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四教義 (四教義)


四教義卷第七

四教義巻第七

天台山修禪寺智顗禪師撰

天台山修禅寺の智顗禅師の撰

第三約三藏教明菩薩位以釋淨無垢稱義者。三藏教詮因緣生滅之理。明菩薩藏義。亦應具有四門。今約毘曇有門。明大乘菩薩位。即為四意。一翻譯。二辨位。三料簡。四釋淨無垢稱義。第一翻譯。所言菩薩摩訶薩者。是天竺語。若具依彼語。應云菩提薩埵摩訶薩埵。但諸師翻譯不同。今不具述。而智度論翻云。菩提名佛道。薩埵名成眾生。摩訶言大。此人用諸佛大道成眾生也。又有師翻云。菩提名道。薩埵名心。摩訶名大道是以為道心大道心。而諸經論多云菩薩摩訶薩者。什師以天竺語繁。兩句八字標名。故除三字留五字。合為一句。名菩薩摩訶薩也。但三乘菩提通名為道。而菩薩獨受大名者。以其緣四諦起慈悲四弘誓願。上求佛果下化眾生。此心矌大故別受摩訶薩埵之稱也。第二辨菩薩位。略為七意。一發菩提心。二行菩薩道。三種三十二相業。四六度成滿。五一生補處。六生兜率天。七八相成道。一發菩提心者。如釋迦牟尼菩薩。於過去世為陶師。值釋迦牟尼佛供養彼佛。又見彼佛智慧第一弟子。名舍利弗。神通第一弟子。名目揵連。多聞侍者名曰阿難。爾時陶師供養佛已。即便發菩提心。作是誓願。願未來世我得作佛。還號釋迦牟尼。智慧弟子名舍利弗。神足弟子名目揵連。多聞侍者名阿難。可悅其願。從是初發菩提心。即慈悲四弘誓願發也。但三藏教慈悲四弘誓願。皆緣生滅四諦而起。所言慈悲心者。一大慈心。欲與愛見二種眾生道滅之樂也。二大悲心。欲拔愛見二種眾生苦集之苦也。四弘誓願者。一未度者令度者。即是天魔外道愛見二種。六道眾生未度三界火宅之苦諦。令得度也。二未解者令解者。即是愛見二種眾生。未解愛見二十五有業。集令得解也。三未安者令安者。即是愛見二種眾生。未安三十七品一切諸道令安道諦也。四未涅槃者令得涅槃者。此愛見二種眾生。未滅二十五有生死因果。皆令得滅諦涅槃也。若緣愛見二種眾生。生滅四諦而起慈悲四弘誓願者。即是菩薩初發菩提心也。知愛見四諦故。智慧勝諸天魔一切外道。有慈悲誓願功德故勝一切聲聞緣覺。故大智度論云。初發心以為天人師。勝出一切聲聞緣覺。二行菩薩道者。即是三阿僧祇劫行六度也。從過去釋迦牟尼佛至罽那尸棄佛時。名一阿僧祇劫。從此常離女人身。爾時不自知我當作佛不作佛。此初阿僧祇劫。即是得五停心別想總想念處之位。用性念處共念處緣念處。行六度也。三種念處義略如前說。所以者何。修性念處為壞屬愛魔業。破屬見一切智六師修共念處。欲壞愛結破神通六師修緣念處為一切愛見眾生說法。屬愛壞故一切天魔眷屬壞。愛見壞故三六十八種六師。及一切外道眷屬壞也。故用三種念處行六波羅蜜。意欲降伏天魔制諸外道。菩薩用三種念處行六度時。雖修性念處而不斷結。為生三界度眾生故。常欲多修共念處觀為得神通。成四攝法同事。調伏愛見眾生。又常多修緣念處觀。為欲成四辨說三乘法。化一切愛見眾生。共出三界火宅也。是為初阿僧祇劫修行六度。用四弘誓願安撫生死心無怯弱根壞女人之業。常受丈夫之身也。爾時未發煗解位在外凡。故不自知己身當得作佛不得作佛也。次明從罽那尸棄佛至燃燈佛。為第二阿僧祇劫。是時菩薩用七莖青蓮華。供養燃燈佛。敷鹿皮衣布髮掩泥。時燃燈佛便授其記。汝當來世必得作佛。名釋迦牟尼。爾時菩薩雖能自知我必作佛。而口不稱我當作佛。謂此是用煗法智慧修六度也。所以者何。因總想四念處。初得善有漏五陰。即是性地順忍初心之位。既有證法之信。故必知作佛。而用煗解修行六度。心未分明故不向他說。次明從燃燈佛。至毘婆尸佛。為第三阿僧祇劫滿。是時菩薩內心了了自知作佛。口自發言無所畏難。我於來世當得作佛。今謂此是頂法之位。行六波羅蜜四諦觀解分明。如登山頂四方顧分明。了了自知作佛。亦向他人說也。三明過三阿僧祇劫。種三十二相業。今謂此是入下忍之位。用此忍智修行六度。成百福德。用百福德成一相。以為三十二相之業因也。種三十二相業因。於下忍之位。修六波羅蜜成百福之相。以為三十二相業因也。是三十二相。於欲界閻浮提人中。受男子身。佛出世時緣佛身相故得種也。問曰。所言百福德成一相者。幾功德成一相福德耶。答曰。異解不同。難可定判。有人言。是福不可稱量不可譬喻是菩薩入三阿僧祇劫。心修大行種是三十二相因緣。以是故福無能量。唯佛能知。問曰。菩薩幾時種三十二相。答曰。極遲百劫。極疾九十一劫。弗沙佛觀釋迦菩薩自身生弟子熟。彌勒菩薩自熟弟子生。多人難度一人易化。故弗沙佛於寶窟中。放光照釋迦。菩薩釋迦菩薩尋光至弗沙佛所。於七日七夜一心觀佛。目不暫眴。但用一偈稱歎云。天地此界多門室。逝宮天處十方無。丈夫牛王大沙門。尋地山林遍無等。以苦行力超越九劫。在彌勒菩薩前成正覺也。四明六波羅蜜滿者。問曰。檀波羅蜜云何滿。答曰。一切能施無所遮礙。乃至以身施時心無所惜。如尸毘王。以身施鴿解剔皮肉。雖受痛苦。舉身上秤以贖鴿命心不悔恨。立誓自證我心無悔者。身可平復。既立誓已。天地震動身還如故。如是等菩薩本生捨身命施。心不退悔。是檀波羅蜜滿也。問曰。云何尸羅波羅蜜滿。答曰。不惜身命護持淨戒。如須陀摩王。是王精進持戒常依實語。與劫磨沙波陀大王共期。乞暇還國七日供養沙門竟。即來就終。是王期滿。為持實語戒故。趣期就死。是則為持一戒不惜身命。如是等處處因緣經說本生。菩薩因地。持戒捨身命心不悔恨。即是尸羅波羅蜜滿相。問曰。羼提波羅蜜云何滿。答曰。若人來罵。撾捶割剝支解奪命。心不起瞋。如羼提比丘常修慈忍。在林樹下入禪三昧。時迦梨王。為女色故生愛弊。垢截其手足耳鼻。心忍不動。時王問言。今截解身定。能忍否。比丘答言。意實不瞋恨。王言。今誰信汝耶。比丘答曰。若實忍心不瞋恨。當令我身即尋平復。說是語時身即如故。如是等不惜身命修行忍辱。是名羼提波羅蜜滿相。問曰。毘梨耶波羅蜜云何滿。答曰。若有大心。如大施太子。為一切眾生入海採寶。從龍王得如意珠。欲將還閻浮提。雨衣服寶物布施眾生。海神惜珠。因其睡臥即盜取其珠。將還海宮。太子覺已為此珠故。誓以此身抒大海水令海乾盡。從海神索珠心定不懈。帝釋諸天感太子心。為物精進不惜身命。即將諸天助抒海水。水遂減半。海神怖故慚愧還珠。亦如釋迦菩薩值弗沙佛。七日七夜翹一脚目不暫眴。如是等不惜身命。為物精進。是名毘梨耶波羅蜜滿相。問曰。云何名為禪波羅蜜滿相。答曰。如一切禪定自在。又如尚闍梨仙人坐禪時。無入出息。鳥於螺髮中生子。不搖動乃至鳥子飛去。是名禪波羅蜜滿相。問曰。般若波羅蜜云何滿。答曰。菩薩大心分別。如劬嬪婆羅門大臣。分閻浮大地作七分。若干大城小城聚落村民。盡作七分。般若波羅蜜亦如是。是菩薩般若波羅蜜滿相。今謂此皆下忍智慧。能調伏諸根滿足六度也。所以者何。下忍智慧力強煩惱力弱。用此智慧修行六度。能忍六弊不惜身命成六度也。四波羅蜜滿。正是性念處力至下忍也。禪波羅蜜滿。多是共念處力至下忍也。般若波羅蜜滿。正是緣念處力至下忍也。問曰。羅漢尚不能不惜身命。修行六度。下忍智慧之力。何能成六度也。答曰。若無慈悲誓願。積劫修行之力羅漢智慧尚不能爾。何況下忍。今外緣慈悲誓願久積熏修。內有忍法智慧。助破六弊之力也。五住一生補處者。即是釋迦菩薩。在生迦葉佛所。為補處弟子。淨持禁戒行諸功德。迦葉授記次當作佛。恐此由在中忍之位也。六生兜率陀天者。捨閻浮之報。上生此天為諸天人師。於在此天用三種念處。修八勝處。為欲伏結清淨。下閻浮提。神通變化降伏天魔。四辨說法破諸外道。及度一切眾生也。此由屬中忍之位。問曰。菩薩何意。從初發心伏結至此伏而不斷也。答曰。若斷結即不得受生化物。觀無常伏結令諸煩惱脂消。用清淨心修行六度。令諸功德肥也 七下生成道者。即是三藏教明八相成道菩提果。所言八相成道者。一從兜率天下。二託胎。三出生。四出家。五降魔。六成道。七轉法輪。八入涅槃。一兜率天下者。菩薩將欲下生時。用四種觀人間。一觀時。即是人壽百歲時是佛出世之時。二觀土地。諸佛常依中國生迦維羅衛。即是百億日月之中也。三觀種姓。佛生二種姓中。一剎利姓勢力大故。二婆羅門姓智慧大故。釋迦牟尼佛生剎利姓也。四觀生處。何等女人。能懷那羅延力菩薩。唯中國迦毘羅婆城淨飯王后。能懷後身菩薩。如是思惟已。後從兜率陀天下。問何故作白象形非餘。二明處胎。即是正慧入母胎。一切眾生邪慧入母胎。菩薩憶念不失。故名正慧入母胎。中陰住則知中陰。入胎時。知入胎。歌羅邏時。知歌羅邏時。七日赤白精血合。安浮陀時。二七日如蠒狀。伽陀時。三七日如凝酪。五胞時出生時。皆憶念不失。是名正慧入母胎。復次餘人住中陰。入母胎欲受生時。於父母生顛倒心。生不淨心。菩薩不爾。正慧明識父母相續入胎。是名正慧也。三明出胎相者。是菩薩滿足十月。正慧不失念。從右腋而出胎生墮於地。即行七步。口自發言。天上天下唯我為尊。當初生時。國中即有三十二瑞事在。瑞應經具明。乃至將示相師阿姨相太子。身具三十二相八十種好。即便悲淚。王恐不祥。問阿姨曰。我子不祥故悲淚也。仙人答曰。吉無不祥。太子相好分明。其若在家當作轉輪聖王。飛行皇帝王四天下。十善化世。其若出家。必成自然之佛度脫萬姓。但太子相好分明。必不在家作轉輪王。若其出家。必得菩提度脫天人。傷吾年老不覩佛興。故悲淚耳。所以用三十二相八十種好。莊嚴其身故。欲為得三菩提之器也。問曰。何故現相三十二好有八十。答曰。成佛莊嚴法如此故。四明出家者。是時菩薩年漸長大。出四城門見老病死苦。厭怖心生。夜半踰城出家六年苦行。食難陀婆羅門石蜜乳糜益身十六功德。五明降魔相者。即於菩提樹下。破萬八千億鬼兵魔眾。魔王敗勣鬼兵退散。六成道相者。魔眾散已攝心端坐。於第四禪住中忍。修觀成中忍一剎那。上忍一剎那。世第一法一剎那。發真無漏。三十四心得阿耨多羅三藐三菩提。三十四心者。八忍八智九無礙九解脫也。具足佛十力四無所畏十八不共法三達無礙三意止大悲四無礙智一切諸法總想別想悉知。故名為佛。第九解脫具足一切種智並在未來。故名小乘佛。七明轉法輪相者。於鹿野苑中為拘隣等五人。三轉生滅四諦法輪。天人得道。此為證三寶於是現世間。次說十二因緣法輪。次為菩薩說六波羅蜜法輪。是則開三乘之教。名修多羅藏。十二年後。佛在毘舍離國。為須隣那迦陀長者子作婬欲。以是因緣結初大罪。二百五十戒。次佛在舍婆提城。告諸比丘。諸有五怖五罪五怨。不除不滅。是因緣故。於此世未來受無量苦。是名佛自說毘曇教。從此轉三藏法輪。乃至涅槃。教三乘弟子。是名轉法輪相。八明入涅槃相者。於拘尸那城沙羅雙樹間。逆順出入超越三昧。於第四禪中。入火光三昧。燒身滅度唯留舍利。為人天福田。身智俱滅入無餘涅槃。是為聲聞經中說大乘之位。次第三明料簡者。問曰。聲聞經中開三乘。何故二乘即生斷結。菩薩從初發心。乃至至降魔都不斷結。答曰。聲聞緣覺。厭患生死自求涅槃。不為利物。是故貪取真斷結。結盡則不受生入涅槃也。菩薩大慈怜愍欲度一切。受生死苦教化眾生。眾生出世善根淳熟。即便成道。說三乘教。共三乘人同入涅槃。若因中斷結。即不得受生。豈能利物。是故忍受生死不斷結使。三阿僧祇處在生死。教化眾生。共出三界故不斷結使。意在於此。問曰。菩薩斷結誓願神通應化利物。何必須留結而受生耶。答曰。斷結誓願神通應化受生。此乃是摩訶衍之所說。非三藏之所明。所以者何。斷結誓願受生。通教之所說。法性身神通受生。別教之所說。法身應生。圓教所說。問曰。聲聞經教為何意不得論斷結受生。答曰。三藏之教。正化小乘傍化菩薩。若說菩薩結盡受生。二乘即疑。若結盡而得受生者。諸聲聞人得羅漢果。將不更受生耶。是故不說菩薩斷結受生。問曰。若為二乘生疑。不說菩薩斷結受生者。大乘方等摩訶般若通教三乘。亦應不得說菩薩斷結。用誓願神通受生。答曰。此是生蘇熟蘇之教。二乘漸淳熟信解分明。聞菩薩事心不疑惑。故法華經云。過是已後心相體信。入出無難。然其所止故在本處。問曰。所明聲聞經菩薩義。為是佛說。為佛去世諸聲聞弟子說耶。答曰。有是佛說。亦有是諸羅漢作鞞婆沙阿毘曇中說。問曰。何者是佛所說。何者是羅漢所說耶。答曰。如說菩薩從初發心乃至不斷結使。坐道場時正習俱斷。此是佛說。何以得知。龍樹論主答數人言。若後身菩薩不斷結者。是佛方便所說也。亦有是諸羅漢佛去世後之所說者。如言初阿僧祇不自知作佛。二阿僧祇自知作佛。而口不宣說三阿僧祇劫。了了自知作佛。亦發言向他說。此義者非佛三藏中所說。乃至是諸羅漢作毘婆沙釋菩薩義。問曰。若佛自說三藏教明菩薩義。此則可信。若諸羅漢所說。云何可信。答曰。諸羅漢既是聖人。共採佛三藏教意。明菩薩義何容全失。問曰。若爾智度論何意。從始至終一一彈破。答曰。龍樹為欲申摩訶衍。明菩薩所行之道。以大破小皆可破也。若就小乘明三藏宗徒。羅漢聖人之所撰集。何容頓乖僻也。若諸羅漢明聲聞經。所釋菩薩義遂併乖僻。末世凡人法師。何可謬有申釋。凡情解釋小乘。既不可長承用。大乘深經。豈可出在妄情而論。故知雖非佛說。若是羅漢作論亦須信受。第四約三藏教位釋淨無垢稱義者。正是中忍補處之位也。六度之道即是淨義。所以者何。三種藥中無三種病。六度是道諦。即是淨義。故法華經云。又見佛子修種種行。求無上惠為說淨道也。維摩大士成就六度即是淨義。無六弊垢故言無垢。以相似解。內稱生滅四諦之理。外稱根緣。助釋迦如來。顯三乘之教。故云淨無垢稱也。是以方便品。現疾為國王長者。說無常苦空無我不淨之法。呵責諸人勸求佛果。意在於此也。問曰。維摩折挫聲聞彈呵菩薩。此是不思議之行位。何得用聲聞經所明菩薩之位挍量。答曰。住不可思議解脫菩薩。能種種示現。豈不能現聲聞經所明菩薩之像輔釋迦而弘化乎。問曰。何故化國王長者而示三藏菩薩之形說法。訶聲聞菩薩即現摩訶衍不思議之言教。答曰。凡俗界內結業未除故。說生滅四諦。此正是對治。羅漢菩薩界內因疾已除。但迷不思議三諦之理。是故說三種四諦。以折聲聞。說無作四實諦。訶菩薩也。

第三に、三蔵教に約して菩薩の位を明かし、もって「浄無垢称」の義を釈するとは、次のとおりです。三蔵教は因縁生滅の理を説き明かし、菩薩蔵の義を明かします。そこにもまた四つの門が具わっているはずです。ここでは毘曇の「有門」に約して、大乗菩薩の位を明かします。すなわち四つの意とします。一には翻訳、二には位の弁別、三には料簡、四には「浄無垢称」の義の解釈です。

第一に翻訳です。いわゆる「菩薩摩訶薩」とは、天竺の言葉です。もし完全にその言葉に依るならば、「菩提薩埵摩訶薩埵」と言うべきです。ただし諸師の翻訳は一様ではないので、ここでは詳しく述べません。智度論には、「菩提」とは仏道をいい、「薩埵」とは衆生を成すことをいい、「摩訶」とは大をいう、と翻訳されています。この人は、諸仏の大道をもって衆生を成すのです。またある師は、「菩提」とは道をいい、「薩埵」とは心をいい、「摩訶」とは大道をいう。したがって道心・大道心と訳します。しかし諸経論の多くは「菩薩摩訶薩」と言います。什師は、天竺の言葉が繁雑で、二句八字で名を標すため、三字を除いて五字を留め、合わせて一句とし、「菩薩摩訶薩」と名づけたのです。ただし三乗の菩提は通じて道と名づけますが、菩薩だけが特に「大」の名を受けるのは、四諦を縁として慈悲と四弘誓願を起こし、上には仏果を求め、下には衆生を化し、この心が広大であるからです。それゆえに別に「摩訶薩埵」の称を受けるのです。

第二に菩薩の位を弁別します。略して七つの意とします。一には菩提心を発すこと、二には菩薩道を行うこと、三には三十二相の業を種えること、四には六度を成就し満たすこと、五には一生補処、六には兜率天に生まれること、七には八相成道です。

一に菩提心を発すとは、たとえば釈迦牟尼菩薩は、過去世に陶師でした。釈迦牟尼仏に値遇してその仏を供養し、またその仏の智慧第一の弟子で舎利弗と名づける者、神通第一の弟子で目揵連と名づける者、多聞の侍者で阿難と名づける者を見ました。そのとき陶師は仏を供養し終えると、ただちに菩提心を発し、この誓願を立てました。「願わくは未来世に、私が仏となることを得て、また釈迦牟尼と号しましょう。智慧の弟子は舎利弗と名づけ、神足の弟子は目揵連と名づけ、多聞の侍者は阿難と名づけましょう」と。その願いを喜ぶべきです。ここから初めて菩提心を発しました。すなわち慈悲と四弘誓願を発すのです。ただし三蔵教の慈悲と四弘誓願は、いずれも生滅の四諦を縁として起こります。

いわゆる慈悲心とは、一には大慈心で、愛見の二種の衆生に道諦と滅諦の楽しみを与えようと欲します。二には大悲心で、愛見の二種の衆生の苦諦と集諦の苦しみを抜き去ろうと欲します。四弘誓願とは、一には「未だ度されざる者を度せしめん」とは、すなわち天魔・外道の愛見の二種、六道の衆生が、未だ三界の火宅の苦諦から度されていないのを度させ得ることです。二には「未だ解せざる者を解せしめん」とは、すなわち愛見の二種の衆生が、未だ愛見の二十五有の業と集諦を解していないのを解させ得ることです。三には「未だ安からざる者を安からしめん」とは、すなわち愛見の二種の衆生が、未だ三十七品の一切の諸道に安んじていないのを道諦に安んじさせ得ることです。四には「未だ涅槃せざる者を涅槃せしめん」とは、この愛見の二種の衆生が、未だ二十五有の生死の因果を滅していないのを、皆、滅諦の涅槃を得させようとすることです。もし愛見の二種の衆生を縁とし、生滅の四諦を縁として、慈悲と四弘誓願を起こすならば、これがすなわち菩薩の初めて菩提心を発すことです。愛見の四諦を知るがゆえに、智慧は諸天・魔・一切の外道に勝れます。慈悲と誓願の功徳があるがゆえに、一切の声聞・縁覚に勝れます。それゆえ大智度論に、「初めて心を発すをもって天人師となす。一切の声聞・縁覚に勝れ出る」とあります。

二に菩薩道を行うとは、すなわち三阿僧祇劫に六度を行うことです。過去の釈迦牟尼仏から罽那尸棄仏の時までを、一阿僧祇劫と名づけます。ここから常に女人の身を離れます。そのとき、自分が仏となるべきか仏とならないかを自知しませんでした。この初阿僧祇劫は、すなわち五停心・別想念処・総想念処の位を得ることです。性念処・共念処・縁念処を用いて、六度を行います。三種の念処の義は、略して前に説いたとおりです。なぜでしょうか。性念処を修めるのは、愛に属する魔業を壊すためです。見に属する一切智の六師を破るために共念処を修します。愛の結を壊し神通の六師を破ろうと欲して、縁念処を修め、一切の愛見の衆生のために法を説きます。愛に属するものが壊れるがゆえに一切の天魔の眷属が壊れ、愛見が壊れるがゆえに三・六・十八種の六師、および一切の外道の眷属が壊れます。それゆえ三種の念処を用いて六波羅蜜を行います。その意は天魔を降伏し諸の外道を制しようと欲するからです。菩薩が三種の念処を用いて六度を行うとき、性念処を修めても結を断ちません。三界に生まれて衆生を度するためです。常に多く共念処の観を修めて神通を得ようと欲し、四摂法の同事を成じて愛見の衆生を調伏します。また常に多く縁念処の観を修め、四弁を成して三乗の法を説き、一切の愛見の衆生を化して、ともに三界の火宅を出ようと欲します。これが初阿僧祇劫に六度を修行することです。四弘誓願を用いて生死を安撫し、心に怯弱なく、女人の業の根を壊し、常に丈夫の身を受けます。そのとき、未だ煗解の位を発さず、外凡にあるので、自分の身が当に仏となるべきか仏とならないかを自知しません。

次に、罽那尸棄仏から燃燈仏までを、第二阿僧祇劫と明かします。このとき菩薩は七茎の青蓮華を用いて燃燈仏を供養し、鹿皮の衣を敷き、髪を布いて泥を掩いました。そのとき燃燈仏はただちにその記を授けました。「汝は当来世に必ず仏となることを得て、釈迦牟尼と名づけるであろう」と。そのとき菩薩は、自分が必ず仏となることを自知できましたが、口には「私は当に仏となる」と称しませんでした。これは煗法の智慧を用いて六度を修めるものです。なぜでしょうか。総想の四念処によって、初めて善有漏の五陰を得るからです。すなわち性地順忍初心の位です。すでに証法の信があるので、必ず仏となると知ります。しかも煗解で六度を修行し、心が未だ分明でないので、他人に向かって説きません。

次に、燃燈仏から毘婆尸仏までを、第三阿僧祇劫の満ちることと明かします。このとき菩薩は、内心に了了と自知して仏となると知り、口に自ら発言して畏難するところがありません。「私は来世に当に仏となることを得る」と。今、これは頂法の位であると言います。六波羅蜜と四諦の観解が分明で、山の頂に登り四方を見渡すように分明です。了了と自知して仏となると知り、また他人に向かっても説きます。

三に、三阿僧祇劫を過ぎて、三十二相の業を種えることを明かします。今、これは下忍の位に入ると言います。この忍の智を用いて六度を修行し、百福を成じます。百福を用いて一相を成じ、もって三十二相の業因とします。三十二相の業因を種えるとは、下忍の位において、六波羅蜜を修めて百福の相を成じ、もって三十二相の業因とすることです。この三十二相は、欲界の閻浮提の人中において、男子の身を受け、仏が出世するときに仏の身相を縁とするがゆえに種えることができます。

問います。「いわゆる百福をもって一相を成ずるとは、いくつの功徳が一相の福徳を成すのですか」と。答えます。「異解が同じでなく、定めて判定することは難しい。ある人は言います。この福は称量すべからず、譬喩すべからず。これは菩薩が三阿僧祇劫に入り、心に大行を修めてこの三十二相の因縁を種える。それゆえに福は量ること能わず、ただ仏のみが能く知る、と。問います。「菩薩はいつごろ三十二相を種えるのですか」と。答えます。「最も遅ければ百劫、最も速ければ九十一劫です。弗沙仏は、釈迦菩薩は自身が生ずるのは熟し弟子は生ずるのが熟していないのを観、弥勒菩薩は自身が熟し弟子が生ずるのを観ました。多くの人は度し難く、一人は化し易い。それゆえ弗沙仏は宝窟の中で光を放ち、釈迦を照らしました。釈迦菩薩は光を尋ねて弗沙仏の所に至り、七日七夜、一心に仏を観て、目をしばたたきませんでした。ただ一偈を用いて称嘆して言いました。『天地此の界に門室多し。逝宮天処十方に無し。丈夫牛王大沙門、地を尋ね山林遍ねく等しき無し』と。苦行の力をもって九劫を超越し、弥勒菩薩の前に正覚を成じました」と。

四に六波羅蜜の満を明かします。問います。「檀波羅蜜はどのように満ちるのですか」と。答えます。「一切よく施し、遮礙するところがない。乃至、身を施すときにも心に惜しむところがない。尸毘王のように、身をもって鴿に施し、皮肉を解剔し、痛苦を受けながらも、身を挙げて秤の上に置き、もって鴿の命を贖い、心に悔恨しませんでした。誓いを立てて自ら証し、『私の心に悔いがないならば、身は平復すべきである』と。誓いを立て終わると、天地は震動し身はもとの如くに戻りました。このような菩薩の本生において、身命を捨てて施し、心に退悔しないのが、檀波羅蜜の満です。

問います。「どのように尸羅波羅蜜は満ちるのですか」と。答えます。「身命を惜しまず浄戒を護持することです。須陀摩王のように、この王は精進して戒を持ち、常に実語に依りました。劫磨沙波陀大王と共に期し、暇を乞いて国に還り、七日、沙門を供養し終えて、ただちに来て死に就きました。この王は期が満ち、実語の戒を持っために、期に向かって死に就きました。これはすなわち一戒を持ち、身命を惜しまないことです。このようなところどころの因縁経に説かれる本生において、菩薩が因地に戒を持ち、身命を捨てて心に悔恨しないのが、すなわち尸羅波羅蜜の満の相です。

問います。「羼提波羅蜜はどのように満ちるのですか」と。答えます。「もし人が来たりて罵り、撾捶し割剝し支解し命を奪っても、心に瞋を起こさないことです。羼提比丘のように、常に慈忍を修し、林樹の下で禅三昧に入っていました。そのとき迦梨王が、女色のため愛弊を生じ、垢としてその手足耳鼻を截りましたが、心は忍んで動じませんでした。そのとき王が問いました。『今、身を截り解いても、定めて能く忍ぶか』と。比丘は答えました。『意に実に瞋恨はありません』と。王は言いました。『今、誰が汝を信じるか』と。比丘は答えました。『もし実に忍心で瞋恨がないならば、当に私の身をただちに平復させよ』と。この語を説くとき、身はただちにもとの如くになりました。このような身命を惜しまず忍辱を修行するのが、羼提波羅蜜の満の相と名づけます。

問います。「毘梨耶波羅蜜はどのように満ちるのですか」と。答えます。「もし大心があれば、大施太子のように、一切の衆生のために海に入って宝を採り、龍王から如意珠を得て、これを閻浮提に持ち還り、衣服宝物を雨のごとく降らせて衆生に布施しようと欲しました。海神は珠を惜しみ、その睡臥に乗じてただちにその珠を盗み取り、海宮に持ち還りました。太子は覚ってから、この珠のために誓い、この身をもって大海の水を汲み出して海を乾き尽くさせ、海神から珠を索め、心定まって懈まなかった。帝釈諸天は太子の心が物のために精進し身命を惜しまないのに感じ、ただちに諸天を将いて海水を汲み出すのを助け、水はついに半ばに減りました。海神は怖れて慚愧し珠を還しました。また釈迦菩薩が弗沙仏に値遇し、七日七夜、一脚を翹げて目をしばたたかなかったのと同じです。このように身命を惜しまず、物のために精進するのが、毘梨耶波羅蜜の満の相と名づけます。

問います。「どのようなものを禅波羅蜜の満の相と名づけるのですか」と。答えます。「一切の禅定が自在であることです。また尚闍梨仙人が坐禅したとき、入出息がなく、鳥が螺髪の中に子を生み、揺動することなく、乃至、鳥の子が飛び去るまででした。これを禅波羅蜜の満の相と名づけます。

問います。「般若波羅蜜はどのように満ちるのですか」と。答えます。「菩薩の大心の分別です。劬嬪婆羅門大臣が閻浮の大地を七分に分け、若干の大城・小城・聚落・村民をことごとく七分にしたように、般若波羅蜜もまたそのとおりです。これが菩薩の般若波羅蜜の満の相です。今、これは皆、下忍の智慧であり、能く諸根を調伏し六度を満足するものであると言います。なぜでしょうか。下忍の智慧は力が強く煩悩の力は弱い。この智慧を用いて六度を修行し、能く六弊を忍び身命を惜しまず六度を成じます。四波羅蜜の満は、まさに性念処の力が下忍に至ることです。禅波羅蜜の満は、多くは共念処の力が下忍に至ることです。般若波羅蜜の満は、まさに縁念処の力が下忍に至ることです。

問います。「羅漢ですらなお身命を惜しまず六度を修行することはできません。下忍の智慧の力が、どうして能く六度を成じられるのですか」と。答えます。「もし慈悲誓願がなければ、積劫修行の力、羅漢の智慧ですらなお能くするに及ばない。まして下忍をや。今、外縁の慈悲誓願が久しく積んで熏修し、内に忍法の智慧があり、六弊を破る力を助けるのです。

五に一生補処に住するとは、すなわち釈迦菩薩で、迦葉仏の所に生まれ、補処の弟子となり、浄く禁戒を持ち諸の功徳を行じました。迦葉は授記して、次に当に仏となるべきことを説きました。これはおそらく中忍の位にあるものです。

六に兜率陀天に生まれるとは、閻浮の報を捨て、上ってこの天に生まれ、諸天人の師となり、この天において三種の念処を用い、八勝処を修め、結を伏し清浄にしようと欲し、下って閻浮提に至り、神通変化して天魔を降伏し、四弁をもって法を説き諸の外道を破り、および一切の衆生を度します。これも中忍の位に属します。問います。「菩薩は何の意で、初発心から結を伏し、ここに至るまで伏して断たないのですか」と。答えます。「もし結を断てば、ただちに受生して物を化することができない。無常を観じて結を伏し、諸の煩悩の脂を消し、清浄心をもって六度を修行し、諸の功徳を肥えさせます」と。

七に下生して成道するとは、すなわち三蔵教が明かす八相成道の菩提の果です。いわゆる八相成道とは、一には兜率天から下ること、二には託胎、三には出生、四には出家、五には降魔、六には成道、七には転法輪、八には入涅槃です。

一に兜率天から下るとは、菩薩がまさに下生しようとするとき、四種の観をもって人間を観ます。一には時に観るとは、すなわち人の寿命百歳のときが仏の出世の時です。二には土地を観るとは、諸仏は常に中国に依って生まれ、迦維羅衛に生まれます。すなわち百億の日月の中です。三には種姓を観るとは、仏は二種の姓の中に生まれます。一には刹利の姓は勢力が大きいゆえ、二には婆羅門の姓は智慧が大きいゆえです。釈迦牟尼仏は刹利の姓に生まれました。四には生処を観るとは、どのような女人が那羅延力の菩薩を懐妊できるかということです。ただ中国の迦毘羅婆城の浄飯王の后だけが、後身の菩薩を懐妊できます。このように思惟してから、後に兜率陀天から下ります。なぜ白象の形を現し、他の形ではないのか、と問います。

二に処胎を明かすとは、すなわち正慧をもって母胎に入ることです。一切の衆生は邪慧をもって母胎に入ります。菩薩は憶念して失わないので、正慧をもって母胎に入ると名づけます。中陰に住めばすなわち中陰を知り、入胎の時には入胎を知り、歌羅邏の時には歌羅邏の時を知り、七日して赤白の精血が合すれば安浮陀の時、二七日して蠒の状のごときは伽陀の時、三七日して凝酪のごときは五胞の時、出生の時に至るまで、皆、憶念して失いません。これを正慧の母胎に入ると名づけます。また、余人は中陰に住み、母胎に入り受生しようとするとき、父母に対して顛倒の心を生じ、不浄の心を生じます。菩薩はそうではありません。正慧をもって明識し、父母の相続して入胎することを知ります。これを正慧と名づけます。

三に出胎の相を明かすとは、この菩薩は十月を満たし、正慧にして念を失わず、右の腋から出て胎を出て生まれ、地に堕ちて、ただちに七歩を行き、口に自ら発言しました。「天上天下に唯我独り尊し」と。まさに初めて生まれたとき、国中にただちに三十二の瑞事があったことは、瑞応経に具に明かされています。乃至、相師を将いて阿姨に太子の相を示しました。身に三十二相八十種好を具えていました。ただちに悲涙しました。王は不祥を恐れ、阿姨に問いました。「わが子が不祥であるゆえに悲涙するのか」と。仙人は答えました。「吉であって不祥はありません。太子の相好は分明です。もし在家ならば当に転輪聖王となり、飛行皇帝として四天下を王し、十善をもって世を化します。もし出家するならば、必ず自然の仏を成じて万姓を度脱します。ただ太子の相好は分明で、必ず在家して転輪王となることはありません。もし出家するならば、必ず菩提を得て天人を度脱します。私が年老いて仏の興るのを覩ることができないのを傷み、それゆえ悲涙するだけです」と。三十二相八十種好をもってその身を荘厳するのは、三菩提の器を得ようと欲するがゆえです。問います。「何のゆえに相を現すのは三十二、好があるのは八十なのですか」と。答えます。「成仏の荘厳の法がこのようであるからです」と。

四に出家を明かすとは、このとき菩薩は年が次第に長大になり、四城門を出て老病死の苦を見、厭怖の心を生じ、夜半に城を踰えて出家し、六年苦行し、難陀婆羅門の石蜜乳糜を食して身を益し、十六の功徳を得ました。

五に降魔の相を明かすとは、すなわち菩提樹の下において、万八千億の鬼兵魔衆を破り、魔王は敗れ、鬼兵は退散しました。

六に成道の相を明かすとは、魔衆が散ってから、心を摂めて端坐し、第四禅において中忍に住し、観を修めて中忍を成ずる一刹那、上忍の一刹那、世第一法の一刹那、真無漏を発し、三十四心をもって阿耨多羅三藐三菩提を得ました。三十四心とは、八忍八智、九無礙九解脱です。仏の十力・四無所畏・十八不共法・三達無礙・三意止・大悲・四無礙智を具足し、一切の諸法の総想別想を悉く知るがゆえに、仏と名づけます。第九解脱は一切種智を具足し、並びに未来に在るがゆえに、小乗仏と名づけます。

七に転法輪の相を明かすとは、鹿野苑の中で拘隣ら五人のために、三たび生滅の四諦の法輪を転じ、天人は道を得ました。これが三宝がここに世間に現れる証です。次に十二因縁の法輪を説き、次に菩薩のために六波羅蜜の法輪を説きました。これすなわち三乗の教を開くもので、修多羅蔵と名づけます。十二年の後、仏は毘舎離国において、須隣那迦陀長者の子が婬欲を作したために、この因縁をもって初めての大罪を結び、二百五十戒を制しました。次に仏は舎婆提城において、諸比丘に告げました。「諸の五怖・五罪・五怨があり、除かず滅ぼさなければ、この因縁のゆえに、この世と未来に無量の苦を受ける」と。これを仏の自説の毘曇の教と名づけます。ここから三蔵の法輪を転じ、乃至涅槃に至るまで、三乗の弟子を教えました。これを転法輪の相と名づけます。

八に入涅槃の相を明かすとは、拘尸那城の沙羅双樹の間において、逆順に出出入して三昧を超越し、第四禅の中において火光三昧に入り、身を焼いて滅度し、ただ舎利を留め、人天の福田としました。身も智も倶に滅して無余涅槃に入りました。これが声聞経の中に説かれる大乗の位です。

次に第三に料簡を明かします。問います。「声聞経の中に三乗を開く。何のゆえに二乗はただちに生じて結を断ち、菩薩は初発心から乃至降魔に至るまで、都て結を断たないのですか」と。答えます。「声聞・縁覚は生死を厭患し、自ら涅槃を求めて、物を利することをしない。それゆえ貪りて真を取って結を断つ。結が尽きれば、すなわち受生せずして涅槃に入る。菩薩は大慈怜愍して一切を度しようと欲し、生死の苦を受け、衆生を教化する。衆生の出世善根が淳熟すれば、ただちに成道し、三乗の教を説き、三乗の人と共に同じく涅槃に入る。もし因中に結を断てば、ただちに受生を得ず、どうして能く物を利することができようか。それゆえ生死を忍受し、結使を断たず、三阿僧祇の間、生死に処在して衆生を教化し、共に三界を出る。ゆえに結使を断たない。意はここにある」と。

問います。「菩薩は結を断ち誓願・神通・応化して物を利する。何のために必ず結を留めて受生しなければならないのですか」と。答えます。「結を断ち誓願し神通応化して受生するのは、これはまさに摩訶衍の説くところであって、三蔵の明かすところではありません。なぜでしょうか。結を断ち誓願して受生するのは、通教の説くところです。法性身の神通受生は、別教の説くところです。法身応生は、円教の説くところです」と。

問います。「声聞経の教は何の意で結を断じて受生することを論じることができないのですか」と。答えます。「三蔵の教は、正しく小乗を化し、傍らに菩薩を化します。もし菩薩が結尽きて受生すると説けば、二乗はただちに疑うでしょう。『もし結が尽きてしかも受生を得るならば、諸の声聞の人も羅漢果を得て、まさに更に受生しないのではないか』と。それゆえ菩薩が結を断ちて受生することを説きません」と。

問います。「もし二乗が疑いを生ずるために、菩薩が結を断ちて受生することを説かないならば、大乗の方等・摩訶般若の通教三乗もまた、菩薩が結を断ち誓願・神通をもって受生することを説いてはならないはずです」と。答えます。「これは生蘇・熟蘇の教です。二乗は次第に淳熟し信解分明で、菩薩の事を聞いても心に疑惑しません。それゆえ法華経に、『是れ已後を過ぎて、心相い体信し、入出難なく、しかもその止まる所はもとの本処に在り』とあります」と。

問います。「明かすところの声聞経の菩薩義は、仏の説ですか、それとも仏の去世後の諸の声聞弟子の説ですか」と。答えます。「仏の説もあり、また諸の羅漢が鞞婆沙・阿毘曇の中に作って説くものもあります」と。

問います。「何が仏の説くところで、何が羅漢の説くところですか」と。答えます。「菩薩が初発心から乃至結使を断たず、道場に坐するときに正習ともに断たれると説くのは、これは仏の説です。どうして知ることができるか。龍樹論主は数人に答えて言いました。『もし後身の菩薩が結を断たなければ、これは仏の方便の説くところである』と。また諸の羅漢が仏の去世後に説いたものもあります。初阿僧祇には自ら仏となると知らず、二阿僧祇には自ら仏となると知りながら口に宣説せず、三阿僧祇劫には了了と自ら仏となると知り、また発言して他人に説くと言うが、この義は仏の三蔵の中に説かれたものではありません。乃至、これは諸の羅漢が毘婆沙を作って菩薩の義を釈したものです」と。

問います。「もし仏が自ら三蔵教を説いて菩薩の義を明かされたならば、これは信ずることができます。もし諸の羅漢が説いたならば、どうして信ずることができますか」と。答えます。「諸の羅漢はすでに聖人であり、共に仏の三蔵教の意を採って菩薩の義を明かしました。どうして全て失うことがありましょうか」と。

問います。「もしそうならば智度論は何の意で、初めから終わりまで一一に弾破するのですか」と。答えます。「龍樹は摩訶衍を申べ、菩薩の行ずる道を明かそうと欲し、大をもって小を破るので、皆、破すべきです。もし小乗に就いて三蔵の宗徒を明かせば、羅漢聖人の撰集したものです。どうして頓に乖僻でありましょうか。もし諸の羅漢が声聞経を明かし、釈したところの菩薩義がついに併せて乖僻であるならば、末世の凡人法師は、どうして誤って申釈することがありえましょうか。凡情の小乗を解釈することは、すでに長く承用すべきではありません。大乗の深経を、どうして妄情に出して論ずることができましょうか。それゆえ知るのです。仏の説でなくても、もし羅漢が論を作ったならば、また信受しなければなりません」と。

第四に三蔵教の位に約して「浄無垢称」の義を釈するとは、まさに中忍補処の位です。六度の道はすなわち浄の義です。なぜでしょうか。三種の薬の中に三種の病がありません。六度は道諦であり、すなわち浄の義です。それゆえ法華経に、「また仏子が種々の行を修し、無上慧を求むるを見て、浄道を説きたもう」とあります。維摩大士が六度を成就するのはすなわち浄の義で、六弊の垢がないゆえに無垢と言います。相似解をもって、内には生滅四諦の理に称い、外には根縁に称い、釈迦如来を助けて三乗の教を顕します。それゆえ「浄無垢称」と言います。これゆえ方便品において、疾を現じて国王長者のために、無常・苦・空・無我・不浄の法を説き、諸人を呵責して仏果を求めさせた意はここにあります。

問います。「維摩は声聞を折挫し菩薩を弾呵しました。これは不思議の行位です。どうして声聞経に明かされる菩薩の位を用いて校量することができましょうか」と。答えます。「不可思議解脱に住する菩薩は、種々に示現することができます。どうして声聞経に明かされる菩薩の像を現して釈迦を輔け弘化することができないことがありましょうか」と。

問います。「何のゆえに国王長者を化して三蔵菩薩の形を示して法を説き、声聞菩薩を訶してただちに摩訶衍の不思議の言教を現すのですか」と。答えます。「凡俗は界内の結業が未だ除かれないゆえに、生滅の四諦を説きます。これはまさに対治です。羅漢菩薩は界内の因疾がすでに除かれていますが、ただ不思議の三諦の理に迷っています。それゆえ三種の四諦を説いてもって声聞を折り、無作の四実諦を説いて菩薩を訶します」と。

四教義卷第七

四教義巻第七


第六
第八

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