ご支援淨心禪堂すべての経典
メインコンテンツにスキップ
  1. 四教義 (四教義)
  2. 第十 (第十)
  3. 第十 (第十)
←と→
矢印キーでページをめくれます

四教義 (四教義)


四教義卷第十

四教義巻第十

天台山修禪寺智顗禪師撰

天台山修禅寺の智顗禅師の撰

五明十地者。此是聖種性位。從此位見佛性。發中道第一義諦觀。雙照二諦心心寂滅。自然流入薩波若海。證無作四諦。一實平等法界圓融。從初地至佛地。皆斷無明。但以位約分為三道。初地名見諦道。二地至六地名為修道。從七地已去。名無學道。十地者。初歡喜地。二離垢地。三明慧地。四焰慧地。五難勝地。六現前地。七遠行地。八不動地。九善慧地。十法雲地。此十通名地者。一能生成佛智慧住持不動。二能以無緣大悲荷負一切。故名地也。初歡喜地名見道者。初發真中道見佛性理。斷無明見惑。顯真應二身。緣感即應百佛世界。現十法界身。入三世佛智地。能自利利他真實大慶。故名歡喜地。大涅槃經云。菩薩聖行滿。即是住於無所畏地。即是初地。初地菩薩離五怖畏。無死畏。無不活畏。無惡道畏。無惡名畏。無大眾威德畏。涅槃經雖不作此名。義推孱同。若言不畏貪欲恚癡。內無三毒。外離八風。無惡名畏也。若言不畏地獄等。即無惡道畏。若言不畏沙門婆羅門即無大眾畏。今既入無畏地。見中道則無二死。故言無死畏也。法身常命以顯無不活畏也。以得入此地故。則具二十五三昧。破二十五有。顯二十五有之我性。我性即是實性。是名慧行成就。得五三昧即五行成就。住於無畏之地。即得初地之名也。就此即為五意。一明得二十五三昧聖行成。二明梵行。三明天行。四明嬰兒行。五明病行。一明得二十五三昧聖行成者。即為三意。一釋二十五三昧名。二正修明二十五三昧成。三外用利物。一釋二十五三昧名者。略為四意。即是約四悉檀而立名也。一者隨時趣立名。二隨便立名。三隨對治立名。四隨理立名。一隨時立名者。譬如人有二十五子。隨時名作一字。大者初生為作一字。次者後生。又作一字。不可見大兒名。此亦令第二者名此。如是則不濫。此二十五名亦如是。各舉一名令世諦不亂。世間名字皆爾。不可求定實也。二者隨二十五有便而立名。若作餘名事義非不便。是故隨便立名也。三者隨對治立二十五三昧名。各治一有用是故對治立名。四者隨理立名者。此二十五三昧不出法性理。理合於義。從義而立名。名義雖異理實無別。約此四意故。得立二十五三昧名也。詳經文意。多有對治約理兩義。以立二十五三昧名。二正釋二十五三昧修成者。一一三昧中皆有四意。一出諸有行業惑障。二用三昧治破。三結成三昧。四慈悲破有。一一悉具此四意也。初明無垢三昧破地獄有。即為四意。一明業結者。罪之尤重莫若地獄。惡業垢重見思垢塵沙垢無明垢。二明用三昧破無明者。菩薩為破是諸垢故。修前根本戒破惡業垢。修前八背捨等定伏見思垢。修有作無生等慧斷見思垢。修無量慧破塵沙垢。修無作慧破無明垢。三明結成三昧者。破見思垢故真諦三昧成。破惡業垢及塵沙垢故。俗諦三昧成。破無明垢故。中道第一義三昧成。四明慈悲利物。菩薩已自破地獄垢故得三諦三昧。有大慈悲冥薰法界。眾生有機關於慈悲。以王三昧力。法性不動而能應之。如婆藪調達。應入地獄。隨其所宜。而為說法破地獄有。如聖行品所明。自修戒定慧等諸行。故自證三諦三昧成。於聖行中有慈悲誓願。故破他三諦上垢。亦破他三諦上惡業煩惱垢。自既無垢。令他無垢。故此三昧名無垢三昧也。因此下具此四意類前可知。次明不退三昧破畜生有者。畜生無慚無愧。起惡業故退失善道。見思故退失。塵沙故退。無明故退。菩薩為破諸退故。修戒忍破惡業退。修定伏見思退。修生滅無生慧。破見思退。修無量慧破塵沙退。修無作慧破無明退。見思破故位不退三昧成。塵沙破故行不退三昧成。無明破故念不退三昧成。自以修行力破三種退。成三不退。自得三諦三昧。慈悲之力冥薰法界。隨畜生有機感。或為象王啄鳥大鷲之身。隨其所宜而生其中。現為說法破畜生有。自既不退令他不退。故此三昧名不退三昧也。次心樂三昧破餓鬼有者。餓鬼有常為慳惡業纏繞貪愛飢餓苦。見思煩惱苦。塵沙無知苦。無明闇弊苦。菩薩為破是諸苦。修戒施破慳惡業苦。修定伏見思苦。修生滅等慧破見思苦。修無量慧破塵沙苦。修無作慧破無明苦。破見思苦真諦無為心樂三昧成。破慳惡業塵沙苦。俗諦分別多門心樂三昧成。破無明苦中道常樂三昧成。以自修行證得三樂三諦三昧。以諸行中慈悲之力薰。現諸鬼形聲。施令得飽滿而為說法。令破三種苦得三種樂。菩薩自得此樂。又令他得樂。是故三昧名心樂三昧也。次歡喜三昧。破修羅。有修羅多忿恚惡業怖。見思怖塵沙怖無明怖。菩薩為破是諸怖故。持戒精進而修習諸行。不破歡喜破惡業怖。修禪悅喜伏見思怖。修生滅無生滅等慧得喜覺喜破見思怖。修照鏡喜及無量惠破塵沙怖。修無作慧破無明怖。見思破故真空喜悅三昧成。惡業塵沙破故。一切眾生喜見三昧成。無明破故喜王三昧成。以自修行力。得如此三諦歡喜三昧。以諸行中慈悲之力。薰修羅有而生其中。軟語調伏而為說法。破修羅有令得無怖。自無三怖自證三喜。令他無怖。令他得歡喜。是故三昧名為歡喜三昧也。次日光三昧破弗婆提有者。日初出於東隨便為名。日譬智光能照迷闇。破惡業迷闇。見思塵沙迷闇。無明迷闇。菩薩為照此諸迷闇故修善業戒光。修禪定流光。修生滅無生滅一切智光。修道種智光。修一切種智光。明生闇滅。以善戒光破惡業闇。以禪定光伏見思闇。以生滅無生滅光破見思闇。修無量道種智光。破塵沙闇。修無作一切種智光破無明闇。破見思闇故。一切智日光三昧成。破塵沙闇故。道種智日光三昧成。破無明闇故。一切種智日光三昧成。以修行力自證如是三諦三昧。以慈悲力薰弗婆提有。應現說法破其三迷。顯三諦智日故。此三昧名為日光三昧也。次月光三昧破瞿耶尼有者。月之初生光現於西。此隨便立名也。月光亦譬破闇。釋三昧四意。類日光三昧可知。次熱焰三昧破欝單越有者。北方是陰地氷結難消。自非熱焰終不消也。欝單越人。氷執無我我所。難可化度。非智火熱焰。無我我所心終不可消。破無我我所。乃是妄計無我我所理。實猶有性。人我之惑。有法我惑真如我惑。氷蟄未融也。菩薩為破此諸我惑氷執。修生滅等真無我慧。破性人我惑。修無量四諦慧破法我惑。修無作四諦慧。破真如我惑。若得真人空智焰。破性人我惑。真諦三昧成。得真法空智焰。破法我惑。得俗諦三昧成。故能如空種欝樹。空順俗以化物也。得真如無我智焰。破真如我惑。知非我非無我。是真我義。無我法中有真我。即見欝單越之我性。即有三昧成。心心寂滅也。菩薩自證三諦三昧。慈悲力故現欝單越形聲。破北方無我我所。令成真我三昧。故此三昧名為熱焰三昧也。次如幻三昧破閻浮提有者。南方果報雜雜。壽命短促不定。猶如幻化。此是心幻出生惡業果。幻出煩惱幻出無知。幻出無明。一切眾生不知如幻。今菩薩為破是諸幻故修三種三昧。修真諦三昧幻出無漏。破見思之幻。修俗諦三昧幻出道種智。破無知之幻。修中道三昧幻出一切種智。破無明之幻。修行力故自證三諦三昧。成慈悲力故破他力成。是故名為如幻三昧也。次不動三昧。破四天王有者。此天守護國土。遊行世界身報流動。此則是果報動。見思動無智動無明動。一心修善不動。及修背捨等不動業。破果報動。真慧不動破見思動。出假慧不動破無知動。中道慧不動如須彌頂。破無明動。修行力故自證三種不動。慈悲力。故破他三動。故此三昧名為不動三昧。次難伏三昧破三十三天有者。此天居四天之頂。即是果報難伏。見思難伏無知難伏。無明難伏。菩薩為破其高心。是故修戒定智。破果報難伏。修生滅無生滅。故破見思難伏。自行力故成三難伏。慈悲力故破他三難伏。故此三昧名為難伏。三昧次悅意三昧破炎摩天有者。此天虛空無刀杖畏。以之為悅。實非是悅。未有不動業悅。未有無漏悅。未有道種智悅。未有中道悅。菩薩為破此故。修四諦觀八背捨中禪悅。破其動散不悅。生滅無生滅慧破其有漏不悅。無量慧破其沈空不悅。無作慧破其二邊不悅。以無生悅故真諦三昧成。出假稱機之悅故俗諦三昧成。中道悅意故中道三昧成。自行力故自證三昧成。以慈悲力故破他三昧成。故名悅意三昧也。次青色三昧破兜率天有者。此天果報樂青眼翫皆青。菩薩為破此有。故修第一義。非青真見青真。非青假見青假。故得中道。見青中道破其青有。義推可知。次黃色三昧破化樂天有。次赤色三昧破他化自在天有。類前青色三昧可解。次白色三昧破初禪有者。初禪離欲界五蓋不善。即是定心善白。但未離見思塵沙無明等黑。菩薩為破是諸黑行故。修三諦白法。破戒之義推之可知。次種種三昧破梵王有者。梵王主三千大千。大千品類既多。故有種種之號。為破其種種故修種種空。入種種假。見種種中道。如來藏多所含藏。名種種三昧也。義推可知。次雙照三昧破二禪有者。二禪獨有內淨喜兩支故。受雙名。菩薩為破此雙故。修雙空雙假雙中。雙照二帝。義推可知。次雷音三昧破三禪有者。此禪受樂最為第一。著樂深入如氷魚蟄蟲。菩薩為破此樂故。用三諦雷音以驚駭。推之可解。次霔雨三昧破四禪有者。四禪如大地具種種芽。若不得雨芽則不生。一切善根。在四禪中。若三諦雨三智善發生也。義推可解知。次如虛空三昧破無想天有者。此是外道天實非無想。而計為無想涅槃。如小兒夢尿。菩薩為破是有故。以三諦空破無想故言如虛空三昧次照鏡三昧破那含有者。修薰禪隨禪生此。雖得淨色不能知。色如鏡像。菩薩知色如鏡像即空。分別無量像依鏡。即見本性中道。成三諦三昧破那含有也。次無礙三昧破空處有者。此處得出色籠飄颺無礙。未是三諦三昧之無礙礙。見思礙塵沙礙無明等礙。菩薩為修三諦三昧破是諸礙。故名無礙三昧次常昧三破識處。有識相續不斷即無常。菩薩為破此無常。故修數緣常。化用相續常佛性常湛然常破之。次樂三昧破不用處有者。此不用處如癡。癡故是苦。菩薩用三諦三觀三昧。破得三諦三昧樂。是為樂三昧次我三昧破非想天有者。此天最頂計為涅槃真我。菩薩見此。猶有細煩惱不自在。即是見思不自在。塵沙不自在。無明不自在。何得是我。為破此我故。修三諦三昧破之。令得無我。隨俗我八自在我。是故名我三昧。二十五有三昧用自除二十五三昧。一有之中悉有三諦。三昧菩薩自修三諦三昧。自除二十五有三諦之惑。以慈悲力。除他二十五有三諦之惑。由是得二十五三昧之名。或從無住之本。用四悉檀立二十五有名。如說。通言三昧名調直定也。真諦三昧以離愛見而為調直。俗諦三昧以稱機為調直。中道三昧以無二邊之曲為調直。是故皆名三昧。若但入空之直不為直。聲聞人得入空非王三昧。若入假亦非究竟。菩薩雖得道種智。亦不名王三昧。以得中道三昧故稱之為王。以二十五三昧。一一皆有中道三昧故。故稱二十五三昧。悉是王三昧。涅槃經云。是二十五三昧名諸三昧王。若入王三昧。一切三昧悉入其中。是故菩薩住不動地。具得此二十五三昧種種力用。須彌高廣內於芥子。吞吐出沒變通自在。能入地獄不受碎身等苦。若聖行成能有是事。具如涅槃經說。三明外用利物者。所謂能隱顯二種利益者。入王三昧。一切三昧王悉入其中。是故一切眾生受諸苦惱。一心歸依稱名求乞救護。菩薩住三昧中即觀三業皆得解脫。解脫有八種。一破二十五有果報之苦。二破二十五有因苦。三破聲聞二十五有見思煩惱苦。四破緣覺二十五有見思煩惱苦。五破三藏菩薩二十五有見思煩惱苦。六破通教三乘人二十五有見思煩惱苦。七破別教菩薩二十五有恒沙無知別惑苦。八破圓教菩薩二十五有三諦無明之惑苦。一心稱名皆得解脫。意在此也。故說二十五三昧。能破二十五有也。二顯利益者。即是住二十五三昧。十法界眾生機緣來感。普現色身八番與眾生樂。如觀音普門示現神通之相也。若有眾生。應以佛身得度者。即能八相成道現身說法。即是此經明住不思議解脫。種種示現也。此菩薩初地聖行滿足。具無緣大慈大悲。如磁石吸鐵也。二明梵行者。即是無緣慈悲喜捨。菩薩以大涅槃心。修於聖行得無畏地。有二十五三昧無方大用。爾時慈悲是真梵行。非餘梵天所修。四無量心。亦非三藏教通教等眾生緣法緣之慈悲也。菩薩爾時。以此慈悲無緣無念。薰修眾生行無不成辨。此之梵行即是一切法故。涅槃經云。慈即如來悲即佛性。慈若不具足。佛十力三十二相四無畏者。非如來慈故。智力弘深能具足一切福德。以自莊嚴名梵行也。

五明と十地とは、これは聖種性の位です。この位から仏性を見て、中道第一義諦の観を発し、二諦を双照して心心寂滅し、自然に薩波若の海に流入し、無作の四諦を証します。一実平等の法界は円融し、初地から仏地に至るまで、みな無明を断じます。ただし位によって分けて三道とします。初地を「見諦道」と名づけ、二地から六地までを「修道」と名づけ、七地から以上を「無学道」と名づけます。

十地とは、初めは歓喜地、二は離垢地、三は明慧地、四は焔慧地、五は難勝地、六は現前地、七は遠行地、八は不動地、九は善慧地、十は法雲地です。この十地を通じて「地」と名づけるのは、一には成仏の智慧を生み出し、住持して不動であることができ、二には無縁の大悲をもって一切を荷負することができるからです。それゆえ「地」と名づけるのです。

初めの歓喜地を「見道」と名づけるのは、初めて真の中道を発し、仏性の理を見て、無明の見惑を断じ、真応の二身を顕します。縁に感ずれば即ち応じて百仏の世界にわたり、十法界の身を現し、三世の仏の智地に入り、自利利他のはかりない大きな慶びを得るからです。それゆえ歓喜地と名づけるのです。

大涅槃経に云います。「菩薩の聖行が満ちるとは、すなわち無所畏の地に住むことであり、すなわち初地である」と。初地の菩薩は五つの怖畏を離れます。死の畏れなく、不活の畏れなく、悪道の畏れなく、悪名の畏れなく、大衆の威徳の畏れがありません。涅槃経にはこの名を立てていませんが、義をもって推し測るとまったく同じです。もし「貪欲・瞋恚・愚痴を畏れない」と言うなら、内に三毒がなく、外に八風を離れているので、悪名の畏れがないのです。もし「地獄などを畏れない」と言うなら、すなわち悪道の畏れがないのです。もし「沙門・婆羅門を畏れない」と言うなら、すなわち大衆の畏れがないのです。今すでに無畏の地に入り、中道を見るならば、二死がないので、「死の畏れなし」と言うのです。法身の常の命を顕して、不活の畏れがないことを示すのです。この地に入ることを得たので、二十五三昧を具し、二十五有を破り、二十五有の我性を顕します。我性とはすなわち実性であり、これを慧行成就と名づけます。五三昧を得るとは、すなわち五行成就です。無畏の地に住むとは、すなわち初地の名を得ることです。

これについて五つの意とします。一には二十五三昧を得て聖行が成就することを明かし、二には梵行を明かし、三には天行を明かし、四には嬰児行を明かし、五には病行を明かします。

一に二十五三昧を得て聖行が成就することを明かすとは、三つの意とします。一には二十五三昧の名を釈し、二には正しく修めて二十五三昧が成就することを明かし、三には外用して物を利することを明かします。一に二十五三昧の名を釈するとは、略して四つの意とします。すなわち四悉檀に約して名を立てるのです。一には時によって趣に随って名を立て、二には便に随って名を立て、三には対治に随って名を立て、四には理に随って名を立てます。

一に時によって名を立てるとは、たとえば人に二十五人の子があるようなものです。時によって一字を名とします。一番上の子は初めに生まれたので一字をつけ、次の子は後に生まれたのでまた一字をつけます。上の子の名を見て、これを第二の者にも名づけることはできません。このようにすれば混同しません。この二十五の名も同じです。それぞれ一つの名を挙げて世諦を乱さないようにします。世間の名字はみなそのようなもので、定まった実のものを求めることはできません。

二には二十五有の便に随って名を立てるとは、もし他の名を作るなら、事義が不便というわけではありませんが、それゆえ便に随って名を立てるのです。

三には対治に随って二十五三昧の名を立てるとは、それぞれ一つの有を治すので、それゆえ対治に随って名を立てるのです。

四には理に随って名を立てるとは、この二十五三昧は法性の理を出でません。理が義に合うので、義から名を立てます。名と義は異なっても理は実に別ではありません。この四つの意に約して、二十五三昧の名を立てることを得るのです。経文の意を詳しく見れば、多くは対治と理に約する二つの義によって二十五三昧の名を立てています。

二に正しく二十五三昧の修成を釈するとは、一一の三昧の中にみな四つの意があります。一には諸有の行業惑障を出し、二には三昧を用いて治し破り、三には三昧を結成し、四には慈悲をもって有を破ります。一一にことごとくこの四つの意を具します。

初めに無垢三昧が地獄有を破ることを明かすとは、すなわち四つの意とします。一に業結を明かすとは、罪の最も重いものは地獄に如くものはありません。悪業の垢は重く、見思の垢・塵沙の垢・無明の垢があります。二に三昧を用いて無明を破ることを明かすとは、菩薩はこのもろもろの垢を破るために、前の根本戒を修して悪業の垢を破り、前の八背捨などの定を修して見思の垢を伏し、有作・無生などの慧を修して見思の垢を断じ、無量の慧を修して塵沙の垢を破り、無作の慧を修して無明の垢を破ります。三に三昧を結成することを明かすとは、見思の垢を破るがゆえに真諦三昧が成り、悪業の垢および塵沙の垢を破るがゆえに俗諦三昧が成り、無明の垢を破るがゆえに中道第一義三昧が成ります。四に慈悲が物を利することを明かすとは、菩薩はすでに自ら地獄の垢を破ったので三諦三昧を得ます。大きな慈悲が冥かに法界を薰じ、衆生に機があって慈悲に関われば、王三昧の力をもって、法性は不動でありながらよくこれに応じます。婆藪や調達のように、地獄に入るべき者は、その宜しきに随って、ために説法して地獄有を破ります。聖行品に明かされる通りです。自ら戒・定・慧などの諸行を修めるので、自ら三諦三昧の成就を証します。聖行の中に慈悲の誓願があるので、他者の三諦上の垢を破り、また他者の三諦上の悪業煩悩の垢を破ります。自らすでに無垢であり、他をして無垢ならしめるので、この三昧を無垢三昧と名づけるのです。これにしたがって以下もことごとくこの四つの意を具し、前にならって知ることができます。

次に不退三昧が畜生有を破ることを明かすとは、畜生は慚愧がなく、悪業を起こすがゆえに善道を退失し、見思のゆえに退し、塵沙のゆえに退し、無明のゆえに退します。菩薩はもろもろの退を破るために、戒と忍を修して悪業の退を破り、定を修して見思の退を伏し、生滅・無生の慧を修して見思の退を破り、無量の慧を修して塵沙の退を破り、無作の慧を修して無明の退を破ります。見思を破るがゆえに位不退三昧が成り、塵沙を破るがゆえに行不退三昧が成り、無明を破るがゆえに念不退三昧が成ります。自ら修行の力をもって三種の退を破り、三不退を成じ、自ら三諦三昧を得ます。慈悲の力が冥かに法界を薰じ、畜生有の機感に随って、あるいは象王・啄鳥・大鷲の身となり、その宜しきに随ってその中に生まれ、現れて説法して畜生有を破ります。自らすでに退せず、他をして退せしめないので、この三昧を不退三昧と名づけるのです。

次に心楽三昧が餓鬼有を破ることを明かすとは、餓鬼有は常に慳の悪業に纏繞され、貪愛と飢餓の苦があり、見思煩悩の苦、塵沙無知の苦、無明闇弊の苦があります。菩薩はこれらの苦を破るために、戒と施を修して慳の悪業の苦を破り、定を修して見思の苦を伏し、生滅などの慧を修して見思の苦を破り、無量の慧を修して塵沙の苦を破り、無作の慧を修して無明の苦を破ります。見思の苦を破るがゆえに真諦無為の心楽三昧が成り、慳の悪業と塵沙の苦を破るがゆえに俗諦分別の多門の心楽三昧が成り、無明の苦を破るがゆえに中道常楽三昧が成ります。自らの修行によって三楽三諦三昧を証得し、諸行の中の慈悲の力をもって薰じ、もろもろの鬼の形声を現し、施して飽満を得させ、ために説法して、三種の苦を破り三種の楽を得させます。菩薩は自らこの楽を得、また他をして楽を得させるので、この三昧を心楽三昧と名づけるのです。

次に歓喜三昧が修羅有を破るとは、修羅は多く忿恚の悪業の怖れがあり、見思の怖れ・塵沙の怖れ・無明の怖れがあります。菩薩はこれらの怖れを破るために、持戒・精進して諸行を修習します。歓喜を破らずして悪業の怖れを破り、禅悦の喜を修して見思の怖れを伏し、生滅・無生滅などの慧を修して喜覚の喜を得て見思の怖れを破り、照鏡の喜および無量の慧を修して塵沙の怖れを破り、無作の慧を修して無明の怖れを破ります。見思を破るがゆえに真空喜悦三昧が成り、悪業と塵沙を破るがゆえに一切衆生喜見三昧が成り、無明を破るがゆえに喜王三昧が成ります。自らの修行の力をもってこのような三諦歓喜三昧を得、諸行の中の慈悲の力をもって修羅有を薰じ、その中に生まれ、軟語で調伏し、ために説法して修羅有を破り、無怖を得させます。自ら三つの怖れなく自ら三喜を証し、他をして怖れなくし、他をして歓喜を得させます。それゆえこの三昧を歓喜三昧と名づけるのです。

次に日光三昧が弗婆提有を破るとは、日が初めに東から出るので、便に随って名とします。日は智光が迷闇を照らすことに譬えられ、悪業の迷闇、見思・塵沙の迷闇、無明の迷闇を破ります。菩薩はこれらの迷闇を照らすために、善業の戒光を修し、禅定の流光を修し、生滅・無生滅の一切智光を修し、道種智光を修し、一切種智光を修します。明が生じ闇が滅します。善戒の光をもって悪業の闇を破り、禅定の光をもって見思の闇を伏し、生滅・無生滅の光をもって見思の闇を破り、無量の道種智光を修して塵沙の闇を破り、無作の一切種智光を修して無明の闇を破ります。見思の闇を破るがゆえに一切智日光三昧が成り、塵沙の闇を破るがゆえに道種智日光三昧が成り、無明の闇を破るがゆえに一切種智日光三昧が成ります。修行の力をもって自らこのような三諦三昧を証し、慈悲の力をもって弗婆提有を薰じ、応現して説法し、その三迷を破り、三諦の智日を顕すので、この三昧を日光三昧と名づけるのです。

次に月光三昧が瞿耶尼有を破るとは、月が初めに生じて西に光を現すので、これも便に随って名を立てます。月光もまた闇を破ることに譬えられます。三昧の四つの意を釈するのは、日光三昧にならって知ることができます。

次に熱焔三昧が欝単越有を破るとは、北方は陰地で氷結して消え難く、自ら熱焔にあらざればついに消えません。欝単越人は、氷のように無我・我所に執着し、化度し難く、智火の熱焔にあらざれば、無我・我所の心はついに消すことができません。無我・我所を破るとは、すなわち妄計の無我・我所の理ですが、実にはなお性があり、人我の惑・法我の惑・真如我の惑があり、氷が蟄ってまだ融けないようなものです。菩薩はこれらのもろもろの我惑の氷執を破るために、生滅などの真無我の慧を修して性人我の惑を破り、無量四諦の慧を修して法我の惑を破り、無作四諦の慧を修して真如我の惑を破ります。もし真の人空智の焔を得れば性人我の惑を破り、真諦三昧が成り、真の法空智の焔を得れば法我の惑を破り、俗諦三昧を得、空の種が欝樹のようなもので、空が俗に順じて物を化すことができます。真如無我の智焔を得れば真如我の惑を破り、非我・非無我を知り、これが真我の義です。無我の法の中に真我があり、すなわち欝単越の我性を見、すなわち三昧が成り、心心寂滅します。菩薩は自ら三諦三昧を証し、慈悲の力のゆえに欝単越の形声を現し、北方の無我・我所を破り、真我三昧を成さしめます。それゆえこの三昧を熱焔三昧と名づけるのです。

次に如幻三昧が閻浮提有を破るとは、南方の果報は雑多で、寿命は短促で定まらず、幻化のようなものです。これは心の幻が悪業の果を出生し、幻が煩悩を出し、幻が無知を出し、幻が無明を出します。一切の衆生は如幻であることを知りません。今、菩薩はこれらの幻を破るために三種の三昧を修します。真諦三昧を修して無漏を幻出し、見思の幻を破り、俗諦三昧を修して道種智を幻出し、無知の幻を破り、中道三昧を修して一切種智を幻出し、無明の幻を破ります。修行の力のゆえに自ら三諦三昧を証し、慈悲の力のゆえに他を破る力が成ります。それゆえ如幻三昧と名づけるのです。

次に不動三昧が四天王有を破るとは、この天は国土を守護し、世界を遊行し、身報は流動します。これはすなわち果報の動・見思の動・無智の動・無明の動です。一心に善を修して不動であり、また背捨などの不動業を修して果報の動を破り、真慧の不動が見思の動を破り、出仮の慧の不動が無知の動を破り、中道の慧の不動が須弥の頂のごとく無明の動を破ります。修行の力のゆえに自ら三種の不動を証し、慈悲の力のゆえに他者の三動を破ります。それゆえこの三昧を不動三昧と名づけるのです。

次に難伏三昧が三十三天有を破るとは、この天は四天の頂に居し、すなわち果報の難伏・見思の難伏・無知の難伏・無明の難伏です。菩薩はその高慢の心を破るために、戒・定・智を修して果報の難伏を破り、生滅・無生滅を修するゆえに見思の難伏を破ります。自行の力のゆえに三難伏を成じ、慈悲の力のゆえに他者の三難伏を破ります。それゆえこの三昧を難伏と名づけるのです。

次に悦意三昧が炎摩天有を破るとは、この天は虚空で刀杖の畏れがなく、これを悦としますが、実には悦ではありません。いまだ不動業の悦なく、いまだ無漏の悦なく、いまだ道種智の悦なく、いまだ中道の悦がありません。菩薩はこれを破るために、四諦観・八背捨の中の禅悦を修し、その動散の不悦を破り、生滅・無生滅の慧でその有漏の不悦を破り、無量の慧でその沈空の不悦を破り、無作の慧でその二辺の不悦を破ります。無生の悦のゆえに真諦三昧が成り、出仮の称機の悦のゆえに俗諦三昧が成り、中道悦意のゆえに中道三昧が成ります。自行の力のゆえに自ら三昧の成就を証し、慈悲の力のゆえに他者の三昧を破って成就させます。それゆえ悦意三昧と名づけるのです。

次に青色三昧が兜率天有を破るとは、この天の果報の楽は青く、眼に翫ぶものは皆青です。菩薩はこの有を破るために第一義を修します。非青の真は青の真を見、非青の仮は青の仮を見るので、中道を得ます。青の中道を見てその青の有を破ることは、義をもって推して知ることができます。

次に黄色三昧が化楽天有を破り、次に赤色三昧が他化自在天有を破ることは、前の青色三昧にならって解することができます。

次に白色三昧が初禅有を破るとは、初禅は欲界の五蓋の不善を離れ、すなわち定心の善白です。ただいまだ見思・塵沙・無明などの黒を離れていません。菩薩はこれらの黒行を破るために三諦の白法を修します。戒を破る義は推して知ることができます。

次に種々三昧が梵王有を破るとは、梵王は三千大千を主とし、大千の品類はすでに多いので、種々の号があります。その種々を破るために種々の空を修し、種々の仮に入り、種々の中道を見ます。如来蔵は多く含蔵するので、種々三昧と名づけます。義は推して知ることができます。

次に双照三昧が二禅有を破るとは、二禅はひとり内浄と喜の二支があるので、双の名を受けます。菩薩はこの双を破るために、双空・双仮・双中を修し、二諦を双照します。義は推して知ることができます。

次に雷音三昧が三禅有を破るとは、この禅は楽を受けることが最も第一で、楽に著することが深く、氷の魚や蟄虫のようです。菩薩はこの楽を破るために、三諦の雷音をもって驚かせます。推して解することができます。

次に霔雨三昧が四禅有を破るとは、四禅は大地が種々の芽を具するようなものです。もし雨を得なければ芽は生じません。一切の善根は四禅の中にあり、もし三諦の雨があれば三智の善が発生します。義は推して解することができます。

次に如虚空三昧が無想天有を破るとは、これは外道の天で実に無想ではなく、無想涅槃と計します。小児が夢の中で尿をするようなものです。菩薩はこの有を破るために、三諦の空をもって無想を破るので、如虚空三昧と言います。

次に照鏡三昧が那含有を破るとは、薰禅を修し禅に随ってここに生まれます。浄色を得ても色が鏡像のごとくであることを知ることができません。菩薩は色が鏡像のごとく即空であることを知り、無量の像が鏡によることを分別し、すなわち本性の中道を見て、三諦三昧を成じて那含有を破ります。

次に無礙三昧が空処有を破るとは、この処は色の籠を出て飄颺し無礙ですが、いまだ三諦三昧の無礙ではありません。見思の礙・塵沙の礙・無明などの礙があります。菩薩は三諦三昧を修してこれらの礙を破るので、無礙三昧と名づけます。

次に常三昧が識処有を破るとは、識相が相続して断えなければすなわち無常です。菩薩はこの無常を破るために、数縁の常・化用相続の常・仏性の常・湛然の常を修してこれを破ります。

次に楽三昧が不用処有を破るとは、この不用処は痴のようで、痴のゆえに苦です。菩薩は三諦三観の三昧を用いて、三諦三昧の楽を得ることを破ります。これが楽三昧です。

次に我三昧が非想天有を破るとは、この天は最も頂で涅槃の真我と計します。菩薩はこれを見て、なお細煩悩があり自在でないとします。すなわち見思の不自在・塵沙の不自在・無明の不自在です。どうして我でありえましょうか。この我を破るために、三諦三昧を修してこれを破り、無我を得させ、俗我に随って八自在我とします。それゆえ我三昧と名づけるのです。

二十五有の三昧を用いて自ら二十五三昧を除きます。一有の中にことごとく三諦があります。三昧の菩薩は自ら三諦三昧を修し、自ら二十五有の三諦の惑を除きます。慈悲の力をもって他者の二十五有の三諦の惑を除きます。これによって二十五三昧の名を得ます。あるいは無住の本から、四悉檀を用いて二十五有の名を立てます。説の通りです。通じて三昧とは調直定と名づけます。真諦三昧は愛見を離れることをもって調直とし、俗諦三昧は機に称することをもって調直とし、中道三昧は二辺の曲がないことをもって調直とします。それゆえみな三昧と名づけます。もしただ空に入る直だけなら直とはなりません。声聞人は空に入ることを得ても王三昧ではありません。もし仮に入るもまた究竟ではありません。菩薩は道種智を得ても、また王三昧とは名づけません。中道三昧を得るがゆえにこれを王と称します。二十五三昧は、一一にみな中道三昧があるので、二十五三昧と称します。ことごとくこれ王三昧です。涅槃経に云います。「この二十五三昧を諸三昧の王と名づける。もし王三昧に入れば、一切の三昧はことごとくその中に入る」と。それゆえ菩薩は不動地に住し、この二十五三昧の種々の力用をことごとく得ます。須弥の高広を芥子の中に入れ、吞吐出没し変通自在で、地獄に入っても碎身などの苦を受けません。もし聖行が成就すればこの事を持つことができます。涅槃経に説かれる通りです。

三に外用して物を利することを明かすとは、いわゆる能く隠・顕の二種の利益です。王三昧に入れば、一切の三昧の王はことごとくその中に入ります。それゆえ一切の衆生がもろもろの苦悩を受け、一心に帰依し称名して救護を求むれば、菩薩は三昧の中に住して即ち三業を観じ、みな解脱を得ます。解脱には八種あります。一には二十五有の果報の苦を破り、二には二十五有の因の苦を破り、三には声聞の二十五有の見思煩悩の苦を破り、四には縁覚の二十五有の見思煩悩の苦を破り、五には三蔵菩薩の二十五有の見思煩悩の苦を破り、六には通教の三乗人の二十五有の見思煩悩の苦を破り、七には別教菩薩の二十五有の恒沙無知の別惑の苦を破り、八には円教菩薩の二十五有の三諦無明の惑の苦を破ります。一心に称名すればみな解脱を得ます。意はここにあります。それゆえ二十五三昧を説き、よく二十五有を破ることができるのです。

二に利益を顕すとは、すなわち二十五三昧に住し、十法界の衆生の機縁が来たり感ずれば、普く色身を現し、八番に衆生に楽を与えること、観音の普門示現の神通の相のようなものです。もし衆生があり、仏身をもって度せらるべき者は、すなわち能く八相成道して身を現し説法します。すなわちこの経に明かされる、不思議解脱に住して種々に示現することです。この菩薩は初地で聖行が満足し、無縁の大慈大悲を具すること、磁石が鉄を吸うようなものです。

二に梵行を明かすとは、すなわち無縁の慈悲喜捨です。菩薩は大涅槃の心をもって聖行を修し、無畏の地を得、二十五三昧の無方の大用があります。その時、慈悲は真の梵行であり、他の梵天の修する四無量心ではありません。また三蔵教・通教などの衆生縁・法縁の慈悲でもありません。菩薩はその時、この慈悲をもって無縁無念に、衆生を薰修して行じないものは成就しないことはありません。この梵行はすなわち一切法です。涅槃経に云います。「慈はすなわち如来であり、悲はすなわち仏性である。慈がもし具足せず、仏の十力・三十二相・四無畏がなければ、如来の慈ではない」と。智力が弘深でよく一切の福德を具足し、自ら荘厳するので、梵行と名づけるのです。

三明天行者。即是中道第一義天。天然之理。籍行顯理因理成行。故名理為天行。菩薩雖入初地。初地不應住。以有所得故。又應修上地智慧。十重發真修慧契理顯理成行。名為天行。天行即是智慧莊嚴。梵行即福德莊嚴。上求佛道。是故有聖行天行。下化眾生即有梵行病行嬰兒行也。四嬰兒行者。若菩薩福德智慧轉增。是則實相彌顯。雖不作意利益眾生。任運能有冥顯兩益。以天行之力則有冥益。以梵行之力則有顯益。眾生應有小善之機。無菩薩開發不能生長。以慈善根力。如磁石吸鐵。和光利行能令眾生得見。菩薩同其始學。漸修五戒十善人天果報。三十三天楊葉之行。又示二百五十戒觀練薰修禪。四諦十二因緣。三十七道品。同二乘嬰兒行。又示同修六度。百劫種相好柔伏煩惱。六度菩薩小善之行。又示同即色是空無生無滅。通教小善之行。又示同別教歷別次第相似中道。小善之行。皆是慈心之力。俯同群品提接成就。從心與樂起嬰兒行。如涅槃經言。嬰兒者。能說大字。所謂婆和。此即同六度也。六度是小行而求作佛故言大字。所謂婆和。又云。不見晝夜親疎等相此即同通教菩薩。即色是空第一義諦意也。又云。不能造作大小諸事。大事即五逆小事即二乘心。此則同別教別教非生死故。無五逆非涅槃故無小乘心。又云楊樹黃葉。即同人天五戒十善之嬰兒。又云。非道為道。以能生道微因緣故。說非道為道。即是同二乘嬰兒。故知大慈善根之力。能出假化物。同其小善方便。引之令趣佛慧。故名嬰兒行也。五病行者。此行從無緣大悲起。若生小善必有病行。今當分別同生善邊。名嬰兒行。同煩惱邊名為病行。病行從大悲生眾生病。是故我病大悲熏心遊戲地獄。同眾生惡業之病。如調達在地獄。如三禪樂。乃至畜生餓鬼脩羅亦如是。又同人天有結業生老病死之病。又同二乘有見思之病。方便附近語令勤作。三藏教通教菩薩亦如是。又同別教塵沙無明之病。是故菩薩還同彼病。遍於法界利益眾生。是為五行之相也。病行即是此維摩經問疾品。室內六品之所明也。初地菩薩五行具足。或是初功德也。餘九種功德。或可對九地。所言破無明見惑者。涅槃經云。自此以前。皆名邪見人也。是則兩教三乘之人。皆未見此理。故名邪見人也。是以大士呵須菩提。六師是汝之師。天魔外道一手作諸勞侶意在此也。乃至別教十信。三十心雖伏此或。既未能斷。猶是成就無明別見。呵諸菩薩或意在此也。此二從二地至六地名修道。斷別惑三界愛。如智度論明。迦葉聞㼼迦羅琴聲不能自安。云三界五欲我已斷竟。此是菩薩淨妙功德所生五欲。故於是事不能安忍。例色無色愛亦復如是。此經。大士呵須菩提云。同於煩惱不到彼岸。入於八難不得無難。意在此也。故從二地至六地。通名修道斷此別惑也。今以義推。二離垢地。即假斷別教欲愛名斯陀含向。三明地。即是別教斯陀含果。四焰地。即是別教阿那含向。五難勝地。即是別教阿那含果。斷別惑欲愛盡也。六現前地。即是別教阿羅漢向。斷別色愛也。七遠行地。即是別教阿羅漢果。斷別無色愛盡。故從此名無學道也。問曰此對四果出何經論。答曰別教明斷伏對四果。經論多不同也。諸大乘法師所用。亦異地論師。通教判位云。初地斷見。二地斷欲愛。三地斷色愛。四地斷無色愛。地論師通宗判位。有用三地斷見名須陀洹。從四地至六地名斯陀含。第二依法師。七地名阿那含。第三依法師。十地等覺名阿羅漢。是第四依法師。有三地斷見。四地名斯陀含。五地名阿那含。六地名阿羅漢。有用仁王經。四地斷見五地名斯陀含。六地名阿那含。七地名阿羅漢。如是等異說不同。難可定依。今以義推作此對四果也。一往似解便。既無的文佛意難知。不須苟執也。問曰何故解釋不定。答。曰已如前釋。八不動地即是別教辟支佛地。地論師云。從此明無學道。未知的出經論。不但八地得無生忍寂而常用。用而無相無功用心。自然斷法界無明惑色習盡也。九善慧地。無明稍薄斷心習盡。慧轉分明善入實相也。十法雲地。慈悲智慧猶若大雲。慈悲普洽一切。皆雨慧雲。能持十方諸佛所說法雨。斷無明也。六等覺地者。即是邊際智滿入重玄門。若望法雲名之為佛。望妙覺名金剛心菩薩。亦名無垢地菩薩。三魔已盡餘有一品死魔。在斷無明習也。問曰前通教何意不辨等覺佛耶。答曰界內習氣易盡。故不須開法雲出等覺也。問曰別教經論。何故有處處明法雲之後。更有金剛等覺。自有經論止明十地行滿。便成佛果。南北法師抑諍此義。答曰更立等覺未足為礙。所以然者。華嚴經。明法雲十地功德智慧。用此比於佛。如爪上土方於大地。若爾雖說一品無明而實不可說品。何以得後心菩薩無功用道。其疾甚風。一日之間。能破無量品無明障惑。何況瓔珞經明等覺地。於百千萬劫入重玄門。倒修凡夫事。是故開法雲地。更立金剛心等覺佛於理無失。若知一品有無量品無明。因法雲地無礙之智即盡。復何須開出等覺地也。七妙覺地者。金剛後心朗然大覺。妙智窮源無明習盡。名真解脫。肅然無累寂而常照。名妙覺地。常住佛果具足一切佛法。名菩提果。四德涅槃名為果果。問曰。為定用金剛智斷無明。為用妙覺智斷無明耶。答曰。涅槃經云。有所斷者名有上士。無所斷者名無上士。問曰。勝鬘經云。無明住地其力最大。佛菩提智之所能斷。答曰。若用別教通十地等覺。即是佛菩提智。所以者何。涅槃經云。九住菩薩名為聞見。十住菩薩名為眼見。雖見佛性而不了了。以無礙道與惑共住。故不了了。諸佛如來了了見者即真解脫。肅然累外故了了也。若別教明義。從初歡喜地。即用佛菩提智。斷初品無明。乃至等覺後心方乃斷盡。若圓教明義。即是初發心住。得用佛菩提智。斷初品無明。乃至等覺後心方斷盡也。第四約別教位釋淨無垢稱位者。維摩既是一生補處大士即是法身。居等覺金剛心無垢菩薩之位也。佛性理顯故名為淨。別惑正習俱盡。無明餘習。譬若微煙雖有如無。故名無垢。邊際智滿內稱深理外用無方。法界平等赴緣行化。故名為稱。故云淨無垢稱也。豈可同彼三藏通教。辨淨無垢稱義。所以教迹現同補處位者。為呵通教三乘。別教大乘接義也。

三明の天行とは、すなわち中道第一義の天のことです。天然の理であり、行によって理を顕し、理によって行を成じます。ゆえに理を天行と名づけるのです。菩薩は初地に入ったとしても、初地にとどまるべきではありません。有所得であるからです。また、さらに上の地の智慧を修めるべきです。十重にわたって真を発し、慧を修めて理に契い、理を顕して行を成す、これを天行と名づけます。天行とはすなわち智慧の荘厳です。梵行とはすなわち福德の荘厳です。上に仏道を求める、ゆえに聖行と天行があります。下に衆生を化す、すなわち梵行・病行・嬰児行があるのです。

四に嬰児行とは、もし菩薩の福德と智慧がますます増えれば、実相はいよいよ顕れます。わざわざ意を用いて衆生を利益しようとしなくても、自然に冥益と顕益との二つの利益がありえます。天行の力によって冥益があり、梵行の力によって顕益があるのです。衆生が小さな善の機縁を持つべきとき、菩薩が開発しなければ成長できません。慈善の根の力によって、磁石が鉄を吸い寄せるように、和光して利益の行をなすことで、衆生に菩薩を見せることができます。菩薩はその初心の学びと同じ姿を示し、しだいに五戒・十善を修めて人天の果報を得ます。三十三天の楊葉の行です。また二百五十戒を示し、観練・薫修の禅を修めます。四諦・十二因縁・三十七道品です。二乗の嬰児行と同じです。また六度を共に修めることを示し、百劫のあいだ相好を種え、煩悩を柔伏します。六度の菩薩の小善の行です。また即色是空・無生無滅を示します。通教の小善の行です。また別教の歴別次第の相似中道を示します。小善の行です。これらはみな慈心の力であり、身を低くして群品に同じ、提接して成就させます。心から楽を与えることによって嬰児行を起こすのです。

涅槃経に言うとおりです。「嬰児とは、大字を説くことができる。いわゆる婆和である」と。これはすなわち六度に同じです。六度は小行ですが、仏になろうと求めるゆえに大字と言います。いわゆる婆和です。また「昼夜・親疎などの相を見ない」と言います。これはすなわち通教の菩薩に同じで、即色是空・第一義諦の意味です。また「大小の諸事を造作することができない」と言います。大事とは五逆であり、小事とは二乗の心です。これはすなわち別教に同じです。別教は生死ではないゆえ五逆がなく、涅槃ではないゆえ小乗の心がないのです。また「楊樹・黄葉」と言います。これはすなわち人天の五戒・十善の嬰児に同じです。また「非道を道とする、よく道を生ずる微因縁のゆえに、非道を道と説く」と言います。これはすなわち二乗の嬰児に同じです。したがって、大慈善の根の力が、仮の姿を現して物を化し、その小善の方便に同じて、導いて仏慧に向かわせることを知るべきです。ゆえに嬰児行と名づけるのです。

五に病行とは、この行は無縁の大悲から起こります。もし小さな善を生むならば、必ず病行があります。ここで分別すべきです。善を生む側に同じであるのを嬰児行と名づけ、煩悩の側に同じであるのを病行と名づけます。病行は大悲から生じます。衆生が病むゆえに、私も病むのです。大悲が心を薫じ、地獄に遊戯し、衆生の悪業の病に同じます。調達が地獄にいるのに三禅の楽のようであるのと同じです。乃至、畜生・餓鬼・修羅もまたそのとおりです。また人天と同じく、結業の生老病死の病があります。また二乗と同じく、見思の病があります。方便をもって近づき、語って勤めて作さしめます。三蔵教・通教の菩薩もまたそのとおりです。また別教と同じく、塵沙・無明の病があります。ゆえに菩薩は還って彼の病に同じ、法界に遍じて衆生を利益します。これが五行の相です。病行とは、すなわちこの維摩経の問疾品であり、室内の六品で明かされるところです。

初地の菩薩は五行が具足します。あるいはこれは初功徳です。残りの九種の功徳は、あるいは九地に対応させることができるでしょう。いわゆる無明・見惑を破るとは、涅槃経に言うとおりです。「これより以前は、みな邪見人と名づける」と。これはすなわち両教三乗の人であり、みなこの理を見ていないゆえ、邪見人と名づけるのです。したがって大士が須菩提を呵して「六師は汝の師である、天魔外道は一手で諸の労侶を作す」と言う意はここにあります。乃至、別教の十信・三十心は、この惑を伏すといえども、すでに断つことができないので、なお無明の別見を成就しています。諸の菩薩を呵す意はここにあります。

この二つは二地から六地までを修道と名づけ、別惑の三界の愛を断ちます。智度論に明かすとおりです。迦葉は㼼迦羅の琴の声を聞いて自ら安んじることができず、「三界の五欲は我已经に断じ終えた。これは菩薩の浄妙功徳から生じた五欲である。ゆえにこの事において安忍することができない」と言いました。色愛・無色愛もまたそのとおりです。この経で、大士が須菩提を呵して「煩悩に同じて彼岸に到らず、八難に入って無難を得ず」と言う意はここにあります。ゆえに二地から六地までは、通じて修道と名づけ、この別惑を断つのです。今、義によって推せば、二の離垢地は、すなわち仮に別教の欲愛を断ちて斯陀含向と名づけます。三の明地は、すなわち別教の斯陀含果です。四の焰地は、すなわち別教の阿那含向です。五の難勝地は、すなわち別教の阿那含果であり、別惑の欲愛を断じ尽くします。六の現前地は、すなわち別教の阿羅漢向であり、別の色愛を断ちます。七の遠行地は、すなわち別教の阿羅漢果であり、別の無色愛を断じ尽くします。ゆえにこれより無学道と名づけます。

問うて曰く、この四果に対する出典はどの経論ですか。答えて曰く、別教が断伏を明かして四果に対することは、経論に多く異同があります。諸の大乗法師が用いるものも、また地論師とは異なります。通教の判位では「初地で見を断じ、二地で欲愛を断じ、三地で色愛を断じ、四地で無色愛を断ずる」と言います。地論師の通宗の判位では、三地で見を断じて須陀洹と名づけ、四地から六地までを斯陀含と名づけ、第二依法師とします。七地を阿那含と名づけ、第三依法師とします。十地等覚を阿羅漢と名づけ、これが第四依法師です。三地で見を断じ、四地を斯陀含と名づけ、五地を阿那含と名づけ、六地を阿羅漢と名づける説もあります。仁王経を用いて、四地で見を断じ五地を斯陀含と名づけ、六地を阿那含と名づけ、七地を阿羅漢と名づける説もあります。このような異説は一様ではなく、定めて依ることは難しいものです。今は義によって推して、この四果に対したのです。一往は解しやすいようですが、確かな文証がないので仏意は知り難く、いたずらに執着する必要はありません。

問うて曰く、なぜ解釈が定まらないのですか。答えて曰く、すでに先に述べたとおりです。八の不動地は、すなわち別教の辟支仏地です。地論師は言います。「これより無学道を明かす」と。ただし経論に確かな出典があるかは不明です。八地は無生忍を得て寂にして常用し、用いて相なく功用心がないだけでなく、自然に法界の無明惑・色習を断じ尽くします。九の善慧地は、無明がしだいに薄くなり、心習を断じ尽くし、慧がいよいよ分明となり、よく実相に入ります。十の法雲地は、慈悲と智慧がちょうど大雲のようであり、慈悲は普く一切を洽し、みな慧の雲を雨らし、十方の諸仏の説かれる法雨を能持し、無明を断ちます。

六の等覚地とは、すなわち辺際智満で重玄門に入ります。法雲から見ればこれを仏と名づけ、妙覚から見れば金剛心菩薩と名づけ、また無垢地菩薩とも名づけます。三魔はすでに尽き、残り一品の死魔があり、無明の習を断じます。問うて曰く、前の通教ではなぜ等覚仏を弁じないのですか。答えて曰く、界内の習気は尽きやすいゆえ、法雲から等覚を開き出す必要がないのです。問うて曰く、別教の経論では、なぜところどころで法雲の後に、さらに金剛等覚を明かすのですか。自ら経論にはただ十地の行満を明かして、そのまま仏果を成ずるとするものもあります。南北の法師はこの義を抑諍しています。答えて曰く、さらに等覚を立てることは、妨げにはなりません。なぜなら、華厳経には法雲十地の功徳智慧を明かし、これを仏と比べれば、爪の上の土が大地に対するようなものだと言います。もしそうなら、一品の無明を説くといえども、実に品を説くことはできません。どうして後心の菩薩が無功用道を得て、その疾さは風よりも甚だしく、一日の間に無量品の無明障惑を破ることができるでしょうか。ましてや瓔珞経には等覚地を明かし、百千万劫のあいだ重玄門に入り、倒れて凡夫の事を修すと言います。ゆえに法雲地を開いて、さらに金剛心等覚仏を立てても、理に失いはありません。もし一品に無量品の無明があることを知れば、法雲地の無礙の智によって即座に尽きます。どうしてさらに等覚地を開き出す必要がありましょうか。

七の妙覚地とは、金剛後心において朗然と大いに覚り、妙智が源を窮め、無明の習が尽きるのを真解脱と名づけます。粛然として累なく、寂にして常に照らすのを妙覚地と名づけます。常住の仏果にして一切の仏法を具足するのを菩提果と名づけます。四徳涅槃を果果と名づけます。

問うて曰く、いったい金剛智を用いて無明を断ずるのか、妙覚智を用いて無明を断ずるのか。答えて曰く、涅槃経に言います。「断ずるところあるものを有上士と名づけ、断ずるところなきものを無上士と名づける」と。問うて曰く、勝鬘経に言います。「無明住地はその力最も大なり。仏菩提智のよく断ずるところなり」と。答えて曰く、もし別教を通じて十地等覚を用いれば、すなわちこれが仏菩提智です。なぜなら、涅槃経に言います。「九住の菩薩を聞見と名づけ、十住の菩薩を眼見と名づける。仏性を見るといえども不了了なり。無礙道と惑と共に住むゆえに不了了なり。諸仏如来の了了と見るものはすなわち真解脱なり。粛然として累の外にあるゆえに了了なり」と。もし別教の義を明かせば、初の歓喜地から、すなわち仏菩提智を用いて初品の無明を断じ、乃至等覚の後心においてようやく断じ尽くします。もし円教の義を明かせば、すなわち初発心住において、仏菩提智を用いることを得て初品の無明を断じ、乃至等覚の後心においてようやく断じ尽くすのです。

第四に、別教の位に約して浄無垢称の位を釈するとは、維摩はすなわち一生補処の大士であり、すなわちこれ法身です。等覚金剛心無垢菩薩の位に居します。仏性の理が顕れるゆえに浄と名づけます。別惑の正習がともに尽き、無明の余習は、たとえばかすかな煙のようで、あるようで無いようなものです。ゆえに無垢と名づけます。辺際智が満ち、内は深理に称い、外は無方に用い、法界平等にして縁に赴いて化を行じます。ゆえに称と名づけます。したがって浄無垢称と言うのです。どうしてかの三蔵教・通教と同じく、浄無垢称の義を弁じることができましょうか。教迹において補処の位に同じく現れるのは、通教の三乗を呵し、別教大乗の接義のためです。

四教義卷第十

四教義巻第十


第九
第十一

CBETA コード: T1929

© AI 帮你读佛经 - 如是我闻

この文書は個人学習専用です。商業目的での使用は禁止されています。

訪問 rushiwowen.co

著作権:原文は CBETA
AI 翻訳は参考文献のみで、権威あるものではありません