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諸法無諍三昧法門 (諸法無諍三昧法門)

「諸法無諍三昧法門」について

陳 · 慧思撰 著

1.8 万字 · 約 60 分

慧思大師が南北朝・陳代に著された『諸法無諍三昧法門』は、初期中国禅宗の重要な典籍です。この書は、禅修の理論と方法を体系的に説き、止観の両方を修め、無諍三昧の実践を通じて、諸法の実相を体得し、人我への執着を破ることを強調しています。その内容は般若の空観と禅定の実践を融合させ、天台宗の止観体系の理論的基礎を築きました。この経典は中国仏教の禅学の発展に深い影響を与え、漢伝仏教の禅思想史を研究する上で核心的な文献の一つです。


諸法無諍三昧法門卷上

諸法無諍三昧法門 上巻

陳南嶽思大禪師撰

南嶽思大禅師撰

如萬行中說。從初發心至成佛道。一身一心一智慧。欲為教化眾生故。萬行名字差別異。夫欲學一切佛法。先持淨戒勤禪定。得一切佛法諸三昧門。百八三昧。五百陀羅尼。及諸解脫。大慈大悲。一切種智。五眼。六神通。三明。八解脫。十力。四無畏。十八不共法。三十二相。八十種好。六波羅蜜。三十七品。四弘大誓願。四無量心。如意神通。四攝法。如是無量佛法功德。一切皆從禪生。何以故。三世十方無量諸佛。若欲說法度眾生時。先入禪定。以十力道種智。觀察眾生根性差別。知其對治。得道因緣。以法眼觀察竟。以一切種智。說法度眾生。一切種智者。名為佛眼。亦名現一切色身三昧。亦名普現色身三昧。上作一切佛身。諸菩薩身。辟支佛身。阿羅漢身。諸天王身。轉輪聖帝諸小王身。下作三塗六趣眾生之身。如是一切佛身。一切眾生身。一念心中一時行。無前無後。亦無中間。一時說法度眾生。皆是禪波羅蜜功德所成。是故佛言。若不坐禪。平地顛墜。若欲斷煩惱。先以定動。然後智拔。定名奢摩他。智慧名毘婆舍那。定有無量。總說三種。下定名欲界定。中定名色界定。上定名無色界定。復次下定是聲聞定。總攬三界。中定是辟支佛定。上定是如來定。及諸菩薩定。智有無量說有三。一者道智。二者道種智。三者一切種智。慧亦有三。一者道慧。二者道種慧。三者一切種慧。復次分別說有十一智。何者是耶。法智。世智。他心智。宿命智。苦智。集智。滅智。道智。盡智。無生智。如實智。復次盡智無生智。分別則有十八種智。盡智有九。無生智有九。是名十八智。亦得名為十八心。三乘聖人共在四禪諸智慧中。問如實道如實智者。於一切法總相別相。如實能知故。名如實智。是諸智慧。即是一切智。亦名無智。何以故。如先尼梵志問佛。經中說。先尼梵志白佛言。世尊。如來一切智慧。從何處得。佛答先尼。無有得處。先尼復問。云何智慧無有得處佛復答言。非內觀中得是智慧。非外觀中得是智慧。非內外觀中得是智慧。亦非不觀得是智慧。是故智慧無有得處。故名無智。如奇特品說。一字入四十二字。四十二字還入一字。亦不見一字。唯佛與佛善知字法。善知無字法。為無字法故說於字法。不為字法故說於字法。是故四十二字。即是無字。復次欲坐禪時。應先觀身本。身本者如來藏也。亦名自性清淨心。是名真實心。不在內。不在外。不在中間。不斷不常。亦非中道。無名無字。無相貌。無自無他。無生無滅。無來無去。無住處。無愚無智。無縛無解。生死涅槃。無一二。無前無後。無中間。從昔已來無名字。如是觀察真身竟。次觀身身。復觀心身。身身者從妄念心生。隨業受報。天人諸趣。實無去來。妄見生滅。此事難知。當譬喻說。身本及真心。譬如虛空月。無初無後。無圓滿。無出無沒無去來。眾生妄見謂生滅。大海江河及陂池。溪潭渠浴及泉源。普現眾影似真月。身身心心如月影。觀身然欲甚相似。身本真偽亦如是。月在虛空無來去。凡夫妄見在眾水。雖無去來無生滅。與空中月甚相似。雖現六趣眾色像。如來藏身未曾異。譬如幻師著獸皮飛禽走獸種種像。貴賤男女差別異。端正醜陋及老少。世間種種可笑事。幻師雖作種種變。本丈夫形未曾異。凡夫雖受六趣色。如來藏色不變異。身本及真心。譬如幻師睡身心無思覺寂然不變易。身身及心數。如幻師遊戲故示六趣形種種可笑事。身身眾生體。難解譬喻說。如此法性無涅槃。亦無有生死。譬如眠熟時。夢見種種事。心體尚空無。何況有夢事。覺雖了了憶。實無有於此凡夫顛倒識。譬喻亦如是。禪定智慧能覺了。餘散心智不能解非。但凡夫如夢幻。月影現水種種事。復次諸佛菩薩聖皆爾。從初發心至佛果。持戒禪定種種事甚深定心不變易。智慧神通幻化異。法身不動。如空月普現色身作佛事。雖無去來無生滅。亦如月影現眾水。何以故。如經論中說。欲學一切智定。必修諸善心。若在定能知世間生滅法相。亦知出世三乘聖道。制心禪智。無事不辦。欲求佛道持淨戒。專修禪觀。得神通能降天魔。破外道。能度眾生斷煩惱。問曰。般若經中佛自說言。欲學聲聞。當學般若。欲學緣覺當學般若。欲學菩薩。當學般若。復次有六波羅蜜。般若為前導。亦是三世諸佛母。汝今云何。偏讚禪不讚五波羅蜜。復次如經中說。五度如盲。般若如眼。汝今云何。偏讚度不讚明眼。誰能信者願廣解說。除我等疑惑。答曰。諦聽善思念之。吾當為汝決定說。

万行の中に説かれているように、初発心から仏道を成じるまで、一身一心一智慧であり、衆生を教化せんがために、万行の名と字は差別異なるのである。すべての仏法を学ばんと欲するならば、まず浄戒を持し、禅定に勤めよ。一切の仏法、諸々の三昧門、百八三昧、五百陀羅尼、及び諸解脱、大慈大悲、一切種智、五眼、六神通、三明、八解脱、十力、四無畏、十八不共法、三十二相、八十種好、六波羅蜜、三十七品、四弘大誓願、四無量心、如意神通、四摂法、かくの如き無量の仏法功徳は、すべてことごとく禅より生ずるのである。なぜか。三世十方の無量の諸仏も、もし説法して衆生を度せんと欲する時は、まず禅定に入り、十力・道種智をもって衆生の根性の差別を観察し、その対治を知り、得道の因縁を知る。法眼をもって観察し終えて、一切種智をもって説法して衆生を度すのである。一切種智とは、これを仏眼と名づけ、また一切色身三昧を現すと名づけ、また普く色身三昧を現すと名づける。上は一切の仏身、諸菩薩身、辟支仏身、阿羅漢身、諸天王身、転輪聖帝・諸小王身を作し、下は三塗六趣の衆生の身を作す。かくの如く一切の仏身、一切の衆生身を、一念の心中に一時に行じ、前なく後なく、また中間もなく、一時に説法して衆生を度す。すべてこれ禅波羅蜜の功徳の成じる所である。ゆえに仏は言う、「もし坐禅せざれば、平地にて顛墜す」と。もし煩悩を断ぜんと欲するならば、まず定をもって動かし、然る後に智をもって抜くのである。定を奢摩他と名づけ、智慧を毘婆舎那と名づける。定には無量あるが、総説して三種とする。下の定を欲界定と名づけ、中の定を色界定と名づけ、上の定を無色界定と名づける。また下の定は声聞の定、総べて三界を攬る。中の定は辟支仏の定、上の定は如来の定及び諸菩薩の定である。智には無量あるが、説いて三とす。一には道智、二には道種智、三には一切種智である。慧もまた三あり。一には道慧、二には道種慧、三には一切種慧である。また分別して説けば十一智あり。何れがそれか。法智、世智、他心智、宿命智、苦智、集智、滅智、道智、尽智、無生智、如実智である。また尽智・無生智を分別すれば、すなわち十八種の智あり。尽智に九あり、無生智に九あり。これを十八智と名づけ、また十八心と名づけることもできる。三乗の聖人は皆、四禅の諸智慧の中に共にある。問う、如実道・如実智とは、一切の法の総相・別相を、如実に能く知るがゆえに、如実智と名づけるのである。これらの智慧は、すなわち一切智であり、また無智とも名づける。なぜか。かつて先尼梵志が仏に問うた経中に説かれているように、先尼梵志は仏に白して言う、「世尊、如来の一切智慧は、何れの処より得たるか」と。仏は先尼に答えて言う、「得る処無し」と。先尼また問う、「云何が智慧に得る処無きや」と。仏また答えて言う、「内観の中にこの智慧を得るにあらず、外観の中にこの智慧を得るにあらず、内外観の中にこの智慧を得るにあらず、また観ざるにもこの智慧を得るにあらず。ゆえに智慧には得る処無し。故に無智と名づけるのである」と。奇特品に説くように、一字は四十二字に入り、四十二字は還って一字に入る。また一字をも見ることなく、ただ仏と仏のみよく字法を知り、よく無字法を知る。無字法の為に字法を説くのであって、字法の為に字法を説くのではない。ゆえに四十二字は、すなわち無字である。また坐禅せんと欲する時は、まず身本を観ずべし。身本とは如来蔵であり、また自性清浄心と名づけ、これを真実心と名づける。内に在らず、外に在らず、中間に在らず、断ぜず常ならず、また中道にもあらず、名無く字無く、相貌無く、自無く他無く、生無く滅無く、来無く去無く、住処無く、愚無く智無く、縛無く解無く、生死涅槃、一二無く、前無く後無く、中間無く、昔より已来名字無し。かくの如く真身を観察し終えて、次に身身を観じ、また心身を観ずる。身身とは妄念の心より生じ、業に随って報を受ける。天・人・諸趣、実に去来無く、妄に生滅を見る。この事は知り難し。譬えを挙げて説かん。身本及び真心は、譬えば虚空の月の如し。初無く後無く、円満無く、出無く没無く去来無し。衆生は妄に生滅を見て謂う。大海・江河及び陂池、溪潭・渠浴及び泉源、普く衆影を現じて真月に似る。身身・心心は月影の如し。身を観ずれば然り、欲は甚だ相似たり。身本の真偽もまたかくの如し。月は虚空に在りて去来無し。凡夫は妄に衆水に在りと見る。去来無く生滅無きも、空中の月に甚だ相似たり。六趣の衆色像を現ずるも、如来蔵身は未だ曾て異ならず。譬えば幻師が獣皮を著け、飛禽走獣の種種の像、貴賤男女の差別異、端正醜陋及び老少、世間の種種の可笑事を示すが如し。幻師は種種の変をなすも、本の丈夫の形は未だ曾て異ならず。凡夫は六趣の色を受くるも、如来蔵色は変異せず。身本及び真心は、譬えば幻師の眠り、身心に思覚無く、寂然として変易せざるが如し。身身及び心数は、幻師の遊戯するが故に、六趣の形を示し、種種の可笑事を示すが如し。身身の衆生の体は、譬えを説くも難解なり。かくの如き法性には涅槃無く、また生死有ること無し。譬えば眠り熟する時、夢に種種の事を見るが如し。心体は尚お空無なるに、いわんや夢事有らんや。覚めては了々と憶うれども、実にこれ有ること無し。凡夫の顛倒の識も、譬えばまたかくの如し。禅定・智慧は能く覚了す。余の散心の智は解すること能わず。ただ凡夫のみ夢幻の如くならず、月影の水に現ずる種種の事、また諸仏・菩薩・聖人も皆かくの如し。初発心より仏果に至るまで、持戒・禅定の種種の事、甚深の定心は変易せず、智慧・神通は幻化して異なる。法身は動かず、空月の如く普く色身を現じて仏事をなす。去来無く生滅無きも、また月影の衆水に現ずるが如し。なぜか。経論の中に説くように、一切智定を学ばんと欲するならば、必ず諸の善心を修せよ。もし定に在って能く世間の生滅の法相を知り、また出世の三乗聖道を知る。心を制し禅智を修すれば、事として成さざる無し。仏道を求めんと欲するならば、浄戒を持し、専ら禅観を修して神通を得よ。能く天魔を降し、外道を破り、能く衆生を度して煩悩を断ず。問う、般若経中に仏自ら説いて言う、「声聞を学ばんと欲するならば、当に般若を学ぶべし。縁覚を学ばんと欲するならば、当に般若を学ぶべし。菩薩を学ばんと欲するならば、当に般若を学ぶべし」と。また六波羅蜜あり、般若は前導たり、また三世諸仏の母たり。汝今云何ぞ偏に禅を讃めて五波羅蜜を讃めざるか。また経中に説くように、「五度は盲の如く、般若は眼の如し」と。汝今云何ぞ偏に度を讃めて明眼を讃めざるか。誰か能く信ずる者あらん。願わくは広く解説して、我等の疑惑を除きたまえ。答えて言う、諦聴して善く思念せよ。吾当に汝が為に決定して説かん。

三乘般若同一觀 隨證淺深差別異
如大海水無增減 隨取者器大小異
聲聞緣覺及菩薩 如來智慧亦如是
十二因緣四種智 下智聲聞中緣覺
巧慧上智名菩薩 如來頓覺上上智
以無名法化眾生 方便假名差別異
三乘智慧不能知 唯佛世尊獨知耳
如大集經雜四諦 三乘法行同一義
陳如稽首白世尊 十方菩薩大眾集
云何名法行比丘 願佛演說法行義
爾時佛告憍陳如 至心諦聽今當說
若求法行諸比丘 誦如來十二部經
謂修多羅及毘曇 優婆提舍及毘尼
樂為四眾敷暢說 是樂誦說非法行
若更復有諸比丘 誦如來十二部經
能廣演說思惟義 是樂思惟無法行
若復次有諸比丘 更讀誦十二部經
演說思惟觀其義 是名樂觀無法行
夫法行者三乘同 一觀我今當說者
有比丘能觀身心 心不貪著一切相
謙虛下意不生慢 不以愛水洗業田
不於中種識種子 滅覺觀法境界息
永離煩惱心寂靜 比丘如是觀身心
佛說是人真法行 如是比丘即能得
聲聞緣覺佛菩提 法行比丘觀三事
觀身觀受及觀心 比丘觀察三念已
一心四禪十八智 復次大智論中說
聲聞緣覺及諸佛 四禪二九十八智
同共證道明闇異 共觀四諦十二緣
隨機感悟種種異 聲聞四諦十六心
辟支獨覺無漏智 菩薩亦解二乘法
獲得無礙十六諦 如諸天共寶器食
飯色黑白各有異 四諦譬喻如鐙品
定如淨油智如炷 禪慧如大放光明
照物無二是般若 鐙明本無差別照
覩者眼目明暗異 禪定道品及六度
般若一法無有二 覺道神通從禪發
隨機化俗差別異

三乗の智慧は同じ一つの観念に帰すが、その悟りの深さによって違いがある。 大海の水に増減がないように、汲む者の器の大きさによって異なる。 声聞・縁覚・菩薩、如来の智慧もまた同じである。 十二因縁に対する四種の智があり、下智は声聞、中智は縁覚。 巧みな慧は上智で菩薩と呼ばれ、如来は頓に覚る上上智である。 名もない法をもって衆生を教化するが、方便によって仮の名がつけられ差別が生じる。 三乗の智慧ではこれを知ることができず、ただ仏世尊のみが知っておられる。 大集経に四諦を交えて説くように、三乗の法の行いは同じ一つの義である。 陳如が世尊に頭を下げて申し上げた。「十方の菩薩と大衆が集まっています。 どうすれば法行の比丘と呼ばれるのでしょうか。どうか仏よ、法行の義をお説きください。」 その時、仏は憍陳如に告げられた。「心を澄ましてよく聞きなさい。今、説こう。 もし法行を求める比丘が、如来の十二部経を誦し、 修多羅や毘曇、優婆提舎や毘尼を学び、 四衆のために広く説くことを喜ぶなら、それは誦説を楽しむものであり、真の法行ではない。 また、もし他の比丘が如来の十二部経を誦し、 広く演説してその義を思惟することを喜ぶなら、それは思惟を楽しむものであり、真の法行ではない。 さらに、もし比丘が十二部経を読み誦し、 演説し思惟してその義を観ることを喜ぶなら、それは観ることを楽しむものであり、真の法行ではない。 真の法行とは、三乗に共通する一つの観念である。今、私が説こうとするのはこれである。 ある比丘は身心を観察し、心が一切の相に貪着せず、 謙虚でへりくだり、慢心を起こさず、 愛欲の水で業の田を洗うことなく、 そこに識の種子を蒔くこともない。 覚観の法を滅し、境界の動きが静まり、 永遠に煩悩を離れ、心は寂静となる。 比丘がこのように身心を観るならば、 仏はこの人を真の法行であると説かれる。 このような比丘は、まさに得ることができるのだ、 声聞・縁覚・仏の菩提を。 法行の比丘は三つのことを観る。 身を観、受を観、心を観るのである。 比丘がこの三つの念を観察した後、 一心に四禅と十八智を得る。 さらに大智論に説かれるように、 声聞・縁覚および諸仏は、 四禅と二九十八の智によって、 同じく道を証するが、明暗の差がある。 共に四諦と十二因縁を観るが、 機根に応じて感得するものは様々である。 声聞は四諦の十六心を得、 辟支独覚は無漏の智を得、 菩薩もまた二乗の法を理解し、 無礙の十六諦を得る。 あたかも諸天が同じ宝器で食事をしても、 飯の色が白黒それぞれ異なるように。 四諦の譬えは灯明の品のようで、 定は清らかな油の如く、智は灯心の如し。 禅と慧は大いなる光明を放ち、 物を照らして二つなきことが般若である。 灯明そのものに差別の照らし方はないが、 見る者の眼力によって明暗の差が生じる。 禅定・道品および六度は、 般若という一つの法に二つはない。 覚道と神通は禅より発し、 機根に応じて俗を化すことに差別が生じる。

問曰。佛何經中說般若諸慧皆從禪定生。答曰。如禪定論中說。三乘一切智慧皆從禪生。般若論中。亦有此語。般若從禪生。汝無所知。不解佛語。而生疑惑。作是狂難。汝何不見。十方諸佛。若欲說法度眾生時。先入禪定。以神通力。能令大地十方世界。六種震動。三變土田。轉穢為淨。或至七變。能令一切未曾有事。悉具出現。悅可眾心。放大光明。普照十方。他方菩薩。悉來集會。復以五眼觀其性欲。然後說法。復次般若波羅蜜光明釋論中說。有人疑問佛。佛是一切智人。智慧自在。即應說法。何故先入禪定。然後說法。如不知相。論主答曰。言如來一切智慧。及大光明。大神通力。皆在禪定中得。佛今欲說摩訶般若大智慧法。先入禪定。現大神通。放大光明。遍照一切十方眾生。報禪定恩故。然後說法。為破外道執。外道六師。常作是言。我是等智慧。於一切常用常說。不須入禪定。佛為降伏如是邪見諸外道輩。先入禪定。然後說法。復次如勝定經中所說。若復有人。不須禪定。身不證法。散心讀誦十二部經。卷卷側滿。十方世界皆闇誦通利。復大精進。恒河沙劫。講說是經。不如一念思惟入定。何以故。但使發心欲坐禪者。雖未得禪定。已勝十方一切論師。何況得禪定。說是語時。五百論師來詣佛所。俱白佛言。我等多聞。總持十二部經。及韋陀論五部。毘尼講說無礙。十六大國。敬我如佛世尊。何故不讚我等多聞智慧。獨讚禪定。佛告諸論師。汝等心亂。假使多聞何所益也。汝欲與禪定角力。如盲眼人欲覩眾色。如無手足欲抱須彌山王。如折翅鳥欲飛騰虛空。如蚊子翅欲遮日月光。如無船舫人欲度大海。皆無是處。汝等論師。亦復如是。欲角量禪定。無有是處。復次毘婆沙中說。若有比丘。不肯坐禪。身不證法。散心讀誦。講說文字。辨說為能。不知詐言知。不解詐言解。不自覺知。高心輕慢坐禪之人。如是論師。死入地獄。吞熱鐵丸。出為飛鳥。猪羊畜獸。雞狗野干。狐狼等身。若復有人。不近善知識。雖復坐禪獲得四禪定。無有轉治。無方便智。不能斷煩惱。雖得寂靜之樂煩惱不起。獲四禪時。謂得寂滅涅槃之道。便作是念。我今已得阿羅漢果。更不復生。如此比丘。實不得道。不斷煩惱。但得似道禪定。不近善知識。無方便智。謂得實道。起增上慢。臨命終見受生處。即生疑悔。阿羅漢者更不復生。我今更生。當知諸佛誑惑於我。作是念時。即墜地獄。何況餘人不坐禪者。重宣此義。而說偈言。

問い申します。仏陀はどの経典の中で、般若(智慧)の諸々の慧はすべて禅定から生じると説かれているのですか。

お答えします。禅定論の中で説かれているように、三乗(声聞・縁覚・菩薩)の一切の智慧はすべて禅から生じます。般若論の中にも、この言葉があります。「般若は禅から生ず」。あなたは何も知らず、仏陀の言葉を理解せず、疑いを起こし、このような乱暴な難問を投げかけているのです。あなたは見ないのですか、十方の諸仏がもし説法して衆生を救おうとする時、まず禅定に入り、神通力によって大地や十方世界に六種の震動を起こし、国土を三度(あるいは七度まで)変じて、穢れたものを清浄に転じ、一切の未だ有ったことのない事柄をことごとく出現させ、衆生の心を喜ばせ、大いなる光明を放って十方を普く照らし、他方の菩薩たちをことごとく集まらせ、さらに五眼(肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼)をもってその性質と願いを観察してから、説法をされることを。

さらに、般若波羅蜜光明釈論の中で説かれています。ある人が仏陀に疑問を抱きました。「仏陀は一切智の人であり、智慧は自在である。すなわち説法すべきである。なぜまず禅定に入り、それから説法されるのか。まるで知らないかのようである」と。論主は答えて言いました。「如来の一切智慧、および大光明、大神通力は、すべて禅定の中で得られる。仏陀は今、摩訶般若(大智慧)の法を説こうとされ、まず禅定に入り、大神通を現じ、大光明を放って一切の十方衆生を遍く照らし、禅定の恩に報いるためである。それから説法される。外道の執着を破るためである。外道の六師は常にこのように言う。『我らはこのような智慧を持ち、一切の時に用い、常に説く。禅定に入る必要はない』と。仏陀はこのような邪見を持つ諸々の外道どもを降伏させるために、まず禅定に入り、それから説法されるのである」と。

さらに、勝定経の中で説かれているように、もしまた人が、禅定を必要とせず、身をもって法を証することなく、散乱した心で十二部経を読み誦し、巻々が側に満ち、十方世界のすべてを暗誦し通達し、さらに大いに精進して、恒河沙の劫の間、この経を講説したとしても、一念の思惟をもって定に入ることには及ばない。なぜなら、ただ発心して坐禅しようとする者であれば、まだ禅定を得ていなくとも、すでに十方一切の論師に勝っている。ましてや禅定を得たならばなおさらである。

この言葉を説かれた時、五百人の論師が仏陀のもとに来て、ともに仏陀に申し上げました。「我らは多くを聞き、十二部経と韋陀論五部とを総持し、毘尼(律)を講説することに滞りはありません。十六大国は我らを仏陀・世尊のように敬っています。なぜ我らが多くを聞く智慧を称賛されず、ただ禅定だけを称賛されるのですか」。仏陀は諸々の論師に告げられました。「あなた方の心は乱れている。仮に多くを聞いたとしても、何の益があろうか。あなた方が禅定と力比べをしようとするのは、盲人が衆色を見ようとするがごとく、手足のない者が須弥山王を抱こうとするがごとく、翼の折れた鳥が虚空を飛び騰ろうとするがごとく、蚊の羽で日月の光を遮ろうとするがごとく、船のない人が大海を渡ろうとするがごとく、すべてそのようなことはありえない。あなた方論師もまた同じである。禅定と較べ量ろうとするのは、そのようなことはありえないのである」。

さらに、毘婆沙(広大な釈論)の中で説かれています。もし比丘が、坐禅を肯んぜず、身をもって法を証することなく、散乱した心で読み誦し、文字を講説し、弁説することを能とし、知らないのに知っていると偽り、解しないのに解したと偽り、自ら覚知することなく、高ぶった心で坐禅の人を軽んじ慢る。このような論師は、死んで地獄に堕ち、熱い鉄の丸を飲み、出ては飛ぶ鳥、豚や羊の畜生、鶏や犬、野干(ジャッカル)、狐や狼などの身となる。

もしまた人が、善知識に近づかず、たとえ坐禅して四禅定を得たとしても、転治(煩悩を転じ治める力)がなく、方便智がなければ、煩悩を断つことはできない。寂静の楽を得て煩悩が起こらなくなり、四禅を得た時、寂滅涅槃の道を得たと思い、このように念ずる。「我は今、阿羅漢果を得た。もう再び生まれることはない」と。このような比丘は、実は道を得ておらず、煩悩を断っておらず、ただ似たる道の禅定を得たに過ぎない。善知識に近づかず、方便智がなければ、実の道を得たと思い、増上慢を起こす。臨命終時に受生の処(生まれ変わりの世界)を見て、ただちに疑いと後悔を生ずる。「阿羅漢はもう再び生まれない。我は今、再び生まれようとしている。諸仏が我を誑かしているに違いない」と。このような念を起こす時、ただちに地獄に墜ちる。ましてや、その他の坐禅しない人々はなおさらである。

重ねてこの義を宣べ、偈を説きます。

欲自求度及眾生 普遍十方行六度
先發無上菩提心 修習忍辱堅持戒
晝夜六時勤懺悔 發大慈悲平等心
不惜身命大精進 欲求佛道持淨戒
專修禪智獲神通 能降天魔破外道
能度眾生斷煩惱 從初發心至成佛
一身一心一智慧 為欲教化眾生故
萬行名字差別異 欲覺一切諸佛法
持清淨戒修禪定 捨諸名聞及利養
遠離憒鬧癡眷屬 念十方佛常懺悔
不顧身命求佛道 獲得百八三昧門
亦得五百陀羅尼 及諸解脫大慈悲
五眼六通一切智 亦得三明八解脫
具足十力四無畏 三十二相八十好
三十七品具六度 十八不共微妙法
視諸眾生如一子 四弘誓願具四攝
四無量心道種智 一切種智四如意
觀察眾生廣法施 入四禪定放光明
遍照十方諸世界 變穢為淨大震動
現諸奇特希有事 十方菩薩悉集會
三界天王皆在此 端坐瞻仰一心待
同聲三請願聞法 從禪方便三昧起
為眾隨應演說法 色身香聲種種別
禪定寂然心不異 雖在座坐現法身
十方九道無不遍 淨戒禪定三昧力
十方了了分明見 應可度者如眼前
未可度者即不見 如空月影現眾水
闇室深井即不現 譬如幻師種種變
盲瞎之人則不見 盲瞎睡重者不見
諸佛法身鏡亦爾 三障眾生不能見
若無淨戒禪智慧 如來藏身不可見
如金鑛中有真金 因緣不具金不現
眾生雖有如來藏 不修戒定則不見
淨戒禪智具六度 清淨法身乃顯現
淨妙真金和水銀 能塗世間種種像
如來藏金和禪定 法身神通應現往
普告後世求道人 不修戒定莫能強
無戒定智皆不應 怱怱亂心講文字
死入地獄吞鐵丸 出為畜生彌劫矣
如是眾生不自知 自稱我有大智慧
輕毀一切坐禪人 壞亂正法作魔事
假使講經恒沙劫 都不曾識佛法義
如殺三千世界人 及諸一切眾生類
高心謗禪壞亂眾 其罪甚重過於此
譬如群賊劫牛乳 高聲唱得醍醐味
不知鑽搖及熮煖 亦失酪漿生熟酥
麁淺薄味尚都失 醍醐上味在何處
不修禪智無法喜 譬喻說言無婦女
不淨亂心執文字 故言皮囊可盛貯
譬如盲狗咬草叢 不見人及非人類
但聞風吹草鳴聲 高聲叫言賊虎至
養一盲狗虎咬故 舉世盲狗叫亂沸
其心散亂都不定 覺觀心語亦如是
讚百千經心常亂 如蛇吐毒與世諍
增見諸非毒轉盛 自言壞常子難生
既見禪智法喜妻 石女無兒難可生
解文字空不貪著 若修定時解無生
禪智方便般若母 巧慧方便以為父
禪智般若無著慧 和合共生如來子
三乘聖種從是學 故稱一切眾導師
淨戒禪智如大地 能生萬物載群類
禪智神通巧方便 能生三乘一切智
若能一念在禪定 能報三世佛恩義
三世諸佛坐道場 覺悟眾生皆由此
一切凡夫共一身 一煩惱心一智慧
真如一像不變易 善惡業影六道異
諸佛菩薩一法身 亦同一心一智慧
一字萬行化眾生 一聖假名四十二
凡聖色藏一而二 方便道中凡聖二
色藏元象無一二 唯佛與佛乃知此
我從無數十方佛 聞此一字無量義
少行法師不能知 文字論師不能解
若人不近善知識 學得有漏似道禪
初禪謂得須陀洹 四禪謂得阿羅漢
起增上慢諸漏盡 謂言斷結不更生
臨命終時見生處 即作是言佛欺我
阿羅漢者不更生 我今云何更受生
身證不了尚如此 何況散心著文字
不知詐知起我慢 顛倒說法誑眾生
身不證法昇高座 死入阿鼻大地獄
身證不了尚生疑 何況不證盲心說
高心亂語謗諸佛 受學之徒皆効此
從地獄出為畜生 備作種種諸雜類
若人親近善知識 證無漏禪乃明解
具足禪智多聞義 如是導師可依止
禪定深隱難可知

自ら解脱を求め、衆生をも救わんと欲す 十方に遍く行じ、六度を修す 先ず無上菩提の心を発し 忍辱を修め、戒を堅く持つ 昼夜六時、精進して懺悔し 大慈悲の平等心を起こす 身命を惜しまず大精進 仏道を求めんと、浄戒を持す 専ら禅智を修して神通を得 天魔を降し、外道を破る 衆生を度し煩悩を断ず 初発心より成仏に至るまで 一身一心一智慧 衆生を教化せんがための故に 万行の名字は差別異なれど 一切諸仏の法を覚らんと欲す 清浄の戒を持し禅定を修め 諸の名聞及び利養を捨て 憒鬧と癡眷属を遠離し 十方の仏を念じて常に懺悔す 身命を顧みず仏道を求め 百八三昧門を得 五百陀羅尼をも得 及び諸の解脱と大慈悲 五眼六通、一切智 三明八解脱をも得 十力四無畏を具足し 三十二相八十好 三十七品に六度を具え 十八不共の微妙法 諸衆生を視ること一子の如く 四弘誓願に四摂を具う 四無量心、道種智 一切種智、四如意 衆生を観察し広く法施を行じ 四禅定に入りて光明を放つ 十方の諸世界を遍照し 穢れを変じて浄と為し大いに震動す 諸の奇特希有の事を現じ 十方の菩薩、悉く集会す 三界の天王、皆此に在り 端座して瞻仰し一心に待つ 同声に三請し、法を聞かんと願う 禅の方便三昧より起こり 衆生の為に、應に随いて法を演説す 色身・香・声、種種に別れたり 禅定寂然として心は異ならず 座に在り雖も法身を現ず 十方九道、遍くあらざるなし 浄戒禅定の三昧力 十方に了了分明に見え 度すべき者は眼前の如し 未だ度すべからざる者は即ち見えず 空の月影が衆水に現ずるが如し 闇室や深井には即ち現ぜず 譬えば幻師の種種に変ずるが如し 盲瞎の人は則ち見ず 盲瞎・睡重の者は見ず 諸仏の法身の鏡も亦た爾なり 三障の衆生は見る能わず 若し浄戒・禅・智慧無くば 如来蔵身は見る可からず 金鑛の中に真金あるが如く 因縁具わらざれば金は現ぜず 衆生雖も如来蔵を有すれど 戒定を修せざれば則ち見ず 浄戒・禅・智に六度を具え 清浄法身乃ち顕現す 浄妙の真金は水銀と和し 世間の種種の像に塗ることを得 如来蔵の金は禅定と和し 法身神通、應現して往く 普く後世の求道人に告ぐ 戒定を修せずんば強いて能わず 戒定・智無くば皆應ずべからず 怱怱として心を乱し文字を講ずるは 死して地獄に入り鐵丸を吞まん 出でては畜生と為り、劫を彌るのみ 如是の衆生、自ら知らず 自ら我に大智慧有りと称す 一切の坐禅人を軽毀し 正法を壊乱して魔事と作す 假し経を講ずること恒沙劫と雖も 都て仏法の義を識らず 三千世界の人を殺し 及び一切衆生の類を殺すが如し 高心に禅を謗じ衆を壊乱せん 其の罪、甚だ重くして此れより過ぐ 譬えば群賊の牛乳を劫り 高声に醍醐の味を得と唱うるが如し 鑽搖及び熮煖を知らず 亦た酪漿・生熟酥を失う 麁淺薄味、尚都て失う 醍醐の上味、何れの処にか在る 禅智を修せず法喜無し 譬喩に説く、婦女無しと 不浄にして心を乱し文字に執する 故に皮囊は貯え得可しと説く 譬えば盲狗の草叢を咬むが如く 人及び非人類を見ず 但だ風の草を吹く鳴声を聞き 高声に賊・虎来たれりと叫ぶ 盲狗一頭を養いて虎に咬まるるが故に 挙世の盲狗、叫び乱れ沸く 其の心散亂にして都て定まらず 覚観の心語も亦た是くの如し 百千の経を讚ずれど心常に亂る 蛇の毒を吐きて世と諍うが如し 諸非を見増し、毒轉た盛んにす 自ら壞常・子難生と言う 既に禅智の法喜の妻を見れど 石女の兒無くして生ずること難し 文字の空を解して貪著せず 若し定を修する時、無生を解す 禅智方便は般若の母 巧慧方便は以て父と為す 禅智般若の無著慧 和合して共生し、如来の子と成る 三乗の聖種、是れより学ぶ 故に一切衆の導師と称す 浄戒禅智は大地の如く 万物を生じ、群類を載す 禅智神通の巧方便 能く三乗の一切智を生ず 若し一念禅定に在らば 能く三世仏の恩義に報ず 三世諸仏、道場に坐し 衆生を覚悟せしむる、皆此に由る 一切凡夫、共に一身を有し 一煩悩心、一智慧 真如は一像にして變易せず 善悪の業影、六道に異なる 諸仏菩薩は一法身 亦た同一心、一智慧 一字万行、衆生を化す 一聖の仮名、四十二 凡聖の色蔵、一にして二 方便道の中には凡聖の二 色蔵元象、一二無し 唯だ仏と仏のみ乃ち此れを知る 我、無數の十方仏より 此の一字無量の義を聞けり 少行の法師は知ること能わず 文字論師は解すること能わず 若し人、善知識に近かざれば 有漏似道の禅を学び得て 初禅を得て須陀洹と謂い 四禅を得て阿羅漢と謂う 増上慢を起し、諸漏尽きたりと謂い 結を断じて更に生ぜずと言う 臨命終の時、生処を見て 即ち是の言を作す、仏我を欺くと 阿羅漢は更に生ぜず 我、今何ぞ更に生を受くべき 身証して了せずとも尚お此くの如し 何況や散心の文字に著する者をや 知らずして詐り知ると為し、我慢を起し 顛倒して法を説き衆生を誑す 身に法を証せずして高座に昇る 死して阿鼻の大地獄に入らん 身証して了せずとも尚お疑いを生ず 何況や証せずして盲心に説く者をや 高心乱語して諸仏を謗じ 受学の徒、皆此れに効う 地獄より出でて畜生と為り 備に種種の諸雑類と作る 若し人、善知識に親近し 無漏禅を証すれば乃ち明解す 禅智・多聞の義を具足せば 如是の導師に依止す可し 禅定の深隠は知り難きこと 知る可からず

復次禪波羅蜜。有無量名字。為求佛道。修學甚深微妙禪定。身心得證。斷諸煩惱。得一切神通。立大誓願。度一切眾生。是乃名為禪波羅蜜。立大誓願故禪定轉名四弘。欲度眾生故。入深禪定。以道種智清淨法眼。觀察眾生是處非處十力智。爾時禪定轉名四無量心。慈悲愍眾生。拔苦與樂。離憎愛心。平等觀察。爾時禪定。轉名慈悲喜捨。既觀察已。與其同事。隨應說法。爾時禪定。轉名四攝法。布施。愛語。利益。同事。是名四攝法也。復次大慈大悲。現如意神通一切色身。以神通力入五欲中。遍行六趣。隨欲度眾生。爾時禪定。轉名神通波羅蜜。亦普現十方一切佛事。常在禪定寂然無念。復次深大慈悲憐憫眾生。上作十方一切佛身。緣覺聲聞一切色形。下作六趣眾生之身。如是一切佛身。一切眾生身。一念心中一時行。無前無後無中間。一時說法度眾生。爾時禪定及神通波羅蜜。轉名一切種智。亦名佛眼。復次菩薩摩訶薩。持戒清淨。深妙禪定。斷習氣故。遠離三世諸愛見故。爾時禪定。轉名十八不共法。復次菩薩摩訶薩。以三明智分別眾生。爾時禪定。轉名十力。善知是處及漏盡故。復次菩薩摩訶薩。色如受想行識如。觀一切法。始從初學終至成佛斷煩惱。及神通盡知十方世界名號。亦知三世諸佛名號。及知諸佛弟子名號。亦知一切眾生名號。及知眾生煩惱名號。解脫名號。一念一時知。及知宿命因緣之事。爾時禪定轉名十號也。復次菩薩摩訶薩。以諸法無所有性。一念一心具足萬行。巧方便慧。從初發心至成佛果。作大佛事。心無所著。總相智。別相智。辯說無礙。具足神通波羅蜜。供養十方一切佛。淨佛國土。教化眾生。爾時禪定。轉名般若波羅蜜。復次行者。為出世間故。三界九地名為八背捨。次第斷煩惱。欲界未到地禪及中間。二禪及四禪。空處及非有想。最後滅受想。於欲界中具五方便。一者發大善心。求佛道故。欲得禪定。名善欲心。是善欲心。能生一切佛法。能入一切禪定。能證一切解脫。起一切神通。分別欲界色界無色界。五陰三毒四大。十二入十八界。十二因緣。一切諸法無常變異。苦空無我。亦知諸法無生滅真實相。無名無字。無漏無為。無相無貌。覺了諸法。故名法智。未到初禪得金剛智。能斷煩惱證諸解脫。是名未到地。初欲界地及未到地。如是二地。是佛道初門。欲得禪定。是名欲心。復次初夜後夜。專精學禪。節食攝心。捨離眷屬。斷諸攀緣。是名精進。復次專念初禪樂。更無餘念。是名念心。復次巧慧籌量欲界五欲。欺誑不淨。是三惡道伴。初禪定樂。斷諸欺誑。得真智慧。是入涅槃伴。是籌量。是名巧慧心。復次專心一處。滅諸覺觀。境界都息。身心寂靜。是名一心。如是五方便。能斷五欲妖媚煩惱。滅除五蓋。有覺有觀。離生得喜樂入初禪。名初背捨得入二禪。名二背捨。入第三禪。名三背捨。喜樂心內清淨得四禪。名為入一切處。滅一切色相。捨第四禪。滅有對想。入無邊虛空處。名為空一切處。第四背捨虛空處定。得一切識處定。是名識一切處第五背捨。復次捨識處定。入無所有處定。是名第六背捨。捨無所有處定得入非有想非無想處定。生厭離心。是名第七背捨。捨非有想非無想處定。入滅定受想定。心無所著。是名第八背捨。爾時禪波羅蜜。轉名八背捨。復次自覺覺他。通達無礙。得三解脫。能破三界一切煩惱。爾時禪波羅蜜。轉名十一智。復次行者。總持旋陀羅尼。戒定慧三分。八聖道。破四顛倒獲四真諦。爾時禪波羅蜜。轉名三十七品。起一切神通。所謂四念處。四正勤。四如意足。五根五力。七覺分八聖道分。名為摩訶衍。如四念處品中說。轉一切智慧。以一神通。現一切神通。以一解脫。作一切解脫。轉一名字語句。入一切名字語句。如是一切名字語句。還入一名一字一語一句。平等不異。是四念處字等語等。諸字入門。一切佛法盡在其中。復次菩薩摩訶薩。欲教化眾生。令生清淨歡喜信心故。與一切聖人。建立一聖官階位次第。眾生之得大歡喜。決定無疑。爾時誓願勤修禪定。得六神通。作轉輪聖王。入五道中。飛行十方。廣行布施。須衣與衣。須食與食。金銀七寶。象馬車乘。樓櫓宮殿。房舍屋宅。五欲眾具。簫𥴦箜篌。琴瑟鼓吹。隨眾生欲盡給與之。後為說法令其得道。雖作如是種種法施。實無施者。無財物。無說無示。無聽法者。譬如幻師幻作幻人。四衢道中化作高座。廣說三乘微妙聖法。又作四眾集共聽受。如是幻師所作幻事。無色無心。無示無聽。無受無聞。無得菩薩。爾時禪波羅蜜。轉名檀波羅蜜何以故。施人物時。雖知諸法無所有性。無施無受。無財物相。三事俱空。雖知空寂。勤行布施。復次菩薩摩訶薩。雖知諸法空罪相不可得。持戒破戒。如夢如幻。如影如化。如水中月。雖知諸法無生滅。堅持淨戒無毀缺。亦以戒法為他人說。若人惡心不受戒。化作禽獸行。禮儀人類。見此大羞辱。各發善心。堅持淨戒。發大誓願。遍十方不顧身命行戒施。常現六道種種形。廣說如來清淨戒。以宿命智觀察之。必令歡喜無瞋害。非但為說戒法。亦說攝根定共戒。道共戒。性寂戒。報寂戒。爾時禪波羅蜜。轉名尸波羅蜜。復次菩薩摩訶薩。行此財施法施戒施時。受者瞋恚來打罵。割截手足心不動。乃至失命心不悔。爾時禪定。轉名羼提波羅蜜。菩薩行是甚深禪定。於一切聖行。以法忍故。心無所著。禪定即是羼提波羅蜜。復次菩薩。學四念處時。獲得四禪。復作是念。我於身念處。未得如意神通。受念處未獲宿命神通。修心念處。未獲他心智。不知十方凡聖心故。修法念處時。如是思惟。我今未獲漏盡神通。修身念處。觀一切色。亦未得清淨天眼。於受念處。未證因緣業報垢淨神通。於心念處。未得眾生語言三昧。作是念已。勤精進求乃至成就。具六神通。爾時禪定。轉名精進毘梨耶波羅蜜。復次菩薩。為起神通故。修練禪定。從初禪次第。入二禪三禪四禪。四空定。乃至滅受想定。一心次第。入無雜念心。是時禪波羅蜜。轉名九次第定。復次菩薩。入初禪時。觀入出息。自見其身。皆悉空寂。遠離色相。獲得神通。乃至四禪。亦復如是。入初禪時。觀入出息。見三世色。乃至微細。如微塵許。悉見無礙。亦見眾生出沒果報差別。於無量劫通達無礙。是名天眼神通乃至四禪。亦復如是。入初禪時。觀息出入。以次第觀聲。悉同十方凡聖音聲。是名天耳神通。乃至四禪。亦復如是。入初禪時。觀入出息住息住舍摩他。觀色相貌。以毘婆舍那。觀他心相。善知十方凡聖之心。是名他心智神通。乃至四禪。亦復如是。入初禪時。觀息入出。獲得眼通。得眼通已。觀於有歌羅邏時五陰生滅。乃至無量劫中五陰生滅。獲得宿命。是名宿命神通。乃至四禪。亦復如是。悉能觀察一切眾生。善惡業行差別不同。亦復知其發心早晚。入道遠近。十方三世通達無礙。是名道種智慧神通。爾時禪定轉名師子奮迅三昧。以神通力。供養十方佛。及教化眾生。淨佛國土。邊際智滿十地具足。變身如佛滿十方。學佛神通。未得滿足。是師子奮迅三昧。唯有諸佛。乃能具足。復次菩薩。入重玄門修四十心。從凡夫地初發心時。所修禪定。次第重入。乃至最後無垢地。修諸禪定。學佛神通化眾生法。從初禪入乃至滅受想定。三禪四禪四空。亦復如是。是名順超無礙。從滅受想定超住散心中。超入初禪。非有想非無想處無所有處。識處空處。四禪乃至二禪。亦復如是。是名逆超自在無礙。爾時禪定。轉名超越三昧。修佛神通。得佛智慧。餘五波羅蜜。亦復如是。是少一波羅蜜。不名五波羅蜜復次學禪定時。修四念處。於欲界中。觀內外色。入初背捨。具足聞慧。觀內外假二相不可得故。亦非是一如。如性故一解脫。復次思慧具足。觀察內外法。內外一切法。總相別相異相。不可得如如。故二解脫。復次修慧。六觀具足。色界五陰空。三解脫。復次聞慧修慧。用巧方便金剛智。破四空定。無貪著心。空五陰不可得故。得解脫空處。得解脫識處。得解脫無所有處。得解脫非有想非非想處。得解脫觀滅受想定。不可得故。得是解脫。是名八解脫。如如性故。無縛無脫。菩薩爾時。禪波羅蜜名八解脫。復次菩薩禪定。修四念處。得三十七品。具足佛法。何以故。是身念處。觀色法故。一念具足四念處故。是身念處。用念覺分。觀五陰時。能斷一切煩惱。故觀色陰時。是身念處。不淨觀九想。具足舍摩他。能破一切煩惱。是名為定。如論偈中說。

次に、禅波羅蜜には無数の名前があります。仏道を求めて、非常に深く微妙な禅定を学び修め、身心に悟りを得て、すべての煩悩を断ち切り、すべての神通力を得て、大いなる誓いを立て、すべての衆生を救済する。これを禅波羅蜜と名づけます。

大いなる誓いを立てるゆえに、禅定は「四弘」と名前を変えます。衆生を救済しようと欲するゆえに、深い禅定に入り、道種智と清らかな法眼をもって衆生を観察し、その因縁や能力の適否を十種の力で知るのです。このとき、禅定は「四無量心」と名前を変えます。慈悲をもって衆生を哀れみ、苦しみを抜き去り楽しみを与え、憎しみや執着の心を離れて、平等に観察するからです。このとき、禅定は「慈悲喜捨」と名前を変えます。

観察したのち、彼らと同じ立場に立ち、その人に応じて教えを説きます。このとき、禅定は「四摂法」と名前を変えます。布施・愛語・利行・同事、これが四摂法です。

さらに、大慈大悲をもって、如意神通のすべての色身を現じ、神通力をもって五欲の世界に入り、六道をくまなく巡り、衆生の救済に応じます。このとき、禅定は「神通波羅蜜」と名前を変えます。また、十方のすべての仏事を現じながらも、常に禅定の中にあって静かにして何も念じません。

さらに、深く大きな慈悲で衆生を哀れみ、上には十方のすべての仏身、縁覚・声聞のすべての色形を現じ、下には六道の衆生の身を現じます。このようにすべての仏身、すべての衆生身を、一念の心の中に同時に現じ、前も後も中間もなく、同時に説法して衆生を救済します。このとき、禅定および神通波羅蜜は「一切種智」と名前を変え、また「仏眼」とも名づけます。

さらに、菩薩摩訶薩は戒律を清らかに保ち、深妙な禅定によって煩悩の習気を断ち、三世のすべての愛着や見解を離れるゆえに、このとき禅定は「十八不共法」と名前を変えます。

さらに、菩薩摩訶薩は三明の智慧をもって衆生を分別するゆえに、このとき禅定は「十力」と名前を変えます。物事の道理をよく知り、煩悩の漏れを尽くすからです。

さらに、菩薩摩訶薩は色・受・想・行・識がすべて空であると観じ、一切の法を観察します。最初の学びからついに成仏に至るまで煩悩を断じ、神通をもって十方世界の名号をすべて知り、三世の諸仏の名号、仏弟子たちの名号、すべての衆生の名号、さらに衆生の煩悩の名号や解脱の名号をも知り、一念の時にすべてを同時に知り、過去世の因縁の事柄をも知ります。このとき、禅定は「十号」と名前を変えます。

さらに、菩薩摩訶薩はすべての法が本来無所有である性質を観じて、一念一心のうちにすべての修行を具足し、巧みな方便の智慧をもって、最初に発心したときから成仏の果に至るまで、大いなる仏事をなして心に執着がありません。全体の相を知る智慧も、個々の相を知る智慧も、弁説に障りがなく、神通波羅蜜を満足させ、十方のすべての仏に供養し、仏国土を清め、衆生を教化します。このとき、禅定は「般若波羅蜜」と名前を変えます。

さらに、修行者は出世間のためのゆえに、三界の九地を「八背捨」と名づけ、次第に煩悩を断じます。欲界の未到地の禅、中間禅、二禅、四禅、空処、非有想非無想処、最後に滅受想定に至るのです。欲界において五つの方便を具足します。

一つ目は、大いなる善心を起こし仏道を求めるゆえに、禅定を得ようと欲することを「善欲心」と名づけます。この善欲心は、すべての佛法を生み出し、すべての禅定に入り、すべての解脱を証し、すべての神通を起こすことができます。欲界・色界・無色界を分別し、五陰・三毒・四大・十二入・十八界・十二因縁、すべての法が無常で変化し、苦であり空であり我がないこと、またすべての法が生も滅もない真実の相、名もなく字もなく、漏れもなく作為もなく、相もなく姿もないことを覚り、諸法を明らかに知るゆえに「法智」と名づけます。

初禅に至らない未到地では金剛智を得て、煩悩を断ち諸々の解脱を証します。これを「未到地」と名づけます。初めの欲界地と未到地の二つの地は、仏道の初めの門です。禅定を得ようと欲することを「欲心」と名づけます。

次に、初夜・後夜に専ら精進して禅を学び、食事を節し心を摂め、眷属を離れ、すべての執着を断ち切ることを「精進」と名づけます。

次に、専ら初禅の楽を念じて他の念がないことを「念心」と名づけます。

次に、巧みな智慧で欲界の五欲を計り知り、それが欺き汚れたものであり、三悪道の伴であること、初禅の定楽がすべての欺きを断ち真の智慧を得て涅槃へ入る伴であることを観じることを「巧慧心」と名づけます。

次に、専ら心を一処に集中し、すべての雑念や観察を滅し、境界がすべて止み、身心が静かになることを「一心」と名づけます。

この五つの方便によって五欲の妖しい煩悩を断ち、五蓋を除き、有覚有観から離れて喜びと楽を得て初禅に入ることを「初背捨」と名づけ、二禅に入ることを「二背捨」、第三禅に入ることを「三背捨」と名づけます。喜楽の心が内に清らかになって四禅を得ることを「一切処に入る」と名づけます。

すべての色相を滅し、第四禅を捨て、有対の想いを滅して無辺の虚空処に入ることを「空一切処」と名づけ、第四背捨の虚空処定から一切識処定を得ることを「識一切処」の第五背捨と名づけます。

次に、識処定を捨て無所有処定に入ることを第六背捨と名づけ、無所有処定を捨て非有想非無想処定を得て厭離の心を生じることを第七背捨と名づけ、非有想非無想処定を捨て滅受想定に入り心に執着がないことを第八背捨と名づけます。このとき、禅波羅蜜は「八背捨」と名前を変えます。

さらに、自ら覚り他者を覚らせ、通達して障りがなく、三つの解脱を得て三界のすべての煩悩を破るゆえに、このとき禅波羅蜜は「十一智」と名前を変えます。

さらに、修行者は総持の陀羅尼を保ち、戒・定・慧の三分、八聖道によって四つの顛倒を破り四つの真諦を得るゆえに、このとき禅波羅蜜は「三十七品」と名前を変えます。すべての神通を起こすもので、いわゆる四念処・四正勤・四如意足・五根・五力・七覚分・八聖道分であり、これを大乗と名づけます。四念処の品の中で説かれるとおりです。

すべての智慧を転じ、一つの神通で一切の神通を現じ、一つの解脱で一切の解脱を作し、一つの名前や言葉を転じてすべての名前や言葉に入り、このようにすべての名前や言葉がまた一つの名前・一つの字・一つの語・一つの句に還って平等に異ならないという、この四念処の字も語も等しく、諸々の字の門に入り、すべての佛法がその中に尽きているのです。

さらに、菩薩摩訶薩は衆生を教化し清らかな歡喜と信心を生じさせようと欲するゆえに、すべての聖人とともに一つの聖なる階位の次第を建立し、衆生に大いなる歡喜を得させ、決定して疑いがないようにします。このとき、誓願をもって禅定を勤め修め、六神通を得て転輪聖王となり、五道の中に入り十方を飛行し、広く布施を行い、衣を求める者には衣を与え、食を求める者には食を与え、金銀七宝、象・馬・車乗、楼閣・宮殿、房舎・屋宅、五欲の道具、笛・琴・琵琶などの楽器や鼓楽、衆生の欲するままにすべて与え、その後、教えを説いて悟りを得させます。このように様々な法施を行うけれども、実に施す者もなく、財物もなく、説くことも示すこともなく、法を聞く者もありません。たとえば幻師が幻の人を作り、四辻の道に高い座を化作して三乗の微妙な聖法を広く説き、また四衆が集まってともに聞き受けるようにするのと同じです。この幻師のなす幻事には、色もなく心もなく、示すことも聞くこともなく、受け取ることも聞き取ることもなく、得ることもありません。このとき、禅波羅蜜は「檀波羅蜜」と名前を変えます。なぜなら、人に物を施すとき、すべての法が無所有の性質であり、施す者もなく受け取る者もなく財物の相もなく、三つのことがすべて空であると知りながらも、空であると知りつつも、勤めて布施を行うからです。

さらに、菩薩摩訶薩は、すべての法が空であり罪の相が得られないこと、戒を保つことも戒を破ることも夢や幻、影や変化、水の中の月のようであることを知りながらも、すべての法に生滅がないと知りつつも、清らかな戒を堅く保ち欠けることがなく、また戒法をもって他人に説きます。もし悪心の人が戒を受けないなら、禽獣の形を化作して人としての礼儀を行います。これを見て大いに辱めを感じ、各々善心を発し、清らかな戒を堅く保ちます。大いなる誓いを立て十方にわたって身命を顧みず戒の施しを行い、常に六道に様々な形を現じて如来の清らかな戒を広く説き、宿命の智で観察し、必ず歡喜させ瞋恚や害の心がないようにします。ただ戒法を説くだけでなく、根を摂める定共戒、道共戒、性寂戒、報寂戒も説きます。このとき、禅波羅蜜は「尸波羅蜜」と名前を変えます。

さらに、菩薩摩訶薩がこの財施・法施・戒施を行うとき、受け取る者が瞋恚してやって来て打ち叩き、手足を切り裂いても心は動かず、命を失うに至っても心は悔いません。このとき、禅定は「羼提波羅蜜」と名前を変えます。菩薩はこの甚深の禅定を行い、すべての聖行において法忍をもってするゆえに、心に執着がありません。禅定はすなわち羼提波羅蜜なのです。

さらに、菩薩が四念処を学ぶとき、四禅を得て、またこのように念じます。「私は身念処において如意神通をまだ得ていない。受念処において宿命神通をまだ得ていない。心念処を修めても他心通をまだ得ていない。十方の凡聖の心を知らないからである。法念処を修めるとき、このように思惟する。私は今、漏尽神通をまだ得ていない。身念処を修めてすべての色を観じても、清らかな天眼をまだ得ていない。受念処において因縁業報の垢浄の神通をまだ証していない。心念処において衆生の言語の三昧をまだ得ていない」と。このように念じて、精進に努めついに成就し、六神通を具足します。このとき、禅定は「精進毘梨耶波羅蜜」と名前を変えます。

さらに、菩薩は神通を起こすために禅定を修め練ります。初禅から次第に二禅・三禅・四禅・四空定、ついに滅受想定に至るまで、一心に次第に入り雑念のない心となります。このとき、禅波羅蜜は「九次第定」と名前を変えます。

さらに、菩薩が初禅に入るとき、出息入息を観じ、自分の身がすべて空寂であり色相を離れているのを見て神通を得ます。四禅に至るまで同様です。初禅に入るとき、出息入息を観じ、三世の色を微細な塵ほどのものまで見通し、障りなく見、また衆生の生死や果報の差別を見て、無量の劫を通達し障りありません。これを天眼神通と名づけ、四禅に至るまで同様です。

初禅に入るとき、息の出入りを観じ、次第に声を観じて、十方の凡聖の音声をすべて知ることを天耳神通と名づけ、四禅に至るまで同様です。

初禅に入るとき、出息入息を観じ、息を止めて奢摩他にとどまり、色の相貌を観じ、毘婆舎那でもって他者の心の相を観じ、十方の凡聖の心をよく知ることを他心知神通と名づけ、四禅に至るまで同様です。

初禅に入るとき、出息入息を観じて眼通を得、眼通を得たのちに、凝結の初めの時の五陰の生滅を観じ、無量の劫の中の五陰の生滅を観じて宿命を得ることを宿命神通と名づけ、四禅に至るまで同様です。

すべての衆生の善悪の業行の差別を観察し、その発心の早晩や悟りへの道の遠近を知り、十方三世を通達して障りないことを道種智慧神通と名づけます。このとき、禅定は「師子奮迅三昧」と名前を変えます。神通力をもって十方の仏に供養し、衆生を教化し、仏国土を清め、智恵の極みに達して十地を満足させ、身を仏のように変じて十方に満ち、仏の神通を学んでもまだ満足を得ていません。この師子奮迅三昧は、ただ諸仏だけが具足することができるのです。

さらに、菩薩は重玄の門に入り四十心を修め、凡夫の地から初めて発心するときからの禅定を、次第に再び入り、ついに最後の無垢地に至るまで諸々の禅定を修め、仏の神通と衆生を教化する法を学びます。初禅から入りついに滅受想定に至り、三禅・四禅・四空も同様で、これを「順超無礙」と名づけます。

滅受想定から散心の中に超えて住し、初禅に超入し、非有想非無想処・無所有処・識処・空処・四禅から二禅に至るまで同様、これを「逆超自在無礙」と名づけます。このとき、禅定は「超越三昧」と名前を変えます。

仏の神通を修め仏の智慧を得れば、他の五波羅蜜も同様です。一つが欠けても五波羅蜜とは名づけません。

さらに、禅定を学ぶとき四念処を修め、欲界において内外の色を観じて初背捨に入り、聞慧を具足して内外の仮の二相が得られないことを観じます。また一つの如の性質のゆえに一解脱を得ます。

次に、思慧を具足して内外の法を観察し、内外のすべての法の総相・別相・異相が得られない如のゆえに二解脱を得ます。

次に、修慧の六観を具足して色界の五陰が空であることを観じて三解脱を得ます。

次に、聞慧と修慧の巧方便の金剛智をもって四空定を破り、貪着の心がなく、五陰が空で得られないゆえに、空処の解脱を得、識処の解脱を得、無所有処の解脱を得、非有想非無想処の解脱を得、滅受想定を観じて得られないゆえにこの解脱を得ます。これを八解脱と名づけます。如の性質のゆえに、縛もなく脱もありません。菩薩はこのとき、禅波羅蜜を八解脱と名づけます。

さらに、菩薩の禅定は四念処を修めて三十七品を得て、佛法を具足します。なぜなら、この身念処は色法を観じるゆえに、一念に四念処を具足するからです。この身念処は念覚分を用いて五陰を観じるとき、すべての煩悩を断じることができるのであり、色陰を観じるとき、この身念処の不浄観の九想によって奢摩他を具足し、すべての煩悩を破ることができる。これを定と名づけます。論の偈に説かれるとおりです。

初觀身念念 繫縛心令定
亦繫縛識定 及除煩惱怨
九想舍摩他。欲界金剛定。能破五欲如縛賊。十想毘婆舍那。欲界未到地金剛智。能觀五陰。畢竟盡想。不能更生。得盡智無生智。斷一切煩惱。如意利刀。斬斷賊頭。觀色如受想行識如。深觀五陰如如性故。即無煩惱可斷。亦無解脫涅槃可證。何以故。色即是空。空即是色。受想行識即是空。空即是受想行識。空即是涅槃。涅槃即是空。煩惱即是空。空即是煩惱。智慧即是空。空即是智慧。不可以虛空斷虛空。不可以虛空證虛空。如論偈說。
觀身不淨相 真如性常定
諸受及以心 法亦如是觀
煩惱者六欲心也初死想。能斷威儀語言欲。膨脹想壞想散想。能斷形容欲。青瘀血塗想膿爛想。能斷色欲。骨想燒想。能斷細滑欲。散想滅盡想。能斷人欲。如論中說。
四蛇同一篋 六賊同一村
及王旃陀羅 分自守根門
六欲妖媚起 愛怨詐為親
聲香味觸法 六情起諸塵
貪欲如猛火 瞋恚如蛇蚖
愚癡覆心眼 智者當善觀
外想三四塊 身器二六城
中含十二穢 九孔惡露盈
癰疽蟲血雜 膨脹臭爛膿
骨鎖分離斷 六欲失姿容
九想觀成時 六賊漸已除
及識愛怨詐 兼知假實虛
四大共相依 緣習成假名
行者諦觀察 但見骨人形
初觀如珂許 後漸滿一城
骨人遍法界 深生憂厭道
從生至老死 老死復有生
轉輪十二緣 生死如循環
三塗苦難忍 人天亦復然
誰聞六道苦 而不興厭心
妄識本無體 依因寂法生
妄想生妄想 轉輪十二緣
知過二業患 現不造三因
老死更不續 反流盡生源
諸法無諍三昧法門卷上

四念處觀

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