○八識頌
八識頌
性唯無覆五徧行 界地隨他業力生
二乘不了因迷執 由此能興論主諍
此頌八識行相也。此識唯一精明。本無善惡。故四性中唯無覆無記。諸心所中。唯與徧行五法相應。以有微細流注生滅故。三界九地。乃生死六道。此識為總報主。當體雖無善惡。而被他六識業力牽引而生。前六識頌引滿能招業力牽者。此也。以此識深細。世尊尋常不說。故云陀那微細識。習氣成瀑流。真非真恐迷。我常不開演。向為二乘。但說六識建立染淨根本。二乘一向未聞。故不了耳。又云。阿陀那識甚深細。習氣種子成瀑流。我於凡愚不開演。恐彼分別執為我。故云因迷執。以小乘不知。故不信有此識。是故大乘論師。引大小乘三經四頌。五教十理。證有此識。故云由此能興論主諍。十證之義。論中廣明。
この偈は、八識の働きについて述べたものです。第八識(阿頼耶識)はただ一つの清らかな心(精明)であり、本来善悪の区別がありません。そのため、四性のうちでは無覆無記に当たります。諸々の心所(心の働き)の中では、遍行(全てに共通する五つの心作用)とのみ対応します。微細な流れのように生滅を繰り返すからです。
三界・九地、すなわち生死を繰り返す六道において、この第八識は総体としての報い(果報)の主体です。その体自体には善悪はありませんが、他の第六識などの業の力に引かれて生まれます。前の第六識の偈にある「引くものと満たすものを招く業の力に引かれる」というのは、このことを指します。
この第八識は深く微細であるため、世尊(ブッダ)は普段は説かれませんでした。そこで「陀那(阿陀那識)は微細な識であり、習気(習慣的な心の傾向)が激流のようになる。真とも非真とも言えず、迷いを恐れるので、私は常には説き明かさなかった」と説かれています。
かつては二乗(声聞・縁覚)に対して、ただ第六識までを説き、それによって染(煩悩)と浄(清らかさ)の根本を明らかにしていました。二乗はこれまでこの第八識を聞いたことがなかったため、理解できなかったのです。
また、「阿陀那識は非常に深く微細であり、習気の種子が激流のようになる。私は凡夫や愚者に対して説き明かさない。彼らが分別して『我』だと執着するのを恐れるからである」と説かれています。そのため「迷いから執着が生じる」と言われます。小乗の者たちは知らず、この識の存在を信じなかったのです。
そこで大乗の論師たちは、大小乗にわたる三経・四頌、五教・十理を引き合いに出し、この第八識の存在を証明しました。「これによって論主(論を立てる者)の論争が引き起こされる」と説かれているのです。「十の証拠」の意味については、論の中で詳しく述
浩浩三藏不可窮 淵深七浪境為風
受熏持種根身器 去後來先作主公
此頌八識體相力用也。浩浩者。廣大無涯之貌。謂藏識性海。不思議熏變而為業海。故此識體廣大無涯。以具三藏義故。名為藏識。三藏者。能藏所藏。我愛執藏。以前七識。無量劫來善惡業行種子習氣。唯此識能藏。前七識所作異熟果報。唯八識是所藏之處。由第七識執此為我。故云我愛執藏。論云。諸法於識藏。識於諸法爾。更互為果性。亦常為因性。積劫因果不失不壞。故云不可窮。本是湛淵之心。為境風鼓動。故起七識波浪。造種種業。經云。藏識海常住。境界風所動。洪波鼓冥壑。無有斷絕時。故云淵深七浪境為風。前七現行。返熏此識。以其體有堅住可熏性。故云受熏。前七善惡種子唯此識能持。又能持根身器界。一期令不散壞者。以是此相分。乃所緣之境故。以為三界總報主。故死時後去。投胎先來。為眾生之命根。故云作主公。其實不知不死不生法身常住也。故經云。識藏如來藏所謂如來藏轉三十二相入一切眾生身中。故如來藏有恒沙稱性淨妙功德。豈生死耶。今迷而為藏識。亦具恒沙染緣力用。能一念轉變。則妙性功德。本自圓成。以真妄覿體。故頌四句歎其力用廣大也。
不動地前纔捨藏 金剛道後異熟空
大圓無垢同時發 普照十方塵剎中
不动地の前にようやく蔵識を捨て、 金剛道の後には異熟が空となる。
大円鏡智と無垢識は同時に生じ、 十方の塵刹のあまねく照らし出す。
此頌轉成大圓鏡智也。謂此識因七識執為我。故從無始時來相續長劫。沉淪生死。圓教菩薩從初發心修行。漸斷習氣。歷過三賢登地以去。至第七地破俱生我執。此識方得捨藏識名。顯過最重。故云不動地前纔捨藏。以微細法執。及有漏善種間起。尚引後果。名異熟識。至金剛心後。證解脫道。異熟方空。故云爾也。異熟若空。則超因果。方才轉成大圓鏡智。言無垢同時。發者。以佛果位中。名無垢識。乃清淨真如。謂鏡智相應法身顯現。圓明普照十方塵剎。故結云普照十方塵剎中。以理智一如。方證究竟一心之體。此唯識之極則。乃如來之極果也。諦觀此識深潛難破。此識絲毫未透。終在生死岸頭。古德諸祖未有不破此識而有超佛越祖之談。今人生滅未忘。心地雜染種子。未淨纖毫。便稱悟道。豈非未得謂得。未證謂證。可不懼哉。
此論古存一解。今人解者甚多。但委細分別名相。轉見難入。而修行之士未親教者。望崖而退。即久依講席罷學參禪者。但勘話頭一著。而心地生滅頭數。亦沒奈何。此論雖云相宗。但顯唯心之相。若不知此。亦難究心。不免得少為足。故予此解雖未盡依論文。唯取其義而變其語。使學者一覽便見。正要因此悟心。不是專為分別名相也。若責予杜撰荒邈之罪。固不敢辭。而為修行者未必無功。幸高明達士。得意遺言。是所望也。