譬喻品第三
譬喩品第三
舍利弗說偈:
舎利弗が偈を説きました。
「金色三十二, 十力諸解脫,
同共一法中, 而不得此事。
八十種妙好, 十八不共法,
如是等功德, 而我皆已失。」
金色に輝く三十二の相、 十の力とさまざまな解脱、 これらすべてが一つの法の中にあるのに、 私はその境地を得ることができなかった。
八十種の見事な相好、 十八の仏独自の功徳、 このような尊い功徳を、 私はすべて失ってしまった。
此偈示現何義?舍利弗自呵責身:我不見諸佛、不往佛所聞法、不供養恭敬諸佛、無利益眾生事、未得法退,是故舍利弗呵責自身。不見者,不見諸佛如來大人相生恭敬供養心故。往者,示現教化眾生力故。放金色光明者,見佛自身異身得無量功德故。聞者,能作利益一切眾生故。力者,眾生有疑,依十力斷疑故。供養者,示現教化眾生力故。十八不共法者,遠離諸障礙故。恭敬者,生無量福德,依如來教得解脫故。人無我法無我,一切法平等故。是故舍利弗自呵責身:我未得如是法,於未得中退故。自此已下,為七種具足煩惱性眾生說七譬喻,對治七種增上慢應知。又三種染無煩惱人三昧解脫見等染慢,對治此故說三平等應知。何者七種具足煩惱性人?一者求勢力人;二者求聲聞解脫人;三者求大乘人;四者有定人;五者無定人;六者集功德人;七者不集功德人。七種增上慢者,顛倒求功德增上慢,以世間諸煩惱熾然而求天人妙境果報;對治此故,說火宅譬喻應知。聲聞人一向增上慢,我乘與如來乘無差別,如是顛倒取;對治此故,說窮子譬喻應知。大乘人一向增上慢,無別聲聞、辟支佛乘,顛倒取;對治此故,說雨譬喻應知。實無而有增上慢人,以有世間三昧三摩跋提,實無涅槃而生涅槃想;對治此故,說化城譬喻應知。散亂心實無有定,過去有大乘善根而不覺知,彼不求大乘,於狹劣心中生虛妄解以為第一乘;對治此故,說繫寶珠譬喻應知。有功德人說大乘法,而取非大乘;對治此故,說王解髻中明珠與之譬喻應知。無功德人於第一乘不集諸善根,說第一乘不取為第一;對治此故,說醫師譬喻應知。第一人者,以世間種種善根三昧功德方便令戲,後令入涅槃故。第二人者,以三為一,令入大乘故。第三人者,令知種種乘諸佛如來平等說法,隨眾生善根種子生芽故。第四人者,方便令入涅槃城故。涅槃城者,諸禪三昧城,過彼城已令入大涅槃城故。第五人者,示過去善根令憶念,教入三昧故。第六人者,說大乘法,以此法門同十地行滿,諸佛如來密與授記故。第七人者,根未熟為令熟故,示現涅槃量。為是義故,如來說此七種譬喻。何者三種無煩惱人?染慢顛倒信故。一者信種種乘異;二者信世間涅槃異;三者信彼此身異。為對治此三種染,說三種平等應知。一者乘平等,與聲聞授記,唯有大乘無二乘故;二者世間涅槃平等,以多寶如來入涅槃,世間、涅槃平等故;三者身平等,多寶如來已入涅槃,復示現身,自身、他身法身平等無差別故。是無煩惱人,染慢見彼此身所作差別,以不知彼此佛性法身平等故,即彼人我證此法、彼人不得。對治此故,與諸聲聞授記應知。彼聲聞等為實成佛故與授記、為不成佛與授記也?若實成佛者,菩薩何故於無量劫修集無量功德?若不成佛者,云何虛妄授記?彼聲聞授記者,得決定心,非成就法性故。如來依三平等說一乘法故,以如來法身與彼聲聞法身無異故與授記,非即具足修行功德故。是故菩薩功德具足,諸聲聞人功未具足。言授記者,有六處示現,五者如來記、一者菩薩記。如來記者,舍利弗、摩訶迦葉等眾所知識故,名號不同,故與別記。富樓那等五百人、千二百人等,同一名故,俱時與記。學無學等俱同一號,非眾所知識故,一時與記。與提婆達多記者,示現如來無怨故。與比丘尼及諸天女記者,示現女人在家、出家修菩薩行者皆證佛果故。菩薩授記者,如〈不輕菩薩品〉示現禮拜讚歎言:我不輕汝,汝等皆當作佛者,示諸眾生皆有佛性故。言聲聞授記者,聲聞有四種:一者決定聲聞;二者增上慢聲聞;三者退菩提心聲聞;四者應化聲聞。二種聲聞,如來與授記,謂應化聲聞、退已還發菩提心者。決定、增上慢二種聲聞,根未熟故,如來不與授記。菩薩與授記,菩薩授記者,方便令發心故。
この偈は何を表しているのでしょうか。舎利弗は自らを責めて、「私は諸仏を見ず、仏の所へ行って法を聞かず、諸仏を供養し恭敬せず、衆生を利益する事もなく、法を得ないうちに退いてしまった」と言っています。それゆえ舎利弗は自らを責めたのです。見ないとは、諸仏如来の大人相を見て恭敬供養の心を起こさないためです。往くとは、衆生を教化する力を示すためです。金色の光明を放つとは、仏の自身と異なる身を見て無量の功徳を得るためです。聞くとは、よく一切の衆生を利益できるためです。力とは、衆生に疑いがあるとき、十力によって疑いを断つためです。供養とは、衆生を教化する力を示すためです。十八不共法とは、もろもろの障礙を遠く離れるためです。恭敬とは、無量の福德を生じ、如来の教えによって解脱を得るためです。人無我・法無我とは、一切の法が平等であるためです。それゆえ舎利弗は自らを責めて、「私はこのような法をまだ得ていないのに、得ないうちに退いてしまった」と言うのです。ここから以下は、七種類の煩悩を具えた衆生のために七つの譬喩を説き、七種の増上慢を対治するものだと知るべきです。また、三種の煩悩のない人々の三昧・解脱・見などに関する染慢を対治するために、三平等を説くのだと知るべきです。七種の煩悩を具えた人とは何でしょうか。第一は勢力を求める人、第二は声聞の解脱を求める人、第三は大乗を求める人、第四は定のある人、第五は定のない人、第六は功徳を集める人、第七は功徳を集めない人です。七種の増上慢とは、まず顛倒して功徳を求める増上慢で、世間の諸煩悩が盛んに燃えているのに天人微妙の境の果報を求めるものです。これを対治するために火宅の譬喩を説くのだと知るべきです。声聞の人は一向に増上慢で、「我が乗と如来の乗に差別はない」と顛倒して取ります。これを対治するために窮子の譬喩を説くのだと知るべきです。大乗の人は一向に増上慢で、「声聞・辟支仏の乗と別はない」と顛倒して取ります。これを対治するために雨の譬喩を説くのだと知るべきです。実には無いのに有るとする増上慢の人は、世間の三昧・三摩跋提があるために、実には涅槃がないのに涅槃という想いを生じます。これを対治するために化城の譬喩を説くのだと知るべきです。散乱した心で実に定がなく、過去に大乗の善根があったのに気づかず、その人は大乗を求めず、狭く劣った心の中に虚妄の理解を生じてこれを第一の乗と思います。これを対治するために、宝珠を結ぶ譬喩を説くのだと知るべきです。功徳のある人は大乗の法を説かれても、それを大乗でないと取ります。これを対治するために、王が髻の中の明珠を解いて与える譬喩を説くのだと知るべきです。功徳のない人は第一の乗に諸々の善根を集めず、第一の乗を説かれてもそれを第一と取りません。これを対治するために医師の譬喩を説くのだと知るべきです。第一の人については、世間の種々の善根・三昧・功徳を方便として種々に遊ばせ、後に涅槃に入らせるためです。第二の人については、三を一として大乗に入らせるためです。第三の人については、種々の乗について諸仏如来が平等に法を説き、衆生の善根の種子が芽を生じるのに随うことを知らせるためです。第四の人については、方便して涅槃の城に入らせるためです。涅槃の城とは諸禅三昧の城であり、その城を過ぎて大涅槃の城に入らせるためです。第五の人については、過去の善根を示して思い出させ、三昧に入るよう教えるためです。第六の人については、大乗の法を説き、この法門によって十地の行が満ちることを、諸仏如来が密かに授記されるためです。第七の人については、根が未熟な者を熟させるために、涅槃の量を示すためです。以上の意味のために、如来はこの七種の譬喩を説かれたのです。三種の煩悩のない人とは何でしょうか。染慢と顛倒の信によるものです。第一は種々の乗が異なると信じること、第二は世間と涅槃が異なると信じること、第三は彼此の身が異なると信じることです。この三種の染を対治するために、三種の平等を説くのだと知るべきです。第一は乗の平等で、声聞に授記を与え、ただ大乗のみがあって二乗はないためです。第二は世間と涅槃の平等で、多宝如来が涅槃に入られたことにより、世間と涅槃が平等であるためです。第三は身の平等で、多宝如来がすでに涅槃に入られていながら再び身を示されたことにより、自身と他身の法身が平等で差別がないためです。この煩悩のない人は、彼此の身に所作の差別があるという染慢の見を持ち、彼此の仏性・法身が平等であることを知らないために、「あの人はこの法を証したが、この人は得ていない」と思います。これを対治するために、諸々の声聞に授記を与えるのだと知るべきです。では、それらの声聞たちは、実際に成仏するために授記を与えられたのでしょうか、成仏しないのに授記を与えられたのでしょうか。もし実際に成仏するのなら、菩薩はなぜ無量劫のあいだ無量の功徳を修集するのでしょうか。もし成仏しないのなら、なぜ虚妄に授記を与えるのでしょうか。それらの声聞への授記は、決定心を得させるためであり、法性を成就させるためではありません。如来は三平等によって一乗の法を説かれるので、如来の法身とそれらの声聞の法身に異なりがないために授記を与えられるのであって、ただちに修行の功徳を具足するからではありません。それゆえ菩薩の功徳は具足し、諸々の声聞の人は功がまだ具足していないのです。授記と言うのは六つの場合に示されます。五つは如来の授記、一つは菩薩の授記です。如来の授記とは、舎利弗や摩訶迦葉などは人々によく知られているため、名号が異なるので個別に授記されます。富楼那などの五百人、千二百人などは同じ名であるため、同時に授記されます。学・無学などはみな同じ名号で、人々によく知られていないため、一時に授記されます。提婆達多に授記を与えられたのは、如来に怨みがないことを示すためです。比丘尼や諸天女に授記を与えられたのは、女人が在家・出家で菩薩行を修める者もみな仏果を証することを示すためです。菩薩の授記とは、〈不軽菩薩品〉に示されるように、礼拝し讃嘆して「私はあなたを軽んじません。あなたたちはみな仏となるでしょう」と言うのは、すべての衆生に仏性があることを示すためです。声聞の授記と言えば、声聞には四種あります。第一は決定声聞、第二は増上慢の声聞、第三は菩提心を退いた声聞、第四は応化の声聞です。二種の声聞には如来が授記を与えられます。すなわち応化の声聞と、退いた後に再び菩提心を発した者です。決定声聞と増上慢の二種の声聞には、根が未熟なため、如来は授記を与えられません。菩薩に授記を与えるもの、菩薩の授記とは、方便として発心させるためです。
又依何義故,如來說三乘名為一乘?依同義故,與諸聲聞授記。同義者,以如來法身、聲聞法身平等無差別故。以聲聞、辟支佛異乘故有差別,以彼非大乘故。如來說言不離我身是無上義,一切聲聞、辟支佛法中不說此義,以不能解故,是故諸菩薩行菩薩行非為虛妄。無上義者,餘殘修多羅明無上義,無上義有十種應知。一者示現種子無上故說雨譬喻。「汝等所行是菩薩道」者,謂發菩提心退已還發者,前所修行善根不滅,同後得果故。二者示現行無上故,說大通智勝如來本事等故。三者示現增長力無上故,說商主譬喻。四者示現令解無上故,說繫寶珠譬喻。五者示現清淨國土無上故,示現多寶如來塔。六者示現說無上故,說髻中明珠譬喻。七者示現教化眾生無上故,地中踊出無量菩薩摩訶薩等故。八者示現成大菩提無上者,示現三種佛菩提:一者應化佛菩提,隨所應見而為示現故,如經「皆謂如來出釋氏宮,去伽耶城不遠,坐於道場得阿耨多羅三藐三菩提」故。二者報佛菩提,十地行滿足得常涅槃證故,如經「善男子!我實成佛已來無量無邊百千萬億那由他劫」故。三者法佛菩提,謂如來藏性淨涅槃常恒清涼不變故,如經「如來如實知見三界之相,乃至不如三界見於三界」故。三界相者,謂眾生界即涅槃界,不離眾生界有如來藏故。「無有生死若退若出」者,謂常恒清涼不變故。「亦無在世及滅度」者,謂如來藏真如之體,不即眾生界、不離眾生界故。「非實非虛非如非異」者,謂離四種相故,有四種相者是無常故。「不如三界見三界」者,如來能見能證真如法身,凡夫不見故。是故經言「如來明見無有錯謬」故。「我本行菩薩道今猶未滿」者,以本願故,眾生界未盡,願非究竟故。言未滿者,非謂菩提不滿足故。「所成壽命復倍上數」者,示現如來常命方便,顯多數過上數量不可數知故。「我淨土不毀而眾見燒盡」者,報佛如來真實淨土,第一義諦攝故。九者示現涅槃無上故,說醫師譬喻。十者示現勝妙力無上故,說餘殘修多羅應知。多寶如來塔顯示一切佛土清淨者,示現諸佛實相境界中種種間錯莊嚴故。塔者,示現如來舍利住持故。量者,方便示現一切佛國土清淨,出世間無漏善根所生,非世間有漏善所生故。略者,多寶如來身一體,示現攝取一切佛法身故。住持者,示現諸佛如來法身自在身力故。示現無量佛者,示現彼此所作業無差別故。遠離穢不淨者,示現一切佛國土平等清淨故。言多寶者,示現一切佛土同寶性故。同一塔坐者,示現化佛非化佛,法佛報佛等皆為成大事故。自此已下,示現法力、持力、修行力應知。法力者,五種門示現:一者證;二者信;三者供養;四者聞法;五者讀誦持說。四種門〈彌勒品〉中示現,一法門〈常精進菩薩品〉示現。〈彌勒品〉中四種門者,一者證,如經「我說是如來壽命長遠,時六百八十萬億那由他恒河沙眾生得無生法忍」故。此言無生法忍者,謂初地證智應知。八生乃至一生得阿耨多羅三藐三菩提者,謂證初地菩提故。八生乃至一生者,謂諸凡夫決定能證初地,隨力隨分八生乃至一生證初地故。言阿耨多羅三藐三菩提者,以離三界中分段生死,隨分能見真如佛性名得菩提,非謂究竟滿足,如來方便涅槃故。信者,如經「復有八世界微塵眾生,皆發阿耨多羅三藐三菩提心」故。供養者,如經「是諸菩薩摩訶薩得大法利,時於虛空中雨曼陀羅華」如是等故。聞法者,如〈隨喜品〉說應知。一法門,〈常精進菩薩品〉示現者謂讀誦解說書寫等,得六根清淨故。如經「若善男子善女人受持法華經,若讀若誦若解說若書寫,是人當得八百眼功德,乃至千二百意功德」故。此得六根清淨者,謂凡夫人以經力故得勝根用,未入初地菩薩位應知。如經「以父母所生清淨肉眼,見於三千大千世界」如是等。又六根清淨者,於一一根中悉能具足見色、聞聲、知香味觸法等用應知。眼見者,聞香能知,如經「釋提桓因在勝殿上五欲娛樂,乃至說法聞香知」者,此是智境鼻根知故。持力者,有三種法門示現,如〈法師品〉、〈安樂行品〉、〈勸持品〉等廣說法力應知。「其心決定知水必近」者,受持此經得佛性水,成阿耨多羅三藐三菩提故。修行力者五門示現:一者說力;二者行苦行力;三者護眾生諸難力;四者功德勝力;五者護法力。說力者有三種法門,〈神力品〉中示現:一出廣長舌者,憶念故;二𡄇咳聲者,說偈令聞故,聞聲已如實修行不放逸故;三彈指令覺悟者,令修行者覺悟故。行苦行力者,〈藥王菩薩品〉示現教化眾生。行苦行者,〈妙音菩薩品〉示現教化眾生。護眾生難,〈觀世音品〉、〈陀羅尼品〉示現。功德勝力者,〈妙莊嚴王品〉示現,依過去功德,彼童子有如是力故。護法力者,〈普賢品〉及後品中示現。又說言受持觀世音菩薩名及受持六十二恒河沙諸佛名彼福德平等者,有二種義:一者信力故;二者畢竟知故。信力者有二種:一者求我身如觀世音,畢竟信故;二者生恭敬心,如彼功德我亦畢竟得故。畢竟知者,決定知法界故。法界者名法性。彼法性,入初地菩薩能證入一切諸佛菩薩平等身故。平等身者,謂真如法身。是故受持六十二恒河沙佛名、受持觀世音菩薩名,功德無差別。
また、どのような意味によって、如来は三乗を説いて一乗と名付けるのか。同じ意味によって、もろもろの声聞に授記するのである。同じ意味とは、如来の法身と声聞の法身が平等で差別がないからである。声聞や辟支仏は異なる乗であるから差別があるが、それは彼らが大乗ではないからである。如来が説きたまう「我が身を離れず」というのは無上の義であり、一切の声聞・辟支仏の法の中にはこの義を説かない。彼らが解することができないからである。それゆえ、もろもろの菩薩が菩薩行を行うのは虚妄ではないのである。
無上の義とは、残りの経典において無上の義を明かす。無上の義には十種があると知るべきである。一には、種子の無上を示すために雨の譬えを説くのである。「汝らの行じるところは菩薩道なり」とは、菩提心を発して退いてまた発する者について、前に修行した善根は滅せず、後(に得る果)と同じ果を得るからである。二には、行の無上を示すために、大通智勝如来の本事などを説くのである。三には、增長力の無上を示すために、商主の譬えを説くのである。四には、解を令め得させる無上を示すために、宝珠を繋ぐ譬えを説くのである。五には、清浄な国土の無上を示すために、多宝如来の塔を示現するのである。六には、説の無上を示すために、髪の髻の中の明珠の譬えを説くのである。七には、衆生を教化する無上のことを示すために、地の中から無量の菩薩摩訶薩などが涌出することを示すのである。八には、大菩提を成ずる無上を示すものであり、三種の仏菩提を示す。一には応化仏の菩提であり、応じて見るべきところに従って示現するからである。経に「皆、如来が釈氏の宮を出でて、伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得たまえりと思う」とあるが如きである。二には報仏の菩提であり、十地の行を満足して常涅槃の証を得るからである。経に「善男子よ!我れ実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫を経たり」とあるが如きである。三には法仏の菩提であり、如来蔵の性の浄き涅槃、常恒に清凉にして変わらざることを謂う。経に「如来は三界の相を如実に知見したまう。乃至、三界の如くならずして三界を見たまう」とあるが如きである。三界の相とは、衆生界すなわち涅槃界であり、衆生界を離れて如来蔵があるのではないことを謂う。「生死なく、退くことも出ることもなし」とは、常恒に清凉にして変わらざることである。「在世もなく、また滅度もなし」とは、如来蔵の真如の体は、衆生界に即するのでもなく、衆生界を離れるのでもないからである。「実ならず、虚ならず、如ならず、異ならず」とは、四種の相を離れるからである。四種の相があれば、それは無常だからである。「三界の如くならずして三界を見る」とは、如来は真如の法身を見、証することができるが、凡夫は見ないからである。それゆえ経に「如来は明らかに見て錯谬なし」と説かれるのである。「我れ本に菩薩行を行じ、今もおおかた未だ満たず」とは、本願によるからである。衆生界が尽きないので、願は究竟ではないからである。未だ満たずと言うのは、菩提が満足しないという意味ではないのである。「成じたまえる寿命は、なおも上(に説かれた)数を倍す」とは、如来の常命の方便を示現し、多くの数が上の数量を超えて、数え知ることができないことを顕わすのである。「我が浄土は毀れずして、衆の見るところは焼け尽くるなり」とは、報仏如来の真実の浄土は、第一義諦に摂せられるからである。九には、涅槃の無上を示すために、医師の譬えを説くのである。十には、勝妙な力の無上を示すために、残りの経典によって知るべきである。
多宝如来の塔が一切の仏土の清浄を示すのは、諸仏の実相の境界の中に、種々の間錯する荘厳があることを示すからである。塔とは、如来の舍利の住持を示すのである。量とは、方便をもって一切の仏国土の清浄を示すものであり、出世間の無漏の善根によって生じたものであって、世間の有漏の善によって生じたものではないからである。略とは、多宝如来の身は一体であり、一切の仏の法身を摂取することを示すのである。住持とは、諸仏如来の法身の自在の身力を示すのである。無量の仏を示現するとは、彼此のなす業に差別がないことを示すのである。穢れ不浄を遠離するとは、一切の仏国土が平等に清浄であることを示すのである。多宝と言うのは、一切の仏土が同じく宝の性を持つことを示すのである。同一の塔に坐するとは、化仏も非化仏も、法仏・報仏もみな大事故を成ずることを示すのである。
これより已下は、法力・持力・修行力を示すと知るべきである。法力とは、五種の門をもって示す。一には証、二には信、三には供養、四には聞法、五には読誦持説である。四種の門は〈弥勒品〉において示し、一法門は〈常精進菩薩品〉において示す。〈弥勒品〉における四種の門とは、一には証であり、経に「我れこの如来の寿命の長遠なることを説きし時、六百八十万億那由他恒河沙の衆生、無生法忍を得たり」とあるが如きである。この無生法忍と言うのは、初地の証智を謂うと知るべきである。八生乃至一生にして阿耨多羅三藐三菩提を得ると言うのは、初地の菩提を証することを謂うのである。八生乃至一生とは、もろもろの凡夫が決定して初地を証することができるのであり、力に随い分に随いて八生乃至一生にして初地を証するのである。阿耨多羅三藐三菩提と言うのは、三界の中の分段生死を離れ、分に随いて真如の仏性を見ることができるのを名づけて菩提を得ると言うのであり、究竟に満足することを謂うのではない。如来の方便の涅槃であるからである。信とは、経に「また八世界の微塵の衆生ありて、みな阿耨多羅三藐三菩提の心を発せり」とあるが如きである。供養とは、経に「これらの菩薩摩訶薩、大法利を得て、時に虚空の中において曼陀羅華を雨とす」等とあるが如きである。聞法とは、〈随喜品〉に説くところの如く知るべきである。一法門、〈常精進菩薩品〉において示すものとは、読誦・解説・書写などが、六根清浄を得ることを謂う。経に「もし善男子・善女人、法華経を受持し、もし読じ、もし誦し、もし解説し、もし書写せば、この人は当に八百の眼の功德、乃至千二百の意の功德を得べし」とあるが如きである。この六根清浄を得るとは、凡夫人が経の力によって勝れた根の用を得るのであり、未だ初地の菩薩の位に入らないと知るべきである。経に「父母の生んだまえる清浄なる肉眼をもって、三千大千世界を見る」等とあるが如きである。また六根清浄とは、一一の根の中において、悉く色を見、声を聞き、香・味・触・法を識る等の用を具足することができると知るべきである。眼に見る者は、香を聞いて知ることができる。経に「釈提桓因、勝殿の上において五欲の娯楽を受く、乃至説法を聞き、香を聞いて知る」とあるのは、これは智境を鼻根が知るからである。
持力とは、三種の法門をもって示す。〈法師品〉・〈安楽行品〉・〈勧持品〉等において、広く法力のことを説くと知るべきである。「その心決定して、水の必ず近きことを知る」とは、この経を受持して仏性の水を得、阿耨多羅三藐三菩提を成ずるからである。
修行力とは、五門をもって示す。一には説力、二には行苦行力、三には衆生の諸難を護る力、四には功德勝力、五には護法力である。説力には三種の法門があり、〈神力品〉において示す。一には広長舌を出すのは、憶念のためである。二には咳をすることは、偈を説いて聞かしめるためであり、声を聞いて如実に修行し放逸ならざらしめるためである。三には弾指して覚悟させるのは、修行者を覚悟させるためである。行苦行力は、〈薬王菩薩品〉において教化衆生を示す。行苦行は、〈妙音菩薩品〉において教化衆生を示す。衆生の難を護ることは、〈観世音品〉・〈陀羅尼品〉において示す。功德勝力は、〈妙荘厳王品〉において示す。過去の功德により、かの童子にこのような力があるからである。護法力は、〈普賢品〉及び後の品において示す。
また、観世音菩薩の名を受持し、及び六十二恒河沙の諸仏の名を受持して、その福德が平等であると説くことには、二種の義がある。一には信力によるからであり、二には畢竟知によるからである。信力には二種がある。一には我が身を観世音の如くに求め、畢竟に信ずるからである。二には恭敬の心を生じ、かの功德の如く我れもまた畢竟に得るであろうとすることである。畢竟知とは、法界を決定して知るからである。法界とは法性と名づける。かの法性は、初地に入る菩薩が、一切の諸仏菩薩の平等身を証入することができるのである。平等身とは、真如法身を謂う。それゆえ、六十二恒河沙の仏の名を受持し、観世音菩薩の名を受持して、功德に差別がないのである。
第一序品示現七種功德成就。
第一の序品は、七つの功德の成就を表しています。
第二方便品有五分,示現破二明一。餘品如向處分易解。
第二方便品には五つの部分があり、二を破って一を明かすことを示しています。その他の品については、前述の区分けのように理解しやすいものです。
妙法蓮華經論優婆提舍
妙法蓮華経論優婆提舎