校訂三國遺事敘
三国遺事序
三國遺事。繼金氏史記而作。收錄新羅高句麗百濟三國遺聞逸事者。高麗忠烈王時。僧一然所撰也。書凡五卷。分為九門。初無序跋。冠以三國年表。所紀神異靈妙。專主崇佛弘法。論者謂荒誕不經。不足取信。然流風遺俗。往往散見於其中。矧州縣都市。地勢沿革。歷然有徵。苟欲講三國舊事。采葑采菲。寧容遺之哉。其書以元至元大德間成。後二百餘年。迨明正德七年壬申再刊。慶州府尹李繼福跋其後云。吾東方三國。本史遺事兩本。他無所刊。而只在本府。歲久刓缺。一行可解僅四五字。因欲改刊。廣求完本。閱數歲不得焉。星州牧使權公。聞余之求。求得完本送余。蓋再刊之舉。出於繼福。而所謂完本者。亦非真完本。恐闕損寫本已。我邦所傳有二本。一在尾州德川侯。一藏男爵神田氏。並係正德再刊。文字摸稜。魯魚焉馬。率仍其舊。甚則空紙脫葉。文斷義絕。殆不可讀。於是原二家藏本。據三國史記。高麗史。東京雜記。東國通鑑。文獻備考。輿地勝覽。海東金石苑。暨漢土歷代史書。西域求法高僧傳。唐續高僧傳等。參互檢覈。訂其譌舛。補其闕漏。活字印行。以公於世。至元距今六百餘年。元主忽必烈置征東省。以高麗為導。來寇於我筑紫。鎮西諸軍擊殲之。戰敗之餘。麗主至欲驅儒生充軍伍。而一然以高麗人。矻矻著書於其間。惜不使其筆當時曲折。取信於天下後世。抑三韓與我關係。邈在往世。此書所載。有間及我者。且書中插入鄉歌者。多係新羅語。鄉歌猶謂國風。新羅古言已亡。纔存鄉歌十餘首。實為滄海遺珠。則匪直覈新羅舊事。亦足以參我古言。考古之士。討其源而究其委。庶幾乎其有所資焉。明治三十五年壬寅九月上澣。
〔現代日本語訳〕
『三國遺事』は、金氏の『三国史記』に続いて作られ、新羅・高句麗・百済の三国に伝わる逸話や珍しい話を収録したものである。高麗の忠烈王の時代に、僧の一然が撰した書物である。全五巻で、九つの部門に分かれている。初めに序文や跋文はなく、冒頭に三国の年表が置かれている。記されている内容は神異で霊妙なことが多く、専ら仏教を尊び弘めることに主眼を置いている。論者の中には、荒唐無稽で取るに足らないと言う者もいる。しかし、昔の風俗や習慣は、しばしばこの書物の中に見出だされる。ましてや、州・県・都市の地理的な沿革については、明らかに証拠として示すところがある。もし三国の古い事柄を論じようとするならば、取るに足らないものでも見逃すべきではないだろう。その書物は、元の至元年間から大徳年間(13世紀後半)にかけて完成した。それから二百余年後、明の正徳七年(1512年)に再刊された。慶州府尹の李継福が跋文を後に記して言うには、「我が東方の三国の『本史』と『遺事』の二つの本は、他では刊行されておらず、ただこの慶州府にのみあった。長い年月の間に欠け損なわれて、一行の中で解読できるのはわずか四五字ほどであった。そこで改めて刊行しようと思い、広く完全な本を求めたが、数年経っても得られなかった。星州牧使の権公が、私が求めているのを聞いて、完全な本を求めて私に送ってくれた」と。つまり、再刊の挙は李継福の発案によるものであり、いわゆる完全な本というのも、真に完全な本ではなく、欠けたり損なわれたりした写本であっただろうと恐れられる。我が国(日本)に伝わっているものは二本ある。一つは尾州の徳川侯のところにあり、一つは男爵の神田氏のところに所蔵されている。いずれも正徳年間の再刊本に係わるもので、文字はぼんやりとしていて、魯魚焉馬(文字の誤り)の類がそのまま残っている。甚だしい場合には、空白の紙や脱落した頁があり、文の繋がりが絶えて意味が通じず、ほとんど読むことができない状態である。そこで、両家の蔵本を基本とし、『三国史記』『高麗史』『東京雑記』『東国通鑑』『文献備考』『輿地勝覧』『海東金石苑』、さらには中国歴代の史書、『西域求法高僧伝』『唐続高僧伝』などを参照し、相互に照合・検討して、その誤りを訂正し、欠けている部分を補い、活字で印刷して世に公にした。(一然の時代から)至元から現在まで六百余年が経過している。元の世祖フビライは征東省を置き、高麗を先導として、我が筑紫に侵攻してきた。鎮西の諸軍がこれを撃ち滅ぼした。戦いに敗れた残りの中で、高麗の王は儒生を兵士として徴発しようとさえした。そんな中で、一然は高麗人として、努めてこの書物を著したのである。あの当時の事情を書き残し、天下後世の信を得られなかったのは惜しまれる。そもそも三韓と我が国との関係は、遠い昔に遡る。この書物に載っていることの中には、我が国に言及しているものもある。また、書中に挿入されている郷歌は、多くが新羅語である。郷歌というのは、いわば国風の歌のようなものである。新羅の古い言葉はすでに失われており、辛うじて郷歌の十数首が残っているだけである。これはまさに大海に残った明珠のような貴重なものである。ただ新羅の古い事柄を調べるだけでなく、我が国の古い言葉を考える上でも役立つものである。昔を研究する人々が、その源を探り、その末を究めるならば、きっと何かの助けとなるであろう。明治三十五年(1902年)壬寅年九月上旬。