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  1. 成唯識論料簡 (成唯識論料簡)
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成唯識論料簡 (成唯識論料簡)


○第三輪益差別者於中有二先明異計後辨大乘明異計中復分為二初依宗輪敘引諸部後明異計差別不同。

第三の「利益の違い」について、ここでは二つの点を述べる。まず、異なる見解を明らかにし、その後に大乗の教えを論じる。異なる見解の説明では、さらに二つの部分に分かれる。初めに宗派の系譜に基づいて諸部派を紹介し、その後、それぞれの見解の違いを明確にする。

宗輪論說佛涅槃後百有餘年無憂王時佛法初破出家四眾共議大天五事不同分為兩部一大眾部二上座部言四眾者一龍象眾二邊鄙眾三多聞眾四大德眾其五事者如彼頌言餘所誘無知猶豫他令入道因聲故起是名真佛教後即於此第二百年大眾部中分出八部一一說部二說出世部三鷄胤部四多聞部五說假部六制多山部七西山住部八北山住部并本大眾合說有九其上座部經爾所時一味和合三百年中方有乖諍上座部中分出十部一說一切有部二犢子部三法上部四賢胄部五正量部六密林山部七化地部八法藏部九飲光部十經量部并本上座合有十一然上座部分破已後轉名雪山兩部本末有二十部若除本二部唯十八真諦三藏所翻部執總說十八於上座部本異合說有十一部大眾本末唯有七部此說謬也但由真諦法師相傳聞說有十八部若言二十恐有他非遂略根本大眾不言於中復減西山住部欲成所說十八部故文殊問經雖說二十然翻譯家於大眾部但說為八上座部內開為十二於雪山外別說上座新舊部執皆言上座亦名雪山非離雪山別有上座於上座既為十二於大眾部乃總云八但是譯家不悟上座與雪山同遂開二部略去大眾取分一部若如真諦說十八部但違新部執亦乖文殊問經彼經偈云十八及本二皆從大乘出無是亦無非我說未來起若依舍利弗問經從上座部出十三部從大眾流出八部此亦違論及經還是譯家錯也餘論餘經皆言二十唯彼經中說二十三以是故知非梵本文。

宗輪論にはこう説かれている。仏が涅槃に入られてから百余年後、無憂王(アショーカ王)の時代に、仏法が初めて破れ、出家の四つの集まりが集まって、大天の五つの事柄について意見が分かれ、二つの部派に分かれた。一つは大衆部、もう一つは上座部である。四つの集まりとは、龍象衆・辺鄙衆・多聞衆・大徳衆のことである。その五つの事柄については、偈頌にこうある。「余によって誘われ、無知であり、疑惑し、他によって入らしめられ、道の因は声によって起こる。これが真の仏教である」と。

その後、第二百年になって、大衆部から八つの部派が分かれた。すなわち、一説部、説出世部、鶏胤部、多聞部、説仮部、制多山部、西山住部、北山住部である。元の大衆部を合わせて九つとなる。

上座部はその間、長く一味のまま和合していたが、三百年になってようやく諍いが生じた。上座部から十の部派が分かれた。すなわち、説一切有部、犢子部、法上部、賢冑部、正量部、密林山部、化地部、法蔵部、飲光部、経量部である。元の上座部を合わせて十一となる。

しかし、上座部が分かれた後は、雪山と名を変えた。両部の本末を合わせると二十部となる。本の二部を除けば十八部である。

真諦三蔵が翻訳した「部執」では、全体で十八部と説かれている。上座部の本末を合わせて十一部、大衆部の本末は七部のみとするのは、これは誤りである。真諦法師が伝え聞いたところによれば十八部と言ったが、二十と言えば他から非難されることを恐れて、根本の大衆部を省略して言わず、さらに西山住部を減らして、十八部としようとしたのである。

文殊問経は二十部と説くが、翻訳家が大衆部を八つとし、上座部を十二に分け、雪山の他に別に上座部を説いた。新旧の部執は皆、上座部は雪山とも呼ばれると言い、雪山を離れて別に上座部があるのではない。上座部を十二とするなら、大衆部は合わせて八つとすべきである。しかし、翻訳家は上座部と雪山が同じであることを悟らず、二つの部に分け、大衆部を省略して一部としたのである。

真諦のように十八部と言うなら、新しい部執に反するだけでなく、文殊問経にも背く。その経の偈にこうある。「十八および本二は、すべて大乗から出る。是もなく非もなく、我は未来の起こりを説く」と。

舎利弗問経によれば、上座部から十三部が出、大衆部から八部が流れ出たとあるが、これも論や経に反しており、やはり翻訳家の誤りである。他の論や経はすべて二十部と言うが、その経だけが二十三と言う。これによって、梵本の文ではないと知るべきである。

第二正明異計者即依彼論相傳解云其多聞部雪轉部薩婆多部犢子部法上部賢胄部正量部密林山部化地部經量部十部同說非諸佛語皆轉法輪唯八道教名為法輪世尊所言非皆利益未必如義八聖道教咸名利益其必如義見道因故又已轉者如是引生見道果故名法輪也佛所餘教不名法輪如問慶喜天雨不耶問諸比丘乞食易不氣力安不少病惱不此等聖教有何利益又如經言逆害於父母王及二多聞誅國及隨行是人說清淨此等聖教何必如義故諸佛語非皆轉法輪有不能生他聖教道故又已轉者解心生故其大眾部一說部說出世部鷄胤部說假部制多山部西山住部北山住部法藏部飲光部十部同說佛一切語咸有利益無不如義皆轉法輪非唯八道教方名轉法輪輪摧伏動轉義故佛語轉動至他身已摧伏他身無知惑等故一切教皆轉法輪如問慶喜天雨等事為令阿難生審諦故佛無不知尚問天雨況未圓智而不審耶亦除餘人增上慢故佛知尚問況不知者於餘未了而不諮問生已得想而自高耶為此多義問天雨等顯佛慈悲善巧方便問諸比丘乞食易等令生喜心踴躍修道彼賀悲問懃加修學亦令未來學習此事順世俗故問諸弟子故此等言非無利益其密語經雖詮世間苦可極重罪惡文字轉變密顯清淨義故所以者何若愛若業若有取識戒見二取眼等六處及所行境如其次第名父母等若能永斷故名清淨廣如對法第十六釋故此等言非不如義由此佛說一切言教皆悉名為轉正法輪生他正思及聖道故能伏能斷諸煩惱故此總是初明異計也。

第二に、異なる学説を明らかにする。すなわち、その論に依って相伝の解釈を述べる。多聞部・雪転部・薩婆多部・犢子部・法上部・賢冑部・正量部・密林山部・化地部・経量部の十部は同じく説く、「すべての仏の言葉が法輪を転じるわけではない。ただ八聖道のみを法輪と名づける。世尊の言葉は全てが利益となるわけではなく、必ずしも理にかなっているとは限らない。八聖道の教えはすべて利益と名づけられ、必ず理にかなっている。見道を生じる因であるからである。また、すでに転じられたものは、このように見道の果を引き起こすから、法輪と名づけられるのである。仏のその他の教えは法輪と名づけない。例えば、阿難に『雨が降ったか』と問われたり、比丘たちに『乞食は容易か、気力は衰えていないか、少々の病苦はないか』と問われたりする。このような聖教に何の利益があるだろうか。また、経典に『父母を害し、王及び二人の多聞を害し、国と随行の者を誅し、人は清浄を説く』とある。このような聖教が必ずしも理にかなっているとは限らない。それゆえ、仏のすべての言葉が法輪を転じるわけではない。他の聖者の道を生じさせることができないものがあるからである。また、すでに転じられたものは、心を解するからである。)

その大衆部・一説部・説出世部・鶏胤部・説仮部・制多山部・西山住部・北山住部・法蔵部・飲光部の十部は同じく説く、「仏のすべての言葉は利益があり、理にかなわないものはなく、すべて法輪を転じる。ただ八聖道のみを法輪と名づけるのではない。輪は摧伏し、動転する義であるから、仏の言葉は動転して他の身に至り、他の身の無知や煩悩などを摧伏する。それゆえ、すべての教えは法輪を転じるのである。例えば、阿難に『雨が降ったか』などと問われたことは、阿難に深く確かめる心を生じさせるためである。仏は知らないことはないが、雨のことを問う。まして、智慧が円満でない者が確かめないことがあろうか。また、他の人々の増上慢を取り除くためである。仏は知っていてもなお問う。まして、知らない者が、未だ明らかでないことを諮問せずに、自己の得たる想を生じて高ぶることがあろうか。この多くの義のために、雨のことを問うなどして、仏の慈悲と善巧方便を示されるのである。比丘たちに『乞食は容易か』などと問うて、喜びの心を生じさせ、踊躍して道を修めさせる。彼らは慈悲の問いを喜び、勤めて学修する。また、未来の者にもこのことを学ばせ、世俗に順じるから、弟子たちに問うのである。このような言葉に利益がないわけではない。その密語経は、世間の苦を述べ、極めて重い罪悪の文字を転変して、密かに清浄の義を示すのである。なぜならば、愛・業・有取識・戒見の二取・眼などの六処及びその所行の境は、その次第に父母などと名づけられる。これらを永く断ち切ることができれば、清浄と名づけられるのである。広く対法の第十六の釈のごとくである。それゆえ、このような言葉は理にかなわないことはない。これによって、仏の説くすべての言教は、すべて正法輪を転ずると名づけられる。他の正しい思惟及び聖道を生じさせるからであり、諸々の煩悩を伏し断ずることができるからである。これが初めに異計を明らかにすることである。

辨大乘者同大眾等諸部所說佛一切語皆為利益無不如義悉轉法輪故無垢稱經第五卷云告阿難以要言之諸佛所有威儀進止受用施為皆令所化有情調伏是故一切皆名佛事又涅槃經第十四云。

大乗を明かすものは、大衆など諸部の説くところと同じく、仏の一切の言葉はみな利益のためであり、義にかなわないものはなく、すべて法輪を転じるからです。『無垢称経』第五巻にこう説かれています。「阿難よ、要約して言えば、諸仏のすべての威儀・進止・受用・施為は、みな教化される有情を調伏させるものである。それゆえ、すべてを仏事と名づけるのである」と。また『涅槃経』第十四にはこう説かれています。

復次善男子諸佛世尊凡有所說皆悉名為轉法輪也譬如聖王所有輪寶未降伏者能令降伏已降伏者能令安穩諸佛世尊凡所說法亦復如是無量煩惱未調伏者能令調伏已調伏者令生善根由此世尊所有言說教皆令所化煩惱調伏一切皆轉法輪也所以者何佛所發言稱可道理咸為利益是故一切皆離四失名轉法輪何以故其四者何一無非處二無非時三無非器四無非法處謂處所應利益處能化所化在此可益必於此中作利益故時謂時分利益時節於此生此中此時可益應時而說不失時故器謂機器所逗之機應機而說無疎謬故法謂教法戒定慧等應利益法可益必已逗機無錯亂故准此乃至世間言教三歸五戒人天乘等既有利益亦名法輪由能摧伏惡趣煩惱令得出離生人天故故涅槃經次後復云復次善男子譬如聖王所有輪寶下上迴轉如來說法亦復如是能令下趣諸惡眾生上至人天乃至佛道。

また、善男子よ、諸仏世尊がお説きになることは、すべて「法輪を転ずる」と名づけられるのである。たとえば、聖王の持つ輪宝は、まだ降伏していない者を降伏させ、すでに降伏した者を安らかにする。諸仏世尊の説法もまた同じである。無量の煩悩をまだ調伏していない者を調伏させ、すでに調伏した者には善根を生じさせる。それゆえ、世尊のすべての説法は、教化される者たちの煩悩を調伏させるものであり、すべて法輪を転ずるのである。

なぜかといえば、仏が発する言葉は道理にかなっており、すべて利益のためであるからだ。それゆえ、すべての説法は四つの過失から離れており、「法輪を転ずる」と名づけられるのである。その四つとは何か。第一に「処にあらざることなし」、第二に「時にあらざることなし」、第三に「機にあらざることなし」、第四に「法にあらざることなし」である。

「処」とは、利益すべき場所のことである。教化する者と教化される者がこの場所にいて利益を受けることができるならば、必ずその場で利益を行うからである。

「時」とは、利益に適した時期のことである。この世のこの時において利益を受けることができるならば、時機に応じて説き、時を失わないからである。

「機」とは、教化を受けるにふさわしい器のことである。その機に応じて説き、誤りや怠りがないからである。

「法」とは、戒・定・慧などの教法であり、利益にかなった法のことである。利益を受けることができる者には必ずその機に応じて説き、錯乱がないからである。

このように考えるならば、世間的な教えであっても、三帰・五戒・人天乗などの教えは、利益があるので、これもまた法輪と名づけることができる。それらは悪趣の煩悩を摧伏し、彼らをして地獄・餓鬼・畜生などの悪趣から出離させ、人天に生まれさせることができるからである。

それゆえ『涅槃経』においても、その後に次のように説かれている。「また、善男子よ、たとえば聖王の持つ輪宝が上下に回転するように、如來說法もまた、下の悪趣の衆生を、人天・仏道の上に至らせることができるのである。」

問若爾何故維摩但言三轉法輪於大千等法華亦言即趣波羅奈轉無上法輪瑜伽九十五復云佛三周轉十二行相聖智法輪得所得已為欲令他於自所證生信解故為陳那等五比丘說既施鹿林若後若前皆有言教並名法輪如何但言為五比丘說方名轉法輪又大般若第六分中諸天子眾聞說般若咸作是言等今見佛於瞻部洲為諸天人眾第二轉法輪又深密金光明等說佛三時轉正法輪又法華經第二卷說昔於波羅奈轉四諦法輪今復轉無上最妙大法輪又涅槃經第十四云文殊師利白佛言世尊如來昔於波羅奈城轉正法輪今復於此抅尸那城方處轉於無上法輪若佛所有一言說皆轉法輪如何此等諸聖教中各別指解此等經皆依世尊顯相宣說差別言教故別別指名為轉法輪不言所餘非法輪也且維摩等約其顯相天人皆知佛成道已於施鹿林為諸比丘說四諦法故說此言名轉法輪提謂等經說有賈人聞法悟道提謂長者得法忍等此皆如來隨宜密教非諸天人皆悉聞知不得名為轉法輪也故初成道雖說華嚴聖者聞知非餘所見不名法輪諸教不說故涅槃經第十四說我於昔日波羅奈城為諸聲聞轉于法輪今始於此拘尸那城為諸菩薩轉大法輪由此應知諸佛世出世若說三乘必依聲聞四諦言教顯相說者名轉法輪依此世尊唯施鹿林一時說名轉法輪故佛名經第八卷云七佛之中初之二佛三集聲聞第三一佛再集聲聞後之四佛一集聲聞如法華經大通智勝佛所說四會及佛名經第六卷中諸佛說法有唯一會乃至十會皆應准知並是如來為聲聞人顯相言教名說法會名轉法輪彌勒三會亦然佛智一故前後別說利益不同昔說諸法有今言一切空將空教對有故說名第二若大般若中依空有教故諸天子自稱我今聞佛第二轉正法輪不言所餘非法輪也應機為利益故若深密等由第三時說異前二相對明異謂初說有次說皆空今言諸法非空非有故指三時名轉法輪法華第二意顯前來未分明說唯有一乘今於此經方唯說一且舉初教歎今所聞故云昔轉四諦法輪分別說法五眾生滅今轉最妙無上法輪是法深奧少有信者若涅槃經文殊白佛初後二時法輪相異故下世尊有多復次釋初及後法輪差別所以且舉初後二時不說中間非法輪也故下文中自以喻說加前所引皆轉法輪故諸聖教文雖有殊若以理通並無乖反由此佛語乃至俗論皆悉名為轉法輪也問天雨等如前應知然正轉法輪唯八聖道教近生聖道摧諸惑故。
問所轉法輪其體是何如何言教若轉法輪答見修無學三無漏道瑜伽論說名為法轉謂佛世尊轉自所證無漏聖法置他身中此復隨轉置餘身中彼復隨轉更置餘身如是展轉名轉法輪此聖法輪必由言教為增上緣方得轉故故佛聖教名轉法輪由教能令法輪轉故依此聖教是法輪因非體即為法輪性也。
又解佛教亦名法輪由展轉往他有情身令於所詮能生正解乃至能伏諸煩惱故瑜伽且依親能斷惑故說聖道不言教非然薩婆多但云見道經部有說體唯是言有說聖道皆法輪性如法輪章廣分別之總是第三輪益差別。

二漸頓時分
四義益不同

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