No. 470-A小引
第470-A号 小序
其金剛經三十二分,皆釋迦佛與諸弟子問答之謂也。流傳中國,僧俗諷誦者益廣,每日敬誦,不提正念,惟圖多數而紀功蹟,不知金剛二字包含意味無窮焉。夫金性剛堅,煆煉不損,是由喻於人之性也,長存如在,永劫不磨,雖去而復來,雖來而復去,往往來來,何日是了?不識修持,應無所住,何得正道無去無來耶?故儒曰:天命之謂性,皆識其中。又曰:中者,天下之正道也。知其中正之道,識其金性之剛堅。予幼失怙,少學不敏,甫時時齡,毋志栢舟。今逾四十六載,耆年七十有五,每思老母操持苦節,報恩何及?(予)因家貧,客遊天津,幸逢明師諭我精持齋戒,方能報本,是即惺然頓發鄙志,領受諭言。誠至齋戒,指我迷津,纔明真性,報母之願有期矣。何以明其真性?所云金剛二字,信其性然。是年冬初,客旋姑蘇,夏、林二君過訪,袖出金剛鐵鋑,錎解視予,玩味深遠,句句在正,字字合中,是以復梓行世。凡誦金剛經者,必須細閱根由,方明出世之因,真為手鏡之用也云耳。
この『金剛経』三十二分は、すべて釈迦仏と諸弟子の問答を記したものです。中国に伝わり、僧俗を問わず読誦する者がますます広まり、毎日敬虔に誦するものの、正しい心を保たず、ただ回数を多くして功績を記録することのみを図り、「金剛」という二字が含む意味の無限なることを知りません。そもそも金の性質は剛く堅く、鍛えても損なわれない。これは人の本性に喩えられるもので、常に存在し、永遠に滅びることがなく、去ってはまた来たり、来てはまた去り、行き来を繰り返すばかりで、いつの日か終わりがあるでしょうか。修持を識らず、住むところなく、どうして正道に至り、去ることも来ることもない境地を得られましょうか。故に儒教では「天命これを性という」と言い、皆その中を識ります。また「中とは、天下の正道である」と言います。その中正の道を知り、その金の性質の剛堅さを識るのです。
私は幼くして父を失い、若い頃の学びも敏速ではなく、わずかな年齢で母は柏舟の志を抱きました。今や四十六年を経て、七十五歳の高齢に至り、老いた母が苦節を操って家を支えたことを思うと、その恩にどう報いればよいのでしょうか。家が貧しかったため、私は天津に客遊し、幸いにも明師に巡り会い、精進して斎戒を守ることによって初めて本源に報いることができると諭され、ここに至ってわが志がはっきりと発し、その教えを拝受しました。誠心誠意斎戒を守り、迷いの津を指し示され、ようやく真の本性を明らかにし、母に報いる願いも叶う時が来ました。どうしてその真の本性を明らかにするのでしょうか。いわゆる「金剛」という二字を信じ、その性がそうであると知るのです。
この年の冬初め、私は客として蘇州に戻り、夏、林の両君が訪ねて来られ、袖から金剛鉄鋑を取り出し、解きほぐして私に見せてくださいました。その味わいは深遠で、句句は正に在り、字字は中に合い、それゆえに再び版を起こして世に行うことにしました。凡そ『金剛経』を誦する者は、必ずその根拠と由来を細かく読み、初めて出世の因縁を明らかにし、真に手鏡として用いることができると言えるでしょう。
順治戊子端月朔日柯山一止居士龔泰瑞麟生父沐手謹識
順治五年(一六四八年)一月一日、柯山の一止居士、龔泰瑞麟生父が手を清めて謹んで記す。