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  1. 四明尊者教行録 (四明尊者教行錄)
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  3. 四明尊者教行録序 (四明尊者教行錄序)
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四明尊者教行録 (四明尊者教行錄)


四明尊者教行錄卷第一(并序)

四明尊者教行録 巻第一

四明石芝沙門宗曉編
陳隋兩國師天台智者。悟法華經旋陀羅尼。嗣法性宗。以無礙辯才。剖判三世佛乘。開闢一家教觀。人到于今承之。外有諸懺制法兩朝勅文建寺碑刻等。門弟子章安禪師。集之成書。號國清百錄。特蒙仁宗皇帝賜入大藏。同佛典誥流行。至是殆無餘蘊矣。然吾祖之道化被六十州。盛於隋唐。衰於五代。法不終否。至人利見。石晉天福中有通公法師。(諱義通)來自高麗。南參

陳と隋の両国師、天台の智者は、法華経の旋陀羅尼を悟り、法性宗を継ぎ、自在無礙の弁才をもって、三世の仏乗を明らかにし、独自の教えと観法を開きました。その教えは今日に至るまで受け継がれています。その他にも、懺悔の作法や両朝の勅文、寺院建立の碑文などがあり、門弟の章安禅師がこれらをまとめて一書とし、『国清百録』と名付けました。特に仁宗皇帝の恩恵により大蔵経に収められ、仏典と共に広く流布しました。これにより、その教えはほぼ完全に伝えられています。

しかし、我が祖師の教えは六十州に広まり、隋・唐の時代に隆盛を極め、五代の時に衰退しました。しかし、法はついに滅びることはなく、優れた師が現れて衆生を利益します。石晋の天福年間に、通公法師(諱は義通)が高麗から来朝し、南方に参じました。

螺溪(即天台山螺溪院𦏁寂法師也)盡得天台一宗之道。復欲杭海。大帥錢公固留之(錢諱惟治。吳越王之子。時判明州也)。遂傳洪於明之寶雲(寶雲乃福州運使顧承徽捨宅造寺。以處於師)。法席大開。得二神足而起家。一曰法智師(諱知禮)。一曰慈雲師(諱遵式)。法智尸延慶道場。中興此教。時稱四明尊者。慈雲建靈山法席。峙立解行。世號天竺懺主。慈雲生乾德二年。終明道之初。歷一百二十載。五世孫(慧觀)師。裒其遺文。成金園三集。行於世。法智生建隆改元。終天聖六祀。距今已一百七十有五年矣。所撰記鈔三十餘萬言。學者共宗。復有教門義章問答釋妨巨儒高釋往返書啟等。斷簡殘篇存者流逸。嗚呼。師一心講懺傳持四十年。脇不沾床。其應緣染翰。寧可以數量計。縱刊之於木石。書之於竹帛。亦千萬之一耳。(宗曉)末學無似。叨預教庠。竊睹師之垂言。雖片文隻字。咸為釋氏之法。豈得以任其蕪沒哉。於是劇意訪求。僅得一百餘篇。以類銓次析為七卷。目之曰四明尊者教行錄。四明迺所生得道轉法輪地。世珍其為人。咸以是而稱之。台宗戶牖莫不依教立行以行顯教。庶教行二途成修行一轍。師甞勗眾言。吾之或出或處。或語或默。未始不以教觀之旨為服味為杖几。今錄取以教行為名。亦尊者之志焉。大哉斯文既就。願與國清百錄天竺金園。鼎足而行。貽諸後代。共期祖道也。其乎未盡者。後賢隨見聞而續之。斯又盡善美矣。旹嘉泰二年壬戌歲臘月既望比丘(宗曉)謹序。

螺溪(天台山の螺溪院、義寂法師のこと)は天台宗の教えをすべて会得し、さらに海を渡ろうとしましたが、大帥の錢公(錢惟治、呉越王の子、当時明州の長官)に強く留められ、明州の宝雲寺(福州の運使、顧承徽が自宅を寄進して寺を建立し、師を住まわせた)で教えを広めることとなりました。法席は大いに開かれ、二人の優れた弟子を育て上げました。一人は法智師(知礼)、もう一人は慈雲師(遵式)です。法智師は延慶道場を主宰し、この教えを中興、世に四明尊者と称されました。慈雲師は霊山に法席を開き、解行を確立、天竺懺主と号されました。慈雲師は乾徳二年に生まれ、明道元年に示寂、百二十歳まで生きました。五世の孫(慧観)が遺文を集め『金園三集』として世に広めました。法智師は建隆元年に生まれ、天聖六年に示寂、今から百七十五年を経ています。著した記鈔は三十余万字に及び、学ぶ者たちのよりどころとなりました。ほかにも教門義章、問答、釈妨、碩学高僧との往復書簡などがありますが、断簡残篇として散逸しているものも少なくありません。ああ、師は四十年にわたり一心に講義と懺悔を行い、脇を床につけず、縁に応じて筆を執ったその言葉は、数えきれるものではありません。たとえ木石に刻み、竹帛に記したとしても、そのほんの一端にすぎないのです。(宗曉)は未熟な学僧でありながら、教えの学び舔に預かり、師の遺された言葉は、一片の文、一字であっても、すべて仏法の真髄であると感じ、そのまま埋もれさせてはならないと考えました。そこで懸命に探し求め、百篇余りを得て、内容ごとに分類し七巻にまとめ、『四明尊者教行録』と名づけました。四明は師が生まれ、悟りを開き、法輪を転じた地であり、世の人々が師を尊び、この名で呼んだのです。天台宗の門戸は、みな教えに基づいて行を立て、行によって教えを顕わすことにあります。教と行の二つの道が、修行という一つの轍となることを願ってやみません。師はかつて人々を励まして言われました。「私が出処進退し、語り黙するとき、常に教観の旨を糧とし、杖と机としてきた」。今、この録を「教行」と名づけるのも、尊者(法智師)の志に沿うものです。この文が完成したことを喜び、『国清百録』『天竺金園』とともに、三つ足の鼎のように後世に伝わり、共に祖道を目指すことを願います。なお、収めきれなかったものは、後世の賢者が見聞に従って補ってくだされば、それこそ完全に美しいことでしょう。時は嘉泰二年壬戌の歳、臘月既望、比丘(宗曉)謹んで序す。


尊者年譜

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