疏第十「題稱大方廣佛華嚴經」者,即無盡修多羅之總名。下略釋名題,以下第九門中廣釋,故此云略。於中有三:先雙標經品二目、二雙釋二目、後雙結上二。今初,先標經目。謂若從略至廣,展演無窮,難思教海不離七字,故云「無盡修多羅之總名」,標經題也。後「世主妙嚴品第一者,即眾篇義類之別目」者,標品目也。眾篇即三十九品。品者,義類不同。今當其一,故云別目。
疏の第十「大方広仏華厳経と題す」とは、尽きることのない経典群の総称である。以下に題名の意味を略説する。後の第九門において詳しく解釈するので、ここでは略説とする。この中に三つの部分がある。まず経題と品名の二つの目を併せて示し、次に二つの目を併せて解釈し、後に上の二つを併せて結ぶ。今、最初に経題を示す。すなわち、略から広へと展開すれば限りなく広がり、思いもよらぬ教えの海も七つの文字を離れない。ゆえに「尽きることのない経典群の総称」と言い、経題を示すのである。後に「世主妙厳品第一とは、諸篇の意味や種類を分ける別の目である」とは、品名を示す。諸篇とは三十九品のことである。品とは、意味や種類が異なることを言う。今、その中の一つに当たるので、「別の目」と言うのである。
疏「大以曠兼」下,二雙釋二目,先釋總題、後釋品目。今初。下有十門,釋其七字。字各十義,今但略舉,當字釋之。然此七字,略有六對:一經字是教、上六字是義,即教義一對。二嚴字是總、上五是別,即總別一對。三華為能嚴、上四皆所嚴,即能所一對。四佛是所嚴所成之人、上三皆所嚴之法,即人法一對。五廣者是用、上二皆體,即體用一對。六方者是相、大者是性,即性相一對。故此七字,即七大性。大者體大,方者相大,廣者用大,佛者果大,華者因大,嚴者智大,經者教大。則七字皆大,七字皆相等。今各以二義釋之。「大以曠兼無際」者,曠兼明其包含,約廣遍釋大故。《涅槃》云「所言大者,其性廣博猶如虛空。」故下經云「法性遍在一切處,一切眾生及國土,三世悉在無有餘,亦無形相而可得」也。二無際者,約其竪論,則常故名大。《涅槃》云「所言大者,名之為常。」故下經云「法性無作無變易,猶如虛空本清淨。諸佛境界亦如是,體性非性離有無。」然淵府不可以擬其深妙,故寄大以目之,實則言思斯絕。故下經云「法性不在於言論,無說離說恒寂滅,諸佛境界不可量,為悟眾生今略說。」
疏の「大は曠兼を以てす」の下は、二つの「目」を双び釈する。まず総題を釈し、後に品目を釈す。今はその初めである。下には十門あり、その七字を釈す。字ごとに十義あるが、今はただ略挙して、当字をもってこれを釈す。されどこの七字には、略して六対あり。一には「経」の字は教、上の六字は義、すなわち教義の一対。二には「厳」の字は総、上のは五つは別、すなわち総別の一対。三には「華」は能厳、上の四つは皆所厳、すなわち能所の一対。四には「仏」は所厳・所成の人、上の三つは皆所厳の法、すなわち人法の一対。五には「広」は用、上の二つは皆体、すなわち体用の一対。六には「方」は相、「大」は性、すなわち性相の一対。故にこの七字は、すなわち七大性なり。大きなる者は体大、方なる者は相大、広き者は用大、仏は果大、華は因大、厳は智大、経は教大なり。すなわち七字皆大、七字皆相なり。今、各々二義をもってこれを釈す。「大は曠兼無際を以てす」とは、曠兼はその包含を明らかにし、広遍に約して大を釈す故なり。《涅槃》に云く「言う所の大なる者は、その性広博にして虚空の如し」と。故に下経に云く「法性は遍く一切の処に在り、一切の衆生及び国土、三世悉く在って余無し、亦た形相無くして而も得可きなり」と。二に無際とは、その竪に約して論ずれば、常なるを以て大と名づく。《涅槃》に云く「言う所の大なる者は、之を名づけて常と為す」と。故に下経に云く「法性は作無く変易無く、虚空の本清浄なるが如し。諸仏の境界も亦た是くの如く、体性は性に非ずして有無を離る」と。然れども淵府は以てその深妙に擬すべからず、故に大に寄せてこれを目す。実には則ち言思斯れ絶す。故に下経に云く「法性は言論に在らず、説無く説を離れて恒に寂滅なり。諸仏の境界は量るべからず、衆生を悟らしめんが為に今略説す」と。
疏「方以正法自持」,亦二義者,一方者正也、二方者法也,並持自性,通上二義。謂恒沙性德即是相大,並無偏偽,故稱為正;皆可軌持,目之為法。故下經云「凡夫無覺解,佛令住正法。諸法無所住,悟此見自身。」
疏に「方とは正法を自ら持する」と言うのも、また二つの意味がある。一つ目は、「方」は「正」という意味であり、二つ目は、「方」は「法」という意味である。どちらも自らの性質を持ち、上の二つの意味に通じる。すなわち、恒河の沙のような悟りの性質は、これが「相大」であり、偏りや偽りがないので「正」と称する。すべてが道として踏み行うことができ、これを「法」と名付ける。ゆえに後の経典に「凡夫は悟りがないが、仏は正法に住まわせる。諸法には住むところがない。これを悟れば、自らの体を見る」とある。
疏「廣則稱體而周」者,此即用大。用如體故,無不周遍。然亦二義,由體有二義故,一者能包、二者能遍。猶如虛空包含萬象遍至一切處,今用稱體之包,則一塵受世界之無邊。二稱體之遍,則剎那彌法界而無盡。上之三字,即體相用無有障礙,為所證之法界也。
疏に「廣とは體に稱(かな)いて周(あまね)し」というは、これはすなわち用の大なり。用は體の如きが故に、周遍せざることなし。しかもまた二義あり。體に二義あるが故に、一には能く包む、二には能く遍ず。あたかも虛空が萬象を含み、一切の處に遍至するが如し。今、用が體に稱いて包むというのは、一塵にして世界の無邊を受くるなり。二には體に稱いて遍ずというのは、剎那にして法界に彌りて盡くることなし。上の三字は、即ち體・相・用に障礙なく、これ證せらるべき法界なり。
疏「佛謂覺斯玄妙」者,亦有二義:一者能覺。佛陀梵言,此云覺者故。二者所覺,即上大方廣,斯為玄妙之境故。云覺斯玄妙,斯即此也,即此上大方廣耳。若別說者,覺上用者,覺世諦也。覺上體者,覺真諦也。覺上相者,覺中道也。三諦相融,三覺無礙,為妙覺也。
疏文に「仏がこれを覚するを玄妙という」とは、これにも二つの意味がある。一つは能覚である。仏陀は梵語で、これを覚者と訳すからである。二つは所覚であり、すなわち上の大方広のことで、これが玄妙の境である。ここで「これを覚して玄妙となす」というのは、「これ」とはすなわちこの上の大方広を指すのである。もし別に説くならば、上の用を覚するのは世諦を覚するのであり、上の体を覚するのは真諦を覚するのであり、上の相を覚するのは中道を覚するのである。三諦が互いに融合し、三つの覚も障りなく、これを妙覚というのである。
疏「華喻功德萬行」者,此亦二義:一感果華,喻萬行因,成佛果故。或與果俱、或不與俱。俱如蓮華,表因果交徹故;不俱如姚李,不壞先因後果故。二嚴身華,喻諸位功德必與位,位果俱故。故下經云「若見華開,當願眾生神通等法如華開敷。若見樹華,當願眾生眾相如華具三十二。」
疏「嚴謂飾法成人」者,嚴亦二義:一以萬行飾其本體,即嚴上大方廣。如瑩明鏡,鏡雖本淨,非瑩不明。二以萬行功德成佛果之人,若琢玉成器。又飾本體,似鑄金成像。以行成人,如巧匠成像。
疏「經乃注無竭之湧泉」下,唯經舉四義,然亦唯二,謂貫與攝。湧泉即是所攝義味。常乃通於上三。一「注無竭之湧泉」者,此言猶通諸教。二「貫玄凝之妙義」,以總就別,別貫華嚴玄妙義故。凝謂凝湛,嚴整之貌也。三「攝無邊之海會」者,即是攝義。無邊海會,局此經眾,揀餘眾故。四「作終古之常規」者,即是常義。餘處釋云:常乃道軌百王。今亦以通就別,別屬此經。法眼常全,無缺減故。常恒之說,非隨宜故。終古無忒,可得稱常。釋題竟。