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梵網経菩薩戒本疏 (梵網經菩薩戒本疏)


梵網經菩薩戒本疏第四

梵網経菩薩戒本疏 第四

魏國西寺沙門法藏撰

魏国西寺の沙門法蔵撰

初篇故慳戒第八

初篇 故慳戒 第八

初、制意者,初檀為萬行首故、攝六度故,是捨慳成施。略由十意,如《華嚴經.十行品》中初歡喜行云:「此菩薩為大施主,悉能捨離一切所有,等心惠施一切眾生。施已無悔,不望果報、不求名譽、不求生勝處、不求利養。」言十者,「一、但欲救護一切眾生,二、欲攝取一切眾生,三、欲饒益一切眾生,四、欲學一切諸佛本行,五、欲正心憶念諸佛本行,六、欲清淨諸佛本行,七欲受持諸佛本行,八、欲顯現諸佛本行,九、欲廣說諸佛本行,十、欲令一切眾生離苦得涅槃樂。」是為十。由此當知,菩薩理無不施之行。

まず、制意の初めについて述べます。檀(布施)は万行の首であるからであり、六度を摂するからです。これは慳みを捨てて施を成すことです。略して十の意によります。『華厳経・十行品』の中の初めの歓喜行に次のように説かれています。「この菩薩は大施主であり、すべての所有をことごとく捨て離れ、平等の心で一切の衆生に恵み施します。施した後には悔いることなく、果報を望まず、名誉を求めず、勝れた生処を求めず、利養を求めません。」十とは次のとおりです。「一には、ただ一切の衆生を救護しようと欲するがゆえに。二には、一切の衆生を摂取しようと欲するがゆえに。三には、一切の衆生を饒益しようと欲するがゆえに。四には、一切の諸仏の本行を学ぼうと欲するがゆえに。五には、正しい心で諸仏の本行を憶念しようと欲するがゆえに。六には、諸仏の本行を清浄にしようと欲するがゆえに。七には、諸仏の本行を受持しようと欲するがゆえに。八には、諸仏の本行を顕現しようと欲するがゆえに。九には、諸仏の本行を広く説こうと欲するがゆえに。十には、一切の衆生をして苦を離れ涅槃の楽を得せしめようと欲するがゆえに。」これが十です。このことから、菩薩には理として施さない行はないと知るべきです。

二、釋名者,悋惜財法,不濟所求,稱曰「故慳」。戒防此失,依主立名。

二、名称を説明します。財や法を惜しんで手放さず、求める者を救わないことを「慳」と呼びます。この過ちを防ぐ戒であるため、その主体に基づいて名称が立てられるのです。

三、次第者,前讚毀自他以求名利,望未得之財追求時過;今約已得屬己,慳悋不捨財貯畜時過。前麁此細義,次第故來也。

三、次第について述べます。前段では、自他を讃めたり毀ったりして名利を求め、まだ得ていない財を追い求める時点での過ちを説きました。今はすでに得て自分のものとなった財について、惜しんで手放さず、財を貯め込んで蓄える時点での過ちを説きます。前段は粗く、この段は細かいという意味で、この順序となっているのです。

四、具緣成犯者,然此戒中犯有四處:一、自慳,二、教他,三、隨喜,四、讚慳。今且約自辨具緣,餘三准之。自具六緣成:一、自有財法,二、乞者現前,三、具前二想,四、起慳惡心,五、對緣正違,六、前人空迴故。

四、具縁成犯についてです。しかしこの戒では、犯すところに四つの場合があります。一には自ら慳むこと、二には他に教えること、三には随喜すること、四には慳を讚めることです。今はまず自らについて具縁を弁じ、残りの三つはこれに準じます。自らについては六つの縁が具わって罪が成立します。一には自ら財と法を持つこと、二には乞う者が現前にいること、三には前の二つについての想いが具わること、四には慳みの悪心を起こすこと、五には縁に対してまさに違うこと、六には前の人が空しく帰ることによってです。

五、闕緣義者,且闕初緣有三義:一、若彼全無一針一草可施與者,應以善言深心垂淚慰謝乞者,仍作是念:我今薄福,不能果遂眾生所願,是我罪咎。我當精懃修行,令願成滿。即如言懃勇,是謂不犯。二、若恃自無物,慢心不謝而無愧悔,應得小罪。三、若為乞人不信其無,頻頻抑索遂起嫌心,即犯中罪。若便起嗔,即犯後瞋戒,法施亦同。次闕第二緣有四義:一、無乞不犯。二、自有財等,見貪苦人彼不能乞,或羞不乞而不施與,亦犯。三、自有財,見同修行者乏少衣食廢修正行,彼人儉己而不求索,不與犯。四、先貯多財,雖無乞者而不捨施福田故。此後三位皆得方便罪,非正犯重故。闕第三緣有二:先謂上二位各有想、疑二別,想不犯,疑犯方便,並可准之。闕第四緣有二:若以悲心調伏彼故,不與無犯;若無記心,犯方便可知。次闕第五緣有四:初、許與不與犯重,二、許多與小,三、許勝與劣,四、違時後與。後三俱方便。次闕第六緣有二:一、若不空迴無犯,二、若雖空不迴意猶未絕犯方便。

五、闕縁の義について述べます。まず初めの縁を欠く場合には、三つの意味があります。第一に、もし相手に施し与えるべき一針一草もまったくないのであれば、善い言葉と深い心をもって涙を流しながら乞う者を慰め、謝り、さらにこう念じるべきです。私は今、福が薄く、衆生の願いを成就させることができません。これは私の罪の咎めです。私は精勤に修行して、願いを成就させ満たしましょう。そのまま言葉の通りに勤め勇むならば、これは犯さないことになります。第二に、自分に物がないことを恃みとして、慢心から謝らず、愧れ悔いる心もないならば、小さな罪を得るべきです。第三に、乞う者が自分の無さを信じず、しきりに押し迫って求めてくるので、ついに嫌う心を起こすならば、中程度の罪を犯します。もしそのまま嗔りを起こすならば、後の嗔戒を犯すことになり、法施の場合も同じです。

次に第二の縁を欠く場合には、四つの意味があります。第一に、乞う者がいなければ犯しません。第二に、自分に財などがあるのに、貪り苦しむ人を見て、その人が乞うことができないか、あるいは恥じて乞わないときに施し与えないならば、これも犯します。第三に、自分に財があり、同じく修行する者が衣食に乏しく正行を廃しているのを見て、その人が自分を倹約して求めてこないときに与えないならば、犯します。第四に、あらかじめ多くの財を蓄えておきながら、乞う者がいなくても福田に施し捨てないからです。この後の三つの位はみな方便の罪を得るのであって、正の重罪を犯すのではないからです。

第三の縁を欠く場合には、二つがあります。まず上の二つの位には、それぞれ想と疑の二つの区別があると述べました。想ならば犯さず、疑ならば方便の罪を犯します。いずれもこれに準じて知るべきです。

第四の縁を欠く場合には、二つがあります。もし悲しみの心をもって相手を調伏するために与えないのであれば、犯しません。もし無記の心であれば、方便の罪を犯すことが分かります。

次に第五の縁を欠く場合には、四つがあります。第一に、与えると約束しながら与えなければ重罪を犯します。第二に、多く与えると約束しながら少ししか与えないこと。第三に、勝れたものを与えると約束しながら劣ったものを与えること。第四に、時を違えて後になってから与えることです。後の三つはみな方便の罪です。

次に第六の縁を欠く場合には、二つがあります。第一に、もし空しく帰らずに済むならば犯しません。第二に、たとえ空しく帰っても、その意がなお尽きないならば、方便の罪を犯します。

第六、輕重者,有五:一、約物,二、約田,三、約損,四、約心,五、合釋。初中財、法、無畏。財施有三,謂外、內、俱。就外財中通說有十:一、食等,二、藥等,三、衣等,四、財等,五、畜生等,六、奴婢,七、名聞,八、王位,九、妻妾,十、男女。皆前前不與應重,後後不與應輕。二、內身中有五:一、暫請驅使,二、取髮抓等,三、將作奴婢,四、取支節血完,五、全取身命。前前不與皆重,後後不與皆輕。二、法施中三:一、世法,二、二乘法,三、菩薩道法。三、無畏施亦三:一、捨惡,二、捨苦,三、救命。上二位皆亦前前不與而輕,後後不與為重,可知。二、約田有四:一、恩田,謂父母師主等;二、德田,謂三寶等;三、悲田,謂飢窮眾生等;四、苦田,謂困厄眾生等。皆前前不與為重,後後不與應輕。三、約損者,於上四境各有二種:一、由不給濟令彼命盡,二、命雖不盡令大苦惱等。皆有前重後輕,可知。四、約心者,亦有三毒,單雙一合等,准上知之。又慳有三品,如盧至長者等最重,其中下可知。五、約合辨者,或於劣物起上慳,對勝境為最重;或於勝物對劣境起下慳,應輕。餘句並准之。

第六に、軽いか重いかについて述べます。これには五つの観点があります。一には物に基づくこと、二には田に基づくこと、三には損害に基づくこと、四には心に基づくこと、五には合わせて解釈することです。

第一の「物に基づく」とは、財と法と無畏です。財施には三つあり、外財・内財・内外ともに具わる財をいいます。外財について広く述べれば十種あります。一には食物など、二には薬など、三には衣服など、四には財貨など、五には畜生など、六には奴婢、七には名誉、八には王位、九には妻妾、十には男女の子らです。いずれも前のものほど与えないのは重い罪となり、後のものほど与えないのは軽い罪となります。

第二に、内なる身には五つあります。一には一時的にでも使役を請うこと、二には髪や爪などを取ること、三には奴婢とすること、四には手足や血を取ること、五には命を丸ごと奪うことです。前のものほど与えないのは皆重く、後のものほど与えないのは皆軽いのです。

第二の「法施」には三つあります。一には世間の法、二には二乗の法、三には菩薩道の法です。第三の「無畏施」にもまた三つあります。一には悪を捨てさせること、二には苦を捨てさせること、三には命を救うことです。以上の二つの位はいずれも、前のものほど与えないのは軽く、後のものほど与えないのは重いのだと分かります。

第二に「田に基づく」とは四つあります。一には恩田で、父母や師匠・主君などをいいます。二には徳田で、三宝などをいいます。三には悲田で、飢えや貧しさに苦しむ衆生などをいいます。四には苦田で、困難や災厄に陥った衆生などをいいます。いずれも前のものほど与えないのは重く、後のものほど与えないのは軽いのです。

第三に「損害に基づく」とは、以上の四つの境についてそれぞれ二種あります。一には施し与えないことでその命を終わらせること、二には命は尽きないまでも大きな苦悩を与えることです。いずれも前に述べたものが重く、後に述べたものが軽いのだと分かります。

第四に「心に基づく」とは、また三毒があり、単独の場合も二つが重なる場合も三つが合一する場合などもあり、前の説き方に準じて知るべきです。また慳には三品があり、盧至長者の場合などが最も重く、その中品・下品も同様に分かります。

第五に「合わせて解釈する」とは、あるいは劣った物に対して上品の慳を起こし、勝れた境に対しては最も重い罪となることがあります。あるいは勝れた物に対して劣った境に向かって下品の慳を起こす場合は、軽いとされるべきです。その他の句もすべてこれに準じてください。

第七、得報者,略辨十種:一、生餓鬼中,如目連母等。二、或餘趣受苦,如疥癩野干,乃至無一毛可以覆身等。三、於人中受貧窮苦困。四、耗減損減宿世善根。五、失於菩薩檀波羅密。六、由慳法,世世常受愚癡。《善生經》云:「若有於財法食生慳,當知是人於無量世得癡貧報。」七、由匿法眼,恒無眼目。八、由不施無畏,生生常懷恐怖,無暫安穩。九、恒為怨家而得其便。十、令三檀六度俱不成。餘如別說。

第七に、報いを得ることについて、おおよそ十種を辨別します。一には、餓鬼の中に生まれることです。目連の母などのようなものです。二には、あるいは他の趣で苦しみを受けることです。疥癬や癩を患う野干のように、さらには身を覆う一毛すらないほどになることなどです。三には、人の世界で貧窮の苦しみに困ることです。四には、過去世の善根を耗し減らし損なうことです。五には、菩薩の檀波羅蜜を失うことです。六には、法を惜しむことによって、世々常に愚癡を受けることです。《善生経》にこう説かれています。「もし財や法や食について惜しむ心を生じるなら、この人は無量の世にわたって愚癡と貧しさの報いを受けることを知るべきです。」七には、法の眼を隠すことによって、常に眼目がないことです。八には、無畏を与えないことによって、生まれ生まれに常に恐怖を抱き、しばらくも安穏でないことです。九には、常に怨家に付け込まれることです。十には、三檀と六度のすべてを成し遂げられなくすることです。そのほかは別に説く通りです。

第八、治行者,略顯十種:一、思惟己身及以財物,皆是無常磨滅之法,一旦廢壞非惜能留,是故慳惜都無所益。二、況此並是王賊水火惡子等分,彼既未侵速應捨施,置堅牢藏令永屬己。三、若慳不施,則種世世貧窮之業以隨自身。四、又由我先世不串習施,故今有財慳而不能施,若我今者不勵力施,此習不破更增長能障大施,故我今應勵意違慳而行惠施。五、又若自貧乏恐不存濟而慳不施,則當思惟貧是施障,為破此障應當忍苦勵力行施。我因宿業曾受種種飢渴等苦,不能饒益於一眾生,今我行施得饒益他,設受眾苦乃至殞命,而終不令乞者空迴,況當猶有餘菜葉等可以活命?是故應當忍此貧苦而行布施。六、若於身命及所重財而不能捨,即當思惟:我於三界大師前發大菩提心時,一切內外皆已捨訖,如何今乃違本誓孤負眾生?七、又使令我犯菩薩波羅夷罪,則為欺誑十方諸佛,甚為不可。八、我今捨此不堅固物臭穢之身,今我當得清淨法身堅固之法,此既益我,若不行施則失大利。九、此身及財是虛妄物,尚不捨滿眾生願,何能當以無上菩提饒益眾生?十、我當觀察一切法空無我我所,而今於此虛妄身財慳悋不捨,何能證入平等法性?思惟如是十種對治,於諸慳悋無不能捨,具如《華嚴》、《智論》、《瑜伽》等說。

第八に、治行とは、おおまかに十種を示します。一には、自分の身や財物はみな無常で消え去るものであり、ひとたび壊れてしまえば惜しんでも留められない、だから惜しんで施さないことは何の益もないと、思惟することです。二には、ましてこれらは王や賊、水や火、悪い子などの分け前となるものですから、それらがまだ侵さないうちに速やかに施し捨てて、堅牢な蔵に置いて永遠に自分のものとすべきです。三には、もし惜しんで施さなければ、世々に貧窮の業を種えて、それが自分の身に随ってくることになります。四には、また、私は前世に施しに慣れ親しんでいなかったために、今は財があっても惜しんで施せません。もし私が今、力を励して施さなければ、この習いを破らず、さらに増長して大きな施しを妨げるでしょう。だから私は今、心を励して慳貪に逆らい、施しを行なうべきです。五には、また、もし自分が貧しく乏しくて生きていけないのではないかと恐れて惜しんで施さないなら、貧しさこそが施しの障りであると、思惟すべきです。この障りを破るために、苦しみを忍んで力を励し施しを行なうべきです。私は宿業によってかつて種々の飢えや渇きなどの苦しみを受けてきましたが、一人の衆生も益することができませんでした。今、私が施しを行なえば他を益することができ、たとえ多くの苦しみを受け、いや命を失うことになっても、乞う者を空しく帰らせることは決してしません。ましてやまだ残りの菜の葉などで命をつなぐことができるではありませんか。だからこの貧苦を忍んで施しを行なうべきです。六には、もし身や命、大切な財を捨てることができないなら、こう思惟すべきです。私は三界の大師の前で大きな菩提心を起こしたとき、一切の内外のものをすでにみな捨て終えました。どうして今、本の誓いに背いて衆生を裏切ることがありましょうか。七には、また、私に菩薩の波羅夷罪を犯させることになれば、それは十方の諸仏を欺くことになり、まことに許されないことです。八には、私は今、この堅固でない物、臭く穢れた身を捨てて、清浄な法身という堅固な法を得るのです。これは私を益するものですから、もし施しを行なわなければ大きな利益を失うことになります。九には、この身と財は虚妄の物です。それさえも捨てて衆生の願いを満たすことができないのに、どうして無上の菩提をもって衆生を益することができましょうか。十には、私は一切の法は空であり、我も我所もないと観察すべきです。それなのに今、この虚妄の身や財を惜しんで捨てないで、どうして平等の法性に証入することができましょうか。このように十種の対治を思惟すれば、もろもろの慳貪を捨てられないことはありません。詳しくは『華厳経』『智論』『瑜伽論』などに説かれている通りです。

第九、通局者,依《瑜伽》第三十九,略有三十種不施無犯:一、若知種種內外施物,於彼眾生唯令安樂不作利益,或非安樂非利益,皆不施與。二、若有來求為伴侶,欲作非理逼迫損害誑惑於他,便不以身而施於彼。三、若諸菩薩於行施意樂清淨,見有無量利眾生事正現在前,設有來求自身支節,不應施與。四、若魔眾而懷惱亂心,現前來乞身分支節,不應施與,以心念彼當獲上品過罪,反損害故。五、或有眾生癡狂心亂,來求菩薩身分支節,不應施與。六、若有眾生或為自害或為害他,來求毒藥火刀酒等物,不應施與。七、不以他物如同意物而行惠施。八、不行媒婚以他妻妾而行布施。九、不以有虫飲食等物而行布施。十、若有眾生來求種種能引戲樂、能引無義之物,不應施與,以令彼多行憍逸惡行,身壞之後墮諸惡趣。十一、終不施人捕獵等物。十二、或有眾生將欲殺害,終不施與。十三、若有來求罩羅且弶,為害眾生及為習學,皆不施與。十四、若有怨家來求讎隙,為欲呵罵、縛錄、殺害、奪財、治罰,終不施與。以要言之,一切逼迫損害眾生戲樂等具,皆不施與。十五、若有病者來求非量非宜飲食,亦不施與。十六、若有眾生食飽滿已,性多饞嗜,數復來求珍妙飲食,亦不施與。十七、若有來求父母、師長,定不施與。十八、又諸菩薩於自妻子、奴婢、僕使、親戚、眷屬,若不先以正言曉喻令其歡喜,終不強逼令其憂惱,施來求者。十九、雖復先以正言曉喻,令其歡喜生樂欲心,而不施怨家惡友藥刃羅剎等。二十、若有上品逼惱眾生,樂行種種暴惡業者,來求王位終不施與。若彼惡人先居王位,菩薩有力尚應廢黜,況當施與。二十一、又諸菩薩終不侵奪父母、妻子、奴婢、僕從使、親戚、眷屬所有財物持用布施。二十二、亦不逼惱父母、妻子、奴婢、僕使、親戚、眷屬以所施物施來求。二十三、不以非法,不以率暴,亦不逼迫損害於他而行惠施。二十四、又諸菩薩若在諸佛聖教出家,終不違越所有學處而行惠施。二十五、又諸菩薩於來求者,終不施與不合儀物。謂施出家者殘宿飲食等,或諸便穢洟唾吐膿血不淨所雜所染,又不告白不令覺知,如棄捨法施麋食等。謂不食葱者施以葱雜葱染飲食,不食肉者施以肉雜肉染飲食,不飲酒者施以酒雜酒染飲食,如是等皆不施與。二十六、又諸菩薩終不口授求過外道所有正法。二十七、亦不施彼所寫經典。二十八、知性多貪求欲衒賣經卷等者,亦不施與。二十九、知欲祕藏,亦不施與。三十、不求勝智,亦不施與。又云:如上所說諸不施者,菩薩不忍直言我不施汝,要當方便曉喻發遣。諸菩薩所畜一切資財具等物,為作淨施故,先以捨與十方諸佛菩薩。如苾芻作淨施法,若觀來求者施時稱理,應作是念:諸佛菩薩無有少物於諸眾生而不施者。如是知已,取物施之。若觀施時不稱正理,即應念:先作淨施法,告言:此物是他所有,不獲施汝。耎言曉喻,方便發遣。又《十住論》:雖若新學菩薩,有人來求頭目等而未能施者,應說偈頌云:我初發道心,善根未成熟,願我速成就,後必當相與。(更勘論文。)二、局者,但自審觀,有少惱心即當施與,不爾便犯。若約祕密,菩薩應極慳,謂乞戒浮囊纖塵不與,乃至小罪猶懷大懼等。

第九に、通局について述べます。『瑜伽論』第三十九巻によれば、おおよそ三十種の「施さなくても犯とならない」場合があります。

一、種々の内外の施物について、その衆生に対してただ安楽を与えるだけで利益とならないと知った場合、あるいは安楽でも利益でもないと知った場合は、いずれも施しません。

二、もし来て伴侣を求める者がいて、非理に他を逼迫し損害し誑惑しようとするなら、その者に身を施しません。

三、菩薩が布施を行う意楽において清浄であり、無量の衆生を利益する事柄がまさに目の前に現れているのを見たなら、たとえ自分の身体の支節を求める者がいても、施すべきではありません。

四、もし魔衆が悩乱の心を抱いて、目の前に来て身体の支節を乞うなら、施すべきではありません。その者が上品の過罪を得て、かえって損害を受けると心に念じるからです。

五、あるいは衆生が痴狂して心乱れ、菩薩の身体の支節を求めて来るなら、施すべきではありません。

六、もし衆生が自害のため、あるいは他害のために、毒薬・火・刀・酒などを持って来て求めるなら、施すべきではありません。

七、他人の物を自分の物のように同意して与えることをしません。

八、媒婚を行って他人の妻妾を布施することはしません。

九、虫のついた飲食などを布施することはしません。

十、もし衆生が来て、種々の戯楽を引き起こすもの、無義を引き起こすものを求めるなら、施すべきではありません。それによって彼が多く憍逸の悪行を行い、身が壊れた後に諸々の悪趣に堕ちるからです。

十一、人を捕らえ獵る道具などを、決して人に施すことはしません。

十二、衆生が殺害しようとしているなら、決して施しません。

十三、もし来て網・羅・且・弶を求めるなら、衆生を害するため、また習学のためであっても、いずれも施しません。

十四、もし怨家が来て讎隙を求め、呵罵・縛録・殺害・奪財・治罰を望むなら、決して施しません。要約して言えば、一切衆生を逼迫し損害する戯楽などの道具は、すべて施しません。

十五、もし病者が来て、量を超えた不適切な飲食を求めるなら、施しません。

十六、もし衆生が食を飽き満ちるまで食べた後、性が多く饞嗜で、しばしばまた来て珍妙な飲食を求めるなら、施しません。

十七、もし来て父母・師長を求めるなら、決して施しません。

十八、また菩薩は自分の妻子・奴婢・僕使・親戚・眷属について、まず正しい言葉でさとし導いて喜ばせないうちは、決して無理強いして憂悩させ、求めて来る者に施すことはしません。

十九、たとえまず正しい言葉でさとし導いて喜ばせ、楽欲の心を起こさせたとしても、怨家・悪友・薬・刃・羅刹などに施すことはしません。

二十、もし上品に衆生を逼悩し、種々の暴悪の業を好んで行う者が、王位を求めて来るなら、決して施しません。もしその悪人が先に王位に居るなら、菩薩は力があればなお廃黜すべきです。ましてや施すことがありましょうか。

二十一、また菩薩は決して父母・妻子・奴婢・僕使・親戚・眷属の所有する財物を侵奪して、布施に用いることはしません。

二十二、また父母・妻子・奴婢・僕使・親戚・眷属を逼悩して、施し物を求めて来る者に施すこともありません。

二十三、非法によらず、率暴によらず、また他を逼迫損害することによって布施を行うことはしません。

二十四、また菩薩は、もし諸仏の聖教のもとで出家したなら、決して学処に違越して布施を行うことはしません。

二十五、また菩薩は求めて来る者に対して、決して儀に合わない物を施しません。すなわち出家者に残宿の飲食などを施すこと、あるいは便穢・洟唾・吐膿血など不浄に混じり染まったものを施すこと、また告げずして覚知させず、法を棄てるようにして粗末な食などを施すことです。葱を食べない者に葱の混じった葱に染まった飲食を施し、肉を食べない者に肉の混じった肉に染まった飲食を施し、酒を飲まない者に酒の混じった酒に染まった飲食を施す、このようなものはすべて施しません。

二十六、また菩薩は決して口で求過の外道に正法を授けることはしません。

二十七、また彼らが書写した経典を施すこともありません。

二十八、性が多く貪で、経巻などを衒売しようと求める者と知ったなら、施しません。

二十九、秘蔵しようと欲していると知ったなら、施しません。

三十、勝智を求めない者には、施しません。

また云います。以上に説いた諸々の施さない場合において、菩薩は「私は汝に施さない」と直言するに忍びず、必ず方便をもってさとし導いて発遣します。諸菩薩が蓄える一切の資財具などの物は、浄施を作すために、まず十方の諸仏菩薩に捨て与えます。苾芻が浄施の法を作すように、もし来求者を観じて施す時が理に称うなら、こう念じます。「諸仏菩薩は、少しの物も衆生に対して施さないということはない」と。このように知ってから、物を取って施します。もし施す時が正理に称わないと観じたなら、すぐに念じます。「先に浄施の法を作した。この物は他の所有であり、汝に施すことはできない」と。柔らかな言葉でさとし導き、方便をもって発遣します。

また『十住論』に云います。たとえ新学の菩薩であっても、人が来て頭目などを求めるのにまだ施すことができないなら、偈頌を説いてこう言うべきです。

「我、初めて道心を発したが、善根いまだ成熟せず。願わくは我、速やかに成就せん。後には必ずまさに相与うべし」と。

(さらに論文を勘ずべし。)

二、局とは、ただ自ら審らかに観じて、少しでも悩心があれば、すぐに施すべきです。そうでなければ犯となります。もし秘密によれば、菩薩は極めて慳であるべきです。すなわち戒の浮囊を乞われても、纖塵も与えず、乃至小罪にさえなお大いなる惧れを抱くということです。

第十、釋文者,亦有四:一、明犯位,謂自作教他,如前釋。二、舉過正制中二:先舉過,謂慳因、緣、法、業,亦四釋,同前可知。二、「而菩薩見」已下明正制,謂制施貧乞。但世人貧有二種:一、財貧,二、法貧,故云「一切貧」也。菩薩施此二事,故云「一切給與」。三、「而菩薩以惡」下違制成犯,謂「惡心」者慳結不破,亦是違戾不施,通餘煩惱。「瞋心者」,忿怒乞人而不施與也。此是不施之心。下明所不施物,先財後法。「乃至不施」等者,舉小呪多,一葉草尚不與況多。又就下最極為言,故云「乃至一草」等也。法中一塵者,意明極少,非謂法門中而有微塵,此順西方語法,如《能斷金剛般若經》中「無少法」者,梵本名「無微塵法」也。「而反罵辱」者,明極重之相,惜草葉而起重瞋,發惡言而興罵辱,故宜重也。此具三業可知。四、結示罪名可知。

第十に、文を解釈するとは、また四つあります。第一に、犯す位を明らかにするとは、自ら行い、他に教えることであり、先に解釈した通りです。第二に、過ちを挙げて正しく制する中に二つあります。まず過ちを挙げるとは、慳の因・縁・法・業であり、これも四つの解釈があり、先と同じであると知るべきです。第二に、「而菩薩見」以下は正しい制を明らかにするとは、貧しい乞う者に施すことを制することです。ただ世間の人の貧には二種あります。第一に財の貧、第二に法の貧であり、それゆえ「一切貧」と言うのです。菩薩はこの二つの事を施すので、ゆえに「一切給与」と言うのです。第三に、「而菩薩以悪」以下は制に違反して犯すことを明らかにするとは、「悪心」とは慳の結が破られないことであり、また施さないことに背き逆らうことであり、その他の煩悩にも通じます。「瞋心」とは、乞う人に忿怒して施し与えないことです。これは施さない心です。次に施さない物を明らかにするとは、まず財、後に法です。「乃至不施」などとは、小さいものを挙げて多くのものを呪い、一葉の草さえもなお与えない、まして多くをやと言うのです。また最も極まったところについて言うので、ゆえに「乃至一草」などと言うのです。法の中の一塵とは、意味は極めて少ないことを明らかにするのであり、法門の中に微塵があると言うのではありません。これは西方の語法に順じたもので、《能断金剛般若経》の中に「無少法」とは、梵本では「無微塵法」と名づけるのと同じです。「而反罵辱」とは、極めて重い相を明らかにするのであり、草葉を惜しんで重い瞋を起こし、悪言を発して罵辱を興すので、ゆえに重いとすべきです。これは三業を具えると知るべきです。第四に、罪の名を結び示すことは知るべき通りです。


7 自讚毀他戒
9 故瞋戒

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