三法品第三之一
第三章 三法品(その一)
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!諸有情界互相親近不相乖違:諸劣勝解種類有情與劣勝解種類有情,更相親近參染承事;諸妙勝解種類有情與妙勝解種類有情,更相親近,參染承事。
世尊から、このようにお聞きしました。 「比丘たちよ、よく知りなさい。人々は互いに、気の合う仲間を求めて集まり、争うことはありません。 理解の浅い人は、同じく理解の浅い人と親しくなり、交わり、仕え合います。 また、理解の深い人は、同じく理解の深い人と親しくなり、交わり、仕え合うのです。」
「在過去世諸有情界,已相親愛不相乖違:諸劣勝解種類有情與劣勝解種類有情,已相親近參染承事;諸妙勝解種類有情與妙勝解種類有情,已相親近參染承事。在未來世諸有情界,當相親愛不相乖違:諸劣勝解種類有情與劣勝解種類有情,當相親近參染承事;諸妙勝解種類有情與妙勝解種類有情,當相親近參染承事。在現在世諸有情界,現相親愛不相乖違:諸劣勝解種類有情與劣勝解種類有情,現相親近參染承事;諸妙勝解種類有情與妙勝解種類有情,現相親近參染承事。
過去の世において、すべての生き物たちは互いに親しみ合い、争うことはありませんでした。浅い理解を持つ者たちは同じような者と集まり、親しく交わり、深く関わり合いました。深い理解を持つ者たちも、同じような者と集まり、親しく交わり、深く関わり合いました。
未来の世においても、すべての生き物たちは互いに親しみ合い、争うことはないでしょう。浅い理解を持つ者たちは同じような者と集まり、親しく交わり、深く関わり合うでしょう。深い理解を持つ者たちも、同じような者と集まり、親しく交わり、深く関わり合うでしょう。
現在の世においても、すべての生き物たちは互いに親しみ合い、争うことはありません。浅い理解を持つ者たちは同じような者と集まり、親しく交わり、深く関わり合っています。深い理解を持つ者たちも、同じような者と集まり、親しく交わり、深く関わり合っています。
「是故尊者解憍陳如,與其同類有六十人,恒集同修阿練若行。摩訶迦葉與其同類,有無量人,恒集同修杜多妙行。其舍利子與其同類,有無量人,恒集同修大智慧行。大目乾連與其同類,有無量人,恒集同修大神通行。拘瑟祉羅與其同類,有無量人,恒集同修無礙解行。其滿慈子與其同類,有無量人,恒集同修說正法行。迦多衍那與其同類,有無量人,恒集同修辯釋經行。尊者善現與其同類,有無量人,恒集同修無諍住行。纈麗伐多與其同類,有無量人,恒集同修諸靜慮行。其優波離與其同類,有無量人,恒集同修持律之行。物力士子與其同類,有無量人,恒集同修為僧敷設臥具等行。尊者不滅與其同類,有無量人,恒同修集淨天眼行。尊者阿難與其同類,有無量人,恒集同修樂多聞行。其羅怙羅與其同類,有無量人,恒集同修樂持戒行。童子迦葉與其同類,有無量人,恒集同修巧辯說行。其劫比拏與其同類,有無量人,恒集同修教誡、教授大苾芻行。尊者難陀與其同類,有無量人,恒集同修教誡、教授苾芻尼行。優波西那與其同類,有無量人,恒集同修具威儀行。妍美難陀與其同類,有六十人,恒集同修端嚴之行。愚人天授與其同類,有六十人,恒集同修勃逆惡行。
そこで尊者カウンディニヤは、その仲間六十人と共に、常に集まって阿蘭若行を共に修行した。大迦葉はその仲間無数の人々と共に、常に集まって杜多の妙行を共に修行した。舎利子はその仲間無数の人々と共に、常に集まって大智慧行を共に修行した。大目乾連はその仲間無数の人々と共に、常に集まって大神通行を共に修行した。倶瑟祉羅はその仲間無数の人々と共に、常に集まって無礙解行を共に修行した。満慈子はその仲間無数の人々と共に、常に集まって正法を説く行を共に修行した。迦多衍那はその仲間無数の人々と共に、常に集まって経典を解釈し説明する行を共に修行した。尊者善現はその仲間無数の人々と共に、常に集まって無諍住行を共に修行した。綾麗伐多はその仲間無数の人々と共に、常に集まって様々な静慮行を共に修行した。優波離はその仲間無数の人々と共に、常に集まって律を守る行を共に修行した。物力士子はその仲間無数の人々と共に、常に集まって僧のための臥具などの準備を行う行を共に修行した。尊者不滅はその仲間無数の人々と共に、常に集まって浄天眼行を共に修行した。尊者阿難はその仲間無数の人々と共に、常に集まって多聞を楽しむ行を共に修行した。羅怙羅はその仲間無数の人々と共に、常に集まって戒律を保つことを楽しむ行を共に修行した。童子迦葉はその仲間無数の人々と共に、常に集まって巧みな弁説の行を共に修行した。劫比拏はその仲間無数の人々と共に、常に集まって大比丘への教誡と教授の行を共に修行した。尊者難陀はその仲間無数の人々と共に、常に集まって比丘尼への教誡と教授の行を共に修行した。優波西那はその仲間無数の人々と共に、常に集まって具威儀行を共に修行した。妍美難陀はその仲間六十人と共に、常に集まって端厳の行を共に修行した。愚人天授はその仲間六十人と共に、常に集まって逆さまな悪行を共に修行した。
「是故當知諸有情界,互相親近不相乖違:諸劣勝解種類有情與劣勝解種類有情,更相親近參染承事;諸妙勝解種類有情與妙勝解種類有情,更相親近參染承事。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
「このように知るべきです。すべての生きとし生けるものは、互いに親しく寄り添い、争うことがありません。理解の浅い者たちは、同じく理解の浅い者たちと互いに親しみ、交わり、仕え合います。また、深い理解を持つ者たちは、同じく深い理解を持つ者たちと互いに親しみ、交わり、仕え合うのです。」そのとき、世尊はこの意味をまとめて、次の偈(うた)を説かれました。
「如草木叢林, 亦如風火等,
物各以類聚, 有情界亦然。
愚者狎於愚, 智者親於智,
體知朋侶別, 應親有智人。
如凭破浮囊, 必沈於大海,
親近怠慢者, 定失智光明;
故應捨怠慢, 樂栖止空閑,
親近有智人, 速能殄眾苦。」
草木や林のようなもの、 また風や火などのように、 物はそれぞれ同類で集まる。 生き物の世界もまた同じである。
愚か者は愚か者と親しみ、 賢い者は賢い者と親しむ。 仲間の違いをよく知って、 賢い人に親しむべきである。
破れた浮き袋に頼れば、 必ず大海に沈むように、 怠る者に親しめば、 必ず智慧の光を失う。
だから怠る者を捨てて、 静かな場所に喜んでとどまり、 賢い人に親しめば、 すぐに多くの苦しみを滅ぼせる。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!三因、三緣,能感後有。云何為三?所謂無明未永斷故,愛未棄故,業未息故。由是因緣,能感後有。所以者何?業為良田,識為種子,愛為溉灌,無明、無智、無了、無見之所覆蔽,識便安住欲有、色有、無色有處,欲最為下,色為其中,無色為妙。
世尊からこのようにお聞きしました。 「比丘たちよ、三つの因と三つの縁によって、新たな生が起こる。その三つとは何か。すなわち、無明がまだ永遠に断たれていないこと、愛がまだ捨てられていないこと、業がまだ尽きていないことである。この因と縁によって、新たな生が生じるのである。なぜか。業を肥沃な田んぼとし、識を種とし、愛を水やりとし、無明・無知・無了・無見が覆い隠すことにより、識は欲有・色有・無色有の世界に留まる。これらのうち、欲界が最も劣り、色界はその中ほどで、無色界が最も優れている。」
「若欲界業,感異熟果不現在前,不可施設此為欲有。由欲界業,感異熟果正現在前,故可施設此為欲有。當於爾時,業為良田,識為種子,愛為溉灌,無明、無智、無了、無見之所覆蔽,識便安住下欲有處。
もし欲界の業が異熟果を現前に感ずることがなければ、これを「欲有」と仮に定めることはできません。欲界の業が異熟果をまさに現前に感ずるからこそ、これを「欲有」と仮に定められるのです。その時、業は良き田(た)となり、識は種子となり、愛が水を注ぎ、無明・無智・無了・無見が覆い隠すことによって、識は安住して下の欲有の処(ところ)にとどまります。
「若色界業,感異熟果不現在前,不可施設此為色有。由色界業,感異熟果正現在前,故可施設此為色有。當於爾時,業為良田,識為種子,愛為溉灌,無明、無智、無了、無見之所覆蔽,識便安住中色有處。
もし色界の業が異熟果を現前に感ぜずして現れないならば、これを「色有」と説くことはできません。しかし色界の業が異熟果をまさに現前に感じて現れているからこそ、これを「色有」と説くことができるのです。その時、業は良き田畑となり、識は種子となり、愛は灌漑となり、無明・無智・無了・無見によって覆い隠されることで、識は安んじて中色有の処に住するのです。
「若無色業,感異熟果不現在前,不可施設為無色有。由無色業,感異熟果正現在前,故可施設為無色有。當於爾時,業為良田,識為種子,愛為溉灌,無明、無智、無了、無見之所覆蔽,識便安住妙無色處。
もし色を伴わない業が異熟の果を現前にして生じさせないのであれば、それを「無色有」と名づけることはできません。しかし、色を伴わない業が異熟の果をまさに現前にして生じさせているからこそ、「無色有」と名づけることができるのです。その時、業は良き田んぼとなり、識は種子となり、愛は水を注ぐものとなります。そして、無明・無智・無了・無見によって覆い隠されながらも、識は見事な無色の領域に安住するのです。
「苾芻當知!由遠離故,出離欲有;由無色故,出離色有;由永滅故,出離一切有為、有起、思慮、緣生。汝等苾芻,應以正慧如實隨觀,出離欲有;應以正慧如實隨觀,出離色有及無色有。
比丘たちよ、知るがよい。「遠離」によって欲望の生存(欲有)から出離し、「無色」によって物質的な生存(色有)から出離し、「永遠の消滅」によって、すべての作り出されたもの、生じるもの、心の働き、縁によって生じるものから出離するのだ。 あなたがた比丘たちは、正しい智慧をもって、あるがままに観察しなさい。欲望の生存から出離すること。また、正しい智慧をもって、あるがままに観察しなさい。物質的な生存、そして非物質的な生存から出離することを。
「云何汝等,應以正慧如實隨觀,出離欲有?謂離諸欲惡不善法,有尋有伺,離生喜樂,具足安住最初靜慮。能以正慧如實隨觀,其中諸色、受、想、行、識,如是法性皆是無常,皆是其苦,如病如癰、如中毒箭,有惱有害、有怖有猜、有怨有敵,迅速敗壞,多諸疾疫、多諸災橫,虛偽不實、離散無我、不可保信。如是汝等,應以正慧如實隨觀,出離欲有。
あなたたちは、どのようにして正しい智慧で、欲界の生存を超えることを、あるがままに観察すべきでしょうか。それは、欲望や悪しき善ならざる法を離れ、思考や考察を伴い、離欲から生じる喜びと安らぎを伴う、第一の静慮(禅定)を具足して安住することです。その中で、色・受・想・行・識のすべての法が、無常であり、苦であり、病気や腫れ物、毒矢のように、悩みや害、恐れや疑い、怨みや敵を持ち、急速に壊れ去り、多くの疫病や災難に満ち、虚偽で真実ではなく、散り離れて無我であり、決して信頼できるものではないことを、正しい智慧で、あるがままに観察してください。このようにして、あなたたちは正しい智慧で、欲界の生存を超えることを、あるがままに観察すべきなのです。
「云何汝等,應以正慧如實隨觀,出離色有?謂正超過一切色想,滅有對想,不復思惟種種異想,具足安住無邊虛空、空無邊處。能以正慧如實隨觀,其中所有受、想、行、識,如是法性皆是無常,皆是其苦,如病如癰、如中毒箭,有惱有害、有怖有猜、有怨有敵,迅速敗壞,多諸疾疫、多諸災橫,虛偽不實、離散無我、不可保信。如是汝等,應以正慧如實隨觀,出離色有。
あなたがたはどのようにして、正しい智慧をもってありのままに観察し、色のある生存から出離すべきなのでしょうか。すなわち、あらゆる色の想いを完全に超越し、対立する想いを滅ぼし、様々な異なる想いを再び思量することなく、限りない虚空、空無辺処に安住することです。そこにある感受作用・概念作用・形成作用・識別作用、これらの法の本質はすべて無常であり、すべて苦であり、病気のようなもの、腫れ物のようなもの、毒矢を受けたようなもの、悩み害するものあり、恐怖し疑うものあり、怨み敵あるもの、急速に壊れ敗れるもの、多くの疫病や災禍に満ち、虚偽で真実ではなく、散り散りで我なく、頼りにならないものと、正しい智慧をもってありのままに観察することができます。このようにあなたがたは、正しい智慧をもってありのままに観察し、色のある生存から出離すべきなのです。
「云何汝等,應以正慧如實隨觀,出無色有?謂正了知是為寂靜,是為微妙,謂離憍慢,息諸渴愛,滅阿賴耶,斷諸徑路,空無所得,愛盡離欲,寂滅涅槃。如是汝等,應以正慧如實隨觀,出無色有。
あなたたちは、どのようにして正しい智慧をもってありのままに観察し、無色の存在(無色有)を超えていくべきでしょうか。それは、これが静けさであり、これが微細で優れた境地であると正しく理解することです。すなわち、驕り高ぶりを離れ、さまざまな渇愛を静め、阿頼耶識(あらやしき)を滅ぼし、さまざまな迷いの道筋を断ち切り、空(くう)にして得るものなく、愛欲を尽くして執着から離れ、静まり寂滅した涅槃(ねはん)に至ることです。このようにして、あなたたちは正しい智慧をもってありのままに観察し、無色の存在を超えていくべきなのです。
「若能如是,以其正慧如實隨觀,出離三有,便於欲有、色、無色有,能深厭背;深厭背故,能正離欲;正離欲故,能得解脫。得解脫已,便自了知:我生已盡,梵行已立,所作已辦,不受後有。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
このように正しい智慧をもってありのままに観察し、三つの存在(三有)から出離することができれば、欲望の世界(欲有)、形ある世界(色有)、形なき世界(無色有)に対して深く厭い離れることができる。深く厭い離れるゆえに、正しく欲望を離れることができる。正しく欲望を離れるゆえに、解脱を得ることができる。解脱を得たならば、自ら次のように知る。「我が生は尽きた。清らかな修行(梵行)は成し遂げられた。なすべきことは全てなされた。もはや再び迷いの世界に生まれることはない」と。時に、世尊はこの意味を再度まとめて、次のような偈(うた)を説かれた。
「以正慧隨觀, 三界出離相,
能止息諸行, 得最上涅槃。
已解脫諸漏, 善修習瑜伽,
任持最後身, 降伏魔所使。」
正しい智慧をもって観察すれば、三つの世界を超える道が見える。すべての営みを静め、最高の悟りに至るのだ。すでに煩悩から解き放たれ、心の修行をよく積んだ者は、この最後の身を保ちながら、悪魔の支配に打ち勝つのだ。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!三因、三緣,令諸有情希求利養,生多過患。云何為三?一者貪欲為因、為緣,令諸有情希求利養,生多過患。二者耽著為因、為緣,令諸有情希求利養,生多過患。三者受用不見過患為因、為緣,令諸有情希求利養,生多過患。汝等苾芻,不應起此三因、三緣,希求利養生多過患。
私は世尊からこうお聞きしました: 「比丘たちよ、知るがよい。三つの因と三つの縁によって、生きとし生けるものは利養を求めて多くの過ちを生じる。 その三つとは何か。 第一に、貪欲を因とし縁として、生きとし生けるものは利養を求めて多くの過ちを生じる。 第二に、耽着を因とし縁として、生きとし生けるものは利養を求めて多くの過ちを生じる。 第三に、受用しても過ちを見ないことを因とし縁として、生きとし生けるものは利養を求めて多くの過ちを生じる。 あなたがた比丘は、この三つの因と三つの縁を起こして、利養を求め多くの過ちを生じてはならない。」
「有諸苾芻,具此所說三因、三緣,往施主家求勝利養,或時其家,怱遽無賴,見已慼然,默不敬問,不起承迎、不延就座、不共談論。彼見此相,便起念言:『此施主家,恒相敬待,誰所詭侫,頓使其然?』由此因緣,便於彼所,不忍、不悅,起恚害心,或發身、語惡不善業,因斯墜墮諸惡趣中,受不愛果。
ある修行僧たちが、こうして説かれた三つの因と三つの縁を備えて、施主の家に赴いて功徳ある養いを求めたとする。ところが、その家が突然、慌ただしくて無愛想であったり、彼らを見ても沈んだ様子で、敬意をもって挨拶もせず、立ち上がって迎え入れもせず、座に招きもせず、共に語り合おうともしなかったとする。彼らはこの様子を見て、こう思う。「この施主の家は、いつもは私たちを敬いもてなしていたのに、一体誰の巧みな言葉が、急にこうさせたのだろうか」と。そうした因縁によって、その家に対して、心に忍耐がなくなり、喜びも失せて、怒りや害そうとする心を起こし、あるいは身体や言葉で、悪い不作法な行いをしてしまう。そのために、諸々の悪い世界に堕ちて、望ましくない結果を受けることになるのである。
「苾芻當知!我觀世間諸有情類,或由利養擾亂其心,身壞命終,墮諸惡趣,生地獄中,受不愛果。我觀世間諸有情類,或由衰損擾亂其心,身壞命終,墮諸惡趣,生地獄中,受不愛果。我觀世間諸有情類,或由利養及以衰損擾亂其心,身壞命終,墮諸惡趣,生地獄中,受不愛果。所以者何?愚癡凡夫被諸利養,先破其膜;既破膜已,復破其皮;既破皮已,復破其肉;既破肉已,復斷筋脈;斷筋脈已,復破其骨;既破骨已,復傷髓腦,然後方住。
比丘たちよ、よく聞きなさい。私は世の中の生き物たちを観察しています。ある者は利益や名声に心を惑わされ、命終わった後、悪い世界に落ち、地獄に生まれて、望ましくない苦しみの結果を受けます。またある者は、損失や不遇に心を惑わされ、命終わった後、悪い世界に落ち、地獄に生まれて、望ましくない苦しみの結果を受けます。さらにある者は、利益や名声と損失や不遇の両方に心を惑わされ、命終わった後、悪い世界に落ち、地獄に生まれて、望ましくない苦しみの結果を受けます。なぜでしょうか? 無知な凡人は、利益や名声によって、まずその薄い皮(のう)を破られます。その薄い皮が破られると、次に皮が破られます。皮が破られると、次に肉が破られます。肉が破られると、次に筋や血管が断たれます。筋や血管が断たれると、次に骨が破られます。骨が破られると、最後に髄や脳まで傷つけられ、その後にようやく止まるのです。
「是故汝等應如是學:我當云何不被利養擾亂其心?我當云何不被衰損擾亂其心?我當云何不被利養及以衰損擾亂其心?獨處空閑勤修聖行,速證無上常樂涅槃。汝等苾芻,應如是學。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
「ですから、あなたがたは次のように学ぶべきです。どのようにすれば、利益や供養に心を乱されないか。どのようにすれば、損失や不遇に心を乱されないか。どのようにすれば、利益や供養、そして損失や不遇のいずれにも心を乱されないか。静かに独りで過ごし、聖なる行いを励み修行して、速やかに最高の永遠の安らぎである涅槃を証得するのです。比丘たちよ、あなたがたはこのように学びなさい。」その時、世尊はこの意味をまとめて、次のような偈を説かれました。
「由三種因緣, 希求諸利養,
壞種種功德, 及退失人天。
諸有聰明人, 遇利養衰損,
其心善安定, 不動如山王;
常靜慮安然, 正觀諸法義,
修深細智見, 證常樂涅槃。」
三つの因縁によって、 あらゆる利養(りよう)を求める者は、 さまざまな功徳(くどく)を損ない、 人天(にんてん)の境地からも退いてしまう。
しかし賢い人は、利養が減り失われることに出会っても、 その心はよく安らかに定まり、 山王のように動かない。
常に静かに瞑想して安らかであり、 正しく諸法の意味を観察し、 深く細やかな智慧の見解を修めて、 常楽(じょうらく)の涅槃(ねはん)を証するのである。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!欲界勝生,略有三種,於彼雖成極大福聚而受諸欲,生死輪迴不能出離。所以者何?彼勝生處,是欲所行境界地故。云何為三?一、欲住天欲界勝生;二、樂化天欲界勝生;三、他化天欲界勝生。如是三種欲界勝生,於彼雖成極大福聚而受諸欲,生死輪迴不能出離。所以者何?彼勝生處,是欲所行境界地故。我聖弟子,於此三種欲界勝生,如實隨觀有諸過患,故於欲界深生厭背;生厭背故,能正離欲;正離欲故,能得解脫。得解脫已,便自了知:我生已盡,梵行已立,所作已辦,不受後有。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
世尊がこうお話しになりました。「比丘たちよ、知っておきなさい。欲望の世界での優れた生まれ方には、おおまかに三つの種類があります。そこでは大きな福徳を積みながらも、欲望を享受し、生まれ変わりを繰り返す輪廻から逃れられません。なぜでしょうか?その優れた生まれの場所は、欲望が行われる領域だからです。その三つとは何か?第一に、欲界の天に住む優れた生まれ。第二に、変化を楽しむ天の優れた生まれ。第三に、他者の変化を自在にする天の優れた生まれ。この三つの欲望の世界における優れた生まれでは、大きな福徳を積みながらも、欲望を享受し、輪廻から逃れられません。その理由も同じです。私の聖なる弟子たちは、この三つの欲望の世界での優れた生まれについて、ありのままに観察し、そこに様々な過ちや悩みがあると見ます。そのため、欲望の世界に対して深く厭い、離れる心を起こします。厭い離れる心によって、正しく欲望を離れることができ、正しく欲望を離れることによって、解脱を得ることができます。解脱を得たならば、自らはっきりと悟ります。『私の生は尽きた。清らかな修行は完成した。なすべきことは全て成し遂げた。もはや再び生まれ変わることはない』と。」
その時、世尊はこの教えをまとめて、次の詩を説かれました。
「欲界三勝生, 恒受諸欲樂,
謂欲住、樂化、 他化自在天;
生如是三處, 雖成就大福,
而生死輪迴, 不能生上地。
於此諸欲中, 若能知過患,
捨人天等趣, 證無上涅槃。」
欲界には、三つの優れた生存の場所がある。 常に様々な欲望の楽しみを受けている。 それは、欲望に留まる天、変化を楽しむ天、 他化自在天である。
このような三つの場所に生まれても、 大きな福徳を成就しているけれども、 生死の輪廻の中にあって、 上の境地に生まれることはできない。
これらの諸々の欲望の中にあって、 もしもその過ちや災いを知ることができれば、 人間や天人の世界などを捨て去り、 究極の涅槃(ねはん)を証(あかし)するのである。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!世有一類諸惡苾芻,成就三法而似驢鳴。云何為三?謂有一類諸惡苾芻,無敬、無承,無慚、無愧,懈怠忘念。如是一類諸惡苾芻,具足成就如是三法,而似驢鳴。謂實無德而隨僧眾,唱如是言:『具壽當知,我亦是真沙門釋子。』然此一類諸惡苾芻,無有增上戒、定、慧學,如餘清淨真苾芻僧而隨僧眾,唱如是言:『具壽當知,我亦是真沙門釋子。』如世有驢隨牛群後,高聲唱言:『我亦是牛,宜相顧待。』然此驢身、頭、耳、蹄、喙、毛、色、音聲皆與牛別,而隨牛後,高聲唱言:『我亦是牛,宜相顧待。』如是一類諸惡苾芻,實無其德而隨僧眾,唱如是言:『具壽當知,我亦是真沙門釋子。』然此一類諸惡苾芻,依止村城聚落而住,日初分時,整理裳服,執持衣鉢,往入村城聚落乞食,不能護持身、語、意業,不住正念、不守諸根,詣於淨信諸施主家,為利養故身處下座,為居高座白衣說法。我說此類諸惡苾芻所有言說,皆似驢鳴。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
世尊様がおっしゃいました。 「比丘たちよ、知るがよい。世の中には三つの特徴を持つ悪しき比丘がいて、まるで驢馬(ろば)の鳴き声のような者たちがいる。その三つとは何か。すなわち、彼らは敬いの心がなく、従う心もなく、恥じる心もなく、慎む心もなく、怠け心があり、正念を失っている。このように三つの特徴をそなえた悪しき比丘たちは、実は何の徳もないのに僧団に加わり、『私もまた真の沙門(しゃもん)=仏の弟子である』と言い張る。ところが、彼らには、清らかな真の比丘僧が持つような、戒(かい)・定(じょう)・慧(え)の学びがまったくない。 ちょうど世の中に、牛の群れの後ろに驢馬がついてきて、大声で『私も牛だ、どうか私を仲間として見てほしい』と鳴くが、その驢馬の体も頭も耳も蹄も口も毛の色も声も、牛とはまったく違うのと同じである。 この悪しき比丘たちも、徳がないのに僧団に混じって『私も真の沙門である』と言う。彼らは村や町に住み、朝になると衣を整え、鉢を持って托鉢(たくはつ)に出かけるが、身・口・意の行いを守らず、正念を保たず、感覚を制せず、信心深い施主(せしゅ)の家では、利益を得るために低い座に身を置き、在家(ざいけ)の人々に向かって高い説法台で語る。 このような悪しき比丘の話すことは、すべて驢馬の鳴き声にすぎない。」
このとき、世尊様はこの意味を要約して、次のように詩で語られました。
(※以下、偈文がありますが、ここでは散文の内容を優先して訳しています。)
「剃髮服染衣, 手執持應器,
實無戒定慧, 而自號沙門。
如世間有驢, 與牛形相異,
而逐牛群後, 自號是真牛。
如是惡苾芻, 成無敬等法,
雖常廁清眾, 而不證菩提。」
頭を剃り、染めた衣をまとい、手には托鉢の鉢を持っていても、戒律や精神統一、智慧を実際には持たずに、自らを修行者と名乗る者がいる。
ちょうど世の中に、牛とは姿が違うロバがいて、牛の群れの後ろについて歩きながら、自分は本当の牛だと自称するようなものだ。
そのように、悪い修行僧は、敬いの心などの大切な教えを持たず、清らかな僧団の中に身を置きながらも、悟りを証することができないのである。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!學有三種,若能於中離諸放逸,晝夜精勤,絕諸緣務,獨處空閑,無倒修學,未生諸漏令永不生,已生諸漏令永盡滅。云何為三?一者增上戒學;二者增上心學;三者增上慧學。何等名為增上戒學?謂諸苾芻具淨尸羅,安住、守護別解脫戒,軌範所行無不圓滿,於微小罪見大怖畏,具能受學所應學處,成就清淨身、語二業,成就淨命,成就淨見,如是名為增上戒學。何等名為增上心學?謂諸苾芻能正離欲惡不善法,有尋有伺,離生喜樂,具足安住最初靜慮,廣說乃至具足安住第四靜慮,如是名為增上心學。何等名為增上慧學?謂諸苾芻如實了知:是苦聖諦、苦集聖諦、苦滅聖諦及能趣苦滅道聖諦,如是名為增上慧學。如是三學,若能於中離諸放逸,晝夜精勤,絕諸緣務,獨處空閑,無倒修學,未生諸漏令永不生,已生諸漏令永盡滅。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
私は尊き師からこのように聞きました。
「比丘たちよ、知るがよい。学びには三つの種類がある。もしこれらにおいて怠ることを離れ、昼夜に精進し、あらゆる俗事を断ち切り、独り静かな場所で、正しく修行するならば、まだ生じていない煩悩は生じることがなく、すでに生じた煩悩は完全に滅尽する。その三つとは何か。第一に戒の学び、第二に心の学び、第三に智慧の学びである。
では、戒の学びとは何か。比丘たちが清らかな戒律を具え、波羅提木叉の戒めに安住し守り、修行者の規範とする行いをすべて円満にし、微細な罪にも大きな恐れを抱き、学ぶべきところを正しく受け学び、清らかな身と語の二つの業を成就し、清らかな生活を成就し、清らかな見解を成就すること、これを戒の学びという。
心の学びとは何か。比丘たちが、欲望と悪しき善ならざる法を正しく離れ、尋と伺を伴い、離欲から生じる喜びと楽を具えて、最初の禅定に十分に安住し、さらに説き及べば第四の禅定に十分に安住すること、これを心の学びという。
智慧の学びとは何か。比丘たちが、これが苦しみの聖なる真理、苦しみの集まりの聖なる真理、苦しみの滅尽の聖なる真理、そして苦しみの滅尽に至る道の聖なる真理であると、ありのままに知ること、これを智慧の学びという。
この三つの学びにおいて、もし怠ることを離れ、昼夜に精進し、あらゆる俗事を断ち切り、独り静かな場所で、正しく修行するならば、まだ生じていない煩悩は生じることがなく、すでに生じた煩悩は完全に滅尽する。」
その時、尊き師はこの意味を改めて要約して、次の偈を説かれた。
「戒、心、慧學三, 智者應修學,
勤精進常安, 密禁守諸根;
晝夜處空閑, 絕世諸緣務,
勤修戒心慧, 如救自頭燃;
名學聖學處, 至所學後邊,
脫所脫無遺, 成清淨妙智;
得不動解脫, 已永斷諸漏,
盡生死苦邊, 後有更無有。」
「戒・心・慧という三つの学びを、賢者は修めるべきです。 怠らず努め、常に心を落ち着け、感覚をしっかりと守りなさい。 昼も夜も静かな場所にいて、世の中のあらゆる務めを離れなさい。 まるで自分の頭に火がついたのを消すかのように、戒と心と慧を熱心に修めなさい。 これを聖者の学ぶべき道の学びと呼び、学びの究極に至り、 解き放つべきものを残らず解き放ち、清らかな素晴らしい智慧を完成させなさい。 動かない悟りを得て、すでにすべての煩悩を断ち切り、 生と死という苦しみの果てを尽くし、再び迷いの世界に生まれることはありません。」
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!學有三種,若有勤修,不空無果、必至究竟,能得甘露、能證涅槃。云何為三?一者增上戒學;二者增上心學;三者增上慧學。
世尊からこのように聞きました。「比丘たちよ、知っておきなさい。学びには三つの種類がある。もしもこれを励み修めれば、虚しく無駄になることはなく、必ず究極に至り、甘露を得、涅槃を証することができる。その三つとは何か。第一に、戒を高める学び。第二に、心を高める学び。第三に、智慧を高める学び、である。」
「何等名為增上戒學?謂諸苾芻尊重尸羅,戒為增上;不重等持,定非增上;不重般若,慧非增上。彼於少小所學戒中,微有所犯即能出離。所以者何?我說彼人終不毀犯所制學處不深慚愧,定能隨順清淨梵行、定能成辦清淨梵行,於諸學處,能住尸羅,能住所學。彼人定能永盡三結,證預流果,得無墮法,定趣菩提,極於七返人天往來,盡諸苦際,如是名為增上戒學。
では、『増上戒学』とは何か。それは、諸々の比丘が戒律を尊重し、戒律を最も大切にすることである。しかし、心の統一(等持)を重んじなければ、それは増上とはならない。智慧(般若)を重んじなければ、それも増上とはならない。彼らは、たとえ小さな学ぶべき戒律であっても、少しでも違反すれば、すぐにそこから出離することができる。なぜなら、私はこう言うからだ。その人は、定められた学処(戒律)を破り、深く慚愧の心を持たないようなことは決してない。必ず清らかな梵行に随順し、必ず清らかな梵行を成就することができる。あらゆる学処において、戒律に安住し、学ぶべきことに安住する。その人は必ず三つの結び目(三結)を永く尽くし、預流果を証し、堕落しない法を得て、必ず菩提に向かい、多くても七回、天と人の間を往来して、すべての苦しみの終わりに達する。これを増上戒学という。
「何等名為增上心學?謂諸苾芻尊重尸羅,戒為增上;尊重等持,定為增上;不重般若,慧非增上。彼於少小所學戒中,微有所犯即能出離。所以者何?我說彼人終不毀犯所制學處不深慚愧,定能隨順清淨梵行、定能成辦清淨梵行,於諸學處,能住等持,能住所學。彼定能盡五下分結,證不還果,得不還法,當受化生,於彼世間當般涅槃,如是名為增上心學。
「増上心の学びとは何か。それは、比丘たちが戒律を尊重し、戒を増上とし、心の統一(等持)を尊重し、定(瞑想)を増上とするが、般若(智慧)を重視せず、慧を増上としないことである。彼らは、わずかに犯した小さな戒めであっても、すぐにそこから解脱できる。なぜなら、私はこう説くからだ——その人は、定められた学処を破ることなく、深く悔いることなく、確かに清らかな行いに従い、清らかな行いを成就し、すべての学処において心の統一を保ち、学ぶべきことを実践できる、と。彼は、五つの下分の結び目を完全に断ち切り、不還の果を証し、不還の法を得て、化生を受けて、その世で涅槃に入るだろう。これを増上心の学びと名付ける。」
「何等名為增上慧學?謂諸苾芻尊重尸羅,戒為增上;尊重等持,定為增上;尊重般若,慧為增上,彼於少小所學戒中,微有所犯即能出離。所以者何?我說彼人終不毀犯所制學處不深慚愧,定能隨順清淨梵行、定能成辦清淨梵行,於諸學處,能住般若,能住所學。彼人定能永盡諸漏,得真無漏,心善解脫,慧善解脫,於現法中具足安住,自證通慧,能自了知:我生已盡,梵行已立,所作已辦,不受後有。如是名為增上慧學。
「では、『より高次の智慧の学び』とは何でしょうか。それは、修行者が戒律を重んじ、戒をよりどころとし、心の統一(定)を重んじ、定をよりどころとし、智慧(般若)を重んじ、智慧をよりどころとすることです。彼らは、たとえ小さな学びの戒律のわずかな違反でも、すぐにそこから抜け出ることができます。なぜなら、私はこう説くからです。その人は、定められた学びの場を破って深く悔い改めることがないということは決してありません。必ず清らかな修行に従い、清らかな修行を成し遂げることができます。すべての学びの場において、智慧に安住し、その学びに安住します。その人は必ずやすべての煩悩を尽くし、真の煩悩なき状態を得て、心は完全に解脱し、智慧も完全に解脱します。現世において十分に安住し、自ら悟りの智慧を証得し、自らはっきりと知るのです。『私は生を尽くした。清らかな修行は既に確立された。なすべきことは成し遂げられた。もはや迷いの生存を受けることはない』と。これを『より高次の智慧の学び』と呼びます。」
「若有於此所說三學勤修學者,我說必定不空無果,必至究竟,能得甘露、能證涅槃。如是名為學有三種,若有勤修,不空無果,必至究竟,能得甘露、能得涅槃。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
「この三つの学びを真剣に修行する人がいれば、私はその努力が必ず無駄にならず、必ず究極に至り、甘露を得て、涅槃に証入できると説きます。これが三つの学びと呼ばれるものです。もしこれを真剣に修行すれば、努力が無駄にならず、必ず究極に至り、甘露を得て、涅槃を得られます。」その時、世尊はこの意味をまとめて偈を説かれました。
「勤修增上戒, 住戒住所學,
能永盡三結, 定證預流果。
勤修增上心, 住定住所學,
能盡五下結, 定證不還果。
勤修增上慧, 住慧住所學,
能盡一切結, 定證無生果。
三學不唐捐, 必證第一義,
故尊重三學, 達法性無疑。」
戒律をしっかりと磨き、戒律に従って学びを続ければ、 三つの束縛(三結)を完全に断ち切り、確かに預流果を証する。
心の集中(禅定)をしっかりと磨き、集中に基づいて学びを続ければ、 五つの下位の束縛(五下結)を断ち切り、確かに不還果を証する。
智慧をしっかりと磨き、智慧に基づいて学びを続ければ、 あらゆる束縛(一切結)を断ち切り、確かに無生果(阿羅漢果)を証する。
この三つの学び(三学)は決して無駄にならず、 確かに最高の真理(第一義)を悟る。 ゆえに、三学を敬い重んじ、 法の本質に達すれば、疑いはなくなる。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!學有三種,若少分修得少分果,若圓滿修得圓滿果。云何為三?一者增上戒學;二者增上心學;三者增上慧學。
世尊がこうおっしゃいました。「比丘たちよ、学びには三つの種類がある。一部だけ修めれば一部の果を得、完全に修めれば完全な果を得る。その三つとは何か。第一に、戒を高める学び。第二に、心を高める学び。第三に、智慧を高める学びである。」
「何等名為增上戒學?謂諸苾芻尊重尸羅,戒為增上;不重等持,定非增上;不重般若,慧非增上。彼於少小所學戒中,微有所犯即能出離。所以者何?我說彼人終不毀犯所制學處不深慚愧,定能隨順清淨梵行、定能成辦清淨梵行,於諸學處,能住尸羅,能住所學。彼人定能永盡三結,證預流果,得無墮法,定趣菩提,極於七返人天往來,盡諸苦際;或復有能令其欲界貪、恚微薄,證一來果,一來此間,盡諸苦際。如是名為增上戒學。
「増上戒学とは何か。それは、比丘たちが戒律を尊重し、戒をよりどころとすることである。しかし、心の統一(等持)を重んじなければ、定はよりどころとならず、智慧(般若)を重んじなければ、慧はよりどころとならない。彼らは、小さな学ぶべき戒であっても、少しでも犯せば、すぐにそこから出離することができる。なぜなら、私はこう説くからだ。その人は、定められた学処を犯しても深く慚愧せず、必ず清らかな梵行に随順し、必ず清らかな梵行を成し遂げることができる。あらゆる学処において、戒律を保ち、学ぶべきことを実践できる。その人は必ず三つの束縛を完全に断ち尽くし、預流果を証し、堕ちるべき法がなくなり、必ず菩提に向かい、多くとも七回、人天に往来して、すべての苦しみを尽くす。あるいは、欲界の貪りと怒りを薄くして一来果を証し、一度この世に来て、すべての苦しみを尽くす者もいる。これが増上戒学と呼ばれるものである。」
「何等名為增上心學?謂諸苾芻尊重尸羅,戒為增上;尊重等持,定為增上;不重般若,慧非增上。彼於少小所學戒中,微有所犯即能出離。所以者何?我說彼人終不毀犯所制學處不深慚愧,定能隨順清淨梵行、定能成辦清淨梵行,於諸學處,能住等持,能住所學。彼定能盡五下分結,證不還果,得不還法,當受化生,於彼世間當般涅槃,如是名為增上心學。
「増上心の学びとは何か。それは、比丘たちが戒律を尊重し、戒を増上とし、心の統一(等持)を尊重し、定(瞑想)を増上とするが、般若(智慧)を重視せず、慧を増上としないことである。彼らは、わずかに犯した小さな戒めであっても、すぐにそこから解脱できる。なぜなら、私はこう説くからだ——その人は、定められた学処を破ることなく、深く悔いることなく、確かに清らかな行いに従い、清らかな行いを成就し、すべての学処において心の統一を保ち、学ぶべきことを実践できる、と。彼は、五つの下分の結び目を完全に断ち切り、不還の果を証し、不還の法を得て、化生を受けて、その世で涅槃に入るだろう。これを増上心の学びと名付ける。」
「何等名為增上慧學?謂諸苾芻尊重尸羅,戒為增上;尊重等持,定為增上;尊重般若,慧為增上。彼於少小所學戒中,微有所犯即能出離。所以者何?我說彼人終不毀犯所制學處不深慚愧,定能隨順清淨梵行、定能成辦清淨梵行,於諸學處,能住般若,能住所學。彼人定能永盡諸漏,得真無漏,心善解脫,慧善解脫,於現法中具足安住,自證通慧,能自了知:我生已盡,梵行已立,所作已辦,不受後有。如是名為增上慧學。
「では、より優れた智慧の学びとは何か。それは、修行者たちが戒律を重んじて、戒律をよりどころとし、心の統一を重んじて、心の統一をよりどころとし、智慧を重んじて、智慧をよりどころとすることである。彼らは、わずかに学んだ戒律のなかで少しでも過ちを犯せば、すぐにそこから離れることができる。なぜなら、私は次のように説いているからだ。その人は、定められた学びの場を破ったり、深い反省の心を持たないまま犯すことは決してない。必ずや清らかな修行に従い、清らかな修行を成し遂げることができる。そして、すべての学びの場において、智慧にとどまり、学びの場にとどまることができる。その人は必ずや、あらゆる煩悩を永遠に尽くし、真実の煩悩なき境地を得て、心は見事に解脱し、智慧も見事に解脱する。現世において、その境地を完全に具えて安住し、自ら悟りの智慧を証得して、自ら『私の生はすでに尽きた。清らかな修行はすでに成し遂げられた。なすべきことはすでに行い終え、再び迷いの世界に生まれることはない』と知るのである。これを、より優れた智慧の学びと名づける。」
「如是名為學有三種,若少分修得少分果,若圓滿修得圓滿果。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
「このように、修行には三つの種類がある。一部分だけ修行すれば、一部分の結果を得る。完全に修行すれば、完全な結果を得る。」 その時、世尊はこの意味を再びまとめて、次の偈を説かれた。
「多住尊重戒, 名於少分修,
常精進熾然, 便得少分果。
多住尊重定, 名於少分修,
常精進熾然, 亦得少分果。
多住尊重慧, 名於圓滿修,
常精進熾然, 便得圓滿果。
少分圓滿修, 各得同類果,
知如是勝劣, 應捨分修圓。」
戒律を重んじて多く行じても、それは部分的な修行に過ぎない。 絶えず精進し努力を燃え立たせれば、わずかな果報は得られる。
禅定を重んじて多く行じても、それは部分的な修行に過ぎない。 絶えず精進し努力を燃え立たせれば、やはりわずかな果報は得られる。
智慧を重んじて多く行じれば、それは完全な修行となる。 絶えず精進し努力を燃え立たせれば、完全な果報が得られる。
部分的な修行と完全な修行は、それぞれ似た種類の果報をもたらす。 このような優劣を知ったなら、部分的な修行を捨てて完全な修行に専念すべきである。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!學有三種,若正修習,令諸有情成下、中、上賢聖差別。云何為三?一者增上戒學;二者增上心學;三者增上慧學。
世尊からこのように聞きました。「比丘たちよ、知るべきである。学びには三つの種類がある。これを正しく修習すれば、諸々の有情たちを下・中・上の賢聖に差別させる。その三つとは何か。第一に、さらに上なる戒の学び。第二に、さらに上なる心の学び。第三に、さらに上なる慧の学びである。」
「何等名為增上戒學?謂諸苾芻尊重尸羅,戒為增上;不重等持,定非增上;不重般若,慧非增上。彼於少小所學戒中,微有所犯即能出離。所以者何?我說彼人終不毀犯所制學處不深慚愧,定能隨順清淨梵行、定能成辦清淨梵行,於諸學處,能住尸羅,能住所學。彼人定能永盡三結,證預流果,得無墮法,定趣菩提,極於七返人天往來;或成家家,或一來果,或成一間。如是名為增上戒學。
「増上戒学とは何か。それは、比丘たちが戒律(尸羅)を尊重し、戒をよりどころとすることである。しかし、心の統一(等持)を重んじなければ、定(三昧)はよりどころとならず、智慧(般若)を重んじなければ、慧はよりどころとならない。彼らは、戒律を学ぶ初めの段階で、たとえ小さな過ちを犯しても、すぐにそこから抜け出せる。なぜなら、私は彼らが、定められた学処(戒律の教え)を決して破らず、深く恥じ入り、必ず清らかな行い(梵行)に従い、それを完成させ、すべての学処において戒律に住し、学びに住することを説くからだ。そうした人は、必ず三つの結び(三結)を完全に断ち切り、預流果(初果)を證し、堕ちるべき法(悪趣)がなくなり、必ず菩提(悟り)に向かい、せいぜい七回、人天の間を往来する。あるいは家家(家家聖者)となり、一来果(一来)を果たし、あるいは一間(一間聖者)となる。これを増上戒学と名付ける。」
「何等名為增上心學?謂諸苾芻尊重尸羅,戒為增上;尊重等持,定為增上;不重般若,慧非增上。彼於少小所學戒中,微有所犯即能出離。所以者何?我說彼人終不毀犯所制學處不深慚愧,定能隨順清淨梵行、定能成辦清淨梵行,於諸學處,能住等持,能住所學。彼定能盡五下分結,證不還果,得不還法,當受化生,於彼世間當般涅槃;或成中般,或成生般,或有行般,或無行般,或成上流,趣色究竟,或趣非想非非想處,而般涅槃。如是名為增上心學。
「では、増上心学とは何か。それは、比丘たちが戒律を重んじ、戒を増上とし、禅定を重んじ、定を増上とするが、智慧を重んじず、慧を増上としない場合をいう。彼らは、わずかに学んだ戒律の中で、少しでも過ちを犯せば、そこからすぐに脱出することができる。なぜなら、私はこう言うからである。その人は、定められた学処を犯しても深く慚愧せず、清らかな梵行に従順であり、清らかな梵行を成就し、諸々の学処において、等持に安住し、学ぶところに安住することができる、と。彼は、必ず五下分結を尽くし、不還果を証し、不還の法を得て、化生を受け、その世間において般涅槃するであろう。あるいは中般となり、あるいは生般となり、あるいは有行般となり、あるいは無行般となり、あるいは上流となって色究竟天に至り、あるいは非想非非想処に至って、般涅槃する。これを増上心学と名づける。」
「何等名為增上慧學?謂諸苾芻尊重尸羅,戒為增上;尊重等持,定為增上;尊重般若,慧為增上。彼於少小所學戒中,微有所犯即能出離。所以者何?我說彼人終不毀犯所制學處不深慚愧,定能隨順清淨梵行、定能成辦清淨梵行,於諸學處,能住般若,能住所學。彼人定能永盡諸漏,得真無漏,心善解脫,慧善解脫,於現法中具足安住,自證通慧,能自了知:我生已盡,梵行已立,所作已辦,不受後有。如是名為增上慧學。
「では、増上慧学とは何か。比丘たちが戒を尊び、戒をよりどころとし、禅定を尊び、定をよりどころとし、智慧を尊び、慧をよりどころとすることをいう。彼らは、たとえ小さな学びの戒であっても、わずかに犯すことがあれば、そこから速やかに脱出することができる。なぜなら、私はこう説くからである。そのような人は、定められた学処を破り、深く慚愧することなく、必ず清らかな梵行に従い、必ず清らかな梵行を成就し、諸々の学処において智慧にとどまり、学ぶべきところにとどまることができる。その人は必ず全ての煩悩を尽くし、真の無漏を得、心はよく解脱し、智慧もよく解脱し、現世において十分に安住し、自ら智慧を証得して、自ら知る。すなわち、『我が生は尽き、梵行は既に立ち、なすべきことは既になし、後世の生存は受けない』と。これを増上慧学という。」
「如是名為學有三種,若正修習,令諸有情成下、中、上賢聖差別。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
「このようにして学びに三つの種類があり、正しく修習すれば、すべての有情(生命あるもの)を下・中・上の賢聖に差別させる。」その時、世尊(仏さま)はこの意味を簡潔にまとめて、次のような偈(うた)を説かれました。
「隨學因勢力, 常精進熾然,
下中上品修, 隨得果差別。
謂下精進修, 還成下品果,
中修得中果, 上修亦復然。
既知三品修, 所得果差別,
故應捨中下, 宜遵上品修。」
因果の力を学びながら、常に熱心に修行に励めば、 下位・中位・上位の修行のしかたに応じて、それぞれにふさわしい結果が得られる。
つまり、下位の努力で修行すれば、下位の結果を得る。 中位の修行なら中位の結果、 上位の修行なら、やはり上位の結果を得る。
このように三つのレベルの修行があり、それぞれ得られる結果が違うと知ったなら、 中位や下位の修行は捨て、上位の修行に励むべきである。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!若諸苾芻,具調善戒、具調善法、具調善慧,彼於我法毘柰耶中已具修行,名最上士。云何苾芻具調善戒?謂諸苾芻具淨尸羅,安住、守護別解脫戒,軌範所行無不圓滿,於微小罪見大怖畏,具能受學所應學處,成就清淨身、語二業,成就淨命,成就淨見,是名苾芻具調善戒。既具如是調善戒已,云何苾芻具調善法?謂諸苾芻勤修七種菩提分法,具足安住,是名苾芻具調善法。既具如是調善尸羅、調善法已,云何苾芻具調善慧?謂諸苾芻永盡諸漏,得真無漏,心善解脫,慧善解脫,於現法中具足安住,自證通慧,能自了知:我生已盡,梵行已立,所作已辦,不受後有。是名苾芻具調善慧。如是名為若有苾芻具調善戒、具調善法、具調善慧,彼於我法毘柰耶中已具修行,名最上士。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
私は世尊からこのようにお聞きしました。
「比丘たちよ、知るがよい。もし比丘が、よく調えられた戒を持ち、よく調えられた法を持ち、よく調えられた智慧を持つならば、その者は私の教えと律においてすでに修行を完成した者であり、最も優れた人と呼ばれる。
では、どのような比丘がよく調えられた戒を持つのか。比丘たちが清らかな戒を具え、別解脱戒を安住し守護し、範となる行いをすべて円満にし、微細な罪にも大きな怖れを見なし、学ぶべきところをよく受けて学び、清らかな身と語の二つの業を成就し、清らかな生活を成就し、清らかな見解を成就する。これを比丘のよく調えられた戒を持つという。
このようによく調えられた戒を持った上で、どのような比丘がよく調えられた法を持つのか。比丘たちが、七つの菩提分法を精進して修め、十分に安住する。これを比丘のよく調えられた法を持つという。
このようによく調えられた戒と法を持った上で、どのような比丘がよく調えられた智慧を持つのか。比丘たちが、すべての煩悩を永遠に尽くし、真の無漏を得て、心がよく解脱し、智慧がよく解脱し、現世において十分に安住し、自ら神通智慧を証得し、自らよく知る。『私は生を尽くした。梵行はすでに立てられた。なすべきことはすでに成し遂げた。もはや後の生存は受けない』と。これを比丘のよく調えられた智慧を持つという。
このように、もし比丘がよく調えられた戒を持ち、よく調えられた法を持ち、よく調えられた智慧を持つならば、その者は私の教えと律においてすでに修行を完成した者であり、最も優れた人と呼ばれる。」
そのとき、世尊はこの意味を再度まとめて、次の偈を説かれた。
「若身語意思, 離諸惡不善,
名具調善戒, 有慚愧苾芻。
若能善修行, 七菩提分法,
名具調善法, 有妙定苾芻。
若能正了知, 自永盡諸漏,
名具調善慧, 真無漏苾芻。
若具三調善, 威德世難思,
若已具修行, 最上聰明士。」
もし身体と言葉と思いが、 あらゆる悪しき行いを離れているならば、 その人は「戒をよく整えた修行者」と呼ばれ、 慚愧の心を持つ修行者である。
もし七つの悟りの要素(七菩提分)を よく修行するならば、 その人は「法をよく整えた修行者」と呼ばれ、 素晴らしい禅定を持つ修行者である。
もし煩悩の漏れをすべて尽くし、 それを正しく知り尽くしているならば、 その人は「智慧をよく整えた修行者」と呼ばれ、 真の無漏の修行者である。
もしこの三つの調えた状態(戒・定・慧)をそなえ、 その威徳は世にも不可思議であるならば、 その人はすでに修行を完成した、 最もすぐれた賢者である。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!諸有苾芻成就三分,應知是人於淨尸羅已得圓滿、於究竟位已得圓滿、於修梵行已得圓滿,已能窮至梵行後邊。云何為三?謂有苾芻,成就無學戒、定、慧蘊,是名苾芻成就三分,應知是人於淨尸羅已得圓滿、於究竟位已得圓滿、於修梵行已得圓滿,已能窮至梵行後邊。若諸苾芻,於淨尸羅已得圓滿、於究竟位已得圓滿、於修梵行已得圓滿,已能窮至梵行後邊。應知是人必不樂居村城聚落、房舍臥具,亦不樂與諸苾芻眾、苾芻尼眾、鄔波索迦、鄔波斯迦、勤策男等,同一園林喧雜而住。應知是人成就第一寂靜心法,獨守空閑,依四依住,離諸垢穢,內守真實,棄捨所求,無染、分別,不為世法之所塗染。譬如世間嗢鉢羅花、拘牟陀花、鉢特摩花、奔陀利花,依水而生、依水而長,雖從水出而不為水之所染著。是人亦爾,依世間生、依世間長,雖現世間,而不為諸世法所染。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
世尊から、私は次のようにお聞きしました。「比丘たちよ、知るがよい。比丘が三つの条件を成就しているならば、その人は清らかな戒律においてすでに円満し、究極の境地においてすでに円満し、清らかな行い(梵行)の修行においてすでに円満し、清らかな行いの最果てに至り尽くしていると知るべきである。その三つとは何か。すなわち、ある比丘が、無学の戒の集まり、定の集まり、慧の集まりを成就していること、これをもって比丘は三つの条件を成就していると言い、その人は清らかな戒律においてすでに円満し、究極の境地においてすでに円満し、清らかな行いの修行においてすでに円満し、清らかな行いの最果てに至り尽くしていると知るべきである。
もし比丘たちが、清らかな戒律においてすでに円満し、究極の境地においてすでに円満し、清らかな行いの修行においてすでに円満し、清らかな行いの最果てに至り尽くしているならば、その人は決して村や町、集落、あるいは住まいや寝具に執着して住むことを好まず、また多くの比丘たち、比丘尼たち、在家の男女(優婆塞・優婆夷)、見習いの男たちなどと同じ園林で、にぎやかに雑然と住むことを好まないと知るべきである。その人は第一の静かな心の法を成就し、独りで閑静な地を守り、四つの依処(四依)に従って住み、あらゆる汚れから離れ、内に真実を保ち、あらゆる求めることを捨て去り、汚れなく、分別なく、世間のあらゆるものに染まらないのである。
たとえば、世間の青蓮華(うんばらか)、黄蓮華(くもだか)、赤蓮華(はどまか)、白蓮華(ふんだりか)は、水に依って生じ、水に依って育つが、水から出ても水に染まらない。この人もまた同じで、世間に依って生まれ、世間に依って育つが、世に現れても世間のあらゆるものに染まることはないのである。」
その時、世尊はこの教えをまとめて、次のように偈を説かれました。
「無學三分成, 尸羅究竟位,
修梵行圓滿, 至梵行後邊。
如是苾芻眾, 得最上瑜伽,
永盡諸苦邊, 證無上安樂。」
「修行を完成した者は三つの分野が整い、 戒律は究極の域に達する。
清らかな行いを修め尽くし、 その道の果てに至る。
このように修行者たちは、 最も優れた実践(ヨーガ)を得て、
あらゆる苦しみの果てを永遠に断ち、 この上ない安らぎを実証する。」
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!若有希求三種樂事,應於淨戒不缺、不穿、不穢、不雜,於淨尸羅應起上品欲勤精進,終無懈廢。云何為三?一者希求名譽樂事,應於淨戒不缺、不穿、不穢、不雜,於淨尸羅應起上品欲勤精進,終無懈廢。二者希求利養樂事,應於淨戒不缺、不穿、不穢、不雜,於淨尸羅應起上品欲勤精進,終無懈廢。三者希求生天樂事,應於淨戒不缺、不穿、不穢、不雜,於淨尸羅應起上品欲勤精進,終無懈廢。是名希求三種樂事,應於淨戒不缺、不穿、不穢、不雜,於淨尸羅應起上品欲勤精進,終無懈廢。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
私は世尊からこのように聞きました。 「比丘たちよ、知るがよい。三つの楽しいことを望むなら、清らかな戒を欠けず、破らず、汚さず、混ざりなく保ち、その清らかな戒に対して最上の意欲と熱心な努力を起こし、決して怠り休むことがあってはならない。
その三つとは何か。 第一に、名声という楽しいことを望むなら、清らかな戒を欠けず、破らず、汚さず、混ざりなく保ち、その清らかな戒に対して最上の意欲と熱心な努力を起こし、決して怠り休むことがあってはならない。 第二に、利益や供養という楽しいことを望むなら、清らかな戒を欠けず、破らず、汚さず、混ざりなく保ち、その清らかな戒に対して最上の意欲と熱心な努力を起こし、決して怠り休むことがあってはならない。 第三に、天に生まれるという楽しいことを望むなら、清らかな戒を欠けず、破らず、汚さず、混ざりなく保ち、その清らかな戒に対して最上の意欲と熱心な努力を起こし、決して怠り休むことがあってはならない。
これらを、三つの楽しいことを望む者が、清らかな戒を欠けず、破らず、汚さず、混ざりなく保ち、その清らかな戒に対して最上の意欲と熱心な努力を起こし、決して怠り休むことがない、というのである。」
その時、世尊はこの意味をまとめて、次の偈を説かれた。
戒を守ることを喜び、 心を清らかに保つ者は、 名声、利益、天の楽しみ、 三つの願いを成就する。
「為求三種樂, 智者護尸羅,
謂世尚名譽、 利養、生天樂。
觀如是勝樂, 智者護尸羅,
當遠惡親知, 如避嶮惡道;
雖不造眾惡, 而親近惡人,
如以吉祥茅, 裹臭爛魚肉;
親所不應親, 狎所不應狎,
如持鮮淨物, 投糞穢深坑。
世間樂淨人, 常懼穢塗染,
有智者亦爾, 深怖惡親知。」
「三つの楽しみを求めて、賢者は戒律を守る。 すなわち、世間での名声、利益、そして天界の楽しみである。 このような素晴らしい楽しみを見て、賢者は戒律を守る。 悪しき友人や知人は、危険な悪路を避けるように遠ざけるべきである。 たとえ自ら悪を犯さなくても、悪人に近づけば、 まるで吉祥の草で、腐って臭う魚肉を包むようなものだ。 親しむべきでない者に親しみ、交わるべきでない者と交わるのは、 まるで清らかな物を手に取り、汚れた深い穴に投げ込むようなものだ。 世間で清らかさを愛する人は、常に汚れが染みつくのを恐れる。 賢者もまた、悪しき友人や知人を深く恐れるのである。」
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!有三種香,唯順風熏,不能逆風。云何為三?一者根香;二者莖香;三者花香。如是三種,唯順風熏,不能逆風。汝等苾芻,勿作是念:更無餘香,或順風熏、或逆風熏、或復順逆,皆悉能熏。所以者何?我佛法中有一妙香,能順風熏、能逆風熏、能順逆熏,天上、人中皆聞芬馥,世間賢聖無不珍愛。何等名為我佛法中有一妙香,能順風熏、能逆風熏、能順逆熏,天上、人中皆聞芬馥,世間賢聖無不珍愛?所謂戒香。由此戒香,能順風熏、能逆風熏、能順逆熏,天上、人中皆聞芬馥,世間賢聖無不珍愛。如是名為我佛法中有一妙香,能順風熏、能逆風熏、能順逆熏,天上人中皆聞芬馥,世間賢聖無不珍愛。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
私は世尊からこのようにお聞きしました。
「修行者よ、知っておきなさい。この世には三種類の香りがあり、風上には香りを運ばず、風下にのみ香りを届ける。その三つとは、根の香り、茎の香り、花の香りである。これらの三つは、風下にのみ香りを届け、風上には届けることができない。 しかし、修行者よ、『このほかに、風下にも風上にも、あるいはその両方にも香りを届ける香りはない』と考えてはいけない。なぜなら、わたしの教えの中には、一つの素晴らしい香りがあり、それは風下にも風上にも、その両方にも香りを届けることができるからだ。その香りは、天の世界でも人の世界でも、どこまでも芳しく、世の賢者や聖者たちが皆、愛してやまないものなのである。 その、わたしの教えの中にある素晴らしい香りとは、何か。それは『戒めの香り』である。この戒めの香りこそ、風下にも風上にも、その両方にも香りを届け、天の世界でも人の世界でもどこまでも芳しく、世の賢者や聖者たちが皆、大切にするものなのである。」
そのとき、世尊はこの教えをまとめて、次のように詩を唱えられました。
「世間諸所有, 根莖花等香,
皆不逆風熏, 以勢力微故。
唯我佛法中, 有一妙香類,
順風逆風等, 無不普皆熏;
天上及人中, 諸世間賢聖,
一切皆珍愛, 所謂淨戒香。
若能於此香, 無放逸而住,
生無倒定慧, 永盡眾苦邊。」
世の中にある、あらゆる根や茎、花などの香りは、 風に逆らっては香らない。その力が弱いからだ。 しかし、私の教えの中には、一つの素晴らしい香りがある。 それは風に順っても逆らっても、あまねくすべてに香り届く。
天の人々や、世の中の賢者たち、 すべてが大切に愛する、それが清らかな戒めの香りだ。 もしこの香りを、おごらずに保ち続けるなら、 誤りのない定めと智慧が生まれ、 ついにはすべての苦しみの限りを尽くすことができるのだ。
重攝前經嗢柁南曰:
重ねて先の経をまとめると、次の偈のようになります。
同界、感後有 求利及欲生
惡說似驢鳴 四學與四戒
同じ境遇にある者たちは、後の存在を感じ取る。 利益と欲望の生まれを求める。 悪しき言葉は、まるでロバの鳴き声のように響く。 四つの学問と四つの戒律がある。
本事經卷第六
本事経 巻第六