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  1. 金剛経註 (金剛經註)
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  3. 法会因由分第一 (法會因由分第一)
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金剛経註 (金剛經注)


○法會因由分第一

第一品 法会の因縁

丞相張無盡居士云:非法無以談空,非會無以說法。萬法森然曰因,一心應感曰由。故首以法會因由分。

丞相張無盡居士は言う、「法がなければ、空を語ることはできない。会(え)がなければ、法を説くことはできない。あらゆる法が整然と現れるのを『因』と呼び、一心がそれに応じて感じるのを『由』と呼ぶ。それゆえ、まず『法会因由分』を置くのである。」

如是我聞:

このように私は聞きました。

如者指義是者定詞。阿難自稱如是之法,我從佛聞,明不自說也,故言如是我聞。又我者,性也,性即我也。內外動作,皆由於性,一切盡聞,故稱我聞也。

「如」というのは意味を指し、「是」というのは確かめる言葉である。阿難は「このような教えを、私は仏から聞いた」と自ら述べている。これは自分が説いたのではなく、明らかに仏の言葉を伝えたものであることを示している。だから「如是我聞」と言うのである。また「我」とは、本性のことである。本性こそが私なのである。内外のあらゆる動きは、すべてこの本性によって起こり、すべてを聞き尽くすので、「我聞」と称するのである。

一時,佛在舍衛國祇樹給孤獨園。

ある時、お釈迦様は舎衛国の祇園精舎におられました。

言一時者,師資會遇齊集之時也。佛者,是說法之主。在者,欲明處所。舍衛國者,波斯匿王所居之國。祗者,太子名也。樹是祗陀太子所施,故言祗樹也。給孤獨者,須達長者之異名。園者,本屬須達,故言給孤獨園。佛者,梵語,唐言覺也。覺義有二:一者、外覺,觀諸法空;二者、內覺,知心空寂。不被六塵所深,外不見人過惡,內不被邪迷所惑,故名曰覺。覺即是佛也。

ここで「一時」というのは、師と弟子が巡り合い、共に集まった時を指します。「仏」とは、説法の主である方を指します。「在」とは、その場所を示そうとするものです。「舎衛国」とは、波斯匿王が治めていた国です。「祇」とは、太子の名前です。「樹」は、祇陀太子が寄付したものであるため、「祇樹」と言います。「給孤独」とは、須達長者の別名です。「園」は、元々須達長者の所有であったため、「給孤独園」と言います。「仏」とは、梵語であり、唐の言葉では「覚」と言います。「覚」の意味には二つあります。一つは「外覚」で、すべての物事の本質が空であることを観じます。もう一つは「内覚」で、心が本来空で静かであることを知ります。六つの感覚対象に深くとらわれることなく、外では人の過ちや悪を見ず、内では邪な迷いに惑わされることがない、そのために「覚」と言うのです。覚とは、すなわち仏のことです。

與大比丘眾千二百五十人俱。

千二百五十人の大比丘たちと共にいました。

言與者,佛與比丘同住金剛般若無相道場,故言與也。大比丘者,是大阿羅漢故。比丘者,梵語唐言,能破六賊故名比丘。眾,多也。千二百五十人者,其數也。俱者,同處平等法會。

「与」とは、仏が比丘たちと共に、金剛般若の無相の道場に住したことを意味する。それゆえに「与」と言うのである。「大比丘」とは、大阿羅漢であるからである。「比丘」とは、梵語であり、唐の言葉では「能く六賊を破する」という意味であるから、比丘と名付けるのである。「衆」とは、多いという意味である。「千二百五十人」とは、その人数である。「俱」とは、共に平等の法会に同座することを意味する。

如 古人道,喚作如如,早是變了也。且道變向甚麼處去?咄!不得亂走。畢竟作麼生道火不曾燒却口? 頌曰:

古人も言った、「如如と名付けるなら、すでに変わってしまった」。さて、その変わりようはどこへ向かうのか?おい!勝手に動き回るな。結局のところ、どう言えば「火が口を焼かなかった」と言えるのか?偈に曰く:

如 靜夜長天,一月孤。
是 水不離波,波是水。
鏡水塵風不到時, 應現無瑕照天地。
看!看!

如(にょ)し、静かな夜の長い空に、一つの月がぽつんと浮かぶ。これは、水は波を離れず、波はすなわち水である。鏡のような水面に、塵や風が届かないとき、その姿は瑕なく現れて、天地を照らす。見よ、見よ!

我 淨躶躶,赤洒洒,沒可把。 頌曰:

私は清らかで、何の束縛もなく、掴むべきものもありません。 偈(うた)に曰く:

我 認得分明,成兩箇。
不動纖毫合本然, 知音自有松風和。

我ははっきりと見分けて、二つになることを知る。

少しも動かず本来の姿に合い、心通じる者には松の風の音が調和する。

聞 切忌隨佗去。 頌曰:

聞くとは、他に従って行くな、ということを戒めることである。 頌(うた)に曰く:

猿啼嶺上,鶴唳林間。 斷雲風捲,水激長湍。
最愛晚秋霜午夜, 一聲新鴈覺天寒。

山の上では猿が鳴き、林の中では鶴が声をあげる。 雲は風に吹かれて切れ、水は激しく流れて長い早瀬となる。 何よりも好きなのは晩秋の霜降る夜、 新たに来た雁の一声で、空の寒さが身にしみる。

一 相隨來也。 頌曰:

一 ともに來ることを相(すがた)とす。 偈(げ)に曰く:

一 破二成三從此出。
乾坤混沌未分前, 以是一生參學畢。

一が破れて二となり、三はここより生ず。 乾坤混沌として分かたざる前に、 もってこの一をもって一生の参学は畢わる。

時 如魚飲水,冷暖自知。 頌曰:

時よ、魚が水を飲む如く、その冷たさ温かさは自ずと知る。 偈に曰く:

時 清風明月鎮相隨。
桃紅李白薔薇紫, 問著東君自不知。

時には清らかな風と明るい月が、いつも共にあり続ける。 桃は紅に、李は白く、薔薇は紫に咲き誇るが、 それらを問いただしても、春の主(東君)ですらその理由を知らない。

佛 無面目說是非漢。 頌曰:

仏に顔はなく、是(ぜ)も非(ひ)も説かず。偈に曰く、

小名悉達,長號釋迦, 度人無數,攝伏群邪。
若言佗是佛, 自己却成魔。
祗把一枚無孔笛, 為君吹起大平歌。

幼名は悉達、成長して釈迦と称えられ、 人々を限りなく救い、あらゆる邪を従わせた。 もし彼を仏と言うならば、 自分自身は却って魔となる。 ただ一本の穴のない笛をもって、 あなたのために平和の歌を吹き鳴らす。

在 客來須看,也不得放過。隨後便打。 頌曰:

来客あれば必ず看よ。されども見逃すことなかれ。後にすぐ打て。頌に曰く——

獨坐一爐香, 金文誦兩行。
可憐車馬客, 門外任佗忙。

一炉の香を焚きながら独り坐し、 金字の経文を二行誦する。 車馬の客は哀れなるかな、 門の外にて、その忙しさを任せおく。

舍衛(至)人俱 獨掌不浪鳴。 頌曰:

舎衛国の人々が集まっていた。一人の修行者が掌を上げたが、無駄に鳴らすことはなかった。偈に曰く:

巍巍堂堂, 萬法中王, 三十二相,
百千種光。 聖凡瞻仰, 外道歸降,
莫謂慈容難得見, 不離祗園大道場。

巍々堂々として、 万法の中の王、 三十二相、 百千の光を放つ。 聖者も凡夫も仰ぎ見て、 外道も帰伏する。 慈しみ深き御姿はなかなか見られぬと言うなかれ、 祇園の大道場を離れることはないのだから。

新注: 如是者,指一經所聞法體也。我聞者,阿難謂如是之法,我從佛而聞也。一時者,即如來說法,機應和合時也。佛者,覺也。佛是教主,尊極名佛。舍衛者,國名也,華言豐德。祗樹給孤獨園者,祗陀太子施樹,給孤長者買園,共立精舍,請佛而住,此說法處也。與大比丘眾者,聞法之侶也。比丘者,梵語也,華言乞士。上乞法以資慧命,下乞食以資色身。又折己慢幢,生彼福德。千二百五十人俱者,此諸弟子,凡佛說法之處,常隨侍也。已上如是等六事,冠於諸經之首,謂之通序。如來臨滅度時,阿難問佛:一切經前,當安何語?佛言:當安如是我聞等語。非但我法如是,三世諸佛皆如是。

ここに「如是」というのは、この経全体で説かれた教えの内容を指す。「我聞」とは、阿難が「このような教えを、私は仏から直接聞いた」と述べたものである。「一時」とは、如来が説法し、機根が応じ和合した時を指す。「仏」とは、悟りを意味する。仏は教えの主であり、最も尊い存在であることから「仏」と名付けられた。「舎衛」は国の名前であり、漢語では「豊徳」と訳される。「祗樹給孤独園」とは、祗陀太子が樹々を施し、給孤独長者が園を買い取り、共に精舎を建てて仏を招いて住まわせた場所であり、ここが説法の場所である。「大比丘衆と共に」とは、説法を聞く仲間たちを指す。「比丘」は梵語で、漢語では「乞士」と訳される。上は教えを乞うて智慧の命を養い、下は食物を乞うてこの身を養う。また、自己の高慢の旗を折り、他者の福徳を生じさせるのである。「千二百五十人が共にいた」とは、これらの弟子たちが、仏が説法される場所には常に随従していたことを示す。以上の六つの事柄を、諸経の冒頭に置くことから「通序」と称する。如来が入滅されようとする時、阿難が仏に問うた。「すべての経の冒頭には、どのような言葉を置くべきでしょうか?」仏は答えられた。「『如是我聞』などの言葉を置きなさい。我が教えだけでなく、三世の諸仏も皆、このようにされているのだ。」

爾時,世尊食時,著衣持鉢,入舍衛大城,乞食於其城中。

その時、世尊は食事の時間になると、衣を身につけ、鉢を持って、舎衛の大城に入り、その町の中で托鉢をされた。

爾時者,當此之時,是今辰時,齊時欲至也。著衣持鉢者,為顯教示跡故也。入者,為自城外而入也。舍衛大城者,名舍衛國豐德城也,即波斯匿王所居之城,故言舍衛大城也。言乞食者,表如來能下心於一切眾生也。

その時とは、今この時を指します。晨(しん)の刻、斎(とき)の時が近づいていたのです。衣を着け鉢を持つのは、悟りを開かれた姿を示すためです。入るとは、城外から都の中へ入ることを指します。舎衛大城とは、舎衛国の豊かな徳のある都のことで、波斯匿王(はしのくおう)が住んでいた城です。だから「舎衛大城」と言います。乞食(こつじき)とは、如来がすべての衆生に対して心を低くしていらっしゃることを表しています。

次第乞已,還至本處。飯食訖,收衣鉢,洗足已,敷座而坐。

托鉢の列を終えて、元の場所に戻り、食事を終え、衣と鉢を片付け、足を洗ってから、座布団を敷いて座られた。

次第者,不擇貧富平等以化也。乞已者,如多乞不過七家,七家數滿更不至餘家也。還至本處者,佛意制諸比丘,除請召外不得輙向白衣舍,故云爾。洗足者,如來示現順同凡夫,故言洗足。又大乘法不獨以洗手足為淨,蓋言洗手足不若淨心,一念心淨則罪垢悉除矣。如來欲說法時,常儀敷栴檀座,故言敷座而坐也。

次第とは、貧富を選ばず平等に教化することである。乞食が終われば、多くとも七軒を超えない。七軒で満ちれば、それ以上他の家には行かないのである。「還至本處(もとの場所に還る)」とは、仏の意図として諸々の比丘に、招きによる呼び出し以外は、みだりに在家の家に行ってはならないと制したため、こう言うのである。「洗足(足を洗う)」とは、如来が凡夫に順じて同じく示現されたものであり、だから「足を洗う」と言うのである。また大乗の法では、ただ手と足を洗うことだけを清らかとするのではない。手と足を洗うことは、心を清らかにすることに及ばない。一念の心が清らかであれば、罪の汚れはすべて除かれるのである。如来が法を説こうとされるとき、常の儀式として栴檀の座を敷かれた。だから「座を敷いて坐す」と言うのである。

爾時(至)而坐 惺惺著。 頌曰:

そのとき、まさに至って坐し、はっきりと目覚めておられた。その偈(うた)は次のとおりである——

飯食訖兮洗足已, 敷座坐來誰共委。
向下文長知不知, 看看平地波濤起。

食事が終わり、足を洗い終えた。 座を敷いて坐るが、誰がその心を共に知るだろうか。 この先の言葉は長い、知るか知らぬか。 見よ、平地に波が立ち上がるのを。

新注: 此別敘也,亦名發起。序以乞食為發起者,蓋佛欲說無住相施,故先乞食以表之。然佛以禪悅法喜為食而行乞者,示同凡僧耳。爾時者,當是時也。世尊者,世間所尊十號之一也。食時者,辰時也。著衣者,服僧伽梨衣也。持鉢者,持應量器也。次第乞者,佛心平等不擇貧富也。本處者,給孤園也。洗足者,天竺跣足而食,故食訖而洗足也。敷座而坐者,敷坐具而跏趺也。

新注:これは別の叙述であり、発起とも呼ばれます。序文で托鉢を発起とするのは、仏が無住相の施しを説こうとされたからです。そこでまず托鉢をもってそれを示されたのです。しかし仏は禅悦法喜を食とされながら托鉢を行われたのは、凡僧と同じ姿を示されたにすぎません。「爾時」とは、その時のことです。「世尊」とは、世間が尊ぶ十号の一つです。「食時」とは、辰の刻のことです。「著衣」とは、僧伽梨衣を着ることです。「持鉢」とは、応量器を持つことです。「次第乞」とは、仏の心は平等で貧富を選ばないことです。「本処」とは、給孤独園のことです。「洗足」とは、天竺では裸足で食事をするため、食後に足を洗うことです。「敷座而坐」とは、座具を敷いて結跏趺坐することです。


開經偈
善現起請分第二

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