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道行般若経 (道行般若經)


道行般若經序

道行般若経の序

釋道安撰

道安著

大哉智度!萬聖資通,咸宗以成也。地合日照,無法不周,不恃不處,累彼有名,既外有名,亦病無形,兩忘玄莫,喟然無主,此智之紀也。夫永壽莫美乎上乾,而齊之殤子;神偉莫美於凌虛,而同之𠉌滯;至德莫大乎真人,而比之朽種;高妙莫大乎世雄,而喻之幻夢。由此論之,亮為眾聖宗矣。何者?執道御有,卑高有差,此有為之域耳;非據真如、遊法性、冥然無名也。據真如、遊法性、冥然無名者,智度之奧室也。名教遠想者,智度之蘧廬也。然在乎證者,莫不𮚪其生無而惶胘;存乎邇者,莫不忿其蕩冥而誕誹。道動必反,優劣致殊,眩誹不其宜乎!不其宜乎!要斯法也,與進度齊軫,逍遙俱遊,千行萬定莫不以成。眾行得字而智進全名,諸法參相成者,求之此列也。具其經也,進咨第一義以為語端,退述權便以為談首;行無細而不歷,數無微而不極;言似煩而各有宗,義似重而各有主。璅見者慶其邇教而悅寤,宏哲者望其遠標絕目。陟者彌高而不能階,涉者彌深而不能測,謀者慮不能規,尋者度不能盡。既窈冥矣!真可謂大業淵藪,妙矣者哉!然凡諭之者,考文以微其理者昏其趣者也;察句以驗其義者迷其旨者也。何則?考文則異同每為辭,尋句則觸類每為旨;為辭則喪其卒成之致,為旨則忽其始擬之義矣。若率初以要其終,或忘文以全其質者,則大智玄通居可知也。從始發意逮一切智,曲成決著八地無染,謂之智也,故曰遠離也。三脫照空,四非明有,統鑑諸法,因後成用,藥病雙亡,謂之觀也。明此二行,於三十萬言,其如視諸掌乎。顛沛草次,無起無此也。佛泥曰後,外國高士,抄九十章,為道行品。桓靈之世,朔佛齎詣京師,譯為漢文,因本順旨,轉音如已,敬順聖言,了不加飾也。然經既抄撮合成音投,音殊俗異,譯人口傳,自非三達,胡能一一得本緣故乎?由是道行頗有首尾隱者,古賢論之,往往有滯。仕行恥此,尋求其本,到于闐乃得,送詣倉垣,出為放光品。斥重省刪,務令婉便,若其悉文,將過三倍。善出無生,論空持巧,傳譯如是,難為繼矣。二家所出,足令大智煥爾闡幽。支讖全本。其亦應然。何者?抄經刪削,所害必多。委本從聖,乃佛之至戒也。安不量末學,庶幾斯心,載詠載玩,未墜于地,檢其所出,事本終始,猶令折傷玷缺𭼪然無際。假無放光,何由解斯經乎?永謝先哲,所蒙多矣!今集所見為解句下,始況現首,終隱現尾;出經見異,銓其得否,舉本證抄,敢增損也。幸我同好飾其瑕讁也。

偉大なる智慧の完成よ。すべての聖者はこれによって通じ、みなこれを根本として成し遂げる。地が合し日が照らすように、この法が及ばないものはない。それに頼らず、そこにとどまらず、名あるものに煩わされる。すでに名あるものを外し、また形なきものをも病とする。両方を忘れて玄妙な静けさに至り、ため息をつくように何ものにもとらわれない。これが智慧のあり方である。

永遠の寿命は天よりも美しいものはないが、それを夭折した子と等しいとした。神々しい偉大さは虚空を凌ぐことに勝るものはないが、それを沈滞と同一視した。最高の徳は真人に勝るものはないが、それを朽ちた種にたとえた。高妙さは世の雄に勝るものはないが、それを幻の夢にたとえた。これによって論じるならば、明らかにこれはもろもろの聖者の根本である。なぜか。道を執り有を御し、低い高いに差があるのは、これは有為の領域にすぎない。真如に拠り、法性に遊び、冥然として名もなきものではない。真如に拠り、法性に遊び、冥然として名もなきものこそ、智慧の完成の奥深い室である。名と教えを遠く思うものは、智慧の完成の仮の宿である。

しかし証する者にあっては、その生が無いことを喜ばずして恐れおののく者はない。近くにいる者にあっては、その広大で冥いことを怒らずして誹る者はない。道は動けば必ず反り、優劣はおのずと異なる。眩惑し誹るのは、それも当然ではないか。それも当然ではないか。要するにこの法は、進度と車を並べ、逍遙とともに遊び、千の行も万の定もみなこれによって成る。もろもろの行が名を得て智慧が進み全き名となる。諸法が互いに相まって成るものは、ここに求めるがよい。

その経を具に見るに、進んでは第一義を諮って語の端とし、退いては権便を述べて談の首とする。行は細かいこととしても歴ないものはなく、数は微かなることとしても極めないものはない。言葉は煩わしいようでいて、それぞれに宗があり、義は重なるようでいて、それぞれに主がある。浅はかな見る者はその近き教えを喜んで悦び悟り、広い智慧の者はその遠き標を望んで目を絶つ。登る者はますます高くして階ることができず、渡る者はますます深くして測ることができない。謀る者は慮っても計ることができず、尋ねる者は度っても尽くすことができない。まことに窈冥である。まことに大いなる業の淵叢と言うべきである。妙なるかな。

しかし凡そこれを論じる者は、文を考査してその理を微かにする者はその趣を昏くする。句を察してその義を験す者はその旨を迷わせる。なぜか。文を考査すれば異同が毎に辞となり、句を尋ねれば触類が毎に旨となる。辞となせばその終わりを成すの致を喪い、旨となせばその始めの擬した義を忽かにする。もし初めに率いてその終わりを要め、あるいは文を忘れてその質を全うするならば、大いなる智慧の玄通は居りながらにして知ることができる。

始めに意を発して一切智に逮し、曲成して決著し八地に染まない、これを智と言う。ゆえに遠離と言う。三解脱は空を照らし、四非は有を明かにし、もろもろの法を統べ鑑み、後にしたがって用を成し、薬も病もともに亡ぶ、これを観と言う。この二行を明かにすること、三十万言において、それは掌を見るようなものだ。顛沛し草次するも、起もなく此もない。

仏が涅槃に入られた後、外国の高士が九十章を抄して道行品とした。桓帝・霊帝の世に、朔仏がこれを京師に齎し、漢文に訳し、本に因って旨に順い、音を転じて己のごとくし、聖言を敬順し、少しも飾りを加えなかった。しかし経はすでに抄撮して音投を合成し、音は殊に俗は異にし、訳人は口伝した。自ら三達にあらずんば、どうして一つ一つ本の縁故を得ることができようか。これにより道行はかなり首尾の隠れたところがあり、古の賢者がこれを論じ、往々にして滞りがあった。

仕行はこれを恥じ、その本を尋ね求めて于闐に到ってようやく得、倉垣に送り、放光品として出した。重複を斥け省略を省き、務めて婉便にし、もしその文を悉くすれば、まさに三倍を過ごすであろう。無生を善く出し、空を持するに巧みを論じ、伝訳はこのようで、継ぐことは難しい。二家の出したところ、大いなる智慧をして輝かせ幽を闡かにするに足る。支讖の全本も、また当然そうあるべきである。なぜか。抄経は削り、害すること必ず多い。本に委ね聖に従うのは、これ仏の至戒である。

安は末学を量らず、この心に庶幾し、詠み玩びて、未だ地に墜ちず。その出したところを検し、事の本の終始、なお折傷玷欠して、𭼪然として際がない。仮に放光がなければ、何によってこの経を解することができようか。永く先哲に謝す、蒙ること多きかな。今見るところを集めて句の下に解とし、始めは現首に況し、終わりは現尾に隠す。出経に見異あれば、その得否を銓び、本を挙げ抄を証し、敢えて増損する。幸いに我が同好がその瑕讁を飾らんことを。

道行般若經卷第一

『道行般若経』第一巻

後漢月支國三藏支婁迦讖譯

後漢・月支国・三蔵 支婁迦讖 訳


1 道行品

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