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  1. 十住毘婆沙論 (十住毘婆沙論)
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十住毘婆沙論 (十住毘婆沙論)


入初地品第二

第二品 初地に入る

問曰:

お尋ねします。

汝說此語開悟,我心甚以欣悅,今解十地必多所利益。何等為十?

あなたがその言葉を説いて悟りを開かせてくださったので、私は心から喜んでおります。今、十地についての教えを解き明かしていただければ、きっと多くの利益があるでしょう。では、その十地とはどのようなものですか?

答曰:

お答えしますと、

此中十地法, 去來今諸佛,
為諸佛子故, 已說今當說:
初地名歡喜, 第二離垢地,
三名為明地, 第四名焰地,
五名難勝地, 六名現前地,
第七深遠地, 第八不動地,
九名善慧地, 十名法雲地。
分別十地相, 次後當廣說。

この中で、十地の教えは、 過去・未来・現在のすべての仏が、 仏の子である修行者のために、 すでに説き、今も説き、これからも説くであろう。

第一の地は歓喜地、 第二は離垢地、 第三は明地と呼ばれ、 第四は焔地、 第五は難勝地、 第六は現前地、 第七は深遠地、 第八は不動地、 第九は善慧地、 第十は法雲地と呼ばれる。

十地の内容については、 この後で詳しく説かれるであろう。

此中者,大乘義中。

ここでいう「此の中に」とは、大乗の教えの意味の中において、ということです。

十者,數法。

十(じゅう)は、数を示す法(ことわり)です。

地者,菩薩善根,階級住處。

地とは、菩薩の善根が段階を経てとどまる場所です。

諸佛者,十方三世諸如來。

仏というのは、あらゆる方向と時代に存在する全ての如来(目覚めた方々)のことです。

說者,開示、解釋。

「説者は、開き示し、解き明かすこと。」

諸佛子者,諸佛真實子,諸菩薩是,是故菩薩名為佛子。

諸佛の子とは、諸仏の真実の子、すなわち菩薩のことである。そのため、菩薩は「仏子」と呼ばれる。

過去、未來、現在諸佛皆說此十地,是故言「已說、今說、當說」。

過去・未来・現在のすべての仏が、この十の境地(十地)を説いてきました。ですから「すでに説かれ、今説かれ、これからも説かれる」と言うのです。

菩薩在初地,始得善法味,心多歡喜故,名歡喜地。

菩薩は初地において、初めて善い教えの味わいを得る。その心に喜びが多いことから、歓喜地と名づける。

第二地中,行十善道,離諸垢故,名離垢地。

第二の位(第二地)では、 十の善行を実践し、 あらゆる煩悩の汚れから離れているため、 「離垢地(りくじ)」と名付けられています。

第三地中,廣博多學,為眾說法,能作照明故,名為明地。

第三の地では、広く深く学び、多くの人々のために教えを説き、智慧の灯りを与えるがゆえに「明地」と名づけられます。

第四地中,布施、持戒、多聞轉增,威德熾盛故,名為炎地。

第四の位(生地)では、布施、戒律の実践、そして教えを聞くことが一層高まり、その威光と徳が盛んに輝き続くことから、焔地と名付けられています。

第五地中,功德力盛,一切諸魔,不能壞故,名難勝地。

第五地では、徳の力が盛んになり、あらゆる魔物に打ち破られることがないので、「難勝地」と名づけられます。

第六地中,障魔事已,諸菩薩道法,皆現在前故,名現前地。

第六の段階において、魔の障害を克服し、菩薩としての道や教えがすべて目の前に現れることから、これを「現前地」と呼びます。

第七地中,去三界遠,近法王位故,名深遠地。

第七地は、三界(欲界・色界・無色界)から遠く離れ、法王(仏陀)の位に近づいているため、「深遠地」と呼ばれます。

第八地中,若天、魔、梵、沙門、婆羅門無能動其願故,名不動地。

第八地では、天や魔、梵天、沙門、婆羅門であっても、その誓いを動かすことができないため、「不動地」と名付けられています。

第九地中,其慧轉明,調柔增上故,名善慧地。

第九地においては、その智慧がいっそう明らかになり、心が柔らかく調えられて、より一層向上するため、この地を「善慧地」と名づけます。

第十地中,菩薩於十方無量世界,能一時雨法雨。如劫燒已普澍大雨,名法雲地。

第十の地に至った菩薩は、十方の無数の世界に、一瞬のうちに法の雨を降らせることができます。ちょうど、世界が劫の火で焼き尽くされる時に大雨が降り注ぐように、この境地を「法雲地」と名づけます。

問曰:

お尋ねします。

已聞十地名,今云何入初地,得地相貌,及修習地?

すでに十地の名を聞きましたが、どのようにして初地に入るのでしょうか。初地を得たときの様相や、その修行の方法とはどのようなものですか?

答曰:

お答えしますと、

若厚種善根, 善行於諸行,
善集諸資用, 善供養諸佛;
善知識所護, 具足於深心,
悲心念眾生, 信解無上法。
具此八法已, 當自發願言:
我得自度已, 當復度眾生;
為得十力故, 入於必定聚,
則生如來家, 無有諸過咎。
即轉世間道, 入出世上道,
是以得初地, 此地名歡喜。

善根を厚く積み、善行を諸々の行に施し、 諸々の功徳をよく集め、諸仏に善く供養し、 善知識に護られ、深い心を満たし、 慈悲の心で衆生を思い、無上の法を信解する。 これらの八つの法を具えたならば、自らこう誓いを立てるべきである。 「私は自らを度し終えたならば、さらに衆生をも度そう。 十力を得るために、必ず悟りを得る者となり、 如来の家に生まれ、過ちや欠点のない身となろう」 こうして世間の道を転じて、出世間の道に入る。 これによって初地を得る。この地を歓喜と名づける。

厚種善根者,如法修集諸功德,名為厚種善根。

善根を厚く培うとは、教えに従って様々な功徳を修め積むことである。これを、善根を厚く培うというのである。

善根者,不貪、不恚、不癡,一切善法,從此三生,故名為善根。

善根とは、むさぼらないこと、怒らないこと、愚かでないことです。あらゆる善い教えや行いは、この三つから生まれます。ですから、これを「善根」と呼びます。

如一切惡法,皆從貪、恚、癡生,是故此三,名不善根。

あらゆる悪い行いは、すべて貪り(むさぼり)、怒り(いかり)、迷い(おろかさ)から生じます。ゆえに、この三つを「不善の根」と呼びます。

《阿毘曇》中種種分別:欲界繫、色界繫、無色界繫、不繫,合為十二;有心相應、有心不相應,合二十四。此中無漏善根,得阿耨多羅三藐三菩提時修集;餘九,菩薩地中修集;又未發心時久修集。

『アビダルマ』では、さまざまな分類が説かれています。欲界に縛られるもの、色界に縛られるもの、無色界に縛られるもの、そして縛られないもの(無漏)を合わせて十二とし、さらに心と対応するものと、心と対応しないものを加えて、合計二十四とします。

このうち、煩悩のない善根(無漏の善根)は、阿耨多羅三藐三菩提(完全なる悟り)を成就するときに修行し集めるものです。残りの九つは、菩薩の位において修行し集めます。また、菩提心を起こすより以前から、長い間修行し集めてきたものもあります。

或一心中有三,或一心中有六,或一心中有九,或一心中有十二。

ある心には三つ、ある心には六つ、ある心には九つ、ある心には十二の要素が含まれている。

或但集心相應,不集心不相應;或集心不相應,不集心相應。

あるいは、心と相応するものだけを集め、心と相応しないものは集めない場合がある。 あるいは、心と相応しないものだけを集め、心と相応するものは集めない場合がある。

或集心相應,亦心不相應;或不集心相應,心不相應。

心と相応するものもあれば、心と相応しないものもある。 また、心と相応するものも心と相応しないものも、ともに集まらないこともある。

是諸善根分別,如《阿毘曇》中廣說。

これらの善根の分別については、『アビダルマ』の中で詳細に説かれています。

此中善根:

ここでいう善い根(善根)とは、

為眾生求無上道故所行諸善法,皆名善根;能生薩婆若智故,名為善根。

衆生のために無上の道を求める故に行う、あらゆる善い行いを、すべて「善根」といいます。それは、すべてを知る智慧(薩婆若智)を生み出すからであり、そのために善根と名づけられるのです。

行於諸行者,善行名清淨,諸行名持戒,清淨持戒次第而行。

諸々の行において、善い行いを「清らか」と言います。諸々の行とは戒律を守ることであり、清らかに戒律を守り、その道筋に従って進んでいくのです。

是持戒與七法和合故,名為善行。何等為七?

戒律を守ることが、七つの要素と調和するからこそ、「善い行い」と呼ばれるのです。その七つとは何でしょうか。

一、慚;二、愧;三、多聞;四、精進;五、念;六、慧;七、淨命,淨身、口業。

一、慚(恥じること) 二、愧(はじること) 三、多聞(多くの教えを聞くこと) 四、精進(努力し続けること) 五、念(心にとどめること) 六、慧(正しい智慧) 七、清らかな暮らし、身と口の行いを清らかにすること

行此七法,具持諸戒,是名善行諸行。

この七つの行いを実践し、戒律をすべて保つならば、それを善い行いと呼びます。

又經說:諸禪為行處,是故得禪者,名為善行諸行。

さらに経典には「諸々の禅定は、行いの拠り所である。ゆえに禅定を得た者は、よく諸々の行いを実践する者と呼ばれる」と説かれています。

此論中不必以禪乃得發心。所以者何?佛在世時,無量眾生皆亦發心,不必有禪。又白衣在家,亦名為行。

この論において、必ずしも禅那(瞑想)によって初めて発心が得られるわけではない。 なぜなら、仏が在世の時代、数えきれないほどの衆生が皆、発心したが、彼らに禅那があったわけではないからである。 また、在家の白衣の人々も、修行していると言えるのである。

善集資用者,上偈中所說「厚種善根、善行諸行、多供養佛、善知識護、具足深心、悲念眾生、信解上法」,是名資用。

善根を厚く積み、諸々の善行を行い、多くの仏に供養し、善知識に護られ、深い心を具え、衆生を悲しみ慈しみ、最高の法を信解すること、これらを資用と名づける。

又本行善法,必應修行,亦名資用。所謂:布施、忍辱、質直不諂心、柔和同止樂、無慍恨性、殫盡不隱過、不偏執、不佷戾、不諍訟、不自恃、不放逸、捨憍慢、離矯異、不讚身、堪忍事、決定心、能果敢、受不捨、易教授、少欲知足、樂於獨處。如是等諸法隨行已,漸能具足殊勝功德,是法味堅牢故,名為本行。

また、元来の善法は必ず修行すべきものであり、これは「資用(活用すべき道)」とも呼ばれます。具体的には、施し、忍辱、正直で飾らない心、柔和で仲間と共に喜び合うこと、恨みや怒りの性質がないこと、過ちを隠さないこと、偏った執着をしないこと、強情でないこと、争いをしないこと、自らの力に驕らないこと、放逸にならないこと、高慢を捨てること、偽りの異様な振る舞いを離れること、自分の身体を誇らないこと、苦難に耐えられること、決断の心を持つこと、果敢に行動できること、受けても決して捨てないこと、教えを受け入れやすいこと、欲が少なく足ることを知ること、独りでいることを楽しむこと、これらの法々に従って実践すれば、徐々にすぐれた功徳を具えることができるようになります。この法の味わいが堅固であるからこそ、これを「元来の行い(本行)」と呼ぶのです。

若離是法,不能進得勝妙功德。

この教えから離れては、素晴らしい功徳を得ることはできません。

是故此本行法與八法和合故,為初地資用。

したがって、この基本的な修行法は八つの条件と調和することにより、初めての境地(初地)の基盤として役立つのです。

善供養諸佛者,若菩薩世世如法,常多供養諸佛。

諸仏をよく供養するとは、菩薩が生涯を通じて、常に教えのとおりに、多くの諸仏を供養することである。

供養有二種:

供養には二種類あります。

一者:善聽大乘正法,若廣、若略。二者:四事供養、恭敬、禮侍等。

1つめは、大乗の正しい教えを、詳しくであれ簡潔であれ、よく聴くこと。 2つめは、四つの供養物を捧げ、敬い、礼拝し、もてなすこと。

具此二法供養諸佛,名為善供養諸佛。

この二つの法をもって諸仏に供養することを、真の善き供養といいます。

善知識者,菩薩雖有四種善知識,此中所說——能教入大乘,具諸波羅蜜,能令住十地者。所謂:諸佛菩薩及諸聲聞,能示教利喜大乘之法,令不退轉。

善知識というものについて、菩薩には四種類の善知識がありますが、ここで言われているのは——大乗へ導き入れ、あらゆる波羅蜜を備えさせ、十地の位に留まらせることができる者です。それはすなわち、諸仏・諸菩薩・そして諸声聞であり、大乗の教えを示し、教え、利益を与え、喜ばせて、退転させないのです。

守護者,常能慈愍教誨,令得增長善根,是名守護。

守護者とは、常に慈しみの心で教え導き、その人が善根を増し成長させるようにすること、これを守護といいます。

具足深心者,深樂佛乘、無上大乘、一切智乘,名為具足深心。

深い心を具えるとは、仏の教え(仏乗)、この上ない大乗、すべての智慧の教えを深く喜び求めること、これを「深い心を具える」といいます。

問曰:

お尋ねします。

無盡意菩薩於〈和合品〉中告舍利弗:

舎利弗よ、無尽意菩薩は「和合品」の中で、あなたにこう告げたのです。

諸菩薩所有發心,皆名深心。

すべての菩薩が起こす発心(発菩提心)は、いずれも深い心とよばれます。

從一地至一地故,名為趣心。增益功德故,名為過心。得無上事故,名為頂心。攝取上法故,名為上心。現前得諸佛法故,名為現前心。集利益法故,名為緣心。通達一切法故,名為度心。所願不倦故,名為決定心。滿所願故,名為喜心。身自成辦故,名無侶心。離敗壞相故,名調和心。無諸惡故,名為善心。遠離惡人故,名不雜心。以頭施故,名難捨心。救破戒人故,名持難戒心。能受下劣加惡故,名難忍心。得涅槃能捨故,名難精進心。不貪禪故,名難禪定心。助道善根無厭足故,名難慧心。能成一切事故,名度諸行心。智慧善思惟故,名離慢、大慢、我慢心。不望報故,是一切眾生福田心。觀諸佛深法故,名無畏心。不障閡故,名增功德心。常發精進故,名無盡心。能荷受重擔故,名不悶心。

ある境地から次の境地へと進むことから、「趣心」と名づけられます。功徳を増し加えることから、「過心」と名づけられます。比べるもののない境地に達することから、「頂心」と名づけられます。最高の教えを取り入れることから、「上心」と名づけられます。目の当たりに諸仏の教えを得ることから、「現前心」と名づけられます。人々の利益となる法を集めることから、「縁心」と名づけられます。全ての真理を理解し通すことから、「度心」と名づけられます。願いが尽きることがないことから、「決定心」と名づけられます。願いを満たすことから、「喜心」と名づけられます。自らが成し遂げることから、「無侶心」と名づけられます。壊れることがない性質をもつことから、「調和心」と名づけられます。悪いことがないことから、「善心」と名づけられます。悪い人を遠ざけることから、「不雑心」と名づけられます。自らの頭を施すことから、「難捨心」と名づけられます。戒律を破った人を救うことから、「持難戒心」と名づけられます。粗末で悪意ある扱いを受けても耐えられることから、「難忍心」と名づけられます。悟りを得てもなお執着せずに捨てられることから、「難精進心」と名づけられます。禅定に執着しないことから、「難禅定心」と名づけられます。善根を積むことに飽き足らないことから、「難慧心」と名づけられます。すべてのことを成し遂げられることから、「度諸行心」と名づけられます。智慧による深い思惟があることから、「離慢・大慢・我慢心」と名づけられます。見返りを求めないことから、「一切衆生福田心」と名づけられます。諸仏の深遠な教えを観じることから、「無畏心」と名づけられます。妨げることがないことから、「増功徳心」と名づけられます。常に努力を続けることから、「無尽心」と名づけられます。重い責任を担えることから、「不悶心」と名づけられます。

又深心義者,等念眾生,普慈一切,供養賢善,悲念惡人,尊敬師長。

また「深心」の意味とは、すべての生きとし生けるものを平等に見つめ、一切に対して広く慈しみの心を向けることです。賢く善い人々には供養し、悪しき人々には哀れみの心を持ち、師や年長者を敬い尊ぶことです。

救無救者,無歸作歸、無洲作洲;無究竟者,為作究竟;無有侶者,能為作侶。

救いのない者を救い、よりどころのない者に帰る場所を与え、頼りのない者に頼りを与える。究極の目標がない者には純粋な目標を与え、たった一人の者には心の友となる。

曲人中,行於直心;敗壞人中,行真正心;諛諂人中,行無諂心;不知恩中,行於知恩;不知作中,而行知作;無利益中,能行利益;邪眾生中,行於正行;憍慢人中,行無慢行;不隨教中,而不慍恚;罪眾生中,常作守護。

曲がった人々の中にあって、まっすぐな心を行い、 害をなす人々の中にあって、正しい心を行い、 へつらう人々の中にあって、へつらわない心を行い、 恩を知らない人々の中にあって、恩を知る心を行い、 なすべきことを知らない人々の中にあって、なすべきことを知る行いを行い、 利益のない人々の中にあって、よく利益を行う行いを行い、 邪な衆生の中にあって、正しい行いを行い、 驕り高ぶる人々の中にあって、驕らない行いを行い、 教えに従わない人々に対して、怒りを抱かず、 罪ある衆生を常に守り護る。

眾生所有過,不見其失,供養福田,隨順教誨,受化不難。阿練若處,一心精進,不求利養,不惜身命。

全ての生きとし生けるものの過ちを見ても、その欠点を指摘せず、徳を積む機会(福田)に敬意を払い、教えに従い、教えを受け入れることを難しく考えない。静かな修行の場(阿蘭若)では、心を一つにして精進し、利益や供養を求めず、命さえも惜しまない。

復次,內心清淨故,無有誑惑;善口業故,不自稱歎;知止足故,不行威迫;心無垢故,行於柔和;集善根故,能入生死;為眾生故,忍一切苦。

また、心が清らかであるから、人を欺いたり惑わしたりすることがない。 善い言葉の行いによって、自らを褒め称えることがない。 満足することを知っているから、威圧したり強要したりしない。 心に汚れがないから、柔和にふるまう。 善根を積むから、生と死の迷いの世界に入ることができる。 生きとし生けるもののためだから、あらゆる苦しみに耐える。

菩薩有如是等深心相故,不可窮盡。汝今但說深心相,何得不少?

菩薩にはこのような深い心の相があるので、尽きることがありません。今あなたが説くべきは深い心の相だけで、なぜ少なくすることができるのでしょうか?

答曰:

お答えしますと、

不少也!〈無盡意〉總一切深心相在一處說;而此中分布諸地。此《十住經》地地別說深心相,是故菩薩隨諸地中皆得深心,深心之義即在其地。

多いです!〈無尽意(むじんに)〉よ、すべての深い心のあり方を一つにまとめて説くならば、この中で様々な段階(地)に分けられます。この『十住経』では、一つ一つの段階ごとに深い心のあり方が別々に説かれています。ですから、菩薩は各段階に応じて深い心を得ていき、深い心の意味そのものがその段階の中にあります。

今初地中說二深心:一者、發大願。二者、在必定地。是故當知,隨在十地善說深心。汝說:「何得不少」,是事不然!

ここで「初地」における「深心」について説かれている。一つには、大きな願いを起こすこと。二つには、必ず成就する境地にあること。このことから知るべきである。すなわち、十地の各段階に応じて、深心は善く説かれているのだ。あなたが「もう少し簡潔にしてもよいのでは」と言うが、その考えは正しくない。

悲心於眾生者,成就悲故,名為悲者。何謂為悲?悼愍眾生,救濟苦難。

生きとし生けるものに慈しみの心を持つ者は、その慈しみを成就するゆえに「悲者(あわれみの人)」と呼ばれます。 では、その「悲(あわれみ)」とは何でしょうか。 それは、生きとし生けるものを悼み、憐れみ、苦しみや困難から救い助けることです。

信解諸上法者,於諸佛法信力通達。

諸々の優れた法(真理)を信じ理解する者は、あらゆる仏の教えに対して、信じる力によって悟りに達することができる。

發願:「我得自度已,當度眾生」者,一切諸法,願為其本,離願則不成,是故發願。

誓いを立ててこう思う。「私が自らを救い得たら、次に他者を救おう」――あらゆる事柄は、願いを根本としている。願いを離れては、何事も成就しない。それゆえに、願いを立てるのである。

問曰:

お尋ねします。

何故不言我當度眾生,而言自得度已當度眾生?

なぜ「私は衆生を救うべきだ」と言わずに、「自らが救われた後に、衆生を救う」と言うのでしょうか?

答曰:

お答えしますと、

自未得度,不能度彼。如人自沒淤泥,何能拯拔餘人?又如為水所㵱,不能濟溺,是故說我度已當度彼。

自らがまだ救われていないのに、どうして他人を救うことができるでしょう。それは、自らが泥沼に沈んでいる人が、どうして他の人を救い上げられるでしょうか。また、自らが水に流されている人が、溺れている人を助けられないのと同じです。だからこそ、『私はまず自らを救い、それから他人を救う』と説かれているのです。

如說:

次のように説かれています。

若人自度畏, 能度歸依者,
自未度疑悔, 何能度所歸?
若人自不善, 不能令人善,
若不自寂滅, 安能令人寂?

他人の恐怖から逃れさせたいと願う人が、 すでに自分自身が恐怖から逃れていなければ、 どうして逃れ方を教えることができるでしょう。

自分自身が疑いや後悔からまだ自由でないのに、 どうして頼る者が救われるでしょう。

自分自身が善くない者が、 どうして他人を善く導くことができるでしょう。

自分自身がすでに静まり寂滅していない者が、 どうして他人を寂滅へと導くことができるでしょう。

是故先自善寂而後化人。又如《法句》偈說:

それゆえ、まず自らをよく静めてから、他者を教化せよ。 また『法句経』の偈(うた)にも説かれる。

若能自安身, 在於善處者,
然後安餘人, 自同於所利。

もし自分が安らかに身を置き、善いところにいられるならば、 その後で他の人を安らかにし、自らも得る利益と等しくありなさい。

凡物皆先自利,後能利人。何以故?如說:

すべてのものは、まず自分自身を利することができて、その後で他人を利することができる。なぜなら、例えば次のように説かれているからである。

若自成己利, 乃能利於彼;
自捨欲利他, 失利後憂悔!

自己の利益を成就してこそ、はじめて他人を利益することができる。 自らの利益を捨ててまで他人の利益を図ろうとすれば、かえって利益を失い、後になって後悔と憂いを招くことになる。

是故說自度已,當度眾生。

だから、自分自身を救い終えたならば、次に人々を救うべきなのです。

問曰:

お尋ねします。

得何利故,能成此事入必定地?又以何心,能發是願?

どのような利益があるから、このようなことを成し遂げて必ず悟りを得る境地に入ることができるのでしょうか。また、どのような心構えによって、そのような願いを起こすことができるのでしょうか。

答曰:

お答えしますと、

得佛十力,能成此事入必定地,能發是願。

仏の十の力を得て、このことを成し遂げ、必ず悟りを得る境地に入り、この願いを起こすことができるのです。

問曰:

お尋ねします。

何等是佛十力?

仏の十種の力とは何でしょうか?

答曰:

お答えしますと、

佛悉了達一切法因果,名為初力。

仏はすべての法(現象)の因果を完全に理解しておられます。これを第一の力(処非処力)といいます。

如實知去、來、今所起業果、報處,名為二力。

過去・未来・現在にわたって、起こした行為(業)の結果とその報いが現れる場所を、あるがままに知ることを、第二の力と名づける。

如實知諸禪定三昧,分別垢、淨、入、出相,名為三力。

禅定や三昧(心を集中する修行)をあるがままに知り、 その汚れた状態と清らかな状態、 入り方と出方の特徴を明確に区別すること。 これを「第三の力」と名づける。

如實知眾生諸根利、鈍,名為四力。

衆生の様々な根機(こんき)の鋭さや鈍さをありのままに知ることを、第四の力と言います。

如實知眾生所樂不同,名為五力。

衆生の楽しみがそれぞれ異なることをあるがままに知る、これを五力という。

如實知世間種種異性,名為六力。

世の中のさまざまな違いをあるがままに知ることを、六つの力と呼びます。

如實知至一切處道,名為七力。

真理をあまねく知るところの力を、第七の力という。

如實知宿命事,名為八力。

宿命のことをありのままに知る、これを八つの力という。

如實知生死事,名為九力。

生死の道理をあるがままに知ることを、九つの力と呼びます。

如實知漏盡事,名為十力。

煩悩の消滅についてあるがままに知ることを、十大の力と呼びます。

為得如是佛十力故,大心發願,即入必定聚。

仏の十の力を得るために、大いなる心で誓いを立てれば、すぐに必ず悟りを得る者の列に入るのです。

問曰:

お尋ねします。

凡初發心皆有如是相耶?

初めて発心した者には、皆このような相があるのでしょうか?

答曰:

お答えしますと、

或有人說:「初發心便有如是相。」而實不爾!何以故?是事應分別,不應定答。所以者何?一切菩薩初發心時,不應悉入於必定。

ある人が「初めて発心した時から、すでにそのような境地にあるのだ」と言うかもしれません。しかし実際はそうではありません。なぜでしょうか?このことは、詳しく区別して考えるべきであり、決まった答えをすべきではないからです。なぜなら、すべての菩薩が初めて発心した時に、必ずしも皆が決定の境地に入るわけではないからです。

或有初發心時,即入必定。

ある者は、初めて発心したその時に、すでに必定の位に入ることがあります。

或有漸修功德,如釋迦牟尼佛初發心時,不入必定;後修集功德,值燃燈佛,得入必定。

あるいは、徐々に功徳を修める者もいる。たとえば、釈迦牟尼仏が初めて発心した時は、まだ必定の境地に入っていなかった。その後、功徳を積み重ねて修行し、燃燈仏に出会うことで、ようやく必定に入ることができたのである。

是故汝說:「一切菩薩初發心,便入必定」,是為邪論。

だから、あなたが「すべての菩薩が最初に発心した時点で、必ず悟りを得る」と言うなら、それは誤った見解である。

問曰:

お尋ねします。

若是邪論者,何故汝說:「以是心,入必定」?

もしそれが邪論ならば、なぜあなたは「この心によって、必定に入る」と言うのですか?

答曰:

お答えしますと、

有菩薩初發心,即入必定。以是心,能得初地,因是人故,說:「初發心入必定中。」

ある菩薩は、初めて発心したそのときに、すでに不退転の位に入ります。その心によって初地を得ることができるのです。そうした者のために、「初発心にして、すでに必定に入る」と説かれているのです。

問曰:

お尋ねします。

是菩薩初心,釋迦牟尼佛初發心,是心云何?

その菩薩の初めの心、すなわち釈迦牟尼仏が初めて発心されたその心とは、どのようなものなのでしょうか。

答曰:

お答えしますと、

是心不雜一切煩惱。是心相續,不貪異乘。是心堅牢,一切外道無能勝者。是心一切眾魔不能破壞。是心為常,能集善根。是心能知有為無常。是心無動,能攝佛法。是心無覆,離諸邪行。是心安住,不可動故。是心無比,無相違故。是心如金剛,通達諸法故。是心不盡,集無盡福德故。是心平等,等一切眾生故。是心無高下,無差別故。是心清淨,性無垢故。是心離垢,慧炤明故。是心無垢,不捨深心故。是心為廣,慈如虛空故。是心為大,受一切眾生故。是心無閡,至無障智故。是心遍到,不斷大悲故。是心不斷,能正迴向故。是心眾所趣向,智者所讚故。是心可觀,小乘瞻仰故。是心難見,一切眾生不能覩故。是心難破,能善入佛法故。是心為住,一切樂具所住處故。是心莊嚴,福德資用故。是心選擇,智慧資用故。是心淳厚,以布施為資用故。是心大願,持戒資用故。是心難沮,忍辱資用故。是心難勝,精進資用故。是心寂滅,禪定資用故。是心無惱害,慧資用故。是心無瞋閡,慈心深故。是心根深,悲心厚故。是心悅樂,喜心厚故。是心苦樂不動,捨心厚故。是心護念,諸佛神力故。是心相續,三寶不斷故。

この心は、あらゆる煩悩に染まらない。 この心は連続しており、他の乗り物(小乗)に執着しない。 この心は堅固であり、いかなる外道も打ち勝つことができない。 この心は、あらゆる悪魔によっても壊されない。 この心は常住であり、善根を積み集めることができる。 この心は、有為が無常であることを知る。 この心は動じることなく、仏法を取り入れることができる。 この心は覆いがなく、あらゆる邪悪な行いから離れている。 この心は安住しており、動かすことができないからである。 この心は比類がなく、相反するものがないからである。 この心は金剛のようであり、あらゆる法を悟り通じるからである。 この心は尽きることがなく、尽きることのない福徳を積むからである。 この心は平等であり、一切の衆生に対して平等だからである。 この心に高低はなく、差別がないからである。 この心は清らかであり、その本性に汚れがないからである。 この心は汚れを離れており、智慧が明るく照らすからである。 この心は汚れがなく、深い心を捨てないからである。 この心は広大であり、慈悲が虚空のようであるからである。 この心は大きく、一切の衆生を受け入れるからである。 この心は障りがなく、障りのない智慧に至るからである。 この心はあらゆる場所に及んでおり、大悲を絶やさないからである。 この心は絶えることなく、正しく回向することができるからである。 この心は多くの者が向かうところであり、賢者によって讃えられるからである。 この心は観察されるべきであり、小乗も敬い仰ぎ見るからである。 この心は見ることが難しく、一切の衆生はそれを目にすることができないからである。 この心は破ることが難しく、善く仏法に入ることができるからである。 この心は住まいであり、あらゆる楽しい道具が宿るところだからである。 この心は荘厳であり、福徳がその資用となるからである。 この心は選択を行い、智慧がその資用となるからである。 この心は真淳で厚く、布施がその資用となるからである。 この心は大願を抱き、持戒がその資用となるからである。 この心は挫け難く、忍辱がその資用となるからである。 この心は打ち勝ち難く、精進がその資用となるからである。 この心は寂滅しており、禅定がその資用となるからである。 この心には悩みや害がなく、智慧がその資用となるからである。 この心には怒りや障りがなく、慈しみの心が深いからである。 この心は根が深く、悲しみの心が厚いからである。 この心は喜び楽しみ、喜びの心が厚いからである。 この心は苦楽に動じず、捨てる心が厚いからである。 この心は護り念じ、諸仏の神通力によるからである。 この心は絶え間なく続き、三宝が断たれないからである。

如是等無量功德莊嚴初必定心,如〈無盡意品〉中廣說。是心不雜一切煩惱者,見諦、思惟所斷二百九十四煩惱,不與心和合故,名為不雜。是心相續不貪異乘者,從初心相續來,不貪聲聞、辟支佛乘,但為阿耨多羅三藐三菩提故,名為相續,不貪異乘。

このような無量の功徳によって飾られた最初の決意の心については、『無尽意品』の中で詳しく説かれている。この心が一切の煩悩に混じらないとは、真理を見極める段階と思考によって断たれる二百九十四の煩悩が、その心と結びつかないことを「混じらない」という。この心が他乗を望まずに続くとは、最初の決意の心から続いて、声聞乗や辟支仏乗を望まず、ただ無上正等覚のためだけにあり、それを「続く」といい、「他乗を望まない」というのである。

如是等四十句論,應如是知。

このような四十の句についても、同じように理解すべきである。

問曰:

お尋ねします。

汝說是心常!一切有為法皆無常,如《法印經》中說:「行者觀世間空,無有常而不變壞」。是事何得不相違耶?

あなたは、「心は常に存在する」と説かれました。しかし、すべての因縁によって生じる現象(有為法)は無常です。例えば『法印経』にはこう説かれています。「修行者は世間を観察すると、それは空であり、常に変わらず壊れないものなど何一つない」。このことと、あなたの説はどうして矛盾しないのでしょうか。

答曰:

お答えしますと、

汝於是義不得正理,故作此難!是中不說心為常。此中雖口說常,常義名必定;初心生,必能常集諸善根,不休、不息,故名為常。

あなたはその意味を正しく理解していないので、そのような疑問を抱くのです。ここでは心が「常」であるとは説いていません。「常」という言葉を使っても、その意味は「確かなもの」という意味です。最初の心が生じれば、必ず絶え間なく善い根を積み続け、休まず止まらないことから、「常」と呼ぶのです。

生如來家者,如來家則是佛家。

如来の家に生まれるとは、如来の家すなわち仏の家のことです。

如來者,「如」名為實,「來」名為至;至真實中故,名為如來。

如来とは、「如」を「実(真実)」と名づけ、「来」を「至(到る)」と名づけます。真実の境地に到るからこそ、如来と名づけるのです。

何等為真實?所謂涅槃不虛誑故,是名如實。如《經》中說:「佛告比丘:第一聖諦無有虛誑,涅槃是也。」

「真実とは何か?それは涅槃である。虚偽や欺瞞がないからである。これを如実(あるがままの真実)という。経典にこう説かれている。『仏が比丘たちに告げられた。第一の聖なる真理には偽りがなく、それが涅槃である』」

復次「如」名不壞相,所謂諸法實相是。「來」名智慧到實相中。通達其義故,名為如來。

さらに、「如」とは壊れない性質のことを指し、それはすなわち諸法の真実の姿です。「来」とは、智慧がその真実の姿に達したことを意味します。その意味を完全に理解しているからこそ、如来と呼ばれるのです。

復次,空、無相、無作名為如;諸佛來至三解脫門,亦令眾生到此門故,名為如來。

さらに、空・無相・無作を「如(あるがまま)」と呼びます。諸仏はこの三つの解脱の門に到達し、また衆生をこの門に導くからこそ、「如来」と名づけられるのです。

復次,如名四諦;以一切種見四諦,故名為如來。

さらに、「四つの真理を完全に理解しているからこそ、如来と呼ばれるのです。」

復次,如名六波羅蜜,所謂布施、持戒、忍辱、精進、禪定、智慧;以是六法來至佛地故,名為如來。

次に、「六波羅蜜(ろくはらみつ)」という名の通り、布施(ふせ)、持戒(じかい)、忍辱(にんにく)、精進(しょうじん)、禅定(ぜんじょう)、智慧(ちえ)という六つの修行法があります。これらの六つの教えによって仏の境地に至るからこそ、「如来」と呼ばれるのです。

復次,諦、捨、滅、慧四功德處,名為如來;以是四法來至佛地故,名為如來。

さらに、真実、捨てること、滅すること、智慧という四つの功徳の境地が、如来と名づけられます。これらの四つの法によって仏の境地に至るからです。

復次,一切佛法名為如;是如來至諸佛故,名為如來。

さらに、すべての仏法を「如(真理のあり方)」と呼びます。この「如」によって如来は諸仏の境地に至るため、「如来」と名付けられています。

復次,一切菩薩地:喜、淨、明、炎、難勝、現前、深遠、不動、善慧、法雲名為如;諸菩薩以是十地,來至阿耨多羅三藐三菩提故,名為如來。又以如實八聖道分來故,名為如來。

また、菩薩のすべての境地とは、喜、浄、明、炎、難勝、現前、深遠、不動、善慧、法雲と呼ばれるものです。菩薩たちはこの十の境地によって、無上正等覚(阿耨多羅三藐三菩提)に至ることから、「如来」と呼ばれます。また、真実の八つの聖なる道の要素によって来られることからも、「如来」と呼ばれます。

復次,權、智二足來至佛故,名為如來。如去不還故,名為如來。

さらに、方便(権)と智慧(智)という二つの足がそろって仏に至るから、「如来」と呼ばれるのです。この世に去って戻ってこないから、「如来」と呼ばれるのです。

如來者,所謂十方三世諸佛是。

如来とは、いわゆるあらゆる方向と時代のすべての仏陀のことなのです。

是諸佛家名為如來家。

これら諸仏の家を、如来の家と呼びます。

今是菩薩行如來道,相續不斷故,名為生如來家。

この菩薩は如来の道を行じ、絶え間なく受け継いでいくので、如来の家に生まれたと名づけられるのです。

又是菩薩必成如來故,名為生如來家。

また、菩薩は必ず如来となるため、「如来の家に生まれた」と言われるのです。

譬如生轉輪聖王家,有轉輪聖王相,是人必作轉輪聖王;是菩薩亦如是,生如來家發是心故,必成如來,是名生如來家。

たとえば、転輪聖王(せんりんじょうおう)の家に生まれた者が、その王の相を備えていれば、必ず転輪聖王となるように、菩薩もまた、如来の家に生まれ、この心を起こすことによって、必ず如来となる。これを「如来の家に生まれる」という。

如來家者,有人言:是四功德處,所謂諦、捨、滅、慧;諸如來從此中生,故名為如來家。

如来の家とは、ある人々が言うには、それは四つの功徳のある場所である。すなわち、真理、施し、消滅、智慧である。すべての如来は、ここから生まれるので、如来の家と名付けられる。

有人言:般若波羅蜜及方便,是如來家。如《助道經》中說:

般波羅蜜と巧みな方便(方便)は、これこそ如来の家である。『助道経』に説かれる通りである。

智度無極母, 善權方便父,
生故名為父, 養育故名母。

智慧の完成(般若波羅蜜)を母とし、 巧みな手段(方便)を父とする。

生み出すから父と呼ばれ、 育てるから母と呼ばれるのだ。

一切世間以父母為家,是二似父母故,名之為家。

あらゆる世の人々は、父母をもって「家」とします。 この二人が父母に似ているからこそ、それを「家」と名づけるのです。

有人言:善、慧名諸佛家,從是二法出生諸佛,是二則是一切善法之根本。如《經》中說:「是二法俱行能成正法。」善是父,慧是母,是二和合,名為諸佛家。如說:

ある人が言いました。「善と慧は、諸仏の家という名がある。この二つの法から諸仏が生まれ出る。ゆえに、この二つはすべての善い法の根本である。お経にも『この二つの法が共に働くならば、正しい法を成就できる』と説かれている。善は父、慧は母であり、この二つが結び合わさって『諸仏の家』と呼ばれる。」

菩薩善法父, 智慧以為母;
一切諸如來, 皆從是二生。

菩薩にとっての善法は父のようなものであり、 智慧は母のようなものである。 すべての如来たちは、 まさにこの二つから生まれるのである。

有人言:般舟三昧及大悲,名諸佛家。從此二法生諸如來,此中般舟三昧為父,大悲為母。

ある人が言う、「般舟三昧(はんじゅざんまい)と大悲(だいひ)、これこそが諸仏の家である。この二つの法から如来たちは生まれる。その中で、般舟三昧を父とし、大悲を母とする。」

復次,般舟三昧是父,無生法忍是母。如《助菩提》中說:

さらに、般舟三昧(はんじゅざんまい)は父であり、無生法忍(むしょうほうにん)は母です。『菩提を助けるもの』の中で次のように説かれています。

般舟三昧父, 大悲無生母;
一切諸如來, 從是二法生。

般舟三昧(仏を目前に見る禅定)という父と、 大いなる慈しみという無生の母―― 全ての如来(ほとけ)は、 この二つの法から生まれるのです。

家無過咎者,家清淨故。

咎のない家は、清らかなのである。

清淨者,六波羅蜜、四功德處、方便、般若波羅蜜、善、慧、般舟三昧、大悲、諸忍,是諸法清淨無有過故,名家清淨。

清らかな者とは、六波羅蜜、四つの功徳の場、方便、般若波羅蜜、善、慧、般舟三昧、大悲、そして諸々の忍耐のことです。これらの法は清らかで、過ちがないことから、〈家の清らかさ〉と呼ばれます。

是菩薩以此諸法為家故,無有過咎,轉於過咎。

この菩薩は、こうした諸法をよりどころとするがゆえに、過ちがなく、また過ちを超えていくのです。

轉於世間道、入出世上道者,世間道名,即是凡夫所行道。轉名休息。

世の中の道から離れて、世を超えた道に入る――「世の中の道」とは、凡夫が歩む道のことです。「転ずる」とは、休息することを意味します。

凡夫道者,不能究竟至涅槃,常往來生死,是名凡夫道。

凡夫の道は、完全に涅槃に至ることができず、常に生死を繰り返すものです。これを凡夫の道と名づけます。

出世間者,因是道,得出三界,故名出世間道。

世を超えるとは、この道によって三界を出ることができるので、世を超える道と名付けられています。

上者,妙故名為上。

すぐれたものは、そのすぐれた様子から「上」と名づけられます。

入者,正行道故名為入。

「入る」とは、正しく道を歩むことを「入る」と言うのです。

以是心入初地名歡喜地。

その心をもって初地に入る、これを歓喜地と名づける。

問曰:

お尋ねします。

初地何故名為歡喜?

初地(最初の悟りの段階)は、なぜ「歓喜」という名前で呼ばれるのでしょうか?

答曰:

お答えしますと、

如得於初果, 究竟至涅槃;
菩薩得是地, 心常多歡喜。
自然得增長, 諸佛如來種,
是故如此人, 得名賢善者。

最初の果報を得た者は ついに涅槃に至る。 菩薩がこの境地を得れば 心は常に喜びに満ちる。

自然に成長し 諸仏・如来の種を育む。 ゆえにこのような人は 「賢く善い者」と称される。

如得初果者,如人得須陀洹道,善閉三惡道門;見法、入法、得法、住堅牢法,不可傾動,究竟至涅槃。

初果を得た者、例えば須陀洹道を得た人は、三悪道の門をしっかりと閉ざします。法を見、法に入り、法を得て、揺るぎない法に安住し、動かされることがなく、ついには涅槃に至ります。

斷見諦所斷法故,心大歡喜——設使睡眠嬾惰,不至二十九有。如以一毛為百分,以一分毛分取大海水,若二、三渧;苦已滅者,如大海水,餘未滅者,如二、三渧,心大歡喜。

見解の真理を断ち切る法であるため、心は大いに喜ぶ——たとえ眠りにつくとも怠けることなく、二十九の生存には至らない。例えるなら、一本の毛を百に分け、その一分の毛先で大海の水をすくうとき、たった二、三滴を得るのみ。すでに滅ぼした苦しみは大海の水のごとく、まだ滅ぼしていない残りの苦しみは二、三滴にすぎないと知れば、心は大いに喜ぶのである。

菩薩如是得初地已,名生如來家。一切天、龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦樓羅、緊那羅、摩睺羅伽,天王、梵王,沙門、婆羅門,一切聲聞、辟支佛等,所共供養恭敬。何以故?是家無有過咎故,轉世間道,入出世間道。但樂敬佛,得四功德處,得六波羅蜜果報滋味,不斷諸佛種故,心大歡喜。

菩薩がこのように初地を得ると、「如来の家に生まれた」と名づけられます。 これを、すべての天、竜、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽、天の王、梵天の王、沙門、婆羅門、そしてすべての声聞や縁覚などが、共に供養し敬うのです。 なぜなら、この家には過ちがないからです。世間の道を超え、世間を離れた道に入っています。 ただ仏を敬うことを喜び、四つの功徳のよりどころを得て、六波羅蜜の果報の味わいを得ます。 諸仏の種を絶やすことがないので、心は大いに歓喜するのです。

是菩薩所有餘苦,如二、三水渧。雖百千億劫得阿耨多羅三藐三菩提,於無始生死苦,如二、三水渧;所可滅苦,如大海水。是故此地名為歡喜。

この菩薩に残る苦しみは、わずか二、三滴の水のようなものです。百千億劫という長い時を経て悟りを得ても、まだ無始の昔からの生死の苦しみに比べれば、二、三滴に過ぎません。しかし、これまでに滅した苦しみは大海の水のように広大なのです。そのため、この境地を「歓喜地」と呼びます。

十住毘婆沙論卷第一

十住毘婆沙論 巻第一


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