阿毘達磨俱舍釋論序
阿毘達磨倶舎釈論序
正教本宗,文唯三藏,梵音所闡,諒無異說。法相深微,名實繁曠,若非圓明獨朗,孰能通達!自日隱頞多之山、月翳羅睺之手,時移解昧,部執競興,或以文釋義、或以義判文,雖復得失參差,皆以三藏為本,可謂殊塗同歸、一致百慮者也。
正しい教えの根本は、その文はただ三蔵にのみあり、梵音によって説き明かされたものは、おそらく異なる説ではありましょうか。法相は深く微細で、名と実は多く広がっています。もし円かに明らかで独り朗らかでなければ、誰が通達できましょうか。
日が頞多の山に隠れ、月が羅睺の手に翳られてから、時は移り解は昧くなり、部派の執着が競い起こりました。あるいは文によって義を解釈し、あるいは義によって文を判じました。得失は参差していても、皆、三蔵を根本としています。まさに殊塗同帰、一致百慮というべきものでございます。
尋十八部,師及弟子並各造論解其所執,於一部中多有諸論,此土先譯薩婆多部,止有《毘婆沙》及《雜心》四卷。《毘婆沙》明義雖廣,而文句來不具足;《雜心》說乃處中,止述自部宗致四卷,過存省略,旨趣難可尋求。此土先譯經部,正有《成實》一論。成實乃以經部駮斥餘師,其間所用或同餘部,又於破立之中,亦未皆盡其妙,且傳譯參差,難可具述。
十八部を尋ねますと、師も弟子もそれぞれが論を作って自らの主張を解釈しており、一部の中に多くの論があります。この国に先に訳された薩婆多部のものは、ただ『毘婆沙』と『雑心』四巻だけです。『毘婆沙』は義を明かすことは広いものの、文句が完全には揃っていません。『雑心』の説は中ほどにとどまり、自部の宗旨を述べる四巻だけであり、省略が過ぎて趣旨を尋ね求めることは難しいものです。この国に先に訳された経部のものは、ちょうど『成実』一論だけです。成実は経部によって他の師を駁斥しており、その間に用いる所はあるいは他の部と同じであり、また破と立の中でも、すべてその妙を尽くしてはいません。そのうえ伝訳が参差としていて、詳しく述べることは難しいのです。
佛滅度後千一百餘年,有出家菩薩名婆藪盤豆,器度宏曠、神才壯逸,學窮文字、思徹淵源,德隆終古、名蓋當世,造大小乘論凡數十部,並盛宣行、靡不宗學。法師德業,具如別傳。先於薩婆多部出家,仍學彼部所立三藏,後見彼法多有乖違,故造此論具述彼執,隨其謬處以經部破之。故此論本宗是薩婆多部,其中取捨以經部為正,博綜群籍、妙拔眾師,談玄微窮於奧極、述事象略而周遍,顯成聖旨、備摧異說,立不可𨶳、破無能擬,義兼數論而深廣愈之,詞不繁而義顯、義雖深而易入,故天竺咸稱為聰明論,於大小乘學,悉依此為本。
仏が滅度されてから千一百余年後、出家の菩薩で婆藪盤豆(ばすばんず)という方がいました。器量は広く大きく、優れた才能は壮んでいて、学問は文字の隅々まで究め、思索は深い淵の源まで徹していました。その徳は永遠の昔にまで及び、その名は当代を覆い、大乗・小乗の論を合わせて数十部も著わし、いずれも盛んに宣べ伝えられ、宗として学ばないものはありませんでした。この法師の徳と業績については、別の伝記に詳しく記されています。
師はまず薩婆多部で出家し、そのままこの部が立てた三蔵を学びましたが、後にその法に多くの食い違いがあるのを見て、この論を著わしてその主張を詳しく述べ、誤っている箇所に応じて経部によってこれを破りました。それゆえ、この論の根本の宗は薩婆多部であり、その中で取捨は経部を正しいとしています。多くの典籍を広く総合し、見事に多くの師の説を抜き出し、玄妙なところを語れば奥深い極みにまで至り、事柄を述べれば簡潔でありながら遍く行き渡り、聖なる意を明らかに成し遂げ、異なる説をことごとく打ち破り、立てたところは切り崩すことができず、破られた側にこれに対抗できるものはありません。その義は数論を兼ね備えながら、深く広いことさらにそれを超え、言葉は煩わしくなくして義は明らかであり、義は深いながらも容易に入っていけます。それゆえ天竺では、こぞってこれを「聡明論」と呼び、大乗・小乗の学問において、すべてこれを根本としています。
有三藏法師俱羅那他,聰敏強記、才辯無竭,碩學多聞、該通內外。為弘法故遠遊此國,值梁室將傾時事紛梗,法師避地東西垂二十載,欲還天竺來至番禺。慧愷因請翻講《攝大乘》等論經,涉二年文義方畢。法師爾後猶欲旋歸,刺史歐陽紇尚仁貴道、久申敬事,重復請留,彌加殊禮。
三蔵法師の俱羅那他(ぐらなた)がいました。聡明で記憶力が強く、弁舌の才は尽きることがなく、碩学で多聞であり、内典と外典の両方に通じていました。法を弘めるために遠くこの国へ遊行し、ちょうど梁の王室が傾こうとする時事の紛糾に遭遇しました。法師は難を避けて東西を巡ること二十年近くに及び、天竺へ帰ろうとして番禺にやって来ました。慧愷はそこで、『摂大乗論』などの論や経典を翻訳して講じることを請い、二年をかけてようやく文と義が完成しました。法師はその後もなお帰国しようと望みましたが、刺史の欧陽紇は仁を尚び道を貴び、長く敬事を申し、重ねて留まることを請い、いよいよ殊礼を加えました。
慧愷與僧忍等,更請翻講此論。以陳天嘉四年歲次閼逢龍集涒灘正月二十五日,於制旨寺始就開闡惑品未畢,仍事徙居於南海郡內,續更敷說。法師遊方既久,精解此土音義,凡所翻譯不須度語。但梵音所目於義易彰,今既改變梵音,詞理難卒符會,故於一句之中循環辯釋、翻覆鄭重,乃得相應。
慧愷と僧忍たちは、あらためてこの論の翻訳と講義を請いました。陳の天嘉四年、歳次は閼逢、龍集は涒灘、正月二十五日に、制旨寺においてようやく「惑品」の講説を始めましたが、まだ終わらないうちに、そのまま移り住むことになり、南海郡内で引き続き説き続けました。法師は諸方を遊行してすでに久しく、この地の言葉と意味を詳しく理解していましたので、翻訳するにあたって通訳を必要としませんでした。ただ、梵語の音で示すところは意味が明らかになりやすいのですが、今はすでに梵語の音を変えているので、言葉と道理がすぐには符合しにくく、そのため一句の中でも繰り返し弁明し、何度も丁寧に説明して、ようやく対応する表現が得られたのです。
慧愷謹即領受,隨定隨書,日夜相係,無懈晷刻。至其年閏十月十日,文義究竟。論文二十二卷,論偈一卷,義疏五十三卷,刺史仍請於城內講說。既得溫故,頗識大宗,非唯闇弱多有疑滯,又恐所翻不免謬失。至天嘉五年歲次柔兆二月二日,與僧忍等更請法師重譯論文、再解義意。至光大元年歲次強圉十二月二十五日,治定前本始末究竟。長史袁敬,識鑒沈深、信解明正;長史長子元友,愛文重法、博學多藝,並禮事法師,備盡經始。經南中翻譯,悉賴此貴門,方希永傳來世,以為後生模式。
慧愷は謹んでただちにこれを受け取り、定められるままに書き写しました。昼も夜も続けて、一刻も怠ることはありませんでした。その年の閏十月十日に至り、文と義はついに究められました。論文二十二巻、論偈一巻、義疏五十三巻で、刺史はさらに城内で講説するよう請いました。すでに温故の学びを得て、おおよそ大宗を識ることはできましたが、私が暗弱であるうえに疑い滞る点も多く、また翻訳したものが誤りを免れないのではないかと恐れました。天嘉五年、歳次柔兆の二月二日に至り、僧忍らとともに改めて法師に請い、論文を重ねて訳し、義の意を再び解き明かしていただきました。光大元年、歳次強圉の十二月二十五日に至り、先の本を治定し、始めから終わりまでついに究められました。長史の袁敬は、識見が深く沈んでいて、信解は明らかで正しくありました。長史の長子である元友は、文を愛し法を重んじ、博学で多芸でありました。二人はともに法師を礼して仕え、経始のことをことごとく尽くしました。経が南中で翻訳されたのは、すべてこの貴い家門に頼ったのであり、まさに永遠に後世へ伝え、後生の模範としたいと願うものです。
佛法大海深廣無際,若不局一塗能信順求學,豈不同飡甘露、共嗅詹匐者哉。如或專執,非所喻也。
仏法の大海は深く広く、果てがありません。もし一つの道にこだわらず、信じて従い、学び求めることができるなら、どうして同じく甘露を味わい、ともに詹匐の花の香りを嗅ぐ者とならないことがありましょうか。もしある人が偏り執着するならば、それはたとえようもないことです。
阿毘達磨俱舍釋論卷第一
阿毘達磨倶舎釈論巻第一
婆藪盤豆造
婆藪盤豆(ばすばんず)造
陳天竺三藏真諦譯
陳天竺三蔵真諦訳