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無量寿経優婆提舎願生偈註 (無量壽經優婆提舍願生偈注)

「無量壽經優婆提舍願生偈註」について

北魏 · 曇鸞註解 著

2.5 万字 · 約 84 分

『無量寿経優婆提舎願生偈註』は、北魏の高僧・曇鸞による、世親菩薩の『無量寿経優婆提舎願生偈』に対する権威ある注釈書です。本書は、南北朝時代に浄土思想が興隆した時期に著され、曇鸞は龍樹の中観学説と浄土教義を融合させ、五念門の修行の要点を体系的に解説しました。その核心は、阿弥陀仏の極楽浄土への願いと生まれること(願生)の理論と実践方法を明らかにすることにあります。この注釈は、易行道としての念仏による往生の理論的基礎を確立し、浄土宗が中国仏教の重要な宗派となることを推進しました。中国浄土教の模範的な著作として尊ばれ、日本を含む仏教の発展に深遠な影響を与えています。


無量壽經優婆提舍願生偈婆藪槃頭菩薩造(并)註卷上

無量寿経優婆提舎願生偈 婆藪槃頭菩薩造〈注〉巻上

沙門曇鸞註解

沙門曇鸞註

謹案:龍樹菩薩《十住毘婆沙》云「菩薩求阿毘跋致有二種道:一者難行道、二者易行道。」難行道者,謂於五濁之世、於無佛時,求阿毘跋致為難。此難乃有多途,粗言五三以示義意。一者外道相(修漿反)善,亂菩薩法。二者聲聞自利,障大慈悲。三者無顧惡人,破他勝德。四者顛倒善果,能壞梵行。五者唯是自力,無他力持。如斯等事觸目皆是,譬如陸路步行則苦。易行道者,謂但以信佛因緣願生淨土,乘佛願力便得往生彼清淨土。佛力住持,即入大乘正定之聚,正定即是阿毘跋致,譬如水路乘船則樂。

謹んで案じるに、龍樹菩薩の『十住毘婆沙』にこう説かれています。「菩薩が阿毘跋致(不退転)を求めるには、二つの道がある。一つは難行道、もう一つは易行道である。」

難行道とは、五濁の悪世において、仏のいない時代に、阿毘跋致を求めることが難しいことをいいます。この難しさには多くの種類がありますが、大まかに五つ三つほど挙げて、その意味を示しましょう。

一つ目は、外道が善を装って、菩薩の教えを乱すこと。 二つ目は、声聞が自己の利益のみを求め、大いなる慈悲を妨げること。 三つ目は、顧みることのない悪人が、他者のすぐれた徳を打ち壊すこと。 四つ目は、善い果報をねじまげて、清らかな修行を壊すこと。 五つ目は、ただ自分の力のみに頼り、他力の支えがないこと。

こうした事柄は、目にするものすべてに満ちあふれています。ちょうど陸路を歩いて進むのが苦しいようなものです。

易行道とは、ただ仏を信じる因縁によって浄土に生まれたいと願い、仏の願いの力に乗って、その清らかな国土に生まれることができることをいいます。仏の力が支え守ってくださるので、ただちに大乗の正しい定めの仲間に入ることができます。正しい定めとは、すなわち阿毘跋致のことです。ちょうど水路を船に乗って進むのが楽しいようなものです。

此《無量壽經優婆提舍》,蓋上衍之極致、不退之風航者也。無量壽是安樂淨土如來別號。釋迦牟尼佛在王舍城及舍衛國,於大眾之中說無量壽佛莊嚴功德,即以佛名號為經體。後聖者婆藪槃頭菩薩服膺(一升反)如來大悲之教,傍經作願生偈,復造長行重釋。
梵言優婆提舍,此間無正名相譯。若舉一隅,可名為論。所以無正名譯者,以此間本無佛故。如此間書就孔子而稱經,餘人製作皆名為子,國史國紀之徒各別體例。然佛所說十二部經中有論議經名優婆提舍,若復佛諸弟子解佛經教與佛義相應者,佛亦許名優婆提舍,以入佛法相故。此間云論,直是論議而已,豈得正譯彼名耶?又如女人,於子稱母、於兄云妹,如是等事皆隨義各別。若但以女名汎談母妹,乃不失女之大體,豈含尊卑之義乎?此所云論亦復如是,是以仍(因而音)存梵音曰優婆提舍。

梵語では「優婆提舎(うばだいしゃ)」と言いますが、この国にはぴったり対応する訳語がありません。一つの例を挙げれば、「論」と名づけることができます。正しい訳語がないのは、この国にはもともと仏がおられなかったからです。たとえばこの国では、孔子の書物だけを「経」と呼び、その他の人が作ったものはみな「子」と呼び、国の歴史や紀録の類もそれぞれ独自の体裁を持っています。しかし、仏が説かれた十二部経の中には「論議経」というものがあり、「優婆提舎」と名づけられています。また、仏の弟子たちが仏の経教を解釈し、仏の教えと一致するものであれば、仏もまたそれを「優婆提舎」と名づけることを許されました。仏法の姿にかなっているからです。この国で「論」と言うのは、ただの論議にすぎず、どうしてその名を正しく訳すことができましょうか。また、女の場合、子に対しては母と呼び、兄に対しては妹と言うように、このようなことはみな、それぞれの関係に応じて区別されます。もし単に「女」という名で母や妹を一般的に語るならば、女としての大筋は失いませんが、尊卑の意味を含むでしょうか。ここで言う「論」もまた同じです。それゆえ、そのまま(音をそのままに)梵語の音を残して「優婆提舎」と言うのです。

此論始終凡有二重:一是總說分、二是解義分。總說分者,前五言偈盡是。解義分者,「論曰」已下長行盡是。所以為二重者,有二義:偈以誦經,為總攝故;論以釋偈,為解義故。無量壽者,言無量壽如來壽命長遠不可思量也。經者,常也,言安樂國土佛及菩薩清淨莊嚴功德。國土清淨莊嚴功德,能與眾生作大饒益,可常行于世,故名曰經。優婆提舍是佛論議經名。願是欲樂義。生者,天親菩薩願生彼安樂淨土。如來淨華中生,故曰願生。偈是句數義,以五言句略誦佛經,故名為偈。譯婆藪云天,譯槃頭言親。此人字天親,事在《付法藏經》。菩薩者,若具存梵音,應言菩提薩埵。菩提者,是佛道名。薩埵,或云眾生或云勇健。求佛道眾生有勇猛健志,故名菩提薩埵。今但言菩薩,譯者略耳。造,亦作也。庶因人重法,故云某造。是故言無量壽經優婆提舍願生偈,婆藪槃頭菩薩造。解論名目竟。

この論全体は、大きく二つの部分に分かれています。一つは「総説分」、もう一つは「解義分」です。「総説分」とは、はじめの五言偈がすべてこれに当たります。「解義分」とは、「論曰」以降の長行がすべてこれに当たります。二つに分けたのには、二つの理由があります。偈は経文を詠唱するもので、全体を総括しているからです。論は偈を解釈するもので、その意味を解き明かしているからです。

「無量寿」とは、無量寿如来の寿命が長遠で、はかることのできないほどであることを言います。「経」とは、恒常という意味で、安楽国土の仏と菩薩の清浄荘厳の功徳を説いています。国土の清浄荘厳の功徳は、衆生に大きな利益をもたらすことができ、常に世の中に伝えられるべきものであるため、「経」と名付けられています。「優婆提舍」とは、仏の論議経の名称です。「願」とは、欲楽の意味です。「生」とは、天親菩薩があの安楽浄土に生まれんと願い、如来の清浄なる蓮華の中に生まれることを願うという意味で、「願生」と言います。「偈」とは、句数の意味で、五言の句をもって簡潔に仏経を詠唱するため、「偈」と名付けられています。

「婆藪」は「天」と訳し、「槃頭」は「親」と訳します。この人は「天親」と名付けられており、その事績は『付法蔵経』に記されています。「菩薩」とは、梵音を完全に保つならば「菩提薩埵」と言うべきです。「菩提」とは、仏道の名称です。「薩埵」は、あるいは「衆生」といい、あるいは「勇健」といいます。仏道を求める衆生は勇猛で健やかな志を持つため、「菩提薩埵」と名付けられています。今ただ「菩薩」と言うのは、訳者が簡略にしたものです。「造」とは、作るという意味でもあります。人をして法を重んぜしめんがために、「某が造る」と言うのです。

ゆえに「無量寿経優婆提舎願生偈、婆藪槃頭菩薩造」と言います。論の名称と目録の解釈はここで終わります。

偈中分為五念門,如下長行所釋。第一行四句相含有三念門:上三句是禮拜讚歎門、下一句是作願門。第二行論主自述我依佛經造論,與佛教相應,所服有宗。何故云此?為成優婆提舍名故。亦是成上三門起下二門,所以次之說。從第三行盡二十四行是觀察門。末後一行是迴向門。分偈章門竟。

この偈(げ)の中には五つの念門(ねんもん)が含まれている。以下に長行(ちょうぎょう)で詳しく解釈する。第一の行の四句には三つの念門が含まれている:上の三句は礼拝・讃嘆の門であり、下の一句は作願の門である。第二の行では、論主が自ら「私は仏の経典に基づいてこの論を造った。仏の教えに相応しく、依拠する根拠がある」と述べている。なぜこのように言うのか。それは優婆提舎(うばだいしゃ)という名を成し遂げるためである。また、これは上の三つの門を成就し、下の二つの門を起こすためであり、そのために次に説かれるのである。第三の行から第二十四行までは観察の門である。最後の一行は廻向(えこう)の門である。これにて偈の章門(しょうもん)の区別を終える。

世尊我一心,歸命盡十方,無礙光如來,願生安樂國。

世尊よ、私は一心に、十方に尽きることのない光を放つ如来に帰依し、安楽の国に生まれたいと願います。

世尊者,諸佛通號,論智則義無不達、語斷則習氣無餘,智斷具足能利世間,為世尊重,故曰世尊。此言意歸釋迦如來。何以得知?下句言「我依脩多羅」。天親菩薩在釋迦如來像法之中,順釋迦如來經教,所以願生。願生有宗,故知此言歸于釋迦。若謂此意遍告諸佛,亦復無嫌。夫菩薩歸佛,如孝子之歸父母、忠臣之歸君后,動靜非己、出沒必由,知恩報德理宜先啟。又所願不輕,若如來不加威神,將何以達?乞加神力,所以仰告。我一心者,天親菩薩自督之詞,言念無礙光如來願生安樂,心心相續無他想間雜。問曰:佛法中無我,此中何以稱我?答曰:言我有三根本,一是邪見語、二是自大語、三是流布語。今言我者,天親菩薩自指之言,用流布語,非邪見、自大也。歸命盡十方無礙光如來者,歸命即是禮拜門。盡十方無礙光如來即是讚歎門。何以知歸命是禮拜?龍樹菩薩造《阿彌陀如來讚》中,或言稽首禮、或言我歸命、或言歸命禮。此論長行中亦言修五念門,五念門中禮拜是一。天親菩薩既願往生,豈容不禮?故知歸命即是禮拜。然禮拜但是恭敬,不必歸命;歸命必是禮拜。若以此推,歸命為重。偈申己心,宜言歸命;論解偈義,汎談禮拜。彼此相成,於義彌顯。何以知盡十方無礙光如來是讚歎門?下長行中言「云何讚歎門?謂稱彼如來名,如彼如來光明智相、如彼名義,欲如實修行相應故。」依舍衛國所說《無量壽經》,佛解阿彌陀如來名號「何故號阿彌陀?彼佛光明無量,照十方國無所障礙,是故號阿彌陀。又彼佛壽命及其人民,無量無邊阿僧祇劫,故名阿彌陀。」問曰:若言無礙光如來光明無量照十方國土無所障礙者,此間眾生何以不蒙光照?光有所不照,豈非有礙耶?答曰:礙屬眾生,非光礙也。譬如日光周四天下,而盲者不見,非日光不周也。亦如密雲洪霔(灌之句反)而頑石不潤,非雨不洽(霑下恰反)也。若言一佛主領三千大千世界,是聲聞論中說;若言諸佛遍領十方無量無邊世界,是大乘論中說。天親菩薩今言盡十方無礙光如來,即是依彼如來名,如彼如來光明智相讚歎,故知此句是讚歎門。願生安樂國者,此一句是作願門,天親菩薩歸命之意也。其安樂義具在下觀察門中。問曰:大乘經論中處處說眾生畢竟無生如虛空,云何天親菩薩言願生耶?答曰:說眾生無生如虛空,有二種:一者如凡夫所謂實眾生、如凡夫所見實生死,此所見事畢竟無所有,如龜毛、如虛空。二者謂諸法因緣生故即是不生,無所有如虛空。天親菩薩所願生者是因緣義,因緣義故假名生,非如凡夫謂有實眾生、實生死也。問曰:依何義說往生?答曰:於此間假名人中修五念門,前念與後念作因。穢土假名人、淨土假名人,不得決定一、不得決定異,前心後心亦復如是。何以故?若一則無因果,若異則非相續。是義觀一異門,論中委曲。釋第一行三念門竟。次成優婆提舍名,又成上起下偈。

世尊とは、諸仏に共通する称号である。智慧について論じれば、その義は達せざるところなく、煩悩の断尽について語れば、習気も残るところがない。智慧と断尽を共に具え、世間を利益することができるがゆえに、世間から尊重され、世尊と名づけられるのである。この言葉の意図するところは、釈迦如来に帰するものである。どうしてそれがわかるのか。次の句に「我は脩多羅に依る」と言うからである。天親菩薩は釈迦如来の像法の時代において、釈迦如来の経教に従い、それゆえに往生を願ったのである。往生を願うことに根本があるから、この言葉が釈迦に帰するとわかるのである。もしこの意が諸仏に広く告げるものであるとしても、それもまた差し支えはない。およそ菩薩が仏に帰するのは、孝子が父母に帰するようなものであり、忠臣が君主に帰するようなものである。動作や休息も自己に由らず、現れ出で没することも必ず理由によるものである。恩を知り徳に報いることは、道理としてまず申し述べるべきである。また願うところは軽んじるべきものではない。もし如来が威神を加えなければ、どうして到達できようか。神力の加護を乞うので、仰いで告げるのである。「我一心」とは、天親菩薩が自らを督励する言葉であり、無礙光如来を念じ安楽国への往生を願い、心と心が相続して他の想いが雑ざることがないことを言うのである。

問うていわく、仏法の中には「我」は無いとあるのに、どうしてここで「我」と言うのか。答えていわく、「我」と言うことには三つの根本がある。一つは邪見の語、二つは自大の語、三つは流布の語である。今ここで「我」と言うのは、天親菩薩が自らを指す言葉であり、流布の語を用いたものであって、邪見や自大ではないのである。

「帰命尽十方無礙光如来」とは、帰命すなわち礼拝門である。尽十方無礙光如来とは、すなわち讃嘆門である。どうして帰命が礼拝であると知るのか。竜樹菩薩が造った『阿弥陀如来讃』の中に、「稽首礼」と言ったり、「我帰命」と言ったり、「帰命礼」と言ったりしている。この論の長行の中にも五念門を修すると言い、五念門の中では礼拝がその一つである。天親菩薩はすでに往生を願っているのだから、どうして礼拝しないことがあろうか。それゆえに、帰命すなわち礼拝であると知るのである。しかしながら、礼拝はただ恭敬するだけであり、必ずしも帰命ではない。帰命は必ず礼拝である。もしこれで推し量るならば、帰命のほうが重いのである。偈は自己の心を申し述べるものであるから、帰命と言うのがふさわしく、論は偈の義を解釈するものであるから、広く礼拝を論じるのである。互いに補い合い、義はいよいよ明らかになるのである。

どうして尽十方無礙光如来が讃嘆門であると知るのか。後の長行の中に「云何が讃嘆門と為す。謂く彼の如来の名を称し、彼の如来の光明智相の如く、彼の名義の如く、如実に修行して相応せんと欲するが故なり」とあるからである。舎衛国で説かれた『無量寿経』によれば、仏は阿弥陀如来の名号を解いて「何が故に阿弥陀と号するか。彼の仏の光明は無量であり、十方の国を照らして妨げるところがない。この故に阿弥陀と号する。また彼の仏の寿命およびその人民は、無量無辺の阿僧祇劫である。この故に阿弥陀と名づける」と説いている。

問うていわく、もし無礙光如来の光明は無量であり十方の国土を照らして妨げるところがないと言うならば、この間の衆生はどうして光の照らすところを受けないのか。光に照らされないところがあるならば、それは妨げがあるのではないか。答えていわく、妨げは衆生に属するのであり、光の妨げではない。たとえば日光が四天下をめぐるが、盲人はそれを見ることができない。日光がめぐらないのではないのである。また密雲が大雨を降らせるが、頑な石は潤わない。雨が行き渡らないのではないのである。もし一仏が三千大千世界を統べると言うならば、それは声聞論の中で説かれていることである。もし諸仏が十方の無量無辺の世界に遍く統べると言うならば、それは大乗論の中で説かれていることである。天親菩薩が今「尽十方無礙光如来」と言うのは、すなわち彼の如来の名に依り、彼の如来の光明智相の如く讃嘆するものである。それゆえに、この句は讃嘆門であると知るのである。

「願生安楽国」とは、この一句は作願門であり、天親菩薩が帰命する意図である。その安楽の義の詳細は下の観察門の中にある。

問うていわく、大乗の経論の中には、いたるところで「衆生は畢竟、生ずることなく、虚空のようである」と説いている。どうして天親菩薩は「願生」と言うのか。答えていわく、衆生の生なきこと虚空の如しという説には二種ある。一つは、凡夫がいわゆる実の衆生と考え、凡夫の見るところの実の生死というものは、この見るところの事は畢竟まったく存在しないのであり、亀の毛や虚空のようなものである。二つは、諸法は因縁によって生ずるがゆえにすなわち不生であり、無所有であって虚空のようであるということである。天親菩薩の願うところの生は因縁の義であり、因縁の義であるから仮に名づけて生というのであって、凡夫が実の衆生や実の生死があると言うようなものではないのである。

問うていわく、どんな義によって往生を説くのか。答えていわく、この間の仮の人の中において五念門を修し、前の念と後の念とが因を作るのである。穢土の仮の人と浄土の仮の人とは、決定して一つであるとすることもできず、決定して異なるとすることもできない。前の心と後の心もまた同じである。なぜならば、もし一つであるならば因果がなくなり、もし異なるならば相続しないからである。この義は一と異の門によって観察するのであり、論の中で詳しく述べられている。

第一の行の三念門の解釈を終える。次に優婆提舍の名を成し、また上を成し下を起こす偈と為す。

我依修多羅,真實功德相,說願偈總持,與佛教相應。

私は経典に基づいて、真実の功徳の姿を説き、願いと偈文の総持を示します。これは仏の教えにかなうものです。

此一行云何成優婆提舍名?云何成上三門起下二門?偈言「我依修多羅,與佛教相應。」修多羅是佛經名,我論佛經義與經相應,以入佛法相故,得名優婆提舍。名成竟。成上三門起下二門,何所依?何故依?云何依?何所依者,依修多羅。何故依者,以如來即真實功德相故。云何依者,修五念門相應故。成上起下竟。修多羅者,十二部經中直說者名修多羅,謂四阿含、三藏等,三藏外大乘諸經亦名修多羅。此中言依修多羅者,是三藏外大乘修多羅,非《阿含》等經也。真實功德相者,有二種功德:一者從有漏心生,不順法性,所謂凡夫人天諸善。人天果報,若因若果,皆是顛倒、皆是虛偽,是故名不實功德。二者從菩薩智慧清淨業起莊嚴佛事,依法性入清淨相,是法不顛倒、不虛偽,名為真實功德。云何不顛倒?依法性順二諦故。云何不虛偽?攝眾生入畢竟淨故。說願偈總持與佛教相應者,持名不散不失,總名以少攝多。偈言五言句數,願名欲樂往生,說謂說諸偈論,總而言之說所願生偈,總持佛經與佛教相應。相應者,譬如函蓋相稱也。

この一つの行(偈)が、どうして「優婆提舍(論)」という名にふさわしいのでしょうか。また、どうして上に挙げた三つの問いから、下の二つの問いが導き出されるのでしょうか。偈に「我は修多羅(経)に依り、仏の教えと相応ずる」とあります。修多羅とは仏典の名です。私は仏典の意味を論じ、その内容が経典と一致するようにします。これが仏法の本質に入る道であるからこそ、「優婆提舍」と名づけられるのです。この名称が完成しました。

次に、上に挙げた三つの問いから下の二つの問いが導き出されると言いますが、「何に依るのか」「なぜ依るのか」「どのように依るのか」が問われます。「何に依るのか」とは、修多羅に依るということです。「なぜ依るのか」とは、如来そのものが真実の功徳の相であるからです。「どのように依るのか」とは、五つの念門の修行と相応するからです。以上で、上の三つの問いと下の二つの問いのつながりが明らかになりました。

「修多羅」とは、十二部経の中で、直接説かれているものを指し、四阿含や三蔵などがこれに当たります。しかし、三蔵以外の大乗経典もまた修多羅と呼ばれます。ここで「修多羅に依る」と言うのは、三蔵以外の大乗の修多羅を指しており、阿含などの小乗経典のことではありません。

「真実の功徳の相」には、二種類の功徳があります。一つ目は、煩悩に染まった心から生じるもので、法性(真理の本質)に従わないものです。いわゆる凡夫や天人などの善い行いです。人天の果報は、その因も果も、すべて顛倒(誤った見方)であり、すべて虚偽であるため、「真実でない功徳」と呼ばれます。

二つ目は、菩薩の智慧と清らかな業から生じ、仏事を荘厳し、法性に従って清らかな相に入るものです。この法は顛倒せず、虚偽でもないため、「真実の功徳」と呼ばれます。

どうして顛倒しないのか。法性に従い、真俗二諦にかなっているからです。どうして虚偽でないのか。すべての衆生を究竟の清らかさへと導くからです。

「願いの偈を説き、総持(すべてを掌握すること)をもって仏の教えと相応する」とは、「持」は散らず失わないという意味で、「総」は少ない言葉で多くの意味を包括するという意味です。「偈」とは五言の句からなる韻文です。「願」とは浄土への往生を願う心です。「説」とは諸々の偈や論を説くことです。総じて言えば、往生を願う偈を説き、仏典のすべてを総持し、仏の教えと相応させるということです。「相応」とは、例えば箱と蓋がぴったり合うようなものです。

觀彼世界相,勝過三界道。

彼の世界の様相を観るとき、三界の道を勝れりと超えている。

此已下是第四觀察門。此門中分為二別:一者觀察器世間莊嚴成就、二者觀察眾生世間莊嚴成就。此句已下至「願生彼阿彌陀佛國」,是觀器世間莊嚴嚴成就。觀器世間中復分為十七別,至文當目。此二句即是第一事,名為觀察莊嚴清淨功德成就。此清淨是總相。佛本所以起此莊嚴清淨功德者,見三界是虛偽相、是輪轉相、是無窮相。如蚇(尺音)蠖(屈伸蟲,一郭反)循環,如蠶(才含反)繭(蠶衣,公殄反)自縛。哀哉眾生締(結不解,帝音)此三界顛倒不淨,欲置眾生於不虛偽處、於不輪轉處、於不無窮處、得畢竟安樂大清淨處,是故起此清淨莊嚴功德也。成就者,言此清淨不可破壞、不可污染,非如三界是污染相、是破壞相也。觀者,觀察也。彼者,彼安樂國也。世界相者,彼安樂世界清淨相也。其相別在下。「勝過三界道」,道者通也。以如此因得如此果、以如此果酬如此因,通因至果、通果酬因,故名為道。三界者,一是欲界,所謂六欲天、四天下人、畜生、餓鬼、地獄等是也。二是色界,所謂初禪、二禪、三禪、四禪天等是也。三是無色界,所謂空處、識處、無所有處、非想非非想處天等是也。此三界蓋是生死凡夫流轉之闇宅,雖復苦樂小殊、脩短暫異,統而觀之莫非有漏,倚伏相乘、循環無際,雜生觸受四倒長拘,且因且果虛偽相襲。安樂是菩薩慈悲正觀之由生、如來神力本願之所建,胎卵濕生緣茲高揖,業繫長維從此永斷,續括之權不待勸而彎弓、勞謙善讓齊普賢而同德,勝過三界抑是近言。

それより以下は第四の観察門である。この門は二つの部分に分かれる。一つは器世間の荘厳成就を観察すること、二つは衆生世間の荘厳成就を観察することである。この句から「願生彼阿彌陀佛国」までの部分は、器世間の荘厳成就を観察するものである。器世間の観察はさらに十七の別に分かれ、その文に至って明らかになるだろう。この二句は第一の事であり、荘厳清浄の功徳成就を観察すると名付ける。この清浄は総体的な相である。仏がもともとこの荘厳清浄の功徳を起こしたのは、三界が虚偽の相であり、輪廻の相であり、尽きることのない相であると見たからである。まるで尺取り虫が循環するように、蚕が繭に自らを縛るようなものである。哀れなことに、衆生はこの三界の顛倒した不浄に結ばれて解けない。仏は衆生を虚偽でない処、輪廻しない処、尽きることのない処に置き、究竟の安楽である大いなる清浄の処を得させようと欲した。それゆえにこの清浄荘厳の功徳を起こしたのである。「成就」と言うのは、この清浄は壊すことができず、汚すこともできないことを表す。三界が汚染の相であり、壊滅の相であるのとは異なるのである。「観」とは観察することである。「彼」とはあの安楽国のことである。「世界相」とは、あの安楽世界の清浄な相のことである。その相の別は後に示される。「勝過三界道」—「道」とは通ずることである。このような因によってこのような果を得、このような果によってこのような因に報いる。因を通して果に至り、果を通して因に報いることを「道」と名付けるのである。三界とは、一つは欲界であり、いわゆる六欲天、四天下の人、畜生、餓鬼、地獄などである。二つは色界であり、いわゆる初禅、二禅、三禅、四禅天などである。三つは無色界であり、いわゆる空処、識処、無所有処、非想非非想処の天などである。この三界は、まさに生死の凡夫が流転する暗い住まいである。苦楽にわずかな違いがあり、寿命の長短に一時的な差異はあるが、全体として見れば、すべて有漏のものである。伏せられたり起こされたりが互いに乗じ、循環して限りがない。雑多な生、触れ、受け、四つの顛倒が長く拘束する。因であり果であり、虚偽の相が重なり続けるのである。安楽の国は、菩薩の慈悲と正しい観察から生まれ、如来の神通力と本願によって建立されたものである。胎生、卵生、湿生のものたちは、この緣によって高く離れ、業の繫縛という長い綱はここから永遠に断たれる。弓を引き絞るかのような權の使い手は、勧めを待たずに弓を引き、労をいとわず謙虛に善く譲り、普賢と徳を同じくする。三界に勝るというのは、近い言葉で言えばこのようなものである。

究竟如虛空,廣大無邊際。

その真理は、まるで虚空のように広大で、限りがありません。

此二句名莊嚴量功德成就。佛本所以起此莊嚴量功德者,見三界陜(戶甲反)小、墮(敗城阜,或垂反)陘(山絕坎,形音)陪(重土,一曰備,父才反)陼(如渚者陼丘,之與反),或宮觀迫(伯音)迮(子格反)、或土田逼隘(陋,已賣反)、或志求路促、或山河隔(塞,公厄反)障、或國界分部,有如此等種種舉急事。是故菩薩興此莊嚴量功德願,願我國土如虛空廣大無際。如虛空者,言來生者雖眾,猶若無也。廣大無際者,成上如虛空義。何故如虛空?以廣大無際故。成就者,言十方眾生往生者,若已生、若今生、若當生,雖無量無邊,畢竟常如虛空,廣大無際終無滿時。是故言究竟如虛空,廣大無邊際。問曰:如維摩方丈苞容有餘,何必國界無貲(子支反)乃稱廣大?答曰:所言廣大,非必以畦(五十畝,下圭反)畹(三十畝一遠,一萬反)為喻。但言如空,亦何累方丈。又方丈之所苞容,在狹而廣。覈(實,下革反)論果報,豈若在廣而廣耶?

この二つの句は、荘厳の量の功徳の成就を表しています。仏がもともとこの荘厳の量の功徳を起こされたのは、三界が狭く小さく、塒や城壁が崩れ落ち、山の断崖や重なる土、島のような丘があり、あるいは宮殿楼閣が迫って狭く、あるいは土地や田畑が逼塞して狭く、あるいは志を求める道が短く、あるいは山河が隔てて障りとなり、あるいは国境が分けられているなど、このような様々な逼迫した事柄があるのをご覧になったからです。それゆえに菩薩はこの荘厳の量の功徳の願いを起こされ、我が国は虚空のように広大で限りがないことを願われたのです。「虚空のよう」とは、来生する者が多いといっても、なお存在しないかのごとくであることを言います。「広大で限りがない」とは、前の虚空のような義を完成させるものです。なぜ虚空のようかというと、広大で限りがないからです。「成就」とは、十方の衆生が往生する者、すでに生まれた者、いま生まれる者、まさに生まれる者であっても、無量無辺でありながら、結局は常に虚空のようであり、広大で限りがなく、ついに満ちる時がないことを言います。それゆえに「究竟は虚空の如く、広大にして辺際なし」と言うのです。

問い:維摩が方丈の室で包容して余りがあるのなら、どうして国界が限りないことをもって広大と称するのでしょうか。

答え:言うところの広大とは、必ずしも畦や畹をもって喩えとするものではありません。ただ空のようであることを言うのみで、それがどうして方丈に妨げとなりましょうか。また方丈が包容するところは、狭いにありながら広いのです。果報を実に論じるなら、どうして広いにありながら広いのに及ぶでしょうか。

正道大慈悲,出世善根生。

正道は大いなる慈悲であり、この世を超えた善い根から生まれる。

此二句名莊嚴性功德成就。佛本何故起此莊嚴?見有國土以愛欲故則有欲界,以攀厭禪定故則有色無色界,此三界皆是有漏邪道所生,長寢大夢莫知悕出。是故興大悲心,願我成佛,以無上正見道起清淨土出于三界。性是本義,言此淨土隨順法性不乖法本。事同《華嚴經》寶王如來性起義。又言積習成性,指法藏菩薩集諸波羅蜜積習所成。亦言性者是聖種性,序法藏菩薩於世自在王佛所悟無生法忍,爾時位名聖種性。於是性中發四十八大願修起此土,即曰安樂淨土。是彼因所得,果中說因故名為性。又言性是必然義、不改義。如海性一味,眾流入者必為一味,海味不隨彼改也。又如人身性不淨故,種種妙好色香美味入身皆為不淨。安樂淨土諸往生者,無不淨色、無不淨心,畢竟皆得清淨平等無為法身,以安樂國土清淨性成就故。正道大慈悲出世善根生者,平等大道也。平等道所以名為正道者,平等是諸法體相。以諸法平等故發心等,發心等故道等,道等故大慈悲等。大慈悲是佛道正因,故言正道大慈悲。慈悲有三緣:一者眾生緣,是小悲;二者法緣,是中悲;三者無緣,是大悲。大悲即出世善也。安樂淨土從此大悲生故,故謂此大悲為淨土之根,故曰出世善根生。

この二つの句は、荘厳としての性の功徳が成就したことを表しています。仏はもともと、なぜこの荘厳を起こされたのでしょうか。ある国土では、愛欲のために欲界があり、禅定を厭い執着するために色界・無色界があるのを見られました。この三界はすべて煩悩のある邪道から生じたものであり、長く大きな夢の中に眠って、どうやって出ようかと願うことすら知りません。それゆえ大悲心を起こされ、「願わくは我、成仏して、無上の正見の道をもって清浄な土を起こし、三界を超え出ん」とされたのです。「性」とは本来の意味であり、この浄土が法性に随順し、法の根本に背かないことを言います。これは『華厳経』の宝王如来の性起の義と同じです。また、積み重ねて習慣とすることが性となる、といい、法蔵菩薩が諸々の波羅蜜を集めて積み重ね修めた所成であることを指します。また、「性」とは聖者の種性のことでもあり、法蔵菩薩が世自在王仏のところで無生法忍を悟られ、その時の位を聖種性と名づけます。この性の中で四十八の大願を発してこの土を修め起こし、これを安楽浄土と名づけます。これはその因によって得られたものであり、果の中に因を説くから「性」と名づけるのです。また、「性」とは必然の義、改まらない義でもあります。たとえば海の性は一味であり、多くの川の流れが入っても必ず一味となり、海の味はそれによって変わることはありません。また、人の身は性として不浄であるから、種々の優れた色・香・味が身に入ってもすべて不浄となります。安楽浄土に往生する者はみな、不浄な色もなく、不浄な心もなく、ついにはすべて清浄で平等な無為の法身を得るのです。なぜなら、安楽国土は清浄な性が成就したものだからです。

「正道大慈悲、出世善根生」とは、平等な大道のことです。平等な道がなぜ正道と名づけられるかといえば、平等とは諸法の体の相だからです。諸法が平等であるから発心も等しく、発心が等しいから道も等しく、道が等しいから大慈悲も等しいのです。大慈悲は仏道の正しい因であるから、「正道大慈悲」と言います。慈悲には三つの縁があります。一つ目は衆生縁で、これは小悲です。二つ目は法縁で、これは中悲です。三つ目は無縁で、これは大悲です。大悲こそが出世の善です。安楽浄土はこの大悲から生じるものだから、この大悲を浄土の根と謂い、「出世善根生」と言うのです。

淨光明滿足,如鏡日月輪。

浄らかな光明が満ち足り、鏡のごとく、日月の輪のようである。

此二句名莊嚴形相功德成就。佛本所以起此莊嚴功德者,見日行四域,光不周三方;庭燎(力少反)在宅,明不滿十仞。以是故起滿淨光明願,如日月光輪滿足自體。彼安樂淨土雖復廣大無邊,清淨光明無不充塞,故曰淨光明滿足如鏡日月輪。

この二つの句は、荘厳な姿と功徳の成就を表しています。仏がこの荘厳の功徳を起こした本来の理由は、太陽が四つの領域を行くのを見て、その光が三方に及ばないことや、家の中の灯火が明るくても、その明かりが十仞(じゅうじん)にも満たないのを見たからです。それゆえに、満ち足りた清浄な光明の願を起こし、日月の光輪のように、自らが満ち足りた光明を完成させたのです。かの安楽浄土は、たとえ広大で限りがなくても、清浄な光明が満ちないところはありません。だから「清浄な光明が満ち足りて、鏡や日月の輪のようである」と言うのです。

備諸珍寶性,具足妙莊嚴。

諸々の宝の性質を備え、見事な荘厳を具えている。

此二句名莊嚴種種事功德成就。佛本何故起此莊嚴?見有國土,以泥土為宮飾、以木石為華觀,或彫金鏤玉意願不充,或營備百千具受辛苦,以此故興大悲心,願我成佛必使珍寶具足、嚴麗自然,相忘於有餘、自得於佛道。此莊嚴事,縱使毘首羯磨工稱妙絕,積思竭想豈能取圖?性者本義也。能生既淨,所生焉得不淨?故經言「隨其心淨則佛土淨」。是故言備諸珍寶性,具足妙莊嚴。

この二つの句は、さまざまな荘厳の功徳が成就したことを表しています。仏はもともと、なぜこの荘厳を起こされたのでしょうか。それは、ある国土では泥土で宮殿を飾り、木や石で美しい観を作り、あるいは金を彫り玉を鏤めても願いが満たされず、あるいは多くのものを備えて辛苦を味わっているのを見て、そのために大悲心を起こされ、「私が成仏したならば、必ず珍宝を満たし、荘厳美しく自然に整い、有余の境地を超えて仏道に自ずから至らせよう」と願われたのです。この荘厳の事柄は、たとえ毘首羯磨の技が巧みで絶妙であっても、思いを尽くし考えを凝らしても、どうしてその形を写し取ることができましょうか。「性」とは本来の意味です。生み出すものがすでに清らかであれば、生み出されるものがどうして清らかでないことがありましょうか。経典に「心が清らかであれば、仏土もまた清らかである」とある通りです。それゆえに、「諸々の珍宝の性質を備え、微妙な荘厳を満たし具える」と言うのです。

無垢光炎熾,明淨曜世間。

垢なき光、炎が熾え盛り、明るく清らかに世を照らす。

此二句名莊嚴妙色功德成就。佛本何故起此莊嚴?見有國土優劣不同,以不同故高下以形,高下既形是非以起,是非既起長淪(沒,倫音)三有。是故興大悲心起平等願,願我國土光炎熾盛第一無比,不如人天金色能有奪者。若為相奪,如明鏡在金邊則不現。今日時中金比佛在時金則不現,佛在時金比閻浮那金則不現,閻浮那金比大海中轉輪王道中金沙則不現,轉輪王道中金沙比金山則不現,金山比須彌山金則不現,須彌山金比三十三天瓔珞金則不現,三十三天瓔珞金比炎摩天金則不現,炎摩天金比兜率陀天金則不現,兜率陀天金比化自在天金則不現,化自在天金比他化自在天金則不現,他化自在天金比安樂國中光明則不現。所以者何?彼土金光絕從垢業生故、清淨無不成就故。安樂淨土是無生忍菩薩淨業所起,阿彌陀如來法王所領,阿彌陀如來為增上緣故,是故言無垢光炎熾,明淨曜世間。曜世間者,曜二種世間也。

この二つの句は、荘厳なる妙色の功徳の成就を名づけたものです。仏はもともと何の故にこの荘厳を起こしたのでしょうか。ある国土には優劣の違いがあり、違いがあるがゆえに高低が形となり、高低が形となれば是々非々が起こり、是々非々が起これば長く三有に沈み続けるのを見たからです。それゆえ大悲心を起こし、平等の願いを立てられました。願うには「我が国土の光焔は熾んで盛んで、最も優れて比類なく、人天の金色の奪い得るもののごときはない」と。もし奪われることがあれば、たとえば明鏡が金の辺りにあれば、その姿は現れないようなものです。今の時代の金は、仏在世の時の金に比べれば現れず、仏在世の時の金は閻浮那の金に比べれば現れず、閻浮那の金は大海の中の転輪王の道にある金沙に比べれば現れず、転輪王の道中の金沙は金山に比べれば現れず、金山は須弥山の金に比べれば現れず、須弥山の金は三十三天の瓔珞の金に比べれば現れず、三十三天の瓔珞の金は炎摩天の金に比べれば現れず、炎摩天の金は兜率陀天の金に比べれば現れず、兜率陀天の金は化自在天の金に比べれば現れず、化自在天の金は他化自在天の金に比べれば現れず、他化自在天の金は安楽国の光明に比べれば現れないのです。なぜでしょう。あの国土の金光は、まったく垢なる業から生じたものではないからです。清らかで、成就しないものがないからです。安楽浄土は、無生忍の菩薩の浄業によって起こされたものであり、阿弥陀如来という法王が統領されるところであり、阿弥陀如来が増上縁となるからです。それゆえ「無垢の光炎は熾んで盛んに、明らかに浄く世間を照らす」と言うのです。「世間を照らす」とは、二種の世間を照らすことです。

寶性功德草,柔軟左右旋,觸者生勝樂,過迦旃隣陀。

宝性の功徳の草は、柔らかく左右に旋り、触れる者は勝れた楽を生じ、迦旃隣陀を超える。

此四句名莊嚴觸功德成就。佛本何故起此莊嚴?見有國土,雖寶重金玉,不得為衣服;雖珍玩明鏡,無議於敷具。斯緣悅於目,不便於身也,身眼二情豈弗鉾楯乎?是故願言:使我國土人天六情和於水乳,卒去楚越之勞,所以七寶柔軟,悅目便身。迦旃隣陀者,天竺柔軟草名也,觸之者能生樂受,故以為喻。註者言:此間土石草木各有定體,譯者何緣目彼寶為草耶?當以其葻(草得風貌,父蟲反)然𦾵(草旋貌,一㷀反)途(細草曰𮑍,亡小反),故以草目之耳。余若參譯,當別有途。生勝樂者,觸迦旃隣陀生染著樂,觸彼軟寶生法喜樂,二事相玄,非勝如何!是故言寶性功德草,柔軟左右旋,觸者生勝樂,過迦旃隣陀。

この四つの句は、荘厳として触れる功徳の成就を称えたものです。仏はもともと何の理由でこの荘厳を起こされたのでしょうか。ある国土を見ると、金や玉を重んじても衣服にすることができず、明鏡を珍しく玩んでも敷物にする考えがありません。これは目を喜ばせても、身には不便です。身と目の二つの感覚は、どうして互いに矛盾しないでしょうか。それゆえに願いを立てられました。「我が国土の人間と天人は、六つの感覚が水と乳のように和合し、楚と越の労苦をすぐに除くであろう。だから七宝は柔らかく、目を喜ばせ身に便利である」と。迦旃隣陀とは、天竺の柔らかい草の名前で、触れると楽しい感覚を生じるので、たとえとされたのです。注釈者は言います。「この世界の土石草木はそれぞれ定まった形があるのに、訳者はどうしてあの宝を草と呼ぶのでしょうか。それは、その草が風にそよぐ様子や、柔らかく旋る様子、細かい草である様子があるから、草と呼んだのでしょう」と。私がもし翻訳に参与したなら、別の解釈もあったでしょう。勝れた楽を生じるとは、迦旃隣陀に触れると執着の楽を生じ、あの柔らかい宝に触れると法の喜びの楽を生じる。この二つの事は趣きが異なり、勝れていなければどうしてこのように言えるでしょうか。それゆえに言う、「宝の性質の功徳ある草は、柔らかく左右に旋り、触れる者は勝れた楽を生じ、迦旃隣陀を超える」と。

寶華千萬種,彌覆池流泉,微風動華葉,交錯光亂轉。

宝の花、千種万種が咲き乱れ、池や流れ、泉を覆い尽くす。そよ風が花や葉を揺らすと、その光が交錯して、きらきらと乱れ舞う。

此四句名莊嚴水功德成就。佛本何故起此願?見有國土,或澐(云音)溺(江水大波謂之澐溺)洪濤(大海波,大窂反)、滓沫驚人,或凝凘(流氷,上支反)𠗉(古甲反)𠗨(凍相著,大甲反)、蹙(迫,子六反)枷懷𢘋(失常,他則反),向無安悅之情、背有恐值之慮。菩薩見此興大悲心,願我成佛,所有流泉池沼(池之小反)與宮殿相稱(事出經中),種種寶華布為水飾,微風徐扇映發有序,開神悅體無一不可。是故言寶華千萬種,彌覆池流泉,微風動華葉,交錯光亂轉。

この四つの句は「荘厳水功徳成就」と名づけられています。仏はそもそもなぜこの願いを起こされたのでしょうか。ある国々を見ると、あるいは雲のように大きな波や逆巻く大波、荒れ狂う津波が、浮かぶ滓や泡となって人々を驚かせ、あるいは張りつめた氷や凍りつく氷塊が、互いに押し迫り、心を惑わせ、平穏な喜びの心がなく、背を向けても恐怖に直面する思いがありました。菩薩はこの様子を見て大いなる慈悲の心を起こし、願うには「私が仏となる時、すべての泉や流れ、池や沼は宮殿と釣り合い、さまざまな宝の花が水の飾りとして敷きつめられ、そよ風が静かに吹き、光と影が整然と映り、心を開き体を喜ばせ、どれ一つとして良いものでないものはない」と。それゆえに「宝の花、千万の種類、池や流れや泉を覆い満たし、微風が花や葉を揺らし、光が交差し乱れ輝く」と説かれているのです。

宮殿諸樓閣,觀十方無礙,雜樹異光色,寶欄遍圍繞。

宮殿や楼閣は、十方の世界を妨げなく見渡せ、様々な木々は異なる光と色を放ち、宝の欄干が周囲を巡らせている。

此四句名莊嚴地功德成就。佛本何故起此莊嚴?見有國土,嶕(才消反)嶢(高貌,牛消反)峻(高,俊音)嶺、枯木橫岑,岝(才白反)峉(山不齊,五百反)𡷨(深山谷亦山陗貌,形音)嶙(深無崖,力人反)、莦(惡草貌,消音)茅(道多草不可行,方交反)盈壑,茫茫滄海為絕目之川、葻葻廣澤為無蹤之所。菩薩見此興大悲願,願我國土地平如掌,宮殿樓閣鏡納十方,的無所屬亦非不屬,寶樹寶欄互為映飾。是故言宮殿諸樓閣,觀十方無礙,雜樹異光色,寶欄遍圍繞。

この四つの句は、荘厳なる地の功徳の成就を表しています。仏は本来、何の理由でこの荘厳を起こされたのでしょうか。ある国土を見ると、険しい峰々や高い嶺、枯れた木々が横たわる峰、でこぼこの山々、深い谷、悪草が生い茂り道を覆い尽くす場所、果てしない蒼海が目の限りの川となり、広大な沢が足跡のない場所となっています。菩薩はこれを見て大いなる慈悲の誓いを起こし、「我が国土は大地が平らで手のひらのようであり、宮殿や楼閣は十方世界を鏡のように映し出し、特定のものに属することなく、また属さないこともなく、宝樹や宝の欄干が互いに映え飾る」と願われました。それゆえに、「宮殿や諸々の楼閣は、十方を見渡して障りなく、様々な樹木は異なる光色を放ち、宝の欄干は周囲を取り囲む」と説かれているのです。

無量寶交絡,羅網遍虛空,種種鈴發響,宣吐妙法音。

無数の宝が交わり合い、その網は虚空いっぱいに広がり、様々な鈴が音を響かせて、見事な教えの声を伝えている。

此四句名莊嚴虛空功德成就。佛本何故起此莊嚴?見有國土,煙雲塵霧蔽障太虛,震烈𩅮(雨聲,上林反)霍(大雨,下郭反)從上而墮,不祥烖(天火,葬才反)霓(屈虹青赤或白色陰氣,五結反)每自空來,憂慮百端為之毛竪。菩薩見此興大悲心,願我國土寶網交絡羅遍虛空,鈴鐸(大鈴,大各反)宮商鳴宣道法,視之無厭懷道見德。是故言無量寶交絡,羅網遍虛空,種種鈴發響,宣吐妙法音。

この四つの句は、荘厳なる虚空の功徳の成就を表しています。仏はもともと、なぜこのような荘厳を起こされたのでしょうか。ある国土を見ると、煙や雲、塵や霧が大虚空を覆い隠し、雷鳴がとどろき、大雨が上から降り注ぎ、不吉な天火や、青や赤または白色の陰気な虹が、しばしば空から現れ、人々はさまざまな憂いや恐れを抱き、そのために身の毛がよだつ思いをします。菩薩はこのような様子を見て、大いなる慈悲の心を起こし、願うのです。『我が国土には、宝の網が交錯し張り巡らされ、虚空全体を覆い尽くし、鈴や鐸が美しい音色を奏でて、道の教えを宣べ伝え、見る者は飽くことなく、道を懐き徳を観じることができますように』と。それゆえに、こう言われています。「無量の宝が交錯し張り巡らされ、羅網は虚空に遍く広がる。種々の鈴が音を響かせて、妙なる法の音を宣べ伝える」と。

雨華衣莊嚴,無量香普薰。

雨の花や衣が美しく飾り、数え切れないほどの香りが広く漂っています。

此二句名莊嚴雨功德成就。佛本何故興此莊嚴?見有國土,欲以服飾布地延請所尊、或欲以香華名寶用表恭敬,而業貧感薄是事不果。是故興大悲願,願我國土常雨此物滿眾生意。何故以雨為言?恐取者云:若常雨華衣,亦應填塞虛空。何緣不妨?是故以雨為喻。雨適時則無洪滔(水漫大,他高反)之患,安樂報豈有累情之物乎?經言「日夜六時雨寶衣雨寶華,寶質柔軟,履踐其上則下四寸,隨舉足時還復如故。用訖入寶地,如水入坎。」是故言雨華衣莊嚴,無量香普薰。

この二つの句は「莊嚴雨功德成就」と名付けられています。仏はそもそもなぜこの莊嚴を起こされたのでしょうか。ある国々を見ると、衣服を地に敷いて尊い方を招こうとしたり、香や花や名高い宝をもって恭敬の意を表そうとしたりするが、業が浅く福報が薄いために、その願いが叶わないことがあります。それゆえに大悲の願を起こされ、「我が国には常にこれらの物が雨のように降り注ぎ、衆生の心を満たすように」と願われたのです。なぜ「雨」という言葉を使うのでしょうか。それは、受け取る者が「もし常に花や衣が雨のように降るならば、虚空を満たしてしまうのではないか。どうして妨げにならないのか」と疑うことを恐れたからです。そこで雨を譬えとするのです。雨が時に適えば、洪水のような災いはありません。安楽の報土に、どうして心を煩わすような物があるでしょうか。経には「日夜六時に宝の衣が降り、宝の花が降る。宝の質は柔らかく、その上を歩めば一尺余り沈むが、足を上げると元の通りに戻る。用が終われば宝地に入り、水が窪みに入るようなものである」と説かれています。それゆえに「花や衣が雨のように降り莊嚴し、無量の香が広く薫ずる」と言うのです。

佛慧明淨日,除世癡闇冥。

仏の智慧は明らかで清らかな太陽のごとく、世の中の無知と闇を取り除く。

此二句名莊嚴光明功德成就。佛本何故興此莊嚴?見有國土,雖復項背日光,而為愚癡所闇。是故願言:使我國土所有光明,能除癡闇入佛智慧,不為無記之事。亦云:安樂國土光明,從如來智慧報起,故能除世闇冥。經言「或有佛土以光明為佛事」,即是此也。故言佛慧明淨日,除世癡闇冥。

この二つの句は、荘厳光明の功徳が成就したことを説いています。仏はなぜもとよりこの荘厳を興されたのでしょうか。ある国々を見ると、たとえ背や頭に日光を浴びても、愚かさによって暗く覆われているのを見ておられたからです。それゆえに誓願を立てられました。「我が国土にあるすべての光明が、愚かさの闇を取り除き、仏の智慧に入らせ、無記(善でも悪でもない)のことに留まらないように」と。また、安楽国の光明は、如来の智慧の報いから生じるものであるからこそ、世の闇を除くことができるのです。経典に「ある仏土は光明をもって仏事とする」とあるのは、まさにこのことを指しています。それゆえに「仏の智慧は明らかに澄んだ太陽のごとく、世の愚かさの闇を除く」と説かれているのです。

梵聲悟深遠,微妙聞十方。

梵の声は深遠なる悟りを響かせ、その微妙な法音は十方に聞こゆ。

此二句名莊嚴妙聲功德成就。佛本何故興此願?見有國土,雖有善法而名聲不遠、有名聲雖遠復不微妙、有名聲妙遠復不能悟物,是故起此莊嚴。天竺國稱淨行為梵行,稱妙辭為梵言。彼國貴重梵天,多以梵為讚。亦言:中國法與梵天通故也。聲者,名也,名謂安樂土名。經言「若人但聞安樂淨土之名,欲願往生,亦得如願。」此名悟物之證也。《釋論》言「如斯淨土非三界所攝。何以言之?無欲故非欲界,地居故非色界,有色故非無色界。」蓋菩薩別業所致耳。出有而有曰微(出有者,謂出三有。而有者,謂淨土有也)。名能開悟曰妙(妙好也,以名能悟物故稱妙)。是故言梵聲悟深遠,微妙聞十方。

この二つの句は、荘厳なる妙声の功徳の成就を表しています。仏はもともと、なぜこの願いを起こされたのでしょうか。ある国土を見ますと、善い法はあっても名声が遠くに届かないことがあり、名声が遠くに届いても、なお微妙ではないことがあり、名声が妙で遠くに届いても、なお物を悟らせることができないことがあります。それゆえに、この荘厳を起こされたのです。天竺国では、清らかな行いを梵行と称し、妙なる言葉を梵言と称します。かの国では梵天を重んじ、多く「梵」をもって賛嘆とします。また、中国の法は梵天と通じるからだとも言われています。声とは、名のことです。名とは、安楽土の名を指します。経に言っています。「もし人がただ安楽浄土の名を聞いて、往生を願い欲すれば、また願いのままに得られる」と。これは名が物を悟らせる証拠です。『釈論』に言っています。「このような浄土は三界の摂する所ではない。なぜかと言えば、欲がないゆえに欲界ではなく、地に住するゆえに色界ではなく、色があるゆえに無色界ではない」と。これは菩薩の別の業によるものにすぎません。有を出でて有があることを微と言います(有を出づとは、三有を出づることを謂います。有あるとは、浄土の有を謂います)。名がよく開悟せしめることを妙と言います(妙は好の義、名がよく物を悟らせるがゆえに妙と称します)。それゆえに、梵声は深遠に悟り、微妙は十方に聞こゆ、と言うのです。

正覺阿彌陀,法王善住持。

正覚の阿弥陀仏、法の王として善く安住し給う。

此二句名莊嚴主功德成就。佛本何故興此願?見有國土,羅剎為君則率土相噉、寶輪駐(立馬,長句反)殿則四域無虞,譬之風靡,豈無本耶?是故興願:願我國土常有法王,法王善力之所住持。住持者,如黃鵠持子安,千齡更起;魚母念持子,逕澩(夏有水、冬無水曰澩,火岳反)不壞。安樂國為正覺善持其國,豈有非正覺事耶?是故言正覺阿彌陀,法王善住持。

この二つの句は、主の功徳の成就を讃えるものです。仏はそもそもなぜこの願を起こされたのでしょうか。ある国々を見ると、羅刹が王となれば国中が互いに食い合い、宝輪が宮殿に留まれば四方の地域が憂いなく治まる、風が草をなびかせるようなものです。そこに根本があるのではないでしょうか。それゆえ願を起こされました。願わくば、我が国には常に法王がおられ、法王の善い力によって支え保たれますように、と。支え保つとは、黄鵠が子を抱いて千年を経ても再び生き返るようなもの、魚の母が子を念じて守り、涸れた川でも壊れないようなものです。安楽国は正覚がその国を善く保つのですから、正覚でないことがありましょうか。それゆえに言うのです、「正覚の阿弥陀、法王が善く支え保つ」と。

如來淨華眾,正覺華化生。

如来の清らかな花の群れは、正しい悟りの花から生まれる。

此二句名莊嚴眷屬功德成就。佛本何故興此願?見有國土,或以胞血為身器、或以糞尿為生元,或槐棘高折出猜狂之子、或豎子婢腹出卓犖(零角反)之才,譏誚(才召反)由之懷火、恥辱緣以抱氷。所以願言:使我國土悉於如來淨華中生,眷屬平等與奪無路。故言如來淨華眾,正覺華化生。

この二つの句は、眷属の功徳が成就したことを表しています。仏は元々なぜこの願を起こされたのでしょうか。ある国々を見ると、胎盤や血液を身体の器とし、糞尿を生命の源とする者があり、あるいは槐や棘の高い木から猜疑心の強い子が生まれ、あるいは下婢の腹から優れた才能を持つ者が生まれることもあります。非難や嘲笑によって心に火が燃え、恥辱によって氷を抱くような思いをすることがあります。それゆえに願われたのです。「我が国土では、すべてが如来の清らかな蓮華の中に生まれ、眷属は平等で、奪うことも与えることもない」と。それゆえに「如来の浄華の衆、正覚の華に化生す」と言うのです。

愛樂佛法味,禪三昧為食。

仏法の味わいを愛し楽しみ、禅定(ぜんじょう)と三昧(さんまい)を糧とする。

此二句名莊嚴受用功德成就。佛本何故興此願?見有國土,或探巢破卵為饛(盛食滿貌,亡公反)饒(飽也多也,人消反)之膳、或懸沙指帒為相慰之方。嗚呼諸子實可痛心,是故興大悲願:願我國土以佛法、以禪定、以三昧為食,永絕他食之勞。愛樂佛法味者,如日月燈明佛說《法華》經六十小劫,時會聽者亦坐一處六十小劫,謂如食頃,無有一人若身若心而生懈倦。以禪定為食者,謂諸大菩薩常在三昧,無他食也。三昧者,彼諸人天若須食時,百味嘉餚羅列在前,眼見色、鼻聞香、身受適悅自然飽足,訖已化去、若須復現。其事在經。是故言愛樂佛法味,禪三昧為食。

この二つの句は、衆生を養い楽しませる功徳が成就したことを表しています。仏はそもそもなぜこの誓いを立てられたのでしょうか。それは、ある国々では、鳥の巣を探り卵を壊して満ち溢れるほどのご馳走にしたり、砂を袋に盛って互いを慰め合う手段としたりするのを見たからです。ああ、諸々の子らよ、実に心が痛むことです。それゆえ大いなる慈悲の誓いを起こされたのです。すなわち、「我が国においては、仏法をもって、禅定をもって、三昧をもって食とし、永遠に他の食の労苦を絶とう」と。

仏法の味を愛好する者とは、日月灯明仏が『法華経』を説かれたとき、六十小劫の間、法会に集まった人々も同じ場所に座したまま六十小劫を過ごしましたが、それはまるで食事ひとときほどの短さに感じられ、身も心も疲れ怠る者は一人もいなかったということです。

禅定を食とする者とは、諸々の大菩薩が常に三昧の中にいて、他の食を必要としないことをいいます。三昧とは、彼ら人々や天人が食を欲するとき、百種の味わいの美味なる料理が目の前に並び、目で色を見、鼻で香りを嗅ぎ、身で快適さを受けて、自然と満腹になるのです。食べ終われば消え去り、また必要とあらば再び現れます。このことは経典に記されています。

ゆえに「仏法の味を愛好し、禅定と三昧を食とする」と言うのです。

永離身心惱,受樂常無間。

身心の悩みから永遠に離れ、楽しみを受け続けることが絶え間ない。

此二句名莊嚴無諸難功德成就。佛本何故興此願?見有國土,或朝預袞寵、夕惶斧鉞,或幼捨蓬藜、長列方丈,或鳴茄道出、歷經催還,有如是等種種違奪。是故願言:使我國土安樂相續畢竟無間。身惱者,飢渴寒熱殺害等也。心惱者,是非得失三毒等也。是故言永離身心惱,受樂常無間。

この二つの句は「莊嚴無諸難功德成就」と名づけられています。仏はもともとどうしてこの願を起こされたのでしょうか。ある国々を見ると、ある者は朝には朝廷の恩寵を受けながら、夕べには斧鉞の刑に処せられることを恐れ、ある者は幼くして貧しい藁の家を捨て、成長すれば広大な部屋に列をなす。ある者は道に鈴を鳴らして出かけても、時が経てば呼び戻される。このような様々な奪い違えがあるのです。それゆえに願を立てて言われるには、「我が国土は安楽が相続し、究極的に途絶えることがないように」と。身の悩みとは、飢え渇き、寒さ暑さ、殺害などのことです。心の悩みとは、是と非、得と失、三毒などのことです。それゆえに「永く身心の悩みを離れ、楽しみを受けて常に間断なし」と言われるのです。

大乘善根界,等無譏嫌名,女人及根缺,二乘種不生。

大乗の善根の世界は、等しく非難や嫌悪される名がない。女人や根の欠けた者、二乗の種は生まれない。

此四句名莊嚴大義門功德成就。門者,通大義之門也。大義者,大乘所以也。如人造城,得門則入。若人得生安樂者,是則成就大乘之門也。佛本何故興此願?見有國土,雖有佛如來賢聖等眾,由國濁故分一說三,或以拓(聽各反)眉致誚、或緣指語招譏。是故願言:使我國土皆是大乘一味、平等一味,根敗種子畢竟不生,女人殘缺名字亦斷。是故言大乘善根界,等無譏嫌名,女人及根缺,二乘種不生。

この四つの句は「莊嚴大義門功德の成就」と名づける。「門」とは、大義へ通じる門のことである。「大義」とは、大乗の教えの本質である。人が城を造り、門を得れば入ることができるように、もし人が安楽の世界に生まれることを得るならば、それはすなわち大乗の教えを成就する門なのである。

仏はもともと、なぜこの願を起こされたのか。ある国々を見ると、仏・如来・賢聖などの人々がいても、その国が濁っているがゆえに、一つの教えを分けて三つと説いたり、あるいは眉をひそめて譏られたり、あるいは言葉によって嘲られたりすることがある。それゆえに願を立てて言われた。「我が国はすべて大乗の一味、平等の一味であり、根の敗れた者の種はついに生じず、女人や欠損のある者、その名すらも断たれる」と。それゆえに「大乗善根の界、譏嫌の名等しくなし、女人および根缺、二乗の種は生ぜず」と言うのである。

問曰:案王舍城所說《無量壽經》法藏菩薩四十八願中言「設我得佛,國中聲聞有能計量知其數者,不取正覺。」是有聲聞一證也。又《十住毘婆沙》中龍樹菩薩造《阿彌陀讚》云「起出三界獄,目如蓮華葉,聲聞眾無量,是故稽首禮。」是有聲聞二證也。又摩訶衍論中言「佛土種種不同,或有佛土純是聲聞僧、或有佛土純是菩薩僧,或有佛土菩薩聲聞會為僧,如阿彌陀安樂國等是也。」是有聲聞三證也。諸經中有說安樂國處,多言有聲聞,不言無聲聞。聲聞即是二乘之一,論言乃至無二乘名,此云何會?答曰:以理推之,安樂淨土不應有二乘。何以言之?夫有病則有藥,理數之常也。《法華經》言釋迦牟尼如來以出五濁世故,分一為三。淨土既非五濁,無三乘明矣。《法華經》噵諸聲聞是人於何而得解脫?但離虛妄名為解脫,是人實未得一切解脫。以未得無上道故。覈推此理,阿羅漢既未得一切解脫,必應有生。此人更不生三界,三界外除淨土更無生處,是以唯應於淨土生。如言聲聞者是他方聲聞來生,仍本名故稱為聲聞。如天帝釋生人中時姓憍尸迦,後雖為天主,佛欲使人知其由來,與帝釋語時猶稱憍尸迦。其此類也。又此論但言「二乘種不生」,謂安樂國不生二乘種子,亦何妨二乘來生耶?譬如橘栽不生江北,河洛菓肆亦見有橘。又言鸚鵡不渡壟西,趙魏架桁亦有鸚鵡。此二物但言其種不渡。彼有聲聞亦如是,作如是解經論則會。

問い:王舎城で説かれた『無量寿経』において、法蔵菩薩の四十八願の中にこうある。「もし我、仏を得たらんに、国のうちの声聞にして、その数を計算し知ることを得る者あらば、正覚を取らじ。」これは声聞がいるという一つの証拠である。また『十住毘婆沙』の中で、龍樹菩薩が作られた『阿弥陀讃』にこうある。「三界の獄を超出し、目は蓮の葉の如く、声聞の衆は無量なり、この故に稽首して礼す。」これは声聞がいるという二つ目の証拠である。また『摩訶衍論』にこうある。「仏土は種々不同なり。或いは仏土は純ら声聞の僧あり、或いは仏土は純ら菩薩の僧あり、或いは仏土は菩薩と声聞とが会して僧となる。阿弥陀の安楽国などの如きはこれなり。」これは声聞がいるという三つ目の証拠である。諸経の中に安楽国について説くところは、多く「声聞あり」と言い、「声聞なし」とは言わない。声聞はすなわち二乗の一つである。あの論には「乃至二乗の名までもなし」と言う。これはどう解釈すればよいのか。

答え:理をもって推すに、安楽浄土には二乗がいるべきではない。なぜかと言えば、病があれば薬があるのが道理の常である。『法華経』に言う、釈迦牟尼如来は五濁の世に出たがゆえに、一を分かって三とした。浄土はすでに五濁ではないのだから、三乗がないことは明らかである。『法華経』に言う、「諸の声聞は、この人、何れのところにおいて解脱を得るや。ただ虚妄を離るることを名づけて解脱とす。この人は実に未だ一切の解脱を得ず。未だ無上道を得ざるがゆえに。」理を追及すれば、阿羅漢はすでに一切の解脱を得ていないのだから、必ず生まれることがあるはずである。この人はさらに三界には生まれない。三界の外、浄土を除いてはさらに生まれる所がない。それゆえ、ただ浄土に生まれるべきである。「声聞」と言うのは、他方の世界からの声聞が生まれて来て、もとの名のままに呼ばれて声聞と称されるのである。たとえば天帝釈が人の世に生まれた時は姓は憍尸迦であった。後に天主となってからも、仏が人々にその由来を知らせようとして、帝釈と語る時にもなお憍尸迦と呼んだ。これと同じ類いである。またこの論はただ「二乗の種は生まれず」と言うのである。安楽国には二乗の種子が生まれないと言うのであって、何が二乗が来て生まれるのを妨げようか。たとえば橘の苗木は江北には渡らないが、河洛地方の果物屋にも橘は見られる。また鸚鵡は隴西を渡らないと言うが、趙や魏の地方の架桁にも鸚鵡はいる。この二つのものはただその種が渡らないと言うだけである。あちらに声聞がいるのもまた同じである。このように解釈すれば、経と論は一致するのである。

問曰:以名召事,有事乃有名。安樂國既無二乘、女人、根缺之事,亦何須復言無此三名耶?答曰:如軟心菩薩不甚勇猛,譏言聲聞;如人諂曲或復儜弱,譏言女人。又如眼雖明而不識事,譏言盲人;又如耳雖聽而聽義不解,譏言聾人;又如舌雖語而訥口𠽱吃,譏言瘂人。有如是等根雖具足而有譏嫌之名,是故須言乃至無名,明淨土無如是等與奪之名。

問いかけ:名前は物事を呼び寄せるものであり、物事があって初めて名前がある。安楽国にはすでに声聞(小乗の修行者)や女人、根の欠けた者はいないというのに、なぜわざわざ「この三つの名前もない」と言う必要があるのか?

答え:たとえば、心の柔らかな菩薩はそれほど勇猛ではないため、人から「声聞だ」と非難されることがある。たとえば、人にへつらい曲がった心があったり、あるいは柔弱であったりすると、「女人だ」と非難されることがある。また、たとえば目は見えていても物事をよく分かっていないと、「盲人だ」と非難されることがある。たとえば、耳は聞こえていてもその意味を理解できないと、「聾人だ」と非難されることがある。たとえば、舌は話せても言葉が滑らかでなくどもってしまうと、「唖人だ」と非難されることがある。このように、たとえ五根が完全に備わっていても、非難されるような名前が付けられることがある。ゆえに「その名前すらない」とまで言う必要があるのであり、浄土にはこのような「与えたり奪ったりする」名前が全く存在しないことを明らかにしているのである。

問曰:尋法藏菩薩本願及龍樹菩薩所讚,皆似以彼國聲聞眾多為奇。此有何義?答曰:聲聞以實際為證,計不應更能生佛道根芽。而佛以本願不可思議神力攝令生彼,必當復以神力生其無上道心。譬如鴆鳥入水魚蜯咸死,犀牛觸之死者皆活。如此不應生而生,所以可奇。然五不思議中佛法最不可思議,佛能使聲聞復生無上道心,真不可思議之至也。

問うていわく、法蔵菩薩の本願及び龍樹菩薩の讃歎を尋ぬるに、皆彼の国の声聞の衆多なるを奇と為すに似たり。此れ何の義か。

答うていわく、声聞は実際を以て証と為し、計ふるに応に更に仏道の根芽を生ず可からず。而るに仏は本願の不可思議なる神力を以て攝して彼に生ぜしむ、必ず当に復た神力を以て其の無上道心を生ぜしむ可し。譬えば鴆鳥の水に入れば魚や蚌は皆死すれども、犀牛の觸るる所の者は死して皆活くが如し。此くの如く応に生ぜざる而も生ずるが故に、奇と為す可し。然るに五の不思議の中に仏法は最も不思議なり。仏は能く声聞をして復た無上道心を生ぜしむ。真に不思議の至りなり。

眾生所願樂,一切能滿足此。

眾生の願いや楽しみを、全て満たすことができる。

二句名莊嚴一切所求滿足功德成就。佛本何故興此願?見有國土,或名高位重潛處無由,或人凡性鄙悕出靡路,或脩短繫業制不在己,如阿私陀仙人類也。有如是等為業風所吹不得自在,是故願言:使我國土各稱所求滿足情願。是故言眾生所願樂,一切能滿足。

この二つの句は「一切の求める所を荘厳し、功德の成就を満足す」と名づけます。仏はそもそも何の故にこの願を起こしたのでしょうか。ある国々を見ると、あるいは名が高く位が重くても、潜んで出る由(よし)がないことがあり、あるいは人は凡庸で性質が劣り、出離(しゅつり)の道がないことを願うことがあり、あるいは寿命の長短は業に繫がれ、自分自身では制御できないことがあります。阿私陀仙人のような人々がこれに類します。このようなことどもがあり、業風に吹かれて自在を得られないのです。それゆえに願って言うには、「我が国土においては、それぞれが求める所に称(かな)い、情願を満足せしめん」と。それゆえに「衆生の願い楽しむ所は、一切よく満足す」と言うのです。

是故願生彼,阿彌陀佛國。

されば、かの阿弥陀仏の国に生まれることを願うのである。

此二句結成上觀察十七種莊嚴國土成就,所以願生。釋器世間清淨訖之于上,次觀眾生世間清淨。此門中分為二別:一者觀察阿彌陀如來莊嚴功德、二者觀察彼諸菩薩莊嚴功德。觀察如來莊嚴功德中有八種,至文當目。

この二つの句は、上の十七種の荘厳なる国土の成就を観察することを結びつけて、願生を説いたものである。器世間の清浄をここまで説き終えたので、次に衆生世間の清浄を観察する。この門の中では、二つに分けられる。第一は、阿弥陀如来の荘厳功徳を観察することであり、第二は、彼の諸菩薩の荘厳功徳を観察することである。如来の荘厳功徳を観察することには八種があり、その文に至って明らかにされるであろう。

問曰:有論師汎解眾生名義,以其輪轉三有受眾多生死故名眾生。今名佛菩薩為眾生,是義云何?答曰:經言「一法有無量名,一名有無量義。」如以受眾多生死故名為眾生者,此是小乘家釋三界中眾生名義,非大乘家眾生名義也。大乘家所言眾生者,如《不增不減經》言「言眾生者,即是不生不滅義。何以故?若有生,生已復生,有無窮過故、有不生而生過故,是故無生。若有生,可有滅;既無生,何得有滅?是故無生無滅是眾生義」。如經中言「五受陰通達空無所有,是苦義。」斯其類也。

問い:ある論師が衆生という名前の意味を広く解釈して、三有(欲界・色界・無色界)を輪廻し、多くの生死を受けるから衆生という名があると言います。今、仏や菩薩を衆生と呼ぶのは、どのような意味でしょうか。

答え:経典に「一つの法には無量の名前があり、一つの名前には無量の意味がある」と説かれています。多くの生死を受けるから衆生という名前があるというのは、これは小乗の立場で三界における衆生の意味を解釈したものであり、大乗の立場での衆生の意味ではありません。

大乗の立場で衆生と言うときは、『不増不減経』に「衆生と言うのは、すなわち不生不滅の意味である。なぜなら、もし生があるならば、生まれた後にまた生まれ、無限の過失があることになり、また生まれないのに生まれるという過失があることになるから、生はないのである。もし生があるならば、滅もあり得るが、すでに生がないのなら、どうして滅があり得ようか。それゆえ、無生無滅が衆生の意味である」と説かれている通りです。経典に「五受陰が空で何もないことを通達することが、苦の意味である」とあるのも、これと同じ類いのものです。

無量大寶王,微妙淨華臺。

無量大宝王の、微妙なる清らかなる蓮の台座。

此二句名莊嚴座功德成就。佛本何故莊嚴此座?見有菩薩,於末後身敷草而坐,成阿耨多羅三藐三菩提,人天見者,不生增上信、增上恭敬、增上愛樂、增上修行。是故願言:我成佛時,使無量大寶王微妙淨華臺以為佛座。無量者,如《觀無量壽經》言「七寶地上有大寶蓮華王座,蓮華一一葉作百寶色有八萬四千脈,猶如天畫。脈有八萬四千光。華葉小者,縱廣二百五十由旬。如是華有八萬四千葉,一一葉間有百億摩尼珠王以為映飾,一一摩尼放千光明,其光如蓋七寶合成遍覆地上。釋迦毘楞伽寶以為其臺,此蓮華臺八萬金剛甄叔迦寶、梵摩尼寶、妙真珠網以為嚴飾。於其臺上自然而有四柱寶幢,一一寶幢如八萬四千億須彌山。幢上寶幔如夜摩天宮,有五百億微妙寶珠以為映飾,一一寶珠有八萬四千光,一一光作八萬四千異種金色,一一金光遍安樂寶土,處處變化各作異相,或為金剛臺、或作真珠網、或作雜華雲,於十方面隨意變現化作佛事。如是等事出過數量。」是故言無量大寶王,微妙淨華臺。

この二つの句は、仏の座の功徳が成就したことを表しています。仏はそもそもなぜこの座を荘厳されたのでしょうか。それは、ある菩薩が最後の身において草を敷いて座り、無上正等覚を成就されたのを見て、人々や天人がそれを見ても、深い信心、深い恭敬、深い愛楽、深い修行の心を生じなかったからです。それゆえに仏は願を立てられました。「私が成仏したときには、無量の大宝王の微細で清らかな蓮華の台を仏座としよう」と。無量とは、『観無量寿経』に説かれる通りです。「七宝の地上に大宝蓮華王の座があり、蓮華の一葉一葉は百宝の色をなし、八万四千の脈がある。それは天の絵のようです。その脈には八万四千の光がある。華の葉の小さいものでも、縦横二百五十由旬ある。このような華には八万四千の葉があり、葉と葉の間には百億の摩尼珠王があって、それを映し飾っている。一つ一つの摩尼珠は千の光明を放ち、その光は蓋のようで七宝で合成され、地の上を覆っている。釈迦毘楞伽宝をもってその台とし、この蓮華台には八万の金剛、甄叔迦宝、梵摩尼宝、妙真珠の網が厳飾としている。その台の上には自然に四本の宝の幢があり、一つ一つの宝幢は八万四千億の須弥山のようです。幢の上の宝の幔は夜摩天宮のようで、五百億の微細な宝珠が映飾している。一つ一つの宝珠には八万四千の光があり、一つの光ごとに八万四千の異なる金色を作り、その金色の光は安楽宝土に遍く満ち、ところどころで変化してそれぞれ異なる相を作る。あるいは金剛台となり、あるいは真珠の網となり、あるいは雑華の雲となる。十方の世界において、心のままに変化して仏事を作す。このようなことは数量を超えている」と。それゆえに「無量大宝王、微妙浄華台」と言うのです。

相好光一尋,色像超群生。

相好の光は一尋に満ち、その姿かたちは群を抜いてすぐれている。

此二句名莊嚴身業功德成就。佛本何故莊嚴如此身業?見有佛身受一丈光明,於人身光不甚超絕,如轉輪王相好亦大同。提婆達多所減唯一,致令阿闍世王以茲懷亂、刪闍耶等敢如蟷蜋,或如此類也,是故莊嚴如此身業。案:此間詁訓,六尺曰尋。如《觀無量壽經》言「阿彌陀如來,身高六十萬億那由他恒河沙由旬,佛圓光如百億三千大千世界。」譯者以尋而言,何其晦(木代反)乎!里舍間人不簡縱橫長短,咸謂橫舒兩手臂為尋。若譯者或取此類用準阿彌陀如來舒臂為言故稱一尋者,圓光亦應徑六十萬億那由他恒河沙由旬。是故言相好光一尋,色像超群生。

この二つの句は、仏身の功徳成就を荘厳することを表している。仏はもともと何のためにこのような身業を荘厳されたのか。ある仏の身が一丈の光明を受けるのを見ると、それは人の身の光と比べてそれほど際立っておらず、転輪王の相好もほぼ同じである。提婆達多がただ一つ減じたことで、阿闍世王は心を惑わされ、刪闍耶らは蟷螂のように大胆に振る舞った。あるいはこのような類のことがあるため、このような身業を荘厳されたのである。考えてみるに、この間の言葉の解釈では、六尺を一尋とする。『観無量寿経』に「阿弥陀如来の身の高さは六十万億那由他恒河沙由旬、仏の円光は百億三千大千世界のごとし」とある。訳者が尋をもって言うのは、なんと曖昧なことか。里の民は縦横長短を区別せず、すべて両腕を横に伸ばしたのを尋と言う。もし訳者がこの類を用いて阿弥陀如来の腕を伸ばしたのを準えて一尋と言うならば、円光もまた六十万億那由他恒河沙由旬の直径であるべきだ。それゆえに「相好光一尋、色像超群生」と言うのである。

問曰:《觀無量壽經》言「諸佛如來是法界身,入一切眾生心想中。是故汝等心想佛時,是心即是三十二相八十隨形好,是心作佛、是心是佛,諸佛正遍知海從心想生。」是義云何?答曰:身名集成,界名事別。如眼界緣根、色、空、明、作意五因緣生,名為眼界。是眼但自行己緣,不行他緣,以事別故;耳鼻等界亦如是。言諸佛如來是法界身者,法界是眾生心法也。以心能生世間出世間一切諸法故,名心為法界。法界能生諸如來相好身,亦如色等能生眼識,是故佛身名法界身。是身不行他緣,是故入一切眾生心想中。心想佛時,是心即是三十二相八十隨形好者,當眾生心想佛時,佛身相好顯現眾生心中也。譬如水清則色像現,水之與像不一不異,故言佛相好身即是心想也。是心作佛者,言心能作佛也。是心是佛者,心外無佛也。譬如火從木出,火不得離木也。以不離木故,則能燒木。木為火燒,木即為火也。諸佛正遍知海從心想生者,正遍知者,真正如法界而知也。法界無相故諸佛無知也,以無知故無不知也,無知而知者是正遍知也。是知深廣不可測量,故譬海也。

問うていわく、「観無量寿経」に言う、「諸仏如来は是れ法界身、一切衆生の心想の中に入りたもう。是の故に汝等、心に仏を想う時、是の心即ち三十二相・八十随形好なり。是の心、仏を作り、是の心、是れ仏なり。諸仏の正遍知海は心想より生ず」と。是の義は云何。

答うていわく、身というは集成を名づけ、界というは事別を名づく。眼界の如きは、根・色・空・明・作意の五因縁に縁って生ずるを、眼界と名づく。是の眼はただ自らの己縁を行ずるのみにして、他縁を行ぜず。事別の故なり。耳鼻等の界も亦た是の如し。諸仏如来は法界身なりと言うは、法界は是れ衆生の心法なり。心は世間・出世間の一切諸法を生ずることを得るが故に、心を名づけて法界とす。法界は諸如来の相好身を生ずることを得ること、亦た色等が眼識を生ずるが如し。是の故に仏身を名づけて法界身とす。是の身は他縁を行ぜず、是の故に一切衆生の心想の中に入る。心に仏を想う時、是の心即ち三十二相・八十随形好とは、衆生が心に仏を想う時、仏身の相好、衆生の心中に顕現す。譬えば水の清き時は色像が現ずるが如し。水と像とは一ならず異ならず、故に仏の相好身は即ち心想なりと言う。是の心、仏を作るとは、心よく仏を作ることを言う。是の心、是れ仏とは、心の外に仏なしと言う。譬えば火が木から出ずるが如し。火は木を離れることを得ず。木を離れざるが故に、よく木を焼くことを得。木は火に焼かるるにより、木即ち火となる。諸仏の正遍知海は心想より生ずとは、正遍知とは、真正にして法界の如く而知るなり。法界は無相なるが故に諸仏は無知なり。無知なるが故に、知らざることなし。無知にして而知るは、是れ正遍知なり。是の知は深広にして測量すべからず、故に海に譬う。

如來微妙聲,梵響聞十方。

如来の微妙な声、清らかな響きは十方に届く。

此二句名莊嚴口業功德成就。佛本何故興此莊嚴?見有如來名似不尊,如外道軵(推車,人冡反)稱瞿曇姓,成道日聲唯徹梵天。是故願言:使我成佛,妙聲遐布,聞者悟忍。是故言如來微妙聲,梵響聞十方。

この二つの句は、口業の功徳が成就したことを讃えるものです。仏は元々なぜこのような荘厳を起こされたのでしょうか。ある如来の名が尊ばれていないように見えるのをご覧になったからです。例えば外道が車を押しながら瞿曇の姓を呼んで軽んじ、成道の日の声は梵天にまでしか届かなかったように。それゆえに願を立てられました。「私が成仏したならば、微妙な音声が広く遠くに響き渡り、それを聞く者は皆、忍びの智慧を悟るであろう」と。それゆえに「如来の微妙な声は、梵音として十方に響き渡る」と言うのです。

同地水火風虛空無分別。

地・水・火・風・虚空も、すべて同じように区別のないものなのです。

此二句名莊嚴心業功德成就。佛本何故興此莊嚴?見有如來說法云:此黑此白、此不黑不白、下法中法上法上上法,有如是等無量差別品似有分別。是故願言:使我成佛,如地荷負無輕重之殊,如水潤長無莦(惡草)葀(瑞草,括音)之異,如火成熟無芳臭之別,如風起發無眠悟之差,如空苞受無開塞之念。得之于內、物安於外,虛往實歸於是于息。是故言同地水火風虛空無分別。

この二句は、心の業の功徳の成就を荘厳することを表しています。仏がもともとどうしてこの荘厳を起こされたのでしょうか。それは、次のような如来の説法を見られたからです。「これは黒、これは白、これは黒でも白でもない。これは下法、これは中法、これは上法、これは上上法」と、このように無量の差別があり、ある種の分別があるように見えるのです。そのため、次のような願いを立てられました。「私が仏となったならば、大地が重いものも軽いものも区別なく荷負するように、水が善い草も悪い草も区別なく潤し育てるように、火が香ばしいものも臭いものも区別なく熟させるように、風が眠っている人も目覚めている人も区別なく吹き起こすように、虚空が満ちたものも空のものも区別なく包み受けて、開くことも塞ぐこともないように、そのような者となろう」と。内にその徳を得て、外の万物は安らかとなり、虚しく訪れて実りを持って帰り、そこで休息を得るのです。それゆえに、「地・水・火・風・虚空と同じく、分別がない」と言うのです。

天人不動眾,清淨智海生。

天人も動じない聖なる集い、清らかな智慧の海から生まれた。

此二句名莊嚴大眾功德成就。佛本何故起此莊嚴?見有如來說法輪下所有大眾諸根性欲種種不同,於佛智慧若退若沒,以不等故眾不純淨。所以興願:願我成佛,所有天人皆從如來智慧清淨海生。海者,言佛一切種智深廣無涯,不宿二乘、雜善、中下死屍,喻之如海。是故言天人不動眾,清淨智海生。不動者,言彼天人成就大乘根,不可傾動也。

この二つの句は、大衆の荘厳功徳が成就したことを表しています。仏はもともと何の理由でこの荘厳を起こされたのでしょうか。それは、如來が法輪を説く場に集まるすべての大衆の、さまざまな根機・性質・欲望がそれぞれ異なり、仏の智慧に対して退いたり沈んだりする者があり、その不平等さゆえに大衆が純粋で清らかではないことをご覧になったからです。そこで誓願を起こされました。「願わくば、私が成仏したならば、すべての天人はすべて如來の智慧の清浄な海から生まれんことを」と。ここで「海」と言うのは、仏の一切種智が深遠で広大であり、限りがないことを表しています。そこには二乗や雑多な善、中下の者の死屍のようなものはとどまることができません。それを海にたとえているのです。それゆえに「天人は動ぜず、清浄な智慧の海より生ず」と言うのです。「動ぜず」とは、あの天人が大乗の根機を成就しており、決して傾き動かされることがないことを表しています。

如須彌山王,勝妙無過者。

須弥山の王のように、この上なく勝れて妙なるものはない。

此二句名莊嚴上首功德成就。佛本何故起此願?見有如來,眾中或有強梁者,如提婆達多流比;或有國王與佛並治,不知甚推佛;或有請佛,以他緣廢忘。有如是等,似上首力不成就。是故願言:我為佛時,願一切大眾無能生心敢與我等,唯一法王更無俗王。是故言如須彌山王,勝妙無過者。

この二つの句は「莊嚴の上首の功徳成就」と名付けられています。仏はそもそも何のゆえにこの願を起こされたのでしょうか。それは、如来の教団の中に、ある者は剛強で横暴な者、例えば提婆達多のような者がいるのを見られたからです。また、ある国王が仏と並んで世を治めようとし、仏を深く敬うことを知らない者もいました。また、ある者は仏を請うても、他の事情のために忘れ去ってしまうこともありました。このようなわけで、いわゆる上首の力は成就しがたいものがあるのです。それゆえに願われました。「私が仏となるとき、一切の大衆の中に、敢えて私と対等であるとか、私と肩を並べようとする心を起こす者がありませんように。ただ一の法王のみが存在し、世俗の王はもはやありませんように」と。それゆえに「須弥山王の如く、勝れて妙にして、これより優るものなし」と言うのです。

天人丈夫眾,恭敬繞瞻仰。

天人たちの群れは、敬いの心を持って、その周りを巡り、仰ぎ見るのです。

此二句名莊嚴主功德成就。佛本何故起此莊嚴?見有佛如來雖有大眾,眾中亦有不甚恭敬。如一比丘語釋迦牟尼佛:「若不與我解十四難,我當更學餘道。」亦如居迦離謗舍利弗,佛三語而三不受。又如諸外道輩,假入佛眾而常伺求佛短。又如第六天魔,常於佛所作諸留難。有如是等種種不恭敬相,是故願言:使我成佛,天人大眾恭敬無倦。所以但言天人者,淨土無女人及八部鬼神故也。是故言天人丈夫眾,恭敬繞瞻仰。

この二つの句は、「主の功徳の成就」を名づけたものである。仏はそもそも何のゆえにこの荘厳を起こされたのか。ある仏・如来には大勢の衆がいても、その中にそれほど恭敬しない者もいるのを見たからである。たとえば、ある比丘が釈迦牟尼仏に「もし私のために十四の難問を解いてくれないなら、私は他の道を学びに行くでしょう」と言ったようなこと。また、迦留羅(ガルダ)が舎利弗を誹謗し、仏が三度戒めても三度受け入れなかったようなこと。また、外道たちが仏の教団に紛れ込んで、常に仏の欠点を探していたようなこと。また、第六天の魔王が常に仏の修行を妨害したようなこと。このように様々な不恭敬の相があるので、願いを起こして言われた。「私が仏となるならば、天や人の大衆が倦むことなく恭敬するように」と。ただ「天人」と言うのは、浄土には女人や八部鬼神がいないからである。それゆえに「天人の丈夫の衆が、恭敬して繞り、瞻仰する」と言うのである。

觀佛本願力,遇無空過者,能令速滿足,功德大寶海。

仏の本願の力を見れば、空しく過ぎ去る者はいない。 その力は、速やかに功徳の大宝海を満たしてくれる。

此四句名莊嚴不虛作住持功德成就。佛本何故起此莊嚴?見有如來,但以聲聞為僧,無求佛道者。或有值佛而不免三塗,善星、提婆達多、居迦離等是也。又人聞佛名號發無上道心,遇惡因緣退入聲聞、辟支佛地者。有如是等空過者、退沒者,是故願言:使我成佛,時值遇我者皆速疾滿足無上大寶。是故言觀佛本願力,遇無空過者,能令速滿足,功德大寶海。住持義如上。觀佛莊嚴八種功德訖之于上,次觀安樂國諸大菩薩四種莊嚴功德成就。

この四つの句を「荘厳にして虚仮ならず、住持の功徳の成就」と名づける。仏はそもそも何ゆえにこの荘厳を起こしたもうたのか。次のような如来を見たまえば、ただ声聞を僧とし、仏道を求める者なきことあり。あるいは仏に値えども三塗を免れざる者あり、善星・提婆達多・居迦離などの如きこれなり。また人、仏の名号を聞きて無上道心を発すれども、悪因縁に遇いて退きて声聞・辟支仏の地に堕ちる者あり。かくの如き空過する者、退没する者あり。是を以て願いて言わく、「我をして仏と成らしめば、時に我に値遇する者は皆速やかに無上の大宝を満足せん」と。是を以て言えらく、「仏の本願力を観ずるに、遇いて空過する者なく、能く速やかに満足せしむ、功徳大宝海」と。住持の義は上に同じ。仏の荘厳八種の功徳は上に訖りぬ。次に安楽国における諸大菩薩の四種荘厳功徳の成就を観ず。

問曰:觀如來莊嚴功德何所闕少,復須觀菩薩功德耶?答曰:如有明君則有賢臣,堯舜之稱無為,是其比也。若便但有如來法王而無大菩薩法臣,於翼讚道豈足云滿?亦如薪𧂐小則火不大。如經言「阿彌陀佛國有無量無邊諸大菩薩,如觀世音、大勢至等,皆當一生於他方次補佛處。」若人稱名憶念者、歸依者、觀察者,如《法華經.普門品》說無願不滿。然菩薩愛樂功德,如海吞流無止足情。亦如釋迦牟尼如來聞一目闇比丘吁言:「誰愛功德?為我維鍼。」爾時如來從禪定起,來到其所語言:「我愛福德。」遂為其維鍼。爾時失明比丘暗聞佛語聲,驚喜交集白佛言:「世尊!世尊功德猶未滿耶?」佛報言:「我功德圓滿,無所復須。但我此身從功德生,知功德恩分故,是故言愛。」如所問,觀佛功德實無願不充,所以復觀菩薩功德者,有如上種種義故耳。

問うていわく、如来の荘厳功徳を観ずるに、何の欠ける所かあって、また菩薩の功徳を観ずることを要するや。

答うていわく、明君あれば賢臣あり。堯舜の無為と称せらるるも、これその比なり。もしただ如来法王のみありて、大菩薩法臣なければ、翼贊の道において、どうして満ち足れりと言えようか。また薪の積みたる小なれば、火も大ならざるがごとし。経にいうがごとし、「阿弥陀仏の国に無量無辺の諸大菩薩あり。観世音、大勢至などのごとき、みな当に一生成仏して、他方において補処の位に次ぐべし」と。人の名を称し、念じ、帰依し、観ずる者あらば、『法華経』普門品に説くがごとく、願いて満たされざるはなし。しかれども菩薩の功徳を愛楽すること、海の流れを呑むがごとくして、止足の情なし。また釈迦牟尼如来が、一目なき比丘の「誰か功徳を愛せん者ぞ、われのために針を貫け」と吁ぶを聞きたまいしことのごとし。その時、如来は禅定より起ち、その所に来たりて言いたまわく、「われ福徳を愛す」と。すなわちそのために針を貫き給えり。その時、失明の比丘、闇のうちに仏の語声を聞き、驚喜あい交わり、仏に白して言わく、「世尊よ、世尊の功徳はなお満ちたまわざるや」と。仏の報いて言いたまわく、「わが功徳は円満にして、なお須ゆる所なし。ただわれこの身、功徳より生ず。功徳の恩分を知るがゆえに、かくのごとく愛ずと言うなり」と。問いのごとく、仏の功徳を観ずるに、まことに願いて充たされざるはなし。しかるにまた菩薩の功徳を観ずることを要するは、上に挙げたる種々の義あるがゆえなり。

安樂國清淨,常轉無垢輪,化佛菩薩日,如須彌住持。

安楽の国は清らかで、常に汚れなき法輪を転じ、化身の仏や菩薩は太陽のごとく、須弥山のように常住して衆生を支える。

佛本何故起此莊嚴?見有佛土,但是小菩薩,不能於十方世界廣作佛事。或但聲聞人天,所利狹小。是故興願:願我國中有無量大菩薩眾,不動本處遍至十方,種種應化如實修行常作佛事。譬如日在天上而影現百川,日豈來耶?豈不來耶?如《大集經》言「譬如有人善治堤塘,量其所宜,及放水時不加心力」。菩薩亦如是,先治一切諸佛及眾生應供養、應教化種種堤塘,及入三昧身心不動,如實修行常作佛事。如實修行者,雖常修行實無所修行也。是故言安樂國清淨,常轉無垢輪,化佛菩薩日,如須彌住持。

仏はなぜこのような荘厳を起こされたのか。ある仏の国土には、ただ小さい菩薩しかおらず、十方世界において広く仏事を行うことができないのを見られるからである。あるいは、ただ声聞や人天のみであって、利益する範囲が狭いこともある。それゆえに願いを起こされたのである。「我が国には無量の大菩薩がいて、もとの場所を動かずして遍く十方に至り、さまざまに応化し、如実に修行し、常に仏事を行う」と願われたのである。たとえば、太陽が天上にあって、その影が百の川に現れるようなものである。太陽は来るのだろうか。来ないのだろうか。『大集経』にこうある。「たとえば、ある人が堤や塘をよく整え、その状況に応じて備え、水を放つときには心を労することがない」と。菩薩もまた同じである。まず一切の諸仏および衆生に対して、供養すべきもの、教化すべきものを、さまざまな堤塘として整え、そして三昧に入り、身も心も動かず、如実に修行し、常に仏事を行うのである。如実に修行するとは、常に修行していながら、実は修行するところがないということである。それゆえに「安楽国は清らかにして、常に無垢の輪を転じ、化仏や菩薩は日のごとく、須弥山のごとく住持す」と言うのである。

無垢莊嚴光,一念及一時,普照諸佛會,利益諸群生。

無垢荘厳光よ、一念のうちに、また一時に、すべての仏の集いを照らし、あらゆる生きとし生けるものを利益する。

佛本何故起此莊嚴?見有如來,眷屬欲供養他方無量諸佛、或欲教化無量眾生,此沒彼出先南後北,不能以一念一時放光普照遍至十方世界教化眾生,有出沒前後相故。是故興願:願我佛土諸大菩薩,於一念時頃遍至十方作種種佛事。是故言無垢莊嚴光,一念及一時,普照諸佛會,利益諸群生。

仏はなぜこの荘厳を起こされたのか。それは、如来の眷属の中に、他方の無量の諸仏に供養したい、あるいは無量の衆生を教化したいと願う者がありながら、この世界を去りあの世界に現れる際に、先に南、後に北と、前後の相があるために、一念の間に一度の光を放って、十方の世界に普く照らし、衆生を教化することができないからである。それゆえに願いを起こされたのである。「我が仏土の諸大菩薩は、一念の頃の間に十方に遍至し、種々の仏事をなさん」と。それゆえに「無垢荘厳光、一念および一時、普く諸仏の会に照らし、利益すれば諸群生なり」と言うのである。

問曰:上章云身不動搖而遍至十方。不動而至,豈非是一時義耶?與此若為差別?答曰:上但言不動而至,或容有前後;此言無前無後,是為差別。亦是成上不動義。若不一時則是往來,若有往來則非不動,是故為成上不動義,故須觀一時。

問い:前の章で「身体は動かずして十方に至る」と説かれました。「動かずして至る」というのは、すなわち「同時」の意味ではないでしょうか。それとの違いは何でしょうか。

答え:前の章ではただ「動かずして至る」と述べただけで、そこには前後があるかもしれません。しかしここで言うのは「前も後もない」ということで、これが違いです。これはまた前の章の「動かない」という意味を完成させるものです。もし同時でなければ、それは往来(行き来)があるということになります。往来があるならば、それは動かないことにはなりません。ですから、前の章の「動かない」という意味を完成させるために、「同時」を観察する必要があるのです。

雨天樂華衣、妙香等供養,讚諸佛功德,無有分別心。

雨の降るような美しい花や衣、素晴らしい香りなどを捧げて、諸仏の功徳を讃え、差別の心なく供養する。

佛本何故起此莊嚴?見有佛土,菩薩人天志趣不廣,不能遍至十方無窮世界供養諸佛如來大眾,或以己土穢濁不敢向詣淨鄉、或以所居清淨鄙薄穢土,以如此等種種局分,於諸佛如來所不能周遍供養發起廣大善根。是故願言:我成佛時,願我國土一切菩薩聲聞天人大眾,遍至十方一切諸佛大會處所,雨天樂、天華、天衣、天香,以巧妙辨辭供養讚歎諸佛功德。雖歎穢土如來大慈謙忍,不見佛土有雜穢相;雖歎淨土如來無量莊嚴,不見佛土有清淨相。何以故?以諸法等故。諸如來等,是故諸佛如來名為等覺。若於佛土起優劣心,假使供養如來,非法供養也。是故言雨天樂華衣、妙香等供養,讚諸佛功德,無有分別心。

仏はいかなる故にこの荘厳を起こしたまいしか。見るに、ある仏土には、菩薩や人天の志趣が広くなく、十方の無数の世界に遍く至り、諸仏如来の大衆に供養することができない者がある。あるいは己の土が穢濁なるをもって、敢えて清浄の郷に向かおうとせず、あるいは所居の清浄なるをもって、穢土を鄙びて軽んずる。かかる種々の局限により、諸仏如来に対して周遍に供養し、広大な善根を発起することができない。このゆえに願いて言わく、我が成仏せし時、願わくは我が国土の一切の菩薩・声聞・天人の大衆、遍く十方の一切の諸仏の大会の所に至り、天の楽、天の華、天の衣、天の香を雨と降らし、巧みなる弁辞をもって諸仏の功徳を供養し讚歎せんと。穢土の如来の大慈・謙忍を讚ずると雖も、仏土に雑穢の相あるを見ず。浄土の如来の無量の荘厳を讚ずると雖も、仏土に清浄の相あるを見ず。何をもっての故にか。諸法の等しきを以てなり。諸如来は等しきがゆえに、諸仏如来を等覚と名づく。もし仏土に対して優劣の心を起こさば、仮令如来を供養すとも、法の供養にあらず。このゆえに言う、天の楽・華・衣・妙香等を雨と降らして供養し、諸仏の功徳を讚ずるに、分別の心あることなしと。

何等世界無佛法功德寶,我願皆往生,示佛法如佛。

いかなる世界に仏法の功徳という宝がなければ、私はすべてそこに生まれ変わり、仏のように仏法を示さん。

佛本何故起此願?見有軟心菩薩,但樂有佛國土修行,無慈悲堅牢心。是故興願:願我成佛時,我土菩薩皆慈悲勇猛堅固,志願能捨清淨土,至他方無佛法僧處住持莊嚴佛法僧寶,示如有佛,使佛種處處不斷。是故言何等世界無佛法功德寶,我願皆往生,示佛法如佛。觀菩薩四種莊嚴功德成就訖之于上,次下四句是迴向門。

仏はなぜこの願を起こされたのか。それは、心の柔らかな菩薩を見て、ただ仏の国で修行することを喜びとし、慈悲の堅固な心を持たない者たちがいたからである。そのため、この願を起こされたのである。「我が成仏の時、我が国の菩薩たちはみな慈悲深く、勇猛で、心が堅固であり、その志は清らかな土を捨て、他の仏法僧のない世界へ赴き、仏法僧の宝を住持し荘厳し、仏がおられるかのように示し、仏の種が世々断たれることなからしめん」と。それゆえに、「いかなる世界に仏法僧の功徳の宝がなくとも、我は願ってみな往生し、仏の如く法を示さん」と説かれたのである。以上に菩薩の四種の荘厳功徳の成就を見終えた。次に下の四句は、廻向門である。

我作論說偈,願見彌陀佛,普共諸眾生,往生安樂國。

我が論を作して偈を説き、願わくは弥陀仏を見奉り、普く諸の衆生と共に、安楽国に往生せん。

此四句是論主迴向門。迴向者,迴己功德普施眾生,共見阿彌陀如來生安樂國。

この四つの句は、論主が回向の門を説かれたものです。回向とは、自分の功徳を振り返り向けて、すべての衆生に広く施し、共に阿弥陀如来をお見奉りして安楽国に生まれようとすることを意味します。

無量壽修多羅章句,我以偈誦總說竟。

無量寿経の章句を、私は偈の形で総じて説き終えました。

問曰:天親菩薩迴向章中言「普共諸眾生往生安樂國」,此指共何等眾生耶?答曰:案王舍城所說《無量壽經》。佛告阿難:「十方恒河沙諸佛如來皆共稱嘆無量壽佛威神功德不可思議。諸有眾生聞其名號,信心歡喜,乃至一念至心迴向願生彼國,即得往生,住不退轉;唯除五逆、誹謗正法。」案此而言,一切外凡夫人皆得往生。又如《觀無量壽經》有九品往生。下下品生者,或有眾生作不善業,五逆十惡具諸不善。如此愚人以惡業故,應墮惡道經歷多劫受苦無窮。如此愚人臨命終時,遇善知識種種安慰為說妙法,教令念佛,此人苦逼不遑念佛。善友告言:「汝若不能念者,應稱無量壽佛。如是至心令聲不絕,具足十念稱南無無量壽佛。稱佛名故,於念念中除八十億劫生死之罪,命終之後見金蓮華,猶如日輪住其人前。如一念頃,即得往生極樂世界,於蓮華中滿十二大劫蓮華方開(當以此償五逆罪也),觀世音、大勢至以大悲音聲,為其廣說諸法實相,除滅罪法。」聞已歡喜,應時則發菩提之心,是名下品下生者。以此經證,明知下品凡夫但令不誹謗正法,信佛因緣皆得往生。

問うていわく、天親菩薩の廻向章に「普く諸衆生と共に安楽国に往生せん」と言う。これは何れの衆生を指すや。

答えて言わく、王舎城にて説きたまいし《無量寿経》を按ずるに、仏、阿難に告げたまわく「十方恒河沙の諸仏如来、皆共に無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを称嘆したまえり。諸の衆生、その名号を聞きて、信心歓喜し、乃至一念、至心に廻向して彼の国に生ぜんと願ずれば、即ち往生を得て、不退転に住す。唯だ五逆と正法を誹謗するを除く」と。これを按ずるに、一切の外凡夫人、皆往生を得べし。又《観無量寿経》に九品往生あり。下下品に生ずる者は、或いは衆生の不善の業を作し、五逆十悪、諸の不善を具えたるあり。かくの如き愚人は悪業の故に、悪道に堕ちて多くの劫を経て苦を受くること窮まりなし。かくの如き愚人、臨命終の時に善知識に遇いて種種に安慰し、為に妙法を説き、教えて仏を念ぜしむ。この人、苦に逼られて仏を念ずるに遑あらず。善友、告げて言わく「汝もし念ずること能わずんば、応に無量寿仏を称すべし。かくの如く至心に声をして絶えしめず、十念を具足して南無無量寿仏と称せよ。仏の名を称するが故に、念々の中に於いて八十億劫の生死の罪を除く。命終の後、金蓮華を見ること、猶お日輪の其の人前に住するが如し。一念頃の如くにして、即ち極楽世界に往生を得。蓮華の中に於いて満十二大劫にして蓮華方に開く(当に此を以て五逆の罪を償うべきなり)。観世音、大勢至、大悲の音声を以て、其の為に諸法実相を広説し、罪を除滅する法を説く」と。聞きて已って歓喜し、時に応じて即ち菩提の心を発す。是を下品下生者と名づく。此の経を以て証とすれば、明らかに下品の凡夫、但だ正法を誹謗せず、仏の因縁を信ずれば皆往生を得ることを知る。

問曰:《無量壽經》言「願往生者皆得往生;唯除五逆、誹謗正法。」《觀無量壽經》言「作五逆十惡具諸不善亦得往生。」此二經云何會?答曰:一經以具二種重罪,一者五逆、二者誹謗正法。以此二種罪故,所以不得往生。一經但言作十惡五逆等罪,不言誹謗正法,以不謗正法故是故得生。

問いかけ:『無量壽経』には「浄土への往生を願う者は皆往生できる。ただし五逆の罪を犯した者と正しい教えを誹謗する者を除く」とあります。一方、『観無量壽経』には「五逆や十悪を犯し、あらゆる不善を行う者でも往生できる」とあります。この二つの経典の教えは、どのように理解すればよいのでしょうか。

答え:一方の経典(『無量壽経』)では、二種類の重い罪が挙げられています。一つは五逆の罪、もう一つは正しい教えを誹謗する罪です。この二つの罪を犯すために、往生できないと説かれているのです。もう一方の経典(『観無量壽経』)では、十悪や五逆などの罪について述べていますが、正しい教えを誹謗する罪については言及していません。正しい教えを誹謗していないからこそ、往生できると説かれているのです。

問曰:假使一人具五逆罪而不誹謗正法,經許得生。復有一人但誹謗正法而無五逆諸罪,願往生者,得生以不?答曰:但令誹謗正法,雖更無餘罪,必不得生。何以言之?經言「五逆罪人,墮阿鼻大地獄中具受一劫重罪。誹謗正法人,墮阿鼻大地獄中,此劫若盡復轉至他方阿鼻大地獄中。」如是展轉經百千阿鼻大地獄,佛不記得出時節,以誹謗正法罪極重故。又正法者即是佛法,此愚癡人既生誹謗,安有願生佛土之理?假使但貪彼土安樂而願生者,亦如求非水之氷、無煙之火,豈有得理?

問い:もし一人の人が五逆の罪を全て犯しても正法を誹謗しなければ、経典によると往生できるとされています。また別の一人の人が正法を誹謗するだけで五逆の罪はない場合、往生を願えば、実際に往生できるのでしょうか?

答え:正法を誹謗するだけであれば、他の罪がなくても、必ず往生することはできません。なぜなら、経典にこうあるからです。「五逆の罪を犯した人は、阿鼻大地獄に堕ちて、一劫の間、重い罪の苦しみを全て受ける。しかし、正法を誹謗した人は、阿鼻大地獄に堕ちて、この劫が終われば、また他の世界の阿鼻大地獄に移される。」このようにして、百千もの阿鼻大地獄を転々とし、仏もその出られる時を明かされません。それは、正法を誹謗する罪が極めて重いからです。また、正法とはすなわち仏法です。この愚かな人は、すでに誹謗の心を起こしているのに、どうして仏の国に生まれたいと願う道理がありましょうか。たとえその国の安楽に貪って往生を願ったとしても、それは水のない所で氷を求め、煙のない所で火を求めるようなもので、どうして得られる道理がありましょうか。

問曰:何等相是誹謗正法?答曰:若言無佛無佛法、無菩薩無菩薩法。如是等見,若心自解、若從他受,其心決定,皆名誹謗正法。

問うていう。「どのような相が正法を誹謗することなのか。」答えていう。「もし『仏はない』『仏法はない』『菩薩はいない』『菩薩の教えはない』と言うならば、そのような見解を持つことだ。このような見解を、心で自ら理解しようと、他人から教えを受けようと、その心が確固として決まっているならば、すべて正法を誹謗するという。

問曰:如是等計但是己事,於眾生有何苦惱踰於五逆重罪耶?答曰:若無諸佛菩薩說世間出世間善道教化眾生者,豈知有仁義禮智信耶?如是世間一切善法皆斷、出世間一切賢聖皆滅。汝但知五逆罪為重,而不知五逆罪從無正法生,是故謗正法人其罪最重。

問い:このような見解はただ自分自身のことだけを考えているに過ぎませんが、衆生に対して五逆の重罪を超えるような苦しみや悩みをもたらすのでしょうか。

答え:もし諸仏や菩薩が、世間と出世間の善い教えを説いて衆生を導いてくださらなければ、どうして仁・義・礼・智・信という道徳を知ることができるでしょうか。このように、世間のすべての善い法は断たれ、出世間のすべての賢者や聖者は滅びてしまうのです。あなたはただ五逆の罪が重いと知っているだけで、五逆の罪が正しい教えが無いことから生じることを知らないのです。だからこそ、正しい教えを誹謗する人の罪が最も重いのです。

問曰:《業道經》言「業道如秤,重者先牽。」如《觀無量壽經》言「有人造五逆十惡具諸不善,應墮惡道經歷多劫受無量苦。臨命終時,遇善知識教稱南無無量壽佛。如是至心令聲不絕具足十念,便得往生安樂淨土,即入大乘正定之聚畢竟不退,與三塗諸苦永隔。」先牽之義於理如何?又曠劫已來備造諸行,有漏之法繫屬三界,但以十念念阿彌陀佛便出三界繫業之義復欲云何?答曰:汝謂五逆十惡繫業等為重,以下下品人十念為輕,應為罪所牽先墮地獄繫在三界者,今當以義校量,輕重之義在心、在緣、在決定,不在時節久近多少也。云何在心?彼造罪人自依止虛妄顛倒見生;此十念者,依善知識方便安慰聞實相法生。一實一虛,豈得相比?譬如千歲闇室,光若暫至即便明朗,豈得言闇在室千歲而不去耶?是名在心。云何在緣?彼造罪人自依止妄想心、依煩惱虛妄果報眾生生。此十念者,依止無上信心、依阿彌陀如來方便莊嚴真實清淨無量功德名號生。譬如有人被毒箭所中截筋破骨,聞滅除藥鼓,即箭出毒除(《首楞嚴經》言「譬如有藥名曰滅除,若鬪戰時用以塗鼓,聞鼓聲者箭出除毒。菩薩摩訶薩亦復如是,住首楞嚴三昧,聞其名者三毒之箭自然拔出」)。豈可得言彼箭深毒厲,聞鼓音聲不能拔箭去毒耶?是名在緣。云何在決定?彼造罪人依止有後心、有間心生。此十念者,依止無後心、無間心生,是名決定。校量三義,十念者重。重者先牽能出三有,兩經一義耳。

問うていわく、「『業道経』に『業道は秤の如し、重き者は先ず牽く』と説き、『観無量寿経』には『五逆十悪を造り、諸々の不善を具え、悪道に堕ちて多劫の間、無量の苦しみを受くべき人が、臨終の時に善知識に遇いて南無無量寿仏と称えることを教えられ、心を至して声を絶えず、十念を具足すれば、安楽浄土に往生し、大乗の正定聚に入り、畢竟して退かず、三塗の諸苦と永く隔てられる』と説かれています。重き者が先に牽くという義は、理の上でどうなのでしょうか。また、久遠の昔より諸々の行を造り、有漏の法は三界に繋がれているのに、ただ十念の阿弥陀仏への称念で三界の繫業を出るという義は、いったいどう説明されるのでしょうか。」

答うていわく、「あなたは五逆十悪の繫業などを重しとし、下下品の人の十念を軽しとして、罪に牽かれて先に地獄に堕ち、三界に繋がれるべきだと言います。今、義をもって比較衡量しましょう。軽重の義は、心にあり、縁にあり、決定にあり、時の長短や数の多少にあるのではありません。どうして心にあるのか。その罪を造る人は、虚妄の顚倒見に依止して生じます。この十念は、善知識の方便の慰めにより、実相の法を聞いて生じます。一つは実であり、一つは虚である。どうして比べられましょうか。たとえば千年の闇の室も、光が一時に至れば、すぐに明らかになる。闇が千年その室にあったからといって去らないと言えるでしょうか。これを『心にあり』と名づけます。どうして縁にあるのか。その罪を造る人は、妄想の心に依止し、煩悩の虚妄の果報の衆生に依止して生じます。この十念は、無上の信心に依止し、阿弥陀如来の方便荘厳・真実清浄・無量功徳の名号に依止して生じます。たとえば毒矢に射られ、筋を断たれ骨を破られた人が、滅除の薬鼓の音を聞けば、矢は抜け毒は除かれる、というようなものです。矢が深く毒が激しいからといって、鼓の音を聞いても矢を抜き毒を除けないと言えるでしょうか。これを『縁にあり』と名づけます。どうして決定にあるのか。その罪を造る人は、後の心あるもの、間の心あるものに依止して生じます。この十念は、後の心なきもの、間の心なきものに依止して生じます。これを『決定にあり』と名づけます。三つの義を比較衡量すれば、十念の方が重いのです。重いものが先に牽けば、三有を出ることができる。二つの経は同じ一つの義なのです。」

問曰:幾時名為一念?答曰:百一生滅名一剎那,六十剎那名為一念。此中云念者,不取此時節也,但言憶念阿彌陀佛若總相若別相,隨所觀緣心無他想,十念相續名為十念。但稱名號亦復如是。

問うていわく、どのくらいの時間を「一念」と名づけるのか。答えていわく、百一回の生滅を「一刹那」と名づけ、六十刹那を「一念」と名づける。ここでいう「念」とは、この時間の長さを指すのではない。ただ阿弥陀仏を憶念することを言うのであり、全体の相であれ個々の相であれ、観ずるところの対象に従って心に他の思いを挟まず、十回の念を相続させることを「十念」と名づけるのである。ただ名号を称えることもまた同様である。

問曰:心若他緣攝之令還,可知念之多少,但知多少復非無間;若凝心注想,復依何可得記念之多少?答曰:經言十念者,明業事成辨耳,不必須知頭數也。如言蟪蛄不識春秋,伊蟲豈知朱陽之節乎?知者言之耳。十念業成者,是亦通神者言之耳。但積念相續不緣他事便罷,復何暇須知念之頭數也?若必須知,亦有方便,必須口授,不得題之筆點。

問いかけ:心が他の対象にそれてしまったなら、それを引き戻して念を続けることで、その念の回数を知ることができるでしょう。しかし、ただ回数を知るだけでは、絶え間ない念にはなりません。もし心を集中して思いを込めるならば、どのようにして念の回数を数えることができるのでしょうか?

答え:経典に「十念」と言うのは、修行の業が成し遂げられたことを示すものであって、必ずしもその回数を知る必要はありません。例えば、夏の虫は春や秋を知らないと言いますが、その虫が季節の移り変わりを知るでしょうか?知っている者が言うだけのことです。十念の業が成し遂げられたというのも、同様に悟りを得た者が言うだけのことです。ただ、念を積み重ねて続け、他のことに心を向けなければそれでよいのです。どうして念の回数を知る暇があるでしょうか?もしどうしても知る必要があるなら、方法はありますが、それは口伝えで教えるべきものであって、文字に記すことはできません。

無量壽經優婆提舍願生偈註卷上

無量寿経優婆提舎願生偈註 巻上


第二

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