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大哀経 (大哀經)


大哀經道慧品第八

大哀経 道慧品 第八

佛告總𠢕王菩薩言:「又,族姓子!菩薩之業不可稱載。所以者何?計如眾生貪欲諍門,菩薩修業積功累德,合集眾行至初法門。正使,族姓子!江河沙等諸佛世界滿中眾生,皆令成立聲聞、緣覺,悉令此等一切眾生所立善業,不如發意菩薩功勳,百倍、千倍、萬倍、億倍、巨億萬倍,不任為喻。所以者何?自斷本性所習塵欲,聲聞、緣覺住於緣合,菩薩大士蠲除一切眾生塵勞所住緣合故。族姓子!一切眾生所可造業,聲聞、緣覺所立德本,比菩薩業為尊、為最、無有儔匹。所以者何?凡夫愚人習從顛倒不順之業,聲聞、緣覺亦隨緣習,菩薩業者有顛倒功勳無量。以是之故,菩薩大士過於眾生,越於聲聞、緣覺之上。」

仏が総𠢕王菩薩に告げられました。「また、族姓子よ、菩薩の業は称え尽くすことができません。なぜでしょうか。衆生の貪欲や諍いの門は数えきれないほどですが、菩薩は業を修め功を積み徳を重ね、あらゆる行を集め合わせて初めの法門に至ります。族姓子よ、たとえガンジス川の砂の数ほどの諸仏の世界に満ちるすべての衆生を、皆ことごとく声聞や縁覚として成り立たせ、このすべての衆生が立てた善業を合わせても、発心した菩薩の功徳には及びません。百倍、千倍、万倍、億倍、巨億万倍ですら、たとえようもありません。なぜでしょうか。声聞や縁覚は自らの本性が習いとしてきた塵の欲望を断ち、縁の合わさったところに安住していますが、菩薩大士は一切衆生の塵労の住むところの縁の合わさったものをことごとく除くからです。族姓子よ、一切衆生が造る業も、声聞や縁覚が築いた徳の根本も、菩薩の業に比べれば尊いものではなく、最上のものでもなく、並ぶものはありません。なぜでしょうか。凡夫の愚かな人々は顛倒に従い、道理に従わない業を習います。声聞や縁覚もまた縁に従って習いますが、菩薩の業には顛倒の功徳が無量にあります。このため、菩薩大士は衆生を超え、声聞や縁覚の上に出るのです。」

於時,總𠢕王菩薩聞佛所說,歡喜踊躍,善心生焉,勸助讚善:「世尊所演至未曾有,難及難及。如來乃宣菩薩莊嚴、菩薩光明、菩薩大哀、菩薩化業。唯願世尊、如來、至真垂恩廣覆,重復解說,何因諸佛而於眾生興立大哀?大哀何所比像?其事云何以比之?瑞應云何住在何所?諸佛世尊造業云何?善哉,世尊!如來皆知亦能普見,於諸所造業而覩悉達,惟為我等而分別說。」

そのとき、総𠢕王菩薩は、仏がお説きになったことを聞いて、歓喜して踊り上がり、善い心が起こりました。そして、これを勧め、称賛してこう申し上げました。「世尊が示された教えは、まことに未曾有であり、及ぶことの難しいもの、まことに及ぶことの難しいものでございます。如来は、まさに菩薩の荘厳、菩薩の光明、菩薩の大哀、菩薩の化業をお説きになりました。どうか世尊、如来、至真よ、恩を垂れて広く覆い、重ねてお説きください。どのような因によって、諸仏は衆生に対して大哀をお起こしになるのでしょうか。大哀は何にたとえられるものなのでしょうか。そのことのありようを、どのようにたとえればよいのでしょうか。瑞応はどのようにして、どこに住するのでしょうか。諸仏世尊はどのように業を造られるのでしょうか。善いかな、世尊。如来はすべてをご存じであり、また普らかにご覧になることができ、あらゆる造られた業について、ことごとく見きわめておられます。どうか私たちのために、これを区別して説いてください。」

佛告總𠢕王菩薩:「諦聽善思,如來當說如來大哀、如來造業,所可斑宣。族姓子知!諸佛世尊不興大哀亦不奉行也。所以者何?諸佛世尊常加大哀不捨眾生,從無數功積累已成。猶是之故,不行退轉、不捨眾生,是則名曰如來大哀。其哀無量,不可稱計、難不可當、無可容處、從始至終無能稱載。所以者何?如來得道,常懷大哀愍於眾生,如其佛道,大哀亦如是。

仏は総𠢕王菩薩に告げられました。「よく聴き、よく思惟しなさい。如来が如来の大哀と、如来の造業について、広く説くことにしましょう。族姓子よ、知りなさい。諸仏世尊は大哀を起こさないのではなく、また実践しないのでもありません。なぜでしょうか。諸仏世尊は常に大哀を加え、衆生を捨てることがありません。それは無数の功徳を積み重ねてすでに完成されているからです。それゆえに、退転することなく、衆生を捨てることもないのです。これこそが如来の大哀と名づけられます。その哀しみは無量であり、称えて数えることができず、比べようもなく、測り知ることもできず、始めから終わりまで誰もその全体を述べ尽くすことはできません。なぜでしょうか。如来は道を得てから、常に大哀を懐き、衆生を憐れんでおられます。その仏の道がそうであるように、大哀もまたそのとおりなのです。」

「何謂如來得至佛道?無本、無住乃致大道。於彼何謂而住於本?已計身本,立在不誠思想之源。以是之故,如來隨時合成於道,名曰無本,亦無所住。以是,如來成最正覺,因此達知一切眾生無住、無本。解其所處,當為宣傳如此之誼,令其曉了,以故如來於諸眾生常懷大哀。

「如来が仏道に至るとは、どういうことでしょうか。無本・無住にして、はじめて大道に達するのです。そこにおいて、どうして本(もと)に住むことになるのでしょうか。すでに身の本を計らい、不誠なる思想の源に立っているからです。こうした理由から、如来は時に応じて道を成就され、それを無本ともいい、また無所住ともいうのです。これによって、如来は最正覚を成じ、そのゆえに一切の衆生が無住・無本であることを達知されます。その在りかたを理解して、このような道理を宣べ伝え、人々にさとらせるべきです。それゆえに、如来はすべての衆生に対して、常に大いなる哀れみを抱いておられるのです。」

「又,族姓子!道者寂然,亦復澹泊。何謂寂然?云何澹泊?於內寂然,於外澹泊。所以者何?其眼者空,察無吾我,亦無所受;眼、耳、鼻、口、身、心亦復空耳,亦無吾我、亦無所受,是為眼空,識別除此不為色逸,是謂寂然;耳、鼻、口、身、意亦復空耳,識別除此不為諸法所見驅使,是謂憺怕。眾生之類不能曉了此寂憺怕,使明識斯,以故如來於諸眾生而懷大哀。

また、族姓子よ、道とは寂然であり、また澹泊でもあります。寂然とは何でしょうか。澹泊とは何でしょうか。内に寂然であり、外に澹泊であります。なぜでしょうか。眼は空であり、我もなく我に属するものもなく、受けるところもないと見るからです。耳・鼻・口・身・心もまた同じく空であり、我もなく我に属するものもなく、受けるところもありません。これが眼の空であります。識別して、これによって色に逸らされることがないのを、寂然といいます。耳・鼻・口・身・意もまた同じく空であり、識別して、これによって諸法に見られることに駆り立てられることがないのを、澹泊といいます。衆生の類はこの寂然と澹泊を理解することができません。そこで明らかにこれを識る者となるために、如来はすべての衆生に対して大きな哀れみを抱かれるのです。

「又,族姓子!道者本淨亦復顯曜。所謂淨者,心本清淨。何謂言曰其本清淨亦復顯曜?所謂淨者,無所著故亦無所犯,等如虛空。空本淨故與空合同,等如虛空故曰空等聚;究竟本淨又極顯曜,以故名曰本淨顯曜。愚癡凡夫不覺其實,反為客塵而見染污,吾當解彼本淨顯曜。是故,如來於諸眾生而懷大哀。

また、族姓子よ、道は本淨であり、また顕曜でもあります。いわゆる淨とは、心が本来自分から清浄であるということです。どうして「その本淨はまた顕曜である」と言うのでしょうか。いわゆる淨とは、執着するところがないからこそ犯すところもなく、平等にして虚空のようです。空は本淨であるから空と合同し、平等にして虚空のようであるから空等聚と言います。究竟して本淨であり、また極めて顕曜であるから、本淨顕曜と名づけるのです。愚癡の凡夫はその実を覚らず、かえって客塵によって汚れていると見ています。私はその本淨顕曜を解き明かしましょう。それゆえ、如来はすべての衆生に対して大きな哀れみを抱かれるのです。

「又,族姓子!道無精進亦無不精進。何謂無精進亦無不精進?攝一切法是則名曰為無精進;已能受習一切法者,如來于彼亦無精進、亦無不進,則度諸瀆。又,如來者,於流諸彼不見此跡彼岸,以故名曰離此彼中。如來至真皆解諸法故成正覺,由是名曰為如來也。是無精進亦無不精進,愚戇凡夫亦不曉了,吾當斑宣令解其意,是故如來於諸眾生而懷大哀。

また、族姓子よ、道には精進もなく、また精進でないこともありません。精進もなく精進でないとも言えないとは何でしょうか。すべての法を摂め収めること、これを無精進と名づけるのです。すでにすべての法を受けて習うことができる者に対し、如来はそこにおいても精進せず、また進まないこともありません。すなわち諸々の流れを渡るのです。また、如来は流れの中にあっても、その彼岸にこの迹を見ることはありません。それゆえに「此彼を離れた中」と名づけるのです。如来・至真はことごとく諸法を解したゆえに正覚を成じました。これによって如来と名づけるのです。この無精進にしてまた無不精進のことを、愚かな凡夫は理解することができません。私はこれをあまねく説き示して、その意味を理解させたいと思います。それゆえに如来はすべての衆生に対して大きな哀れみを抱かれるのです。

「又,族姓子!道者無想亦無因緣。何謂無想亦無因緣?其眼於識而無所得。其無想者,不見諸色則無因緣;耳、鼻、口、身、意亦復如是,亦無所得、亦無思想。不見諸法則無因緣,是無想無緣為賢聖行。何謂聖行?其於三界而無所行是賢聖行,其此無行為賢聖行。愚戇凡夫不能曉了此賢聖行,吾當開悟使分別此,是故如來於諸眾生而懷大哀。

また、族姓子よ、道とは無想であり、また因縁もありません。無想でありまた因縁もないとは何でしょうか。その眼は識に対して何も得るところがありません。無想であるとは、諸々の色を見ないので因縁がないということです。耳・鼻・口・身・意もまた同じで、何も得るところがなく、また思想もありません。諸々の法を見ないので因縁がないのです。これが無想・無縁であり、賢聖の行です。聖行とは何でしょうか。三界において行じるところのないこと、これが賢聖の行です。この無行こそが賢聖の行です。愚かな凡夫はこの賢聖の行を理解することができません。そこで如来はこれを開悟し、よく分別させるために、すべての衆生に対して大きな哀れみを抱かれるのです。

「又,族姓子!道者無往、無來、現在,等於三世斷於三場。何謂三場?其心不退遊於過去、亦不馳騁於當來慧、亦不退念於現在事,於心意識而無所住。不想過去、不念當來、不戲現在,等於此三則淨三場。愚癡凡夫不能曉了此賢聖行,吾當開悟使分別此,是故如來於諸眾生而懷大哀。

また、族姓子よ、道とは、行くこともなく、来ることもなく、現在にあるのでもなく、三世に等しく、三場を断じるものです。三場とは何でしょうか。その心が過去に戻って遊ぶことなく、また未来の慧に馳せ巡ることもなく、また現在の事に念を戻すこともなく、心・意・識にいかなる住まいも持たないことです。過去を想わず、未来を念じず、現在にも戯れず、この三つに等しいとき、すなわち三場が清らかになるのです。

愚かな凡夫はこの賢聖の行いを理解することができません。私はこれを開悟して、それぞれに弁別させたいと思います。それゆえに、如来はすべての衆生に対して大きな哀れみを抱かれるのです。

「又,族姓子!道者無身亦復無數、亦無明識、亦無耳、鼻、口、身、意、識;所識者,無為、無數。所謂無為,不起、不壞、亦無處所,是則名曰離於三相。是以無為如其無為,解了有為亦復俱然。所以者何?一切所有皆為自然、悉無所有,其無所有彼則無二。以故,無身亦復無為。愚戇凡夫不能曉了,吾當開悟使分別此,是故如來於諸眾生而懷大哀。

また、族姓子よ、道とは身体もなく数もなく、明らかな識もなく、耳・鼻・口・身・意・識もありません。識られるものもまた、無為であり数もありません。いわゆる無為とは、起こることも壊れることもなく、またとどまる場所もなく、これを名づけて三相を離れたものといいます。ですから無為がそのまま無為であるように、有為を悟ることもまた同じです。なぜでしょうか。すべて存在するものはみな自然であり、ことごとく所有がないからです。その所有がないものは、すなわち二つではありません。それゆえ身体もなく、また無為でもあるのです。愚かな凡夫はこれを理解することができません。私が開悟させて、これを分別できるようにいたしましょう。それゆえ如来はすべての衆生に対して大きな哀れみを抱かれるのです。

「又,族姓子!道者無所壞跡。何謂為跡?何謂無壞?無本為跡,其無所住曰無所壞;界則為跡,無我無壞;本際為跡,無動無壞;空則為跡,無獲無壞;無想為跡,無念無壞;無願為跡,無處無壞;泥洹為跡,無毀無壞。是無壞跡,愚戇凡夫不能曉了,吾當開悟使分別此,是故如來於諸眾生而懷大哀。
「又,族姓子!道不從身而成正覺,亦不從心。所以者何?身者愚騃,如草木、牆壁、瓦石、影譬;心者如幻。其以身、心覺了如此,是名曰道。假有言辭而言興盛,又其道者無有言辭,亦無身、心。法與非法,無道、不道,無誠、無欺。所以者何?道者無言。於一切法而無有道,何所是處?其於言辭而無所說,猶如虛空無有處所,亦無所住、無有言辭;道亦如茲,則無所住亦無文辭。如是,其於諸法審實求道則無文辭,法亦無言。若能曉了諸法無言,是為諸法之所生也。愚戇凡夫未能曉了,吾當開悟使分別此,是故如來於諸眾生而懷大哀。
「又,族姓子!道者無取亦無所依。何謂無取而無所依?斷於眼識而不受色,亦無所得;不依耳、鼻、身、口、意,斷無識者亦無所受、亦無所得。諸法無獲是謂無依,如來以此無受、無依懷來於道致最正覺。眼於受色不以為依,識不退從;耳聲、鼻香、口味、身更、意法亦無所依,識不退從。已不住識,則能分別此一切眾生心之所處。何謂眾生心之所處?眾生心處則有四事。何謂為四?一曰、色心之處,二曰、痛痒,三曰、思想,四曰、生死之處所。彼於處所而無所住,如來明此於無住際。愚戇凡夫不能曉了,吾當開悟使分別此,是故如來於諸眾生而懷大哀。
「又,族姓子!道者則空。謂空者,道則為空;所以空者,諸法皆空。如來於彼達無本空,解一切法而致正覺,空亦復空故成正覺。以此一慧則別空事,彼則無二;其無二者,空與道慧則無有二。已無有二,法則無二;已無有二,則無有名、無想,無底、無行,無所流布、所可謂言。所依受者是為歸趣,非真諦誼。何所有法而逮色者?空者曰空,猶如虛空。所言虛空,虛空無言故曰空空,無言亦空。諸法處所為若此也,至於無名,不言有名。如是,無慢無言,處所亦無所處,已無慢說、無處所已名亦若茲。所說法者,又計彼法無有言教,亦無不教;一切諸法亦復如斯。生亦復然,無正、無邪。如來無生,曉了無本。如來所知、所解脫者,不解、不縛是謂平等。愚戇凡夫不能曉了,吾當開悟使分別此,是故如來於諸眾生而起大哀。
「又,族姓子!道等如空。其虛空者,無等、無邪;道亦如茲,無等、無邪。計於諸等無成道者,彼無有等、亦無有邪。如來以此無等、無邪解一切法而悉無本,成最正覺,又於諸法而不受正、亦不受邪,如其法數、慧數,亦如承佛聖旨。何謂佛聖法?有所受者故曰為有,是則歸趣無所受者。斯無所有則無有主,以是自然而得逮成。離於自然,後無遊行,亦無有進、亦復無退,是謂進行。有所除斷,如來說法斷如是行。愚戇凡夫不能曉了,吾當開悟使分別此,是故如來於諸眾生而懷大哀。
「又,族姓子!道如真跡。何謂真跡?計如道者,色復亦如,無本不退;又如道者,痛、想、行、識亦復無本而不退轉;又如道者,地、水、火、風其種亦如而不退轉;又如道者,眼種、色種及眼識種,耳、鼻、身、口、意法雜種亦復無本而不退轉。諸法所絕使了三際種諸入,如來于彼覺了真諦而成正覺,所曉了者不從顛倒。又如去本,中後亦如,其無本者而不退轉,其本種者則無所生。其他種者亦復無為。中種澹泊,是則名曰如真諦跡。又如一事一切亦如,如一切事一事亦如,如一事者眾多亦然而不可得,是為真諦。愚戇凡夫不能曉了,吾當開悟使分別此,是故如來於諸眾生而懷大哀。
「又,族姓子!道者入室則入無室。何謂為室?何謂無室?修行一切諸德善法是曰為室,於一切法而無所獲是曰無室。所以無室,心無所住、無有處所,故曰無室。無想三昧至解脫門,故曰無室;觀察想念稱量、計校越度稱量,故曰有室。其無識業是曰無室,觀察有為故曰有室,觀察無為此則無室。察於無為是則無室,得入無室則為道矣。愚戇凡夫不能曉了,吾當開悟使分別此,是故如來於諸眾生而懷大哀。
「又,族姓子!道無穿漏亦無所受。何謂無漏?何謂無受?離於四漏名曰無漏:一曰、欲漏,二曰、有漏,三曰、癡漏,四曰、見漏;離此四漏。所謂無受,離四事受:一曰、受欲,二曰、受有,三曰、受見,四曰、猗戒;離此四受。彼此四受悉歸無明,恩愛所纏,依猗於內,從內發起。如來至真除于內受所生根本,於內清淨,歸趣一切眾生清淨。其內淨者彼無想念,已無想念除於顛倒,唯念柔順不住無明,已不住無明則不復住十二有數,已能不住十二有數則無所生,其無所生彼則寂然,其寂然者彼則無誼,其無誼者乃第一誼,其第一誼乃為究盡,其究盡者彼無人誼,其無人誼無所獲誼,其無獲誼則如來道,是十二緣已了。十二則曰法誼,其法誼者是則名曰覩見緣起,其覩緣起則見於法,其見法者則見如來。如是觀者則無有本。性極本末,有見想乎?何曰所有?於諸所想不興因緣,此謂於想而無因緣;如是察者,乃為正覺如來所解。如是像法普行平等,其所等者亦無偏邪;如是平等無有諸漏,亦無所受。愚戇凡夫不能曉了,吾當開悟使分別此,是故如來於諸眾生而懷大哀。
「又,族姓子!道者清淨,無垢、無染。何謂清淨、無垢、無染?空則清淨,無想離垢,無願無染;無生清淨,無污離垢,無起無染。本性清淨,解脫無染;無遊逸則清淨,亦無輕戲為離垢,寂調則無染。無本為淨,法界顯曜;本際無染,虛空清淨;虛無無垢,慌惚不染。除內為淨,於外無逸,則曰無垢。無內外行則曰無垢,不習諸入則曰無染。慧盡過淨,了淨於當來不起無垢,分別現在住於法界則無所染,是謂清淨、無垢、無染,而平等御於一法矣。至寂然跡,其寂然者則為憺怕,寂然憺怕是謂仁和。是,族姓子!猶如虛空,道亦如之;如其道者,法亦如之;如一切法,眾生亦如;又如眾生,國土亦如;如其國土,泥洹亦如;如泥洹等見於諸法。究盡寂然此已辯矣,於諸部黨而無部黨,是為清淨、無垢、無染。如來於彼於諸色像,了一切法而無色像遂成正覺,觀於一切眾生之界無淨、無垢,於此諸數是則名曰悟寐眾生而懷大哀。
「如來則以善權方便感致梵天,不以無請而轉法輪。於彼應時六萬八千梵天之眾自於天宮忽然不現,在波羅奈鹿苑之中住世尊前,稽首足下勸請世尊令轉法輪:『唯願大聖班宣經道,若說法者多所救濟。』梵天爾時歎此頌曰:
「『正使諸法, 寂然、憺怕, 清淨、鮮潔, 無垢、無染。
既不可獲, 無音、無作, 則以道慧, 最勝悉了。
於無數劫, 造立愍哀, 勤行難量, 精修長久。
欲得開化, 眾生迷惑, 睡眠來久, 大愚所蔽。
眾生多有, 曉了積德, 本以曾修, 故詣最勝。
必當識別, 殊異尊法, 唯願如來, 時轉法輪。
已得攝伏, 魔所處場, 尋時開闡, 於甘露門。
為眾廣演, 賢聖句跡, 唯願導師, 顯示道逕。
假使正覺, 矜哀無盡, 垂愍眾人, 轉無思議。
我身今日, 勸請至尊, 唯聞最上, 道法之輪。
設使大聖, 懷乎恩慈, 猶拘那鋡, 佛講說教。
亦如迦葉, 轉其法輪, 唯願世尊, 頒宣經道。
譬如天雨, 多所潤澤, 生於藥草, 及茂五穀;
以大哀雲, 普周世間, 如來為雨, 正法之水。
從始生時, 口宣妙言, 聖自發生, 當度眾生。
群庶悉集, 渴仰飢虛, 唯以法味, 除其痟渴。』」
佛言:「如是,族姓子!其梵天王勸請如來慇懃若茲。又佛正覺不捨大哀,在波羅㮈仙人所止苑園之中,尋時即轉無上法輪。沙門、梵志、諸大魔神、梵天王、世人所不能制,所講經道出非常音,告於三千大千世界比丘拘輪(晉言本際)第一解法。於時世尊宣乎讚頌:
「『深妙不可獲, 第一無所作,
拘輪解本際, 不懷於結恨。』
「如來說此法輪之經,不可稱計無央數人、眾生之類受教隨律,見於如來興闡大哀;無量無限難不可計會群黎之黨,皆發無上正真道意。
「是,族姓子!諸佛世尊以十六事愍念眾生而懷大哀,常以慈愍未曾忽忘;彼亦無業不懷恐怖。如來所修無極之哀不可稱載,為一一人而造立行,江河沙劫忍在地獄初不退還,以是方便使諸眾生隨律受教賢聖之法。以此比像如來至真為諸眾生——各各一一受形命者——為一一人各各恒河沙劫忍於地獄勤苦之患,欲使眾人隨律受教入賢聖法。如來不以懈倦而厭,不違大哀。族姓子知!諸佛世尊愍哀眾生巍巍如是,常懷大哀。
「又,族姓子!諸弟子、眾聲聞種類志懷恐懼,其所愍哀畏怖如魚,慈猶肌膚;菩薩之慈猶如骨髓;諸佛世尊懷無極哀,常當勸助求於佛慧——化聲聞哀令入道心、奉菩薩哀——諸佛世尊決於道慧故懷大哀。聲聞哀者察於慈心,瞻察開化為菩薩哀,究盡啟導為佛大哀;厭造立行為聲聞哀,精勤轉上為菩薩哀,超越諸行為佛大哀。是,族姓子!諸佛世尊而於眾生常懷大哀,一劫、百劫、千億萬劫為一人故住在世間,劫數難計不可稱載,而於泥洹不永滅度也,必當濟之故。族姓子!當解知此,其佛大聖如來至真在於眾生而懷大哀。」

7 開化品
9 宣劫世品

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