ご支援淨心禪堂すべての経典
メインコンテンツにスキップ
  1. 集古今仏道論衡 (集古今佛道論衡)
  2. 第一 (第一)
  3. 3 元魏君臨釈李双信致有廃興故述其由事(甲) (3 元魏君臨釋李雙信致有廢興故述其由事(甲))
←と→
矢印キーでページをめくれます

集古今仏道論衡 (集古今佛道論衡)


元魏君臨釋李雙信致有廢興故述其由事三

元魏の君主が仏教と道教の両方を信仰したため、廃仏と復興が起こりました。その経緯をここに記します。

魏太祖道武皇帝。託跋珪天興元年下詔曰。夫佛法之興。其來遠矣。濟益之功冥及存沒。神蹤遺跡信可依憑。可於京邑建飾容範脩整宮舍。令信向之徒有所居止。是歲始作五級佛圖耆闍崛山及須彌殿。加以飾繢別構講堂禪室。沙門座處莫不具焉。

魏の太祖道武皇帝は、託跋珪(拓跋珪)の天興元年に詔を下してこう言われた。「仏法の興りは、はるか遠い昔からある。その救いと利益の功徳は、現世の人にも亡き人にも静かに及んでいる。仏の神聖な足跡や遺された教えは、まことに頼るべきものである。都に仏の姿を建て飾り、宮舍を整えて、信仰を向ける人々が住まう場所を持てるようにせよ。」この年、初めて五級の仏塔、耆闍崛山、そして須弥殿が造られた。さらに彩りを加え、別に講堂や禅室も建てられた。僧たちの座る場所も、すべて整わないものはなかった。

魏世祖太武託跋燾即位。亦遵太祖太宗之業。雖有黃老不味其術。每引高德沙門與談玄理。於四月八日。輿諸佛像行於廣衢。帝親御門樓。散花禮敬篤敬兼至。晚據有平城興敬李術為立道壇。司徒崔皓少習左道猜忌釋門。既位居偽輔尤不信有佛。謂是虛誕。見讀佛經奪而投井中。密欲加滅皓有才略太武信用國人以為摸揩燾所扶信道士寇謙之。與皓欵狎。遂奏拜謙位稱天師。時有沙門玄高道王河西名高海右。神用莫測貴賤咸重。燾乃軍逼涼境徵高東還。既達平城大弘禪化。太子晃事高為師。形心盡禮。晃時被讒為父所疑。乃告高曰。空羅枉苦。何由可脫。高令作金光明齋懺七日懇誠。燾乃夢見其祖及父皆執劍列威曰。何故信讒枉疑太子。燾驚覺。大集群臣說神告夢。諸臣咸言。太子無過。實如皇靈降誥。燾於太子無復疑焉。蓋高誠感之力也。因下書曰。朕承祖宗重光之緒。思闡鴻基。恢隆萬代。武功雖昭而文教未暢。非所以崇太平之治也。今者城內安逸百姓富昌。宜定制度為萬世之法。夫陰陽有往復。四時有代序。授子任賢安全相付。所以休息疲勞式固長久。古今不易之令典也。可令皇太子副理萬機總統百揆。更舉賢良以備列職。擇人授任而黜陟之。其朝士庶民皆稱臣於太子。于時崔寇先得寵於燾。恐晃篡政有奪威權。又譖云。太子前事實有謀心。但結高公道術。故令先帝降夢如此。物論事跡難明。若事不早除。必為巨害。燾納之。即勅收高。於太平五年九月十五日。縊於平城之隅。太子又幽殺之。即宋元嘉之二十二年也。爾夜門人莫知其死。忽有光明繞塔入房。其光聲曰。吾其已逝。弟子等崩赴屍所。請告遺累。言畢高眼稍開。汗通香起。便坐謂曰。大法應化隨緣盛衰。盛衰在迹理恒湛然。但念汝等不久復當如我耳。汝等死後法當更興。善自修心無令中悔。言已便臥而絕。崔皓於此縱以姦心。每與帝言恒加非毀。以佛法無益於政有傷民利。勸令廢之。後太武至長安入僧寺。見有弓盾。帝怒誅寺僧。皓因進說。盡殺沙門焚經毀像。勅留臺下四方僧寺有者。依長安法除之。道士寇謙不從其毀。苦與皓爭皓拒之。謙謂皓曰。卿從今年受戮滅門矣。燾惑其言。以太平七年遂普滅佛法。分軍四出燒掠寺舍統內僧尼無少長坑之。其竄逸者捕獲梟斬。有沙門慧始。甚有神異。昔赫連昌破長安始被白刃而體不傷。五十餘年未嘗寢臥。跣行泥塗初不污足而色逾鮮白。世號白足和上。死十餘年身相如在。初入深山習行蘭若。太平之末方知滅法。慧始聞之。乃於元會之日杖錫宮門。有司奏云。有一道人。足白於面。云欲入見屬依軍法斬而不傷。遂至殿庭。燾大怒。自以所佩劍斫之。體無餘異。時北園養虎。勅以始飴之。虎皆潛伏終不敢視。試以天師近檻。虎輒鳴吼。燾方知佛化高尊。黃老之所不及。即延始入殿。頂禮足下悔其𮘧咎。始為說法明辯因果。燾於是大生愧懼。遂感癘疾。通身發瘡痛苦難忍。群臣議曰。崔皓邪佞毀害佛僧。陛下所患必由於此。于時崔寇二人次發惡疾。燾推過由於彼。以太平十一年乃載皓於露車。官使十人於車上更尿其口。行數里。不堪困苦。又生埋出口而尿之。自古三公戮辱未之過此之甚。遂誅諸姻親門族都盡。宣下國中興復正法。俄而燾崩。孫濬襲位。大弘佛事。即高宗文成皇帝是也。見後魏書及十六國春秋高僧傳等。

魏の世祖太武皇帝(託跋燾)が即位した。彼もまた太祖・太宗の事業を受け継いだ。黄老の教えに関心はあったが、その術を深く味わうことはなく、たびたび徳の高い僧を招いて玄理を語り合った。四月八日には、多くの仏像を車に載せて大通りを行列させ、帝みずから門楼に上がって花を散らして礼拝し、敬虔な心はきわめて厚かった。晩年、平城を治めるようになると、李術のために道壇を建てた。司徒の崔皓は若いころから邪道を学び、仏教を疑い妬んでいた。偽りの輔臣の地位に就いてからは、なおさら仏など信じず、虚偽のでっち上げだと言った。仏経を読む者を見れば奪い取って井戸に投げ込み、密かに仏法を滅ぼそうとした。皓には才略があり、太武皇帝は彼を信用し、国人も彼を見習った。燾が信じていた道士の寇謙之と皓は親しく交わっていた。そこで謙之を奏上して天師と称する位に任じた。そのころ、沙門の玄高という者がいた。道は河西に高く、名は海右に知られ、その神通は測りがたく、貴賤を問わずみな重んじた。燾が軍を涼の国境に迫めたとき、高を東へ召し還らせた。平城に着くと、大いに禅の教化を広めた。太子の晃は高を師として仕え、身も心も礼を尽くした。晃は讒言にあい、父に疑われた。そこで高に告げた。「むなしく罪に陥り、どうして逃れられましょうか。」高は金光明斎懺を作らせ、七日間、誠を尽くして懺悔させた。すると燾は夢に自分の祖父と父が現れ、みな剣を執って威を示し、「なぜ讒言を信じ、いたずらに太子を疑うのか」と言うのを見た。燾は驚いて目を覚まし、大いに群臣を集めて神の告げた夢を語った。群臣はみな言った。「太子に過ちはありません。まことに皇霊の告げのとおりです。」燾は太子に対する疑いをすっかり捨てた。これは高の誠の力が感応したのである。そこで次のような詔を下した。「朕は祖宗の重なる光の緒を受け継ぎ、大いなる基を開き、万代に隆盛を広げようと思う。武功はすでに輝いているが、文教はまだ暢んでいない。これでは太平の治を崇めることはできない。今、城内は安らかで百姓は豊かである。よろしく制度を定め、万世の法とすべきである。陰陽に往復があり、四時に代序がある。子に授け賢に任せ、安全に相付ける。これは疲労を休め、長久を固める所以であり、古今変わらぬ令典である。皇太子に万機を副理させ、百揆を総統させよ。さらに賢良を挙げて列職に備え、人を選んで任を授け、黜陟を行え。朝士・庶民はみな太子に臣と称せよ。」そのとき、崔皓と寇謙之は先に燾の寵を得ていた。晃が政を篡い、自分の威権を奪うことを恐れ、また讒言した。「太子の前の事には実に謀心がありました。ただ高公の道術に結びついたので、先帝が夢をお降しになったのです。物論も事跡も明らかではありません。もし早く除かなければ、必ず大きな害となります。」燾はこれを聞き入れ、ただちに高を捕らえるよう命じた。太平五年九月十五日、平城の隅で絞め殺した。太子もまた幽閉され殺された。宋の元嘉二十二年のことである。その夜、門人は彼の死を知らなかった。ふと光明が塔を巡り部屋に入り、その光が声を発した。「わしはもう逝く。弟子たちは屍の所に駆けつけ、遺言を請い告げよ。」と言った。言い終わると、高の目が少し開き、汗が通り香が起こった。そこで座って言った。「大法の応化は縁に随って盛衰する。盛衰は跡にあり、理は常に湛然としている。ただ汝らがまもなくまた私のようになることを思うのみだ。汝らの死後、法は再び興るであろう。よく自ら心を修め、途中で悔いることのないように。」と言い終わると、横になって息絶えた。崔皓はここにいたって姦心をほしいままにし、たびたび帝に語っては常に非毀を加え、仏法は政に益なく民の利を傷つけるとして、廃するよう勧めた。のちに太武が長安に入り僧寺を訪れたとき、弓や盾があるのを見て、帝は怒って寺の僧を誅した。皓はこれに乗じて進言し、沙門をことごとく殺し、経を焼き、像を壊すよう勧めた。勅して留台の下、四方の僧寺にある者は長安の法に依って除かせた。道士の寇謙之はその毀滅に従わず、苦しく皓と争ったが、皓は拒んだ。謙之は皓に言った。「卿は今年から戮され、門は滅びるであろう。」燾はその言に惑わされ、太平七年についに広く仏法を滅ぼした。軍を四方に分けて寺舎を焼き掠め、統内の僧尼は老少を問わず穴埋めにした。逃げ隠れた者は捕らえて梟斬した。沙門の慧始という者がいた。たいへん神異があった。昔、赫連昌が長安を破ったとき、始は白刃を受けても体は傷つかず、五十余年、寝臥したことがなく、裸足で泥を歩いても足は汚れず、色はますます鮮白であった。世は白足和上と号した。死後十余年、身体は生きているようであった。初め深山に入り蘭若を行じた。太平の末になって初めて滅法を知った。慧始はこれを聞くと、元会の日に杖と錫を持って宮門に赴いた。有司が奏した。「一人の道人がおります。足が顔よりも白く、入見したいと申します。軍法に依って斬りましたが傷つきません。」遂に殿庭に至った。燾は大いに怒り、自ら佩剣で斬りつけたが、体に少しの異変もなかった。そのとき北園に虎を飼っていた。勅して始を虎に与えた。虎はみな潜み伏し、ついに敢えて見ようとしなかった。試しに天師を檻に近づけると、虎はすぐに吼えた。燾はここにいたって仏の教化が高く尊く、黄老の及ぶところではないことを知った。すぐに始を殿に招き、足下に頂礼して己の咎を悔いた。始はために説法し、因果を明らかに弁じた。燾はここにおいて大いに愧懼の心を生じ、ついに癘疾にかかり、全身に瘡ができ、苦痛は耐え難かった。群臣は議して言った。「崔皓は邪佞にして仏僧を毀害しました。陛下の患いは必ずこれによるものです。」そのとき崔皓と寇謙之の二人は次々に悪疾を発した。燾は過ちを彼らに推した。太平十一年、皓を露車に載せ、官使十人が車上で交代にその口に尿をかけた。数里行くと、耐え難い苦しみとなった。また生き埋めにして口を出し、そこに尿をかけた。古来、三公の戮辱といえどもこれほど甚だしいものはなかった。ついに姻親門族をことごとく誅した。国中に宣下して正法を興復した。まもなく燾は崩じ、孫の濬が位を襲い、大いに仏事を弘めた。すなわち高宗文成皇帝である。これは後魏書および十六国春秋・高僧伝などに見える。


晉孫盛老子疑問反訊
4 宋太宗文皇帝集群臣論佛理治致太平事(甲)

CBETA コード: T2104

© AI 帮你读佛经 - 如是我闻

この文書は個人学習専用です。商業目的での使用は禁止されています。

訪問 rushiwowen.co

著作権:原文は CBETA
AI 翻訳は参考文献のみで、権威あるものではありません