欽定四庫全書 子部十三
欽定四庫全書 子部十三
法藏碎金錄 釋家類
法蔵の金屑録 釈家類
提要
要約
(臣)等謹案法藏碎金錄十卷宋晁迥撰迥字明遠澶州清豐人其父始徙家彭門太平興國五年登進士第至道末擢右正言直史館知制誥旋為翰林學士加承旨天禧中判西京留司御史臺以太子少保致仕卒諡文元迥受學於王禹偁以文章典贍擅名而性躭禪悅喜究心內典是編乃天聖五年退居昭德里所作皆融會禪理隨筆記載蓋亦宗門語錄之類其曰碎金取世說新語謝安碎金義也孫覿謂其宗向佛乘以莊老儒書彚而為一蓋嘉祐治平以前濂洛之說未盛儒者沿唐代餘風大抵歸心釋教以范仲淹之賢而手製疏文請道古開壇說法其他可知迥作是書蓋不足異南宋初年迥五世孫公武作郡齋讀書志乃附載迥道院集後列之別集門中殊為不類殆二程以後諸儒之辯漸明公武既不敢削其祖宗之書不著于錄又不肯列之釋氏貽論者口實進退維谷故姑以附載回護觀其條下所列僅敘迥仕履始末行誼文章而無一字及本書其微意盖可見矣然自阮孝緒七錄以後釋氏之書久已自為一類歷朝史志著錄並同不必曲為推崇亦不必巧為隱諱今從陳振孫書錄解題入之釋氏類中存其實也其書傳本頗稀明嘉靖乙巳迥裔孫翰林院檢討瑮始從內閣錄出鋟板以行改其名曰迦談殊為無謂今亦仍迥原名以著于錄焉乾隆四十二年五月恭校上
臣らは謹んで案ずるに、『法蔵碎金録』十巻は、宋の晁迥の撰である。迥は字を明遠といい、澶州清豊の人である。その父の代に初めて彭門に移り住んだ。太平興国五年に進士に及第し、至道の末年に右正言・直史館・知制誥に抜擢され、まもなく翰林学士となり、承旨を加えられた。天禧年間に西京留司御史台を判じ、太子少保をもって致仕し、卒して文元と諡された。迥は王禹偁に学び、文章の典雅豊麗をもって名を馳せたが、性来、禅悦に耽り、内典を究明することを好んだ。この編は天聖五年に昭德里に退居して作ったもので、いずれも禅理を融会し、随筆に記載したもので、これもまた宗門語録の類である。その名を「碎金」とするのは、『世説新語』の謝安の碎金の故事に取ったものである。孫覿は、その宗向が仏乗を本とし、荘子・老子・儒書を合わせて一つにしたと評している。蓋し、嘉祐・治平以前は、濂洛の学説がまだ盛んでなく、儒者は唐代の余風を沿って、大抵は釈教に帰心していた。范仲淹のような賢人でさえ、自ら疏文を手製して道古に壇を開き説法を請うたほどで、他の者は推して知るべしである。迥がこの書を作ったのは、蓋し異とするに足らない。南宋の初年、迥の五世の孫である公武が『郡斎読書志』を作ったとき、乃ち『道院集』の後に附載し、別集門の中に列したのは、甚だ類を同じくしない。殆ど二程以後、諸儒の弁が次第に明らかになり、公武は既にその祖宗の書を削って録に著さずとも敢えず、また釈氏の列に置いて論者の口実を貽すことも肯んぜず、進退窮まって谷に至ったので、姑く附載をもって回護したのであろう。その条下に列挙されたものを見ると、僅かに迥の仕履の始末と行誼・文章を叙して、一字も本書に及ぶところがなく、その微意は蓋し見ることができる。然るに、阮孝緒の『七録』以後、釈氏の書は久しく自ら一類をなしており、歴朝の史志の著録も並びに同じである。曲ってこれを推し崇める必要もなく、巧みにこれを隠し諱る必要もない。今、陳振孫の『書録解題』に従って、これを釈氏類の中に入れ、その実を存する。その書の伝本は頗る稀で、明の嘉靖乙巳年に、迥の裔孫である翰林院検討の瑮が始めて内閣から録出し、鋟板して世に行い、その名を『迦談』と改めたのは、甚だ謂れのないことである。今も亦た仍って迥の原名に従って、以て録に著す。乾隆四十二年五月、恭しく校して上る。
總纂官(臣)紀昀(臣)陸錫熊(臣)孫士毅
総纂官(臣)紀昀(臣)陸錫熊(臣)孫士毅
總校官(臣)陸費墀
総校官(臣)陸費墀