蓮華大窾 序
妙法蓮華には「導」があるのか。 もし「導」があるなら、それは妙ではない。 妙法蓮華には「導」がないのか。 もし「導」がないなら、それもまた妙ではない。 ゆえに天人師もまた導師と称される。 導とは何か。それは「導き」である。 「導き」は導く者にあり、妙法蓮華そのものにはない。
「大導」とは、南方の尊宿・一雨和尚が導いたものである。 それを「導き」とは呼ばず、「大導」と呼ぶのは、 導くべきものはなく、導きはすでに妙法蓮華の中にあり、 導く者の中にはないことを明らかにするためである。 導く者は法の妙を見、読む者は導きの妙を見る。 法の妙を見るゆえに、妙法蓮華大導を妙に読むのである。
妙に読む者とは、余宗の僧・実法師湛脩である。 湛脩は軍持(水瓶)を携え、数十年を経て、 ようやく蓮華の上に由旬の宝幢を建てた。 手に取って示すものはすべて理に適い、 その解釈は一雨和尚の導きによるものである。
大導を重ねて刻むのは、導師が導いたものを導くためである。 雨は法の導きの中にあり、脩は雨の導きの中にあり、 後に読む者は脩の導きの中にある。 筋と肢が連なり、同じ導きの中で語り合うことができる。 これにより、刀を握る者が真の英雄であると知るのである。 刀を握らなければ、大導を読むことはできない。 妙は読む者にあり、導く者にはない。 また、妙法蓮華そのものにもない。
妙に読む者は、蓮華を見ることを白牛を見るようにし、 白牛を見ることを風の歩みのようにする。 完全な歩みはない。 それゆえに、妙法蓮華大導を妙に読むのである。
聞くところによれば、蓮華経を三十年読み、 口の中に常に蓮華の香りがするという者がいる。 しかし、その者が読んでいる「導き」が何であるかはわからない。
李禿翁が言ったように、善きかな。 妙法蓮華経は、品品すべてが妙法蓮華を説いている。 しかし、いわゆる妙法蓮華を求めれば、それはかすんで得られない。 ああ、これこそが妙法蓮華と呼ばれる所以であろう。 ああ、これこそが妙法蓮華大導と呼ばれる所以であろう。
崇禎庚午年の春も終わりに近づく頃、霧山の嬾禪こと劉谷貞が題す。