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title: "法華經大窾 · No. 614-B 蓮華大窾敘"
description: "法華經大窾（通潤箋）是明代高僧通潤對《妙法蓮華經》所作的權威註疏。通潤法師身處明末佛教義學復興的背景下，其箋註博採眾長，以精闢的科判和清晰的義理闡釋，深入剖析法華經的一乘思想、諸法實相及開權顯實等核心教義。此作不僅系統梳理了經文脈絡，更融合了天台宗等傳統註解精華，是研究法華經從隋唐至明代義學發展的重要橋樑。在佛教史上，它被視為理解法華圓頓法門的關鍵典籍，對後世學人影響深遠，具有崇高的學術地位與實踐指導價值。"
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### No. 614-B蓮華大窾敘

> 蓮華大窾 序

妙法蓮華有󳴹耶。有󳴹則不妙也。妙法蓮華無󳴹耶。無󳴹則亦不妙也。故天人師亦稱導師。導者何。導󳴹也。󳴹在導者。而不在妙法蓮華也。大󳴹者。南方尊宿一雨所導也。不稱導󳴹。稱大󳴹者。明導無可導。󳴹在妙法蓮華而不在導者也。導者見法妙。讀者見導妙。因見法妙。也則妙讀妙法蓮華大󳴹者也。妙讀者。余宗僧實法師湛脩也。湛脩軍持。歷落數十年。乃得於蓮華須上建由旬寶幢。信手拈示皆中理。解則一雨師所導也。重刻大󳴹者。導導師所導也。雨在法󳴹中。脩在雨󳴹中。後讀者在脩󳴹中。筋肢相屬。可同󳴹而語也。乃知捉刀人真英雄也。不捉刀不可讀大󳴹也。妙在讀者而不在導者也。亦不在妙法蓮華也。妙讀者。視蓮華如視白牛。視白牛如風之步。無全步。也則妙讀妙法蓮華大󳴹者也。聞有讀蓮華經三十年來世。口中常作蓮華香者。又未知其所讀何󳴹也。善乎李禿翁曰。妙法蓮華經。品品皆說妙法蓮華。至求其所謂妙法蓮華者則渺不可得。嗚乎此其所以謂妙法蓮華也歟。嗚乎此其所以謂妙法蓮華大󳴹也歟。

> 妙法蓮華には「導」があるのか。 もし「導」があるなら、それは妙ではない。 妙法蓮華には「導」がないのか。 もし「導」がないなら、それもまた妙ではない。 ゆえに天人師もまた導師と称される。 導とは何か。それは「導き」である。 「導き」は導く者にあり、妙法蓮華そのものにはない。 「大導」とは、南方の尊宿・一雨和尚が導いたものである。 それを「導き」とは呼ばず、「大導」と呼ぶのは、 導くべきものはなく、導きはすでに妙法蓮華の中にあり、 導く者の中にはないことを明らかにするためである。 導く者は法の妙を見、読む者は導きの妙を見る。 法の妙を見るゆえに、妙法蓮華大導を妙に読むのである。 妙に読む者とは、余宗の僧・実法師湛脩である。 湛脩は軍持（水瓶）を携え、数十年を経て、 ようやく蓮華の上に由旬の宝幢を建てた。 手に取って示すものはすべて理に適い、 その解釈は一雨和尚の導きによるものである。 大導を重ねて刻むのは、導師が導いたものを導くためである。 雨は法の導きの中にあり、脩は雨の導きの中にあり、 後に読む者は脩の導きの中にある。 筋と肢が連なり、同じ導きの中で語り合うことができる。 これにより、刀を握る者が真の英雄であると知るのである。 刀を握らなければ、大導を読むことはできない。 妙は読む者にあり、導く者にはない。 また、妙法蓮華そのものにもない。 妙に読む者は、蓮華を見ることを白牛を見るようにし、 白牛を見ることを風の歩みのようにする。 完全な歩みはない。 それゆえに、妙法蓮華大導を妙に読むのである。 聞くところによれば、蓮華経を三十年読み、 口の中に常に蓮華の香りがするという者がいる。 しかし、その者が読んでいる「導き」が何であるかはわからない。 李禿翁が言ったように、善きかな。 妙法蓮華経は、品品すべてが妙法蓮華を説いている。 しかし、いわゆる妙法蓮華を求めれば、それはかすんで得られない。 ああ、これこそが妙法蓮華と呼ばれる所以であろう。 ああ、これこそが妙法蓮華大導と呼ばれる所以であろう。

崇禎庚午莫春幾望日霧山嬾禪劉谷貞題

> 崇禎庚午年の春も終わりに近づく頃、霧山の嬾禪こと劉谷貞が題す。