開經偈
開経偈
無上甚深微妙法, 百千萬劫難遭遇,
我今見聞得受持, 願解如來真實義。
最上の尊い深い教えは、長い長い時間を経ても出会うことのできないものです。 私は今、この教えを見聞きし、心に留めることができました。どうか、如来の真実の意味を理解させてください。
金剛般若波羅蜜經註卷上
金剛般若波羅蜜経註 巻上
金剛般若波羅蜜經
金剛般若波羅蜜経
川老曰:法不孤起,誰為安名? 頌曰:
川老は言う。「法は孤独には起こらない。誰がその名を安んじたのか?」 偈に曰く、
摩訶大法王, 無短亦無長, 本來無皂白,
隨處現青黃。 華發看朝艶, 林凋逐晚霜。
疾雷何太急。 迅電亦非光。 九聖猶難測。
龍天豈度量, 古今人不識, 權立號金剛。
摩訶大法王、 短くもなく長くもない。 もともと白黒(善悪)の区別はなく、 場所に応じて青や黄と現れる。
花は朝に美しく咲き、 林は夕べの霜で散りゆく。 疾き雷もなぜかくも激しいのか。 迅き稲妻もまた、真の光ではない。
九つの聖人もなお測り難く、 龍天の衆もどうして量れようか。 古今の人々は知ることなく、 仮に名づけて「金剛」と呼ぶのみ。
(本註六祖所述也,頌著語川老所述也。)
(この注は六祖が述べたものであり、頌には川老が述べたものが添えられている。)
新注: 此經雙喻法為名,實相為體,無注為宗,斷疑為用,大乘為教相。
この経典は、二つの比喩を用いて法を名とし、実相を体とし、注釈なしを宗とし、疑いを断つことを用とし、大乗を教相とする。
初釋法喻名者,金剛喻也,般若法也,金中精剛至堅至利能碎萬物,此經能斷眾生疑執取以為喻,故大品般若十六分中以此經名能斷分。波羅蜜是梵語,華言到彼岸,眾生在生死海中無有窮極,修此般若到涅槃彼岸,蓋大乘菩薩達生死即涅槃,則非度而度、非到而到也。經者訓法訓常,梵語曰修多羅,此翻契經,謂契理契機故也。
まず、「法」と「喻(たとえ)という言葉の意味を説明します。「金剛」は喻(たとえ)であり、「般若」は法(教え)です。金剛とは、金の中でも最も精選されたもので、非常に堅く、非常に鋭く、すべてのものを砕くことができます。この経典もまた、衆生の疑問や執着を断ち切ることができるので、その力を喻(たとえ)として用いているのです。それゆえ、大品般若経の十六分のうち、この経典は「能断分」と名付けられています。
「波羅蜜」は梵語(サンスクリット語)で、中国語では「彼岸に到る」という意味です。衆生は生死の海の中にあり、その終わりがありません。この般若の智慧を修めることによって、涅槃の彼岸に到ることができるのです。大乗の菩薩は、生死そのものが涅槃であると悟るので、渡るということもなく、しかも渡り、到るということもなく、しかも到るというのです。
「経」という字は「法(のり)」と「常(つね)」の意味を持ちます。梵語では「修多羅(スートラ)」といい、中国語では「契経」と翻訳されます。これは、真理にかなっており、人々の機根(能力)にもかなっているという意味です。
二、辨實相體者,即一實相理也。經曰:若人得聞是經,即生實相。
二、実相の体を弁ずるとは、すなわち一実相の理である。経典に説く、「もし人がこの経を聞くことを得れば、すなわち実相を生ずる」と。
三、明無住為宗者。宗者,要也。經曰:應無所住。經中多以無住破著,故以無住為宗也。
三、「無住」を宗とすることについて説明します。ここでいう「宗」とは、最も大切な要点という意味です。経典には「応無所住(何にも執着しない)」と説かれています。経典の中では、多く「無住」を用いて執着を打ち破っているため、「無住」を宗としているのです。
四、論斷疑為用者,由經力用能斷妄執,故以斷疑為用也。
五、判大乘為教相者,經曰為最上乘者說,故以大乘為教相也。此經乃姚秦三藏法師鳩摩羅什所譯,分三十二分者,相傳為梁昭明太子所立,元譯本無,又與本論科節不同,破碎經意,今不取焉。今註一本慈氏天親偈論,取其意而不盡用其語,以其語深,難便初學故也。
第五に、大乗を教相と判定するについて。経典には「最上の乗りのために説く」とあるので、大乗を教相とするのである。この経典は、姚秦の三蔵法師鳩摩羅什が翻訳したものである。三十二分に分けるのは、伝えられるところによれば梁の昭明太子が定めたものであり、元の訳本にはない。また、本論の科節とも異なり、経の意味を断ち壊すものであるから、今は採用しない。今、この注釈は、慈氏(弥勒)菩薩と天親(世親)菩薩の偈頌による論を根本とし、その意を用いるが、その語は全ては用いない。その語は深遠で、初学者が学びにくいからである。
姚秦三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯。
姚秦の三蔵法師鳩摩羅什が、詔(みことのり)を奉じて訳したものである。