金光明最勝王經如來壽量品第二
金光明最勝王経・如来寿量品第二
爾時,王舍大城有一菩薩摩訶薩,名曰妙幢,已於過去無量俱胝那庾多百千佛所,承事供養,殖諸善根。是時妙幢菩薩獨於靜處,作是思惟:「以何因緣,釋迦牟尼如來壽命短促,唯八十年?」復作是念:「如佛所說,有二因緣,得壽命長。云何為二?一者、不害生命,二者、施他飲食。然釋迦牟尼如來曾於無量百千萬億無數大劫,不害生命,行十善道,常以飲食惠施一切飢餓眾生,乃至己身血肉骨髓,亦持施與,令得飽滿,況餘飲食。」
その時、王舎城の大いなる都に、妙幢という名の菩薩摩訶薩がおられました。この方は、過去において無量無辺の仏のもとで仕え、供養を捧げ、数多くの善根を積まれてきました。
さて、妙幢菩薩は静かな場所で一人、このようにお考えになりました。 「いったいどのような因縁によって、釈迦牟尼如来の寿命は短く、わずか八十年にすぎないのであろうか?」
そしてさらに、このように思われました。 「仏が説かれたところによれば、寿命が長くなるには二つの因縁があるという。その二つとは何か。一つは、生命を害さないこと。もう一つは、他者に飲食を施すことである。しかし、釈迦牟尼如来は、無量百千万億の大劫にわたって、生命を害することなく十善の道を行じ、常に飲食をもって一切の飢えた衆生に恵み施され、さらにはご自身の血肉や骨髄までも施して、彼らを満足させてこられた。ましてや、その他の飲食については言うまでもない。」
時彼菩薩於世尊所,作是念時,以佛威力,其室忽然廣博嚴淨,帝青琉璃種種眾寶,雜彩間飾,如佛淨土,有妙香氣過諸天香,芬馥充滿。於其四面各有上妙師子之座,四寶所成,以天寶衣而敷其上。復於此座有妙蓮花,種種珍寶以為嚴飾,量等如來自然顯現。於蓮花上有四如來,東方不動,南方寶相,西方無量壽,北方天鼓音。是四如來各於其座加趺而坐,放大光明,周遍照耀王舍大城,及此三千大千世界,乃至十方恒河沙等諸佛國土,雨諸天花,奏諸天樂。爾時,於此贍部洲中及三千大千世界,所有眾生,以佛威力,受勝妙樂,無有乏少。若身不具,皆蒙具足,盲者能視,聾者得聞,瘂者能言,愚者得智,若心亂者得本心,若無衣者得衣服,被惡賤者人所敬,有垢穢者身清潔,於此世間所有利益,未曾有事,悉皆顯現。
その時、菩薩が世尊のもとでこのように念じた瞬間、仏の威神力によって、その部屋は忽然と広大で厳かで清らかとなりました。帝釈青の瑠璃や様々な宝が、多彩な色合いで飾り合い、まるで仏の浄土のようでした。妙なる香気は天界の香りをも超え、芳しい香りが満ち溢れました。
四方にはそれぞれ最上の師子座があり、四種の宝で成り、天界の宝衣が敷かれていました。さらにその座には妙なる蓮華があり、様々な珍宝で厳かに飾られ、その大きさは如来の座と等しく、自然に顕現しました。蓮華の上には四尊の如来がおられました。東方の不動如来、南方の宝相如来、西方の無量寿如来、北方の天鼓音如来です。この四如来はそれぞれの座に結跏趺坐し、大いなる光明を放って、王舎城とこの三千大千世界、さらには十方の恒河沙の数の諸仏国土を遍く照らし、天の花を降らせ、天の音楽を奏でました。
その時、この閻浮提の中と三千大千世界のすべての衆生は、仏の威神力によって、勝れた妙なる楽しみを受け、欠けることなく、満たされました。身体が不具足であった者は皆、具足を得、盲者は見えるようになり、聾者は聞こえるようになり、唖者は話せるようになり、愚者は智慧を得、心が乱れていた者は本来の心を取り戻し、衣服のない者は衣服を得、悪く軽んじられていた者は人々から敬われ、垢に穢れていた者は身体が清浄になりました。この世におけるすべての利益と、かつてなかった事柄が、ことごとく顕現したのです。
爾時,妙幢菩薩見四如來及希有事,歡喜踊躍,合掌一心,瞻仰諸佛殊勝之相,亦復思惟釋迦牟尼如來無量功德,惟於壽命生疑惑心:「云何如來功德無量,壽命短促唯八十年?」
その時、妙幢菩薩は四如来とこの稀有な出来事を目にし、喜びに満ちて躍り上がり、両手を合わせて一心に諸仏の優れたお姿を仰ぎ見ました。また、釈迦牟尼如来の無量の功徳を思いめぐらせながら、ただ寿命についてだけ疑問の念を抱きました。「どうして如来の功徳は無量であるのに、寿命はわずか八十年と短いのでしょうか?」
爾時,四佛告妙幢菩薩言:「善男子!汝今不應思忖如來壽命長短。何以故?善男子!我等不見諸天世間梵、魔、沙門、婆羅門等,人及非人,有能算知佛之壽量,知其齊限;惟除無上正遍知者。」時四如來欲說釋迦牟尼佛所有壽量,以佛威力,欲色界天諸龍、鬼神、健闥婆、阿蘇羅、揭路茶、緊那羅、莫呼洛伽,及無量百千億那庾多菩薩摩訶薩,悉來集會,入妙幢菩薩淨妙室中。
その時、四仏は妙幢菩薩に告げられました。
「善男子よ、あなたは今、如来の寿命の長短を考えてはなりません。なぜならば、善男子よ、私たちは、天界や世間の梵天、魔王、沙門、婆羅門など、人間であれ非人間であれ、仏の寿命の量を計算し、その限界を知ることのできる者を見たことがないからです。ただ、無上の正等覚者(仏陀)だけがそれを知ることができるのです。」
その時、四如来は、釈迦牟尼仏のすべての寿命について説こうとされました。仏の威神力によって、欲界と色界の天、諸々の龍、鬼神、健闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽、そして無量百千億那由他もの菩薩摩訶薩たちが、すべて集まって来られ、妙幢菩薩の清浄で妙なる室の中に入られました。
爾時,四佛於大眾中,欲顯釋迦牟尼如來所有壽量,而說頌曰:
その時、四仏は大衆の中で、釈迦牟尼如来のすべての寿命を明らかにしようとして、次の頌を説かれた。
「一切諸海水, 可知其渧數;
無有能數知, 釋迦之壽量。
析諸妙高山, 如芥可知數;
無有能數知, 釋迦之壽量。
一切大地土, 可知其塵數;
無有能數知, 釋迦之壽量。
假使量虛空, 可得盡邊際;
無有能度知, 釋迦之壽量。
若人住億劫, 盡力常算數;
亦復不能知, 世尊之壽量。
不害眾生命, 及施於飲食;
由斯二種因, 得壽命長遠。
是故大覺尊, 壽命難知數;
如劫無邊際, 壽量亦如是。
妙幢汝當知, 不應起疑惑;
最勝壽無量, 莫能知數者。」
すべての海の水の滴も、その数を知ることはできる。 しかし、釈迦の寿命の量を数え知る者は、誰もいない。
すべての須弥山を芥子粒のように砕いても、その数を知ることはできる。 しかし、釈迦の寿命の量を数え知る者は、誰もいない。
すべての大地の塵も、その数を知ることはできる。 しかし、釈迦の寿命の量を数え知る者は、誰もいない。
たとえ虚空を測り尽くして、その果てを知ることができたとしても、 釈迦の寿命の量を測り知ることは、誰にもできない。
もし人が億劫もの間、力を尽くして常に計算したとしても、 それでもなお、世尊の寿命の量を知ることはできない。
衆生の命を害さず、また飲食を施すこと、 この二つの因によって、寿命は長遠を得るのである。
それゆえに大覚尊の寿命は、その数を知ることが難しく、 劫が際限がないように、寿命の量もまたそのようなものである。
妙幢よ、あなたは知るべきである。疑いを起こしてはならない。 最勝なる者の寿命は無量であり、その数を知りうる者は誰もいない。
爾時,妙幢菩薩聞四如來說釋迦牟尼佛壽量無限,白言:「世尊!云何如來示現如是短促壽量?」
その時、妙幢菩薩は四如来が釈迦牟尼仏の寿命が無限であると説かれるのを聞き、こう申し上げました。「世尊よ、なぜ如来はこのように短い寿命を示されるのですか?」
時四世尊告妙幢菩薩言:「善男子!彼釋迦牟尼佛於五濁世出現之時,人壽百年,稟性下劣,善根微薄,復無信解。此諸眾生多有我見、人見、眾生、壽者、養育邪見、我我所見、斷常見等,為欲利益此諸異生及眾外道如是等類,令生正解,速得成就無上菩提,是故釋迦牟尼如來示現如是短促壽命。善男子!然彼如來欲令眾生見涅槃已,生難遭想、憂苦等想,於佛世尊所說經教,速當受持,讀誦通利,為人解說,不生謗毀,是故如來現斯短壽。何以故?彼諸眾生若見如來不般涅槃,不生恭敬難遭之想,如來所說甚深經典,亦不受持讀誦通利、為人宣說。所以者何?以常見佛,不尊重故。善男子!譬如有人見其父母多有財產,珍寶豐盈,便於財物不生希有難遭之想。所以者何?於父財物生常想故。善男子!彼諸眾生亦復如是,若見如來不入涅槃,不生希有難遭之想。所以者何?由常見故。善男子!譬如有人父母貧窮,資財乏少,然彼貧人或詣王家、或大臣舍,見其倉庫種種珍寶悉皆盈滿,生希有心,難遭之想。時彼貧人為欲求財,廣設方便,策勤無怠。所以者何?為捨貧窮,受安樂故。善男子!彼諸眾生亦復如是,若見如來入於涅槃,生難遭想乃至憂苦等想,復作是念:『於無量劫諸佛如來出現於世,如烏曇跋花,時乃一現。』彼諸眾生發希有心,起難遭想。若遇如來,心生敬信,聞說正法,生實語想,所有經典悉皆受持,不生毀謗。善男子!以是因緣,彼佛世尊,不久住世,速入涅槃。善男子!是諸如來,以如是等善巧方便成就眾生。」爾時,四佛說是語已,忽然不現。
その時、世尊は妙幢菩薩に告げられた。 「善男子よ、あの釈迦牟尼仏が五濁の世に出現された時、人の寿命は百年であり、人々の性質は劣り、善根は微かで、信解もありませんでした。これらの衆生は多くが我見・人見・衆生見・寿者見・養育の邪見・我我所見・断常などの見解を持っていました。このような異生や外道などの者たちを利益し、正しい理解を生じさせ、速やかに無上菩提を成就させるために、釈迦牟尼如来はこのように短い寿命を示されたのです。 善男子よ、また、あの如来は衆生に涅槃を見せ、『めったにないことだ』という思いや、憂い苦しみなどの思いを起こさせ、仏世尊の説かれた経典の教えを速やかに受け持ち、読誦し理解し、人々に解き明かし、誹謗しないようにさせるため、如来はこの短い寿命を示されたのです。なぜなら、もし衆生が如来が涅槃に入らないのを見れば、恭敬の念や『めったにないことだ』という思いを起こさず、如来の説かれた深遠な経典も受け持ち、読誦し理解し、人々に説くことをしないからです。なぜかといえば、常に仏を見ているため、尊重しないからです。 善男子よ、たとえば、ある人が父母に多くの財産や珍宝が豊かにあるのを見て、財物に対して『めったにないものだ』という思いを起こさないようなものです。なぜかといえば、父の財物を常にあるものと思うからです。善男子よ、それらの衆生もまた同じで、もし如来が涅槃に入らないのを見れば、『めったにないことだ』という思いを起こしません。なぜかといえば、常に見ているからです。 善男子よ、たとえば、父母が貧しく資財に乏しい人が、王の家や大臣の屋敷に行き、倉庫にさまざまな珍宝が満ちているのを見て、『めったにないものだ』という思いを起こすようなものです。その貧しい人は財を求めるために、あらゆる方法を広く設け、怠らずに努めます。なぜかといえば、貧しさを捨て、安楽を受けるためです。 善男子よ、それらの衆生もまた同じで、もし如来が涅槃に入るのを見れば、『めったにないことだ』という思いや、憂い苦しみなどの思いを起こし、さらにこう思うのです。『無量劫の間に諸仏如来が世に出現されることは、烏曇跋華が時を経てようやく一度咲くようなものだ』と。それらの衆生は『めったにないことだ』という心を起こし、『めったにないことだ』という思いを起こします。もし如来に遇えば、心に恭敬と信心を起こし、正法を聞けば真実の言葉と思うようになり、すべての経典を受け持ち、誹謗しなくなります。 善男子よ、このような因縁によって、あの仏世尊は長く世に住まず、速やかに涅槃に入られたのです。善男子よ、これらの如来は、このような善巧方便によって衆生を成就されるのです。」 その時、四仏はこの言葉を説き終えると、忽然と姿を消された。
爾時,妙幢菩薩摩訶薩與無量百千菩薩,及無量億那庾多百千眾生,俱共往詣鷲峯山中釋迦牟尼如來正遍知所,頂禮佛足,在一面立。時妙幢菩薩以如上事具白世尊。
その時、妙幢菩薩摩訶薩は、無量百千の菩薩たちと、無量億那庾多の百千の衆生たちと共に、霊鷲山の中へと赴き、釈迦牟尼如来・正遍知のもとに至った。そして仏足を頂礼し、一隅に立った。その時、妙幢菩薩は、先の出来事をありのままに世尊に申し上げた。
時四如來亦詣鷲峯,至釋迦牟尼佛所,各隨本方就座而坐,告侍者菩薩言:「善男子!汝今可詣釋迦牟尼佛所,為我致問:『少病少惱,起居輕利,安樂行不?』復作是言:『善哉!善哉!釋迦牟尼如來!今可演說《金光明經》甚深法要,為欲饒益一切眾生,除去飢饉,令得安樂,我當隨喜。』」
その時、四如来もまた霊鷲山に至り、釈迦牟尼仏のもとに到着し、それぞれの方角に従って座につき、侍者の菩薩に告げて言いました。
「善男子よ、今すぐ釈迦牟尼仏のもとに行き、私の代わりに尋ねてくれ。 『ご病気も少なく、煩いも少なく、日常の暮らしも軽やかで、安楽に過ごしておられますか?』 さらにこう言いなさい。 『善きかな、善きかな、釈迦牟尼如来よ。今こそ『金光明経』の深遠な法の要を説き示してください。すべての衆生を豊かにし、飢饉を取り除き、安楽を得させようとお思いなら、私は心から喜び随喜いたします。』」
時彼侍者各詣釋迦牟尼佛所,頂禮雙足,却住一面,俱白佛言:「彼天人師致問無量:『少病少惱,起居輕利,安樂行不?』復作是言:『善哉!善哉!釋迦牟尼如來!今可演說《金光明經》甚深法要,為欲利益一切眾生,除去飢饉,令得安樂。』」
その時、侍者たちはそれぞれ釈迦牟尼仏のもとに赴き、両足を礼拝し、一歩下がって立ち、一斉に仏に申し上げました。「あの天人の師が無量のご挨拶を伝えておられます。『お体の不調や悩みは少なく、日常の動きは軽やかで、安らかに修行されていますか?』と。また、このようにおっしゃっています。『善きかな、善きかな、釈迦牟尼如来よ。今こそ『金光明経』の甚深なる法の要を説き示し、一切の衆生を利益し、飢饉を取り除き、安楽を得させてください。』」
爾時,釋迦牟尼如來、應、正等覺告彼侍者諸菩薩言:「善哉!善哉!彼四如來乃能為諸眾生饒益安樂,勸請於我宣揚正法。」
その時、釈迦牟尼如来は、そばに仕える菩薩たちに告げられました。
「善きかな、善きかな。かの四如来は、あらゆる生きとし生けるものの利益と安楽のために、わたしに正しい教えを説くよう勧めてくださったのだ。」
爾時世尊,而說頌曰:
その時、世尊は偈を説かれました。
「我常在鷲山, 宣說此經寶;
成就眾生故, 示現般涅槃。
凡夫起邪見, 不信我所說;
為成就彼故, 示現般涅槃。」
私は常に霊鷲山にいて、この尊い経典を説き続けています。 しかし、人々を導き成就させるために、涅槃に入る姿を示すのです。 凡夫は邪な見解を抱き、私の説くことを信じません。 彼らを成就させるために、涅槃に入る姿を示すのです。
時大會中有婆羅門,姓憍陳如,名曰法師授記,與無量百千婆羅門眾,供養佛已,聞世尊說入般涅槃,涕淚交流,前禮佛足,白言:「世尊!若實如來於諸眾生有大慈悲,憐愍利益,令得安樂,猶如父母,餘無等者,能與世間作歸依處,如淨滿月,以大智慧能為照明,如日初出,普觀眾生,愛無偏黨,如羅怙羅,惟願世尊施我一願!」
その時、大会の中に、婆羅門がおりました。姓は憍陳如、名は法師授記といい、無量百千の婆羅門の大衆と共に仏を供養し終えて、世尊が般涅槃に入られることを説かれるのを聞き、涙を流して顔をぬらし、進み出て仏足を礼し、申し上げました。
「世尊よ、もしも如来が、あらゆる衆生に対して大いなる慈悲をもち、憐れみ、利益を与え、安楽を得させてくださるならば、それは父母のようであり、他に比べるものはありません。世間の拠り所となることができ、まるで満月のように清らかで、大いなる智慧をもって照らし明かすことができ、朝日が昇るようです。すべての衆生を偏りなく慈しみ、羅怙羅のように平等です。どうか世尊、私に一つの願いをお授けください!」
爾時世尊默然而止。佛威力故,於此眾中,有梨車毘童子,名一切眾生憙見,語婆羅門憍陳如言:「大婆羅門!汝今從佛欲乞何願?我能與汝。」
その時、世尊は黙っておられました。仏の威神力によって、この会衆の中にいた梨車毘族の童子、一切衆生喜見という者が、婆羅門の憍陳如に言いました。「大婆羅門よ、あなたは今、仏に何を願おうとしているのですか。私があなたに与えることができます。」
婆羅門言:「童子!我欲供養無上世尊,今從如來求請舍利如芥子許。何以故?我曾聞說:『若善男子、善女人得佛舍利如芥子許,恭敬供養,是人當生三十三天而為帝釋。』」
婆羅門が申しました。「童子よ、私は無上の世尊に供養をささげたいと願っています。どうか如来から、芥子粒ほどの舍利を授けていただけないでしょうか。なぜかと申しますと、かねてこう聞いております。『もし善男子、善女人が、芥子粒ほどの仏舍利を得て、恭敬し供養するならば、その人は三十三天に生まれて帝釈となるであろう』と。」
是時童子語婆羅門曰:「若欲願生三十三天受勝報者,應當至心聽是《金光明最勝王經》。於諸經中最為殊勝,難解難入,聲聞、獨覺所不能知;此經能生無量無邊福德果報,乃至成辦無上菩提。我今為汝略說其事。」
その時、童子は婆羅門に言いました。「もし三十三天に生まれ、勝れた果報を受けたいと願うならば、心を込めてこの『金光明最勝王経』を聞くべきです。この経は諸経の中でも最も殊勝であり、難解で深遠なため、声聞や独覚でも理解することができません。この経は無量無辺の福徳果報を生み出し、ついには無上菩提を成就させることができます。今、私はあなたのために、そのことを少しお話ししましょう。」
婆羅門言:「善哉!童子!此《金光明》甚深最上,難解難入,聲聞、獨覺尚不能知,何況我等邊鄙之人,智慧微淺而能解了。是故我今求佛舍利如芥子許,持還本處,置寶函中,恭敬供養,命終之後得為帝釋,常受安樂。云何汝今不能為我從明行足求斯一願?」作是語已。
婆羅門は言った。「善きかな、童子よ。この『金光明経』は非常に深遠で最上の教えであり、理解することも入り込むことも難しい。声聞や独覚でさえもまだ知ることができないのに、ましてや私たちのような辺境の者で、智慧が微かで浅い者が理解し得ようか。それゆえ、私は今、芥子粒ほどの仏舎利を求め、持ち帰って宝の函に納め、恭敬して供養し、命終わった後に帝釈天となり、常に安楽を受けることを願っているのだ。どうして今、あなたは明行足(仏陀)にこの一つの願いを求めてくれないのか。」このように語った。
爾時童子即為婆羅門而說頌曰:
その時、童子はすぐにバラモンに向かって、このような詩を語りました。
「恒河駛流水, 可生白蓮花;
黃鳥作白形, 黑鳥變為赤。
假使贍部樹, 可生多羅果;
朅樹羅枝中, 能出菴羅葉。
斯等希有物, 或容可轉變;
世尊之舍利, 畢竟不可得。
假使用龜毛, 織成上妙服,
寒時可被著, 方求佛舍利。
假使蚊蚋足, 可使成樓觀,
堅固不搖動, 方求佛舍利。
假使水蛭蟲, 口中生白齒,
長大利如鋒, 方求佛舍利。
假使持兔角, 用成於梯蹬,
可昇上天宮, 方求佛舍利。
鼠緣此梯上, 除去阿蘇羅,
能障空中月, 方求佛舍利。
若蠅飲酒醉, 周行村邑中,
廣造於舍宅, 方求佛舍利。
若使驢脣色, 赤如頻婆果,
善作於歌舞, 方求佛舍利。
烏與鵂鶹鳥, 同共一處遊,
彼此相順從, 方求佛舍利。
假使波羅葉, 可成於傘蓋,
能遮於大雨, 方求佛舍利。
假令大船舶, 盛滿諸財寶,
能令陸地行, 方求佛舍利。
假使鷦鷯鳥, 以嘴銜香山,
隨處任遊行, 方求佛舍利。」
ガンジス川の激流が、 白い蓮の花を咲かせ、 黄色い鳥が白い姿になり、 黒い鳥が赤く変わることがあっても。
もし贍部樹が、 多羅の実を結び、 朅樹羅の枝から、 菴羅の葉が生えることがあっても。
このような稀なことが、 たとえ起こりうるとしても、 世尊の舎利を求めることは、 決して叶わないことなのです。
亀の毛で織った上等の衣が、 寒さを防げるようになってから、 仏の舎利を求めなさい。
蚊の足で作った楼閣が、 揺るぎなく堅固になってから、 仏の舎利を求めなさい。
蛭の口に白い歯が生え、 鋭く長く伸びてから、 仏の舎利を求めなさい。
ウサギの角で作った階段で、 天宮に昇れるようになってから、 仏の舎利を求めなさい。
ネズミがその階段を上り、 阿修羅を退けて、 空の月を覆うことができてから、 仏の舎利を求めなさい。
ハエが酒に酔って、 村々を歩き回り、 立派な家を建てられるようになってから、 仏の舎利を求めなさい。
ロバの唇の色が、 真っ赤な頻婆果のようになり、 上手に歌い踊れるようになってから、 仏の舎利を求めなさい。
カラスとフクロウが、 共に遊び、 互いに従い合うようになってから、 仏の舎利を求めなさい。
波羅の葉で作った傘が、 大雨を防げるようになってから、 仏の舎利を求めなさい。
財宝で満ちた大船が、 陸地を進めるようになってから、 仏の舎利を求めなさい。
ミソサザイが嘴で香山をくわえ、 自由に飛び回れるようになってから、 仏の舎利を求めなさい。
爾時,法師授記婆羅門聞此頌已,亦以伽他答一切眾生憙見童子曰:
その時、法師授記婆羅門はこの頌を聞き終えると、一切衆生憙見童子に伽陀をもって答えました。
「善哉大童子, 此眾中吉祥;
善巧方便心, 得佛無上記。
如來大威德, 能救護世間;
仁可至心聽, 我今次第說。
諸佛境難思, 世間無與等;
法身性常住, 修行無差別。
諸佛體皆同, 所說法亦爾;
諸佛無作者, 亦復本無生。
世尊金剛體, 權現於化身;
是故佛舍利, 無如芥子許。
佛非血肉身, 云何有舍利?
方便留身骨, 為益諸眾生。
法身是正覺, 法界即如來;
此是佛真身, 亦說如是法。」
善きかな、大童子よ、この会衆の中に吉祥あり。 巧みなる方便の心、仏の無上の記別を得たり。 如来の大威徳は、よく世間を救護す。 汝、心を至して聴け、我今次第に説かん。 諸仏の境は思議し難く、世間に等しきもの無し。 法身の性は常住にして、修行に差別無し。 諸仏の体は皆同じく、説く法もまた然り。 諸仏に作者無く、また本来生ずること無し。 世尊の金剛の体、権に化身に現ず。 是の故に仏の舎利、芥子の許りも無し。 仏は血肉の身に非ず、如何にして舎利有らん。 方便に身骨を留め、諸の衆生を益せんが為なり。 法身は即ち正覚、法界は即ち如来。 此れは仏の真身なり、また是の如き法を説く。
爾時,會中三萬二千天子,聞說如來壽命長遠,皆發阿耨多羅三藐三菩提心,歡喜踊躍,得未曾有。異口同音,而說頌曰:
その時、会場にいた三萬二千人の天子たちは、如来の寿命が長遠であることを聞き、皆、阿耨多羅三藐三菩提心を発し、歓喜して踊り上がり、かつてないほどの喜びを得ました。彼らは異口同音に、次の偈を唱えました:
「佛不般涅槃, 正法亦不滅;
為利眾生故, 示現有滅盡。
世尊不思議, 妙體無異相;
為利眾生故, 現種種莊嚴。」
仏は涅槃に入らず、正法もまた滅びず。 衆生を利するために、滅尽を示現す。
世尊は不思議なり、妙なる体に異相なし。 衆生を利するために、種々の荘厳を現ず。
爾時,妙幢菩薩親於佛前,及四如來并二大士諸天子所,聞說釋迦牟尼如來壽量事已,復從座起,合掌恭敬白佛言:「世尊!若實如是,諸佛如來不般涅槃,無舍利者,云何經中說有涅槃及佛舍利,令諸人天恭敬供養?過去諸佛現有身骨流布於世,人天供養得福無邊?今復言無,致生疑惑。惟願世尊哀愍我等,廣為分別!」
その時、妙幢菩薩はみずから仏の御前におり、四如来と二大士、諸々の天子たちの前で、釈迦牟尼如来の寿命のことを説き聞かされた後、再び座から立ち上がり、合掌して恭しく仏に申し上げました。
「世尊よ、もし本当にその通りで、諸仏如来が涅槃に入らず、舎利を残さないのであれば、どうして経典の中には涅槃と仏舎利があると説かれ、人々や天たちが恭敬供養するようになっているのでしょうか。過去の諸仏の身骨が現に世に流布し、人々や天が供養して無量の福を得ているというのに、今になって『無い』と言われると、疑いが生じてしまいます。どうか世尊、どうか私たちを哀れみ、詳しく分別してお説きください!」
爾時,佛告妙幢菩薩及諸大眾:「汝等當知!云般涅槃有舍利者,是密意說,如是之義,當一心聽。善男子!菩薩摩訶薩如是應知,有其十法能解如來、應、正等覺真實理趣,說有究竟大般涅槃。云何為十?一者、諸佛如來究竟斷盡諸煩惱障、所知障故,名為涅槃。二者、諸佛如來善能解了有情無性及法無性故,名為涅槃。三者、能轉身依及法依故,名為涅槃。四者、於諸有情任運休息化因緣故,名為涅槃。五者、證得真實無差別相平等法身故,名為涅槃。六者、了知生死及以涅槃無二性故,名為涅槃。七者、於一切法了其根本,證清淨故,名為涅槃。八者、於一切法無生無滅善修行故,名為涅槃。九者、真如法界實際平等,得正智故,名為涅槃。十者、於諸法性及涅槃性,得無差別故,名為涅槃。是謂十法說有涅槃。
その時、仏は妙幢菩薩と諸々の大衆に告げられた。 「あなたがたは知るべきである。『般涅槃には舎利がある』というのは、密意をもって説かれたものである。このような意味を、一心に聞きなさい。
善男子よ。菩薩摩訶薩はこのように知るべきである。如来・応供・正等覚の真実の理趣を解し、究竟の大般涅槃があると説くことのできる十の法がある。いかなるものが十か。
第一に、諸仏如来は煩悩障と所知障とを究竟に断じ尽くされたゆえに、涅槃と名づける。 第二に、諸仏如来は有情の無性と法の無性とを善く解了されたゆえに、涅槃と名づける。 第三に、身依と法依とを転ずることができるゆえに、涅槃と名づける。 第四に、諸々の有情に対して、化導の因縁を任運に休息されるゆえに、涅槃と名づける。 第五に、真実にして差別なき平等の法身を証得されたゆえに、涅槃と名づける。 第六に、生死と涅槃とが二つの性ではないことを了知されたゆえに、涅槃と名づける。 第七に、一切の法の根本を了知し、清浄を証されたゆえに、涅槃と名づける。 第八に、一切の法は生ぜず滅せずと善く修行されたゆえに、涅槃と名づける。 第九に、真如・法界・実際が平等であることを正智によって得られたゆえに、涅槃と名づける。 第十に、諸法の性と涅槃の性とに差別がないことを得られたゆえに、涅槃と名づける。
これらを十の法として、涅槃があると説くのである。」
「復次,善男子!菩薩摩訶薩如是應知,復有十法,能解如來、應、正等覺真實理趣,說有究竟大般涅槃。云何為十?一者、一切煩惱以樂欲為本,從樂欲生;諸佛世尊斷樂欲故,名為涅槃。二者、以諸如來斷諸樂欲,不取一法,以不取故,無去無來,無所取故,名為涅槃。三者、以無去來及無所取,是則法身不生不滅,無生滅故,名為涅槃。四者、此無生滅非言所宣,言語斷故,名為涅槃。五者、無有我人,惟法生滅,得轉依故,名為涅槃。六者、煩惱隨惑,皆是客塵,法性是主,無來無去,佛了知故,名為涅槃。七者、真如是實,餘皆虛妄,實性體者即是真如,真如性者即是如來,名為涅槃。八者、實際之性無有戲論,惟獨如來證實際法,戲論永斷,名為涅槃。九者、無生是實,生是虛妄,愚癡之人漂溺生死,如來體實,無有虛妄,名為涅槃。十者、不實之法是從緣生,真實之法不從緣起,如來法身,體是真實,名為涅槃。善男子!是謂十法說有涅槃。
さらにまた、善き男子よ、菩薩摩訶薩はこのように知るべきである。さらに十の法があり、これによって如来・応供・正等覚の真実の理趣を解し、究竟の大般涅槃があると説くことができる。その十とは何か。
第一に、一切の煩悩は楽欲(欲望への執着)を根本とし、楽欲から生ずる。諸仏世尊は楽欲を断じたゆえに、涅槃と名づける。
第二に、諸如来は一切の楽欲を断じ、いかなる法をも取らない。取らないがゆえに、去ることも来ることもなく、取るべきものがないゆえに、涅槃と名づける。
第三に、去ることも来ることもなく、取るべきものもないならば、これは法身であり、生ずることも滅することもない。生滅がないゆえに、涅槃と名づける。
第四に、この生滅のないことは言葉で言い表せない。言語の道が断たれたゆえに、涅槃と名づける。
第五に、我も人も存在せず、ただ法の生滅があるのみであるが、転依(依り所の転換)を得たゆえに、涅槃と名づける。
第六に、煩悩と随煩悩はすべて客塵(一時的な汚れ)であり、法性こそが主である。来ることも去ることもなく、仏はこれを了知したゆえに、涅槃と名づける。
第七に、真如は実在であり、その他はすべて虚妄である。実在の本性の体こそが真如であり、真如の本性こそが如来である。これを涅槃と名づける。
第八に、実際の本性には戯論(無意味な議論)はない。ただ如来のみが実際の法を証得し、戯論を永遠に断った。これを涅槃と名づける。
第九に、無生は実在であり、生は虚妄である。愚かな人々は生死に漂い溺れるが、如来は実在を体現し、虚妄がない。これを涅槃と名づける。
第十に、不実の法は縁から生じるが、真実の法は縁から起こらない。如来の法身は、その体が真実である。これを涅槃と名づける。
善き男子よ、これが涅槃があると説く十の法である。
「復次,善男子!菩薩摩訶薩如是應知,復有十法,能解如來、應、正等覺真實理趣,說有究竟大般涅槃。云何為十?一者、如來善知施及施果,無我我所,此施及果不正分別,永除滅故,名為涅槃。二者、如來善知戒及戒果,無我我所,此戒及果不正分別,永除滅故,名為涅槃。三者、如來善知忍及忍果,無我我所,此忍及果不正分別,永除滅故,名為涅槃。四者、如來善知勤及勤果,無我我所,此勤及果不正分別,永除滅故,名為涅槃。五者、如來善知定及定果,無我我所,此定及果不正分別,永除滅故,名為涅槃。六者、如來善知慧及慧果,無我我所,此慧及果不正分別,永除滅故,名為涅槃。七者、諸佛如來善能了知一切有情非有情,一切諸法皆無性,不正分別,永除滅故,名為涅槃。八者、若自愛者便起追求,由追求故,受眾苦惱;諸佛如來除自愛故,永絕追求,無追求故,名為涅槃。九者、有為之法皆有數量,無為法者數量皆除,佛離有為,證無為法,無數量故,名為涅槃。十者、如來了知有情及法,體性皆空,離空非有,空性即是真法身故,名為涅槃。善男子!是謂十法說有涅槃。
「復次、善男子よ。菩薩摩訶薩はこのように知るべきです。さらに十の法があり、如来・応供・正等覚の真実の理趣を理解して、究竟の大般涅槃があると説くことができます。その十とは何でしょうか。
一つには、如来は施しと施しの果とをよく知っており、我も我所もありません。この施しと果とに対する不正な分別を永遠に除き滅ぼしたので、これを涅槃と名づけます。
二つには、如来は戒と戒の果とをよく知っており、我も我所もありません。この戒と果とに対する不正な分別を永遠に除き滅ぼしたので、これを涅槃と名づけます。
三つには、如来は忍と忍の果とをよく知っており、我も我所もありません。この忍と果とに対する不正な分別を永遠に除き滅ぼしたので、これを涅槃と名づけます。
四つには、如来は勤と勤の果とをよく知っており、我も我所もありません。この勤と果とに対する不正な分別を永遠に除き滅ぼしたので、これを涅槃と名づけます。
五つには、如来は定と定の果とをよく知っており、我も我所もありません。この定と果とに対する不正な分別を永遠に除き滅ぼしたので、これを涅槃と名づけます。
六つには、如来は慧と慧の果とをよく知っており、我も我所もありません。この慧と果とに対する不正な分別を永遠に除き滅ぼしたので、これを涅槃と名づけます。
七つには、諸仏如来は、すべての有情は有情ではないこと、すべての諸法はみな本性を欠いていることを、よく理解しています。不正な分別を永遠に除き滅ぼしたので、これを涅槃と名づけます。
八つには、もし自己を愛するならば、そのまま追究の心が起こります。追究するがゆえに、多くの苦悩を受けます。諸仏如来は自己への愛を除いたので、追究を永遠に断ち切りました。追究しないがゆえに、これを涅槃と名づけます。
九つには、有為の法にはみな数量がありますが、無為の法には数量がすべて除かれています。仏は有為を離れ、無為の法を証されて、数量がないので、これを涅槃と名づけます。
十つには、如来は有情と法との体性がみな空であることを了知しています。空を離れて空でないものはなく、空性こそが真の法身であるので、これを涅槃と名づけます。
善男子よ、これが涅槃があると説く十の法です。」
「復次,善男子!豈惟如來不般涅槃是為希有?復有十種希有之法,是如來行。云何為十?一者、生死過失,涅槃寂靜,由於生死及以涅槃證平等故,不處流轉,不住涅槃,於諸有情不生厭背,是如來行。二者、佛於眾生不作是念:『此諸愚夫行顛倒見,為諸煩惱之所纏迫;我今開悟,令其解脫。』然由往昔慈善根力,於彼有情隨其根性意樂勝解,不起分別,任運濟度,示教利喜,盡未來際無有窮盡,是如來行。三者、佛無是念:『我今演說十二分教,利益有情。』然由往昔慈善根力,為彼有情廣說,乃至盡未來際無有窮盡,是如來行。四者、佛無是念:『我今往彼城邑聚落,王及大臣、婆羅門、剎帝利、薜舍、戍達羅等舍,從其乞食。』然由往昔身語意行慣習力故,任運詣彼,為利益事而行乞食,是如來行。五者、如來之身無有饑渴,亦無便利羸憊之相,雖行乞取而無所食,亦無分別,然為任運利益有情,示有食相,是如來行。六者、佛無是念:『此諸眾生,有上、中、下,隨彼機性而為說法。』然佛世尊無有分別,隨其器量善應機緣,為彼說法,是如來行。七者、佛無是念:『此類有情不恭敬我,常於我所出呵罵言,不能與彼共為言論;彼類有情恭敬於我,常於我所共相讚歎,我當與彼共為言說。』然而如來起慈悲心,平等無二,是如來行。八者、諸佛如來無有愛憎、憍慢、貪惜及諸煩惱,然而如來常樂寂靜,讚歎少欲,離諸諠閙,是如來行。九者、如來無有一法不知、不善通達,於一切處鏡智現前無有分別。然而如來,見彼有情所作事業,隨彼意轉,方便誘引,令得出離,是如來行。十者、如來若見一分有情得富盛時,不生歡喜;見其衰損,不起憂慼。然而如來見彼有情修習正行,無礙大慈自然救攝;若見有情修習邪行,無礙大悲自然救攝。是如來行。善男子!如是當知如來、應、正等覺,說有如是無邊正行。汝等當知,是謂涅槃真實之相。或時見有般涅槃者,是權方便,及留舍利令諸有情恭敬供養,皆是如來慈善根力。若供養者,於未來世,遠離八難,逢值諸佛,遇善知識,不失善心,福報無邊,速當出離,不為生死之所纏縛,如是妙行,汝等勤修,勿為放逸。」
さらにまた、善男子よ。ただ如来が涅槃に入らないことが稀有なだけだろうか。さらに十種の稀有なる法があり、これが如来の行いである。どのようなものが十か。
一に、生死には過失があり、涅槃は寂静である。しかし生死と涅槃とが平等であることを悟ったゆえに、生死の流転にとどまらず、涅槃にも安住せず、一切の有情に対して厭離の心を起こさない。これが如来の行いである。
二に、仏は衆生に対して「この愚かな者たちは倒見を行い、煩悩に縛られている。私は今、彼らを目覚めさせて解脱させよう」などとは思わない。ただ、過去世からの慈悲の根の力によって、それらの有情の根性・意楽・勝解に応じて、分別を起こすことなく、自然に救済し導き、教え示し利益し喜ばせ、尽きることなき未来にわたって窮まりがない。これが如来の行いである。
三に、仏は「私は今、十二分教を説いて有情を利益しよう」などとは思わない。ただ、過去世からの慈悲の根の力によって、それらの有情のために広く説き、尽きることなき未来にわたって窮まりがない。これが如来の行いである。
四に、仏は「私は今、あの町や村、王や大臣、バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラなどの家に行き、乞食しよう」などとは思わない。ただ、過去世からの身・口・意の行いの慣習の力によって、自然にそこへ赴き、利益のための行いとして乞食する。これが如来の行いである。
五に、如来の身には飢えや渇きがなく、また便所に行くような疲れ弱った相もない。乞食はするが、実際には食べることもなく、また分別もない。しかし、有情を利益するために自然に、食事をする相を示す。これが如来の行いである。
六に、仏は「この衆生には上・中・下があり、その機根に応じて説法しよう」などとは思わない。しかし仏世尊には分別がなく、その器量に応じて巧みに機縁に応じ、彼らのために説法する。これが如来の行いである。
七に、仏は「このような有情は私を敬わず、常に私のところで罵りの言葉を発するので、彼らとは言葉を交わすことができない。あのような有情は私を敬い、常に私のところで共に讃嘆するので、私は彼らと言葉を交わそう」などとは思わない。しかし如来は慈悲の心を起こし、平等にして二つがない。これが如来の行いである。
八に、諸仏如来には愛憎・驕慢・貪惜および諸々の煩悩がない。しかし如来は常に寂静を楽しみ、少欲を讃嘆し、諸々の喧騒を離れている。これが如来の行いである。
九に、如来には一つの法も知らないものはなく、善く通達していないものはない。一切のところで鏡のような智慧が現前し、分別がない。しかし如来は、それらの有情のなす事業を見て、その意のままに転じ、方便をもって誘い導き、出離させてやる。これが如来の行いである。
十に、如来は、一部の有情が富み栄えるのを見ても喜びを生じず、衰え損なうのを見ても憂い悲しまない。しかし如来は、それらの有情が正しい行いを修めるのを見れば、妨げのない大慈をもって自然に救い摂取し、もし有情が邪な行いを修めるのを見れば、妨げのない大悲をもって自然に救い摂取する。これが如来の行いである。
善男子よ。このように知るべきである。如来・応供・正等覚には、このような限りない正しい行いがあると説かれる。あなたがたは知るべきである。これが涅槃の真実の相であるということを。時に涅槃に入るように見えることがあっても、それは方便であり、また舎利を留めて諸々の有情に恭敬供養させることも、すべて如来の慈悲の根の力によるのである。もし供養するならば、未来世において八難を遠く離れ、諸仏に遇い、善知識に逢い、善き心を失うことなく、福報は限りなく、速やかに出離し、生死に縛られることはない。このような妙なる行いを、あなたがたは勤めて修め、放逸であってはならない。
爾時,妙幢菩薩聞佛親說不般涅槃及甚深行,合掌恭敬白言:「我今始知如來大師不般涅槃,及留舍利普益眾生,身心踊悅,歎未曾有。」說是如來壽量品時,無量無數無邊眾生,皆發無等等阿耨多羅三藐三菩提心。時四如來忽然不現,妙幢菩薩,禮佛足已,從座而起還其本處。
その時、妙幢菩薩は仏が自ら説かれた「般涅槃に入られないこと」と「甚深なる行い」を聞き、合掌して恭しく申し上げた。
「今こそ私は知りました。如来大師が般涅槃に入られず、また舎利を留めて広く衆生を益されることを。心身が躍り上がるほど喜び、かつてないことを称賛いたします。」
この如来寿量品が説かれた時、無量無数無辺の衆生たちが、すべて無等・無上の阿耨多羅三藐三菩提心を発しました。
すると、四如来は忽然として姿を消されました。妙幢菩薩は仏の足を礼拝し、座から立ち上がって、もとの場所にお戻りになりました。
金光明最勝王經卷第一
金光明最勝王経 巻第一