四教義卷第十二
四教義 巻第十二
天台山修禪寺智顗禪師撰
天台山修禅寺の智顗禅師の撰
第三引眾經論證誠明圓教位者。大涅槃經明月愛三昧。從初一日至十五日。光明漸漸增長。又從十六日至三十日。光明漸漸滅盡。月光漸漸增長。譬智德十五摩訶般若光明。漸漸滅盡。譬十五斷德。無累解脫無明漸漸滅盡也。十五種智斷者。三十心為三智斷。十地為十智斷。等覺為一智斷。合為十五智斷。故從初一日至十五日。故以月為譬也。月體即譬法身。法身是一光明漸增譬般若智德不生而生。光明漸減譬解脫斷德不滅而滅。故涅槃經明。從初實安置諸子祕密之藏三德涅槃。然後我亦當於此祕藏藏而般涅槃。此最後究竟涅槃。名為不生不生。般若畢竟不生不滅。更無惑可滅也。問曰若是圓位頓悟一證即便應究竟。何得引月愛三昧十五日月喻。答曰一向無淺深已如前破。但證位是諸佛境界。凡夫未識豈可定執。今借十五日月喻者。此約不可喻中而論喻耳。故涅槃經云。又解脫者。名無譬喻。無譬喻者即真解脫。譬如面譬如滿月。實非無有五根相同彼月也。問曰何得知月喻譬地位。答曰勝天王般若具出此義。問曰若約佛性中道明無明所覆。何得定有四十二品。答曰此義前已略明。無明雖無所有。不有而有。不無淺深階品。一往大分為四十二品。然論品數。實自無量無邊不可說示。故大智論云。無明品類其數甚多。是故處處說破無明三昧。又云。法愛難盡。處處重說般若也。法華經云。諸佛為一大事因緣故。出現於世。為令眾生開佛知見。示佛知見。悟佛知見。入佛知見道故。此之四義。南嶽師解云。開佛知見即是十住。示佛知見即是十行。悟佛知見即是十迴向。入佛知見即是十地。及等覺地。皆言佛知見者。悉得一切種智也。皆言佛知見者。悉得佛眼也。又法句云。是為諸佛一大事因緣者。同入一乘諸佛實相也。又云。唯佛與佛乃能究盡諸法實相。又火宅品。諸子門外索車。長者各賜諸子等一大車。是時諸子。乘此寶車遊於四方嬉戲。快樂自在無礙直至道場。言四方者。即譬開示悟入之四位也。直至道場。即究竟盡諸法實相妙覺極位。如此皆是明圓位之異名也。大品經。明阿字等四十二字門。南嶽師解云。此是諸佛之密語。表四十二心之位。若學問人多疑此語。謂大智論無此釋。然龍樹釋大品經。論有千卷什師並略。何必無此釋也。今謂此解深應冥會。所以然者。經說初阿後荼。中有四十二字。初阿字門亦具四十二字。後荼字門亦具四十二字。華嚴經云。從初一地具足一切諸地功德。詳此義意。極似相關。又大品經云。若聞初阿字門。則解一切義。所謂一切法初不生故。此豈非圓教菩薩。初得無生法忍之位也。過荼無字可說。此豈非是妙覺極地無上無上無過。不可過此字有法而可說也。又大品經廣乘品。說一切法門竟。即說四十二字。豈非是圓教菩薩。從初發心得諸法實相。具一切佛法。故名阿字。至妙覺地窮一切諸法源底。故名荼字。作此解釋圓教之位極似分明。又四十二字門。後即說十地。此即是顯別教方便之次位也。又次十地說三乘共十地。即是顯通教方便之位也。經文三處宛然。比決圓別通三教。顯在大品經文也。故大品經云。是乘從三界。出到薩婆若中住。又三慧品云。菩薩從初發心修習三慧。至坐道場。仁王般若經云。三賢十聖忍中行。唯佛一人能盡源。前所引思益楞伽等經。明寂滅真如有何次位。即是無次位之次位也。又瓔珞經云。三賢菩薩心心寂滅。自然流入薩婆若海。華嚴經明四十一位。既是圓頓之教。明圓位之意甚自分明。但有時開別教方便之說。事相隔別似如淺近。故十地論師。作教道證道二道明義。或作地相地實二種明義。正是為修行別教方便事相之文也。又云。一切無礙人一切道出生死也。智度論云。菩薩從初發心。觀涅槃行道。乃至坐道場。又云。菩薩從初發心。觀諸法實相慧。名為般若波羅蜜。至佛心中變名一切種智。譬如入海有始入者。有後入者有至半者。有到彼岸者。皆名入海。菩薩亦爾。從初發心觀諸法實相。實相雖一。而觀智不無淺深之殊也。第四料簡。問曰何不依大乘經論對諸法門明位。答曰。今引此等經論。釋成圓教次位者。此約不思議平等法界。辨不思議非次位之次位也。若別對法門。尋者若不得意。多別解別執。則失圓通中道之正意。不思議諸佛菩薩之次位也。是事非凡夫所知。正可仰信而已。故華嚴經云。諸地不可說。何況以示人。所以然者。且置大乘。懺悔發初隨喜。一信心獲一施陀羅尼門。已不可向一切人說。雖復種種分別。亦不可解。何況圓教四十二心法門。二乘尚不聞其名。豈有凡夫而能說也。且置是事。如聲聞法中學四念處。發煖法時。亦不可向一切外凡未證者說。設種種因緣而解說者。終不可能解。豈況圓教諸佛菩薩位行。而可知可說也。且置是事。如世凡人坐禪。發禪五支功德。尚不可為未證者說。設方便巧說。未證之者亦不能解。豈況諸佛菩薩地位法門而可分別也。末代法師。多取經論方便所明斷伏。對諸法門。釋大乘賢聖地位(云云)。今意不爾。所以者何。如水性冷飲者方知。心無實行何用問為。是以今辨四教四位者。出諸經論。此乃諸佛權實法門。於四不可說中。用四悉檀而說。此是諸佛大菩薩境界。非諸小菩薩聲聞緣覺所知。豈況末代凡夫所能解也。深屬一家學道說法之者。自非得證分明。慎勿偏執諸經論諸佛菩薩方便赴緣之言。空諍不思議不可測量之行位也。普願法界眾生。歸僧息諍論。入大和合海也。第五約圓教位釋淨無垢稱義者。維摩大士。若是位在法身補處。即是等覺金剛無垢之位。智慧將圓。如十四日月。無明將盡。如二十九日月。故智度論云。普賢文殊。亦有十力四無所畏。如十四日月。佛亦具足十力四無所畏。如十五日月也。法性理顯。故名為淨。無明惑垢將盡。故稱無垢。等覺智慧稱理圓明。稱機而照。故言淨無垢稱也。是則位隣妙覺。若論圓應。乃至十方佛土現十法界身八相成道。此土應宜現補處之形。故居無動佛所。為補處菩薩。來遊忍界。呵諸菩薩。皆稱不任問疾者。正以圓破偏也。又說入不二法門而獨默然者。表圓教內證法門。不可說示也。第五約五味譬。明四教位者。大涅槃經明五味譬不同。以成四教辨位不同之相也。經云。凡夫如乳。須陀洹如酪。斯陀含如生蘇。阿那含如熟蘇。阿羅漢辟支佛如醍醐。此譬意。恐是顯三藏教明位也。經又云。凡夫如乳聲聞如酪。辟支佛如生蘇。菩薩如熟蘇。佛如醍醐。此譬意恐是顯通教明位也。經又云。凡夫如雜血乳。羅漢如清淨乳。辟支佛如酪。菩薩如生熟蘇。佛如醍醐。此譬意恐顯別教明位也。經又云。雪山有草名曰忍辱。牛若食者即得醍醐。忍辱草者喻八聖道。乳喻十二部經。隨有能修八聖道者。即見佛性住大涅槃。此即譬於圓教菩薩。從初發心即開佛知見。見佛性住大涅槃也。涅槃經明此之四譬。譬四教明位其義宛然。若不信四教明位不同者。云何消釋此五味四種譬也。今明前四教明位合此四譬。一往似如目覩。只自聖人密意難知。何可定執。又涅槃經云。譬如有人置毒於乳。乃至醍醐。亦能殺人。此譬應得兩用。若對經教五味明義。處處皆得見佛性。入涅槃也。此即是不定教門事在下釋。若是約位明殺人義。四位五味根緣不定。隨其大乘機發。即皆以如來滅度而滅度之故同殺人之義也。第六辨眾經明四教位多少不同者。華嚴頓教。但明別圓二教位。漸教之初。聲聞經但明三藏教三乘之位。若方等大乘具用四教明位。摩訶般若但明通別圓三教之位。若法華經但明圓教一佛乘。開示悟入之位。俱通大乘。明二乘如前。但通教菩薩位。用別接通。明佛性四德涅槃。三藏二乘如前。廢三藏大乘之位。三阿僧祇劫伏結之因。三十四心斷結之果入二涅槃也。又通教三藏教明二乘位至大涅槃。俱引入別圓二位也。問曰若廢三藏佛位。何得言羅漢辟支佛。佛如醍醐。答曰三位但界內結盡。此結成往昔之義。非今涅槃之所用也。大門第五明權實者。就此即為三意。一略明權實。二明格位。三明興廢。一明權實者。權是暫用之名。實以永施為義。方便波羅蜜隨情近益。故名為權。智慧波羅蜜稱理究竟。故名為實也。是則三教暫赴物情。故名為權。圓教究竟利物。故名為實。分別權實應須四義。一明一切非權非實。二明一切皆權。三明一切皆實。四明一切佛法非權非實而權而實。一明一切非權非實者。若論四不可說。無說則無四教可分無三教。即非權。無圓教則非實。是則一切佛法皆非權非實。二明一切皆權者。若論四不可說有因緣而說。是則四教皆是權巧化物也。故佛言。我坐道場時。不得一法實。空拳誑小兒。以度於一切也。三明一切皆實者。無說而說之。必應機赴緣之益。其義皆實。故四教皆名實也。故智度論云。有世界對治為人故實。有第一義故實。此即皆實不虛之義也。四明一切佛法非權非實而權實者。若四不可說則無權實之可分。故言非權非實。不說而說三教即是權也。而說圓教即是實也。但一家明權實義有三種。一化他權實。二自行化他權實。三自行權實。若是化他權實。前三教非但是權。就此權中。亦各說權實也。若明自行化他權實。即是前三教並是權用。圓教所明一向是實。若論自行權實。即就圓教之位辨。照中道為實。雙照二諦為權也。第二明格位者即為三意。一約三藏教位格後三教。二約通教位格後二教。三約別教格後圓教。一約三藏教位格後三教者。即為三意。一明三藏教位格通教。二格別教。三格圓教。一格通教者。若論聲聞緣覺。與通教明二乘不殊。若約大乘明位。此則大為殊別。所以者何。三藏教明三阿僧祇劫修行乃至補處即是無垢位。正得齊於通教柔順忍信地忍法中忍也。若三藏之佛則得齊於通教佛地正習俱盡八相齊也。傍論。三藏佛是折法智力拙。通教佛是體法。故為巧。問曰。智度論云。阿羅漢地於聲聞經中名之為佛。但得二種涅槃。答曰。今謂皆除正使。已辦地齊。若取二諦滿正習盡。二佛齊也。二明用三藏教位格別教位者。三藏教明一生補處淨無垢稱位。格別教。與鐵輪位十信第十願心齊。佛地但與別教第十迴向齊。或可與初地齊也。此乃正意。傍論類通教可知。三明三藏教格圓教位者。三藏補處淨無垢稱位。但與圓教五品弟子第五品齊。佛地但與鐵輪位十信後願心齊。正義如此。傍論亦有優劣。三藏佛正習俱盡。以此為勝。不明六根清淨不思議之妙用。此為劣也。故華嚴經歎初發心住菩薩云。初發心以過於牟尼也。二明用通教位格後二教位即為二。一格別教。二格圓教。一明格別教位者。通教明補處淨無垢稱位。別教第十法界無量迴向齊。通教佛果但與十地初歡喜地齊。正義如此。傍論有劣者。無相似中道智伏無明也。二明格圓教者。若通教明補處淨無垢稱位。但與圓教鐵輪位十信第十願心齊。通教明佛果。但與初發心住齊。此是一往格之。正論則劣。初發心住。以初發心住即能顯中道法身。斷無明一品為勝也。三明別教格圓教位者。若別教明法身法雲一生補處淨無垢稱位。但與圓教十位第十灌頂住齊。佛地斷十一品無明。但與十行初歡喜行齊。若依仁王經。開十地為三十生。是則無垢與法界無量迴向位齊。佛地與十地初歡喜地齊。是則別教明一生補處望圓教。若依前釋。以義往推。猶有三十一品無明。若依引仁王經。即有十一品無明。是則別圓法身補處。雖通約位。無垢稱義懸殊。豈得一概而釋維摩詰之名也。問曰。尋至道即是一。若格前方便三教。所明補處佛果遂傳爾懸殊。此意難解。答曰。二義往釋。一有教有人。二有教無人。若是三教方便之說。因中稟教之者。即並有教有人。佛果補處及上位菩薩能說三教。此並有教無人。所以者何。所稟三教行人因教各獲利。故有教有人也。能說之教主示現為三教之佛菩薩。令物慕果行因。因行既成則無復化主。如斯乃緣感便應。緣謝便息。空拳誑小兒。引將還家。手中實無物也。三教化主亦皆如是。若是圓教有教有人者。因中稟教。乃至法雲有教有人。斷四十一品無明。法身補處此實非虛。妙覺法身無說之說。即是果上有教有人也。有教無人因之為權。有教有人。名之為實。問曰。若爾四教明果可分權實。四教因地皆有教有人。何得分其權實。答曰。今明。三教之人名為權人。稟圓教之人。則人教俱實。故約四教明因分權實也。問曰。三教之因。既立權人。三教之果何意不得辨權人也。答曰。三教行人可成圓人。無有三教之佛修因作圓佛。故非類也。第三明興廢者即為二意。一權教有興有廢。二實教興而不廢。一明權教有興有廢者。即為三意。一三藏教機起即興。機謝則廢。所言機興者。可發之義名之為機。前緣有小樂欲可起。小善可生。小惡可治。偏真之解可發。故須用四悉檀。於聲聞經中。說因緣生滅四諦十二因緣六度之教。開三乘之道。聞則稱機。樂欲心起。生善斷惡。若是二乘發真無漏。證有餘涅槃。若是菩薩六度調心。得伏忍柔順忍也。法華經云。小智樂小法。不自信作佛。是故以方便分別說諸果。為此機緣。雖無三藏伏結。補處菩薩。淨無垢稱義。三十四心佛果。住有餘涅槃之佛。為欲以四悉檀教赴此故。示現此教形聲。赴機度物。故法華經明。長者即脫瓔珞。著弊垢衣。執持糞器。狀有所畏。語諸作人。即是三藏教興之義。廢者。此小欲將歇。小善已成。事惡已除。真解已發。是則四緣俱息。則三藏所說之教能說之人俱廢也。二明通教興廢者。興則機興。廢則機廢。機興而教興者。無生四諦樂欲將起。體假入空之善可生。迷理見思可斷。即真之解可發。故須用四悉檀說無生四諦通教。三乘聞則樂欲心起。生善斷惡。三乘同發即真無漏之慧。見第一義。二乘住有餘涅槃菩薩則不滯空。慈悲入假化物。誓求佛果。為赴此之機緣。雖無通教斷結侵習。上地補處菩薩淨無垢稱位。一念相應慧斷習。佛果住有餘涅槃。為赴通教赴此三乘根緣。示現此教形聲。悉檀赴緣逗物。故名為興。廢者。四機既息緣謝。所說通教能說之人俱廢也。三明別教興廢者。興則機興教興。無量四諦樂欲將起。從空入假善根可生。無量恒沙煩惱別惑見思可治。中道第一義諦真解可發。故須用四悉檀說無量四諦起別教。菩薩聞則樂欲心起。生界外之善。斷界外之惡。發中道相似無漏及真無漏。求常住佛果大般涅槃。為赴此之機緣。雖無別教斷十品無明。法身補處菩薩斷十一品無明。究竟佛果。而示現此教形聲。用四悉檀赴物機緣。說無量四聖諦。故名別教興也。廢者。四十二品補處菩薩。此教佛果俱廢也。二明圓教俱興而不廢者。若於華嚴方等法華涅槃。所說圓教赴圓機樂欲生善斷惑見中第一義諦。是則從初發心至無垢地。赴四根緣。常說此教。至等覺佛。故名為興。故三十二菩薩文殊師利等。皆說入不二法門。即是教興之意也。若證妙覺。無師自悟。無法可歎。無善可生。無惡可斷。更無深理可見。言詞相寂滅。本自無興。故無廢也。無廢亦得論廢者。四悉檀機盡則教息。故名廢也。故大品經云。過荼無字可說。涅槃經云。不生不生不可說也。故淨名默然杜口。不須復以言言於無言之理。文殊稱歎表絕言也。是則在因有人有教。至果則教廢人存。三德涅槃湛然清淨。豈同前三教補處菩薩菩提佛果皆有教無人。教廢人亦隨廢。權實之意顯在於此也。第六約觀心明四教者。從三觀起四教。已如前辨。今但論即心行用。識一切教門皆從初心觀行而起。四教既攝一切經教。若一念觀心分明。能分別一念無明因緣所生之心。四辨歷然。則一切經教大意皆約觀心通達。就此即為四意。一約觀心明三藏教相。二約觀心明通教相。三約觀心明別教相。四約觀心明圓教相。第一約觀心明三藏教相者。即是觀一念因緣所生之心生滅相。折假入空。約此觀門。起一切三藏教也。若觀生滅四諦入道。即是修多羅藏。故增一阿含云。佛告諸比丘。謂一切法者只是一法。何等為一法。心是一法出一切法也。智度論云。從初轉法輪至大涅槃。結修多羅藏。此只是約心生滅說四聖諦。即是法歸法本之義也。觀心出一切毘尼藏者。佛制戒時。問諸比丘。汝法何心作。若有心作。即是犯戒。有犯故有持也。若無心作。則不名犯。犯義不說持也。故重心發戒。無心則不發戒也。所言從心出阿毘曇藏者。四卷略說名毘曇心。達磨波羅處中而說名為雜心。如此皆是約心辨毘曇。無比法者。分別諸心心數法。一切法不可比也。二約觀心明通教者。觀心因緣所生一切法。心空則一切法空。是為體假入空。一切通教所明行位因果皆從此起。三約觀心明別教者。觀心因緣所生。即假名。具足一切恒沙佛法。依無明阿梨耶識。分別無量四諦。一切別教所明行位因果皆從此起。四約觀心明圓教者。觀心因緣所生。具足一切十法界。無所積聚。不縱不橫。不思議中道二諦之理。一切圓教所明行位因果皆從此起。如輪王頂上明珠。是則四教皆從一念無明心起。即是破微塵出三千大千世界經卷之義也。第七通諸經論為二。一明對諸經論。二通釋此經文義。就初四教對經論者。佛用四教成一切頓漸諸經。論釋經豈越四教也。即為二意。一對經二對論。一對經者。若華嚴經但具二教所成。一別教。二圓教。所以者何。別教則諸菩薩宣說歷劫修行四十二心斷結行位階差。圓教明一心具足一切諸行。從初一地具足一切諸地功德。次明漸教之初聲聞經。但具足三藏教。方等大乘及以此經具足四教。摩訶般若具足三教。除三藏教。法華經開權顯實。正直捨方便。但一圓教。涅槃經具足四教。成五味義也。問曰。方等大乘亦具四教。何故不成五味義。答曰。不明聲聞作佛。五味之義不成。約不定中。得論四教也。釋迦出世所有經教更不過此四教。攝此諸經。罄無不盡。二對論者。論有二種。一者通申經論。二者別申經論。一通申經論者。即為二意。一通申小乘經。二通申大乘經。一通申小乘經者。如毘曇成實昆勒等論。並是通申小乘經論故成實論主云。我今正欲論三藏中實義。二通申大乘經論者。如地持論.攝大乘論.唯識論.中論.十二門論等。並是通申諸大乘經所明別圓兩經也。二別申經論者。即為二意。一別申小乘經。二別申大乘經。一別申小乘經者。如俱舍論別申修多羅。明了論別申毘尼。毘婆娑論.阿毘曇論別申佛在世說毘曇也。二明別申大乘經論者。如十地論別申華嚴經別圓兩教。大智度論別申摩訶般若經通別圓三教。應有別申大集方等及此經論。不來此土。金剛般若論別申金剛般若經。法華論別申法華經一圓教。涅槃論別申涅槃經四教五味。論度此土不盡。如是等論申經。即是申觀心。此等諸經今分明也。是則精修觀心。洞解一切經論。若經論不從心出者。觀行之人。既不聽不讀。何得內心通達耶。此乃有所言說。冥與經論相應。意在此也。第二正明用四教通釋此經云文義者。即為二意。一釋經五義。二通經文。一釋此經五義者。即如前約四教位釋淨無垢稱之名。名一而義異。次辨體者。三教所詮即是思議解脫之體。圓教所明即是不思議解脫也。次明宗者。是即四教明四種四諦因果感佛國不同也。次顯用者。即是四教從淺至深。次第以深呵淺也。次判教相者。此經具明四教。與諸經有同有異。如前分別。二用四教釋此經文者。即為三意。一通室外四品。二通室內六品。三通出室四品。一通室外四品者。用四教明因果不同。故釋迦現佛國有異。如身子梵王所見不同。諸天共寶器。食隨其果報。飯色有異故。以稟四教不同故。見佛國有異也。釋方便品。正用三藏教通教。所以者何。說折法入空因緣生滅無常。復說如夢幻體假入空之意。是則因中用拙巧二度。破其界內愛見著心。勤修二教之法身也。弟子品用通教別教圓教。彈呵十大弟子及五百羅漢。用通教彈者。如呵迦旃延說三藏教拙度五義。用別教折呵者。此如呵富樓那穢食置寶器也。用圓教者。如彈身子善吉云。不起滅定。現諸威儀。不斷廢愛。起於明脫。亦不縛不解。並是用圓教意彈也。四教釋菩薩品。正是用圓教。呵四大菩薩用三藏通教別教自行化他偏僻法華不思議圓頓之道。二明室內用四教釋六品經文者。大士無三教之疾。以方便現同三疾。約此辨問疾也。不思議品正明住圓教不思議示現四教之事也。觀眾生品即是辨不思議別圓兩教從假入空也。佛道品即是辨不思議圓教從空入假行於非道通達佛道也。不二法門品正明圓教不思議中道正觀入不二法門也。香積品即是不思議圓教所明雙照二諦法界圓融也。三明四教通出室四品經文者。通菩薩行品。令菩薩遍行四教之行。四土化眾生也。四教通見阿閦品者。明若依四教修四行。發菩提心。始得生阿閦佛國也。亦用此成無動如來佛國之行。得成佛時。所有佛國如妙喜世界也。用四教通法供養屬累二品者。付屬天帝彌勒。令於佛去世後流通此經。四教利益未來弟子令不絕也。
第三に、多くの経典や論書を引用して、円教の位を真実に証明し明らかにする。
大涅槃経には月愛三昧が説かれています。初日から十五日まで、光明が次第に増していきます。また十六日から三十日まで、光明が次第に滅び尽くします。月光が次第に増していくのは、智徳の十五の摩訶般若の光明が次第に増すことにたとえられます。次第に滅び尽くすのは、十五の断徳、すなわち煩悩の累いのない解脱において無明が次第に滅び尽くすことにたとえられます。十五種の智と断とは、三十心を三つの智断とし、十地を十の智断とし、等覚を一つの智断とし、合わせて十五の智断となります。それゆえ初日から十五日までというので、月をたとえとするのです。月の本体はそのまま法身にたとえられます。法身は一つであり、光明が次第に増すのは般若の智徳が不生にして生じることにたとえられます。光明が次第に減るのは解脱の断徳が不滅にして滅することにたとえられます。それゆえ涅槃経には、初め実相から諸子の秘密の蔵である三徳涅槃を安置し、その後、私もまたこの秘蔵に蔵して般涅槃に入る、と説かれています。この最後の究竟涅槃を不生不生と名づけます。般若は畢竟して不生不滅であり、さらに滅すべき惑はないのです。
問いには、もしこれが円位の頓悟一証であるならば、ただちに究竟すべきはずです。なぜ月愛三昧の十五日月のたとえを引くのでしょうか、と言います。答えには、一向に浅深がないのではないことは、すでに前述のように破斥したとおりです。ただし証位は諸仏の境界であり、凡夫はまだ識らないので、どうして定執できましょうか。今、十五日月のたとえを借りるのは、これはたとえようのないものについて、たとえを論じるのです。それゆえ涅槃経に、また解脱者は無譬喻と名づける、無譬喻とはすなわち真解脱である、たとえば面のようであり満月のようである、実に五根がその月と同様であることがないわけではない、と説かれています。
問いには、どうして月のたとえが地位をたとえると知ることができるのか、と言います。答えには、勝天王般若にこの義が詳しく説かれています、と言います。問いには、もし仏性の中道について、無明に覆われていると明かすならば、どうして定んで四十二品があると言えるのか、と言います。答えには、この義はすでに前に略説しました。無明は所有がないといっても、有らないのに有り、浅深の階品がないのではないのです。一往、大まかに分けて四十二品とします。しかし品数を論じるならば、実に無量無辺で説き示すことはできません。それゆえ大智度論に、無明の品類はその数が非常に多い、それゆえ処々に破無明三昧を説く、とあります。また、法愛は尽くし難い、処々に重ねて般若を説く、とあります。法華経に、諸仏は一大事因縁のゆえに世に出現される、衆生に仏の知見を開かせ、仏の知見を示し、仏の知見を悟らせ、仏の知見の道に入らせるためである、と説かれています。この四つの義について、南嶽師は、開仏知見とはすなわち十住であり、示仏知見とはすなわち十行であり、悟仏知見とはすなわち十迴向であり、入仏知見とはすなわち十地および等覚地である、と解釈しています。皆、仏知見と言うのは、ことごとく一切種智を得ることをいいます。皆、仏知見と言うのは、ことごとく仏眼を得ることをいいます。また法句に、これが諸仏の一大事因縁であるというのは、同じく一乗の諸仏実相に入ることをいいます。また、唯仏と仏のみがよく諸法の実相を究め尽くすことができる、とあります。また火宅品に、諸子が門外で車を求めると、長者はそれぞれ諸子に等しい一大車を与えます。この時諸子は、この宝車に乗って四方を遊び嬉戯し、快楽自在で妨げなく、まっすぐに道場に至ります。四方と言うのは、すなわち開・示・悟・入の四つの位にたとえられます。まっすぐに道場に至るとは、すなわち究竟して諸法の実相を尽くす妙覚の極位です。これらは皆、円位の異名を明かすものです。大品経には、阿字などの四十二字門が説かれています。南嶽師は、これは諸仏の密語であり、四十二心の位を表す、と解釈しています。学問の多い人はこの語を疑い、大智度論にこの解釈がないと言います。しかし龍樹は大品経を解釈し、論には千巻あり、鳩摩羅什師がすべてを略したのです。どうしてこの解釈がないと言えましょうか。今、この解釈は深く冥会すべきだと思います。なぜなら、経には初めの阿、後の荼を説き、その中に四十二字があります。初めの阿字門にもまた四十二字が具わり、後の荼字門にもまた四十二字が具わります。華厳経に、初めの一地から一切の諸地の功徳を具足する、と説かれています。この義意を詳しく見ると、非常に似て関連しています。また大品経に、もし初めの阿字門を聞けば、すなわち一切の義を解する、いわゆる一切法は初め不生であるからである、とあります。これこそ円教の菩薩が、初めて無生法忍の位を得るのではないでしょうか。荼を過ぎれば字は説くべきものがありません。これこそ妙覚の極地、無上無上でこれより過ぎたものはなく、この字を過ぎて説くべき法があるわけではないのです。また大品経広乗品には、一切法門を説き終えて、すなわち四十二字を説きます。これこそ円教の菩薩が、初発心から諸法の実相を得て、一切の仏法を具えるので阿字と名づけ、妙覚地に至って一切諸法の源底を窮めるので荼字と名づけるのではないでしょうか。このように解釈すれば、円教の位は非常に分明なようです。また四十二字門の後に、すなわち十地を説きます。これはすなわち別教の方便の次位を顕すものです。また次に十地を説いて三乗共の十地を説きます。これはすなわち通教の方便の位を顕すものです。経文の三処に宛然として、円・別・通の三教を比決すれば、大品経の経文に顕れています。それゆえ大品経に、この乗は三界から出て薩婆若の中に到って住する、とあります。また三慧品に、菩薩は初発心から三慧を修習し、道場に坐るに至る、とあります。仁王般若経に、三賢十聖は忍の中を行じ、唯仏一人のみよく源を尽くす、とあります。前に引用した思益経や楞伽経などに、寂滅真如について何の次位があろうかと明かすのは、すなわち次位なき次位です。また瓔珞経に、三賢の菩薩は心心寂滅し、自然に薩婆若の海に流入する、とあります。華厳経に四十一位を明かすのは、すでに円頓の教えであり、円位の意を明かすことは非常に分明です。ただし時に別教の方便の説を開き、事相が隔別して浅近のようであるため、十地論師は教道と証道の二道の義を立て、あるいは地相と地実の二種の義を立てて明かします。これはまさに別教の方便の事相の文のために修行するものです。また、一切の無礙の人、一切の道が出離生死する、とあります。智度論に、菩薩は初発心から涅槃を観じて道を行じ、乃至道場に坐る、とあります。また、菩薩は初発心から諸法の実相を観ずる慧を般若波羅蜜と名づけ、仏の心に至って変じて一切種智と名づける、たとえば海に入るに始めて入る者があり、後に入る者があり、半ばに至る者があり、彼岸に到る者があり、皆、海に入ると名づけるようなものです。菩薩もまた同様です。初発心から諸法の実相を観ずるに、実相は一つであっても、観智に浅深の違いがないわけではありません。
第四に料簡する。問いには、なぜ大乗の経論に依って諸法門に対し位を明かさないのか、と言います。答えには、今これらの経論を引用して円教の次位を解釈し成立させるのは、これは不思議平等の法界について、不思議の次位なき次位を弁じるものです。もし別に法門に対すれば、尋ねる者が意を得なければ、多く別解し別執し、すなわち円通中道の正意を失います。不思議の諸仏菩薩の次位です。この事は凡夫の知るところではありません。まさに仰信すべきのみです。それゆえ華厳経に、諸地は説くべからず、まして人に示すことを得ようか、とあります。なぜなら、しばらく大乗を置き、懺悔し初随喜を発し、一信心で一施陀羅尼門を得ることは、すでに一切の人に向かって説くことはできません。種々に分別しても、また解することはできません。まして円教の四十二心の法門は、二乗すらその名を聞かないのです。どうして凡夫が説くことができましょうか。しばらくこの事を置き、声聞法の中で四念処を学び、煖法を発する時も、また一切の外凡の未証者に向かって説くことはできません。種々の因縁を設けて解説しても、ついに解することはできません。まして円教の諸仏菩薩の位行を、知り説くことができましょうか。しばらくこの事を置き、世の凡人が坐禅し、禅の五支の功徳を発するも、まだ未証者のために説くことはできません。方便をもって巧みに説いても、未証の者もまた解することができません。まして諸仏菩薩の地位の法門を分別することができましょうか。末代の法師は、多く経論の方便に明かす断伏を取って、諸法門に対し、大乗の賢聖の地位を解釈します(云云)。今の意はそうではありません。なぜなら、水の性が冷たいことは飲む者がはじめて知るのです。心に実行がなければ何の問いを用いましょうか。それゆえ今、四教の四位を弁じるのは、諸経論に出ています。これはすなわち諸仏の権実の法門であり、四不可説の中で四悉檀を用いて説くのです。これは諸仏大菩薩の境界であり、諸の小菩薩や声聞縁覚の知るところではありません。まして末代の凡夫がよく解することができましょうか。深く一家の学道説法の者に属します。自ら証得が分明でなければ、慎んで諸経論の諸仏菩薩の方便赴縁の言に偏執し、空しく不思議の不可測量の行位を諍論してはなりません。普く法界の衆生が、僧に帰し諍論を息め、大和合の海に入ることを願います。
第五に円教の位について浄無垢称の義を解釈する。維摩大士は、もし位が法身補処にあるならば、すなわち等覚金剛無垢の位です。智慧はまさに円かになろうとし、十四日の月のようです。無明はまさに尽きようとし、二十九日の月のようです。それゆえ智度論に、普賢文殊にもまた十力四無所畏があり、十四日の月のようであり、仏もまた十力四無所畏を具足し、十五日の月のようである、とあります。法性の理が顕れるので、これを浄と名づけます。無明の惑垢がまさに尽きようとするので、無垢と称します。等覚の智慧が理に称して円明であり、機に称して照らすので、浄無垢称と言います。これはすなわち位が妙覚に隣接しています。もし円応を論じるならば、乃至十方の仏土に十法界の身を現し八相成道します。この土には応宜として補処の形を現すべきなので、無動仏の所に住し、補処の菩薩となります。来たって忍界を遊行し、諸菩薩を呵し、皆、問疾を任じないと称するのは、まさに円をもって偏を破るからです。また入不二法門を説いて独り黙然とするのは、円教の内証の法門は説き示すことができないことを表します。
第五に五味のたとえについて、四教の位を明かす。大涅槃経には五味のたとえが異なって説かれ、四教の位を明かす相の異なることを成じます。経に、凡夫は乳のようであり、須陀洹は酪のようであり、斯陀含は生蘇のようであり、阿那含は熟蘇のようであり、阿羅漢・辟支仏は醍醐のようである、とあります。このたとえの意は、おそらく三蔵教の位を顕すものでしょう。経にまた、凡夫は乳のようであり、声聞は酪のようであり、辟支仏は生蘇のようであり、菩薩は熟蘇のようであり、仏は醍醐のようである、とあります。このたとえの意は、おそらく通教の位を顕すものでしょう。経にまた、凡夫は雑血乳のようであり、羅漢は清浄乳のようであり、辟支仏は酪のようであり、菩薩は生熟蘇のようであり、仏は醍醐のようである、とあります。このたとえの意は、おそらく別教の位を顕すものでしょう。経にまた、雪山に草があり、名を忍辱といい、牛がもし食べれば即ち醍醐を得る、とあります。忍辱草は八聖道にたとえ、乳は十二部経にたとえます。よく八聖道を修める者があれば、即ち仏性を見て大涅槃に住します。これはすなわち円教の菩薩が、初発心から即ち仏知見を開き、仏性を見て大涅槃に住することをたとえます。涅槃経にこの四つのたとえを明かし、四教の位をたとえる義は宛然としています。もし四教の位の異なることを信じなければ、どうしてこの五味四種のたとえを消釈できましょうか。今、前の四教の位を明かすことはこの四つのたとえに合します。一往、目の当たりにするようですが、ただ聖人の密意は知り難く、どうして定執できましょうか。また涅槃経に、たとえば人が乳に毒を置けば、乃至醍醐に至ってもまた人を殺すことができる、とあります。このたとえは二つの用い方を得るべきです。もし経教の五味に対し義を明かせば、処々に皆、仏性を見て涅槃に入ることができます。これはすなわち不定教門の事で、後に解釈します。もし位について殺人の義を明かせば、四位五味の根縁は不定であり、その大乗の機が発するに随って、皆、如来の滅度をもって滅度されるがゆえに、同じく殺人の義です。
第六に、もろもろの経が四教の位を明かす多少の異なることを弁じる。華厳の頓教は、ただ別・円の二教の位を明かします。漸教の初め、声聞経はただ三蔵教の三乗の位を明かします。方等大乗は四教を具して位を明かします。摩訶般若はただ通・別・円の三教の位を明かします。法華経はただ円教の一仏乗の開示悟入の位を明かします。倶に大乗に通じ、二乗を明かすことは前述のとおりです。ただし通教の菩薩の位は、別をもって通に接します。仏性の四徳涅槃を明かします。三蔵の二乗は前述のとおりです。三蔵の大乗の位を廃し、三阿僧祇劫の伏結の因、三十四心の断結の果、二涅槃に入ります。また通教・三蔵教は二乗の位を明かし大涅槃に至り、倶に別・円の二位に引入れます。問いには、もし三蔵の仏位を廃するならば、どうして羅漢・辟支仏・仏は醍醐のようであると言えるのか、と言います。答えには、三位はただ界内の結が尽きたのであり、この結は往昔の義を成じるのであって、今の涅槃の用いるものではありません。
大門の第五に権実を明かす。これについて三つの意があります。一つには略して権実を明かし、二つには格位を明かし、三つには興廃を明かします。一に権実を明かすとは、権は暫く用いる名であり、実は永く施すを義とします。方便波羅蜜は情に随って近く益するので、これを権と名づけます。智慧波羅蜜は理に称して究竟であるので、これを実と名づけます。これはすなわち三教は暫く物情に赴くので、これを権と名づけ、円教は究竟して物を利するので、これを実と名づけます。権実を分別するには四つの義を須います。一つには一切は権に非ず実に非ずと明かし、二つには一切は皆権と明かし、三つには一切は皆実と明かし、四つには一切の仏法は権に非ず実に非ずして権にして実と明かします。一に一切は権に非ず実に非ずと明かすとは、もし四不可説を論じれば、説なければすなわち四教の分かつべきがなく三教もないので、すなわち権に非ず、円教がなければすなわち実に非ず。これはすなわち一切の仏法は皆、権に非ず実に非ず。二に一切は皆権と明かすとは、もし四不可説に因縁ありて説けば、これはすなわち四教は皆、権巧の化物です。それゆえ仏は、私が道場に坐った時、一法の実を得ず、空拳をもって小児を誑かし、もって一切を度す、と言われました。三に一切は皆実と明かすとは、説なくして説くことは、必ず機に応じ縁に赴く益があります。その義は皆実です。それゆえ四教は皆、実と名づけます。それゆえ智度論に、世界・対治・為人のために実があり、第一義のために実がある、とあります。これはすなわち皆実にして虚ならざるの義です。四に一切の仏法は権に非ず実に非ずして権にして実と明かすとは、もし四不可説ならばすなわち権実の分かつべきがないので、権に非ず実に非ずと言います。説かずして説く三教はすなわち権です。而も説く円教はすなわち実です。ただし一家が権実の義を明かすには三種があります。一つには化他の権実、二つには自行化他の権実、三つには自行の権実です。もし化他の権実ならば、前三教はただ権のみならず、この権の中でまた各々権実を説きます。もし自行化他の権実を明かすならば、すなわち前三教はともに権用であり、円教に明かすところは一向に実です。もし自行の権実を論じるならば、すなわち円教の位について弁じ、中道を照らすを実とし、双って二諦を照らすを権とします。
第二に格位を明かすとは、すなわち三つの意があります。一つには三蔵教の位をもって後の三教を格し、二つには通教の位をもって後の二教を格し、三つには別教をもって後の円教を格します。一に三蔵教の位をもって後の三教を格するとは、すなわち三つの意があります。一つには三蔵教の位をもって通教を格し、二つには別教を格し、三つには円教を格します。一に通教を格するとは、もし声聞縁覚を論じれば、通教が二乗を明かすのと異なりません。もし大乗について位を明かせば、これは大いに殊別です。なぜなら、三蔵教は三阿僧祇劫の修行乃至補処を明かし、すなわち無垢位であり、まさに通教の柔順忍・信地忍・法中の忍に斉しくなります。もし三蔵の仏ならば、すなわち通教の仏地に斉しく、正習倶に尽き八相も斉しいのです。傍論すれば、三蔵の仏は折法であり智力が拙く、通教の仏は体法であるゆえに巧みです。問いには、智度論に、阿羅漢地は声聞経の中でこれを仏と名づけ、ただ二種の涅槃を得るのみ、とあります。答えには、今、皆、正使を除き、已辦地は斉しいと言います。もし二諦満・正習尽を取れば、二仏は斉しいのです。二に三蔵教の位をもって別教の位を格するとは、三蔵教は一生補処・浄無垢称の位を明かし、別教を格すれば、鉄輪位・十信の第十願心と斉しくなります。仏地はただ別教の第十迴向と斉しく、あるいは初地と斉しいとも言えます。これがまさに正意です。傍論は通教に類して知るべきです。三に三蔵教をもって円教の位を格するとは、三蔵の補処・浄無垢称の位は、ただ円教の五品弟子の第五品と斉しくなります。仏地はただ鉄輪位・十信の後の願心と斉しくなります。正義はこのとおりです。傍論にもまた優劣があります。三蔵の仏は正習倶に尽き、これをもって勝とします。六根清浄の不思議の妙用を明かさない、これをもって劣とします。それゆえ華厳経に初発心住の菩薩を歎じて、初発心はもって牟尼に過ぐ、とあります。二に通教の位をもって後の二教の位を格するとは、すなわち二つです。一つには別教を格し、二つには円教を格します。一に別教の位を格するとは、通教は補処・浄無垢称の位を明かし、別教の第十法界無量迴向と斉しくなります。通教の仏果はただ十地の初歓喜地と斉しくなります。正義はこのとおりです。傍論には劣があります。相似の中道智が無明を伏するのがないからです。二に円教を格するとは、もし通教が補処・浄無垢称の位を明かせば、ただ円教の鉄輪位・十信の第十願心と斉しくなります。通教が仏果を明かせば、ただ初発心住と斉しくなります。これは一往これを格したものです。正論すればすなわち劣です。初発心住は、初発心住すなわちよく中道法身を顕し、無明一品を断ずるをもって勝とします。三に別教をもって円教の位を格するとは、もし別教が法身・法雲・一生補処・浄無垢称の位を明かせば、ただ円教の十位の第十灌頂住と斉しくなります。仏地は十一品の無明を断じ、ただ十行の初歓喜行と斉しくなります。もし仁王経に依れば、十地を開いて三十生となし、これはすなわち無垢は法界無量迴向の位と斉しく、仏地は十地の初歓喜地と斉しくなります。これはすなわち別教が一生補処を明かすのを円教に望めば、もし前の解釈に依れば、義をもって往推すれば、なお三十一品の無明があります。もし仁王経を引くに依れば、すなわち十一品の無明があります。これはすなわち別・円の法身補処は、位に通約すれば、無垢称の義は懸け離れて殊なり、どうして一概に維摩詰の名を解釈できましょうか。
問いには、至道を尋ねればすなわち一つです。もし前の方便の三教を格すれば、明かすところの補処仏果はついにそれほど懸け離れています。この意は解し難い、と言います。答えには、二つの義をもって往釈します。一つには有教有人、二つには有教無人です。もし三教の方便の説ならば、因中に教を稟ける者は、すなわちともに有教有人です。仏果・補処および上位の菩薩がよく三教を説く、これはともに有教無人です。なぜなら、稟けるところの三教の行人は教に因って各々利を得るので、有教有人です。よく説く教主は、三教の仏菩薩として示現し、物に果を慕いて因を行ぜしめます。因行が既に成ればすなわち再び化主はありません。このように、縁が感ずれば便ち応じ、縁が謝すれば便ち息みます。空拳をもって小児を誑かし、引いてまさに家に還らしめ、手中に実に物がないのです。三教の化主もまた皆このとおりです。もし円教に有教有人ならば、因中に教を稟け、乃至法雲にも有教有人であり、四十一品の無明を断じ、法身補処はこれ実にして虚ではありません。妙覚法身の説かずして説く、すなわち果上の有教有人です。有教無人をこれを権となし、有教有人をこれを実と名づけます。問いには、もしそうならば四教が果を明かすには権実を分かつべきです。四教の因地は皆、有教有人です。どうしてその権実を分かつことができましょうか、と言います。答えには、今、三教の人は権人と名づけ、円教を稟ける人は、すなわち人教倶に実です。それゆえ四教について因の権実を分かつと明かします。問いには、三教の因は、既に権人を立てます。三教の果はどうして権人を弁じることができないのか、と言います。答えには、三教の行人は円人となることができますが、三教の仏が因を修して円仏となることはありません。ゆえに類ではありません。
第三に興廃を明かすとは、すなわち二つの意があります。一つには権教は興あり廃あり、二つには実教は興ありて廃せず。一に権教に興あり廃ありと明かすとは、すなわち三つの意があります。一つには三蔵教の機が起こればすなわち興り、機が謝すればすなわち廃します。機興と言うのは、発すべきの義をこれ機と名づけます。前縁に小さな楽欲が起こるべきがあり、小さな善が生ずべきがあり、小さな悪が治むべきがあり、偏真の解が発すべきがあります。それゆえ四悉檀を用いて、声聞経の中で、因縁生滅の四諦・十二因縁・六度の教を説き、三乗の道を開きます。聞けばすなわち機に称し、楽欲の心が起こり、善を生じ悪を断じます。もし二乗が真無漏を発し、有餘涅槃を証すれば、もし菩薩が六度で心を調えれば、伏忍・柔順忍を得ます。法華経に、小智は小法を楽しみ、自ら信じて作仏せず、それゆえ方便をもって分別して諸果を説く、とあります。この機縁のために、三蔵の伏結・補処の菩薩・浄無垢称の義・三十四心の仏果・有餘涅槃に住する仏がないといっても、四悉檀をもって教をこの機に赴かせんと欲するがゆえに、この教の形声を示現し、機に赴き物を度します。それゆえ法華経に、長者はすなわち瓔珞を脱ぎ、弊垢の衣を著、糞器を持ち、状として畏るるところあり、諸の作人に語る、とあります。これすなわち三蔵教の興の義です。廃とは、この小さな欲がまさに歇まんとし、小さな善が既に成り、事の悪が既に除かれ、真の解が既に発せば、これすなわち四縁倶に息み、すなわち三蔵に説くところの教とよく説く人と倶に廃します。二に通教の興廃を明かすとは、興ればすなわち機が興り、廃すればすなわち機が廃します。機が興りて教が興るとは、無生四諦の楽欲がまさに起こらんとし、体仮入空の善が生ずべきがあり、迷理の見思が断ずべきがあり、即真の解が発すべきがあります。それゆえ四悉檀を用いて無生四諦の通教を説きます。三乗は聞けばすなわち楽欲の心が起こり、善を生じ悪を断じ、三乗は同じく即真無漏の慧を発し、第一義を見ます。二乗は有餘涅槃に住し、菩薩はすなわち空に滞らず、慈悲をもって仮に入り物を化し、誓って仏果を求めます。この機縁に赴かんがために、通教の断結侵習・上地補処の菩薩・浄無垢称の位・一念相応の慧が習を断ずる仏果・有餘涅槃に住する仏がないといっても、通教を赴かせ、この三乗の根縁に赴かんがために、この教の形声を示現し、悉檀をもって縁に赴き物を逗します。ゆえにこれを興と名づけます。廃とは、四機が既に息み縁が謝すれば、説くところの通教とよく説く人と倶に廃します。三に別教の興廃を明かすとは、興ればすなわち機が興り教が興ります。無量四諦の楽欲がまさに起こらんとし、空から仮に入る善根が生ずべきがあり、無量恒沙の煩悩・別惑の見思が治むべきがあり、中道第一義諦の真解が発すべきがあります。それゆえ四悉檀を用いて無量四諦を説き別教を起こします。菩薩は聞けばすなわち楽欲の心が起こり、界外の善を生じ、界外の悪を断じ、中道相似の無漏および真無漏を発し、常住の仏果・大般涅槃を求めます。この機縁に赴かんがために、別教の断十品の無明・法身補処の菩薩が十一品の無明を断ずる・究竟の仏果がないといっても、この教の形声を示現し、四悉檀を用いて物の機縁に赴き、無量四聖諦を説きます。ゆえに別教の興と名づけます。廃とは、四十二品の補処の菩薩・この教の仏果は倶に廃します。二に円教は倶に興りて廃せずと明かすとは、もし華厳・方等・法華・涅槃に説くところの円教が円機に赴き、楽欲・生善・断惑・見中・第一義諦は、これすなわち初発心から無垢地に至るまで、四つの根縁に赴き、常にこの教を説き、等覚の仏に至ります。ゆえにこれを興と名づけます。それゆえ三十二の菩薩、文殊師利などは、皆、入不二法門を説きます。これすなわち教興の意です。もし妙覚を証すれば、師なくして自ら悟り、歎くべき法もなく、生ずべき善もなく、断ずべき悪もなく、さらに深理を見るべきもなく、言詞の相は寂滅し、本より自ら興はありません。ゆえに廃もありません。廃もまた廃を論じ得るとは、四悉檀の機が尽きればすなわち教が息みます。ゆえに廃と名づけます。それゆえ大品経に、荼を過ぎれば字は説くべきものがない、とあります。涅槃経に、不生不生は説くべからず、とあります。ゆえに浄名は黙然として口を杜にし、再び言をもって無言の理を言うを須いません。文殊が称歎するのは言を絶することを表します。これはすなわち因に在っては人有り教有り、果に至ってはすなわち教は廃して人は存します。三徳涅槃は湛然として清浄です。どうして前の三教の補処の菩薩・菩提・仏果が皆、有教無人で、教が廃すれば人も随って廃するのと同じでありましょうか。権実の意はここに顕れています。
第六に観心について四教を明かすとは、三観から四教を起こすことは、すでに前述のように弁じました。今はただ即心の行用を論じます。一切の教門は皆、初心の観行から起こることを識ります。四教は既に一切の経教を摂します。もし一念の観心が分明で、よく一念の無明の因縁に生じた心を分別でき、四辨が歴然とすれば、すなわち一切の経教の大意は皆、観心について通達できます。これについてすなわち四つの意があります。一つには観心について三蔵教の相を明かし、二つには観心について通教の相を明かし、三つには観心について別教の相を明かし、四つには観心について円教の相を明かします。第一に観心について三蔵教の相を明かすとは、すなわち一念の因縁に生じた心の生滅の相を観じ、仮を折して空に入ります。この観門について、一切の三蔵教を起こします。もし生滅四諦を観じて道に入れば、すなわち修多羅蔵です。それゆえ増一阿含に、仏は諸の比丘に告げて、一切の法というものはただ一法のみである、何をか一法とする、心はこれ一法にして一切の法を出だす、とあります。智度論に、初めに法輪を転じてから大涅槃に至るまで、修多羅蔵を結集する、とあります。これはただ心の生滅について四聖諦を説く、すなわち法帰法本の義です。観心が一切の毘尼蔵を出だすとは、仏が戒を制する時、諸の比丘に問う、汝の法は何の心で作ったのか、もし有心で作れば、すなわち犯戒であり、犯があればゆえに持がある、もし無心で作れば、すなわち犯と名づけず、犯の義には持を説かない、ゆえに重心には戒を発し、無心ならばすなわち戒を発しないのです。心から阿毘曇蔵が出るとは、四巻の略説を毘曇心と名づけ、達磨波羅が処中に説くのを雑心と名づけます。このように皆、心について毘曇を弁じます。無比法とは、諸の心心数法を分別し、一切の法は比すべからざることをいいます。二に観心について通教を明かすとは、心の因縁に生じた一切の法を観じ、心が空ならば一切の法が空です。これが体仮入空です。一切の通教に明かすところの行位因果は皆ここから起こります。三に観心について別教を明かすとは、心の因縁に生じたものを観ずれば、すなわち仮名であり、一切の恒沙の仏法を具足します。無明の阿梨耶識に依って、無量四諦を分別します。一切の別教に明かすところの行位因果は皆ここから起こります。四に観心について円教を明かすとは、心の因縁に生じたものを観ずれば、一切の十法界を具足し、積聚するところなく、縦に非ず横に非ず、不思議の中道二諦の理です。一切の円教に明かすところの行位因果は皆ここから起こります。輪王の頂上の明珠のようです。これはすなわち四教は皆、一念の無明の心から起こります。すなわち微塵を破って三千大千世界の経巻を出すの義です。
第七に諸経論に通ずることを二つに分けます。一つには諸経論に対すことを明かし、二つにはこの経の文義を通釈します。初めに四教を経論に対するとは、仏は四教を用いて一切の頓漸の諸経を成じます。論が経を釈するのにどうして四教を超えることがありましょうか。すなわち二つの意があります。一つには経に対する、二つには論に対する。一に経に対するとは、もし華厳経ならばただ二教の成ずるところを具します。一つには別教、二つには円教です。なぜなら、別教は諸の菩薩が歴劫の修行・四十二心の断結の行位の階差を宣説し、円教は一心に一切の諸行を具足することを明かし、初めの一地から一切の諸地の功徳を具足します。次に漸教の初めの声聞経を明かせば、ただ三蔵教を具足します。方等大乗およびこの経は四教を具足します。摩訶般若は三教を具足し、三蔵教を除きます。法華経は権を開き実を顕し、正直に方便を捨て、ただ一円教です。涅槃経は四教を具足し、五味の義を成じます。問いには、方等大乗もまた四教を具します。どうして五味の義を成じないのか、と言います。答えには、声聞が作仏することを明かさないので、五味の義が成じません。不定の中で四教を論ずることを得ます。釈迦が出世して所有の経教はさらにこの四教を過ぎません。この諸経を摂すれば尽きないものはありません。二に論に対するとは、論に二種があります。一つには通申経論、二つには別申経論です。一に通申経論とは、すなわち二つの意があります。一つには通じて小乗経を申べ、二つには通じて大乗経を申べます。一に通じて小乗経を申ぶとは、毘曇・成実・昆勒などの論のごとく、ともに通じて小乗経論を申ぶるゆえに、成実論主は、我今まさに三蔵の中の実義を論ぜんと欲す、と言います。二に通じて大乗経論を申ぶとは、地持論・摂大乗論・唯識論・中論・十二門論などのごとく、ともに通じて諸の大乗経に明かすところの別円両経を申べます。二に別申経論とは、すなわち二つの意があります。一つには別して小乗経を申べ、二つには別して大乗経を申べます。一に別して小乗経を申ぶとは、倶舎論は別して修多羅を申べ、明了論は別して毘尼を申べ、毘婆沙論・阿毘曇論は別して仏在世の毘曇を説くを申べます。二に別して大乗経論を申ぶとは、十地論は別して華厳経の別円両教を申べ、大智度論は別して摩訶般若経の通別円三教を申べます。応に別して大集・方等およびこの経の論を申ぶべきがありますが、この土に来ていません。金剛般若論は別して金剛般若経を申べ、法華論は別して法華経の一円教を申べ、涅槃論は別して涅槃経の四教五味を申べます。論がこの土に度るは尽きません。このような論が経を申ぶるのは、すなわち観心を申ぶるのです。これらの諸経は今分明です。これはすなわち精しく観心を修め、一切の経論を洞解するのです。もし経論が心から出なければ、観行の人は、既に聞かず読まないのに、どうして内心に通達できましょうか。これはすなわち言説あるところ、冥に経論と相応するのです。意はここにあります。第二に正しく四教を用いてこの経の文義を通釈するとは、すなわち二つの意があります。一つには経の五義を釈し、二つには経文を通じます。一にこの経の五義を釈するとは、すなわち前述のように四教の位について浄無垢称の名を釈します。名は一つであっても義は異なります。次に体を弁じるとは、三教の詮ずるところはすなわち思議解脱の体であり、円教に明かすところはすなわち不思議解脱です。次に宗を明かすとは、これはすなわち四教が四種の四諦の因果を明かし、仏国を感ずるに不同があることです。次に用を顕すとは、すなわち四教が浅から深に至るまで、次第に深をもって浅を呵することです。次に教相を判ずるとは、この経は四教を具して明かし、諸経と同もあり異もあり、前述のように分別します。二に四教を用いてこの経文を釈するとは、すなわち三つの意があります。一つには室外の四品を通じ、二つには室内の六品を通じ、三つには出室の四品を通じます。一に室外の四品を通ずるとは、四教を用いて因果の不同を明かすゆえに、釈迦が仏国を現すに異なりがあります。身子・梵王の見るが異なるがごとく、諸天は宝器を共にし、食はその果報に随い、飯色に異なりがあるゆえに、四教を稟けることが異なるゆえに、仏国を見るに異なりがあるのです。方便品を釈すれば、正しく三蔵教・通教を用います。なぜなら、折法入空・因縁生滅無常を説き、また夢幻のごとく体仮入空の意を説きます。これはすなわち因中に拙巧の二度を用い、その界内の愛見の著心を破り、勤めて二教の法身を修します。弟子品は通教・別教・円教を用います。十大弟子および五百羅漢を弾呵するに、通教を用いて弾呵するとは、迦旃延が三蔵教の拙度の五義を説くを呵するがごとくです。別教を用いて折呵するとは、富楼那が穢食を宝器に置くを呵するがごとくです。円教を用いるとは、身子・善吉を弾じて、滅定を起さずして諸の威儀を現じ、廃愛を断ぜずして明脱を起し、また縛もなく解もなし、と言うがごとくです。並びに円教の意を用いて弾呵するのです。四教をもって菩薩品を釈するとは、正しく円教を用い、四大菩薩を呵するに、三蔵・通教・別教の自行化他の偏僻なる法華不思議円頓の道を用います。二に室内に四教を用いて六品の経文を釈するとは、大士には三教の疾がなく、方便をもって同じく三疾を現します。これについて問疾を弁じます。不思議品は正しく円教の不思議に住し四教の事を示現するを明かします。観衆生品はすなわち不思議の別円両教が仮から空に入るを弁じます。仏道品はすなわち不思議の円教が空から仮に入り非道を行じて仏道に通達するを弁じます。不二法門品は正しく円教の不思議中道正観が不二法門に入るを明かします。香積品はすなわち不思議の円教に明かすところの双って二諦を照らす法界円融です。三に四教を用いて出室の四品の経文を通ずるとは、菩薩行品を通ずれば、菩薩に四教の行を遍行せしめ、四土に衆生を化します。四教をもって見阿閦品を通ずるとは、もし四教に依って四行を修め、菩提心を発すれば、始めて阿閦仏国に生ずることを得るを明かします。またこれを用いて無動如来の仏国の行を成じます。成仏の時、所有の仏国は妙喜世界のようになります。四教をもって法供養・属累の二品を通ずるとは、天帝・弥勒に付属し、仏の去世の後、この経を流通せしめ、四教の利益をもって未来の弟子をして絶えざらしめます。
四教義卷第十二
四教義 巻第十二