成唯識論述記卷第十(本)
『成唯識論述記』巻第十(本)
沙門基撰
沙門基撰
論:次修習位,其相云何?
論:次に修習位(しゅじゅうい)とは、どのような様相を指すのでしょうか?
述曰:下明修道。前見道者,唯在初地初入地心;今此修道,除初入地心,出相見道已住、出地心,乃至第十地終,金剛無間道來,並名修道。此為問已,至下當知。
述べる:次に修道を明かす。先ほどの見道は、ただ初地の最初に入る心にのみある。今のこの修道は、初めて地に入る心を除き、相見道を出てから已に住し、地の心を出て、乃至第十地の終わりに至り、金剛無間道に至るまで、すべて修道と名づける。このことを問うてから、以下において知るべきである。
論:頌曰至便證得轉依。
偈頌に曰く、至れば即ち転依を證得す。
述曰:此舉頌答。即於初地住、出心,後漸至究竟金剛道來,皆斷俱生法執種故,至無學位便證轉依。
述べる:これは偈颂をもって答えるものである。すなわち初地の住心・出心から、後に徐々に究竟の金剛道に至るまで、すべて俱生の法執の種子を断ずるからである。無学位に至って初めて転依を証得するのである。
論:菩薩從前至無分別智。
論:菩薩は、以前から無分別智に至るまで。
述曰:下釋有二:初以略釋頌文;後廣釋頌義。初中有二:初釋上三句,正顯位相;後明此修位,於究竟位便證轉依,十地修道修無分別智。「為斷餘障,證轉依」等,生起下文,然非唯智是修習位體,今從所緣能斷道說略不說餘。
述びに曰く、以下に釈するに二つの意がある。初めに略して頌文を釈し、後に広く頌の義を釈す。初めの中にまた二つがある。初めに上の三句を釈し、正しく位の様相を示す。後にこの修習位について明かす。究竟位においては、すなわち転依を証する。十地の修習道は、無分別智を修習するものである。「残りの障を断じ、転依を証するために」等とは、下文を生起するものである。しかし、ただ智のみが修習位の体であるというわけではない。今は、所縁と能断の道に従って説くので、略して他のものを説かないのである。
論:此智遠離至及不思議。
論:この智は「至る」という概念からも遠く離れ、「思議」を超えている。
述曰:遠離所取名為「無得」;遠離能取說「不思議」,此即解上初句頌也。即一智體離計所執實所、能取說無得等,非無見分等。
述べる:遠離した所取を名づけて「無得」とし、遠離した能取を説いて「不思議」とする。これは、先の最初の頌の句を解釈したものである。すなわち、一つの智の体が、計度・執着された実在の所取と能取を離れていることを説いて「無得」等とするのであって、見分などを無いとするのではない。
論:或離戲論至名不思議。
論(議論):あるいは、戯論(けろん)を離れて、不思議という名に至ることもある。
述曰:即一智體無有分別,有分別者戲論行相,即後得智亦名戲論;或有漏分別說為戲論,偏執增故名為戲論,即後得智不名戲論。若依前解,能斷二障,無分別智名為妙用,是不思議。若依後解,即無漏智皆離過失,能違生死名為妙用,是不思議。今此文中但約前解,論自顯故。
述べる:一つの智慧の本体には分別がない。分別があるものは戯論の行相である。すなわち後得智もまた戯論と名づける。あるいは有漏の分別を戯論と説き、偏執が増長するゆえに戯論と名づける。すなわち後得智は戯論と呼ばない。もし前の解釈に依れば、二障を断ずることができ、無分別智を妙用と名づけ、これは不可思議である。もし後の解釈に依れば、すなわち無漏智はみな過失を離れ、生死に違背するゆえに妙用と名づけ、これは不可思議である。今この文の中ではただ前の解釈にのみ約する。論が自ら顕わすからである。
論:是出世間至無分別智。
論:これは出世間の智慧、すなわち無分別智に至るものである。
述曰:解第二句頌。無分別智具二義釋,謂斷世間,體無漏等;後得不然,不名出世。
解説:第二の偈の句を解釈する。無分別智には二つの意味があると説かれる。すなわち、世間を断ち切り、その本質が無漏であることなどである。後の得られる智(後得智)はそうではないので、出世間とは呼ばないのである。
論:數修此故至故說為捨。
論:このように繰り返し修行するからこそ、ついには捨てる境地に至ると説かれるのである。
述曰:解第三句頌。違細名麁,違輕名重。所知障種名麁重者及非種麁重,地地別斷。煩惱障種名麁重者,金剛始除。若論煩惱非種麁重,亦地地斷。今顯由十地修無分別智,至金剛心斷煩惱種,十地等中斷所知障等,總合為言名斷二種。約究竟盡,唯在金剛,金剛盡時證轉依果。
解説:第三の偈の句を解釈する。微細に反するものを粗重(そじゅう)と呼び、軽微に反するものを重いと名付ける。所知障(しょしょうしょう)の種子を粗重という場合と、種子ではない粗重の場合があり、それぞれの地で順に断じていく。煩悩障(ぼんのうしょう)の種子を粗重という場合は、金剛(こんごう)の境地に至って初めて除かれる。煩悩の種子ではない粗重について言えば、これもまた各地で断じられる。ここで示すのは、十地の修行によって無分別智(むふんべつち)を修め、金剛心(こんごうしん)に至って煩悩の種子を断じ、十地などの中で所知障などを断じることで、総合して二種の障りを断じるという意味である。究極の尽滅については、ただ金剛の境地においてのみであり、金剛の境地で尽きる時、転依(てんね)の果を得るのである。
論:此能捨彼至廣大轉依。
論:これは、苦しみを手放すことで、広大な悟りの境地へと至る転換を説くものである。
述曰:由十地修智究竟故,至佛證轉依。解第四句頌,於中有二,復次釋,即為二也。
解説:十地(修行の十段階)の智慧を究め尽くすことによって、仏の境地に至り、転依(より高い境地への転換)を証得するのである。ここで第四句の偈を解釈するにあたり、その中に二つの観点があり、さらに重ねて説明する。すなわち、この二つがそれである。
論:依謂所依至二轉依果。
論:ここでいう「所依(よりどころ)」とは、修行の基盤となる心のあり方を指し、その基盤に基づいて「二転依の果(悟りへの転換の結果)」に至ることを説く。
述曰:今第一解。總為別依,斷染故無所執,生淨故得二果,餘文易了。同《攝論》果斷分解轉依,無性第九卷等同之,彼文稍廣。言「轉依」者,「轉」謂轉捨、轉得;「依」謂所依,即轉之依名為「轉依」,依士釋。又解,此文依他事上邪理執著,正理離倒,轉捨、轉得,事為理依故名「轉依」也。無性云:二所依止,轉依亦持業釋。然今能依、所依合為轉依,故無持業。今言「依他起名轉依」者,流轉、還滅依也,即所捨、所得,所得通二果,由所執故起有漏法,有漏法斷所執名捨,非別有體名為捨也。
述ぶ:今、第一の解釈を説く。全体的に別依とし、煩悩の染めを断つゆえに執着するものがない。浄らかを生ずるゆえに二つの果を得る。その他の文は容易く了解できる。『摂論』の果断分の解転依と同じであり、無性の第九巻などもこれと同じである。ただし、あちらの文はやや詳しい。「転依」と言うのは、「転」は転じ捨てること、また転じて得ることを意味し、「依」は所依を意味する。すなわち転ずることの依を「転依」と名づけるのであり、依主釈である。また、この文を解釈すれば、他の事物に依存する(依他起)の上にある邪な理の執着を、正しい理が倒れから離れることで、転じて捨て、転じて得る。事物が理の依であるから「転依」と名づけるのである。無性の論には「二つの所依止であり、転依はまた持業釈である」とある。しかし、今は能依と所依を合わせて転依とするので、持業釈ではない。今ここで「依他起を転依と名づける」と言うのは、流転と還滅の依であるからである。すなわち捨てられるものと得られるものであり、得られるものは二つの果に通じる。執着されるものによって有漏の法が生じるから、有漏の法が執着されるものを断つことを「捨てる」と名づけるのであり、別に本体があって捨てるというのではない。
論:或依即是至之所依故。
論:あるいは、「依」とは、すなわち「至」のよりどころとなるものであるからである。
述曰:第二師解,依即真如,迷悟依也。
解説:第二の師の解釈によれば、依とは真如のことであり、迷いと悟りの拠り所である。
論:愚夫顛倒至斷障證得。
論:凡夫は誤った見解に捉われ、その迷いを断ち切って悟りに至る。
述曰:悟此真如證涅槃者,以涅槃者即是真如離雜染法。又假涅槃依真而立,能、所依異,此位斷障金剛心後證得,非此位即證。
述べるには、この真如を悟って涅槃を証する者について言えば、涅槃とはすなわち、煩悩の雑染を離れた真如のことである。また仮に涅槃を立てるのは真如に依ってであり、能依と所依とは異なる。この位においては、煩悩の障りを断じる金剛心の後に証得するものであって、この位において直ちに証するわけではない。
論:雖於此位至名法身故。
論:この位に至れば、名づけて法身とする。
述曰:其菩提者而非此中頌意所顯,頌意所顯如後頌說安樂、解脫身,大牟尼名法故。「牟尼」者寂默義,寂止默靜諸雜染故,非彼菩提是唯識性,在大牟尼名法身故。七十八中說,二乘有此名解脫身,故說三乘平等平等。其第一師菩提亦名轉依者,如後頌中自當解釋。
述べるには、その菩提はこの中の頌の意が示すところではない。頌の意が示すところは、後の頌に説くように、安楽・解脱の身であり、大牟尼を名づけて法とするからである。「牟尼」とは寂默の義であり、諸々の雑染を寂止し默静するからである。その菩提は唯識の性ではなく、大牟尼において法身と名づけるからである。七十八の中に説くには、二乗にもこれがあって解脱身と名づけ、ゆえに三乗は平等平等であると説く。その第一の師が菩提もまた転依と名づけるのは、後の頌において自ずから解釈するところである。
上來已略釋二文訖,自下廣前頌,文有三:初問;次略答;後廣解。
以上で二つの文について簡単に説明しました。これから、先ほどの偈(詩句)について詳しく解説します。本文は三つの部分からなります。最初に問いを立て、次に簡潔に答え、最後に詳しく説明します。
論:云何證得二種轉依?
問う:どのようにして二種の転依を証得するのか。
述曰:問能證之因、所得之果,雙為問也。
問います。修行の原因となるものと、その結果として得られるものの両方についてお尋ねします。
論:謂十地中至由斯證得。
論:十地の中にあって、これを契機として悟りに至ると説く。
述曰:次略答也。十地中者,所經位也。修十勝行,所修因也。斷十重障,所治斷法。此言「重」者,如第一卷初解。證十真如,所觀照法。由此四種因故,二種轉依果由斯證得,後證轉依必有經位,位有多種且說小分能證之位,修習位也,故此最初先明十地。此無別體,修十勝行,斷十重障,證十如時,名十地也。總釋別位,既知分位必有修行,故次十地明十勝行,即是廣前無得、不思議是出世間智。既修此行必有所因,故次乃明斷十重障,即廣頌中捨二麁重。且知所斷十重障法必有所證,故次乃明十種真如。即廣頌中捨二麁重之時轉依,雖已分證,未名圓滿,此乃因位。廣前三句,即是漸次悟入二種轉依,由斯證得,明所得果,即廣前頌第四句文,正明悟入,總為第二,略答文也。
述曰:次に略答を示す。「十地の中」とは、経過する位である。「十勝行を修す」とは、修める因である。「十重障を断ず」とは、対治して断ずべき法である。ここに「重」と言うのは、第一卷の初めに解した通りである。「十真如を証す」とは、観照する法である。この四種の因によって、二種の転依の果がこれによって証得される。後の転依を証するには必ず経る位があり、位には多くの種類があるが、その中の小分の証し得る位を説いて、修習位とするのである。それゆえに、この最初にまず十地を明かす。これに別の体はなく、十勝行を修し、十重障を断じ、十如を証する時に、十地と名づけるのである。総じて別の位を釈すれば、分位を知れば必ず修行があることを知る。故に次に十地に続いて十勝行を明かす。これは広く前に「無得」「不思議」を広めたものであり、出世間の智である。この行を修すれば必ず所因がある。故に次に十重障を断ずることを明かす。これは広く頌の中の「二麁重を捨つ」を広めたものである。かつ、断ずべき十重障の法を知れば必ず証すべきものがある。故に次に十種の真如を明かす。これは広く頌の中の「二麁重を捨つ」の時に転依することを広めたものである。すでに分証しているが、未だ円満とは名づけない。これは因位である。広く前三句を広め、すなわち漸次に二種の転依に悟入することを明かす。これによって証得することを明かし、得る所の果を示す。すなわち広く前の頌の第四句の文を広めたものであり、正しく悟入を明かす。総じて第二の略答の文とするのである。
論:言十地者至生大喜故。
論:十地と言うのは、大きな喜びが生まれるからである。
述曰:第三,次第廣前答也,初廣因;後廣果。因中有四,初廣十地,於中有三:初、解十別名;二、出地體性;三、釋總地義。初獲聖性者,謂初斷凡性得聖性,即依無漏無分別智等俱行五蘊種子,為聖性體,異生性體,唯二障種。若此聖性取三乘初智種正能生現功能,名為聖性,依分別二種立異生性。俱生二障種雖有,亦非凡夫,依能生初無漏種立聖性故。凡夫時有初無漏種,而非聖性,未能生故。分別之障,障聖性者,名為凡性;無漏之性能斷凡性者,名為聖性。若爾,後諸無漏應非聖性,不能斷分別障故,前劣者已捨故。此亦不然,性能斷故,是彼類故,亦名聖性,各隨自乘所治既為凡性,亦隨自乘能治名為聖性。即隨一空、二空智種為體,若現行智為體,起世俗心應非聖者。若菩薩是大士夫之聖性,非如二乘小人之聖性,二具證二空,簡二乘等唯證一空。今從詮說,說如為空,如非空也。三、能益自他,簡彼二乘唯自利也。由獲大士聖性、具證二空、益自他三因故生大喜,此地名極喜地,簡後菩薩非初得聖性,不名極喜,及簡二乘無是三勝,初得果時不名極喜。若爾,菩薩初果何故不名預流?《對法》第十四說:何緣菩薩已得超昇而非預流也?由得不住道一向預流行不成就故,預聖之流樂住於道,厭出生死故。何緣亦非一來也?故受諸有無量生故,何緣亦非不還耶?安住靜慮還生欲界故。《十地論》第五卷說:菩薩生欲界不退靜慮。《對法》第十三說:菩薩咸離無色界生,靜慮相應住靜慮樂而生欲界或色界中,已證得威德菩薩,凡所受生,皆欲利益安樂有情,以無色界非成熟有情處故。彼自解言:住靜慮者,由此菩薩善巧迴轉故。《瑜伽》、《顯揚》等,此文非一。由此義故不名不還,復還來故。何故不名阿羅漢者?此亦可名,如前第三卷引,至此卷末當知。由此初地菩薩不名預流,預流之果不名極喜。《攝論》第七,唯有具二利故喜,對彼二乘名極喜故。無性云:若初地喜不相應者,自後諸地亦不相應,此為先故。《十地論》第一卷說,無上二利初證聖處多生歡喜故,即與此二因同,「唯證二空」此論獨有。四十七說,此地善決定故,四相發心故,發起精進發正願故,淨修地法故,開曉餘地故,修治善根故,受生故,威力故。如彼及《十地經》第一、第二、第三卷廣解。《瓔珞經》下卷雖別釋十地名,然不及此,此地即願為最勝,有十大願等,並如彼二論說。
論:二離垢地至煩惱垢故。
論:第二は離垢地、煩悩の垢を離れるがゆえに。
述曰:其初地時已離麁犯戒垢,然此二地能全離故,所以說之。望前細故,下十一障中當辨二障攝。淨尸羅者,謂別解脫、道定共也,即通三種。雖第三地始發定增,能離過時此地已滿故。或依別脫,亦能全離加行、後起、根本罪故,非定、道共能離加行、後起罪故。世親《攝論》說:此二地性戒成就,非如初地思擇護戒。性戒成故,諸犯戒垢已極遠離。何故初果已具性戒,極喜地中當言未具,大分已具仍有誤犯微細過失。又論性戒,初地已離,入地菩薩更亦不同初二果者猶有妻孥,性罪必無犯,但於遮罪猶有誤犯,今第二地悉能永離。餘論皆同。此下餘論同者,更不煩敘。此下諸地並如《瑜伽》第四十八,《十地》第四已去各一卷解,不能繁引。
述べます。初地の時点では、すでに粗い犯戒の汚れを離れていますが、この第二地において完全に離れることができるので、ここで説いているのです。初地に比べて細かいものであるため、後の十一の障の中で、二障に含まれることを明らかにすべきです。
「清浄なる尸羅(戒)」とは、別解脱戒・道共戒・定共戒の三種を指します。第三地になって初めて禅定の増上が発現しますが、過失を離れることができるのは、この第二地で既に満たされているからです。あるいは別解脱戒に基づけば、加行罪・後起罪・根本罪を完全に離れることができますが、定共戒・道共戒では加行罪・後起罪を離れることはできません。
世親菩薩の『摂大乗論釈』には、この第二地では性戒が成就していると説かれています。初地のように思惟して戒を護るのではなく、性戒が成就しているがゆえに、あらゆる犯戒の汚れから極めて遠く離れているのです。
なぜ初果(預流果)においてすでに性戒を具えているのに、極喜地(初地)ではまだ具えていないと言うのか。多くは具えているものの、まだ微細な過失を誤って犯すことがあるからです。さらに性戒について論じれば、初地においてすでに離れています。初地に入った菩薩は、初果・二果の聖者とは異なり、妻や子を持つことはありません。性罪を犯すことは決してありませんが、遮罪については依然として誤って犯すことがあるのです。今、第二地においては、それをすべて永く離れることができるのです。
他の論書もみな同じです。以下、他の論書も同じである場合は、いちいち述べません。以下の各地については、『瑜伽師地論』第四十八巻や『十地経論』第四巻以降にそれぞれ一巻ずつ解説がありますが、ここでは多くを引用しません。
論:三發光地至妙惠光故。
論:第三の発光地は、微妙な智慧の光を持つからである。
述曰:此地中成勝定。定謂:三摩地、三摩鉢底。無性云:謂靜慮名等持,諸無色名等至。或等持者,心一境相;言等至者,正受現前,如前已解。陀羅尼此名總持,總持有四:一、法;二、義;三、呪;四、能得忍。此地所治遲鈍性,於三惠有忘失障,今此地無忘彼法,名大法之總持。法謂教法,殊勝之教名為大法。此定及總持為因,能發無邊妙惠光,故總持以念、惠為性,謂以聞、思、修三惠照了大乘法故。因得定斷障,聞、思轉勝,非由定力親能起二。《十地》云:隨三惠等照法顯現,故名明地。問:何故十度五地修禪,修三福業?此地修定如下當知,又十一障中自當解釋。
述ぶ。この地においては、殊勝なる定が成就される。「定」とは、三摩地(等持)と三摩鉢底(等至)をいう。無性菩薩はこう説く。静慮は等持と名づけ、諸々の無色定は等至と名づける。あるいは、等持とは心が一つの境に留まるすがたであり、等至とは正しい受け止めが目の前に現れることである。これは先にすでに解釈したとおりである。
陀羅尼は、ここでは総持と名づける。総持には四種ある。第一に法、第二に義、第三に呪、第四に能得忍である。この地において対治されるのは鈍根の性質であり、三種の智慧(聞・思・修)における忘失の障りがある。今この地においては、そのような法を忘れることがないので、「大法の総持」と名づける。「法」とは教法をいい、殊勝なる教えを「大法」と名づける。この定と総持を因として、無辺の微妙な智慧の光を発することができる。ゆえに総持は、念と慧をその性質とする。すなわち、聞・思・修の三慧によって大乗の法を照らし了知するからである。定を得て障りを断ずるがゆえに、聞・思はますます殊勝となるのであって、決して定の力が直接に聞・思の二つを起こすわけではない。
『十地経』にはこう説く。「三慧に随って法を照らし現ずるがゆえに、明地と名づく」と。問う。なぜ十度の中の第五度においては禅を修め、三種の福業を修めるのか。この地において定を修めることは、以下のようにして知るべきである。また十一種の障の中において、みずから解釈するところがあるだろう。
論:四焰惠地至惠焰增故。
四つの智慧の炎の地は、智慧の炎が増すがゆえに、その名がある。
述曰:即除第六識等中,俱生身見等攝,非謂一切,至下當知。世親云:能燒一切根本煩惱及隨煩惱,皆為灰燼。《十地》云:不忘煩惱薪,智火所燒故。以菩提分法為惠者,非皆是惠,惠之焰故,從火喻為名。菩提分法如別章說。
述べていうには、第六識などの中の俱生の身見などに摂せられるものを除くのであって、すべてを除くという意味ではない。この点については後で詳しく述べる。世親は言う、「すべての根本煩惱および隨煩惱を焼き尽くし、灰燼に帰する」と。『十地経』には「煩悩の薪を忘れず、智火がこれを焼くからである」とある。菩提分法を慧とするのは、すべてが慧そのものというわけではなく、慧の炎であるから、火の喩えによって名づけられたのである。菩提分法の詳細については、別の章で述べるとおりである。
論:五極難勝地至極難勝故。
論:第五の極難勝地は、極めて勝つことが難しいからです。
述曰:世親云:知真諦智是無分別,知諸世間書論等智是有分別,此二相違,應修令合,能合難合,令相應故。無性云:真、俗諦智互相違返,難可引發令共相應,此能和合令不相違,以前不如,名極難勝,非望後也。然「相應」者,謂於真觀為俗,令境相入名相應。為一念中二智並起,名相應,今令一念二智並生,名合亦得,前四地中猶未能故。又境同名相應,以前四地觀二諦境亦有差別,此觀彼境更無差別,令真、俗智既不相乖,名相應也。前第二識中已有妨難,如彼廣說。知彼二境無差別故,故此真如名無差別。
述べるには、世親(ヴァスバンドゥ)はこう説く。「真諦(究極の真理)を知る智慧は分別を超えたものであり、世間の書物や論などに関する智慧は分別を伴うものである。この二つは互いに相容れないものであるから、修行によってそれらを調和させ統合すべきである。調和させることが難しいものを、うまく調和させて対応させるからである」。無性(アスヴァバーヴァ)はこう説く。「真諦と俗諦(世俗の真理)に関する智慧は互いに相反するものであり、それらを共に呼び起こして対応させることは難しい。この境地は、それらを調和させて互いに矛盾しないようにすることができる。以前の境地がこのようではなかったから、『極めて超え難い』と名付けられるのであって、後の境地と比較してのことではない」。さて、「対応する」とは、真観において俗諦をも観じることをいい、その境地を互いに融け合わせることを「対応」と名付けるのである。あるいは、一瞬の心の中で二つの智慧が同時に生じることを「対応」と名付ける。今まさに一瞬の心の中で二つの智慧が同時に生じることを「合一」とも呼ぶ。以前の四つの境地においては、それがまだできなかったからである。また、観じる対象が同じであることを「対応」と名付ける。以前の四つの境地では、二諦の対象を観じる際にも差異があったが、この境地ではそれらの対象を観じる際に、もはや差異がない。真諦と俗諦の智慧が互いに矛盾しないことを「対応」と名付けるのである。前述の第二識における議論においても、すでにこのような難問があり、そこに詳しく述べられている。その二つの対象に差異がないことを知るからこそ、この真如は「無差別」と名付けられるのである。
論:六現前地至令現前故。
論:六現前地は、それ(智慧)を現前させるためにある。
述曰:謂觀十二諸緣起支,有最勝智觀無染淨,令現前故名無分別。七地成有,八地成無。世親等同。《十地》云:般若波羅蜜多行有間,大智現前住。
述べると、十二の縁起の支分を観じるとき、最勝の智慧をもって染めも浄めもないことを観じ、それを現前にするから、無分別と名づける。七地では有りとして成就し、八地では無しとして成就する。世親らの解釈も同じである。『十地経』にいう、「般若波羅蜜多の行には間断があり、大智が現前して安住する」と。
論:七遠行地至二乘道故。
論:第七遠行地は、二乗の道に至るからである。
述曰:世親等云:此地於功用得至究竟,雖一切相不能動搖,而於無相猶名有行。《十地》云:「善修無相行功用,究竟能過世間二乘出世間道故。」此地出過世間二乘道者,前六地中雖有緣起染淨無二,猶有所治細相現行障,執有生滅流轉還滅相故,未能空中起有勝行;今此地中遠離彼障,亦能空中起有勝行能治彼障,二乘世間即不能是。
述ぶるに、世親等は云く、この地においては功用(つとめはげむこと)をもって究竟(きわみ)に至る。一切の相も動かすこと能わずといえども、無相においてなお行あることを名づく。『十地経』に云く、「無相の行を善く修して功用究竟すれば、能く世間・二乗の出世間道を過ぐ。」この地は世間・二乗の道を出で過ぐる者なり。前の六地の中には、縁起の染浄無二ありといえども、なお治すべき細相現行の障あり。生滅・流转・還滅の相を執するが故に、未だ空の中において有の勝行を起こすこと能わず。今この地においては、その障を遠離し、また空の中において有の勝行を起こして、能くその障を治すことを得。二乗・世間は即ちこれ能わざるところなり。
論:八不動地至不能動故。
論:八不動地に至れば、もはや動かし得ないからである。
述曰:相者,有相;用者,功用。無性云:一切有相,一切加行,皆不能動此地心故。第七地雖一切相不能動之不現行故,然不自在任運而轉,有加行故,猶有煩惱;第八地中任運而轉,不依加行,無功用故,亦無煩惱,七、八二地之差別也。《十地》云:「報行純熟,無相無間,故名不動」,此地已去明知無相,非有間也。
述べます。「相」とは形のあるもの、「用」とははたらきのことです。無性はこう言っています。「すべての形あるものも、すべての修行の努力も、この地の心を動かすことはできない」。第七地では、たとえ一切の形あるものが心を動かせず、現れなくなっていても、まだ自在ではなく、自然に任せてはたらくことができず、修行の努力(加行)を必要とするため、まだ煩悩が残っています。しかし第八地では、自然に任せてはたらき、努力に依らず、無功用であるため、煩悩もありません。これが七地と八地の違いです。『十地経』にはこうあります。「報いによる行が純熟し、無相が途切れることなく続くので、動かずと名づける」。この地から先は、無相を明らかに知っており、途切れることがないのです。
論:九善惠地至善說法故。
論:第九善慧地は、善く法を説くが故に、その名が「善慧」と呼ばれるのです。
述曰:無性云:得最勝無礙解,於諸智中此為最勝。智即是惠,故名善惠。世親云:「此惠妙善,故名善惠」,無性云:由法無礙解,自在了知一切法句;由義無礙,自在通達一切義理;由辭無礙,自在分別一切言辭;由辨無礙,遍於十方隨其所宜自在辨說,於此地中,最初證得先未曾得無礙解智,故名善惠。能遍十方者,《十地》云:「無礙力說法,成就利他行故」。
述ぶところは、無性菩薩はこう説く:得たところの最勝の無礙解は、一切の智の中において、これが最も優れている。智はすなわち慧であるから、善惠と名付けるのである。世親菩薩はこう説く:「この慧は妙にして善いから、善惠と名付ける」。無性菩薩はこう説く:法無礙解によって、一切の法の句を自在に了知し、義無礙によって、一切の義理を自在に通達し、辭無礙によって、一切の言辭を自在に分別し、辯無礙によって、十方に遍く、その時に応じて自在に弁説する。この地において、最初に、いまだかつて得たことのない無礙解の智を証得するから、善惠と名付けるのである。十方に遍くことができるのは、『十地経』に「無礙の力によって説法し、利他の行を成就するからである」と説く通りである。
論:十法雲地至充滿法身故。
論:第十の法雲地に至れば、法身が充満するからである。
述曰:無性云:「由得總緣一切法智,總緣一切契經等法,不離真如,此一切法共相境智,譬如大雲,陀羅尼門、三摩地門,猶如淨水,智能藏彼,如雲含水,有能生彼勝功能故。又如大雲覆隱虛空,如是法智,覆隱如空廣大無邊惑、智二障」。惑、智二障,此名麁重。彼論又云:「又如大雲澍清淨水充滿虛空,如是法智出生無量殊勝功德,充滿所證所依身故」。世親云:言充滿者,是周遍義。《十地》第一云:「得大法身具足自在,名法雲地」;第十二云:如雲身遍滿故除垢,八相成道度眾生萌芽故,此地如是受法王位,如王太子於諸王子而得自在,但由是處有微智障故不自在,對此障故說後佛地。《十地》第十二說:此地得受位者有十相:一、主相,大寶花王出;二、量相,周圓如十阿僧祇百千三千大千世界;三、勝相,一切眾寶間錯莊嚴故;四、地相,過於一切世界境界故;五、因相,出世善根所生等,皆如彼說。又如懷孕在藏,十時菩薩亦爾,彼說十位,不能繁引。《瑜伽》四十八等中,皆廣釋行及德及名,不能繁引。此即第一釋別名已,如《十地經》。
論:如是十地至以為自性。
論:この十地(修行の段階)は、悟りへと至る道の本質である。
述曰:能證、所證以為地體。無性云:法無我智分位名地,以真如無分位智有分位,所以智名地。此論總出地體義,所證亦是地,地是依持生長義故。四十七云:由能攝持菩薩義故名「地」;能為受用居處義故名「住」。即真如等亦名為地,能攝持故。即是實法,為假者所依等故,實法名地。第二,出體也。
述べるには、能証・所証をもって地の体とする。無性はいう:「法無我の智の分位を地と名づける。真如には分位がなく、智には分位があるから、智を地と名づけるのである。」この論は、総じて地の体の意味を示す。所証もまた地である。地は依持・生長の義であるからである。『瑜伽師地論』巻四十七にいう:「能く菩薩の義を摂持するがゆえに『地』と名づけ、能く受用の居処の義となるがゆえに『住』と名づく。」すなわち真如などもまた地と名づけられる。能く摂持するからである。すなわち実法であり、仮のものの所依となるなどであるから、実法を地と名づけるのである。第二に、体を示すこと。
論:與所修行至故名為地。
修行を積み重ねて至る境地であるから、これを「地」と名付ける。
述曰:四十七以能攝持菩薩義名地,彼攝義即是此依生長義。持者即是依義,即通真如正智,皆能生長為依持故名地。真如何名令得生長?今者不言如為能生,但言行是所生,彼為增上緣,行自從種子生故。即以勝功德與行為攝持功德名地,此約果與因,因地功德是行之所得故。然以假者總法為能依,別法功德為地勝然。今此文,此即第三,解通地名。《瓔珞經》云:持一切功德名地,生成一切因果名地。無性云:謂諸菩薩於此地中修習現觀,離過,離貪,修菩提分,觀察諸諦,觀察緣起,於無相中,若有功用,若無功用,得勝辨才,逮真灌頂,除滅所知、煩惱障等,故此修位有十地別。何以地有十?斷十障,修十相智,證十真如故,乃至廣說彼地地所修諸行,不能煩引。《顯揚》第三亦解小別,讀者知之。
論:十勝行者至波羅蜜多。
論:十の勝れた行を行う修行者は、波羅蜜多(完全な悟り)に達する。
述曰:第二,解勝行。於中有二:初、總舉十行,即波羅蜜多;二、廣釋。廣釋中有四,至下當知。初以十三門辨釋。
述ぶ:第二に、勝れた行を解釈する。この中に二つの部分がある。初めに、十行を総括して挙げる。すなわち波羅蜜多である。次に、広く解釈する。広く解釈する中に四つの項目があり、以下で明らかになるだろう。初めに十三の門を用いて解釈する。
論:施有三種至法施。
施には三種あり、そのうち最も優れたものが法施である。
述曰:《對法》第十二同,與十八任持相攝故。財是身任持;無畏是心任持;法施是善法任持。《攝論》第七,施中以法、財、無畏為次第,二本《攝論》皆言法資益善根;財益他身;無畏資他心,次第雖復不同,義意同此。無性第七云:施性中現有六波羅蜜多,財施、無畏施、法施所攝故。《對法》云:施度是財施,餘五無畏施;一切,六法施,此與世親《金剛波若論》相違。彼云:檀度攝於六,資生、無畏、法,此中一、二、三,是名修行住,如次配釋。七十八及三十九,初以財、法、無畏為次。卷下又說財、無畏、法為次,同此。此等廣解相,不能煩述。然施財名財施;施他不令豺狼等畏,名無畏施。法施可知。
述曰:『対法論』第十二巻も同じであり、十八種の任持と相摂するからである。財は身の任持であり、無畏は心の任持であり、法施は善法の任持である。『摂論』第七巻では、布施の中において法・財・無畏の順序としているが、二本の『摂論』ともに、法は善根を資益し、財は他者の身を益し、無畏は他者の心を資けると言う。その次第は異なっているが、義理の意味するところはこれと同じである。無性菩薩の『摂論釈』第七巻には、布施の性質の中に、現に六波羅蜜多があり、財施・無畏施・法施に摂せられるとある。『対法論』には、布施度は財施であり、他の五つは無畏施であり、すべての六つは法施であるとある。これは世親の『金剛般若論』と相違する。そこでは、檀度は六つを摂し、資生・無畏・法であり、この中の一・二・三は、名づけて修行住とすると説き、その順に配釈する。『解深密経』七十八巻及び『瑜伽師地論』三十九巻では、初めに財・法・無畏の順としている。巻の下では、また財・無畏・法の順であると説き、これと同じである。これらの広い解釈の様相は、煩わしく述べることはできない。しかし、財を施すことを財施と名づけ、他者に施して豺狼などの畏れを抱かせないことを無畏施と名づけ、法施は理解できるであろう。
論:戒有三種至饒益有情戒。
戒には三つの種類があります。すなわち、摂律儀戒(戒律を守る戒)、摂善法戒(善い行いを積む戒)、饒益有情戒(すべての生きとし生けるものを助け導く戒)です。
述曰:律儀戒是善任持;攝善法戒是菩提任持,是彼因故;饒益有情戒是大悲任持。律者,法律;儀者,儀式。無性云:於不善能遠離、防護、受持,故名律儀;此即是戒,故名律儀戒。世親、無性皆言律儀戒是依持戒,為顯建立其餘二戒,是故安住律儀戒者能建立攝善法戒,集諸佛法後,得益有情無罪利益相。七眾戒是初體,一切佛法是第二戒,濟諸有情是第三戒。七十八云:轉捨不善戒,轉生善戒,轉生利生戒,義亦同此。
述べる。律儀戒とは、よく保たれる善である。摂善法戒とは、菩提を保つものであり、それらの因となるからである。饒益有情戒とは、大悲によって保たれるものである。律とは、法則であり、儀とは、作法である。無性は次のように述べている。「不善から遠く離れ、防ぎ、保ち受けることができるので、律儀と名づける。これがすなわち戒であるから、律儀戒と名づける。」世親と無性はともに、律儀戒は戒に依って立つものであり、他の二つの戒を建立することを示すためにある、と言う。それゆえ、律儀戒に安住する者は、摂善法戒を建立することができ、諸々の仏法を集めた後、有情に対して罪のない利益の相をもって利益を得させる。七衆の戒は第一の体であり、一切の仏法は第二の戒であり、諸々の有情を救済することは第三の戒である。『摂大乗論釈』第七十八巻には「不善を転捨する戒、善を転生する戒、利生を転生する戒」とあり、その意味もこれと同じである。
論:忍有三種至諦察法忍。
忍には三種類あります。最後に諦察法忍(物事の真理を深く観察して耐え忍ぶこと)に至ります。
述曰:《對法》云:耐怨害忍是不捨有情任持,若不耐怨害便於彼怨,是捨於彼;安受苦忍是捨下劣心任持,心若下劣不能受苦故;諦察法忍是無生法忍任持。世親同此。無性云:初忍是諸有情成熟轉因;安受苦忍是成佛因,寒熱等苦皆能忍受,無退轉故;諦察法忍是前二忍所依止處,堪任甚深廣大法故。七十八名同。
述べると、『対法論』にはこうある。耐怨害忍とは、有情を見捨てずに保ち支えることである。もし怨みや害に耐えられなければ、その怨みに対して、まさにその有情を見捨てることになる。安受苦忍とは、下劣な心を捨てて保ち支えることである。心が下劣であれば苦を受けることができないからである。諦察法忍とは、無生法忍を保ち支えることである。世親も同じ見解である。
無性はこう説く。初めの忍は、諸々の有情を成熟させるための因である。安受苦忍は、仏となるための因である。寒さや暑さなどの苦をすべて耐え忍ぶことができ、退転することがないからである。諦察法忍は、前の二つの忍のよりどころとなる所であり、深遠で広大な法をよく受け入れることができるからである。七十八巻も同じである。
論:精進有三至利樂精進。
精進には三つの最高の利益と楽しみをもたらす精進がある。
述曰:《攝論》等皆云:一、被甲精進,即解經中「初有勢」句,《對法》云:「善根方便任持」。七十八同。《攝論》等云:二、加行精進,即解經中「次有勤」句,《對法》云:「善根圓證任持」。七十八云:「轉生善法加行精進」,即與此同,名體俱寬。《攝論》等云:「無怯弱、無退轉、無喜足」,即經所說有勇、堅猛、不捨善軛句。世親《攝論》次第廣解稍好。《對法》云:「饒益有情精進」,即善根無盡任持。七十八同《對法》及此處,然《對法》及此論以二利為度,六度皆有利生之說,所以第三精進名饒益生,即初二精進攝五句盡,攝善寬故,是善根圓證任持故。若方便,若正證,皆此攝故,體寬而名狹。《攝論》但以自利為精進度故,三精進無利生說,以攝五句加行為狹,唯攝有勤故,攝善精進解經五句,不同《對法》第十二,名狹體寬,復異《攝論》,名義俱狹,由此論意,名義俱寬故。利樂有情精進,與《對法》同,然此三勤與四十二解同。彼論初云:被甲精進,勢與此同,餘名無別,然彼廣解。《瓔珞經》云:一、起大誓心;二、方便進趣;三、勤化眾生,不能繁述。
述:『摂論』などには、すべて次のように説かれている。一に「被甲精進」とは、経典の「初に勢有り」という句を解釈したものである。『対法』には「善根を方便により任持する」とある。『七十八』も同じである。『摂論』などには、二に「加行精進」とは、経典の「次に勤有り」という句を解釈したものである。『対法』には「善根を円証し任持する」とある。『七十八』には「転じて善法を生ぜしむる加行精進」とあり、これと同じである。その名と体はともに広い。『摂論』などには「怯弱無く、退転無く、喜足無し」とあり、これは経典に説かれる「勇有り、堅猛、善軛を捨てず」という句に相当する。世親の『摂論』の注釈は、順を追って詳しく解釈しており、やや優れている。『対法』には「饒益有情精進」とあり、これは善根が尽きることなく任持されることである。『七十八』も『対法』およびこの論と同じである。しかし、『対法』とこの論は自利・利他の二つの利益を基準としているため、六度すべてに衆生を利益するという説がある。ゆえに第三の精進を「饒益有情精進」と名づけるのである。最初の二つの精進は五つの句を収め尽くす。善を摂めることが広いからであり、善根の円証を任持するからである。方便であれ、正証であれ、すべてこれに含まれる。ゆえにその体は広いが、名は狭い。『摂論』はただ自利のみを精進度としているため、三つの精進には衆生を利益するという説がない。五つの句を摂める加行としては狭く、ただ「勤有り」のみを摂めるからである。善を摂める精進が経典の五つの句を解釈するのは、『対法』第十二と異なり、名は狭く体は広い。また『摂論』とも異なり、名も義もともに狭い。この論の意図によれば、名も義もともに広いのである。「利楽有情精進」は『対法』と同じである。しかし、この三つの精進は『四十二』の解釈と同じである。その論の初めに「被甲精進」とあり、その趣はこれと同じで、他の名に違いはないが、その論には詳しい解釈がある。『瓔珞経』には、一に「大誓心を起こす」、二に「方便して進趣する」、三に「精進して衆生を教化する」とあるが、詳しく述べることはできない。
論:靜慮有三至辨事靜慮。
論:静慮には三つあり、事を弁ずる静慮に至る。
述曰:《攝論》等同安住者,安住現法樂住故,《對法》名「無厭倦任持」,無性云:離慢、見等得清淨故。「引發」者,引六通故,《對法》云:「諸所思事成滿任持」。辨事者,彼名成所作事,義與此同,依此辨利有情事故,以能止息飢儉等故,《對法》云:「御眾業任持」,名饒益有情靜慮,從果為名,今此中以定能起辨有情事功能立稱。四十三說:一、現法樂住,從果為名;二、能引菩薩等持功德靜慮;三、饒益有情靜慮。並義同此,七十八亦同。
述べる。『摂大乗論』などで「安住」と同じであるのは、現法に楽住するからである。『対法論』では「無厭倦任持」と名づける。無性菩薩は「慢や見などを離れて清浄を得るからである」と述べる。「引發」とは、六神通を引き起こすからである。『対法論』では「諸々の思うところの事が成満する任持」と述べる。「辨事」とは、そこでは「成所作事」と名づけられ、その意味はこれと同じである。これに基づいて利益衆生の事を弁ずるからであり、飢饉などを止息することができるからである。『対法論』では「御衆業任持」と述べ、「饒益有情静慮」と名づける。これは果から名づけられたものである。今ここでは、定が有情の事を起こす機能を起こすことができることによって名を立てるのである。四十三巻では、一に「現法楽住」、これは果から名づけられたものであり、二に「能引菩薩等持功徳静慮」、三に「饒益有情静慮」と説く。その意味はすべてこれと同じであり、七十八巻も同様である。
論:般若有三至俱空無分別惠。
論:般若には三つの至りがあり、すべて空にして分別なき智慧を共にそなえる。
述曰:諸論但明六種度故,《攝論》等云:以加行、正智、後得為三。《對法》以緣世俗、緣勝義、緣有情為三,從勝功德說意同《攝論》,《對法》自解即合第十為第六故,所以俱通二利。此論別開理、事二智各別明故,第六自利,第十通也,所以諸論不同。第四十三云:一、證真如惠;二、五明處三聚中決定善巧惠;三、大悲相應惠。但明六度,亦同《對法》。雖諸文異義,意一也。七十八同此。《瓔珞經》云:一、照有諦;二、照無諦;三、中道第一義諦。
述べます。多くの論では、ただ六種の度(六波羅蜜)を明かすだけなので、『摂大乗論』などには、「加行・正智・後得」の三つをもって(三種の慧とする)と説かれています。『対法論』では、世俗に縁ずる・勝義に縁ずる・有情に縁ずるの三つとしますが、殊勝な功徳の面から説けば、その意図は『摂大乗論』と同じです。『対法論』の自釈では、第十(の波羅蜜)を合わせて第六とするため、すべて自利・利他の両方に通じることになります。この論(『成唯識論』)では、理と事の二つの智を別々に立てて明確に説くので、第六(の波羅蜜)は自利であり、第十は自他に通じるとし、諸論によって説き方が異なります。
『瑜伽師地論』第四十三には、一つ目は真如を証得する慧、二つ目は五明処の三聚において決定して善巧なる慧、三つ目は大悲と相応する慧、と説かれています。ただ六度を明かすという点では、やはり『対法論』と同じです。諸々の文は異なっても、その意味するところは一つです。『解深密経』第七十八もこれと同じです。『瓔珞経』には、一つ目は有諦(世俗の真理)を照らす、二つ目は無諦(勝義の真理)を照らす、三つ目は中道の第一義諦(最高の真理)を照らす、と説かれています。
論:方便善巧至拔濟方便善巧。
論:巧みな方法から救いの巧みな方法に至るまで。
述曰:《攝論》第七解十地中,方便度者,謂以前六度所集善根共諸有情,迴求無上正等菩提。故世親云:此由般若及與大悲,以諸善根迴求無上菩提是般若,作諸有情一切義利是大悲。故無性云:「不捨生死而求涅槃」,大悲故,不捨生死;般若故,求涅槃。四十九說:「如前所說,十二行相方便善巧,當知說名方便善巧度」。十二行相者,前四十五說,合有十二種方便善巧,成熟佛法有六,成熟有情有六,合名十二行相。成熟佛法六為般若,成熟有情六為大悲,如彼廣解。《對法》十四有四種方便善巧,勘同異。《瓔珞》有三:一、進趣向果;二、巧會有文;三、一切不捨不受,此中迴向即般若,拔濟即大悲。
述曰:『摂論』第七で十地を解釈する中で、方便度とは、以前の六度によって集めた善根をすべての有情と共有し、無上正等菩提を回向して求めることである。それゆえ世親は言う、「これは般若と大悲によるものである。諸々の善根を回向して無上菩提を求めるのは般若であり、諸々の有情の一切の義利をなすのは大悲である」と。また無性は言う、「生死を捨てずに涅槃を求める」。大悲のゆえに生死を捨てず、般若のゆえに涅槃を求めるのである。『四十九説』には、「先に説いたところの十二行相の方便善巧を、方便善巧度と名づけると知るべきである」とある。十二行相とは、先の『四十五説』において、合わせて十二種の方便善巧があるとされ、仏法を成熟させるものが六つ、有情を成熟させるものが六つあり、合わせて十二行相と名づける。仏法を成熟させる六つは般若によるものであり、有情を成熟させる六つは大悲によるものである。そこに詳しく解釈されているとおりである。『対法』十四には四種の方便善巧があり、異同を検討する。『瓔珞』には三つがある。一に進趣して果に向かうこと、二に巧みに文に会すること、三に一切を捨てず受け取らないこと。この中で回向は般若であり、救済は大悲である。
論:願有二種至利樂他願。
論:願には二種あり。すなわち自利の願と利他の願である。
述曰:《攝論》說:「謂發種種微妙大願,引攝當來波羅蜜多殊勝眾緣」。無性云:求到彼岸緣,為利有情故,及為速證佛果涅槃。世親云:此願即度,名為願度,願為當來,此是所為,第七轉聲,為當來故發種種願。四十九說:如前五種大願,名波羅蜜多。五大願者,四十五說:一、發心願,謂初發菩提心;二、受生願,願當來隨順生諸善趣饒益有情;三、所行願,無倒思擇諸法,願於境界修習無量等殊勝功德;四、正願,願當來攝受一切菩提功德,若總若別;五、大願,此從正願所出,此復有十種,謂供養無邊佛等。此中初是菩提願,餘利樂他願,為利有情起此願故,此中配屬如文可知。《瓔珞》有三:一、自行願;二、神通願;三、外化願。
述曰:『摂論』にはこう説かれている。「さまざまな微妙な大願を発して、未来において波羅蜜多の殊勝な多くの縁を引き寄せる」と。無性はこう解釈する。「彼岸に至る縁を求めるのは、有情を利益するためであり、また速やかに仏果・涅槃を証得するためである」と。世親はこう解釈する。「この願がすなわち度となるので、願度と名づける。願は未来のためのものであり、これが目的である。第七転声(目的を表す格)によって、未来のための故に種々の願を発する」と。『四十九』にはこう説かれている。「先ほどの五種類の大願を波羅蜜多と名づける」と。五大願とは、『四十五』にこう説かれている。「一、発心願。すなわち最初に菩提心を発すること。二、受生願。未来において善趣に随順して生まれ、有情を利益すること。三、所行願。顛倒なく諸法を思択し、境界において無量の殊勝な功徳を修習することを願うこと。四、正願。未来において一切の菩提功徳を摂受することを願うこと。総体的にも個別的にも。五、大願。これは正願から出るものであり、さらに十種ある。すなわち無辺の仏に供養することなどである」と。この中の最初のものは菩提願であり、残りは利他楽願である。有情を利益するためにこの願を起こすからである。この配属は文のとおりに理解できる。『瓔珞』には三つがある。「一、自行願。二、神通願。三、外化願」と。
論:力有二種至修習力。
力には二種類ある。 すなわち、「考え抜く力」と「実践によって身につける力」である。
述曰:《攝論》說:由思擇、修習二力,令前六度無間現行。無性云:此中且說二力,其餘諸力亦攝在中,思擇諸法而修習故。四十九云:所有十力加行清淨,名力波羅蜜多。十力加行清淨者,此中何者為思擇、為修習,此文義配可知。《瓔珞》有三:一、報通力;二、修定通力;三、變化通力。
述べよう。『摂大乗論』にはこう説かれている——思択と修習の二つの力によって、前の六波羅蜜を絶え間なく現に起こし行う、と。
無性菩薩はこう述べている。ここでは特に二つの力だけを挙げているが、その他の諸力もすべてこの中に含まれている。なぜなら、諸法を思択し、それを修習するからである。
また、『仏地経論』の第四十九巻にはこうある。すべての十力の加行が清浄であることを、力波羅蜜多と名づける、と。十力の加行が清浄であるとは、このうち何が思択であり、何が修習であるのか——この文の意味するところは、前後の対応関係から理解できるであろう。
さらに『瓔珞経』には三つの力が説かれている。一つは報通力、二つは修定通力、三つは変化通力である。
論:智有二種至成就有情智。
智慧には二種類ある。それは、有情(生きとし生けるもの)を成就させる智慧に至るまでの智慧である。
述曰:《攝論》云:謂由前六成立妙智,受用法樂,成熟有情。無性云:「由施等六成立此智,復由此智成立六種」,名「受法樂」,由此妙智能正了知此施戒等饒益有情。世親云:由般若波羅蜜多無分別智自性等故,成立後得智,復由此智成立前六波羅蜜多,由此自為與同法者受用法樂,成熟有情。四十九說:「於一切法如實安立清淨妙智,名智波羅蜜」,當知能取勝義惠,名惠波羅蜜;能取世俗惠,名智波羅蜜。有多復次後四度異門,如彼廣解。雖四十九言「於一切法妙智」,即後得智,談體故一,今此論等中,論用故二,不相違也。《瓔珞》有三:一、無相智;二、一切種智;三、變化智。雖引此經未可為證。以後四種即第六體,今但有二,無有三也。此中十八或二十六,於地前具幾?乃至佛具幾?初施中財施,攝後餘度何者?乃至成熟有情智,攝前度何者?皆如《對法》第十二抄解,總是第一,列彼名也。《顯揚》第三雖亦解十度,無別相故,不繁引之。
述曰:『摂論』にこう説かれている。すなわち「前の六波羅蜜によって妙智が成立し、法楽を受用し、有情を成熟させる」と。無性は「布施などの六度によってこの智が成立し、またこの智によって六種が成立する」と説き、「法楽を受用する」と名づける。この妙智によって、布施や戒などの行が有情を饒益するものであることを正しく了知するからである。世親は「般若波羅蜜多の無分別智の自性などによって後得智が成立し、またこの智によって前の六波羅蜜多が成立する。これにより自らも同じ法を学ぶ者とともに法楽を受用し、有情を成熟させる」と説く。
『摂大乗論釈』第四十九巻には「一切の法について如実に安立する清浄なる妙智を、智波羅蜜と名づける」とあり、勝義を取る慧を慧波羅蜜と名づけ、世俗を取る慧を智波羅蜜と名づけると知るべきである。他にも多くの場合において、後の四度(方便・願・力・智)の異なる門が説かれており、その広い解釈は彼の論に詳しい。
第四十九巻に「一切の法における妙智」とあるのは後得智を指すが、その体について論ずれば一つであり、今この論などではその働きについて論ずるゆえに二つとしているのであって、矛盾するものではない。『瓔珞経』には三つがあるとされる。一に無相智、二に一切種智、三に変化智である。しかしこの経を引用しても証拠とはなり得ない。後の四度は第六度の体であり、今はただ二つあるのみで、三つはないからである。
この中の十八あるいは二十六について、地前(修行の前段階)にはいくつ具わるのか。また仏にはいくつ具わるのか。初めの施度における財施は、後の他の度のうち何を摂するのか。さらには成熟有情の智は、前の度のうち何を摂するのか。これらはすべて『対法論』第十二巻の註釈に詳しく解かれており、総じて第一として、その名を列挙したものである。『顕揚聖教論』第三巻にも十度を解いているが、別の相がなく詳しく説かれていないので、煩雑になるため引用しない。
次第二出體者。
次に第二に、その体(本質)を示すことについて述べます。
論:此十性者至三業為性。
この十の性質について言えば、三業をその本性とする。
述曰:即以無貪及相應思,并彼所發身、語業為體。《對法》第十一云:施自體者,謂身、語、意業,然是三業諸度通性故,所以無無貪,如三十九廣以九門解施。三十九解施自性云:謂諸菩薩於自身、財無所顧惜,能施一切所應施物,無貪俱思,及因此所發能施物身、語二業。釋彼文者,一解,唯取三業,同《對法》取無貪俱思,不取無貪故。今解,亦取無貪,同此論文於財等不貪方能施故,既無別解,即三種施,體性皆同。
述べます。すなわち、無貪およびそれと相応する思(思考作用)、ならびにそれによって発せられる身業・語業を体とする。
『対法論』第十一にはこうある。「布施の自体とは、身業・語業・意業をいう」。しかし、この三業は諸度(六波羅蜜)に共通する性質であるため、無貪を含まないのではないかという疑問がある。実際、『三十九巻』では九つの部門に分けて布施を詳しく解説している。
『三十九巻』で布施の自性を解釈して次のように述べる。「諸々の菩薩は、自己の身体や財物に対して惜しむ心がなく、施すべきすべてのものを施すことができる。無貪と共にある思、およびそれによって発せられる物品を施す身業・語業の二業である」。
この文を解釈するにあたり、一つの解釈としては、三業のみを取る。『対法論』と同じく、無貪と共にある思を取るが、無貪そのものは取らないのである。今の私の解釈では、無貪も取る。この論の文にあるように、財物などに対して貪りの心がなければこそ施すことができるからである。別の解釈がない以上、三种の布施はその体性がすべて同じである。
論:戒以受學至三業為性。
論:戒とは、受学から三業に至るまでをその本質とする。
述曰:《對法》亦以三業同此。四十云:律儀戒以七眾別解脫戒,在家、出家戒為體,即唯二業。攝善法戒者,謂諸菩薩受律儀後,一切為大菩提,由身、語、意積集諸善為體,即通三業。饒益有情戒略有十一種,如彼廣解,亦通三業。此中總論故,以三業為性,以受時、學時三業為性故。然菩薩戒自息惡戒,是何戒攝?今欲為前別故,所以且說七眾,其實菩薩戒,亦得是律儀戒。菩薩戒有意業,此中論色為律儀體,所以不說。攝善戒寬故,即令入攝善戒中故,論實亦得。若爾,菩薩戒有支、無支,如色法不?如《別抄》會。《文殊所問經》菩薩有五篇戒,是出世間戒,若心分別男、女、非男女等,是波羅夷。以三業乃至於樹葉欲取,犯僧伽婆尸沙。若剔毛剪爪如初月,犯偷蘭遮。如是廣說。然菩薩地四波羅夷復與此別,如第四十、四十一、四十二半,廣以九門解之。
述べます。「対法論」においても、三業はこれと同じであると説かれています。『瑜伽師地論』巻四十にはこうあります。律儀戒は、七衆の別解脱戒を体とし、在家・出家の戒をその体とする。すなわち、これは身・語の二業のみである。
摂善法戒とは、菩薩が律儀戒を受けた後に、一切の善を大菩提のために、身・語・意によって積み集めることを体とする。すなわち、三業に通じる。
饒益有情戒は、おおよそ十一種あり、その詳細は同論に広く説かれるところであり、これも三業に通じる。
ここでは総合的に論じるので、三業をその体性とする。受戒の時と学戒の時に三業を体とするからである。
しかし、菩薩戒のうち、自ら悪を断つ戒は、どの戒に含まれるのか。今、先ほどの別を立てるために、あえて七衆の戒を説いたのだが、実際には菩薩戒もまた律儀戒となり得る。菩薩戒には意業があるが、ここでは色法をもって律儀の体とするので、それを説かないのである。
摂善法戒は広いので、これを摂善法戒の中に含めることができる。論の実義としても、そうすることができる。
もしそうならば、菩薩戒には支分があるのか、ないのか。これは色法と同じか。このことは『別抄』において会通されている。
『文殊所問経』には、菩薩に五篇の戒があり、これは出世間の戒であると説く。もし心により男・女・非男・非女などを分別するならば、これは波羅夷である。三業をもって、たとえ木の葉を取ろうとするだけであっても、僧伽婆尸沙を犯す。もし髪を剃り、爪を新月のように切るならば、偷蘭遮を犯す。このように広く説かれている。
しかし、菩薩地の四波羅夷は、これとは別である。巻四十、巻四十一、巻四十二の前半において、広く九つの門をもってこれを解釈している。
論:忍以無嗔至三業為性。
論:忍とは、怒りの心を離れ、身・口・意の三つの行いにおいて忍びの徳を現すものを、その本質とする。
述曰:《對法》但以三業為性,是通性故,謂三種忍,通以三業為性,故不別出。四十二說:「云何名忍?自無憤勃,不報他怨,亦不隨眠流注相續,故名為忍,是名菩薩耐怨害忍」等。彼廣明此相,耐怨害忍以無嗔及所起三業為性。彼卷又云:遇世法處苦有九種,謂衰、毀、譏、苦、壞法壞、盡法盡、老法老、病法病、死法死,若別若總,不由此緣精進懈廢等,乃至常勤修習,無變易意,無雜染心,是名菩薩安受苦忍,故此以精進及彼所起三業為性。彼卷又云:「云何菩薩法思勝解忍?謂諸菩薩於一切法能正思惟,由善觀察勝覺惠故,能於八事生勝解處」,善安勝解故,故諦察法忍,以審惠為性。彼不言此有三業。若定、道俱色可名三業,正與此同,如四十二以九門分別。
述:『対法』では、ただ三業をもって体性とする。これは通性であるからである。すなわち、三種の忍は、すべて三業をもって体性とするので、別に立てないのである。
『四十二』に説く「何をもって忍と名づく。自ら憤勃なく、他者の怨みに報じず、また随眠により流注相続することもなく、このゆえに忍と名づく。これを菩薩の耐怨害忍となす」等。そこでは広くこの相を明かしている。耐怨害忍は、無瞋およびそれから起こる三業をもって体性とする。
その巻にまた説く「世法の処に遇って苦に九種あり。すなわち衰、毀、譏、苦、壊法の壊、尽法の尽、老法の老、病法の病、死法の死なり。若しくは別に、若しくは総に、この縁によって精進が懈怠し廃れることなく」等。さらに「常に勤修習し、変易の意なく、雑染の心なし。これを菩薩の安受苦忍となす」。ゆえにこれは精進およびそれから起こる三業をもって体性とする。
その巻にまた説く「いかなるを菩薩の法思勝解忍となす。すなわち諸菩薩が一切法においてよく正しく思惟し、善く観察する勝覚慧によって、よく八事において勝解を生ずる処となす」。よく安じて勝解するがゆえに、諦察法忍は、審慧をもって体性とする。彼はここに三業ありとは説かない。
もし定・道と倶に色は、三業と名づくべし。これ正にこれと同じ。『四十二』に九門をもって分別するがごとし。
論:精進以勤至三業為性。
精進とは、身・口・意の三つの行いを怠らずに努めることをその本質とする。
述曰:《對法》但以三業為性,從諸度通相出體。四十二云「擐甲」等,如前說,皆通三業精進為體,亦如彼以九門解。
述べる:『対法』では、ただ三業をもって体性とする。諸々の波羅蜜の通じた相に従って体を出すのである。第四十二巻に「擐甲」等とあり、前述の通り、いずれも三業に通じた精進を体とする。また、そのように九つの門をもって解釈するのである。
論:靜慮但以等持為性。
論:禅定(靜慮)とは、ただ心を一つの対象に集中させること(等持)を本質とするものである。
述曰:等持者是三摩地,即定數,不通散,有不說三業。《對法》云:起三業自在用時,所有一切種心恒安住。四十三云:即妙善世、出世靜慮自性。彼三相雖別,皆以靜慮為體。然二種行相別,如前卷,廣九門亦如彼。
述ぶ:等持とは三摩地のことであり、すなわち定の数(心所)である。散心には通じないが、三業について説かない場合もある。『対法論』に云く:「三業の自在な働きを起こす時、その一切の種々の心は常に安住する」。『四十三巻』に云く:「すなわち妙善なる世間・出世間の静慮の自性である」。それらの三相は別々であるが、いずれも静慮を体とする。しかし二種の行相には違いがあり、前の巻で述べた通りである。広く九門についても、また同じである。
論:後五皆以至後得智故。
論:後の五つは、いずれも至後の得智によるからである。
述曰:《對法》及四十三等,同以世、出世間加行正智、後得為性,下文亦言,十度皆通有漏、無漏,此依實義。《攝大乘》第七,解十地中說同此,但依勝法出後五體,非為盡理。彼云:後五應知般若無分別智、後得智攝。世親、無性皆解云:若說十種度,即無分別智,是般若波羅蜜多;方便等四,後得智攝;若說六度,二智皆第六攝,故分後五,二智為性。
論:有義第八至為自性故。
論:あるいは、第八識(阿頼耶識)は「自己の本性」であるからである。
述曰:餘義無諍,唯「願」不以惠為自性,即以欲、勝解及信三為性,「願」以三法為自性故。說是後得智者,唯後得智中起故。初五度則不然,《攝大乘》等說:或欲、勝解為願體;或信、勝解為願。今合言之,故云:以三法為體。
ここで述べるには、他の意味については異論はない。ただ「願」については、智慧をその自性としない。すなわち、欲・勝解・信の三つをその自性とする。「願」は三つの法を自性とするからである。これを後得智であるというのは、ただ後得智の中で起こるからである。最初の五度(五波羅蜜)については、そうではない。『摂大乗論』などには、あるいは欲・勝解を願の体とし、あるいは信・勝解を願とすると説く。今、これを合わせて言えば、三つの法を体とすると説くのである。
論:此說自性至功德為性。
この教えにおいては、自らの本質から功徳そのものが本性であると説かれています。
述曰:如前所說剋性為體,若并眷屬一切功德為性,眷屬出體故。總以五蘊為十度體,即是第二,出體性也。
述べるには、前に説いたように、自性を体とし、もし眷属をも含めて、一切の功徳を体とするならば、眷属も体から出るものであるからである。総じて五蘊をもって十度の体とする。これがすなわち第二の、体性を出すことである。
論:此十相者至波羅蜜多。
ここに説く十の相は、すなわち波羅蜜多に至る道である。
述曰:第三,明相。云何名相?即成波羅蜜多之相貌,具此七義方名度故,闕者即非。
では、第三に「相」について説明します。何をもって「相」というのか。それは「波羅蜜多」の特徴・様相です。この七つの意味をすべて備えて初めて「度(波羅蜜多)」と名づけられるのであり、一つでも欠ければ「度」とは呼べません。
論:一安住最勝至一切事業。
論:最も勝れた安住から、一切の事業に至るまで。
述曰:一切事業者,謂隨順度所有事業,皆應行之成滿度故。《攝論》有六,除初種姓,即菩提心中攝故。然無性引頌亦似證有初種姓,云:「麟角喻無有,六波羅蜜多,唯我最勝尊,上品到彼岸」。然《對法》第十一:六度相中有五,安住菩薩種姓,菩提心為依止,以悲導心,捨一切時,所有三業,即有五義,名六度相。然《顯揚》第三亦有六義成度,然別於《攝論》,不能煩引。唯此論中,具包諸論。
述べます。あらゆる菩薩の事業とは、布施などの六波羅蜜に随順するすべての行いを指し、それら全てを実践することで波羅蜜(到彼岸)を成就させるべきであるということです。
『摂大乗論』では六波羅蜜の体性として六つの条件を挙げていますが、その中の最初の「種姓(菩薩の素質)」を除いています。なぜなら、それは菩提心の中に含まれるからです。
しかしながら、『無性摂論』が引用する偈頌には、最初の種姓の存在を示唆するものもあります。その偈頌とは次の通りです。
「麟角のような独覚には六波羅蜜はない。ただ我々最勝の尊(仏)のみが、上品に彼岸に到達する」
また、『対法論(大乗阿毘達磨集論)』第十一巻では、六度の体相として五つの義を示しています。すなわち、①菩薩の種姓に安住すること、②菩提心を依止とすること、③慈悲をもって心を導くこと、④すべての時において捨てること、⑤すべての三業(身・口・意の行為)において行うこと、の五つです。これら五つの義をもって六度の体相と名づけます。
さらに『顕揚聖教論』第三巻にも六度を成立させる六つの義が説かれていますが、これは『摂大乗論』とは異なる立て方であり、煩雑になるので詳しくは引用しません。
ただ、この『大乗荘厳経論』においては、これらの諸論の内容をすべて包括して説いているのです。
論:五巧便最勝至二障間雜。
論:五つの巧みな方便は最も優れており、二つの障りが間雑する間に至る。
述曰:無相智所攝受者,即第六不執三輪清淨等。迴向最勝中與第二別者,彼有道心未必一切迴向菩提,此乃迴向。清淨勝中,為離二障行於度也。不為彼雜,謂三時無悔等。
解説します。「無相の智慧に摂受される」とは、第六波羅蜜において、施者・受者・施物の三つの概念に執着しない清らかな実践を指します。
「回向最勝」が第二の「発心」と異なる点は、発心には菩提心があっても必ずしもすべての善根を仏道へ回向するとは限らないのに対し、ここでは明確に一切の功徳を菩提へ回向することです。
「清浄勝」とは、煩悩障と所知障の二つの障りを離れて六波羅蜜を行うことを意味します。また「それに雑じらない」とは、過去・現在・未来の三時において後悔や迷いのないことを指します。
論:若非此七至非到彼岸。
論:もしもこの七つがなければ、彼岸に至ることもない。
述曰:總結。由七所攝名度,不爾,即非。
述べる:総括である。七つの要素によって「度」と名づけられるのであって、そうでなければ、それは「度」ではない。
論:由斯施等至四句分別。
論:このようにして、布施などから四つの句の分別に至る。
述曰:有是非故,一一皆應四句分別。此一一自望,即種類福為四句。謂施非度,不求菩提等;是度非施,隨喜施等;亦度亦施等可知。若不約種類福,次第修者,施為三句,無是波羅蜜非施故。餘五度得為四句,前有施度得為句故。若非次第者,皆得為四句。此中有三爾四句。
述べる:是と非があるが故に、一つ一つすべて四句(四つの場合分け)によって分別すべきである。この一つ一つを自らに対して見るならば、すなわち種類の福(修行の種類による功徳)として四句とする。すなわち「布施であって波羅蜜(完全な修行)ではない」とは、菩提(悟り)を求めないなどの場合である。「波羅蜜であって布施ではない」とは、布施を喜んで随喜することなどである。「波羅蜜でもあり布施でもある」などは、理解できるであろう。もし種類の福によらずに、順を追って修行する場合には、布施は三句となる。なぜなら「波羅蜜であって布施ではない」というものが無いからである。残りの五度(持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)は四句とすることができる。前に布施度があるので、それによって句を得ることができるからである。もし順序によらない場合には、すべて四句とすることができる。この中に三つの「また」と四句がある。
論:此但有十至無增減故。
論:ここにはただ十のものがあるだけで、増えも減りもしないからである。
述曰:第四、不增減門。初總解,約地斷障證如,釋可解。障者,即十地十無明等障。《對法》十二云:所知障等皆度所治,各依慳悋、犯戒、憎恚、懈怠、散亂、惡惠等障故。就惡惠中,復分為後四,故總名為障。離惡惠為五,名為十障者,非也,下文自別出六障故。
述べます。第四に、不増減の門についてです。
初めに総体的に解釈すると、十地に基づいて煩悩の障りを断ち切り、真如を証得するという点については、すでに説明した通りで理解できるでしょう。
ここでいう「障り」とは、十地における十種の無明などの障りを指します。『対法論』第十二巻には、「所知障などはすべて対治すべきものであり、それぞれ慳吝(物惜しみ)、犯戒、憎恚(いかり)、懈怠(なまけ)、散乱、悪慧(わるい智慧)などの障りによる」と説かれています。
この中の「悪慧」をさらに後ろの四つに分けるので、総称して「障り」と呼ばれます。
しかし、「悪慧」を離れて五つとし、それを「十障」と名付けるのは誤りです。なぜなら、以下の文で別途六種の障りが明示されているからです。
論:復次前六至相違障故。
述曰:下次明說六,所以有六義,初明治六障,《對法》、《攝論》所治皆說六蔽,即是六種相違障也。又如《攝大乘》說不發趣因等。以上所言,說十所以:一、十地修行故;二、治十障故;三、證十真如故。此約十地為論,下依六說十,謂:慳悋、犯戒、嗔恚、懈怠、散亂、惡惠,四治相違障故。
述べていう。次に六について明かす。ゆえに六の義がある。初めに六障を治することを明かす。『対法』と『摂論』に説くところの治すべきものは、みな六蔽(六つの覆い)を説く。すなわち、これらは六種の相違する障りである。また『摂大乗』に説くところの「発趣しない因」なども同じである。以上に述べたところは、十についての理由を説くものである。一には、十地の修行のゆえに。二には、十の障りを治するゆえに。三には、十の真如を証するゆえに。これは十地について論じたものである。次に、六に基づいて十を説く。すなわち、慳吝(けち)、犯戒、瞋恚(いかり)、懈怠(なまけ)、散乱、悪慧(わるい智慧)の、四つの治する相違する障りのゆえに。
論:漸次修行諸佛法故。
論:次第に修行して、諸々の仏法を成就するからである。
述曰:五也。《攝大乘》說,前四不散動因,令所治無散故。第五不散動成熟,令不散動得圓滿故。第六依此得如實覺,能於所緣正遍知故。言「佛法」者,謂十力等,修謂成辨。
述ぶるに、五つ目である。『摂大乗論』に説くには、前の四つは散動しないための因であり、対治すべきものに散乱がないようにさせるからである。第五は散動しないことの成熟であり、散動しないことが円満に達するようにさせるからである。第六はこれに依って如実の覚りを得て、所縁の境界について正しく遍く知ることができるからである。「仏法」とは、十力などのことを言い、「修」とは成し遂げることを言う。
論:漸次成熟諸有情故。
論:すべての有情を、段階的に成熟させるからである。
述曰:六也,《攝大乘》說,由施能攝受,由戒能不害不生惱,由忍雖遭苦能受,由勤助彼所作,由定心未定者令定,由惠已定者令解脫等。
述べます。第六に、『摂大乗論』に説かれるところによれば、布施によって他者を摂受し、戒によって害を与えず悩ませることがなく、忍辱によって苦しみに遭っても耐えることができ、精進によって他者のなすことを助け、禅定によって心の定まらない者を定めさせ、智慧によってすでに定まった者を解脱させる、などとあります。
論:此如餘論廣說應知。
論:このことについては、他の論書に詳しく述べられているので、それに従って理解すべきである。
述曰:此後三因。如餘《攝論》廣說應知。
解説:この後の三つの因についての詳細は、他の『摂論』の注釈書に広く述べられている通りであると理解すべきである。
論:又施等三至唯有此二。
また、施しや持戒などの三つの行(布施・持戒・忍辱)は、修行の道に到達するためのものであり、悟りの境地(涅槃)には直接つながるものではない。なぜなら、これらの行は悟りを得るための手段であり、その結果として悟りを生むものではないからである。悟りを得るためには、智慧と方便(智と悲)という二つのものが欠かせない。つまり、智慧と方便の二つだけが、悟りの境地そのものに直接つながる道なのである。
述曰:七也。謂施等前三,《對法》第十一說:是諸菩薩增上生道,後三決定勝道。增上生道中,施能感大財;戒感大體;忍感眷屬,持戒生善趣中得尊貴身故,能行忍者,一切有情咸歸附故。決定勝道中,精進能伏煩惱、修善方便;靜慮能熟有情方便,依此發通熟有情故;惠是成熟佛法方便,由有惠故佛法成熟。諸菩薩道唯有此二,若闕一種道不成故。
述べて言います。第七です。すなわち布施など前の三つは、『対法論』第十一に説かれているように、これらは諸菩薩の増上生道であり、後の三つは決定勝道です。増上生道の中で、布施は大きな財を感得します。戒は大きな身体を感得します。忍は眷属を感得します。持戒によって善趣に生まれ、尊貴な身を得るからです。よく忍を行う者は、すべての有情がみな帰依し従うからです。決定勝道の中で、精進は煩悩を伏し、善を修める方便です。静慮は有情を成熟させる方便です。これによって神通を発し、有情を成熟させるからです。慧は仏法を成熟させる方便です。慧があることによって仏法が成熟するからです。諸菩薩の道はただこの二つだけであり、もし一つでも欠ければ道は成立しないからです。
論:又前三種至諸煩惱故。
論:また、前述の三つの種について、(それらが)さまざまな煩悩に至るからである。
述曰:八也。七十八、《解深密》等說:二因緣故六度無增減。一、饒益有情,謂前三:由施故,攝受資財饒益於彼;由戒故,不行損惱害等饒益有情;由忍故,彼為損害等堪能忍受。此三皆通有饒益故。二、對治煩惱,謂後三:由精進故,雖未永伏煩惱永害隨眠,而能勇猛修諸善品,彼諸煩惱不能傾動善品加行,即是此云「雖未伏滅」等,乃至「諸善加行」;由靜慮故,永伏煩惱;由般若故,永害隨眠,即是此中「永伏滅」義。此中若加行,若正滅,皆對治諸煩惱,《對法》十一亦有此解。
述ぶ:八つ目である。第七十八経や『解深密経』などには、二つの因縁によって六度(六波羅蜜)に増減がないと説かれている。
一つ目は、有情を利益することである。これは最初の三度を指す。すなわち、布施によって財物を与えて有情を利益し、持戒によって損害や悩ませる行為などを行わずに有情を利益し、忍辱によって相手からの損害などを堪え忍ぶ。この三つはすべて有情を利益する働きがある。
二つ目は、煩悩を対治することである。これは後の三度を指す。すなわち、精進によって、まだ煩悩を完全に鎮めたり随眠を完全に断ち切ったりしていなくても、勇猛に諸々の善い行いを修行することができ、それらの煩悩は善い行いの加行を揺るがすことができない。これがここでいう「まだ伏し滅ぼしていない」などから「諸々の善い加行」までの意味である。禅定によって煩悩を完全に鎮め、般若によって随眠を完全に断ち切る。これがここでいう「完全に伏し滅ぼす」という意味である。
この中で、加行であれ、正しく滅ぼすことであれ、すべて煩悩を対治するものである。『対法』(『大乗阿毘達磨集論』)の第十一巻にもこの解釈がある。
論:又由施等至不增不減。
論:また、施などによって、増えもせず減りもしない境地に至る。
述曰:第九因也。《對法論》說:「由諸菩薩為翻住涅槃故,於生死中攝增上生,為翻住生死故,即於生死而不染污。是故前三是得增上生方便」,故此論名「不住涅槃」;後三是不染污方便,所以論言「不住生死」。不染方便者,彼自釋云:由勤故修對治,由定故伏煩惱,由惠故永害隨眠,由此不住涅槃、生死,故此六為無住處涅槃資糧。此涅槃者謂真如,此六為彼資糧,前三悲故不住涅槃,後三惠故不住生死。四十九說:三學攝故,不增不減六也,前四是戒學,後二是二學,如下當知。總由如是,論有九種,別義一種,合十義故,前之六度,無減無增。
述べる:第九の因である。『対法論』に説く。「諸の菩薩は涅槃に住することを翻(かえ)すが故に、生死の中において増上生を摂する。生死に住することを翻すが故に、即ち生死において染汚せず。是の故に前の三是れ増上生を得る方便なり」と。此の故に此の論は「涅槃に住せず」と名づく。後の三是れ染汚せざる方便なり。故に論に「生死に住せず」と言う。染汚せざる方便とは、彼自ら釈して云く、「勤(精進)を由るが故に対治を修し、定を由るが故に煩悩を伏し、慧を由るが故に随眠を永く害す。此れに由って涅槃と生死とに住せず」と。此の故に此の六は無住処涅槃の資糧なり。此の涅槃とは謂う所の真如なり。此の六は彼の資糧なり。前の三是悲を以ての故に涅槃に住せず、後の三是慧を以ての故に生死に住せず。『摂大乗論釈』第四十九に説く。「三学に摂するが故に、増減せずして六なり。前の四是れ戒学、後の二是れ二学なり」と。下の如く當に知るべし。総じて是の如きによって、論に九種の義あり、別に一種の義あり。合わせて十義の故に、前の六度は減ずることも増すこともなし。
前六既爾,後四如何?
前六種已經如此,那後四種又是怎樣的呢?
論:後唯四者至不增減故。
論:後の四つのみが「増えもせず減りもしない」という理由に至る。
述曰:此總文也。云何助六?
述べる:これは総括の文である。何をもって六を助けるというのか?
論:方便善巧助施等三。
論:便宜上の巧みな手段が、布施などの三つの徳を助ける。
述曰:七十八、《解深密》等說:「於前三種波羅蜜多所攝有情,以諸攝事方便善巧而攝受之,安置善品,是故我說方便善巧為施等助」。謂攝事中布施等,即此施等行相,相順攝益於彼,故云助也。
述べる:七十八巻や『解深密経』などにはこう説かれている。「前の三種の波羅蜜多によって摂取される有情たちを、四摂事の方便を用いて巧みに受け止め、善い行いの中に置く。だから私は、方便善巧が布施などの助けとなると説く」。つまり、四摂事の中の布施などは、まさにこの布施などの行いのあり方と同じであり、それに順って相手を利益し導くものであるから、「助け」と言うのである。
論:願助精進。
論:精進を助けることを願う。
述曰:彼文又說:若諸菩薩,於現法中煩惱多故,於修無間無有堪能,由羸劣意樂故,下界勝解故,於內心住無有堪能,乃至為未來煩惱輕微,心生正願,如是名願。由此願故,煩惱微薄能修精進,故說願助精進。
解説します。その経文にはこう説かれています。もし菩薩たちが、現世において煩悩が多く、絶え間ない修行に堪える力がなく、弱い意志や下位の境地への執着のために、心を内に安住させることができない場合、未来において煩悩が軽くなるよう心から願いを立てることを「願」と呼びます。この願によって煩悩が薄まり、精進できるようになるため、「願は精進を助ける」と説かれているのです。
論:力助靜慮。
論:力は静慮を助ける。
述曰:彼經又說:若諸菩薩,親近善士,聽聞正法,如理作意為因緣故,轉劣意樂成勝意樂,亦得上界勝解,名力波羅蜜多。由此力故,於內心住有所堪能,故說力度為定度助。
述べよう。かの経典にはまたこう説かれている。もし諸の菩薩が、善き師に親しみ、正しい教えを聞き、理にかなった心の持ち方を縁とするならば、劣った意欲が勝れた意欲に転じ、また上界の勝れた理解も得ることができる。これを力の波羅蜜多と名づける。この力によって、心を内に安住させる力がそなわるので、力の波羅蜜多は定の波羅蜜多を助けるものと説かれているのである。
論:智助般若至廣說應知。
論:智慧が般若を助け、その広大な教えに至ることを知るべきである。
述曰:彼經又說:若諸菩薩,已能聞緣,善修習故能發靜慮,如是名智。由此智故,堪能引發出世間惠,故說智為惠助。令修滿故者,謂後四助前六令修滿,前六不為後四所助,不名滿故,理如上說。故此中指如《解深密》、《中邊》第一,說十度十障,頌云:「障富貴善趣,不捨諸有情,於失德減增,令趣入解脫,障施等諸善,無盡亦無間,所作善決定,受用法成就」,故十種度不增不減。
述べるには、かの経典にまた説かれるには、「もし諸々の菩薩が、すでに縁を聞き、よく修習する故に静慮を発起することができる、これを智と名づける。この智によって、よく出世間の慧を引き出すことを堪え得るが故に、智を慧の助けと説く。修習を満たすことを令する故とは、すなわち後の四つが前の六つを助けてその修習を満たすことを令するものであり、前の六つは後の四つの助けを受けなければ満たされると名づけない。その道理は上に説いた通りである。ゆえにここでは『解深密経』や『中辺分別論』の第一に説く十度と十障を指す。偈に曰く、「富貴や善趣を障え、諸の有情を捨てず、過失や功徳の減増について、解脱へ趣入せしめ、布施などの諸善を障え、尽きることなく絶え間なく、所作の善は決定し、受用の法は成就す」と。ゆえに十種の度は増えも減りもしないのである。
第五,次第門。
第五に、段階を踏む教え(次第門)についてです。
論:十次第者至持淨前前。
論:十の段階は、清らかさを保つ前に至るまでの前前である。
述曰:第一解,謂由前前引發後後。七十八、《解深密》、《對法》十一、《攝論》等說,由布施等故,引生戒、忍等,廣如彼說,易故不言。第二解,及由後後持淨前前,《對法論》說:「謂戒能持施,乃至惠能持定」,謂由具尸羅施得清淨,所以者何?由行布施攝益有情,由持戒故不為惱害,乃至如伽他說,無有靜慮而不因惠,廣如彼說。
解説:第一の意味は、前の行が後の行を引き起こすということである。『七十八経』(『解深密経』)や『対法論』(『大乗阿毘達磨集論』)第十一巻、『摂大乗論』などで説かれるところによれば、布施などの実践によって、戒律や忍辱などが生じるとされる。これらの詳細はそれぞれの経論に詳しく説かれているため、ここではあえて説明しない。
第二の意味は、後の行が前の行を清らかに保つということである。『対法論』には「戒律は布施を支え、智慧は禅定を支える」と説かれている。つまり、戒律を保つことによって布施が清らかになるのである。なぜなら、布施によって他者を利益し助け、戒律を守ることによって他者を悩ませたり害したりすることがないからである。さらに後の偈頌にも、「禅定(静慮)は智慧なしには存在しない」と説かれている。これらの詳細もまた、『対法論』に詳しく述べられている。
論:又前前麁至次第如是。
論:また、前の粗いものから次の細かいものへと、順を追って進んでいく様子は、このようにしてある。
述曰:第三解,《對法論》說:於諸行中施行最麁,戒細於施。故次建立,乃至一切行中惠為最細,故最後立。此三解中初一解:《深密》、《瑜伽》、《攝論》同;餘二解唯此論有,《對法》同之。四十九有三解,初二同此,謂治障生起,生起即麁細故。第三異熟,如彼廣解。
述べる。第三の解釈として、『対法論』にはこう説かれている。もろもろの行(諸行)の中にあって、布施(施)が最も粗く、戒律(戒)は布施よりも細かい。ゆえに、その次に戒律が立てられる。さらに、すべての行の中で智慧(慧)が最も細かいので、最後に智慧が立てられるのである。この三つの解釈のうち、第一の解釈は『解深密経』、『瑜伽師地論』、『摂大乗論』と同じである。残りの二つの解釈は、この論にのみ見られるものであり、『対法論』も同様である。第四十九巻には三つの解釈があり、最初の二つはこれと同じである。すなわち、煩悩を対治して生起させることを説くものであり、生起とはすなわち粗細のことを指すからである。第三は異熟についてであり、それについては、あの論に詳しく説かれている通りである。
自下六釋名者。
以下は「六釋名」についての説明です。六釋名とは、仏教の教えや概念の名前を六つの方法で解釈・説明することを指します。それぞれの名前には深い意味が込められており、その名前がなぜそのように付けられたのかを理解することで、教えの本質をより深く grasp することができます。
論:釋總別名如餘處說。
論:総別の名の解釈は、他の箇所で述べたとおりである。
述曰:七十八、《解深密》等,解總名云:何緣此等名波羅蜜多?由五緣故:一者,無染著,不染著波羅蜜相違事也;二、無顧戀,謂此六度諸果異熟及報恩中,心無繫縛;三、無罪,謂於六度無間雜法,離非方便行;四、無分別,不如言辭執著自相;五、正迴向,謂以所行度迴求大菩提。《攝大乘》說:於世間,二乘施等最勝,能得彼岸故,通言波羅蜜多。《對法》十一說:由十二最勝相應故,名波羅蜜多:一、廣大,不求世樂,又最上故;二、長時,三劫積集故;三、所為,為利生故;四、無盡,迴向大菩提究竟無盡故;五、無間,自他平等令他速圓滿施等故;六、無難,隨喜他施等,令自行速圓滿故;七、大自在,由得虛空藏等定,令施等速滿故;八、攝受,無分別智所攝受;九、發起,謂解行地中上中品忍位所行施等;十、證得,初地所行施等;十一、等流,餘八地所行施等;十二、圓滿,謂十地及如來所有施等即菩薩滿,如來圓也。若闕一種非波羅蜜多,最勝所至,最勝所作,故名波羅蜜多。波羅,所至義,或所作義;蜜多,能至、能作義。彼論又說:到所知彼岸名波羅蜜多,安住佛性故。又,波羅,是所知彼岸義;蜜多,是到義。又解,濟度自他最極災橫,故名波羅蜜多。合六解總名。釋別名者,《攝大乘》說:能裂慳悋、貧窮,得廣大財位、福德資糧名施,乃至能除遣一切見趣諸邪惡惠,及能真實品別知法名惠。《對法》十一說:由大施故,離過故,離垢故,故名施波羅蜜,乃至惠亦由三因故,名惠波羅蜜。如彼廣解。彼論又解,能捨施者當來貧苦,能捨受者,現在熱惱,故名為施,乃至他所發智故,內證智故,種別智故,得寂靜智故,勝德智故,名為惠。合三解別名,故今總指釋總別名,如餘處說。餘處即《攝大乘》等也。
述ぶところ:七十八、《解深密経》などでは、総名を次のように解釈している。何ゆえにこれらを波羅蜜多と名づけるのか。五つの理由による。一には、無染著であること。波羅蜜多と相違する事柄に染著しないこと。二には、無顧恋であること。この六度の果報や異熟、そして恩に報いることにおいて、心に執着がないこと。三には、無罪であること。六度において雑染の法が混ざり合うことなく、非方便の行を離れていること。四には、無分別であること。言葉や言説に執着して自相を捉えることがないこと。五には、正回向であること。行じた度を大菩提の成就へと回向することである。
『摂大乗論』では、世間や二乗の施などの最勝なるものは彼岸に到ることができるので、総じて波羅蜜多と名づけると説く。
『対法論』第十一では、十二の最勝に相応するゆえに波羅蜜多と名づけると説く。一には、広大であること。世間の楽を求めず、しかも最上であるから。二には、長時であること。三つの劫において積集するから。三には、所為であること。衆生を利益するためであるから。四には、無尽であること。大菩提へ回向し、究竟して尽きることがないから。五には、無間であること。自他を平等にし、他者の施などの円満を速やかにさせるから。六には、無難であること。他者の施などを随喜し、自身の行を速やかに円満させるから。七には、大自在であること。虚空蔵などの三昧を得て、施などを速やかに満たすから。八には、摂受であること。無分別智によって摂受されるから。九には、発起であること。解行地における上品・中品の忍位で行う施などをいう。十には、証得であること。初地で行う施などをいう。十一には、等流であること。残りの八地で行う施などをいう。十二には、円満であること。十地と如来の有する施など、すなわち菩薩は満ち、如来は円満であることをいう。
もし一つの種類でも欠ければ波羅蜜多ではない。最勝なる所至、最勝なる所作であるから、波羅蜜多と名づける。波羅は所至の義、あるいは所作の義である。蜜多は能至、能作の義である。その論ではまた、所知の彼岸に到ることを波羅蜜多と名づけ、仏性に安住するからであるとも説く。また、波羅は所知の彼岸の義であり、蜜多は到る義である。また解釈すれば、自他を済度して最極の災横を超えることから、波羅蜜多と名づける。合わせて六種の解釈で総名を解する。
別名を釈するには、『摂大乗論』では、慳吝と貧窮を破し、広大な財位と福徳の資糧を得ることを施と名づけ、乃至、すべての見趣や諸々の邪悪な慧を取り除き、また真実に諸法を品別して知ることを慧と名づけると説く。
『対法論》第十一では、大施によって、過失を離れることによって、垢を離れることによって、施波羅蜜と名づけ、乃至、慧もまた三つの因によって慧波羅蜜と名づける。その論に広く解釈されている通りである。その論また解釈して、施す者は来世の貧苦を捨てることができ、受ける者は現在の熱悩を捨てることができるので施と名づけ、乃至、他者に智を発起させることによって、内証の智によって、種別の智によって、寂静の智を得ることによって、勝徳の智によって、慧と名づける。合わせて三種の解釈で別名を解する。
ゆえに今、総じて総名と別名の解釈を指し示す。他の所で説く通りである。他の所とは『摂大乗論』などである。
論:此十修者至廣說其相。
この十の修行について、その詳細を広く説き明かす。
述曰:七修門者,此有五修,此指如《對法》第十二說,「依止任持修」者,復有四種:一、依因修,由種姓力於度修正行;二、依果修,依勝自體力於度修正行;三、依願修,由本願力於度修正行;四、依簡擇修,由惠力於度修正行。「二、依止作意修」,彼說復有四種:一、依勝解修,於一切度相應教法起增上勝解;二、依愛味修,於已得度多見功德起深愛味;三、依隨喜修,於諸世界諸有情所行度深生隨喜;四、依喜樂修,於自他當來勝品度中深生願樂。「三、依止意樂修」,即六意樂,謂:一、無厭意樂;二、廣大;三、歡喜;四、恩德;五、無染;六、善好意樂。廣如彼解。然與《攝論》六意樂名字不同,及攝三作意:一謂愛重;二、隨喜;三、欣樂,皆如《攝論》第七、《對法》第十二抄會。「四、依止方便修」,《對法論》說:亦有三種,由無分別智觀察三輪皆清淨故,由此方便故,一切作意所修諸行速成滿故。「五、依止自在修」,亦有三種,《對法》說有三:一、身自在,即自性、受用二身;二、行自在,即變化身;三、說自在,謂能說六度等無有滯礙,謂緣求依止此故修。無性云:即為彼故修,亦名為修。然《攝論》說五修,名亦不同義意無別,然此同《對法》。《攝論》文略,世親難解,無性易知。此中指同《對法》、《攝論》,故言「如《集論》等」。
ここで述べる「七種の修」というのは、五種の修のことを指します。これは『対法論』(『集論』)第十二巻に説かれるところによります。
まず「依止任持修(よりどころとなるものを保つ修め方)」には、さらに四つの種類があります。 一、因に依る修。種姓(素質)の力によって、六度の正しい行いを修めます。 二、果に依る修。優れた自らの体の力によって、六度の正しい行いを修めます。 三、願いに依る修。もともとの誓いの力によって、六度の正しい行いを修めます。 四、選択に依る修。智慧の力によって、六度の正しい行いを修めます。
第二の「依止作意修(はたらきかけの心に依る修め方)」には、四つの種類があると説かれています。 一、勝解に依る修。すべての六度に関する教えに対して、深い確信を起こします。 二、愛味に依る修。すでに得た六度の多くの功徳を見て、深い味わいを愛おしみます。 三、随喜に依る修。あらゆる世界のすべての生きとし生けるものの行う六度に対して、深く喜びをともにします。 四、喜楽に依る修。自他の未来における優れた六度の行いに対して、深く願い楽しみます。
第三の「依止意楽修(心の向かうところに依る修め方)」とは、六つの意楽、すなわち、 一、飽きることのない意楽 二、広大な意楽 三、歓喜の意楽 四、恩徳の意楽 五、汚れのない意楽 六、善好意楽 のことを指します。詳しくは『対法論』に説かれる通りです。 しかし『摂大乗論』の六意楽とは名前が異なりますが、意味は同じです。 また、ここには三つの作意も含まれます。すなわち、 一、愛重(敬い重んじる心) 二、随喜(喜びをともにする心) 三、欣楽(楽しみ喜ぶ心) です。これらはすべて『摂大乗論』第七巻や『対法論』第十二巻の解釈に照らし合わせて理解すべきものです。
第四の「依止方便修(巧みな方法に依る修め方)」については、『対法論』に三つの種類があると説かれています。 無分別の智慧によって、三つの輪(施す者・受け取る者・施す物)がすべて清らかであると観察することによって、この巧みな方法があるからこそ、あらゆる心のはたらきによって修められる諸々の行いが速やかに成し遂げられるのです。
第五の「依止自在修(自在の境地に依る修め方)」にも、三つの種類があります。『対法論』には三つあると説かれています。 一、身の自在。これは自性身と受用身の二つの身のことです。 二、行の自在。これは変化身のことです。 三、説の自在。六度などを説くことに滞りがないことを指し、このために修めるともいいます。 無性(無性菩薩)は、「そのために修めること、これもまた修めると名づける」と述べています。 『摂大乗論』に説かれる五修も名前は異なりますが、義理や意味に違いはありません。しかしここでは『対法論』と同様です。 『摂大乗論』の文は簡潔で、世親(世親菩薩)の解釈は理解しにくく、無性の解釈は分かりやすいものです。ここで『対法論』や『摂大乗論』に同じくすると指すために「『集論』などのように」と言っているのです。
第八攝門者。
第八の摂門とは、
論:此十攝者至互相順故。
論:この十の摂するものについては、互いに順じ合うからである。
述曰:謂十度一一皆攝一切度,十行相資成,互相順故。此中《對法》等說,或真如攝,或惠攝等。然今但以十度相攝,不同彼論,如前財施唯施,無畏通五,法施通六等。是故諸論言:或「唯施」聲說,乃至或「唯智」聲說,是此即雜行十度故一攝餘。無性云:「施性中現有六波羅蜜多」。《金剛般若論》云:檀度攝於六,資生、無畏、法,此中一、二、三,是名修行住。《大般若》第三百五十一云:佛言要由般若引施等故。由此前五波羅蜜多攝在般若波羅蜜多。又《對法》十二更互決擇門有三,一方便中廣出其相。
述ぶるに、十度は一つ一つがすべて一切の度を摂する。十の行は互いに資け合って成り、互いに順うからである。この中で『対法』などには、あるいは真如に摂せられ、あるいは恵(慧)に摂せられるなどと説く。しかし今はただ十度が互いに摂することをもって説くのであって、かの論の如くではない。前に述べたように、財施はただ布施のみ、無畏施は五通に通じ、法施は六通に通ずる等の如し。それゆえ諸論に言う、「あるいはただ『施』の声のみをもって説き」乃至「あるいはただ『智』の声のみをもって説く」と。これはすなわちこの十度を雑修するがゆえに、一をもって余りを摂するのである。
無性は言う、「施の性の中に現に六波羅蜜多あり」と。『金剛般若論』には言う、「檀度は六を摂す。資生・無畏・法、この中に一・二・三あり。これを名づけて修行住とす」と。『大般若経』第三百五十一には言う、「仏言わく、要するに般若によって施等を引くがゆえに、このゆえに前の五波羅蜜多は般若波羅蜜多の中に摂せらる」と。
また『対法』第十二の更に互いに決択する門には三あり。一には方便の中に広くその相を出だす。
論:依修前行至不待後故。
論:修行を積むことで、将来を待つ必要がなくなるからである。
述曰:前引後度起者,前攝後,後待前方成故;後不攝前,前不待後而成故。《對法》十二說:此依始業地,所有戒皆是施,有施非戒,謂戒所不攝施。既以寬問狹,故順後句答。然應因敘《對法》十六中,一句、二句、三句、四句,順前後句等。
解説します。先に引いた教えと後に述べる教えの関係について、前の教えは後の教えを含み、後の教えは前の教えを待って初めて成り立つものです。逆に、後の教えは前の教えを含まず、前の教えは後の教えを待たずして成り立ちます。
『対法論』第十二巻には、こうあります。修行を始めたばかりの者の境地においては、すべての戒律は布施であり、布施であっても戒律ではない場合がある、と。これは戒律に含まれない布施のことです。
つまり、広い問い(布施)に対して狭い答え(戒律)を求める形なので、後の句(戒律)を先に述べる方式に従って答えるのです。
なお、『対法論』第十六巻では、一つの文、二つの文、三つの文、四つの文による問答の形式があり、前後の句の順序に従って説明されています。
論:依修後行至非持淨故。
論:修行を積んだ後には、清らかさを保つことには依らないからである。
述曰:後持淨前者,後攝於前,有施皆戒;有戒非施,謂施所不攝戒,以後戒持淨前施等,故前不攝後。非持淨於後故,即以狹問寬。順前句答,施狹故也。
ここで「後の戒律が前の布施を支える」とは、後のものが前のものを含むことを意味します。すなわち、布施を含むものはすべて戒律に含まれますが、戒律に含まれるものがすべて布施であるとは限りません。戒律には布施に含まれないものがあるからです。後の戒律が前の布施を支えることで、布施は戒律に含まれないことがあります。したがって、前のものは後のものを含みません。「後の戒律が前を支える」というのは、逆に前が後を支えるということではないので、狭いものをもって広いものを問うことになります。順前句で答えると、布施は狭いからです。
論:若依純雜至應作四句。
論:もし純粋なものと雑なものに基づくならば、四つの文(四句)を作るべきである。
述曰:謂有純修,且如施純修;謂有施非度,不迴向施等是;有度非施,即隨喜他施等是;有俱不俱可知。然此依種類福,如前已說,然不約種類福,不說隨喜他,故但有三句:有施非度,有亦施亦度,有非施非度。除第二句,餘五度皆作四句,前有度故。施前未有度,故為三句。若雜修者,有四句成,諸度相間有第二句故。此亦如《對法》,然彼更有少別,不能煩引。《攝大乘》云:「此能攝一切善法,是其相故,是隨順故,是等流故」,不以六度相攝,乃攝諸功德也。廣如彼說,謂施攝施是相,攝信等是隨順,攝無諍是等流。
述べるには、純粋な修行がある。例えば、布施の純粋な修行がある。布施ではあるが波羅蜜(度)ではない場合がある。それは、回向しない布施などである。波羅蜜ではあるが布施ではない場合もある。それは、他の人の布施を随喜することなどである。両方ともある場合も、両方ともない場合もあることが分かる。しかし、これは種類としての福徳によるもので、先に述べたとおりである。種類としての福徳によらず、他の人の布施への随喜を説かないなら、ただ三つの文があるだけである。布施ではあるが波羅蜜でない場合、布施でもあり波羅蜜でもある場合、布施でもなく波羅蜜でもない場合である。第二の文を除けば、残りの五つの波羅蜜はすべて四つの文となる。前に波羅蜜があるからである。布施には前に波羅蜜がないので、三つの文となるのである。もし雑修するなら、四つの文が成立する。諸々の波羅蜜が相互に交じり合うことで第二の文があるからである。これは『対法論』のようであるが、そこにはさらに少し違いがあるので、煩雑に引用しない。『摂大乗論』には「これは一切の善法を摂する。その相であるからであり、随順であるからであり、等流であるからである」とある。六波羅蜜をもって互いに摂するのではなく、諸々の功徳を摂するのである。詳しくは彼の説くところのとおりである。すなわち、布施をもって布施を摂するのは相であり、信などを摂するのは随順であり、無諍を摂するのは等流である。
論:此實有十至緣世俗故。
解説:これは実際に十の(完成するための)条件があり、世間的な道理に基づいているからである。
述曰:第九,問答,合六開十門,此義可知,如前已引《攝大乘》說等。
解説:第九の項目では、問答を挙げ、合わせて六つの門を開き十の門とします。この意味は既に理解できる通り、先に引用した『摂大乗論』の説などの通りです。
論:此十果者至除異熟果。
この十種の果報について、異熟果を除くものである。
述曰:十、五果門。約實而言,有漏有四,無漏亦爾,所除有別,此義可思。此為四果,文易可知,故不繁出。
述べます。第十に、五つの果の門です。実体に基づいて言えば、有漏には四つあり、無漏にも同じく四つあります。ただし除かれるものに違いがあり、この意味はよく考えるべきです。これらが四つの果であり、文は容易に理解できるので、詳しくは述べません。
論:而有處說至或二合說。
論には、ある場所では「至」または「二合」と説くこともある。
述曰:會相違也。《對法》十二說:永斷自治是離繫,攝受自他是士用,於當來增勝生起是等流,大菩提是增上,感大財等是異熟果,即具五果。或無漏資有漏亦得異熟,有漏資無漏亦得離繫,故言互相資。或有漏、無漏二合說,故得五果,非有無漏體各親能得五果也。七十八、《解深密》等說,果有六:大財、善趣、無怨壞、為眾生主、無惱害、大枝葉,皆是異熟果中說,非不得餘。《攝論》云:富貴、大生、大朋屬,此三異熟果;廣大業、塵垢薄、知五明處,後三但約增上果中說,亦不違也。〈菩薩地〉解六度中,一一度後皆言此得大菩提,此唯於增上果說。若因緣、增上緣皆是增上果。四十三末說,前各九門分別度等得如是果別,不能煩引,讀者知之。
論:十與三學至一切有情。
論:十と三学は、すべての有情に至る。
述曰:十一、三學相攝門。於中初出學名體第二,五位分別;第三,正以學攝度。戒學有三,初以七眾戒為體;二、以有為、無為無漏善法為體,有漏善法非正應修,體可斷故;三、謂正利樂三業為性,如上應知。
述ぶ:第十一に、三学の相互関係についての門を説く。その中で、初めに学の名称と体を示し、第二に五位によって分別し、第三に、まさに学によって度(六度)を摂することを明かす。戒学には三つの解釈がある。第一に、七衆の戒をその体とする。第二に、有為・無為の無漏の善法を体とする。有漏の善法は正しく修すべきものではなく、その体は断たれるべきものだからである。第三に、正しく衆生を利楽する三業をその性質とすると解釈する。以上のように知るべきである。
論:此與二乘至如餘處說。
論:これは二乗(声聞・縁覚)の教えとは異なり、他の場所で説かれたとおりである。
述曰:然此三學與二乘有共、不共等。《攝論》無性第七、世親第八,各有四殊勝:初一、差別勝,即三聚戒;二、共不共勝,謂菩薩一切性罪不現行與二乘共,相似遮罪有現行與二乘不共等是;三、廣大勝,此有四種:一、種種無量學處大;二、無量福德大;三、利生意樂大;四、建立菩提大,如彼廣解。四、甚深勝,謂菩薩行殺生等十業,而無有罪,生無量福,速證菩提等是。然彼雖有四種殊勝,然初即此三聚戒體,今以第二共不共,第四甚深,第三廣大,合為三種。如餘處者,即是彼文。
述べて言う。すなわち、この三学は二乗と共に有り、共ならざること等がある。『摂論』の無性菩薩の第七巻、世親菩薩の第八巻には、それぞれ四種の殊勝がある。第一は「差別勝」であり、すなわち三聚戒のことである。第二は「共不共勝」であり、菩薩はすべての性罪を現行しない点では二乗と共通するが、相似の遮罪については現行することもあり、二乗とは共ならざる点などである。第三は「広大勝」であり、これには四種がある。一つは、種々無量の学処が広大であること。二つは、無量の福徳が広大であること。三つは、衆生を利する意楽が広大であること。四つは、菩提を建立することが広大であること。以上の通り、彼の論に広く解説されている。第四は「甚深勝」であり、菩薩が殺生などの十の業を行うことがあっても、罪がなく、無量の福を生じ、速やかに菩提を証得するなどのことである。しかし、彼の論には四種の殊勝があるけれども、第一はすなわちこの三聚戒の体であり、今は第二の共不共と第四の甚深、第三の広大を合わせて三種とするのである。「余処の如し」とは、すなわち彼の文のことである。
論:定學有四至之所行故。
定学には、四つの境地に至る修行があるからである。
述曰:文中可解,然此唯在第四靜慮,諸勝定者多是彼中,由地勝故唯是無漏。既言聲聞等不得,明非地前已得此四及有漏故。解此四定,《攝論》等唯有名。唯此及佛地論有解。發智光明,通聞、思、修,如第三地除障所得。
述べます:文の中で理解できます。しかし、この四つの定は第四静慮にのみ存在します。諸々の優れた定者は、多くはその中にあります。その地が優れているから、ただ無漏であるだけです。すでに声聞などが得られないと言うならば、地前(修道以前の位)でこの四つや有漏を得たのではないことが明らかです。この四つの定を解釈するにあたり、『摂大乗論』などでは名前のみを挙げています。この論と『仏地経論』だけが解釈を示しています。智慧の光明を発することは、聞・思・修の三慧に通じます。第三地で障碍を除いて得られるのと同じです。
論:此四所緣至如餘處說。
論:この四つの所緣については、他のところで述べたとおりである。
述曰:《攝論》第八說有六差別:一、所緣別,以大乘法為所緣;二、種種別,即四定別,且舉上首者;三、對治別,謂總相緣智,即緣真如智速遣阿賴耶中麁重障故;四、堪能別,謂住靜慮樂隨欲受生故;五、引發別,能引發一切界無礙神通故;六、作業別,謂能振動等,即十八變,又能引發十難行等,即自誓難行等。彼雖有六,第二差別即四定體,故除第二,唯有所緣等五,如彼廣解。密語六度等,十惡業道並爾。
述べて曰く、「摂論」第八には六種の差別があると説かれている。一には所縁の別、大乗法を所縁とするがゆえに。二には種種の別、すなわち四定の別であり、その中で上首のものを挙げている。三には対治の別、これは総相縁の智、すなわち真如に縁る智が、速やかに阿頼耶の中の麁重の障を取り除くがゆえに。四には堪能の別、静慮に安住して、楽に随って欲界に受生することを得るがゆえに。五には引發の別、一切の界に通じる無礙の神通を引發することができるがゆえに。六には作業の別、すなわち振動などを起こすことができ、これは十八変であり、また十難行などを引發することができ、これは自らの誓いによる難行などである。彼には六つがあるけれども、その第二の差別はすなわち四定の体であるから、第二を除けば、ただ所縁などの五つのみとなる。彼の広解の如くである。密語の六度などや、十悪業道もまた同様である。
論:惠學有三至無分別惠
慧学には、三つの最高の境地がある。すなわち、無分別の智慧である。
述曰:三惠可知。如六度中合五為一,說後得等三智皆第六故。
解説します。三慧(聞所成慧・思所成慧・修所成慧)について理解できます。例えば六度(六波羅蜜)の中では、五度を一つにまとめて、後の得る智慧などの三智はすべて第六度(智慧波羅蜜)に含まれるからです。
論:此三自性至如餘處說。
論:この三つの自性については、他の場所で述べられている通りである。
述曰:若自性,若所依,若因緣,若所緣,若行相,若任持,若助伴等,合一十六門解三智。除初解自性外,餘十五門解之。自性者,彼云:離五種相,以為無分別智性:一、離無作意,熟眠、醉等非彼智故;二、離有尋伺地,第二定以上非故;三、離想受滅寂靜故,即智不成,定無心等故;四、如色自性便非是智,如大種故;五、離於真義異計度故,計度是有分別,非無分別故,言所依者,智所依,若是心者,心是思量,說智無分別不應正理;若所依非心,能依名智亦不應理,即智所依非心是心,由所依止是心種類,心所引生故是心,非思量故非心。故彼頌言「非心而是心」等。言因緣者,彼頌言「諸菩薩因緣,有言聞熏習」等,即以聞熏習為因緣。言所緣者,彼頌言「諸菩薩所緣,不可言法性」,即真如是,遍計所執法皆不可言。不可言性,謂二無我所顯真如,是即無分別智所緣也,即是三種無分別智所緣也。言「行」者,彼言行相。彼頌云:「諸菩薩行相,復於所緣中,是無分別智,彼於所知無相」,即此智於所緣中,所現無相,能、所二緣平等平等,生無異相,如眼取色見青等相,非此青相與色有異故。此中且舉五門,餘十一門如彼論解。總是第一出體名門。
述曰:もし自性(本質)について、所依(よりどころ)について、因縁(原因となる条件)について、所縁(認識の対象)について、行相(はたらきのすがた)について、任持(保ち続けること)について、助伴(助ける仲間)などについて、合わせて十六の区分によって三つの智慧を解き明かす。初めの自性の説明を除いて、残りの十五の区分によってこれを解く。自性とは、そこに次のように説く。五つの相を離れることをもって、無分別智の本質とする。一には、作意(意識的に心を向けること)がないことを離れること。深い眠りや酔っている状態などは、その智慧ではないからである。二には、尋と伺(粗い思考と細かい思考)のある境地を離れること。第二禅定以上の境地では、これらがないからである。三には、想と受(表象と感受)が滅する寂静を離れること。そこでは智慧が成立しない。定まって心がないなどということがあるからである。四には、例えば色(物質)の自性のようなものは、智慧ではない。例えば四大元素のようなものであるからである。五には、真実の意味に対する異なる計度(分別するはかりごと)を離れること。計度は分別を伴うものであり、無分別ではないからである。また「所依」(よりどころ)について言えば、智慧のよりどころとなるものが、もし心であるならば、心は思量(思い計ること)であるから、智慧が無分別であると説くことは正しい道理に合わない。もしよりどころとなるものが心でないならば、よりどころに依存するものを智慧と名づけることもまた道理に合わない。すなわち、智慧のよりどころとなるものは、心ではないが心である。よりどころとなるものが心の種類であるからであり、心から引き起こされるから心であるが、思量ではないから心ではない。だから、その偈頌に「心にあらずして心である」などと説くのである。「因縁」(原因となる条件)について言えば、その偈頌に「諸々の菩薩の因縁は、言葉による教えの薫習がある」などと説く。すなわち、聞いて学ぶことによる薫習(心に染みついた影響)を因縁とするのである。「所縁」(認識の対象)について言えば、その偈頌に「諸々の菩薩の所縁は、言葉で表現できない法の本質である」と説く。すなわち真如(真理そのもの)であり、遍計所執(分別によって執着されたもの)の法はすべて言葉で表現できないのである。言葉で表現できない本質とは、すなわち、人と法の二つの無我によって顕される真如であり、これが無分別智の認識の対象である。すなわち、三種の無分別智の認識の対象でもある。「行」(はたらき)について言えば、そこでは行相(はたらきのすがた)を説く。その偈頌に「諸々の菩薩の行相は、ふたたび所縁の中にあって、これは無分別智であり、それらは知られるものにおいて相がない」と説く。すなわち、この智慧は認識の対象において現れるところ、相(すがた)がなく、能取と所取の二つの縁が平等で平等であり、生じることに異なる相がない。例えば、眼が色を取って青などの相を見る場合、この青い相が色と異なるものではないのと同じである。ここではひとまず五つの区分を挙げたが、残りの十一の区分は、かの論に従って解かれている。総じてこれは第一に、その体(本質)を示して名称を明らかにする区分である。
論:如是三惠至俱已捨故。
このように三つの慧(智慧)は、すべてすでに捨てられているからである。
述曰:第二,五位分別門。加行唯有漏,餘二無漏,故諸位別。此依頓悟及三乘各自初二位說。若迴心者皆通初二位,此文可解,不煩廣解。
述ぶ:第二に、五位を分別する門。加行はただ有漏のみであり、餘の二は無漏である。故に諸位に差別がある。これは頓悟および三乘各自の初二位に依って說く。若し迴心する者は皆初二位に通ずる。この文は解し易く、廣く解釈するに及ばない。
論:若自性攝至皆具相攝。
論:もし自性によって摂取されるならば、すべてのものは相(特徴)を具えて摂取されることになる。
述曰:第三、正相攝門。自性攝可知,餘三或七非自性故。眷屬理通三,三具攝十。
解説します。第三に、正しく相互に含み合う関係について述べます。
「自性」(本質)による摂取は、そのまま理解できるとおりです。残りの三つ(因・果・体)は、あるいは七つの場合においても、自性そのものではないからです。
「眷属」(付随するもの)という考え方は、三つの場合に広く通じるものです。三つが揃えば、十の内容をすべて含み取ることになります。
論:若隨用攝至遍策三故。
論:もしその用に随って摂するならば、遍策の三に至るからである。
述曰:戒攝前三者,施是戒資糧,戒是戒自性,忍是戒眷屬,由忍不破戒故。餘二可知。精進三學攝,遍策三學故。七十八、《解深密》說同此。
解説:戒には前三者が含まれる。布施は戒の資糧であり、戒そのものが戒の自性であり、忍辱は戒の眷属である。なぜなら、忍辱によって戒が破られることがないからである。残りの二者については容易に理解できるだろう。精進は三学に含まれ、三学を広く促進するからである。『瑜伽師地論』巻七十八と『解深密経』も同じことを述べている。
論:若隨顯攝至惠攝後五。
論:もし顕(あらわ)に摂(と)るならば、慧(え)の摂(と)る後の五つに至るまでを含む。
述曰:戒攝前四,前三如次前說,以精進守護戒,故亦戒攝。餘文易知。四十九說:由前四資糧、自性、眷屬,守護修戒學也,由定故圓滿修心學,由惠故圓滿修惠學。同此也。
述べます。戒律は前述の四つを摂めています。その中の前三つについては、前で説いたとおりです。精進によって戒律を守るからで、それゆえ戒律に含まれるのです。その他の文は容易に理解できます。第四十九説によれば、前の四つの資糧と、自性と、眷属によって、戒律の学びを守り修めます。定によって心の学びを円満に修め、慧によって慧の学びを円満に修めます。これは同じことです。
論:此十位者至俱唯無漏。
此十位,至俱唯無漏。
述曰:十二、五位現種相攝門。此中所說,隨其所應未必十種一一皆爾。修習位中其相最顯者,通有、無漏能無邊行故,此中約法爾種子說。通達位言有者,雖無別行義說有故。餘文意可知。
述ぶ:第十二門、五つの位における現行と種子の相攝について。ここで說くところは、その相應に隨って、必ずしも十種の一つ一つが皆そうであるとは限らない。修習位においてその相が最も顯れているものは、有漏・無漏に通じて、無邊の行を能くするからである。ここでは法爾の種子について說くのである。通達位について「有り」と言うのは、別の行は無いけれども、義の上で「有り」と說くのである。その餘の文の意味は、知るべきである。
論:此十因位至故未究竟。
この十の因位に至っても、まだ究極には達していない。
述曰:十三、分位分別門。三劫得名別,一行中修一行,一行中修一切行,一切行中修一切行別,如前已說。然未入劫時,同已初入,但名波羅蜜多,已成佛竟亦同。第三劫名大波羅蜜多,《解深密》、七十八說:勝解行地名波羅蜜多。此中復言「初無數劫」,明煖等位唯在初劫,又四十七、八.九等說勝解地。《對法》、《攝論》等說,從堅固心至極喜地,解行地攝;彼復說解行地是初劫。由多理故,四心唯初劫,《對法》第十一說:「持、任、鏡、明、依中」。言滿已者,是滿心學,非第二劫。如言「三劫滿已修相好業」,非於劫外方修相好,相好非三劫攝,數如上說。大文上來,第一已十三門分別度訖。
論:此十義類至略示綱要。
この十の義類は、その概要を簡潔に示したものである。
述曰:大文第二,指不繁文。義類無邊者,《解深密》、七十八說:度清淨、度最大、無染、最明盛、不可動、最清淨、度無盡、度威德、度因、果、義利、度攝三性等,皆如彼經論說,不能繁述。
述べるには、大きな文の第二である。繁雑な文を指すことはない。その義の種類は限りなく広い。『解深密経』や七十八行の説によれば、度(波羅蜜)の清浄、度の最大、無染、最も明らかに盛ん、動かしがたし、最も清浄、度の尽きることなし、度の威徳、度の因、果、義利、度が三性を摂する等があり、いずれもそれらの経論に説かれる通りであって、ここに詳しく述べることはできない。
論:十於十地至地地修一。
教え:十地(じゅうじ)において、地(じ)ごとに一つずつ修行を修める。
述曰:大文第三,十地修度門。《十地經》、《攝論》、《顯揚》、《瑜伽》等皆言:初地施為增上,餘度隨力隨分非不修習,乃至十地,智為增上,餘度非不修習,隨力隨分故地地修十。問:若第五地修定度者,何故三地名為發光?定障三地除,成熟至五地。
述べていう。大文の第三は、十地における修行と度行(六度などの修行)の門である。『十地經』『摂論(摂大乗論)』『顕揚(顕揚聖教論)』『瑜伽(瑜伽師地論)』などには、いずれもこう説かれている。初地では布施(施し)が特に優れており、他の度行については、自分の力や分に応じて、修習しないわけではない。そして、十地に至るまで、それぞれの地で智慧が特に優れており、他の度行についても、修習しないわけではなく、力や分に応じて修行する。それゆえ、各地ごとに十の修行を修めるのである。
問うていう。もし第五地で禅定の度行を修めるのであれば、なぜ第三地を「発光」と名付けるのか。禅定の障碍は三地で除かれ、その成熟は第五地に至って完成するのである。
論:雖十地行至十到彼岸。
論:十地の行を満たし、十波羅蜜に至ると雖も、
述曰:大文第四,以十攝諸行,六度外更無菩薩道,即由六度攝一切行等故,不以但說十度,更不說餘行。
ここで述べられているのは、大きな教えの第四段階についてです。すなわち、十波羅蜜によってすべての修行が含まれ、六波羅蜜の他に菩薩の道は存在しません。つまり、六波羅蜜がすべての行を摂めるからこそ、十波羅蜜だけを説き、それ以外の行をあえて説かないのです。
論:十重障者至異生性故。
論:十重の障は、異生性に至るが故に。
述曰:前答證得轉依等中有四答,一、依十地;二、修十行,已如前辨。自下第三,解十重障,於中有二:初明重障;後重以二障攝,總明斷位。明重障中有二:初牒十障者,後別解釋。釋中有十一障者,乘文次對釋二十二愚義,乘文便故因釋佛地障。初文有六,第一出體。一、異生性障,世親《攝論》名與此同。《十地論》第一云:「凡夫我相障」,此名不然,此障之體非唯我故。凡夫名異,如《別抄》說。此障體性如何等者,謂分別二障,依此種子之上立異生性故。今斷能依,故說所依斷,即與現、本識同地二障種子,能生現行者上立此初障。由此凡夫離欲,仍名欲界異生,不伏見惑種故,以准知此性是染污。亦可言,種在本識與識同性,即無覆性。若爾,何故《對法》第四解無記中,但有命根等是自性,不言異生性耶?答:由約煩惱種可名「染污」,約異熟種可名「無覆」,通二義故,不名自性。命根等不然,不可為例。今勘諸文,前釋為善。《對法》解無記,及六十六立五無記中,不言異生性是五無記等故,既依染種立,故亦唯染,別小乘也。問:今以二障分別起種名為此性,即二乘聖應名異生,未斷所知分別障故。答:隨望自乘見道所斷種上立故,若定性者名已斷此性,自乘障無故,唯依煩惱種子立故;若不定者名為未斷,依二障種立異生故。若不爾者,不定性者應無異生性障。若爾,無種性者既無自乘聖道,說何為異生性?應說但依二障分別種上立異生性,不須別說,望自乘見所斷種上立故。所知未斷雖曰聖者,尚名異生,此何位捨?答:不同小乘唯修所斷世第一法與見道合捨,今大乘唯見所斷,見道無間道起時捨,依所斷種立此性故,與種俱捨。問:若異生性、不定性聖,未全斷盡故仍得名異生;未全得無漏應不名聖者。答:異生之性通二障,不定之性已分斷,可名分斷異生性。二真見道名為聖,已得小分名為聖,未全斷盡故不全名為聖。言不定性名異生者,非是全名,分已斷故;言聖應爾,分已證故。由此總應四句分別:有異生非聖,如全未得三乘聖道;有聖非異生,大乘者得見諦;有異生亦聖,如不定性聖未至十地中;有非異生非聖,如入無餘依涅槃界。此即文中第一,出障體性。
述曰:前の問いの中で、転依を得ることなどについて四つの答えがあった。一つは十地に依ること、二つ目は十行を修することであり、これはすでに前に述べた通りである。ここから第三に、十重の障りについて解釈する。この中に二つの部分がある。初めに重障を明らかにし、後に重ねて二障をもって摂め、総じて断ずる位を明らかにする。重障を明らかにする中に二つの部分がある。初めに十障を掲げ、後に別々に解釈する。解釈の中に十一の障りがあるのは、文の流れに従って二十二愚の義を順に解釈するためであり、文の流れに便があるがゆえに、仏地の障りをも解釈するのである。初めの文に六つの部分がある。第一に出体(本体を示すこと)である。一、異生性障。世親の『摂論』では名前はこれと同じである。『十地論』の第一巻には「凡夫我相障」とあるが、この名前は正しくない。この障りの本体は我のみによるものではないからである。凡夫という名前が異なることは、『別抄』に説く通りである。この障りの体性はいかなるものかというと、すなわち分別の二障であり、この種子の上に依って異生性を立てるのである。今、能依を断ずるから、所依を断ずると説くのであり、すなわち現在の本識と同地の二障の種子であって、現行を生ずる能あるものの上にこの初障を立てるのである。これによって凡夫が欲を離れても、なお欲界の異生と名づけられるのは、見惑の種子を伏さないからである。これによってこの性が染汚であることを知るべきである。あるいは、種子は本識に在って識と性を同じくするから、無覆性であるとも言える。もしそうならば、なぜ『対法』第四巻の無記の解釈において、ただ命根などが自性であるとするだけで、異生性を言わないのか。答え:煩悩の種子によるならば「染汚」と名づけることができ、異熟の種子によるならば「無覆」と名づけることができ、二つの義に通ずるから、自性とは名づけないのである。命根などはそうではないから、喩えとすることはできない。今、諸々の文を調べると、前の解釈が正しい。『対法』の無記の解釈や、六十六巻の五無記の立て方において、異生性を五無記などと言わないからである。すでに染汚の種子に依って立てるから、やはりただ染汚のみであり、小乗とは異なるのである。問:今、二障の分別起の種子をもってこの性と名づけるならば、二乗の聖者は異生と名づけられるべきである。所知の分別障をまだ断じていないからである。答え:それぞれ自乗の見道において断ずべき種子の上に立てるからであり、もし定性の者ならばすでにこの性を断じたと名づけられる。自乗の障りがないからであり、ただ煩悩の種子に依って立てるからである。もし不定性の者ならば未だ断じていないと名づけられる。二障の種子に依って異生を立てるからである。もしそうでなければ、不定性の者には異生性障がないはずである。もしそうならば、無種性の者は自乗の聖道がないのだから、何をもって異生性と言うのか。ただ二障の分別種子の上に依って異生性を立てると言うべきであり、別に説く必要はない。自乗の見道において断ずべき種子の上に立てるからである。所知を未だ断じていないから聖者と言うが、なお異生と名づけられる。これはどの位で捨てるのか。答え:小乗のようにただ修所断のみで世第一法と見道とが合わさって捨てるのとは異なり、今の大乗ではただ見所断のみであり、見道の無間道が生じる時に捨てるのである。断ずべき種子に依ってこの性を立てるから、種子とともに捨てるのである。問:もし異生性について、不定性の聖者は未だ完全に断じ尽くしていないから、なお異生と名づけられうる。未だ完全に無漏を得ていないのだから、聖者と名づけられるべきではないのではないか。答え:異生の性は二障に通じ、不定性の者はすでに部分的に断じているから、部分的に断じた異生性と名づけることができる。二つの真の見道を聖と名づけ、すでに小分を得たから聖と名づけるのであり、未だ完全に断じ尽くしていないから完全に聖と名づけないのである。不定性を異生と名づけるのは、完全な名前ではなく、部分的に断じたからである。聖と言うのも同様で、部分的に証得したからである。これによって総じて四句に分別すべきである。異生にして聖ならざるものあり、例えば完全に三乗の聖道を得ていない者。聖にして異生ならざるものあり、大乗の者が見諦を得た者。異生にしてまた聖なるものあり、例えば不定性の聖者が未だ十地に至っていない者。異生ならず聖ならざるものあり、例えば無余依涅槃界に入った者。これがすなわち文の中の第一、障の体性を出すものである。
自下第二,對三乘明同異。
次に第二の段階として、三乗(声聞・縁覚・菩薩)を比較し、その共通点と相違点を明らかにします。
論:二乘見道至名得聖性。
論:二乗の見道(悟りへの道を見る段階)に至るまでを、聖性を得たと名づける。
述曰:此約異生性各望自乘障為論,斷少分,名小聖;全斷盡,名大聖。第三、明障道俱不俱,謂有薩婆多等為伏難言:若異生性是修所斷,見道前捨故,無漏果起,無有凡聖俱成熟失。今既見所斷種上立異生性者,即無間道有惑種俱,此種未捨,異生未斷,如何凡聖無俱起失?由薩婆多惑得俱故。今為此難,非就大乘。
論:二真見道至必不成就。
論:二つの真実の見道に至るには、必ずしも成就しない。
述曰:謂無惑得與聖道俱,唯依分別二障種子立異生性,其種必不與見道俱,如何凡聖有俱成失?問:無間道起惑種不俱,過去已滅,未來未生,如何名斷?
論じていう。無明の煩悩の種子は聖道と同時に存在することはなく、ただ分別によって生じる二障の種子に基づいて凡夫の性が立てられる。その種子は必ず見道と同時に存在しない。それならば、凡夫と聖者が同時に存在するという過失がどうしてあり得ようか。問う:無間道が生じるとき、煩悩の種子は同時に存在せず、過去はすでに滅し、未来はまだ生じていない。それならば、どうして「断ずる」と言えるのか。
論:猶明與闇至無俱成失。
論:明と闇が同時に存在しないのと同じように、両者が共に成り立つことは決してない。
述曰:由此《對法》第七等,問:從何而得斷耶?答:不從過去,已滅故;不從未來,未生故;不從現在,道不俱故,然從諸煩惱麁重而得斷,為斷如是如是品麁重,生如是如是品對治。若此品對治生,此品麁重滅,猶如世間明生闇滅,由此品離繫故,令未來煩惱住不生法中,是名為斷,故非道惑可說為俱。問:此言斷者,為斷緣縛?為斷相應縛?答:若所知障,唯言斷麁重,體非縛法故;若煩惱障,從二說斷。五十九說,對治道生,煩惱不起,得無生法,是故說名斷彼相應。相應斷已不復緣境,故從所緣亦說名斷。言麁重斷,雖亦通煩惱障,然從二斷唯煩惱中。又,所知障種,障十地智,是染污性,善薩斷時,斷彼種體,如二乘者斷煩惱種。然二乘斷定障等時,但斷麁重令相隨順,不能斷種,不同菩薩。問:此言斷者,為總緣智能斷?為別緣智能斷?此有何失?總緣之智非自相智,如何共相比量之智能斷惑耶?若別相智能斷,即違《對法》、五十九等文。《對法》七等說:「問:何等作意能斷耶?答:總緣作意,觀一切法皆無我性能斷煩惱」。師子覺云:「總緣作意者,合緣一切法共相行作意」。答:如《佛地》第六說:云何佛能知共相?共相既依比量而立,豈佛知共相是比量耶?彼有三說:有義:二量是散心位依二相立,不說定心,若在定心緣一切相皆現量攝,由此總緣智亦現量攝斷惑,無失,即由定照共相自體故,說定心為現量也。第二說:有義:定心唯緣自相,然由共相方便所引,緣諸共相所顯理者,就方便說名知共相,不如是者名知自相。由此道理,或說真如名空、無我諸法共相,或說真如二空所顯非是共相。由此義故,《對法》等說緣共相智能斷惑者,依方便說,實自相觀方能斷之。第三說:如實義者,彼因明論立自共相,與此少異,彼說一切法上實義皆名自相。以諸法上自相、共相,各附已體不共他故。若分別心立一種類能詮、所詮,通在諸法如縷貫華,名為共相。此要散心分別假立是比量境,一切定心離此分別,皆名現量。雖緣諸法苦、無常等,亦一一法各別有故,名為自相。真如雖是共相所顯,以是諸法自實性故。自有相故,亦非共相,不可以其與一切法不一不異,即名共相,自相亦與一切共相不一異故,是故彼論與此不同。由此義故,《對法》等說緣共相智能斷惑者,依分別心於一種類真如之上通在諸法說名共相,或真如體諸法皆有義名共相,緣此之智名共相智。論實真如法實性故,非是共相,據實而言,即別相智能斷惑也。共相假立,已如前辨。
問い:この「對法」第七などによれば、どのようにして断ずることを得るのか。
答え:過去から断ずるのではない。すでに滅したからである。未来から断ずるのでもない。いまだ生じていないからである。現在から断ずるのでもない。道と俱(とも)にしないからである。しかし、もろもろの煩悩の麁重(そじゅう)から断ずることを得るのである。このように、かくかくの品の麁重を断ずるために、かくかくの品の対治(たいじ)を生じる。もしこの品の対治が生じれば、この品の麁重は滅する。たとえば世間において明かりが生じれば暗闇が滅するようなものである。この品の離繋(りけ)によって、未来の煩悩をして生じない法の中に住せしめる。これを名づけて断ずると言う。ゆえに、道と惑とが俱であると言うことはできない。
問い:ここで言う「断ずる」とは、縁繋(えんけ)を断ずることか、それとも相応繋(そうおうけ)を断ずることか。
答え:もし所知障(しょしょうしょう)であれば、ただ麁重を断ずると言うのみである。その体は繋縛(けばく)の法ではないからである。もし煩悩障(ぼんのうしょう)であれば、二つの説によって断ずると言う。「五十九」に説くには、対治の道が生ずれば、煩悩は起きず、無生の法を得る。このゆえに、その相応を断ずると説くのである。相応を断じ終われば、再び境に縁ずることがない。ゆえに、所縁(しょえん)からもまた断ずると説くのである。麁重を断ずると言うことは、煩悩障にも通ずるけれども、二つの断ずるところからは、ただ煩悩の中にのみ説くのである。
また、所知障の種(しゅ)は、十地(じゅうじ)の智を障える。これらは染汚(ぜんま)の性質である。菩薩が断ずるときは、その種の体を断ずる。あたかも二乗(にじょう)の者が煩悩の種を断ずるようなものである。しかし、二乗が定障(じょうしょう)などを断ずるときは、ただ麁重を断じてその相を随順せしめるのみで、種を断ずることはできない。菩薩と同じではない。
問い:ここで言う「断ずる」とは、総縁(そうえん)の智が断ずることができるのか、それとも別縁(べつえん)の智が断ずることができるのか。ここにどんな過失があるのか。総縁の智は自相(じそう)の智ではない。どうして共相(きょうそう)を比量するような智が惑を断ずることができようか。もし別相の智が断ずることができるならば、すなわち「對法」や「五十九」などの文に違背することになる。「對法」第七などに説くには、「問:どのような作意が能く断ずるのか。答:総縁の作意であり、一切の法はみな無我の性であると観ずることが能く煩悩を断ずるのである」と。獅子覚(ししく)が言うには、「総縁の作意とは、一切の法を合わせて縁じ、その共相を行ずる作意である」と。
答え:たとえば「仏地」第六に説くように、どうして仏は共相を知ることができるのか。共相はもとより比量によって立てられる。どうして仏が共相を知ることが比量であると言えようか。そこに三つの説がある。
第一の説:二量(にりょう)は散心(さんしん)の位において二相によって立てられるのであり、定心(じょうしん)については説かない。もし定心にあっては、一切の相を縁ずるものはみな現量(げんりょう)に摂せられる。このゆえに総縁の智もまた現量に摂せられて、惑を断ずることに過失はない。すなわち定心によって共相の自体を照らすがゆえに、定心を現量であると説くのである。
第二の説:定心はただ自相のみを縁ずる。しかし、共相の方便によって引き起こされて、もろもろの共相の顕わすところの理を縁ずるものは、方便に依って、共相を知ると説くのである。そうでないものは、自相を知ると説く。この道理によって、あるいは真如を名づけて空・無我なるもろもろの法の共相と言い、あるいは真如は二空の顕わすところであって、共相ではないと言う。「對法」などに、共相を縁ずる智が能く惑を断ずると説くのは、方便に依って説くのであり、実には自相の観が能くこれを断ずるのである。
第三の説:実義(じつぎ)のままに言えば、あの因明の論(いんみょうのろん)に立てる自相・共相は、これとは少し異なる。彼は、一切の法の上の実義はみな名づけて自相と言う。もろもろの法の上の自相・共相は、それぞれ己の体に付随して、他と共にしないからである。もし分別心が一種の類を立てて、能詮・所詮が、もろもろの法に通ずること、あたかも糸が花を貫くようなものを、名づけて共相と言う。これは散心の分別によって仮に立てるものであり、比量の境である。一切の定心はこの分別を離れるから、みな現量と名づける。たとえもろもろの法の苦・無常などを縁ずるとしても、一々の法にそれぞれ別に有るがゆえに、名づけて自相と言う。真如はたとえ共相の顕わすところであるとしても、これらはもろもろの法の自らの実性であるがゆえに、自ら相を有するがゆえに、また共相ではない。それがあらゆる法と一ならず異ならずとも、すなわち共相と名づけることはできない。自相もまたあらゆる共相と一ならず異ならざるがゆえに、あの論はこれと異なるのである。
この義によって、「對法」などに、共相を縁ずる智が能く惑を断ずると説くのは、分別心が一種の類なる真如の上に、もろもろの法に通ずると立てることに依って、共相と説くのである。あるいは、真如の体はもろもろの法にみな有るゆえに、共相と名づけるのであり、これを縁ずる智を名づけて共相智と言う。論じて実に言えば、真如は法の実性なるがゆえに、共相ではない。実に依って言えば、すなわち別相の智が能く惑を断ずるのである。共相が仮に立てられることは、すでに前に辨じたとおりである。
論:無間道時至解脫道為。
論:無間道の時、解脱道に至るのである。
述曰:第四、釋二道別,解脫道所治與小乘不同。小乘難曰:我無間道猶有惑得,可起解脫道與得相違,今汝無間道已無惑種,何用復起解脫道為?用之何作?
述びに曰く、第四に、二道の違いを釈する。解脱道が対治するものは、小乗とは異なる。小乗が難じて言うには、「我が無間道にはなお惑の得が存在するゆえに、解脱道を起こしてその得と相違させることができる。今、汝の無間道はすでに惑の種子が無いというのに、何を用いてさらに解脱道を起こすのか。それを用いて何をするのか」と。
論:斷惑證滅,期心別故。
論:煩悩を断ち切り、悟りの境地に至ることは、心の向かう先(期する心)が異なるからである。
述曰:下論主答。由前加行期心別故,謂無間道能斷惑,解脫道能證滅。雖無間道已無惑種,證彼無為,有此用別起解脫道。此一解也。
述べて曰く、以下は論主の答えである。先の加行において、心の期するところが異なるからである。つまり、無間道は煩悩を断ち切り、解脱道は滅を証する。無間道においてはすでに煩悩の種は尽きているが、その無為を証するために、このようなはたらきの違いがあって、あらためて解脱道を起こすのである。これが一つの解釈である。
論:為捨彼品麁重性故。
論:その粗重さの性質を捨てるために、このような教えが説かれるのです。
述曰:下第二解。麁重性者,即二障種無堪任性。
ここで第二番目の解釈を述べる。麁重性とは、すなわち煩悩障と所知障の種子がもたらす、堪えられない重苦しい性質のことである。
論:無間道時至擇滅無為。
論:無間道の時が至れば、択滅無為に達する。
述曰:無間道俱雖無惑種,而未捨彼無堪任性,為捨此故起解脫道。解脫道起非唯為此,及證此品擇滅無為,即無堪任與無間道俱滅,證無為得與解脫道俱生故,解脫道雖不違惑得,而亦有用。此後意說,種生現雖同時,菩薩金剛心由有麁重性故,不名為佛,明此位第八識猶有漏,為麁重所依,不然如何不名為佛?前解但為證無為者,金剛心中第八已無漏,未圓明故不名為佛。後解為勝。依此二解,并前第八識捨位合解有三,加此一說云:金剛道生有漏皆捨,種生現同時故。此中麁重言,非謂種子,由種子等令所依無堪任性,此名麁重,雖前已說,至下當知。問:此義可然。彼十地中地地斷煩惱障麁重,既不斷種子,起無間道時復不斷麁重,無間道起何所斷耶?若無間道中有斷煩惱種用,於解脫道位可說除麁重;無間道中既無所斷,如何說麁重解脫道治耶?答:修道十地中斷煩惱麁重者,非離所知障外別起無間道等治。然煩惱麁重障無始以來與所知障俱,所知障為本,由無間道本障斷故;其未煩惱障麁重與所知障麁重解脫道中捨,故無此過。由此煩惱麁重非能受生,但障於地,所以與所知障俱斷而不留之,故無,斯咎如身見等,至下當知。問:若爾,如二乘者唯斷定障,不斷種子,無間道生位無麁重,何用復起解脫道為?答:無間斷麁重,解脫道中得自在故。問:既斷麁重得無為不?答:《大般若經》第三百六十卷說:善現問言:若無為法無差別者,佛何故說習氣相續如來永無,二乘猶有?世尊答言:習氣相續實非煩惱,二乘身中不能引無義,菩薩身中能引無義,如來永無。即由此文,顯斷習氣不得無為。不爾,無為應有差別,亦顯所知障斷,不得無為,若所知障斷,得無為,便顯三乘亦得無為而有差別。第五,以此障即二十二愚。
述曰:無間道においては、すでに煩悩の種子はないものの、まだその耐えられない性質(無堪任性)を捨てていない。この無堪任性を捨てるために、解脱道を起こすのである。解脱道が起こるのは、ただこのためだけではなく、この品の選択滅の無為を証得するためでもある。すなわち、無堪任性は無間道とともに滅し、無為の証得は解脱道とともに生じる。それゆえ、解脱道は煩悩の得に違背するものではないが、それでも働きがあるのである。
この後に意図されているのは、種子が現在のものとなるのは同時であっても、菩薩の金剛心には重い麁重性があるがゆえに、仏とは呼ばれないということである。この位では第八識がまだ有漏であり、麁重の依処となっていることを明らかにしている。そうでなければ、どうして仏と呼ばれないのであろうか。前の解釈は、ただ無為を証得するためとし、金剛心の中では第八識はすでに無漏であるが、まだ円満に明らかでないがゆえに仏とは呼ばれないとする。後の解釈が優れている。
この二つの解釈に基づき、先の第八識の捨てられる位の解釈を併せると、三つの解釈となる。これに一説を加えて言う。「金剛道が生じると、有漏はすべて捨てられる。種子が現在のものとなるのは同時だからである。」ここでいう麁重という言葉は、種子を指すのではない。種子などによって、その依処をして耐えられない性質ならしめるものを、この麁重と名づけるのである。これは前にすでに説いたが、後に至って知るべきである。
問う:この義はそれでよいであろう。あの十地において、地ごとに煩悩障の麁重を断ずるが、種子を断じないのであれば、無間道を起こすときにも麁重を断じない。無間道が起こるとき、何を断ずるのであろうか。もし無間道の中に煩悩の種子を断ずる働きがあるならば、解脱道の位において麁重を除くと言えるであろう。しかし無間道の中に断ずるものがなければ、どうして麁重は解脱道によって対治されると言えるのであろうか。
答える:修道の十地において煩悩障の麁重を断ずるとは、所知障の外に別に無間道などの対治を起こすのではない。しかし煩悩の麁重障は、無始以来、所知障とともにあり、所知障が根本である。無間道によって根本の障が断ぜられるから、その未だ起きていない煩悩障の麁重は、所知障の麁重とともに解脱道の中で捨てられる。それゆえ、この過失はないのである。このことにより、煩悩の麁重は受生を引き起こすものではなく、ただ地を障げるのみである。だから所知障とともに断ぜられ、残されることはない。それゆえ、そのような過失はない。身見などの場合も同様で、後に至って知るべきである。
問う:それならば、二乗のように、ただ定障のみを断じ、種子を断じない場合、無間道が生じる位には麁重がない。何のために再び解脱道を起こすのであろうか。
答える:無間道によって麁重を断じ、解脱道の中で自在を得るからである。
問う:すでに麁重を断じたならば、無為を得るのであろうか。
答える:『大般若経』第三百六十巻に説かれる。善現が問う。「もし無為法に差別がないのであれば、仏はなぜ、習気の相続は如来には永遠にないが、二乗にはなおあると説かれるのでしょうか。」世尊が答えられる。「習気の相続は、実に煩悩ではない。二乗の身の中では、無義を引き起こすことができないが、菩薩の身の中では無義を引き起こすことができる。如来には永遠にないのである。」まさにこの文によって、習気を断じても無為を得ないことが明らかとなる。そうでなければ、無為に差別があるはずである。また、所知障を断じても無為を得ないことも明らかとなる。もし所知障を断じて無為を得るならば、三乗もまた無為を得て、しかも差別があることを示すことになる。第五に、この障をもって二十二の愚かさとするのである。
論:雖見道中至是根本故。
論:たとえ見道の中にあっても、これが根本であるからである。
述曰:顯異生障攝法不盡,以是根本不說業等。「等」者,等取惡趣非業及非異熟,及等餘增上果等法,及人天趣中分別所起業,及果故,直言惡趣攝不盡故。能起之中但說煩惱,以所知障與之俱,故總名煩惱。
ここで述べる。凡夫の障りを明らかにするとき、法を尽くして説かない。それゆえ、根本としては業などを説かないのである。「等」とは、悪趣における業でないものや異熟でないものを等しく取り、また、その他の増上果などの法を等しく取り、さらに人天の趣において分別によって起こる業やその果をも等しく取る。悪趣だけを言えば、すべてを尽くすことができないからである。能起の中では、ただ煩悩のみを説く。所知障もこれに伴うから、総じて煩悩と名づけるのである。
論:由斯初地至諸業果等。
論:このようにして初地に至るまで、様々な業とその果報などが明らかになる。
述曰:《解深密》、七十八等說「斷於二愚」,如文可解。諸業果等者,如次前「等」字,等取善趣之中分別所起別報業及果等。直言惡趣,攝不盡故。經中既言惡趣雜染者,雜染之言通善趣分別雜染故。前說無記,若斷緣縛修道所斷,今言彼果是不生斷,如緣起中說故,為此第二解。何故業果亦名為愚?
解説にはこうある。『解深密経』や七十八経などでは、「二つの愚かさを断つ」と説かれており、その文のまま理解できる。諸々の業や果などについては、先ほどの「等」の字が、善趣の中において分別によって起こされる別報の業や果などをも等しく含んでいるのである。単に「悪趣」と言っただけでは、すべてを収め尽くせないからである。経典の中で「悪趣の雑染」と説かれているが、「雑染」という言葉は善趣における分別の雑染をも通じて含んでいるのである。先に無記について説いたのは、もし縁縛を断つ修道所断であるならば、今ここで言うその果は不生断であるということで、縁起の説の中に述べられている通りである。これが第二の解釈である。なぜ業や果もまた「愚」と名づけられるのか。
論:應知愚品至後准此釋。
論:愚かさの品について知るべきである。後はこれに準じて解釈する。
述曰:諸業果等雖體非愚,業是愚所起,果是愚所感,愚之品故,亦名為愚。後諸地言愚准於此解,如第二地業趣愚,非體是愚故。又,初執著我、法障中,亦有貪見等體非是愚,亦愚之品故,下准此知。然分別障中雖有所知障,非能發業感於生死,非縛法故。今此第一所發業果,並言趣者,毀訾言也,如說半擇迦名人中惡趣。
述ぶに、諸々の業や果報などは、その体は迷いそのものではないけれども、業は迷いによって起こされ、果報は迷いによって感ぜられるものであるから、迷いの仲間として、これもまた迷いと名付けるのである。後の諸地における「愚」という言葉も、この解釈に準じて理解すべきである。例えば第二地の「業趣愚」も、その体が愚であるからではなく、このような意味で愚と言うのである。また、最初の「我や法に対する執着という障り」の中にも、貪りや見解などの体があって、それ自体は愚ではないが、やはり愚の仲間であるから、以下の文もこれに準じて知るべきである。しかし、分別の障りの中にある所知障は、業を発して生死に感ずることはできない。それは束縛の法ではないからである。今ここで最初の者が発する業や果報を、共に「趣」と言うのは、非難・誹謗の言葉であって、例えば半択迦(不完全な性の人)を「人の中の悪趣」と言うのと同じである。
論:或彼唯說至俱起二愚。
論:あるいは、彼はただ「俱起の二つの愚かさに至る」とのみ説く。
述曰:謂:第一、言執著,明是利障品俱起愚;第二、言惡趣雜染,非必業果,但是鈍障品俱起愚,毀責名趣。此中不別言餘煩惱,餘煩惱但是利、鈍障品,俱起之愚即唯無明,此師意說。唯取無明與見、非見俱名為利、鈍,說十地中斷十無明故,不取餘煩惱等也。
解説します。ここで言う執着とは、第一に「執著」と表現されるもので、これは利益を妨げる障りの品類と共に起こる無知(愚かさ)を指します。第二に「悪趣の雑染」とは、必ずしも業やその果報を指すのではなく、ただ煩悩の妨げとなる品類と共に起こる無知を指し、それを非難し戒める意味で「趣」と呼んでいます。
ここでは他の煩悩を特に挙げていません。他の煩悩はただ利益を妨げる障りと、煩悩の妨げとなる障りの品類に含まれるからです。共に起こる無知とは、すなわち無明のみを指します。この論師の意図によれば、無明だけを取り上げて、見惑や非見惑と共にあるものを「利」(鋭い)や「鈍」(鈍い)と呼び、十地において十種の無明を断じると説いているからです。したがって、他の煩悩などを取り上げていないのです。
論:彼麁重言至無堪任性。
論:その「麁重」という言葉は、堪えられない性質に至ることを意味する。
述曰:彼言麁重,麁重者何?顯即是彼二愚之種。前二是現行,麁重是種故。問:現行久已滅,如何言斷?答:五十九說,諸煩惱斷略有二種:一、諸纏斷;二、隨眠斷,故二現行亦說斷也。問:彼何不是伏現行言斷也?答:不然。彼卷次文解「二斷」言:諸纏斷者,謂貪、嗔斷,乃至疑斷;五見斷,見苦所斷斷,乃至無色界所繫斷,斷離繫是隨眠斷,非伏惑時亦伏見道諸惑,故知二愚是現行,麁重是種子。又解,隨汝意前二是種,麁重非種。今此乃是二品所起無堪任性,如苦根等說其斷位。
ここで「麁重」とは何か。それは、先に述べた二つの愚かさ(見道所断の愚と修道所断の愚)の種子のことである。なぜなら、前の二つは現行の煩悩であり、麁重はその種子だからである。
問う:現行の煩悩はすでに長い間消滅しているのに、なぜ「断つ」と言うのか。
答える:『瑜伽師地論』第五十九巻によれば、諸々の煩悩の断除には大きく二種類がある。一つは「諸纏断」(現れ出た煩悩を断つこと)、もう一つは「随眠断」(潜在する煩悩の種子を断つこと)である。したがって、二つの現行の煩悩も「断つ」と言うのである。
問う:それは、現行の煩悩を「伏する」(抑えつける)ことを「断つ」と言っているのではないのか。
答える:そうではない。その巻の続きの文で「二断」について解説している。「諸纏断」とは、貪・瞋を断ち、乃至、疑を断ち、五見を断ち、見苦所断の煩悩を断ち、乃至、無色界に繋がれる煩悩を断つことである。「断」と「離繋」は随眠断のことである。煩悩を伏せる時には、見道の諸々の煩悩をも同時に伏せるわけではない。したがって、二つの愚かさは現行の煩悩であり、麁重は種子であると知るべきである。
また別の解釈もある。あなたの考えに従えば、前の二つは種子であり、麁重は種子ではない。今ここで言う麁重とは、見道と修道の二つの品が生み出す「無堪任性」(耐え難い性質)のことである。苦根などについて、その断除の段階を説くのと同じである。
論:如入二定至例此應釋。
論:例えば二定に入る場合までを例として、これに応じて解釈すべきである。
述曰:《瑜伽論》第十一說:第二定斷苦根,苦根種子初定已斷,今者斷彼苦根麁重,說第二禪斷彼苦根故。後諸地麁重准此為二解。第六,以障即無明,為同?為異?
解説します。『瑜伽師地論』第十一巻によれば、第二禅定では苦根(苦しみの感覚)を断ち切ると説かれています。苦根の種子(潜在的な要因)は初禅定で既に断たれていますが、ここではその苦根の粗重(荒々しく重い働き)を断つことを指して、第二禅定で苦根を断つと言います。
それ以降の各禅定における粗重についても、同じように二つの解釈が当てはまります。
第六の問い:煩悩の障礙と無明は、同じものなのでしょうか、それとも異なるものなのでしょうか?
論:雖初地所斷至十障品愚。
論:初地で断ずると雖も、十障品の愚に至る。
述曰:此中意說,初地實斷二障。今說異生性障,唯取所知障,不取煩惱,以世親《攝論》第七卷說:十種無明望二乘者非染污故。若取煩惱,即十無明通染污故。以無明即是十障品之愚,愚即無明故。何意不說初地無明許是染污,通二障種?
述:ここで意図されているのは、初地において実際には二障(煩悩障と所知障)を断ずるということである。ここでいう異生性障とは、所知障のみを指し、煩悩障は含めない。なぜなら、世親の『摂大乗論釈』第七巻に、「十種の無明は二乗(声聞・縁覚)にとっては染污ではない」と説かれているからである。もし煩悩障をも含めるなら、十無明はすべて染污となってしまう。無明とは十障それぞれに対応する愚かさであり、愚かさとはすなわち無明のことだからである。では、なぜ初地における無明を染污と認め、二障の種子をともに断つとは説かないのか。それは、ここで説く十無明が所知障のみを指すからである。
論:二乘亦能至非此所說。
論:二乗(声聞・縁覚)もまた到達できるが、それはここでの話ではない。
述曰:二乘者亦能斷煩惱障,斷煩惱障是共故,非此所說。彼二乘不能斷所知障,所知障是不共。所以初地無明,但說不染故。世親《攝論》云:又所治障有其十,故立十地別。
述べると、二乗もまた煩悩障を断じることができる。煩悩障を断ずることは共通であるから、ここで説くところではない。その二乗は所知障を断じることができない。所知障は共通ではないからである。ゆえに初地の無明は、ただ煩悩に染まらないと説くのみである。世親の『摂大乗論』にいう、「また、対治すべき障には十種があるゆえに、十地の区別を立てる」と。
論:又十無明至修所斷說。
また、十の無明は修所断に至るまで説かれる。
述曰:說為不染者,即《攝論本》云:「法界中有十,不染污無明」者,唯依十地修所斷說,即不說異生性是見斷故。何以知者?《對法》十四云:已得現觀,於彼修道位中,唯修所知障對治道等者,故不說見道所斷為十無明數,以說不染故,若異生性即便染污。由此故知,其異生性非不染污。世親又云:為治十無明立十地別,離十障外說十無明。故十無明非即十障。彼自有二,復次解十無明故。然無性但有一解,亦不別說。問:十地修道亦伏煩惱,斷彼煩惱障麁重,如言「二障三處過」,是何故不說耶?
解説:不染污と説かれるものについて、すなわち『摂大乗論本』に「法界の中に十の不染污無明がある」とあるのは、もっぱら十地における修道所断の立場から述べたものであり、異生性が見道において断たれるものだとは説かれていない。なぜそう分かるのか。『対法論』第十四巻に「已に現観を得て、その修道の位の中において、ただ所知障を対治する道のみを修する」とあるからである。したがって、見道所断を十無明の数に含めないのは、不染污と説くからである。もし異生性であれば、すなわち染污である。このことから、異生性は不染污ではないと知られるのである。世親はまた次のように述べている。十無明を対治するために十地の区別を立てるのであり、十障を離れて別に十無明を説くのではない。したがって、十無明はすなわち十障ではない。彼には自ら二つの解釈があり、重ねて十無明を解釈しているのである。しかるに無性はただ一つの解釈のみであり、別に詳しく説いてはいない。問う:十地の修道においても煩悩を伏え、その煩悩障の麁重を断ずる。例えば「二障は三処において過失がある」と言われるように、それはなぜ説かれないのか。
論:雖此位中至故此不說。
論:この位に至るとしても、その故をもってここでは説かないのである。
述曰:十地修道位中亦伏煩惱斷彼麁重,而非正意,所以者何?不斷隨眠故此不說。《攝論本》及世親等說,十地菩薩留煩惱障助願受生,故非正意,意趣於智斷所知障,故斷隨眠,不斷煩惱之隨眠也。問:若爾,何故初地但說異生性障,不說更斷修道障也?
解説:十地の修行段階においても煩悩の粗重を断じることはあるが、それが本来の目的ではない。なぜなら、煩悩の随眠を完全に断つわけではないからである。そのため、ここでは特に言及しないのである。『摂大乗論』の本論や世親菩薩などの論書によれば、十地の菩薩は煩悩障を残したまま、誓願によって衆生のいる世界に生まれ変わろうとする。したがって、修行の主眼は智慧によって所知障を断つことにあり、煩悩の随眠を断つことは目的ではないのである。問う:もしそうならば、なぜ初地においては異生性障だけを取り上げて、修道の障をさらに断つことを説かないのか。
論:理實初地至准此應知。
論:真実の道理において、初地からこの準則に基づいて理解すべきである。
述曰:論主答:雖實初地出見道已,修道位中亦斷俱生所知一分,今十障中從初說,故不說修障。初地既從初說,後九地中所說九障准此應知,皆從初說。何以得知初地等入地心出見道等,已更斷餘惑?
述べる:論主が答える。確かに初地で見道を出た後、修道の位においても俱生の所知障の一部を断じる。しかし今、十障の中では初めから説くので、修道の障りを説かないのである。初地が既に初めから説かれるならば、後の九地において説かれる九障もこれに準じて知るべきであり、皆初めから説かれるのである。どうして初地などが入地の心で見道などを出て、既にさらに余りの惑いを断じたと知るのか。
論:住滿地中至道應無別。
論:地の位に満ちれば、道に至ることに違いはないはずである。
述曰:今以理答。住、滿地中時既淹久,謂二僧祇,理更應斷,若不更斷爾者,地三時道既無三品,應無別故。
述べよう。今、理をもって答える。住地・満地の中にあって、その時すでに長く久しい。いわゆる二阿僧祇劫の間である。理の上では、さらに断ずべきである。もしさらに断ぜずしてそのままであれば、地の三時の道にすでに三品がないことになり、別があるべき理由もないことになる。
論:故說菩薩至方頓斷故。
論:それゆえ、菩薩は至るべき境地に達したならば、直ちに止まることなく進み続けると説かれている。
述曰:引《對法》十四文為證。若住、滿地心更不斷惑,如何論說十地修道,即初地中唯斷見惑,更不斷修惑?地有九故。又《攝論》第十說:「煩惱伏不滅,如毒、呪所害」,留惑至惑盡,證佛一切智。世親云:以留煩惱隨眠故,不如二乘速趣圓寂。故留煩惱助願受生等,謂諸菩薩由大悲力,意趣一切智故,意趣所知障對治道,不取煩惱對治道,擬於生死助悲願受生故,名留煩惱也。不爾,如來大悲最極,應留煩惱隨類化生。由此故知,意不趣斷故名為留,將成佛時方頓斷盡。此等《對法》十四文也。
述べます。『対法論』を引き、十四の文を証拠とします。もし住地の心や満地の心で、すでに煩悩を断じ尽くしているのなら、どうして論典に「十地の修道」と説かれ、初地においてはただ見惑のみを断じ、修惑を断じないと言えるのでしょうか。地が九つあるからです。また『摂大乗論』第十巻にはこう説かれています。「煩悩は伏せられても滅せられることはない。毒が呪いによって害されるようなものである」。煩悩を留め置き、煩悩が尽きるのを待って、仏の一切智を証するのです。世親菩薩はこう述べています。「煩悩の随眠を留め置くがゆえに、二乗のように速やかに円寂へ向かうことはない」。それゆえ煩悩を留め、願いを助けて受生などを行うのです。つまり、諸々の菩薩は大悲の力によって、一切智を志し、所知障を対治する道を志し、煩悩を対治する道を取らないのです。生死のうちにあって、悲願を助けて受生することを考えているから、これを「煩悩を留める」と呼ぶのです。もしそうでなければ、如来の大悲は最も極まったものだから、煩悩を留めて、衆生に随って変化して生まれるべきでしょう。このことによって知られるのです。心が断ずることを志さないから「留める」と名づけられ、仏になろうとするときに初めて、すべてを頓に断じ尽くすのだと。これらが『対法論』の十四の文なのです。
論:二邪行障至誤犯三業。
解釈:二つの邪行の障りについて、三業を誤って犯すことに至るまでを説く。
述曰:《十地》云:「邪行於眾生身等障」,世親《攝論》云:於諸有情身等邪行障,義意大同。「所知障」者,簡煩惱障;「俱生」之言,簡分別起;「一分」之說,簡餘修斷諸所知障。下准此解。「誤犯三業」名愚者,愚品故,解如前。問:前二種生死中,言所知障不能發業,何故此中言俱生一分所發三業是業趣愚?《佛地論》第七亦言:若所發業所得果皆所知障體?答:若發業招生死,所知障即不能,非縛法故,前二生死由此說不發。若障智三業不招惡果,此亦能發。此文所明但是等流、增上業果。問:法執既通不善,何故非縛?答:不由不善性即是縛,如心王等性即非縛。法執但由煩惱俱故,令成不善,非性是縛。既爾,何故不感異熟?今實義者,雖不善心俱仍名無記,菩薩、二乘所望各別,即通有覆、無覆無記故,不能招異熟果等,故無前難。
述曰:『十地経』には「衆生の身などに対する邪行の障り」とあり、世親の『摂大乗論』には「諸の有情の身などに対する邪行の障り」とあって、その意味はほぼ同じである。「所知障」とは、煩悩障と区別するための言葉である。「倶生」という言葉は、分別によって生じるものを区別するためである。「一分」という説は、他の修行によって断じられる諸々の所知障を区別するためである。以下もこれに準じて解釈する。「誤って三業を犯す」ことを「愚」と名づけるのは、愚かさの類いであるからであり、解釈は前述のとおりである。
問う:先ほどの二種の生死においては、所知障は業を発することができないと言ったのに、どうしてここでは倶生の一分によって発せられる三業が業趣の愚かさであると言うのか? 『仏地論』第七巻にも「もし発する所の業と得る所の果が、すべて所知障の体である」と言っているではないか?
答える:もし業を発して生死を招くのであれば、所知障はそれができない。なぜなら、それは縛りつける法ではないからである。前の二種の生死がこれを発しないと言うのは、この理由による。もし智慧を妨げる三業が悪い果報を招かないのであれば、これもまた発することができる。この文で明らかにしているのは、ただ等流と増上の業果についてである。
問う:法執が不善に通じるのであれば、なぜ縛りつけるものではないのか?
答える:不善の性質であるからといって、すぐに縛りつけるものとなるわけではない。例えば心王などの性質は、すなわち縛りつけるものではない。法執はただ煩悩と共にあることによって不善とならしめられるのであって、その性質自体が縛りつけるものなのではない。
そうであるならば、なぜ異熟の果報を感じないのか? 今の実義としては、不善の心と共にあってもなお無記と名づけられる。菩薩と二乗とで見るところがそれぞれ異なり、有覆無記と無覆無記の両方に通じるのであるから、異熟の果報などを招くことはできない。ゆえに先ほどの難問は生じないのである。
論:彼障二地至誤犯三業。
論:その障害は二地(第二の境地)に至るまで続き、誤って身・口・意の三つの業を犯すことがある。
述曰:此業能障第二地淨尸羅故,名趣毀責為名,如人惡趣。不可言能取趣名趣,不取惡果故。麁重如前,故不別解。餘論中言身等者,即是三業,此言邪行已攝盡故。
ここで説くには、この業は第二地の清らかな戒律(尸羅)を妨げるものであるから、「趣毀責」(趣として非難・呵責する)と名づける。あたかも人が悪趣に趣くようなものである。「趣」という名は、実際に悪趣を取ることを意味するのではなく、悪果を取らないからである。麁重(あらきおもき)については先に述べた通りであり、ここでは特に別に解釈しない。他の論書で「身等」と言うのは、すなわち三業(身・口・意の業)を指すが、ここでは「邪行」という言葉でそのすべてを含み尽くしているのである。
論:或唯起業不了業愚。
論:あるいは、ただ業を起こすだけで、業に対する無知を理解しない者もいる。
述曰:第二解,初是起業之愚,後是不了業之愚,非所發業。此亦非必能發業也,境用別故。
解説:第二の解釈では、最初の愚かさは業を起こす際の愚かさであり、後の愚かさは業を理解しない愚かさであって、業を発するものではない。これも必ずしも業を発するとは限らない。なぜなら、対象(境)のはたらきが異なるからである。
論:三闇鈍障至修法忘失。
三つの暗く鈍い障りが、修行の方法を忘れさせてしまう。
述曰:《十地》云:「闇相於聞、思、修等諸法忘障」,世親《攝論》云:「二遲鈍性於聞、思、修而有忘失」。
解説:『十地経』には「闇相は、聞・思・修などの諸法に対して忘れ失う障りである」と説かれています。また、世親の『摂大乗論釈』には「二種の遅鈍性は、聞・思・修において忘失をもたらす」とあります。
論:彼障三地至便能永斷。
論:その障礙は第三地に至るまで続き、そこに至って初めて永く断ち切ることができる。
述曰:勝定者,謂等持、等至,隨諸禪、無色無漏定。總持者,四十五及《佛地》等說:即以念、惠為體。彼四十五說,有四陀羅尼:法、義、呪、能得菩薩忍。今即初二攝,即是聞持陀羅尼,及定等所發三惠,定親發修惠,總持親發聞、思,故合為文及彼所發殊勝三惠。三惠以惠為體,言修惠,因修而得此惠,故言修惠,從因為名,非修即惠,修是定故。
述べます。「勝定」とは、等持・等至のことです。様々な禅定や無色界の無漏の定に従います。「総持」とは、『四十五経』や『仏地経論』などで説かれているもので、念と慧をその体とします。その『四十五経』には、四種の陀羅尼があると説かれています。法陀羅尼・義陀羅尼・呪陀羅尼・能得菩薩忍陀羅尼です。ここでは、その最初の二つ、つまり法陀羅尼と義陀羅尼によって摂められるものです。これは聞持陀羅尼であり、また定などによって発せられる三慧です。定は修慧を親しく発し、総持は聞慧と思慧を親しく発するので、両者を合わせて、文と、それによって発せられる殊勝な三慧とするのです。三慧は慧をその体とします。「修慧」というのは、修することによってこの慧を得るから「修慧」と言うのであって、因によって名としています。修すること自体が慧なのではありません。修することは定だからです。
論:由斯三地至及修惠者。
この三つの地に至り、智慧を修める者について論じる。
述曰:欲貪愚障勝定及修惠者,即由於五欲起貪多住散亂,障於定及修惠,修惠與定相近故。唯說障,非不亦障思惠等。問:欲貪者煩惱名,何故所知障中名欲貪?
述:欲貪という煩悩は、勝れた定(瞑想)と修慧(修行によって得られる智慧)を妨げます。これは、五欲に対して貪りの心が生じると、心が散乱しやすくなり、定と修慧を妨げるからです。修慧は定と密接に関係しているため、ここでは特に「障り」と説かれています。ただし、思慧などの他の智慧も妨げないというわけではありません。
問:欲貪は煩悩の名前であるのに、なぜ所知障の中で「欲貪」と呼ばれるのですか?
論:彼昔多與至依彼轉故。
論:その過去において多く、至るものを依りどころとして生じるからである。
述曰:彼所知障,此第三愚多與煩惱中欲貪俱故,名欲貪愚,非所知障體名為欲貪,彼障定及修惠所知障永斷。說「欲貪隨伏」,所知為本斷故,煩惱是末便伏,此煩惱無始來依所知障轉故。
述べます。その所知障について、ここでいう第三の愚は、多くは煩悩の中の欲貪と共に起こるため、「欲貪愚」と呼ばれるのです。しかし、これは所知障の本質そのものを「欲貪」と名付けたのではありません。その障りは、禅定(定)と修行による智慧(修慧)を妨げるものであり、所知障が永遠に断たれることで、その妨げも除かれます。「欲貪が随って伏せられる」と言われるのは、所知障が根本として断たれるからであり、煩悩は枝末として自然に伏せられるのです。この煩悩は、無始以来、所知障に依って起こってきたものだからです。
論:二圓滿聞持至聞思惠者。
論:二つの円満な聞持から聞思慧に至るまでについて。
述曰:以聞思與聞持相近故偏說之,非不障修惠,然從勝障故別分二,非一障體義說二障。此以上三地愚,七十八等並不同。
述べます。聞所成慧・思所成慧は、聞持(教えを記憶し保持すること)と近い関係にあるため、特にそれを挙げて説かれたのです。決して修所成慧(修行によって得られる智慧)を妨げないというわけではありません。しかし、妨げの中でも特に勝れたものを取り上げて、別々に二分したのです。一つの障礙の体を、意味の上で二分して説いたものではありません。以上の三地の愚かさについては、『解深密経』第七十八巻などでは、同じではない(異なる捉え方をしている)のです。
論:四微細煩惱現行障至說名微細。
四つの微細な煩悩が現れ出ることの障りについて、それが「微細」と名づけられる所以を説く。
述曰:《十地》「云解法慢障」,譯家名別,即我見、慢等是。世親《攝論》云「微細煩惱現行」,俱生身見等攝,此最下品故,不作意緣故;遠隨現行故,應知是微細,義意大同。此中言第六識俱身見,簡第七識俱。等者,等取我所邊見,及我慢、我愛與見俱者,皆是此品,及等取彼定愛、法愛,至下當知。如何此名「微細」?解云:最下品故,謂第六識亦有分別身見等法,彼為麁猛,名上品;第六識中獨頭貪等,名中品,通不善性故。此望於彼二,最下品故;行相最細,唯無記故。又,不作意緣,故名下品,即是任運生故名下品,非如見斷強思等方生故。又,遠隨現行故,即無始來隨逐於身,不捨於身,名下品。非如分別起者,逢善友等便捨於彼故,此名下品。由此三義故說名微細,餘論准此釋。
述曰:『十地経』では「解法慢障」と言い、訳者の名前が異なるだけで、これは我見・慢などである。世親の『摂大乗論』では「微細煩悩現行」と言い、俱生の身見などに含まれる。これは最下品であるからであり、作意によって縁じるものではないからである。遠くに随って現行するからである。知るべきである、これが微細であると。意味は大体同じである。
ここで言う「第六識俱の身見」とは、第七識と俱にあるものを簡別する。 「等」とは、我所有の辺見、および我慢・我愛が見と俱にあるものなどを等しく取る。これらは全てこの品である。また、彼の定愛・法愛を等しく取る。下に至って知るべきである。
どうしてこれを「微細」と名付けるのか。解釈して言う。最下品であるからである。つまり、第六識にもまた分別の身見などの法がある。それは麁猛であり、上品と名付ける。第六識の中の独頭の貪などは中品と名付け、不善の性を通ずるからである。これはそれを二つに望んで、最下品である。行相が最も細かく、唯無記であるからである。
また、作意によって縁じないから、下品と名付ける。すなわち任運に生ずるから下品と名付けるのであり、見断の如く、強く思ってから生ずるのとは異なる。
また、遠くに随って現行するからである。すなわち無始以来、身に随って追従し、身を捨てないから、下品と名付ける。分別によって起こるもののように、善友などに逢えば、直ちにそれを捨てるというのとは異なる。これによって下品と名付ける。
これらの三つの義によって、微細と説くのである。他の論もこれに准じて解釈する。
論:彼障四地至便能永斷。
論:彼の四地に至る障りは、その時には永く断ち切られる。
述曰:此等障菩提分法,故四地斷。問:如何身見等障菩提分?答:由有身見等俱愛迷執身故,不得觀身為不淨,觀法為無我等故,障菩提分即通障也,《中邊》第一有菩提分障。問:既是所知障,何故立煩惱名?
述:これらの障りは、菩提分の法を妨げるものであるため、第四地で断ずるのである。問う:どのようにして身見などが菩提分を妨げるのか。答う:身見などの煩悩とともに、愛着や迷いによって身体を執着するからである。そのために、身体を不浄と観ずることができず、諸法を無我と観ることもできない。よって、菩提分を妨げるものであり、通じて障りとなるのである。「中辺分別論」の第一巻に、菩提分の障りが説かれている。問う:これはすでに所知障であるのに、なぜ煩悩という名を立てるのか。
論:彼昔多與至亦永不行。
昔、その者は多く与えていたが、今はもう決して与えることを行わない。
述曰:亦顯以上所知障立煩惱名,雖有別頭生者,皆多分與煩惱同一體而俱起故,立煩惱之名。由所知障斷故,煩惱之末亦永不行,從煩惱名故說為斷。問:何故初、二、三地不斷我見等耶?答:非障法故。
述:また、以上の通り、所知障を指して「煩悩」という名称を立てることが示される。たとえ別々に生じるものがあっても、その多くは煩悩と同一の体であり、共に起こるものであるから、「煩悩」という名を立てるのである。所知障が断たれることによって、煩悩の末端も永遠に起こらなくなる。煩悩という名に従って「断たれた」と説かれるのである。
問:なぜ初地・二地・三地においては、我見などを断じないのか。
答:それは障害となる法ではないからである。
論:初二三地至二身見等。
論:初地・二地・三地において、二つの身見(我見と我所見)などに至る。
述曰:初地行施,二地行戒,三地行修,相同世間,世間有情多作此三福業事故,未能修證菩提分法。今四地修得菩提分法,方名出世,故能永害二身見等。二身見者,謂初見道已離第六識中分別身見,今此後離第六識中俱生身見,盡處總說名二身見。非今離二,如第四定言滅苦樂。又,正斷所知障身見等,并永不起煩惱障中身見等,故說二身見名永害,非煩惱身見亦起對治。
論:寧知此與第六識俱?
論:どうしてこの(第七識)が第六識と同時に働くと知るのでしょうか?
述曰:問也。
述べていう。これは問いである。
論:第七識俱至為依持故。
論:第七識が共に至って依り所となるからである。
述曰:第七識俱身見等法,與無漏道性相違故,七地以前猶有有漏道故,未全伏滅,八地以去無漏相續方永不行。「七地以來得現起」者,與貪、嗔等餘煩惱等為依持故。若此是彼第七識俱,七地以前已許滅者,即貪、嗔等已前應滅,無依持故,如八、九、十地。
述ぶるに、第七識(マナ識)に伴う身見などの法は、無漏の道とその性質が相違するため、七地以前にはまだ有漏の道が存在するゆえ、完全に伏して滅することはない。八地以降は無漏が相続して、初めて永く生起しない。「七地以来、現起を得る」とは、貪・瞋などの残余の煩悩等の依持(よりどころ)となるからである。もしこれが第七識に伴うものであり、七地以前にすでに滅すると認めるならば、貪・瞋などもそれ以前に滅すべきであり、依持がないからである。例えば八地・九地・十地のように。
論:此麁彼細至第六相應。
論:この粗いものが、あの細かいものへと至る第六の対応に及ぶ。
述曰:又此第六識俱者麁,彼第七識俱者細故。「伏有前後」,麁者前伏,細者後伏,故此但是第六相應。《解深密》、七十八等說:「世尊!此諸地煩惱隨眠有幾?善男子!有三:一者,害伴,謂前五地,諸不俱生現行煩惱,是俱生煩惱現行助伴,彼於爾時永不復有,說名害伴隨眠;二者,羸劣,謂第六、第七地微細現行,若修所伏不現行故;三者,微細,謂於第八地已上,從此已去一切煩惱不復現行,唯有所依所知障在」。故知所伏第六,非七。問:因論生論,如何害伴?如斷障章已廣解訖。
述曰:また、この第六識と俱にあるものは粗く、第七識と俱にあるものは細かいからである。「伏するに前後あり」とは、粗いものは先に伏し、細かいものは後に伏する。それゆえ、これはただ第六識と相応するものだけである。
『解深密経』や『七十八経』などにはこう説かれている。「世尊よ、これらの地の煩悩の随眠には幾つあるのですか。善男子よ、三つある。一つは害伴(害する仲間)であり、前の五地における、俱生ではない現行の煩悩で、これは俱生の煩悩が現行する際の助けとなる仲間である。その時が来れば、もはや再び現れることはない。これを害伴随眠と名づける。二つは羸劣(衰弱したもの)であり、第六地・第七地における微細な現行の煩悩で、修行によって伏せられれば、もはや現行しないからである。三つは微細であり、第八地以上において、この位から後は、一切の煩悩はもはや現行せず、ただ所依たる所知障が残るのみである」。これによって、伏せられるのは第六識であって、第七識ではないことが知られる。
問う:論より論を生じて、いかにして害伴というのか。断障章にすでに広く解釈されているとおりである。
論:身見等言至特違彼故。
論:私たちが「自分」や「私のもの」という考えを持つことは、特にその真理に反するものです。
述曰:「身見等」言,非唯貪、癡、慢及餘俱行隨煩惱,亦攝無始定、法二愛。定、法二愛特違菩提分法者,以菩提分法得無漏定及勝無漏教法,及別別法故,前地照了大乘法教仍生愛著,此地教法及念、惠等方名為得,今既於定,於教法及念、惠等起愛,於彼不得自在故,障菩提分故,名特違也。前地遲鈍障障定,忘所聞思等法;此定但障菩提分,故差別也。
述べる。「身見等」という言葉は、貪・瞋・癡・慢や、それに伴って起こる随煩悩だけを指すのではなく、無始以来の定への愛着と法への愛着という二つの愛着も含むのである。
定と法への二つの愛着が、特に菩提分法に反するのはなぜか。菩提分法によって、無漏の定と勝れた無漏の教法、さらには個々の法が得られるからである。前の地では、大乗の教法を照らし観たとしても、なお愛着が生じていた。この地に至って、教法や念・慧などが初めて「得」と呼ばれる。今、定・教法・念・慧などに愛着を起こせば、それらを自在にすることができない。それゆえ菩提分を妨げるので、特に反すると言うのである。
前の地での鈍さの障りは定を妨げ、聞いたこと・考えたことなどの法を忘れるものであったが、この地の障りはただ菩提分のみを妨げるものである。ここに違いがある。
論:由斯四地至亦永不行。
これにより、四つの地から至る場合も、また永く行じないこととなる。
述曰:准前應釋,餘文易了,無勞重解。
解釈の前に、すでに述べたように、この経典の内容を説明すべきである。残りの文は理解しやすいので、改めて詳しく説明する必要はない。
論:五於下乘般至樂涅槃者。
論:下乗に至りて涅槃の楽に般る者は、これを五とす。
述曰:《十地》云「身得我慢障」,世親《攝論》與此名同。前地依覺分觀,觀身受等及無漏道等,由所知障令善心等故有欣厭,此地真如名無差別,故緣彼道名無差別。生死涅槃既無差別,何得有厭,復有欣耶?餘文可解。
(解説)『十地経』には「身得我慢障」とある。世親の『摂大乗論』も同じ名前を用いている。前の地(第七地)では覚分(七覚支)の観察に基づき、身体や感受など、また無漏の道などを観察するが、所知障のせいで善心などに欣求と厭離がある。この地(第八地)で得られる真如は「無差別」と名づけられる。したがって、この真如に基づく修行の道も「無差別」と呼ばれる。生死と涅槃に差別がないのなら、どうして厭うことがあり、また欣求することがあるだろうか。残りの文は理解しやすい。
論:六麁相現行障至便能永斷。
論:六つの粗い相が現れ出る障りは、その境地に至れば永く断ち切られる。
述曰:《十地》云「微煩惱習障」,世親《攝論》云「麁相現行」,十地望前五地等說為細,世親及此論望後七地說為麁相,亦不相違。由前地觀四諦故有二染二淨,故障六地無染淨道;此地真如名無染淨,故緣彼道名無染淨,其緣起相望四諦為細,望後障故說此為麁。
述べていう。「十地経」では「微細な煩悩の習気の障り」といい、世親の「摂大乗論釈」では「粗い相の顕現」という。十地経では、それより前の第五地などを基準にして「細かい」と説き、世親やこの論(成唯識論)では、後の第七地などを基準にして「粗い相」と説くが、これも矛盾しない。前の地(第五地)では四諦を観察するゆえに、染と浄の二つがあるので、第六地を障礙するのは、染浄のない道のないことである。この地(第六地)の真如を「染浄なし」と名づけるがゆえに、それに縁する道も「染浄なし」と名づける。その縁起の相は、四諦に比べれば細かいが、後の地を障礙することを基準にして説くので、これを「粗い」という。
論:由斯六地至執有淨者。
ここから第六地に至っては、「清浄な存在がある」と執着する者について論じる。
述曰:緣苦、集行流轉相為障,執有染是,相多現行,即障緣起還滅觀,緣滅道淨相為障。
解説いたします。苦と集を縁として、流転の様相が障りとなります。「汚れがある」と執着するこの相が多く現れるからです。すなわち、縁起の還滅(めぐりを断ち切る)の観察を妨げるのです。また、滅と道を縁として、清らかな相が障りとなります。
論:取淨相故至住無相觀。
論:清らかな形(淨相)を捉えることによって、無相の観想に至り住するのである。
述曰:由取無漏淨相故相觀多行,未能多時住無相觀,即後得智作有相淨觀也,雖作無相少時能故。《解深密》云「現前觀察行流轉愚」,言現前者,觀現前有漏法染也。
述べます。無漏の清らかな相を取るからこそ、相観が多く行われるのであって、無相の観に長くとどまることができません。すなわち後得智が有相の清らかな観を行うのです。無相の観も行いますが、それは短い時間しかできないからです。『解深密経』に「現前に流転の愚かさを観察する行を見る」とありますが、「現前」と言うのは、目の前にある有漏の法の汚れを観ることです。
論:七細相現行障至便能永斷。
論:七つの微細な相が現れ働く障りは、修行が至るところで永遠に断ち切られる。
述曰:《十地》云「細相習障」,世親同此,由前六地作緣起觀,流轉還滅尚有生滅微細相故,故名為障。此地真如名種種無別真如,故此道名「妙無相道」,此細相為障。
述べるならば、『十地経』には「細相習障」とあり、世親もこれと同じである。前の六地までで縁起の観法を修め、流転と還滅のうちに、なお生滅の微細な相があるために、これを障と名づける。この地の真如を「種々無別真如」と名づける。それゆえ、この地の修行道を「妙無相道」といい、この微細な相が障となるのである。
論:由斯七地至細滅相故。
論:これにより、七地において微細な滅相に至るからである。
述曰:「細相現行」,執有生者,以行流轉以生為首,實皆有滅,於有漏有生且舉一生,非不執滅,即執流轉相也。「純作意求無相愚」,即執有滅,即執還滅相也。
解説します。「細相現行」とは、執着して「生まれるものがある」と見なすことです。輪廻の流れにおいては「生」が第一とされますが、実際にはすべてが滅びるものばかりです。煩悩に汚れた世界における「生」の中でも、ひとつの「生」を挙げて説明しているに過ぎず、「滅」を執着しないということではありません。つまり、輪廻の流転の相を捉えているのです。「純粋に無相を求めるという作意」とは、「滅するものがある」と執着することであり、すなわち還滅の相を捉えているのです。
論:純於無相至起有勝行。
論:無相の境地に純粋に留まることから、より優れた行いが生じるのである。
述曰:前地尚取還滅細滅相故,「純於無相作意勤求」,未能空中起有勝行,今此地中既除此障,能於無相不專勤求,乃於空中起有勝行。所言空者,無相空理於空中作有行,即真觀中起於有觀,冥真、俗二境合本、後二智,少用功力即能得故,不同五地。《十地》第九,經云:七地以十種方便智發起殊勝行入。彼論解云:無障礙智現在前時,於無作行中生樂心等。無作行者,即空行也,今言「非安立行」是。
述べる:第七地以前は、まだ還滅の細かい滅相を取るために、「ひたすら無相に心を用いて勤め求める」のであって、まだ空の中において殊勝な行を起こすことはできなかった。今この第七地においては、すでにこの障りを除いたので、無相に専ら勤め求めることなく、かえって空の中において殊勝な行を起こすことができる。
ここに言う「空」とは、無相の空理のことである。その空の中において有の行を起こすとは、すなわち真観の中において有観を起こすことであり、真・俗の二境を冥合し、本智・後得智の二智を合わせるのである。少しの功力を用いるだけで得ることができるので、第五地とは異なる。
『十地経論』の第九には、経典で「七地は十種の方便智を以って殊勝な行を発起して入る」と説かれている。その論の解釈には、「無障礙智が現在前する時、無作行の中において楽心などを生じる」とある。無作行とは、すなわち空行のことである。今ここで言う「非安立行」がこれに当たる。
論:八無相中至不任運起。
八無相の中では、任運に起こることはない。
述曰:文中有四:一、出體;二、辨相;三、即愚;四、顯有。此初也。《十地》云「於無相有行障」,世親《攝論》云「於無相作行」,義意大同。餘文易了。
述ぶ:文の中に四つ有り。一には體を出す、二には相を弁ず、三には愚に即く、四には有を顯す。これ、その初めなり。『十地經』に「無相に於いて有行の障有り」と云い、世親の『攝大乘論』に「無相に於いて行を作す」と云う。義の意味は大いに同じである。餘りの文は易しく了し易し。
論:前之五地至而有加行。
論:これまでの五地には、さらに修行の加行がある。
述曰:二、辨相也。前之五地觀心猶劣,無相觀少。第六地中,猶觀染淨平等如,故多住無相。第七地中斷微細生滅相故,無相恒續而有加行,與八地等別。
説明します。二つ目の項目は、その相を明らかにすることです。前述の五つの地(段階)では、心を観ずる力がまだ劣っており、無相の観察が少ないのです。第六地では、染めと清めが平等であるという如(ありのまま)を観ずるゆえに、無相に多く住します。第七地では、微細な生滅の相を断ち切るゆえに、無相が絶え間なく続きますが、それでもなお加行(努力)を伴います。この点が第八地とは異なります。
論:由無相中至得二自在。
論:無相の境地から、二種の自在を得るに至る。
述曰:未能任運入無相觀者,不自在故。「未能任運現相及土」,明此地已前亦現相土,未名自在,未能任運現故。言「現相」者,即是隨欲現何相者即能現之,如現金銀等相珠寶等相皆能現故,此即寬遍,便於相中別建立土自在。土自在者,隨欲現於大、小土等,現金、銀等色,即能現故。土即狹也,土是假別能依,相是實別所依,相中別分立故。
述:まだ自在に無相の観に入ることができない者は、自在ではないからである。「まだ自在に相や土を現ずることができない」というのは、この地より以前にも相や土を現ずることはあったが、自在とは言えず、まだ自在に現ずることができないからである。「相を現ずる」とは、すなわち思いのままに、どのような相を現そうとすればそれを現ずることができるということである。例えば金銀などの相や宝珠などの相を現ずることができる。これは広く普遍的なものであり、その相の中に別に土の自在を立てるのである。土の自在とは、思いのままに大きな土や小さな土などを現じ、金銀などの色を現ずることができるということである。土は狭いものである。土は仮の別の所依であり、相は実の別の所依である。相の中に別に立て分けるからである。
論:由斯八地至相一分故。
論:このゆえに、第八地の「至相」の一分があるからである。
述曰:三、即愚也。其文易了,故不解之。
解説:三つ目は、まさに愚かであることです。その文章は理解しやすいのに、解釈しないのです。
論:八地以上至不違彼故。
論:八地以上の菩薩は、それに背かないことから、その境地に至ります。
述曰:四、顯有。此地以去一切煩惱雖不現行,微所知障猶可現起,此是第七識,以生空無分別智及果,即是滅盡定等,生空後得智,皆可現行,法執末那不違彼故。問:若等流後得智法執猶起,八地以上無漏相續,無有一時非此等流,如何可說二觀等流別也?答:由無分別智生法二觀近遠勢用所引,故得別也,如前已解。
述ぶ:第四に、有を示す。この地より先は、一切の煩惱は現行しないとはいえ、微細な所知障はなお現起し得る。これは第七識である。生空無分別智及びその果、すなわち滅盡定などや、生空後得智は、いずれも現行し得る。法執の末那はそれに違わないからである。
問う:もし等流の後得智において法執がなお起きるならば、八地以上は無漏が相続し、一時たりともこの等流でない時はない。どうして二觀の等流に違いがあると言えるのか。
答う:無分別智による生・法二觀の近い勢い・遠い勢いの功用によって引かれるから、違いがあるのである。前にすでに解した通りである。
論:九利他中不欲行障至便能永斷。
論:九つの利他行の中において、自ら行うことを望まないという障りが、最高の境地に至ることで永遠に断ち切られる。
述曰:此文有四:一、出體;二、所障;三、即愚;四、總結。即初二也。《十地》云「不能善利益眾生障」,世親云「於饒益有情不作行」,義意亦同。前八地中得無相樂,耽著寂滅不肯進修,諸佛七勸方能進趣,故唯自利。九地之障,四無礙解利他法故。
述びに曰く、この文には四つの意味がある。第一に出体、第二に所障、第三に即愚、第四に総結である。今ここで示されている二つは、すなわち初めの二つである。『十地論』には「衆生を善く利益することができない障り」と説かれ、世親は「有情を益する行いをしないこと」と述べており、その意味は同じである。前の八地においては無相の楽を得るが、寂滅に耽着して進んで修行しようとせず、諸仏が七度勧めて初めて進み趣くことができる。それゆえ、ただ自利のみである。第九地の障りとは、四無礙解が利他を行うための法であることを指す。
論:由斯九地至一切音聲故。
論:この九地によりて、一切の音聲に至ることを得るが故に。
述曰:三、即愚也,於中有二:初總;後別。別中初標;後釋。《解深密》、七十八云:一者,於無量所說法,即是此中義無礙解;無量法句文字,即是此中法無礙解。彼言法者,是名身也;句者,句身;文字是字身。此論正之言名句字,彼文少隱,後後惠辯等可解。即陀羅尼言貫通三無礙解,隨於一能詮名句文中,現一切能詮名等,是「法無礙解」。於一方音聲中,現一切方音聲,是「詞無礙解」。或極少於一方一名等中,現一切方諸法上名;於一方一念聲中,現諸方一切音聲,是二無礙解境差別故。前是假名等攝故,後者是實體即聲故。
論:二辨才自在愚至巧為說故。
論:二種の辨才の自在の愚を知り、巧みに説くが故に。
述曰:「辯無礙解」,能為巧便說甚深法,即是七辯:迅辨、應辨、捷辯、無疎謬辯、無斷盡辯、凡所演說豐義味辯、一切世間最勝妙辯,高下、清濁、小大等是。
解説します。「弁無礙解」とは、巧みな方便を用いて深遠な法を説くことができる智慧であり、それは七種の弁才を指します。
すなわち、迅速に説く「迅弁」、相手に応じて適切に説く「応弁」、機敏に説く「捷弁」、誤りや欠落がない「無疎謬弁」、尽きることなく説き続ける「無断尽弁」、説く内容に豊かな意味と味わいがある「豊義味弁」、そして世間において最も優れて殊勝な「最勝妙弁」です。
これらの弁才には、高低・清濁・大小などの様々な特徴があります。
論:愚能障此至第九障攝。
論:愚かさは、これを妨げ得る。この第九の障礙に含まれる。
述曰:四、總結也。其文易了。此四體性諸門,如《對法》第十四抄及《別抄》說。
論:十於諸法至所起事業。
論:十種類のすべての法について、起こる働きに至るまで。
述曰:文有三:一、出體;二、所障;三、即愚。此初二也。餘論名同。「大法」者,是真如,緣如之智譬於大雲,故名「大法智雲」。「及所含藏」者,即陀羅尼門、三摩地門諸功德等,大法智雲含眾德水,充滿法身故。「所含藏」,即諸功德;「所起事業」,謂智所起諸大神通。
解説:この文には三つの点がある。一つ目は体を示すこと、二つ目は障害されるもの、三つ目はそのまま無知であること。ここでは最初の二つを述べる。他の論書でも名称は同じである。「大法」とは真如のことである。真如に縁する智を大きな雲にたとえるので、「大法智雲」と名づける。「および所含蔵」とは、陀羅尼門、三摩地門などの諸々の功徳である。大法智雲は多くの功徳の水を含み、法身を満たすからである。「所含蔵」とは、すなわち諸々の功徳のこと。「所起事業」とは、智によって引き起こされる諸々の大きな神通力のことをいう。
論:入十地時至及所含藏者。
論:十地に入る時、そこに至るまでの道と、そこに含まれているすべてのものを、ここに説く。
述曰:下,即愚也。其文易了,准上配取。「微細祕密」者,所障微細亦祕密故。十地第十一、十二,〈菩薩地〉四十八等,說校量前地、後地功德多少,然十障諸論不同,略對明訖。
解説:ここでいう「下」とは、すなわち愚かさを指す。その文意は容易に理解でき、前述に照らし合わせて対応させればよい。「微細秘密」とは、障害となるものが微細であり、かつ秘密であることを意味する。十地の第十一・第十二、『菩薩地』の第四十八などにおいて、前の地と後の地の功徳の多寡を比較して説かれている。しかし、十障について諸論で説くところは異なっている。ここでは簡略に対照して明らかにしておく。
論:此地於法至入如來地。
論:この地において、法を究め、如来の境地に至る。
述曰:第十一段有四:一、標;二、顯;三、即;四、證。此初二也。然第十地猶有障在,不名為佛。《解深密》等說,此第十地雖於諸法得自在,即於業自在義、陀羅尼門、三摩地門自在義,總名「於法得自在」。總持及定并業皆名為法,由總持等,名法持故。
述ぶ:第十一段には四つの内容がある。一つ目は「標(標示)」、二つ目は「顯(顕示)」、三つ目は「即(即すること)」、四つ目は「證(証得)」である。これはその初めの二つである。第十地にはなお障りが残っているため、まだ仏とは呼ばない。『解深密経』などには、この第十地は諸法において自在を得るが、すなわち業における自在の義、陀羅尼門、三摩地門における自在の義を、総じて「法において自在を得る」と名づけると説かれている。総持(陀羅尼)と定と業は、いずれも法と名づけられる。総持などによって、法を保つと名づけるからである。
論:由斯佛地至煩惱障種。
よって、この仏の境地に至ることで、煩悩の障りの種子は断たれる。
述曰:三、即愚。其文易解,無勞重釋。此但言「種」,亦有麁重。
述ぶるに、三つ目は「愚」である。その文は解し易く、改めて解釈するまでもない。ここではただ「種」と言うが、そこには粗重も含まれる。
論:故集論說至大菩提故。
論:故に集論に説く「大菩提に至るまでなり」と。
述曰:四、引證。此義易了。《集論》第十四末,說「頓斷」等言,廣如《解深密》、七十八等說。〈菩薩地〉、《十地》等,一一對諸地,明功德智惠不同,今不能繁述。《十地》第十一說:「第九地菩薩用法無礙智知諸法自相,以義無礙智知諸法差別相,以辭無礙智知不壞說諸法,以樂說無礙智知諸法次第不斷說也」。又解,第一、知法無體性;第二、知法生滅相;第三、知法假名而不斷假名法說;第四、知隨假名不壞無邊法說。又解,一、知法差別;二、知義差別;三、隨言音而為說法;第四、隨所樂解而為說之。彼有多復次說,不能繁引。應勘《瑜伽》六十六卷,修義不同,於此中會。
成唯識論述記卷第十(本)
『成唯識論述記』巻第十(本)
成唯識論述記卷第十(末)
『成唯識論述記』巻第十(末)
沙門基撰
沙門基撰
解十障中,上來第一已依《解深密》等釋十一地障,會十障訖,自下第二以十一障即彼二障,文勢有三:一、總明現種伏斷位次;二、明斷頓漸;三、釋四道差別。
まず第一に、『解深密経』などに基づいて十一の地の障りを解釈し、十の障りを会通しました。次に第二として、十一の障りをそのまま二つの障り(煩悩障と所知障)に当てはめます。その文の流れには三つの点があります。第一に、現行と種子の伏し断ちの位を総合的に明らかにすること、第二に、断ずる際の頓断と漸断を明らかにすること、第三に、四つの道の違いを解釈することです。
論:此十一障,二障所攝。
結論として、この十一の障りは、煩悩障と所知障の二つの障りに含まれる。
述曰:斷位次中,初總即二障;後別解釋。此即初也。體性寬狹更無別異,十地所斷雖但所知,俱品不行即通二障。
述ぶ:断ずる位次の中、初めに総じて二障を説き、後に別々に解釈する。これが即ち初めの部分である。体性の広狭については、さらに別の差異はない。十地において断ずる所は、ただ所知障のみであるが、俱品(ともに起こる煩悩)が現れない時は、二障に通じるのである。
論:煩惱障中至地前已伏。
煩悩障については、初地に達する前の段階で、すでに抑えられている。
述曰:下文有二:初明二障伏斷位次;後釋妨難。初中先明煩惱障,以體性麁,三乘共斷,易可見故,分別種子不論二乘。說菩薩者,於極喜地見道初斷,以見道位體性稍寬,乃至相見道後得智起位久時猶名見道,今簡於相唯真見道。真見道中唯取無間惑滅智生,故說初斷,非相見道亦能斷故。然此分別煩惱現行,《瑜伽》五十八等說,世間道唯伏俱生若愛、若恚、隣近憍慢,不言能伏分別煩惱,此據異生、二乘性等說,若直往菩薩彼障,現起地前已伏,故前卷云:唯能伏除分別二取,此在加行位,若資糧位此麁現行亦能伏滅,二細現行即未能伏,至加行位分別細者亦皆能伏。由此菩薩正願、勝解世間道力,邪見、疑等伏而不行,非以六行有所欣厭,菩薩不為,非此菩薩無此能也。《緣起經》說:內法異生若放逸者,無不共無明故,邪見等未必皆起,即資糧位已不現行,唯分別貪等二位不起,故論總言地前已伏。問:《華嚴經》解十住第四心云:「真佛子!是中永離三界煩惱」,如前卷解。
論:修所斷種至畢竟不行。
論:修行所斷除的煩惱種子,到達究竟不再生起。
述曰:修所斷種後皆頓斷,此約種子,不言麁重。麁重者,十地中亦斷故。伏俱生現起,地前亦能,理無疑故。《瓔珞經》說:三賢菩薩唯伏不斷,正與此同,前卷中云俱生現起未全伏除也。言暫起者,謂十地中前四猶起我見等故,七地已前尚起貪、嗔等故。問:其在地前所未伏者相貌可知,其已伏者與此何別?答:道力猶微不能伏盡,為煩惱制,少分自行,即我貪等有失念起,故說地前已能少伏,非有別相地前伏之。入地已去能頓伏盡,如阿羅漢,有不怖者故起煩惱,怖者不然。此中所說見所斷者唯頓悟人,修所斷者通漸有學,漸無學者二種俱無,八地已去亦不故起,任運不行道力勝故。此是《對法》第十四文,如前第三卷引解。
述べる:修道によって断たれるべき煩悩の種子は、後にすべて頓断される。これは種子についてのことであり、麁重については言及していない。麁重は十地の中でも断たれるからである。俱生の煩悩の現起を伏することは地前でも可能であり、理の上で疑いがないからである。「瓔珞経」に説かれるところでは、三賢の菩薩はただ伏するだけで断じないとあり、まさにこれと同じである。前の巻で「俱生の現起はまだすべて伏し除かれていない」といったのはこの意味である。「暫く起きる」というのは、十地の中でも前の四地では我見などがまだ起きるからであり、七地以前では貪・嗔などがなお起こるからである。
問う:地前でまだ伏していないものの相貌は知ることができるが、すでに伏したものはこれと何が違うのか。
答える:道の力がまだ微かで、伏し尽くすことができない。煩悩に制せられて、わずかに自ら行じるだけであり、すなわち我貪などについて失念して起きることがある。それゆえ地前ではすでに少しばかり伏することができると言うのであって、地前で伏する特別な相があるわけではない。初地に入って以降は、頓に伏し尽くすことができ、阿羅漢のようなものである。怖れを持たない者は煩悩を起かせることがあり、怖れる者はそうではない。ここで説く見道によって断たれるべきものは、ただ頓悟の者についてのみであり、修道によって断たれるべきものは漸修の有学に通じる。漸悟の無学者は、二つの種類ともに無く、八地以降も故意に煩悩を起こすことはなく、自然に起きず、道の力が殊勝だからである。これは『対法』第十四巻の文であり、前述の第三巻において引用して解説した通りである。
論:所知障中至地前已伏。
所知障については、見道以前の修行段階で、すでに(その粗い部分を)伏せている。
述曰:如前卷解。菩薩加行唯欣於智,見道已前唯伏法執,其煩惱障隨此而伏。然由所知加行伏故說煩惱伏,非前加行故伏煩惱。十地之中,與煩惱俱所知障品多分亦爾,非此俱者地地可起。
述べるには、前巻で解いた通りである。菩薩の加行はただ智を欣い求めるのみであり、見道より以前はただ法執のみを伏える。その煩悩障はこれに随って伏えられる。しかし、所知障の加行によって伏えられるがゆえに煩悩も伏えられると説くのであって、前の加行によって煩悩を伏えるのではない。十地の中においては、煩悩と俱に起こる所知障の品類も多くはまた同じである。この俱ならざるものは、地ごとに起こることができる。
論:修所斷種至方永伏盡。
論:修道で断ずべき煩悩の種子は、その境地に至って初めて永く伏せ尽くされる。
述曰:此中斷伏時節等解,如煩惱說,由於地地能為障故,故十地中漸次能斷,乃至十地方永伏盡。由前道力折伏後地所知障現,令其不行名之為伏。此猶末了,八地以去,第六、七識何者猶行?
述:ここにおける「断じ伏する時節」などの説明は、煩悩のときと同じように解すべきである。各境地において障となるからである。それゆえ十地の中で順次に断じていき、十地に至って初めて永く伏し尽くす。前の境地の道の力によって後の境地の所知障の現起を折伏し、それが働かないようにすることを「伏す」と名づける。だが、これはまだ詳らかではない。八地以降、第六識と第七識は、どちらがなお働いているのか?
論:八地以上至能違彼故。
論:八地以上は、彼(煩悩)に違背し得るが故に。
述曰:六識俱者,八地不行,以二空無漏無分別智心及此果、滅定、後得智等,相續不斷能違第六識二執,故不行。
解説:六識がすべて揃う境地は、八地では成立しません。なぜなら、二空(人空と法空)を悟った無漏の無分別智の心、およびその果報、滅尽定、後得智などが絶え間なく続くことで、第六識の二執(我執と法執)を妨げるからです。したがって、この境地では六識は働かないのです。
論:第七俱者至起位方伏。
論:第七の識は、すべての煩悩を伴うが、それは「起きる位」に達して初めて伏する(抑えられる)。
述曰:第七識者,八地猶行,以法空智及果方違法執第七,生空智及果行相並麁,不相違故。
解説します。第七識(マナス識)は、第八地に至ってもなお働き続けます。なぜなら、法空の智慧とその果報によってのみ、法執を有する第七識を対治できるからです。生空の智慧とその果報は、その行相が粗いものであり、第七識の法執とは直接対立しないからです。
論:前五轉識至障不現起。
論:前五つの転識は、障礙が現れない状態に至る。
述曰:於十地中,前五轉識設未轉依得無漏智,以第六識勝無漏道勝勢力故而伏於彼,治彼二障不令現起。此五識俱若所知障,地地分斷,能障地故。第七識俱金剛方斷,於十地中有伏、有起。五識俱者,設是後地所能斷者,於前地中亦能伏之,現行麁於種子違於道故。又,八地以去,五識俱者雖不得對治,由第六俱無漏伏故令不現起,七地以前猶能現起。第六識者,准此應知,亦地地斷亦能伏故。問:俱生煩惱十地不除,何故四十八說二障三住中斷?
述べて言う。十地の中において、前の五つの転識(五識)は、未だ転依を得ていなくても無漏智を得ることができる。なぜなら、第六識の勝れた無漏道の勝勢力によって、それら(五識)を伏え、その二障(煩悩障・所知障)を対治して現起させないからである。この五識と俱(ともに)なる所知障は、地ごとに分断され、地を障えるからである。第七識と俱なる(所知障)は、金剛(の三昧・最上の智慧)において初めて断たれる。十地の間には、伏えられることもあり、また起きることもある。五識と俱なるもの(所知障)は、たとえ後の地において断じ得るものであっても、前の地においても伏えることができる。なぜなら、現行は種子よりも麁(あら)く、道に違背するからである。また、八地以降は、五識と俱なるもの(所知障)は、対治を得なくても、第六識と俱なる無漏の力によって伏えられ、現起しない。七地以前は、なお現起し得る。第六識については、これに準じて知るべきである。すなわち、地ごとに断じ、また伏えることもできるからである。問う。俱生の煩悩は十地において除かれないのに、なぜ『四十帖』(四十八巻)は「二障は三住において断ぜられる」と言うのか。
論:雖於修道至三住斷義。
解説:たとえ修行の道において三住に至っても、その義を断じることはできない。
述曰:下釋妨難有二,此初也。如彼論說:於極喜住一切惡趣諸煩惱品所有麁重皆悉永斷,一切上、中煩惱品皆不現行,於無加行無功用無相住中,一切能障無生法忍諸煩惱品所有麁重,皆悉永斷,一切煩惱皆不現前,於最上成滿菩薩住中,當知一切煩惱習氣、隨眠障礙皆悉永斷,入如來住。此中意說,金剛心位亦是成滿菩薩住攝故。所知障麁重有三:一、在皮,極喜住皆永斷;二、在膚,無加行無功用無相住皆永斷;三、在肉,如來住中皆悉永斷,得一切障極清淨智,此中意說已斷處故,廣如彼說。故此論云「由斯故說」,即四十八說也。若煩惱麁重非彼種子,即非唯三住及所知障地地能斷,何故但說三住斷也?
述べよう。以下、妨難を釈するに二種あり、これはその最初である。かの論の説くところの如く、極喜住においては、一切の悪趣の諸煩惱の品に属するすべての麁重がことごとく永く断じ尽くされ、一切の上・中の煩惱の品はすべて現れ働くことがない。無加行無功用無相住においては、一切の無生法忍を障える諸煩惱の品に属するすべての麁重がことごとく永く断じ尽くされ、一切の煩惱はすべて現前しない。最上の成満菩薩住においては、知るべきである、一切の煩惱の習気・随眠・障礙はすべて永く断じ尽くされ、如来の住に入る、と。この中の意趣は、金剛心の位もまた成満菩薩住に摂せられる、ということである。所知障の麁重に三種あり、一には皮にあり、極喜住においてすべて永く断じ、二には膚にあり、無加行無功用無相住においてすべて永く断じ、三には肉にあり、如来住においてすべて永く断じ尽くし、一切の障礙に対して極めて清浄なる智を得る。この中の意趣は、すでに断じ終えた処であることを説くのであり、詳しくはかの論の説くところの如くである。ゆえにこの論に「由斯故說」とあり、すなわち第四十八の説である。もし煩惱の麁重がかの種子にあらずんば、すなわちただ三住および所知障の地地にのみ断じ得られるものにあらず、何をもってただ三住において断ずとのみ説くのか。
論:雖諸住中至是故偏說。
論:さまざまな住(とどまる境地)の中でも、このことを特に示すために、あえて偏って説かれたのである。
述曰:第二釋妨。三劫分齊成滿位故,無漏觀心初起、無間、圓滿別故,現起三障多分、少分、全分無故,一切煩惱分別、俱生、永害、不行、畢竟離故,無生法忍少淨、多淨、極淨別故,初捨異生、分段、變易有差別故,於無漏心未得、有相、無相滿故。
述ぶ:第二に妨難を釈する。三劫の分斉は成満の位によるからである。無漏の観心が初めて起こる時、途切れることなく、円満に至る時の区別があるからである。現起する三障に、多分、少分、全分の無い場合があるからである。一切の煩悩が、分別起と倶生に分かれ、永遠に害されることなく、現れず、究竟的に離れるからである。無生法忍に、少清浄、多清浄、最清浄の区別があるからである。最初に異生を捨て、分段と変易に差異があるからである。無漏の心に対して、未だ得ていない、有相、無相と円満する段階があるからである。
論:斷二障種,漸頓云何?
問:斷除煩惱障與所知障的種子時,是漸次斷除還是頓然斷除?
述曰:自下第二,斷二障種。「漸、頓云何」,問也。雖已說斷但言菩薩,未辨二乘,未明頓、漸故為此問。
述べて言います。これより以下は第二に、二障の種を断ずることを説きます。「漸・頓は云何」とは、問いです。すでに断ずることを説きましたが、ただ菩薩とだけ言い、二乗についてはまだ明らかにしておらず、頓と漸についてもまだ明らかにしていないので、この問いを設けたのです。
論:第七識俱至無麁細故。
論:第七識は、粗い・細かいという差異を超越している。
述曰:所障有異斷,亦有殊,此中障種無麁細者八十一品,亦與非想第九一類品攝,如斷善邪見非無九品,故成能熏。又解,所障既同,斷無前後,名無麁細。非九地所攝總是一品,如前第七識中已廣解訖。又,唯緣內境自地之境,境無麁細,無多品類,故名一品,非三界中總無麁細。
述べます。障害されるものに違いがあり、断じることもまた異なります。この中で、障害の種子に粗細(粗い細かい)の区別がないというのは、八十一品のすべてが、非想地の第九の一品と同類のものとして摂せられるからです。善根を断つ邪見の場合でも、九品に分かれないわけではありません。それゆえに能熏となり得るのです。
また解釈します。障害されるものが同じであれば、断じることに前後の区別はなく、「粗細がない」と言うのです。これは九地に摂せられるものではなく、全体として一品です。すでに前の第七識のところで詳しく説いた通りです。
さらに、唯だ内境(内なる対象)のみを縁じ、自地の境を縁じます。境には粗細がなく、多くの品類がないので、「一品」と言うのです。三界の中に全く粗細がないという意味ではありません。
論:餘六識俱至三界頓斷。
論:その他の六識は、三界に至るまで一度に断たれる。
述曰:見道斷名頓者,此是正義。又雖三心,九地總合以為二品,不同修道九品別斷,名之為頓,五十九等有此誠說。此於見道斷六識者,顯此五識有分別障,此之頓、漸如前卷解。修斷有二,然此文中無先伏修後入見時一品斷者,明於見後方起修故,不說超得第二、三果。二乘別者,唯《對法》第十三有此文,廣如彼抄。略解釋者,此中初以九地漸斷,是漸次得果者,得一來果必依未至,其不還亦爾,然必起無漏道方始得果。有入靜慮、無色起對治道,亦有何失?此亦不然。五十三說不還者,唯五地於欲界有斷對治,不說無色有。又,此唯超越,非次第者。第二,三界九地合為九品斷者,唯有利根諸預流,非餘果。餘果不能起勝作業,缺煩惱故。《指端經》及《分別經》中說:初果由加行心。能以三界九品同為一品,合為九品斷。准超越不還,許依五地,此亦依三無色,斯有何過?然加行心是色界,總緣三界故,無間道可起無色上地。如不還於五地有欲界斷對治故,此亦應爾,應說此義理不違也,但非以下道能斷上惑。由意樂力別,故應作四句。不爾,但以五地得第三果,無色於下無斷對治故。尚不許九無間道入根本定得次第第三果,況預流者得四靜慮及三無色,證超果也。於修道中未得下斷惑道,不能起上斷惑道故,遊觀可爾。今依《集論》第十三說,頓出離者入諦現觀已,依未至定發出世間道,頓斷三界一切煩惱,品品別斷唯立二果。故依四靜慮、三無色,不得超二果,及次第得第二、三果。又,取前解彼文說多分不能得根本定等,非必一切皆悉不得,不說唯依未至地故。不爾,受變易生起無漏者,豈不許得上靜慮耶?故依上根本四靜慮亦得,此以下道能斷上惑,由意樂別故。餘文可解。
述べて言う。見道の断を頓と名づけるのは、これが正しい義である。また三心といっても、九地を総合して二品とすれば、修道の九品別断とは異なり、これを頓と名づける。五十九等にこの誠説がある。これは見道において六識を断つ者について、この五識に分別障があることを示している。この頓と漸については、前の巻で解釈したとおりである。修断には二つがあるが、しかしこの文の中には、先に修を伏して後に見に入る時に一品を断つ者はなく、見の後に方って修が起きることを明かしているので、超得の第二果・第三果については説かない。二乗の別については、ただ『対法』第十三にこの文があり、広くは彼の抄にあるとおりである。略して解釈すれば、この中で初めに九地を漸断するのは、漸次に果を得る者であり、一来果を得るには必ず未至定に依り、その不還もまた同様である。しかし必ず無漏道を起こして方って果を得る。静慮に入り、無色において対治道を起こす者があっても、何の過があるだろうか。これもまたそうではない。五十三に説くところでは、不還者はただ五地において欲界に断対治があると説き、無色にこれがあるとは説かない。また、これはただ超越の者であり、次第の者ではない。第二に、三界九地を合わせて九品として断つ者は、ただ利根の諸預流のみであり、他の果ではない。他の果は勝れた作業を起こすことができず、煩悩を欠いているからである。『指端経』および『分別経』の中に説くところでは、初果は加行心による。よく三界九品を同じく一品とし、合わせて九品として断つことができる。超越の不還に準じれば、五地に依ることを許す。これもまた三無色に依るとして、何の過があるだろうか。しかし加行心は色界であり、総じて三界を縁じるので、無間道は無色の上地を起こすことができる。不還が五地において欲界の断対治があるのと同じく、これもまたそうあるべきである。この義理は違わないと説くべきである。ただし下道によって上惑を断つことはできない。意楽の力の別によるので、四句を作るべきである。そうでなければ、ただ五地によって第三果を得るのみで、無色は下に対して断対治がないからである。なお九無間道が根本定に入って次第に第三果を得ることを許さない。まして預流者が四静慮および三無色を得て、超果を証することはなおさらである。修道の中において、いまだ下の断惑の道を得ず、上の断惑の道を起こすことはできない。遊観はそうであってよい。今『集論』第十三の説に依れば、頓出離の者は諦現観に入り已って、未至定に依って出世間道を発し、頓に三界の一切の煩悩を断じ、品品に別断してただ二果を立てる。ゆえに四静慮・三無色に依って、二果を超えることは得ず、また次第に第二果・第三果を得ることもできない。また、前の解を取れば、彼の文に多くは根本定を得ることができないと説くが、必ずしも一切が皆ことごとく得られないのではない。ただ未至地に依るとのみ説かないからである。そうでなければ、変易生を受けて無漏を起こす者が、どうして上の静慮を得ることを許さないだろうか。ゆえに上の根本四静慮に依ってもまた得られる。これは下道によって上惑を断つことができるが、意楽の別によるからである。余の文は解し得るであろう。
論:所知障種至有眾多故。
論:所知障の種子は、その数が非常に多く存在するがゆえに、多くのものに至るのである。
述曰:所以六識俱所知障,諸地漸斷不同者,以通緣內外境、內身、外身皆能起故。又,彼境中各通麁細,非如第七識唯緣內故。前之六識通麁細境,第七唯細境,三界行相唯一類等,所以金剛心斷。六識中者行相有九品故,品類差別有眾多故,所以諸地分分別斷。五識由六引,所以通二障,如前二障中說。
述べます。六識にはすべて所知障が伴いますが、各地で徐々に断じられていくことに違いがあるのは、これらの識が内外の境・内身・外身のすべてに広く関わるからです。また、それらの対象にはそれぞれ粗いものと細かいものがあり、第七識のようにただ内的なものだけに縛られるわけではありません。前の六識は粗い対象にも細かい対象にも対応しますが、第七識は細かい対象にのみ関わり、三界におけるその働き方はただ一種類で一定しています。そのため、金剛心の時点で一度に断じることができます。六識の中にあるものは、その働き方に九つの品があるため、種類や差別が多く存在します。それゆえ、各地での段階を踏んで分別しながら断じていくのです。五識は六識によって導かれるため、煩悩障と所知障の両方に関わります。これは先に述べた二障の説明の通りです。
論:二乘根鈍至或總或別。
論:二乗の者は根が鈍いので、あるいは総じて(全体として)観じ、あるいは別々に(個別に)観じる。
述曰:自下第三,辨三乘四道同異。二乘加行、勝進可有別別起九品為九品加行及勝進者,或但一加行及但一勝進,故加行、勝進二道總、別不決定也,此依容預勝進道說。不爾,便違《對法》九說,其無間、解脫必各別起,如起無間道斷一品已,即起第二念解脫,此第二念解脫,不得望第二品為無間道。其第二品要別起無間、解脫,以根鈍故乃至九品亦爾,次第、超越並然,由有九品漸能斷者故,加行、勝進各別別起。若一觀中隨斷幾品,即總一加行、後一勝進,故加行、勝進,或總或別,易故。若九品漸斷出觀,若不出觀斷九品者,無間、解脫必各別起難故。此說修道,非見道中有如是事,以其根鈍即證無為時,不容斷惑故。設先世道伏後入見時,亦總一品與見同斷不為別道。
述:次に第三として、三乗の四道の同異を弁ずる。二乗の加行道と勝進道には、九品ごとに別々に生起して九品の加行・勝進となる場合もあるが、あるいはただ一つの加行道とただ一つの勝進道となる場合もある。したがって加行・勝進の二道については、総別が定まらない。これは、ゆとりある勝進道について説いたものである。もしそうでなければ、『対法』の九品説に違反することになる。無間道と解脱道は必ず別々に生起する。すなわち、無間道を起こして一品を断じたなら、すぐに第二念の解脱道を起こす。この第二念の解脱道は、第二品に対して無間道となることはできない。その第二品については、必ず別に無間道・解脱道を起こすのである。根が鈍いからであり、九品に至るまで同様である。次第に断じる場合も超越して断じる場合も、みなそうである。九品を漸次に断じることができるから、加行道と勝進道はそれぞれ別々に生起するのである。もし一つの観の中で、何品かを断ずる場合には、すなわち総じて一つの加行道の後に一つの勝進道がある。ゆえに加行・勝進は、あるいは総じて一つとなり、あるいは別々となる。それは易しいからである。もし九品を漸次に断じて出観する場合も、出観せずして九品を断ずる場合も、無間道と解脱道は必ず別々に生起する。それは難しいからである。これは修道について説いたものであって、見道にはこのようなことはない。その根が鈍く、無為を証得する時には、惑を断ずることを容れないからである。たとえ先に世道によって伏しておき、後に入見する時にも、総じて一品として見道と共に断ずるのであって、別の道とすることはない。
論:菩薩利根至皆容具有。
論:菩薩は優れた根性を持ち、あらゆるものを受け容れ、具えている。
述曰:若菩薩利根,如初品無間至第二念即為解脫,此初品無間望第二念即為加行。此解脫道望自第二品即為無間,望初為解脫,望後為加行,至第三無間道望第一為勝進,與第二品為解脫,自品為無間,與第四為加行。第二無間望前即非勝進,但是解脫,此是菩薩十地位中,斷所知障時分品類排次,斷法若別別斷,一一別起。由能印證及能斷惑,復能容豫,復能欣求,故具四道。不爾,便無四義具足。《對法》第九說:勝進道者,謂為斷餘品所有加行、無間、解脫道名勝進道。望此品是勝進故,即是別別望前有也。又云:或棄捨斷煩惱加行思惟諸法等,即是別起勝進行相,即二乘也,或總通三乘。今此既論二乘勝進或別、或總,不遮後品所有諸道是前勝進故。其加行不爾,為趣求故,前所有無間解脫非後加行。又,今此約別起行相故言總、別,若望此品後道名勝進者,此中不說。若不爾,即無不起勝進及總勝進者故,廣如彼論及彼抄解。此四道通三乘,二乘有學及無學,通有漏及無漏,遮加行智通無漏,不遮加行道故。菩薩金剛心亦有加行道,任運加行非加行智。佛唯有解脫道,是前勝進道自望無勝進,勝進有者,佛應有勝劣。有漏攝四道通上二界,十地皆有。欲界唯有加行、勝進。無漏四道除有頂皆通四道,彼處唯有勝進。解脫道類名解脫亦有,非次無間後之解脫。亦不見許有加行道,中間稍勝有無間等無失,有頂闇昧加行等不成。《對法》第十四說:「於諸現觀位證得後後勝品道時,捨前所得下劣品道,如證此果所攝道時,即捨此向所攝道,以不復現前故」。如菩薩雖不言向、果亦得勝,捨劣劣不現前,如得果故。今約此文,即轉齊義三品種子各各別有,不用下品以為中、上品也。若約轉滅義,一種子轉為中上者,即下成中、下,不復起名捨劣也。
述べて曰く、もし菩薩が利根であれば、例えば初品の無間道から第二念に至って直ちに解脱となる。この初品の無間道は、第二念から見ればすなわち加行となる。この解脱道は、自らの第二品から見ればすなわち無間であり、初品から見れば解脱であり、後の品から見れば加行である。第三の無間道に至っては、第一から見れば勝進であり、第二品に対しては解脱であり、自らの品に対しては無間であり、第四に対しては加行である。第二の無間道は、前に対しては勝進ではなく、ただ解脱であるのみである。これは菩薩の十地位において、所知障を断ずる時の品類の排列の次第である。断ずる法がもし別々に断ぜられるならば、一つ一つ別々に起こる。よく印証しよく惑を断じ、よく容ゆよく欣求するがゆえに、四道を具える。そうでなければ、四つの義が具足することはない。
『対法』第九に説く:「勝進道とは、残余の品を断ずるためのすべての加行・無間・解脱道を名づけて勝進道とす。この品から望めば勝進なるがゆえに、すなわち別々に前に対して有るなり」。また云う:「あるいは煩悩を断ずる加行の思惟や諸法を棄捨する等、すなわち別に勝進行相を起こすなり。すなわち二乗なり。あるいは総じて三乗に通ず」。今ここに二乗の勝進を論ずるに、あるいは別、あるいは総なるも、後の品の所有する諸道が前の勝進となることを遮らない。その加行はそうではない。趣求するがゆえに、前にある無間・解脱は後の加行とはならない。また、今ここでは別に行相を起こすことに約して総・別と言うのであり、もしこの品から望んで後の道を勝進と名づけるならば、この中では説かない。もしそうでなければ、すなわち勝進を起こさず、および総勝進の者が無きこととなる。広くはかの論およびかの抄の解釈の如くである。
この四道は三乗に通じ、二乗の有学および無学にも通じ、有漏および無漏にも通ず。加行智が無漏に通ずることを遮るも、加行道が通ずることを遮らない。菩薩の金剛心にもまた加行道あり。任運の加行にして加行智ではない。仏にはただ解脱道のみあり。これは前の勝進道が自らに対して勝進を望まないなり。もし勝進が有るならば、仏に勝劣があるべきか。有漏が四道を摂するは、上二界に通じ、十地すべてに有り。欲界にはただ加行・勝進のみ有り。無漏の四道は、有頂を除きてすべて四道に通ずれば、かの処にはただ勝進のみ有り。解脱道の類は解脱と名づくるも有り、次第の無間の後の解脱というのではない。また加行道が有ることを許すのを見ない。中間に少し勝るものあり、無間等有るも失なし。有頂は暗昧なるがゆえに加行等は成らない。
『対法』第十四に説く:「諸の現観位において後後の勝品の道を証得する時、前に得た所の下劣品の道を捨離す。この果に証得する所の道の時、すなわちこの向に摂せられる所の道を捨離するが如し。もはや現前しないがゆえに」。菩薩は向・果と言わざれどもまた勝を得、劣を捨て劣は現前せず、果を得るが如し。今この文に約すれば、すなわち転斉の義なり。三品の種子は各々別に有り、下品を用いて中・上品とすることなし。もし転滅の義に約せば、一つの種子が転じて中・上となるならば、すなわち下は中・下となり、もはや起こさざるを名づけて劣を捨つというなり。
論:十真如者至而不在故。
十真如について説明します。それは至り得るものでありながら、とどまることはありません。
述曰:解能證得有四:上來已明三訖。自下第四,明所證如。於中有四:一、總牒如;二、別解;三、釋難;四、廢立。此中真如約詮辨體,若不爾者,且如初如非先不遍,今者方遍,亦非真如可說遍故,若不約詮說遍何法?遍行如者,《攝論》第七十地中說,世親菩薩解云:「謂此法界遍一切行,以無少法非無我故」。無性云:此即法空,無有少法而非空故。彼約詮說一無我、一空理皆不足,體、用別故。今此所論二空如,是總包彼也,無有一法非二空故。新《中邊》第一云:「由通達此,證得自他平等法性」。舊論通云「證得一分」,猶有後地不名全得故。因論生論,何名二空之所對治二行相別?答:執法有體,執法有用,二所治別也。有主宰、任持行相別故,故能治道亦有別也。
述ぶるに、解能証得には四種あり。已上、明らかに三つを究め畢んぬ。自下、第四に、所証の如を明らかにす。其の中に四あり。一には、総じて如を牒す。二には、別に解す。三には、難を釈く。四には、廃立す。此の中に真如は詮に約して体を弁ず。若し爾らざれば、且く初の如の如きは、先に遍ぜざるに非ず、今に方って遍ずるに非ず。亦た真如は遍ずと説く可きに非ず。若し詮に約せずして、遍ずと説くは何の法ぞや。遍行の如とは、『摂論』第七十地の中に説く。世親菩薩、解して云く、「謂く、此の法界は一切行に遍ず。少法も無我に非ざる無きを以ての故なり」。無性、云く、「此れ即ち法空なり。少法も空に非ざる無きなり」。彼は詮に約して一無我、一空理を説くも、皆足れず。体・用別なるが故なり。今此の所論の二空の如は、是れ総じて彼を包むなり。一法も二空に非ざる無きが故なり。新『中辺』第一に云く、「此に通達するに由りて、自他平等の法性を証得す」。旧論は通じて「一分を証得す」と云う。猶お後地有りて、全得と名付けざるが故なり。因論生論して、何の故に二空の所対治と、二の行相と別なるや。答えらく、法に体有りと執し、法に用有りと執す。二の所治、別なるなり。主宰・任持の行相の別なるが故に、能治の道も亦た別有り。
論:二最勝真如至最為勝故。
論:二つの最勝なる真如は、最も勝れているがゆえに、最勝と呼ばれる。
述曰:由離犯戒,證此真如德莊嚴故。世親等云:一切法中最為殊勝今出勝因,謂具無邊德。新《中邊》云:「由通達此,作是思惟,是故我今於同出離一切行相應遍修治,是為勤修相應出離」。舊論難解,故不引之,下引別處,同處不說。
述べて曰く、犯戒を離れることによって、この真如の功徳の荘厳を証するからです。世親などが云うには、一切の法の中で最も殊勝であるとして、今その殊勝な原因を示せば、無辺の功徳を具えているからです。新訳の『中辺分別論』に云うには、「このことを通達することによって、このように思惟します。それゆえ私は今、同じく出離するすべての行相に相応して遍く修治します。これが勤修相応の出離です」とあります。旧訳は理解しにくいので、これを引用しません。以下では別の箇所を引用し、同じ箇所では説かれていません。
論:三勝流真如至極為勝故。
論:三つの勝れた流れにおいて、真如が至極であることが勝れているからである。
述曰:由得三惠照大乘法,觀此法教根本真如,名勝流如。無性云:由所流教勝故,捨身命求此善說。新《中邊》云:設有火坑等三千界,為求此法投身而取,不以為難。意同無性。
述べる:三つの慧を得て大乗の法を照らし、この法の教えの根本である真如を観ずることを、勝流如と名づける。無性が言うには、「流れ出る教えが勝れているがゆえに、身も命も捨ててこの善い説を求める」と。新たな『中辺分別論』には、「たとえ三千世界に満ちる火の穴などがあっても、この法を求めるがゆえに身を投じてこれを得ようとし、それを難いこととはしない」とある。その意は無性と同じである。
論:四無攝受真如至所依取故。
論:四つの無攝受の真如に至るまで、その所依と所取の故に。
述曰:世親云:「於此中無計我所,無攝我所,如北洲人無有繫屬」。無性云:「謂契經等法愛斷故,不計我所,觀此非自他攝」。新《中邊》云:由通達此,乃至法愛亦皆斷滅。又解,今此中說:彼皆不盡理,應說此如無繫屬,非我執、我慢、我愛、無明、邊見、我所見等所依取故,但言「我所」即性狹故。由緣法愛無故,我見等不依如取之,謂此真如但為境故,名為我所,餘論說之。此中但說我境聚故,如不離彼法,我執起時亦取如故。今不於彼起我等執,但言「我見」,即不攝所;但言「我所」即不攝見,今言「我執」通見及所,上准此釋。
述べて曰く、世親は云う:「ここにおいて我所を計ることはなく、我所を摂めることもない。北洲の人に繫属がないようなものである」と。無性は云う:「契経などの法への愛が断たれたので、我所を計らず、これを自他に摂められないと観じる」と。新しい『中辺』には云う:これを通達することによって、乃至は法愛も皆断滅する、と。また解釈すれば、今ここに説くところでは、それらは皆道理を尽くしていない。ここでは繫属がないように説くべきである。我執・我慢・我愛・無明・辺見・我所見などに依拠して取られることがないからである。ただ「我所」と言えば、その性質が狭いからである。法に対する愛を縁じることがないので、我見などはそれに依拠して取ることがない。これは真如がただ境となるだけであるから、これを我所と名づけるのであり、他の論書に説かれている。ここではただ我の境の集まりを説くのであり、その法を離れないように、我執が起こるときにもまた真如を取るからである。今はそれに対して我などの執りを起こさない。ただ「我見」と言えば、すなわち所を摂めない。ただ「我所」と言えば、すなわち見を摂めない。今「我執」と言えば、見と所を通じる。上のこともこれに準じて解釈すべきである。
論:五類無別真如至類有異故。
論:五つの分類に違いはあっても、真如(真理そのもの)には別々のものはない。分類が異なるからといって、本質が変わるわけではない。
述曰:由生死涅槃二皆平等,故無差別。《攝論》云:相續無別如。世親云:「謂於此中體無有異,非如眼等隨諸有情相續差別,各各有異」,即如不同身,各各有異,相續即身故,故如自他無別。無性云:「非如色等相續差別」,或與世親同或與此論同亦得,謂唯一物,非如眼等有別類故。《中邊》云:此名相續無差別義,由通達此,得十意樂平等淨心。
述べて言います。生死と涅槃の二つはともに平等であるため、差別はありません。
『摂論』には「相続に別なし、如のごとし」と説かれています。世親はこう述べています。「ここにおいて体に異なりはない。眼などが多くの有情の相続の違いに従って、それぞれ異なるようではない」。すなわち、如が異なる身体ごとにそれぞれ異なるのではないということです。相続とはすなわち身体のことですから、自と他に別がないのです。
無性はこう述べています。「色などが相続ごとに異なるようではない」。これは世親の説と同じとも言えますし、この論の説と同じとも言えます。ただ一つのものであって、眼などのように別々の種類があるのではないからです。
『中辺』にはこう説かれています。これを相続無差別の義と名づけます。これを通達することによって、十の意楽と平等清浄の心を得るのです。
論:六無染淨真如至後方淨故。
論:六つ目の「無染浄真如」は、後の段階で清らかになるからです。
述曰:世親等同。舊《中邊》云:因第六地十二緣生因處觀,於四諦染淨因果,無有一法可染、可淨。新《中邊》云:由通達此,知緣起法無染、無淨,非謂如也,由真如故,法無染淨,名真如為無染淨。此論等談如體,《中邊》因如體談法,非相違也。
述べる。世親などの解釈は同じである。旧訳の『中辺分別論』にはこうある。「第六地における十二因縁の生起の因の観察によって、四諦の染汚と清浄の因果について、染められるべき法も、清められるべき法も、一つとして存在しないことを知る」。新訳の『弁中辺論』にはこうある。「この真理を悟ることによって、縁起の法には染汚も清浄もないことを知る。それは『如』(ありのまま)と同一視されるわけではない。真如(真理そのもの)によって、法に染汚も清浄もないとされるのであり、その真如を『染汚なく清浄なもの』と名付けるのである」。この論などは真如の本体について述べており、『中辺論』は真如の本体に基づいて諸法について述べているので、両者は矛盾するものではない。
論:七法無別真如至而無異故。
論:七つの法は、真如に至るまで区別がなく、異なることもないからである。
述曰:由離生滅細相現行故,雖多教安立真如無別。世親同,謂教安立為勝義、法界,善、不善等,此無別也。新《中邊》云:「由通達此,知法無相,不行契經等種種法相中」,此依教談如無異,彼依如談教無異,綺互一邊亦不違也。由達此如,即空方便智,發起有中殊勝行。
述べるには、生滅の細かな相の現行を離れるがゆえに、多くの教えにおいて真如は別々に安立されることがない。世親も同じであり、教えにおいて勝義・法界・善・不善などと安立されても、これらに違いはないという。新しい『中辺分別論』には「この真如を通達することによって、法に相のないことを知り、経典などの種々の法相の中に留まらない」とある。これは教えの側から真如に異なるところがないことを説き、あれは真如の側から教えに異なるところがないことを説いている。互いに補い合って一方に偏っても、矛盾することはない。この真如を通達することによって、すなわち空の方便智が生じ、有の中の殊勝な行を発起するのである。
論:八不增減真如至俱自在故。
論:八の不増不減の真如に至るまで、ともに自在であるからである。
述曰:無性云:「謂法外無用,所以不增;諸法不壞,所以不減」,此即離遍計所執增、餘二性減解。又一解與世親同,云:染法減時而無有減,淨法增時而無有增,即斷染不減,得淨不增。今此復別,離增減執故。新《中邊》云:由通達此證得無生法忍,於諸清淨雜染品中,不見一法有減增故。即依如說法無增減也。二自在依,如前已解,如文可解。然無性云:「前諸地中雖亦得此無差別住,然作功用後乃得成,於此地中能無功用,隨用即成故名自在」。新《中邊》云:「有四自在:一名無分別自在;二、淨土自在;三、智自在;四、業自在」。第八地中唯達初二,名無增減差別如故,其相自在名無分別。如彼疏解。
述べます。無性菩薩はこう説いています。「法の外に有用なものはないので、増えることはない。諸法は壊れることがないので、減ることはない」。これは、遍計所執性を離れて増えを見ず、他の二性に関して減りを見ないという解釈です。
また、もう一つの解釈は世親菩薩と同じで、「染められた法が減るときにも、実際には減るものはなく、清らかな法が増えるときにも、実際には増えるものはない」と説きます。すなわち、煩悩を断じても減ることはなく、清らかさを得ても増えることはないということです。
ここでさらに別の解釈があります。増減の執着を離れるからです。新しい『中辺分別論』にはこうあります。「この真理を悟ることによって無生法忍を証得し、清らかなものと雑染のもののすべてにおいて、一つの法として減るものも増えるものも見ない」。これは、真如に基づいて法に増減がないと説くものです。
二つの自在についての依処は、前に述べた通りです。本文の通りに理解できます。しかし、無性菩薩はこう説きます。「前の諸地においても、この無差別の住を得てはいるが、しかし功用を働かせて後に初めて成就する。この地(第八地)においては、功用を働かせることなく、用に随ってすぐに成就するので、自在と名付ける」と。
新しい『中辺分別論』にはこうあります。「四種の自在がある。一に無分別自在、二に浄土自在、三に智自在、四に業自在である」。第八地においては、初めの二つをただ悟るだけであり、増減の差別がないことを如とし、その相の自在を無分別と名付ける。その疏(注釈)に解釈するとおりです。
論:九智自在至得自在故。
論:九つの智による自在を至り得て、自在を得るからである。
述曰:《中邊》云:由智自在圓滿證得無礙解故。餘論解同。問:此地已得智自在者,何故十度十地修智?答:無性云:謂此地中得無礙辨所依止故。分得智波羅蜜多,於一切法不隨其言,善能了知諸意趣義,如實成就一切有情受勝法樂,非謂全得智波羅蜜。
述べると、「中辺」にはこうある。智の自在を円満に証得するがゆえに、無礙解を得るのである。他の論も同じように解釈している。
問う:この地ですでに智の自在を得ているのであれば、なぜ十度の十地において智を修めるのか。
答える:無性はこう言っている。この地においては、無礙辨のよりどころを得るからである。智波羅蜜多を部分的に得て、一切の法について言葉どおりに捉えず、諸々の意趣や義をよく知り、如実に一切の有情に勝れた法の楽しみを受けさせるのである。決して完全に智波羅蜜を得たというわけではない。
論:十業自在等所依真如至皆自在故。
論:十種の自在などのよりどころとなる真如に至るまで、すべて自在であるからである。
述曰:業即神通及陀羅尼、三摩地三種自在。業即身等三業。《中邊》云:「隨欲化作種種利樂有情事故」。總持中有文、義二持,持一切法文、義;等至能持、能斷,隨所欲虛空藏等而能現前。此無性解,餘義同此。
これは、次のことを説明している。業(カルマ)とは、神通力と陀羅尼(ダーラニー)、そして三摩地(サマーディ)という三つの自在なはたらきを指す。業とは、具体的には身・口・意の三つの行いをいう。『中辺分別論』には、「思いのままに、さまざまな利益と楽をもたらすことを、有情のために行う」とある。陀羅尼には、教えの意味を保持するものと、その言葉を保持するものとの二つがあり、すべての法(教え)の言葉と意味を保ち続ける。三摩地は、すべてを保持し、また断ち切ることを可能にし、思いのままに虚空蔵(こくうぞう)などの境地を目の前に現じることができる。これは、無性(むしょう)による解釈であるが、その他の意味については、ここで述べたことと同じである。
論:雖真如性至假立十種。
論:真如の本性は至(きわみ)まで(真実である)が、(その理解のために)仮に十種を立てる。
述曰:此即第三,釋其妨難。真如一味,何容分十?真如實無別,隨其所證、所生、能證勝德,假立十種。
述ぶ:これはすなわち第三に、その妨難を釈する。真如は一味なるに、何ぞ十に分かつことを容るるや。真如は実に別なし。その証するところ、生ずるところ、能証の勝徳に随って、仮に十種を立つ。
論:雖初地中至後後建立。
論:初地から後後の位に至るまでの建立があるけれども。
述曰:第四、廢立。初地中於十真如非不皆達,未圓滿故後後建立,故立十種,行、位有十故,圓滿真如名,乃至如來十皆能了,如《中邊釋》且廣分別。就解本頌中,初略;後廣。就廣中有二:一、明證得因;二、明所證得。上來雖有四段不同,謂十地、十勝行、十障、十真如訖,總是第一明證得因。
述ぶるに、第四には廃立なり。初地の中に於いて十真如を、皆達せざるに非ずと雖も、未だ円満ならざるが故に後後に建立す。故に十種を立つるは、行・位に十あるが故に、真如の名を円満することを得て、乃至如来の十種皆能く了す。『中辺釈』の如く且く広く分別す。本頌を解するに就きては、初めに略し、後に広し。広し中に二有り。一には証得の因を明かし、二には所証得を明かす。上来四段の不同有りと雖も、謂わく十地・十勝行・十障・十真如に訖りて、総じて此れ第一に証得の因を明かすなり。
自下第二,明所證果。於中有二:初牒前生下以發論端;第二正解所證得果。
以下は第二の段階で、証得される果報について説明する。この中に二つの部分がある。まず、前の内容を受けて次の内容を引き出し、論の端緒を開く。次に、証得される果報を正しく解釈する。
論:如是菩薩至便能證得。
このように修行する菩薩は、やがて悟りの境地に達することができるのです。
述曰:是初牒前起下所證二轉依果。二轉依者,菩提、涅槃。就正明所證中有二:初、約位辨證;二、正明轉依。初中有三:初總舉;次別解;後料簡。
述曰:ここでまず、前に述べたことと以下に続くことを示す。すなわち、これから説くのは「二転依の果」という証得の対象である。二転依とは、菩提と涅槃のことである。正しく証明される対象を明らかにする中に、二つの部分がある。第一に、位に基づいて証得を明らかにし、第二に、転依を正しく明らかにする。第一の中に三つの部分がある。まず全体を挙げ、次に個別に解釈し、最後に検討を加える。
論:轉依位別,略有六種。
述曰:初總舉所證位也,此中資糧位初說。略開五位,地前為二,十地為二,如來為一,下應當知。
論:一損力益能轉至亦名為轉。
述曰:初二位者,在地前第一、第二位。此位漸伏,亦名為轉,轉之因故,能伏轉故。實證得位謂通達位、修習位等,故此非真。世親、無性《攝論》並第九云:有勝解者是勝解行地。故在初二位及慚愧故者,即二位中。世親等解云:有慚、愧故令諸煩惱少分現行,或不現行,煩惱現行即深慚、愧,則慚、愧者是勝解行之勝相故。今又解,由習勝解者是初位,初位信唯識增故名勝解,未能伏唯識想。第二位能伏唯識想,少伏煩惱,名有慚、愧,如前二位中解。又,勝解者,勝解數,得決定故。信數初增久不增故,由慚、愧故崇善拒惡,有二勝德,並通二位,故為能轉體。此與《攝論》不同,不可一准,餘文可知。
論:二通達轉至真實轉依。
述曰:即通達位,在見道中已證一分轉依,未圓滿故。
論:三修習轉至真實轉依。
述曰:謂十地中,即除初地見道,餘初地及九地即修道十地中也。
論:攝大乘中至現不現故。
述曰:以有相、無相觀通達真、俗,間雜現前,或真現,非真不現,謂入觀時;或非真現,真不現,謂出觀時。令真、非真現、不現故。又,未能即空而觀於有,有相觀現,真不現;無相觀現,非真不現。由此理故說通達轉在前六地。我今此論,約初通達分別二障遍行真如,故說初地為通達轉。世親《攝論》云:前六地真如為真、俗觀現、不現因。故說通達轉在前六地,亦不相違。
論:說修習轉至不顯現故。
述曰:《攝論》又說修習轉在後四地,由純無相觀長時現前,勇猛修習斷餘麁重,多令非真不顯現故。四十八說:由第七地猶名為雜煩惱,未名不雜煩惱,非真猶有現時,但無相觀長時故,說多令非真不現;非八、九、十地非真有現時,得無相觀長時種類同,故說後四地為修習轉。我以十地斷俱生二障麁重,漸證真如義等,說修習轉在十地中,亦不違也。然此論中乃言「多令非真不現」者,為簡七地。二《攝論釋》皆言:唯有真實現,非真不現,從長時說,然《攝論》本通得二解,不言非真定不現故。
論:四果圓滿轉至利樂無盡。
述曰:第四可解,彼此論同。
論:五下劣轉至名下劣轉。
述曰:第五亦同,通有、無學,一、唯自利;二、有欣、厭;三、唯達生空;四、唯斷煩惱;五、唯證真擇滅;六、無勝能。真擇滅者,謂真如,由慧擇得此滅故。無勝堪能者,無一切智等故。
論:六廣大轉至名廣大轉。
述曰:《攝大乘》說:即諸菩薩能趣證轉故。如來已轉,故彼不說。此六翻前,准前應悉。生死、涅槃俱無欣、厭者,大悲、般若常廣起故。具一切智等,名有勝堪能。
論:此中意說至而證得故。
述曰:第三,料簡。頌中所取轉依體者,唯廣大轉,捨二麁重而證得故。不言圓滿轉者,圓滿轉對菩薩說,廣大轉對二乘說。又,圓滿轉唯如來,廣大轉在菩薩。今明十地取廣大轉,要地地中捨二麁重方證得故。又解,既言取廣大轉,明圓滿轉亦在其中,略舉一隅故,即六轉依中第一假立轉,未得真故。餘五真名轉,真實證得故。第一約位解轉依訖,下第二正解轉依,於中有三:第一、總解轉依;第二、雖轉依義總有四種,而今但取二所轉得。等者,簡別本頌所說轉依之言;第三、辨此修習位能證非已證。
論:轉依義別,略有四種。
述曰:第一,總解轉依名所目義。初總標;後別解。此為初也。
論:一能轉道至漸頓伏彼。
述曰:下別解也,為四。能伏道通有漏、無漏。三智中通加行、根本、後得三智。有漏道六行。無漏者,且如因第三地無分別智斷定、法愛俱所知障勢力,令煩惱亦不現行,名伏煩惱障;非別起道名伏煩惱,所知障可知。又,如離第三靜慮欲,伏四定以上惑入滅定,即是以後得智伏二障也。或加行道能漸伏,根本、後得智頓伏,或根本、後得亦能漸伏,無加行道能頓伏者故。問:加行智通無漏不?答:不通,八地以上無加行智亦無有漏心故。問:若爾,《對法》第十等如何通?金剛心有二:一、加行道攝;二無間道攝。答:無違也。以無漏心任運趣入根本智故,如前已說,名加行道非加行智。加行智者,有趣求彼,但是前加行道,而非趣求,故加行智不通無漏。或復《對法》據二乘等通說金剛心有二,非謂菩薩金剛心中有加行道,故加行智不通無漏。或說,亦通無漏。八地等無者,無有漏加行智別深趣求者,八地以去有任運趣求故。今此初說加行唯有漏,如《對法》說金剛心有加行道,不簡菩薩故。
論:二能斷道至未成辨故。
述曰:以有漏心加行智,及有漏後得智。一是曾習;二相執所引;三未能泯伏滅此相,故不能斷惑;四或加行智是能趣求所證真如,趣求所引無分別智,未成辨故不能斷惑。由無分別智是加行所引,真如是加行所趣求證,即由所引無分別智,能證所證真如成辨故,能斷二障非加行智。問:若加行智不通無漏,言:有漏心已攝加行,更言:加行復何所須?若加行智通無漏,不須作此問答分別。答:以三智中加行智亦無分別,此有漏道亦有加行、無間、解脫。前言有漏攝彼三道,後言加行為簡三智中根本、後得智別,故復重說。
自下明其無漏心及根本後得智。
論:有義根本至故非斷道。
述曰:此中初說唯無分別智能斷二障隨眠,後得不然。設作無相觀,相分境相仍有故不能斷,唯無分別智有此斷能。諸經論中無說後得能斷隨眠,非諸菩薩見、修二道前斷所知用無分別,後斷煩惱用後得智故。
論:有義後得至迷事隨眠。
述曰:後得無力能斷迷理見、疑等隨眠,而於安立、非安立諦相明了現前,無倒證故,亦能永斷迷事隨眠。迷理隨眠行相深遠,要證彼理方能斷之;迷事隨眠行相淺近,雖實有相觀亦能斷之。
論:故瑜伽說至相執引故。
述曰:第五十五說,修道位中有二種道:初即無分別智;後即後得智。後得智名世、出世,如前數解此名,以有漏道是純世間故,無純世間道能永害隨眠。以有二因,如文可解。
論:由斯理趣至俱能正斷。
述曰:諸見所斷雖有迷事忿等十法,見斷頓斷故,迷事之隨眠隨理觀一品,斷此及修所斷無明、二見,及此俱根本及隨迷理隨眠。無分別智斷餘有貪、恚、慢、無明,及此俱隨惑迷事者,後得智亦能斷,行相淺近故。問:何為亦是根本斷,亦是後得斷?不違理故。此唯二乘非菩薩,菩薩修道不斷迷事隨眠故,即唯所知障是根本智斷。煩惱障中通二智斷,然為迷理身、邊見等,各於自地第九品道時方頓斷,而前八品既先斷餘煩惱,可起後得智斷,第九品道時起無分別智斷,以迷理惑故。此約九品別無間道斷者,若不出觀即斷九品,唯無分別智斷八品中迷事煩惱,不可一觀道中前八是後得,第九是根本智故。即第六識中我見等俱生者,要第九品道方斷,雖無品數非如七識金剛心斷。問:彼金剛方斷,有何妨耶?答:即有色、無色界有學聖者,起無漏道却斷下地我見等種過。若許爾者,即不還聖人應以現行潤生妨。既許不還聖者種子潤生故,先離下地欲時,其身見等並須斷訖,不同第七識,不潤生故。由此應作四句:有依下地斷上隨眠,如下地得聖,斷上一切種識中隨眠;有在上地斷下隨眠,如在上地取無學果,斷下地第七識中煩惱種子,《瑜伽》等說要金剛心彼方斷故。第三句可知,第四句者除上三相,或謂斷所知障,不可說上下自他地斷故,然約緣縛、相應縛故可說地斷。此即在下斷上,在上斷下,於五、六、七識皆不能遮,不違理故,非潤生故,非縛法故。又解,用後得智斷菩薩亦能,十地斷所知障中有執、非執。非執者,亦名迷事,故亦許斷,以障智故,雖未斷本堅執之者,何妨先斷,如煩惱障俱生者,以我見為首故,先斷時未能斷本,先迷事者亦可斷故。斷所知障類亦應爾,此等分別妙絕古今,於諸論師實未聞也,即二障六、七識合各得為四句。問:有漏曾習,未泯相故不能斷隨眠。後得亦有相,如何斷隨眠?又此二智並各有相,此二何別?答:後得雖有相,非執所引,非縛所緣,又非曾得,取境相時分明親證。有漏不爾,故不能斷。如五通等異生、聖者所證有異,淨與不淨,明與不明各有別故。由如是等種種理故,亦即是彼二智差別。
論:二所轉依至故此不說。
述曰:前說依他總名轉依,今取持種故唯第八。
論:二迷悟依至故此不說。
述曰:依他起性雖亦此依,非根本故此中不說。然無性等二《攝論》等,但以阿賴耶為轉依。《對法》第十一,轉依有三:一、心轉即真如;二、道轉即前能轉道;三、麁重即阿賴耶故。此轉依略有二種,體寬《攝論》,彼無真如故;狹於《對法》,無彼道故,然道是此能轉道中攝故,亦不狹於彼,餘文可知。持種依中體,唯在二乘及大乘有學位,唯有漏,若并佛說即通無漏。此唯約現行,種子識不能持種故,又是所棄捨中攝故。
論:三所轉捨至妄執我法。
述曰:「謂二障種者」,此出體。捨在何時?真無間道現在前位。言「真」者有二義:一、簡有漏,不能斷種故;二、簡後得相見道等。障治相違,如明與闇。說之為捨者,此即染中名捨依他起性,由依他種斷故,不復能生現行之心妄執我法現行,由此斷故說現行及種依他為斷。依他既斷已。
論:所執我法至遍計所執。
述曰:實我、實法自性本無,但對妄情妄似於有,今妄情斷無境對心,假說此境亦名為斷,由此道理名捨所執。諸有處言斷遍計所執者,義在於此。然三性中皆有捨義:一、遍計所執,如此所言不對情名捨;二、有漏依他,此有二種:一、障法,如此中言障、治相違名捨;二、非障法,下所棄捨中攝;三、圓成實,此有二種:一、劣法亦所棄捨中攝;二、勝法唯此不捨,故總言三性皆有捨義。
論:二所棄捨至皆永棄捨。
述曰:謂餘有漏者,即二障餘,謂有漏善,三無記法全,異熟生少分,除法執一分故。劣無漏種,即十地中所生現行,及此種類中下品種,由金剛道轉。極圓者,異前菩薩所依未圓滿故。極明者,行相分明,異前菩薩智,彼不明故。或極圓,簡一切有學;極明,簡二乘無學。「純淨本識」者,「淨」者無漏,「純」者無雜,非如因位七識等善淨而不純,本識純而不淨,今此第八無漏相續故名「純淨」,此現行識非餘有漏、劣無漏種依,故皆永棄捨。
論:彼種捨已至生死劣法。
述曰:此種捨已現行彼法亦永不生,由此道理名捨生死法及劣法。此乃總言,不簡何念能捨。此同《對法》十四說,得勝無漏亦捨劣法,如得果時即捨於向,如前已說。既言餘有漏法及劣無漏金剛心捨,為此前捨,為此俱捨。
論:有義所餘至俱時捨故。
述曰:第一師前捨,與二障種俱時捨故,由有二種有餘有漏及劣無漏。種既亡已,餘有漏法及劣無漏如何得在?又,種生現既俱時生,種隨障已亡,現如何猶有?又,三惡趣果與惑業俱亡,何故餘有漏法不隨惑俱捨?有漏既前捨,及劣無漏亦應然,由此理故,金剛道生有漏等滅,如明與闇不俱時生。此師意說,金剛心中已得鏡智,仍未名佛,未起解脫道證於滅故,諸無漏初起隣近有漏未名為佛,如見道捨惡趣,因果同時。此師之意,即說麁重無間道生捨,解脫道生但為證滅。
論:有義爾時至應無用故。
述曰:第二師說,金剛心生猶未捨彼,猶餘有漏與無間道不相違故。麁重違轉依,豈違無間道?又,金剛心即劣無漏,如何此位劣無漏已無?又,若此位彼已捨者,菩薩應無諸生死法。生死法者謂有漏法,誰言菩薩生死法無?生死法無何名菩薩?又,無有漏應無所熏識,非善無漏可所熏故。若此位菩薩已無所熏識,即住無間道,應名為佛。若此位已名佛,解脫道生應無有用,解脫道生證極殊勝轉依圓滿,無所熏識故無生死法,無劣無漏能斷麁重,與無間道別,如前已論。故無間道非佛,解脫道名佛。汝今既金剛心已有是事,用解脫道何為?次解前師之理云:若由二障種有餘有漏等,所以二乘、菩薩非無漏圓,以所知障種有故等者,今難云:應由無漏未滿足,有漏猶在故不名佛,此無間道位已無有漏,無漏圓生何不名佛?又,種生現必俱時生,如何種亡其現猶有?誰言此位餘有漏等其種已亡?我若種、現異時,可如所難;我亦種、現同時,但不違無間道故,所以不與無間俱時捨,故汝所難非預我意。由種.現異時前已破故。此中不說。此師意亦種、現同時,若亦說者,應成三說。今此許熏,明種生現同時,金剛心中猶有熏故。又,三惡趣果與業惑俱亡,如何此位斷有前後者,前十一障中已言,麁重違解脫道,即惡趣果與惑滅異時,何得今時率情為難?
論:由此應知至非彼依故。
述曰:「餘有漏等,解脫道起,方棄捨之」,以解脫道位第八淨識非劣無漏,餘有漏依故。前師欲釋後難,思准可知,然此二師俱不違理。所斷捨中煩惱一分,所棄捨中劣無漏一分,通二乘有,餘唯大乘。又,由前能轉道中,能斷道證所轉依中迷悟依,方有所斷捨、所棄捨少分,除劣無漏。劣無漏,但由得勝捨劣。
論:四所轉得至清淨法界。
述曰:下別解中,二果別故,即分為二。涅槃中有二:初總出體;次別解釋四種涅槃。初總出體,即此文是,此簡菩提,名所顯得,文意可解。言真聖道者,謂聖所起道名聖道。妙觀察智為能斷道,解脫道位正證涅槃。有加行心為希求故,若非斷道印證名得,通三智品,除成所作。若言證真理之聖道,於中唯正體智非後得。此依大位,若通三乘隨其所應。由此涅槃在纏未顯,離障方顯,故體一如,約顯成別。
第二,別解四種涅槃,於中有二:初總舉數;次廣解。
論:涅槃義別,略有四種。
述曰:此舉數也。
論:一本來自性至故名涅槃。
述曰:下廣解也,於中有三:初出四體;次三乘辨;後總結簡。此即出體。初涅槃中,文意可解。謂「一切法相真如理」者,此出體也,即七真如中實相真如理,彼云「二空所顯」,約詮所辨,涅槃依得顯故以相即,如前第八卷解。此如《佛地》第三卷清淨法界解。「雖有客染」等者,釋本來自性,有十種義。具功德者,以能順生諸功德故,功德性故,名為具德,凝寂湛然,故無生滅,眾生真性故平等有,法性與法理非一、異,如前第八已解釋訖。「離一切相」者,離所取相;「離一切分別」者,離能取相。尋思路絕,顯唯內證,非麁心境,名言道斷者,顯真自相非假名言所安足處,非言依故異有為法。唯真聖者自內所證者,顯能證者必唯勝人。其性本寂者,釋涅槃名,以圓寂義是涅槃故。下三中出體義、釋名等,准此解。
論:二有餘依至故名涅槃。
述曰:顯其因盡,苦依未盡,異熟猶在,名有餘依,依者身也。就實出體,故是真如出煩惱障。此中有餘,約二乘說,以言唯有微苦依故,「依」謂依身,以其所離顯此涅槃,以大乘中難見相貌,從易處言。
論:三無餘依至故名涅槃。
述曰:有漏苦果所依永盡,由煩惱盡,果亦不生,名得涅槃。亦就實出體,通三乘釋。
論:四無住處涅槃至故名涅槃。
述曰:所知障者,顯唯菩薩得,非二乘,二乘不能出所知障故。「大悲般若常所輔翼」者,顯緣此涅槃生智、悲故,或由智、悲緣證如故,於生死、涅槃二俱不住。緣此雖起悲、智二用,體性恒寂,故名涅槃。此即第一,出涅槃體。
自下第二,三乘分別涅槃具、不具。於中有二:初、三乘具、不具;二、問答分別。
論:一切有情至可言具四。
述曰:一切有情若凡、若聖皆有初一,由此經說一切有情本來涅槃。凡夫、二乘有學,未證後三涅槃;二乘無學、不定性未入地者有初二,定性者有初三。直往入地菩薩有初及第四,無學迴心入地菩薩有初二及第四,如來具四種。有此六位差別故,若斷縛得及得位次,同時、異時,各應廣說,餘者如文可解,即三乘具、不具也。
自下第二問答分別。於中有三。一問答佛有餘依。二問答二乘有無餘依。三問答斷所知障得涅槃等。
論:如何善逝有有餘依?
述曰:善逝者,佛。有餘三者,理可知故。為此問者,若佛有有餘依,應苦依未盡。
論:雖無實依而現似有。
述曰:此答。雖無真實苦依未盡之有餘涅槃,而現為苦諦等,似有有餘涅槃,此即相同二乘者解。
論:或苦依盡至可言具四。
述曰:又解與二乘別。約苦依盡故名佛無餘依,有非苦所依身在故名有餘依,以佛世尊具有無漏所依蘊在,是故世尊可言具四,如來亦有有餘可爾。
論:若聲聞等至說彼非有。
述曰:下第二,問答二乘有無餘依。此外人問:若二乘有無餘依涅槃,如何有處說彼非有?即《勝鬘經》說無無餘依故,彼言,世尊:二乘有餘生法不盡,故有生;有餘梵行不成,故不純;事不究竟故,當有所作等,乃至說言去涅槃界遠,是故彼言無無餘依。
論:有處說彼至彼亦非有。
述曰:此中論主先却質也,謂《勝鬘經》說彼二乘都無涅槃,豈有餘依涅槃?彼二乘亦非有。彼經如何言彼都無涅槃?彼云唯有如來成就一切功德,故得涅槃;阿羅漢等不成就一切功德,故言不得,言得涅槃是佛方便,乃至廣說。彼經說二乘不得涅槃,彼經不簡無何涅槃,既有餘依二乘亦得,明知彼言有別意趣。
論:然聲聞等至不依前三。
述曰:依無性者,二解經文,此中論文義意可解。
論:又說彼無至與佛有異。
述曰:下依不定性。第二、解申正義,餘文易了。謂有二乘者,簡不定姓,身智滅位。爾時,雖無二乘身智,而由二乘能證此滅,可說二乘有無餘依,非有身智在時可說二乘名有無餘依。依實真如說三乘無別,依菩提說三乘差別。亦可依無住處說三乘有異,然今且說菩提差別。
論:諸所知障至得無住處。
述曰:下第三,問答所知障得涅槃等。此中有三:一、問應不得涅槃;二、問應得擇滅;三問菩提障。此外人問。諸所知障既不感生,如何斷彼得無住處?無住處者是涅槃,涅槃者體解脫縛。其所知障既不能發業潤生,如何斷彼得無住處?前言:斷所知障得涅槃故。第二地犯戒愚是所知障,雖亦發業但障所知,不招生故,今為此難。若全不發業,即無犯毀三業,非於爾時斷煩惱障故,勿以《佛地論》第七說及所發業果是所知障,便謂發業能感於生。
論:彼能隱覆至俱不住故。
述曰:此是正答,其文可解。令不發生大悲般若者,真如為所證緣起後得智,後得智即般若,般若能起大悲故,於生死、涅槃二俱不住。如既不證悲、智不生。
論:若所知障至不得擇滅。
述曰:下第二,問應得擇滅,於中初問、後答。答中有二:初答非;後答是。初中有五:一、答;二;徵;三、釋;四、難;五、通。此又外問,涅槃即以擇滅為性故。
論:擇滅離縛,彼非縛故。
述曰:此答。由惠簡擇縛斷得滅,名擇滅故,由所知障不縛有情招生死苦故,斷彼已不得擇滅。
論:既爾,斷彼寧得涅槃?
述曰:外人又問,涅槃亦是解脫縛故。
論:非諸涅槃至中二擇滅攝。
述曰:此論主答。非一切涅槃體皆擇滅。此若不爾,一切涅槃皆擇滅者,即性淨涅槃應非涅槃,體性非是擇滅攝故。能縛有情住生死者斷,得擇滅,此既不爾,故不得擇滅等。餘文易解,不勞煩釋。此中意說,涅槃性寬,擇滅體狹,非諸涅槃皆擇滅故。由此涅槃與彼擇滅應作四句:有是擇滅非是涅槃,謂斷煩惱障因中所得滅;有是涅槃非是擇滅,謂本來性淨及無住處,或六行得滅,是彼乃分涅槃,非擇滅故;有俱者,謂有、無餘依涅槃,俱非可解。故四涅槃初、後二種,謂性淨、無住處,即體於真如上立。中間有餘、無餘依二擇滅攝,斷縛得故。所依縛盡初得果時名為擇滅,所依後無方顯涅槃,後依無時由前擇力。故《對法》等說惡趣果名見道斷,《瑜伽》說是非擇滅攝。
論:若唯斷縛至四中誰攝。
述曰:第四,外人復問:謂前說言所知障非縛斷,不得擇滅;不動無為、想受滅無為,亦非斷縛得於四無為中,是誰攝耶?四無為者,《五蘊論》說:一、虛空;二、擇滅;三、非擇滅;四、真如。《百法論》、《瑜伽》等說六,加不動、想受滅。《對法》、《顯揚論》說八,加三性真如,因此則廣。明無為義者,如前第二卷、《別抄》等解。
論:非擇滅攝至非永滅故。
述曰:下論主答。此二於四中非擇滅攝,《顯揚論》第十八說此二無為暫時離繫,非究竟離繫故。問:諸非擇滅云何暫離不復生故?答:擇滅無為唯究竟滅,永害隨眠故。非擇滅中,《瑜伽》第五十三說:非擇滅法非一向決定。一向決定者,學見聖跡,於卵、濕二生、北拘盧洲、無想天、女身、扇𢮎、半擇、無形、二形等生,及於後有若愛、若取所得非擇滅一向決定,餘則不定,以伏種子令不生現,名非擇滅。種若遇緣便能生現,故更生也。由此非擇有定、不定。故此中言:有永滅者,有永不滅者。故此二既非是永滅攝,說「暫離」言,明非擇滅。擇滅之中有「唯」言者,顯不通暫離義。非擇滅中有「非永」言,顯不定義。《對法》第二說:有二應斷法,謂諸煩惱及所依受變易、不變易,如其次第,當知煩惱斷建立擇滅。二受滅建立不動及想受滅,此二受不生,亦名斷,不言二無為擇滅中分出,不可為難。問:既言無間道等,如何是非擇?擇者,惠也;無間生等,豈非惠也?答:起無間道,若有漏亦非擇;若無漏不斷漏種子者,定非擇滅,有何妨也?又此應徵薩婆多師不染無知起,無間道斷,而非是擇滅者,有何意不同有漏道?有漏道彼宗亦得擇滅故。或復今大乘起無間道別斷惑種,餘縛因此方永不生故,是非擇滅攝亦有何爽?既爾,定知無餘先得,所依永無,方顯先滅,名得涅槃,故擇滅攝,如想受滅無為,後時顯故,實得在前,無餘亦爾。或由先擇斷惑,復永不生故,此義應思。
下第二解。
論:或無住處至擇滅所攝。
述曰:此體雖非縛,由真擇力滅障得,故寧非擇滅?滅障得故,如煩惱滅,即二無為是擇滅攝。次會《顯揚》十八文,彼說暫伏滅者,謂說伏惑得,及無漏心滅惑位時說故。此若約無間道斷、解脫道得,即《對法》第二等文為正,是擇滅攝。若約伏滅得滅定等上建立,即非擇滅,如《顯揚》等。如前第二卷抄及《對法》第二卷抄解。不動義如前說。
論:既所知障至是菩提障。
述曰:下第三,問菩提障。外人問此師說所知障亦障涅槃等,可解。
論:說煩惱障至為菩提障。
述曰:下此師答。初却質,以煩惱障亦障菩提,少分智故名障菩提。又為有此,菩提不起,故亦為障。何得以所知為難?文意可解。若爾,如何諸聖教說二障障別?
論:應知聖教至通障二果。
述曰:諸聖教中依勝用說,此義不違,實各雙障,如第一卷初抄解。此解涅槃中第二段文。別解涅槃訖。
論:如是所說至名所顯得。
述曰:第三,總結。以三涅槃名所顯得,以自性涅槃不由顯故方得,本來寂故,唯有後三名所顯得,障滅顯故。
論:二所生得至相應心品。
述曰:下第二,明所生得。於中有三:初出體;次別釋、後總結。初出體,文可知。
論:云何四智相應心品?
述曰:此問起也。第二,別解菩提,菩提既四智,四智者何?
論:一大圓鏡智至現眾色像。
述曰:於中有九:第一,出體辨四智差別,《佛地論》第三解此諸名有少差別,《對法》復解,餘可知也。「圓鏡」即智,持業釋。「相應心品」言,通相應法。「離諸分別」者,《佛地》云離我、我所執。一切所取、能取分別,境及行相二俱叵測,名為「微細」。諸「不愚」者,不迷闇義。由此,如來名一切種智及一切智。若「不忘」者,恒現前義,由此如來成不忘失法,自性明善,名為「清淨」。有漏永亡,離諸雜染。「純淨圓德」者,純者無雜,淨者離染,圓者滿義,純簡因無漏,淨簡一切有漏,圓簡二乘無學功德。「現種依持」者,現行功德之依,種子功德之持,持功德種故。「能現、能生身土智影」者,自心、心所不緣著本質,如現餘三智影等,名為能現;餘色根等身、土等德名能生,親照本質故。又,身、土等法親緣之境,於識上現名為能現;三智等法親緣不著,但從此生名為能生。又,自第八識上別種所生諸法,如自色、心等,名能生,依第八別有種故;若現他身諸趣等影,名能現,無別種生,但有識種唯於識上現,名能現,智為性故。無間,就時;無斷,就方,一切時能現一切處影故,如大圓鏡現眾色像,《佛地經》云:「如依圓鏡,眾像影現」,依佛智鏡諸處、境、識眾像影現,平等平等,故以為喻。
論:二平等性智至窮未來際。
述曰:此據正義七通無漏。「平等性」,真如理,智緣於此故言平等。此在因中有我執故,自他差別,今無我故,自他平等。「大慈悲等,恒共相應」,此攝十平等中幾性者,慈、悲等攝八德。「隨諸有情所樂示現」者,隨十地菩薩所宜現也。「無住涅槃之所建立」者,由緣無住涅槃故,此識恒共悲、智相應,涅槃名能立,悲、智是所立,名為建立。或由此悲、智所顯真如,名無住處,即是建立無住涅槃。《佛地論》云:「建立佛地無住涅槃」,更無轉易,名為一味,無間斷故,名為相續。餘文易了。
論:三妙觀察智至皆獲利樂。
述曰:神用莫方稱之為「妙」,具緣諸法自共相等,名為「觀察」,籌量境相妙用勝故。「攝觀無量總持定門」者,總持門者,陀羅尼門;定門者,三摩地門。雖餘三智非無此德,入出諸禪總持差別勝餘三智。此智能攝藏,故名為攝;亦常觀察此總持定門,故名為觀。「功德珍寶」者,謂六度、道品、十力等法。作用差別者,謂現通等。
論:四成所作智至所應作事。
述曰:所作之成,成所作即智故,《佛地論》第七說。「變化三業」者,《瑜伽》第九十八說,不能化根、心。言「三業」者,似意業轉,如後當知名似心故。以上並是第一,出智體,以作用顯體故辨差別門。
論:如是四智至以智名顯。
述曰:第二,釋相應多少門,得智名非識所以。「二十二法」者,遍行、別境善法并取心故,准前尋、伺因通無漏,即妙觀察二十四法。今從因果二位通論故二十二。此二十二者體,能變者是見分,所變者是相分;或識自體名能變,相、見二分名所變。或能變是種,因能變故;所變謂現,果能變故。「智」者,決斷了達之義,彼位決斷了達相顯,故「智用增」。
論:故此四品至功德皆盡。
述曰:第三,以體攝用。故《佛地論》第三卷初,具明功德相攝,故此四智總攝佛地一切有為功德皆盡。智為主故,說智用增,諸餘功德智差別故。
論:此轉有漏至而得此四智。
述曰:第四,轉何識得何智門。八、七、六、五等如次而得。無性菩薩及《莊嚴論》說,且觀智轉五識等,此中唯轉第六識得。《佛地論》中有二師說,彼非次故,說法斷疑非五用故,廣如佛地,不能繁引,與此無違。轉識得智所以,此中有二復次,初釋可解,第二釋中,識是分別有漏位,強智為決斷無漏位勝,轉強得強,故言得智。此中因解捨識得智,因更成名智所由。
論:大圓鏡智至淨種識故。
述曰:第五,轉識得智位次。此第八識初說可解。若金剛心無無漏識,有漏已捨,無漏未生,應無能持淨種之識,如前所轉捨中諍。
論:有義此品至不相違故。
述曰:無間道與異熟識等俱滅故,既非障法故不相違。又《對法》第十,解金剛喻定無間盡智等生,不言金剛心時盡智等起,如何說無間道位圓鏡智生?此唯正義,種現同時.種現異時復有別釋。
論:非障有漏至令不生故。
述曰:即前所言餘有漏是,謂善、無記體非障有漏之法無間生已,四智圓明無所熏識,諸無漏法更不增長,應成佛故悲、智無窮,故盡未來際。前師解《對法》盡智生時文云:彼言無間位後,盡智等圓滿而生,不言此時此盡智等未起。又無間者,是俱無間義,隔越尚稱無間,俱時寧非無間?如異念言俱有等,《佛地論》中無此二說,彼不分辨何位心生故。
論:平等性智至盡未來際。
述曰:見道初位現在前者。真見道中此智即起。第六引生非自力起。二障頓斷妙觀察智.平等性智起必同時。若漸次斷平等後起。然諸見道.十地間起如上數明。法雲地後盡未來故。第八決定與一俱故。自力既勝不由六引。六入生空七恒法空。平等轉故。亦不同地。不同因位一切皆同。
論:妙觀察智至皆容現起。
述曰:此即初解生空觀品。漸悟入者,至解行地終;頓悟者,至無學位;或至上位者,謂至菩薩十地位中頓、漸皆爾。既不障法空,明法空觀必帶生觀。加行入心雖獨法空,入必細故帶其麁意。此非有漏及無心,通上諸位。
論:法空觀品至皆容現起。
述曰:法空觀品要菩薩見道位方初起。法空觀品准前應釋。若至佛位唯生空觀,或唯理非事,有唯事非理,或二俱觀,皆自在故。餘文可解。
論:成所作智至亦得初起。
述曰:如前四緣中已解。第一師云:菩薩修道位中,第六意識後得引故,亦得初起,於淨土中起五識故,《佛地論》等亦有此義。雖言初地即亦得起,然非見道,見道已後,修道得智方起,真相見道中不緣外事起麁識故。
論:有義成佛至作意起故。
述曰:第二師說,如前四緣中已解,無別文義,故不敘之。此中比量簡過及釋妨難,具如前解,《佛地論》有評,義取後解。
論:此四種姓至勝後佛故。
述曰:第六,種性本有始起門。地前種增,入地二增;地前用增,入地體增,現起別故。餘文可解,唯護法義。
論:大圓鏡智至不可知故。
述曰:第七,所緣何境界門。初師可解,所以如文。
論:有義此品至亦緣俗故。
述曰:《莊嚴論》說於一切境皆不愚迷故,有俗不知非不愚故,餘文可知。言「諸處」者,謂內六處;「境」者,六境;「識」者,六識,此十八界,或十二處,六根、六識並名識故,身及土定須緣故,會不可知。言「行、緣微細」者,行相、所緣也。因既微細,果亦難知,非不緣俗。
論:緣真如故至准此應知。
述曰:言二智者,體是一,用為二,何故俱生?緣俗名後得者,了俗由證真,證真為先緣俗智生,故名後得。《佛地論》又說:或似後得,名後得,後得不證真故。或如後得因中緣俗,真觀後生故。下准此解,餘所引文勘《佛地論》。因有二類種,果恒唯一種生,二用現行。
論:平等性智至於理無違。
述曰:此中三說,所以如文。緣十平等故通緣真俗,第三說也。
論:妙觀察智至二智所攝。
述曰:文義易了。
論:成所作智至後得智攝。
述曰:引論文等皆勘卷數,如前已顯。同類境故說緣五境,不定唯爾,故不違也。五識皆能緣六境,不違理故,行相淺近,緣事智故,但遮無為,如文證成。
論:此四心品至利樂有情。
述曰:第八,緣境作用門。成事智通現淨穢土,妙觀察智通二土說法。
論:如是等門,差別多種。
述曰:第九,指例門有多。如是等門差別多種,佛地有四分心緣境,如前第二解。諸智相、見分別門,即前第九卷解訖。相應心所多少門,如前第三卷解第八識,第四卷第七識,第七卷解六識中及次前二十二法中解。善無漏門,如隨識中辨。假實分別門及攝諸功德門,此論雖無總明處,然隨諸識已明訖,故不繁敘其間。智依何定起,何受相應,轉何界後識後智生等,佛地雖無,如前已解。上來總是第二,別解所生菩提訖;自下第三,即結是所生得。
論:此四心品,名所生得。
述曰:此為結也。就解所轉得有三:初,總舉所轉得出數;二、別解所顯所生訖;三、總結故。
論:此所生得至名所轉得。
述曰:總結前也,就解轉依中有三。上來第一,解轉依訖;自下第二,明本頌所說轉依之言。
論:雖轉依義至轉依言故。
述曰:總有四種,而今但取二所轉得,餘三轉依不可證故。設有真如及無漏道,不是證義故不說之。
論:此修習位至因位攝故。
述曰:自下第三,明此十地能證二轉依,非已證得,要成佛方證故。此十地無間道斷障為因,解脫道方證於彼故。上來解五位中第四頌,雖有廣略不同,總是解十地修習位訖。
論:後究竟位,其相云何?
述曰:自下解第五位,謂究竟道。於中初問;次答,此即問也。
論:頌曰至大牟尼名法。
述曰:頌中有三:初一句出位體;次七字顯勝德;餘八字簡二乘,顯三乘別。
論:曰前修習位至究竟位相。
述曰:初解頌文,後諸門分別。初釋四句文即為四段,義乃為三,如判頌意。初中有二:初、正解頌,初句出體;後、問、答。分別解本頌中,初總判;次出體;後別釋。此顯位相也。
論:此謂此前至無漏界攝。
述曰:此下出體。「無漏界攝」,即菩提、涅槃二轉依果,是究竟位。言究竟者,略有二義:一、簡前四位名究竟;二、簡二乘名究竟。二乘雖得菩提、涅槃,非究竟義,非高勝故。此略釋第一句頌中上「此即」字,兼解「無漏界」訖。
論:諸漏永盡至故名無漏。
述曰:下釋無漏義。「諸漏永盡」者,能除漏義,能證、所證皆能除漏,此即離彼相應縛義。「非漏隨增」者,即是顯非所緣縛義。又,「諸漏永盡」者,顯離雜彼煩惱;「非漏隨增」,離二縛義。又,初是染法自性斷,後是離縛斷;初性唯染,後通一切有漏。言「性淨」者,簡二乘無學,善有漏等蘊雖亦離二縛,而性非淨,前有漏類故,有第七所知障漏,俱非性淨故。言「圓」者,簡一切有學無漏,因未圓故。「明」者,簡二乘無學無漏,顯彼雖圓果之極,故而非是明,非勝妙故。又,「淨」簡有漏,「圓」簡二乘,「明」簡菩薩無漏,具五義性,名無漏界,餘無漏等雖亦名無漏,非究竟無漏。此中雖解無漏之言,長讀尚字,意乃為遠也。
論:界是藏義至利樂事故。
述曰:「界」者,藏義,無為功德涅槃所藏,有為功德菩提所含;或是因義,或為所緣,或為增上,展轉傳說為利益等,謂體能生五乘世、出世間利樂事業,或為緣生他利樂事。何故經云在纏名如來藏,出纏名法身?此中出纏方名為藏。彼約位,此約體;或彼依有障、無障以辨法門,此明本末,故不相違。即是總解第一句訖。
論:清淨法界至如何唯無漏。
述曰:下明問答中,有二問答。此為初問。外人問云:清淨法界可唯無漏,是理法故;四智心品如何唯無漏?豈如來身皆唯無漏?此除大眾部等餘小乘難。法界理法既同擇滅,可許無漏;非佛身中有為功德皆無漏攝,如何唯言是無漏也?
論:道諦攝故至已永捨故。
述曰:此論主答。六十六說:佛智、通等一切功德道諦所攝,前已成立大乘聖教,所以為量。
論:雖有示現至道諦所攝。
述曰:如來示現叱呵身、語,現起入滅,現有背痛,似苦、集諦而實無漏。
論:集論等說至五外界等。
述曰:外人問云:《集論》第三等說:十五界、十色處等,唯是有漏。今言佛身唯並無漏,既爾,如來豈無五根、五識、五外界等?「等」者,等取十有色處、法處少分等,今論主言:如來一切皆是無漏。論說十五界有漏攝,相違故難。
論:有義如來至理不相違。
述曰:答有三義,此第一說。如來身、土離能、所分別、三七分別,絕名言戲論,非蘊、處、界有情等所攝,不可言此五根、此五境等。今《大般若》大有此文,今三論諸師多為此解,故不可以十五界等有漏為問。彼言有漏,明非佛身。《佛地》第一卷說,此師當第三義,彼亦無評。
論:有義如來至性散亂故。
述曰:此第二說。文中有五:一、申宗;二、外詰;三、釋難;四、重問;五、解徵。第三段中有二解,初解中有五:一、外問;二、復徵;三、又解;四、復問;五、復釋。如來根、境皆以意識妙定為先方變,本識隨變。設第八變妙定生,故法界所攝,非佛以外所餘菩薩及異生等,雖依此佛所變上,變為佛身、土,然佛變細,餘變者麁。佛變細者,非五境攝。他之所變義有二途,一色或定收,如來第八勝定所引住故。何故第八定所引即彼五識?不爾,五稱散五常緣故,理亦少難熟思之也。根、境既無,如來五識,亦非五識界,根雖非實,似其根相,故佛現有,他不變根但變似境,以相麁故,或可受用故。《無垢稱經》及十八不共法中,如來之心恒在定故,大眾部計亦恒在定,《對法》第一說五識身性散亂故。
論:成所作智何識相應?
述曰:此外人問。既無五識,成所作智何識相應?
論:第六相應,起化用故。
述曰:論主答:第六識相應,能起化用故。非餘識俱。
論:與觀察智性有何別?
述曰:此外人問。既與六識相應,與觀察智體性有何別?不可一識二智生故。
論:彼觀諸法至故有差別。
述曰:此論主答。彼觀察智能觀諸法自相、共相。此成事智唯起化用,故二智別。
論:此二智品至不俱起故。
述曰:外人復問。此二智品應不並起,餘論等說,無處、無容,同身、同類,一身二識許俱時生。今既一類第六識者,應不俱起。
論:許不並起至俱亦無失。
述曰:此論主答。許不並起於理無違,前後剎那別異起故。然行迅速,似二用俱。第二解:同一識體義用分二,說二智俱,亦無有失,如一意識見色、聞聲,一體義分,此亦應爾。此第一解,成事智品與第六俱。
論:或與第七至成事品攝。
述曰:此第二解,或成事智與第七俱,依根緣境是平等智差別用故。此平等智既能變起受用、變化二身,能為根、境而依之故。依此化他根、境之識唯平等用,起化用麁,化異生類,名成事智;起化用細,化地上類,名平等智。
論:豈不此品,轉五識得?
述曰:此外人難。豈不今此成事智品轉五識得,何言七俱?
論:非轉彼得至不應為難。
述曰:今者但以彼生死滅涅槃得顯,名轉生死而得涅槃,非涅槃性即是生死。今此亦爾,由轉去因五識滅已,此緣麁事境識品生,說成事智轉五識得,不以因中五識轉作果中成事智品,成事智品即是五識。此師若謂轉五識得成事智品,便違《莊嚴》、《攝論》等說,即是第二師解,佛唯三界是實,餘虛,十五界等文為正也。
論:有義如來至有漏無漏。
述曰:有三:一、標宗;二、會違;三、結正。此初也。第三師說:彼蘊、處、界等皆通有漏、無漏,故佛蘊、處、界等三法皆唯無漏。
論:集論等說至所知境攝。
述曰:以下會違,有二:初會第一師;二會第二師。會初師文,《集論》第三等說十五界唯有漏者,且依麁惡之境體、淺識智之境體說,或麁境體,淺是識用,即二乘等及十地菩薩之身。十五界唯有漏,非說一切凡、聖有情十五界等皆唯有漏。
論:然餘處說至理必應爾。
述曰:《大般若經》及處處經說,顯非如彼界等相故,表非下智所知境故。
論:所以者何至解脫身等。
述曰:有為皆蘊,說一切法皆處、界攝。諸論通文,說十九界等,《無垢稱經》之所遮故,非如來根、境,非十八界等攝。此遮第一師計:如來根、境非界、處攝。若絕戲論故,非界等者,亦不應此頌說如來功德即無漏界,是善,是常,亦是安樂,亦不應名解脫身等,解脫身等既可名者故,蘊、處、界?理應可名。
論:又處處說至是密意說。
述曰:又《涅槃經》、《莊嚴論》等說,轉無常蘊,獲得常蘊。《勝鬘》等說,如來妙色身等。故諸經中說為非色等,是密意說。密意說者,顯非麁淺智境界故。以上皆是破前第一師計。
論:又說五識至非佛所成。
述曰:文意可解,破前第二師。
論:故佛身中至而純無漏。
述曰:三結宗義。三師說中,此義為正。次解眾德有四:一、不思議;二、善;三、常;四、安樂。先解第二句。解不思議有三釋,《攝論》第九、世親等解,同無異見。
論:此轉依果至言議道故。
述曰:此第一解,智之與境,皆具此義。
論:微妙甚深自內證故。
述曰:別解「不思」。又,智微妙,性相甚深,所緣境自內證故。又,境微妙,唯甚深智能內證故。又,二皆通《攝論》唯有內證之言,唯解緣真如故。
論:非諸世間喻所喻故。
述曰:別解「不議」。絕比無方,故不思議,如《攝論》中以三義解不思議,《顯揚》十七有不思議品,亦不出此三。《瑜伽》等亦然,所以不述。
論:此又是善至俱說為善。
述曰:次,二、明善。頌言「善」者,白法性故,體白故異不善及無記,能斷黑名白。若爾,此與有漏善何別?以法界遠離生滅,極安穩故,四智品妙用無方比,及極巧便故。無為、有為二皆順益,與有漏善差別,并違不善。以下合其四義,故名善,前第六卷已解善訖。
論:論說處等至五根三境。
述曰:此為外難。四智心品既唯是善,《對法論》第四說八唯無記,謂五根、三境。如來豈無五根等也。
論:此中三釋廣說如前。
述曰:今論主答。此中三釋,廣說如前。如前有漏等三解。
論:一切如來至無漏善攝。
述曰:真如等五法皆滅道攝。滅道攝者,諸經論中說,既唯無漏,故此唯善。又,《對法》第六、《瑜伽》等說,有清淨法界非苦、集故。《攝論》亦然。此二解并前四,合則六解。既爾,即佛所有眼等,皆是無漏善,似有漏善及無記等,及似有漏善故,名之為善等,非實然也。
論:此又是常至無斷無盡。
述曰:次,三、解常。此又是常,五法俱無盡期故。又,真如無生滅故常,無變易故常,皆自性常故。四智心品所依真如常,故常。其四智品體無斷及無盡,故說常。無斷常者,是不斷常義,報身也;無盡常者,是化身,相續常義。《莊嚴論》說三種常故,如常施食、受樂等事,四智「非自性常」義。「從因所生」者,謂明從種生故。若初唯生後不滅者,便違佛說,一向記言:生者皆滅故。又若色、心是自性常者,不見說故,違比量故。獲得常色等者,由願力化有情,是不斷相續常義。七十八、《解深密》說:化身有生起相故。「窮未來際」,亦釋不斷、無盡常義,願力常故。餘文可解。
論:此又安樂至俱名安樂。
述曰:次,四、解安樂,無逼無惱諸有情故,非如有漏善,逼逐處生死,惱亂有情類不令趣涅槃。又,有漏法皆是行苦,逼迫性故,增煩惱故,故非安樂。二轉依果俱名安樂,樂謂五樂,安謂五安,各有多種。安之與樂差別云何?謂諸有漏樂受者,樂而不安,麁動轉故;有漏輕安,安而不樂,不能順益得涅槃故。此安樂者,如第一卷疏解差別。
論:二乘所得至但名解脫身。
述曰:次解解脫身。於中有二:初略;後廣。二乘所得此二轉依果,但名解脫身,解脫生死及縛法故,以彼轉依無十力等殊勝法所莊嚴故,不名法身。殊勝法者,斷所知障得無量功德依故。《解深密經》、七十八等說「真如為解脫身」言,世尊二乘所得轉依,名法身不?善男子不名法身,當名何身?名「解脫身」,由解脫身故,說二乘與佛平等平等;由法身故說有差別,無量最勝功德,算數譬喻所不能及,故彼名真如。是二乘解脫身,非五分法身中解脫身,五分法身中解脫身,體唯勝解數故,此無為解脫故。彼菩提果是五分法身中解脫知見身,不名法身。菩提及涅槃俱離縛故,但名解脫身。
論:大覺世尊至所莊嚴故。
述曰:次解在牟尼名法身。「成就無上寂默法」者,梵言「牟尼」,此言寂默。寂默法者,離言法也,或離過故,故名為寂默。通三乘解,成一切法性、相離言,不二法門,名為寂默。唯我世尊大牟尼尊二轉依果,亦名法身,亦解脫也。言法身者,非三身中之法身也。佛得二名,離煩惱故名解脫身;離所知障,具無邊德,名為法身。此中意說:有為、無為各於自身功德法依,名法身故。
論:體依聚義至皆此攝故。
述曰:何故名身?體性義、依止義、眾德聚義,具三義故,名為身故,故通三身。若別、若總離名相義,此亦《佛地論》有,餘文可解。
論:如是法身至所依止故。
述曰:自下諸門分別有七。初三身別相門。初、總出法身中,復有勝義別立身名自性。離相者,無十相也;寂然者,尋思路絕也;絕諸戲論者,離語言也。諸佛自性名自性身,有為、無為功德法依名曰法身。
論:二受用身至廣大法樂。
述曰:「及極圓、淨、常遍色身」者,眾相咸備名極圓,體離眾患名極淨,無間、無斷名極常,無所不在名極遍,積集有礙之體名色身,此即功德之所依身,一是常不斷常故;二是遍量同空故。「相續湛然」者,言「相續」者,簡自性身,有生滅故;言「湛然」者,簡他受用及簡化身,彼時斷故。
論:二他受用至諸利樂事。
述曰:他受用中現身、土,由平等智;現通說法等,由觀察智。自他受用法樂等者,名受用身。變化不爾。
論:以五法性至皆有實智。
述曰:第二,五法攝三身門。第一師:經說「真如是法身」者,《佛地經》說。「論說轉第八得自性」者,《攝論》第九說。轉去藏識得圓鏡智,亦智殊勝。「說平等智於純淨土,為諸菩薩現佛身」者,《佛地論》云如餘論說,竟不出何論。《莊嚴論》說:然須勘抄。「說觀察智,大集會中」等者,《佛地》亦言如餘論說,亦在《莊嚴論》,須勘抄諸文。亦有「轉諸轉識得受用身」者,是《攝論》智品說。「說成事智於十方土現難思化故」者,《佛地論》說《莊嚴論》說,又《攝論》智殊勝具攝三身。
論:有義初一至非色心故。
述曰:第二師說有二:初自性;後餘身。自性文有四:一、標;二、引證;三、解違;四、釋。「自性身本常」者,《莊嚴論》說三種常,如《佛地論》第七等引。「說佛法身無生滅」者,《佛地》云《讚佛論》說,然七十八、《解深密》亦有此言:法身無生滅,化身有起盡故。「說證因得非生因」者,世親菩薩《金剛般若論》說。「又說法身諸佛共有等」者,《佛地論》云諸經論說,即《對法》第一、《攝大乘》智品等中亦有此說。
論:然說轉去至彼實性故。
述曰:「然說轉去藏識得者」,會第一師引《攝論》文,今以斷麁重顯真如故。「智殊勝」文者亦可解,以法身是智依止,彼智之實性故。
論:自性法身至得受用故。
述曰:「四智品中」下,解餘身中,有二:初標智攝;後解釋相。相中有二:初自受用;後他受用。自受用中有三:一、引證;二、解違;三、說相。平等智品現他受用,以得妙理自他平等,別為化上機現身、土等。成事智品隨類化身、土,妙觀察智於中說法,據實二身四智俱現,豈圓鏡智緣於二身不能親益?今但相似後智用,說圓鏡智是受用佛,此《莊嚴論》文。然前師如何解此文意?「轉諸轉識得受用」者,《攝論》文,此文即證四智皆受用身。
論:雖轉藏識至屬何身攝。
述曰:「亦得受用」等者,解《攝大乘》不說轉藏識得受用身所以。說為法身者,如前已解。圓鏡智品是實色、心,與此非色、心違。
論:又受用身至實智為體。
述曰:此以理解難。解他化身中有三:初立理;次解違;後說相。
論:雖說化身至體實非智。
述曰:釋前所引《攝論》智殊勝攝三身文,然以自受用實智為體,准他受用身等,不說實無漏智。
論:但說平等至自受用攝。
述曰:釋前所引平等智現受用,成事智現三業化文,但明二智現二身,體非二身也。第三他化二身相,於中有四:一、標舉;二、立理;三、引證;四、會違。
論:然變化身至無形質法。
述曰:是化現心、心所,《佛地論》說,此實相分,似見分現。《佛地》第七有二說,如彼,不能繁引。
論:若不爾者至尚不知故。
述曰:下立理引證。
論:由此經說至化作三業。
述曰:下引證。「化無量類皆令有心」者,化無量化人之類,皆令有心,為引他故。此《涅槃經》,下《佛地經》。
論:又說變化至相分現故。
述曰:此《解深密經》文,七十八同。
論:雖說變化至故不說有。
述曰:會違。即九十八說,於四事不能化:一、根;二、心;三、心所;四、業及業果報等。又「無根」等用,不如色、聲等,故說不化。不爾,香等亦應然,如五十四及五十三末,及前第二卷抄,因明化中,化為何法等。
論:如是三身至化相功德。
述曰:第三,三身功德各異門。法身應以木、石為難,彼亦不能起貪、恚等,應名具功德,此順生善法故,不得為例。「常、樂、我、淨」等,應分別,離染簡有漏。「眾善所依」,簡有為無漏。「無為功德」,顯無生滅,餘如《樞要》,並取《佛地》第七。
論:又自性身至為他現故。
述曰:第四,三身二利門,可解。
論:又自性身至遍一切處。
述曰:第五,三身所依土分別門。如《樞要》說,即法身亦名自性身。「法性土」者,以屬佛、法,相、性異故,以佛義是相,謂有為功德法所依故,眾德聚義故,二身自體故。「法」是性義,功德自性故,能持自性故,諸法自性故。「體」為土義,為身。
論:自受用身至亦無定現。
述曰:還隨自受用土,下二身隨自土亦爾,非離身別有土名故,如《樞要》說。然此功德隨所依身、智慧,隨所證如法,亦可說言遍一切處。「隨住十地菩薩宜」者,《十地經》說,十地各有分量大小,廣如彼說。唯見百佛,見百葉化佛,見百三千大千世界變化身土。「淨穢佛土,因緣成就」者,以化土中有淨有穢,非他受用土,故言淨穢。他受用法樂增同自受用,俱名受用。化土雖復說法,神通增故立變化名,法樂義劣。此《佛地論》廣說大、精。
論:自性身土至一切生故。
述曰:第六,三身諸佛身土所化同異門。須勘《佛地》,此文一往,佛地甚好,共中其實是多。見者,謂於一土有一佛身故。「不共」中,《佛地論》引彌勒菩薩根熟後等;又勘《別抄》,彌勒發心劫數長短,乃至廣說。
論:此諸身土至俱善無漏。
述曰:第七門,於中有二:初、明身、土能、所變;二、因解唯識見、相同異。此即初門。第八雖實,皆通緣染、淨土,然約增勝現所得者。自受用者,唯淨無漏識之變。既唯佛能知變,非餘所知變故。他受用身、土,體唯是淨,然能變者通有、無漏。如來及十地中菩薩無漏後得所變,即純淨無漏,若十地第八識并五識,及七地以前有漏散心,及有漏後得所變,即純淨有漏。無他受用土體是穢者,非有穢心之所變故。問:既許有漏識亦能變土,他受用土云何必唯淨?答:本質佛所變者非穢故,能變之者無煩惱穢故。無穢識故,所以所變之土唯淨,通有、無漏。此據相似,若變化土本質通淨、穢,唯無漏。若隨彼二乘等無漏心所變,即無漏;然彼無此事,彼無漏狹,不能緣身、土等。若隨彼二乘有漏心,并異生所變,即有漏,皆通淨、穢。或二乘等後得不能緣,即唯有漏,通染、淨,如螺髻梵王、舍利弗等所見異故。今此文中,總約三法,一切有情為論。
論:純善無漏至非苦集故。
述曰:此無漏相分同能變識,一向是善無漏,相不離見,同非繫故,以能緣心變似自境故,縛與不縛,理必須同;淨與不淨,理必須同。無漏心等順益義勝,悲力廣大,相分與見必同善性,一切無漏法爾必善,故性必同,其性、相必皆順理故,故性必同,非如有漏心相、見性有別。言因緣者,是種子也。
論:蘊等識相至雜引生故。
述曰:以蘊、處、界三法因緣雜引生故,謂見分是心,相分非心,如第八相中根、境等,及六識所緣色等,以與見分非一類種生故。色、心等別,以不相違故,無漏所變相分法中有五蘊,亦如根等,即是相分純種,與見分無漏及性同也。與見雜種故,色、心蘊等亦各有異,乃至相應法,相分相望亦然。由識起相等,同不繫法,純種,唯無漏,作用法不同,雜種生色、心,不可有漏同無漏難。
論:有漏識上至非滅道故。
述曰:純從有漏種子生故,同是繫法,所以言純,故唯有漏。問:何故界繫見、相許別繫,有漏、無漏必同耶?答:見、相雖界繫別,仍相順故。
論:善等識相至五十二等。
述曰:善等三性,識之相分,不必皆同,性相別故,有漏名等,勢分轉故,不順理故,不能引相與見分,相必能令同,如鼻、舌、身識見與彼相分,非必同性,故與見分非必性同。見、相分中,三性因緣雜引生故,不可同性,作用別故,性不可同,如無漏緣使等相分唯有漏,虛空等能緣心通三性,相分唯無記,香等三境唯無記,能緣之識通三性等。若皆純種唯一性者,三境唯無記,等言應不成失,不可說約第八所變唯說無記。三識所變通三性,二境亦爾,以三識所變三處攝故,應言通三性,諸論無文故。虛空、非擇,例亦應然,故相分、見分不必同性。性別既爾,蘊等識相或相、見分同,或相、見分異,類此應知,亦不定故。若相分與見分蘊等亦同,便無五蘊、十二處、十八界別。既有三科別,明知相、見分等不必皆同。《佛地論》說,三身生滅門,化自、他身色俱非等,化心亦爾。三身相對四句門,生法二身攝三身門,十佛攝三身門,如彼第七。因解身、土能變、所變,即釋唯識相、見異同。
上來已依略、廣及位等,明能變識等訖,自下解相、見分或異同中。即明能變之識相、見同異,第七門中。自下第二,因解唯識義。
論:然相分等至俱實有故。
述曰:一解云:等取心所所變現,所變名為行相。「依識變現」等者,唯難陀二分義,小分有異親、疎所緣,二皆不實故。以疎所緣等取親相,不為行相。此所疎知,如識變故。又立三分,并下有二,復次解。依識變現等者,相分等言,等取見分,識自體之所變故。此相、見分雖體是依他,識自體之用故,非如識性依他中實,識是根本自體故,彼是末是用故,如日及輪,如燈及光,實、虛異故。若不爾,應不言唯識,應言唯境、唯見分等。以許相、見與識自體,俱實有故。此義應思。設緣色等,見、相亦俱不實,不及於識,如緣過、未、虛空等識相分,雖有非稍實法,見分非無,仍緣虛境。虛境行相是不實心,故見不及識自體分,識自體分唯緣於識,是根本故,證自體故,體性是實有,其變似色等亦並不實。此師意也。若爾,無分別智境相如何?彼內證故,此所不論。如緣自體,餘是外境,故不同如。設緣真如自體實有,非識所變故。真如體實,今論所變故相、見假。又縱真如是實,以於境中少實有故,但言唯識,不言唯境,今以內證,是故不可例同於外。《佛地》第三有此師義,許有三分依他性義。
論:或識相見至虛實如識。
述曰:第二師說:識與相、見分等,皆從緣生因緣法故。此二與識,虛實皆同。雖有緣去、來等,相是依他故,與識不多別。又,此師意,但有相分,與識一種,是實,不遮緣過、未,但得假法。此是正義。前師相、見即識種生,此師相分與識別種,見分與識同種生故。若爾,應言諸法唯境,何言唯識?
論:唯言遣外至亦應非實。
述曰:論答:唯言遣心外遍計所執,不遮內識所變之相分等。若不作此解,真如應非實有。真如既實,境即實成,能緣如心,寧容是假?若是假者,應不緣真如;若非假者,見便是實,故非心、境一向非實,以境是虛言唯識故。若境是實,遣心外境名唯識,即真如不離識故,非心外法故,亦唯識攝。
論:內境與識至唯識非境。
述曰:外人難:內境與識既並非虛,如何可言唯識,非境?
論:識唯內有至但言唯識。
述曰:答有二。初云:識唯內有,境亦通外,即境相分,內是依他,外是遍計所執。以非心所變法,說之為外,非體實有名外,恐心內之境濫心外之境,故但言唯識。又,疎所緣緣亦是外,若言唯境,恐取心外之法,故此不論。所執之心亦是心外法故,是故設不慮濫,言唯境亦得,為簡外故但言唯識。
論:或諸愚夫至如外都無。
述曰:一、謂所執為實;二、謂親取心外境,依此故言迷執於境,此意可解。此第二師解唯識,《佛地》所無。為破執故雖為愚夫,非心之理豈佛非有?即前二師許有相、見分義,第三師解。
論:或相分等至定相應故。
述曰:此師不許有相、見義,唯一識性,由前妄熏習力似多分生,似有相見,即佛後得智無別相、見分。有漏善心,因後得智有相、見者,有法執故。佛似見、相淨穢土等,不作二解,故非所執;餘作二解,故是所執。又,佛自在了妄執故,設變見、相皆非所執,由往因中熏習力故,今果亦爾,佛證諸法不可言故;餘即不爾,見、相皆執,不證不可言境故。今此依餘說,故言無別。或佛不現餘人自見,若爾,真如非妄習生,應非唯識。識之實性故,言唯識故,除識性無別有法。
論:此論三分至成唯識論。
述曰:此下大段,第三,釋結施願分。即第二師解論文,謂:初一頌半略明能變識相;中有二十三頌半廣明唯識;後有五頌明唯識位。以佛說法初、中、後,善、純一、圓滿、清白、梵行,今同彼教,故言三分,如第一卷抄釋,餘文可解。此中言成,即以教成教,即以教成理,理實俱通。然依境、行一解,成如前解,理體分別唯識性、相義。
論:亦說此論至極明淨故。
述曰:言淨者,謂從喻顯,如真如性雖本性淨,若不修習,淨無以彰顯,教、理俱得。如珠寶等性雖光潔,若不磨瑩,無以出光故也。如蘇迷盧,雖寶所集,無日輪迴照,何以顯光?此論亦爾,如前第九卷初抄故。
論:此本論名至登無上覺。
述曰:初二句,結牒上;後二句,正迴施發願。由三十頌顯唯識理,非增減者,依三義配釋,皆有非增減義。
成唯識論述記卷第十