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仏説諸法本無経 (佛說諸法本無經)

「佛說諸法本無經」について

隋 · 底本の訳者:闍那崛多

1.7 万字 · 約 57 分

仏説諸法本無経は、隋代の闍那崛多によってサンスクリット語から翻訳されました。この経典は大乗仏教の教典に属し、諸法の空性と縁起による無自性という核心的な教義を明らかにしています。一切の現象には実体がなく、本来寂滅に帰することを強調しています。歴史的背景としては、隋代は仏典翻訳の最盛期であり、闍那崛多は三蔵法師として顕著な貢献を果たしました。この経典は空の思想を深く探求しており、般若部経典の重要な一部を成しています。中国仏教、特に天台宗や三論宗などの宗派の発展に深遠な影響を与え、大乗の空観を理解するための鍵となるテキストです。


佛說諸法本無經卷上

仏説諸法本無経 巻上

隋天竺三藏闍那崛多譯

隋の天竺三蔵僧、闍那崛多訳

復次婆伽婆遊於王舍鷲聚山中,與大比丘眾五百人俱,菩薩九萬二千,所謂莊嚴瑩飾菩薩摩訶薩、師子遊步菩薩摩訶薩、無礙焰淨光德威王菩薩摩訶薩、迷留山頂音王菩薩摩訶薩、愛笑無垢光菩薩摩訶薩、出光蔽日月光菩薩摩訶薩、最勝無垢持冠菩薩摩訶薩、出威蓮華開身菩薩摩訶薩、梵自在音菩薩摩訶薩、象戲師子王意菩薩摩訶薩、金光淨無垢威菩薩摩訶薩、柔軟觸身菩薩摩訶薩、金莊嚴相開身菩薩摩訶薩、百光休摩羅力菩薩摩訶薩、寂根威儀寂行菩薩摩訶薩、地最上王菩薩摩訶薩、天言辭鳴音菩薩摩訶薩、法力自在寂靜遊行菩薩摩訶薩、德威無垢身菩薩摩訶薩、曼殊尸利菩薩摩訶薩,如是等上首九萬二千菩薩。

さらに、世尊は王舎城の霊鷲山におられ、大比丘衆五百人とともに、九万二千の菩薩たちと共におられました。その菩薩たちとは、荘厳瑩飾菩薩摩訶薩、師子遊歩菩薩摩訶薩、無礙焰浄光徳威王菩薩摩訶薩、迷留山頂音王菩薩摩訶薩、愛笑無垢光菩薩摩訶薩、出光蔽日月光菩薩摩訶薩、最勝無垢持冠菩薩摩訶薩、出威蓮華開身菩薩摩訶薩、梵自在音菩薩摩訶薩、象戯師子王意菩薩摩訶薩、金光浄無垢威菩薩摩訶薩、柔軟触身菩薩摩訶薩、金荘厳相開身菩薩摩訶薩、百光休摩羅力菩薩摩訶薩、寂根威儀寂行菩薩摩訶薩、地最上王菩薩摩訶薩、天言辞鳴音菩薩摩訶薩、法力自在寂静遊行菩薩摩訶薩、徳威無垢身菩薩摩訶薩、曼殊尸利菩薩摩訶薩など、このような上首の菩薩たち九万二千人です。

爾時,師子遊步菩薩摩訶薩見是菩薩等集,從坐而起,整理衣服,一肩郁多羅僧伽作已,右膝著地向佛合掌,即以歌頌而問佛義:

その時、師子遊歩菩薩摩訶薩は、これら菩薩たちが集まっているのを見て、座から立ち上がり、衣を整え、一肩に鬱多羅僧伽をかけ、右膝を地につけて仏に向かい合掌し、歌の形で仏に意義を問うた。

「無我無命無育法, 無邊名稱為我宣;
寂靜極寂常寂然, 如是此眾最勝者。
諸見云何是菩提? 憍慢瞋恚及嫉妬,
欲體云何是菩提? 為說導師無邊稱。
涅槃若無無煩惱, 行界云何是菩提?
其體無二佛亦然, 為我演說大悲者。
諸法云何畢竟脫, 涅槃相似解脫同?
云何當復等虛空, 無礙無著無處繫?
迦羅頻伽梵天音, 無垢光明金光色;
清淨光音無邊德, 當為說法畢無塵。
云何諸蓋等菩提? 云何欲是菩提體?
法非法道云何一, 無垢清淨等虛空?
若無有數無無數, 已滅度法云何是?
菩提若無無著者, 遍智云何亦復無?
是作非作無有諍, 取及不取並無體;
眾生於中不曾有, 法中障礙亦復無。
於中無戒復無忍, 破戒亦復無一處;
定之與智如是無, 無智及智無所得。
云何是法淨無垢, 而無所有等虛空?
心於一時無得處, 無心云何而是法?
於中知見無所有, 無有念修亦無證,
於中亦復無所斷, 眾生云何空界同?
於中法體是一行, 於中無生亦無轉;
發起及生無所有, 如是等法勝人說。
於中無學無羅漢, 緣覺亦復無所有;
求菩提者不可得, 此法無來亦無去。
於中無住亦無處, 亦無有去亦無來;
無來去法復云何, 如彼須彌住不動?
於中無想亦無色, 色體云何是菩提?
色與菩提無有二, 如是法體勝人演。
於中無空無無相, 無有染著無無著;
名與無名法云何, 言道猶如於山響?
於中無生無惱者, 於中亦復無無生;
無有已滅亦無遮, 諸法云何是一行?
於中無天亦無龍, 無緊那羅夜叉等;
於中泥犁無所有, 無有所趣及眾生。
若說導師最勝法, 若說惡意諸外道;
此二云何是一行, 諸字如是皆入一?」

「我もなく、命もなく、育つ法もなく、 果てなき名を持つ方が私に説かれる。 静寂、極めて静かで、常に寂然たるもの、 このような方こそ、この集いの最勝者である。

諸々の見解はどうして菩提なのか? 驕り、怒り、嫉妬はどうか? 欲望の本質はどうして菩提なのか? 果てなき名を持つ導師よ、説いてください。

涅槃に煩悩がなければ、 行いの世界はどうして菩提なのか? その本質は二つなく、仏もまた同じ、 大悲の方がた、私に説いてください。

諸法はどうして究極に解脱し、 涅槃と似て、解脱と同じなのか? どうして虚空と等しく、 妨げなく、執着なく、どこにも縛られないのか?

迦羅頻伽の梵天の声のように、 垢なく、光輝き、金色の光のように、 清らかな光の音、果てなき徳を持つ方が、 塵を尽くして法を説いてください。

諸々の覆いはどうして菩提と等しいのか? 欲望はどうして菩提の本質なのか? 法と非法の道はどうして一つであり、 垢なく清浄で、虚空と等しいのか?

もし数がなく、数もなければ、 すでに滅度した法はどうしてそうなのか? 菩提がなく、執着する者もなければ、 一切智はどうしてまた存在しないのか?

作ることも、作らぬことも争いなく、 取ることも、取らぬことも本質なく、 衆生はその中に一度も存在せず、 法における障害もまた存在しない。

その中に戒もなく、忍もなく、 破戒もまたどこにも存在しない。 禅定と智慧もまた同様に存在せず、 無智も智も得るところがない。

どうしてこの法は清浄で垢なく、 何もなく、虚空と等しいのか? 心が一時に得る場所がなければ、 心がないのに、どうして法なのか?

その中に知見は何もなく、 念ずることも、修することも、証することもなく、 その中に断ずることもまたなく、 衆生はどうして空の世界と同じなのか?

その中で法の本質は一行であり、 その中に生もなく、転変もない。 起こすことも、生じることも何もなく、 このような法を勝れた方が説かれる。

その中に学ぶ者もなく、阿羅漢もなく、 縁覚もまた何も存在しない。 菩提を求める者も得られず、 この法は来ることもなく、去ることもない。

その中に住むこともなく、場所もなく、 また去ることもなく、来ることもない。 来も去りもない法はどうして、 須弥山のように動かずに住するのか?

その中に想いもなく、色もなく、 色の本質はどうして菩提なのか? 色と菩提は二つではなく、 このような法の本質を勝れた方が説かれる。

その中に空もなく、無相もなく、 染着もなく、無執着もない。 名と無名の法はどうして、 言葉の道が山の響きのようになるのか?

その中に生もなく、悩む者もなく、 その中にまた無生も存在しない。 すでに滅したものもなく、遮るものもなく、 諸法はどうして一行なのか?

その中に天もなく、龍もなく、 緊那羅や夜叉などもいない。 その中に地獄も存在せず、 向かうところもなく、衆生もいない。

もし導師の最勝の法を説き、 もし悪意の諸々の外道を説くならば、 この二つはどうして一行であり、 諸々の文字がこのように皆一つに入るのか?」

爾時,世尊讚師子遊步菩薩摩訶薩言:「甚善甚善!希有善家子!汝今所問,乃至諸世不能信受,諸天等世當住迷惑。善家子!汝今不須問是因緣。善家子!初業菩薩於此非地,謂:空見者、無相見者、無願見者、無生見者、無有見者、無相貌見者、涅槃見者、佛陀見者、菩提見者。善家子!初業菩薩前不應說此法。何以故?諸善根斷必有是處,於佛菩提則行非道若墮斷常,不知如來以何意義而說此法?」

その時、世尊は師子遊歩菩薩摩訶薩にこうお褒めになりました。「善きかな、善きかな。稀有なる善家子よ。あなたが今尋ねたことは、あらゆる世界で信じ受け入れることができず、天界を含むすべての世の人々は迷いの中に留まるでしょう。善家子よ、あなたは今、この因縁について尋ねる必要はありません。善家子よ、修行を始めたばかりの菩薩にとって、これは適さない境地なのです。つまり、空の見解、無相の見解、無願の見解、無生の見解、無有の見解、無相貌の見解、涅槃の見解、仏陀の見解、菩提の見解といったものです。善家子よ、修行を始めたばかりの菩薩に対しては、この法を前にして説くべきではありません。なぜなら、善根が断たれることが必ずあるからです。仏陀の菩提においては、もし道に外れた行いをし、あるいは断見や常見に陥るなら、如来がどのような意味でこの法を説かれたのかを知ることができないでしょう。」

如是語已,師子遊步菩薩摩訶薩復白佛言:「說婆伽婆、說修伽多。世尊!若有未來菩薩摩訶薩,空見者、無相見者、無願見者、無生見者、無有見者、無相貌見者、涅槃見者、佛陀見者、菩提見者,於空無相言說境界,染著言說以字為淨,言道為勝重於名利。彼聞如來說是無名字法已,當捨諸見,當知諸法是一相道。如眾生信、如信說法,巧方便中彼當善學,雖說少欲知足減省,而皆不信為淨;雖說在眾過惡,而信諸法遠離;雖讚說獨一無間無雜,而亦不信為淨;雖讚說發菩提心,而亦知心自性菩提;雖讚說廣修多羅,而信諸法是廣;雖讚說於菩薩,而信聲聞、獨覺及佛無有別異;雖讚說陀那,而善通達陀那平等;雖讚說尸羅,而善通達尸羅本性;雖讚說羼帝,而於盡滅無生法等善通達見;雖讚說毘梨耶,而善擇諸法不發;雖讚說第耶那三摩地三摩撥帝,說三摩地出生百千俱致三摩地門,而知見本性三摩般那;雖讚說般若數千種相,而善通達智及無智,本性自體善擇諸法。說毀欲過,不見一法可染;說毀瞋過,不見一法可惡;說毀癡過,而信諸法離癡無礙。雖為眾生顯說泥犁、畜生、閻摩世等過惡,而亦不見泥犁、畜生、閻摩世等。彼等如眾生信、如信說法,當信一行,所謂信空、信無相、信無願、信無生、信無所有、信無相貌。大德世尊!但當說之!彼不可思巧方便句,於中若諸聲聞、獨覺及初乘發行菩薩摩訶薩等,皆非其地,唯除信深一行菩薩摩訶薩等。」

このように語り終えると、師子遊歩菩薩摩訶薩は再び仏陀に申し上げました。「世尊よ、説かれたことを承りました。もし未来に出現する菩薩摩訶薩が、空という見解、無相という見解、無願という見解、無生という見解、無所有という見解、無相貌という見解、涅槃という見解、仏陀という見解、菩提という見解に執着し、空や無相という言葉の領域に染まり、言葉を清浄とし、言説を勝れたものとし、名利を重んじるならば、彼らは如来がこの無名字の法を説かれたことを聞き、あらゆる見解を捨て、すべての法が一相の道であることを知るべきです。衆生が信じるように、説法を信じるように、巧みな方便の中で彼らは善く学ぶべきです。少欲・知足・倹約を説いても、それらを清浄と信じず。衆の中で過ちや悪を説いても、すべての法が遠離であることを信じ。独一で間隙なく雑じりけのない境地を讃え説いても、それらを清浄と信じず。菩提心を発することを讃え説いても、心の自性が菩提であることを知り。広大な経典を修することを讃え説いても、すべての法が広大であることを信じ。菩薩を讃え説いても、声聞、独覚、仏陀に違いがないことを信じ。布施を讃え説いても、布施の平等を善く通達し。戒律を讃え説いても、戒律の本性を善く通達し。忍辱を讃え説いても、尽滅・無生などの法を善く通達して見きわめ。精進を讃え説いても、すべての法が発しないことを善く選択し。禅定・三昧・三摩鉢底を讃え説き、三昧から百千億の三昧の門が生じると説いても、本性の三昧を智慧で見て知り。般若の数千の相を讃え説いても、智と無智を善く通達し、本性自性によってすべての法を善く選択します。欲の過ちを説いて非難しても、染まるべき一つの法も見ず。瞋の過ちを説いて非難しても、憎むべき一つの法も見ず。癡の過ちを説いて非難しても、すべての法が癡から離れ無礙であることを信じます。たとえ衆生のために地獄・畜生・閻魔世などの過悪を明らかに説いても、地獄・畜生・閻魔世などを見ることはありません。彼らは、衆生が信じるように、説法を信じるように、ただ一つの行いを信じるべきです。それは、空を信じ、無相を信じ、無願を信じ、無生を信じ、無所有を信じ、無相貌を信じることです。大徳なる世尊よ、どうかこれを説き示してください。その不可思議な巧みな方便の言葉は、声聞や独覚、そして初発心の菩薩摩訶薩などの境地ではなく、ただ深く一つの行いを信じる菩薩摩訶薩のみがその境地に至るのです。」

如是語已,世尊復告師子遊步菩薩摩訶薩言:「善家子!彼若然者,汝宜善聽,正念善思,當為演說。」

お言葉を承り、世尊はさらに師子遊歩菩薩摩訶薩に告げられました。「善き家の子よ、そのようにお望みならば、よく耳を傾け、正しく心に留め、善く思惟しなさい。今より説き明かそう。」

師子遊步菩薩摩訶薩言:「如是世尊!我當正聞。」

師子遊歩菩薩摩訶薩はお答えになりました。「はい、世尊よ。私は謹んでお聞きいたします。」

爾時世尊說此伽他:

その時、世尊はこの偈を説かれた。

「若欲當覺妙菩提, 彼莫分別貪欲過;
諸法常是貪自性, 若知是者得勝尊。
貪瞋及癡不可得, 亦無已得今得者;
諸法皆與虛空等, 若知是者得勝尊。
見及不見常一行, 僧非僧二是一等;
於中無佛無妙法, 若知是者得世智。
猶如丈夫於夢中, 得菩提已教眾生;
於中無道無眾生, 如是自性即諸法。
菩提坐處無可得, 彼無可得亦無有;
明無明二是一相, 若知是者得導師。
說眾生性是菩提, 菩提性即諸眾生;
眾生菩提二不一, 若知是者得人上。
猶如丈夫善覺幻, 彼幻化現無邊種;
於中所現畢竟無, 惑亂眾生數非一。
貪欲瞋恚與幻等, 諸此煩惱各如幻;
凡夫皆念我染恚, 彼癡亂心惡趣行。
於中無有貪恚癡, 於中亦無異煩惱;
幻等法體分別已, 如是凡夫煩惱然。
若無煩惱無眾生, 於中無佛無當有;
此無生法分別已, 凡夫念我當作佛。
既無有佛無佛法, 眾生亦無一處見;
若知法體似虛空, 彼速當作人上者。
若求菩提彼無覺, 彼遠菩提如天地;
若知法體等於幻, 彼速當作人上者。
若分別戒彼無戒, 若見持戒則破戒;
戒破戒二是一相, 若知是者作導師。
猶如丈夫於夢中, 受用欲事生歡喜;
癡亂分別想婦女, 於中婦女常是無。
破戒持戒如夢性, 凡夫分別此二種;
於中無戒無破戒, 若知是者作導師。
著名此是凡夫覺, 以彼不知聲自性;
若覺此名非是名, 彼當得於勝妙忍。
有諸眾生誓作佛, 以說告於餘人知;
住言為淨無修行, 彼即普閉菩提道。
於威儀中取乖錯, 憙言重說彼無知;
不以言淨覺菩提, 以彼不知法自性。
雖於空法常顯說, 而憙鬪諍惡意生;
何有菩提及佛法? 乃是說瞋無智者。
瞋忍二種是一相, 若知是者不分別;
眾生自性彼不知, 生諸過惡是凡智。
自言眾生我皆愛, 我作勝尊脫眾生;
被動彼即生瞋惡, 以有惡心不與語。
恒憙鬪諍求他過, 而復讚說此忍心;
亦說諸法皆是空, 意中貢高求錯失。
於食貪著無智者, 晝夜思念於欲事;
彼等來入村邑已, 說我當脫諸眾生。
諸眾生中我悲轉, 我於眾生有利益;
是類法體雖顯說, 而著害心常惡意。
然我未聞亦未見, 有悲而復有害心;
各各共作破瘡已, 而求阿彌多由國。
恒伽河沙如是有, 常得毀辱及打罵;
不能堪忍諸惡事, 不至彼土人牛王。
土即非土若能知, 空土猶如空自性;
不念土及土功德, 當至彼土人牛王。
說我能忍諸惡事, 我於菩薩教師想;
然我未聞亦未見, 教師想所而生惡。
各各相毀所有行, 著乞食家及友家;
說是我所成熟者, 於中莫令餘人入。
我能脫汝莫親餘, 其彼無有清淨行;
雜閙遊行是無智, 於菩提利彼未有。
晝夜如是作三時, 當禮諸佛及菩薩;
莫求彼所有錯失, 如欲行導常修行。
若見憙於欲事樂, 彼所錯失亦勿求;
如此久必當觸證, 最勝菩提無邊德。
當漸次學漸次作, 不可一時佛即成;
多劫俱致那由多, 我著鎧甲非今日。
莫以分別分別欲, 我觸菩提如欲性;
無此煩惱當不生, 若能信此得勝忍。
觀此諸聲即非聲, 無字法體便已入;
如是聲類諸法體, 當不生欲亦無瞋。
於欲及瞋觀無生, 應知此二無有字;
此二唯可以名轉, 字若無有於中無。
若知諸辭即一辭, 名亦不生本非有;
我之所說外道說, 是類法體彼不知。
說此諸法以聲言, 而法及聲不可得;
能入諸法一相道, 無上勝忍便觸證。
莫分別忍莫不忍, 莫分別瞋莫欲渴;
此等無生常解知, 當得世親人中勝。
東西南北諸方中, 恒伽許沙如是有;
一一沙顆人民置, 若所有土多無邊。
諸寶滿中施最勝, 無邊百劫過於上;
若有聞此修多羅, 如此福德當無數。
求此菩提出家已, 彼所我當付此經;
必速得於最勝忍, 經無邊門此當說。
於陀羅尼不難得, 當得俱致那由經;
利智辯才彼當得, 少動多知疾得解。
即得無邊樂說辯, 諸佛皆與彼辯才;
說修多羅寶非一, 無邊辯說彼當有。」

もし妙なる菩提を悟ろうと願うならば、貪欲の過ちを分別してはならない。 すべての法は常に貪欲を自性とする。これを知る者は勝れた尊き者を得る。

貪り、怒り、愚かさも得られず、すでに得たものも今得るものもない。 すべての法は虚空と等しい。これを知る者は勝れた尊き者を得る。

見えるものと見えぬものは常に一つの行いであり、僧と非僧は二つながら一つに等しい。 その中に仏もなく妙法もない。これを知る者は世の智恵を得る。

あたかも夢の中で、人が菩提を得て衆生を教えるがごとし。 その中に道もなく衆生もない。かくのごとき自性こそが諸法である。

菩提の坐る場所は得られず、得られぬものもまた存在しない。 明と無明の二つは一つの相である。これを知る者は導師を得る。

衆生の本性は菩提であると言い、菩提の本性はすなわち諸々の衆生であると言う。 衆生と菩提は二つながら一つではない。これを知る者は人々の上に立つ者を得る。

あたかも幻をよく悟った人が、無辺の種々の幻を現じるがごとし。 その中に現じられたものは畢竟なく、惑わされる衆生の数は一つではない。

貪欲と瞋恚は幻と等しく、これらの煩悩はそれぞれ幻のごとし。 凡夫は皆「我は貪り、怒る」と念じ、その愚かな乱れた心は悪趣へと向かう。

その中に貪りも怒りも愚かさもなく、異なる煩悩もまたない。 幻と等しい法の本体を分別したならば、かくのごとく凡夫の煩悩は然り。

もし煩悩がなければ衆生もなく、その中に仏もなく、将来あるものもない。 この無生の法を分別したならば、凡夫は「我は仏とならん」と念じる。

すでに仏もなく仏法もなく、衆生も一つのところに見いだせない。 もし法の本体が虚空に似ていることを知れば、彼は速やかに人々の上に立つ者となる。

もし菩提を求めてそれに覚りがなければ、彼は天地ほどにも菩提から遠ざかる。 もし法の本体が幻と等しいことを知れば、彼は速やかに人々の上に立つ者となる。

もし戒を分別すれば戒はなく、もし持戒を見ればそれは破戒である。 戒と破戒の二つは一つの相である。これを知る者は導師となる。

あたかも夢の中で、人が欲事を受用して歓喜を生じるがごとし。 愚かに乱れて分別し、婦女を想うが、その中に婦女は常に存在しない。

破戒と持戒は夢の本性のごとく、凡夫はこの二種を分別する。 その中に戒もなく破戒もない。これを知る者は導師となる。

名に執着するこれは凡夫の覚りであり、彼らは声の自性を知らないからである。 もしこの名が名ではないと覚れば、彼は勝れた妙なる忍辱を得るであろう。

ある衆生は誓って仏とならんとし、それを説いて他の人に知らせる。 言葉に住して清浄とし修行せず、彼らはすなわち広く菩提の道を閉ざす。

威儀の中に誤りを取り、言葉を重ねて説くことを好む彼らは無知である。 言葉によって清浄とし菩提を覚るのではない。彼らは法の自性を知らないからである。

空の法について常に顕わに説きながら、闘諍を好み悪意を生じる。 どうして菩提や仏法があろうか。これは瞋恚を説く無智者である。

瞋恚と忍辱の二種は一つの相である。これを知る者は分別しない。 衆生の自性を彼らは知らず、諸々の過ちや悪を生じるのは凡夫の智恵である。

自ら「衆生を我は皆愛する、我は勝れた尊き者となって衆生を解脱させる」と言いながら、 動かされるとすぐに瞋恚の悪を生じ、悪心があって語り合わない。

常に闘諍を好んで他人の過失を求め、しかもこの忍辱の心を褒め称える。 また諸法は皆空であると説きながら、心の中で高ぶって過失を求める。

食に貪着する無智者は、昼夜欲事を思念する。 彼らは村邑に入り来て、「我は諸々の衆生を解脱させよう」と説く。

「諸々の衆生の中に我が慈悲は巡り、我は衆生に利益をもたらす」と。 この類の法の本体を顕わに説きながら、害心に執着し常に悪意を持つ。

しかし我は聞いたことも見たこともない。慈悲がありながらまた害心を持つ者を。 お互いに傷つけ合った後に、阿弥陀の国を求めるとは。

ガンジス河の砂のごとく多くの者が、常に毀辱や打罵を受ける。 諸々の悪事に堪え忍ぶことができず、あの国土の人々の牛王(仏)のもとに至らない。

国土はすなわち国土ではないと知ることができれば、空の国土はあたかも空の自性のごとし。 国土とその功徳を念じなければ、あの国土の人々の牛王のもとに至るであろう。

「我は諸々の悪事に耐え忍ぶことができる、我は菩薩を教師と想う」と言いながら、 しかし我は聞いたことも見たこともない。教師と想うところから悪を生じる者を。

お互いにそれぞれの行いを毀り、乞食の家や友人の家に執着する。 「これは我が成熟させた者である」と言い、その中に他の人を入らせまいとする。

「我は汝を解脱させられる、他の者に親しむな、彼らには清浄な行いがない」と。 雑閙に遊行するのは無智であり、菩提の利益は彼らにはまだない。

昼夜このように三時に、諸仏と菩薩を礼拝すべし。 彼らに過失を求めてはならない。欲を行う導きのごとく常に修行せよ。

もし欲事の楽しみを好む者を見ても、その者の過失も求めてはならない。 このようにすれば久しからず必ず触れ証することになろう。最勝の菩提の無辺の功徳を。

漸次に学び漸次に行うべし。一時に仏となることはできない。 多くの劫、倶致那由多の間、我は鎧を着るのは今日に始まったことではない。

分別をもって欲を分別してはならない。我は菩提に触れることは欲の本性のごとし。 この煩悩がなければ生じることもない。もしこれを信じれば勝れた忍辱を得る。

この諸々の声は声ではないと観じ、無字の法の本体に入る。 このような声の類いの諸法の本体であれば、欲も生じず瞋恚もない。

欲と瞋恚に無生を観じ、この二つには文字がないと知るべし。 この二つはただ名によって転じるのみであり、文字がなければその中にもない。

もし諸々の言葉が一つの言葉であると知れば、名もまた生じず本来存在しない。 我の説くところも外道の説くところも、この類の法の本体を彼らは知らない。

この諸法を声と言葉で説くが、法も声も得られない。 諸法の一つの相の道に入れば、無上の勝れた忍辱に触れ証する。

忍辱を分別せず不忍もせず、瞋恚を分別せず欲の渇きもせず。 これらは無生であると常に解知すれば、世の親しむべき人々の中の勝者を得るであろう。

東西南北の諸方の中に、ガンジス河の砂ほど多くの、 一つ一つの砂粒に人々を置き、もしあらゆる国土があればそれは無辺である。

諸々の宝を満ちさせて最勝の布施を行い、無辺の百劫を超える。 もしこの修多羅を聞くならば、このような福徳は数えきれないほどとなる。

この菩提を求めて出家したならば、彼に我はこの経を付嘱しよう。 必ず速やかに最勝の忍辱を得るであろう。経は無辺の門からこれを説く。

陀羅尼を得ることは難しくなく、倶致那由の経典を得るであろう。 利智と弁才を彼は得、わずかな動きで多くを知り速やかに解する。

すなわち無辺の楽説の弁才を得、諸仏は皆彼に弁才を与える。 修多羅の宝を一つならず説き、無辺の弁説を彼は持つであろう。

爾時師子遊步菩薩摩訶薩而白佛言:「大德世尊!說此伽他,幾許眾生聞作利益?」

その時、師子遊歩菩薩摩訶薩が仏に申し上げました。「大徳なる世尊よ、この詩偈を説かれたことによって、どれほどの衆生が利益を得るのでしょうか?」

如是語已,佛告師子遊步菩薩摩訶薩言:「善家子!見此眾集論不?」

このように語られると、仏は師子遊歩菩薩摩訶薩に言われました。 「善男子よ、この大勢の集まりを見ているか?」

答言:「我已見。婆伽婆!我已見。修伽多!已過算數,於此說法集會。滿虛空中,天、龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、伽留荼、緊那羅、摩睺羅伽,及餘諸世界中眾生,亦皆聞此說法。」

お答え申し上げます。「私は見ました。世尊よ!私は見ました。善逝よ!数えきれないほど多くの、この説法の集いにおいて。虚空に満ち満ちて、天、龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽、そして他の世界の衆生たちも、皆この説法を聞きました。」

如是語已,佛告師子遊步菩薩摩訶薩言:「善家子!說此法時,九十八千天子無生法中得忍,九十二千夜叉阿耨多羅三藐三菩提心生,三十六千龍阿耨多羅三藐三菩提心生,五百比丘增上慢意未得得想。彼等聞此說五慢法,信解諸法一相道已,無所受故,漏心解脫。於彼菩薩數中六十二千菩薩,信解諸法無障礙已,無生法中得忍。何以故?善家子!此法說中最上。

このように語り終えると、仏は師子遊歩菩薩摩訶薩に告げられた。

「善き家の子よ、この法が説かれた時、九万八千の天子たちが無生法の中で忍(にん)を得、九万二千の夜叉たちに阿耨多羅三藐三菩提の心が生じ、三万六千の龍たちに阿耨多羅三藐三菩提の心が生じた。また、五百人の比丘たちは、増上慢の心で未だ得ていないものを得たと思っていたが、彼らはこの五つの慢についての説法を聞き、諸法は一つの相の道であると信解し、何も受け取るものがないゆえに、漏れの心から解脱した。その菩薩たちの中でも、六万二千の菩薩は、諸法に障りがないことを信解し、無生法の中で忍を得た。

なぜならば、善き家の子よ、この法の説き方は最も優れているからである。」

「善家子!如我於作燈如來、應、正遍知所,現前信解諸法一相道已,我於彼時,然後無生法中得忍。善家子!若得諸六波羅蜜,若復聞此法本,稱量一等。善家子!菩薩摩訶薩因此道故,滿足六波羅蜜。我如是說。何以故?善家子!若有菩薩恒河沙等劫行施、護戒、具忍、發勤、入定、修智,於此法道以不知故,諸有善根還復滅盡。善家子!汝看提婆達多,如是善根具足有三十相,彼雖如是善根具足,而更斷諸善根,遂墮泥犁耶中,於此法道以不知故。善家子!以是因緣,當知如諸善根斷者,於此法道以不知故。

善き家の子よ、私が作燈如来・応供・正遍知のもとで、諸法は一つの相であるという道を現前に信解したとき、私はその時、無生法の中に忍を得ました。善き家の子よ、もし六波羅蜜を得たとしても、またこの法の根本を聞いても、その価値は同等です。善き家の子よ、菩薩摩訶薩はこの道によって、六波羅蜜を満足させるのです。私はこのように説きます。なぜならば、善き家の子よ、もし菩薩が恒河の砂の数の劫の間、布施を行い、戒を護り、忍辱を具え、精進を起こし、禅定に入り、智慧を修めても、この法の道を知らないがゆえに、すべての善根は再び滅び尽きてしまうからです。善き家の子よ、提婆達多を見よ、彼は三十相を具えた善根を持っていました。それにもかかわらず、さらに善根を断ち切り、遂には地獄に堕ちました。この法の道を知らなかったがゆえです。善き家の子よ、この因縁によって、善根を断つ者は、この法の道を知らないがゆえであると知るべきです。

「善家子!於先過去阿僧祇劫,復過無數廣大無量不可思不可量,過已復過,於彼時節有佛出世,名迷留上王如來、應、正遍知、明行具足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人教師、佛、婆伽婆。彼如來壽量九十九俱致那由多百千歲。彼世界名金焰影,其彼佛土皆用金作,亦以三乘令眾生涅槃。何者為三?所謂聲聞乘、獨覺乘、菩薩乘。彼如來第一集會,聲聞有八十俱致那由多百千,彼皆阿羅漢,諸漏已盡應作者作,所作已辦棄捨重擔,得到自利盡諸有結,以平等智得善解脫。第二集會,比丘有七十俱致那由多百千。第三集會,比丘有六十俱致那由多百千。第四集會,比丘有二十五俱致那由多百千,又倍上數比丘尼集,又倍上數憂波塞迦集,又倍上數憂波斯迦集,又倍上數諸菩薩集。彼諸菩薩具足無生法忍,巧出無邊三摩地道,得無邊門總持,轉不退轉法輪,何況初乘發行菩薩?於中復有無量無數獨覺乘者。善家子!於彼時節,彼佛有無量、無數、無算諸聲聞眾。

善き家の子よ。遠い遠い過去、阿僧祇劫よりもさらに過ぎ、数えきれないほど広大で無量、思議しがたく測り知れない年月を経た、そのまた先の時代に、一尊の仏がこの世に現れました。その名を迷留上王如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊といいます。その如来の寿命は九十九倶胝那由他百千歳に及びました。その世界の名は金焔影といい、その仏国土はすべて金でできており、また三乗をもって衆生を涅槃に導かれました。三乗とは何か。すなわち声聞乗、独覚乗、菩薩乗です。

その如来の第一の集会には、声聞が八十倶胝那由他百千おり、彼らはみな阿羅漢であり、もろもろの煩悩は尽き果て、なすべきことは成し遂げ、重い荷を捨て去り、自らの利益を得てすべての束縛を断ち、平等の智慧によって善く解脱を得ていました。第二の集会には、比丘が七十倶胝那由他百千おりました。第三の集会には、比丘が六十倶胝那由他百千おりました。第四の集会には、比丘が二十五倶胝那由他百千おり、そのさらに倍の数の比丘尼が集い、そのまた倍の数の優婆塞が集い、そのまた倍の数の優婆夷が集い、そのまた倍の数の諸菩薩が集っていました。その諸菩薩は無生法忍を具足し、無辺の三昧の道を巧みに出で、無辺の門陀羅尼を得て、不退転の法輪を転じていました。ましてや、初発心の菩薩たちにおいておや。その中にはまた、無量無数の独覚乗の者たちもおりました。

善き家の子よ。その時代には、その仏には無量・無数・算術を超えた多くの声聞の衆がいたのです。

「善家子!彼金焰影世界,若樹若柱,彼皆七寶所成。彼樹出如是聲,所謂:空聲、無相聲、無願聲、無生聲、無所有聲、無相貌聲,彼出如是等聲。於中如是等聲出時,彼諸眾生其心解脫。彼如來滅度千歲正法住已,彼聲亦不復出。

善き家の子よ、あの金の炎の影の世界においては、木であれ柱であれ、すべてが七つの宝でできています。その木々は、このような声を発します。すなわち、空の声、無相の声、無願の声、無生の声、無所有の声、無相貌の声、そういった声を発するのです。そのような声が響き渡るとき、そこにいるすべての衆生の心は解脱します。その如来が滅度して千年が経ち、正法が住する間は、その声もまた響き続けます。

「善家子!彼迷留上王如來、應、正遍知,勸請說法比丘名淨善行,令其說法爾乃滅度。善家子!彼時復有說法比丘,名善行意,其人具足善淨戒聚,復得世間五通勝智,亦能轉誦毘那耶藏;彼比丘復有嚴熾苦行,信樂廉儉領眾說教;彼安立住處已於中止住;彼之徒眾善住戒聚,信樂頭多功德及以減省;彼比丘亦發勤行而離於菩提心。彼有餘菩薩眾,亦教以威儀道,令其相應;見有所得而行教化,取諸行無常、取諸行苦、說諸行無我;彼無巧慧,於菩薩行亦無善巧;彼比丘雖爾而善根具足。又彼說法比丘淨善行者,善知眾生各各別根,彼所有眾不重頭多功德及以減省,乃於無所得忍善巧方便。

善き家の子よ、かの迷留上王如来、応供、正遍知は、説法比丘である浄善行という者に勧請して説法をさせ、その後に滅度された。善き家の子よ、その時また説法比丘として善行意という者がいた。この人は善く清浄な戒の集まりを具足し、さらに世間の五通の勝れた智を得、また毘那耶蔵を転誦することができた。その比丘はまた厳しい苦行を修め、質素倹約を信楽し、大衆を率いて教えを説いた。彼は住処を安立し、その中に止住した。彼の徒衆は戒の集まりに善く住し、多くの功徳と減省とを信楽した。その比丘もまた精進を行じたが、菩提心からは離れていた。彼には他の菩薩衆もあり、威儀の道を教えて相応させ、有所得を見て教化を行い、諸行は無常であると取り、諸行は苦であると取り、諸行は無我であると説いた。彼には巧みな慧がなく、菩薩行にも善巧がなかった。しかし、その比丘はそれでも善根を具足していた。また、かの説法比丘である浄善行者は、衆生のそれぞれの別々の根機を善く知り、彼の所有する衆は多くの功徳や減省を重んじず、無所得の忍に善巧方便を有していた。

「善家子!爾時說法比丘淨善行者,與其徒眾到善行意比丘住處止宿,然亦以時數數入村,愍眾生故,村中食業作已而出,彼令多百千家已作淨信。彼之徒眾亦善化導,到眾生所為其說法,令多百千眾生建立阿耨多羅三藐三菩提。

善き家の子よ、その時、説法する比丘であり、清らかな善行を行う者は、その弟子たちと共に、善行意比丘の住む所に到着して宿をとった。しかし、彼は時を定めて、たびたび村に入った。それは衆生を憐れむがゆえであった。村で食事の務めを済ませて出ると、彼は多くの百千の家に清らかな信心を起こさせた。彼の弟子たちもまた善く教化し導き、衆生のもとに赴いて彼らに説法し、多くの百千の衆生に阿耨多羅三藐三菩提を確立させたのである。

「若善行意所有徒眾,憙樂修定不數入村。爾時善行意比丘,於淨善行說法者及徒眾邊,不淨心生而言:『此是嬾墮比丘,常數入村。』即鳴犍遲集比丘眾,自作制住:『汝等一莫入村。』向淨善行所有徒眾,作如是言:『汝等不善知行、不少言語,何因汝等數數入村?諸佛世尊讚歎許可住阿蘭拏,汝等莫到他家,汝等應住思惟定樂。』

もし善行意という比丘が、多くの弟子たちを率いて、瞑想修行を喜び実践し、村に入ることを頻繁にしない場合がある。その時、善行意比丘は、清らかな善行を実践し説法する者とその弟子たちに対して、不純な心を抱き、こう言うのである:「これは怠惰な比丘たちで、いつも村に入りたがる。」そして、すぐに木魚を鳴らして比丘たちを集め、自ら規則を定めて言う:「あなたがたは一人も村に入ってはならない。」清らかな善行を実践するすべての弟子たちに向かって、このように言うのである:「あなたがたは正しい行いを知らず、言葉も少なくない。なぜあなたがたはたびたび村に入るのか?諸仏世尊は阿蘭若(あらんにゃ)に住むことを賞賛し認められている。あなたがたは他家に行ってはならず、思惟と定の楽しみに住すべきである。」

「善家子!爾時淨善行比丘所有徒眾,於善行意比丘所制言教不順其轉,復數入村,為成熟眾生故。善家子!時彼比丘從村出已,彼善行意比丘復鳴犍稚集比丘眾,作如是言:『汝等若更入村,於此住處不得共住。』善家子!時淨善行說法者,護彼比丘故,於自徒眾告言:『汝等一莫入村。』時彼村中所有眾生,是彼比丘所成熟者,彼等不見諸比丘故,悉懷熱惱善法損減。

善き家の子よ、その時、清らかな善行の比丘に従う弟子たちは、善行意比丘が定めた教えに従わず、またたびたび村に入り、衆生を成熟させるために努めていた。善き家の子よ、その比丘が村から出てきたとき、善行意比丘は再び鐘を鳴らして比丘たちを集め、こう言った。「もしあなた方が再び村に入るなら、この住処では共に住むことは許されない。」善き家の子よ、その時、清らかな善行の説法者は、その比丘を守るために、自分の弟子たちに告げた。「あなた方は一人も村に入ってはならない。」すると、その村のすべての衆生、すなわちその比丘によって成熟させられた者たちは、比丘たちに会えなくなったため、皆、心を悩ませ、善い法が損なわれることとなった。

「善家子!時淨善行說法者,彼三月過已,從住處出到別住處,及共徒眾復入村城國邑王都,入已為諸眾生說法。善家子!時善行意比丘,復見淨善行說法者數入村家,亦見彼眾本性威儀入他家中。彼復唯有不淨心生:『今此比丘惡戒破戒,自身既爾徒眾亦然,此禿何有菩提?唯是詐誑。』便告多人作如是言:『此比丘雜行、去菩提遠,貴重利養染著他家。』

善き家の子よ、時が経ち、清らかな善行を説く者が三月を過ごした後、住処を出て別の住処へと向かい、弟子たちと共に再び村や町、国や邑、王都へと入り、入っては多くの人々に法を説いた。善き家の子よ、その時、善行を思う比丘は、清らかな善行を説く者がたびたび村の家々に入るのを見、またその弟子たちが本来の威儀を保ちつつ他人の家に入るのを見た。彼は再び不浄な心を起こし、『この比丘は戒を破り悪しき行いをし、自身もそうであれば弟子たちも同様である。この禿げた者にどうして菩提があるだろうか。ただ欺いているだけだ』と思った。そして多くの人に告げてこう言った。『この比丘は行いが雑で、菩提から遠く離れ、利養を重んじて他家に執着している』と。

「善家子!爾時善行意比丘於他時死。然其死時,以於彼邊不淨心生,作業熟故,墮阿毘至大泥犁耶中。經九十九俱致百千劫在大泥犁耶中,所有大泥犁耶苦皆具受已,於六十三百千生中常得誹謗;於三十三百千生中行出家已,還退在俗。以彼餘業障故,於無垢焰如來、應、正遍知教中出家,壽量既長,於俱致百千歲如救頭然發勤修行,猶未曾得隨順道忍。復多百千生中闇鈍,以彼餘業故。

善き家の子よ、その時、善行意比丘は別の時に死んだ。しかし、彼が死ぬとき、あの者に対して不浄な心を起こし、その業が熟したゆえに、阿毘地獄という大きな地獄に堕ちたのである。九十九俱胝百千劫の間、その大地獄の中で、大地獄の苦しみをすべて受けた後、六十三百千生の間、常に誹謗される身となり、三十三百千生の間は出家して修行をしながらも、また俗世に退転した。その残りの業の障りのゆえに、無垢焔如来・応供・正等覚の教えの中で出家したが、寿命が非常に長く、俱胝百千歳の間、頭に火がついたかのように急いで精進修行したにもかかわらず、なお随順の道忍を得ることはできなかった。さらに、多くの百千生の間、暗鈍であった。これも、あの残りの業のゆえである。

「善家子!彼時說法比丘名淨善行,汝莫異見。何以故?不動如來即是彼時說法比丘名淨善行。善家子!彼時說法比丘名善行意,汝莫異見。何以故?我身即是彼時說法比丘名善行意。我於彼所乃至微細方便,於中不淨心生已,作此業障墮大泥犁耶中。

善男子よ、あの時に説法をしていた比丘、その名は清浄なる行い、と申す者を、あなたは別の者と思ってはなりません。なぜならば、不動如来こそが、あの時に説法をしていた比丘、清浄なる行い、と申す者なのです。善男子よ、あの時に説法をしていた比丘、その名は善き心の行い、と申す者を、あなたは別の者と思ってはなりません。なぜならば、この私の身こそが、あの時に説法をしていた比丘、善き心の行い、と申す者なのです。私は、あの比丘に対して、ほんのわずかでも不純な心を起こし、その行いによって業の障りを生じ、大いなる地獄に堕ちたのでした。

「善家子!有如是微細業障。善家子!若有菩薩不欲如是業障者,於第二菩薩所諸修行中不應違背,諸作業中皆當信順。應生如是心:『我不知他心,眾生所行是亦難知。』善家子!如來見是義故,說如是法於富伽羅,富伽羅所不應選擇,唯我能選擇富伽羅及餘似我者。善家子!若欲自護不應選擇有所行者,不於他所而作遮礙此如是相,當於佛法勤作相應,晝夜勤念與法相應。善家子!發行深心菩薩,不應復於他所而作遮礙,當勤隨順相應修行。

善き家の子よ、このような微細な業の障りがあるのです。善き家の子よ、もし菩薩がこのような業の障りを望まないならば、第二の菩薩の行じるあらゆる修行に背いてはならず、なすべきすべての行いにおいて信じて従うべきです。このような心を起こすべきです:『私は他人の心を知らない。衆生の行いはこれまた知り難い』と。

善き家の子よ、如来はこの道理を見て、このような法を衆生について説かれました。衆生を選り分けてはならず、ただ私のみが衆生を選り分けることができ、また私に似た者だけができるのです。善き家の子よ、もし自らを護りたいと願うならば、行いのある者を選り分けてはならず、他人のところで妨げとなることをしてはなりません。このようなあり方で、昼夜を分かたず仏法に励み、法に相応することを勤め念じるべきです。

善き家の子よ、深い心を起こして行ずる菩薩は、再び他人のところで妨げとなることをすべきではなく、ひたすらに相応する修行に従って勤めるべきです。

「善家子!假使三千大千世界眾生,若有菩薩令彼安立十善業道;若有菩薩獨到閑處,乃至一彈指頃信諸法一相道,若問若共議若說、若教誦若自誦,此生福德過多於彼。何以故?善家子!菩薩摩訶薩因此道故得淨業障,諸眾生中遠離愛憎速到遍智。」

善き家の子よ、もし三千大千世界のすべての衆生を、ある菩薩が十善の道に安立させたとしよう。また別の菩薩が、静かな場所に独りで赴き、ほんの一瞬でも諸法は一つの相であるという道を信じ、それを尋ね、共に論じ、説き、教え誦え、自ら誦えたならば、この後者の功徳は、前者よりもはるかに勝るのである。なぜなら、善き家の子よ、菩薩摩訶薩はこの道によって、業の障りを清め、すべての衆生の中で愛憎を遠く離れ、速やかに遍く知る智慧に至ることができるからである。

佛說諸法本無經卷上

仏説諸法本無経 巻上


第二

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