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  1. 般若心経釈略 (般若心經釋略)
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般若心経釈略 (般若心經釋略)


No. 544-A林子心經釋略槩論總序

No. 544-A 林心経釈略概論総序

或問:釋氏之教,都無有法。若未離法,便不是佛。是耶?非耶?林子喟然嘆曰:此余心經釋略槩論之所由作也。而子曾見余之釋略槩論乎?未也。然佛之地步甚高,而必至於虗空本體。本體虗空,無有一法,乃可名佛。而曰:若未離法,便不是佛。豈不然哉?然必由積久而後能致。如釋迦所謂:吾一劫至於千萬劫,而吾精進之心,未甞少退。子豈不聞之乎?而曰:釋氏之教,都無有法者,余亦未敢以為然。故始於有法者,筏喻以渡河也。終於無法者,舍筏而登岸也。他如金剛經所云:應如是住,如是降伏其心。夫曰住,曰降伏,謂非有法而何?縱是聖賢,亦且有無為法矣,況其下乎?至於楞嚴經所載二十五聖,圓通圓覺經之二十一漸教、三頓教、一圓教,天台止觀之十八觀,是皆釋氏之法,萬古不易之常經也。然則心經亦有法歟?林子曰:然。若首下一觀字,豈非十八觀之義乎?其曰:菩提薩埵,依般若波羅蜜多故。是乃聖賢之無為法也。然呪亦法也,揭之揭之,又復揭之,不謂之漸教而何?豈曰二十五聖,即三世諸佛,抑亦不能外法以成佛矣。

ある人が尋ねた。「仏教には、本来一切の法(修行の手段)は存在しないと聞きます。もし法から離れていなければ、それは仏ではないとのこと。これは正しいのでしょうか、間違いなのでしょうか。」

林先生は嘆息して答えられた。「それが、私が『心経釈略概論』を著した理由なのだ。あなたは私の『心経釈略概論』を読んだことがあるか?まだだね。確かに仏の境地は非常に高く、必ずや虚空そのものの本体に達しなければならない。本体が虚空であれば、一切の法は存在せず、それで初めて仏と名乗ることができる。そして『もし法から離れていなければ、それは仏ではない』という言葉は、その通りではないだろうか?しかし、そうした境地に至るには、長い年月を積み重ねて初めて得られるものなのだ。例えば釈迦は『私は一劫から千万劫に至るまで、その精進の心を少しも退けなかった』と言っている。あなたはそれを聞いたことがないのか?そして『仏教には一切の法は存在しない』という主張には、私も同意しかねる。そもそも、初めに法があるのは、筏(いかだ)のたとえで川を渡るようなものだ。そして最後に法がなくなるのは、筏を捨てて岸に上がるようなものだ。他にも『金剛経』には『こうして心をとどめ、こうしてその心を降伏せよ』とある。『とどめる』『降伏する』という言葉がある以上、これを法といわずして何と言おう?たとえ聖賢であっても、さらに無為の法があるのだ。ましてやそれ以下の者たちはなおさらである。『楞厳経』に記された二十五聖、『円覚経』の二十一漸教・三頓教・一円教、天台の止観における十八観、これらはいずれも仏教の法であり、万古不変の常経である。では『心経』にも法があるのだろうか?」

林先生は言われた。「その通り。冒頭に『観』という一字があるではないか。これはまさに十八観の意味ではないか?また『菩提薩埵は般若波羅蜜多に依るがゆえに』とあり、これこそ聖賢の無為の法である。しかし、呪文もまた法である。『掲諦、掲諦、さらにまた掲諦』と繰り返すのは、これを漸教といわずして何と言おう?まさに二十五聖は三世の諸仏であっても、法を離れて仏となることはできないのである。」

龍江兆恩

龍江の兆し、恩恵が広がる。


No. 544-B 附心經釋論就正小柬

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