本事經卷第七
本事経 巻第七
大唐三藏法師玄奘奉 詔譯
大唐三蔵法師玄奘奉詔訳
三法品第三之二
第三品 三法(その二)
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!於此世間子有三種。云何為三?一者等子;二者勝子;三者劣子。云何等子?謂有一類父母具戒,成調善法,能離殺生、離不與取、離欲邪行、離虛誑語、離飲諸酒生放逸處。子亦具戒,成調善法,能離殺生、離不與取、離欲邪行、離虛誑語、離飲諸酒生放逸處,是名等子。云何勝子?謂有一類父母犯戒,成諸惡法,樂行殺生、行不與取、行欲邪行、行虛誑語、行飲諸酒生放逸處。子能持戒,成調善法,能離殺生、離不與取、離欲邪行、離虛誑語、離飲諸酒生放逸處,是名勝子。云何劣子?謂有一類父母具戒,成調善法,能離殺生、離不與取、離欲邪行、離虛誑語、離飲諸酒生放逸處。其子犯戒,成諸惡法,樂行殺生、行不與取、行欲邪行、行虛誑語、行飲諸酒生放逸處,是名劣子。如是名為於此世間子有三種。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
私は世尊からこう聞きました。
「比丘たちよ、知るがよい。この世には三種の子がある。どの三種か? 第一に等しい子、第二に勝れた子、第三に劣った子である。
**等しい子とは何か?** 親が戒律を具え、善法を身につけ、殺生を離れ、与えられないものを取ることを離れ、邪な性的行いを離れ、虚偽の言葉を離れ、放逸の原因となる酒を飲むことを離れている。その子もまた戒律を具え、善法を身につけ、これら同じことを離れている。これを等しい子という。
**勝れた子とは何か?** 親が戒律を破り、悪法を成就し、殺生を好み、盗み、邪淫し、嘘をつき、酒に溺れ放逸に生きている。しかし子は戒律を守り、善法を身につけ、これら悪を離れている。これを勝れた子という。
**劣った子とは何か?** 親が戒律を具え、善法を身につけ、悪を離れている。しかしその子は戒律を破り、悪法を成就し、殺生を好み、盗み、邪淫し、嘘をつき、酒に溺れ放逸に生きている。これを劣った子という。
これらがこの世における三種の子である。」
その時、世尊はこの意味をまとめて、次の偈を説かれた。
``` 智慧ある人は、子に勝ることを願う。 世において勝れぬことを願わず。 また等しいことも願わない。 子が自分に劣ることは、実に賢者の恥である。 ```
「世間聰慧人, 欣樂等、勝子,
不欣樂劣子, 勿損壞家門。
應知三子中, 一劣二為勝,
佛正覺而說, 諸賢聖亦然;
二俱信尸羅, 聰慧無慳悋,
如晴夜滿月, 處眾曜威光,
應親近供養, 諸佛所稱揚,
遠離諸垢塵, 所行無怖畏。」
世間の賢い人は、 優れた子や同等の子を喜び、 劣った子を喜ばない。 家門を損なってはならないからだ。
三種類の子のうち、 一つは劣り、二つは優れていると知るべきである。 仏が正しく覚り、説かれたことであり、 諸々の聖なる賢者たちもまた同じである。
その二人は共に戒を信じ、 賢く、けちけちせず、 晴れた夜の満月のように、 集まりの中で威光を輝かせる。
彼らに親しく近づき、供養すべきである。 諸仏に称賛され、 すべての汚れや塵を遠く離れ、 その行いに恐れはない。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!若有苾芻,尊重正法、愛樂正法,欣正法樂,精進修行,愛樂法行。如是苾芻隨念正法,常樂永斷貪不善根,無貪善根修令圓滿;常樂永斷瞋不善根,無瞋善根修令圓滿;常樂永斷癡不善根,無癡善根修令圓滿。修三善根得圓滿已,修四念住亦令圓滿。修四念住得圓滿已,修四正斷亦令圓滿。修四正斷得圓滿已,修四神足亦令圓滿。修四神足得圓滿已,修習五根亦令圓滿。修習五根得圓滿已,修習五力亦令圓滿。修習五力得圓滿已,修七覺支亦令圓滿。修七覺支得圓滿已,修八聖道支亦令圓滿。修八聖道支得圓滿已,明及解脫皆得圓滿。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
私は世尊からこのような教えを聞きました。 「比丘たちよ、知るがよい。もし比丘が、正しい教えを尊重し、正しい教えを愛し喜び、正しい教えの喜びに心から励み、教えを愛して実践するならば、その比丘は正しい教えを心に念じ、常に貪りの悪しき根を断ち切ることを喜び、貪りのない善き根を円満に修める。常に怒りの悪しき根を断ち切ることを喜び、怒りのない善き根を円満に修める。常に無知の悪しき根を断ち切ることを喜び、無知のない善き根を円満に修める。
三つの善き根を円満に修めたならば、四つの心の拠り所も円満に修める。四つの心の拠り所を円満に修めたならば、四つの正しい努力も円満に修める。四つの正しい努力を円満に修めたならば、四つの神通の足場も円満に修める。四つの神通の足場を円満に修めたならば、五つの修行の力も円満に修める。五つの修行の力を円満に修めたならば、五つの確固たる力も円満に修める。五つの確固たる力を円満に修めたならば、七つの悟りの要素も円満に修める。七つの悟りの要素を円満に修めたならば、八つの正しい道の要素も円満に修める。八つの正しい道の要素を円満に修めたならば、悟りの智慧と心の解放も円満に達する。」
その時、世尊はこの教えの意味をまとめて、次のように偈で説かれました。
「尊重法樂法, 欣法樂法行,
於法常隨念, 能不退正法。
法念修善業, 不念行惡行,
行法定能招, 此世他世樂。
法護行法人, 如雨時大傘,
行法獲法利, 定不墜三塗。」
法を尊び、法を楽しみ、 法を喜び、法に従って生きる。 常に法を心に念じるならば、 正しい法から退くことはない。
法の念によって善い行いを修め、 悪い行いをしようとは思わない。 法に従って行うことは、必ずや この世とあの世の幸せをもたらす。
法は法を行う人を守る、 ちょうど大雨の時の大きな傘のように。 法を行う者は法の利を得て、 決して三つの悪道に落ちることはない。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!世間略有三種尋思,有學苾芻未得心者,欣求無上安樂法時,能令退失。云何為三?一者親里相應尋思;二者利養相應尋思;三者妬勝相應尋思。如是略說三種尋思,有學苾芻未得心者,欣求無上安樂法時,能令退失。是故汝等應如是學:我當云何不起親里相應尋思?不起利養相應尋思?不起妬勝相應尋思?汝等苾芻,應如是學。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
私は世尊(仏陀)からこのように聞きました。
「比丘たちよ、世の中にはおおまかに三つの考えがある。まだ心の安らぎを得ていない修行中の比丘が、この上ない安らぎの法を求めているときに、これを退け失わせるものである。その三つとは何か。
第一に、親族に関する考え。 第二に、利養(利益や供養)に関する考え。 第三に、他人に勝とうとする思いから生じる考え。
このように、この三つの考えは、まだ心の安らぎを得ていない修行中の比丘が、この上ない安らぎの法を求めているときに、これを退け失わせるものである。それゆえ、あなたがたはこのように学ぶべきである。『どのようにすれば、親族に関する考えを起こさず、利養に関する考えを起こさず、他人に勝とうとする考えを起こさないようになるだろうか』と。比丘たちよ、あなたがたはこのように学びなさい。」
そのとき、世尊はこの意味をまとめて、次のように偈(うた)を説かれました。
「親族への想い、世の中の利得、勝ち誇る心――これらの三つの悪しき思いを離れた人は、真理に従い、煩悩の汚れを滅ぼすであろう。」
「依耽嗜尋思, 略說有三種,
學求無上樂, 為障必無疑。
依親里相應, 利養及妬勝,
去大樂大淨, 結盡甚為遙。
捨親屬利養, 及妬勝尋思,
攝止觀勤修, 速能盡眾苦。」
「欲望に基づく心の働きは、 大きく分けて三つあります。 最高の安らぎを求める方にとって、 これらが確かな妨げとなるのです。
一つは親族への執着 二つは利益や名声への執着 三つは勝ち負けへの競り合い。 これらがあると、大きな安らぎや清らかさから遠ざかり、 煩悩をなくす道はとても遠くなってしまいます。
そこで、親族や利益・名声、 そして競い合う心を手放し、 心を静める修行と物事を観察する修行に励めば、 速やかにあらゆる苦しみを滅ぼすことができるのです。」
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!略有三法,有學苾芻未得心者,欣求無上安樂法時,能令退失。云何為三?一者苾芻喜樂事業、貪愛事業、耽著事業;二者苾芻喜樂談話、貪愛談話、耽著談話;三者苾芻喜樂睡眠、貪愛睡眠、耽著睡眠。如是三法,有學苾芻未得心者,欣求無上安樂法時,能令退失。是故汝等應如是學:我當云何不樂事業、不愛事業、不著事業?我當云何不樂談話、不愛談話、不著談話?我當云何不樂睡眠、不愛睡眠、不著睡眠?汝等苾芻,應如是學。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
私は世尊からこのようにお聞きしました。
「修行者たちよ、知っておきなさい。おおよそ三つのことがあります。まだ心の安らぎを得ていない修行者たちが、最高の安らぎを求める時、その道を退かせてしまいます。三つとは何でしょうか?
第一に、修行者が仕事を好み、仕事に執着し、仕事に夢中になること。 第二に、修行者がおしゃべりを好み、おしゃべりに執着し、おしゃべりに夢中になること。 第三に、修行者が睡眠を好み、睡眠に執着し、睡眠に夢中になること。
これらの三つのことが、まだ心の安らぎを得ていない修行者たちが、最高の安らぎを求める時、その道を退かせてしまうのです。ですから、あなたがたはこのように学びなさい。 『どうすれば私は仕事を好まず、仕事に執着せず、仕事に夢中にならないだろうか。 どうすれば私はおしゃべりを好まず、おしゃべりに執着せず、おしゃべりに夢中にならないだろうか。 どうすれば私は睡眠を好まず、睡眠に執着せず、睡眠に夢中にならないだろうか。』 修行者たちよ、あなたがたはこのように学びなさい。」
その時、世尊はこの意味をまとめて、次のような偈を説かれました。
「求無上果時, 有三法令退,
樂愛著事業、 談話及睡眠。
有學諸苾芻, 若具此三法,
終不能證得, 最勝三菩提。
若欲求速證, 最勝三菩提,
應少事、話、眠, 正勤修止觀。」
無上の悟りの果を求める時、 退いてしまう原因となる三つの法がある。 すなわち、仕事や活動への執着を楽しむこと、 話し合いを愛すること、そして眠りにふけることである。
修行中の比丘たちよ、もしこの三つの法を具えているなら、 ついに最上の悟りである三菩提を証得することはできない。
もし速やかに最上の三菩提を証得しようと願うなら、 仕事や話、睡眠を減らし、 正しく精進して止観を修めなさい。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!有三種法和合現前,能令淨信諸善男子生無量福。云何為三?一者淨信和合現前,能令淨信諸善男子生無量福。二者施物和合現前,能令淨信諸善男子生無量福。三者福田和合現前,能令淨信諸善男子生無量福。是名三法和合現前,能令淨信諸善男子生無量福。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
私は世尊からこのようにお聞きしました。「比丘たちよ、知っておきなさい。三つの法が和合して目の前に現れるとき、清らかな信を持つ善男子たちに無量の福を生じさせます。その三つとは何でしょうか。第一に、清らかな信が和合して目の前に現れるとき、清らかな信を持つ善男子たちに無量の福を生じさせます。第二に、施しの物が和合して目の前に現れるとき、清らかな信を持つ善男子たちに無量の福を生じさせます。第三に、福田が和合して目の前に現れるとき、清らかな信を持つ善男子たちに無量の福を生じさせます。これが三つの法が和合して目の前に現れ、清らかな信を持つ善男子たちに無量の福を生じさせるということです。」そのとき、世尊はこの意味を再びまとめて、偈を説かれました。
「三法合現前, 能生無量福,
謂淨信、施物, 及真淨福田。
具慧具尸羅, 善調伏三毒,
修沙門梵行, 名真淨福田。
具慧具淨信, 手持如法財,
奉施良福田, 必當獲大果。
身四威儀中, 於三寶四諦,
正順無瑕穢, 名為淨信心。
於諸惠施中, 法施為最勝,
淨心演正法, 諸佛所稱譽。」
三つの要素がそろう時、 限りない福徳が生まれます。 それは、清らかな信と施すもの、 そして真に清らかな福田(福を育てる場)です。
智慧を具え、戒律を守り、 三毒(貪り・怒り・無知)をよく調伏し、 沙門(修行者)の清らかな行いを修める人—— これを、真に清らかな福田といいます。
智慧あり、清らかな信あり、 また、正しい方法で得た財を手に、 それを良き福田に施せば、 必ずや大きな果報を得るでしょう。
歩く・立つ・座る・臥すという四つの動作の中でも、 三宝と四諦に対して、 正しく従い、少しの汚れもない心—— これを清らかな信心といいます。
あらゆる施しの中でも、 法の施しが最もすぐれています。 清らかな心で正しい教えを説くこと—— これを諸仏はほめたたえられるのです。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!諸有智者,應以三種不堅之法貿易三堅。云何為三?一者應以不堅之財貿易堅財;二者應以不堅之身貿易堅身;三者應以不堅之命貿易堅命。
私は世尊からこのように聞きました。「比丘たちよ、知るべきである。智慧ある者たちは、三つの不確かなものを三つの確かなものと交換すべきである。その三つとは何か。第一に、不確かな財産を確かな財産と交換すること。第二に、不確かな身体を確かな身体と交換すること。第三に、不確かな命を確かな命と交換することである。」
「云何應以不堅之財貿易堅財?謂有淨信諸善男子或善女人,如法精勤,勞役手足,竭力流汗,所獲珍財,應自供身、奉上父母,賑給妻子、奴婢、僕使、朋友、眷屬,晝夜集會,歡娛受樂。而遇沙門或婆羅門——具淨尸羅,成調善法,勤修梵行,除去憍逸,忍辱、柔和,履正直路,棄諸邪道,趣涅槃城——以淨信心歡喜恭敬,如應如時,持用布施,遠求無上安樂涅槃,或希當來人天樂果,是名應以不堅之財貿易堅財。
不確かな財で確かな財を取引するとは、どういうことか。清らかな信仰を持つ善き男子や善き女人が、法に従い精進し、手足を働かせ、力を尽くして汗を流し、得た財宝で、自らの身を養い、父母に捧げ、妻子や奴婢、召使い、友人、親族を養い、昼も夜も集まって楽しみ、喜びを受ける。そのような人が、沙門(修行者)や婆羅門(聖職者)で、清らかな戒律を備え、よく調御された善い法を成就し、熱心に清らかな行いを修め、高慢や安逸を取り除き、忍耐と柔和を身につけ、正しい道を歩み、あらゆる邪な道を捨て、涅槃の都へ向かう者に出会ったなら、清らかな信心をもって喜び敬い、時に応じて、布施を行い、遠くにある無上の安らかな涅槃を求め、あるいは未来における人天の楽しい果報を願う。これこそ、「不確かな財で確かな財を取引する」と言うのである。
「云何應以不堅之身貿易堅身?謂有淨信諸善男子或善女人,成就正見,能離殺生,究竟圓滿無犯清淨;離不與取,究竟圓滿無犯清淨;離欲邪行,究竟圓滿無犯清淨;離虛誑語,究竟圓滿無犯清淨;離飲諸酒生放逸處,究竟圓滿無犯清淨。如是等類,是名應以不堅之身貿易堅身。
「どうして壊れやすい身をもって、堅固な身と引き換えるべきでしょうか。それは、清らかな信を持つ善男子や善女人が、正見を成就し、殺生を離れ、究極的に円満で犯すことのない清浄を成し遂げることです。不与取を離れ、究極的に円満で犯すことのない清浄を成し遂げることです。欲邪行を離れ、究極的に円満で犯すことのない清浄を成し遂げることです。虚誑語を離れ、究極的に円満で犯すことのない清浄を成し遂げることです。諸酒を飲み放逸の処を生ずることを離れ、究極的に円満で犯すことのない清浄を成し遂げることです。このような類をもって、壊れやすい身をもって堅固な身と引き換えるべきであると名づけます。」
「云何應以不堅之命貿易堅命?謂我法中諸聖弟子,如實了知是為苦諦;如實了知是苦集諦;如實了知是苦滅諦;如實了知是能趣向苦滅道諦。是名應以不堅之命貿易堅命。
「如是名為諸有智者,應以三種不堅之法貿易三堅。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
このように、賢明な人々は三つの堅固でないものをもって、三つの堅固なものと交換すべきである。」そのとき、世尊はこの意味を簡潔にまとめて、次のように偈を説かれた:
「如世有智人, 以賤而貿貴,
正見者亦爾, 以不堅易堅。
知此財、身、命, 不淨不堅牢,
求清淨堅牢, 世出世間樂。
天上財、身、命, 是世淨堅牢,
證常樂涅槃, 是真淨堅法。」
「世の中に賢い人がいるように 安いもので高いものを手に入れる。 正しい見解を持つ人もまた同じだ―― 堅くないものを、堅いものと取り換えるのだ。
この財産・身体・命が 清らかでもなく、堅固でもないと知って、 清らかで堅固なものを求めよ―― この世とあの世の、本当の安らぎを。
天の財産・身体・命は この世で清らかで堅固なもの。 しかし変わらぬ安らぎ・涅槃を證したとき、 それが本当に清らかで堅固な法である。」
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!根有三種,其性甚深、顯了甚深,其性難見、顯了難見。云何為三?一者未知當知根;二者知根;三者具知根。
世尊から、このように聞きました。 「比丘たちよ、知っておきなさい。三つの根(能力)がある。その本質は非常に深く、明らかにすることもまた非常に難しい。その本質を見極めるのは難しく、明らかにするのも難しい。その三つとは何か。第一に、まだ知らず、これから知ろうとする根。第二に、すでに知った根。第三に、完全に知り尽くした根、である。」
「何等名為未知當知根?謂我法中諸聖弟子,於未見知諸苦聖諦,為見為知,發生樂欲,策勵精進,攝心持心。於未見知苦集聖諦,為見為知,發生樂欲,策勵精進,攝心持心。於未見知苦滅聖諦,為見為知,發生樂欲,策勵精進,攝心持心。於未見知能趣苦滅真道聖諦,為見為知,發生樂欲,策勵精進,攝心持心,是名未知當知根。
「未知当知の根とは何か。それは、私の教えにおける聖なる弟子たちが、まだ見ず知らぬ苦しみの真理(苦諦)を、見て知ろうとして、願いを起こし、努力を励み、心を集中し保つことである。また、まだ見ず知らぬ苦しみの集まりの真理(集諦)を、見て知ろうとして、願いを起こし、努力を励み、心を集中し保つことである。さらに、まだ見ず知らぬ苦しみの滅びの真理(滅諦)を、見て知ろうとして、願いを起こし、努力を励み、心を集中し保つことである。そして、まだ見ず知らぬ苦しみの滅びに至る真実の道の真理(道諦)を、見て知ろうとして、願いを起こし、努力を励み、心を集中し保つことである。これを未知当知の根という。」
「何等名為知根?謂我法中諸聖弟子,如實了知:是苦聖諦,是苦集聖諦,是苦滅聖諦,是能趣苦滅真道聖諦。是名知根。
知根とは何か。私の教えにおいて、聖なる弟子たちがあるがままに理解する。すなわち、これは苦しみの真実、苦しみの原因の真実、苦しみの消滅の真実、苦しみの消滅に至る道の真実であると。これを知根という。
「何等名為具知根?謂我法中諸聖弟子,諸漏已盡,得真無漏,心善解脫,慧善解脫,能正了知:我生已盡,梵行已立,所作已辦,不受後有。是名具知根。
「具知根(ぐちこん)とは何か。わたしの教えにおいて、聖なる弟子たちで、すべての煩悩(ぼんのう)が尽き、真の無漏(むろ)を得て、心がよく解脱(げだつ)し、智慧もよく解脱し、『わたしの生はすでに尽きた。清らかな修行はすでに成就した。なすべきことはすでに成し遂げた。もはや迷いの世界に再び生まれることはない』と正しく知っている者たちのことをいう。これを具知根と名づける。」
「如是名為根有三種,其性甚深、顯了甚深,其性難見、顯了難見。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
このように、根には三つの種類があると説かれる。 その本性は極めて深遠であり、明らかにされてもなお深遠である。 その本性は見ることが難しく、明らかにされてもなお見ることが難しい。
その時、世尊はこの意味をまとめて、次の偈を説かれた。
「於我正法中, 聖弟子有學,
順修正直路, 是名第一根。
正知苦聖諦, 及苦集苦滅,
能趣苦滅道, 是名第二根。
第三根當知, 諸漏皆永盡,
證得真無漏, 心慧善解脫,
知我生已盡, 及梵行已立,
所作皆已辦, 不受後有身。
身心常寂靜, 善攝護諸根,
任持最後身, 降伏魔所使。」
私が説いた正しい教えの中で、 修行を積む聖なる弟子たちは、 正しい道に従って進む。 これを第一の能力(根)という。
苦しみの真理、苦しみの生じる原因、 苦しみの滅び、そして苦しみを滅する道を 正しく知る。 これを第二の能力という。
第三の能力は、あらゆる煩悩が 完全に尽きたとき、知られる。 真に煩わしさのない悟りを証し、 心と智慧は見事に解放される。 「私は生を尽くした。 清らかな修行は完成した。 なすべきことは全てなし終えた。 もはや再び迷いの世界に生まれることはない」と知る。
心と身体は常に静かで、 感覚の働きをよく整え守り、 最後のこの身体を保ちながら、 悪魔の仕業を打ち負かす。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!略有三種補特伽羅,為義利故應當親近。云何為三?一、有一類補特伽羅,成就劣戒、劣定、劣慧;二、有一類補特伽羅,成就等戒、等定、等慧;三、有一類補特伽羅,成就勝戒、勝定、勝慧。
私は世尊からこう聞きました。「比丘たちよ、知っておきなさい。おおまかに言って、三種類の人がおり、その利益のために親しく付き合うべきです。その三種類とは何か。第一に、戒律、禅定、智慧のいずれも劣っている人がいます。第二に、戒律、禅定、智慧が中程度の人がいます。第三に、戒律、禅定、智慧に優れた人がいます。」
「諸有一類補特伽羅,成就劣戒、劣定、劣慧,為何義利應當親近?謂於此類補特伽羅,無所希求,唯深悲愍,勸令勝進;為此義利應當親近。
ある種の人々は、戒律、禅定、智慧がいずれも未熟な段階にあります。そのような人々に何の利益があって親しく関わるべきなのでしょうか?それは、彼らに何かを期待するからではなく、ただ深い哀れみの心から、より高みへと励ますためです。この利益のために、親しく関わるべきなのです。
「諸有一類補特伽羅,成就等戒、等定、等慧,為何義利應當親近?謂於此類補特伽羅,作是思惟:彼當為我說相似戒,我當為彼說相似戒。更互聽聞,令得相續,多有所作。作是思惟:彼當為我說相似定,我當為彼說相似定。更互聽聞,令得相續,多有所作。作是思惟:彼當為我說相似慧,我當為彼說相似慧。更互聽聞,令得相續,多有所作。為此義利應當親近。
ある種の修行者は、同じような戒律・同じような禅定・同じような智慧を成就している。どのような目的で、そうした人に親しむべきなのか。
それは次のように考えるからである。 「あの人は私に、似たような戒律を説いてくれるだろう。私もあの人に、似たような戒律を説こう。互いに聞き合い、それが続くことで、多くの利益が生まれる。」 また、次のようにも考える。 「あの人は私に、似たような禅定を説いてくれるだろう。私もあの人に、似たような禅定を説こう。互いに聞き合い、それが続くことで、多くの利益が生まれる。」 さらに、次のようにも考える。 「あの人は私に、似たような智慧を説いてくれるだろう。私もあの人に、似たような智慧を説こう。互いに聞き合い、それが続くことで、多くの利益が生まれる。」 このような目的のために、そうした人に親しむべきなのである。
「諸有一類補特伽羅,成就勝戒、勝定、勝慧,為何義利應當親近?謂於此類補特伽羅,作是思惟:我當依彼,所有戒蘊,若未圓滿,修令圓滿;若已圓滿,內攝正念,堅固任持。作是思惟:我當依彼,所有定蘊,若未圓滿,修令圓滿;若已圓滿,內攝正念,堅固任持。作是思惟:我當依彼,所有慧蘊,若未圓滿,修令圓滿;若已圓滿,內攝正念,堅固任持。為此義利應當親近。
ある種の修行者が、優れた戒、優れた定、優れた慧をそなえている場合、どのような目的でその方に親しむべきでしょうか。それは、次のように考えるためです。「私は、その方のもとで、もし戒の集まりがまだ完全でなければ、修行して完全にしよう。もしすでに完全であれば、内に正念を保ち、しっかりと確立しよう。」「私は、その方のもとで、もし定の集まりがまだ完全でなければ、修行して完全にしよう。もしすでに完全であれば、内に正念を保ち、しっかりと確立しよう。」「私は、その方のもとで、もし慧の集まりがまだ完全でなければ、修行して完全にしよう。もしすでに完全であれば、内に正念を保ち、しっかりと確立しよう。」このような目的のために、その方に親しむべきなのです。
「如是名為略有三種補特伽羅,應當親近。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
このように、簡潔にまとめると、三種類の人物がおり、その人々に親しく近づくべきである。」 その時、世尊はこの意味をまとめて、次のように偈でお示しになりました。
「親劣為慈悲, 親等為相益,
親勝為已德, 圓滿或堅持。
親下士德劣, 親中士德中,
親上士德勝, 故應親上士。」
親しい人が自分より劣る場合は慈悲を持ち、 親しい人が自分と等しい場合は互いに利益を与え合い、 親しい人が自分より優れている場合はその人の徳を高め、 それを完全に保つか、あるいは堅持する。
親しい相手が下位の人は徳が劣り、 親しい相手が中位の人は徳が中程度であり、 親しい相手が上位の人は徳が勝れている。 よって、上位の人と親しむべきである。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!應於其身住不淨觀;應於其息住隨息念;應於諸行住無常觀、苦、無我觀。若能於身住不淨觀,便於淨界,當斷貪欲。若能於息住隨息念,便能斷外尋思障品。若能於行住無常觀、苦、無我觀,便於諸有能斷有愛。斷有愛故,便於世間無所執受;無執受故,便無怖畏;無怖畏故,便自內證究竟涅槃。證涅槃已,便自了知:我生已盡,梵行已立,所作已辦,不受後有。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
私は世尊からこう聞きました。「比丘たちよ、知るがよい。自分の身体に対しては、不浄の観察を住せよ。自分の呼吸に対しては、随息の念を住せよ。すべての形成されたもの〔諸行〕に対しては、無常・苦・無我の観察を住せよ。
もし身体に不浄の観察を住せば、清らかなものに対する貪りの欲望を断つことができる。もし呼吸に随息の念を住せば、外に向かう思考という障害を断つことができる。もし諸行に無常・苦・無我の観察を住せば、あらゆる生存に対する執着〔有愛〕を断つことができる。
有愛を断つゆえに、世間に執着するものはなくなる。執着するものがないゆえに、恐れはない。恐れがないゆえに、自ら内に究極の涅槃を証する。涅槃を証したならば、自ら悟る。すなわち『我が生は尽きた。清らかな行いは既に立てられた。なすべきことは成し遂げられた。もはや再び迷いの生存を受けることはない』と。」
そのとき、世尊はこの意味をまとめて、次の詩を説かれた。
「於身觀不淨, 於息住隨念,
觀諸行無常, 及與苦、無我;
達諸行性空, 得最勝寂靜,
愛盡無執受, 證究竟涅槃。」
身体を不浄と観じ、 呼吸に念を住まわせ、 すべての現象は無常であり、苦しみであり、我ではないと観じる。
諸行は本来空であると悟り、 最高の静寂を得る。 執着の尽きた無執着の境地に至り、 究極の涅槃を証する。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!諸有情身,常為三種勇健怨賊隨逐切害。云何為三?一者衰老勇健怨賊;二者疾病勇健怨賊;三者無常勇健怨賊。如是三種勇健怨賊,常隨切害諸有情身。有情身中,略有三法:一者壽命;二者煖氣;三者心識。如是三法,遠離身時,名為死沒。臭穢屍骸,棄在塚間,無所復用。所以者何?是身虛偽,諸法合成,其中勝者,謂壽、煖、識。而此諸法依因緣生,無常無強、無堅無力、迅速滅壞。老病死賊常隨不捨,而諸愚夫無明所覆,寶愛耽著無厭捨心。我聖弟子,能於如是假合成身,如實知見多諸過患,便於一切內外身中能深厭背;深厭背故,能離貪欲;離貪欲故,便得解脫。得解脫已,便自了知:我生已盡,梵行已立,所作已辦,不受後有。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
世尊から、私はこのようにお聞きしました。
「比丘たちよ、知るがよい。生きとし生けるものの身体は、常に三種類の力強い怨敵に追われ、害されている。その三つとは何か。第一に、老いという力強い怨敵。第二に、病という力強い怨敵。第三に、無常という力強い怨敵である。この三種類の力強い怨敵は、常に生きとし生けるものの身体に付きまとって害を加える。
生きとし生けるものの身体には、おおまかに三つの要素がある。一つは寿命、二つは体温、三つは心である。この三つの要素が身体を離れる時、それを死といい、滅び失せるという。すると、臭く汚れた死骸は、墓場に捨てられ、もはや何の役にも立たない。
なぜか。この身体は虚偽であり、様々な要素が寄り集まってできている。その中で優れたものは、寿命・体温・心である。しかし、これらの要素もまた原因と条件によって生じたものであり、無常であり、強くなく、堅固でなく、力もなく、速やかに壊れ滅びる。
老・病・死の賊は常に離れることなく追いかけてくる。それにもかかわらず、愚かな人々は無知に覆われ、この身体を愛し惜しみ、執着して、手放そうとしない。
しかし、私の聖なる弟子たちは、このような様々な要素が仮に集まってできた身体について、あるがままに知り観察し、多くの過ちや悩みがあることを見抜く。そして、内外のすべての身体に対して深く厭い離れる。深く厭い離れるからこそ、貪りの欲を離れる。貪りの欲を離れるからこそ、解脱を得る。解脱を得たならば、自ら悟る。『私は生を尽くし、清らかな行いを完成し、なすべきことをなし終え、もはや再び迷いの世界に生まれることはない』と。」
その時、世尊はこの意味を改めてまとめて、次のように偈を説かれた。
「一切有情身, 三怨賊隨害,
所謂老、病、死, 曾無暫捨時。
眾法合成身, 虛偽無堅實,
若捨壽、煖、識, 棄之於塚間。
愚夫無所知, 常寶愛耽著,
賢聖有智見, 厭之踰糞坑。
修無漏聖道, 斷三賊因緣,
證常樂涅槃, 永解脫三賊。
世間有智者, 當深厭自身,
求常樂涅槃, 精勤勿放逸。」
あらゆる生きとし生けるものの身体には、 三つの怨みの賊が付きまとって害をなす。 すなわち、老い、病、死である。 これらは、ほんの一瞬たりとも離れることはない。
様々な要素が集まってできたこの身体は、 虚ろで偽りであり、堅固な実体などない。 もし寿命・体温・意識(三つ)が去れば、 墓場に捨てられるだけのものとなる。
愚かな人はそれを知らず、 いつも(この身を)宝のように愛し固執する。 しかし賢い聖者は智慧ある眼で見て、 (この身を)糞溜めよりも嫌悪する。
煩悩なき聖なる道を修め、 三つの賊(老・病・死)の因縁を断ち切れば、 常住の楽である涅槃を証得し、 三つの賊から永遠に解脱するのだ。
世の中の知恵ある人は、 よくよく自分のこの身体を厭い離れ、 常住の楽である涅槃を求め、 怠ることなく精進せよ。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!諸福業事略有三種,應修、應習、應多修習。云何為三?一者施福業事;二者戒福業事;三者修福業事。
私は世尊(釈尊)からこのように聞きました。 「僧よ、知るがよい。様々な福徳をもたらす行いには、大きく分けて三つの種類がある。それらは修行し、習慣づけ、繰り返し修めるべきものである。その三つとは何か。第一に、布施による福徳の行い。第二に、戒律を守ることによる福徳の行い。第三に、心を修めることによる福徳の行いである。」
「何等名為施福業事?謂有淨信諸善男子或善女人,能施種種飲食餚饍、香鬘衣服、車乘臥具、堂宇室宅、燈燭庭燎、諸資生具,如是名為施福業事。
何をもって「施しの功徳となる行い」と呼ぶのか。それは、清らかな信心を持つ善男子や善女人が、様々な飲食やごちそう、花や衣服、乗り物や寝具、家屋や住宅、灯明やたいまつなど、生活に必要な物を施すことである。これを施しの功徳となる行いと名付ける。
「何等名為戒福業事?謂有淨信諸善男子或善女人,能離殺生,究竟圓滿無犯清淨;離不與取,究竟圓滿無犯清淨;離欲邪行,究竟圓滿無犯清淨;離虛誑語,究竟圓滿無犯清淨;離飲諸酒生放逸處,究竟圓滿無犯清淨。如是名為戒福業事。
「何を戒福業事と名づけるのでしょうか。清らかな信を持つ善男子や善女人が、殺生を離れ、究竟円満にして犯すことなく清浄であり、不与取を離れ、究竟円満にして犯すことなく清浄であり、欲邪行を離れ、究竟円満にして犯すことなく清浄であり、虚誑語を離れ、究竟円満にして犯すことなく清浄であり、諸酒を飲み放逸の処を生ずることを離れ、究竟円満にして犯すことなく清浄であります。このように戒福業事と名づけるのであります。」
「云何名為修福業事?謂有淨信諸善男子或善女人,修慈俱心,遍滿一方,具足安住。如是第二、第三、第四、上下方維,一切世界悉皆遍滿,具足安住,令慈俱心廣大無量,無怨無害,遍滿而住。修悲俱心,遍滿一方,具足安住。如是第二、第三、第四、上下方維,一切世界悉皆遍滿,具足安住,令悲俱心廣大無量,無怨無害,遍滿而住。修喜俱心,遍滿一方,具足安住。如是第二、第三、第四、上下方維,一切世界悉皆遍滿,具足安住,令喜俱心廣大無量,無怨無害,遍滿而住。修捨俱心,遍滿一方,具足安住。如是第二、第三、第四、上下方維,一切世界悉皆遍滿,具足安住,令捨俱心廣大無量,無怨無害,遍滿而住。如是名為修福業事。
「福業を修める事とは何を名づけるのでしょうか。それは、清らかな信を持つ善男子や善女人が、慈しみを伴った心を修め、一方を遍く満たし、具足して安住することです。同じように第二・第三・第四の方角、また上下と方角の間についても、一切の世界をことごとく遍く満たし、具足して安住し、慈しみを伴った心を広大無量にし、怨みなく害なく、遍く満たして住むのです。悲しみを伴った心を修め、一方を遍く満たし、具足して安住します。同じように第二・第三・第四の方角、また上下と方角の間についても、一切の世界をことごとく遍く満たし、具足して安住し、悲しみを伴った心を広大無量にし、怨みなく害なく、遍く満たして住むのです。喜びを伴った心を修め、一方を遍く満たし、具足して安住します。同じように第二・第三・第四の方角、また上下と方角の間についても、一切の世界をことごとく遍く満たし、具足して安住し、喜びを伴った心を広大無量にし、怨みなく害なく、遍く満たして住むのです。捨てる心を修め、一方を遍く満たし、具足して安住します。同じように第二・第三・第四の方角、また上下と方角の間についても、一切の世界をことごとく遍く満たし、具足して安住し、捨てる心を広大無量にし、怨みなく害なく、遍く満たして住むのです。このことを福業を修める事と名づけるのです。」
「於此所說三福業事,應修、應習、應多修習。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
この三つの福徳行について、修行すべく、慣れるべく、何度も繰り返し修行すべきである。 その時、世尊はこの意味を改めてまとめて、次のように偈でお説きになった。
「有三法應修、 應習、多修習,
能得三種樂, 所謂施、戒、修。
修施感多財, 修戒得長壽,
修慈悲喜捨, 當生清淨天。
世間有智人, 欲求殊勝樂,
應修此三福, 定當得無疑。」
三つの法がありまして、それを修行し、習い、繰り返し修行することで、三つの楽しみを得ることができます。 すなわち、施し、戒律、そして心の修行です。
施しを修行すれば多くの財産を得られ、戒律を修行すれば長寿を得られます。 慈しみ、悲しみ、喜び、そして捨てる心を修行すれば、清らかな天界に生まれるでしょう。
この世で智慧ある人は、優れた楽しみを求めるなら、 この三つの福徳を修行するべきです。そうすれば、必ずやそれらを得られるのです。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!世間最勝,略有三種。云何為三?一、於一切施設有情,無足、二足、四足、多足,有色、無色,有想、無想及與非想非非想中,佛為最勝,所謂如來、應、正等覺、明行圓滿、善逝、世間解、無上丈夫、調御士、天人師、佛、薄伽梵。若於佛所起淨信心,於諸信中最為第一。如是淨信所感果報,於天人中最為第一。二、於一切施設法門——世出世間、為無為等諸法門中,涅槃最勝,諸離憍慢,息諸渴愛,滅阿賴耶,斷諸徑路,愛盡離欲,寂靜涅槃。若於如是涅槃法中起淨信心,於諸信中最為第一。如是淨信所感果報,於天人中最為第一。三、於一切施設徒眾,朋侶邑義,諸集會中,佛聖弟子僧為最勝,謂四向、四果八補特伽羅,諸有情中,為真、為妙,為最第一。應奉延請、恭敬供養、稱揚讚歎,不悋身財,是諸世間人天等眾無上福田。若於如是賢聖僧中起淨信心,於諸信中最為第一。如是淨信所感果報,於天人中最為第一。如是名為三種最勝。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
世尊からこのようにお聞きしました。
「比丘たちよ、知るがよい。世の中における最も勝れたものは、大きく分けて三つある。その三つとは何か。
第一に、様々な生きものたち——足のないもの、二足のもの、四足のもの、多足のもの、姿のあるもの、姿のないもの、想いのあるもの、想いのないもの、さらには想いもあるともないとも言えないもの——の中にあって、仏こそが最も勝れている。すなわち、如来、応供、正等覚者、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏、世尊である。この仏に対して清らかな信心を起こすことは、あらゆる信心の中で最も勝れており、その清らかな信心がもたらす果報もまた、天や人の世界において最も勝れている。
第二に、世間と出世間、つくられたものとつくられざるものなど、あらゆる教えや門の中にあって、涅槃こそが最も勝れている。それは、おごりを離れ、渇愛を静め、阿頼耶識を滅ぼし、迷いの道を断ち、愛欲を尽くし、執着を離れた、静かな涅槃である。この涅槃に対して清らかな信心を起こすことは、あらゆる信心の中で最も勝れており、その清らかな信心がもたらす果報もまた、天や人の世界において最も勝れている。
第三に、あらゆる仲間や集まり、グループや会合の中にあって、仏の聖なる弟子の僧こそが最も勝れている。すなわち、四向・四果の八人の聖者たちである。彼らは、生きとし生けるものの中にあって、真実であり、優れており、最も勝れた存在である。招いてもてなし、敬い、供養し、称賛するに値し、身も財も惜しまずに捧げられるべき、世の人々や天人のための無上の福田である。この賢聖の僧に対して清らかな信心を起こすことは、あらゆる信心の中で最も勝れており、その清らかな信心がもたらす果報もまた、天や人の世界において最も勝れている。これらを三種の最勝と呼ぶのである。」
その時、世尊はこの教えをまとめて、次のように偈(うた)を説かれた。
「最勝有三種, 所謂佛、法、僧,
依生淨信心, 能見最勝法。
依佛生淨信, 知兩足中尊,
證無上菩提, 天人等應供。
依法生淨信, 知離欲中尊,
證無上涅槃, 寂靜常安樂。
依僧生淨信, 知諸眾中尊,
證無上福田, 天人等應供。
施最勝良田, 生最勝功德,
感最勝安樂, 壽色力名聞;
供養最勝人, 修行最勝法,
得最勝安樂, 天上或人中。
施三寶福田, 名最勝施者,
所在常安樂, 後當證涅槃。」
最も勝れたものは三つあり、それは仏、法、僧である。 清らかな信心を起こせば、この最も勝れた法を見ることができる。
仏に清らかな信心を起こせば、人天において最も尊い方を知り、 無上の悟りを証得し、天や人々から供養されるべき方と知る。
法に清らかな信心を起こせば、欲望を離れた最も尊いものを知り、 無上の涅槃を証得し、静けさの中で常に安楽であることを知る。
僧に清らかな信心を起こせば、多くの人々の中で最も尊い方を知り、 無上の福田を証得し、天や人々から供養されるべき方と知る。
最も勝れた良き田に施せば、最も勝れた功徳を生み、 最も勝れた安楽を得て、寿命も色も力も名声も備わる。
最も勝れた人を供養し、最も勝れた法を修行すれば、 最も勝れた安楽を得て、天上や人間の世界に生まれる。
三宝という福田に施す人は、最も勝れた施者と呼ばれ、 どこにいても常に安楽であり、後に涅槃を証得するであろう。
重攝前經嗢柁南曰:
重ねて先の経をまとめると、次の偈のようになります。
子、尊重、二學 福、堅、根、補羅
不淨等及怨 福業事、最勝
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!有三大師出現世間,利益、安樂無量眾生,哀愍世間天人大眾,令得無量義利、安樂。云何為三?
私が世尊からこのように聞きました。「比丘たちよ、知るがよい。世の中に現れる三人の偉大な師がいる。彼らは無数の衆生に利益と安楽をもたらし、天や人間を含む世の大衆を哀れみ、無数の義利と安楽を得させる。その三人とは何か。
「所謂如來、應、正等覺、明行圓滿、善逝、世間解、無上丈夫、調御士、天人師、佛、薄伽梵出現世間,為諸眾生開闡正法,初、中、後善,文義巧妙,示現純滿、清白梵行。謂是苦諦、是苦集諦、是苦滅諦、是能趣向苦滅道諦。如是名為第一大師出現世間,利益、安樂無量眾生,哀愍世間天人大眾,令得無量義利、安樂。
いわゆる如来、応供、正等覚、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏、世尊がこの世に現れ、すべての生きもののために正しい教えを説き明かされます。その教えは初めも中程も終わりも善く、言葉と意味が巧みで、完全で清らかな梵行(清浄な行い)を明らかに示しています。
すなわち、これは苦しみの真理、苦しみの原因の真理、苦しみの消滅の真理、苦しみの消滅へと導く道の真理である、と説かれます。
これこそが、第一の大師が世に現れて、無数の生きものに利益と安楽をもたらし、世の天や人の大衆をあわれみ、限りない意味ある利益と安楽を授けることなのです。
「復有如來、應、正等覺無學弟子——是阿羅漢,諸漏已盡,梵行已立,所作已辦,棄諸重擔,得自義利,盡諸有結,已正奉行如來聖教、已得解脫、已證遍知——出現世間,為諸眾生開闡正法,初、中、後善,文義巧妙,示現純滿、清白梵行,謂是苦諦、是苦集諦、是苦滅諦、是能趣向苦滅道諦。如是名為第二大師出現世間,利益、安樂無量眾生,哀愍世間天人大眾,令得無量義利、安樂。
また如来、応供、正等覚者の無学の弟子たち──すなわち阿羅漢であり、諸々の煩悩はすでに尽き、梵行はすでに確立され、なすべきことはすでに成し遂げ、重い荷を下ろし、自己の真の利益を得て、存在への執着をすべて断ち切り、如来の聖教を正しく実践し、すでに解脱を得て、すでに遍く知ることを証得した者たちが、世に現れ、多くの衆生のために正しい法を説き明かします。その法は初めも中も後も善く、文と義は巧みで、純粋で完全な、清らかな梵行を明らかに示します。すなわち、これが苦諦、これが苦集諦、これが苦滅諦、これが苦滅に至る道諦であると。これを、第二の大師が世に現れ、無量の衆生を利益し安楽にし、世間の天や人の大衆を哀れみ、無量の義利と安楽をもたらす、と名付けるのです。
「復有如來、應、正等覺有學弟子——具修梵行,具正多聞,所謂正聞契經、應頌、記別、伽陀、無問自說、本事、本生、方廣、希法,善知其義——出現世間,為諸眾生開闡正法,初、中、後善,文義巧妙,示現純滿、清白梵行,謂是苦諦、是苦集諦、是苦滅諦、是能趣向苦滅道諦。
また、如来(目覚めた方)、応供(ふさわしき方)、正等覚者(完全なる悟りを開いた方)には、修行を積んだ弟子がおります。彼らは清らかな行い(梵行)を完全に修め、正しい多聞を備えています。正しい多聞とは、経典(契経)、応頌、記別、伽陀、無問自説、本事、本生、方広、希法といった教えを正しく聞き、その意味をよく理解していることです。このような弟子が世に現れ、すべての人々のために正しい教えを説き明かします。その教えは、初めも中も終わりも善く、言葉と意味が巧みで、純粋で完全な清らかな行いを示します。すなわち、これは苦しみの真実、苦しみの原因の真実、苦しみの消滅の真実、苦しみの消滅へと向かう道の真実であると教えるのです。
「如是名為第三大師出現世間,利益、安樂無量眾生,哀愍世間天人大眾,令得無量義利、安樂。如是名為有三大師出現世間,利益、安樂無量眾生,哀愍世間天人大眾,令得無量義利、安樂。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
「これこそが第三の大師がこの世に現れ、無量の衆生に利益と安らぎをもたらし、世の天や人々を慈しみ、限りない利益と安楽を得させるものです。このようにして、三つの大師が世に現れ、無量の衆生に利益と安楽をもたらし、天や人々の大衆を慈しみ、限りない利益と安楽を得させるのです。」
その時、世尊はこの意味をまとめて、次の偈を説かれました。
「有三種大師, 若出現於世,
能利益安樂, 天人等世間。
一者謂如來, 二無學弟子,
三有學弟子, 具淨戒多聞。
如是三大師, 天人等應供,
能宣說正法, 廣開甘露門,
令無量眾生, 永盡諸有結,
解脫生死苦, 證常樂涅槃。
譬如善導師, 能示人善道,
正順而行者, 得安樂無疑。
如是三大師, 示眾生四諦,
修行無放逸, 定超生死邊。」
世の中には三種の大師が、この世に現れることがある。 天人のような世の中の者たちに利益と安らぎをもたらすために。
その第一は如来、第二は学びを終えた弟子、 第三は修行中の弟子であり、清らかな戒律と豊かな学識を備えている。
この三種の大師は、天や人の世界から供養されるべき方々である。 彼らは正しい教えを説き、甘露の門を広く開き、 限りない人々が、あらゆる生存への執着を永遠に断ち切り、 生死の苦しみから解き放たれて、永遠の安らぎである涅槃を悟るように導く。
たとえて言えば、優れた導き手が、人々に正しい道を示し、 その道に従って進む者が、迷いなく安らぎを得るようなもの。
このように三種の大師は、人々に四つの真理(四諦)を示し、 怠ることなく修行すれば、必ず生死の果てを超えられるのである。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!有三時中,諸天集會,歡喜詳議,更相勸勵來降人間。云何為三?
世尊がこうおっしゃいました。「比丘たちよ、知っておきなさい。天の神々が集まり、喜び合い、互いに励まし合って人間の世界にやって来る時が三度ある。その三度とは何か。」
「謂我弟子,或少資財,或多資財,或少眷屬,或多眷屬,或姓尊貴,或姓卑微,初發淨信,厭背家法,欣樂出家。爾時,諸天歡喜集會,咸相謂言:『天仙當知,今佛弟子與惡魔軍將興戰諍,我等宜應帥諸天眾往降人間,冥加祐助增彼信心,令無障難。』作是語已,來降人間,作所應作。如是名為第一時中,諸天集會歡喜詳議,更相勸勵來降人間。
「私の弟子たちの中には、財産が少ない者もいれば多い者もおり、従者や家族が少ない者もいれば多い者もいます。また、生まれが高貴な者もいれば低い者もいますが、皆、初めに清らかな信心を起こし、家に縛られる生活を嫌い、出家の道を喜んで選びました。その時、天人們は喜びに満ちて集まり、互いに言い合いました。『天の神仙たちよ、知っておきなさい。今、仏の弟子たちは悪魔の軍と戦いを始めようとしています。私たちは天の衆を率いて人間界に降り、ひそかに彼らを助け、その信心を強め、障りや困難がないようにすべきです』と。こう言い終えると、天人們は人間界に降り、なすべきことを行いました。これが第一の時に、天人們が集まって喜びをもって詳しく話し合い、互いに励まし合って人間界に降りた、という話です。」
「又我弟子,剃除鬚髮,被服袈裟,以正信心,棄捨家法,出趣非家,與諸苾芻同修和敬,安住守護別解脫戒,軌範所行無不圓滿,於微少罪見大怖畏,受學一切所應學處,成就清淨身、語、意業,成就淨命,成就淨見。爾時,諸天歡喜集會,咸相謂言:『天仙當知,今佛弟子與惡魔軍正興戰諍,我等宜應帥諸天眾往降人間,冥加祐助增彼威力,令勝魔軍。』作是語已,來降人間,作所應作。如是名為第二時中,諸天集會歡喜詳議,更相勸勵來降人間。
また、私の弟子たちは、鬚や髪を剃り落とし、袈裟を身にまとい、清らかな信心をもって、家のあり方を捨てて家なき境へと出立ち、多くの修行者と共に和やかに敬い合い、別解脱戒を守り安住し、行動の規範をすべて円満に実践し、微細な罪にも大きな恐れを抱き、学ぶべきすべての教えを受けて学び、清らかな身体・言葉・意の業を成就し、清らかな生活を成就し、清らかな見解を成就します。その時、天の人々は喜びの集いを開き、互いに語り合いました。「天の仙よ、知っておくがよい。今、仏の弟子たちは悪魔の軍勢と戦いの最中にある。我々は天の衆を率いて人間界に降り立ち、密かに彼らを助け、その力を増し、魔の軍に打ち勝たせるべきだ。」こう言い終えると、彼らは人間界に降り立ち、為すべきことを為しました。これを、第二の時に天の人々が集い、喜んで詳しく語り合い、互いに励まし合って人間界に降り立った、と言います。
「又我弟子,諸漏永盡,證真無漏,心善解脫,慧善解脫,於現法中,自證通慧,具足安住,能自了知:我生已盡,梵行已立,所作已辦,不受後有。爾時,諸天歡喜集會,咸相謂言:『天仙當知,今佛弟子與惡魔軍已興戰諍,已斷魔首、已碎魔軍,已自稱言:「我生已盡,梵行已立,所作已辦,不受後有。」我等宜應帥諸天眾持妙香花,往降人間禮拜供養,稱揚讚歎,請說正法,度脫己身生老病死。』作是語已,來降人間,作所應作。如是名為第三時中,諸天集會歡喜詳議,更相勸勵來降人間。
また、私の弟子たちは、あらゆる煩悩が永遠に尽きて、真実の無漏の境地を証得し、心が完全に解脱し、智慧も完全に解脱しています。現世において、自ら智慧と神通力を証得し、十分に安住し、自ら「私の生は尽きた。清らかな修行は完成した。なすべきことはすべて成し遂げた。もはや後の生存は受けない」と知っています。
その時、天の人々は喜んで集まり、互いに言い合いました。「天の聖者たちよ、知っておきなさい。今、仏の弟子たちは悪魔の軍と戦いを交え、すでに魔王の首を断ち、悪魔の軍を打ち破り、自ら宣言したのです。『我が生は尽きた。清らかな修行は完成した。なすべきことはすべて成し遂げた。もはや後の生存は受けない』と。私たちは天の衆を率いて、妙なる香や花を捧げ、人間界に降りて礼拝し供養しましょう。そして称賛し讃嘆し、正しい教えを説いていただくようお願いし、自らの生・老・病・死から解脱しましょう」
このように言い終えて、人間界に降り、なすべきことを行いました。これを第三の時に、天の人々が集まって喜び詳しく話し合い、互いに励まし合って人間界に降りた、と言います。
「苾芻當知!若有國土城邑聚落,有淨信心求出家者,有剃鬚髮正出家者,有出家已諸漏盡者,於彼國土城邑等中,諸大天仙及善神等皆來降下,勤加守護令其豐樂,風雨順時無諸疾疫;其中眾生慈心相向,同修善業,現在、當來長夜安隱,速證無上常樂涅槃。如是名為有三時中,諸天集會歡喜詳議,更相勸勵來降人間。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
「比丘よ、知るがよい。もしある国土、城邑、村落に、清らかな信心をもって出家を求める者があり、髪や髭を剃って正しく出家する者があり、出家してすでに煩悩を尽くした者があるならば、その国土や城邑などには、諸々の大天仙や善神たちが皆来臨し、熱心に守護してその地を豊かで安楽にし、風雨は時に適い、諸々の疫病はなくなる。その中の衆生は慈しみの心をもって互いに向き合い、共に善業を修め、現在も未来も長きにわたり安穏であり、やがて無上の常住の楽である涅槃を証得するであろう。このようにして、三つの時に諸天が集まり、喜びをもって語り合い、互いに励まし合って人間界に降臨するのである。」その時、世尊はこの意味を再びまとめて、次の偈を説かれた。
「諸天於三時, 歡喜共集會,
詳議相勸帥, 來降於人間。
最初求出家, 第二剃鬚髮,
第三漏永盡, 摧伏諸魔軍。
諸天見出家, 能永盡諸漏,
咸恭敬供養, 如是讚頌言:
『歸命殊勝人, 歸命最上士,
歸命摧魔眾, 獲得大名聞。』
諸天歡喜心, 祐助修供養,
希求剃鬚髮, 漏盡證無生。
是故應正勤, 繫念樂靜慮,
勇猛無放逸, 摧伏諸魔軍。
於佛法律中, 正信出家者,
能解脫諸漏, 永盡眾苦邊。」
諸天人々は、ただ三時に喜び集い合い、 話し合い、互いに励まし合いながら、人間の世界に降り立った。 まず、出家を求めることを勧め、次に髪やひげを剃ること、 第三には煩悩の漏れが完全に尽きて、悪魔の軍勢を打ち負かすことだ。 諸天は出家の姿を見て、煩悩が永遠に尽きることに気づき、 皆、敬い、供養し、このように賛嘆して言った。 『尊い方に帰依します。最も優れた方に帰依します。 悪魔の群れを打ち負かし、大きな名声を得た方に帰依します。』 諸天は喜びの心で、供養を助け支え、 髪やひげを剃り、煩悩を尽くし、無生の境地を証することを願った。 それゆえ、正しく精進し、心を一つに静慮を楽しみ、 勇猛果敢に怠ることなく、悪魔の軍勢を打ち負かすべきだ。 仏の教えと法の中で、正しい信仰をもって出家した者は、 あらゆる煩悩を解き放ち、苦しみの果てを永遠に尽くすことができるのである。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!略有三事,天勝於人。云何為三?一者長壽;二者端嚴;三者快樂。如是三事,天勝於人,百千萬倍不可稱計。所以者何?
世尊からこう聞きました。「比丘たちよ、知っておきなさい。天には人より優れた三つのことがある。何かというと、第一に長寿、第二に美貌、第三に幸福である。この三つにおいて、天は人より優れており、その差は百千万倍にも及び、計り知れない。なぜなら―
「如此人間五十年量,當彼天上四天王天一日一夜。如是日夜數至三十以為一月,積十二月以為一年。以如是年,四天王天壽量五百,當於人間九百萬歲。
人間の寿命を基準にして五十年が、四天王天の一日一夜に当たります。そのように計算した一日一夜を三十で一か月とし、十二か月で一年とします。この一年単位で、四天王天の寿命は五百年、それは人間の九百万年に相当します。
「如此人間一百年量,當彼天上三十三天一日一夜。如是日夜數至三十以為一月,積十二月以為一年。以如是年,三十三天壽量千歲,當於人間三千六百萬歲。
人の世の百年は、三十三天の一日一夜にあたります。そのようにして、三十日で一ヶ月、十二月で一年と数えます。三十三天の寿命は千年であり、これは人の世の三千六百万年にあたります。
「如此人間二百年量,當彼天上夜摩天中一日一夜。如是日夜數至三十以為一月,積十二月以為一年。以如是年,夜摩天中壽量二千歲,當於人間一億四千四百萬歲。
この人間の200年が、天界の夜摩天における一日一夜に当たります。そのようにして、その一日一夜を30回繰り返して一か月とし、12か月積み重ねて一年とします。こうした年数で計算すると、夜摩天の寿命は2千歳となり、それは人間の世界の1億4千4百万年に相当します。
「如此人間四百年量,當彼天上覩史多天一日一夜。如是日夜數至三十以為一月,積十二月以為一年。以如是年,覩史多天壽量四千,當於人間五億七千六百萬歲。
この人間界の四百年が、あの兜率天(とそつてん)での一日一夜にあたるのです。そのようにして数えた三十日で一か月、十二か月で一年となります。この一年を単位として、兜率天の寿命は四千年あり、それは人間界の五億七千六百万年に相当します。
「如此人間八百年量,當彼天上樂變化天一日一夜。如是日夜數至三十以為一月,積十二月以為一年。以如是年,樂變化天壽量八千,當於人間二十三億四百萬歲。
この人間の800年が、かの天の上の楽変化天における1日1夜に相当します。こうした昼夜の数え方で30日を1か月とし、12か月を積み重ねて1年とします。このような年数で測ると、楽変化天の寿命は8000年となり、それは人間の世界の23億400万年に相当します。
「如此人間千六百年,當彼天上他化自在天一日一夜。如是日夜數至三十以為一月,積十二月以為一年。以如是年,他化自在天壽量一萬有六千歲,當於人間九十二億一千六百萬歲(此中算數萬萬為億)。
この人間界の1600年が、かの天上の他化自在天における1日1夜にあたります。このようにして、30の昼夜を1か月とし、12か月を1年としています。そのような年数で数えると、他化自在天の天人の寿命は1万6000年となり、人間界の時間に換算すると92億1600万年になります。
「如是名為諸天長壽。諸天端嚴、諸天快樂,人間所有不可為喻。如是諸天三種勝事,一切皆是無常無恒,不可保信,變壞之法,死力所吞,繫屬於死。彼諸天眾臨命終時,有餘天眾來詣其所,教授教誡言:『諸天仙當願汝等往生善趣,生善趣已獲得善利,得善利已有所成辦。』此中諸天往何善趣?得何善利?何所成辦?謂彼諸天既命終已來生人中、得人同分,名往善趣。至人趣已,於佛所說法毘柰耶獲得正信,名得善利。如是正信增長、廣大,根深堅固,世間沙門或婆羅門,諸天魔梵,無能如法引令退轉,故名成辦。由成辦故,於佛法中多有所作,謂淨信心,出家受戒,修奢摩他、毘鉢舍那,觀四聖諦,永斷諸漏,證得涅槃,盡苦邊際。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
「このように、天人は長寿であり、天人は荘厳であり、天人は楽しみに満ちています。人間の世界にあるものは、これと比べることはできません。このような天人の三つのすぐれた徳も、すべて無常であり、恒常ではなく、信頼できるものではなく、変化し壊れる性質のものであり、死の力に飲み込まれ、死に支配されているのです。あの天人が命の終わりに臨む時、他の天人がそのもとに来て、教え諭して言います。『天の神々よ、願わくばあなたたちが善趣に生まれ、善趣に生まれたならば善利を得、善利を得たならば成弁するところあらんことを』と。ここで、天人はどのような善趣に生まれるのでしょうか?どのような善利を得るのでしょうか?何を成弁するのでしょうか?すなわち、あの天人が命終した後、人間の世界に生まれ来て、人間と同じ生存状態を得ることを、善趣に生まれると言います。人間の生存状態に至ったならば、仏の説かれた法と律において正しい信仰を得ることを、善利を得るといいます。このように正しい信仰が増長し、広大となり、根が深く堅固となり、世間の修行者やバラモン、諸天、魔、梵天であっても、法的にそれを退けさせることはできません。これを成弁すると言います。成弁したことにより、仏法において多くのことを成し遂げます。すなわち清らかな信心をもって、出家して戒を受け、奢摩他(サマタ)と毘鉢舍那(ヴィパッサナー)を修行し、四つの聖なる真理を観察し、一切の煩悩を永遠に断ち切り、涅槃を証得し、苦しみの究極の辺際を尽くすのです。」
その時、世尊はこの意味を再びまとめて、次の偈を説かれました。
「諸天三事勝, 長壽、端嚴、樂,
人中與挍量, 算數甚難及。
如是三勝事, 非常亦非恒,
難保變壞法, 死魔力所繫。
天將捨命時, 餘天集其所,
善教授教誡, 令生歡喜心。
當願汝天仙, 往生於善趣,
得預人同分, 生中國聰明,
於佛法律中, 獲得於正信,
增長根堅固, 邪教不能轉。
身語意惡行, 能方便棄捨,
彼所生過失, 亦能方便除。
多修身語意, 三殊勝善業,
如理正思惟, 令無量廣大。
修諸福業事, 謂施戒多聞,
於佛正法中, 出家修梵行,
正信修法行, 恒忍辱柔和,
或生天人中, 或證涅槃樂。
如是諸天仙, 來教誡教授,
將捨命天眾, 如母愍於子。
諸天常發願, 善趣轉增益,
令阿素洛等, 退散永無增。」
本事經卷第七
本事経 巻第七