身外有眾生故。

第三段「常心」の解釈は三つに分けられます。まず、経文を引用して自らが救済する衆生について述べ、次に、常行(絶え間ない実践)を明らかにし、最後に、常行の意義を解釈します。最初の部分は理解しやすいでしょう。

「無有衆生得涅槃者」以下は、経典の常行を示しています。まず経文を引用し、問いを立てる部分は明らかです。解釈としては、菩薩自身が涅槃を得る時、別の衆生が存在しないように、衆生を涅槃に導いても、菩薩自身が涅槃に入るのと同じで、自身の外に別の衆生があるとは見えないから、これが常行なのです。

なぜならば、「若菩薩」以下の部分、第三に常行を解釈して成立させる部分です。まず経文を引用し、問いを立てる部分は明らかです。ただ「衆生の想いがある」と言うのは、自分に対して他者を明らかにするためで、ただ一つのことを説き、他の名称は説かないのです。解釈としては、もし菩薩が衆生に対して他者の身体という想いを起こし、他者を自分と同じものとして取り込もうとしないなら、菩薩とは名乗れません。

以下の解釈では、証道(悟りの道)などにおいて、諸菩薩は真実の智慧を証得した後、すべての有情を自らの本性と同じものとして取り込む意図を得て、初発心の者であってもまだ証得していなくても、この解釈に依るのです。これとそれの区別がないから、疲れを知らず、常に救済することができるのです。もし自身の外に別の衆生がいると見て、同体の意図がなければ、執着が生じて疲れ、救済することができず、たとえ救済しても持続しません。

だから『弁中辺論』の十六空のうち、畢竟空(究極の空)には、「常に有情を益するため」と説かれています。有情が畢竟すべて空であると観じるからこそ、常に益することができるのです。これも同じで、自身の外に衆生があるとは見ないからです。

第四解不顛倒心中有三,初、牒經文問,次、正解,後、成之。所牒經中,流支「何以故」下有「非」字,餘三本及此論皆無。由上來兩个「何以故」皆乘前起問,方起下文,此後「何以故徵」,逐有「非」字,何以故非菩薩。《能斷》之中,初、「何以故」,後、「所以者何」。此本及流支說三,謂眾生、命、人;羅什本四,增我;《能斷》說八。唯說三者,但說所化別有三世、三界等異,他三界身、三世身多異故,不說自我。說有四者,順上下文,自他、總別通說故四。說有八者,依貞觀年中玉華所譯杜行顗本說有八故,後顯慶年於玉華寺所翻《大般若》,勘四梵本,皆唯說四。然《瑜伽論.攝釋分》中亦解經八,以此准知,經本自有廣、略、中異,杜顗廣本,《能斷》文是略,于闐本、羅什文同,中者是天竺本,與真諦、流支本同,玉華更譯,文亦相似。今於慈恩梵經臺具有諸本,但以前帝勅行《能斷》,未容閏飾,已所於代,恐更極謬,遂後隱於玉華復譯,所以諸本增減不同,學者知矣。

第四の解釈は「不顛倒心」についてであり、その中に三つの部分がある。初めに、経文を引用して問い、次に正しく解釈し、後にそれをまとめる。引用された経文において、流支本の「何以故」の下には「非」の字があるが、他の三つの版本とこの論にはない。これまでの二つの「何以故」はいずれも前文を受けて問いを起こし、下文を引き出すものであり、この後の「何以故」の問いかけには「非」の字が伴い、「何以故非菩薩」となっている。『能断金剛般若波羅蜜多経』では、初めに「何以故」があり、後に「所以者何」がある。この版本と流支本では三つを説き、すなわち衆生・命・人である。羅什本では四つを説き、我を加えている。『能断』では八つを説く。ただ三つを説くのは、教化される対象が三世・三界などに分かれて異なるためであり、他者の三界の身・三世の身が多様であるからで、自我については説かない。四つを説くのは、前後の文脈に順応し、自他・総別を通して説くためである。八つを説くのは、貞観年間に玉華寺で訳された杜行顗本に八つを説く記載があるためであり、後の顕慶年間に玉華寺で翻訳された『大般若経』では、四つの梵本を照合したが、いずれも四つしか説いていない。しかし『瑜伽論・摂釈分』の中でも経の八つを解釈しており、これによって経本自体に広・略・中の違いがあることがわかる。杜顗の広本、『能断』の文は略本であり、于闐本と羅什本は同じで、中本は天竺本であり、真諦本・流支本と同じである。玉華寺でさらに翻訳された文も似ている。今、慈恩寺の梵経台には諸本が揃っているが、以前の帝の勅命によって『能断』が行われ、修正の余地がなく、既に世に広まっているため、さらに誤りが広がることを恐れ、後に玉華寺で再び翻訳を隠して行った。それゆえ、諸本に増減の違いがあることを学ぶ者は理解すべきである。

正釋中若以煩惱心取所度生,起三想者,彼能化菩薩便有自他二種相轉,乃起顛倒,云何名為菩薩也?釋成云菩薩於彼不轉者,證真菩薩於彼所化不起他身眾生想故。由二因緣不於他身眾生想轉,一、已斷我見,得無我故,煩惱無也;得自行平等想故,法執無也。故下論云,得麁惡平等故,能信解自他平等,勸發心者亦應如是。通結成云,「彼菩薩非眾生、命、人取見者」者,非者無也,由諸菩薩無眾生等執取故,無自他、能所化度,是經之義,故不顛倒。若有如是能取見心,乃名顛倒。《能斷》更結,「善現!是故無有少法名為發趣菩薩乘者」,結成無我,所化無故,能化亦無,餘本無此。又羅什本於經文中但有一文,「即非菩薩」,闕無初結,合為文故。其天親論唯以一頌配解此經。《菩薩地》說,最初發心有二奇法不共世間,一、攝諸眾生皆為眷屬,上來解是;二、攝眷屬過所不能染,由無增損染違順故,於彼眾生發生利益、安樂意樂,離惡進善,拔苦與樂故,此最初發生四意。

正しい解釈において、もし煩悩の心で救おうとする衆生を捉え、三つの思い(自他・能所の区別)を起こすならば、その教化する菩薩には自と他という二つの相が生じ、転倒した見解を起こすことになります。どうしてそれを菩薩と呼べましょうか。

解釈を完成させて言うならば、「菩薩はそれにおいて転じない」とは、真実を証した菩薩は、教化すべき相手に対して他者の身体や衆生という思いを起こさないからです。二つの理由によって、他者の身体や衆生という思いに転じることがありません。

第一に、すでに我見を断じ、無我を得ているため、煩悩がないからです。自他の平等な思いを得ているため、法への執着もないからです。したがって、後に論で説かれているように、「粗悪な平等を得る」とは、自他平等を信じ理解することができ、発心を勧める者もまたこのようであるべきです。

全体をまとめて完成させて言うならば、「その菩薩は衆生・命・人という執着の見解を持たない」とは、「ない」という意味です。諸菩薩は衆生などの執着を持たないため、自他や能所の教化・救済という区別がなく、これが経の教えの意味であり、転倒ではないのです。もしこのような執着の心を持つならば、それは転倒と言えます。

『能断金剛般若経』ではさらに結んで、「善現よ、それゆえにわずかな法も、発心して菩薩の道に向かう者という名はない」と説き、無我を完成させています。救われるべき者がいないならば、救う者もまたいないのです。他の経典にはこの文はありません。

また、鳩摩羅什訳の経文にはただ一つの文、「すなわち菩薩にあらず」のみがあり、最初の結びの文が欠けていますが、文を合わせたためです。天親の論ではただ一つの偈でこの経を解き明かしています。

『菩薩地』には、最初の発心には世間と共通しない二つの不思議な法があると説かれています。

第一に、すべての衆生を眷属として摂取すること。これまで解いてきた通りです。

第二に、眷属を摂取しても過失によって染まることがないこと。増減や損得、染汚や順逆がないため、それらの衆生に対して利益と安楽をもたらす意楽を起こし、悪を離れ善に向かい、苦を抜き楽を与えるからです。これが最初に起こす四つの意楽です。

解攝住處中第二段指答三問中分二,初、指文,後、重釋次願,即攝廣大、第一二文為欲願。答初問,正求思念故,以常心為等至;答第二問,略無經文。「實無眾生得滅度者」,若依羅什,無初重「即非菩薩」文,便無此答。正起無分別定,故答修行,後翻「不名菩薩」,設住散心,無分別。答第三問文有三,初、配文,次、釋義,後、成前。釋中爾涅槃者,境界也,定位觀諸境相,都無自他故,在散位如在定中住觀境界,亦無他相,後却成前修行,云「是故無眾生得涅槃者」,此義得成就。

住処の解釈における第二段は、三つの問いに対する答えを指し示すものであり、二つに分かれています。初めに経文を指し示し、後に「広大なる願い」と「第一の願い」の二つの文を重ねて解釈し、それらを「願い求める心」としてまとめています。

第一の問いに対する答えは、正しく求めて思念するためであり、常に心を等しく保つことを「等至(三昧)」とします。第二の問いに対する答えは、経文には簡略にしかなく、「実に衆生として滅度を得る者は無し」とあります。もし鳩摩羅什訳に従えば、初めの「即ち菩薩に非ず」という重複する文が無いため、この答えも存在しません。正しく無分別の定を起こすため、修行について答え、後に「菩薩と名づけず」と反転させます。仮に散乱した心に住していても、無分別であることを答えます。

第三の問いに対する答えの文は三つに分かれます。初めに経文を配当し、次に義理を解釈し、後に前文を完成させます。解釈の中の「爾涅槃」とは境界のことであり、定の位において諸々の境相を観じると、すべて自他ともに無いからです。散乱の位にあっても、定の中に住するように境界を観じれば、やはり他者の相はありません。後に前の修行を完成させ、「是の故に衆生として涅槃を得る者は無し」と言い、この義理が成就されるのです。

重釋欲願中有三,初、顯勝,二、顯行,三、顯不說。初文意說,欲說利行,先欲希願滿足,次修正行。修正行者,應於定、散一切時位,伏除執障;執障不除,行不能修;行不能修,欲願不滿;故以欲願攝諸住處而為最勝,進善滅惡之勝首故。顯行中但行無相、無分別定滅諸執障,行諸住處與定相應,其所欲願決定成滿。住有分別,不除執障,謂浪自濟生,隨自後生廣大欲願,無由滿足,顯文不說欲願勝義,其文可知。若依天親,上來合是唯答初問云何住。

欲願の重なる解釈には三つあります。第一はその優れた点を明らかにすること、第二は実践を明らかにすること、第三は説かない理由を明らかにすることです。

最初の文の意味は、利他の行いを説こうとするなら、まず願いが満たされることを強く望み、次に正しい行いを修めるべきだと述べています。正しい行いを修めるとは、禅定の時も日常の時も、あらゆる場面で執着と障害を抑え除くことです。執着と障害が除かれなければ、行いは修められません。行いが修められなければ、願いは満たされません。ですから、願いによってすべての境地を統べることが最も優れており、善を進め悪を滅ぼす優れた第一歩だからです。

実践を明らかにする段階では、ただ無相・無分別の禅定を行い、あらゆる執着と障害を滅ぼします。すべての境地を行じ、禅定と調和すれば、その願いは必ず成就し満たされます。分別にとらわれたままでいると、執着と障害は除かれず、まるで自分で自分を救おうとして波に漂うようなもので、後に広大な願いを抱いても、満たされる道はありません。ここでは願いの優れた意義を説かない理由を明らかにしており、その文意はおのずと理解できるでしょう。

もし世親(天親)に依るなら、これまで述べてきたことは、最初の問い「どのように住するか」に答えるものにほかなりません。

問:「無著、天親共遣慈氏,內稱昆季,外號師資,俱釋經文,並為人範,何因弟制兩周,別酬先問?兄分三段,總答前徵,成依地而漸修?或釋疑而顯起玄宗,便異粗梗概,以為言識義殘文故,不可而言,𭿺盾以為師義,師文固不可而言也。既而𭿺盾,前哲如何華蕚,後賢願辨指南,以駿未悟;為辨指歸,以駿來悟。」答:「為謀日積久,應彼道同,入室歲盈,信成風靡。此中三問,第一問,弟制兩周者,是先德之迷宗;兄分三段者,乃今修之悟旨。無著稟偈於彌勒,天親受旨於賢兄,何得兄說一周、弟分兩遍?天親亦一周而說解者,自迷云爾。有別解,已如前釋。又第二問,弟別酬先問、兄總答前徵者,弟隨文增以制答,兄逐義具而酬問;又兄隨利根以釋文,弟逐鈍品而解義;又弟逐初學以申宗,兄隨久修陳旨;由此不同,不相違也。又第三問,兄依地而漸修、弟釋疑而顯起者,聽者但隨信定,即說進善滅惡之門;聞者有疑生,即逐他情以陳妙道;兄隨前義,依地漸修;弟遂後說,釋疑顯起。又兄但依宗以釋義,弟乃假說以明生文,二製狀似不同,理實非相𭿺盾,大同小異,應釋二文,如下當說。」

問:「無著と天親はともに弥勒菩薩に師事し、内では兄弟と称し、外では師弟として知られ、ともに経典を解釈し、人々の模範となりました。どうして弟(天親)は二周に分けて先の問いに別々に答え、兄(無著)は三段に分けて前の問いを総括して答え、地に依って次第に修行することを示したのでしょうか?あるいは疑問を解き明かして深遠な教えを顕わにし、粗雑な梗概とは異なるようにしたのでしょうか?言葉では意味を十分に伝えきれず、文も断片的であるため、言うことができません。矛盾しているように見えて師の教えであり、師の文であるため、言うことができないのです。しかしながら、前の哲人たちはどのように華やかな教えを開いたのでしょうか?後の賢者たちには、迷いを解くための指針を明らかにし、未だ悟りに至らない者たちのために方向を示し、来るべき悟りのために道筋を立ててほしいと願います。」

答:「長い年月をかけて教えを積み重ね、同じ道に応じ、師の元で歳月を満たし、信が風のように広がりました。ここに三つの問いがあります。第一の問い、弟が二周に分けたのは、先徳が宗義に迷ったためであり、兄が三段に分けたのは、今修行する者が悟りの旨を得たためです。無著は弥勒から偈を授かり、天親は賢兄から旨を受けました。どうして兄が一周で説き、弟が二遍に分けたのでしょうか?天親も一周で説き解いたのであり、自ら迷ったというのは誤りです。別の解釈については、すでに前に述べた通りです。第二の問い、弟が先の問いに別々に答え、兄が前の問いを総括して答えたのは、弟が文に従って増補して答えを定め、兄が義に従って十分に問いに応じたからです。また、兄は利根に随って文を解釈し、弟は鈍品に随って義を解きました。さらに、弟は初学に随って宗義を述べ、兄は久修に随って旨を陳べました。これによって違いはありますが、互いに矛盾するものではありません。第三の問い、兄が地に依って漸修し、弟が疑いを解き明かして顕わにしたのは、聞く者が信と定に随えば、即ち善を進め悪を滅する門を説き、聞く者に疑いが生じれば、即ち他者の情に随って妙なる道を陳べたからです。兄は前の義に随い、地に依って漸修し、弟は後の説に従い、疑いを解き明かして顕わにしました。また、兄はただ宗に依って義を解釈し、弟は仮の説によって文を明らかにしました。二つの作り方は異なるように見えますが、理は実際に矛盾するものではなく、大同小異です。二つの文を解釈すべきであり、以下で述べる通りです。」

此中發心有二問答。一問:「或有種性而發大心,或無種性亦發大心,既俱發心,云何應知,當得佛果,二種有異?」答:「《菩薩地》說,若有六度種性相者,發心得佛,不爾不得。謂有施種性相者,性樂均布,廣大慧捨,無財慚恥,讚勸隨喜,受寄無差,他債不抵,共財無負。雖求財位,意樂廣大,設得速厭,濟拔怖畏。好說無罪。有戒種性相者,性成軟品不善三業,不極暴惡,不損惱他,起惡速悔。多行愛受,應敬不慢,所作機捷。善順他心,先言悅視,知恩質直,如理希求。喜修福業,見苦深愍,過於自身,小罪重怖。如法同事,非法不同,廢已成人,愛德謙自。有忍種性相者,性被他害,無返報心,陳謝速受,不久懷怨,遭苦能忍。能印善說。有精進種性相者,性自翹懃,夙興晚寤,所作勇決,方便究竟,善事堅固。於真理心不怯弱,於求勝果不自輕蔑,難業無畏,大事無倦。有靜慮種性相者,性思法義,常樂寂靜,愛慕出離,纏蓋輕微,惡思不擾。見苦深愍,隨力拔濟,樂施利樂,記法無忘。有慧種性相者,成俱生慧,能入明處,性不頑鈍、昏昧、愚癡,於放逸處,迺能思擇。若先有此六度習相,發菩提心,當得佛果。無種性者,無是本習,雖復發心,當不得佛。」

ここで、発心について二つの問答があります。

一つ目の問い: 「ある人は種性を持って大いなる心を発し、またある人は種性を持たずに大いなる心を発します。ともに発心するならば、どうすれば仏果を得るべきか、二つの違いがあるのでしょうか?」

答え: 『菩薩地』には、もし六波羅蜜の種性の相があるならば、発心して仏となることができ、そうでなければ得られないと説かれています。

すなわち、 **布施の種性の相がある者**は、生まれつき平等に施すことを好み、広く智慧をもって捨て、財産がなくても恥じず、他者の善行を褒め励まし、共に喜び、預かり物を間違えず、他人の借金をごまかさず、共有の財産を負かさない。たとえ財産や地位を求めても、心は広大であり、もし得たとしてもすぐに飽き、苦しむ者を救い、恐れを抜き取る。罪のないことを喜んで説く。

**持戒の種性の相がある者**は、生まれつき不善な三業が柔和であり、極めて暴悪ではなく、他者を損なわず、悪を起こしてもすぐに悔いる。多く愛と受け入れを行い、敬うべき者を軽んじず、行いは機敏である。よく他者の心に順い、先に言葉をかけ、喜んで見つめ、恩を知り、質朴で正直であり、道理に従って求める。福業を修めることを喜び、苦しみを見て深く哀れみ、自身の苦しみよりも重く感じ、小さな罪でも深く恐れる。法に従って同じことを行い、非法には同調せず、自分を捨てて他者を成し遂げ、徳を愛し、自らを謙る。

**忍辱の種性の相がある者**は、生まれつき他者から害を受けても報復の心がなく、謝罪されればすぐに受け入れ、長く怨みを抱かず、苦しみに遭っても耐え忍ぶ。善い説を認め、受け入れることができる。

**精進の種性の相がある者**は、生まれつき自ら勤勉で、早く起きて遅くまで目を覚まし、行うことは勇猛果断であり、方便を究め、善い事柄を堅固にする。真理に対して心が怯まず、勝れた果を求めることに自らを軽蔑せず、難しい業を恐れず、大きな事柄に倦まない。

**禅定の種性の相がある者**は、生まれつき法義を思惟し、常に寂静を喜び、出離を愛慕し、煩悩の覆いが軽く、悪い思いが乱さない。苦しみを見て深く哀れみ、力に応じて救い抜き、施しと利益を喜び、法を忘れない。

**智慧の種性の相がある者**は、生まれつき智慧を備え、明らかな境地に入ることができ、頑なで鈍く、暗く愚かではなく、放逸なところにおいても、よく思惟し選択することができる。

もし以前からこの六波羅蜜の習性の相があるならば、菩提心を発して仏果を得るでしょう。種性のない者は、もともとその習性がなく、たとえ発心しても、仏となることはできません。

二問:「若有種性先成,何故不速作佛?」答:「由四因緣故,不得作佛,一、不逢善友說菩提道;二、雖遇為說,倒執倒學;三、雖無此倒,方便慢緩,懈怠嬾墮,不懃精進;四、雖懃精進,善根未熟,資糧未滿,亦未長時修菩提分。無此便得。」此初發心有五德相,一者、最初發心所有正願,普攝一切其餘正願,是故發心以初正願為其自性;二者、謂起願言,「願我決定當證無上正等菩提,能作有情一切義利,畢竟安處究竟涅槃及以如來廣大智中」,是故發心決定希求為其行相。三者、以大菩提有情為境,故有所緣。四者、此初發心攝諸妙行,能違有情一切惡行,故與一切功德相應。五者、此初正願於諸世間、出世間願最上、第一。此初發心即名趣入無上菩提,在初劫內,預在大乘諸菩薩數,能為無上菩提根本,大悲等流故,分為一切學之所依止。從此已後,或有退屈,或無退屈,明退還修,有退不修。

第二の問い:「もし種性が先に成就しているなら、なぜ速やかに仏とならないのか?」

答:「四つの因縁によって、仏となることができないのです。第一に、菩提の道を説く善き友に出会わないこと。第二に、たとえ出会って説いてもらっても、誤った執着で誤った学び方をすること。第三に、たとえそのような誤りがなくても、方法が緩慢で、怠け心が強く、精進に励まないこと。第四に、たとえ精進に励んでも、善根がまだ熟しておらず、資糧が満たされず、また長く菩提分を修めていないこと。これらがなければ、成就できるのです。」

この初発心には五つの徳相があります。

第一に、最初に発心したときの正しい願いは、他のすべての正しい願いを広く包摂するものであり、だからこそ発心は最初の正願をその自性とします。

第二に、「私は必ずや無上正等菩提を証し、一切の有情のためにすべての利益を成し遂げ、ついに究竟の涅槃と如来の広大な智慧の中に安住させたい」という願いを起こすことです。だからこそ発心は、決定的に希求することをその行相とします。

第三に、大菩提と有情を対象とするため、縁とするものがあります。

第四に、この初発心はすべての妙行を摂し、有情の一切の悪行に反する力があるため、すべての功徳と相応します。

第五に、この初めの正願は、世間と出世間のすべての願いの中で最も優れ、第一のものです。

この初発心は、すなわち無上菩提への趣入と呼ばれ、最初の劫の中にあって大乗の諸菩薩の数に預かり、無上菩提の根本となり、大悲の等流であるがゆえに、一切の学びの依り所となります。

これ以降、ある者は退屈し、ある者は退屈せず、明らかに退転して修めず、あるいは退転しても修めない者もいます。

此初發心由四種緣,一、見聞佛等有大神通力;二、聽聞宣說菩薩藏教;三、見法將滅,念言法久住,能滅眾苦,我應當發心,當作是利;四、末劫末時見惡眾生十煩惱多愚癡等之所惱亂,念言於此發二乘心,尚難可得,況大菩提?我當發心,令他學我。復即四因,一、具足種性,二、善友攝受,三、悲愍眾生,四、難行無怯。《攝大乘》云,「清淨增上力,堅固心勝進,名菩薩初修,無數三大劫」,大菩提心以善根而為自體,名清淨力;降伏所除障故,以善友為緣,名增上力;以不退屈為策發,名堅固力;雖遇惡友方便阻壞,終不棄捨大菩提心,所修善法運運增長,如此勝進,齊是名為最初發意。從發意後,新熏有漏聞、思種子,辨所資長無漏種子,合二名為習所成種。於生死海作出限量,不久定當速證彼岸,故所修行法名波羅蜜多。所遇善友有四種相應,當了知親近受學,一、聰明黠慧,不墮惡見;二、不教放逸,不授彼具;三、不教惡行,不授彼緣;四、不勸捨先所修勝法令修劣者,乃至終不勸捨大乘令修二乘。與此相違,是惡友相,應當遠離。廣應分別發心住差別因緣、功德多少等,皆廣如《華嚴經》第五十七卷并《善戒經》第一、《菩薩地》第一等釋。

この初発心は四つの縁によって起こります。

第一に、仏などの大いなる神通力を目にし、耳にすること。 第二に、菩薩蔵の教えが説かれるのを聞くこと。 第三に、法が滅びようとしているのを見て、「法が長く住すれば、多くの苦しみを滅ぼすことができる。私は心を発し、この利益をもたらすべきである」と念じること。 第四に、末法の時代に悪しき衆生が十の煩悩や愚痴などに悩まされているのを見て、「このような時代に二乗の心を発することさえ難しいのに、ましてや大菩提(完全な悟り)など得られようか。私は心を発し、他の者にも私に学ばせよう」と念じること。

また、四つの因があります。 第一に、種性(仏性)を具えていること。 第二に、善き友に導かれること。 第三に、衆生を悲しみ、慈しむこと。 第四に、困難な行いにも怯まないこと。

『摂大乗論』には、「清浄なる増上力、堅固なる心の勝進、これを菩薩の初修、無数の三大劫と名づく」と説かれています。 大菩提心は善根を自らの本体とし、これを「清浄力」と名づけます。 克服すべき障礙を降伏させるため、善き友を縁とし、これを「増上力」と名づけます。 退屈せずに励み発心することを「堅固力」と名づけます。 たとえ悪しき友に出会い、その方便によって妨げられても、決して大菩提心を捨てず、修める善法が次第に増長していく、このような勝れた進歩を、まさに「最初の発意(発心)」と名づけるのです。

発意(発心)の後、新たに熏習される有漏の聞・思の種子と、それによって育まれる無漏の種子とを合わせ、これを「習所成種(修習によって成る種子)」と名づけます。 生死の大海に限りを定め、まもなく必ず速やかに彼岸(悟りの岸)に至ることを証するため、修行する法を「波羅蜜多(完成・到彼岸)」と名づけます。

出会う善き友には四つの相(特徴)があります。これに応じて親近し、学ぶべきことを了知すべきです。 第一に、聡明で慧く、悪しき見解に堕ちないこと。 第二に、放逸(怠惰)を教えず、その手段を与えないこと。 第三に、悪しき行いを教えず、その縁を与えないこと。 第四に、先に修めた勝れた法を捨てさせ、劣った法を修めさせようと勧めないこと。ましてや、大乗を捨てさせて二乗を修めさせようと、終に勧めないこと。 これに反するものは悪しき友の相であり、遠ざけるべきです。

広く分別すべきは、発心住(発心の段階)の差別する因縁や、功徳の多少などです。これらはすべて、『華厳経』第五十七巻、および『善戒経』第一、『菩薩地』第一などの解釈に広く説かれています。

解信行地,大文分三,初、攝住處是十住位竟,次、二住處是十行位,波羅蜜淨住處是初六行,其欲住處是後四行。波羅蜜中,初、明布施是初五行,不住相想是初六行,欲住處是四行:欲得色身是第七行,欲言說身是第八行,欲智相身是第九行,欲福相法身是第十行。或分四。

信心と修行の境地を解き明かすにあたり、大きく三つの部分に分けます。

まず第一に、「住処を摂する」とは十住の位を指します。これが第一段階です。

次に、第二の「二つの住処」とは十行の位を指します。このうち、「波羅蜜浄住処」は初めの六行に当たり、「欲住処」は後の四行に当たります。

波羅蜜の中では、まず「布施を明らかにする」ことが初めの五行に当たり、「相想に住しない」ことが初めの六行に当たります。

「欲住処」は四行に分けられます: ・色身を得たいという欲求は第七行 ・言説身を得たいという欲求は第八行 ・智相身を得たいという欲求は第九行 ・福相法身を得たいという欲求は第十行

あるいは、四つに分けることもできます。

上來解攝住處竟,自下第二波羅蜜多淨住處,文分為二,初、標五義通解下住處,後、方解施行或信行地,大文分二。

前回は、住処を摂する解釈を終えました。ここからは第二の住処である波羅蜜多清浄住処について述べます。この部分は二つに分かれます。まず、五つの意義を通して下位の住処を解釈し、その後、施行あるいは信行の地について解き明かします。大まかな構成は以下の二つです。

上來已解攝住處竟,自下方解餘三住處,文分為二,初、標五種通諸住處,後、別解三住處。初文分三,一、標五種隨文與彼五義相應之處,即配解釋;次、列五名;後、釋其義。

まず、これまでに「住処を摂する」ことについて解釈を終えました。

次に、下の部分から残りの三つの住処について解釈していきます。

文章は二つに分かれています。

第一に、五種類の項目を掲げ、これらがすべての住処に通じることを示します。

第二に、三つの住処についてそれぞれ解釈します。

最初の部分はさらに三つに分かれます。

一、五種類の項目を掲げ、それぞれの文章の中でそれら五つの意味と対応する箇所を示し、それに合わせて解釈します。

二、五つの名称を列挙します。

三、その意味を解釈します。

問:「何故上說攝住處中,不以此五各別配文也?」答:「道理皆有,謂應生如是心,依義顯示對治不失心故;我皆令入無餘涅槃等,是說相;即此令入無餘涅槃,是攝持,攝持心即欲願;實無眾生得滅度者,是安立第一義;若有我相、人相、眾生、壽者相即不名菩薩,為顯現,是相應三昧及攝散心。」

問:「なぜ、先に述べた『住処を摂する』という箇所で、この五つの要素をそれぞれの文に当てはめて説明しなかったのですか?」

答:「その道理はすべて含まれています。つまり、『かくのごとき心を生ずべし』というのは、意味に基づいて示された対治を失わない心を指します。『我は皆なかれらを無余涅槃に入らしめん』などというのは、その相を説いたものです。この『無余涅槃に入らしめる』というのが、摂持であり、心を摂持することこそが欲願です。『実に衆生の滅度を得るもの無し』というのは、第一義を安立したものです。もし我相・人相・衆生相・寿者相があれば、それは菩薩とは名づけられない、というのは、相応する三昧と散乱した心を摂することを現わしたものです。」

但以前問有三,答文皆具三義,初且釋配三答,不以五種配文,非前文中無此五義,據增說故,如天親解。初文答初問,施文答第二問,非無餘義,隨增為答,亦不相違。又為影顯中間之文,顯具五義,影顯前文,理亦具五,故略不說。依義對治即所斷障住處,安立即所證理,初問欲願即攝持,後二問相應三昧及攝散心是顯現,即所問行等總為說相,三問但問能對治行,略無所對治障及所證理并總說相,影顯問故,彰理難故,逐易問故。答皆具明,欲令解故,斷、修、證三,皆具答故。《對法》等云,「真如聖道,煩惱不生」,今明因三亦當得彼故,隨住應說。釋義中解此經所明,諸住處內,此所對治為依義,依其所對治,方說能治行。能治行者即次願等,故所治者名為依義,其總所明住處之行為所說相,所說相者即是欲願、等持、攝散三種行也。每欲修行,初生欲願,為能攝持;能攝持故,所攝持行等持、攝散方得成滿。住處之內,第一義諦為所安立,內證實際名非安立,今以言說施設真如勝義諦理,故名安立。前所對治、能對治法無分別定名為顯現,正是經中初欲願心所顯,宗趣無分別心,名為顯現,攝伏散時亦是此攝,文中略故,准下定體,前說欲願名能攝持,無分別心攝伏散時,是所攝持。此說等持、攝散二位名所顯現,彰前欲願是能顯現,前後名別,影顯勝故。行彼行時,無分別定,名曰相應,所對治障相應之定,是修行者所相應定,亦是無分別智相應定,亦是真境相應之定,名為相應。五瑜伽中攝四或五,能修行者名曰瑜祇。

しかし、先の問いには三つあり、それに対する答えの文にはいずれも三つの意味が備わっています。まず初めに、三つの答えを配分して解釈しますが、五種の分類で文を配分するのではありません。前の文中にこの五つの意味がないわけではなく、強調して説く部分に基づいているからです。天親の解釈の通りです。

最初の文は最初の問いに答え、次の文は第二の問いに答えています。他の意味がないわけではなく、強調される部分に応じて答えているので、矛盾はありません。また、中間の文を暗示することで、五つの意味が備わっていることを示し、前の文を暗示することで、道理としても五つが備わっていることを示しています。だから略して説かないのです。

意味に基づく対治は、断ずべき障礙の住処であり、安立は証得すべき道理です。最初の問いの「欲願」は摂持を包含し、後の二つの問いの「相応三昧」と「摂散心」は顕現を示します。これらは問われた行など、総じて説かれる相です。三つの問いはただ能対治の行を問うだけで、対治されるべき障礙や証得されるべき道理、および総説の相は略されています。それは暗示的な問いであり、道理の難しさを明らかにし、理解しやすい部分を追って問うているからです。

答えはすべて明らかに説かれ、理解させようとしています。断・修・証の三つは、すべて答えに備わっているからです。『対法』などに「真如の聖道、煩悩生ぜず」とあるように、今、因としての三つもまた、それ(真如)を得るに当たることを明らかにしているので、住するに応じて説かれるべきです。

解釈の中で、この経が明らかにする諸々の住処において、この対治されるべきものは「依義」であり、それに対治されるものに依って、初めて能治の行が説かれます。能治の行とは、次の「願」などです。だから、対治されるものを「依義」と呼びます。総じて説かれる住処の行は「所説相」であり、それはすなわち「欲願」「等持」「摂散」の三種の行です。

修行を始めようとするとき、まず「欲願」が生じ、それが能く摂持します。能く摂持するがゆえに、摂持される行である「等持」と「摂散」が初めて完成されます。住処において、第一義諦は「所安立」であり、内証の実際は「非安立」と呼ばれます。今、言葉で施設される真如勝義諦の道理を、だから「安立」と呼ぶのです。

先の対治されるべきもの、能治の法、無分別定は「顕現」と呼ばれます。これはまさに経中の最初の「欲願」の心が顕わすものであり、宗趣の無分別心を「顕現」と呼びます。散乱を摂伏するときもこれに含まれますが、文が簡略なため、後の定体に準じます。先に説かれた「欲願」は能摂持と呼ばれ、無分別心が散乱を摂伏するときは、所摂持です。ここで説かれる「等持」「摂散」の二つの位は所顕現と呼ばれ、先の「欲願」が能顕現であることを明らかにします。前後の名称は異なりますが、優れた点を暗示しているのです。

その行を行じるとき、無分別定は「相応」と呼ばれます。対治されるべき障礙と相応する定は、修行者の相応する定であり、また無分別智と相応する定であり、真の境と相応する定でもあります。だから「相応」と呼ぶのです。

五つの瑜伽の中に、四つまたは五つを摂します。修行できる者を「瑜祇」と呼びます。

解波羅蜜淨住處經文施行中分二,初解五義,以答三問;後、何以故菩薩不住相下,釋此疑難。准天親論,初明施行答第二問,不住相下答第三問。答第三問中復二,初、正答問,何以故下方釋此疑。彼隨文相增明以辨答,此隨義具以明於答,亦不相違,各據一義。初解五義答三問中,據義具五,論自配文。答問分二,初、三不住施答初問欲願,後、不住相答後兩問。答初問中,義具四種,三不住者是依義,三行施者是說相,即此行施是攝持,即此不住是安立,當審尋文,自應悟解。依義文可知,三不住皆依義,皆除住著執故。

『解波羅蜜淨住処経』の経文において、「施行」の解釈は二つの部分に分かれます。まず初めに五つの意義を解き明かして三つの問いに答え、その後、「何以故菩薩不住相」以下でこの疑問を解き明かします。

天親(世親)の論に基づけば、最初の「施行」の解釈は第二の問いに答え、「不住相」以下は第三の問いに答えるものです。第三の問いへの答えはさらに二つに分かれ、初めに「正答問」で問いに直接答え、「何以故」以下でこの疑問を解き明かします。

論釈では、経文の流れに沿って次第に明らかにしながら答えを述べていますが、ここでは意義を全面的に捉えて答えを明らかにしており、互いに矛盾するものではありません。それぞれ一つの意義に基づいているのです。

最初の「五義を解き三問に答える」部分では、意義に基づいて五つを備え、論釈自身が経文に対応させています。問いへの答えは二つに分かれ、初めに「三不住の施」で最初の問い(欲願)に答え、その後「不住相」で後の二つの問いに答えます。

最初の問いへの答えの中には、四種類の意義が備わっています。「三不住」とは依るべき意義であり、「三行施」とは説かれた相(姿)です。この行施そのものが摂持(包含し保つこと)であり、この不住そのものが安立(確立すること)なのです。経文をよく探求すれば、自ずと悟り理解できるでしょう。

意義に基づく経文は明らかであり、三つの「不住」はすべて意義に依っています。すべて「住着」(執着してとどまること)の執着を除くためです。

解說相中分三,初、總配屬說相經文,次、解唯說施行所以,後、彼諸波羅蜜下,解不住施行差別。配說相者,三不住中所行施者皆所說相,發心已後應修諸行,故以施行為發心後所說之相。

解説は三つの部分に分けられる。まず初めに、総体的に説相の経文を配属し、次に、なぜ施行だけが説かれるのかを解き明かし、最後に、「彼諸波羅蜜」以下の部分で、住することなく施行を行うことの違いを解釈する。説相を配属するとは、三つの「不住」の中で行われる布施は、すべて説かれる相であるということ。発心した後は、さまざまな修行を実践すべきであるから、施行を発心後の説かれる相とするのである。

次解唯說施行所以中有二,初、總標釋,後、別顯釋。謂即有難言,「菩薩妙業經陳八萬四千,何此中唯說布施?」故此總標,「六波羅蜜攝在一切檀那行自性故」,此中文倒,應云「一切檀那行自性攝六波羅蜜故」。此經中唯說施度,一切已周。

次に、なぜ布施行のみを説くのかを解釈する。これには二つある。初めに総じて標示し釈し、後に別々に明らかに釈する。

すなわち、難問がある。「菩薩の妙なる業は経典に八万四千と述べられているのに、なぜここではただ布施のみを説くのか?」それゆえ、まず総じて標示する。「六波羅蜜はすべての檀那(布施)行の自性に摂せられるからである」。ただし、この文は語順が逆で、本来は「すべての檀那行の自性は六波羅蜜を摂するからである」とすべきである。つまり、この経典ではただ布施波羅蜜を説くだけで、すべてがすでに周備されているのである。

問:「此若爾者,乃至般若亦攝六度行,何以故不但說一慧攝於一切?」答:「施為修行之初,麁而易習,體又廣而包總,故唯說此,亦顯而包,總標經名,據勝慧而為目。」答:「修行舉初業而為名,然觀文意,百千諸行唯說施者,以施攝於一切行也。前攝住處是十住位,此波羅蜜淨住處等是十行位,說歡喜行等,各各次修一,略故唯說施攝於六度,不說施行攝一切行故。又菩薩行有四,一、菩提分,二、波羅蜜,三、諸神通,四、成就有情,今舉初行以明攝彼,亦不相違。」

問:「それならば、般若も六波羅蜜の行を包含しているはずですが、なぜ一つの智慧だけを説いてすべてを包含するとは言わないのでしょうか?」

答:「布施は修行の最初であり、粗くて習得しやすく、その本質も広くて総括的です。それゆえ、これを説くだけで、包含性も明らかになります。経典の名前を総称する際には、優れた智慧に基づいて題名としています。」

答:「修行は最初の行いを挙げて名付けていますが、文意を観察すると、百千のさまざまな行いの中でも布施だけを説いているのは、布施がすべての行いを包含しているからです。前に述べた住処の包含は十住の位であり、この波羅蜜浄住処などは十行の位で、歓喜行などを説き、それぞれ順番に一つずつ修行します。簡略に述べるため、布施だけが六波羅蜜を包含すると説き、布施行がすべての行いを包含するとは説いていません。また、菩薩の行いには四種類あります。一、菩提分、二、波羅蜜、三、諸神通、四、成就有情です。ここでは最初の行いを挙げてそれらを包含することを明らかにしており、矛盾はありません。」

下當配文別釋有二,初、標施有三,後、隨別釋。此中三種,天親論中各別解釋,《玄記》之中亦會同異,應尋攬之。法施中有三,初、標列,次、顯相,後、結成。

まず、布施について三種に分けて説明します。初めに三種の布施を提示し、その後それぞれを詳しく解説します。ここで述べる三種の布施については、天親の論書ではそれぞれ個別に解釈されており、『玄記』においてもその異同がまとめられていますので、参照されるとよいでしょう。法施の中身は三つに分けられます。初めに項目を掲げ、次にその内容を示し、最後にまとめます。

彼諸波羅蜜有二種果下,解經文中三不住施差別有三,初、標列,次、隨釋,後、配經。隨別釋中,施得大福報謂多財富增上果,戒得自身釋梵等生尊貴身異熟果,忍行得大伴、大眷屬,精進得果不斷,定得身不可壞,並增上果;慧得根利是等流果。多悅樂果有二,一、無為離繫果,二、大眾中得自在士用果。現在果有二,一、得信敬供養,是增上、等流、士用三果。昔施於他,今得他施,位等流果。二、得現法涅槃,謂世間六行所得非擇滅似無為等現法涅槃。法謂道理,現世滅麁重,得非擇滅理,是士用果故,前說言丈夫力得故。又現法涅槃有五,一、現得五欲樂,餘四引得色界四靜慮現在前,與輕安俱,除少麁重,亦名現法涅槃,俱名現在果。隨其所應施等所得,配經三不住施中有三,施未來果為一,餘五度未來果為一,現在果為一。然色等五塵與法塵別,遂離為二,信敬供養等五塵攝故,五現涅槃法塵攝故。解攝持中,經言應行布施者,即上來說三應行布施。解安立中,「不住行施」者,亦是上來三不住也。文分為二,初、屬經文,後、釋初第一義相。「以不住故」者,無住著是第一義故。「如所有事第一義」者,即三種施中不住是第一義。「如所有事」者,謂前說一於事施不住,二無所住施,三於六塵施不住,如此三種所有事中,皆不住施,名第一義。故論結云,「所不住物等,是所有事等」言,顯示舉初事,等取無所住、於六塵施,合此三種,名所有事。於此三事等中不住,名第一義諦故。

諸々の波羅蜜には二種の果があると述べた下で、経文の解釈において「三つの住しない布施」の区別を三つに分けて説明する。初めに項目を掲げ、次にそれぞれを解釈し、後に経文に対応させる。

それぞれの解釈においては、布施は大いなる福報を得る、すなわち多くの財産と豊かさという増上果を得る。戒は自身が帝釈天や梵天などに生まれ、尊い身を得るという異熟果を得る。忍辱の行いは大いなる伴侶や大いなる眷属を得、精進は果報が途切れず、禅定は身が壊されず、これらはすべて増上果である。智慧は根が鋭利となるという等流果を得る。

多くの喜びと楽しみの果報には二つある。一つは無為の離繫果、二つは大衆の中で自在を得るという士用果である。

現在の果報には二つある。一つは信頼と尊敬、供養を得ることで、これは増上果・等流果・士用果の三果である。過去に他者に施したため、今、他者から施しを受けるという立場の等流果である。二つは現法涅槃を得ることで、これは世間の六行によって得られる非択滅に似た無為の現法涅槃を指す。「法」とは道理を意味し、現世において粗重を滅し、非択滅の理を得るのは士用果であるため、前に「丈夫の力によって得る」と説かれたのである。

また、現法涅槃には五つある。一つは現在において五欲の楽しみを得ること、残りの四つは色界の四静慮を引き起こして現在に現前させ、軽安とともにあり、わずかな粗重を除くもので、これも現法涅槃と呼ばれ、すべて現在の果報に含まれる。

それぞれに対応して、布施などによって得られるものを、経文の「三つの住しない布施」に対応させる。布施の未来の果報を一つとし、残りの五波羅蜜の未来の果報を一つとし、現在の果報を一つとする。しかし、色などの五塵と法塵は別であり、分けて二つとする。信頼・尊敬・供養などは五塵に含まれ、五現涅槃は法塵に含まれるからである。

「摂持」を解釈する中で、経に「応に行うべきは布施である」とあるのは、先に説かれた三つの応に行うべき布施を指す。「安立」を解釈する中で、「住しないで行う布施」もまた、先に説かれた三つの住しない布施である。

文は二つに分けられる。初めは経文に対応させ、後に初めの第一義の相を解釈する。「住しないがゆえに」とは、住着がないことが第一義であるからである。「すべての事の如く第一義」とは、三種の布施の中で住しないことが第一義であることを指す。「すべての事の如く」とは、先に説かれた一、事に対する布施に住しないこと、二、何にも住しない布施、三、六塵に対する布施に住しないこと、この三種のすべての事において、皆、住しない布施を行うことを第一義と名付ける。したがって、論は結んで「住しないものなど、これらはすべての事など」と言い、初めの事を挙げて、無所住と六塵に対する布施を等しく取り、この三種を合わせて「すべての事」と名付ける。この三つの事などにおいて住しないことを、第一義諦と名付けるのである。

上來行施解初四義,下解第五等持及攝散心,文易可知。相者境,想者心,天親論云,施者、受者、物等,隨應六度三事之相,取此三相,名為相想,即是想倒。謂有七倒,即常、樂、我、淨、想、心、見倒,今明想倒,攝心、見等。觀三事空,起三輪淨,故名不住。《能斷》云,「如不住相想」,上來欲願尚不住著,其等至、等持攝散亦爾,應如初不住施也,故有如言,或依真理,性無住著故,應施想如理不住。依天親解,若降伏心而除障者,如所修行不住相想,障心自斷。此隨義具總答三問,天親論主依初行者漸次而修,文相增明,別答三問,如上來說。天親論中解三不住施,與此差別,云「自身及報恩,果報斯不著」,自身果報是此未來果,報恩者是此現在果。雖大體相似,然所望有別,義出百途,亦不相違也。依此義故,真諦經云,「不著已類而行布施,不著所餘行於布施」等。上解五義以答三問,解初五行竟,後解何以故若菩薩不住相布施,下釋疑難。

上に布施行の解説において最初の四つの意義を解き明かし、下に第五の等持(心を一境に保つこと)及び散乱した心を収めることを解き明かす。文章は容易に理解できる。

「相」とは対象のことを指し、「想」とは心の働きを指す。天親の論には、施す者、受け取る者、物など、六波羅蜜に応じた三つの事柄の相があると説かれ、この三つの相を捉えることを「相想」と呼び、これがすなわち「想倒」(誤った思い)である。七つの倒(誤り)があるとされ、すなわち常・楽・我・浄・想・心・見倒であり、ここでは想倒を明らかにし、心倒や見倒などを含んでいる。三つの事柄が空であると観じ、三つの輪(施者・受者・施物)が清浄であることを起こすため、「不住」(執着しない)と名づけられる。『能断金剛経』には「如不住相想」(相や想に住しないように)とある。上に述べた欲や願いでさえも尚住着しないのであり、その等至(深い禅定)や等持(心を保つこと)、散乱を収めることも同様に、初めの不住の布施のようにあるべきである。故に「如」という言葉がある。あるいは真理に依れば、本性において住着がないため、布施の想も理に従って住しないべきである。

天親の解釈に依れば、もし心を降伏させて障りを除くのであれば、修行するように相や想に住せず、障りの心は自ずと断たれる。これは義に随って三つの問いに総合的に答えている。天親論主は初めの修行者に従って漸次に修行し、文章の相を増して明らかにし、三つの問いに別々に答えている。上に説かれた通りである。

天親の論の中では三つの不住の布施を解き、これと違いがある。「自身及び報恩、果報、斯れに著わず」とあり、自身と果報はここでは未来の果を指し、報恩者はここでは現在の果を指す。大枠では似ているが、しかし視点に違いがあり、義理は百の道に出でて、また互いに矛盾しない。この義に依って、真諦の経には「己が類に著わずして布施を行い、その余る所に著わずして布施を行く」などとある。

上に五つの義を解き明かして三つの問いに答え、初めの五つの行を解き終えた。後に「何以故(なぜならば)若し菩薩相に住せずして布施せば」以下を解き、疑いと難問を解き明かす。

次明第六行,文分二,初、徵,後、釋。天親論云,「此中有疑,若離施等相想,云何能成就施福?」謂有疑云,「三事不空,施可有福,既空三事,施福應無」。故此論云,「或有菩薩貪福德故,於此不堪」,由貪福德,能行於施,聞此三事空,不能堪忍而行施等,故次徵云,「何以故?」後釋經文分三,論中分二,初、釋法,後、解喻,不解法說。解喻中初因不住相施,如空遍滿,相、無相果皆得依故;住相施不然,不得無相,故非遍滿。次因寬曠,無住相施,後得果時,形上下高,無漏之法過三界故,形橫曠大,滿十方故;住相施不然,後得果時,但在三界,非十方故。或含容故,名為寬曠,後因無盡,順無相理,廣運眾生,無窮盡故;住相不然,不順真理,非遍益故。經結說中,真諦無「但應」等文,與中天梵本同,餘本皆有。此論牒經不解,故知亦無其結。無住相施,福德皆多,諸本同有。

次に第六の行について明らかにする。文は二つに分かれ、初めは問い、後は解釈である。天親の論に云う、「ここに疑いあり。もし施等の相想を離れれば、どうして施の福を成就することができるのか?」と。つまり、「三事が空でなければ、施に福があると言えるが、三事が空であるならば、施の福は無いはずだ」という疑いがある。それゆえ、この論に云う、「あるいは菩薩が福徳を貪るがゆえに、これに堪えられない」と。福徳を貪るがゆえに施を行うことができるが、この三事が空であると聞いては、施等を行うことに堪え忍ぶことができない。それゆえ次に問う、「なぜか?」と。後ろの経文の解釈は三つに分かれ、論では二つに分かれる。初めは法を解釈し、後ろは喩えを解く。法説は解かない。喩えの解釈の中では、初めの因は相に住しない施であり、空が遍満するように、相と無相の果がともに依るからである。相に住する施はそうではなく、無相を得られないから、遍満ではない。次の因は広大であり、相に住しない施は、後で果を得るとき、形は上下に高く、無漏の法は三界を超えるからである。形は横に広大であり、十方に満ちるからである。相に住する施はそうではなく、後で果を得るとき、ただ三界の中にあり、十方ではないからである。あるいは包容するがゆえに、広大と呼ばれる。後の因は無尽であり、無相の理に順じて、広く衆生を運び、窮まりがないからである。相に住する施はそうではなく、真理に順ぜず、遍く益することがないからである。経の結びの説くところでは、真諦には「ただ応に」などの文がなく、中天の梵本と同じであり、他の本にはみなある。この論は経を引きながら解かないから、結びもまたないと知る。相に住しない施は、福徳がみな多く、諸本に同じくある。

次第三解欲住處,此依八住處解,依十八解,此中有二,初、欲得色身是第七行,後、欲得法身是後三行。初經文有三,初、問,次、答,後、成。問中有二,依義、說相;成中有三,攝持、安立、顯現三種。答中全無,不異初後文義相故,取佛說故。欲得色身住處者,初學菩薩多有相修,乍聞無相三輪淨施,便生疑惑,且如釋迦佛身既有生、住、異、滅相然,故知有相施因,還成有相之果故。天親論云,云何生疑?「若不住於法行於布施,云何為佛菩提行於布施?」彼以釋迦生滅之身為菩提依身,行有相施得,若行無相不住法因,應還得彼不住相果,云何得彼生滅果耶?今此論中不以有疑,但說行者初修學故,未悟無相,行有相因,希求佛位。釋迦有相生滅之身,此是色身相好身故,以此相身,為佛菩提勝所依止,故論說言「欲得色身」。彼論解意由,因前說無相施因,以生疑慮,為彼破此疑故,有下經正破彼疑。此論意說,由初行者有相施欲得釋迦等有相之身,即以化相身為真身體,得少功德謂是真身多功德體,故言為欲得色身。對治色身之慢,得少有相功德之身,謂得真實多功德身,是增上慢,為破此慢,故有下經。故合兩論,今兩乘前文,以生或名疑,悕偽相以為真稱慢,為破疑、慢二或,故說下經。初修行者,定、不定姓大乘異生疑或,是煩惱障,亦兼所知障。初修行者,聖人發心,便通二障,有學通煩惱,無學唯法執。如舍利弗聞《法華經》,方斷疑悔及憂惱等,此亦如是。

次に、第三の解釈は「欲住処」についてです。これは八つの住処に基づく解釈であり、十八の解釈に依拠しています。ここには二つの点があります。第一は「色身を得たい」という第七の行であり、第二は「法身を得たい」という後の三つの行です。

初めの経文には三つの部分があります。第一は問い、第二は答え、第三は成立です。問いの中には二つあり、義に依るものと相を説くものです。成立の中には三つあり、摂持・安立・顕現の三種類です。答えの中にはこれらは全くなく、初めと後の文の意味が同じであるため、仏の説いたことをそのまま取っているからです。

「色身を得たい」という住処について、初学の菩薩は多くが形ある修行をします。突然、形のない三輪清浄の布施を聞くと、疑いが生じます。例えば、釈迦仏の身体には生・住・異・滅の相があるからです。したがって、形ある布施の因があれば、形ある果が得られると考えます。天親の論にはこうあります。「どうして疑いが生じるのか?『もし法に住することなく布施を行うなら、どうして仏の菩提のために布施を行うのか?』」彼は、釈迦の生滅する身体を菩提の依り代とする身体と見なし、形ある布施を行えば得られると考えます。もし形なく、法に住しない因を行えば、同じく形なく住しない果を得るはずです。どうして生滅する果を得られるのでしょうか?

この論では、疑いがあるとはせず、ただ修行者が初めに学ぶ段階であるため、形のないことを悟っておらず、形ある因を行い、仏の位を希求していると説きます。釈迦の形ある生滅の身体は、色身であり相好の身体です。この相のある身体を、仏の菩提の優れた依り代とします。したがって、論には「色身を得たい」と説かれています。

彼の論の解釈の意図は、前に説かれた形のない布施の因によって疑いが生じ、それを破るために後の経文があるということです。この論の意図は、初めの修行者が形ある布施によって釈迦などの形ある身体を得たいと願い、化現の相のある身体を真実の身体と見なすことです。わずかな功徳を得て、それを真実の多くの功徳を持つ身体だと思い込むのです。したがって、「色身を得たい」と言います。

色身に対する慢を対治するためです。わずかな形ある功徳の身体を得て、それを真実の多くの功徳を持つ身体だと思い込むのは増上慢です。この慢を破るために、後の経文があります。したがって、二つの論を合わせ、今二つの乗の前の文によって、疑いという名を生じさせ、偽りの相を真実と称する慢を破るために、後の経文を説きます。

初めの修行者、定姓・不定姓の大乗の異生の疑いは煩悩障であり、また所知障も兼ねています。初めの修行者、聖人が発心するときには、二つの障がいを通じます。有学は煩悩を通じ、無学はただ法執のみです。例えば舎利弗が『法華経』を聞いて、初めて疑いや悔い、憂いや悩みなどを断ったように、これも同じです。

即由上來所說義故,諸人不悟,謂天親論乖無著說,應審觀察,此會同意,實不相違。故天親云,「自此已下一切脩多羅,示現斷生疑心」,故知彼論依因前說初學疑起,生下經文,以破彼疑;此論依於初學希後非真實功德,而修於行者,為破彼慢,生下經文,不相違也。又彼論依利根初學多生前疑,故說下經;此論依於鈍根初學多生後慢,故說下經。又彼論中,依文相增,前後三文以答三問,故別作道理,以生下經,說破疑起;今此論中,依義具足,文文之中,皆答三問,故非異道理,以生下經,說為除慢,實不相違。又彼依破不定煩惱初學者疑,以生下經;此依初學斷決定煩惱增上慢故,以生下經。上來四義且依同義,以會二論。依異義者,復有四義。此論依為樂廣聞者,故說三地,從凡至佛,皆具說之,文文具答,生慢起文;彼論依為樂略聞者,別答三問,後皆斷疑。又此論依為利根之人一聞即悟,故說三地,一周說經,文文具答,生慢起文,次第不同;彼論依為鈍根之人再聞方解者,故兩周說,別答三問,餘皆破疑。又此論依為初來利根一周而說,故說生慢;彼論依為後來鈍根兩周而說,故說破疑。又理出百途,何勞一徹?破執、生慢,各各不同,一會之中,樂有廣略,根有利鈍,聞有單重,理有多徹,種種別故,兩論解異。不爾,無著受偈於彌勒,下付天親,命其造釋,無著豈乖於慈氏,天親苟異於賢兄者乎?無著論初歸敬偈言,「智者所說教及義,聞已轉為我等說」,故知聞已為我說者,即是慈氏所說偈。天親論中所釋偈,是彌勒作故,天親頌云,「大智通達教我等,頂禮無比功德身」,正與此論敘敬皆同,應會如前解三問中及攝住處,總應說此。以此和會下諸經文,應當決了。

以上に述べた意味から、多くの人々は理解できず、世親の論が無著の説に背いていると考えています。しかし、よく観察すべきです。これらは実は同じ意図に基づいており、互いに矛盾しません。

世親は、「ここから下のすべての経典は、疑いの心を断つことを示している」と述べています。したがって、彼の論は、初学者の疑いが生じることを前提に、その疑いを破るために後の経文を導いているのです。一方、この論は、初学者が真実でない功徳を求めて修行する慢心を破るために、後の経文を導いています。これらは矛盾しません。

また、彼の論は利根の初学者が多く疑いを生じることを前提に、後の経文を説いています。この論は鈍根の初学者が多く慢心を生じることを前提に、後の経文を説いています。

さらに、彼の論では、文の流れに従って三つの問いに三つの文で答え、別の道理を立てて後の経文を導き、疑いを破ることを説いています。しかし、この論では、意味を完全に備え、それぞれの文の中で三つの問いに答えているため、異なる道理を立てずに後の経文を導き、慢心を除くことを説いています。これらは実に矛盾しません。

また、彼の論は、不定の煩悩を持つ初学者の疑いを破るために後の経文を導いています。この論は、決定した煩悩を断つ初学者の増上慢を破るために後の経文を導いています。

以上、四つの意味から、二つの論が同じ意図に基づいていることを示しました。異なる意図に基づく場合も、さらに四つの意味があります。

この論は、広く聞くことを好む者のために、三つの境地を説き、凡夫から仏に至るまでをすべて説き、それぞれの文で答え、慢心を生じさせる文を導いています。彼の論は、簡略に聞くことを好む者のために、三つの問いに別々に答え、後にすべて疑いを断つことを説いています。

また、この論は、利根の人々が一度聞いてすぐに悟るために、三つの境地を一周して経を説き、それぞれの文で答え、慢心を生じさせる文を導いています。彼の論は、鈍根の人々が二度聞いて初めて理解するために、二周して説き、三つの問いに別々に答え、残りは疑いを破ることを説いています。

さらに、この論は、初めから来た利根の人々に一周で説くために、慢心を生じさせることを説いています。彼の論は、後から来た鈍根の人々に二周で説くために、疑いを破ることを説いています。

また、道理は百通りあり、一つの方法にこだわる必要はありません。執着を破ることと慢心を生じさせることは、それぞれ異なります。一つの会座においても、広く聞くことを好む者と簡略に聞くことを好む者がおり、根機には利根と鈍根があり、聞く回数には一度と二度があり、道理には多くの方法があります。このようなさまざまな違いがあるため、二つの論の解釈が異なるのです。

そうでなければ、無著が弥勒から偈を受け、世親に伝えて注釈を作らせたとき、無著が弥勒に背き、世親が兄に異を唱えることがあるでしょうか。無著の論の初めの帰敬偈に、「智者が説いた教えとその意味を聞き、それを我々のために説き示してください」とあります。したがって、「聞いて我々のために説く」とは、弥勒が説いた偈を指します。世親の論で解釈されている偈は、弥勒が作ったものです。世親の頌に、「大智が教えを通達し、我々のために、比類なき功徳の身に頂礼します」とあり、この論の帰敬の言葉とまったく同じです。前に解いた三つの問いと住処を摂する中で、これらを総合して説くべきです。

これをもって、後の経文を和合させ、はっきりと理解すべきです。

下文但當釋其文相,更下會釋論文,准釋經文三。初解問文中有二,初、屬經釋依義,後、論文解說相。此中具足,即流支成就,義同名異。真諦經云,「諸相勝德」,成就有為相。佛菩提身故,具足成就是正所翻;勝德者,以有為相為佛勝德之體,是義翻之。下觀諸相謂相好,天親論解,乃四相相,謂是有為三種相故,不說住相,如《唯識》說。須菩提懸解佛意,故言不爾也,不可以有為三相成就得見佛之真身,所說有為非法身相。法身相者,無相為相,三有為相是有為相故,行無相因,還得無為無相實法身果,非行無相因而得有為有相假化身報。後佛為成滿前徵次答之義,故重告之,分三,初、「凡所有相,皆是虛妄」,是攝持欲願,顯有為相是虛妄,翻明異此虛妄,無相之相非是虛妄,令其攝持後發生欲願,非是欲願攝持有相虛妄之法,有相虛妄非是無分別定,修行攝持二,云意欲願是初行者妄行有相之惡欲願,非是般若無相欲願,般若無相欲願求無相,故論所言,欲願攝持是無相定,攝散二心根本欲願,故此欲願是正行者無相欲願次第。二云,「若見諸相非相,則非虛妄」,是安立第一義,「相」者為虛妄化身,「非相」為真實法身,見化身諸有為相非法身之無相,則非虛妄,彼以化身有相為真實身相,故是虛妄。後第三結,諸化有相,非真無相,則見法身如來,此為顯現,正是所說無分別定及攝散時,有相中非是真實法身相見,故見如來。此觀見如來,應勘《無垢稱經.觀如來品》說。

まず、その文面の意味を解き明かし、さらに論の文を解釈し、経文の解釈に準じて三つに分けます。最初の問いの解釈には二つあり、一つは経文に基づく意味の解釈、もう一つは論の文による説明です。ここで「具足」とは、流支の言う「成就」と同じ意味で、言葉は異なれど内容は同じです。真諦の経には「諸相勝徳」とあり、有為の相を成就することです。仏の菩提身であるから、具足成就こそが正しい翻訳であり、勝徳とは、有為の相を仏の優れた徳の本体とする、意味上の翻訳です。

次に「下観諸相」とは相好を指し、天親の論釈では四つの相、すなわち有為の三つの相を説きますが、住相については説かず、『唯識』の説く通りです。須菩提は仏の意を推し量り、それゆえ「そうではない」と言うのです。有為の三つの相を成就して仏の真の身を見ることはできず、説かれる有為の相は法身の相ではありません。法身の相とは、無相を相とするものであり、三つの有為の相は有為の相であるからです。無相の因を修行すれば、無為無相の真実の法身という果を得るのであり、無相の因を修行して有為有相の仮の化身という報いを得るのではありません。

その後、仏は前に問われた意味を成就し満たすために、重ねて告げられます。三つに分けて、まず「凡べて所有の相は、皆な虚妄なり」とは、願いを保ち持つことを示し、有為の相が虚妄であることを明らかにします。この虚妄とは異なり、無相の相は虚妄ではないことを反対に示し、後の願いを起こすよう保たせます。願いが有相虚妄の法を保つものではなく、有相虚妄は無分別定ではありません。修行によって二つを保つとは、意の願いは初めの修行者が妄りに有相の悪しき願いを行うことであり、般若の無相の願いではありません。般若の無相の願いは無相を求めるからです。ゆえに論に言う、願いを保つとは無相定であり、散乱した二つの心の根本となる願いです。したがってこの願いは正しい修行者の無相の願いの順序です。

二つ目に「もし諸の相を見ること、相に非ざれば、すなわち虚妄に非ず」とは、第一義を立てることです。「相」とは虚妄の化身を指し、「非相」とは真実の法身を指します。化身の諸々の有為の相が法身の無相ではないと見れば、それは虚妄ではありません。彼らが化身の有相を真実の身の相とするからこそ、虚妄なのです。

最後に三つ目として結びます。諸々の化身の有相は、真の無相ではないから、法身如来を見るのです。これを顕現といい、まさに説かれる無分別定および散乱を収める時に、有相の中に真実の法身の相を見るのではないから、如来を見るのです。この如来を見る観察については、『無垢称経・観如来品』の説を参照すべきです。

下解欲住處,准前十八住處中,文分二,初、解欲得言說法身,後、解欲得法身。欲得法身,因果雖別,正法身體諸功德法所依止故,佛果三身及因福慧俱是法身所攝,言說聲教非是法身,法身之因,亦名法身。如說般若,實相、觀照正是般若,文字般若能生、能顯般若,亦名般若。此亦如是,文字能顯、能生法身,故稱言說亦名法身。文字般若從能詮辨能依作用以立其名,言說法身從能詮表所依、能依體用和合以立其名,聲名等合名言說故。

下、欲の住処を解く。前の十八住処に準じて、文は二つに分かれる。初めに、言説法身を得ようとする欲を解き、後に、法身を得ようとする欲を解く。法身を得ようとする欲は、因果は別であるが、正法身の体が諸々の功徳法の依り所となるゆえに、仏果の三身および因位の福慧ともに法身に摂せられる。言説や声教は法身ではないが、法身の因であり、これもまた法身と名づけられる。例えば般若を説く場合、実相・観照こそがまさに般若であり、文字般若是を生じ、般若を顕わすことができるゆえ、これもまた般若と名づけられる。これもまた同じである。文字は法身を顕わし、生じることができるゆえ、言説もまた法身と称されるのである。文字般若は、能詮としての弁え、能依としての作用からその名を立てる。言説法身は、能詮として表わすところの所依・能依の体用が和合することからその名を立てる。声・名などが合して言説と名づけられるからである。

問:「何故前說欲得色身,名之為慢,今下文說欲得法身,不名為慢?」答:「欲得色身為真身者,全不順理,故名為慢;欲得法身,不違道理,雖因前說而生疑起,非全不順,不與慢名。由此欲得色身等已下文,不名離障,但名欲得,非疑極障,故說欲得色身是慢障法。隔欲得法身非慢障法,不與離障之名。」

問:「なぜ先に、色身を得ようと望むことを『慢』と呼び、今後の文では法身を得ようと望むことを『慢』とは呼ばないのでしょうか?」

答:「色身を得ようと望むことが真の身であると考えるのは、道理に全く合わないから『慢』と呼ばれるのです。一方、法身を得ようと望むことは道理に背かないため、たとえ先の説明から疑いや迷いが生じたとしても、全く道理に合わないわけではなく、『慢』とは呼ばれません。このため、色身を得ようと望むことなどについては、後の文では『障りを離れる』とは呼ばず、単に『得ようと望む』とされ、極端な障りとは見なされません。ですから、色身を得ようと望むことは『慢』という障りであると言われ、法身を得ようと望むことは『慢』の障りではないため、『障りを離れる』という名は与えられないのです。」

天親論中依為破疑,生下經文,謂前所說不住行施是因深義,次說法身非有為相是果深義,因深果遠,義旨難知。未來像法欲滅之時,惡世眾生能生信不?於前好世正法之時,信不須疑,末法惡生,不信不惑,但問像法欲滅之時能生信不?信經時說,行十法行,非末法故,以有持戒、定、慧等行皆非勝故,故作此徵,末法更無有三學者,故不為問。彼論依文前說疑起,此論依因欲得言說法身而證得法身之本,當來流行於世,以生後經,故不相違。

天親の論において、疑いを破るために、次の経文を生じさせた。すなわち、前に説かれた「住することなく行じ施す」ことは因の深い意味であり、次に説かれる「法身は有為の相にあらず」は果の深い意味である。因が深く果が遠いため、その意義は理解しにくい。未来の像法が滅びようとする時、悪世の衆生は信を生じることができるだろうか。前の良い世、正法の時には、信じるに疑いは必要ない。末法の悪世の衆生は、信じないことも不思議ではない。ただ問うのは、像法が滅びようとする時に、信を生じることができるかどうかである。経の説く時を信じ、十法行を行じるのは、末法のためではない。なぜなら、戒・定・慧などの行を持ち、皆が勝れているわけではないからである。ゆえにこの問いを起こす。末法にはもはや三学(戒・定・慧)を修める者がないから、問う必要がないのである。あの論は文の前に説かれた疑いの起こりに依り、この論は因に依って、言説の法身を得て法身の本を証得し、将来世に流行し、後の経を生じさせるためにある。ゆえに矛盾しない。

文分為三,初、配經文,次、釋問文,後、釋答文。欲得言說法身者,顯經來意,須菩提聞法深妙實相難知,佛在可然,信者極眾,時、機、病、行驗勝可知,佛無已後頗能信不?時、機、病、行皆非勝故。須菩提欲得此教言說法身現在、當來俱流行世故,問來世惡世惡生能信不?望佛答有,難末代尚能深信,況乎今者何故不信?故言欲得言說法身,此文來也。初文有二,初、配經,後、釋難。釋難中,「修多羅句說」者,謂所有義,句為能詮,七句說是所說之義理也,即流支、真諦、羅什等云章句,是明義句所明理,此中名說。《能斷經》云,「色經典句」,色是類義,所詮義類,非但問此《金剛般若》,《大般若》等咸在問中,故言色類。經典句者,能詮教也,此義色類能詮經句,當來惡世能生信不?此有二意,初、明不信所因,後、正興問。不信所因有二,一、時惡,二、經深。時惡惡生,經深實相,於此經句頗生信解為實相不?為正興問。故真諦經名為「真實相」,此及《能斷》云「生實想不?」經言稱正理,名為真實,於此經中,頗生真實想解以不。想者,取像之能信心,取信以為真實之像貌已不?羅什云,「生實信不?」名異意同。釋問文中,須菩提以惡代惡生、經義深妙無能信者,故為此問。

文は三つに分かれます。初めに経文を配し、次に問いの文を解釈し、後に答えの文を解釈します。

「言説法身を得んと欲す」というのは、経が説かれた意図を明らかにするためです。須菩提は、法の深遠で微妙な実相を知り難いと感じました。仏が在世であれば信じる者は極めて多いでしょう。時節・機根・病・修行を検証すればその優れたことが分かりますが、仏が滅した後はどうでしょうか。時節・機根・病・修行のいずれも優れていないからです。須菩提は、この教えである言説法身が現在も未来もともに世に流通することを願い、来世の悪世における悪しき衆生が信じることができるかどうかを問うたのです。仏が「ある」と答えられることを期待し、末法の時代でさえ深く信じることができるなら、ましてや今この時、どうして信じないことがあろうか、というわけです。それゆえ「言説法身を得んと欲す」という文が来るのです。

初めの文には二つあります。初めに経文を配し、後に難点を解釈します。難点の解釈の中で、「修多羅句説」とは、すべての義を指し、句が能詮(言葉)であり、七句の説が所説の義理です。すなわち、流支・真諦・羅什などは「章句」と言い、これは義句が明らかにする理を表しています。ここでは「説」と名付けています。『能断経』には「色経典句」とあり、色は類の義、つまり所詮の義の類です。ただこの『金剛般若』だけを問うのではなく、『大般若』などもすべて問いの中に含まれているので、「色類」と言うのです。「経典句」とは、能詮の教えです。この義の色類を能詮する経句に対して、未来の悪世において信を生じることができるでしょうか。これには二つの意図があります。初めに信じない原因を明らかにし、後に正式に問いを起こします。信じない原因には二つあり、一つは時が悪いこと、二つ目は経が深遠であることです。時が悪く衆生が悪く、経が深遠で実相である。この経句に対して、実相として信解を生じるでしょうか。これが正式な問いです。それゆえ真諦の経では「真実相」と名付け、この『能断経』では「実想を生ぜずや?」と言います。経の言葉が正理にかなうことを「真実」と言い、この経に対して、真実の想解を生じるかどうかです。「想」とは、像を取る能力であり、信心が信を取って真実の像とすることです。羅什は「実信を生ぜずや?」と言い、名前は異なりますが意図は同じです。

問いの文の解釈の中で、須菩提は悪代の悪しき衆生と、経の義が深遠で微妙であるために信じる者がいないことを考え、この問いを起こしたのです。

釋問來意,解佛答有二,初、總答有,為遮此故,世尊言有也;後、別解有義。別解有義分二,初、廣別解答有義,後、釋以是義故下,解法身要義。初文復二,初、廣釋經,後、於中言當生實相者下配五種義。初文分二,初、釋有時,次、釋有因,及釋由此能生實相。

釈迦牟尼仏が質問の意図を尋ね、仏陀の答えを二つに分けて解釈します。まず最初に、総括して「有り」と答え、この誤解を防ぐために世尊が「有り」と言われたのです。その後、個別に「有り」の意味を解き明かします。

「有り」の意味を個別に解釈する部分は二つに分かれます。まず、広く別々に「有り」の意味を解き明かし、その後、「この義によって」以下の部分を解釈して、法身の重要な意味を明らかにします。

最初の部分はさらに二つに分かれます。まず、経文を広く解釈し、その後、「その中で『まさに実相を生ずべし』と言うのは」以下の部分を五つの意味に配当します。

最初の部分は二つに分かれます。まず、「有る時」を解釈し、次に「有る因」を解

「正法欲滅時」者,謂修行漸滅時,此釋有時。善現總問未來難信,世尊別答修行欲滅於經有信,翻顯已前理多信者,有教、有行、有得果證,名為正法;有教有行,不得果證,名為像法;有教無餘行,名為末法。然依《大乘大集經》中,以五百歲為配,初五百年解脫堅固,第二五百年禪定堅固,第三五百年多聞堅固,第四五百年福德堅固,第五五百年鬪諍堅固。小乘不依五百為配,如《記正法住經》及傳并《摩訶摩耶經》等,佛所記事但以一百、二百而為配故。今依大乘,故此經言「後五百歲」,以五百歲為分配故。佛之法教,正、像、末等皆名正法,非是初時有證解脫名正法也。時尚解脫,況無信者?故不為答。佛初記別正法一千年,像法一千年,末法一萬年,由度女人,滅減正法唯五百年。於中兩說,一云、正法,今者但五百年,由度女人,減五百年歲,雖說八敬不減正法,由彼不行,正法還滅。故經有說,及薩婆多等宗皆唯正法,俱五百年。若依彼義,此中正法欲滅之時者,謂修行漸滅時,非是前時,初五百歲有解脫故,行盛興故,亦非後時行已無故。今說修行漸欲滅時,即是第三五百年時,此於像法一千年中,後五百年行方漸滅,當此惡時,尚有於經當生實相,況以前位而無信者?自此已後,時遠人澆,少有生信,故經不說。故《能斷》云,「後時、後分、後五百歲,正法將滅時分轉時」,後時者,初五百年;後分者,第二五百年;後五百歲者,第三五百年,即行正法將滅時也。第二說云,正法一千年,若不說八敬,全無行者,正法欲滅,既有行者,正法依定,大眾部等皆作此說。若依彼說,即是第四五百年時,名為修行漸欲滅時,於此惡時,尚生實相,況以前位而無信者?已後惡時少有生信,故經不說。其《能斷》云後時者,顯佛滅後,非但佛在位;言後分者,明非正法一千年內,即證果時;言後五百年者,於其像法一千年內行欲滅時,非初五百年行盛興時。此後分四,一、後時,初五百年;二、後分,次五百年;三、後五百歲,第三五百年;四、正法將滅時分轉時,第四五百年,即行正法後將滅時。由有二解,經文不同。流支、羅什,總奄合說當來末世,不識三後之深義,故真諦經云,「現時及未來世」,以此為誤矣,不問勝時,問惡時故。又云,「於未來世後五十歲」,以一當十,五百即五十,亦不相違,算家有此差別門故。

「正法が滅ぼうとする時」とは、修行が次第に滅びていく時を指し、この解釈には時期があります。善現は総じて未来の難信を問い、世尊は特に修行が滅びようとする時に経典を信じることを答えて、以前の時代には理を信じる者が多かったことを示しています。教えがあり、修行があり、果証を得ることを正法と名づけ、教えと修行はあっても果証を得ないことを像法と名づけ、教えはあっても修行が残っていないことを末法と名づけます。

しかし『大乗大集経』によれば、五百年ごとに配当され、最初の五百年は解脱堅固、第二の五百年は禅定堅固、第三の五百年は多聞堅固、第四の五百年は福德堅固、第五の五百年は闘諍堅固とされています。小乗では五百年ごとの配当をとらず、『記正法住経』や伝承、『摩訶摩耶経』など、仏が記された事柄は百、二百で配当されるからです。今は大乗に依るので、この経に「後五百歳」とあり、五百年を配当としています。

仏の法教は、正・像・末など皆、正法と名づけられ、初めの時期に証解脱があるから正法というのではありません。その時でさえ解脱を理解するのに、まして信じない者がいるでしょうか。だから答えとはしません。仏は初めに、正法一千年、像法一千年、末法一万年と記別されましたが、女人を度したために正法は五百年だけ滅びました。この中に二説あり、一つは、正法は今ただ五百年であり、女人を度したために五百年が減ったというものです。八敬法を説いても正法は減らず、それを行わないために正法は滅びるとします。だから経典にも説かれ、薩婆多などの宗も皆、正法はただ五百年とします。もしその義に依るなら、ここでの正法が滅ぼうとする時とは、修行が次第に滅びていく時であり、前の時、初めの五百年に解脱があるからではなく、行いが盛んに興るからでもなく、また後の時、行いがすでにないからでもありません。今、修行が次第に滅びようとする時を説くのは、第三の五百年の時であり、これは像法一千年の中の後五百年で、行いがようやく次第に滅びていく時です。この悪い時にあってさえ、なお経典に対して実相が生じるのに、まして以前の位に信じる者がいないでしょうか。これ以降は、時が遠く人も薄く、信じる者が少ないので、経典は説きません。だから『能断』に「後時、後分、後五百歳、正法将滅時分転時」とあります。後時とは初めの五百年、後分とは第二の五百年、後五百歳とは第三の五百年、すなわち行いの正法がまさに滅びようとする時です。

第二の説は、正法一千年であり、もし八敬法を説かず、全く行う者がいなければ、正法は滅びようとしますが、行う者がいるので、正法は定まっているとします。大衆部などは皆このように説きます。もしその説に依るなら、第四の五百年の時を修行が次第に滅びようとする時と名づけ、この悪い時にあってさえ実相が生じるのに、まして以前の位に信じる者がいないでしょうか。以後の悪い時には信じる者が少ないので、経典は説きません。『能断』に後時とあるのは、仏滅後を顕わし、ただ仏在世のみではないことを示し、後分とあるのは、正法一千年の内ではなく、即ち証果の時であることを明らかにし、後五百年とあるのは、像法一千年の内で行いが滅びようとする時であり、初めの五百年で行いが盛んに興る時ではありません。この後分には四つあり、一に後時は初めの五百年、二に後分は次の五百年、三に後五百歳は第三の五百年、四に正法将滅時分転時は第四の五百年、即ち行いの正法が後に滅びようとする時です。二つの解釈があるために、経文が異なります。

流支や羅什は、総じて将来の末世に合わせて説き、三後の深い義を知らないので、真諦の経に「現時及び未来世」とあるのは、これを誤りとします。勝れた時を問わず、悪い時を問うからです。また「未来世の後五十歳」とあるのは、一を十に当て、五百を五十とし、また矛盾しません。算家にはこのような差別の門があるからです。

上釋有時,下釋有因,及釋由此當生實相。文復分二,初、明有四因故生實相,後、別配經。四因者,次前時後佛,為於如是惡時之中顯有四因,一、久修三學行,二、遇佛集勝因,三、為佛所攝受,四、雖無三學、集因、攝受,由與福德果報相應,故能生信,即是彼人,於彼無法障,故福會生信。惡世由具四因,故能如是,於實相法中能生實相。天親論意,由未來世有菩薩者內具三學之德,即此菩薩外遇良緣,於諸佛所種三種因,當知是人能生實相,故頌說言,「於彼惡世時,菩薩三德備,不空以有實」,即此菩薩,佛悉知見,有持戒、修福德,取生福德,由有智慧,佛悉知見,無人、法執各四八過。

上では「時」について説明し、下では「因」について説明し、さらに「これによって実相が生じる」ことを解き明かします。文はさらに二つに分かれ、初めに「四つの因があるから実相が生じる」ことを明らかにし、後で経文に個別に当てはめます。四つの因とは、先に述べた悪しき時代の後に仏が現れ、そのような悪しき時代の中にあっても四つの因が顕れることです。第一に、長く三学(戒・定・慧)を修めてきた行い。第二に、仏に遇って優れた因を積むこと。第三に、仏に摂受(受け入れ導かれる)されること。第四に、三学の修めや因を積むこと、摂受がなくても、福徳の果報と相応するゆえに、信を生じることができる。つまり、その人は、法への執着という障りがないため、福徳が集まって信が生まれるのです。悪世であっても四つの因を備えているからこそ、このように実相の法において実相を生じることができるのです。

天親(世親)論の意は、未来世に菩薩が現れ、内に三学の徳を備え、その菩薩が外に良縁に遇い、諸仏のもとで三種の因を種とするならば、その人は実相を生じることができると知るべきである、というものです。故に頌にこう説かれています。「かの悪世の時に、菩薩は三徳を備え、空しからずして実あり」。このような菩薩を、仏はことごとく知り見ておられます。戒を持ち、福徳を修め、福徳を生じ取る。智慧があるゆえに、仏はことごとく知り見ておられ、人我執・法我執というそれぞれ四つ八つの過ちがないのです。

經言,有戒有功德者明修行。初、配經文,後、逐難釋。此中三學有四法迹,無貪、無嗔是戒學迹,正念是定學迹,正定是慧學迹,由對三根,三藏所說各有異故,但說三學。又戒出惡道因,定出欲界因,慧出三界因。又聲聞多學戒,獨覺多習定,菩薩多學慧。又戒能離惡因,定能修善因,慧能利生因。又戒得勝自體,定能離惡,慧能攝善因。如是等種種別義故說三學,應勘《攝論》及《瑜伽》等。功德者,少欲等功德為初,乃至三摩地等,此逐難釋。如《遺教經》,持戒有六,即是瑜伽六支,一、持戒,二、制心,三、知量,四、懈愧,五、安忍,六、直心,皆是戒學所攝。正定亦六,《八大人覺》中攝初六故,一、少欲,二、知足,三、遠離,四、精進,五、不妄念,六、正定。正慧攝二,一者、智慧,二、不戲論。持戒、智慧易,不重釋;正定相隱,重解之。以功德言,奄含說故,即《八大人覺》中,少欲為初,等至為後,攝此六法,以為功德,前六、後二唯知戒、慧,更應勘《瑜伽.聲聞地》、《涅槃經》及《八大人覺經》等以配《遺教》,具三學者,以經為實,教順理故,能生信心,信心即是真實相也。

経典には、戒律があり功徳がある者は修行を明らかにすると説かれています。初めに経文に配当し、後に難解な箇所を逐次解釈します。ここで三学には四つの法の跡があり、無貪・無瞋は戒学の跡、正念は定学の跡、正定は慧学の跡です。三つの根機に対応し、三蔵に説かれる内容もそれぞれ異なるため、ただ三学を説くのです。また、戒は悪道を離れる因、定は欲界を離れる因、慧は三界を離れる因となります。さらに、声聞は多く戒を学び、独覚は多く定を習い、菩薩は多く慧を学びます。また、戒は悪因を離れ、定は善因を修め、慧は衆生を利する因となります。また、戒は優れた自性を得、定は悪を離れ、慧は善を摂取する因となります。このように様々な別義があるため三学を説くのであり、『摂論』や『瑜伽』などを参照すべきです。功徳とは、少欲などの功徳を初めとし、三摩地などに至るまで、これらを逐次難解な箇所として解釈します。『遺教経』の如く、戒律を保つには六つあり、すなわち瑜伽の六支で、一に持戒、二に制心、三に知量、四に懈愧、五に安忍、六に直心、これらは全て戒学に摂められます。正定もまた六つあり、『八大人覚』において初めの六つを摂するため、一に少欲、二に知足、三に遠離、四に精進、五に不妄念、六に正定です。正慧は二つを摂し、一つは智慧、二つは不戯論です。持戒と智慧は理解しやすく、重ねて解釈しません。正定の相は隠れているため、重ねて解き明かします。功徳という言葉で、包括的に説かれているため、『八大人覚』において、少欲を初めとし、等至を後とするこの六法を功徳として摂め、前の六つと後の二つはただ戒と慧を知るのみです。さらに『瑜伽・声聞地』、『涅槃経』、『八大人覚経』などを参照し、『遺教経』に配当すべきです。三学を具える者は、経典を実体とし、教えが理に順うため、信心を生じることができ、信心こそが真実の相なのです。

二、「經言已得供養」等者下,解集勝因。文分二,初、配經文,後、逐難釋。由逢諸佛集二種因,一、財供養,二、行供養。行供養者,種善根是。以財供養,經但名為修行供養。供養為十,一、現前,二、不現前,三、現前、不現前,四、自,五、他,六、俱,七、財敬,八、廣大,九、無染,此上九種,經中名為修行供養;十、正行供養,此中名為種諸善根。集是十因,名集因也。逐難釋云,一心淨信尚得如是業,何況生實相者?此解經中乃至一念淨信之言,非唯逢少數之佛即能於經生一念信,翻顯由逢千萬諸佛供養樹善方能於經生一念信,信難生故。故經初非供養少佛,後方顯由供養多數佛,如是一念淨信之業,尚由前世遍供多佛,何況於經廣生實相,不於前世遇供養多佛?以於廣經能生實相為首,於經少句一念淨信為終,略去中間修行、不信,故言乃至一信尚由前遇多佛供養,況生廣信?

二、「經に言う、已に供養を得」等とあるのは、以下に殊勝なる因を集めることを解く。文は二つに分かれる。初めに経文に配し、後に難に逐って解釈する。

諸仏に逢うことにより、二種の因を集める。一は財供養、二は行供養である。行供養とは、善根を種づけることである。財供養は、経中では単に修行供養と名づけている。

供養は十種に分かれる。一、現前供養、二、不現前供養、三、現前不現前供養、四、自供養、五、他供養、六、俱供養、七、財敬供養、八、広大供養、九、無染供養――この上記九種は、経中では修行供養と名づけている。十、正行供養、これはここでは諸善根を種づけると名づけている。この十種の因を集めることを、因を集めるという。

難に逐って解釈すると、一心の浄信さえもかくの如き業を得る、ましてや実相を生ずる者はどうであろうか、とある。これは経中の「乃至一念の浄信」という言葉を解釈したもので、わずかに少数の仏に逢っただけで、ただちに経に対して一念の信を生ずるのではないことを示す。むしろ、千万の諸仏に逢い、供養し、善を積んで初めて、経に対して一念の信を生ずることができるのであり、信は生じ難いからである。ゆえに経の初めには、少数の仏を供養しただけではないとし、後に、多くの仏を供養したことによって、かくの如き一念の浄信の業さえも、前世に広く多くの仏を供養したことによるのであるから、ましてや経に対して広く実相を生ずることは、前世に多くの仏に逢い供養しなかったことによるのであろうか。

広大な経に対して実相を生ずることを初めとし、経の少なる一句に対して一念の浄信を持つことを終わりとし、中間の修行や不信を略して、故に「乃至一信さえも、前に多くの仏に逢い供養したことによる。ましてや広大な信を生ずることはどうであろうか」と言うのである。

三、「經言如來悉知」等者下,第三解佛所攝受。分二,初、散解,後、配文。顯現有異,以明心別,知者知名身,意識知四蘊;見者見色身,五識知色蘊。威儀三業皆知,故言一切,行住所作中知其心,見其依止。天親釋言,「佛非見果知,願智力現見」,謂佛非見果比知,由有願智現前見故。言悉知者簡非眼見,言悉見者簡非比知,為防此二故說知、見。然諸本中皆唯二悉知、悉見,《能斷經》中乃有三悉,更有悉覺。天親論具,彼經本略。論云,「求供養恭敬,彼人不能說」,彼自釋云,若人欲得供養、恭敬,自稱己身有持戒等,彼人不能自說己身能生實相,是人自謂有智,起增上慢故。為簡彼故,文言如來悉覺,是人但名有戒等,佛皆善知於此經中能生淨信。論既具解,故知經略,唯《能斷》中具此三悉,其流支經下為離寂靜味中亦有三悉,准下知上應有悉覺,此等顯善友所攝,屬配經文。

三、「経に『如来は悉く知る』などとある」以下は、第三に仏の摂受を解く。二つに分け、初めは散解、後は配文。現れに違いがあるのは、心の区別を明らかにするためである。「知る」とは名身を知ること、意識が四蘊を知ること。「見る」とは色身を見ること、五識が色蘊を知ること。威儀も三業も皆知るゆえ、「一切」と言う。行住所作の中にその心を知り、その依止を見る。天親の釈に「仏は見果によって知るのではなく、願智力によって現に見る」とある。これは、仏は結果を見て推測して知るのではなく、願智が現前にあって見るゆえに、と言う。「悉く知る」とは肉眼で見るのではないことを示し、「悉く見る」とは推測して知るのではないことを示す。この二つを防ぐために「知る」「見る」と説く。しかし諸本には皆ただ二つの「悉く知る」「悉く見る」のみで、『能断経』には三つの「悉く」があり、さらに「悉く覚る」がある。天親の論は具わっているが、その経の本は略されている。論に「供養恭敬を求め、その人は説くことができない」とある。彼自身の釈に、もし人が供養や恭敬を得ようとして、自ら己が身に持戒などがあると称するならば、その人は自ら己が身が実相を生じうると説くことはできない。その人は自ら智があると思い、増上慢を起こすゆえである。それらを区別するために、経文に「如来は悉く覚る」とある。その人はただ戒などがあると名づけられるだけで、仏は皆善く知っておられる。この経の中で清浄な信を生じうる。論には既に具解があるゆえ、経が略されていると知る。ただ『能断経』の中にこの三つの「悉く」が具わっている。流支の経の下、寂静の味を離れる中にも三つの「悉く」がある。下に準じて上を知れば、「悉く覚る」があるはずである。これらは善き友の摂受を顕わし、経文に配属される。

四、「經言生取無量福聚」等者,解第四攝持福德。初、配屬經,後、逐難釋。經中別言生如是、取如是,合今牒之,故言生、取無量福德。逐難釋云,「生者福正起時」,謂由現行正起福德;「取者即彼滅時,攝持種子故」,謂由先造福德事故,今雖不起,由有福德種子隨逐,現行滅己,身中但有攝持種子。故天親云,「生者能生因故」,現行能熏名能生因;「取者熏修自體果義」,現行滅已,唯有所熏修種子自體,是現行因所生果義。二論無別,或彼論中翻此說。然觀經意,像法欲滅,有持戒等眾生生在彼時,能生實相,即於惡時有惡眾生,不言願生,能生實相。

四、「経に『生じて無量の福聚を取る』などとある」というのは、第四の「摂持する福徳」を解釈したものです。最初に経文に対応させ、その後、難解な点を一つずつ解釈しています。経文中では特に「このように生じ、このように取る」と別々に述べていますが、ここではそれらを合わせて引用しているので、「生じて無量の福徳を取る」と言っているのです。

難解な点を解釈すると、「生じるとは福徳が正に起こる時」であり、これは現行の行為によって福徳が正に生じることを意味します。「取るとはその滅する時であり、種子を摂持するからである」とは、過去に福徳を積む行いをしたことにより、今は現れていなくても、福徳の種子が身に従って続いているため、現行の行為が滅した後も、身の中には摂持された種子だけが残っていることを意味します。

ですから天親は、「生じるとは能生の因であるから」と言い、現行の行為が能く種子を熏習することを能生の因と呼びます。「取るとは熏修された自体の果の意味である」とは、現行の行為が滅した後、熏修された種子の自体だけが残り、これが現行の因によって生じた果の意味であるということです。二つの論には違いはなく、あるいはあの論ではこれを逆に説いているかもしれません。

しかし経文の意を観ると、像法の時代が滅びようとする時、戒律を守るなどの衆生がその時に生まれ、実相を生じることができるのです。つまり悪しき時代に悪しき衆生がいる中で、願って生じるとは言わずに、実相を生じることができるということです。

「《法華經》說,於惡時中行十法行,行於法等,當知此人是大菩薩發願生,此豈《法華經》勝此《般若》?彼願生持,此實生持耶?」答:「此論像季,彼論末法。又此同彼願生,彼同於此實作,俱出末法、像季二時,互影顯故,兩經無別,俱深妙故。又此說一念淨信,彼說廣能受、持,若持一句,二俱實生;若能廣持,兩俱願生。又此經直深實作,彼經曲深願生,亦不相違。」

『法華経』には、悪しき時代にあって十種の行いを実践し、法に等しく行ずる者について、この人は大菩薩として願を発して生まれた者であると知るべきだと説かれています。これは、『法華経』がこの『般若経』よりも勝れているということでしょうか?あちらは願生による保持であり、こちらは実生による保持であるというのでしょうか?

答えて申し上げます。「この論では像法の末を論じ、あの論では末法を論じています。また、こちらはあちらと同じく願生であり、あちらはこちらと同じく実作です。ともに末法と像法の二つの時代に現れ、互いに影のように照らし合って顕れるゆえに、両経に違いはなく、ともに深遠で妙なるものです。さらに、こちらは一念の清らかな信心を説き、あちらは広くよく受け持ち保つことを説いています。もし一句でも持ち保つならば、両方ともに実生であり、もし広く持ち保つことができるならば、両方ともに願生です。また、この経は直截に深く実作を説き、あの経は曲折して深く願生を説くもので、互いに矛盾するものではありません。」

經言「是諸菩薩」等者下,解故生實想,文分三,初、總配屬經,次、別解經文,後、重釋我執。別解經中,由經有二「何以故」,論亦分二。初「何以故」徵顯前說有三學等能生實相之所由,後「何以故」顯有法執、我執隨逐。初文復二,初、明對治五種邪取,別屬經文;後、此中顯了有戒等者,釋文來意。初有三,一、標,二、顯,三、結。

経文に「是の諸の菩薩」などとあるのは、以下で「故に実想を生ず」を解釈するためである。文は三つに分かれる。初めは、経文に総合的に配属する。次に、経文を個別に解釈する。後は、我執を重ねて解釈する。個別解釈のうち、経文に二つの「何以故」があるため、論も二つに分ける。最初の「何以故」は、前に説かれた三学などが実相を生じる理由を問い明らかにする。後の「何以故」は、法執と我執が付き従うことを明らかにする。初めの文はさらに二つに分かれる。初めは、五種の邪な執着に対治することを明らかにし、経文に個別に配属する。後は「此の中に戒等有りを顕了する」とあるのは、文が来た意図を解釈する。初めの部分は三つに分かれる。一に標示、二に顕示、三に結び。

此言五邪取者,初三依人辨取,後二依境辨取,故合為五執,人雖有四,總說一無,故此合說。天親論中依取行想以辨差別,故成八義,我執、法執各有四故。外道異生多起分別,計三世等,執實有我,故四我執皆稱外道。轉者,起也,執想生故。內道凡夫猶處下位,并聲聞等多執法,有一類頓悟菩薩及不定性迴向大乘,多執法空,名增上慢。此三依人以辨執取,初一我執,次二法執,法執有、空攝一切執,執所執為有,執二性無故。執取世間共相定者,名有相轉,下之靜慮、下三無色全,第四靜慮及非想非非想少分,名有想定,欲界有想,不生執取為勝涅槃,故不說,但說共想定,不說無想定。第四靜慮及非想非非想少分名無想,外道、二乘隨應執取以為勝果。欲界雖有睡眠、閟絕、無心,以非定位,非勝不執,故此不說,但言無想定。於法執中,分別起者,多緣此二,以起緣執,故此偏說,例顯可知。

この五つの邪な執着について述べます。最初の三つは人に基づいて執着を区別し、後の二つは境(対象)に基づいて執着を区別します。そのため、合わせて五つの執着となります。人には四種類ありますが、総じて「無我」を説くため、ここではまとめて説明します。

天親(世親)の論では、執着の行いと思いによって区別を立てているため、八つの意味が成立します。我執と法執にはそれぞれ四つずつあるからです。

外道や凡夫は多く分別を起こし、過去・現在・未来などの三世を計り、実在する我があると執着します。そのため、四つの我執はすべて外道と呼ばれます。「転」とは起こることで、執着の思いが生じるからです。

内道の凡夫はまだ下位にあり、声聞などは多く法を執着します。ある種の頓悟の菩薩や、不定性で大乗に回向する者は、多く法空を執着し、増上慢と呼ばれます。これら三つは人に基づいて執着を区別し、最初は我執、次の二つは法執です。法執には「有」と「空」があり、すべての執着を包含します。執着されるものを「有」と執着し、二つの性質を「無」と執着するからです。

世間の共相(共通の相)を定と執着するものを「有相転」と言います。下位の静慮(禅定)と下三つの無色界はすべて、第四静慮および非想非非想処の一部は「有想定」と呼ばれます。欲界にも想はありますが、勝れた涅槃として執着されることはないため、ここでは説かれず、共想定のみが説かれ、無想定は説かれません。

第四静慮および非想非非想処の一部は「無想」と呼ばれ、外道や二乗はそれぞれ応じて、これを勝れた果報として執着します。欲界にも睡眠や悶絶、無心の状態はありますが、定の位ではなく、勝れたものではないため執着されず、ここでは説かれません。ただ無想定のみが言及されます。

法執の中で、分別によって起こるものは、多くこの二つ(有想定と無想定)を縁として執着を起こします。そのため、特にこれらが説かれるのです。他の例も同様に理解できるでしょう。

結對治言是諸菩薩於彼皆不轉者,釋經二執皆說無言,隨應人、法取說,無非義故。天親論中解四法執,與此差別,初二有、空與此相似,後二金剛頌云,「一切空無物」,釋云,「有所取、能取,一切法無故,言無法想,以無物故」,遍計所執執有能取、所取體性,名為「法相」;今說空無,名「無法相」。頌云「實有」,釋云,「彼法無我空,實有故,言亦非無法相」,真如圓成體性實有,彼撥為無,名「無法相」;今說為有,性非全無,故言亦「非無法相」。頌云「不可說」,釋云,「彼空無物,而此不可說有無故,言無相」,即此勝義諦性離言說,非空、不空,執為有空,名之為相,今雙非彼,故言無相,顯此真理不可說為有、空相故。頌云,「依言詞而說,是法相四種」,釋云,「依言詞而說故,言亦非無相」,顯勝義諦因空所顯,亦名為空;談體實有,亦名不空;非全無體,故言亦非無相。總結四句,顯除四謗,初句除增益謗,第二句除損減謗,第三句除相違謗,第四句除戲論謗,唯依行相通,而依起人,故與此別。由是文等,龍猛、無著師宗不同,各應准立。

対治の言葉として結ぶと、これらの菩薩たちはそれらに一切転じないとは、経の解釈において二つの執着はどちらも無言であると説かれ、応じて人や法に執着することを説くが、それも義に外れることはないからである。天親の論において四つの法執を解釈するが、これとは違い、初めの二つは有と空についてであり、これと似ている。後の二つは金剛頌に「一切は空にして物無し」とあり、解釈に「取る所のものと取る主体とがあり、一切の法は無い故に、法想無しと言い、物無きが故である」とある。遍計所執は能取と所取の体性を執って有るとすることを「法相」と名づける。今、空無であると説くことを「無法相」と名づける。頌に「実有」とあり、解釈に「その法は我無く空であり、実有であるが故に、また無法相に非ずとも言う」とある。真如円成の体性は実有であり、それを撥無して無いとすることを「無法相」と名づける。今、有であると説き、その性は全く無いのではないから、また「無法相に非ず」と言うのである。頌に「不可説」とあり、解釈に「その空は物無し、而して此れは有無と言うべからざるが故に、無相と言う」とある。即ちこの勝義諦の性は言説を離れ、空でも不空でもない。それを執って空有があるとすることは、これを相と名づける。今、その両方を否定するから、無相と言うのであり、この真理は有や空の相として説くことができないことを顕わすのである。頌に「言詞に依って説く、是れ法相の四種なり」とあり、解釈に「言詞に依って説くが故に、また無相に非ずとも言う」とある。勝義諦は空によって顕わされるものであることを示し、また空とも名づけられる。その体は実有であると説き、また不空とも名づけられる。全く体が無いのではないから、また無相に非ずと言うのである。四つの句をまとめると、四つの謗りを除くことを示す。初めの句は増益の謗りを除き、第二の句は損減の謗りを除き、第三の句は相違の謗りを除き、第四の句は戯論の謗りを除く。ただ行相に通じるが、起こる人に依るので、これとは別である。このような文などにより、龍猛と無著の師宗は同じではなく、それぞれに準じて立てられるべきである。

此中顯了有戒等釋文來意,此說無彼人、法二取故,顯了前說於彼惡世時有持戒等故生、取福德,若迴心無學,我執先無,法執今伏,若餘有學、一切異生有持戒等,云何人、法二執皆無?

ここに戒律などについての解釈文が来た意図を明らかにする。これは、その人や法という二つの執着がないからである。前に述べたように、あの悪世の時代に戒律を守るなどがあれば、それによって生じ、福徳を得る。もし心を転じて無学(阿羅漢)となれば、我執は先になく、法執は今や制伏される。もし他の有学(修行者)や一切の凡夫が戒律を守るなどがあれば、どうして人執と法執の二つが共にないと言えるのか。

經言「何以故」者等者,顯有法執、我執隨逐,分二,初、釋意,後、屬經。取法相轉者,取有也;取非法相轉者,取空也。此經意說,於彼惡世,諸異生等雖修正行而起善心,若起法執,執空、有時,由我執種尚未斷故,必有我執之所隨逐,設於此位,法執心中無現行我執,亦為我執種子隨逐,後必現起,名有我取。故論釋云,但起空、有二法執時,非皆起煩惱執我等想,以取我想及所依癡此時不轉,麁易伏故,此於我想由有隨眠種子不斷,隨法執故,亦得名為有我取也。故天親云,「但有無明使,無現行麁煩惱,示無我見」,無我見者,現行不起也。想既不轉,俱時所依癡亦不行,故此論云,以想及依止不轉,有彼種子,名有隨眠,亦名為使,名有我等取。或復此時亦起我執,我執必隨法執起故,乍可獨起法而無我執?如二乘等我執種子先以斷故,此中不依有學等聖說,彼時無故,故云,「若取法執等,即為著我等取」,唯依惡時異生等說,故知煩惱障以法執為本,故斷法執,煩惱不行,是此深意。屬經可知,然此論釋經,《能斷》、真諦皆於法執說法、非法,空、有雙陳;流支本中雖有二文,乃言取法相及有法相,二文何別?羅什本中有三「何以故」,初「何以故」同此,以何義故具足四因便生實相;第二「何以故」下,言若心取相,總顯取法必定執生,若取法相,與流支同取有也;第三「何以故」下,方言若取非法相,言顯取空,微執順理故,尚有其執,何況執有,執不生?「何以故」徵義可知也,不應之上便無「何以故」,并剩一文,若心取相,由如此也。

経文に「なぜならば」とあるのは、法執と我執が付き従っていることを示すもので、二つに分けられる。まず意味を解釈し、次に経文に当てはめる。

「法相を取って転ずる」とは、有を取ることである。「非法相を取って転ずる」とは、空を取ることである。

この経の意は、かの悪世において、凡夫たちが正しい行いを修め善心を起こしても、もし法執を起こし、空や有に執着するときは、我執の種子がまだ断たれていないゆえに、必ず我執が付き従う、と説く。仮にこの段階で、法執の心に現行の我執がなくても、我執の種子が付き従っており、後には必ず現行するので、「我取あり」と言う。

それゆえ論釈に、「ただ空・有の二つの法執を起こすとき、すべてが煩悩の執着である我等の想いを起こすのではない。なぜなら、我という想いと、それに依る無明はこの時には働かないからである。それは粗くて制しやすいからである。しかし、我という想いについては、随眠の種子が絶えず存在し、法執に従っているゆえに、『我取あり』とも言えるのである」とある。

それゆえ天親は、「ただ無明の煩悩(随眠)があり、現行する粗い煩悩はない。無我の見解を示す」と言う。無我の見解とは、現行が起こらないことである。想いが働かなければ、同時にそれに依る無明も働かない。それゆえこの論に、「想いとその依止が働かないが、その種子があるので、随眠があると言い、また煩悩とも言い、『我等の取あり』と言う」とある。

あるいはまた、この時にも我執が起こることもある。我執は必ず法執に従って起こるからである。どうして法執だけが独りで起こり、我執がないことがありえようか。例えば、二乗などでは我執の種子が先に断たれているからである。ここでは有学などの聖者については説かない。彼らにはそのようなことがないからである。それゆえ、「もし法執などを取れば、すなわち我等への執着となる」と言う。ただ悪世の凡夫などについて説くのである。

それゆえ、煩悩障は法執を根本とすることを知るべきである。それゆえ法執を断てば、煩悩は働かなくなる。これがこの経の深い意である。

経文への当てはめは理解できるであろう。しかし、この論が経を解釈するにあたり、『能断』や真諦は、法執について法と非法、空と有の両方を説いている。流支の本には二つの文があるが、法相を取ることと有法相を取ることを言っている。この二つの文はどう違うのか。羅什の本には三つの「なぜならば」がある。最初の「なぜならば」はこれと同じで、どのような意味で四つの因を具えれば実相が生じるかを問う。第二の「なぜならば」以下は、もし心が相を取れば、総じて法を取れば必ず執着が生じることを示し、もし法相を取れば、流支と同じく有を取ることである。第三の「なぜならば」以下で、初めてもし非法相を取れば、空を取ることを示す。微細な執着で理に順じるゆえに、なお執着がある。ましてや有に執着すれば、執着が生じないことがあろうか。「なぜならば」という問いの意味は理解できるであろう。「不応」の上には「なぜならば」はなく、また一文余分である。「もし心が相を取れば」はこのような意味である。

「此我等想轉中,餘義猶未說」等者下,重解我執,分二,初、標未說方欲重明,後、正顯示。由法執中,既別配屬,我執四種猶未解,故標重解,正顯示四義我執。別有二解,一云,與彼天親論別,自體之我從前際來,相續不斷,取名我相;他身有情,是自體我之所取,故名眾生想;若取現在自我乃至壽住,名壽者相;若執取今身死已復生餘趣,名人想。第二顯他我為實有,餘三執自我三世實有,故成四執,皆分別執,故外道起。天親頌曰,「差別相續體,不斷至命住,後趣於異道,是我相四種」,初句我相,但執五蘊以為我故;不斷是第二句,執體前世以至今故;至命住是第三句,現存活故;後趣於異道是第四句,取未來故。彼依三世、總別執取,以分四執,與此不同。二云,此與彼同,此中取自體相續是我相者,即計五蘊為我想也;執現在我從前世我流轉至今,前世我是現在我之所取執,名眾生相,非是執他我而我所取;餘二可知。故知此論與彼論同,翻文稍異,義意無別。此依執者,合稱外道;彼依行相,故分四種。諸經兩論皆唯四我,唯《能斷》中,初對四法以明無我,乃有九無,後明執法若空若有,我執隨逐,但有四我。故此二論皆唯計四,三世、總別、自他異故,依單行相勝作用故。初但有九,如《樞要》說,上來二執顯多伏或,有智慧者,故能生信。天親論云,「謂離人、法相,是故說有智慧」,有智慧便足,何故復說持戒功德?為示現生實相差別義故,頌曰,「彼人依信心,恭敬生實相」,顯彼眾生唯無智慧無彼二執,但持戒等,信心恭敬亦生實相,故作是說。

「この我等の想が転ずる中に、他の意味はまだ説かれていない」などとあるのは、以下で我執を重ねて解釈することを示し、二つに分ける。初めに、まだ説かれていないことを標示して重ねて明らかにしようとし、後に、正しく四つの我執を顕示する。法執においてはすでに別に配属されているが、我執の四種はまだ解かれていないので、重ねて解釈することを標示し、正しく四つの我執を顕示する。別に二つの解釈がある。一つには、あの天親の論とは別に、自体の我が前際から来て、相続して断絶せず、我相と名づける。他身の有情は、自体の我の取るところであるから、衆生想と名づける。もし現在の自我、すなわち寿命が住することを取れば、寿者相と名づける。もし今の身が死んで再び他の趣に生ずると執取すれば、人想と名づける。第二に、他我を実有として顕し、他の三つは自我の三世を実有として執するので、四つの執となり、すべて分別執であるから、外道が起こる。天親の頌に言う、「差別相続の体、不断にして命住に至り、後の趣は異道に於いて、これ我相の四種なり」。初句は我相、ただ五蘊を執して我と為すからである。不断は第二句、体を前世より今に至るまで執するからである。命住に至るは第三句、現在生きて住するからである。後の趣は異道に於いては第四句、未来を取るからである。彼は三世、総別の執取に依って、四つの執に分けるので、これとは異なる。二つには、これは彼と同じである。ここで自体相続を取って我相とするのは、すなわち五蘊を計って我想とするのである。現在の我が前世の我から流転して今に至ると執するのは、前世の我は現在の我の取執するところであるから、衆生相と名づけ、他我を執して我の取るところとするのではない。他の二つは知ることができる。故にこの論は彼の論と同じであり、文を翻すにやや異なるが、義意に別はない。これは執する者に依って、合わせて外道と称する。彼は行相に依って、故に四種に分ける。諸経と両論は皆ただ四つの我のみである。ただ『能断』の中では、初めに四つの法に対して無我を明らかにし、すなわち九つの無があり、後に法を執するが空なりと有なりと、我執は随逐するが、ただ四つの我があるのみである。故にこの二論は皆ただ四つを計り、三世、総別、自他異なるからである。単に行相勝作用に依るからである。初めにはただ九つがあるのみで、『枢要』に説く如し。上に来たる二つの執は多く伏せられ、あるいは智慧ある者、故に信を生ずることができる。天親の論に言う、「人相・法相を離るるを謂う、是の故に智慧有りと説く」。智慧有ればすでに足りる、何故また持戒の功德を説くのか。生ずる実相の差別義を示現するが故である。頌に言う、「彼の人は信心に依り、恭敬して実相を生ず」。彼の衆生はただ智慧なく、彼の二つの執もなく、ただ持戒など、信心恭敬もまた実相を生ずることを顕す。故にこのように説くのである。

「於中,言當生實相者」下,配五種義,修行集因中生實相言是依義,即此中脩多羅句說是說相,即前當生實相是攝持,其二無我是安立,不應取法等是顯現。天親解云,「不應取法者,不應如聲取法」,除所執故;「非不取法者,隨順第一義智,正說如是取」,又非離言說可求第一義智,第一義智順教生故。此論意言,不應取法者,若所執有法及法無我並不分別,如言執著,皆不應取。不應取非法者,論雖不解,翻顯離言說外亦不可求,順教便生第一義智證真義故,正與彼同。又解,不應取法,謂取法體,如言執實,不應取故。不應取非法者,謂此教說法無我性,順教便生第一義智,不應離教以求真義證法無我故,不應依教而生執著法體分別,亦不應離教外覓法無我執著分別,亦與彼同。文牒經雖略,但牒不應取法,解中便具不應取非法。

ここで、「当生実相」という言葉の下に、五つの意味を配している。修行を集めて因とすることによって生じる実相という言葉は、依るべき意味である。すなわち、この中の修多羅の句が説くのは、説く相である。すなわち、先の「当生実相」は、摂持するものである。その二つの無我は、安立である。「法を取るべからず」などは、顕現である。

天親は解釈して言う、「法を取るべからずとは、声の如くに法を取るべからざるなり」と。これは、執着されるものを除くためである。「法を取らざるべからずとは、第一義の智に随順し、正しくこのように取ることを説く」のである。また、言葉を離れて第一義の智を求めることはできない。第一義の智は、教えに順じて生じるからである。

この論の意は、法を取るべからずとは、もし執着される有法や法無我を、言葉の通りに執着して分別するならば、すべて取るべきではない、というのである。非法を取るべからずとは、論では解釈していないが、逆に、言葉を離れた外にも求めることができず、教えに順ずれば第一義の智が生じて真実の義を証するからであり、正しくそれと同じである。

また別の解釈として、法を取るべからずとは、法の体を取ることであり、言葉の通りに実体として執着することを取るべきではない、というのである。非法を取るべからずとは、この教えが説く法無我の性質に順ずれば第一義の智が生じるのであって、教えを離れて真実の義を求め、法無我を証すべきではないからである。教えに依って法の体を分別し執着するべきではなく、また教えの外に法無我を求めて執着し分別するべきでもない。これもまた、それと同じである。

経文を引用するのは簡略ではあるが、ただ「法を取るべからず」を引用し、解釈の中には「非法を取るべからず」も含まれている。

「又言說法身義者」下,佛別答有義中,第二牒解法身要義分三,初、牒經,次、釋義,後、結成。「法尚應捨」者,初生實相緣教而生,依之漸修,便得證智,得證智已,捨先假解所緣之教,此所緣教,名之為法。如欲渡海,假栰而渡,度已捨;未生證智,假教而生解,得證智已,便捨教門,假解亦除,況乎教跡?得魚忘筌之喻,獲菟捨蹄之方,皆同此矣。法為順理之跡,證理尚須捨之,非法背真之行,未證理,先須棄,故言法尚應捨,何況非法?由此不應如言取法,又亦不應離教取非法。法尚應捨,實想生故,由依教法,實相得生,實想證真已,更不須教故,此教法證真尚捨,何況非法?非法之事,理不應留,教外別求,背真理故,理應除棄。天親解同《能斷經》文,「法尚應斷」,斷者除捨之義,名別義同。

また、「法身の義を説く」とある以下の部分について、仏が別に答える意義の中の第二段として、法身の要義を解き明かす部分が三つに分かれています。初めに経文を掲げ、次に意義を解釈し、最後に結論を結びます。

「法さえも捨てるべきである」とは、初めに実相が縁によって教えから生じ、それに依って次第に修行を積むことで、証悟の智慧を得ることができます。証悟の智慧を得た後は、以前の仮の理解に基づいていた縁となる教えを捨てます。この縁となる教えを「法」と呼びます。ちょうど海を渡ろうとするとき、仮の筏を使って渡り、渡り終えたら筏を捨てるようなものです。証悟の智慧がまだ生じていないうちは、仮の教えによって理解が生まれますが、証悟の智慧を得た後は、教えの門を捨て、仮の理解も除かれます。ましてや、教えの跡に執着することなどあるでしょうか。魚を得て筌を忘れるたとえや、兎を得て罠を捨てる方法も、これと同じです。

法は真理に順う跡であり、真理を証悟したならば、それさえも捨てる必要があります。法に背き真理から外れた行いは、真理を証悟する前から先に棄てなければなりません。だから「法さえも捨てるべきである、ましてや非法などなおさらである」と言うのです。このことから、言葉のままに法を取るべきではなく、また教えを離れて非法を取ることもすべきではありません。

法さえも捨てるべきであるのは、実相の想いが生じるからです。教えの法に依って、実相が得られ生じます。実相の想いが真理を証悟したならば、もはや教えは必要ありません。したがって、この教えの法は真理を証悟するためにさえ捨てられるのです。ましてや非法のことなど、道理に照らして留めておくべきではありません。教えの外に別に求めることは、真理に背くからです。道理に従って除き棄てるべきです。

天親の解釈は『能断経』の文と同じく、「法さえも断つべきである」としています。「断つ」とは除き捨てるという意味で、名前は異なっても意義は同じです。

准前應捨教與假解,今正捨教,故下解欲得法身,亦名證法身。法身有因有果,因果位別,佛果真證果圓滿身;十地位中,亦分證彼;地前菩薩,熏習種子仍未現行,未證真理,能起能顯十地佛位真法身故,亦名法身。前之言說,近為因中法身之因,遠為佛果法身之因,亦名法身。地前異生及十地位,因聞四句、為他說,勝福田便生,名福相法身,可樂故名福,慧劣故不名智;若至佛位,名智相法身,理強從說,非無福也。故論前說,證得法身,分為智、福,初地前勝福,證得因生故,十地已上正證得故。

先に述べたように、教えと仮の解釈を捨てるべきであり、今まさに教えを捨てている。したがって、以下の解釈では法身を得たいと願い、また法身を証することとも呼ばれる。法身には因と果があり、因果の位は異なる。仏の果は真実に証され、果は円満な身である。十地の位の中でも、それを部分的に証している。地前の菩薩は、習いによって種子を培うが、まだ現行には至らず、真理を証していない。しかし、十地や仏の位における真の法身を起こし顕わすことができるゆえに、これも法身と呼ばれる。先の言説は、近くでは因の中の法身の因となり、遠くでは仏果の法身の因となるため、これも法身と呼ばれる。地前の異生や十地の位においては、四句の教えを聞き、他者に説くことによって、優れた福田が生じる。これを福相の法身と呼び、喜ばしいゆえに福とされ、智慧が劣るゆえに智とは呼ばれない。もし仏の位に至れば、智相の法身と呼ばれ、理が強く説かれるが、福がないわけではない。したがって、論の前説では、証得される法身を智と福に分け、初地以前は優れた福を証得する因が生じ、十地以上では正しく証得されるとしている。

由此下文分之為二,初、明智相顯在佛位,後、明福相顯在因位。天親論云,「自此已下,為遮異疑」,前說如來非有為相,若爾,云何釋迦稱佛而得菩提,為生說法?說法是有相之徵,證覺非無相之術,即是此中欲得智相,如來既非有為之相,無得、無說,今勵已修,希有證說,證說智相,云何可得?生彼欣心,故名欲得智相身。智相身者有二,一、自利智即菩提,二、利他智即說法。菩提有二,一、能證道,此名為得,是能證得道諦體故;二、所證滅,此名菩提,是所證得滅諦體故。無有菩提,二證無相之體不成;既有說法,兩利有相初已顯。

ここから先の文章は二つに分かれます。まず初めに、智慧の相が仏の位に現れていることを明らかにし、その後、福徳の相が因位(修行中の位)に現れていることを明らかにします。

天親(世親)の論には、「ここから下は、異なる疑いを除くためである」とあります。前に説かれたところでは、如来は有為の相ではないとされました。もしそうなら、どうして釈迦は仏と称され、菩提を得て、衆生のために説法するのでしょうか。説法は有相の表れであり、覚りを証することは無相の術ではありません。つまりここで求めようとしているのは、智慧の相です。

如来はすでに有為の相ではないので、得ることもなく、説くこともありません。今、自らを励まして修行し、証と説とを希求します。証と説という智慧の相は、どのようにして得られるのでしょうか。その欣求の心を起こさせるので、「欲得智相身」(智慧の相を得ようと欲する身)と呼ばれます。

智慧の相身には二つあります。一つは自利の智、すなわち菩提です。もう一つは利他の智、すなわち説法です。

菩提には二つの側面があります。一つは能証の道、これは「得」と呼ばれます。道諦の本体を証得する働きだからです。もう一つは所証の滅、これは「菩提」と呼ばれます。滅諦の本体として証得されるものだからです。

もし菩提がなければ、二つの証(能証と所証)という無相の本体は成り立ちません。また、説法がある以上、自利・利他という二つの利(有相の働き)は、すでに初めから現れているのです。

行者欣求智相,所以勵已勸修,聞證無相之身,疑生乖其欲得,破疑順其所欲,故有下經文起。分二,初、問,後、答。解問之中有二,一、依義,二、說相。菩提內證,而無外取,今既翻於能證正覺、所證菩提執外實有能取、所取,故所對治是為依義,由此內證,故無少法如來可說,可說、可證是所執故,能執、所執皆所對治。阿耨菩提是為說相,能得、所得至極真覺,皆此攝故,至後卷解為正覺中當具顯示。「無有定法者」下,解答文分三,初、解總答文是攝持,次、解初「何以故」是安立,後、解第二「何以故」下是顯現。初文有三,初、解文來意,初上坐善現說佛心故;次、顯欲願菩提是所證滅、得證道。《大智度論》云,說智及智處,皆名為般若;《解深密經》云,菩提菩提斷,俱名為菩提故,由世俗諦方便引接,說有俗諦,故說菩提;故《瑜伽》說,若勝義諦已立為諦,何須復說安立諦耶?為後證得之方便故,正與此同。若如佛言,勝義諦中,二俱非有,彼論復問,「若安立諦已立為諦,何須復說非安立諦耶?」若不爾者,已得世間第四靜慮應斷二執,不應後時二執還起,廣如彼說,正與此同。

修行者が智慧の相を求めて励むのは、自らを奮い立たせて修行を進めるためです。しかし、無相の境地を証得することを聞くと、疑いが生じて求めるものと食い違いが生じます。その疑いを破り、求めるものに沿って導くために、以下の経文が始まります。これは二つに分かれ、最初に問い、後に答えます。問いの解釈には二つあり、一つは意味に基づくもの、もう一つは相を説くものです。

菩提は内に証得するものであり、外から得るものではありません。今、能証する正覚と所証する菩提を翻して、外に実在する能取・所取として執着するならば、それは対治すべき対象となります。これが意味に基づく解釈です。この内証によって、如来が説くべき少しの法もなく、説くこと・証することができるものはすべて執着の対象だからです。能執・所執はともに対治すべきものです。

阿耨多羅三藐三菩提は、相を説くものです。能得・所得の究極の真覚は、すべてこれに含まれます。後の巻で正覚として解釈する際に詳しく示されます。

「定まった法はない」以下の解答文は三つに分かれます。最初に総答の文を解釈し、次に最初の「なぜならば」を解釈し、最後に二つ目の「なぜならば」以下を解釈します。最初の文には三つの部分があり、まず経文の意図を解釈し、次に欲願の菩提が所証の滅であり、得証の道であることを示します。

『大智度論』には、智と智の処とを説くことをすべて般若と名づけるとあります。『解深密経』には、菩提と菩提の断絶をともに菩提と名づけるとあります。世俗諦による方便によって導き、俗諦があると説くため、菩提を説くのです。したがって『瑜伽論』には、もし勝義諦がすでに諦として立てられているなら、なぜさらに安立諦を説く必要があるのか、と問われています。それは後の証得の方便のためであり、ここと同じです。

もし仏の言葉のように、勝義諦の中では二者ともに存在しないなら、『瑜伽論』はさらに問います。「もし安立諦がすでに諦として立てられているなら、なぜさらに非安立諦を説く必要があるのか」と。そうでなければ、世間の第四静慮を得た時点で二つの執着が断たれるべきであり、後に再び二つの執着が起こるはずがありません。詳しくは同経に説かれており、ここと同じです。

後指經成,經云「何以故?如來所說法」等者下,解初「何以故」是安立,分三,初、總屬經,次、釋妨難,後、逐難釋。初文可知。天親論云,「應化非真佛」等,佛有三種,謂法、報、化,釋迦如來是化身,佛不證菩提,亦不說法,故無實法可取、可說,勝義諦中無取、說故,如《無垢稱》難彌勒說。

後に経文を成して、経に「何以故?如來所說法」などとある下に、初の「何以故」を解釈するのは安立であり、三つに分ける。初めは総じて経に属し、次に妨難を釈し、後に難を逐って釈す。初めの文は知るべし。天親の論に「応化非真佛」などとあり、仏には三種ある。すなわち法・報・化であり、釈迦如来は化身である。仏は菩提を証せず、また法を説かず、故に実の法を取ることもできず、説くこともできない。勝義諦の中には取ることも説くこともないからである。『無垢称』が弥勒に難じたように。

「由說法由故」下,釋妨難,謂有難言:「何故經言,佛所說法不可取、說,不言佛所證、知、見、覺等法皆不可取、說耶?」今釋之云,由外說法深妙難量,知內得覺,唯於說法安立第一義。依《能斷經》,乃云「如來所證、所說、所思惟法」,便無此妨。諸本唯言「佛所說法」,更無餘故。若依《能斷》,諸義具足,所證身也,所說語也,所思意也,三業所履之法,皆不可取、說。此中論文,應言由說法等外三業勝知內得菩提,以於三業,說法利生最為勝故,論中偏說。天親論云,「何故唯言說不言證?有言說者,即成證義故,若不證者,即不能說」故,以外說法,悉知內證,如入無量義處三昧方說法《法華》,即內有證故,能外說法,互相表故,正與此同。於中,「不可取」者,謂正聞時,此在聽者,不可說者;謂演說時,此在說者。夫說法者,無說無示,夫聽法者,無聞無得故,法皆不可若取、若說。「非法」者,分別性,分別性謂遍計所執,體性都無,虛妄所執。「法」謂真理,彼非真理,故名「非法」,故說「非法」名分別性。「非非法」者,法無我故,法無我性道理是有,即非虛妄有,即名「非非法」,虛妄所執名「非法」故。天親論云,「『說法不二取,無說離言相』者,聽者不取法、不取非法,說者亦不說法、非法故。何以故?彼法非法、非非法」,依真如義說故,此名安立,非法者,一切法無體故,遍計所執都無體故,非非法者,彼真如無我相實有故。

「説法によって」以下は、妨げとなる疑問を解き明かすものです。ある難問がこう言います。「なぜ経典には、仏の説かれた法は取ることも説くこともできないとあるのに、仏が証し、知り、見、覚られた法などがすべて取ることも説くこともできないとは言わないのか?」今これを解き明かすと、外に向けて説かれる法は深遠で妙なるもので量り難く、内に得られた覚りを知るには、ただ説法によって第一義を立てるからです。『能断経』によれば、「如来の証された、説かれた、思惟された法」とあり、この妨げはなくなります。諸本にはただ「仏の説かれた法」とあり、他にはありません。もし『能断経』によれば、諸々の意義が具足し、証されたのは身であり、説かれたのは語であり、思惟されたのは意であり、三業によって行われる法はすべて取ることも説くこともできません。ここでの論の文は、説法などの外なる三業によって勝れた内なる菩提を得たことを知る、と言うべきです。三業の中でも、説法は衆生を利するのに最も勝れているため、論では特に説いているのです。天親の論に言う、「なぜただ説くと言い、証すと言わないのか?言葉があれば、すなわち証しの意義が成るからである。もし証していなければ、すなわち説くことができないからである」。ゆえに、外なる説法によって、内なる証しをことごとく知るのです。たとえば無量義処三昧に入って初めて『法華経』を説くように、内に証しがあるからこそ、外に向けて法を説くことができ、互いに表しているのです。正にこれと同じです。この中で、「取ることができない」とは、正しく聞いている時、これは聞く者にあり、「説くことができない」とは、演説している時、これは説く者にあります。説法する者は、説くことも示すこともなく、法を聞く者は、聞くことも得ることもないからです。ゆえに法はすべて、もし取ることも、もし説くこともできません。「非法」とは、分別性であり、分別性とは遍計所執をいい、その体性はまったく無く、虚妄によって執着されたものです。「法」とは真理をいい、それは真理ではないから「非法」という名であり、ゆえに「非法」を分別性と名づけます。「非非法」とは、法無我であるからです。法無我性の道理は存在し、すなわち虚妄の有ではなく、すなわち「非非法」と名づけます。虚妄によって執着されたものを「非法」というからです。天親の論に言う、「『説法は二つを取らず、説くことなく言葉の相を離れる』とは、聞く者は法も取らず、非法も取らず、説く者もまた法も非法も説かないからである。なぜなら、その法は非法でも非非法でもないからである」。真如の義に依って説くからです。これは安立と名づけ、非法とは、一切の法に体がないからであり、遍計所執はまったく体がないからです。非非法とは、その真如には我相がなく、実に存在するからです。

經言,「何以故?以無為」等者下,解第二「何以故」,以是顯現分二,初、解經,後、生下文。諸下經文皆解無為得名聖人所以,初文中初、解無為義,後、解一切聖人。「無為者,無分別義也」,謂不生不滅擇滅真如,名無分別義,義謂義理,此解無為義。「是故菩薩有學得名」,分證真如,猶有修故。「無起無作中,如來轉依名為清淨,是故如來無學得名」。此真如理體無生故無起,無造者故無作,於此理中,如來已捨有垢障法,名為轉依,離垢清淨。「是故如來無學得名」者,無所修故。此解一切聖人。《能斷經》云,「以諸賢聖皆是無為之所顯故」,由證無為有分、滿故。天親論云,「此句明何義?彼法是說因故」,由諸聖人皆內證真如,真如妙理不可取、說,順真如故,說者如來無說、無示,聽者菩薩無聞、無取,此為所因,方顯聖人如彼所證尚不可說,況其聽者而可取也?由彼真如離言語相,非可說事故,何故不云佛,乃說一切聖人?以諸聖人皆依真如清淨得名故,如來具足清淨,菩薩如分清淨,正與此同前說,菩薩有學得名,於真如中分清淨故。依此論說,「於中,初無為義,三摩鉢帝相應」等顯了,此配五義,由在因位尚有定散過失時生,由修上定以證無為折伏散位,故初無為名為等至、攝伏散時,第二如來無學得名,於真如中具足清淨,唯在勝義佛果之中無上覺故,非修等至及攝伏心,等至、攝心皆在因位,非極果位故。

経典に言う、「なぜならば、無為なるがゆえに」などとあるのは、以下で第二の「なぜならば」を解釈し、これによって顕現される部分を二つに分け、初めに経文を解釈し、後に下文を生じる。以下の諸々の経文は皆、無為によって聖人が名を得る所以を解くもので、初めの文中でまず無為の義を解き、後に一切の聖人を解く。「無為とは、無分別の義である」とは、不生不滅・択滅・真如を指し、これを無分別の義と名づける。義とは義理をいう。これが無為の義を解くものである。「それゆえ菩薩は有学として名を得る」とは、真如を分証するが、なお修するものがあるからである。「無起無作の中において、如来の転依を清浄と名づく。それゆえ如来は無学として名を得る」。この真如の理体は生ずることがないから無起であり、造る者がいないから無作である。この理において、如来はすでに垢ある障りの法を捨てたので、転依と名づけ、垢を離れて清浄である。「それゆえ如来は無学として名を得る」とは、修するべきものがないからである。これが一切の聖人を解くものである。

『能断経』に云う、「諸々の賢聖は皆、無為によって顕わされるがゆえに」。無為を証することに分と満とがあるからである。天親の論に云う、「この句は何の義を明かすのか?彼の法は説く因であるから」。諸々の聖人は皆、内に真如を証する。真如の妙理は取ることも説くこともできない。真如に順うがゆえに、説く者である如来には説くことも示すこともなく、聞く者である菩薩には聞くことも取ることもない。これが因となって、初めて聖人が顕われる。彼の証する如くでさえ尚、説くことができないのに、ましてや聞く者が取ることができようか?かの真如は言語の相を離れ、説くべき事柄ではないからである。なぜ仏とは云わず、一切の聖人と云うのか?諸々の聖人は皆、真如の清浄に依って名を得るからである。如来は清浄を具足し、菩薩は清浄を分う。まさにこれと同じく前に説く、菩薩は有学として名を得るとは、真如の中において清浄を分うからである。この論に依って説く、「この中で、初めの無為の義は、三摩鉢帝相応」などと顕わされる。これは五義に配する。因位に在って尚、定と散の過失あり、時に生ずるものがある。上の定を修して無為を証し、散位を折伏する。それゆえ初めの無為は等至と名づけ、散時を摂伏する。第二に如来は無学として名を得るとは、真如の中において清浄を具足し、ただ勝義の仏果の中に在って無上覚であるからである。等至を修することも、心を摂伏することもない。等至と摂心は皆、因位に在り、極果の位ではないからである。

「自此已後一切住處中」等者,生下經文。諸下經文皆解無為,得名聖人所以,上諸住處雖說無為,未說聖人以無為得名,此方說故。在佛果位,無為得名,此中說意,因猶未了,下當顯示。

「この後、すべての住処において」という言葉は、次の経文を導くものです。以下の経文はすべて無為を解き明かし、聖人がその名を得る理由を説明しています。これまでの住処では無為について述べられていましたが、聖人が無為によって名を得ることはまだ説かれていませんでした。ここで初めてそれが説かれるのです。仏の果位において、無為によって名を得ること、この意味はまだ完全には理解されていませんが、後ほど明らかにされるでしょう。

下解欲得福相法身,前說諸法不可取、說,一切聖人無為得名,持經及說,應無有福,欣彼福故,名為欲得。天親釋伏疑云,「雖不可取、說而不空故」,雖在因位持、說,能生福相之身,上在地前初生位也。文分為二,初、總問答解文來意,後、別解釋。初中,初、問,後、答。由在因位受、持法及說一四句偈,生福甚多,況在果位所有至得?福相法身多因中有智,智劣福強,佛果有福,以智為名;佛但名智相,因但名福相,非在果因無福智也。

下位の修行者が福徳の相を備えた法身を得ようとする方法について述べます。前段では、あらゆる法は捉えられず、説くこともできないと説き、すべての聖者は無為によって名を得ると述べました。経典を受持し説くことによっても、福徳があるはずがないのに、その福徳を喜び求めるから、「欲得」と呼ばれるのです。天親は疑いを解くために、「捉えられず説くこともできないけれども、空ではないから」と釈しています。因位において経典を受持し説くことで、福徳の相を備えた身を生じさせることができるのです。これは、初地以前の初生の位に相当します。文章は二つに分かれます。まず、総括的な問答によって文の趣旨を解き明かし、その後、個別に解釈します。初めの部分では、まず問い、その後答えを示します。因位において四句の偈を受持し説くだけで、多くの福徳が生じるのですから、ましてや果位において得られるものはどれほどでしょうか。福徳の相を備えた法身は、多くは因位における智慧によって生じます。因位では智慧が劣り福徳が強く、仏果では福徳があり、智慧によって名づけられます。仏はただ智慧の相と呼ばれ、因位はただ福徳の相と呼ばれるのであって、果位や因位に福徳や智慧がないわけではありません。

別釋經中文分三,初、問,次、答,後、結。論中亦三,初、解結中出生等言,次、配五義,後、解難義。初中有二,初、問,次、答。言說之法,聲名為體,實非法身,何故於此非身之中說能生福?此為問意。「一四句偈」,諸解不同,上說各取當經所明之正宗,顯義周圓,名之為句,顯義四句,不定字數,名為一偈。短一句者三、四字,長一句者七、九字,不長不短者五字,梵本不長短者,阿耨瑟陀制多即八字,極多三十二字,極少八字已下名一句,漢法不定。

経文の解説では、まず質問があり、次に答え、最後にまとめがあります。論の解説でも同じく三つに分けられます。最初に「結中出生等言」を解釈し、次に五つの意義を配当し、最後に難解な意義を解釈します。

最初の部分はさらに二つに分かれます。まず質問があり、次に答えがあります。言葉で説かれる法は、音声や名称を本体としているのであって、真実の法身ではありません。それなのに、なぜこの法身ではないものの中に、福徳を生み出す力があると言えるのでしょうか。これが質問の意図です。

「一四句偈」については、さまざまな解釈があります。先に述べたように、それぞれの経典が明らかにしている中心的な教えを取り上げ、その意義が完全に示されているものを「句」と呼びます。意義を明らかにする四つの句で、字数は定まっておらず、それを「一偈」とします。短い一句は三字か四字、長い一句は七字か九字、長くも短くもないのは五字です。サンスクリット原典では、長短の定まらないものは「アシュタ・シッタ」(八字)と呼ばれ、最も長いもので三十二字、最も短いのは八字以下で一句とされます。漢訳では字数は定まっていません。

答中「阿耨菩提從此出」者,但說真如名無上覺。此經中普集十法行,行阿含故,謂十行者,《辨中邊論》說,一、書寫,二、供養,三、施他,四、聽聞,五、披讀,六、受、持,七、開演,八、諷誦,九、思惟,十、修習。初八聞慧,次一思慧,後一修慧,於此經中,普皆集故。又自利十行,經說受、持,皆已集故,利他十行,經陳演說,亦已集故,已相資助,無不盡故,但標持、說。「阿含」者,阿笈摩也,此經教是三世十方供傳說故,即顯此經十方三世諸佛傳說十行定故,能顯出諸佛法身,此依第一義諦,顯出法身。「諸佛世尊從此生」者,於報、化菩提正覺,此依世諦出生報、化,能顯妙理,能生真智,報、法既成,外化斯備。但問三種為三身之因,具三答說三問之果,隨其次第以說三身,故說此經為諸佛母,由此二並,故名佛、法、佛、法,無為菩提、有為報佛,二法別故,重言佛、法。天親論云,「於實為了因,亦為餘生因,唯獨諸佛故」,言「佛、法」,即此佛、法餘人不得,是不共義故;言「即非佛、法」,故此持、說,福成第一,施福不然,故非第一。

ここで「阿耨菩提はここより出ず」と答えているのは、ただ真如を無上覚と名づけているからです。この経典には、十種の修行が広く集められています。それは「阿含」を行うためです。いわゆる十行とは、『弁中辺論』に説かれている通り、一に書写、二に供養、三に施他、四に聴聞、五に披読、六に受持、七に開演、八に諷誦、九に思惟、十に修習です。最初の八つは聞慧、次の一つは思慧、最後の一つは修慧であり、これらがこの経典にすべて集められているからです。また、自利のための十行は、経典に「受持」と説かれており、すでに集められています。利他のための十行は、経典に「演説」と述べられており、これもすでに集められています。互いに助け合い、尽くされていないものはありません。ただ「持つこと」と「説くこと」を標榜しているのです。

「阿含」とはアーガマ(聖典)のことです。この経典の教えは、三世十方に伝えられ説かれているからです。すなわち、この経典は十方三世の諸仏が伝え説く十行を定めていることを示しています。それによって諸仏の法身を顕わし出すことができます。これは第一義諦に依って法身を顕わし出しているのです。

「諸仏世尊はここより生ず」とは、報身と化身の菩提、すなわち正覚についてです。これは世諦に依って報身と化身を生じさせ、妙なる道理を顕わし、真実の智慧を生じさせます。報身と法身が既に成就すれば、外への教化もこれに備わります。ただ三種の問いに対して、三身の因として、三つの答えをもって三つの問いの果を説き、その次第に従って三身を説くのです。それゆえ、この経典を諸仏の母であると説きます。この二つが並ぶことによって、「仏・法」と名づけられるのです。仏と法、無為の菩提と有為の報仏、この二つの法は別であるため、「仏・法」と重ねて言うのです。

天親の論に云く、「実(真如)に対しては了因となり、また他の衆生に対しては生因となる。ただ諸仏のみであるが故に」と。「仏・法」と言うのは、この仏と法は他の人々は得ることができず、不共の意義であるからです。また「すなわち仏・法に非ず」と言うのは、この「持つこと」と「説くこと」の功徳が第一となるからです。布施の功徳はそうではなく、故に第一ではないのです。

「復次」已下,配經五義。「無量阿僧祇」者,《華嚴經》第四十五心王菩薩問阿僧祇品,有一百二十二數,無一、十、百、千、萬五數,以百千為首,百千百千名一拘梨,如是倍倍積至第一百三名阿僧祇,第一百十六名無量。「無量阿僧祇」者,即以無量數阿僧祇也。

さらに、「復次」以下は、経典の五つの意義に配当される。

「無量阿僧祇」について述べると、『華厳経』第四十五の「心王菩薩問阿僧祇品」には、百二十二の数が挙げられています。その中には、一、十、百、千、万という五つの基本的な数は含まれておらず、百千(十万)を起点としています。百千の百千倍を「一拘梨」と呼び、このように倍々に積み重ねていき、百三番目の数が「阿僧祇」、百十六番目の数が「無量」となります。

したがって、「無量阿僧祇」とは、「無量」という数の「阿僧祇」、つまり計り知れないほど膨大な数の阿僧祇を意味しているのです。

結中重言「福聚」者,以持、說於經是一福聚,布施大千世界七寶是一福聚,雙二福故,說重言「福德聚」。「即非福聚」者,天親云,「福不趣菩提,二能趣菩提」故,布施之福不趣菩提,感世果故,持、說福聚能趣菩提,是持、說之福勝彼布施非趣菩提之福,故牒之言,布施福德即非趣菩提之福德,後便雙結福德聚、福德聚。《能斷經》中初雙牒二福,次單非一布施福,後雙結二福。佛法亦爾。然世俗言福德、福德,佛亦如是,於諸經中,數數宣說福德、福德,今牒數說言福聚、福聚。結亦如是,但可單非安立勝義,布施之福不趣菩提,名第一義,此非迴向施故,不作菩提因。天親又云,聚有二種,一積聚,如重擔,二進趣,如收質;布施如重擔,故名為聚,無收質義;持、演如收質故,與福聚名。如世收質,數進利得,故《俱舍》云,「汝三蘊還,我當與汝」,是收質義。顯現易了,故不重釋。

結びの部分で「福聚」を重ねて言うのは、経典を持ち説くことが一つの福の集まりであり、大千世界の七宝を布施することが一つの福の集まりであり、この二つの福を合わせて言うから、「福德聚」と重ねて言うのである。「即非福聚」とは、天親が「福は菩提に趣かず、二つは菩提に趣くことができる」と言うように、布施の福は菩提に趣かず、世の果報を招くからである。経典を持ち説く福の集まりは菩提に趣くことができる。この持ち説く福は、菩提に趣かない布施の福に勝る。そこで布施の福德は即ち菩提に趣く福德ではないと言い、後に二つの福の集まりを合わせて結ぶのである。

『能断経』では、初めに二つの福を合わせて言い、次に布施の福一つだけを否定し、後に二つの福を合わせて結んでいる。仏法もまた同じである。しかし世俗では福德、福德と言い、仏もまた同じで、諸経の中でたびたび福德、福德と説いている。今、たびたび説かれる言葉を引いて福聚、福聚と言う。結びもまた同じで、ただ勝義を単独に否定して立てるだけでよい。布施の福は菩提に趣かない、これを第一義と名づける。これは施しを廻向するものではないから、菩提の因とはならない。

天親はまた、聚には二種あると言う。一つは積聚で、重い荷物のようであり、二つは進趣で、質入れのようである。布施は重い荷物のようであるから聚と名づけ、質入れの意味はない。持ち説くことは質入れのようであるから、福聚の名を与える。世の質入れのように、たびたび利得を進めるからである。『倶舎論』に「汝の三蘊を還せば、我は汝に与えん」とあるのは、質入れの意味である。現れていて分かりやすいから、重ねて解釈しない。

捨分別心,名相應定,及攝散故。下解難義甚多,婆伽婆即足,何須又說「甚多,修伽他」耶?初言「甚多,世尊」,顯示攝心故,以攝自心命不散故,即顯自利,故說受、持一四句偈。後言「甚多,善逝」者,顯示持心,命他持心不外散亂,故言為他演說。解釋句味即是文顯名句故,如《樞要》說,欲顯持、說二勝福聚,令自令他,於此經中攝心、持心,專意求學,不散亂故。由此二論,真諦、流支、羅什三經皆但受、持、演說,故此屬當攝心、持心;《能斷經》中,說有五種法,若善男子或善女人於此法門乃至四句伽他,一、受、持,二、讀,三、誦,四、為他演說,五、如理作意,與諸本不同,初三自利,後二利他,令他於此經如理作意。計有十行,略言二五,諸經誦本各各不同,不須和會,亦猶諸本說四我執,《能斷》說九,論但解一,本略者不解廣故。「無量阿僧祇」言,如前已說。

分別の心を捨て去ることを、相応定と名づけ、また散乱を収めるためである。次に難解な意味を解釈するが、多くある。婆伽婆(世尊)はすでに十分であるのに、なぜさらに「甚だ多し、修伽他(詩句)」と言う必要があるのか。最初に「甚だ多し、世尊」と言うのは、心を収めることを示すためであり、自らの心を収めて散乱させないようにするためである。これにより自利を明らかにし、一つの四句偈を受持することの功徳を説く。後に「甚だ多し、善逝」と言うのは、心を保つことを示すためであり、他人にも心を保たせ、外に散乱させないようにするためである。そのため、他人のために演説することを言うのである。句や意味を解釈することは、文が明らかで名句を表すためであり、『樞要』に説かれているように、受持と演説という二つの優れた福徳の集まりを明らかにし、自らも他人もこの経典において心を収め、心を保ち、専心して学び求め、散乱しないようにするためである。これにより、真諦訳、流支訳、羅什訳の三つの経典はすべて受持と演説のみを説いており、したがってこれは心を収め、心を保つことに当てはまる。『能斷經』では、五つの法を説いている。もし善男子または善女人がこの法門において、四句の伽他(詩句)に至るまで、一に受持し、二に読み、三に誦し、四に他人のために演説し、五に理に従って意を用いるならば、他の経典とは異なる。最初の三つは自利であり、後の二つは利他であり、他人にこの経典において理に従って意を用いるようにさせる。全部で十の行いがあるが、簡略に二つの五つと言う。諸経の誦本はそれぞれ異なるため、無理に一致させる必要はなく、諸経典が四つの我執を説くのに対し、『能斷』は九つを説き、論はただ一つを解釈するように、経典が簡略なものは広く解釈しないからである。「無量阿僧祇」という言葉は、前にすでに説いた通りである。

金剛般若論會釋卷上

金剛般若論会釈 上巻


第二

CBETA コード: T1816

© AI 帮你读佛经 - 如是我闻

この文書は個人学習専用です。商業目的での使用は禁止されています。

訪問 rushiwowen.co

著作権:原文は CBETA
AI 翻訳は参考文献のみで、権威あるものではありません