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title: "釋氏稽古略 · 煬帝"
description: "释氏稽古略是元代僧人觉岸编撰的佛教史书。该书以编年体形式记述了从佛教传入中国至南宋末年的佛教发展历程，涵盖高僧事迹、宗派传承和重要事件。觉岸在宋末元初的动荡背景下，广泛搜集史料，系统梳理佛教历史，旨在护教弘法。此书是研究中国佛教史的重要典籍，具有较高的史料价值，对后世佛教史学影响深远。"
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### 煬帝

> 煬帝

諱廣。高祖文帝第二子。封晉王。開皇二十年廢太子勇立廣為皇太子。仁壽四年七月即帝位。在位十三年。為令狐行達縊於江都。壽三十九歲　大業十二又二。

> お名前は広（廣）。高祖文帝の第二子で、晋王に封じられました。開皇二十年、太子の勇（ゆう）が廃されると、広が皇太子に立てられました。仁寿四年七月に帝位に就き、在位十三年。令狐行達によって江都で絞め殺されました。享年三十九歳。大業<note>十二と二</note>。

乙丑大業元年正月。帝為高祖造西禪定寺。又於高陽造降聖寺。賜婺州傅大士雙林寺書。略曰。朕欽承寶命撫育萬方。思弘德化覃被遐邇句文崇敬見大士傳。始置進士科。三月戊申詔曰聽採輿頌謀及庶民故能審刑政之得失。今將迴歷淮海觀省風俗。勅宇文愷與內史舍人封德彛等。營顯仁宮。南接卓湘。北跨洛濱。發大江之南五嶺以北奇材異石輸之洛陽。又求海內嘉木異草珍禽異獸以實園苑。又命尚書右丞皇甫儀。發河南淮北諸郡民前後百餘萬。開通濟渠。自西苑引穀洛水達於河。復自板渚引河歷榮澤入汴。又自大梁之東引汴水入泗達於淮。又發淮南民十餘萬。開邗溝通渠安州。自山陽至楊子入江。渠廣四十步。渠旁築御道樹以柳。自長安至江都置離宮四十餘所。又遣黃門侍郎王弘等往江南。造龍舟及雜船數萬艘。五月築西苑周二百里。其內為海周十餘里。為方丈蓬萊諸山。高出水面百餘尺。臺觀宮殿羅絡山上。向背如神。海北有龍鱗渠。縈紆注海內。㳂渠作十六院。門皆臨渠。每院以四品夫人主之。堂殿樓觀窮極華麗。宮樹秋冬彫落則剪綵為花葉綴於枝條。色渝則易以新者。常如陽春。沼內亦剪綵為荷芰菱芡。乘輿遊幸則去水而布之。上好以月夜從宮女數千騎遊西苑。作清夜遊曲馬上奏之。八月上行幸江都發顯仁宮出洛口御龍舟。龍舟四重高四十五尺長二百尺。上重有正殿內殿東西朝堂。中二重有百二十房。皆飾以金玉。下重內侍處之。皇后乘翔螭舟。制度差小而裝飾無異。挽船士皆以錦綿為袍。又有浮景漾彩朱鳥蒼螭等數千艘蘇刀切。挽船士八萬餘人。舳艫相接二百餘里。照耀川陸。騎兵翊兩岸而行。旌旗蔽野。帝每出遊幸。羽儀亘二十餘里。文物之盛近世莫及也隋書二年三月帝發江都。四月入東京。立道場設無遮大會。度士女百二十人為僧尼。奉為文帝造金銅釋迦佛坐像一軀。并州太原也造弘善寺。傍龍山作彌陀坐像。高百三十尺。楊州立慧日道場。長安造清禪寺日嚴寺香臺寺。又捨九宮為九寺。於泰陵莊陵俱各造寺。為文皇獻后於長安造二寺二塔。別立寺二所。修治故經六百十二藏。計九十萬三千五百八十卷。故像十萬一千軀。鑄造新像三千八百五十六軀。度僧一萬六千二百人。帝出巡幸。常以僧尼道士女冠自隨。謂之四道場帝紀并辯正錄三年正月二十八日帝設齋具疏稱。皇帝菩薩戒弟子廣白三寶。謹於率土之內建立勝緣。請僧七日行道。度僧一千人。以此功德普為眾生清淨罪垢同至菩提辯正錄。三月帝還長安。以高祖末年法令峻刻。詔改修律令。民久厭嚴刻喜於寬政。旅騎尉劉炫預修律令。吏部尚書牛弘從容問炫曰。周禮事多而府史少。今令史百倍於前。減則不濟。其故何也。炫曰。古人委任責成歲終考其殿最下功曰殿上功曰最。案不重校。文不繁悉府史之任掌要目而已。今之文簿恒慮覆治。若鍛鍊不密則萬里追證。百年舊按此之由也隋書。改州為郡。改度量權衡並依古式。改上柱國以下官為大夫。置殿內省於尚書門下。內史祕書為五省。增謁者司隷臺與御史為三臺。分太府寺置少府監與長秋國子將作都水為五監。又增改左右翊衛等為十六府。廢伯子男爵唯留王公侯三等。詔發丁男百餘萬築長城。西距榆林。東至紫河。尚書左僕射蘇威諫。帝不聽。築二旬而畢。八月車駕發榆林歷雲中泝金河。時天下承平。百物豐實。甲士五十餘萬。馬十萬匹。九月至東都　四年詔於汾州之北。汾州之源營汾陽宮　五年正月改東京為東都。詔天下均田。三月車駕西巡　六年勅穿江南河。自京口至餘杭八百餘里廣十餘丈。使可通龍舟。并置驛官。欲東巡會稽　七年二月帝自江都行幸涿郡。壬午下詔討高麗。天下騷動。鄒平民王薄擁眾據長白山。剽掠齊濟之郊。自稱知世郎。作毋向遼東浪死歌以相感勸。避征役者多往歸之　八年四方兵至高麗平壤凡一百一十三萬三千八百人。軍駕度遼。高麗諸城各堅守不下。初九軍之度遼也凡三十萬五千人。及帝之還至遼東城惟二千七百人。資儲器械失亡蕩盡　九年四月帝以衛尉少卿李淵為弘化郡留守。關右十三郡兵皆受征發　十年二月詔百僚議伐高麗。數日無敢言者。戊子詔復徵天下兵百道俱進。高麗亦自困弊。遣使乞降。帝乃班師還西京　十一年正月增祕書省官百二十員。並以學士補之　十一年正月詔以右驍衛將軍唐公李淵為大原留守。以王威高君雅為之副。車駕至江都。時饑饉其民采樹皮葉。或擣󱡐為末煮而食之。諸物皆盡。乃自相食。帝卒遇弑於江都。

> 乙丑の大業元年正月。帝は高祖のために西禅定寺を建てられました。また高陽に降聖寺を建てられました。婺州の傅大士の双林寺に書を賜り、その大意はこうです。「朕は宝命を謹んで受け、万方を撫育してきた。徳化を広め、遠近に及ぼそうと願っている」<note>句文崇敬は大士伝に見える</note>。初めて進士科を設けました。三月の戊申に詔を下されました。「世の声を聞き、庶民の意見をも取り入れることによって、刑政の得失を正しく知ることができる。今、淮海を巡り、風俗を視察しようと思う」。宇文愷と内史舎人封徳彝らに命じて顕仁宮を造営させました。南は卓湘に接し、北は洛浜にまたがるものでした。長江の南、五嶺の北から珍しい木材や変わった石を集めて洛陽に運ばせました。また天下の佳木・異草・珍禽・異獣を求めて庭園を満たしました。さらに尚書右丞皇甫儀に命じて、河南・淮北の諸郡の民、前後百余万人を動員し、通済渠を開かせました。西苑から穀水と洛水を引いて黄河に達し、また板渚から黄河を引き、滎沢を経て汴水に入れ、さらに大梁の東から汴水を引き、泗水に入れて淮水に達しました。また淮南の民十余万を動員して邗溝を通渠<note>安州</note>を開かせ、山陽から楊子を経て長江に入りました。渠の幅は四十歩、渠のそばには御道を築き柳を植えました。長安から江都まで離宮を四十余か所置きました。また黄門侍郎王弘らを江南に遣わし、龍舟および各種の船数万艘を造らせました。五月、西苑を築き、周囲二百里。その中に海を作り、周囲十余里。方丈・蓬萊などの山を築き、水面から百余尺も高くそびえました。台観や宮殿が山の上に連なり、その向きは神のようです。海の北には龍鱗渠があり、くねくねと流れて海に注いでいました。渠に沿って十六の院を作り、門はすべて渠に臨んでいました。各院は四品の夫人が治めました。堂殿楼観はこの上なく華麗を尽くしました。宮中の樹木は秋冬に葉が散ると、綵を切って花や葉を作り枝に結びつけました。色が褪せれば新しいものと取り替え、常に春のようでした。池の中にも綵を切って荷・菱・芡などを作りました。帝が舟で遊ばれるときは、水から上げてそれを敷き並べました。帝は月夜に宫女数千騎を伴って西苑を遊ぶのがお好きで、清夜遊曲を作り、馬上で演奏させました。八月、帝は江都に行幸され、顕仁宮を出て洛口から龍舟に乗られました。龍舟は四重で、高さ四十五尺、長さ二百尺。上の重には正殿・内殿・東西の朝堂があり、中の二重には百二十の房があり、すべて金玉で飾られていました。下の重には内侍が住みました。皇后は翔螭舟に乗られました。作りはやや小さいですが装飾は同じでした。船を引く者たちは皆、錦や綿で袍を作りました。また浮景・漾彩・朱鳥・蒼螭など数千艘<note>蘇刀切</note>があり、船を引く者は八万余人でした。船尾と船首が相接すること二百余里、川と陸を照らし輝かせました。騎兵が両岸を警護して進み、旌旗は野を覆いました。帝が遊幸されるたびに、羽儀は二十余里に及びました。文物の盛んなこと、近世にこれに及ぶものはありません<note>隋書</note>。二年三月、帝は江都を発ち、四月に東京に入られました。道場を立てて無遮大会を設け、男女百二十人を僧尼として出家させました。文帝のために金銅の釈迦仏坐像一躯を造り、并州<note>太原</note>に弘善寺を造り、龍山のそばに弥陀坐像を造りました。高さ百三十尺。楊州に慧日道場を立て、長安に清禅寺・日厳寺・香台寺を造りました。また九宮を捨てて九寺としました。泰陵・荘陵にはそれぞれ寺を造りました。文皇と献后のために長安に二寺二塔を造り、別に寺二か所を立てました。古い経典六百十二蔵、計九十万三千五百八十巻を修治し、古い像十万一千躯を直し、新しい像三千八百五十六躯を鋳造し、僧一万六千二百人を出家させました。帝が巡幸されるたびに、常に僧尼・道士・女冠を随行させ、これを四道場と呼びました<note>帝紀ならびに弁正録</note>。三年正月二十八日、帝は斎を設け、疏を具して「皇帝菩薩戒弟子広白三宝」と称されました。謹んで率土の内に勝縁を建立し、僧を請じて七日間行道し、僧千人を出家させました。この功徳をもって普く衆生のために罪垢を清浄にし、共に菩提に至らんことを<note>弁正録</note>。三月、帝は長安に還られました。高祖の末年、法令が厳しすぎたため、詔して律令を改修させました。民は長く厳刻を厭い、寛政を喜びました。旅騎尉劉炫が律令の修訂に参加しました。吏部尚書牛弘が劉炫に穏やかに問いました。「周礼は事が多いのに府史が少ない。今は令史が以前の百倍もいる。減らせば間に合わない。そのわけは何か」。劉炫は答えました。「古人は任に委ねて責を成し、歳末にその殿最<note>下功を殿といい、上功を最という</note>を考査した。案は重ねて校べず、文は繁く悉さず、府史の役目は要目を掌るのみであった。今の文簿は常に覆治を慮り、もし鍛錬が密でなければ万里を追証する。百年の旧案、これがその理由である」<note>隋書</note>。州を郡に改め、度量衡を改めて古式に従いました。上柱国以下の官を大夫に改めました。殿内省を尚書・門下に置き、内史・秘書を合わせて五省としました。謁者・司隷台を増やし、御史と合わせて三台としました。太府寺を分けて少府監を置き、長秋・国子・将作・都水と合わせて五監としました。また左右翊衛などを増改して十六府としました。伯・子・男の爵を廃し、王・公・侯の三等のみを残しました。詔して丁男百余万を動員し、長城を築かせました。西は榆林に至り、東は紫河に至るものでした。尚書左僕射蘇威が諫めましたが、帝はお聞き入れになりませんでした。築くこと二旬で完成しました。八月、車駕は榆林を発ち、雲中を経て金河を遡りました。時に天下は太平で、百物は豊かに実っていました。甲士五十余万、馬十万匹。九月、東都に到着されました。四年、詔して汾州の北、汾州の源に汾陽宮を営ませました。五年正月、東京を東都と改めました。詔して天下に均田を行いました。三月、車駕は西巡されました。六年、勅して江南河を穿たせました。京口から余杭まで八百余里、幅十余丈。龍舟を通すことができるようにし、駅官を置きました。東のかた会稽に巡幸しようとされました。七年二月、帝は江都から涿郡に行幸されました。壬午、詔を下して高麗を討たれました。天下は騒動となりました。鄒平の民王薄は衆を擁して長白山に拠り、斉・済の郊外を掠め、自ら知世郎と称し、「遼東へ向かいて浪死するな」の歌を作って人々を煽りました。征役を避ける者は多く彼のもとへ帰順しました。八年、四方の兵が高麗の平壌に至るまで、およそ百十三万三千八百人でした。帝の車駕は遼を渡られました。高麗の諸城はそれぞれ堅く守って降りませんでした。初め九軍が遼を渡ったときは三十万五千人でしたが、帝が還られて遼東城に至ったときにはわずか二千七百人でした。資儲や器械は失われ尽くしました。九年四月、帝は衛尉少卿李淵を弘化郡留守とされました。関右十三郡の兵は皆、徴発を受けました。十年二月、詔して百僚に高麗討伐を議させました。数日間、敢えて言う者はありませんでした。戊子、詔して再び天下の兵を徴し、百道から共に進めました。高麗もまた自ら疲弊し、使者を遣わして降を乞いました。帝はそこで軍を引き揚げ、西京に還られました。十一年正月、秘書省の官百二十員を増やし、皆学士をもって補いました。十一年正月、詔して右驍衛将軍唐公李淵を太原留守とし、王威・高君雅をその副としました。車駕は江都に至りました。時に飢饉で、民は樹皮や葉を採り、あるいは搗いて粉とし煮て食べました。諸物は皆尽き、ついに互いに食い合いました。帝はついに江都で弑されました。

丁丑大業十三年十一月改義寧元年。恭帝之立也。

> 丁丑の大業十三年十一月、義寧元年と改められた。恭帝が即位したのである。