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title: "慈悲道場懺法 · 1 自慶"
description: "慈悲道场忏法又称梁皇宝忏，由南朝梁武帝萧衍组织高僧宝志禅师等共同编撰。该忏法产生于南北朝时期，旨在通过忏悔仪轨消除业障、祈福超度。全文分十卷，涵盖皈依、断疑、忏悔、发愿等完整仪规，通过虔诚礼拜诸佛与忏悔文，引导信众忏悔罪业、修习慈悲。作为中国佛教史上第一部综合性忏悔仪轨，该忏法奠定了汉传佛教忏仪体系的基础，至今仍在各类法会中广泛奉行，是修行者净化心灵、积累资粮的重要法门。"
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## 慈悲道場懺法卷第七

> 慈悲道場懺法　第七巻

今日道場同業大眾。夫至德渺漠本無言無說。然言者德之詮道之逕。說者理之階聖之導。所以藉言而理顯。理故非言。理由言彰言不越理。雖言理兩乖善惡殊絕。然影響相符未曾差濫。在於初學。要言以會道。至於無學。乃合理而忘言。自惟凡愚。惛惑障重。於諸法門未能捨言。今識麁故不盡其妙。見淺故不臻其極。然言之且易行之實難。唯聖與聖乃得備舉。今有難言自不能正云何正他。汝自三業穢濁。云何勸人清淨。自不清淨。欲使他清淨。無有是處。既不堅固何以勸人。今言行空說便成惱他。他既生惱何不且止。反覆尋省寧不自愧。余是善知識故發此言。於是整理衣服斂容無對。今聞善知識此辭。心情慚恧。自知深過。不敢欺誷聖人。隱覆其失。今欲毀除恐脫有人。因此增福。適欲存之。復恐有人生謗。進退迴遑不知所措。且立懺法心既是善。善法無礙但應努力。不得計此。今唯憑世間大慈悲父。覆護攝受既已有其言不容毀滅。正當慚愧。大眾願無觸惱。若謬與理合相與。因此懺法。改往修來為善知識。如其不會眾心。願布施歡喜。不成惡知識。猶為菩提眷屬。

> 今日、道場に集う同業の皆様。至高の徳は遥か遠く、本来、言葉も説きもありません。しかし、言葉は徳を解き明かす道筋であり、説きは真理への階段、聖なる導きです。言葉によって道理が明らかになり、道理は言葉に依存しません。道理は言葉によって示されますが、言葉は道理を越えることはありません。言葉と道理は別々のもの、善と悪は全く異なりますが、影が形に従うように、決して間違いはありません。初心者にとっては、言葉を通じて道を会得することが必要であり、学びを究めた者になれば、道理に合致し言葉を忘れます。私はただの凡夫で、愚かさと迷いの障りが重く、あらゆる教えの門において、まだ言葉を捨てることができません。今の認識は粗いため、その妙なる境地を尽くせず、見識は浅いため、その極みに至れません。しかし、言葉で言うのはたやすいが、実践するのは実に難しい。ただ聖人と聖人だけが、これを完全に成し遂げられます。今、自分自身が正せないのに、どうして他人を正せましょうか。あなた自身の三業（身・口・意）が穢れているのに、どうして人に清浄を勧められますか。自分が清浄でないのに、他人を清浄にさせようとするのは、ありえません。自分が堅固でないのに、どうして人を勧められますか。今、言葉だけで空を説けば、かえって他人を悩ませることになります。他人が悩みを生じたなら、どうしてただちに止めないのでしょうか。繰り返し省みれば、恥ずかしくないでしょうか。私は善知識であるからこそ、この言葉を発します。そこで衣服を整え、顔を引き締めて、返す言葉がありません。今、善知識のこの言葉を聞き、心は恥じ入り、自らの深い過ちを知りました。聖人を欺き、過ちを隠すことはできません。今、これを取り除こうとすれば、もしかすると誰かがこれによって福を増すかもしれません。一方、残しておこうとすれば、また誰かが誹謗を生じるかもしれません。進退に迷い、どうすべきかわかりません。しかし、懺悔の法を立てる心は善であり、善法には妨げはありません。ただ努力すべきで、これを計算してはいけません。今はただ、世間の大慈悲の父（仏）に頼り、覆護と摂受を願います。すでに言葉がある以上、それを滅ぼすことは許されません。正しく恥じ入るべきです。大衆よ、どうか触れて悩ませることのないように願います。もし誤って道理に合致するなら、共にこの懺悔の法によって、過去を改め未来を修め、善知識となりましょう。もし皆の心に合わなければ、喜んで布施を施し、悪知識とならず、菩提の眷属であり続けましょう。

自慶第一　為六道禮佛第二　迴向第三發願第四　囑累第五

> 第一に、自らを喜ぶこと 第二に、六道のために仏に礼拝すること 第三に、功徳を回向すること 第四に、願いを起こすこと 第五に、託し任せること

### 自慶第一此略申自慶大意其中慶事隨自莊嚴

> 自慶第一

今日道場同業大眾。從歸依已來知至德。可憑斷疑。懺悔則罪惑俱遣。續以發心勸獎兼行。怨結已解。逍遙無礙。豈得不人人踊躍歡喜。所應自慶今宣其意。經云。八難。一者地獄。二者餓鬼。三者畜生。四者邊地。五者長壽天。六者雖得人身癃殘百疾。七者生邪見家。八者生佛前。或生佛後有此八難。所以眾生輪迴生死。不得出離。我等相與生在如來像法之中。雖不值佛而慶事光多。凡難之為語罪在於心。若心生疑非難成難。心若無疑是難非難。何以知之。第八難云。生在佛前。或在佛後。是名為難。而城東老母。與佛同生一世。共佛俱在一處。而不見佛。故知心疑是難。未必異世。皆云是難。波旬懷惡生陷地獄。龍聞說法便得悟道。當知人天。未必非難。心苟不善稟報不殊。六天之主墜在地獄。畜生之賤超登道場。是則心邪故輕難成重。心正故重難無礙。今日道場同業大眾。以心疑故觸向成難。心能正者則難非難。舉此一條在處可從。故知佛前佛後無非正法。邊地畜生莫非道處。今若正心則無復八難。如其疑惑則難成無量。如是自慶事實不少。大眾日用不知其功。今略陳管見示自慶之端。大眾若能知自慶者則復應須修出世心。何者自慶。佛言地獄難免。相與已得免離此苦。是一自慶。餓鬼難脫相與已得遠離痛切。是二自慶。畜生難捨相與已得不受其報。是三自慶。生在邊地不知仁義。相與已得共住中國。道法流行親承妙典。是四自慶。生長壽天不知植福。相與已得更復樹因。是五自慶。人身難得一失不返。相與已得各獲人身。是六自慶。六根不具不預善根。相與清淨。得深法門。是七自慶。世智辯聰反成為難。相與一心歸憑正法。是八自慶。佛前佛後復謂為難。或云。面不覩佛。又為大難。相與已能發大善願。於未來世誓拔眾生。不以不覩如來為難。但一見色像一聞正法。自同在昔。鹿苑初唱。事貴滅罪生人福業。不以不見佛故。稱之為難。佛言。見佛為難相與已得。瞻對尊像。是九自慶。佛言。聞法復難。相與已得。飡服甘露。是十自慶。佛言。出家為難相與已得。辭親割愛歸向入道。是十一自慶。佛言。自利者易利他為難。相與今日一拜一禮。普為十方。是十二自慶。佛言。捍勞忍苦為難。相與今日各自翹勤有所為作不為自身是十三自慶。佛言。讀誦為難。我今大眾同得讀誦是十四自慶。坐禪為難。而今見有息心定意者。是十五自慶今日道場同業大眾。如是自慶。事多無量。非復弱辭所能宣盡。凡人處世苦多樂少。一欣一喜尚不可諧。況今相與有多無礙得此無礙。皆是十方三寶威力。宜各至心懷憶此恩。等一痛切五體投地。奉為。

> 今日、道場に集う同業の大衆よ。帰依して以来、至高の徳を知り、拠り所とすべきことを悟り、疑いを断じてきました。懺悔すれば罪と迷いがともに消え、続けて発心を勧め励まし、怨みの結びはすでに解け、自由自在に何の妨げもありません。どうして一人ひとりが躍り上がって喜ばないことがありましょうか。自ら慶ぶべきところを今、その意味を説き明かします。 経典に言う、「八難」とは、第一に地獄、第二に餓鬼、第三に畜生、第四に辺地、第五に長寿天、第六にはたとえ人身を得ても病や障害に悩まされること、第七に邪見の家に生まれること、第八に仏の前か、あるいは仏の後に生まれること。この八難があるために、衆生は生死を輪廻し、離れることができないのです。 私たちは共に、如来の像法の時代に生まれました。直接仏に遇うことはなくとも、慶ぶべきことは数多くあります。そもそも「難」という言葉の意味は、罪が心にあることです。もし心に疑いが生じれば、難でなくとも難となります。心に疑いがなければ、難であっても難とはなりません。どうしてそう言えるのでしょうか。第八の難に、「仏の前に生まれるか、あるいは仏の後に生まれるか、これを難という」とあります。しかし、城東の老母は仏と同じ時代に生まれ、仏と同じ場所にいたのに、仏を見ることができませんでした。だからこそ、心に疑いがあることが難なのであって、必ずしも時代が違うから難だとは限らないのです。 波旬は悪を抱いて地獄に堕ち、龍は説法を聞いて悟りを得ました。これにより、人間や天界にいることが必ずしも難でないとわかります。もし心が善でなければ、その報いは同じです。六天の主が地獄に墜ち、畜生の賤しい身から道場に登ることもあります。つまり、心が邪であれば軽い難も重くなり、心が正しければ重い難も妨げとならないのです。 今日、道場に集う同業の大衆よ。心に疑いがあるために、あらゆることが難となります。心が正しければ、難も難とはなりません。この一つの道理を挙げれば、どこにいても従うことができます。だからこそ、仏の前も後も正法であり、辺地も畜生も道場なのです。今、もし心を正せば、もはや八難はありません。もし疑いがあれば、難は無量となります。このように自らを慶ぶべきことは、実際に少なくありません。大衆は日々これを用いながら、その功徳を知らないのです。今、私の浅はかな見解を少し述べて、自らを慶ぶ端緒を示します。 大衆よ、もし自らを慶ぶことを知るならば、さらに出世の心を修めるべきです。何を自ら慶ぶのでしょうか。仏は言われます、地獄の難を免れることは難しいと。私たちはすでにこの苦しみから免れました。これが第一の自慶です。餓鬼の難から脱することは難しいと。私たちはすでに痛切な苦しみから遠く離れました。これが第二の自慶です。畜生の難を捨てることは難しいと。私たちはすでにその報いを受けずに済んでいます。これが第三の自慶です。辺地に生まれて仁義を知らないこと。私たちはすでに中国に共に住み、道法が流行し、妙なる経典を直接受けています。これが第四の自慶です。長寿天に生まれて福を植えることを知らないこと。私たちはすでにさらに因を植えることができます。これが第五の自慶です。人身を得ることは難しく、一度失えば戻らないこと。私たちはすでにそれぞれ人身を得ました。これが第六の自慶です。六根が具わらず、善根に預からないこと。私たちは清浄であり、深い法門を得ています。これが第七の自慶です。世間の知恵や弁才がかえって難となること。私たちは一心に正法に帰依しています。これが第八の自慶です。仏の前か後に生まれることがまた難と言われること。あるいは、仏の顔を見られないことが大難だとも言われます。私たちはすでに大いなる善願を発し、未来世において衆生を救うことを誓っています。如来を見られないことを難とはせず、ただ一度でも仏の姿を見、正法を聞けば、昔の鹿野苑で初めて説法が行われた時と同じです。大切なのは罪を滅ぼし、人々の福業を生じさせることであって、仏を見ないからといって難とは言えません。 仏は言われます、仏を見ることは難しいと。私たちはすでに尊い像を拝することができます。これが第九の自慶です。仏は言われます、法を聞くこともまた難しいと。私たちはすでに甘露を味わっています。これが第十の自慶です。仏は言われます、出家は難しいと。私たちはすでに親を辞し、愛を断ち、道に入ることに帰しています。これが第十一の自慶です。仏は言われます、自利は易く、利他は難しいと。私たちは今日、一礼一拝することも、すべて十方のためです。これが第十二の自慶です。仏は言われます、労苦に耐えることは難しいと。私たちは今日、それぞれ精進して、自分のためではなく行っています。これが第十三の自慶です。仏は言われます、読誦は難しいと。私たち大衆は共に読誦することができます。これが第十四の自慶です。坐禅は難しいと。今、心を静め、意を定める者が見られます。これが第十五の自慶です。 今日、道場に集う同業の大衆よ。このように自らを慶ぶべきことは、数多く無量です。私の拙い言葉ではとても言い尽くせません。凡人が世に処するのは苦多く楽少なく、一つの喜びさえ得るのは難しいのに、ましてや今、私たちは多くの自由自在を得ています。この自由自在は、すべて十方の三宝の威力によるものです。どうか各自、心を込めてこの恩を思い、等しく痛切に五体を地に投げ出し、奉って

國王帝主土境人民父母師長。上中下座信施檀越。善惡知識諸天諸仙。護世四王。聰明正直天地虛空。主善罰惡守護持呪。五方龍王龍神八部。諸大魔王五帝大魔。一切魔王。閻羅王泰山府君。五道大神。十八獄王并諸官屬。廣及三界六道。無窮無盡含情抱識。有佛性者。至誠歸依十方盡虛空界一切三寶。願以慈悲心同加攝受。以不可思議神力。覆護拯接。令諸天諸仙一切神王及三界六道一切眾生。從今日去。越生死海到涅槃岸。行願早圓俱登十地。入金剛心成等正覺一拜。

> 国王、帝主、国土の民、父母、師匠、先輩。 上座から下座まで、施しを捧げる信者、善き友も悪しき友も、 諸天の神々、仙人たち、世界を守る四天王。 聡明で正直なる天地虚空の神々、 善を勧め悪を罰し、呪文を守護する者たち。 五方の龍王、龍神、八部衆、諸大魔王、五帝の大魔、 あらゆる魔王、閻魔王、泰山府君、五道の大神、 十八地獄の王とその配下たち。 広く三界六道にわたり、限りなく果てしなく、 心を持ち、識を抱くすべてのもの。 仏性を有する者たちよ。 心を込めて十方の尽きることなき虚空界の一切の三宝に帰依し、 慈悲の心をもってともに受け入れ、守り給わんことを。 計り知れぬ神通力をもって覆い護り、救い上げ給え。 諸天の神々、仙人、すべての神王、および三界六道の一切の衆生が、 今日より生死の海を越え、涅槃の岸に至らんことを。 行願早く満ち、ともに十地に登り、 金剛の心に入り、等しく正覚を成ぜんことを<note>一拝</note>。