方便品
方便品
略開三門:一來意,二釋名,三出體。來意有三:一者依八品為正宗中,蓮華有出水、開敷之二德,妙法具果秀、行竦之兩能。又經下言今此經中唯說一乘,故以破二、會二歸於一乘為法華之正主,故三周說逗彼三根。此品初說一乘為利鶖子,鶖子上根最初於〈譬喻品〉中領解,佛為述成授記,乃至天子說偈竟,是第一周。〈譬喻品〉中舍利弗請,我今無復疑悔下,佛說譬喻利彼中根,中根四人信解佛說,〈藥草喻品〉為重述成,便為授記,是第二周。〈化城喻品〉說往結緣化城不實,利彼下根,滿慈子領、佛印述訖,便授五百及學無學記,是第三周。自下更無說一乘處,故但一乘是法華體。今既眾集緣和警之已畢,機器符會正可陳宗,且法說一乘利上根性,故〈序品〉後〈方便品〉來。二者依十九品為正宗中,〈方便品〉下初十二品明一乘境,〈安樂〉、〈涌出〉明一乘行,〈如來壽量〉至〈常不輕〉合此五品明一乘果,說境令知乘之權實,勸應捨權而取於實,聲聞悟此遂便得記。於中分三:初之八品正明權實、三根得記。次之三品歎人美法、勸募持行。後〈持〉一品稟命捨權持行實法。科初八品與前無別,故〈序品〉後〈方便品〉來。三者論云:「自此已下示現所說因果相,此意從前〈序品〉之後,明經宗旨所說因果體相相狀。」此有三釋:一云所說諸佛智慧為果,能詮智慧教門名因,如門為入室之所由,故教為顯理之處,蓮華但說二義因、果,故即智、詮。二云三請已後明一大事,開、示、悟、入,前三為果、後一為因,正是一乘之宗旨,初揚智門之意,欲發鶖子等疑,令其固請說一乘故,蓮華二義雖解《無量義經》,果秀因開,此亦未爽通理,由此即以開示悟入為果及因。三云初智及門,門因智果,開示悟入三果入因,教、理、行、果俱法華故,令識昔者教行方便說三,今談乘體理果唯一,聽三乘之教、解一乘之理,行三乘之因、證一乘之果,法華意也。如前已釋,此品具明經所說宗因之與果,故〈序品〉後〈方便品〉來。
略して三門を開きます。一には来意、二には釈名、三には出体です。
来意には三つあります。第一に、八品を正宗とする立場によれば、蓮華には水から出る、花開くという二つの徳があり、妙法には果が秀れる、行が竦まるという二つの力があります。また経の後半に「今この経の中ではただ一乗のみを説く」とあります。ですから、二を破り、二を会して一乗に帰することを法華の正主とし、したがって三周の説法によって三つの機根に応じたのです。この品の初めに一乗を説いて鶖子を利益したのは、鶖子が上根であり、最初に〈譬喩品〉の中で理解し、仏がそのために述成し授記され、さらに天子が偈を説き終わるまでが、第一周です。〈譬喩品〉の中で舎利弗が「我今まさに疑悔あることなし」と請い、仏が譬喩を説いて中根を利益し、中根の四人が仏の説を信解し、〈薬草喩品〉で重ねて述成し、そのまま授記されたのが、第二周です。〈化城喩品〉では過去の結縁と化城が実でないことを説いて下根を利益し、満慈子が理解し、仏が印述し終わって、五百と学・無学の者に授記されたのが、第三周です。これ以降、さらに一乗を説く箇所はありません。ですからただ一乗のみが法華の体なのです。今、すでに大衆が集まり因縁が和合し、警策もすでに終わり、機と器が符会して、まさに宗旨を述べるべきときです。まず法を説いて一乗を示し上根の性を利益するので、〈序品〉の後に〈方便品〉が来るのです。
第二に、十九品を正宗とする立場によれば、〈方便品〉以下の初めの十二品は一乗の境を明かし、〈安楽〉〈涌出〉は一乗の行を明かし、〈如来寿量〉から〈常不軽〉までの五品は一乗の果を明かします。境を説いて乗の権実を知らせ、権を捨てて実を取るべきことを勧め、声聞がこれを悟ってすぐに記を得るのです。その中は三つに分かれます。初めの八品は正しく権実と三根の得記を明かします。次の三品は人を嘆じ法を美め、持行を勧募します。後の〈持〉の一品は命を受けて権を捨て実法を持行します。初めの八品の科判は前と変わりません。ですから〈序品〉の後に〈方便品〉が来るのです。
第三に、論に「これより以下、説かれるところの因果の相を示現する」とあります。この意は、前の〈序品〉の後から、経の宗旨として説かれる因果の体相・相状を明かすということです。これには三つの解釈があります。第一には、説かれる諸仏の智慧を果とし、智慧を詮じる教門を因とし、たとえば門が部屋に入る手段であるように、教は理を顕す所であるとします。蓮華が二つの義を説くのは因果であり、すなわち智と詮です。第二には、三請の後、一大事を明かし、開・示・悟・入のうち、前の三つを果とし後の一つを因とし、まさにこれが一乗の宗旨であるとします。初めに智門を掲げたのは、鶖子などの疑いを発し、固く請わせて一乗を説かせるためです。蓮華の二義は『無量義経』に解かれていますが、果が秀れ因が開くというのは、これも通理に背きません。これによって開示悟入を果と因とします。第三には、初めの智と門は、門が因で智が果であり、開示悟入は三が果で入が因であり、教・理・行・果がともに法華であるとします。昔は教行の方便として三を説いたことを知らせ、今は乗の体の理果が唯一であることを談じ、三乗の教を聞き、一乗の理を解し、三乗の因を行じ、一乗の果を証するのが法華の意です。すでに前で解釈したとおりです。この品は経で説かれる宗旨の因と果を具に明かすので、〈序品〉の後に〈方便品〉が来るのです。
釋名者,「便」方連反,今為去音。佛智有二:一真實智、二方便智。真實智有二:一者實法、二者實智。實法亦二:一體實,謂有為無為;二真實,謂真如妙理。實智亦爾:一如體實智,即觀體實無漏真智,對凡妄智不知名實智,根本、後得二智俱是。二證真實智,唯正體智,此有五對:一對知妄名實智,二對知事名實智,三對知相名實智,四對知詮名實智,此之四種實智皆是唯觀第四真智,餘四所對如次皆是四世俗智。五對知權智名實智,謂一乘理、智,對知二權智,此依證智以第四真智對後三俗智;若依趣入智,以第三真智對第三俗智。
名称を釈すると、「便」は「方」と連なって反切し、今は去声の音とします。仏の智慧には二つあります。一つは真実智、二つは方便智です。真実智には二つあります。一つは実法、二つは実智です。実法にもまた二つあります。一つは体実で、これは有為と無為を指します。二つは真実で、これは真如の妙理を指します。実智もまた同様です。一つは体実智に随順するもので、すなわち体実を観る無漏の真智であり、凡夫の妄智が不知であるのに対して実智と名づけます。根本智と後得智の二智はともにこれに当たります。二つは真実を証する智で、ただ正体智のみです。これには五つの対があります。一つは妄を知るに対する実智、二つは事を知るに対する実智、三つは相を知るに対する実智、四つは詮を知るに対する実智です。これら四種の実智は、いずれもただ第四の真智を観るものであり、残りの四つの対となるものは、順にいずれも四つの世俗智です。五つは権智を知るに対する実智で、一乗の理と智を指し、二つの権智を知るに対するものです。これは証智に依れば、第四の真智をもって後の三つの俗智に対するものとし、もし趣入智に依れば、第三の真智をもって第三の俗智に対するものとします。
方便智有三或四:一進趣方便,謂見道前七方便智,進趣向果名為方便,所學有則曰方,隨位修順宜曰便。二施為方便,謂方便善巧波羅蜜多,後智妙用能行二利故名方便。此則有三:一教行方便,言音可則曰方,稟教獲安名便;二證行方便,空理正直曰方,智順正理名便;三不住方便,莅真入俗曰方,自他俱利名便。上三皆是第二施為。三集成方便,諸法同體巧相集成故名方便。且真如中具恒沙佛法,以智為門、以識為門皆攝一切故。〈菩薩地〉云:「此法善巧成,是故名方便」。《十地》云:「總、同、成、別、異、壞,以總對別之方便也。」苞總有則曰方,以少含多名便。四權巧方便,實無此事,應物權現故言方便,謂以三業方便化也。此對實智名為方便,利物有則曰方,隨時而濟名便。此體即於施為中出,更無別義,故體唯三。
方便の智には三つ、あるいは四つあります。
一は「進趣方便」です。これは見道の前の七方便の智を指します。果に向かって進み趣くことを方便と名づけます。学ぶところに法則があることを「方」といい、位に隨って修め順じるのに適っていることを「便」といいます。
二は「施為方便」です。これは方便善巧波羅蜜多を指します。後得の智の妙用がよく自利・利他の二利を行ずるので、方便と名づけます。これにはさらに三つあります。一は「教行方便」で、言葉や音声に法則があることを「方」といい、教えを稟けて安らぎを得ることを「便」といいます。二は「証行方便」で、空の理が正しく直なることを「方」といい、智が正理に順じることを「便」といいます。三は「不住方便」で、真に臨み俗に入ることを「方」といい、自他ともに利することを「便」といいます。以上の三つは、いずれも第二の施為方便に属します。
三は「集成方便」です。諸法は同体であり、巧みに相集成するので方便と名づけます。また真如の中に恒沙の仏法が具わっており、智を門とし、識を門とすれば、いずれも一切を摂めるからです。〈菩薩地〉に「この法は善巧に成ずる、ゆえに方便と名づく」とあります。《十地》に「総・同・成・別・異・壊、総を別に対する方便とするなり」とあります。総を苞みて法則があることを「方」といい、少をもって多くを含むことを「便」といいます。
四は「権巧方便」です。実にはこの事はなく、物に応じて権に現ずるので方便といいます。すなわち三業の方便をもって化することをいいます。これは実智に対するので方便と名づけます。物を利することに法則があることを「方」といい、時に隨って済うことを「便」といいます。この体はすなわち施為方便の中から出たもので、別に他の義はありません。したがって体はただ三つだけです。
今此有三:一接下方便唯引於下,二顯上方便唯顯深妙,三通彰方便遍於上下。一接下方便者,此經下云「十方佛土中唯有一乘法,無二亦無三,除佛方便說」,又云「正直捨方便,但說無上道」,於前四中權巧方便也。此乃有三:一身方便,執持糞器而著垢衣,伽耶成道等是。二語方便,下云「我此九部法入大乘為本」,又趣波羅奈轉四諦法輪等是。三意方便,下云「尋念過去佛所行方便力,我今所得道亦應說三乘」等,是上同古佛下順有情。《佛地經》云「成所作智起三業化」,正與此同。依此解云,施為可則曰方,善逗機宜曰便。《往生論》云「正直曰方,外已為便」,方是方術,便謂穩便,便之方名方便。二顯上名方便者,《無垢稱》云「有方便故解,無方便故縛」,此經下云「我設是方便令得入佛慧,一切諸如來以無量方便度脫諸眾生」,入佛無漏智初設方便顯後佛智故,即四方便中施為方便,理妙可則曰方,巧用能顯曰便,其義深遠其語巧妙,便通教理,方之便名方便。三通彰方便,下經大眾疑云「何故世尊慇懃稱歎方便而作是言:佛所得法甚深難解,有所言說意趣難知」,方便是總,下二句別。「佛所得法」是顯上,明今一實;「有所言說」是接下,彰昔三權。又云「佛悉知是已以諸緣譬喻言辭方便力令一切歡喜」,接下顯上二皆通故,即十二種方便喜巧波羅蜜多,隨應配攝,方者統情機之法軌,便者濟物理之要宜,方謂方軌方法,便謂要便宜便,情謂有情,機謂機要,統攝機情機要之軌法名方,貫人貫法故,物謂人物,理謂道理,濟益人物道理之要宜名便,濟人益法故,此言意顯濟人益法之軌則故言方便,亦方亦便故名方便。由此義推乃通三釋。三種合是十二種方便善巧波羅蜜多,隨應配攝。《瑜伽》四十五說十二種中,初六依內脩證,後六依外成熟。內六種者:悲心顧戀,了知諸行,欣佛妙智,不捨生死,輪迴不染,熾然精進。外六種者:令以少施等善感無量果,令以少戒等力引大善根,憎聖教者除其恚惱,處中住者令其趣入,已趣入者令其成熟,已成熟者令得解脫。此中接下即外成熟,此中顯上即內成熟,此中通彰合是內外一十二種。十二種中為成後四,復脩六種方便善巧:一隨順會通,將為說法,先現軟美可愛身語令生愛敬,於法起樂,漸次為說,彼不解空密意言教,一切諸法無性無事無生無滅如幻夢等,如理和會,彼經不說一切法體都無所有,但無所執可說自性,據第一義非其自性,既彼性事都無所有,有何生滅?又如幻夢非如顯現,又非彼事都無所有,故說如幻令彼了知。二共立要契,見有來求,先共立契令知恩德供養恭敬持淨戒等,然後與之。三異分意樂,共立契已彼不速行,以利益意先許不與,先為親友隨順化導,彼不依學現憤恚相,所作乖違詐不隨益,此等權時外現棄捨,非內意樂不為救拔。四逼迫所作,有自在力於親屬等能正教誡,不知恩德毀戒等者,或斷所求、驅擯訶捶,令正脩習。五施恩報恩,於曾彼所有大恩德,彼期酬報勸令脩善名大報恩。六究竟清淨,果道滿已住知足天,乃至下生成等正覺,令生欣樂,往生隨下,請轉法輪廣為饒益。此中方便即是六中隨順會通,會昔三權通今一實,《決擇》、《唯識》又說有二種:一拔濟方便善巧,即外六種;二迴向方便善巧,即內六種。如其所應皆此所攝。
ここに三つの意味があります。第一は下への方便を接続するもの、第二は上の方便を顕示するもの、第三は方便を貫通して上下に及ぶことを明らかにするものです。
第一の、下への方便を接続するとは、この経の後半に「十方の仏土の中にはただ一乗の法のみがあり、二もなければ三もない。仏の方便の説を除いてである」と説かれ、また「正直に方便を捨てて、ただ無上の道を説く」と説かれているのが、先の四つの方便のうちの権巧方便です。これには三つがあります。一つは身の方便で、糞器を執持し垢の衣を着けること、伽耶で成道することなどです。二つは語の方便で、後半に「わがこの九部の法は大乗に入るための本である」と説かれ、また波羅奈に趣き四諦の法輪を転じることなどです。三つは意の方便で、後半に「過去の仏が行じた方便の力を尋ね念じ、わが今得た道もまた三乗を説くべきである」などと説かれているのが、これであり、上は古仏に同じくし、下は有情に順じています。
『仏地経』に「成所作智が三業の化を起こす」と説かれているのは、まさしくこれと同じです。この解釈によれば、施し為すことに法則があるのを「方」といい、よく機宜にかなうのを「便」といいます。『往生論』に「正直を方といい、外已を便という」とあり、方は方術であり、便は穩便をいい、便の方(便のうちの方)を方便と名づけます。第二の、上に方便と名づけることを顕示するとは、『無垢称』に「方便があるがゆえに解け、方便がないがゆえに縛される」と説かれ、この経の後半に「わがこの方便を設けて仏慧に入らしめ、一切の諸如来は無量の方便をもって一切の諸衆生を度脱する」と説かれています。仏の無漏智に入るために初めに方便を設けて後の仏智を顕すのであり、すなわち四方便のうちの施為方便です。理が妙にして法則あるを「方」といい、巧みな用い方がよく顕すを「便」といい、その義は深遠でその語は巧妙であり、便は教理に通じ、方の便(方のうちの便)を方便と名づけます。
第三の、方便を貫通して明らかにするとは、後半の経で大衆が疑って「何のゆえに世尊は慇懃に方便を称歎して、このような言葉をなされたのか。仏の所得の法は甚深にして解し難く、言説のあるところの意趣は知り難い」と言うのがそれです。方便は総であり、下の二句は別です。「仏の所得の法」は上を顕すもので、今の一実を明らかにし、「言説のあるところ」は下を接続するもので、昔の三権を彰します。また「仏は悉く是を知り已って、諸の縁・譬喩・言辞・方便の力をもって一切を歓喜せしめた」と説かれているのは、下を接続し上を顕す二つがともに通じるからであり、すなわち十二種の方便善巧波羅蜜多に、応に随って配摂されます。方とは情機を統べる法軌であり、便とは物と理を済う要宜であり、方は方軌・方法といい、便は要宜・便便といい、情とは有情、機とは機要、機情と機要を統摂する軌法を方と名づけ、人を貫き法を貫くからです。物とは人物、理とは道理、人物と道理を済益する要宜を便と名づけ、人を済い法を益するからです。この言葉の意は、人を済い法を益する軌則を顕しているので方便と言い、また方でありまた便であるがゆえに方便と名づけます。この義から推し究めれば、すなわち三つの解釈に通じます。三種を合わせてこれが十二種の方便善巧波羅蜜多であり、応に随って配摂されます。
『瑜伽』四十五に十二種のうち、初めの六は内に依って修証し、後の六は外に依って成熟すると説かれています。内の六種とは、悲心顧恋、諸行を了知すること、仏の妙智を欣うこと、生死を捨てないこと、輪廻に染まらないこと、熾然たる精進です。外の六種とは、少施などの善をもって無量の果を感得させること、少戒などの力をもって大善根を引かせること、聖教を憎む者の恚悩を除くこと、中に住する者を趣入させること、已に趣入した者を成熟させること、已に成熟した者を解脱させ得ることです。ここでの下を接続するとはすなわち外の成熟であり、ここでの上を顕すとはすなわち内の成熟であり、ここでの貫通して彰すとは合わせて内外の一十二種です。
十二種のうち、後の四を成すために、また六種の方便善巧を修します。一つは随順会通で、まさに説法しようとして、まず軟美で可愛らしい身と語を現じて愛敬を生じさせ、法に楽しみを起こさせ、漸次に説き、彼が空の密意の言教、一切諸法は無性・無事・無生・無滅で如幻如夢などであることを解さないならば、理のごとくに和会します。かの経には一切法の体が都べて無所有であるとは説かず、ただ執するところなきが説くべき自性であり、第一義に拠ればその自性ではないと説くだけです。既に彼の性と事が都べて無所有ならば、何の生滅がありましょうか。また如幻如夢は顕現のごとくではないし、また彼の事が都べて無所有でもないので、如幻と説いて彼に了知させます。二つは共立要契で、来求する者を見て、まず共に契りを立てて、恩徳を知り供養恭敬し浄戒を持するなどをさせて、それから与えます。三つは異分意楽で、共に契りを立て已っても彼が速やかに行じないならば、利益の意をもってまず許さず、まず親友として随順に化導し、彼が依学しないならば憤恚の相を現じ、所作が乖違し偽って益に随わず、これらは権に外に棄捨を現すのであって、内の意楽に救抜しないのではないのです。四つは逼迫所作で、自在力ある者は親属などに対して正しく教誡でき、恩徳を知らず戒を毀つ者などには、あるいは所求を断じ、駆擯し訶捶して、正しく修習させます。五つは施恩報恩で、かつて彼に大恩徳があれば、彼が酬報を期するのに善を修めるよう勧めるのを名づけて大報恩といいます。六つは究竟清浄で、果道が満ち已って知足天に住し、乃至下生して等正覚を成じ、欣楽を生じさせ、往生は下に随い、法輪を転ずることを請い広く饒益を行じます。ここでの方便とはすなわち六つのうちの随順会通であり、昔の三権を会通し今の一実に通じます。『決択』『唯識』にはまた二種が説かれています。一つは抜済方便善巧で、すなわち外の六種です。二つは迴向方便善巧で、すなわち内の六種です。その応に随うところのものは皆これに摂められます。
出體性者,方便乃智以慧為性,無分別智內𰩑真境,後得智中利他說法,能起方便之妙用故,以後得智為性,《唯識》等說後五波羅蜜多皆後得智為性故,其能所詮性又各別,因智為顯;今從根本故智為性。
本性を明かす場合、方便とはすなわち智であり、慧を本性とします。無分別智は内に真境を証し、後得智の中では他者のために説法して利益し、方便の妙用を起こすことができるため、後得智を本性とします。『唯識』などでは、後の五波羅蜜多はいずれも後得智を本性とすると説かれているからです。その能詮と所詮の本性もまたそれぞれに異なり、因智によって顕されるため、ここでは根本に従うので智を本性とします。
下釋本文,第一周中有四:初世尊曉喻,次鶖子領解,次如來述成,後佛為記別。同中下根文各四故,此四之中初一即〈方便品〉,後三皆在〈譬喻品〉中。佛曉喻中論判為五:初歎法勝妙分;「吾從成佛」下,第二歎法師功德分;「爾時眾中漏盡阿羅漢」下,第三大眾定疑分;「佛告舍利弗止止不須復說,若說是事一切世間皆當驚疑」下,第四定記分;「舍利弗諸佛出於五濁惡世」下,第五斷疑分,法為佛師,人由法以成德,人為能顯,法假人以弘宣故。初歎法妙、後歎人勝,諸聲聞等於自所證已為決定,聞歎所說遂有疑生,故有定疑分。佛心所為先已定訖,唱止邀其固請,亦令惡人退席,既爾分明解釋其義,故有定記分。眾人之內聞前所說又有疑者,佛為重解,故有斷疑分,遂成五分。或分為二:初歎法及師妙,眾遂疑生;後佛更為定記解釋,眾復疑生重釋此疑,故分二也。
ここから本文の解釈に入ります。第一の周には四つの部分があります。初めに世尊が悟りを開いて示され、次に鶖子(舎利弗)が理解し、次に如来がそれを承認し、最後に仏が記別を与えられます。中根と下根のための文にもそれぞれ四つがあるため、この四つの中では最初の一つが〈方便品〉に当たり、後の三つはすべて〈譬喻品〉の中にあります。
仏が示して悟らせる中で、論の判定では五つに分けられます。初めは法の勝れた妙なることを讃嘆する部分です。「吾從成佛」以下は、第二に法師の功德を讃嘆する部分です。「爾時眾中漏盡阿羅漢」以下は、第三に大衆が定めて疑いを生じる部分です。「佛告舍利弗止止不須復說、若說是事一切世間皆當驚疑」以下は、第四に定記の部分です。「舍利弗諸佛出於五濁惡世」以下は、第五に疑いを断つ部分です。法は仏の師であり、人は法によって徳を成し遂げます。人は顕すことができるものであり、法は人によって広く宣べ伝えられるものです。初めに法の妙なることを讃嘆し、後に人の勝れたことを讃嘆するのは、もろもろの声聞たちが自分の証したところについてはすでに決定しているからです。説かれたところを讃嘆するのを聞いて、そこで疑いが生じるため、定疑の部分があるのです。仏の心に思われたことはすでに前もって定まっておりますので、止めよと唱えてその固い請いを求め、また悪人をして席を退かせます。そうしてから分明にその意味を解釈されますので、定記の部分があるのです。人々の中には前に説かれたことを聞いてさらに疑いを生じる者がいますので、仏は重ねて解かれます。それゆえ断疑の部分があり、こうして五分が成り立つのです。または二つに分けることもあります。初めに法と師の妙なることを讃嘆し、大衆がそこで疑いを生じます。後に仏がさらに定記と解釈を加えられ、大衆がまた疑いを生じるので、この疑いを重ねて解釈されます。それゆえ二つに分けるのです。
一品之中今科為四:初二深先唱警察群生之心,次四眾驚疑發揚鶖子之情,三開斯實相啟彼權門,四勸發喜心令欣作佛,品末三行頌是。
一品の中では、今、科を四つに分けます。初めの二行は深い教えを先に唱えて、群生の心を警められます。次は四衆が驚き疑って、鶖子の思いを発揚されます。三にはこの実相を開いて、かの権門を啓かれます。四には喜ぶ心を勧発して、仏となることを欣ばせられます。品の末の三行の頌がそれです。
經「爾時世尊(至)所不能知」
「そのとき、世尊は……((以下))知ることのできないものです」
贊曰:二深先唱警察群生之心。文中有二:初長行、後偈頌。長行有二:初歎所證所說法妙,「吾從成佛」下歎如來身能證能說法師勝妙,初中有二:初總標勝妙,後「所以者何」下釋斯勝妙。初中復二:初顯自在從定而起,後告鶖子正陳所說。「安」者徐也,「詳」者審也。論云:「以如實智觀從三昧安詳而起,起已告舍利弗者,示現如來得自在力故,如來入定無能驚寤故。觀無量義處定名如實智觀,佛定殊勝,入已餘人不能驚佛令從定起,非佛自出餘不能令出,故自從定起。又顯於定中入出縱任得自在故,即由二義故從定起。雖是無量義處三昧,多是第四禪,功德勝故。不告餘人獨告舍利弗者,隨深智慧與如來相應故,謂舍利弗聲聞之中最為上品,智慧利根一聞即解最先悟入,佛凡說法必應機根,由彼智慧最為第一,根法相符故名相應。相應者隨順義,非是智慧相似名為相應,根合佛法名相應,故不告菩薩。」論有五義:一為諸聲聞所作事故,妙法蓮華為聲聞說,聲聞所作捨於權乘非菩薩故。二為諸聲聞迴向大菩提故,令其發心趣大果故。三護諸聲聞恐怯弱故,若告菩薩即諸聲聞謂此一乘非為已分,心生怯弱不能進脩,今告聲聞令除此意,是汝等分除怯弱心。四為令餘人善思念故,令餘聲聞善思念之,其舍利弗已蒙佛告,我是彼流亦應被告,深生信仰起脩學心。五為諸聲聞不起所作已辦心故,昔諸聲聞謂所得滅果滿證圓所作已辦,今歎法妙告彼不知,令捨小心。菩薩於五事全不相應,故雖利根佛不正告,傍告無爽,告三乘人有疑悔者令皆斷故,正告不定性兼任持所餘故。
賛して曰く、二つの深い教えがまず唱えられ、群生の心を警め励ました。文中には二つあります。初めに長行、後に偈頌です。長行には二つあります。初めに証られた法と説かれた法のすばらしさを嘆じ、「吾従成仏」以下で如来の身が証し説くことのできる法師としてのすぐれたすばらしさを嘆じます。初めの中にまた二つあります。初めに総じてすばらしさを標し、後に「所以者何」以下でこのすばらしさを説き明かします。初めの中にさらに二つあります。初めに定から起ち上がる自在さを示し、後に鶖子に告げてまさに説くところを述べます。「安」とは徐やかなこと、「詳」とは審らかなことです。論に云く、「如実智をもって三昧より安詳として起ち、起ち已りて舎利弗に告ぐることは、如来が自在の力を得たまうことを示現するためであって、如来が入定されたならば誰も驚かして目覚めさせることができないからである。無量義処の定を観ずるを如実智の観と名づける。仏の定は殊勝であって、入られて後は他の人は仏を驚かして定から起たせることができない。仏が自ら出るのであって、他が仏を出させることができるのではない。ゆえに自ら定から起つのである。また定の中に入り出ることが自由自在であることを示す。すなわちこの二つの意味によって定から起つのである。これは無量義処の三昧であるが、多くは第四禅であり、功徳が勝れているからである。他の人に告げず独り舎利弗に告げるのは、深い智慧が如来と相応するからである。舎利弗は声聞の中でもっとも上品であり、智慧利根で一たび聞けばすぐに解し、最も先に悟り入るからである。仏はおよそ法を説くとき必ず機根に応じる。かの智慧が最も第一であるので、根と法とが相符する。ゆえに相応と名づける。相応とは随順の義であって、智慧が似ていることを相応と名づけるのではない。根が仏法と合するを相応というのである。ゆえに菩薩には告げないのである。」論には五つの義があります。一つには諸の声聞のために所作の事があるためです。妙法蓮華は声聞のために説かれ、声聞の所作は権乗を捨てることであって菩薩ではないからです。二つには諸の声聞を大菩提に迴向させるためです。彼らに発心して大果に趣かせるためです。三つには諸の声聞を護り恐れ怯弱なためです。もし菩薩に告げれば、諸の声聞はこの一乗は自分の分ではないと思うだろう。心に怯弱を生じて修行に進めなくなる。今、声聞に告げてこの思いを除かせる。これが汝らの分であると。怯弱の心を除くのです。四つには他の人に善く思念させるためです。他の声聞に善く思念させる。舎利弗はすでに仏から告げられた。私はかの流れに属するから、私もまた告げられるべきであると。深く信仰を生じて修行学問の心を起すのです。五つには諸の声聞に所作已辦の心を起させないためです。昔、諸の声聞は得たる滅の果が満ち、証が円かなり、所作は已に辦じたと思っていた。今、法の妙を嘆じ、彼らが知らないことを告げ、小さな心を捨てさせるのです。菩薩はこれらの五つの事に全く相応しない。ゆえに利根であっても仏は正しく告げないのである。傍らに告げることは間違いではない。三乗の人で疑悔のある者に告げて皆断じさせるためである。まさしく不定性に告げるのは、兼任して所余を持するためである。
所歎之法略有二種:一者智慧,二智慧門。故論云:「有二甚深:一證甚深謂智慧,二阿含甚深謂智慧門。」智慧門者即能詮教,智慧甚深即所詮理。梵云阿笈摩,此名為教,或翻為傳,上古諸佛傳至今故。此甚深義通教及理,然理正得甚深之名,門深乃稱難見覺等。二乘不知亦通此二,自餘別屬理教二法,論意如此。論說智慧者謂一切種、一切智智義故,一切智人之智名一切智智,體通性相名一切種,即佛果位涅槃、菩提,或一切智者無分別智,重言智者是後得智,義者境也,即一切智智之境,故名一切智智義。何謂彼境?謂一切種,一切種者謂若空若有、有為無為、有漏無漏,若教若理名一切種。種謂種類,法體種類眾多非一,攝一切盡名一切種,謂此一切種是一切智智之境,即此一切種境名為所詮之智慧也。
所歎の法は大きく分けて二つあります。一つは智慧であり、二つは智慧の門です。ですから論にはこう述べています。「二つの甚深がある。一つは証の甚深で、これを智慧という。二つは阿含の甚深で、これを智慧の門という。」智慧の門とは、すなわち教えを説き示す言葉であり、智慧の甚深とは、すなわち説かれる真理です。梵語では阿笈摩といい、ここでは教えと名づけ、あるいは伝とも訳します。昔の仏たちが今日まで伝えてきたからです。この甚深の義は教えと真理の両方に通じますが、しかし真理がまさに甚深の名をえるのであり、門の深さは難見・難覚などと称されます。二乗は知ることもなく、またこの二つに通じます。その余はそれぞれ理と教との二つの法に属し、論の意はこのようなものです。論が智慧というのは、一切種・一切智智の義だからです。一切智の人の智を一切智智と名づけ、その体は性と相に通じるので一切種と名づけます。すなわち仏果の位の涅槃と菩提であり、あるいは一切智者とは無分別智であり、重ねて智と言うのは後得智です。義とは境です。すなわち一切智智の境であるため、一切智智の義と名づけます。何がかの境でしょうか。それは一切種です。一切種とは、空であるもの、有であるもの、有為・無為、有漏・無漏、教え、真理のことです。種とは種類のことで、法の体の種類は多く一つではありません。すべてを摂め尽くすので一切種と名づけます。この一切種が一切智智の境であり、この一切種の境を、説かれるところの智慧と名づけるのです。
今以理窮,智慧有五,攝一切法盡方名一切種。一智慧性,謂真如,故下經云「唯佛究竟盡諸法實相」。論自釋云「如來藏性為體,攬法成人,人之所成即是智慧」,故引下為證。二智慧相,即無漏,能觀正體後得二智為體,下云「方便知見皆已具足盡思共度量不能測佛智」等是。三智慧伴,塵沙萬德有為功德是,下云「如來知見廣大深遠,無量無礙力無所畏皆具足」等是。四智慧因,謂能詮教及萬行是,下云「其智慧門難解難入」。論云阿含甚深,又論引經云「如來能說一切法、種種言詞」,又云「盡行諸佛無量道法」等是。五智慧境,謂若空若有、有為無為、真俗諦境,下云「如是相如是性」等是。今智慧門既是方便,能詮教深故所詮理深,即餘四慧。義雖可爾,然依諸教,五甚深中多唯慧性真如為體,以阿含甚深即昔三教,故證甚深即一乘體,無上甚深是大菩提,故《勝鬘經》中說「一乘體唯真如故」,即〈化城品〉之寶所也。今此經中依實勝慧,唯取智性智相為體,菩提菩提斷皆名菩提,智及智處皆名般若,攝一切故。火宅牛車即智相故,牛車言作,各與一故;寶所舊有,即智性故,眾共取故;示悟知見即是二故,由此有故餘三自成,下云「一大事因緣」即唯此二。若因若果,謂此智慧是一乘真理,其智慧門是三乘權教,總標實權理教二別,欲令二乘捨權取實行因證果,故《勝鬘》由此說二乘等四智究竟得涅槃者是佛方便,欲令捨二權而取一實故。其證甚深,論有二義:一體妙、二難了。體妙者,論云「證甚深有五種」。難了者,論云:「又甚深者,一切聲聞辟支佛所不能知故。」其五甚深,古來唯依真如解:一者義深,差別義也;二者體深,自體性也;三內證深,正智內證、餘智不得故;四依止深,法界法性諸佛本故;五無上深,體最勝故,謂大菩提即是所證無上正等正覺果也。若兼觀照智性、智相合名五證,義甚深者其義甚深,謂正智如之用故;體甚深者謂真如,法本性故;內證甚深者重顯正智,內冥如故所以名深;依止深者重顯真如,一切德本所以名深;無上深者謂大菩提,大菩提者如來所證阿耨多羅三藐三菩提。無著《金剛般若論》云:「無上菩提是法身理,三藐三菩提是報身智」,故即通顯此之二種,體過一切所以名深,此為本意。
ここで道理を究めますと、智慧には五つがあり、一切の法を漏れなく収めつくして初めて一切種と名づけられます。
第一は智慧の性、すなわち真如です。それゆえ下の経に「ただ仏のみが究竟して諸法の実相を尽くす」と説かれています。論みずからこれを釈して「如来蔵の性を体とし、法を集めて人を成じ、人の成すところすなわちこれ智慧である」と言い、それゆえ下の経文を引いて証としています。
第二は智慧の相、すなわち無漏であり、よく正体智と後得智の二智を観ることができ、これを体とします。下の経に「方便と知見は皆すでに具足し、思を尽くし共に度量しても仏の智慧を測ることができない」などとあるのがこれです。
第三は智慧の伴、塵沙の万徳という有為の功徳がこれであり、下の経に「如来の知見は広大深遠にして、無量無礙にして力も無所畏も皆具足している」などとあるのがこれです。
第四は智慧の因、すなわち能詮の教と万行がこれであり、下の経に「その智慧の門は解し難く入り難い」とあります。論に阿含甚深と言い、また論が経を引いて「如来は一切の法を説き、種々の言詞を説くことができる」と言い、また「諸仏の無量の道法を尽くし行じる」などとあるのがこれです。
第五は智慧の境、すなわち空であるか有であるか、有為と無為、真諦と俗諦の境がこれであり、下の経に「このような相、このような性」などとあるのがこれです。
今、智慧の門はすなわちこれ方便であり、能詮の教が深いゆえに所詮の理も深く、すなわち残りの四つの慧です。義としてはそのようでありえますが、しかし諸教によれば、五甚深のうち多くはただ慧性の真如のみを体とします。阿含甚深はすなわち昔の三教であり、ゆえに証甚深はすなわち一乗の体であり、無上甚深はこれ大菩提であるからです。ゆえに『勝鬘経』に「一乗の体はただ真如のみである」と説かれ、すなわち〈化城品〉の宝所です。
今この経の中では実の勝慧に依り、ただ智性と智相とを体とします。菩提と菩提断は皆菩提と名づけ、智と智処は皆般若と名づけ、一切を収めるからです。火宅の牛車はすなわち智相であるがゆえに、牛車は作ると言い、それぞれ一つずつ与えるからです。宝所はもとから有るもので、すなわち智性であるがゆえに、衆が共に取るからです。示悟知見はすなわちこの二つであるがゆえに、これ有るによって残りの三つはおのずから成り、下の経に「一大事因縁」と言うのがすなわちただこの二つです。
因であれ果であれ、この智慧は一乗の真理であり、その智慧の門は三乗の権教であり、総じて実と権、理と教の二つの区別を標し、二乗に権を捨てて実を取り、因を行じて果を証せしめようと欲するからです。ゆえに『勝鬘経』はこれによって、二乗などが四智究竟して涅槃を得たと言うのは仏の方便であると説き、二つの権を捨てて一つの実を取らせようと欲するからです。
その証甚深には、論に二つの義があります。一つは体妙、二つは難了です。体妙とは、論に「証甚深に五種がある」と言うとおりです。難了とは、論に「また甚深とは、一切の声聞・辟支仏の知ることのできないものであるからである」と言うとおりです。
その五甚深は、古来ただ真如によってのみ解釈されてきました。第一は義深で、差別の義です。第二は体深で、自体性です。第三は内証深で、正智が内に証し、他の智は得ることができないからです。第四は依止深で、法界・法性が諸仏の本であるからです。第五は無上深で、体が最も勝れているからであり、大菩提すなわちこれ所証の無上正等正覚の果です。
もし観照の智性と智相を兼ね合わせて五証と名づけるならば、義甚深とはその義が甚深であることで、正智が如の用をなすからです。体甚深とは真如のことで、法の本性であるからです。内証甚深とは重ねて正智を示し、内に如に冥合するから深と名づけます。依止深とは重ねて真如を示し、一切の徳の本であるから深と名づけます。無上深とは大菩提のことで、大菩提とは如来の証するところの阿耨多羅三藐三菩提です。
無著の『金剛般若論』に「無上菩提は法身の理であり、三藐三菩提は報身の智である」と言い、ゆえにすなわちこの二種を通じて顕し、体が一切を超えているから深と名づけるのであり、これが本意です。
若通義解,或隨所應所詮,四慧皆有義、體、證、依四深,或智慧相、性、伴、境四法,如次配初四種甚深,唯無上深在大菩提,諸德主故。又非喻所喻、思議所思議故名甚深。上來解深唯在智慧不通慧門,准論解經,慧門亦有五:論名總句阿含深故即五難是,無量者智性、智相、智伴、智境如其次第,體遍、用寬、德備、法廣,如空無限、德數無窮,終必無盡,故名無量。然今但說智性、智相二種智慧名為無量,體、德、作用皆具無限,無窮盡故。其門甚深亦有二義:一體妙、二難了。體妙者,論引經云:「其智慧門難見、難覺、難知、難解、難入,具彼五難。難了者,二乘不知故。一由智義深故其門難見,二由智體深故其門難覺,三由智內證深故其門難知,四由智依止深故其門難解,五由智無上深故其門難入。」以教五難別配智慧五種甚深。又智有二:一凡、二聖。凡有二智:一現、二比。凡現智不知名難見,比智不知名難覺。聖智有二:一有漏、二無漏。有漏世俗智不了名難知。無漏智有二:一根本、二後得。初無漏智不知名難解,後無漏智不知名難入,入者證解。今此經中唯有二無漏智,不知故言難解難入,總顯證、教二難了,云「一切聲聞、辟支佛所不能知,唯佛能知故。」佛今所以歎二深者,論自解云:「為諸大眾生尊重心,畢竟欲聞如來說故,為下將說一乘真實佛所得法甚深難解之由漸故,先歎智深,彰下所歎有所言說意趣難知二乘為權之由漸故,先歎門深,令其發心希所聞也。不爾唯應歎智慧深,總攬萬德以成佛故。」
もし通義の解を述べるならば、あるいは所応・所詮に従って、四つの慧にはいずれも義・体・証・依の四つの深さがあり、あるいは智慧の相・性・伴・境の四つの法があり、順に最初の四種の甚深に配当されます。ただ無上深だけは大菩提にあり、諸徳の主であるからです。また、喩えによって喩えられるものではなく、思議によって思議されるものでもないから、甚深と名づけられます。
以上のように深さを解釈するのは、ただ智慧についてであって、慧の門には通じません。論に準じて経を解釈すれば、慧の門にもまた五つがあります。論では総句の阿含が深いからであると名づけ、すなわち五つの難がこれです。無量とは、智性・智相・智伴・智境がその順序に従い、体が遍満し、用が広く、徳が備わり、法が広大で、虚空が限りないように、徳の数が尽きることがなく、ついには必ず尽きないから、無量と名づけます。しかし今はただ智性・智相の二種の智慧だけを説いて無量と名づけるのは、体・徳・作用がすべて無限を具え、窮まり尽きることがないからです。
その門の甚深にもまた二つの意味があります。一つは体が妙であること、二つは了り難いことです。体が妙であるとは、論が経を引いて「その智慧の門は見難く、覚り難く、知り難く、解し難く、入り難く、かの五つの難を具える」と説く通りです。了り難いとは、二乗が知らないからです。一つは智の義が深いためその門は見難く、二つは智の体が深いためその門は覚り難く、三つは智の内証が深いためその門は知り難く、四つは智の依止が深いためその門は解し難く、五つは智の無上深のためその門は入り難いのです。教の五つの難をもって、それぞれ智慧の五種の甚深に配当します。
また智には二つあります。一つは凡、二つは聖です。凡には二つの智があります。一つは現、二つは比です。凡の現智は知らないので見難いと名づけ、比智は知らないので覚り難いと名づけます。聖智には二つあります。一つは有漏、二つは無漏です。有漏の世俗智は了らないので知り難いと名づけます。無漏智には二つあります。一つは根本、二つは後得です。初めの無漏智は知らないので解し難いと名づけ、後の無漏智は知らないので入り難いと名づけます。入るとは証解することです。
今この経の中にはただ二つの無漏智だけがあり、知らないため解し難く入り難いと言い、証と教の二つの了り難いことを総じて示して、「一切の声聞・辟支仏の知ることができないところであり、ただ仏だけが知ることができるからである」と説きます。仏が今この二つの深さを歎じる理由について、論みずから解釈して言います。「大衆のために尊重の心を生じ、究竟して如来の説を聞きたいと願うためであり、以下にまさに説こうとする一乗の真実にして仏の得た法が甚深で解し難いという理由の漸として、まず智の深さを歎じ、以下の歎じるところに説くところがあり、その意趣が知り難く、二乗が方便であるという理由の漸を示すため、まず門の深さを歎き、その心を発して聞くところを希求させるためである。そうでなければ、ただ智慧の深さだけを歎じるべきである。すべての徳を総攬して仏を成ずるからである。」
經「所以者何(至)意趣難解」。
経典に「なぜならば、その意趣は理解しがたいからである」とあります。
贊曰:此釋前標阿含甚深。此中有二:初徵、後顯。「所以者何」者,佛所得法所謂解脫,三乘同坐解脫之床,二乘亦得,方便言教亦已依學,如何今說此之二種,二乘不知不見。又此徵意,佛之智慧二乘未得,可名甚深其智慧門;二乘已得,何名甚深,云二乘不知?若依初解所以者何,所得解脫三乘雖同,般若、法身,相、性智慧,彼所未得,汝定不知,且智慧門彼亦未了,故此以下但解阿含八種甚深,欲顯二乘尚不能知教之甚深,況佛智慧。依第二解所以者何,前徵教門深所以者,今當具顯,故此已下但顯教深。論牒經有八句,今此文唯六句,准論應言,佛曾親近百千萬億無數諸佛,盡行諸佛無量道法,勇猛精進名稱普聞,成就甚深未曾有法,難解法者如來能知,隨宜所說,意趣難解,一切聲聞,辟支佛所不能知,加今經中第六句難解法者如來能知,加第八句一切聲聞、辟支佛所不能知,故成八深。第一句佛曾親近百千萬億無數諸佛者受持讀誦甚深,此顯世尊經三大劫供養二十六恒河沙佛,於彼諸佛所受持讀誦此法門故,所以甚深,非如彼二乘略即能解,故名甚深。第二句盡行諸佛無量道法者,脩行甚深,諸佛福智二利道行皆盡行故,非如二乘略脩因故,名為甚深,下皆准知。第三句勇猛精進者,果行甚深,果謂果決,精純勇捍堪耐勞倦所作皆成名為果決,或由精進所作善成,今獲勝果名果甚深,一句投火半偈捨身,六年苦行七日翹足,非不專精懃勞得故。第四句名稱普聞者,增長功德心甚深,由名遠振凡聖普聞,勗勵已身懃加脩斷,自功德心倍加增長,或名遠振他聞之故,皆悉增長功德之心,一切聞知故成甚深。第五句成就甚深未曾有法者,快妙事心甚深,由所成法是未曾有快妙勝事,能成之心亦為快妙,快妙心說故教難知。第六句難解法者,如來能知者無上甚深,由極難解法如來能知,故此法門得成無上;或難解法體即無上,唯佛能知,故是甚深。第七句隨宜所說意趣難解者,入甚深,入甚深者名字章句意難得故,佛自住持入解此意,不同外道自不能解何令他解,說因緣法極甚深故。入有二義:一難入解佛自解故,二隨宜所說令他入法故,意趣難解名為甚深。第八句一切聲聞辟支佛所不能知者,不共聲聞、辟支佛所作住持甚深,不同二乘所作外利所作、內利住持故成甚深。上來總說,由近諸佛,受持、讀誦、脩行、果決、增長功德心、證快妙事、成無上法、故隨宜說、難可得解、二乘不了,其智慧門名為甚深難解入故,況佛智慧非甚深哉!
賛曰く、ここでは前述の阿含が甚深であることを解釈します。これには二つがあり、初めに問いかけ、後に明かします。「所以者何」とは、仏が得られた法すなわち解脱は、三乗が等しく坐す解脱の床であり、二乗もまた得ており、方便の言教もすでに学んでいるのに、どうして今、この二つの種類について、二乗は知らず見ないと言うのでしょうか。またこの問いかけの意味は、仏の智慧は二乗がまだ得ていないので、甚深と名づけられるその智慧の門とし、二乗がすでに得ているのなら、どうして甚深と名づけ、二乗が知らないと言えるのか、ということです。もし最初の解釈によって「所以者何」を解するなら、得られた解脱は三乗に等しいとはいえ、般若と法身、すなわち相と性の智慧は、彼らはまだ得ておらず、あなたは定めて知らないのであり、まして智慧の門など彼らにはまだ了解できないのです。それゆえこの以下ではただ阿含の八種の甚深を解釈し、二乗ですら教学の甚深を知ることができないこと、いわんや仏の智慧においてをや、ということを明かそうとしています。第二の解釈によって「所以者何」を解するなら、先に教門の深い理由を問いかけたのは、今まさにそれを詳しく明かすためであり、それゆえこの以下ではただ教の深さを示します。論が経を引く文には八句ありますが、今この文にはただ六句だけです。論に準じるならば、仏はかねて百千万億無数の諸仏に親近し、すべての仏の無量の道法を行じ、勇猛に精進し名称はあまねく聞こえ、甚深の未曾有の法を成就し、解しがたい法を如来はよく知り、機に随って説かれたその意趣は解しがたく、一切の声聞と辟支仏は知ることができない、と言うべきです。今の経には第六句の「難解法者、如来能知」を加え、第八句の「一切声聞、辟支仏所不能知」を加えるので、八つの甚深が成立します。第一句の「仏曾親近百千万億無数諸仏」とは受持読誦が甚深であることを示します。これは世尊が三大劫のあいだ二十六恒河沙の仏を供養し、それらの諸仏のもとでこの法門を受持読誦されたので甚深なのであり、かの二乗のように少しばかりでただちに解せるものではないので甚深と名づけます。第二句の「尽行諸仏無量道法」とは修行が甚深であることを示します。諸仏の福智二利の道行をことごとく行じ尽くされたのであり、二乗のように少しばかりの因を修めるだけではないので甚深と名づけます。以下もみなこれに準じて知るべきです。第三句の「勇猛精進」とは果行が甚深であることを示します。果とは果決であり、精純にして勇悍、労倦によく堪え、なすところことごとく成就することを果決といいます。あるいは精進によってなす善が成就し、今その勝れた果を得るので果甚深と名づけます。一句のために火に投じ、半偈のために身を捨て、六年の苦行、七日のかかと立ちは、専精に勤労して得たものでないことはありません。第四句の「名称普聞」とは増長功徳心が甚深であることを示します。名が遠く響きわたって凡聖にあまねく聞こえることで、自らを励まし勤めて修断を加え、自らの功徳心が倍増するからです。あるいは名が遠く響き他に聞かれることによって、みな功徳の心が増長し、すべてが聞き知るので甚深となります。第五句の「成就甚深未曾有法」とは快妙事心が甚深であることを示します。成し遂げた法が未曾有の快妙な勝れた事であるため、それを成す心もまた快妙であり、快妙の心で説くので教は知りがたいのです。第六句の「難解法者、如来能知」とは無上甚深です。きわめて解しがたい法を如来がよく知るので、この法門は無上となります。あるいは解しがたい法の体そのものが無上であり、ただ仏のみがよく知るので甚深です。第七句の「随宜所説、意趣難解」とは入甚深です。入甚深とは、名前や章句の意が得がたいため、仏みずから住持してこの意に入り解するのであり、外道のように自ら解せないのにどうして他を解せしめようか、というのとは異なります。因縁の法を説くことはきわめて甚深だからです。入には二つの意味があります。一つには入りがたく、仏みずから解するからであり、二つには機に随って説き、他をして法に入らしめるからです。意趣が解しがたいことを甚深と名づけます。第八句の「一切声聞辟支仏所不能知」とは、不共の声聞・辟支仏の所作と住持が甚深であることを示します。二乗の所作である外利の所作や内利の住持とは異なるので甚深となるのです。以上を総じて説けば、諸仏に親近し、受持し、読誦し、修行し、果決し、功徳心を増長し、快妙の事を証し、無上の法を成じたので、機に随って説いても解を得がたく、二乗には了解できないのです。その智慧の門は甚深で解しがたく入りがたいと名づけられるのですから、いわんや仏の智慧が甚深でないことがありましょうか。
經「舍利弗(至)種種譬喻」。
経に「舎利弗よ、(乃至)種々の譬喩」とあります。
贊曰:上歎所證、所說法勝妙,下歎如來能證、能說法師勝妙。依論牒經,次下應云:何以故?舍利弗!諸佛如來自在說因成就故。舍利弗!如來成就種種方便、種種知見、種種念觀、種種言詞。此上為總,下釋上言。舍利弗!吾從成佛已來,於彼彼處廣演言教,無數方便引導眾生,令離諸著等。展轉意言,由如來身於所證理成就自在說因圓滿,是以今說所證智慧及智慧門,二皆甚深。何等名為說因成就?謂種種方便、種種知見、種種念觀、種種言詞,此中初三合名因緣。因緣,道理也。言詞,名譬喻,言詞多說諸譬喻故。准論解經,「譬喻」以上名為總句,「廣演」以下名為別句。展轉訓釋,論有三解:初論自別釋初四句,次論以經下諸句兩番配此四句,其後二番中,初三義一處明,第四義一處明。
賛じて曰く、上には所証と所説の法の勝妙なるを嘆じ、下には如来の能証・能説の法師の勝妙なるを嘆じています。論に依って経を牒ずれば、次に下には「なぜでしょうか。舎利弗よ、諸仏如来は自在に説く因が成就しているからです。舎利弗よ、如来は種々の方便、種々の知見、種々の念観、種々の言詞を成就しておられます」とあるべきです。この上は総とし、下は上の言葉を解釈します。「舎利弗よ、私が成仏して以来、あのあの所で広く言教を演べ、無数の方便をもって衆生を導き、もろもろの執着から離れさせた」などです。展転して意味を言えば、如来の身が所証の理において自在に説く因を成就し円満にしておられるので、ここに説かれる所証の智慧および智慧の門、その二つとも甚深であるということです。何が説因成就と名づけられるのでしょうか。それは種々の方便、種々の知見、種々の念観、種々の言詞であり、このうち初めの三つを合わせて因縁と名づけます。因縁とは道理です。言詞とは譬喩のことで、言詞は多くの譬喩を説くからです。論に准じて経を解釈すれば、「譬喩」以上を総句と名づけ、「広演」以下を別句と名づけます。展転して訓釈すれば、論に三つの解釈があります。初めの論は自ら初めの四句を別に解釈し、次の論は経の下の諸句をもって二度にわたりこの四句に配当し、その後の二番のうち、初めの三つの義は一処に明かし、第四の義は一処に明かしています。
初番別解云,如來成就四種功德故,能化度眾生。一往成就,謂種種方便從兜率天退,乃至示現入涅槃故,能往十方起難思化,八相成道利益眾生,權巧智用故名方便。八相者,《大般若經》第五百六十八卷說:「一從兜率天沒即入胎相,二嬰兒,三童子,四苦行,五成道,六降魔,七轉法輪,八入般涅槃。」何故示現八相者?彼經云:「爾時最勝天王復白佛言:云何菩薩行深般若,為度有情示現諸相?佛告最勝:甚深般若相不可得,諸菩薩相亦不可得,但由方便善巧威力,為有情類示現入胎乃至涅槃種種化相。諸天計常謂無墮落,是故菩薩為破彼執示現入胎,因令彼天起無常念,世間最勝於欲不染,尚有墮落,況餘天眾而得常耶?故勿放逸勤加精進繫念脩道,如見日輪尚有墮沒,即知螢火不得久住。復有諸天放逸著樂,不脩正法恣情遊戲,雖與菩薩同處天宮,不往禮拜不諮受法,各作是念:今旦受樂明詣菩薩當受法寶。共相謂言:我與菩薩常此同住,修行,何晚?是故菩薩如救頭燃,破放逸行示現墮落。如是示現有二因緣:一令諸天離放逸故,二令有情咸得見故。乃至第八復有諸天人樂聞圓寂,菩薩為彼示現涅槃。」《攝大乘論》第九卷中有少差別。《華嚴經》中示現十相,皆廣如彼。
初番の別解には、こう述べられています。如来は四種の功徳を成就されているがゆえに、衆生を教化し済度することができるのです。第一の「往成就」とは、種々の方便によって兜率天から退き、さらには入涅槃を示現されることに至るまで、十方において不可思議な教化を起こし、八相成道によって衆生を利益されることをいいます。権巧の智のはたらきであるから「方便」と名づけるのです。
八相とは、『大般若経』第五百六十八巻に説かれています。「一には兜率天から没してただちに入胎する相、二には嬰児、三には童子、四には苦行、五には成道、六には降魔、七には転法輪、八には入般涅槃」です。
なぜ八相を示現されるのでしょうか。かの経にはこう説かれています。「そのとき、最勝天王が再び仏に申し上げました。『菩薩が深般若を行じ、有情を済度するために諸相を示現するとは、どのようなことでしょうか』と。仏は最勝に告げられました。『甚深の般若の相は得られず、諸菩薩の相もまた得られない。ただ方便善巧の威力によって、有情のために入胎から涅槃に至るまでの種々の教化の相を示現するのである。諸天は常に堕ちることはないと計らい、堕落がないと思っている。それゆえ菩薩は彼らの執着を破るために入胎を示現し、それによって彼ら天に無常の念を起こさせるのである。世間で最もすぐれた者が欲に染まらず、なお堕落することがあるならば、まして残りの天衆が常を得ることがあろうか。だから放逸に耽らず、精進に励み、念を繫けて道を修めよ。ちょうど日の輪さえ没することがあると見れば、蛍火は久しくとどまることができないと知るようなものである。また諸天には放逸で楽に執着し、正法を修めず、情のままに遊び暮らし、菩薩と同じ天宮にいながらも、礼拝に赴かず、法を尋ね受けない者たちがいる。彼らはそれぞれこう思っている。「今朝は楽を味わい、明日には菩薩のもとに行って法宝を受けよう」と。そして互いに言い合う。「私と菩薩はいつもここに共に住んでいる。修行するのに何を急ぐことがあろうか」と。それゆえ菩薩は頭の燃える火を消すかのように、放逸の行を破るために堕落を示現されるのである。こうした示現には二つの因縁がある。一には諸天をして放逸から離れさせるため、二には有情をしてことごとく見ることができるようにするためである。さらには第八について、なお円寂を聞くことを好む諸天や人があり、菩薩は彼らのために涅槃を示現される』と。」
『摂大乗論』第九巻には、少し違いがあります。『華厳経』には十相を示現されると説かれていますが、いずれも詳しくはかの経のとおりです。
二教化成就,謂種種知見示現染淨諸因故。由具知見,於化身中能示現有一切染因集能招苦,一切淨因道能證滅,或示現染淨諸法道理。因者所以、道理義故。前能現身,此於身中示有諸法染淨道理。論下解此與第四別,此依證法,彼依說法故。
二つの教化の成就とは、種々の知見によって染と浄の諸々の因を表し示すことです。知見を具えていることにより、化身において、一切の染の因である集が苦を招くこと、一切の浄の因である道が滅を証することを示し表すことができます。あるいは、染と浄の諸法の道理を表し示すこともあります。因とは所以、道理という意味です。前には身を現すことができ、ここではその身において諸法の染と浄の道理があることを示します。論の後半で、これと第四との区別を解釈しており、これは証法に依り、あれは説法に依るからです。
三功德畢竟成就,謂種種念觀,以說彼法成就因緣如法相應故。此意說言,以說種種念觀等法,彼念觀等佛皆成就,如所說法本末因緣皆相應故。言相應者,契會證義。
三つの功德が究竟して成就されるとは、種々の念と観のことです。それは、かの法を説く成就の因縁が、法の相応するとおりであるからです。この意味はこう説かれます。種々の念や観などの法を説くことによって、かの念や観などは仏がことごとく成就しておられます。説かれた法の本末と因縁が、すべて相応しているからです。相応するとは、契合して証するという意味です。
四說成就,謂種種言詞,以四無礙,依何等何等名字章句,隨何等何等眾生能受,而為說故。依何等者,何等義也,即義無礙解。何等名字章句者,何等之名字章句,法無礙解也。隨何等者,隨何等方眾生言音而為說故,即詞無礙解。何等眾生能受為說者,何等眾生根器能受,佛便為說,辨才無礙解也。此四之中,第一能起化身八相成道,第二能示現有染淨諸法道理,第三如所說法皆畢竟得,第四具四無礙。由佛法師具此四種說因成就成勝妙故,其所說法亦為勝妙。論解四句已,重解第二句第四句差別云:「教化成就依證法故,說成就者依說法故,依自所證苦集滅道染淨道理次第為他說,名第二教化成就。依說法說,義法詞辨次第為他說,名第四說成就,皆無亂故。」或前四種,第一句是化身德,第二句是報身德,第三句是法身德,第四句四辨具足,由此三身四辨具足故能起說。三身具故智慧甚深,四辨具故慧門甚深,故此因緣即前三種,方便、知見、念觀三也。譬喻即是種種言詞。
四つの説成就とは、種々の言葉をもって、四無礙によって、どのような名前や章句に基づき、どのような衆生が受け入れられるかに応じて説くことをいいます。どのようなものに基づくかとは、どのような義かということであり、すなわち義無礙解です。どのような名前や章句かとは、どのような名前や章句かということであり、法無礙解です。どのような衆生かに応じてとは、どのような方面の衆生の言葉や音声に応じて説くかということであり、すなわち詞無礙解です。どのような衆生が受け入れられるかに応じて説くとは、どのような衆生の根器が受け入れられるかに応じて、仏がそのために説かれるということであり、弁才無礙解です。この四つの中で、第一は化身の八相成道を起こすことができ、第二は染浄の諸法の道理があることを示現することができ、第三は説かれた法の通りにすべてが究竟して得られ、第四は四無礙を具えます。仏法の法師がこの四種の説の因の成就を具えて勝妙となることによって、その説かれる法もまた勝妙となります。論が四句を解釈し終えて、改めて第二句と第四句の区別を解釈して、「教化成就は証法に依るためであり、説成就は説法に依るためである。自ら証した苦・集・滅・道の染浄の道理に依って次第に他ために説くことを、第二の教化成就と名づけます。説法に依って説き、義・法・詞・弁を次第に他ために説くことを、第四の説成就と名づけます。いずれも乱れがないためです。」といいます。あるいは、前の四種のうち、第一句は化身の徳であり、第二句は報身の徳であり、第三句は法身の徳であり、第四句は四弁が具足していることであり、これによって三身と四弁が具足しているためによく説を起こすことができます。三身が具わるため智慧が甚深であり、四弁が具わるため慧門が甚深です。したがって、この因縁はすなわち前の三種、すなわち方便・知見・念観の三つです。譬喩とはすなわち種々の言葉です。
經「廣演言教(至)令離諸著」。
経には「広く言教を演べて、(至)らしめ諸の著を離れしむ」と説かれています。
贊曰:上依論文一番別釋總四句已,論復第二以下經句配此四句,此即第一種種方便。次下「所以者何」,如來方便知見波羅蜜皆已具足,為第二種種知見。次「舍利弗如來知見至解脫三昧」,為第三句種種念觀。次「深入無際乃至本末究竟等」,為第四句種種言詞。論雖以下經文別配上總四句,然初以兩番釋上三句已,復以兩番釋後一句,彼論文長,乍披難解,應依此讀。此中初番釋云:「復有義,種種方便者,示現外道邪法種種過失,諸佛正法種種功德故。如經『舍利弗吾從成佛已來,廣演言教無數方便引導眾生,於諸著處令得解脫。』」文雖少異,大意亦同。釋無數方便更有四番:一方便者方便令入諸善法故,二斷諸疑故,三令入增上勝智故,四依四攝法攝取眾生令得解脫故。此六釋中迴邪入正、進善破惡,自入勝智、令他解脫,如次配之。以此方便引攝將導一切眾生令離諸著;著者執本,愛染生死之根本故。論云:「諸著者,彼彼處著,或著界、著地、著分、著乘。著界者著三界。著地者著戒取、三昧初禪定地,乃至非想非非想、滅盡定地,即以九次第定為地,戒取、見取執此三昧故名著地。著分者著在家分已同類,作種種業邪見等故;著出家分名聞利養,能起種種覺察煩惱等故。著乘著聲聞乘樂持小戒求四果等故,著於大乘著利養供養恭敬等故。由著分別觀種種法相乃至分別佛地故。」
讃えて曰く、以上は論文に依り、一番に別釈して総じて四句を終えた。論はさらに第二に、以下の経句をこの四句に配している。これがすなわち第一の「種々の方便」です。次に下の「所以者何」、如来の方便知見波羅蜜はみなすでに具足しておられる、が第二の「種々の知見」となります。次に「舎利弗、如来の知見より解脱三昧に至るまで」が、第三句の「種々の念観」となります。次に「深く無際に入り、乃至、本末究竟等」が、第四句の「種々の言詞」となります。論は以下の経文をこの総じた四句にそれぞれ配していますが、初めに二番にわたって上の三句を釈し終えてのち、さらに二番にわたって後の一句を釈しています。その論文は長く、ちょっと開いただけでは解りにくいので、この読み方に従うべきです。このうち初番の釈にはこう述べています。「また別の義がある。種々の方便とは、外道の邪法の種々の過失と、諸仏の正法の種々の功徳とを示現するためである。経に『舎利弗、我は成仏してよりこのかた、広く言教を演べ、無数の方便をもって衆生を引導し、とらわれのあるところにおいて解脱を得させた』とある通りです。」文はやや異なりますが、大意は同じです。無数の方便を釈するには、さらに四番があります。第一の方便は、衆生をして諸々の善法に入らせるためのもの。第二は、諸々の疑いを断つためのもの。第三は、増上勝智に入らせるためのもの。第四は、四摂法に依って衆生を摂取し解脱を得させるためのもの。この六つの釈のうち、邪をめぐらして正に入れ、善を進めて悪を破り、自ら勝智に入り、他を解脱させる、という次第にそれぞれ配されます。この方便をもって一切の衆生を引き摂し導き、もろもろの執着から離れさせます。執着とは執の根本であり、愛染の生死の根本だからです。論に曰く、「諸々の執着とは、あれこれのところへの執着であり、あるいは界に執着し、地に執着し、分に執着し、乗に執着する。界に執着するとは、三界に執着すること。地に執着するとは、戒取、三昧の初禅定地に執着し、乃至、非想非非想、滅尽定地に至るまでで、すなわち九次第定を地とし、戒取・見取がこの三昧に執着するので地に執着すると名づける。分に執着するとは、在家の分に執着して同類とともになり、種々の業や邪見などを作すためであり、出家の分に執着するとは、名聞利養に執着し、種々の覚察煩悩などを起こすためである。乗に執着するとは、声聞乗に執着し、小戒を保ち四果などを求めるためであり、大乗に執着するとは、利養・供養・恭敬などに執着するためである。分別によって種々の法相を観じ、乃至、仏地を分別するためである。」
經「所以者何(至)皆已具足」。
経文「所以者何」から「皆已に具足した」まで。
贊曰:此第二句。論初番云:「復種種知見者,自身成就不可思議境界,與聲聞、菩薩故,如經『舍利弗!如來知見、方便到於彼岸故』,到彼岸者勝餘一切諸菩薩故。」文少不同,義意無別。「知見」者,真俗二智體,根本智名知、後得智名見。「方便」者,此智妙用方便善巧,由自成就不思議境界,故具知見與聲聞等名為方便。「波羅蜜」者到彼岸義,明佛成就二勝智體,故能成就不可思議境界,已到彼岸勝餘一切;由具方便二智妙用,復能令他到於彼岸,故能以此不可思議境界知見,亦與聲聞菩薩。
賛えて曰く、この第二句について、論の初番にはこう述べています。「また種々の知見とは、自らが不可思議な境界を成就し、声聞や菩薩に対してもそれを与えるためである。経に『舎利弗よ、如来の知見と方便は彼岸に到っているからである』とあるとおりである。彼岸に到るとは、他のすべての菩薩に勝れているからである。」文は少し異なりますが、意味に違いはありません。「知見」とは、真諦と俗諦の二つの智慧の本体であり、根本智を知と名づけ、後得智を見と名づけます。「方便」とは、この智慧の妙用方便善巧であり、自らが不可思議な境界を成就するによって、よく知見を具えて声聞などにも与えることを方便と名づけます。「波羅蜜」とは彼岸に到るという意味であり、仏が二つの勝れた智慧の本体を成就されたことを示すので、よく不可思議な境界を成就し、すでに彼岸に到って他のすべてに勝れておられます。方便と二智の妙用を具えておられるによって、さらに他の者をも彼岸に到らせることができるので、この不可思議な境界の知見をもって、また声聞や菩薩にも与えるのです。
經「舍利弗(至)解脫三昧」。
経の「舎利弗、解脱三昧に至る」とは。
贊曰:此第三句。論初番云:「復種種念觀者,如經『舍利弗!如來知見,廣大深遠無障無礙,力、無所畏、不共法,根、力、菩提分,禪定、解脫、三昧、三摩跋提,皆已具足故。』」文意大同,多少有別。今言知見,廣者無邊,大者無上,深者難測,遠者時長窮未來故。此上乃是諸德總句。二智為性故云知見,又此諸德亦是二智眷屬所攝故云知見。「無量」已下諸德別句。依此經文,「無量」者四無量,即論牒經無障也。「無礙」者四無礙解。「力」謂十力,「無所畏」者四無所畏。論本牒經中不共法,十八不共法也。「根」謂五根,「力」謂五力,「菩提分」謂三十七,此上四種經本所無。「禪」謂色界四靜慮,「定」謂四無色定,「解脫」謂八解脫,「三昧」者謂三三昧,「三摩跋提」謂九等至,此之一種經本亦無。論牒經中有十三門,今此經中合有八門功德名為念觀,體即明記之慧解,故不可廣解。義門各應略為分別,四無量以五門分別:一列名、二釋名、三辨行相、四出體性、五辨差別。列名者,謂慈無量、悲無量、喜無量、捨無量。釋名者,一緣無量境、緣一切有情起此四故;二起無量行,行解亦復極廣大故;三感無量果,得大梵福成如來故,名為無量;四者是數,帶數釋也。辨行相者,法界有情總為三類:一無苦無樂者,無倒與樂名慈,無瞋為體。二有苦者,拔苦名悲,不害為體。三有樂者,助喜名喜,不嫉善根為體。復於無苦無樂者起離癡想,於有苦者起離瞋想,於有樂者起離貪想,平等欲令離諸惡故名捨。令捨惡故,善捨為體。出體性者,合以三法,謂無瞋、不害及捨,不嫉體即無瞋,無別法故。辨差別者,此各有三:一有情緣,作有情想;二者法緣,不見有情唯作法想;三無緣,復於諸法離分別心,作真如想故名無緣,或法無量緣諸教法。此三之中,初共外道,次共二乘,後唯菩薩。初三安樂,後一利益,感果可知。與大慈、大悲、大喜、大捨有差別者,彼唯實觀唯佛所起,緣三界生,并無癡俱,此通假實通凡聖起,緣界不定,非無癡俱。
賛えて曰く、この第三句についてです。論の初番に、「また種々に念観するとは、経に『舎利弗よ、如来の知見は広大深遠にして障りなく礙りなし。力・無所畏・不共法、根・力・菩提分、禅定・解脱・三昧・三摩跋提、みなすでに具足しているからである』とある通りです」と述べられています。文の意味はほぼ同じですが、多少の違いがあります。
今ここで知見と言う場合、「広」とは辺りがないこと、「大」とは上がないこと、「深」とは測りがたいこと、「遠」とは時間が長く未来までも尽くすことです。この以上のものは、まさに諸々の功徳を総括する句です。二智を本性とするので知見と言い、またこれらの諸功徳も二智の眷属に含まれるので知見と言います。
「無量」以下の諸功徳は個別の句です。この経文によれば、「無量」とは四無量のことで、すなわち論が経を引用した「無障」にあたります。「無礙」とは四無礙解です。「力」とは十力をいい、「無所畏」とは四無所畏です。論本が経を引用する中では不共法といい、十八不共法のことです。「根」とは五根をいい、「力」とは五力をいい、「菩提分」とは三十七菩提分をいい、以上の四種は経本にはありません。「禅」とは色界の四静慮をいい、「定」とは四無色定をいい、「解脱」とは八解脱をいい、「三昧」とは三三昧をいい、「三摩跋提」とは九等至をいい、この一種も経本にはありません。
論が経を引用する中には十三門があり、今この経の中には合わせて八門の功徳があり、これを念観と名づけます。その本体はすなわち明記の慧解であるため、広く解釈することはできません。義門ごとにそれぞれ簡単に分別すべきです。
四無量を五門で分別します。一には名を列ね、二には名を釈し、三には行相を辨じ、四には体性を出し、五には差別を辨じます。
名を列ねるとは、慈無量・悲無量・喜無量・捨無量のことです。
名を釈するとは、第一に無量の境を縁じ、一切の有情を縁じてこの四つを起こすからです。第二に無量の行を起こし、行解もまたきわめて広大であるからです。第三に無量の果を感得し、大梵の福を得て如来となるからです。これらを無量と名づけます。第四にこれは数であり、数を帯びた釈です。
行相を辨じるとは、法界の有情を総じて三類とします。第一に苦も楽もない者には、顛倒なく楽を与えるのを慈と名づけ、瞋を体としません。第二に苦ある者には、苦を抜くのを悲と名づけ、害さないことを体とします。第三に楽ある者には、喜びを助けるのを喜と名づけ、嫉まない善根を体とします。さらに苦も楽もない者には痴を離れる想いを起こし、苦ある者には瞋を離れる想いを起こし、楽ある者には貪を離れる想いを起こし、平等に諸々の悪を離れさせようとするので捨と名づけます。悪を捨てさせるため、善き捨を体とします。
体性を出するとは、合わせて三つの法とします。すなわち無瞋と不害と捨です。不嫉の体はすなわち無瞋であり、別の法がないからです。
差別を辨じるとは、これらにそれぞれ三つがあります。第一は有情縁で、有情という想いをなします。第二は法縁で、有情を見ずにただ法という想いをなします。第三は無縁で、さらに諸法に対して分別の心を離れ、真如という想いをなすので無縁と名づけます。あるいは法無量は諸々の教法を縁じます。この三つのうち、初めは外道と共通し、次は二乗と共通し、後はただ菩薩のみです。初めの三つは安楽であり、後の一つは利益であり、果を感得することは知られる通りです。
大慈・大悲・大喜・大捨との差別とは、かのものはただ実観でありただ仏のみが起こすもので、三界の生を縁じ、いずれも痴を伴いません。これらは仮と実に通り凡聖に通じて起こし、縁とする界は定まらず、痴を伴わないものではありません。
四無礙解以三門分別:一列名,二辨相,三出體。列名者:一法無礙解,二義無礙解,三詞無礙解,四辨才無礙解。辨相者,法謂能詮名句文教,義謂所詮真俗諦理,詞謂諸方音聲,辨才謂七種辨才。緣此四智無所拘礙,名無礙解。有多差別,如〈決擇〉、〈菩薩地〉及《十地論》說。出體者,此四即以無漏後得智為體,非證真故;義無礙解亦通正智,初地分得,九地任運離障圓成,佛果滿足。
四無礙解を三つの門から分別します。一つには名を列ね、二つには相を辨じ、三つには体を出す。名を列ねるとは、一には法無礙解、二には義無礙解、三には詞無礙解、四には辨才無礙解です。相を辨じるとは、法とは能く名・句・文を詮する教えをいい、義とは所詮の真諦・俗諦の理をいい、詞とは諸方の音声をいい、辨才とは七種の辨才をいいます。この四つの智が縁じるところに拘礙されることがないので、無礙解と名づけます。多くの差别があり、〈決択〉・〈菩薩地〉および『十地論』に説かれる通りです。体を出すとは、この四つはすなわち無漏の後得智を体とし、真を証するのではないからです。義無礙解はまた正智にも通じ、初地で分を得、九地で任運に障を離れて円成し、仏果において満足します。
十力略以五門分別:一辨名,二出體,三行相,四次第,五諸門。辨名有二:一列名,二釋名。列名者,一處非處智力;二自業智力,《大般若》五十三名業異熟智力;三靜慮解脫等持等至智力,彼名靜慮解脫等持等至雜染清淨智力;四根勝劣智力;五種種勝解智力;六種種界智力;七遍趣行智力,彼名遍行智力;八宿住隨念智力;九死生智力;十漏盡智力。釋名者,初總、後別。總名力者,能摧怨敵義,不可屈伏義。《瑜伽.菩薩地》第四十九、五十,及〈決擇〉五十七,《菩薩藏經》第五,《顯揚》第四,《對法》第十四,《大般若經》皆釋此相,與一切種利樂有情功能相應,畢竟勝伏一切魔怨,大威力故說名為力,故以威勢能摧難屈名力。《對法》云「善降眾魔善記問論,故名十力。十者是數,力用不同有此十種,故名十力。」依六釋中帶數釋也。釋別名者,因果相當名之為處,若不相當名為非處,故《瑜伽》云:「淨不淨果非不平等,如實轉因是名為處。」處者建立義,依義起義能建立果為依,能起於果法故,因立處名。不平等因與上相違,是名非處。於此二種,一切智、無滯智、清淨智、離增上慢名之為智,力義如前。各自所作三世三業,或順現受或順生受、順後受、不定受名為自業,於此正知名自業智力。此於善惡業異熟果中而生智解,亦名業異熟智力。靜慮者四靜慮,解脫者八解脫,等持者一切有心定,等至者一切有心無心定,於此正知名靜慮解脫等持等至智力。此等諸定通有漏無漏,加名雜染清淨。根者信等五根,此耎中上名為勝劣,於此正知名根勝劣智力。若從他信以為其先,或觀諸法以為其先,成耎中上。愛樂勝解名種種勝解,於此正知名種種勝解智力。若廣建立種種姓,或一乘或三乘或四乘或五乘,或貪瞋癡等分行等,乃至有情八十千行名種種界,界是姓故,於此正知名種種界智力。若即如是諸趣門中隨順正行,如貪行者修不淨觀等名遍趣行,或趣一切五趣之行,或諸外道沙門婆羅門,各各異見品類諸行,或此世他世無罪趣行名遍趣行,於此正知名遍趣行智力,能於遍行諸趣之行而了知故,亦名遍行行。若於種種有情眾中,四方名字假設安立品類差別,隨先過去所有自體八言說句:一如是名,二生類,三種姓,四飲食,五受苦樂,六長壽,七久住,八壽量邊際。於此八中隨念六種略所行行,有無量種宿住隨念。六略行者:一呼召假名,二剎帝利等色類差別,三父母,四飲食方軌,五興衰,六壽量。此等宿住是過去境,住宿世故,於此宿住而起隨念念俱行智,名宿住隨念智力。諸有情類臨欲終沒名為死時,住在中有名為生時,於善惡趣死時生時皆能正知名死生智力。一切諸法漏及隨眠無餘永斷,名為漏盡,於此正知名漏盡智力。智者是體,力是作用,然智即力更無別性。此中宿住隨念相應智力,是隣近釋。自餘最初處非處乃至漏盡是所觀境,智力是能觀智。處非處乃至漏盡之智力,皆依主釋。宿住是境,隨念相應智力是能觀,亦依主釋。
十力を略して五つの門で分別します。第一に名を辨じ、第二に体を出し、第三に行相、第四に次第、第五に諸門です。
名を辨じるには二つあります。第一に名を列ね、第二に名を釋します。
名を列ねるとは、第一に處非處智力、第二に自業智力(『大般若』五十三では業異熟智力といいます)、第三に靜慮解脫等持等至智力(かの経では靜慮解脫等持等至雜染清淨智力といいます)、第四に根勝劣智力、第五に種種勝解智力、第六に種種界智力、第七に遍趣行智力(かの経では遍行智力といいます)、第八に宿住隨念智力、第九に死生智力、第十に漏盡智力です。
名を釋するには、初めに總じ、後に別じます。總名の力とは、怨敵を摧くことができるという意味であり、屈伏させることができないという意味です。『瑜伽師地論』菩薩地第四十九・五十、および決擇第五十七、『菩薩藏經』第五、『顯揚聖教論』第四、『對法論』第十四、『大般若經』はみなこの相を釋しています。一切種において有情を利樂する功能と相應し、畢竟して一切の魔怨を勝伏し、大威力あるがゆえに力を名づけると説かれます。それゆえ威勢をもって摧くことができ屈することが難しいことを力と名づけます。『對法論』に「よく眾魔を降し、よく問論を記す。ゆえに十力と名づける。十とは數であり、力用が同じでないためこの十種がある。ゆえに十力と名づける」とあります。六釋の中では帶數釋です。
別名を釋するとは、因果が相當するものを處と名づけ、もし相當しないものを非處と名づけます。それゆえ『瑜伽師地論』に「淨不淨の果は不平等ではなく、如實に轉ずる因、これを處と名づける」とあります。處とは建立の意味であり、依の義に基づいて義を起こし、よく果を建立するを依となし、よく果の法を起こすがゆえに、因に處の名を立てます。不平等の因は上と相違し、これを非處と名づけます。この二種において、一切智・無滯智・清淨智・離增上慢なるをこれを智と名づけます。力の意味は前述のとおりです。それぞれ自ら作す三世三業が、あるいは順現受、あるいは順生受、順後受、不定受なるを自業と名づけます。これに正しく知るを自業智力と名づけます。これは善惡業の異熟果において智解を生ずるので、業異熟智力とも名づけます。靜慮とは四靜慮、解脫とは八解脫、等持とは一切の有心定、等至とは一切の有心無心定です。これに正しく知るを靜慮解脫等持等至智力と名づけます。これらの諸定は通じて有漏無漏であり、雜染清淨の名を加えます。根とは信等の五根であり、これの軟中上を勝劣と名づけます。これに正しく知るを根勝劣智力と名づけます。もし他から信を受けてこれを先となし、あるいは諸法を観じてこれを先となし、軟中上を成じます。愛樂勝解を種種勝解と名づけ、これに正しく知るを種種勝解智力と名づけます。もし廣く種種の姓を建立し、あるいは一乘、あるいは三乘、あるいは四乘、あるいは五乘、あるいは貪瞋癡等の分行等、乃至は有情の八十千行を種種界と名づけます。界とは姓の意味です。これに正しく知るを種種界智力と名づけます。もしすなわちかくのごとき諸趣の門の中で正行に隨順し、貪行の者が不淨觀を修するなど、これを遍趣行と名づけます。あるいは一切の五趣の行に趣き、あるいは諸外道の沙門婆羅門がそれぞれ異なる見の品類の諸行、あるいは此世他世の無罪の趣行を遍趣行と名づけます。これに正しく知るを遍趣行智力と名づけ、よく遍行の諸趣の行を了知するがゆえに遍行行とも名づけます。もし種種の有情眾の中で、四方の名字を假設安立し品類の差別をなすに、先の過去にあるところの自體の八言說句に隨います。第一に如是名、第二に生類、第三に種姓、第四に飲食、第五に受苦樂、第六に長壽、第七に久住、第八に壽量邊際です。この八の中で隨念する六種略所行行に、無量種の宿住隨念があります。六略行とは、第一に呼召假名、第二に剎帝利等の色類差別、第三に父母、第四に飲食方軌、第五に興衰、第六に壽量です。これらの宿住は過去の境であり、宿世に住するがゆえに、この宿住において隨念を起こし念と俱行する智を、宿住隨念智力と名づけます。諸有情類が臨んでまさに終沒せんとするを死時と名づけ、中有に住するを生時と名づけ、善惡趣の死時生時をみなよく正しく知るを死生智力と名づけます。一切諸法の漏および隨眠を無餘に永く斷ずるを漏盡と名づけ、これに正しく知るを漏盡智力と名づけます。智とは體であり、力とは作用です。しかし智すなわち力であり、さらに別の性はありません。この中で宿住隨念相應智力は隣近釋です。それ以外の最初の處非處乃至漏盡は所觀の境であり、智力は能觀の智です。處非處乃至漏盡の智力は、みな依主釋です。宿住は境であり、隨念相應智力は能觀であり、これも依主釋です。
二出體者,〈決擇分〉五十七云「佛具知根,慧根為體」,《對法論》云「若定若慧,及彼相應諸心心所」,〈菩薩地〉云「謂總五根為其自性」。雖復三文不同,然體有五:一最勝體,故〈決擇分〉佛具知根慧根為性。二引生體,故《對法》云若定若慧。三剋實體,〈菩薩地〉云五根為性,由慧勝故,且說十力慧為自性,所以但言處非處等智力,不言信力精進等力,依此即會〈決擇〉文訖。四相應體,《對法》又云「及彼相應諸心心所四蘊為性」。五眷屬體,五蘊為性,定共、道共無漏色等助為體故。此雖無文,理必應爾,遮犯戒垢助摧怨故。餘之三門如《無垢稱疏》第二卷說。
二つ目は本体を明かす部分です。〈決択分〉の五十七には「仏は知根を具えており、慧根を本体とする」と説かれています。《対法論》には「定であれ慧であれ、またそれらと相応する諸々の心と心所」と説かれています。〈菩薩地〉には「総じて五根をその自性とする」と説かれています。三つの文は異なっていますが、本体には五つあります。第一は最も勝れた本体であり、それゆえ〈決択分〉では仏が知根を具えており慧根を本性としています。第二は引き生じる本体であり、それゆえ《対法》では定であれ慧であれと説かれています。第三は実際を究めた本体であり、〈菩薩地〉では五根を本性と説かれています。慧が勝れているため、ひとまず十力の慧を自性として説いており、それゆえただ処非処などの智力とだけ言い、信力や精進などの力とは言わないのです。これによって〈決択〉の文を会通し終わりました。第四は相応の本体であり、《対法》にはまた「またそれらと相応する諸々の心と心所の四蘊を本性とする」と説かれています。第五は眷属の本体であり、五蘊を本性とし、定共・道共の無漏の色などが助けとなって本体となるからです。これには文はありませんが、道理から必ずそうあるべきです。戒を犯す垢を遮り、怨敵を摧く助けとなるからです。残りの三つの門は《無垢称疏》第二巻に説かれている通りです。
四無所畏以五門分別:一辨名、二出體、三行相、四次第、五諸門,亦如《菩薩藏經》第五、《大般若》五十三、《顯揚》第四、《瑜伽》五十、《對法》十四。辨名有二:一列名,二釋名。列名者,一正等覺無畏,二漏盡無畏,三障法無畏,四出苦道無畏。釋名有二,一總、二別。總者,四是數名;無所畏者,於此四處能自了知坦然無畏,心無怯劣無所疑慮都無驚懼,故名無畏。別名者,正覺諸法、等覺諸法,名正等覺。諸煩惱漏種現俱斷,故名漏盡。說障礙法,染必為障,故言障法。說出離道,諸聖修習決定出苦,名出苦道。於此四中得無所畏,皆依主釋。出體性者,五十七云,以信、進、念、定、慧及具知根為性。《對法》云「若定若慧及彼相應諸心心所」,又言「若起作用後得智為性,若住自性正智為體」。此體有五,據勝二智為體,發起定、慧為體,談實五根為體,相應四蘊為性,眷屬五蘊為體。行相者,如經言「世尊自稱我是正等覺者」,復有沙門或非沙門從他方來,佛慰勞言安樂住不?乞食得不?遂於此中有立難云:言正等覺無所未知,今問於他一何相返?我於此難正見無由:得安穩住無怖無畏,自稱我處大仙尊位。所以者何?攝受來者令發勝心,聞佛慰問發道心故,欲令諸人審諦於事,佛知尚問,況餘不知?亦為後人作其軌範,見來發心應為引攝,非佛不知,仍言等覺。又如經言,我諸漏盡。後時天授行諸惡行,佛常罵之;執日調順,佛常耎語。遂有難言:言諸漏盡煩惱並亡,呵叱天授、愛語執日,貪、瞋未滅漏寧盡耶?一何乖返!我於此難正見無由:得安穩住無怖無畏,自稱我處大仙尊位,天授譬之惡馬,楚毒方調,若不叱呵返言怖我;執日喻之慧象隨逐人心,故以耎言即能調順,非有貪瞋漏不盡也。又如經言,佛為弟子說障礙法,染必為障,復不遮彼預流一來有妻子等。遂有難言:染必為障,聖畜妻子一何乖返?我於此難正見無由:安穩無怖處大仙位,邪行障諸聖道,畜妻障離欲道,初二果人既未離欲,性戒久成故除邪行,不斷妻子斯有何失?故諸染法非不障也。又如經言,我為弟子說出離道,諸聖修習決定出離,決定通達,復有無學迦留陀夷埋足糞壞,鴦掘魔羅獄火焚身。遂有難言:聖道久脩望離眾苦,無學既還受苦,何用修道之為?一何乖返!我於此難正見無由:安穩無怖處大仙位,實得無學苦果定亡,為現因必有苦報,由此聖者有現受苦起後教故;或苦異熟無學不受,惡業盡故,有必障果不成無學。彼言無學受彼苦者,現居有學猶未離欲,定成無學故與其名,縱得神通非不還等,世五通故。或無學苦非是業招,諸異熟苦必已出故,如《涅槃經》第二十九解三時業,至無學位排諸惡業一切不受,說未入聖名為定業,其入聖已不名定業,廣如彼說,故阿羅漢定無苦果。後之二門亦如《無垢稱》第二卷疏。
四無所畏を五つの門によって分別します。一は名を辨じ、二は體を出し、三は行相、四は次第、五は諸門であり、また『菩薩藏經』第五、『大般若』五十三、『顯揚』第四、『瑜伽』五十、『對法』十四にも説かれています。名を辨じるには二つあります。一は名を列ね、二は名を釋すことです。名を列ねるとは、一は正等覺無畏、二は漏盡無畏、三は障法無畏、四は出苦道無畏です。名を釋すには二つあり、一は總、二は別です。總とは、四は數の名です。無所畏とは、この四つの處において自らよく了知し、坦然として畏れることなく、心に怯劣なく疑慮なく、すべて驚懼がないことから、無畏と名づけます。別名とは、正しく諸法を覺り、等しく諸法を覺ることを正等覺と名づけます。諸々の煩惱の漏の種と現をともに斷じるので、漏盡と名づけます。障礙の法を説けば、染は必ず障りとなるので、障法といいます。出離の道を説けば、諸聖が修習して決定して苦を出るので、出苦道と名づけます。この四つの中において無所畏を得ることは、皆、依主釋です。體性を出すとは、五十七に云く、信・進・念・定・慧および具知根を性と為すと。『對法』に云く「定であれ慧であれ、およびそれに相應する諸心心所」と。また言く「作用を起す後得智を性と為し、自性に住する正智を體と為す」と。この體に五つあり、勝れたる二智を據りて體と為し、定・慧を發起することを體と為し、實を談ずれば五根を體と為し、相應する四蘊を性と為し、眷屬の五蘊を體と為します。行相とは、經に言うが如く「世尊自ら稱して我は是れ正等覺者なり」と。また沙門あり、あるいは非沙門ありて、他の方より來たり、佛は慰勞して言わく、安樂に住するや否や、乞食は得るや否やと。そこでこの中において難を立てて云く、正等覺と言うからには知らざる所なし、今ひとに問うは何と相返するかと。我はこの難において正見に由ることなし。安穩に住し怖れなく畏れなく、自ら稱して我は大仙の尊位に處ると。なぜでしょうか。來る者を攝受して勝心を發さしめ、佛の慰問を聞いて道心を發すからです。諸人をして事を審諦ならしめんと欲し、佛すら知りつつ尚お問う、況や餘の知らざる者をや。また後人のためにその軌範を作し、來たりて發心するを見れば應に引攝すべきであり、佛が知らざるにあらず、なお等覺と言うのです。また經に言うが如く、我は諸の漏盡せりと。後に天授が諸の惡行を行ずれば、佛は常にこれを罵り、執日は調順なれば、佛は常に耎語をかけます。そこで難ありて言く、諸の漏盡と言うからには煩惱ことごとく亡じているはず、天授を呵叱し執日に愛語するは、貪・瞋いまだ滅せず、漏は寧ろ盡きんや、なんと乖返せるかと。我はこの難において正見に由ることなし。安穩に住し怖れなく畏れなく、自ら稱して我は大仙の尊位に處ると。天授はこれを惡馬に譬え、楚毒して方に調う、もし叱呵せずんば返って我を怖れしめん。執日はこれを慧象に喩え、人の心に隨い逐うがゆえに、耎言をもって即ちよく調順す、貪瞋ありて漏盡きずというにはあらず。また經に言うが如く、佛は弟子のために障礙の法を説き、染は必ず障りとなると。また彼の預流・一來に妻子などあるを遮らず。そこで難ありて言く、染は必ず障りとなる、聖が妻子を畜うはなんと乖返せるかと。我はこの難において正見に由ることなし。安穩に住し怖れなく、大仙の位に處ると。邪行は諸聖道を障え、妻を畜うは離欲道を障う。初・二果の人は既にいまだ欲を離れず、性戒は久しく成ずるがゆえに邪行を除く、妻子を斷たざるはなんの失かあらん。ゆえに諸の染法は障りとなさざるにはあらず。また經に言うが如く、我は弟子のために出離の道を説く、諸聖は修習して決定して出離し、決定して通達すと。また無學の迦留陀夷は足を糞壞に埋められ、鴦掘魔羅は獄火に身を焚かれます。そこで難ありて言く、聖道を久しく修すれば眾苦を離れることを望む、無學が既に還って苦を受くれば、修道を用いて何とかす、なんと乖返せるかと。我はこの難において正見に由ることなし。安穩に住し怖れなく、大仙の位に處ると。實に無學を得れば苦果は定んで亡じ、現因は必ず苦報あらんことを現さんがために、これにより聖者は現に苦を受けて後に教を起すがゆえです。あるいは苦の異熟は無學は受けず、惡業盡きるがゆえに、必ず果を障うるあらば無學と成らず。彼れ無學は彼の苦を受くと言うは、現に有學に居りていまだ欲を離れず、定んで無學と成るがゆえにその名を與う、縱い神通を得とも不還などにはあらず、世の五通のゆえです。あるいは無學の苦はこれ業の招くところにあらず、諸の異熟苦は必ず已に出でたるがゆえ、『涅槃經』第二十九に三時の業を解するが如く、無學の位に至れば諸の惡業を排して一切受けず、未だ聖に入らざるを名づけて定業と説き、その聖に入り已れば定業と名づけず、廣くは彼の説の如し。ゆえに阿羅漢は定んで苦果なし。後の二門もまた『無垢稱』第二卷の疏の如し。
禪謂色界四靜慮,謂初有尋有伺靜慮,第二離尋伺喜,第三離喜樂,第四已離喜樂捨念清淨靜慮。
禅とは色界の四静慮をいいます。すなわち、第一は有尋有伺の静慮、第二は尋と伺を離れて喜のある静慮、第三は喜を離れて楽のある静慮、第四はすでに喜と楽を離れた捨念清浄の静慮です。
定是四無色,謂空處、識處、無所有處、非想非非想處。
定は四無色です。すなわち、空処、識処、無所有処、非想非非想処です。
解脫,謂八解脫,以三門分別:一列名字,二顯行相,三出體性。列名字者,依《瑜伽》第十二、十五、七十三,〈攝事分〉第四,并《對法》十三,《顯揚》第四、第二及第二十,《菩薩藏經》第四等說:一有色觀諸色解脫,二內無色想觀外諸色解脫,三淨解脫身作證具足住,四空無邊處解脫,五識無邊處解脫,六無所有處解脫,七非想非非想處解脫,八想受滅解脫身作證具足住。顯行相者,《俱舍》第二十九說,內有色想觀外諸色名初解脫,內未伏除見者色想,觀外諸色以為不淨,名觀外色。今則不然,准《對法》文,初修業者,身在欲界已離欲界欲,未依無色定伏除見者色想,未離色界欲故。若久習業已離色界欲,見者色想安立現前,而觀欲界一切所有內外諸色作光明想,由前三解脫引發勝處、遍處等故,即觀勝處所攝少多等色作光明想,由除變化障故作光明想,不除貪欲故不作不淨想。《瑜伽》唯云未得無色定,未離色界染,觀外諸色,是初解脫者,唯依初業說故。第二解脫,《俱舍論》說,內已伏除見者色想,唯觀外境而為不淨,名內無色想觀外諸色。大乘不然,准《對法》云「久習業者,已依無色定伏除見者色想,初習業者見者無色想安立現前,而觀外色作少多等想,不同於初觀內外色皆作光明,未自在故。」今此唯觀已離欲色作少多等名觀外色,已離染故立以外名,觀心漸勝故稍略觀。故《瑜伽》云「又不思惟彼想明相,但於外色而作勝解,即觀少多等不作光明等,若於是處已得離欲說彼為外,故唯觀彼已離染色名之為外。又由初解脫觀色不言外,其內有色亦不言內,通緣內外根塵等色作光明想,故今此第二內有色,有根等色故,其觀外色,唯觀外塵作少多等,不緣根等作少多等故。」《瑜伽》又云「無色界定不現在前者,此說觀外色不依無色定,無色定不能緣外色故,或已離色界欲,不依無色定伏除色想,但依色界定,見者無色想而現在前,故作是說。」上二解脫初作光明想,後作少多想,初寬後狹兩觀有殊。《顯揚》二十說,此二解脫除變化障,為於變化得自在故。變化既通,四靜慮有故,初二解脫通依四靜慮,初作多依,初二定有但在根本非近分地,彼欣趣脩都無通果,此容預脩有通果故,不同《俱舍》初二靜慮能除欲界初靜慮中顯色貪故作不淨觀。第三解脫,《俱舍論》說,清淨相轉作淨光明鮮,行相轉故,唯第四靜慮離八災患心澄淨故,餘地雖有相似解脫而不建立,非增上故。今者大乘謂如有一已得捨念圓滿清白,以此為依修習清淨聖行圓滿,於內淨不淨諸色已得展轉相待想、展轉相入想、展轉一味想,是第三解脫行相,謂待諸淨色,於餘色中謂為不淨,非不相待,若唯見一類淨與不淨二覺無故,是名初想。又於淨中不淨性所隨入,於不淨中淨性所隨入,由於被障薄皮所覆,共謂為淨之中現有三十六種不淨物故,是第二想。如是展轉,總一切色合為一味清淨想解,是第三想,乃名成就。唯第四靜慮地有捨念淨故,論說超過諸苦樂故,一切動亂已寂靜故,善磨瑩故,餘地不然故唯第四,此亦內無色想而觀外色。由前已說故略不論,而立異稱。
解脱とは、八解脱のことをいいます。三つの門によって分別します。第一に名前を列挙し、第二に行相を明らかにし、第三に体性を述べます。
名前を列挙するとは、『瑜伽論』第十二・第十五・第七十三、〈摂事分〉第四、ならびに『対法論』第十三、『顕揚論』第四・第二および第二十、『菩薩蔵経』第四などの説によるものです。第一は「有色にして諸の色を観ずる解脱」、第二は「内に色想なくして外の諸の色を観ずる解脱」、第三は「浄解脱にして身に作証し具足して住す」、第四は「空無辺処の解脱」、第五は「識無辺処の解脱」、第六は「無所有処の解脱」、第七は「非想非非想処の解脱」、第八は「想受滅の解脱にして身に作証し具足して住す」です。
行相を明らかにするとは、『倶舎論』第二十九に説かれています。内に有色想があって外の諸の色を観ずるを初解脱と名づけます。内にまだ見者の色想を伏除していない者が、外の諸の色を観じて不浄と為すことを「外色を観ずる」と名づけます。しかし今の大乗の説はそうではありません。『対法論』の文に準じれば、初めて修行する者は、身が欲界にあってすでに欲界の欲を離れていますが、まだ無色定によって見者の色想を伏除していません。まだ色界の欲を離れていないからです。もし久しく修行してすでに色界の欲を離れた者は、見者の色想が安立して現前しますが、欲界の一切所有の内外の諸の色を観じて光明想を作します。前三解脱が勝処・遍処などを引き起こすことによるからです。すなわち勝処に摂められる少多等の色を観じて光明想を作します。変化の障りを除くために光明想を作すのであって、貪欲を除くために不浄想を作すのではありません。『瑜伽論』にただ「まだ無色定を得ず、まだ色界の染を離れず、外の諸の色を観ずる、これ初解脱なり」とあるのは、ただ初業に依って説いたからです。
第二解脱について、『倶舎論』には「内にすでに見者の色想を伏除し、ただ外境のみを観じて不浄と為す、これを内に色想なくして外の諸の色を観ずると名づく」と説かれています。大乗はそうではありません。『対法論』に準じれば、「久しく修行した者は、すでに無色定によって見者の色想を伏除しています。初めて修行する者は、見者の無色想が安立して現前しますが、外の色を観じて少多等の想を作します。初観のように内外の色を観じて皆光明想を作すのとは異なります。まだ自在でないからです」とあります。今ここではただ、すでに離欲した色を観じて少多等を作すを「外色を観ずる」と名づけます。すでに染を離れているので外の名を立て、観心が次第に勝れているのでやや略して観ずるのです。それゆえ『瑜伽論』に「また彼の想の明相を思惟せず、ただ外の色に対して勝解を作し、すなわち少多等を観じて光明等を作さない。もしそこで既に離欲を得ていれば、それを外と説く。ゆえにただ彼の已離の染色を観ずるをこれ外と名づく。また初解脱は色を観ずるに外と言わず、その内に有色もまた内と言わない。内外の根塵等の色を通じて縁じて光明想を作すからである。ゆえに今この第二は内に有色であり、根等の色があるからである。その外色を観ずるとは、ただ外塵を観じて少多等を作し、根等を縁じて少多等を作さないからである」とあります。『瑜伽論』にまた「無色界定が現前しないとは、これは外色を観ずるに無色定に依らないことを説く。無色定は外色を縁ずることができないからである。あるいはすでに色界の欲を離れ、無色定に依らずして色想を伏除し、ただ色界定に依って、見者の無色想が現前する。ゆえにかく説いたのである」とあります。
上の二解脱は初めに光明想を作し、後に少多想を作します。初めは広く後は狭く、二つの観に違いがあります。『顕揚論』第二十に説くには、この二解脱は変化の障りを除き、変化において自在を得るためです。変化は既に四静慮に通じるので、初二解脱は四静慮に通じて依ります。初めに多く依り、初二定に有るといってもただ根本にありて近分地にはありません。彼は欣趣修には通果が全くなく、これは容預の修に通果があるからです。『倶舎論』の初二静慮が欲界と初静慮の中の顕色の貪を除くために不浄観を作すのとは異なります。
第三解脱について、『倶舎論』には「清浄の相が転じて浄光明として鮮らかなり。行相が転ずるからである。ただ第四静慮のみ八災患を離れ心が澄浄であるからである。他の地にも相似の解脱はあるが建立されない。増上でないからである」と説かれています。今大乗では、たとえばある者がすでに捨念円満清白を得て、これを依として清浄の聖行を修習して円満し、内の浄・不浄の諸の色についてすでに展転相待想・展転相入想・展転一味想を得る、これが第三解脱の行相です。すなわち諸の浄色に対して、他の色の中において不浄と謂うのは、相待しないのではない。もしただ一類の浄と不浄のみを見れば二つの覚がないからです。これが初想と名づけます。また浄の中に不浄性が随入し、不浄の中に浄性が随入します。障られ薄皮に覆われて、共に浄と謂う中に現に三十六種の不浄物があるからです。これが第二想です。このように展転して、総て一切の色を合わせて一味清浄の想解と為す、これが第三想であり、乃ち成就と名づけます。ただ第四静慮地にのみ捨念浄があるからです。論に「諸の苦楽を超える故、一切の動乱が已に寂静なる故、善く磨瑩する故」と説かれています。他の地はそうでないのでただ第四のみです。これもまた内に色想なくして外色を観ずるものです。前にすでに説いたので略して論ぜず、異なる名称を立てたのです。
次四無色解脫,《俱舍論》說以四無色定善為性,非無記染,已解脫故,亦非散善性微劣故。近分解脫道亦得解脫名,無間不然,所緣下故,彼要背下地方名解脫,故多說根本者,近分非全故。今者大乘皆已離自地欲,依自根本地重觀自地境,思惟勝解,令障更遠,引生勝德。謂如有一於彼空處已得離欲,即於空處思惟勝解,是名空處解脫行相;於彼識處已得離欲,即於是識思惟勝解,是名識處解脫行相;於無所有處已得離欲,於識無邊處思惟勝解,是名無所有處解脫行相。空識二名,自地所緣行相為稱,無所有處以識無有為自地名,故於識處思惟勝解,於有頂地已得離染,更不於餘而作勝解,乃至遍於想可生處,即於是處而作勝解,無所有處名想可生處,今緣此無所有心心所名非想非非想處,故遍於此思惟勝解,至下當知。上說離染依無學說,故《瑜伽》云:「前七解脫於已解脫而生勝解,身證者得。」若依《唯識》有二師說,一云伏初定已上染得滅定,二云伏第四定已上染得滅定。無所有處已下染可有伏義,令障轉遠引生勝德;有頂一地定未能伏。故《瑜伽》第十二,空識二解脫,有說離自地染言。上之二地無說離自地染字,有學無學影略說故,唯在根本亦非近分。滅盡解脫大小俱說,即滅盡定而無行相,棄想、受故。然將入時有二行相,謂依非想非非想處及無相界想,初脩、久熟二入明故。
次に四無色の解脱についてです。『倶舎論』では、四無色定の善を性とし、無記でも染でもないと説きます。すでに解脱しているからであり、また散善でもありません。その性が微劣であるからです。近分の解脱道も解脱という名を得ますが、無間道はそうではありません。所縁が下地であるからです。それは必ず下地を背いてこそ解脱と名づけられます。それゆえ多くは根本を説きます。近分は全ではないからです。今、大乗では、いずれもすでに自地の欲を離れ、自らの根本地に依って自地の境を重ねて観じ、思惟し勝解して、障りをいっそう遠ざけ、勝れた徳を引き生じます。たとえば、ある人がかの空処にすでに離欲を得て、その空処において思惟し勝解する、これを空処解脱の行相と名づけます。かの識処にすでに離欲を得て、その識において思惟し勝解する、これを識処解脱の行相と名づけます。無所有処にすでに離欲を得て、識無辺処において思惟し勝解する、これを無所有処解脱の行相と名づけます。空・識の二つの名は、自地の所縁の行相にかなっているからです。無所有処は、識が有るのではないことをもって自地の名とするので、識処において思惟し勝解するのです。有頂地にすでに離染を得て、さらに他のものに対して勝解を作すことなく、ないし想の生じうる処に遍くして、その処において勝解を作します。無所有処を想の生じうる処と名づけます。今、この無所有の心心所を縁じて、非想非非想処と名づけます。ゆえにここに遍く思惟し勝解します。これは後に至って知られるべきです。上述の離染は無学に依って説かれています。ゆえに『瑜伽論』に、「前の七つの解脱は、すでに解脱したものにおいて勝解を生じ、身証の者が得る」とあります。もし『唯識』に依れば、二つの師の説があります。一つには、初定已上に染を伏して滅定を得ると言い、二つには、第四定已上に染を伏して滅定を得ると言います。無所有処已下の染には伏する義があり、障りをいっそう遠ざけ勝れた徳を引き生じます。有頂の一地は定めて伏することができません。ゆえに『瑜伽論』第十二に、空・識の二解脱には、自地の染を離れるという言葉があると説かれます。上の二つの地には自地の染を離れるという字は説かれていません。有学・無学は影略して説かれるからです。ただ根本にのみあり、近分でもありません。滅尽解脱は大小ともに説かれ、すなわち滅尽定であり、行相はありません。想と受を棄てるからです。しかし入ろうとする時には二つの行相があります。非想非非想処と無相界の想に依るものです。初めの脩と久しく熟したものと、二つの入りが明らかであるからです。
出體性者,《俱舍論》說,前三無貪性,眷屬五蘊性,次四無色定善為性,第八滅定性。大乘之中七十三卷解五法中云,世間出世間正智為體,有漏者以分別中世間正智為體,無漏者即無分別智及後得智,唯慧為性,緣色非色及真如境,離諸定障引生勝德,非餘能故。若相應體,初七以四蘊為性,眷屬五蘊性,故《對法》云:「若定若慧及彼相應諸心心所,無色界中計有定道無表色故,第八解脫以二十二法種子上厭心功能為體,即不相應行蘊所攝。」三昧梵語,此云等持,即三等持,謂空、無相、無願,三等持至下當釋。《般若》五十三「三境俱同俱緣空故」。然依論引經更有五德,恐繁不述。論重釋上三句中,復第二番釋次上三句云:「又第一成就可化眾生依止善知識故,謂能引導有菩提性可化眾生未發心者,令依善友離諸著故,名為方便引導眾生。第二成就根熟眾生,令得解脫故,謂令久脩已發心者得解脫故,名方便知見波羅蜜。第三成就,力、家、自在淨降伏故,謂佛內成種種功德,是故外能屈伏煩惱、蘊、死、天魔,名之為力;其禪定等皆是世尊所栖止處、名之為家;由力自在故能降伏,由家自在故淨諸障。又由栖止禪定等為家故,得自在神通業等,由成無量無礙力等故,能淨諸障、降伏外道等,名如來知見廣大深遠。」依論本重兩番釋經上三句已。次以經下七句釋上第四標句種種言詞,亦兩番解:初配經,後重釋。
身体性を明かすならば、『倶舎論』には、前の三つは無貪を性とし、眷属は五蘊を性とし、次の四つは無色定の善を性とし、第八の滅定はその性であると説かれています。大乗の中では、第七十三巻が五法を解釈する中で、世間と出世間の正智を体とし、有漏のものは分別の中の世間の正智を体とし、無漏のものはすなわち無分別智と後得智であり、ただ慧のみを性とし、色・非色および真如の境を縁じ、もろもろの定の障りを離れてすぐれた徳を引き生じるのであって、他のものにはその力がないからであると説いています。もし相応の体について言えば、初めの七つは四蘊を性とし、眷属は五蘊を性とします。それゆえ『対法論』に、「もし定であれ慧であれ、およびそれに相応するもろもろの心・心所は、無色界の中では定道無表色があると数えるからである。第八の解脱は二十二の法の種子の上の厭心の功能を体とし、すなわち不相応行蘊に摂められる」と説いています。三昧は梵語で、ここでは等持といい、すなわち三つの等持とは、空・無相・無願のことで、この三つの等持については後で解釈します。『般若経』の五十三巻には「三つの境はともに同じく、ともに空を縁じるからである」とあります。しかし論に依って経を引くならば、さらに五つの徳があり、煩雑になるのを恐れて述べません。論が上の三句を重ねて解釈する中で、さらに第二番目の解釈として、次の上の三句を解釈して言います。「また第一の成就は、教化できる衆生が善知識に依止することを成就するからである。すなわち菩提の性を持ち教化できる衆生でまだ発心していない者を導き、善友に依らせてもろもろの執着を離れさせるので、これを方便引导衆生と名づけます。第二の成就は、根の熟した衆生を成就し、解脱を得させるからである。すなわち久しく修行してすでに発心した者を解脱させるので、これを方便知見波羅蜜と名づけます。第三の成就は、力・家・自在が清浄にして降伏させるからである。すなわち仏は内に種々の功徳を成就しているので、外に煩悩・蘊・死・天魔を降伏することができ、これを力と名づけます。その禅定などはみな世尊の栖り止まる所であり、これを家と名づけます。力の自在によって降伏でき、家の自在によってもろもろの障りを清めるからです。また禅定などを家として栖り止まることによって、自在の神通業などを得るのであり、無量無礙の力などを成就することによって、もろもろの障りを清め、外道などを降伏することができ、これを如来の知見が広大深遠であると名づけます。」論本に依って重ねて二番、経の上の三句を解釈し終わりました。次に経の下の七句をもって、上の第四の標句の種々の言詞を解釈し、これもまた二番に解釈します。初めに経に配し、後に重ねて解釈します。
經「深入無際(至)未曾有法」。
経の「深く入りて際(きわ)なき、いまだ曾て有らざる法に至る」とは、このことです。
贊曰:以七句釋第四言詞。此經唯有初之五句,第六句𨷂、第七句少,至文當悉。論云:「第四說成就有七種,此即初句種種成就,理事、空有、世出世間、未曾有法皆深入故,洞曉無涯故,能起彼種種言詞。」「際」涯畔也。
讃えて曰く、七句をもって第四の言詞を解釈します。この経にはただ初めの五句だけがあり、第六句は欠けており、第七句は少なく、本文に至って詳しく述べます。論に云く、「第四の説成就には七種あり、これはすなわち初句の種々成就であり、理と事、空と有、世間と出世間の未曾有の法のすべてに深く入るがゆえに、果てしなく広いことを隅々まで明らかに知るがゆえに、かの種々の言詞を起こすことができる」と。「際」とは涯畔のことです。
經「舍利弗(至)悅可眾心」。
経の「舎利弗、衆の心を悦可するに至る」とあります。
贊曰:此第二句。論名語言成就。佛得五種美妙音聲,說諸法故。《大智度論》說,五種音聲從佛口出:一甚深如雷,二清徹遠聞聞者悅樂,三入心敬愛,四諦了易解,五聽者無厭能辨有漏無漏等義。甚深如雷名種種分別諸法,諦了易解名巧說諸法,諸法之言通上分別,慈悲愍念聽者無厭,名言詞柔軟、清徹遠聞、聞者悅樂、入心敬愛名悅可眾心。初三各一,後一攝二。
讚歎して言います。この第二句は、論では「語言成就」と名づけられています。仏は五種の美妙な音声を得て、もろもろの法を説かれるからです。
『大智度論』には、五種の音声が仏の口から出ると説かれています。一つには甚深にして雷のごとく、二つには清徹にして遠くまで聞こえ、聞く者は悦楽し、三つには心に入りて敬愛され、四つには諦らかに了達して解りやすく、五つには聞く者に厭きることがなく、有漏・無漏などの義を弁別できる、というものです。
「甚深にして雷のごとく」とは、もろもろの法を種々に分別することを名づけます。「諦らかに了達して解りやすい」とは、巧みに諸法を説くことを名づけます。「諸法」という言葉は、上の分別に通じます。「慈悲愍念」とは、聞く者に厭きることがないことです。「名言詞柔軟」「清徹遠聞」「聞者悦楽」「入心敬愛」は、悦可眾心を名づけます。初めの三つはそれぞれ一つずつ、後の一つは二つを摂めます。
經「舍利弗(至)不須復說」。
経に「舎利弗、もはや説く必要はありません」とあります。(至)
贊曰:此第三句。論名相成就。然論牒經無「取要言之」以下、「佛悉成就」以上文,唯有「止」以下文。論云:「有法器眾生心已滿足故名相成就。法器有二:一真、二假。真即舍利弗等,假謂增上慢者。為真法器眾生,聖心已滿者,心樂妙法唱止現相,令其邀請。佛今所唱止不須說何等法耶?為假法器眾生,自謂聖心已滿足者,心不樂法,在座未去,唱止現相令其起去,諸法解脫我已得訖,更有何法止不說耶?故名為相。如世間人共會一處,亦有樂聞、不樂聞語時,能語言止不須說,說之何益?令樂者請話,不樂者起去。今為前真者令問取一乘,故名為相。」
贊して曰く、この第三句は、論では名相成就と名づけています。しかし論が経を引用するには、「取要言之」以下、「仏悉成就」以上の文はなく、「止」以下の文だけがあります。論に云く、「法器の衆生は心がすでに満ち足りているので、名相成就という。法器には二つある。一つは真、二つは仮である。真とはすなわち舎利弗などであり、仮とは増上慢の者をいう。真の法器の衆生で、聖心がすでに満ちた者のために、心が妙法を好んでいるので「止」と唱えて相を現し、その請いを促すのである。仏が今唱えた「止」は、どのような法を説く必要もないではないか。仮の法器の衆生で、自ら聖心がすでに満ち足りたと思っている者のために、心が法を好まず、座にあって去らないので、「止」と唱えて相を現し、その立ち去ることを促すのである。諸法の解脱は私がすでに得終わった、さらに何の法を説く必要があって「止」と説かないのか。それゆえに名づけて相という。世間の人が一つの所に共に集まったときにも、聞くことを好む者もあれば聞くことを好まない者もあり、語ることのできる者が「止」と言って説く必要はない、説いて何の益があろうか。楽しむ者には話を請わせ、楽しまない者には立ち去らせる。今、前述の真の者のために一乗を問い取らせる、それゆえに名づけて相という」と。
經「所以者何(至)難解之法」。
経には「なぜならば、(至)り難き解し難きの法」とあります。
贊曰:此第四句。論名堪成就。本無徵詞,一切可化眾生知如來成就希有功德堪能說法故,謂舍利弗等善根熟者,名可化眾生,知佛成就第一希有難解功德堪說法故。
贊して曰く:この第四句は、論では「堪成就(成就に堪える)」と名づけます。もとの文には問いかける言葉はありません。すべての教化されうる衆生が、如来が希有な功徳を成就し、説法に堪えられることを知るからです。すなわち舎利弗などの善根の熟した者を、教化されうる衆生と名づけます。仏が第一にして希有なる、理解しがたい功徳を成就し、説法に堪えられることを知るからです。
經「唯佛與佛(至)諸法實相」。
経には「唯だ仏と仏のみが諸法の実相に(至)る」と説かれています。
贊曰:此第五句。論名無量種成就說不可盡。實相者謂如來藏法身之體,性不變故,佛智具知此實相體,窮源底故名為究盡。不但成就有為萬德,無為萬德佛亦究盡,故言無量種成就說不可盡。此經脫第六覺體成就,如來能知一切法,佛自證得故。亦少第七隨順眾生意為說脩行法成就,如來能說一切法故,此經所言「所謂諸法如是相」等是。此第七所說諸法,佛所現見無所不見,上來初番論解經中言詞七句已。論第二番復以七句解種種言詞,配此七句云:第一種種法門攝取眾生入於佛法故,深入無際。第二令不散亂住故,以教貫眾生,令不散亂專心住境希欲聞故,遂能種種分別諸法。第三令取故,令根熟者問取一乘故,唱止不須說。第四令得解脫故,令根熟者皆得解脫故,佛成就難解之法。第五令彼脩行成就得對治法故,令脩行者得於真際性對治法故,能究盡諸法實相。第六能令脩行進趣成就故,令脩行者進趣成就,得淨妙智,由此如來能知諸法。第七令得脩行不退失故,令彼脩行得滿足者,復為他說不失利益故。佛能說一切法要,由佛自成此七種故,能令眾生漸隨所作。以論配上經文七句,鉤瑣相起如理應知。初四住權,次二住實,後一外化。何故配經方便、知見、念觀三句作第三番釋也?論云:「又與教化成就者,依證法故如是次第,謂方便者,令根未熟可化眾生令依善友;其知見者,根熟眾生令得解脫;其念觀者,解脫眾生令成力、家諸功德故。」此依次第證法而說教化眾生,何故配經言詞七句作第三番說也?論云:「依說法說故,如是次第如次前說。」次第可知恐繁不述,是故論云:「又與教化成就者,依證法故。又說成就者,依說法故。」此二種法如向前說。論云:「依此二種法有何次第?依之而得脩行者問證及說次第而依修行。」即彼前文句再說應知者,前論再說方便、知見、念觀三種,依證次第再解言詞七句次第,依說次第故如是次第。說既如是,依之修學即證次第,結前義也。勸學者知,或此料簡初番別解四句中,第二教化成就。第四說成就二種差別。
賛えて曰く、この第五句は、論では「無量種の成就」と名づけ、説き尽くすことはできません。実相とは如来蔵・法身の本体をいい、その性は変わらないからです。仏の智慧はこの実相の本体を具さに知り、その源底を窮めるので、究尽と名づけます。ただ有為の万徳を成就するだけでなく、無為の万徳も仏は究尽されるので、「無量種の成就、説き尽くすことはできない」と言うのです。
この経には第六の「覚体の成就」が脱けています。如来は一切の法を知ることができ、仏が自ら証得されるからです。また第七の「衆生の意に随順して修行の法を説く成就」も欠けています。如来は一切の法を説くことができるからです。この経に言う「いわゆる諸法はかくのごとき相」などがそれです。この第七に説かれる諸法は、仏が現に見て見ないところがないものです。以上が、初番の論が経の中の言詞七句を解釈したものです。
論の第二番では、再び七句をもって種々の言詞を解釈し、この七句に配して次のように言います。第一は種々の法門をもって衆生を摂取して仏法に入らせるため、深く際限なく入ることです。第二は散乱せずに住させようとするため、教えをもって衆生を貫き、散乱せず専心に境に住み、聞くことを希求させるため、ついに種々に諸法を分別できるようにすることです。第三は取らせるため、根の熟した者に一乗を問い取らせるため、「止みたまえ、説くには及ばない」と唱えられたことです。第四は解脱を得させるため、根の熟した者をみな解脱させようとして、仏が難解の法を成就されたことです。第五は彼の修行の成就にたいする対治法を得させるため、修行者に真際の性の対治法を得させ、よく諸法の実相を究尽させることです。第六は修行の進趣を成就させるため、修行者に進趣の成就を得させ、清浄微妙な智慧を得させることです。これによって如来は諸法を知ることができます。第七は修行を退失させないため、彼の修行を満足させる者に、さらに他のために説いて利益を失わせないためです。仏は一切の法要を説くことができ、仏が自らこの七種を成就されることによって、衆生をして次第に所作に随わせることができます。論を経文の七句に配し、鉤鎖が相い起こることは、理のごとくに知るべきです。初めの四は権に住し、次の二は実に住し、後の一は外化です。
なぜ経の方便・知見・念観の三句に配して第三番の解釈とするのでしょうか。論に言います。「また教化の成就とともにする者は、証法によるためである。かくのごとき次第とは、方便とは、根の未熟で化すべき衆生をして善友に依らせることである。その知見とは、根の熟した衆生をして解脱を得させることである。その念観とは、解脱した衆生をして力・家などの諸功徳を成就させるためである。」これは次第に証法に従って教化し衆生を説くものです。
なぜ経の言詞七句に配して第三番の説とするのでしょうか。論に言います。「説法に依って説くためである。かくのごとき次第は、次に前に説いたがごとくである。」次第は知ることができますが、繁雑になるのを恐れて述べません。それゆえ論に言います。「また教化の成就とともにする者は、証法によるためである。また説の成就と言うのは、説法によるためである。」この二種の法は前に説いたとおりです。論に言います。「この二種の法による、どのような次第があるのか。これによって修行者は問い、証と説の次第を得て、これによって修行する。」すなわちかの前の文句を再び説く、と知るべきです。前の論が再び方便・知見・念観の三種を説き、証の次第によって再び言詞七句の次第を解き、説の次第によるので、かくのごとき次第です。説がすでにこのようであるならば、これによって修学すればすなわち証の次第であり、前の義を結ぶものです。学ぶ者に勧めて知らせます。あるいはこの料簡は初番の別解の四句の中の、第二の教化成就、第四の説成就の二種の差別です。
經「所謂諸法(至)究竟等」。
経に「いわゆる諸法の究竟等」とあります。
贊曰:此顯第七句。佛所說法依證而說,故論引經有五句,謂何等法、云何法、何似法、何相法、何體法。論有四釋:第一番依捨權就實乘解,初說三乘名何等法;次於一一乘起種種事說,名云何法;次依三乘門修行清淨,名何似法;次明三乘唯一相故名何相法;後究竟唯一佛乘無二乘體,故名何體法。第二番依展轉訓釋法。何等法謂有為無為法,云何法謂因緣、非因緣等,以因緣生釋有為,非因緣生釋無為。何似法謂常、無常法等,以常釋非因緣生,無常釋因緣生。何相法謂生等三相法、不生等三相法,以有生等法釋前無常,以不生等釋常。何體法謂五蘊體、非五蘊體法,五陰即生等,非陰非生等。第三番但解後三句,唯依有為解,其初二句不異於前,所以不解。論云:「何似法者,謂無常、有為、因緣法;何相法者,謂可見相等法;何體法者,謂五陰能取所取,五陰是苦集體故,亦是道諦故。」如論可解。第四番依說法法用說,何等法者,謂以名句字身說故;云何法者,依如來所說之法而說之故;何似法者,能教化可教化眾生故,何相法者,依音聲取故,謂令聽者依於音聲取所詮法故;何體法者,假名體法相故,雖令依聲取所詮法,法性離言故。所詮者假名體法非稱法實,不令依文便生執著。然今經文恐人不解,翻譯之家遂依第二展轉訓釋法而釋。然少不次,以義正之不違聖教;若別義釋,便是人情非為聖教。如是相、如是性合是第一何等法,相是有為、性是無為故。如是體者是第五何體法,謂五蘊體非五蘊體故,合而為文。如是力、如是作者合是第三何似法,力謂常法,常法有力能故;作謂無常法,有造作故。如是因、如是緣、如是果、如是報合是第二云何法,因、緣、果、報之中,有為是因緣所生法,無為非因緣所生法。建立果義名因,成辦報義名緣;親得果名因,疎得果名緣;四果名果,異熟名報。如是本末是第四何相法,生等三相法是末,體是事故;不生等三相是本、體是理故。究竟等者,重解理本,法性究竟也。本論牒經更有何等、云何、何似、何相、何體,佛重以此顯前五義更無別理。
贊して曰く、これは第七句を明らかにする。仏の説かれた法は証に依って説かれるので、論が経を引くのに五つの句がある。いわゆる何等の法、云何の法、何似の法、何相の法、何体の法である。論には四つの解釈がある。第一には、権を捨てて実に就き、乗に依って解する。初めに三乗を説くのを名づけて何等の法とする。次に一々の乗に種々の事を起こして説くのを名づけて云何の法とする。次に三乗の門に依って修行し清浄にするのを名づけて何似の法とする。次に三乗はただ一相のみであると明かすので、名づけて何相の法とする。後に究竟してただ唯一の仏乗のみで二乗の体はないので、名づけて何体の法とする。第二には、展転して法を訓釈することに依る。何等の法とは有為・無為の法をいい、云何の法とは因縁・非因縁などであり、因縁によって生ずるをもって有為を釈し、非因縁によって生ずるをもって無為を釈する。何似の法とは常・無常などの法であり、常をもって非因縁生を釈し、無常をもって因縁生を釈する。何相の法とは生などの三相の法と、不生などの三相の法であり、生などの法あるをもって前の無常を釈し、不生などをもって常を釈する。何体の法とは五蘊の体と、非五蘊の体の法であり、五陰はすなわち生などであり、非陰は非生などである。第三には、ただ後の三句のみを解し、ただ有為に依って解する。その初めの二句は前に異ならないので、解しない。論に云く、「何似の法とは、無常・有為・因縁の法をいう。何相の法とは、可見相などの法をいう。何体の法とは、五陰の能取・所取をいい、五陰は苦集の体であるから、また道諦でもある」と。論の通りに解することができる。第四には、説法の法用に依って説く。何等の法とは、名・句・字身をもって説くからである。云何の法とは、如来の説かれた法に依ってこれを説くからである。何似の法とは、教化すべき衆生を教化することができるからである。何相の法とは、音声に依って取るからであり、聞く者に音声に依って所詮の法を取らせるからである。何体の法とは、仮名の体法相のためであり、声に依って所詮の法を取らせても、法性は言を離れているからである。所詮のものは仮名の体法であって法の実にかなうものではないので、文に依ってただちに執着を生じさせない。しかし今の経文は、人が解しないことを恐れて、翻訳の家はそのまま第二の展転して法を訓釈することに依って釈した。しかし少し次第が違うので、義をもって正せば聖教に違わない。もし別の義で釈すれば、それは人情であって聖教ではない。如是相・如是性は合わせて第一の何等の法である。相は有為であり、性は無為であるからである。如是体は第五の何体の法であり、五蘊の体と非五蘊の体であるからであり、合わせて文とした。如是力・如是作は合わせて第三の何似の法である。力は常の法をいい、常の法には力能があるからである。作は無常の法をいい、造作があるからである。如是因・如是縁・如是果・如是報は合わせて第二の云何の法である。因・縁・果・報の中に、有為は因縁によって生じた法であり、無為は因縁によって生じたものではない。果の義を建立するのを因と名づけ、報を成辦するのを縁と名づける。親しく果を得るのを因と名づけ、疎く果を得るのを縁と名づける。四果を果と名づけ、異熟を報と名づける。如是本末は第四の何相の法である。生などの三相の法は末であり、体は事であるからである。不生などの三相は本であり、体は理であるからである。究竟等とは、重ねて理の本を解し、法性の究竟である。本論が経を牒するには、さらに何等・云何・何似・何相・何体があり、仏は重ねてこれをもって前の五つの義を顕し、さらに別の理はない。
法華經玄贊卷第三(本)
法華経玄賛巻第三
保安三年十月廿四日移點已了,以興福寺圓如房本。法隆寺覺印為令法久住為之。以左然可為正云云。
保安三年十月二十四日、移点が終わりました。興福寺の円如房の本によります。法隆寺の覚印が、法の久住のためにこれを行いました。左然をもって正とすべきであるとのことです。
妙法蓮華經玄贊卷第三(末)
妙法蓮華経玄賛巻第三(末)
沙門基撰
沙門の基が撰述しました
經「爾時世尊(至)無能測量者」。
そこで、世尊は、
「そのお心を測り知ることのできる者は、いません」
贊曰:下二十一頌分之為二:初十七頌半頌前二妙,後三頌半勸發信心,顯今說實。初中復二:初二頌總頌二妙,後十五頌半別頌二妙。此即初也。初一頌總歎法師妙,後一頌總歎法妙,總歎佛身及所成德、法體妙也。
賛して曰く、以下の二十一頌はこれを二つに分けます。初めの十七頌半は前の二つの妙を頌し、後の三頌半は信心を勧め発して、今説くところが実であることを示します。初めの中はまた二つに分かれます。初めの二頌は二つの妙を総じて頌し、後の十五頌半は二つの妙を別々に頌します。ここがすなわちその初めです。初めの一頌は法師の妙を総じて嘆じ、後の一頌は法の妙を総じて嘆じ、仏身とその成就された徳、および法体の妙を総じて嘆じたものです。
經「本從無數佛(至)難見難可了」。
経には「本より無数の仏に従い、見難く了し難し」とあります。
贊曰:下十五頌半別頌二妙,於中分二:初十四頌頌法妙,後一頌半頌法師妙。初中分五:初一頌頌讀誦、修行二深,次一頌頌果行、增長功德心、快妙心三深,次一頌頌無上深,次一頌半頌入深,後九頌半頌不共二乘住持甚深。此初也。不頌標文但頌八深,「本從無數佛」受持讀誦甚深也,「具足行諸道」修行甚深,由此二故其智慧門難見難了。
賛えて曰く、以下の十五頌半は別に二つの妙を頌す。その中に二分する。初めの十四頌は法の妙を頌し、後の一頌半は法師の妙を頌す。初めの中に五分する。初めの一頌は読誦と修行の二つの深を頌し、次の一頌は果行、増長功徳心、快妙心の三つの深を頌し、次の一頌は無上の深を頌し、次の一頌半は入の深を頌し、後の九頌半は不共二乗住持の甚深を頌す。これが初めです。標の文は頌さず、ただ八つの深のみを頌します。「本従無数仏」は受持読誦の甚深です。「具足行諸道」は修行の甚深です。この二つのゆえに、その智慧の門は見がたく了りがたいのです。
經「於無量億劫(至)我已悉知見」。
経には「無量億劫にわたり、私はすでにことごとく知り見ている」と説かれています。
贊曰:此頌果行、增長功德、快妙心三深。由精進勇猛於無量劫行此諸道,果行甚深;善名遠振增功德心;道場得果我悉知見,故名快妙心甚深,甚深希有法皆成就故。
賛えて曰く、この頌は果行・功徳の増長・快妙心の三つが甚深であることを示します。精進にして勇猛なる者が無量劫にわたりこれらの諸道を行じるがゆえに、果行は甚深です。善き名声が遠くまで響きわたり、功徳を増す心が生じるがゆえに、功徳は増長します。道場において果を得ることを私はことごとく知り見るがゆえに、快妙心は甚深であり、甚深にして希有な法がことごとく成就するからです。
經「如是大果報(至)乃能知是事」。
経には「このような大きな果報は、(ないし)こうしたことを知ることができる」と説かれています。
贊曰:此頌無上甚深。性謂道理,相謂事義,前脫此文;難解法者如來能知,今此文有。
讃えて曰く、この頌は無上にして甚深です。性とは道理をいい、相とは事の意義をいいます。前にはこの文が欠けていました。理解しがたい法を如来はよくご存知です。今、ここにこの文があります。
經「是法不可示(至)信力堅固者」。
経には「この法は示すことができず、(ただ)信の力が堅固な者だけが知る」と説かれています。
贊曰:此頌入甚深。甚深者,佛所說法名字章句,意難得故、卒難入解,故名為人。又佛自住持是深法中,故名為入。不同外道雖說諸法,自不能入。由佛世尊說因緣理,唯佛自入、餘不能知,意趣難解故名入深。論云:「佛自住持不同外道,說因緣法甚深故。」此經云「是法不可示,言詞相寂滅」,因緣道理絕語言故,諸眾生類無能得解,除諸菩薩信力堅固者,初地已上得四種證淨,信佛、法、僧、戒故,能信法妙,而未圓證如是二妙。故此下云「不退菩薩亦不能知」,不能知者,不能圓證,非不信知。雖見道前比信亦知,非證信故,既非堅固所以不說。
讃えて曰く、この頌は甚深に入る。甚深とは、仏の説かれた法の名前や章句のことで、その意味を得ることが難しいため、にわかには理解しにくいので、これを「入」と名づけます。また、仏ご自身がこの深い法の中に住持しておられるので、「入」と名づけます。外道が諸法を説いても、自らはその中に入ることができないのとは異なります。仏世尊が因縁の道理を説かれたことにより、ただ仏だけが自ら入られ、他の者たちは知ることができません。意趣が理解しにくいので、「入深」と名づけます。論に云く、「仏は自ら住持して外道とは異なり、因縁の法を説かれる。甚深であるがゆえに」と。この経に云く、「この法は示すことができず、言詞は相として寂滅している」と。因縁の道理は言語を絶しているので、あらゆる衆生の類は理解することができません。諸の菩薩で信力が堅固な者を除きます。初地以上の者は四種の証浄を得て、仏・法・僧・戒を信じるがゆえに、法の妙を信じることができますが、まだこの二つの妙を円満に証してはいません。それゆえ、この後に「不退の菩薩もまた知ることができない」と云います。知ることができないとは、円満に証することができないということであり、信じて知ることができないのではありません。見道の前においても比の信によってもまた知りますが、証の信ではないので、すでに堅固ではないから説かないのです。
經「諸佛弟子眾(至)其力所不堪」。
経に、「諸仏の弟子たちは、その力に堪えられない」とあります。
贊曰:下有九頌半頌不共二乘所作住持深。中分三:初四頌頌聲聞不知,二頌頌辟支不知,三頌半頌菩薩不知。長行但有二乘不知,因顯彼不知,亦說菩薩不知。聲聞不知中分三:一頌半總頌一切聲聞不知,一頌別頌皆如利根鶖子不知,一頌半別顯皆如利根鶖子并餘弟子共度不知。此即初也。曾近善友、諸漏皆盡、住阿羅漢,此最後身有是三德,其智慧力不堪能知。
贊(ほめことば)に曰く、以下に九頌半があり、これは二乗の者たちが共に作すところではない住持の深さを頌しています。中で三つに分かれます。初めの四頌は声聞が知らないことを頌し、二頌は辟支が知らないことを頌し、三頌半は菩薩が知らないことを頌します。長行にはただ二乗が知らないことだけを述べていますが、彼らが知らないことを示すために、菩薩もまた知らないと説いているのです。声聞が知らないことの中は三つに分かれます。一頌半はすべての声聞が知らないことを総じて頌し、一頌は利根の鶖子(しゅうじ)のような者たちも皆知らないことを個別に頌し、一頌半は利根の鶖子のような者たちとその他の弟子たちが共に度しても皆知らないことを個別に示しています。ここがその初めの部分です。かつて善友に親しみ、もろもろの漏はすでに尽き、阿羅漢として住しています。この最後身にはこれら三つの徳がありますが、その智慧の力では知ることができません。
經「假使滿世間(至)不能測佛智」。
経には「仮に世間のすべてが満ちていたとしても、仏の智慧を測ることはできない」と説かれています。
贊曰:此明世間皆如鶖子利根第一,盡情思共度量亦不能知。既不知佛智,故智慧門難解難入。「盡」音茲引反,任也窮也;或秦引反,本盡之盡。「思」音息字反,無息茲反,不爾便與度量無別。
讃えて言います。ここで示しているのは、世間の人々がみな、鶖子(しゅうし、舎利弗)のように利根第一であり、思う存分に思いを巡らせ共に推し量っても、知ることができないということです。すでに仏の智慧を知らないのですから、智慧の門は解きにくく入りにくいのです。「尽」の音は茲引反(しいんはん)で、任せる・極めるという意味です。あるいは秦引反(しんいんはん)と読み、「本尽」の「尽」です。「思」の音は息字反(そくじはん)で、息兹反(そくじはん)ではありません。そうでなければ度量と区別がつかなくなってしまいます。
經「正使滿十方(至)亦復不能知」。
経には「たとえ十方に満ちるほどであっても、また同様に知ることはできない」とあります。
贊曰:十方利根皆如鶖子并餘弟子,亦滿十方共度,亦不知。
讃えて言います。十方の利根な者たちは皆、鶖子(しゅうじ)のような者たちであり、その他の弟子たちも同様です。また、十方を満たすほど多くの者たちが共に推し量っても、やはり知ることはできません。
經「辟支佛利智(至)莫能知少分」。
経には「辟支仏は利智であっても、少しばかりも知ることができない」と説かれています。
贊曰:此頌辟支不知。辟支望聲聞名利根,麟角望部行亦名利根,亦復不知。若未入聲聞決擇分善而作獨覺便成麟角,入決擇分已後作者皆成部行。在解脫分未定生時可成麟角,生數多故,已定生者亦成部行,生數少故。
讚えて曰く。この頌は辟支には知ることができません。辟支は声聞に望めば利根であり、麟角は部行に望めばまた利根であり、やはり知ることができません。もし声聞の決択分の善に入らずに独覚を作せば、そのまま麟角となります。決択分に入った後に作す者は、みな部行となります。解脱分において、まだ生を受ける時が定まっていない者は麟角となることができますが、生の数が多いためです。すでに生が定まった者もまた部行となりますが、生の数が少ないためです。
經「新發意菩薩(至)不能知佛智」。
贊曰:下三頌半菩薩不知。中分二:初二頌半凡菩薩不知,一頌十地上聖亦不能知。此初也。新發意菩薩具六種德:一親近、二達義、三善說、四數眾、五一心、六長時,測度亦復不知。「剎」梵云剎多羅,此云田,田土也。有云國亦云土,義譯之耳。字書本無此字,《說文》作㓼,楚乙反,刀割物聲,黍音七聲也。
讃えて曰く、以下の三頌半は菩薩にも知ることができないことを示します。中は二つに分かれます。初めの二頌半は凡夫の菩薩にも知ることができないことを示し、一頌は十地の上の聖者にもまた知ることができないことを示します。これがその初めです。新発意の菩薩は六種の徳を備えています。一には親近、二には達義、三には善説、四には数衆、五には一心、六には長時です。これを測り量しようとしても、また知ることができません。「刹」は梵語では刹多羅といい、ここでは田、すなわち田土と訳します。国ともいい、土ともいう説もありますが、これは意味を訳しただけのことです。字書にはもともとこの字はなく、『説文』には㓼と作り、楚乙の反切で、刀で物を割く音を表し、黍音の七声にあたります。
經「不退諸菩薩(至)亦復不能知」。
経には「不退の諸菩薩でさえも、また同様に知ることができない」とあります。
贊曰:此地上聖不知。或初二頌半七地已前不知,初地已上亦名新發意,證發十種心故;後一頌八地以上不知,亦名不退故。前門甚深有此八種,今第八中歎佛智者,顯智深故其門亦深。或十五頌半別歎法妙中初六頌歎智門妙,准前科配,其中末後一頌半頌不共深故,次八頌頌歎智深,三乘不知佛智慧故,准義科頌則可知矣。
讃えて曰く、この地上の聖者たちは知ることができません。あるいは初めの二頌半は七地より前の者たちは知ることができず、初地以上の者もまた新発意と呼ばれ、十種の心を証得して発するゆえです。後の一頌は八地以上の者も知ることができず、また不退とも呼ばれるゆえです。前の門が甚深であることには、この八種があります。今、第八の中で仏の智慧を讃嘆するのは、智慧の深いことを示すためであり、その門もまた深いのです。あるいは十五頌半が別に法の妙を讃嘆する中で、初めの六頌は智慧の門の妙を讃嘆し、前の科段に準じて配分すれば、その中の末の一頌半は不共の深さを頌し、次の八頌は智慧の深さを讃嘆することを頌し、三乗は仏の智慧を知ることができないゆえです。義に準じて頌を科段すれば、おのずと知ることができるでしょう。
經「又告舍利弗(至)十方佛亦然」。
経に「また舎利弗に告げたもう、十方の仏もまた同様である」とあります。
贊曰:此一頌半頌總歎法師妙,無別頌也。
贊して曰く、この一頌半は総じて法師の妙を嘆じたものであり、別に頌はありません。
經「舍利弗當知(至)要當說真實」。
舎利弗よ、知るべきです。必ず真実を説くのです。
贊曰:下三頌半勸發信心、顯今說實。中分二:初一頌半唯告鶖子顯今說實,後之二頌普告二乘顯初方便。此初也。汝既未證我之所說,於我所說當生信心。
讃えて曰く、下の三頌半は信心を勧め発し、今の説が真実であることを示します。中に二つに分かれます。初めの一頌半はただ鶖子(しゅうし、舎利弗)に告げて今の説が真実であることを示し、後の二頌は広く二乗に告げて初めの方便を示します。これがその初めです。あなたはまだ私の説いたところを証していないので、私の説いたところに対して信心を起こすべきです。
經「告諸聲聞眾(至)引之令得出」。
経に「諸の声聞衆に告げて、これを導いて出でしめよ」とあります。
贊曰:此二頌普告二乘,為二:初頌普告至涅槃者,後頌顯佛化以三乘之意,由處處著,著界地故,引之令出,且說三乘,理唯有一。此會唯有聲聞極果,緣覺即無,故言及求緣覺乘,聲聞不爾。
賛して曰く、この二つの頌は、広く二乗に告げるものである。それは二つに分かれる。初めの頌は広く告げて涅槃に至らせ、後の頌は仏の教化を顕して三乗の意を示す。どこにもとらわれることによって、界や地にとらわれるゆえに、それを導いて出させるのであり、かつ三乗を説くが、道理としてはただ一つあるのみである。この法会にはただ声聞の極果のみがあり、縁覚はすなわちない。ゆえに求縁覚乗に及んで言うのであり、声聞はそうではない。
經「爾時大眾中(至)各作是念」。
経文に「そのとき、大衆の中で(次に)おのおのこのように思いました」とあります。
贊曰:下第二段四眾驚疑發揚鶖子之請,有三,三度請故、佛止亦三,止皆居前、請皆在後。論釋三止云:「初止為相,令問取一乘;次止欲令大眾推覓深境,渴仰欲聞;後止欲令惡人退廗,至下當知。」又三請中初挾自他疑故請,次陳大眾於餘佛所已植因故請,後述自他已從今佛化堪聞故請。論五段中自下第三大眾定疑分,於自所證心生決定,於佛所說遂有疑生。若依驚疑發鶖子請,請既有三,文隨三段:初止既屬前唱一乘,二止攝屬此請文中。初請分二:初大眾疑、後鶖子請。論說第三定疑分有三,云:「自此以下依三種義示現,一決定義、二疑義、三依何事疑義。」初二義在大眾疑中,依何事疑義在鶖子疑中。大眾疑有二:初標疑眾、後申疑意。此初也。
賛じて曰く、下の第二段は四衆が驚き疑い、鶖子の請いを発揚するものである。これに三があり、三度請うたので仏もまた三度止められた。止められるのはみな前にあり、請いはみな後にある。論は三止を解釈して云う。「初めの止めは相を示し、一乗を問い取らせるためであり、次の止めは大衆に深い境を推し求めさせ、渇仰して聞こうとさせるためであり、後の止めは悪人をして席を退かせるためである。詳しくは下で知るべきである。」また三請のうち、初めは自他の疑いを挟むために請い、次は大衆が他の仏の所ですでに因を植えたことを述べるために請い、後は自他がすでに今の仏の教化を受け、聞くに堪えることを述べるために請うたのである。論の五段のうち、ここより下の第三は大衆定疑分であり、自ら証したところに対して心に決定を生じ、仏の説かれたところに対してついに疑いが生じる。もし驚疑が鶖子の請いを発揚するのによるならば、請いにすでに三があるので、文もそれに従って三段となる。初めの止めはすでに前の一乗を唱えることに属し、二番目の止めはこの請いの文に摂め属する。初めの請いは二つに分かれる。初めは大衆の疑い、後は鶖子の請いである。論は第三定疑分に三があると説いて云う。「これより以下は三種の義によって示現する。一つは決定の義、二つは疑いの義、三つは何事による疑いかという義である。」初めの二つの義は大衆の疑いの中にあり、何事による疑いかという義は鶖子の疑いの中にある。大衆の疑いに二つがある。初めは疑う衆を標し、後は疑う意を述べる。これがその初めである。
經「今者世尊(至)所不能及」。
経典には「今の世尊は、到底及ぶことができない」とあります。
贊曰:下申疑意,有二:初牒所疑緣由,後正申定疑。此牒佛前所說疑緣由。佛所得法甚深難解者,牒佛前說諸佛智慧甚深無量;有所言說意趣難知者,牒佛前說其智慧門難解難入。此二深故,二乘不知。初是顯上,後是接下,合名方便。何故佛歎?此為疑意。
賛じて曰く。以下に疑いの意を述べることに二つあります。初めに疑う根拠となった事柄を挙げ、後に正式に疑いの定まった意を述べます。ここは仏が以前に説かれた疑いの根拠を挙げたものです。「仏の得られた法は甚だ深く解しがたい」とは、仏が以前に説かれた諸仏の智慧が甚だ深く量り知れないことを挙げたものです。「言説のあるところ、その意趣は知りがたい」とは、仏が以前に説かれた、その智慧の門が解しがたく入りがたいことを挙げたものです。この二つが深いがゆえに、二乗には知ることができません。初めは上を顕わし、後は下を受け、合わせて方便と名づけます。なぜ仏は讃嘆されたのでしょうか。これが疑いの意であります。
經「佛說一解脫義(至)是義所趣」。
「仏説一解脱義(至る)この義の趣くところ」という経です。
贊曰:下申定疑,謂到於涅槃已上名為決定義,於自所證有為無為果法決定久已無疑,而今不知是義所趣名為疑義,謂於前說佛所得法甚深難解,有所言說意趣難知中,而今不知是所說義何所歸趣、意趣如何、說何宗趣?故名疑義。「趣」音七句七俱二反,今從初反。謂疑意云,若說解脫我已得之;又說難知,意說何法?故論云:「決定義者,有聲聞方便證得深法作決定心,於聲聞道中得方便及涅槃證故,如是二種法示現有為無為法故。」如經「爾時大眾中乃至亦得此法到於涅槃」。言二法者,謂方便及涅槃證。方便者有為,能證生空智道。涅槃者謂無為,所證空理。於此能得能修,此二中得決定故。論云:「疑義者,謂聲聞辟支佛不能知故,是故生疑」,如經「而今不知是義所趣」故。
贊じていわく、次に定疑(じょうぎ)を述べます。涅槃に到ることを決定義と名づけるのは、自ら証した有為・無為の果の法について、久しくすでに疑いがないことをいいます。しかし今、この義の向かうところを知らないことを疑義と名づけます。すなわち、前に説かれた仏の得た法は甚深で解しがたく、言説のあるところの意趣は知りがたい、その中で今、説かれた義が何に向かうのか、意趣はどうか、何を宗趣として説くのかを知らないのです。それゆえ疑義と名づけます。「趣」の音は七句・七俱の二反で、今は初めの反に従います。疑いの意はこうです。もし解脱を説くなら私はすでにそれを得ています。また難知と説くなら、何の法を意図して説くのか、と。それゆえ論にいわく、「決定義とは、声聞が方便をもって深法を証得し、決定の心を起こすことである。声聞の道において方便と涅槃の証とを得るがゆえに、この二種の法は有為・無為の法を現すためである」。経に「爾の時に大衆の中に乃至またこの法を得て涅槃に到る」とある通りです。二法とは、方便と涅槃の証とをいいます。方便は有為であり、生空智の道を証するものです。涅槃は無為であり、証される空理です。この能得・能修において、この二つの中に決定を得るからです。論にいわく、「疑義とは、声聞・辟支仏は知ることができないがゆえに、それゆえ疑いを生ずる」と。経に「今、この義の向かうところを知らない」とある通りです。
經「爾時舍利弗(至)難解之法」。
経典には「そのとき、舎利弗は難解の法に至る」とあります。
贊曰:下鶖子請中有二:初長行、後偈頌。長行分二:初申疑、後請決。此初也。依論,下是第三依何事疑義。依何事疑義者,如來說聲聞解脫與我解脫不異,三乘同坐解脫床故,是以生疑。生疑者,生因中疑。因謂所由,云何如來數數宣說甚深境界?前說甚深、後說甚深不同聲聞,聲聞與佛解脫既等,更何不同?除此已外不同何法?於此所由而生疑惑。大般涅槃有其三事:摩訶般若、解脫、法身。解脫雖同,般若、法身即是佛之智慧性相一乘果體,彼所未得,四眾不解,所以生疑。如經「爾時舍利弗乃至而說偈」故。何因者,何道理所以?何緣者,何事緣由緒?「諸佛第一之方便」,此為總句,下別顯此。「甚深微妙」即佛智慧,「難解之法」即智慧門,牒前二故。此中疑者是法執類,異熟生攝。
賛して曰く、下の鶖子の請の中に二つあり。初めに長行、後に偈頌です。長行は二つに分かれ、初めに疑いを申し述べ、後に決断を請います。ここはその初めです。論によれば、以下は第三に「何事に依って疑うか」という義です。何事に依って疑うかとは、如来が説かれた声聞の解脱と私の解脱とは異ならない、三乗は同じく解脱の床に坐るからです。それゆえに疑いが生じます。疑いが生じるとは、因の中に疑いが生じるということです。因とは由来するところをいいます。なぜ如来はしばしば甚深の境界を宣説されるのでしょうか。前に説かれた甚深と、後に説かれた甚深とは、声聞とは異なります。声聞と仏との解脱がすでに等しいのなら、さらに何が異なるのでしょうか。これ以外に何の法が異なるのでしょうか。この由来するところにおいて疑惑が生じるのです。大般涅槃には三つの事があります。摩訶般若と解脱と法身です。解脱は同じであっても、般若と法身はすなわち仏の智慧の性相であり一乗の果体であって、彼らはまだ得ておらず、四衆も理解しない、それゆえに疑いが生じるのです。経に「爾時舎利弗乃至而説偈」とある通りです。何因とは、何の道理・所以かということです。何縁とは、何の事の縁由かということです。「諸仏第一之方便」、これは総句であり、以下に別してこれを顕します。「甚深微妙」はすなわち仏の智慧であり、「難解之法」はすなわち智慧の門であり、前の二つを繰り返し述べたものです。この中の疑いとは法執の類であり、異熟生に摂められます。
經「我自昔來(至)難解之法」。
経典に「我、昔よりこのかた、理解しがたい法に至るまで」とあります。
贊曰:此請決牒。自既未聞,四眾疑起,故願佛說。「敷」施演說也。
賛して曰く、これは決を請う牒である。自らすでに聞いていないので、四衆に疑いが起こり、それゆえ仏が説かれることを願っている。「敷」とは施演説のことです。
經「爾時舍利弗(至)不可思議法」。
経の「そのとき、舎利弗は不思議な法に至った」という箇所です。
贊曰:十一行頌中分四:初三頌半頌前問中稱歎諸佛第一方便,甚深微妙難解之法;三頌頌前四眾咸皆有疑;一頌半頌我自昔來未聞自疑;三頌頌請唯願世尊敷演斯事。初中分三:一頌半頌前佛自告申,如來知見廣大、深遠、無量、無礙等法師妙;一頌頌前所得難解所說難知法妙也;一頌合頌歎法及法師妙,無問而自說。此初也。「慧日大聖尊」者,以佛智慧猶如日故。《涅槃經》言:「譬如日初出,光明甚暉炎,既能還自照,亦滅一切暗。」佛之二利亦復如是,《增一阿含經》說:「日出有四事:一者日出之時眾暝皆除,二農夫作務,三百鳥悉鳴,四嬰兒啼哭。佛告諸比丘:若日出時眾暝除者,喻佛出世除去癡暝靡不照明。農夫作務者,人民之類普共田作,此譬檀越施主隨時,供給衣服飲食床廗臥具病緣醫藥。百鳥鳴者,譬如高德諸法師等能為四眾說微妙法。嬰兒啼哭者,此喻弊魔見佛出世心大愁惱。」亦如經中讚佛偈言「如來金色如山王,亦如日出照世間,能拔眾生長夜苦,故我頂禮三界王」,故今讚佛云慧日也。「久乃說是法」者,成道多年不曾顯說,今方說之,故云久也。此上二句標,下一頌頌佛前說種種念觀。
讃えて曰く、十一行の頌の中に四つに分ける。初めの三頌半は、前の問いの中の「諸仏の第一の方便、甚深微妙にして解し難きの法」を称歎することを頌し、三頌は前の「四衆は皆疑いあり」を頌し、一頌半は「我は昔より未だ聞かず」の自らの疑いを頌し、三頌は「唯願わくは世尊、斯の事を敷演したまえ」と請うことを頌します。初めの中は三つに分ける。一頌半は、前の仏自ら告げ申させた「如来の知見は広大・深遠・無量・無礙なり」などの法師の妙を頌し、一頌は、前の「得る所は解し難く、説く所は知り難きの法の妙」を頌し、一頌は、法と法師の妙を合わせ頌し、問うことなく自ら説くことを頌します。これが初めです。「慧日大聖尊」とは、仏の智慧が日のごとくであるからです。『涅槃経』に言います。「たとえば日の初めて出づるがごとく、光明は甚だ暉炎たり。よく自らを照らし還し、また一切の暗を滅す」と。仏の二利もまたこのとおりです。『増一阿含経』に説きます。「日出には四つの事あり。一つには日出の時、衆暝は皆除かれる。二つには農夫が作務す。三つには百鳥が悉く鳴く。四つには嬰児が啼哭す。仏は諸の比丘に告げたまわく、もし日出の時、衆暝の除かれるは、仏の出世して癡暝を除き、照らさざるはなしに喩う。農夫の作務は、人民の類が普く共に田を作る、これは檀越施主が時に随って、衣服・飲食・床蓐・臥具・病縁の医薬を供給するに譬う。百鳥の鳴くは、たとえば高徳の諸法師らがよく四衆のために微妙の法を説くに譬う。嬰児の啼哭は、これは弊魔が仏の出世を見て心に大いに愁悩するに喩う」と。また経の中に仏を讃える偈に言うがごとし。「如来は金色にして山王のごとく、また日出のごとく世間を照らし、よく衆生の長夜の苦を抜きたもう。ゆえに我は三界の王に頂礼す」と。ゆえに今、仏を讃えて慧日と申します。「久乃說是法」とは、成道して多年、未だ曾て顕かに説かず、今まさにこれを説く、ゆえに久と申します。この上の二句は標とし、次の一頌は、仏が前に説いた種々の念観を頌します。
經「道場所得法(至)亦無能問者」。
経典に「道場で得られた法は、(至る)また誰も問うことができる者がいない」とあります。
贊曰:上半頌頌前所得難解菩提涅槃智慧甚深,後半頌頌前所說難知智門甚深,以二乘不知故皆無能問者。
賛えて曰く、前半の頌は、前に得たところの理解し難い菩提と涅槃の智慧がはなはだ深いことを頌し、後半の頌は、前に説いたところの知り難い智慧の門がはなはだ深いことを頌しています。二乗はこれを知らないために、いずれも問うことのできる者がいないのです。
經「無問而自說(至)諸佛之所得」。
経には「問われることなく自ら説かれた(……に至るまで)、諸仏の得られたところ」とあります。
贊曰:上半合頌歎二妙無問自說,從三昧起便即告故,第三句法妙,第四句法師妙。
賛えて言います。上半は頌に合わせて二つの妙を嘆じ、問いなしに自ら説かれたものです。三昧から起ち上がってすぐに告げられたからです。第三句は法の妙であり、第四句は法師の妙です。
經「無漏諸羅漢(至)願佛為解說」。
贊曰:下三頌四眾疑,有二:初一頌頌聲聞無學有學之疑,二頌頌緣覺等眾願佛說。疑喻如網,羅生難出。「猶豫」者,《說文》「隴西謂犬子為猶,猶性多豫,在人前故,凡不決者謂之猶豫。」《爾雅》云「猶如麂善登木,郭璞云:健上樹也。」
讃えて言います。後の三つの頌は四衆の疑いを説いており、二つに分かれます。最初の一頌は声聞の無学と有学の疑いを頌し、二番目の頌は縁覚などの衆が仏に説かれることを願うことを頌しています。疑いは網のようなもので、衆生をとらえて出にくくします。「猶豫」とは、『説文』に「隴西では犬の子を猶と呼び、猶はもともとためらいがちな性質で、人の前にいることから、およそ決断できないことを猶豫と呼ぶ」とあります。『爾雅』には「猶は麂のようで木に登るのが得意である。郭璞は『木に登るのが盛んである』と言っている」とあります。
經「於諸聲聞眾(至)為是所行道」。
経には「もろもろの声聞の衆において、(乃至)、これが修行すべき道である」と説かれています。
贊曰:此頌自疑,自先得智為是果法,為是因道?若是果者,所得已滿今何所讚?若是因者,更欲趣求因所成故。前說眾人於自所得生決定心於佛說疑,今者鶖子無決定義,於自所得亦生疑惑。又前剏聞,於自猶定,今重思慮,於自所得亦有疑生,故不相違。
賛じて曰く、この頌は自ら疑い、まず自ら得た智慧が果法であるのか、それとも因の道であるのかを問うています。もし果であるならば、すでに得たものは満ち足りているのに、今なぜ讃えるのでしょうか。もし因であるならば、さらに因によって成るものを求めようとするからです。先に述べたように、人々は自らの得たものについて決定の心を生じ、仏の説について疑いを抱きましたが、今ここでは鶖子(しゅうし)に決定の義がなく、自らの得たものについても疑惑を生じています。また、先には初めて聞いて、自らについてはなお決定していましたが、今は重ねて思慮するうちに、自らの得たものについても疑いが生じたのです。ですから互いに矛盾するものではありません。
經「佛口所生子(至)時為如實說」。
経には「仏の口より生まれた子らに、時に応じてありのままに説かれた」とあります。
贊曰:下頌請說,分二:初一頌頌聲聞弟子請,後二頌頌餘眾請。此初也。稟佛言教聖道方起,教從口出故名口生,簡異胎藏精血成故。
賛えて曰く、以下の頌は説法を請う部分で、二つに分かれます。初めの一頌は声聞の弟子たちが請うことを頌し、後の二頌はその他の人々が請うことを頌します。ここはその初めです。仏の言葉の教えを受けなければ聖なる道は起こらないので、教えは口から出るため「口生」と言います。これは胎内の精血によって生まれるものと区別するためです。
經「諸天龍鬼神(至)欲聞具足道」。
経には「諸天・龍・鬼神が、ことごとく道を聞こうと願って集まった」とあります。
贊曰:頌餘眾請。此土佛出無轉輪王,故說諸國轉輪王至。「具足道」者,大乘理故。
賛して曰く。頌の余りの衆の請いは、この土に仏は出でて転輪王は無い、故に諸国の転輪王を説き至る。「具足道」とは、大乗の理の故です。
經「爾時佛告(至)皆當驚疑」。
そのとき、仏は告げられました。「そのとき、あなたがたはみな驚き疑うことでしょう」。
贊曰:下第二段有二:初止、後請。此止也。論下第四解定記分,記謂記別,分明記別深密之義名為記別,即十二部經中名記別經。記別經有三:一記弟子謝往過去德失差別,二授諸大人成佛記別,三分明記別深密之義。如下十二分教章中具說,此即第三記別經也。論云:「自下依四種事說:一決定心,二因授記,三取授記,四與授記。決定心者,佛心本來已有決定所為之人,由此便有後止及說,是以決定心論不配屬經,通下文意故。」論云:「云何決定心?已生驚怖者令斷驚怖,為利益二種人故,如來有決定心。」驚怖有五:一損驚怖,如所聞聲取以為實,謗無大乘而作是言:如來說言阿羅漢究竟涅槃,我畢竟取如是涅槃,是故阿羅漢不入涅槃。此即決定種姓聲聞。聲聞者所聞教聲取之以證究竟實果,我畢竟已取如是涅槃,果已究竟謗無大乘,不堪聞今為說大乘。若聞今說彼非究竟,即驚疑阿羅漢皆畢竟無入涅槃者,反道疑生故名為損。二多事驚怖,以大乘眾生生如是心:我無量無邊劫中,行菩薩行久受勤苦,生驚怖心起取異乘心故,謂不定姓地前菩薩。住大乘中已經多劫行菩薩行,名為多事,恐彼起心退趣異乘故,今為說令其不退。三顛倒驚怖,分別我我所身見不善法故,謂根未熟定姓凡夫,煩惱尤重不堪為說,若為說者更生煩惱,顛倒驚怖。四悔驚怖,謂若為說,大德舍利弗我不應證如是小乘法,自止小果歸向大乘,即以悔心名為驚怖。五誑驚怖,謂若為說,增上慢者作如是說:云何如來誑於我等?自謂道滿更無餘故。聲聞有二:一定姓,二不定姓。凡夫有二:一未得謂得,二具重煩惱。菩薩有二:一退位,二不退位。定姓聲聞即損驚怖,不定姓聲聞即悔驚怖,未得謂得凡夫即誑驚怖,具煩惱凡夫即顛倒驚怖,退位菩薩即多事驚怖。不退位菩薩非此五中,捨權就實欣趣佛位,方為說一乘故,此說一乘不逗彼器。論云:「正為利益二種人故,如來有決定心,謂多事及悔。利益悔者引攝一類故,利多事者任持所餘故。今此唱止及下正說,佛心先定為此二人,餘非正為,即是十義說一乘中初二義也。」觀此文意,多事一種不說有驚、說即無驚,自餘四種說即有驚、不說無驚,故論總言已生驚怖令斷驚怖。因授記者,如經「止止不須復說乃至天人皆當驚怖」,即下二止文等是因,應為聞者之二義,不堪為聞者之退廗,故名為因。因授記皆生驚怖,有三種義:一欲令大眾推覓甚深境界故。二欲令大眾生尊重心畢竟欲聞故,此上是應為聞者之二義。三為令增上慢者離法座而去故,即是不堪為聞者之退廗。今此第二止,但為應為聞者之二義。第三止方為不堪聞法之退廗。其取授記,如經「爾時世尊」下即許可攝受,許當為說是。「與授記」者,如經「佛告舍利弗」下正為解釋一乘等是。定記四中,初決定心唱止及為說之所由,次因授記但是止其請之所由,取記許為開釋,與記正示陳說。今言驚疑,令為應聞者驚張疑惑,推覓深法尊重欲聞。
賛えて曰く、下の第二段には二つがあります。初めは止め、後は請いです。ここはその止めの部分です。論の下の第四は定記を解く分で、記とは記別のことで、深密の義を明らかに記別することを記別と名づけます。すなわち十二部経の中の記別経というものです。記別経には三つあります。一つは弟子の過去における徳と失の差別を謝して記するもの、二つは諸の大人に成仏の記別を授けるもの、三つは深密の義を分明に記別するもの。以下の十二分教の章で詳しく説かれる通りで、ここはすなわち第三の記別経です。論に云く、「これより下は四種の事により説く。一つは決定心、二つは因授記、三つは取授記、四つは与授記。決定心とは、仏の心はもとよりすでに決定した所為の人があり、これによって後に止め及び説くことがある。それゆえ決定心の論は経に配属せず、下の文意に通じるからである。」論に云く、「云何なるが決定心か。すでに驚怖を生じた者に驚怖を断ぜしめ、二種の人を利益するために、如来は決定心をお持ちである。」驚怖には五つあります。一つは損驚怖。たとえば聞いた声を取って実と為し、大乗無しと謗してこう言うのに、如来は阿羅漢は究竟涅槃であると言われた、私は必定してかくの如き涅槃を取る、それゆえ阿羅漢は涅槃に入らない、というのです。これはすなわち決定種姓の声聞です。声聞とは聞いた教えの声を取ってこれを究竟の実果と証し、私は必定すでにかくの如き涅槃を取った、果はすでに究竟であるとして大乗無しと謗し、今大乗を説くのを聞くに堪えない者です。もし今の説を聞けば、それは究竟ではないとして、たちまち阿羅漢はみな畢竟涅槃に入る者が無いと驚き疑い、かえって道に疑いが生じるので、これを損と名づけるのです。二つは多事驚怖。大乗の衆生がこのように心を生じるのに、私は無量無辺劫の中で菩薩行を行じ、久しく勤苦を受けてきた、と驚怖の心を生じ、異乗を取る心を起こすからです。これはすなわち不定姓の地前の菩薩です。大乗の中に住んですでに多くの劫にわたり菩薩行を行じてきたのを多事と名づけ、かの者が心を起こして異乗に退くのを恐れるので、今これを説いて退かせないようにするのです。三つは顛倒驚怖。我・我所を分別し身見の不善法によるからです。これはすなわち根の未熟な定姓の凡夫で、煩悩がとりわけ重く説くに堪えない者です。もし説けば、さらに煩悩を生じ、顛倒驚怖となるのです。四つは悔驚怖。もし説けば、大徳舎利弗よ、私はかくの如き小乗の法を証すべきではなかった、と自ら小果を止めて大乗に帰向するのです。すなわちこの悔の心を驚怖と名づけます。五つは誑驚怖。もし説けば、増上慢の者がこのように言うのに、云何が如来は我らを誑かすのか、自ら道は満ちてさらに余りは無いと思っているからです。声聞には二つあります。一つは定姓、二つは不定姓。凡夫には二つあります。一つは未だ得ていないのに得たと思う者、二つは重い煩悩を具えた者。菩薩には二つあります。一つは退位、二つは不退位。定姓の声聞はすなわち損驚怖、不定姓の声聞はすなわち悔驚怖、未だ得ていないのに得たと思う凡夫はすなわち誑驚怖、煩悩を具えた凡夫はすなわち顛倒驚怖、退位の菩薩はすなわち多事驚怖です。不退位の菩薩はこの五つの中にはあらず、権を捨て実に就き仏位を欣求するので、まさに一乗を説くのです。それゆえこの一乗の説は彼の器には逗しないのです。論に云く、「まさに二種の人のために利益するために、如来は決定心をお持ちである。いわゆる多事と悔とである。悔を利益するとは一類を引摂するため、多事を利するとは所余を任持するためである。今この唱止及び下の正説は、仏の心はまずこの二人のために定まったのであり、余はまさに為ではない。すなわち十義において一乗を説く中の初二の義である。」この文意を観るに、多事の一種には驚ありとは説かず、説けばすなわち驚なし。自余の四種は説けばすなわち驚あり、説かざれば驚なし。ゆえに論は総じて已生の驚怖に驚怖を断ぜしめると言うのです。因授記とは、経の「止止、復た説くことを須いじ、乃至天人みなまさに驚怖すべし」の如き、すなわち下の二つの止の文などがこれ因です。まさに聞くべき者の二義のため、聞くに堪えざる者の退廗のためであるので、因と名づけます。因授記はみな驚怖を生じ、三種の義があります。一つは大衆に甚深の境界を推し覓めさせんと欲するため。二つは大衆に尊重の心を生じ、畢竟して聞かんと欲せしめるため。これらは上にまさに聞くべき者の二義です。三つは増上慢の者をして法座を離れて去らしめるため。すなわち聞くに堪えざる者の退廗です。今この第二の止は、ただまさに聞くべき者の二義のためです。第三の止にして初めて聞法に堪えざる者の退廗のためとなります。その取授記は、経の「爾の時に世尊」の下の如き、すなわち許可摂受で、まさに為に説くべきことを許すのです。「与授記」とは、経の「仏、舎利弗に告げたまわく」の下の如き、まさに一乗などを解釈するのがこれです。定記の四つの中で、初めの決定心は止を唱え及び説くための所由であり、次の因授記はただその請いを止める所由であり、取記は開釈を許すことであり、与記はまさに陳説を示すことです。今、驚疑と言うのは、まさに聞くべき者をして驚張疑惑せしめ、深法を推し覓めて尊重し聞かんと欲せしめるのです。
經「舍利弗(至)唯願說之」。
経に「舎利弗、ただ願わくはこれを説きたまえ」とあります。
贊曰:下第二請。論云「示現過去無量佛已教化眾生」。初長行、後偈頌。長行有二:一總請、二堪聞。此請也。
賛えて曰く、次に第二の請があります。論に「過去無量の仏がすでに衆生を教化されたことを示現される」とあります。初めに長行、後に偈頌があります。長行には二つあります。一つは総請、二つは堪聞です。ここはその請です。
經「所以者何(至)即能敬信」。
経の「所以者何(至)即能敬信」です。
贊曰:此堪聞,有三因:一遇良緣曾見諸佛,二性聰叡諸根猛利,三解識真義智慧明了,故能聞信。
賛じて曰く、これ聞くに堪えることには三つの因があります。第一に、良き縁に遇い、かつて諸仏にお会いしたことです。第二に、生まれつき聡明で、諸根が鋭いことです。第三に、真の義を理解し、智慧が明らかであることです。それゆえ、聞いて信じることができるのです。
經「爾時舍利弗(至)有能敬信者」。
そのとき、舎利弗は…敬信できる者はいるだろうか。
贊曰:此頌可知。
讃えて言います。この頌は以上の通りに理解できます。
經「佛復止舍利弗(至)將墜於大坑」。
経には「仏、また舎利弗を止めたまう。まさに大坑に墜ちんとす」とあります。
贊曰:下第三段,初止、後請。止中有二:長行及頌。此初也。因不堪聞法者之退廗也。恐增上慢得世第四靜慮便謂阿羅漢果,而生誹謗,當墮地獄,名墜大坑;此皆凡夫故墜大坑,非聖有學。《瑜伽論》說:「一切聖人知自得果,無自謂得後位聖果,增上慢故、無邪見故,更不造業入地獄故。」諸論所言增上慢比丘得世第四靜慮,後命終已,由謗解脫起邪見故生地獄中,即此類也。
賛を曰く、下の第三段には、初めに止め、後に請うことがあります。止めることの中には二つがあります。長行と偈頌です。これがその初めです。法を聞くに堪えない者たちが退くことによります。増上慢の者が世間の第四静慮を得て、それをもって阿羅漢果と思い込み、誹謗を生じれば、地獄に堕ちるべきであり、これを大坑に墜ちる名とします。これらはみな凡夫であるために大坑に墜ちるのであり、聖者や有学ではありません。『瑜伽論』に説きます。「すべての聖人は自らが果を得たことを知っており、後の位の聖果を得たと自ら言うことはありません。増上慢のためであり、邪見がないためであり、さらに業を造って地獄に入ることもないからです。」もろもろの論に言うところの増上慢の比丘は、世間の第四静慮を得て、後に命終してから、解脱を誹謗して邪見を起こすために地獄の中に生まれる、まさにこの類です。
經「爾時世尊(至)聞必不敬信」。
「そのとき、世尊は……とお聞きになると、必ず敬い信じることはない」
贊曰:法妙難解,下愚聞之起謗,既不敬信,所以恐墜大坑。
賛じて曰く、法は妙にして解しがたく、下愚の者はこれを聞いて謗りを起こします。敬信しないので、大きな穴に堕ちることを恐れるのです。
經「爾時舍利弗(至)多所饒益」。
経の「その時、舎利弗は多くの人々を大いに益した」という箇所です。
贊曰:下第三請。初長行、後偈頌。長行有二:初總請、後堪聞。鶖子利根自知宿命,亦能曉他往世從釋迦已曾受化,根成道滿聞必能信,生死長夜安穩饒益,故今請說。
讃えて曰く、次は第三の請いです。初めに長行、後に偈頌があります。長行には二つあります。初めは総請、後は堪聞です。鶖子は利根であり、自ら宿命を知り、また他者が過去世において釈迦からすでに教化を受けたことをも了知しています。その根が成就し道が満ちているので、聞けば必ず信じることができ、生死の長夜を安穩にし饒益となるため、ここで説くことを請うのです。
經「爾時舍利弗(至)唯垂分別說」。
経「そのとき、舎利弗よ、どうか私たちのために分けて説いてください」。
贊曰:下四頌中有三:初一頌自稱長子以請決,次一頌半陳眾久從佛化以請說,後一頌半兼陳自他聞法悟解即生歡喜以請說。此初也。佛於二足多足無足一切中尊,今云兩足尊,於三類中兩足為貴,能入道故。謂人天類,佛亦兩足,故言兩足尊。聲聞眾中鶖子第一,故名長子。
贊えて言います。以下の四つの頌には三つの部分があります。最初の一頌は、自らが長子であると称して決断を請うものです。次の一頌半は、大衆が久しく仏の教化に従ってきたことを述べて説法を請うものです。後の一頌半は、自他ともに法を聞いて悟り解すること、すなわち喜びを生じて説法を請うことを兼ねて述べたものです。これが最初の部分です。仏は、二足・多足・無足のすべての中で最も尊いお方です。今「両足尊」と言うのは、三つの種類の中で二足が最も貴く、道に入ることができるからです。すなわち人と天の類を指し、仏もまた二足であるため、「両足尊」と言うのです。声聞の集まりの中では鶖子が第一であるため、長子と名づけるのです。
經「是會無量眾(至)欲聽受佛語」。
この集まりの無量の大衆は、仏の言葉を聞きたく思っています。
贊曰:此一頌半陳眾久從佛化、宿因今熟,故請佛說。
賛えて申します。この一頌半は、大衆がすでに長く仏の教化を受けてきて、過去の因が今熟したことを述べています。それゆえ、仏に説法を請うたのです。
經「我等千二百(至)則生大歡喜」。
経には「我等千二百、至れば則ち大いに歓喜する」と説かれています。
贊曰:此一頌半兼陳自他聞法歡喜,以請佛說。
賛えて曰く、この一頌半は自他が法を聞いて歓喜したことを兼ねて述べ、もって仏に説法を請うたものであります。
經「爾時世尊(至)分別解說」。
経には「そのとき、世尊は(詳しく)一つ一つ分かりやすく説き示された」とあります。
贊曰:論第四段定記分中,自下第三取授記也。許可攝受而為說之。故論云:「取受記者,以舍利弗等欲得受記,如經『佛告舍利弗汝已三請,豈得不說』等,許攝受取故。」若依自科,下第三段開斯實相,啟彼權門,於中有二:初明二記,後「五濁」下方破四疑。二記為二,初取記中有二:初許可攝受、後惡人退廗。此初也。〈菩薩地〉云:「夫聽法者聆音囑耳,掃滌攝持。」《智論》亦言:「聽者端視如飢渴,一心入於語義中,踴躍聞法心悲喜,如是之人可為說。」「端」直審也。若不誡彼群情令其審聽,恐心不定慧解不生,故勅審聽。
賛して曰く、論の第四段は定記分の中で、これより以下の第三は取授記であります。許可して摂受してこれを説かれるのです。それゆえ論に「取受記とは、舎利弗などが記を受けたく思っているので、経に『仏は舎利弗に告げられた、あなたはすでに三度請うた、どうして説かないことがあろうか』といった通りであり、摂受して取ることを許可されるからです」と説かれています。もし自らの科文に従えば、以下の第三段はこの実相を開き、かの権門を開くもので、その中に二つあります。初めに二つの記を明かし、後に「五濁」の下で四つの疑いを破ります。二つの記は二つに分かれ、初めの取記の中にまた二つあります。初めは許可摂受、後は悪人が座を退くことです。ここはその初めです。〈菩薩地〉に「およそ法を聞く者は、音を聴き耳を傾け、心を洗い清めて摂持します」とあります。《智論》にも「聞く者は、飢え渇いた者のようにまっすぐに見つめ、一心に語の意味の中に入り、躍り上がって法を聞き、心に悲しみ喜びを抱きます。このような人にこそ説くべきです」とあります。「端」とは、まっすぐに詳しく見ることです。もしあの群れの人々を戒めて、よく聴かせなければ、心が定まらず智慧の理解が生じないことを恐れて、よく聴くよう勅されたのです。
經「說此語時(至)禮佛而退」。
この言葉を説かれたとき、(乃至)仏を礼拝して退いた。
贊曰:下惡人退廗,有四:一明去,二不止,三快勅,四敬諾。初中復二:初標、後釋。此標也。
賛えて曰く、次に悪人が座を退くことについて四つの部分があります。第一に去ることを明かし、第二に止めないこと、第三に快く勅されること、第四に敬って諾うことです。第一と第二の中にまた二つがあります。初めに標し、後に釈します。これはその標しです。
經「所以者何(至)是以不住」。
経には「なぜかといえば、(乃至)それゆえに住しない」とあります。
贊曰:下釋起去所由,此自徵云難得有五:一得人身難,二生中國難,三具諸根難,四值佛出難,五聞正法難。五千之徒已具初四,何故將說妙法避廗而起去耶?此去之所以者何謂也?今釋有二意:一罪根深重,二有增上慢。此「輩」者補配反,群黨也。《說文》「軍法發車百兩為一輩」,《廣雅》等翻輩亦類也。《玉篇》部比類也。「罪」者,可毀可嘖可怖可厭之義,若因若果可毀厭者皆名為罪。若依小乘,此罪眾多,重者有三:一煩惱障,二業障,三異熟障。一切煩惱總為二類:一數數起名勤二起而猛名利。分為四句:一勤而不利,二利而不勤,三亦勤亦利,四不勤不利。今取初及第三句名煩惱障,五無間業名業障,三途八難名異熟障。此之三障障入聖道,名為重罪。今依大乘,障有二種:一煩惱障,二所知障。所知障者,隨其所應障入大乘聖位;煩惱障者,隨其所應障入三乘聖位。依《佛地論》,煩惱障有三:一者一百二十八煩惱并隨煩惱,二所發業,三所得果。此意所說是彼品類總名為障,非據重者。依《大般若》,重障有四:一煩惱障,二業障,三異熟障,四法障。煩惱障者,一百二十八根本煩惱,及彼等流諸隨煩惱,隨其所應能障聖者皆名此障,若具有者隨其所應障彼聖故。業障者,依《薩遮尼乾子經》有五種逆:一破塔壞寺焚燒經像,竊盜及用三寶財物。二謗三乘法言非聖法,障礙留難隱弊覆藏。三於一切出家人所,若有戒無戒持戒破戒打罵訶責,說其過失禁閇窂獄,或脫袈裟逼令還俗,責役驅使債其發調斷其命根故。《大集經》言「說一破戒比丘過失,過出萬億佛身血」。四殺父、害母、殺阿羅漢、出佛身血、破和合僧。五起大邪見謗無因果,長夜常行十不善業。此之五種唯於大乘名五逆業障。亦有說七等,不過此五,所以不說。異熟障者,謂能障聖道諸異熟果,即三惡趣、八無暇等。其間佛前佛後難應云法前法後,是佛法前後不得聖故。法障者,謂於宿世障他作善造匱法業,於此生中不得聞法,匱乏正法,謂五果中等流、增上二果所攝。罪根深重者感匱法業,是罪根故現不聞法,是罪體故,即第四障也。「慢」者,《玉篇》輕悔也、不畏也、倨也。或為「嫚」字,《切韻》欺為謾,緩為慢,恃己陵他高舉為相。《瑜伽》等說慢有七種:一慢,二過慢,三慢過慢,四我慢,五增上慢,六卑慢,七邪慢。初慢者,謂於劣計己勝,或於等計己等。過慢者,謂於等計己勝,或於勝計己等。慢過慢者,謂於勝計己勝。我慢者,恃所執我高舉為相。增上慢者,己實少德謂己多德。卑慢者,謂他多分勝己,計己少分劣他。邪慢者,己全無德謂己有德。今增上慢即是第五己實少德,謂己多德。得世間涅槃禪定等故,未多得謂多德,未多證謂多證。得謂有為道,證謂無為滅。此是增上慢相,非全未得而今謂得。若不爾者,便非增上慢相,乃是第七邪慢相故。有此煩惱障及前法障二種力故,不堪聞法。
贊(ほめたたえる)に曰く、以下は立ち去った理由を説明します。ここで自ら問いを立てて言うには、難得(得がたいもの)に五つあります。一つは人身を得ることが難しいこと、二つは中国(中央の地)に生まれることが難しいこと、三つは諸根を具えることが難しいこと、四つは仏の出世に値うことが難しいこと、五つは正法を聞くことが難しいことです。五千の者たちはすでに初めの四つを具えています。なぜまさに妙法を説こうとするときに、座を避けて立ち去ったのでしょうか。この立ち去る理由とは何を意味するのでしょうか。今、解釈するに二つの意味があります。一つは罪根が深く重いこと、二つは増上慢があることです。この「輩」は補配反(ほはいはん)と読み、群党(なかま)のことです。『説文』に「軍法に車百両を発するを一輩となす」とあり、『広雅』などでは輩をまた類と訳します。『玉篇』では部は比類のことです。「罪」とは、毀(そし)るべきもの、嘖(せ)めるべきもの、怖るべきもの、厭(いと)うべきものの義であり、因であれ果であれ毀り厭うべきものは皆、罪と名づけます。もし小乗に依れば、この罪は多く、重いものに三つあります。一つは煩悩障、二つは業障、三つは異熟障です。一切の煩悩は総じて二類となります。一つは数々起こることを勤(ごん)と名づけ、二つは起こって猛(たけ)いことを利(り)と名づけます。四句に分けます。一つは勤にして利ならず、二つは利にして勤ならず、三つは亦勤亦利、四つは不勤不利です。今、初めと第三の句を取って煩悩障と名づけ、五無間業を業障と名づけ、三途八難を異熟障と名づけます。この三つの障りは聖道に入ることを障るので、重罪と名づけます。今、大乗に依れば、障りに二種あります。一つは煩悩障、二つは所知障です。所知障とは、それに応じて大乗の聖位に入ることを障ります。煩悩障とは、それに応じて三乗の聖位に入ることを障ります。『仏地論』に依れば、煩悩障に三つあります。一つは百二十八の煩悩ならびに随煩悩、二つは発(ひら)かれた業、三つは得られた果です。この意の説くところは、それらの品類を総じて障と名づけるのであって、重いものによるのではありません。『大般若』に依れば、重障に四つあります。一つは煩悩障、二つは業障、三つは異熟障、四つは法障です。煩悩障とは、百二十八の根本煩悩、およびそれらの等流の諸随煩悩であり、それに応じて聖者を障ることができるものを皆この障と名づけます。もし具える者は、それに応じて彼の聖を障るからです。業障とは、『薩遮尼乾子経』に依れば五種の逆があります。一つは塔を破り寺を壊し経像を焚焼し、窃盗しおよび三宝の財物を用いること。二つは三乗の法を謗りて聖法に非ずと言い、障礙留難し隠弊覆蔵すること。三つは一切の出家人の所において、戒あるもの戒なきもの持戒のもの破戒のものに対して、打ち罵り訶責し、その過失を説き、禁閉牢獄し、あるいは袈裟を脱がせて還俗を強い、責め役し駆使し、その発調を債(と)りその命根を断つがゆえに。『大集経』に言く「一の破戒比丘の過失を説くことは、万億の仏身の血を出すよりも過ぎたり」と。四つは父を殺し、母を害し、阿羅漢を殺し、仏身の血を出し、和合僧を破ること。五つは大邪見を起こして因果なしと謗り、長夜に常に十不善業を行ずること。この五種はただ大乗においてのみ五逆業障と名づけます。また七等を説くものもありますが、この五を出でないので説きません。異熟障とは、よく聖道を障る諸々の異熟果をいい、すなわち三悪趣・八無暇などです。その間、仏の前・仏の後の難は、法の前・法の後と説くべきです。これは仏法の前後にして聖を得ないからです。法障とは、宿世において他者の善を作すことを障り、法を欠乏させる業を造り、この生において法を聞くことが得られず、正法を欠乏することであり、五果の中の等流・増上という二果に摂められます。罪根深重とは、法を欠乏させる業を感ずることであり、これが罪根であるがゆえに現に法を聞かず、これが罪体であるがゆえに、すなわち第四の障です。「慢」とは、『玉篇』に軽侮(けいぶ)なり、畏れざるなり、倨(おご)るなりとあります。あるいは「嫚」の字となり、『切韻』に欺くを謾となし、緩むを慢となし、自己に恃(たの)み他を陵(しの)ぎ高挙するを相となします。『瑜伽』などに説くに慢に七種あります。一つは慢、二つは過慢、三つは慢過慢、四つは我慢、五つは増上慢、六つは卑慢、七つは邪慢です。初めの慢とは、劣った者に対して己を勝れりと計り、あるいは等しい者に対して己を等しと計ることです。過慢とは、等しい者に対して己を勝れりと計り、あるいは勝れた者に対して己を等しと計ることです。慢過慢とは、勝れた者に対して己を勝れりと計ることです。我慢とは、執(とら)えたる我に恃みて高挙するを相となします。増上慢とは、己に実に徳が少ないのに己に徳が多いと謂(おも)うことです。卑慢とは、他が多く己に勝れているのに、己が少し他に劣ると計ることです。邪慢とは、己に全く徳がないのに己に徳があると謂うことです。今の増上慢とはすなわち第五にして、己に実に徳が少ないのに己に徳が多いと謂うことです。世間の涅槃・禅定などを得るがゆえに、いまだ多く得ていないのに徳が多いと謂い、いまだ多く証していないのに多く証したと謂います。得とは有為の道をいい、証とは無為の滅をいいます。これは増上慢の相であり、全くいまだ得ていないのに今得たと謂うのではありません。もしそうでなければ、すなわち増上慢の相ではなく、これこそ第七の邪慢の相だからです。この煩悩障および前述の法障という二種の力があるがゆえに、法を聞くに堪えないのです。
問:
質問です。
五千之輩既不堪聞,何因目矚神光、耳聆妙唱,覩天華而晏默、觀地動而無驚?
五千の者たちはすでに聞くに堪えなかったのに、なぜ目で神々しい光を仰ぎ、耳で妙なる説法を聞き、天の花を見ても静かに黙し、大地の揺れを見ても驚かなかったのでしょうか。
答:
答:
放光動地未革庸心,演妙宣難便乖淺意,聞序中之問答為大漸之初,因聽宗內之深陳乃增迷而復謗,所以折摧枝葉扇拂糟糠。
神通を放って大地を揺るがされても、凡庸な心は改まらず、妙なる教えを説き難事を宣べられても、かえって浅はかな思いにとどまり、序分の中の問答を聞いては、それが大きな教化への初めであるのに、宗内の深い説示を聴いては、かえって迷いを増し、また謗りを重ねるばかりでした。そこで、枝葉を折り摧き、糟糠を払い除かれたのです。
經「世尊默然而不制止」。
経には「世尊は黙ったままで、お止めにならなかった」とあります。
贊曰:二不止也。「默」靜也,俗作默。諸論皆云有二決定佛力不非:一受異熟決定,二作業決定。罪根深重者受果定類,增上慢者作業定類。由此五千從座而起,佛雖神力亦不止之。又乍可令去,不墜大坑;不可止之,令興重業,故不止也。彼若發心定業可轉,其心不易佛力不排。
賛じて曰く、二つは止めないということです。「默」は静という意味で、俗には默と書きます。諸論はいずれも、二つの決定した仏力があって否定できないと説いています。一つは異熟を受ける決定、二つは作業の決定です。罪根が深く重い者は受果の定類であり、増上慢の者は作業の定類です。これによって五千人が座から立ち上がりましたが、仏は神力をもってもこれを止められませんでした。また、むしろ去らせて大坑に堕ちないようにすることはできますが、これを止めて重い業を起こさせることはできません。それゆえ止めないのです。彼らがもし発心すれば定業も転じることができますが、その心が変わらなければ仏力も排除しません。
經「爾時佛告(至)當為汝說」。
そのとき、仏は告げられました。「…あなたのために説きましょう」。
贊曰:三快勅也。風驚秕落,霜殞貞存。佛許說而驚其心,振威神而令起去,故以枝條退為佳唱,貞實住而許說,輕薄虛疎故譬枝葉,敦重堅固乃同貞實。「佳」音古膎反,善好也。「膎」音戶佳反,南人謂膎脼也。
賛して曰く、これは三度の快い勅めである。風が驚けば秕は落ち、霜が殞たせば貞は存る。仏は説を許してその心を驚かせ、威神を振るって起ち去らせた。ゆえに枝條の退くを佳唱とし、貞実の住して説を許されるをば、軽薄虚疎なるゆえに枝葉に譬え、敦重堅固なるはすなわち貞実に同じとしたのである。「佳」の音は古膎反で、善く好むの意である。「膎」の音は戸佳反で、南方の人は膎脼と言う。
經「舍利弗言(至)願樂欲聞」。
舎利弗が言いました。「願わくは、お聞きしたいと願っております。」
贊曰:四敬諾也。「唯」音弋誰弋水二反,敬諾之詞。「然」音如延反。順從稱「願樂」,為希解之意,「欲聞」亦冀聽之心。
賛えて曰く、四つは敬諾です。「唯」の音は弋誰・弋水の二反で、敬諾の詞です。「然」の音は如延の反です。順従を「願楽」と称し、解を得たいと希う意であり、「欲聞」もまた聴くことを冀う心です。
經「佛告舍利弗(至)時一現耳」。
仏は舎利弗に告げられました。「時に一度だけ現れるのです」。
贊曰:此下明與授記為之解釋也。論云:「有六種:一未聞令聞,此等文是。二者說,『舍利弗!諸佛隨宜所說』下是。三者依何等義,『所以者何?諸佛世尊唯以一大事』下是。四者令住,『舍利弗!如來但以一佛乘故為眾生說法』下是。五者依法,『舍利弗!一切十方諸佛法亦如是』下是。六者遮,『舍利弗!十方世界中尚無二乘』下是。」未聞令聞者,歎法希有顯令聞故。說者,明所說法意難知事。依何等義者,謂未聞令聞,及方便所說。依何等義,謂依佛所得深難解法。住者,勸令來住一乘之中。法者,十方三世佛所共行儀軌法式。初隨宜說,意令久後取佛種智。遮者,遮破二執、遮遣二真,令歎法希。未聞令聞有三:一歎希,二舉喻,三勸信。此即初二。此若頻說無智不欣,時乃說之愚智同樂。梵云鄔曇鉢羅,此云瑞應,金輪王出大海減少,金輪路現其華乃生,應金輪之御世名瑞應華,此《法華經》法輪王出、生死海減,一乘道顯方演說之,故舉為喻歎法希有。鶖子往劫曾所未聞,今者令聞令渴仰故。
賛して曰く、この以下は授記を与えることを明かし、これのために解釈するのである。論に云う、「六種ある。一には未聞をして聞かせ、この文これである。二には説、『舎利弗、諸仏は随宜に説きたもう』の下これである。三には何の義に依るか、『所以者何、諸仏世尊は唯だ一大事を以て』の下これである。四には住せしめ、『舎利弗、如来は但だ一仏乗を以ての故に衆生のために法を説きたもう』の下これである。五には法に依り、『舎利弗、一切十方の諸仏の法も亦た是の如し』の下これである。六には遮し、『舎利弗、十方世界の中に尚お二乗なし』の下これである」と。未聞をして聞かせるとは、法の希有なるを嘆じて聞かせることを顕すがゆえである。説とは、説くところの法の意の知り難き事を明かす。何の義に依るかとは、未聞をして聞かせ、及び方便にて説くところを謂う。何の義に依るかとは、仏の所得の深く解し難き法に依るを謂う。住とは、勧めて一乗の中に来り住せしむ。法とは、十方三世の仏の共に行ずる儀軌法式である。初めに随宜に説きたもうは、意は久しき後に仏種智を取らせんがためである。遮とは、二執を遮破し、二真を遮遣して、法の希有なるを嘆ぜしむ。未聞をして聞かせには三あり。一には希を嘆じ、二には喩を挙げ、三には信を勧む。これすなわち初めの二である。これもし頻りに説かば無智は欣ばず、時に乃ちこれを説けば愚智同じく楽しむ。梵に鄔曇鉢羅と云い、此には瑞応と云う。金輪王出でて大海減少すれば、金輪の路現れ、その華乃ち生ず。金輪の御世に応ずるがゆえに瑞応華と名づく。この『法華経』は法輪王出でて生死の海減じ、一乗の道顕れて方にこれを演説す。ゆえに挙げて喩となし、法の希有なるを嘆ず。鶖子は往劫に曾て未だ聞かざりしところ、今まさに聞かせて渇仰せしめんと欲するがゆえである。
經「舍利(至)言不虛妄」。
経に「舎利よ、至るまで言葉に虚妄はない」とあります。
贊曰:此勸信也。智解局者未能證達,故標不虛勸其生信。
賛えて曰く、これは信を勧めるものである。智慧の理解が限られた者は、まだ證達することができない。ゆえに「虚ならず」と示して、その信を生じさせるよう勧めているのです。
經。「舍利弗(至)意趣難解」。
経。舎利弗、その意趣は解し難い。
贊曰:下第二段明說,有二:初標、後釋。此標也。
賛して曰く、次に第二段の説示には二つあります。初めに標し、後に釈します。これはその標しです。
經「所以者何(至)乃能知之」。
経文にこうあります。「なぜならば、(そこに至って)はじめて知ることができるのである。」
贊曰:此釋也。論釋種種因緣者,謂三乘法,彼三乘法唯名字章句說,非有實義故,以彼實義不可說故。此中意說,我以方便說三乘法,此法唯有名字章句無別三體,隨宜說三,非二乘等思量能解,唯佛能知。此說前標智門難了,三乘實義即是真如,不可說故。下依何等,即佛智慧。
賛して曰く。この解釈は、論が種々の因縁を解釈するものであり、それは三乗の法を指します。それらの三乗の法は、ただ名前や章句として説かれたものであって、実義があるわけではありません。その実義は説くことができないからです。ここでの意図は、私が方便をもって三乗の法を説いたのであり、この法はただ名前と章句があるだけで、別に三つの実体があるわけではなく、状況に応じて三つに説いたものであって、二乗などの思量によって理解できるものではなく、ただ仏だけが知ることができる、ということです。これは前に示した智門が理解しがたいことを説いています。三乗の実義とはすなわち真如であり、説くことができないからです。次に何に依るかといえば、それは仏の智慧です。
經「所以者何(至)出現於世」。
経には「なぜならば、(世に)出現されるからである」と説かれています。
贊曰:自下文第三依何等義,有二:初略標、後廣解。此初也。因前文起,故假徵顯有何所以?言辭難解唯佛知也,依何等義作如是說?「諸佛世尊」者,總苞十方三世諸佛。「唯以一大事」者,事物、體事、事義、道理隨應皆得。為此大事因緣,所以出現世間,自稱德號廣利眾生,不爾便如二乘入滅。由此大事,故隨宜說意趣難知。
賛して曰く、これより以下の文は第三に、いかなる義に依るかについて述べます。そこには二つあります。初めは略標であり、後は広解です。ここはその初めです。前の文に因って起こり、ゆえに仮に問いを立てて、どのような理由があるのかを示します。その言辞は解し難く、ただ仏のみがご存じです。いかなる義に依ってこのように説かれたのでしょうか。「諸仏世尊」とは、十方三世の諸仏を総じて包む言葉です。「唯以一大事」とは、事物・体事・事義・道理のいずれに当てても、それぞれに応じて成り立ちます。この大事の因縁のために、世間に出現され、自ら徳号を称えて広く衆生を利し、そうでなければ二乗のように入滅されてしまいます。この大事によって、機に応じて説かれるその意趣は知り難いのです。
經「舍利弗(至)出現於世」。
経の「舎利弗よ、(〜に至るまで)世に出現した」とあります。
贊曰:下廣釋,有二:初別顯、後釋意。別顯有三:一徵、二釋、三結。此徵也。
賛えて曰く、以下は広く解釈するもので、二つあります。初めに個別に示し、後にその意味を解釈します。個別に示すものには三つあります。一つは問いかけ、二つは解釈、三つはまとめです。ここはその問いかけです。
經「諸佛世尊(至)出現於世」。
経には「諸仏世尊がこの世に出現なさる」とあります。
贊曰:此釋大事體,即知見。諸佛出世為此大事,四義明之:謂開、示、悟、入。論云:「後一大事者,依四種義應知。佛知見者,如來能證,如實知彼義故。此有三釋:一云法性真如名為如實,法真性故即是所證,義理、境界俱名為義,正智之體名為能證,能知義理證真境故,即此能證正智及所證真如,能所知見並名知見。如為知見之性,智為知見之用,知見性相俱稱知見。」無著《般若論》云:「無上菩提是法身,正等菩提是報身。」《解深密經》云:「菩提、菩提斷俱名為菩提。」《智度論》云:「說智及智處俱名為般若故。或知謂正體智、見謂後得智,是二是用,能照真俗二種境故。此二本性即是真如,合名知見,將性就相故名知見,欲令二乘求種智故。」《勝鬘》云:「一乘即佛乘,佛乘即大乘。」《攝大乘》云:「亦乘亦大故名大乘,萬行是也。或乘大性故名大乘,真如是也。」故知一乘佛果乘,體通理及智,契當宗義;火宅牛車意在智用,說牛車等我所作故;險途寶所意在智性,稱化作城非寶所故,由此合二並名知見。
讃えて曰く、これは大事の体を釈するものであり、すなわち知見です。諸仏が世に出現されるのは、この大事のためであり、四つの義によってこれを明かします。いわゆる開・示・悟・入です。論に云く、「後の一大事とは、四種の義に依るべきことを知るべきです。仏の知見とは、如来が能く証し、如実に彼の義を知るがゆえです。これに三つの解釈があります。一つには、法性真如を名づけて如実とし、法の真性であるがゆえにすなわち是れ所証であり、義理と境界とをともに義と名づけ、正智の体を名づけて能証とし、能く義理を知り真境を証するがゆえに、すなわちこの能証の正智および所証の真如は、能知と所知とを併せて知見と名づけます。如は知見の性と為し、智は知見の用と為し、知見の性相はともに知見と称されます。」無著の『般若論』に云く、「無上菩提はこれ法身であり、正等菩提はこれ報身です。」『解深密経』に云く、「菩提と菩提断とはともに菩提と名づけます。」『智度論』に云く、「智および智処を説いて、ともに般若と名づけるがゆえです。あるいは知は正体智を謂い、見は後得智を謂い、この二つはこれ用であり、能く真俗の二種の境を照らすがゆえです。この二つの本性はすなわちこれ真如であり、合わせて知見と名づけ、性を将って相に就くがゆえに知見と名づけ、二乗に種智を求めさせんと欲するがゆえです。」『勝鬘経』に云く、「一乗はすなわち仏乗であり、仏乗はすなわち大乗です。」『摂大乗論』に云く、「亦た乗、亦た大なるがゆえに大乗と名づけ、万行はこれです。あるいは乗の大性なるがゆえに大乗と名づけ、真如はこれです。」ゆえに知る、一乗の仏果乗は、体は理および智に通じ、宗義に契当します。火宅の牛車は智用を意とし、牛車は我の所作なりと言うがゆえです。険途の宝所は智性を意とし、化作の城と称し宝所にあらざるがゆえです。これによって二つを合わせてともに知見と名づけます。
本論云:「何者為四?一開者無上義,除一切智智更無餘事故,一切智者佛也。又言智者,根本、後得智,此二是用,此二智性即是真如。若用若性合名為智,一切智人之智名一切智智。又一切智者根本智,重言智者後得智,舉此二智攝於智性真如妙理。又一切智者智用菩提,又言智者智性涅槃,二種如來藏,今顯此二悉皆無上,歎勝令欣。」然此菩提體是有為本有種子,多聞熏習因修生長,體即四智。《楞伽經》云:「阿梨耶識名空如來藏;具足熏習無漏法故名不空如來藏。藏識有漏虛妄不實,故名為空;能含一切無漏種,故名如來藏。」四智種子體是無漏、非虛妄法,由近善友多聞熏習漸次生長,當成四智。四智之因名不空如來藏,藏是含藏,因性義故。猶如種樹生長圓滿。其涅槃性體是無為,本來而有自性清淨,後逢善友斷障所顯,雖一真如逢緣證別,名四涅槃。《勝鬘經》云:「有二種如來藏空智,謂若離若脫、若斷若異一切煩惱藏;不離不脫、不斷不異不思議如來藏。煩惱有漏虛妄不實,能覆真如,名空如來藏。涅槃無漏體是無為非虛妄法,由近善緣斷諸煩惱,漸次智起方便顯證,名為涅槃。體性非空因空所顯,空之性故,煩惱覆位名不空如來藏。」藏是覆隱因性義故,故在煩惱纏裹之位名如來藏。出煩惱時名為法身,即此法身因空所顯,空本性故,亦名空如來藏。如刀提耶掘寶顯得,阿賴耶識及諸煩惱名如來藏者,即《涅槃》云「未得阿耨多羅三藐三菩提時,善不善法皆名佛性。」《無垢稱》云「偽身種姓,七識住、貪欲、瞋恚、愚癡、十不善業道為如來種等,文非一故,即前菩提名為報身,報身修生、法身修顯,法身證因證故,報身生因生故。」前藏有四:一能含藏藏,謂阿賴耶識如庫藏等;二能生德藏,謂報身種子如穀種等;三能覆藏藏,謂煩惱等如土覆物;四能顯德藏,謂法身佛性如金性等。大位而言,所知障斷證佛報身菩提圓滿,煩惱障斷證佛法身涅槃圓滿;諸佛出世欲令眾生斷所知障及所發業并所得果,一切俱盡圓證菩提,開知見相使得清淨,障盡智圓名清淨故。欲令眾生斷煩惱障及所發業并所得果,一切俱盡圓證涅槃,開知見性使得清淨,障盡理顯名清淨故。緣此知見故出世間。開者出生顯證之義,出生菩提證涅槃故。除此二種更無餘事勝過二法,故名無上。
本論に云います。「何が四つかというと、第一に「開」とは無上の意義であり、一切智智を除いてほかに何もないからです。一切智者とは仏のことです。また「智者」と言うのは、根本智と後得智であり、この二つは働き(用)です。この二つの智の本性はすなわち真如です。働きも本性も合わせて「智」と名づけ、一切智の人の智を一切智智と名づけます。また一切智者とは根本智であり、重ねて「智者」と言うのは後得智です。この二つの智を挙げて、智の本性である真如の妙理を包み込んでいます。また一切智者とは智の働きとしての菩提であり、また「智者」と言うのは智の本性としての涅槃です。この二種の如来蔵について、今ここでこの二つがともに無上であることを示し、その勝れたことを嘆じて喜ばせるのです。」
しかしこの菩提の体は有為であり、本有の種子が多く聞くことの熏習によって修行の因として生長したもので、その体はすなわち四智です。『楞伽経』に云います。「阿梨耶識を空如来蔵と名づける。無漏の法を熏習して具足するから不空如来蔵と名づける。蔵識は有漏で虚妄にして実ならざるゆえ、空と名づける。よく一切の無漏の種を含むゆえ、如来蔵と名づける。」四智の種子の体は無漏であり、虚妄の法ではありません。善き友に近づき多く聞く熏習によって漸次に生長し、やがて四智と成ります。四智の因を不空如来蔵と名づけます。蔵とは含蔵の意味であり、因性という意味があるからです。ちょうど樹を種えて生長し円満するようなものです。その涅槃の性の体は無為であり、本来からあり、自性清浄であり、後に善き友に逢って障りを断ち、顕されるものです。一つの真如でありながら縁に逢って証しが異なるので、四涅槃と名づけます。
『勝鬘経』に云います。「二種の如来蔵空智があります。すなわち離れ、脱れ、断ち、異なる一切煩悩蔵と、離れず脱れず、断たず異ならず、不思議なる如来蔵です。煩悩は有漏で虚妄にして実ならざるもので、よく真如を覆うので、空如来蔵と名づけます。涅槃は無漏で体は無為であり、虚妄の法ではありません。善き縁に近づき諸々の煩悩を断ち、漸次に智が起こり方便をもって顕し証するので、涅槃と名づけます。体性は空ではなく、空によって顕されるゆえ、空の性だからです。煩悩が覆っている位を不空如来蔵と名づけます。」蔵とは覆い隠す因性の意味だからです。それゆえ煩悩に纏われている位を如来蔵と名づけます。煩悩を出た時を法身と名づけます。すなわちこの法身は空によって顕されるゆえ、空の本性だから、また空如来蔵とも名づけます。ちょうど刀提耶が宝を掘り出して顕すようなものです。阿頼耶識および諸々の煩悩を如来蔵と名づけるのは、すなわち『涅槃経』に云う「未だ阿耨多羅三藐三菩提を得ない時は、善不善の法は皆、仏性と名づける」ということです。『無垢称経』に云う「偽りの身の種姓、七識住、貪欲、瞋恚、愚癡、十不善業道が如来の種である」など、文は一つではないからです。すなわち先の菩提を報身と名づけます。報身は修行によって生じ、法身は修行によって顕されます。法身は証の因をもって証されるゆえ、報身は生の因をもって生じるゆえです。
先の蔵に四つあります。第一に能含蔵の蔵とは、阿頼耶識で、庫蔵のようなものです。第二に能生徳蔵の蔵とは、報身の種子で、種のようなものです。第三に能覆蔵の蔵とは、煩悩などで、土が物を覆うようなものです。第四に能顕徳蔵の蔵とは、法身・仏性で、金の性などのようなものです。大きな位で言えば、所知障を断じて仏の報身の菩提の円満を証し、煩悩障を断じて仏の法身の涅槃の円満を証します。諸仏が世に出られるのは、衆生に所知障とそれによって発される業ならびに得られる果を断じさせ、一切をともに尽くして菩提を円証し、知見の相を開いて清浄にさせたいからです。障りが尽き智が円満なのを清浄と名づけるからです。衆生に煩悩障とそれによって発される業ならびに得られる果を断じさせ、一切をともに尽くして涅槃を円証し、知見の性を開いて清浄にさせたいからです。障りが尽き理が顕れるのを清浄と名づけるからです。この知見に縁するゆえに出世間なのです。「開」とは出生顕証の意義であり、菩提を出生し涅槃を証するからです。この二種を除いてほかに何もなく、この二つの法に勝るものはないので、無上と名づけるのです。
二示者,同義,以聲聞、辟支佛、佛三乘法身平等。法身平等者,佛性法身無差別故。《涅槃經》云:「譬如乳牛有種種色,及搆其乳置之一處白色無異;佛性亦爾,眾生雖有種種不同,佛性無別。」此意說言,三乘法身本來平等,眾生不知,不肯修證法身圓滿。諸佛出世,欲示眾生,此佛知見之性,三乘同有平等無二,令同證滿以成法身。
二示とは、同じ意味です。声聞・辟支仏・仏という三乗の法身が平等であるからです。法身が平等であるとは、仏性と法身に差別がないからです。『涅槃経』にこう説かれています。「たとえば乳牛にはさまざまな色がありますが、その乳を搾って一か所に置けば、白色に違いはありません。仏性もまた同じです。衆生にはさまざまな違いがあっても、仏性に別はありません。」この意味は、三乗の法身はもともと平等であるのに、衆生はそれを知らず、法身を円満に修証しようとしない、ということです。諸仏が世に出現されるのは、衆生にこの仏の知見の性が三乗に共通して等しくそなわり、二つでないことを示し、ともに証りを完成して法身を成就させようとされるためです。
三悟者,不知義,以一切聲聞、辟支佛不知彼真實處故。不知真實處者,不知究竟唯一佛乘故。如下「有人至親友家醉酒而臥,以無價珠繫衣裏等,彼初不覺後悟方知」,此意說言,二乘不知究竟唯一佛乘,體即菩提四智,所以不修報身圓滿;佛出世者欲令眾生悟於究竟唯此一乘佛菩提智,令修生長。
三悟とは、義を知らないことです。すべての声聞と辟支仏は、かの真実の在り処を知らないからです。真実の在り処を知らないとは、究竟してただ一つの仏乗であることを知らないということです。次の経文に「ある人が親友の家で酒に酔って横たわり、無価の珠を衣の裏に結び付けられたが、その人は初めはまったく気づかず、後に悟って初めて知った」とあるのは、この意味を説いています。二乗は究竟してただ一つの仏乗であることを知らず、その本体はすなわち菩提の四智であるため、報身を円満にする修行をしません。仏が世に出現されるのは、衆生に究竟してただこの一乗の仏菩提の智慧のみであると悟らせ、修行してそれを成長させたいと願われるからです。
上來三種——開者雙顯法身、報身、涅槃、菩提二種無上,歎勝令欣;示者別顯法身涅槃三乘無二本來而有,令其修證;悟者別顯報身菩提第一究竟本有種子,令修果生——俱明果中斷德、智德,既證此二,利樂眾生、應物現形,應機說法,即是化身及他受用,名為恩德。
上来の三種とは、開は法身・報身・涅槃・菩提の二種の無上を併せて示し、その勝れたるを嘆じて欣求せしめます。示は別して法身と涅槃とが三乗に二つなく、本よりして有ることを示し、これを修証せしめます。悟は別して報身と菩提との第一究竟なる本有の種子を示し、その果を修めて生ぜしめます。いずれも果の中の断徳と智徳とを明かすものであり、すでにこの二つを証すれば、衆生を利楽し、物に応じて形を現じ、機に応じて法を説きます。これすなわち化身および他受用であり、恩徳と名づけます。
四入者,為令證得不退轉地,示現與無量智業故。上三總、別雖顯佛果無上、同、勝,未知如何可能證獲。今顯能證能得之因,故名為入。依此本論初地已上名不退地,佛果位中一切智智體用大故名無量智。業者因也。佛出為說初地已上能得佛果一切智因,故名為入。佛說此因,欲令二乘有學、無學,及初地前、證初地上不退轉地,入變易生修種智因,觀察智性入佛二果。此四意言:佛出世者,欲令眾生斷二障盡,開佛菩提、涅槃知見,使證清淨,歎二無上勸令欣故;示法身同有令使證故;悟所不知唯一佛乘智令修生故;既顯佛果菩提涅槃殊勝體性,并顯其因令其趣入。謂佛出世意說一乘若果若因,令諸眾生修因證果皆作佛故,更不為餘。前歎智慧及智慧門,即是一乘教之與理,今說行、果,故知總說一乘四法名為法華。或不退者,八地以上行不退故,諸論說受變易生故。雖二乘迴心未即至彼地,三乘俱同,後決定得出分段死、入變易生,故作是說。又二乘者煩惱不退,經三大劫俱名不退地。又一乘者修行一乘,若信若位若證若行,今於此中皆令入故,並名不退。或此果因一乘實體,是前所說諸佛智慧,其智慧門即前所說三乘權教,令二乘者捨權取實,行一乘因趣一乘果,是此本意。
四つの「入」とは、証しとして不退転の地を得させるために、無量の智の業とともに示し現すということです。以上の三つは総じて、あるいは別々に、仏果の無上・同・勝を明らかにしていますが、どのようにして証し得るのかはまだ分かっていません。そこで今、証し得ることのできる原因を示し、それを「入」と名づけるのです。この本論によれば、初地以上を不退地といい、仏果の位にある一切智智の本体と作用が大きいので無量智といいます。「業」とは原因のことです。仏が世に出られたのは、初地以上で仏果の一切智の原因を得ることができることを説くためであり、それを「入」と名づけるのです。仏がこの原因を説かれたのは、声聞・縁覚の二乗の有学・無学、および初地以前の者たちが、初地以上の不退転の地を証し、変易の生に入って種智の原因を修め、智の本性を観察して仏の二つの果に入るためです。この四つの意味を述べれば、仏が世に出られたのは、衆生に二つの障りを断ち尽くさせ、仏の菩提と涅槃の知見を開かせ、清らかな証りを得させ、二つの無上を称えて欣求させるためであり、法身の同等なることを示して証させようとし、知らないところを悟らせ、ただ一仏乗の智のみであることを修め生じさせようとし、すでに仏果の菩提と涅槃の殊勝な体性を明らかにし、あわせてその原因を明らかにして、そこへ趣き入らせるためです。つまり仏が世に出られた本意は、一乗の果と因とを説き、すべての衆生に因を修め果を証して、みな仏とならせるためであり、そのほかのためではありません。先に智慧と智慧門を称えたのは、すなわち一乗の教えと理であり、今、行と果を説くのですから、総じて一乗の四つの法を説くものを法華と名づけると知るべきです。あるいは不退とは、八地以上では修行が退かないからであり、諸論が変易の生を受けると説いているからです。二乗が心を回向してもまだその地に至らないとはいえ、三乗ともに同じく、後に必ず分段死を出て変易の生に入ることが決定しているので、このように説くのです。また二乗の者は煩悩が不退であり、三大劫を経てともに不退地と名づけます。また一乗の者は一乗を修行し、信じることも位も証りも行も、今この中ですべて入らせるので、ともに不退と名づけます。あるいはこの果と因の一乗の実体は、前に説いた諸仏の智慧であり、その智慧門は前に説いた三乗の方便の教えであり、二乗の者に方便を捨てて実を取らせ、一乗の因を行じて一乗の果に趣かせる、これがこの本意です。
上來所說總別果因以解四種,准下三世佛法之中,不說初開,唯說示、悟、入,故知但應如此說善,示悟別顯二果已周,不假標故,舉此二種攝佛一切有為無為萬德盡故。此〈方便品〉法說一乘唯為上根,由此通辨若因若果菩提涅槃以為一乘。〈譬喻品〉中為中根者但說於悟,牛車菩提智德一乘,由唯迷因智不迷因理、果智理故。〈化城喻品〉為下根者但說於示,寶所涅槃斷德一乘,由迷果理不迷果智,因理智故各隨所宜斷除彼障,令其進入偏說一乘,或為中下互說因果智理二門,影顯令解。唯此一品通明因果覺寂一乘,理義周備,故本論中具解此品,餘品但總釋其大意不異此故,若解此品便解一部矣。然勘下文,牛車在果,即是菩提,下文但明因中之智,三乘乘此至道場故。又理雖然,諸經論中多說涅槃理性智慧以為一乘,一乘本故如《無量義》。
以上に説いてきた総別の果と因によって四種を解釈するにあたり、下の三世の仏法の中に照らし合わせますと、初めの「開」は説かれず、「示」「悟」「入」だけが説かれています。ですから、ただこのように説くのが善いのであり、「示」と「悟」は別々に二つの果を明らかにし、すでに円満であるため、改めて標す必要はありません。この二種を挙げれば、仏の一切の有為・無為の万徳をことごとく摂めることになるからです。
この〈方便品〉では、法説の一乗はただ上根の者のために説かれています。これによって、因であれ果であれ、菩提と涅槃を貫いて一乗とすることを明かしています。〈譬喻品〉では、中根の者のためにただ「悟」だけが説かれ、牛車の菩提・智徳の一乗が示されます。迷うのは因の智だけであって因の理に迷うのではなく、果の智と理についても同じであるからです。〈化城喻品〉では、下根の者のためにただ「示」だけが説かれ、宝所の涅槃・断徳の一乗が示されます。迷うのは果の理だけであって果の智に迷うのではなく、因の理と智についても同じであるからです。それぞれの宜しきに従って、その障りを断除させ、彼らをして一乗に入らせるために、偏に一乗を説き、あるいは中根と下根のために互いに因と果、智と理の二門を説いて、影のように照らし出して理解させるのです。
ただこの一品だけが、因と果、覚と寂の一乗を貫いて明らかにし、理と義が円満に備わっています。それゆえ本論の中でもこの品を詳しく解釈し、その他の品についてはただその大意を総じて解釈するにとどめています。この品と異ならないからです。もしこの品を理解すれば、一部の経典をすべて理解したことになります。
しかし下文を調べますと、牛車は果にあり、すなわち菩提です。下文ではただ因の中の智だけを明らかにし、三乗がこの智に乗って道場に至るからです。また理はもとよりそうですが、諸々の経論の中では、多く涅槃の理性と智慧を一乗と説いています。一乗の根本であるからです。『無量義経』のように。
第二解云,今此四義總依佛性法身智體以為一乘。《涅槃經》言:「大事者所謂佛性。又畢竟有二:一莊嚴畢竟,二究竟畢竟。莊嚴畢竟者謂六波羅蜜,究竟畢竟者一切眾生所得一乘,一乘者即是佛性,以是義故我說一切眾生悉有佛性、悉有一乘,無明覆故不能得見。」故知佛性即是知見,即是一乘。說諸眾生悉有佛性名之為開,曲宣分別名之為示,此是法佛性、此是報佛性、此是因性、此是緣性、此是理性,此是行性、此是善根人性、此是不善根人性,此等名示。故《涅槃》云:「如貧女舍內多有真金之藏,家人大小無有知者,時有異人善知方便,乃至即於其家掘出真金之藏,女人見已心生歡喜生奇特想宗仰是人。善男子眾生佛性亦復如是,一切眾生不能得見,如彼金藏貧女不知。善男子我今普示一切眾生所有佛性,善方便者即是如來,貧女即是一切無量眾生,真金藏者即佛性也。」種種分別令其生解名之為悟,勸物起修令其入證名之為入。若依此解,〈譬喻品〉中牛車各與,吾為汝造,便非此義。
第二の解釈によれば、この四つの意味はすべて、仏性・法身・智慧の本体に基づいて一乗とするものです。
『涅槃経』にこう説かれています。「大事とは、いわゆる仏性のことである。また、畢竟には二つある。一つは荘厳畢竟、二つは究竟畢竟である。荘厳畢竟とは六波羅蜜をいい、究竟畢竟とは一切の衆生が得る一乗であり、その一乗とはすなわち仏性である。この意味によって、私は一切の衆生にことごとく仏性があり、ことごとく一乗があると説くのである。無明に覆われているために、見ることができないのである。」
ですから、仏性とはすなわち知見であり、すなわち一乗であることがわかります。もろもろの衆生にことごとく仏性があると説くことを「開」と名づけ、詳しく説き分けることを「示」と名づけます。これは法仏性であり、これは報仏性であり、これは因性であり、これは縁性であり、これは理性であり、これは行性であり、これは善根の人の性であり、これは不善根の人の性である、これらを「示」と名づけます。
それゆえ『涅槃経』にこう説かれています。「たとえば貧しい女の家の中に多くの真金の蔵があるのに、家族の者たちは大小ともにそれを知っている者がいない。そのとき、ある異人がいて、方便をよく知っており、やがてその家で真金の蔵を掘り出した。女はこれを見て、心に喜びを生じ、不思議な思いを抱き、この人を尊び仰いだ。善男子よ、衆生の仏性もまたこのようである。一切の衆生は見ることができず、あの金蔵を貧しい女が知らないようなものである。善男子よ、私は今、一切の衆生がもつ仏性をあまねく示すのである。善方便の者とはすなわち如来であり、貧しい女とはすなわち一切の無量の衆生であり、真金の蔵とはすなわち仏性である。」
種々に説き分けて、その者に理解を生じさせることを「悟」と名づけ、人々に修行を起こすよう勧めて、その者を証りに入らせることを「入」と名づけます。もしこの解釈に従うならば、〈譬喻品〉の中で牛車をそれぞれに与え、「私がおまえのために造ろう」とあるのは、この意味ではないことになります。
第三解云,其前三種即依佛果大般涅槃三事解之。《涅槃經》第二卷云:「我今當令一切眾生,及以我子四部之眾,悉皆安住祕密藏中,我亦復當安住是中入於涅槃。何等名為祕密之藏?猶如伊字三點,若並則不成伊,縱亦不成,如摩醯首羅面上三目乃得成伊,三點若別亦不得成。我亦如是,解脫之法亦非涅槃,如來之身亦非涅槃,摩訶般若亦非涅槃,三法各異亦非涅槃,我今安住如是三法為眾生故名入涅槃,如世伊字。」此中意說,梵本伊字上有二點下有一點,似倒品字。並者橫也,謂前後證。縱者竪也,謂有三品。世說縱橫,即此竪、並皆非伊字,三點別安亦非伊字,要三和合不縱不橫亦不離別,和合三點不一不異,如大自在天面上三目,額上有一眉下各一。佛入涅槃亦復如是,摩訶般若者能證之智,如來身者所證法身,解脫者由能證智證所證理法身之時,二障滅盡二死,當來後有不續,更無繫縛,假名擇滅,即是解脫。故《雜集》云「滅諦有三:若能滅、若所滅、若滅性」,即是此三大般涅槃,般若在上為能證道,如額上目,法身、解脫並在其下是所證故,猶如眉下所有兩眼,以智證理令後惑苦皆斷不生名入涅槃,是佛安住祕密之藏,不同二乘智了生空,不是大慧理,但生空無我之理不名法身,雖得惑種及分段死少分不生之假擇滅,不得習氣及智障滅分段、變易二死俱盡之勝解脫,如縱如橫非大涅槃,身灰智滅彼名為入,無現身智何得稱大?佛今不爾故名為大,稱為祕藏。古人有解,但依真如以為三事名大涅槃,便無入義,常住不壞為利有情以智證真,惑苦解脫方名為入,是佛意故,不同二乘無有身智乃名為入。故佛自言「假使烏、角,鵄乃至永入於涅槃」等。今作此解善順彼經,審讀經文當自悉知。摩訶般若即開佛知見,故論說言「除一切智智更無餘事,一切智者證二空智,重言智者證諸有智,此最勝妙故名無上,更無過故」。法身即是示佛知見,故論說言「三乘平等佛性法身無差別故」。解脫即是悟佛知見,二障俱亡二死皆盡是真解脫,二乘唯得一障一死盡滅無餘,不知於此,故論說言「二乘不知真實處故令其悟也」。上來三事即是證入大般涅槃,此必有因更說入義,故論說入示現不退轉地與無量智業也。佛出於世欲令三乘有情皆修不退地業,安住祕密藏、入大涅槃,不為餘也。此與涅槃名字雖殊、體性無別,一切皆欲行因證入佛果位故。若作此解,既契化城之趣寶所,亦合火宅之御牛車,一乘體德既曰大般涅槃,法報二身正覺之與圓寂,一一總攝周備,亦何理而不彈?今此三解,唯取所詮智慧名曰一乘,能詮之教門即次前說也。隨宜所說意趣難解故,又以蓮華喻於妙法,必兼開敷之與秀出,果秀因敷亦無乖爽。然《勝鬘》等經及此下文多說真理以為一乘,乘之本故,實通二種,於義苞盡。開示悟三明佛果乘,入之一種明佛因乘,因乘雖通三無數劫,今此唯取第二劫後,論說令證不退位故,《楞伽經》中十地分為三種意生身故,如別章說。又後品言聲聞、緣覺、不退菩薩乘此寶乘直至道場。《勝鬘經》言:「無明為緣、無漏業因,有阿羅漢、辟支佛、大力菩薩三種意生身生。」初地已前實居三界分段死中、未出火宅,猶在門中當為燒故,不與一乘之名;或八地後名不退地。《瑜伽論》說八地後為意生身故,得決定故。
第三の解釈によれば、先の三種は仏果である大般涅槃の三つの事柄に拠って解釈されます。
『涅槃経』第二巻にこう説かれています。「私は今、すべての衆生、および我が子である四部の衆を、ことごとく皆、秘密の蔵の中に安住させよう。私自身もまたその中に安住して涅槃に入ろう。何を秘密の蔵と名づけるのか。それはちょうど伊の字の三点のようなものである。並べれば伊の字にならず、縦にしても成り立たない。摩醯首羅の顔にある三つの目のようにして、はじめて伊の字となる。三点がもし別々であっても、また成り立たない。私もまた同様である。解脱の法もまた涅槃ではなく、如来の身もまた涅槃ではなく、摩訶般若もまた涅槃ではなく、三つの法がそれぞれ異なるのもまた涅槃ではない。私が今この三つの法に安住するのは、衆生のためであるから、入涅槃と名づけるのであり、世間の伊の字のようなものである。」
ここで意図して説かれているのは、梵本の伊の字は上に二点、下に一点があり、ちょうど逆さにした品の字のようです。並とは横のことで、前後の証をいいます。縦とは竪のことで、三つの段階があることをいいます。世間でいう縦横、すなわちこの竪と並は、いずれも伊の字ではありません。三点を別々に置くのもまた伊の字ではありません。要するに三つが和合して、縦でもなく横でもなく、また別々に離れることのない、和合した三点は、一でもなく異でもなく、大自在天の顔の三つの目のように、額に一つ、その下にそれぞれ一つあるのです。
仏が涅槃に入るのもまた同様です。摩訶般若とは能証の智慧であり、如来の身とは所証の法身です。解脱とは、能証の智慧が所証の理である法身を証する時、二つの障害が滅し尽くし、二つの死において、未来の后有が続かず、さらに繋縛がなくなることを、仮に択滅と名づけるのであり、これがすなわち解脱です。それゆえ『雑集』に「滅諦に三つがある。能く滅するもの、所の滅、滅の性である」と説かれているのは、すなわちこの三つが大般涅槃です。般若は上にあって能証の道であり、額の上の目のようです。法身と解脱はともにその下にあり、所証であるから、ちょうど眉の下にある二つの目のようです。智慧をもって理を証し、後の惑と苦をことごとく断じて生じさせないことを、涅槃に入ると名づけます。これが仏が秘密の蔵に安住するということです。
二乗が智慧をもって生空を了知するのとは異なり、これは大慧の理ではありません。ただ生空無我の理だけでは法身とは名づけません。惑の種と分段死の少分が生じないという仮の択滅を得ても、習気と智障が滅し、分段・変易の二死がともに尽きるという勝れた解脱は得られません。縦や横のようなもので、大涅槃ではないのです。身は灰となり智は滅する、それを入と名づけますが、現身と智がなければ、どうして大と称することができましょうか。仏は今そのようではないので、大と名づけ、秘密蔵と称するのです。
古人の解釈では、ただ真如に拠って三つの事柄とし、大涅槃と名づけるだけで、入の意味がありません。常住不壊で有情を利するために智をもって真を証し、惑と苦から解脱するのをはじめて入と名づけるのです。これが仏の意図であるから、身と智のないのを入と名づける二乗とは異なります。それゆえ仏みずから「たとえ烏や角、鵄などが、ついに永く涅槃に入るとしても」などと説かれているのです。今このように解釈すれば、よくあの経に順います。経文をよく読めば、おのずとすべて理解できるでしょう。
摩訶般若はすなわち仏の知見を開くことであり、それゆえ論に「一切智智を除いて、さらに他の事はない。一切智者とは二空を証する智であり、重ねて智者というのは諸有を証する智である。これは最も勝れ妙なるがゆえに無上と名づけ、さらに過ぎたるものがないからである」と説かれています。法身はすなわち仏の知見を示すことであり、それゆえ論に「三乗平等にして仏性・法身に差別がないからである」と説かれています。解脱はすなわち仏の知見を悟ることであり、二障がともに亡び二死がことごとく尽きるのが真の解脱です。二乗はただ一障と一死が尽きて無余になるだけを得て、このことを知りません。それゆえ論に「二乗は真実の処を知らないから、それを悟らせるのである」と説かれています。
以上三つの事柄はすなわち大般涅槃に証入することです。これには必ず因があるので、さらに入の意味を説けば、それゆえ論に「入を示現して不退転地と無量の智業を与える」と説かれています。仏が世に出られたのは、三乗の有情が皆、不退地の業を修め、秘密蔵に安住し、大涅槃に入ることを望まれたからであり、他のためではありません。これは涅槃と名前は異なっても、体性に別はなく、すべて皆、因を行じて仏果の位に証入することを望むからです。
このように解釈すれば、すでに化城から宝所へ趣く趣旨にかなっており、また火宅から牛車に御するのにも合致します。一乗の体徳がすでに大般涅槃といい、法身と報身の二身、正覚と円寂が、一つ一つ総摂して周備しないものはなく、またどのような理であっても弾斥されることがありましょうか。今この三つの解釈は、ただ所詮の智慧を取って一乗と名づけるだけで、能詮の教門はすなわち先に述べたとおりです。
機宜に随って説かれたものは意趣が解しがたいので、また蓮華をもって妙法に喩えます。蓮華は必ず開敷と秀出とを兼ね備えています。果は秀出し、因は開敷する、これもまた食い違いはありません。しかし『勝鬘』などの経やこの下文には多く真理を説いて一乗としています。乗の本であるから、実際に二種に通じ、義においてすべてを含み尽くします。開・示・悟の三つは仏果の乗を明かし、入の一つは仏因の乗を明かします。因の乗は三無数劫に通じますが、今ここではただ第二劫以後を取るのは、論に「不退の位を証させんがために」と説かれているからであり、『楞伽経』の中で十地を三種の意生身に分けるからです。これは別章で説く通りです。
また後の品に「声聞・縁覚・不退の菩薩はこの宝の乗に乗って直ちに道場に至る」とあります。『勝鬘経』に「無明を縁とし、無漏の業を因として、阿羅漢・辟支仏・大力の菩薩という三種の意生身が生じる」と説かれています。初地より前は実際に三界の分段死の中にあり、まだ火宅を出ず、なお門の中にあって焼かれようとしているので、一乗の名を与えません。あるいは八地以後を不退地と名づけます。『瑜伽論』に八地以後は意生身であると説かれているからであり、決定を得るからです。
問:
質問です。
二乘無學羊鹿果位亦居分段,應在門中如小菩薩,應非出宅?
二乗の無学である羊鹿の果位もまた分段に住んでいるので、門の中にいるはずであり、小菩薩と同じように、宅を出ているのではないでしょうか。
答:
答:
談其分段應非出宅,餘依永滅已得涅槃名居門外,不同於彼。
その区分について述べれば、すでに家を出ているのではなく、他のものはすでに永遠の滅を得て涅槃に至っているので、門の外にいるとは名づけられず、かの者たちとは異なります。
問:
質問です。
何故二子趣於牛羊鹿稱出宅,大子趣於牛菩薩未出宅?
なぜ、二人の子供は牛・羊・鹿にたとえられて家を出ると言われるのに、長男は牛にたとえられながら、菩薩はまだ家を出ていないのでしょうか。
答:
答:
二乘惑種盡得滅稱出宅,初劫惑猶行,如何稱出宅?又七地分段盡此一生亦名出宅,二乘同故。已前即非,猶多生故,如有學類,故出宅已方上牛車。然此經文初開之中初總標勝致,使得清淨之言;後三別顯,故略不說。
二乗は惑の種を尽くして滅を得たことをもって家宅を出たと称しますが、初劫では惑がなお働いています。どうして家宅を出たと称することができるのでしょうか。また七地では分段の生死が尽き、この一生をもって家宅を出るとも名づけますが、二乗も同じであるからです。それ以前はそうではなく、なお多くの生があるからです。学ある者たちの場合のように、家宅を出てから初めて牛車に上るのです。しかしこの経文では、初めの開のうち、初めに総じて勝れた趣旨を標し、清浄を得しめるという言葉を置き、後の三は別に顕すため、省略して説かないのです。
經「舍利弗(至)出現於世」。
経の「舎利弗よ、(〜に至るまで)世に出現した」とあります。
贊曰:第三結也。
讃えて言います。第三の結びです。
經「佛告舍利弗(至)示悟眾生」。
経の「仏、舎利弗に告げたまわく、(…に至る)、衆生に示し悟らしむ」まで。
贊曰:此釋於前有何意況?眾生身中悉有佛性,故所教化但化菩薩,所為所作常為此事,唯以佛之知見示悟眾生。論第二番釋示悟入云:「又示者,為諸菩薩有疑者,令知如實修行故。謂有菩薩疑無佛性不肯修行,今示所化但化菩薩,令知三乘同有佛性,斷彼疑故如實修行。又悟入者,未發菩提心者令發心故,此解悟義;已發心者令入法故,此解入義,明因果盡。」又重釋悟入云「悟者令外道眾生生覺悟故,復入者令得聲聞果入大菩提故,迴邪入正捨權取實故。」
賛えて曰く、この解釈は前に対してどのような意味があるのでしょうか。衆生の身中にはことごとく仏性があるため、教化される対象はただ菩薩のみであり、なすところ・行うところは常にこの事のためにあり、ただ仏の知見をもって衆生に示し悟らせるのです。
論の第二番目の解釈で示・悟・入を説明して云います。「また示とは、諸の菩薩に疑いのある者のために、如実に修行することを知らせるためです。すなわち、仏性はないのではないかと疑い、修行しようとしない菩薩があるので、今、教化される対象はただ菩薩のみであることを示し、三乗が同じく仏性を有することを知らせ、その疑いを断たせて如実に修行させるのです。また悟・入とは、まだ菩提心を発していない者に発心させるためであり、これが悟の意味の理解です。すでに発心した者を法に入らせるためであり、これが入の意味の理解であり、因果を明らかにし尽くすのです。」
また重ねて悟・入を解釈して云います。「悟とは、外道の衆生に覚悟を生じさせるためです。また入とは、声聞の果を得させて大菩提に入らせるためです。邪を巡らして正に入らせ、権を捨てて実を取らせるためです。」
妙法蓮華經玄贊卷第三(末)
妙法蓮華経玄賛巻第三(末)
保安三年四月廿三日書了,法隆寺僧覺印之。
保安三年四月二十三日、書き終えました。法隆寺の僧・覚印によるものです。
同年十月廿六日移點已了,以興福寺圓如房本為之,以為令法久住。覺印之東北院讀本,點本、校點又了(云云)。
同年十月二十六日、移点が完了しました。興福寺の円如房の本によってこれを行い、法が久しく住続することを願ってのことです。覚印の東北院読本、点本、校点もまた完了しました(云々)。