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阿毘達磨品類足論 (阿毘達磨品類足論)

「阿毘達磨品類足論」について

唐 · 尊者世友造 著 · 底本の訳者:玄奘

11.1 万字 · 約 371 分

『アビダルマ品類足論』は、説一切有部の重要な論書の一つです。世友尊者によって著され、唐代の玄奘三蔵によって漢訳されました。世友尊者は、紀元一世紀から二世紀にかけて北インドのガンダーラ地方で活躍した、有部の四大論師の一人です。 この論は、初期アビダルマ文献に属し、分類法を用いて有部の教義を体系的に説き明かしています。五蘊、十二処、十八界といった諸法の概念や、心所法、不相応行法といった重要な教理について詳しく分析しています。 論の構成は厳密で、その教理は深遠です。説一切有部の思想を学ぶための基礎的な典籍であり、後世の『倶舎論』などの論書にも大きな影響を与えました。漢伝仏教におけるアビダルマ文献の核心をなす著作の一つです。


阿毘達磨品類足論卷第一

阿毘達磨品類足論 巻第一

尊者世友造

尊者世友による造作

三藏法師玄奘奉 詔譯

三蔵法師玄奘 奉詔訳

辯五事品第一

第一品 五事の弁別

有五法:一、色;二、心;三、心所法;四、心不相應行;五、無為。色云何?謂諸所有色,一切四大種及四大種所造色。四大種者,謂地界、水界、火界、風界。所造色者,謂眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、色、聲、香、味、所觸一分及無表色。心云何?謂心意識。此復云何?謂六識身,即眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識。心所法云何?謂若法心相應。此復云何?謂受、想、思、觸、作意、欲、勝解、念、定、慧、信、勤、尋、伺、放逸、不放逸、善根、不善根、無記根,一切結、縛、隨眠、隨煩惱、纏,諸所有智,諸所有見,諸所有現觀。復有所餘如是類法與心相應,總名心所法。心不相應行云何?謂若法心不相應。此復云何?謂得、無想定、滅定、無想事、命根、眾同分、依得、事得、處得、生、老、住、無常性、名身、句身、文身,復有所餘如是類法與心不相應,總名心不相應行。無為云何?謂三無為:一、虛空;二、非擇滅;三、擇滅。

五つの法があります。一、色。二、心。三、心所法。四、心不相応行。五、無為。

色とは何か。すべての色、すなわち、四大種と四大種によって造られた色をいいます。四大種とは、地界・水界・火界・風界のことです。造られた色とは、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根、色(視覚対象)・声・香・味、触れられるものの一部、および無表色のことです。

心とは何か。心・意・識をいいます。これはさらに何か。六つの識の集まり、すなわち眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識のことです。

心所法とは何か。心と相応する法をいいます。これはさらに何か。受・想・思・触・作意・欲・勝解・念・定・慧・信・勤・尋・伺・放逸・不放逸・善根・不善根・無記根、すべての結・縛・随眠・随煩悩・纏、すべての智、すべての見、すべての現観をいいます。さらに、このように心と相応するその他の類の法を、総称して心所法といいます。

心不相応行とは何か。心と相応しない法をいいます。これはさらに何か。得・無想定・滅定・無想事・命根・衆同分・依得・事得・処得・生・老・住・無常性・名身・句身・文身をいいます。さらに、このように心と相応しないその他の類の法を、総称して心不相応行といいます。

無為とは何か。三つの無為をいいます。一、虚空。二、非択滅。三、択滅。

地界云何?謂堅性。水界云何?謂濕性。火界云何?謂煖性。風界云何?謂輕等動性。眼根云何?謂眼識所依淨色。耳根云何?謂耳識所依淨色。鼻根云何?謂鼻識所依淨色。舌根云何?謂舌識所依淨色。身根云何?謂身識所依淨色。色云何?謂諸所有色,若好顯色、若惡顯色、若二中間,似顯處色。如是諸色二識所識,謂眼識及意識。此中一類眼識先識,眼識受已意識隨識。聲云何?此有二,謂有執受大種為因聲,及無執受大種為因聲。如是諸聲二識所識,謂耳識及意識。此中一類耳識先識,耳識受已意識隨識。香云何?謂諸所有香,若好香、若惡香、若平等香,鼻所嗅。如是諸香二識所識,謂鼻識及意識。此中一類鼻識先識,鼻識受已意識隨識。味云何?謂諸所有味,若可意、若不可意、若順捨處,舌所嘗。如是諸味二識所識,謂舌識及意識。此中一類舌識先識,舌識受已意識隨識。所觸一分云何?謂滑性、澁性、輕性、重性、冷飢渴性,身所觸。如是諸觸及四大種,二識所識,謂身識及意識。此中一類身識先識,身識受已意識隨識。無表色云何?謂法處所攝色。此及五色根,於一切時一識所識,謂意識。

地界とは何ですか。それは堅固な性質のことです。 水界とは何ですか。それは湿潤な性質のことです。 火界とは何ですか。それは温熱な性質のことです。 風界とは何ですか。それは軽やかで動く性質などのことです。

眼根とは何ですか。それは眼識が依りどころとする清らかな色のことです。 耳根とは何ですか。それは耳識が依りどころとする清らかな色のことです。 鼻根とは何ですか。それは鼻識が依りどころとする清らかな色のことです。 舌根とは何ですか。それは舌識が依りどころとする清らかな色のことです。 身根とは何ですか。それは身識が依りどころとする清らかな色のことです。

色とは何ですか。それはあらゆる色のことです。良い顕色も、悪い顕色も、その中間も、すべて顕現する場所の色のようなものです。 このような諸々の色は、二つの識によって認識されます。眼識と意識です。 このうち、ある種類の色はまず眼識が認識し、眼識が受け取った後、意識が続けて認識します。

声とは何ですか。これには二種類あります。執受のある大種を原因とする声と、執受のない大種を原因とする声です。 このような諸々の声は、二つの識によって認識されます。耳識と意識です。 このうち、ある種類の声はまず耳識が認識し、耳識が受け取った後、意識が続けて認識します。

香とは何ですか。それはあらゆる香りのことです。良い香りも、悪い香りも、どちらでもない香りも、鼻が嗅ぐものです。 このような諸々の香りは、二つの識によって認識されます。鼻識と意識です。 このうち、ある種類の香りはまず鼻識が認識し、鼻識が受け取った後、意識が続けて認識します。

味とは何ですか。それはあらゆる味わいのことです。好ましい味も、好ましくない味も、捨てるべき味も、舌が味わうものです。 このような諸々の味わいは、二つの識によって認識されます。舌識と意識です。 このうち、ある種類の味わいはまず舌識が認識し、舌識が受け取った後、意識が続けて認識します。

所触の一分とは何ですか。それは滑らかさ、粗さ、軽さ、重さ、冷たさ、飢え、渇きなどの性質で、身体が触れるものです。 このような諸々の触と四大種は、二つの識によって認識されます。身識と意識です。 このうち、ある種類の触はまず身識が認識し、身識が受け取った後、意識が続けて認識します。

無表色とは何ですか。それは法処に含まれる色のことです。 これと五つの色根は、常に一つの識によって認識されます。つまり意識です。

眼識云何?謂依眼根各了別色。耳識云何?謂依耳根各了別聲。鼻識云何?謂依鼻根各了別香。舌識云何?謂依舌根各了別味。身識云何?謂依身根各了別所觸。意識云何?謂依意根了別諸法。

眼識とは何ですか?眼の働きによって、色をそれぞれ識別することをいいます。 耳識とは何ですか?耳の働きによって、音をそれぞれ識別することをいいます。 鼻識とは何ですか?鼻の働きによって、香りをそれぞれ識別することをいいます。 舌識とは何ですか?舌の働きによって、味をそれぞれ識別することをいいます。 身識とは何ですか?身体の働きによって、触れるものをそれぞれ識別することをいいます。 意識とは何ですか?心の働きによって、あらゆる事柄を識別することをいいます。

受云何?謂領納性。此有三種,謂樂受、苦受、不苦不樂受。想云何?謂取像性。此有三種,謂小想、大想、無量想。思云何?謂心造作性,即是意業。此有三種,謂善思、不善思、無記思。觸云何?謂三和合性。此有三種,謂順樂受觸、順苦受觸、順不苦不樂受觸。作意云何?謂心警覺性。此有三種,謂學作意、無學作意、非學非無學作意。欲云何?謂樂作性。勝解云何?謂心正勝解、已勝解、當勝解性。念云何?謂心明記性。定云何?謂心一境性。慧云何?謂心擇法性。信云何?謂心澄淨性。勤云何?謂心勇悍性。尋云何?謂心麁動性。伺云何?謂心細動性。放逸云何?謂不修善法性。不放逸云何?謂修善法性。善根云何?謂三善根,即無貪善根、無瞋善根、無癡善根。不善根云何?謂三不善根,即貪不善根、瞋不善根、癡不善根。無記根云何?謂四無記根,即無記愛、無記見、無記慢、無記無明。

受とは何か。それは感受する性質である。これには三種類あり、楽受、苦受、不苦不楽受という。

想とは何か。それは像をとらえる性質である。これには三種類あり、小想、大想、無量想という。

思とは何か。それは心が造作する性質であり、すなわち意業である。これには三種類あり、善思、不善思、無記思という。

触とは何か。それは三つの和合する性質である。これには三種類あり、順楽受触、順苦受触、順不苦不楽受触という。

作意とは何か。それは心が警覚する性質である。これには三種類あり、学作意、無学作意、非学非無学作意という。

欲とは何か。それは行うことを好む性質である。

勝解とは何か。それは心が正しく勝解し、すでに勝解し、これから勝解する性質である。

念とは何か。それは心が明らかに記憶する性質である。

定とは何か。それは心が一つの対象に集中する性質である。

慧とは何か。それは心が法を選択する性質である。

信とは何か。それは心が澄みきっている性質である。

勤とは何か。それは心が勇ましく果敢である性質である。

尋とは何か。それは心が粗く動く性質である。

伺とは何か。それは心が細かく動く性質である。

放逸とは何か。それは善い法を修めない性質である。

不放逸とは何か。それは善い法を修める性質である。

善根とは何か。それは三つの善根であり、すなわち無貪善根、無瞋善根、無痴善根である。

不善根とは何か。それは三つの不善根であり、すなわち貪不善根、瞋不善根、痴不善根である。

無記根とは何か。それは四つの無記根であり、すなわち無記愛、無記見、無記慢、無記無明である。

結有九種,謂愛結、恚結、慢結、無明結、見結、取結、疑結、嫉結、慳結。愛結云何?謂三界貪。恚結云何?謂於有情能為損害。慢結云何?謂七慢類,即慢、過慢、慢過慢、我慢、增上慢、卑慢、邪慢。慢者,於劣謂己勝、或於等謂己等,由此正慢已慢當慢,心高舉、心恃篾。過慢者,於等謂己勝、或於勝謂己等,由此正慢已慢當慢,心高舉、心恃篾。慢過慢者,於勝謂己勝,由此正慢已慢當慢,心高舉、心恃篾。我慢者,於五取蘊等隨觀執我或我所,由此正慢已慢當慢,心高舉、心恃篾。增上慢者,於所未得上勝證法謂我已得、於所未至上勝證法謂我已至、於所未觸上勝證法謂我已觸、於所未證上勝證法謂我已證,由此正慢已慢當慢,心高舉、心恃篾。卑慢者,於他多勝謂自少劣,由此正慢已慢當慢,心高舉、心恃篾。邪慢者,於實無德謂我有德,由此正慢已慢當慢,心高舉、心恃篾。無明結云何?謂三界無智。見結云何?謂三見,即有身見、邊執見、邪見。有身見者,於五取蘊等隨觀執我或我所,由此起忍樂慧觀見。邊執見者,於五取蘊等隨觀執或斷或常,由此起忍樂慧觀見。邪見者,謗因謗果、或謗作用、或壞實事,由此起忍樂慧觀見。取結云何?謂二取,即見取、戒禁取。見取者,於五取蘊等隨觀執為最為勝、為上為極,由此起忍樂慧觀見。戒禁取者,於五取蘊等隨觀執為能清淨、為能解脫、為能出離,由此起忍樂慧觀見。疑結云何?謂於諦猶豫。嫉結云何?謂心妬忌。慳結云何?謂心鄙悋。縛云何?謂諸結亦名縛。復有三縛,謂貪縛、瞋縛、癡縛。隨眠有七種,謂欲貪隨眠、瞋隨眠、有貪隨眠、慢隨眠、無明隨眠、見隨眠、疑隨眠。欲貪隨眠有五種,謂欲界繫見苦集滅道、修所斷貪。瞋隨眠有五種,謂見苦集滅道、修所斷瞋。有貪隨眠有十種,謂色界繫五,無色界繫五。色界繫五者,謂色界繫見苦集滅道、修所斷貪。無色界繫五亦爾。慢隨眠有十五種,謂欲界繫五,色界繫五,無色界繫五。欲界繫五者,謂欲界繫見苦集滅道、修所斷慢。色無色界繫各五亦爾。無明隨眠有十五種,謂欲界繫五,色界繫五,無色界繫五。欲界繫五者,謂欲界繫見苦集滅道、修所斷無明。色無色界繫各五亦爾。見隨眠有三十六種,謂欲界繫十二,色界繫十二,無色界繫十二。欲界繫十二者,謂欲界繫有身見、邊執見,見苦道所斷邪見、見取、戒禁取,見集滅所斷邪見、見取。色無色界繫各十二亦爾。疑隨眠有十二種,謂欲界繫四,色界繫四,無色界繫四。欲界繫四者,謂欲界繫見苦集滅道所斷疑。色無色界繫各四亦爾。隨煩惱云何?謂諸隨眠亦名隨煩惱。有隨煩惱不名隨眠,謂除隨眠諸餘染污行蘊心所。纏有八種,謂惛沈、掉舉、睡眠、惡作、嫉、慳、無慚、無愧。

結には九種類があります。すなわち、愛結(あいけつ)、恚結(いけつ)、慢結(まんけつ)、無明結(むみょうけつ)、見結(けんけつ)、取結(しゅけつ)、疑結(ぎけつ)、嫉結(しつけつ)、慳結(けんけつ)です。

愛結とは何でしょうか。それは、欲界・色界・無色界の三界に対する貪りのことです。 恚結とは何でしょうか。それは、生きとし生けるものに対して害をなす心のことです。 慢結とは何でしょうか。それは、七種類の慢のことです。すなわち、慢(まん)、過慢(かまん)、慢過慢(まんかまん)、我慢(がまん)、増上慢(ぞうじょうまん)、卑慢(ひまん)、邪慢(じゃまん)です。

「慢」とは、自分より劣る者に対して自分が勝っていると思うこと、あるいは自分と同等の者に対して自分も同等だと思うことです。これによって、今現在も、過去にも、未来にも、慢が生じ、心が高ぶり、他者を軽蔑して依りどころとする心です。 「過慢」とは、自分と同等の者に対して自分が勝っていると思うこと、あるいは自分より勝る者に対して自分も同等だと思うことです。これによって、今現在も、過去にも、未来にも、慢が生じ、心が高ぶり、他者を軽蔑して依りどころとする心です。 「慢過慢」とは、自分より勝る者に対して自分が勝っていると思うことです。これによって、今現在も、過去にも、未来にも、慢が生じ、心が高ぶり、他者を軽蔑して依りどころとする心です。 「我慢」とは、五つの執着の集まり(五取蘊)に対して、あれこれと観察し、それらを「私」や「私のもの」と執着することです。これによって、今現在も、過去にも、未来にも、慢が生じ、心が高ぶり、他者を軽蔑して依りどころとする心です。 「増上慢」とは、まだ得ていない優れた悟りの境地を「私はすでに得た」と思い、まだ至っていない優れた悟りの境地を「私はすでに至った」と思い、まだ触れていない優れた悟りの境地を「私はすでに触れた」と思い、まだ証していない優れた悟りの境地を「私はすでに証した」と思うことです。これによって、今現在も、過去にも、未来にも、慢が生じ、心が高ぶり、他者を軽蔑して依りどころとする心です。 「卑慢」とは、自分よりはるかに勝る他者に対して、自分は少しだけ劣っていると思うことです。これによって、今現在も、過去にも、未来にも、慢が生じ、心が高ぶり、他者を軽蔑して依りどころとする心です。 「邪慢」とは、実際には徳がないのに「私には徳がある」と思うことです。これによって、今現在も、過去にも、未来にも、慢が生じ、心が高ぶり、他者を軽蔑して依りどころとする心です。

無明結とは何でしょうか。それは、三界における無知、智慧がないことです。 見結とは何でしょうか。それは、三つの誤った見解のことです。すなわち、有身見(うしんけん)、辺執見(へんしゅうけん)、邪見(じゃけん)です。 「有身見」とは、五つの執着の集まり(五取蘊)に対して、あれこれと観察し、それらを「私」や「私のもの」と執着することです。これによって、その見解を認め、楽しみ、智慧と思い込み、観察し、固執します。 「辺執見」とは、五つの執着の集まり(五取蘊)に対して、あれこれと観察し、それらを「断滅するもの」か「永遠不変のもの」かのどちらか一方に執着することです。これによって、その見解を認め、楽しみ、智慧と思い込み、観察し、固執します。 「邪見」とは、原因を否定し結果を否定すること、あるいは行為の作用を否定すること、あるいは真実の事柄を壊すことです。これによって、その見解を認め、楽しみ、智慧と思い込み、観察し、固執します。

取結とは何でしょうか。それは、二つの執取のことです。すなわち、見取(けんしゅ)と戒禁取(かいごんしゅ)です。 「見取」とは、五つの執着の集まり(五取蘊)に対して、あれこれと観察し、それらを「最も優れたもの」「最高のもの」「至上のもの」「究極のもの」と執着することです。これによって、その見解を認め、楽しみ、智慧と思い込み、観察し、固執します。 「戒禁取」とは、五つの執着の集まり(五取蘊)に対して、あれこれと観察し、それらを「清らかにするもの」「解脱をもたらすもの」「苦しみから出離させるもの」と執着することです。これによって、その見解を認め、楽しみ、智慧と思い込み、観察し、固執します。

疑結とは何でしょうか。それは、真理について迷い、ためらうことです。 嫉結とは何でしょうか。それは、心が嫉み、ねたむことです。 慳結とは何でしょうか。それは、心がけちで、物惜しみすることです。

「縛」とは何でしょうか。それは、先に述べた諸々の「結」もまた「縛」と呼ばれるものです。さらに三つの縛があります。すなわち、貪りの縛、瞋りの縛、愚かさの縛です。

「随眠」には七種類あります。すなわち、欲貪随眠(よくとんずいみん)、瞋随眠(しんずいみん)、有貪随眠(うとんずいみん)、慢随眠(まんずいみん)、無明随眠(むみょうずいみん)、見随眠(けんずいみん)、疑随眠(ぎずいみん)です。

欲貪随眠には五種類あります。すなわち、欲界に繋がれている、苦諦・集諦・滅諦・道諦についての「見惑」によって断じられる貪りと、修行によって断じられる貪りです。 瞋随眠には五種類あります。すなわち、苦諦・集諦・滅諦・道諦についての「見惑」によって断じられる瞋りと、修行によって断じられる瞋りです。 有貪随眠には十種類あります。すなわち、色界に繋がれている五種類と、無色界に繋がれている五種類です。 色界に繋がれている五種類とは、色界に繋がれている、苦諦・集諦・滅諦・道諦についての「見惑」によって断じられる貪りと、修行によって断じられる貪りです。 無色界に繋がれている五種類も同様です。

慢随眠には十五種類あります。すなわち、欲界に繋がれている五種類、色界に繋がれている五種類、無色界に繋がれている五種類です。 欲界に繋がれている五種類とは、欲界に繋がれている、苦諦・集諦・滅諦・道諦についての「見惑」によって断じられる慢と、修行によって断じられる慢です。 色界・無色界にそれぞれ繋がれている五種類も同様です。

無明随眠には十五種類あります。すなわち、欲界に繋がれている五種類、色界に繋がれている五種類、無色界に繋がれている五種類です。 欲界に繋がれている五種類とは、欲界に繋がれている、苦諦・集諦・滅諦・道諦についての「見惑」によって断じられる無明と、修行によって断じられる無明です。 色界・無色界にそれぞれ繋がれている五種類も同様です。

見随眠には三十六種類あります。すなわち、欲界に繋がれている十二種類、色界に繋がれている十二種類、無色界に繋がれている十二種類です。 欲界に繋がれている十二種類とは、欲界に繋がれている有身見と辺執見、苦諦・道諦についての「見惑」によって断じられる邪見・見取・戒禁取、集諦・滅諦についての「見惑」によって断じられる邪見・見取です。 色界・無色界にそれぞれ繋がれている十二種類も同様です。

疑随眠には十二種類あります。すなわち

諸所有智者,有十智,謂法智、類智、他心智、世俗智、苦智、集智、滅智、道智、盡智、無生智。法智云何?謂緣欲界繫諸行諸行因諸行滅諸行能斷道諸無漏智。復有緣法智及法智地諸無漏智亦名法智。類智云何?謂緣色無色界繫諸行諸行因諸行滅諸行能斷道諸無漏智。復有緣類智及類智地諸無漏智亦名類智。他心智云何?謂若智修所成,是修果依止,修已得不失智,欲色界繫和合現前他心心所及一分無漏他心心所,皆名他心智。世俗智云何?謂諸有漏慧。苦智云何?謂於五取蘊思惟非常、苦、空、非我所起無漏智。集智云何?謂於有漏因思惟因、集、生、緣所起無漏智。滅智云何?謂於擇滅思惟滅、靜、妙、離所起無漏智。道智云何?謂於聖道思惟道、如、行、出所起無漏智。盡智云何?謂自遍知,我已知苦、我已斷集、我已證滅、我已修道,由此而起智見明覺、解慧光觀,皆名盡智。無生智云何?謂自遍知,我已知苦不復當知、我已斷集不復當斷、我已證滅不復當證、我已修道不復當修,由此而起智見明覺、解慧光觀,皆名無生智。諸所有見者,且諸智亦名見。有見非智,謂八現觀邊忍。一苦法智忍;二苦類智忍;三集法智忍;四集類智忍;五滅法智忍;六滅類智忍;七道法智忍;八道類智忍。諸所有現觀者,若智若見俱名現觀。

あらゆる智慧ある者には、十種の智慧があります。すなわち、法智、類智、他心智、世俗智、苦智、集智、滅智、道智、尽智、無生智です。

法智とは何か。欲界に属する諸々の行(作用)、行の原因、行の消滅、行を断つ道に関する、無漏の智慧をいいます。また、法智そのものや法智の境地に関する無漏の智慧も、法智と名づけます。

類智とは何か。色界・無色界に属する諸々の行、行の原因、行の消滅、行を断つ道に関する、無漏の智慧をいいます。また、類智そのものや類智の境地に関する無漏の智慧も、類智と名づけます。

他心智とは何か。修行によって成就され、修行の果として得られ、修行を経て獲得して失わない智慧で、欲界・色界に属する目前の他者の心と心所、以及び一部の無漏の他者の心と心所を了知するものを、他心智と名づけます。

世俗智とは何か。有漏の智慧全般をいいます。

苦智とは何か。五取蘊について、「無常」「苦」「空」「非我」と観察することから生じる、無漏の智慧をいいます。

集智とは何か。有漏の原因について、「因」「集」「生」「縁」と観察することから生じる、無漏の智慧をいいます。

滅智とは何か。択滅について、「滅」「静」「妙」「離」と観察することから生じる、無漏の智慧をいいます。

道智とは何か。聖なる道について、「道」「如」「行」「出」と観察することから生じる、無漏の智慧をいいます。

尽智とは何か。自らが完全に知って、「私はすでに苦を知った」「私はすでに集を断った」「私はすでに滅を証した」「私はすでに道を修めた」と了知することにより生じる、智慧、見、明、覚、解、慧、光、観を、すべて尽智と名づけます。

無生智とは何か。自らが完全に知って、「私はすでに苦を知ったゆえに、もはや知るべきものはない」「私はすでに集を断ったゆえに、もはや断つべきものはない」「私はすでに滅を証したゆえに、もはや証すべきものはない」「私はすでに道を修めたゆえに、もはや修めるべきものはない」と了知することにより生じる、智慧、見、明、覚、解、慧、光、観を、すべて無生智と名づけます。

あらゆる「見」について言えば、智慧はすべて「見」とも呼ばれます。しかし「見」であっても智慧ではないものがあります。それは、八つの現観(さとりの直観)における忍です。すなわち、一、苦法智忍、二、苦類智忍、三、集法智忍、四、集類智忍、五、滅法智忍、六、滅類智忍、七、道法智忍、八、道類智忍です。

あらゆる現観について言えば、智慧も見も、ともに現観と名づけられます。

得云何?謂得諸法。無想定云何?謂已離遍淨染、未離上染,出離想作意,為先心心所滅。滅定云何?謂已離無所有處染,止息想作意,為先心心所滅。無想事云何?謂生無想有情天中心心所滅。命根云何?謂三界壽。眾同分云何?謂有情同類性。依得云何?謂得所依。處事得云何?謂得諸蘊。處得云何?謂得內外處。生云何?謂令諸蘊起。老云何?謂令諸蘊熟。住云何?謂令已生諸行不壞。無常云何?謂令已生諸行滅壞。名身云何?謂增語。句身云何?謂字滿。文身云何?謂字眾。虛空云何?謂體空虛,寬曠無礙,不障色行。非擇滅云何?謂滅非離繫。擇滅云何?謂滅是離繫。

得とは何か。それは諸法を得ることである。 無想定とは何か。遍浄天の染汚を既に離れたが、それより上の天の染汚は未だ離れていない者が、出離の想いを作意して、まず心と心所を滅させることである。 滅尽定とは何か。無所有処の染汚を既に離れた者が、止息の想いを作意して、まず心と心所を滅させることである。 無想事とは何か。無想有情の天に生まれた者の心と心所が滅することである。 命根とは何か。三界における寿命のことである。 衆同分とは何か。有情たちの同類性のことである。 依得とは何か。得のよりどころとなるものである。 処事得とは何か。諸々の蘊を得ることである。 処得とは何か。内外の処を得ることである。 生とは何か。諸々の蘊を生じさせることである。 老とは何か。諸々の蘊を成熟させることである。 住とは何か。既に生じた諸行が壊れないようにすることである。 無常とは何か。既に生じた諸行を滅ぼし壊すことである。 名身とは何か。言葉の集まりである。 句身とは何か。言葉を完全にしたものである。 文身とは何か。文字の集まりである。 虚空とは何か。その体は虚ろで空しく、広く開けて妨げがなく、色や動作を妨げないものである。 非択滅とは何か。滅ではあるが、繋がりを離れたもの(離繋)ではないことである。 択滅とは何か。滅であり、かつ離繋であることである。


2 辯諸智品

CBETA コード: T1542

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