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三弥底部論 (三彌底部論)


三彌底部論卷中

三彌底部論 巻の中

失譯人名今附秦錄

訳者不明、現在は秦録に付す

如諸部前所說,人是常,無本故,如是。我等今說。

諸部が先に説いたところによれば、人は常住であり、本がないからです。そのとおりです。私たちは今、説きます。

若無本成常,生死無本亦應是常。此言不應,人無本不可說,如是。

もし本として成じた常が無いのなら、生死も本が無いので、やはり常であるはずです。この言葉は正しくありません。人が本を持たないということは説けません。そのとおりです。

如諸部前所說,人是常,憶過去世故,如是。我等今說。

諸部が先に説いたように、人は常住であり、過去世を憶念するがゆえです。そのとおりです。私たちは今、説きます。

若我定異陰者,陰壞時人不滅,應憶過去世時事。只應此人,不應有異人,而輪轉生死無斷絕時。此語不應,如是。

もし私の定が五陰とは別のものであるなら、五陰が壊れる時にも人は滅びず、過去世の出来事を思い出すはずです。ただこの人だけが存在し、別の人がいるはずもなく、しかも生死を輪転して断える時がないということになります。このような言葉は成り立ちません。そのとおりです。

如諸部前所說,人是常,說處故,如是。我等今說。

諸部が先に説いたように、人は常であり、説处のゆえに、そのとおりです。私たちは今、説きます。

斷苦流滅故,至有餘涅槃故,身猶存住,名之度彼岸住。婆羅門至無餘涅槃,既至得無餘涅槃故,是佛所說。是故不說人常,如是。

苦の流れを断ち滅ぼしたので、有余涅槃に至ったので、身体はなおもとどまっていますが、これを彼岸に渡りきって住する、名づけて度彼岸住といいます。婆羅門が無余涅槃に至り、すでに無余涅槃を得ることに至ったので、これは仏の説かれたところです。それゆえ、人が常であるとは説かれません。このとおりです。

如諸部前所說,人常到,不動樂故,如是。我等今說。

諸部が前に説いたところによれば、人は常に到り、動かない楽のゆえに、そのようであります。私たちは今、説きます。

得無餘涅槃時,便至不動樂。若人常者,不生不死如涅槃,不生不死身亦不異,其智慧在所處處亦不異,食不食、苦樂無異常故。過去時事不忘,常故無變異,亦無縛無解,是故人常。此語應遣,如是。

無余涅槃を得た時、そのまま不動の楽に至ります。もし人が常であるならば、生まれず死なず、涅槃のようです。生まれず死なずであれば、身もまた異ならず、その智慧も、どこにありどこにあってもまた異なりません。食しても食さなくても、苦も楽も異ならないのは、常であるからです。過去の出来事を忘れないのは、常であるから変異がないためです。また縛りもなく解きもなく、それゆえ人は常です。この言葉は退けるべきです。そのとおりです。

如諸部前所說,人無常,有本故,如是。我等今說。

諸部で先に説かれたとおり、人には無常があり、本があるからです。そのとおりです。私たちは今、説きます。

有漏起故是名說人,以是故不可言陰與人異,是故人起不可說。以是假說,即答解前次佛說新等故。

有漏が起こるため、これを説いて人と名づけます。それゆえ、陰と人は異なると言うことはできません。したがって、人の起こることは説くことができません。この仮説によって、前回の仏の説かれた新しいことなどに答えて解説します。

若人無常者,眾生輪轉所作善惡業壞,不作善惡業自來,無先因故。一切眾生悉應一種,不造業應,解脫者不由業自成。既不由業自成,功德無所為,先世時生亦無可憶。是故人無常,此語應遣。

もし人が無常であるならば、衆生が輪転して行う善悪の業は壊れてしまい、善悪の業を行わなくても自然に生じることになり、先行する原因がないことになります。すべての衆生は皆同じ一種となるはずであり、業を造らなくてもよく、解脱する者も業によらずに自ずから成るということになります。すでに業によらずに自ずから成るのであれば、功德もなすところがなく、前世の時世に生まれたことも思い出すことができません。したがって、「人は無常である」というこの言葉は退けられるべきです。

以是假說,即答解前次倒法故、落生故、生老病死法、人無常故,如是。

この仮説によって、先ほどの倒れる法、生まれる法、生老病死の法、人が無常であることについての問いに対する答えを解き明かすので、このようになります。

問曰:云何說有人?

問います。どのような理由で「人がいる」と説くのでしょうか。

答曰:佛說有三種人。

答えます。仏は三種類の人がいると説かれました。

問曰:云何三種人?

問います。三種の人とは何でしょうか。

答:依說人、度說人、滅說人(說者亦名安亦名制亦名假名)。

答えます。説人に依り、説人を度し、説人を滅します。(説とは、安とも名づけ、制とも名づけ、仮名とも名づけます。)

問曰:云何依說?

問い:どのように説に依るのでしょうか。

答:如佛所說,語跋婆耶言:是是行所依說,是是其名安。

答えます。仏が説かれた通りに、跋婆耶に語って言いました。これはこれが行の拠り所であると説くことであり、これはこれがその名の安立です。

是名依說,如火譬。如佛語舍利弗:有人名象白淨可愛,四大所成是名我。如是一切亦如乳譬。如是依修多羅等所說,是名依說。

これは依説と名づけます。火のたとえのようにです。仏が舎利弗におっしゃったとおりです。ある人を象と呼び、白く清らかで愛らしいといい、四大によって成り立っている、これを我と名づけます。このようにすべては乳のたとえのとおりです。このように修多羅などに説かれるところに依るものを、依説と名づけます。

如色得色,人得色人不可說,異色色不可說異得,色人依色得名依色人。若人說是色是我,是其色成,名我見。若人說色是我者,以是過五陰人,前所說成,是其過。復言:若人說得色人異色者,名異我見。若人說異我,以是過人異五陰成,是其過。

色を得る人について、色を得た人が色と異なるとも、色と同一であるとも言うことはできません。色と異なるものとして色を語ることも、異なるものとして得ることを語ることもできません。色を得る人は、色に依って名づけられ、色に依って人とされます。もし人が「この色がすなわち私である」と言うなら、その色が成立し、「我見」と名づけられます。もし人が「色がすなわち私である」と言うなら、それによって五陰の人を超えることになり、先に述べたことが成立し、それがその過失となります。また言います。もし人が「色を得る人は色と異なる」と言うなら、「異我見」と名づけられます。もし人が「私と異なる」と言うなら、それによって人と五陰が異なるものとして成立し、それがその過失となります。

得色人相從而已,非是真說。若人說色,得色人相從而已,成其邪見。若邪見者,言無我,以是過前所說成,是其過。以是故,此是三過。

色を得た人がその相に従うだけでは、それは真の説ではありません。もし人が色を説き、色を得た人がその相に従うだけであるなら、それは邪見を成り立たせてしまいます。もし邪見の者が無我と言うなら、それによって先に説いた過失が成り立つのであり、これがその過失です。このようなわけで、これらは三つの過失です。

是故實異邪見,不隨實異、不隨邪見,依色得色人可說。以是故,得色人共色實可說。是故是時色起,是時得色人亦起;是時色滅,是時得色人亦滅,不是不可說。如是五陰、十二門。五道、阿修羅道、中陰,為七道。人生有處,迦羅羅、阿浮陀那、肉團支、新生、童子、年少、中年、老、善惡記心、戒犯戒,如是上一切合不合。依上諸法,是名依說人可知。

それゆえ、実があることと邪見は異なりますが、実があることに従うこともなく、邪見に従うこともありません。色に依って、色を得た人について説くことができます。それゆえ、色を得た人と色の実は共に説くことができます。ですから、この時、色が起こる時には、色を得た人もまた起こります。この時、色が滅する時には、色を得た人もまた滅します。これは説くことができないものではありません。このように、五陰と十二門も同様です。五道に阿修羅道と中陰を加えて、七道となります。人の生には处があり、迦羅羅、阿浮陀那、肉団支、新生、童子、年少、中年、老、善悪記心、戒犯戒といった段階があります。このように、以上すべての合・不合があります。以上の諸法に依って、これを「人に依って説く」と知ることができます。

問曰:云何度說人?

問い:どのように人を説くのですか。

答曰:以是時度異有是時,佛說度眾生。云何度說眾生?過去說、未來說、現在說。云何過去說?

答えますと、このように時が異なることによって、その時があるのです。仏は衆生を済度することを説かれます。どのように衆生を済度することを説かれるのでしょうか。過去に説くこと、未来に説くこと、現在に説くことです。どのように過去に説かれるのでしょうか。

如天使修多羅所說,上啟閻羅:此人先不知父母兄弟等、不知功德、不知善惡等,願教其。如是。

天の使いの修多羅に説かれている通り、閻羅にこう申し上げます。「この人は生前、父母や兄弟などのことを知らず、功德を知らず、善悪なども知りませんでした。どうかお教えください」と。そのとおりです。

如佛所說:我過去世時,曾作頂生王。是名過去說。

仏がおっしゃったとおりです。私は過去世において、かつて頂生王となったことがあります。これを過去の説といいます。

云何未來說?

未来のこととは何でしょうか。

如佛所說:轉輪聖王在中有時,初入母腹如入堂殿。如是。如佛語彌勒:阿逸多!汝後成佛時,名曰慈氏。是名未來說,如是。

仏がお説きになったとおりです。転輪聖王が中有にあるときは、最初に母の胎内に入るとき、堂殿に入るかのように入ります。このとおりです。仏が弥勒にお告げになったとおりです。阿逸多よ、あなたが後に仏となられるとき、その名は慈氏と呼ばれます。これを未来の説と名づけます。このとおりです。

云何現在說?

現在の説とは何でしょうか。

答曰:如佛說,安伽人有耳璫,種種寶飾臂手。如是。

お答えします。仏が説かれたように、安伽の人には耳飾りがあり、さまざまな宝物で腕や手を飾っています。そのとおりです。

如佛所說:大富長者多有財寶大如意。如是。是名現在說。佛依三世行制三說,如是應知。

仏がお説きになった通りです。大富長者には多くの財宝があり、大いに思いのままです。その通りです。これを現在説と名づけます。仏は三世の行に依って三つの説を制定されました。このように知るべきです。

以是行度說,是名度說。

この行度の説によって、これを度説と名づけます。

云何滅說?答:逐依說人、度說人,佛說滅說人。如過去身壞時,是名滅說,如是。

滅についての説き方とは何でしょうか。お答えします。言葉を逐次たどって説く人、人を導いて説く人、仏が滅を説く人です。過去の身が壊れる時、これを滅説と名づけます。この通りです。

如佛所說:漏盡比丘五陰無常滅。是名滅說。如佛說偈言:

仏が説かれたとおりです。漏尽の比丘は五陰の無常が滅することを説きます。これを滅の説と名づけます。仏が偈を説かれたとおりです。

智者莫能測, 得至無動樂。

智慧ある者も測ることができず、動かない安楽に至ります。

是名滅說,如是。見依說、度說,是故說有人。捨五陰生有處,受五陰中間有,如是。

これが「滅」の教えです。このように、「見」に基づく教え、「度」の教えがあるのです。したがって、人が存在すると説くのです。五陰を捨てて生まれる場所があり、五陰を受ける中間の存在があるのです。このように。

見滅說,佛說無復有受陰處。如是。

滅を説くのを見れば、仏はもはや受陰のありかはないと説かれています。そのとおりです。

問曰:為捨五陰滅盡、猶有所餘?

問います。五陰を捨てて滅尽するとき、なお残るものがあるのでしょうか。

答曰:何所疑?曰:見先師意互相違,故生疑。有諸部見五陰一邊,從此有往彼有,如是。何以故?識上生故。

答えていいます。何を疑っているのでしょうか。いいます。先師の意図が互いに矛盾しているように見えるので、疑いが生じました。ある部派は五陰の一辺を見て、ここからあちらへ往き、あちらに有ると考えます。そのとおりです。なぜでしょうか。識の上に生じるからです。

佛言:是人識戒熏定熏,是其識上生勝處。佛復說偈言:

仏がおっしゃいました。「この人は戒の熏と定の熏を識っており、その識の上に勝れた處が生じます。」仏はさらに偈を説かれました。

善惡二種業, 是業人世造,
是業是其物, 自捉自隨去。
麁陰是惡業, 細陰是善行,
善惡二俱造, 隨捉逐業往。

善と悪の二種の業は、 人がこの世で造るものです。 その業はその人につきまとうもので、 自ら捉え、自らに従って去っていきます。 粗い陰は悪業であり、 細かい陰は善行です。 善悪の二つをともに造れば、 捉えた業に従って追いかけられながら往くのです。

是人往生,其受根義,是以故其度,天眼人見其度。

その人は往生し、その受ける根の義によって、その度を定めます。天眼を持つ人々はその度を見ます。

如佛語比丘:我見眾生落生,如是一切。是故諸部見五陰一邊,從此有往彼有,如是。

仏が比丘たちにおっしゃったとおりです。私は衆生が生に落ちてゆくのを見ます、これらすべてを。ですから諸部は五陰の一邊を見て、ここからあちらへと有り、そのようであります。

又諸部說人,如是。從此有往彼有,非是陰。何以故?佛說偈故。

また諸部は、人がこのように、ここからあの有へと赴くと説いています。これは陰ではありません。なぜでしょうか。仏が偈を説いているからです。

佛說偈言:
生世樂歡喜, 異世樂欣然,
作福二處歡, 自見其淨業,
護根往善道, 不護墮惡道。
佛復說言:此死落生如是。是故,如諸部見人如是,從此有往,彼有非陰。如是。
又諸部說無人,從此有度彼有。何以故?如佛言新天人,人見如是。
佛復說言:是是行行所依,是是受其名,如火依薪受其名。如是。
佛復說:一切德人生世間,多人受安樂。如是。前世已生不復更生,是故無人捨此度彼有,是故生疑。
曰:前所問為捨五陰滅盡、猶有所餘。今若捨五陰,五陰無遺餘,從此有度彼有。如佛說偈言:
棄捨此人形, 受天身具足。
如佛說,人無財寶,一切捨,隨所往。如是。如佛說臨死時,捨其身,獨自去。在世之時言皆是我有,臨死之時一切捨、獨自去。戒定熏心,藉此善業上生,是故佛說善心而已。上生勝處,是故捨五陰滅盡,往彼勝處,依業不滅。佛說偈言:
是業是其物, 自捉自隨去。
中陰根故,往生彼處,受根義行中陰處,天眼見中陰色。
如諸部說五陰一邊,從此有往彼有,是故捨此語。如是。
前所說,如是人從此有往彼有,唯人而已。若爾者,應至道實異無往。若實異,若常若不常,成邪見。如前所說,實異常不常,成邪見遮。以是故人共陰實異不可說,是故是人而已,往生處不可說,如是。
問曰:云何人身滅時五中有起?
答曰:人欲滅時、中有起時,依五中有,是名五中有人可說。逐過去說、依度說,人可說。以是故不依人,是故不依義,不是人可說。如是見法念滅念滅不滅行,念念是名佛說,應當知。以是故捨五陰身都盡,人從此有度彼有,是故說有人捨五陰生有處,受五陰中間有,如是。
問曰:為前受五中陰處,後捨人五陰?答曰:不如。若如所問,生成有間。若生成有間者,聖人滅應更受有,不成滅四取。若陰與人別,是所不應,如是。
問曰:為先捨人五陰,受五中陰身?答曰:不如。若如所問,一人一念中便應成兩種有。是所不應,如是。
問曰:今者云何捨人身受五中陰身?為一時而受、為不一時?
答曰:是一時。問曰:云何?
答曰:人臨死時,最後一念心現起時,中陰心未起;最後一念心滅時,中陰心方起。中陰心起時,成五中有人,是故說捨人陰受中有。何以故中陰心起時成?從人中落,中間有處成時,心住是處時,是名落生。是故相應時應當知。有人捨五陰生有處,受五陰中間有,如是一切。曰:當說我今。
問曰:陰有源本不?而從陰次第生至今,為有本、為無本?如是。曰:何所疑?
答曰:佛語比丘,生死無本,眾生輪轉。生死源本不可知。如是。為無實故不可知、為有實故不可知?如十二門說:有,十三門實無故不可知、為無智不可知?何以故?無色界人,餘二界人無智故不知。如世界成不成,直置不可答。有展轉源本是初,有可說。是故我等生疑。
問曰:人前生源本不可知,為實有、為實無?若有知見可說。
答曰:實有不可知。何以故?譬如實有物覆故不可知,亦如一毫微塵細故不可知,又如地曠故不可知,亦如眼皮極近眼故不可知,又如海岸極遠故不可知。復如眼根弱故不可知,如髮毫端亦如芥子聚。以一芥子投聚中,色相似故不可知。又如恒河流水,以一把鹽投河中,淡水力多故鹽不可得。亦如寶物在壁內,隔障故不可見。亦如鬼神隱形故不可見。如無知人不知命所餘,故不可知。如寶物在壁障隔等,實有不可知。如是人源本,實有不可知,如是。
難曰:從此源本,若塵及毫端等,實有不可知者;餘人見,如天眼見毫端。
又如地曠邊際,唯天眼者見。復如眼皮自不見,近其者見。如海岸不可知渡,到者見。如髮毫端,明眼者見。以一芥子投芥聚中,明眼者見。恒河水以一把鹽投之,唯魚近其邊知。覆障財寶,天眼者見。隱形鬼神,唯同類見,有方術人見。餘命不可知,他心智人見,如是。上所說一切有,言不可見不可知,然一切可知可見。源本無人知,是故如覆障寶物等,實有不可知非因。復說實有不可知。何以故?無能測量故。如雪山實有不可稱量。何以故?無能測量故。
難曰:若為知雪山稱量實有不可知?答曰:見雪山石有量數挍略,雪山稱量實有可知,是故無能測量不可知。難曰:若挍略可知,此非知。但挍略知,非稱量實知,便成無明。
又問曰:不實故,稱量不可知。
答曰:不實不可知。何以故?如修多羅中所說故。佛言:物不實處無知聲。
如佛語比丘:如酥油燈滅,其灰其墨不可知。如是須彌、大海、大地,劫盡火劫起時,一切燒蕩盡,其塵其墨不可知。如是。
佛言:源本不可知亦復如是,如酥油燈滅,其墨塵不實有不可知。如是源本不可知,亦復如是。
問曰:如實物,有處佛說不可知聲。
答:如律中所說,若人酒著手若器,此人以手捧器奉上比丘,盛食比丘不知,得食無罪。如是。是故此非因。
又說不實不可知,若源本實有者,佛實智應從彼起,不應說言不可知。以佛說不可知故,是源本不實有。
答曰:此義處不爾,佛實智不從彼起。如世間問常無常等處,佛不答,是故無因。復說不爾故,源本不可知,佛說不可知。若佛直說無源本,成斷見;若佛說有源本,復成常見。此二種,語不應。是不應故,佛說不可知,如是。
問曰:若生死有本者,成常見;若無本者,成斷見。聖人生死本已盡,別本更起,應知而不爾,別本更起者,便成斷見。生死源本不實有不可知。何以故?生死輪轉無窮故。佛語諸比丘:有依愛本不可知,從此起愛謝在過去,從此起愛未來當起,如是一切。以是故,無有愛本。是故生死無實,本不可知。
復次生死常起故,若無生死亦無涅槃。如佛語阿難:有漏五陰滅盡時,是名滅、是名涅槃。
佛又語阿難:涅槃雖滅盡,不無本,以是故生死滅有本。是故生死本不實有,本不可知,如是。
復次因展轉合故。一切人不以我為因本,若以我為因本,生死不盡,是故無本,如是。
復次憶知過去無數世界。如佛所說:過去時若欲知,法識隨起知。以是故,識無數故,境界亦無數,應知亦無數,是故生死無本,如是。
復次生死無本故。若生死有本者,過去生本亦應有,是故不實有過去,生本不可知,如是。
復次有愛展轉故,佛說過去生本不可知。若生死本無者,亦無其名。若無法,不應有名,如是。
答曰:無法無名,無名名不實。雖無名,以無名便是其名,是故有名,故是其不實。如所說,過去源本名實,故源本應實。此語不是。曰:不爾。如所說,無法有名故有實者,有法有名亦應無名不實。何以故?無名故。若爾,無法不實,其名亦不實。實有法,其名亦實有。是故無法之名亦不實。以是故,源生不實,有驗矣。
難曰:若爾,實不實便是不定。不實成實、實成不實,是所不應。
復次有法遮言無,有法無法始顯勝降。實不實可見,以是處無遮,言有是名實,如打物發此聲,此聲無本故,如是。源生可說,如兔角。是故,生死是源本。難曰:若生死無本者,亦無其末,如是無本無末與涅槃無異,是所不應,如是。答曰:是實無本,五陰展轉相生故,是故無常。因展轉,果亦展轉。
問曰:若生死無本者,中末亦無。中末無者,生死亦無。如林無本無末亦無中,便無此林;如是無生死,如是。
答曰:不爾。何以故?如團圓物,無本中末,不無圓物;生死亦爾。
難曰:若團圓物無本中末而有者,無第二未可壞;生死亦爾。
答曰:恐如是生死不滅。如所執,本無故一切法無。此是下執,以前生因展轉故,是故無本。因壞故生死盡,生死壞因亦盡。如是前憶過去無數世界故,是故佛說無源本。若生死源本,陰展轉無本,故成常見。依陰依度,佛說有眾生,如是。
說曰:陰展轉無本者,眾生展轉亦無本。眾生不應展轉。何以故?佛已說生死無本故。
問曰:若生死無本,佛何故說不可知,何不直言無?
答曰:若佛直說無者,不應起三種邪見。三種邪見者,第一我前身曾生不?第二我後更生不?第三我今若為生不?應生疑。以是故佛說不可知,是故佛說應當知。如是。佛說法有二種。何者二種?一為法、二為眾生。
云何為法?如佛所說,源生不可知,有愛本不可知。為法故,說無生死源本可說。云何?為眾生無明覆,眾生輪轉生死,為眾生故說法。眾生輪轉生死,是故佛為說。說曰:如是時法至,其心依度,是時佛說是眾生。
問曰:何故佛說有法源生不可知?
答曰:佛不應為眾生說無源本。
難曰:如是時法依度,是時佛說是眾生。爾時法無常可說,不應說眾生常無常。如是源生可說不可說,可知生死無本驗矣。
三彌底部論卷中

第一
第三

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