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十住毘婆沙論 (十住毘婆沙論)


十住毘婆沙論卷第六

十住毘婆沙論 巻第六

聖者龍樹造

聖者龍樹造

後秦龜茲國三藏鳩摩羅什譯

後秦・亀茲国三蔵法師鳩摩羅什訳

分別功德品第十一

第十一 分別功徳の章

問曰:

お尋ねします。

懺悔、勸請、隨喜、迴向應云何作?於晝夜中幾時行?

問:懺悔、勧請、随喜、回向は、どのように行うべきでしょうか。昼夜の中で、いつ行うのですか。

答曰:

お答えしますと、

以右膝著地、 偏袒於右肩、
合掌恭敬心、 晝夜各三時。

右膝を地面につけ、右肩を露わにし、 合掌し、敬いの心をもって、昼夜それぞれ三度の時を過ごす。

以恭敬相故,右膝著地、偏袒右肩、合掌,是事應初夜一時禮一切佛。

敬意を表すために、右膝を地につけ、右肩をあらわにし、両手を合わせて合掌します。この行いは、初夜の最初の時間帯に、全ての仏に対して礼拝するときに行うべきものです。

懺悔、勸請、隨喜、迴向,中夜、後夜皆亦如是。於日初分、日中分、日後分亦如是。一日一夜合為六時,一心念諸佛,如現在前。

懺悔、勧請、随喜、回向を、中夜・後夜においても同じように行います。また、午前・正午・午後のそれぞれの時間帯においても同様に実践します。こうして一日一夜を六つの時間に分け、一心に諸仏を念じ、まるで今まさに目の前に現れているかのように心を集中させます。

問曰:

お尋ねします。

作是行已,得何果報?

このように修行したならば、どのような果報を得るのでしょうか。

答曰:

お答えしますと、

若於一時行, 福德有形者,
恒河沙世界, 乃自不容受。

たとえ一瞬の行いでも、福徳に形があるなら、 ガンジス河の砂の数ほどの世界をもってしても、 その福徳を受け入れることはできません。

若於一時中,行此事者所得福德,若有形者,恒河沙等無量無邊不可思議三千大千世界所不容受。

もし、ただ一度でもこの行いを実践するならば、その功徳には形がありません。たとえ形があったとしても、ガンジス川の砂の数ほども計り知れず、広大無辺で想像を超えた三千大千世界のすべてをもってしても、その功徳を収めきることはできないでしょう。

如《三支經》〈除罪業品〉中說:「佛告舍利弗:若善男子、善女人,以滿恒河沙等三千大千世界七寶布施諸佛;若復有人勸請諸佛轉法輪,此福為勝。」

『三支経』の「除罪業品」にこう説かれている。

「仏は舎利弗に告げられた。もし善き男子、善き女人が、ガンジス川の砂の数ほどの三千大千世界に満ちる七種の宝を諸仏に布施したとしても、また別の人が諸仏に法輪を転じるよう勧請するならば、この功徳のほうが勝れている。」

又佛於《般若波羅蜜》〈隨喜迴向品〉中說:「善哉!善哉!須菩提!汝能作佛事,與諸菩薩說迴向法。若菩薩作是念:『如諸佛知見是善根福德本末體相何因緣故有?我亦如是隨佛所知所見迴向。』是人得福多。

また、仏は『般若波羅蜜』の「随喜回向品」の中でこう説かれました。

「善いかな、善いかな。須菩提よ、汝はよく仏の務めを果たし、諸々の菩薩に回向の法を説いた。もし菩薩がこう思うなら——『諸仏の知見のままに、この善根と福徳の本源と体相は、いかなる因縁によって存在するのか。我もまた、そのように仏の知見に従って回向する』——この人は、大きな福徳を得るのである。」

「譬如恒河沙等三千大千世界中眾生皆成就十善道;菩薩迴向福德最上、最妙、最勝無比、無等、無等等。

たとえば、ガンジス川の砂ほどの数の三千大千世界にいるすべての生きとし生けるものが、みな十善道を成就したとしても、菩薩がその功徳を他者のために向け直す(回向する)ことによって生まれる福徳は、それらすべてよりも、最も優れ、最も素晴らしく、最も勝れており、比べるものなく、並ぶものなく、等しいものさえないのです。

「須菩提!置是恒河沙等三千大千世界眾生,成就十善道;若恒河沙等三千大千世界眾生皆得四禪,其福比此亦復最上、最妙、最勝。四無量心、四無色定、五神通、得須陀洹果、斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果、辟支佛道亦如是。如法迴向福德最上、最妙、最勝。

「須菩提、あのガンジス川の砂の数ほどの三千大千世界の生きとし生けるものが、すべて十善道を成就したとしても、その功徳よりも、さらに同じ数ほどの世界中の生きものが皆、第四禅(深い禅定の境地)を得たなら、その功徳のほうがはるかに優れ、最も勝れ、最も素晴らしいものとなります。

また、四無量心、四無色定、五神通、さらに須陀洹果、斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果、辟支仏道に至る場合も、まったく同じです。

しかし、これらの修行を、正しい理法にかなった形で他者や悟りへと回向するならば、その功徳こそが最も優れ、最も素晴らしく、最も勝れたものとなるのです。」

「須菩提!置此恒河沙等三千大千世界眾生皆作辟支佛;若有恒河沙等三千大千世界眾生,皆發阿耨多羅三藐三菩提心。復有恒河沙等三千大千世界眾生,其一菩薩以取相心,供養是諸眾生衣服、飲食、臥具、醫藥;於恒河沙等劫,以一切樂具供養、恭敬、尊重、讚歎,一一菩薩皆亦如是。須菩提!於意云何?是諸菩薩以此因緣,得福多不?

「須菩提、考えてみなさい。ガンジス川の砂ほどの数の三千大千世界の生きとし生けるものすべてが、それぞれ独覚(びゃくし)の悟りを得るとしよう。さらに、そのように多くの三千大千世界の生きとし生けるものが、皆、無上なる完全な悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を志す心を起こすとしよう。

そして、さらに同じほど多くの三千大千世界の生きとし生けるものたちがいて、その中の一人ひとりの菩薩が、執着の心を持ちながら、これらの生きとし生けるものすべてに衣服・食べ物・寝具・薬を施し、ガンジス川の砂ほどの長い長い年月の間、あらゆる快楽の品々をもって供養し、敬い、尊び、讃え続けたとする。菩薩の一人ひとりが、皆、そのように行うとしたら、どうだろうか。

須菩提、あなたはどう思うか。これらの菩薩たちは、そのような行いによって、多くの功徳を得ることができるだろうか?」

「甚多,世尊!如是福德算數譬喻所不能及。若是福德有形,恒河沙等世界所不能受。」

「たくさんあります、世尊よ。このような福徳は、計算や比喩で測ることのできるものではありません。もし、この福徳に形があるならば、ガンジス川の砂の数ほどの世界でも受け入れることはできないでしょう。」

佛告須菩提:「善哉!善哉!須菩提!是菩薩為般若波羅蜜守護,以善根隨法性迴向所得福德,先諸菩薩取相布施福德百分不及一,千分、萬分、百千萬億分,乃至算數譬喻所不能及。何以故?先諸菩薩取相分別布施,皆是有量有數。」

仏は須菩提に告げられた。「素晴らしい、素晴らしい。須菩提よ。その菩薩は般若波羅蜜によって守られ、善根を法性に従って回向することで得られる福徳は、かたちに執着して布施を行う他の菩薩たちの福徳の、百分の一にも、千分の一にも、万分の一にも、百千万億分の一にも及ばず、たとえ算術やたとえを用いても比べることすらできない。なぜなら、かたちに執着し分別して布施を行う菩薩たちの功徳は、すべて限りがあり、数えられるものだからである。」

又《般若波羅蜜》〈迴向品〉中說:佛告淨居天子:「置此恒河沙等三千大千世界眾生皆發阿耨多羅三藐三菩提心,餘恒河沙等三千大千世界眾生,一一菩薩以取相心供養是諸眾生衣服、飲食、臥具、醫藥資生之物,隨意供養於恒河沙等劫。

『般若波羅蜜多経』の「回向品」にはこう説かれています。仏は浄居の天子に告げた。

「ガンジス川の砂の数ほどの三千大千世界にいる生きとし生けるものすべてが、阿耨多羅三藐三菩提(完全なる悟り)を求める心を起こしたとしよう。そして、同じくガンジス川の砂の数ほどの三千大千世界の生きとし生けるものたちの一人ひとりが、執着する心をもってそうした人々に衣服、食べ物、寝具、薬などの生活に必要なものを、ガンジス川の砂の数ほどの長い間、好きなだけ施し続けたとしても――」

「諸天子!若是恒河沙等三千大千世界眾生發阿耨多羅三藐三菩提心,餘恒河沙等三千大千世界中眾生皆亦發阿耨多羅三藐三菩提心,其一菩薩供養是諸菩薩衣服、飲食、臥具、醫藥資生之物於恒河沙等劫,是布施取相分別。如是諸菩薩各於恒河沙等劫,供養是諸菩薩衣服、飲食、臥具、醫藥資生之物,隨意供養恭敬、尊重、讚歎,皆是取相布施。

「諸天の皆さま、仮にガンジス川の砂の数ほどの三千大千世界の衆生が、無上正等覚(阿耨多羅三藐三菩提)を発心したとしましょう。さらに、同じくガンジス川の砂の数ほどの三千大千世界の衆生も、皆同様に発心したとします。その一人一人の菩薩が、これらの菩薩たちに対して、衣服、飲食、寝具、医薬品など生活に必要な品々を、ガンジス川の砂の数ほどの長い劫(こう)の間、喜んで施し、敬い、称賛したとしても、それはすべて形やイメージに執着する(取相)布施です。このように、すべての菩薩がそれぞれ同じように長い劫の間、これらの菩薩たちに物資を施し、心から供養し、敬い、称えたとしても、それもまたすべて形やイメージに執着する布施にすぎません。」

「若菩薩為般若波羅蜜所護,過去、未來、現在諸佛戒品、定品、慧品、解脫品、解脫知見品及聲聞五品,及諸凡夫人於中種善根,已種、今種、當種,盡和合稱量,使無遺餘,最上、最妙、最勝、無等、無等等不可思議隨喜福德,迴向阿耨多羅三藐三菩提。作是念:『我是福德能至佛道』,是福德於先取相福德百分不及一,千分、萬分、億分,乃至算數譬喻所不能及。何以故?是諸菩薩取相分別布施故。

もし菩薩が般若波羅蜜に守られているならば、過去・未来・現在の諸仏の戒品・定品・慧品・解脱品・解脱知見品、および声聞の五品、さらにはすべての凡夫がその中に善根を植え、すでに植えたもの、今植えているもの、これから植えるもの、それらすべてを合わせて量り、余すところなく最も優れ、最も殊勝で、最も勝れたものとして、比類なく、言葉に表せないほどの随喜の功徳を、阿耨多羅三藐三菩提に回向する。そしてこう思う——『この功徳によって、私は仏道に至ることができる』と。しかし、この功徳は、先に執着の相を取った功徳の百分の一にも及ばず、千分、万分、億分、さらには算数や例えを用いても比べることすらできない。なぜなら、これらの菩薩は相に執着して布施を分別するからである。

「復有恒河沙等三千大千世界眾生,皆發阿耨多羅三藐三菩提心,身行善業、口行善業、意行善業。

また、ガンジス川の砂の数ほどもある三千大千世界の生きとし生けるものたちが、みな等しく無上正等覚(阿耨多羅三藐三菩提)の心を起こし、身・口・意の三業において善を行います。

「復有恒河沙等三千大千世界眾生,皆發阿耨多羅三藐三菩提心;若人於恒河沙等劫惡口罵詈皆能忍受。

さらに、ガンジス川の砂の数ほどの三千大千世界の衆生が、皆、無上正等覚(阿耨多羅三藐三菩提)の心を起こすような者でも、もしある人が、同じくガンジス川の砂の数ほどの長い劫の間、悪口や罵倒をされても、それに耐え忍ぶことができる。

「於恒河沙等劫身心精進,除諸懈怠;攝心禪定無諸亂想,而皆取相,不如菩薩如法性迴向其福為勝。」

ガンジス川の砂のように無数の劫の間、身心を尽くして努力し、怠りを除き、心を集中して禅定に入り、あらゆる雑念をなくしても、もし「相(かたち)」に執着しているならば、菩薩が法の本性(ありのままの姿)に従って功徳を振り向ける(回向する)ことに勝るものではありません。

是故如汝先說「作如是事得何等利」者,得如是大福德聚。是故若人欲得如是無量無邊不可思議福德聚者,應行是懺悔、勸請、隨喜、迴向,不惜身命、利養、名聞,於晝夜中常應勤行。

したがって、あなたが先に「このような行いをしてどのような利益を得るのか」と尋ねたことに対して、答えは「このように大きな福徳の集まりを得る」ということである。ゆえに、もし人が限りなく広大で不可思議な福徳の集まりを得たいと願うならば、この懺悔・勧請・随喜・回向を実践すべきである。その際、自らの身や命、利益や名声を惜しんではならず、昼夜を問わず絶え間なく励み行うべきである。

問曰:

お尋ねします。

汝但說勸請、隨喜、迴向中福德,何故不說懺悔中福德耶?

あなたはただ、勧請(かんじょう)・随喜(ずいき)・回向(えこう)の中の福徳についてだけ説き、なぜ懺悔(さんげ)の中の福徳については説かないのですか?

答曰:

お答えしますと、

於諸福德中,懺悔福德最大,除業障罪故,得善行菩薩道,行勸請、隨喜、迴向,與空、無相、無願和合無異。

あらゆる功徳(善い行いの結果)の中で、懺悔(反省と悔い改め)による功徳が最も大きい。それは、過ちの障り(業障)という罪を除くからである。 懺悔によって、菩薩の道を善く行うことができるようになり、そして、勧請(教えを請うこと)、随喜(他者の善行を喜ぶこと)、廻向(功徳を他者へ向けること)という実践を、空(すべては固定した実体がないこと)、無相(とらわれのないこと)、無願(執着のないこと)という智慧と調和させて、全く異なることなく行うことができるのである。

復次,懺悔如如意珠,隨願皆得。如佛說:

また、懺悔は如意宝珠のようなもので、願いのままにすべてが叶えられます。仏が説かれたように。

「若人欲於婆羅門大姓中生、剎利大姓中生、居士大家中生,應如是懺悔罪業,無所覆藏,後不更作。

もし人がバラモンやクシャトリヤ、あるいは長者の名家に生まれたいと望むなら、このように罪の業を悔い改め、隠し立てせず、再び犯さないようにすべきである。

「若有人欲生四天王天上、忉利天上、夜摩天上、兜率陀天上、化樂天上、他化自在天上,亦應如是懺悔罪業,無所覆藏後不更作。

もし人が四天王天・忉利天・夜摩天・兜率陀天・化楽天・他化自在天に生まれたいと願うならば、その人もまた同様に罪の業を悔い改め、隠し隠さず、その後は再び犯さないようにすべきです。

「若人欲生梵世,乃至非想非非想處,是人亦應如是懺悔罪業,無所覆藏後不更作。

もし人が梵天の世界に生まれたいと願い、あるいは非想非非想処に至るまでを望むならば、その人もまた、このように罪の業を懺悔し、何も隠し隠さず、その後は再び犯さないようにすべきです。

「若人欲得須陀洹果、斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果,亦應如是懺悔罪業。

もし人が預流果、一来果、不還果、阿羅漢果を得ようと望むなら、同じようにして罪の業を懺悔すべきである。

「若人欲得三明六神通,聲聞道中自在力,盡聲聞功德彼岸,亦應如是懺悔罪業。

もし人が三明・六神通を得たいと願い、声聞の道における自在の力を求め、声聞の功徳の彼岸に達したいと思うならば、同じように罪業を懺悔すべきである。

「若人欲得辟支佛道,亦應如是懺悔罪業。

もし人が辟支仏の道を得ようと望むなら、同じように罪の業を懺悔すべきである。

「若人欲得一切智慧、不可思議智慧、無礙智慧、無上智慧,亦應如是懺悔罪業,無所覆藏,後不更作。」

もし人が一切の智慧、不可思議な智慧、さまたげのない智慧、この上ない智慧を得たいと願うなら、同じように罪を懺悔し、隠しだてせず、その後は再び犯さないようにすべきである。

是故當知懺悔有大果報。

したがって、知るべきです。懺悔には大きな果報があると。

問曰:

お尋ねします。

汝言「懺悔除業障罪」。

あなたは「懺悔によって業の障りである罪が除かれる」と言います。

餘經中說:「佛告阿難,故作業必當受報」

様々な経典の中で、仏陀は阿難にこう告げています。「自ら行った行いは、必ずその報いを受けることになる」と。

又《阿毘曇》中說:「諸業因緣不空,果報不失不滅。」

また『アビダルマ』(阿毘曇)にはこう説かれています。 「すべての業の因縁は空ではなく、その果報は失われず、滅することもない。」

又經說:「眾生皆屬業,皆從業有,依止於業。眾生隨業各自受報,若現報、若生報、若後報。」

また、経典にはこう説かれています。

「すべての生きとし生けるものは、行い(業)に属し、行いから生まれ、行いに依って生きている。生きとし生けるものは、その行いに従って、それぞれに相応しい報いを受ける。それは、現世での報い、来世での報い、あるいは遠い未来の世での報いも含めてである。」

又《業報經》中閻羅王為眾生說言:「咄!眾生!汝此罪非父母作、天作、沙門、婆羅門作,汝自作自應受報。」

また『業報経』の中で、閻羅王(えんらおう)が人々にこう告げています。「ああ、人々よ。あなた方のこの罪は、父母が作ったものではなく、天や修行者(沙門)や司祭(婆羅門)が作ったものでもない。あなた自身が自ら行い、自らその報いを受けているのだ。」

又賢聖偈中說:

また、賢聖の偈(うた)の中にこう説かれています。

「實法如金剛, 業力將無勝,
今我已得道, 而受惡業報。」

実なる法は金剛の如く、 業の力はこれに勝るものなし。 今や我、すでに道を得たれど、 なお悪業の報いを受ける。

又佛自說:

また、仏御自身がおっしゃったことによりますと、

「大海諸名山, 丘陵樹林木,
地水火風等, 日月諸星宿;
若至劫燒時, 皆盡無有餘;
業於無量劫, 常在而不失。
汝遇具相者, 一切智人師,
先所造罪業, 已償其果報。
今雖得值佛, 垢盡證聖果,
以餘因緣故, 木刺猶在身。」

大海にあるすべての山々、 丘、森、木々、 地・水・火・風など、 太陽、月、そして星々も、 世界が焼き尽くされる時が来れば、 すべては消え去り、何も残りません。 しかし、あなたの行いは、限りない時間を超えても、 決して失われることなく、そのまま残るのです。

あなたは今、全てを備えた方、 すべてを知る最高の師に出会いました。 かつてあなたが犯した罪の報いは、 すでに受け終えています。 今、仏に出会えたことで、 煩悩は尽き、聖なる悟りを得ました。 しかし、過去のわずかな因縁が残るため、 その身に木の刺さったような痛みがあるのです。

是故不應言懺悔除業罪。

したがって、「懺悔によって業の罪が除かれる」と言ってはならない。

答曰:

お答えしますと、

我不言「懺悔則罪業滅盡,無有報果」,我言「懺悔,罪則輕薄,於少時受」,是故懺悔偈中說:「若應墮三惡道,願人身中受。」

私は「懺悔すれば罪が完全に消え去り、報いの結果はない」とは言いません。私は「懺悔すれば罪は軽くなり、短い期間で受ける」と言います。だからこそ、懺悔の詩にはこうあります。「もし三悪道に堕ちるべきであるなら、どうか人間の身で受けることを願います。」

又《如來智印經》中說:「佛告彌勒:諸菩薩深心愛樂阿耨多羅三藐三菩提者,有罪應在惡道受報,是罪輕微;後世受惡形、或多疾病、無有威德,生下賤家、貧窮家、邪見家、邪業自活家、生違意處、多憂愁處、國土破壞、聚落破壞、居家破壞、所愛破壞,不遇善知識、常不聞法、不得利養,若得麁弊常不自供,能令下賤之所信敬、於諸大人不得信敬,修集諸福時,多有障礙不得成就、諸根闇鈍習禪意亂,不得無漏覺意功德,不知經法,隨宜所趣乃至惡夢償惡道報。」

また『如来智印経』にはこう説かれている。「仏が弥勒に告げられた。菩薩たちが深く心から阿耨多羅三藐三菩提を愛好する者には、悪道で報いを受けるべき罪があっても、その罪は軽微となる。しかし、後に悪い姿を受けたり、多くの病気にかかり、威徳なく、下賤の家・貧しい家・邪見の家・邪業で生きる家に生まれたり、意に沿わない場所・憂いの多い場所に生まれたり、国が破壊され、集落が破壊され、家庭が破壊され、愛するものが破壊され、善知識に出会えず、常に法を聞けず、利養を得られず、たとえ粗末なものを得ても自らを養えず、下賤の者にだけ信敬され、大人たちには信敬されず、福を修め集める時に多くの障りがあって成就できず、諸根は鈍く、禅定を修しても心は乱れ、無漏の覚意の功徳を得られず、経法を知らず、思いのままに赴き、悪夢によって悪道の報いを受ける」と。

又佛說:「人有小罪,今世可受報,是罪轉多,便墮地獄。

また仏がおっしゃいました。「人が小さな罪を犯しても、その報いを現世で受けることができれば、その罪は増して地獄に落ちることもある。」

「云何是人今世小罪轉多而墮地獄?有人不修身、不修戒、不修心、不修慧、無有大意,是人小罪便墮地獄。

ある人がなぜ、この世で小さな罪を積んでいるのに、それが増えて地獄に落ちるのでしょうか。それは、その人が、自分の身を修めず、戒めを守らず、心を磨かず、智慧を磨かず、大きな志を持っていないからです。そのため、小さな罪でも地獄に落ちることになります。

「云何是人有罪今世應受報,罪不增長,不入地獄?有人修身、修戒、修心、修慧,有大志意,心不拘閡。如是人有罪,不復增長,今世現受。譬如人以小器盛水,著一升鹽則不可飲。若復有人,以一升鹽投於大池,尚不覺鹽味,何況叵飲。何以故?水多鹽少故,罪亦如是。」

「どういう人が、罪を犯しても現世でその報いを受け、罪がさらに増えず、地獄に堕ちないのでしょうか。それは、身体を修行し、戒律を修め、心を修め、智慧を修め、大いなる志を持ち、心に妨げや固執のない人です。そのような人の罪は増えず、現世でその報いを受けます。たとえば、小さな容器に水を入れ、そこに一升の塩を投じると飲めなくなります。しかし、別の人が一升の塩を大きな池に投じても、塩の味すら感じられないでしょう。ましてや飲めないなどということはありません。なぜなら、水が多く塩が少ないからです。罪もまた同じです。」

偈說:

訃(ふ)に申し上げますと、

升鹽投大海, 其味無有異,
若投小器水, 鹹苦不可飲。
如人大積福, 而有少罪惡,
不墮於惡道, 餘緣而輕受。
又人薄福德, 而有少罪惡,
心志狹小故, 罪令墮惡道。
若人火勢弱, 食少難消食,
此人雖不死, 其身受大苦。
若人身勢強, 食少難消食,
此人終不死, 但受輕微苦。
善福慧火弱, 而有少惡罪,
是罪無救者, 能令墮地獄。
有大福德者, 雖有罪惡事,
不令墮地獄, 現身而輕受。
譬如鴦崛魔, 多殺於人眾,
又欲害母佛, 得阿羅漢道。

塩を海に入れれば、その味に変わりはないが、 小さな器の水に入れれば、塩辛くて飲めない。 人が大きな福徳を積んでいれば、わずかな罪悪があっても、 悪道に落ちることはなく、別の縁によって軽く受ける。 また、人は福徳が薄く、わずかな罪悪があっても、 心が狭いがゆえに、その罪によって悪道に落ちる。 もし人の火の勢いが弱く、消化しにくいものを少し食べたならば、 その人は死にはしないが、身体は大きな苦しみを受ける。 もし人の体の勢いが強く、消化しにくいものを少し食べたならば、 その人は決して死なず、ただ軽い苦しみを受けるばかり。 善の福慧という火が弱く、わずかな罪悪があれば、 その罪は救う者がなく、地獄に落ちる原因となる。 大きな福徳を持つ者は、たとえ罪悪の行いがあっても、 地獄に落ちることはなく、現世で軽く受ける。 例えば鴦崛魔は、多くの人々を殺したが、 その上母と仏を害そうとしたにもかかわらず、阿羅漢の道を得た。

今世輕受,又如阿闍世害得道父王,以佛及文殊師利因緣故重罪輕受。

現世において軽く受けるとは、例えばアジャータシャトル王が悟りを得た父王を害したが、仏陀と文殊師利の因縁によって重罪を軽く受けたようなものである。

又如人毒蛇生時雨血,後漸長大,意欲殺人眼看即死,若以氣噓亦死,是故時人號為氣噓。是人命終時,舍利弗往至其所;心中瞋恚,眼看不死,噓亦不死。舍利弗身色方更光顯,心即清淨上下七觀。以是因緣,命終之後七反生天上,七反生人中,於後人壽四萬歲時當得辟支佛道,身黃金色,時人謂是金聚來欲斫取,即命終涅槃。

例えて言うなら、人が毒蛇を捕まえた時、生まれたばかりの蛇は血の雨を降らせ、徐々に成長すると、人を殺そうとして目で睨めば即死させ、息を吹きかければそれでも死に至らせた。それゆえ当時の人々はこれを「気を吹く蛇」と呼んだ。

ある人が命終わらんとする時、舎利弗がその者のもとを訪れた。するとその者は心に怒りを抱き、目で睨んでも死なず、息を吹きかけても死ななかった。かえって舎利弗の身体の色は一層輝きを増したので、その者の心は清らかになり、上下七度の観想を行った。

この因縁によって、命終わった後、七度天上に生まれ、七度人間に生まれ変わった。その後、人間の寿命が四万歳の時に、辟支仏の道を成就し、身体は黄金色となった。当時の人々はこれを金の塊だと思い、切り取ろうとしたが、その時すでに命終わり涅槃に入っていた。

又如阿輸伽王以兵伏閻浮提,殺萬八千宮人。先世施佛土故,起八萬塔,常於大阿羅漢所聽受經法,後得須陀洹道,即人身輕償。

また、阿育王のように武力で閻浮提を平定し、一万八千の宮女を殺した者もいる。しかし、前世において仏に土を施した功徳によって、八万の塔を建立し、常に大阿羅漢のもとで経典の教えを聞き受け、後に須陀洹(初果)の悟りを得た。そのため、人間の身でありながら軽く業を償うことができたのである。

如是等罪,多行福德,志意曠大,集諸功德故,不墮惡道。

このような罪があっても、多くの善い行いを積み、志が広く大きいならば、様々な功徳を集めるゆえに、悪い道に落ちることはありません。

是故汝先難「若懺悔,罪業則滅盡,無有果報」者,是語不然。

したがって、あなたが先に「もし懺悔すれば、罪は滅し尽くされて、果報は全くない」と難じたのは、その言葉は正しくありません。

復次,若言「罪不可滅」者,《毘尼》中,佛說「懺悔除罪」則不可信。是事不然,是故業障罪應懺悔。

さらに、「罪は消すことができない」と言うならば、律(毘尼)の中で仏が「懺悔によって罪は除かれる」と説かれたことが信じられなくなります。しかし、これは正しくありません。ですから、業障の罪は懺悔すべきなのです。


10 除業品
12 分別布施品

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