魏陳思王曹子建辯道論
魏の陳思王、曹子建の弁道論
夫神仙之書。道家之言。乃云傅說。上為辰尾宿歲星。降為東方朔。淮南王安誅於淮南。而謂之獲道輕舉。鉤弋死於雲陽而謂之尸逝柩空。其為虛妄甚矣哉。中興篤論之士。有桓君山者。其所著述多善劉子駿甞問言。人誠能抑嗜慾闔耳目。可不衰竭乎。時庭下有一老榆。君山指而謂曰。此樹無情慾可忍無耳目可闔。然猶枯竭腐朽。而子駿乃言可不衰竭非談也。君山援榆喻之未是也。何者余前為王莽典樂大夫。樂記言。文帝得魏文侯樂人竇公年百八十兩目盲。帝奇而問之。何所施行。對曰。臣年十三而失明。父母哀其不及事。教臣鼓琴。臣不能導引。不知壽得何力。君山論之曰。頗得省盲專一內視精不外鑒之助也。先難子駿以內視無益。退論竇公便以不鑒證之。吾未見其定論也。君山又曰。方士有董仲君者。有罪繫獄。佯死數日。目陷蟲出死而復生。然後竟死。生之必死君子所達。夫何喻乎。夫至神不過天地不能使蟄虫夏逝震雷冬發。時變則物動。氣移而事應。彼仲君乃能藏其氣屍其體爛其膚出其虫。無乃大怪乎。世有方士。至王悉所招致。甘陵有甘始。廬江有左慈。陽城有郗儉。始能行氣導引慈曉房中之術。儉善辟穀悉號三百歲。本所以集之於魏國者。誠恐斯人之徒接姦詭以欺眾。行妖慝以惑人。故聚而禁之。甘始者老而有少容。自餘術士咸共歸之。然始詞繁寡實。頗竊有怪言。若遭秦始皇漢武帝。則復徐福欒大之徒矣。桀紂殊世而齊惡。姦人異代而等偽。乃如此耶。又世虛然有仙人之說。仙人者黨猱猨之屬。與世人得道化為仙人乎。夫雉入海為蛤。燕入海為蜃。當徘徊其翼差池。其羽猶自識也。忽然自投。神化體變乃更與黿鼈為群。豈復自識翔林薄巢垣屋之娛乎。牛哀病而為虎逢其兄而噬之。若此者何貴於變化也。而頗為匹夫所罔。納虛妄之詞。信眩惑之說。隆禮以招弗臣。傾產以供虛求。散王爵以榮之。清閑館以居之。經年累稔終無一効。或歿於沙丘。或崩乎五柞。臨時雖復誅其身滅其族。紛然足為天下笑矣。然壽命長短骨體強劣各有人焉。善養者終之。勞擾者半之。虛用者夭之。其斯之謂歟。
陳思王曹植。字子建。魏武帝第四子也。初封東阿郡王。終後諡為陳思王也。幼含珪璋。十歲能屬文。下筆便成。初不改定。世間術藝無不畢善。邯鄲淳見而駭服。稱為天人。植每讀佛經。輒流連嗟翫。以為至道之宗極也。遂製轉讀七聲昇降曲折之響。世之諷誦咸憲章焉。甞遊魚山。忽聞空中梵天之響。清颺哀婉其聲動心。獨聽良久。而侍御莫聞。植深感神理。彌悟法應。乃慕其聲節。寫為梵唄撰文製音。傳為後式。梵聲光顯始於此焉。其所傳唄凡六契。見梁釋僧祐法苑集。然統括道源。精搜仙錄。姦妄多奇。終歸飾詐。故前論所委辯當明矣。
陳思王曹植(そうしょく)は、字を子建(しけん)といい、魏の武帝の四番目の子である。初め東阿郡王に封じられ、亡くなった後に陳思王と諡(おくりな)された。幼い頃から優れた才能を備え、十歳で文章を作ることができた。筆を下ろせばそのまま完成し、初めから書き改めることがなかった。世の中の技芸はすべてよく身につけていた。邯鄲淳(かんたんじゅん)はこれを見て驚き敬服し、「天人」と呼んだ。
曹植は仏経を読むたびに、いつも心を惹かれ賞賛し、これこそ最高の真理の根本であると考えた。そこで転読(誦経の際の抑揚ある読み方)の七声、上下・曲折する音調を作り出した。世の人々の諷誦(朗読)は、みなこれを手本とした。
かつて魚山(ぎょざん)に遊んだとき、突然、虚空の中で梵天(ぼんてん)の音が響くのを聞いた。その声は清らかに澄み渡り、哀れみを含んで優しく、心を動かすものであった。ひとりで長い間聴き入っていたが、お供の者たちには誰も聞こえなかった。曹植は深く神の理に感じ、いっそう真実の教えにかなうものであると悟った。そこでその音の節回しを慕い、書き留めて梵唄(ぼんばい)とし、文を撰び音を製した。後に伝わる模範となった。梵声(仏教の声楽)が世に知られるようになったのは、ここに始まるのである。
彼が伝えた唄は全部で六つの曲があった。梁の僧・僧祐(そうゆう)の『法苑集』に見える。しかし、道の源を統括し、神仙の記録を精しく捜し求めると、偽りや奇怪なことが多く、結局は飾り立てた欺瞞に帰する。ゆえに前の論で詳しく弁じたところが、明らかであると言えるだろう。