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title: "釋氏通鑑 · 南北朝"
description: "释氏通鑑由南宋僧人本觉編集，是一部编年体佛教史书。该书成书于宋末，以禅宗视角系统记述了从释迦牟尼佛到北宋末年的佛教传播与发展历程。内容涵盖印度与中国佛教的重要事件、高僧传记及宗派传承，融汇儒释道三教思想。作为中国早期佛教通史著作，它不仅具有重要的史料价值，更展现了宋代佛教史学的高度成就，对研究汉传佛教历史脉络与思想演变具有权威参考意义。"
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## 歷代編年釋氏通鑑卷之四

> 歴代編年 釈氏通鑑 巻之四

宋括山一庵釋　本覺　編集

> 宋括山一庵 釈本覚 編集

明羼提居士　畢熈志　較訂

> 明羼提居士　畢熈志　校訂

### 南北朝

> 南北朝

宋劉氏都建康八主六十年國入于齊。魏拓跋氏改姓元都雲中迁平城及洛陽十二君百四十九年分而為東西魏。庚申宋高祖永初元西秦熾盤建弘元夏赫連勃勃二北凉蒙遜九西凉李恂北燕馮跋十二魏明元帝五

> 宋<noter>劉氏が建康を都とし、八人の君主が六十年間統治した後、国は斉に引き継がれた</noter>。魏<noter>拓跋氏が姓を元に変え、都を雲中に置き、平城、洛陽へと移した。十二人の君主による百四十九年の統治の後、東西の魏に分裂した</noter>。庚申<noter>宋</noter><noter>高祖永初元</noter><noter>西秦</noter><noter>熾盤建弘元</noter><noter>夏</noter><noter>赫連勃勃</noter><noter>二</noter><noter>北凉</noter><noter>蒙遜</noter><noter>九</noter><noter>西凉</noter><noter>李恂</noter><noter>北燕</noter><noter>馮跋</noter><noter>十二</noter><noter>魏</noter><noter>明元帝</noter><noter>五</noter>

六月宋高祖󱚉。受晉禪即帝位。殷憂稍移。天步猶阻二年塗鯁。四戰兵勞。百虜暢於胷中。萬機總於襟內不倦檀那之業。常持護法之心。手寫戒經。口誦梵本。造靈根法王等四寺。供佛招賢。帝甞收後秦尊奉僧導。為之於金陵壽春。立東山寺。又迎佛䭾䟦陀羅。於道場寺。譯華嚴經○是月羅譯華嚴六十卷畢○是年曇無竭此云法勇法上。招二十五人。遊西域求經○廬山道敬法師示寂。壽五十一○北凉釋僧龔。及法眾僧伽陀譯經○釋法和。精通數論。宋祖敕為僧主僧傳。辛酉二二真興三元始十西凉為北凉滅太平十三大常六

> 六月、宋の高祖（武帝）が即位した。晋の禅譲を受けて帝位についた。心配事はやや和らいだが、天下の歩みはなお困難で、二年間は行路が塞がれた。四方で戦い兵は疲れ、多くの敵の思いは胸中にめぐり、あらゆる政務を襟の内に収めながらも、布施の行いを怠らず、常に法を護る心を持ち続けた。自ら戒律の経典を書き写し、口では梵語の経本を唱えた。霊根寺、法王寺など四つの寺を建立し、仏を供養し賢者を招いた。 帝はかつて後秦で尊崇されていた僧導师を収め、金陵（建康）の寿春に東山寺を建立した。また仏驮跋陀羅を迎え、道場寺で華厳経を訳させた。同月、仏驮跋陀羅は華厳経の翻訳を十巻で完了した。 同年、曇無竭（「法勇、法上」と訳す）は二十五人を募り、西域へ経典を求めに出発した。 廬山の道敬法師が入寂した。世寿五十一。 北凉では、僧龔、法衆、僧伽陀が経典の翻訳を行った。 釈法和は教理（数論）に精通しており、宋の高祖は彼を僧主に任命した。 辛酉（二年／真興三年／元始十年／西凉は北凉に滅ぼされる／太平十三年／大常六年）

十月北凉曇無讖。譯涅槃經四十卷方竟。首尾八年。追求三度。譯圓四袠。所闕尚多。聞法何其艱哉。讖頗善呪術。所向皆驗。甞告蒙遜云。有鬼入境。必多災疫。遜不信。欲躬見為驗。讖即以呪加遜。遜見而駭怖。讖曰。宜潔誠齋戒。神呪驅之。乃誦呪三日。謂遜曰。鬼已北去矣。時境首有見鬼者。云見數百疫鬼。奔驟而逝。既而北境之外。疫死者眾。境內獲安。讖之力也。遜益敬讖矣本傳。壬戌三八月帝崩三四十一十四七

> 十月、北涼の曇無讖（どんむせん）が『涅槃経』四十巻の翻訳をようやく終えました。前後八年かかり、三度も求められながら、翻訳を完成させた四つの帙（ふくろ）にも、まだ欠けている部分が多くありました。法（仏法）を聞くことが、なんと難しいことでしょうか。 讖は呪術に非常に優れており、その効果はすべて実証されました。かつて彼はモンシュン（蒙遜）に告げて言いました。「鬼が国境に入ってきました。必ずや多くの災いや疫病が起こるでしょう。」モンシュンは信じず、自らその証明を見たいと思いました。そこで讖は呪文を用いてモンシュンにかけると、モンシュンはそれを見て恐れおののきました。讖は言いました。「心を清らかにして斎戒し、神の呪文で追い払いましょう。」そして三日間呪文を唱え、モンシュンに言いました。「鬼はもう北へ去りました。」その時、国境の守衛に鬼を見た者がいて、「何百もの疫病の鬼が、猛然と走り去るのを見た」と語りました。その後、北の境外では疫病で多くの死者が出ましたが、国内は無事に過ごせました。これは讖のおかげです。モンシュンはますます讖を敬うようになりました。 <note>本伝</note> 壬戌<note>三</note><note>八月帝崩</note><note>三</note><note>四</note><note>十一</note><note>十四</note><note>七</note>

竺道生。初從什公受業。關中僧眾。咸謂神悟。時涅槃後品未至。生曰。闡提皆當成佛。此經來未盡耳。於是文字之師。誣生為邪說。擯而遣之。生白眾誓曰。若我所說。不合經義。請於現身。即見惡報。若實契佛心。願捨壽時。據師子座。竟拂衣入吳之虎丘山。竪石為徒。講涅槃經。至闡提有佛性處曰。如我所說。義契佛心否。群石皆首肯之。後居廬山。銷影巖岫。聞讖譯涅槃後品。至南京。果言闡提皆有佛性。生大慰喜。尋即講說。癸亥營陽王義符景平元四五十二十五八

> 鳩摩羅什の弟子、竺道生という僧がいた。関中の僧たちは皆、彼の悟りの深さに驚嘆していた。当時、『涅槃経』の後半部分はまだ翻訳されていなかった。道生は「一闡提（善根を断ち切った者）も皆、仏陀となることができる。この経典は、まだ完全に伝えられていないのだ」と説いた。そこで、文字にこだわる学者たちは、道生の教えを邪説として非難し、追放した。 道生は僧たちの前で誓って言った。「もし私の説が経典の意味に合わなければ、現世で悪い報いを受けよう。しかし、もし本当に仏陀の心にかなっているならば、命終える時に獅子座に座って逝きたい」と。そして、衣をひるがえして呉の虎丘山に入り、石を弟子として、『涅槃経』を講じた。「一闡提に仏性あり」という箇所に至って、「私の説が仏心にかなうならば、うなずけ」と言うと、多くの石が皆うなずいたという。その後、廬山に隠棲していたが、讖（曇無讖）が『涅槃経』の後半を翻訳したと聞き、南京へ赴いた。果たして経文には「一闡提皆、仏性あり」と記されていた。道生は大いに喜び、すぐに講義を行った。 癸亥年（営陽王義符、景平元年）のことである。

廬山周續之卒。壽六十七。又張詮卒。壽六十五○魏光祿卿崔浩被讒。太武命浩。以公歸第。因脩服食養生之術。初道士宼謙之。奉真經二十卷。獻于魏王。朝野未之信。浩獨師受其術。太武由是迎謙之。起天師道場。道徒由此而盛○孫道德常奉道。而年過五十。未有子息。有僧謂曰。必願有兒。當志心誦觀音經。德遂不事道。而專歸誠觀音。忽有夢應。婦即有孕。遂產男焉珠林。甲子宋文帝義隆元嘉元五六十三十六魏世祖太武帝燾始光元

> 廬山の周続之が亡くなった。六十七歳であった。また張詮も亡くなった。六十五歳であった。 魏の光禄卿であった崔浩は讒言にあい、太武帝は崔浩に命じて公の位のままで家に帰らせた。そのため彼は服薬や養生の術を修行した。初め、道士の寇謙之が真経二十巻を奉じて魏の王に献上したが、朝廷や世間はこれを信じなかった。崔浩だけが師事してその術を受け継いだ。太武帝はこれによって寇謙之を迎え、天師道場を建立した。道の徒はこれによって盛んになった。 孫道德は常に道を信奉していたが、五十歳を過ぎても子どもがいなかった。ある僧が彼に言った。「必ず子どもが欲しいと思うなら、心を込めて観音経を誦しなさい」。孫道德はそこで道を信仰するのをやめ、専ら観音に帰依した。すると突然夢のお告げがあり、妻が妊娠し、男の子を産んだ<note>珠林</note>。 甲子の年<note>宋の文帝</note><note>義隆、元嘉元年</note><note>五</note><note>六</note><note>十三</note><note>十六</note><note>魏の世祖</note><note>太武帝・燾、始光元年</note>

佛䭾什此云覺壽。於揚州。譯五分律三十四卷○魏太武初即位。亦遵太祖太宗崇信之業。每引高德沙門。與共談論。輿奉佛像。散華致敬魏書○凉曇無讖譯金光明經四卷。乙丑二六夏昌承光元十四十七二

> 仏陀什（覚寿と訳す）は揚州で五分律三十四巻を翻訳した。○北魏の太武帝は即位当初、太祖・太宗の崇仏の政策を受け継ぎ、高僧を招いては共に議論し、仏像を供奉し、花をまいて敬意を表した。○涼の曇無讖は金光明経四巻を翻訳した。乙丑（二年・六年・夏・昌承光元年・十四年・十七年・二年）

廬山曇順法師示寂。壽七十九。夏赫連勃勃尊高己德。昧乎聖人之道。曰勃者佛也。吾為佛也。陳聖像於後坐。令沙門朝集。為己致拜。天罰有罪。是年為雷震而死。國亦尋滅北山錄○劉式之。造文殊金像。俄失之。夙夜祈請。經五年忽見佛座光發。式之因拂拭牀帳。乃見失像儼然具存感通傳。丙寅三七二十五十八三

> 廬山の曇順法師がお亡くなりになりました。七十九歳でした。夏の赫連勃勃は自らの徳を誇り、聖人の道に暗く、「勃は仏なり。我は仏である」と言いました。そして聖なる像を後方の座に安置し、僧侶たちを朝に集めて、自分に礼拝させました。天がその罪を罰し、この年、雷に打たれて死にました。国も間もなく滅びました。<note>北山録</note> 劉式之は文殊菩薩の金像を造りましたが、間もなく失ってしまいました。昼夜祈り求めること五年、ある日突然、仏座から光が発せられるのを見ました。式之が床や帳を払いのけると、失った金像が元のまま完全な姿で現れました。<note>感通伝</note>丙寅<note>三</note><note>七</note><note>二</note><note>十五</note><note>十八</note><note>三</note>

沙門慧琳。善談論。帝與議朝廷大事。遂參權要。賓客輻湊。琳遇賓客。填咽喧涼而已。孔顗慨然曰。遂有黑衣宰相通鑑○謝晦。為領軍將軍。鎮荊州。患沙門僧昌。於城內立塔。湫隘雉堞。躬役介夫。令肆其武勇。撞擊陊壞。龕像摧殞。欻有暴風連天。雲霧作昏。驍烈為之膽寒。晦蒙被塵土。以手拭去。膚隨指落。潰灡瘡痍。體無完肌。竟坐反狀。召檀道濟討之。兵潰擒送鄴都。斬於都市。夷其九族北山錄○凉曇無讖。譯經總十九部。百二十一卷。是年絕筆○神僧杯度。初出冀州。神力卓越。或扣氷而浴。或著屐上山。或徒行入市。惟荷一蘆圌子。有試舉者。十餘人不能舉。或見有四小兒者。即四天王廣陵李家。奉之頗久。忽索袈裟。李辨未至。度云暫出。至夜不歸。及覔之。在北巖下。鋪敗袈裟於地。臥之而死。頭前脚後。皆生蓮華。邑共葬之。後數日。有從北來云。見度負蘆圌。行向彭城。乃共開棺。惟見鞾履。既至彭城。有黃欣者。深信佛法。見度拜請還家。家至貧。但麥飯而已。度甘之怡然。止得半年。忽語欣云。可覔蘆圌三十六枚。欣辦至列之庭中。度密封之。因語欣令開。錢帛皆滿。欣受之。皆為功德。一年度辭去。後東遊吳郡。見釣魚者。乞一乾魚。手弄反覆。投水即活。又見網師。更從乞魚。綱師不與。度拾兩小石。投水中。俄有兩牛。鬪其網。綱既碎敗。不復見牛。度遊止無定。每分身。應人之供。吳郡民朱靈期。自高麗還。為風飄舶。至一洲。見一寶寺。寺僧設食。乃拜其僧。乞速還鄉。僧云。去都二十萬餘里。但能志心不憂不速。乃問期云。識杯度道人否。答曰識。因指壁有一囊。掛錫杖及鉢云。此杯度者。今寄君鉢與之。并作書著凾中。復授青竹杖。令置舫前。閉船靜坐。必令速至。期迴舫如所示。經三日至石頭淮而住。期入淮至朱󳭋。乃見杯度。度開書大笑曰。使我還那。取鉢擲空。還接之云。我不見此鉢。四千年矣。其時南州陳氏。奉度至虔。是日早出。至晚不還。遂絕迹矣。唯都下杯度。猶去來山邑。值人之病。呪之即愈。是年九月示寂。人葬之建康覆舟山。度闡化四十餘年。後有人時見之如故本傳一本作朱齡石。丁卯四八三十六十九四

> 沙門慧琳は議論が巧みで、帝は彼と朝廷の重大な事柄を相談した。そのため彼は権力の要職に参与し、賓客が四方から集まるようになった。琳は賓客を迎えるにあたって、ただ雑踏の中での簡単な挨拶をするだけであった。孔顗は慨嘆して言った。「ついに黑衣の宰相が現れた。」<note>通鑑</note> 謝晦は領軍将軍として荊州を鎮守していた。僧昌が城壁の狭い場所に塔を建てたことを憂い、自ら兵士を率いて武力をもって壊そうとした。塔は打ち壊され、龕や仏像は崩れ落ちた。すると突然、暴風が天に連なり、雲霧が立ちこめて暗くなり、勇猛な者たちも恐怖に震え上がった。晦は土埃をかぶり、手で拭い取ろうとしたが、皮膚が指とともに落ち、ただれや傷だらけで、体に無傷の場所はなかった。ついには反逆の容疑で捕らえられ、檀道済を召して討伐させた。兵は敗れ、捕らえられて鄴都に送られ、都市で斬られ、その九族は皆殺しにされた。<note>北山録</note> 涼の曇無讖は、経典を訳すこと十九部、百二十一卷に及び、この年に筆を絶った。 神僧の杯度は、初め冀州に現れ、神力は非常に優れていた。ある時は氷を叩いて浴び、ある時は履き物を履いたまま山に登り、ある時は徒歩で市場に入った。いつも一本の葦の籠を担いでいた。誰かが持ち上げようとしても、十数人でも持ち上げられなかった。また、時には四人の童子が見えたという。<note>すなわち四天王である</note> 広陵の李家は、彼を長く厚く供養していた。ある時、杯度が突然袈裟を求めたが、李辨がまだ用意していなかった。杯度は「ちょっと出かける」と言って、夜になっても帰らなかった。探しに行くと、北の岩の下で、古びた袈裟を地面に敷いて、その上に寝て死んでいた。頭の前と足の後ろには、蓮の花が咲いていた。村人たちは共に彼を葬った。数日後、北から来た人が言うには「杯度が葦の籠を背負って、彭城へ向かって歩いているのを見た」という。そこで棺を開けてみると、ただ靴だけがあった。彭城に着くと、黄欣という者がいた。彼は深く仏法を信じており、杯度を見て拝み、家に連れて帰ることを願った。家は非常に貧しく、麦飯だけだったが、杯度はそれをおいしそうに、嬉しそうに食べた。半年ほど滞在した後、突然欣に言った。「葦の籠を三十六本用意しなさい。」欣が用意して庭に並べると、杯度はそれをしっかりと密封した。そして欣に開けさせると、中には金や絹が満ちていた。欣はそれを受け取り、すべてを功德に用いた。一年後、杯度は別れを告げた。 その後、東の呉郡に遊んだ。魚釣りをしている人を見て、干し魚を一本乞い、手で何度もひっくり返して弄ぶと、水に投げ入れるとすぐに生き返った。また、網漁をする人を見て、さらに魚を乞うたが、漁師は与えなかった。杯度は小石を二つ拾い、水に投げ入れた。すると間もなく二頭の牛が現れ、その網を争った。網は壊れてしまい、牛も見えなくなった。杯度の遊行は定まったところがなく、常に分身して、人々の供養に応じた。 呉郡の民である朱靈期が、高麗から帰る途中、風で船が流されて、ある島に着いた。そこには宝寺があり、寺の僧が食事を施してくれた。そこでその僧を拝み、早く故郷に帰れるよう願った。僧は言った。「ここは都から二十万余里も離れている。しかし、心を一貫させて願えば、速く帰れないことは憂えなくてよい。」そして、靈期に尋ねた。「杯度道人を知っているか？」靈期は「知っています」と答えた。僧は壁にかかっている袋と、そこに掛けてある錫杖と鉢を指して言った。「この杯度という者が、今、君にこの鉢を預けて渡すように言ってきた。」そして手紙を箱の中に入れ、さらに青竹の杖を授けて、船の前に置かせ、船を閉じて静かに座っていれば、必ず速く着かせようと言った。靈期が言われた通りにして船を戻すと、三日で石頭の淮に着いた。靈期が淮に入って朱巷に着くと、杯度に会った。杯度は手紙を開いて大笑いし、「私を帰らせようというのか」と言った。そして鉢を取り、空に投げ上げ、受け止めて言った。「この鉢を見ないこと、四千年になる。」 その頃、南州の陳氏が杯度を非常に敬虔に供養していたが、ある日早く出かけたまま、夕方になっても戻らず、そのまま消息を絶った。ただ都の杯度だけは、なお山や里を行き来し、人の病気に出会うと、呪文を唱えるとすぐに治した。この年の九月に示寂した。人々は彼を建康の覆舟山に葬った。杯度は教えを広めること四十余年、後になっても時々彼を見た者がいた。昔と変わらず生きていた。<note>本伝には一本、朱齢石とある。</note> 丁卯<note>四</note><note>八</note><note>三</note><note>十六</note><note>十九</note><note>四</note>

釋智嚴。初請䟦陀入關。橫為秦僧所擯。嚴乃憩山東精舍。義熈十三年。宋武及王󳭪。延請還都。乃於東郊。起枳園寺。以居之。嚴前還於西域。所得梵經未譯。至是乃共寶雲。譯普曜等經十部三十一卷。嚴清素寡欲。納衣蔬食。道化所被。幽顯咸服本傳○陶淵明卒。壽六十三。陶甞作搜神錄。多載佛之靈驗○禪師元高。初居麥積山。與曇弘友善。得曇無毗之道。河南王世子曼。禮以為師。後遊凉。蒙遜禮遇尤勤。魏太武遣使請。高入于平城。益加誠敬。命入東宮。令太子晃師事之魏書○沙門曇始一曰惠始。初師羅什。東晉孝武末。三輔人多宗之。宋武滅秦。留子義真鎮長安。夏赫連屈勾追敗之。道俗被坑戮。而惠始接刃無傷。屈勾大怒。召始於前。以佩劍自擊之。又不能害。乃懼而謝罪。百姓免其酷毒。始之力也。至是魏大武平赫連昌。始乃歸魏。多所化導。自初習禪。至於沒世。五十餘年。未甞寢臥。跣行泥水。初不污足。色踰鮮白。世號白足阿練高允作傳○釋慧觀。初師廬山遠公。後入關師什公。觀思入玄微。時曰通情則生融上首。精難則觀肇第一。宋武甚重之。召止道場寺。至是文帝時召講法。戊辰五西秦暮末永弘元夏定勝光元承玄元二十神󴈻傳

> 釋智嚴は、初め跋陀を関中に招いたが、秦の僧侶たちに排斥されてしまった。そこで智嚴は山東の精舎に隠棲した。義熙十三年、宋の武帝と王らが彼を招いて都に戻らせた。都の東郊に枳園寺を建てて住まわせた。智嚴は以前、西域から持ち帰った梵語の経典をまだ翻訳していなかったが、この時、宝雲と共に『普曜経』など十部三十一巻を翻訳した。智嚴は質素で欲が少なく、納衣をまとい粗食をとった。彼の教えの及ぶところ、見える者も見えない者も皆、心から服した。（『本伝』） ○陶淵明が亡くなった。六十三歳だった。陶淵明はかつて『搜神錄』を著し、仏の霊験を多く記した。 ○禅師元高は、初め麦積山に住み、曇弘と親交があった。曇無毗の教えを得て、河南王の世子曼が師と仰いだ。後に凉州に遊び、蒙遜から手厚く遇された。北魏の太武帝が使いを送って招き、元高は平城に入った。さらに敬意を込めて迎えられ、東宮に入れられて太子晃が師事した。（『魏書』） ○沙門曇始（一名を惠始という）は、初め羅什に師事した。東晋の孝武帝の末、三輔の多くの人々が彼を宗とした。宋の武帝が秦を滅ぼした後、子の義真を長安に残して鎮守させたが、夏の赫連屈丐が追撃して破った。僧俗ともに多くの者が殺害されたが、惠始だけは刃が当たっても傷つかなかった。屈丐は激怒し、惠始を前に呼び出し、佩剣で自ら斬りつけたが、やはり傷つけることができなかった。屈丐は恐れて謝罪した。民衆がその暴虐から免れたのは、惠始の力によるものである。その後、北魏の太武帝が赫連昌を平らげると、始めて北魏に帰順し、多くの人々を教化した。初めに禅を修めてから亡くなるまで、五十余年の間、一度も寝ず、泥水の中を裸足で歩いても足を汚さず、その肌の色はますます鮮やかに白かった。世の人々は「白足阿練」と呼んだ。（高允が伝を著した） ○釈慧観は、初め廬山の慧遠法師に師事し、その後関中に入り羅什法師に師事した。慧観の思索は深遠な境地に達し、当時「情理に通じるのは生・融が上首、精しく難問を論じるのは觀・肇が第一」と言われた。宋の武帝は彼を非常に重んじ、道場寺に住まわせた。文帝の時代になると、招かれて法を講じた。 戊辰（五年）（西秦・暮末永弘元年）（夏・定・勝光元年）（承玄元年）（二十年）（神�傳）

帝造禪靈寺。常供千僧○曇良耶舍此云時稱。自元嘉。至京常入禪。或七日不起。初止鍾山道林。沙門寶誌。崇其禪法。舍譯藥王藥上觀無量壽二經。以二經是轉障祕術淨土洪因也○釋道冏。作普賢齋。有二僧來。禮佛出門。飛空而去。己巳六二二二二十一二十月朔晝昏星現竟日

> 帝は禅霊寺を建立し、常に千人の僧侶に食事を施した。 曇良耶舎（これは「世に称えられる」という意味である）は、元嘉年間から都に来て、常に坐禅に入り、七日間も起き上がらないこともあった。初めは鍾山の道林に住んでいた。沙門の宝誌は、その禅の教えを尊んだ。 舎は『薬王薬上観経』と『無量寿経』を翻訳した。この二経は、障りを転じる秘術であり、浄土に生まれる大きな因縁だからである。 釈道冏は普賢斎を修めた。すると二人の僧が来て、仏に礼拝し、門を出ると、空中に飛び去っていった。 己巳（六）（二）（二）（二）（二十一）（二）（十月朔日、昼に暗くなり星が見え、終日続いた）

天竺佛䭾䟦陀羅。示寂于建鄴。壽七十一一云十二年卒者非。師譯經十三部百二十五卷○凉釋智猛。遊自西域。往返二十年。同伴十五人。唯猛與靈纂二人達耳。猛譯泥洹經二十卷○曇無讖。神異既多。魏主聞名。思一瞻禮。遣使來迎。凉王不許。魏主再遣高平公李順䇿。拜𫎇遜凉王。加九錫。諭之曰。曇無讖道德廣大。朕思一見。可馳驛送至。遜曰。臣事朝廷無所負。此臣師也。有死則已。欲往則不可也。順曰。朝廷欽王忠義故。顯加殊禮。今乃以一道人。虧損大功。不忍一朝之忿。吐所不當言。失朝廷待遇之意。切為大王不取也。遜曰。如公之言誠美。第恐情不副此耳。遜竟不遣讖。於是魏主衘之○凉主蒙遜。初於凉州南百里琢石崖。設佛像。或石或塑。千變萬化。遜又為母造丈六石像。在于山寺。是年因子世興。攻罕而亡。乃謂事佛無靈。毀寺逐僧。時將士入寺禮拜。此像涕淚交流。士驚還說之。遜親往視像。淚下若泉。即稽首禮謝。敬僧設會。倍更精虔感通錄○釋僧苞。建普賢齋。感祥瑞。行業彌厲。庚午七三二十二三

> 天竺の仏陀跋陀羅は、建鄴で入寂し、七十一歳であった<note>一説に十二年卒とあるのは誤り</note>。この師が翻訳した経典は十三部、百二十五巻にのぼる。○涼の訳経僧・智猛は、西域に遊学し、往復二十年を要した。同行していた十五人のうち、目的を達して戻れたのは智猛と霊纂の二人だけであった。智猛は『泥洹経』二十巻を翻訳した。○曇無讖は、その神通力が顕著であったため、魏の君主はその噂を聞き、一目会いたいと望んだ。使者を遣わして迎えようとしたが、涼王（蒙遜）はこれを許さなかった。魏の君主は再び高平公の李順を送り、蒙遜を涼王に任じ、九錫を加えた上で、「曇無讖はその徳が広大である。朕は一目会いたいと思う。至急、駅馬で送れ」と告げさせた。蒙遜は答えた。「私は朝廷に仕えて何ら背くことはありません。この者は私の師であります。死がなければならないならともかく、行かせたくはありません。」李順が言った。「朝廷は大王の忠義を敬って、とりわけ異例の礼遇を加えたのです。今、一人の道人（僧）のために、せっかくの大業に傷をつけ、一時の怒りに耐えられず、言うべきでないことを口にすれば、朝廷の待遇の心を損なうことになります。私はあえて大王にはおすすめしません。」蒙遜は言った。「あなたの言葉は確かに美しい。しかし、果たしてその言葉に実が伴うかどうかが心配だ。」蒙遜はついに曇無讖を差し出さなかった。このため、魏の君主は深く恨みに思った。○涼の君主蒙遜は、はじめ涼州の南百里のところで石の崖を彫り、仏像を安置した。石造のものもあれば塑像のものもあり、千変万化の趣があった。蒙遜はさらに母のために丈六の石像を造り、山寺に安置した。この年、子の世興が罕を攻めて戦死したため、蒙遜は「仏を信じても利益がない」と言って、寺を壊し僧を追い払った。そのとき、将士たちが寺に入って礼拝すると、この石像が涙を流してとめどなかった。将士たちは驚いて帰り、そのことを報告した。蒙遜が自ら見に行くと、像の涙は泉のごとく流れていた。そこで額を地面につけて礼拝し、謝罪した。そして僧を敬い、法会を営むようになり、その信心は以前にもまして篤くなった<note>感通録</note>。○釈僧苞は、普賢斎を行い、瑞兆を感じ、修行と業績はますます精進した。庚午<note>七</note><note>三</note><note>二十二</note><note>三</note>

天竺求那䟦摩此云功德鎧。初遜國出家。屬國諸王。皆授其歸戒。遊闍婆國。其王欲出家事之。群臣固請不可。乃令國中曰。若率土奉和尚歸戒。即從爾請。於是其國臣民。稽首遵命。元嘉初。文帝聞名。遣使航海。往闍婆邀之。附舶抵廣州。詔聽乘驛詣闕。師至始興。留朞年。於寺壁𦘕定光布髮等像。夜輙有光。師常在定。累日不出。或致雨不沾。或履泥不濕。或值虎以杖弄而去。靈異無方。道俗歸敬本傳○闍婆國王。遣使奉表曰。宋國大主吉祥天子。教化種智。安隱眾生。我雖在遠。亦沾靈潤統紀。辛未八西秦為夏滅夏為魏滅義和元昭成帝弘太興元四

> 天竺の求那跋摩（この方は「功徳の鎧」と訳される）。彼は最初に遜国で出家した。その国の王たちは皆、彼に帰依の戒律を授けられた。彼が闍婆国に遊化すると、その国の王は出家して彼に仕えたいと願った。しかし群臣が固く諫めてそれを許さなかった。そこで王は国内に布告した。「全国民が和尚の帰依の戒律を受け入れるならば、あなたの願いを聞き入れよう。」するとその国の臣民は皆、頭を下げてその命に従った。 元嘉の初め、文帝がその名を聞き及び、使者を海路で闍婆国に派遣して彼を招いた。彼は船に乗って広州に到着し、詔によって駅馬を使って都に参内することを許された。師は始興に着くと、一年ほど滞在した。寺の壁に定光如来が髪を広げるなどの像を描くと、夜ごとに光が放たれた。師は常に禅定に入り、何日も外に出なかった。時に雨が降っても濡れず、泥の上を歩いても汚れず、虎に出会っても杖で戯れて去らせた。その霊妙な力は計り知れず、道俗を問わず皆が敬い帰依した（『本伝』）。 ○闍婆国の王は使者を遣わして表文を捧げた。「宋国の大主、吉祥なる天子は、種々の智慧をもって教え導き、安らかに衆生を守ってくださいます。私は遠くにありながらも、その霊妙な恵みをいただいております」（『統紀』）。 辛未（西秦の年。夏に滅ぼされる。夏は魏に滅ぼされる。義和元年。昭成帝、弘。太興元年。四）。

求那䟦摩。帝有旨促之赴京。正月至金陵引對。帝迓勞殊勤。時召之問道。一日問曰。寡人常欲持齋不殺。以身應物。不獲所願。師幸教之。摩曰。道在心不在事。法由己不由人。且帝王所脩與匹夫異。匹夫倘不克己苦節。何以為用。帝王以四海為家。萬民為子。出一嘉言。則士庶咸悅。布一善政。則人臣以和。形不夭命。役不勞力。則風雨時。若百谷滋繁。以此持齋。齋亦大矣。以此不殺。利亦多矣。安在輟半日之喰。全一禽之命。然後為弘濟耶。帝撫几歎曰。俗迷遠理。僧滯近教。如師之言。可論天人之際矣。帝自是尊之為師。命居祇洹寺。供給隆厚。繼而於寺講法華經。并十地品。帝率公卿。日集座下。法席之盛。前此未聞也。摩即於寺。譯菩薩善戒經等十八卷○河東蒲坂城中火災。民居蕩盡。唯寺塔不焚。而民家經像亦不燒。一城敬信冥符記○西秦四主。四十七年。譯經一百餘卷釋教錄。壬申九北凉二北燕二魏延和元

> \*\*求那跋摩\*\* 帝より上京を命じられ、正月に金陵に到着して引見された。帝は深く労をねぎらい、しばしば招いて道を尋ねられた。ある日、帝が問うた。 「私は常に菜食を続け、殺生をせずに過ごしたいと思っている。しかし、世俗の務めに応じていると、その願いを遂げることができない。師よ、どうかお教え願いたい。」 跋摩が答えた。 「道は心の中にあり、外側の行いにあるのではありません。教えは己に由り、人に由るものではありません。まして帝王の修行は、一般の人とは異なります。一般の人が自己を律し節制しなければ、どうして役に立つことがありましょうか。帝王は天下を家とし、万民を子とします。良い言葉を発すれば、百官や民衆は皆喜びます。良い政治を行えば、家来たちは和します。無理な刑で命を縮めさせず、過酷な労役で力を奪わなければ、風雨は時を得て、百穀は豊かに実ります。これをもって菜食とすれば、その菜食は何と大きなものでしょう。これをもって殺生をしなければ、その利益は何と大きいものでしょう。どうして半日の食事を絶ち、一羽の鳥の命を救うことだけを弘済（広く救うこと）と言えるでしょうか。」 帝は几を撫でて嘆じた。 「凡俗は遠い道理に迷い、僧侶は近しい教えにこだわる。師の言葉は、まさに天人の機微を論じるものである。」 帝はこれ以降、彼を師と敬い、祇洹寺に住まわせて、供養は厚くなる一方だった。その後、跋摩は寺で『法華経』と『十地品』を講じた。帝は公卿を率いて毎日その法座に集まった。法席の盛況は、かつて聞いたことがないほどであった。跋摩はその寺で『菩薩善戒経』など十八巻を翻訳した。 ○河東の蒲坂の町で火事が起こり、民家はすべて焼け尽きたが、寺の塔だけは焼けず、民家にあった経典や仏像も焼けなかった。町中の人々はますます敬虔に仏法を信じるようになった<note>冥符記</note> ○西秦の四主、四十七年の間に、経典百巻余りを翻訳した<note>釈教録</note>。 壬申<note>九</note><note>北凉二</note><note>北燕二</note><note>魏延和元</note>

竺道生。還都止青園寺。宋文帝深加欽重。因幸大莊嚴寺設大會。帝親同眾。御于地筵。下食良久。眾疑日昃。帝曰日始午耳。生即曰。白日麗天。天言始中。何得非中。舉鉢便食。一眾從之。帝大悅。詔留生都下。一時巨公王弘范泰顏延之。竝挹敬風猷。從之問道。至甲戌十一年十一月。於廬山精舍。升于法座。神色開明。德音俊發。論議數番。窮理盡妙。觀聽之眾。莫不悟悅。必見麈尾紛然而墜。端坐正容隱几而化。壽八十。生有疏論。世皆寶焉本傳○尼智通。嫁為梁氏妻。擣練素經衣。其兒遍體爛瘡。出虫而死法苑。癸酉十四月蒙遜卒子牧犍立永和元三二

> 竺道生は都に戻り、青園寺に住んだ。宋の文帝は深く敬い重んじられ、大荘厳寺で大法会を開かれた際、帝みずからも人々と共に地面の座に着かれた。しばらく食事をしていたところ、人々は日が傾いたのではないかと疑った。帝が「日はまだ正午だ」と言われると、道生はすぐに「白く輝く太陽が空にあり、天子様が『まさに中ほど』とおっしゃるのに、どうして中ほどでないことがありましょうか」と言い、鉢を掲げて食べ始めた。大勢の衆もそれに従った。帝は大いに喜び、道生を都に留めるよう詔を下した。当時の名臣である王弘、范泰、顔延之らは皆、その風格と教えを敬慕し、彼のもとで道を問うた。 甲戌十一年十一月、廬山の精舎で法座に上がると、道生の表情は晴れやかで、その教えの声は清らかに響き渡った。幾度も議論を交わし、道理を極め、その妙を尽くした。見聞きした人々は皆、悟りを得て喜び、まさに麈尾がひらりと落ちるのを見た。すると彼は端座し、正しい姿勢を整え、机に寄りかかったまま、そのまま亡くなった。享年八十歳であった。道生が著した疏や論は、世の人々が宝として伝えている。 尼僧の智通は、梁氏の妻として嫁いだが、あるとき経典の衣をさらして打ったところ、その子は全身に爛瘡を生じ、虫が出て死んでしまった。

初孟顗。事佛情懇。每為謝靈運所輕。運謂顗曰。生天須在靈運前。成佛必在靈運後。顗衘之。至是靈運降為臨川內史。徙廣州而卒。年四十九。臨終有詩云。萋萋後霜栢。納納衘風菌。邂逅竟既時。脩短非所愍。恨我君子志。不得巖上泯。送心正覺前。斯痛久已忍。云云弘明集等○三月曇無讖。知凉將滅。固辭西歸。凉主遜怒其去。已密遣刺客。中路害之。初讖出關日。謂送者曰。業期至矣。雖上聖。不能逃也。未幾遜心愧悔。白日見鬼。以劍刺之。四月遜卒。國亦尋滅僧傳○釋僧弼。甞從羅什參譯。乃隨處闡化。及居楚郢。訓誘經戒。大化江表。凉王蒙遜。甞遣使遺䞋通敬。後下都止彭城寺。文皇器重。每延講說。是年示寂。甲戌十一二四三

> 初め、孟顗は仏に仕える心が誠実で、その熱意は謝霊運の軽んじるところとなった。霊運は顗に向かって言った。「天に生まれるのは私の前であるが、仏になるのは必ず私の後だろう。」顗はこの言葉を恨みに思った。後に霊運は臨川内史に左遷され、広州に流されて没した。享年四十九。臨終の際に詩を遺している。「なびく柏の霜の後に、風に舞う菌の如し。邂逅はすでに時を尽くし、命の長短は憂うるに足らず。ただ恨むは我が君子の志、巖上に消え去ること能わず。心を正覚の前に送り、この痛みは久しく耐え忍べり。」云々。＜注：弘明集など＞ ○三月、曇無讖は涼が滅びる運命にあると知り、固執して西へ帰ろうとした。涼の主・遜はその去り際に怒り、密かに刺客を遣わして道中で殺害させた。初め、讖が関所を出る日、見送る者に言った。「業の期は至れり。たとえ上聖といえども、逃れることはできぬ。」ほどなく遜は心に悔いを感じ、昼間に鬼を見て、剣で刺された。四月、遜は没し、国もまもなく滅んだ。＜注：僧伝＞ ○釋僧弼は、かつて鳩摩羅什に従って翻訳に参与し、そのまま各地で教えを広めた。後に楚や郢の地に住して、経典や戒律を教え諭し、江南で大いに教化した。凉王・蒙遜は使者を遣わして贈り物をし、敬意を表した。後に都に下り、彭城寺に留まった。文皇はその器量を重んじ、しばしば招いて講説させた。この年に示寂した。甲戌の年＜注：十一、二、四、三＞

僧伽䟦摩此云眾鎧。譯毗曇等論二十四卷。竝文義詳允。梵宋不差○僧伽羅多哆此云眾濟。自景平中。至京宴坐林下。翩然往來。世莫親疎。至是卜居鍾山。剪棘開榛。造立精舍。即宋熈是也釋教錄。○十一月法綱法師卒。弘明集釋慧琳有誄○釋慧靜。遊化徐兗。貌黑而識遠。時洛有道經。與靜齊名。而耳長大。時曰洛下大長耳。河東黑如墨。有問無不酬。有酬無不塞詳見傳○北凉安陽侯沮渠京聲。蒙遜弟也。有清慧。譯戒本等經二十二卷釋教錄。乙亥十二三五太延元

> 僧伽跋摩（「衆鎧」と訳す）が、『毘曇』などの論書二十四巻を翻訳しました。その文章と内容は詳しく正しく、梵語と宋語の間に誤りはありませんでした。 ○僧伽羅多哆（「衆済」と訳す）は、景平年間（423-424年）に都に来て、林の中で座禅し、自由に行き来し、世の人々は親しみも疎ましさも感じませんでした。その後、鍾山に住まいを定め、草木を刈り払って精舎を建てました。これが宋熙寺です（『釈教録』による）。 ○十一月、法綱法師が亡くなりました（『弘明集』に、釈慧琳が弔辞を記している）。 ○釈慧静は、徐州・兗州を巡って教化しました。顔は黒いけれど知恵は深遠でした。当時、洛陽には道経という僧がおり、慧静と名声を同じくしていました。道経は耳が大きく長かったので、「洛陽には大きな長い耳の人がいる。河東には墨のように黒い人がいる」と言われました。質問すれば答えないことはなく、答えれば説き伏せないことはありませんでした（詳しくは伝記に見える）。 ○北涼の安陽侯、沮渠京声は、蒙逊の弟です。清らかな智慧を持ち、戒本などの経典二十二巻を翻訳しました（『釈教録』による）。 乙亥（十二、三、五、太延元年）

釋慧叡。初遊西域。還憩廬山師遠公。俄入關從什公言稟。後適宋京。止烏衣寺。講說眾經。皆思徹言表。彭城王義康。請以為師。祇奉戒法。是年示寂。壽八十五○釋道昺示寂。壽七十一○京尹蕭謨之。上言。佛化被于中國。已歷四代。形像塔寺。所在千數。請自今欲造塔寺者。皆當預報。乃得為之。帝不允宋史○帝問侍中何尚之吏部羊元保曰。朕無暇讀經。因果之事。昧然未究。以卿輩時彥率皆信敬。范泰謝靈運。皆言。六經法度。本任濟世。必求妙道。當以佛經為指南。比見顏延之析達性論。宗炳難白黑論。其說大明至理。若使率土之民。皆淳此化。則朕坐致太平矣。昨蕭謨之請制。即以相示委卿增損。必有以戒遏浮淫。無傷弘獎者。乃當著耳。尚之對曰。悠悠之徒。間不敬信。以臣庸陋。實有愚勤。然前代群英。則不負明詔矣。渡江以來。王導周顗庾亮王蒙謝安郄超王坦王恭謝尚戴逵郭文孫綽等。或宰輔冠冕。或人倫羽儀。或致情天人之際。或抗迹雲霞之表。靡不歸依。慧遠云。釋迦之化無所不可。適道固自教源濟俗。亦為要務。切味此言。有契至理。何則百家之鄉。十人持五戒。則十人淳謹。千室之邑。百人脩十善。則百人和睦。傳此風教。以周寰區。編戶千億。則仁人百萬。夫能行一善。則去一惡。去一惡則息一刑。一刑息於家。萬刑息於國。此明詔所謂坐致太平者是也。故圖澄適趙。二石減暴。靈塔放光。符健損虐。神道助化。昭然可觀。謨之請制。不謂全非。但傷蠧道俗。本在無行僧尼。然而情偽難分。去取未易耳。至土木之工。雖若靡費。且植福報恩不可頓絕。臣比斟酌。進退未安。今日面奉德音。實用欣抃。元保曰。此談蓋天人之學。非臣愚陋所宜與聞。切恐秦楚論強兵之術。孫吳盡吞併之計。無取於此。尚之曰。夫禮隱逸。則戰士息。貴仁德則兵氣消。倘以孫吳為志。動期吞并。則將無取於堯舜之道。豈特釋教而已哉。帝悅。謂尚之曰。釋門之有卿。猶孔門之有季路也。自是帝益重玄化。蕭謨之之議遂寢。及顏延之著離識論。敕慧嚴論辨。帝曰。卿等不愧支許矣宋史○曇摩密多。於鍾山營建上寺。道化大行僧傳○天竺求那䟦陀羅此云功德賢。至金陵。文帝遣使郊迎。及見帝大悅。命居祇洹寺。屢延入內供養。僕射何尚之。及諸王公。竝師事之本傳。丙子十三四六二

> 釋慧叡は、初め西域に遊学し、帰国後は廬山に住んで遠公（慧遠）に師事した。まもなく関中に入り、羅什三蔵に教えを請うた。その後、宋の都・建康に赴き、烏衣寺に滞在して多くの経典を説き、その教えは言葉の奥深くにまで及んだ。彭城王・劉義康は彼を師と仰ぎ、戒律を敬い守った。同年に示寂した。享年八十五歳。 釈道昺もまた示寂。享年七十一歳。 京尹・蕭謨之が上奏して言った。「仏教が中国に広まってから既に四代が過ぎ、仏像や塔寺はあらゆる場所に数千も存在します。今後、塔や寺を建てようとする者は、事前に報告して許可を得るようにすべきです。」しかし皇帝はこれを認めなかった。〈宋史〉 帝は侍中・何尚之と吏部・羊元保に尋ねた。「朕は経典を読む暇がなく、因果の道理についても、まだよく理解できていない。そなたたち当代の賢人たちは皆、仏教を敬い信じているようだ。范泰や謝霊運も言うように、六経の教え（儒教の古典）は本来、世を救うためのものである。しかし、真実の妙なる道を求めるなら、仏経を指針とすべきだと。最近、顔延之が『達性論』を論じ、宗炳が『白黒論』を批判したのを見たが、その説は実に深遠な真理を明らかにしている。もしも全国の民が皆、この教え（仏教）によって心を清らかにするならば、朕は座したまま太平の世を実現できるだろう。先日、蕭謨之が規制を提案したので、それをそなたたちに示して意見を聞こう。必ずや、だらしない行動や奢りを戒めつつ、仏教の普及を妨げないような措置を取るべきであろう。それが適切な法規というものだ。」 尚之が答えた。「無知な人々の間では、仏教を敬い信じない者もおります。私のような愚かな者でさえも、実は真心を込めて努力しております。しかしながら、過去の多くの賢人たちは、陛下のこのお言葉に決して背いておりません。江南に渡って以来、王導・周顗・庾亮・王蒙・謝安・郗超・王坦・王恭・謝尚・戴逵・郭文・孫綽といった方々は、宰相や高位にある者もいれば、人倫の模範となる者もおり、また天と人の間に道理を求めた者もいれば、世俗を超えた境地を目指した者もいます。彼らの全てが仏教に帰依しました。慧遠はこう言っております。『釈迦の教えは、いかなるものにも通用しないことはない。道を求めるための根本であると同時に、世の中を救済するためにも欠かせない』と。私はこの言葉を深く味わい、まさに真理に適うものだと思います。なぜなら、百戸の村で十人が五戒を守れば、その十人は誠実で慎み深くなります。千戸の町で百人が十善を修めれば、その百人は和睦します。このような風習と教えを天下に広めれば、何千億もの民の中に、仁ある者は百万人にもなるでしょう。善を一つ行えば、一つの悪を除き、一つの悪を除けば、一つの刑罰がなくなります。一つの刑罰が家からなくなれば、一万の刑罰が国からなくなります。これこそが、陛下がおっしゃった『座したまま太平を実現する』という意味なのです。ですから、仏図澄が趙に赴けば、石虎と石勒の暴虐は減りました。仏塔が光を放てば、符健の暴虐は和らぎました。神の道が教化を助けることは、明らかに見て取れます。蕭謨之の規制提案を全面的に否定するわけではありません。しかし、僧侶や在家信者を害する元凶は、本来、行いのない僧侶や尼僧にあります。しかし、真心か偽りかは見分けが難しく、取捨選択は容易ではありません。また、寺院建築のような土木工事は一見無駄に思えますが、功徳を積み、恩に報いるためには、急にやめるわけにはいきません。私はこれまで考えを巡らせ、進退に迷っておりました。今日、直接陛下のお言葉を伺い、誠に嬉しく思います。」 元保が言った。「このような話は、まさに天と人の真理を究める学問であり、私のような愚か者が聞くに値しないものです。思うに、秦や楚は強兵の術を論じ、孫子や呉子は併呑の計略を尽くしましたが、そうしたものにはこのような価値はないのです。」 尚之が言った。「隠者を敬えば戦士は休み、仁徳を重んじれば兵の気は消えます。もし孫子や呉子のような考え方に従い、常に併呑を志すなら、堯舜の道さえも無用となるでしょう。ましてや仏教だけの話ではありません。」 帝は喜び、尚之に言った。「仏教の門においてそなたを得たことは、ちょうど孔子の門に季路を得たようなものだ。」こうして帝はますます仏教（玄妙の教え）を重んじるようになり、蕭謨之の提案は立ち消えとなった。 のちに顔延之が『離識論』を著すと、帝は慧厳に命じて論じさせた。帝は言った。「そなたたちは支遁や許詢にも劣らぬものだ。」〈宋史〉 曇摩密多は、鍾山に上寺を建立し、その教化は大いに広まった。〈僧伝〉 天竺の求那跋陀羅（漢訳して「功徳賢」という）が建康に到着すると、文帝は使者を郊外に送って出迎えさせた。帝に謁見すると、帝は大いに喜び、彼に祇洹寺に住むよう命じた。その後、たびたび宮中に招かれて供養を受け、僕射の何尚之をはじめ、諸王や公卿たちも皆、彼を師として仕えた。〈本伝〉 丙子（紀元436年）

三月上巳駕幸曲水。公卿畢集。帝命賦詩。沙門慧觀。先成奏之。帝悅以示百官。皆服其才。初觀與慧嚴謝靈運等。詳定涅槃經。頗增損其辭。夢神呵曰。敢妄以凡情。輕瀆聖典。觀等懼而止一云三年上巳。求那跋陀羅。譯勝鬘經○釋慧觀。製勝鬘序○文帝甞問慧觀。頓悟之理孰精。觀以生之弟子道猷對。有旨召入內。盛集名流。猷敷宣有序。法義粲殆。聞者開悟。有攻難者。猷必挫以釋之。帝拊髀稱善。丁丑十四五三

> 三月上巳の日、帝は曲水に臨幸された。公卿たちは皆集まり、帝は詩を詠むよう命じられた。僧の慧観がまず詩を完成させて奏上すると、帝は喜び、百官に見せられた。皆、その才能に敬服した。かつて慧観は慧厳や謝霊運らと共に『涅槃経』の詳細な校訂を行い、その言葉をかなり増減したことがある。すると夢の中で神に叱責された。「よくも凡夫の思いで聖なる経典を軽んじ汚したな」と。慧観らは恐れ、改編をやめた<note>一説には三年の上巳の出来事という</note>。求那跋陀羅は『勝鬘経』を翻訳した。僧の慧観は『勝鬘経』の序文を撰した。文帝がかつて慧観に「頓悟の理は、どちらの教えが優れているのか」と尋ねたことがある。慧観は竺道生の弟子である道猷を推挙した。帝の招きにより道猷が宮中に入り、名だたる学者たちが大勢集まった。道猷は教えを次序立てて述べ、法の意味は明らかであり、聞いた者は皆悟りを開いた。反論や質問をする者があれば、道猷は必ずその論点を打ち砕いて説き明かした。帝は膝を打って見事だと称賛した。丁丑の年<note>十四年</note><note>五</note><note>三</note>

孫彥曾家世奉佛。妾王惠稱信向精篤。誦法華經。輙見浦中有雜色光。使人掘深二尺。得金像。連光趺高二尺一寸感通○江陵張僧定妹。幼而奉法。志欲出家。常供養小金像。而父母密許適邴氏。女不知也。及羔鴈既至。女悲呼不就。燒香伏地取死。像遂放金光。彌竟一村。父兄驚其通感。止不嫁之。張邴二門。因大敬信感通錄○求那跋陀羅。譙王義宣。請講華嚴。羅以未通華言。乞觀音為增智力。夜夢神易其頭。遂遍曉華言。即為眾講之。時稱妙大乘旨旨。因號摩訶衍本傳○釋僧亮。欲造丈六金像。聞湘州伍子胥廟。多有銅器。亮告刺史張劭。借健人一百大船七隻。劭曰。廟既靈驗。犯者必死。且有蠻人守護。詎可得耶。亮曰。若果福德。則與檀越共。如其有咎。躬自當之。劭即給人船。三日至廟。廟前有兩鑊。容百餘斛。中有巨蛇。長十餘丈。出遮行路。亮乃執錫呪之。蛇即隱。俄見一人秉笏出云。聞師道業非凡。營福事重。今特相隨喜。於是令人輦取。廟銅既多。十取一而舫已滿。及歸遇風水甚利。群蠻相報。追不及矣。還都鑄像既成。唯𦦨光未備。文帝為造金薄圓光。安置彭城寺。至太始中。明帝移像湘宮寺焉僧傳。戊寅十五六北燕為魏滅四

> 孫の彦曾（そん・げんそう）の家は代々仏教を信奉していた。妻の王惠（おう・けい）は信仰が深く、『法華経』を読誦すると、いつも川の中から様々な色の光が差すのを見た。人に命じて二尺ほど掘らせると、金の仏像が現れた。光背も含めて台座までの高さは二尺一寸あった。 <note>感通</note> ○江陵（こうりょう）の張僧定（ちょう・そうてい）の妹は、幼い頃から仏法を敬い、出家を志していた。常に小さな金の仏像を供養していたが、両親は密かに彼女を邴（へい）家に嫁がせることを約束しており、本人はそのことを知らなかった。婚約の使者が訪れた時、娘は悲しみ叫んで応じず、香を焚いて地に伏し、死を願った。すると仏像が金色の光を放ち、村中にまで満ちた。父や兄はその霊験に驚き、娘を嫁がせるのをやめた。張家と邴家はこのことから大いに敬虔な信仰を持つようになった。 <note>感通録</note> ○求那跋陀羅（ぐなばだら）は、譙王の義宣（ぎせん）から『華厳経』の講義を依頼された。跋陀羅はまだ中国語に通じていなかったため、観音菩薩に知力を増すよう祈った。すると夜の夢の中で神が彼の頭を取り替え、それから中国語をすべて理解できるようになった。すぐに人々のために講義を行い、その教えは「妙なる大乗の要旨」と称され、彼は「摩訶衍（まかえん）」と呼ばれるようになった。 <note>本伝</note> ○釈僧亮（しゃく・そうりょう）は、丈六の金の仏像を造ろうと志した。湘州にある伍子胥（ごししょ）の廟には青銅器が多いと聞き、亮は刺史の張劭（ちょう・しょう）に、屈強な男百人と大きな船七隻を借りるよう願い出た。劭は言った。「廟は霊験あらたかで、侵す者は必ず死にます。しかも蛮人が守っています。どうして得られましょうか」。亮は答えた。「もし功徳があるなら、檀那（あなた）と分かち合いましょう。もし咎があれば、私一人が受けます」。劭はすぐに人と船を与えた。三日で廟に着くと、廟の前には百斛以上も入る二つの大釜があり、中には長さ十丈余りの巨大な蛇がいて、道を塞いでいた。亮が錫杖を持って呪文を唱えると、蛇はたちまち姿を消した。しばらくして、一人の男が笏板を持って現れ言った。「僧侶の道業が並々ならぬこと、また福徳の事業の重きを聞きました。ここで特に喜びの心（随喜）を捧げます」。そこで人々に命じて廟の銅を運ばせた。銅は多かったが、十分の一を取ったところで船は満杯になった。帰路は風と水の流れが非常に良く、蛮人たちが知らせを聞いても追いつけなかった。都に戻って仏像を鋳造し完成したが、光炎（光背）だけがまだ整っていなかった。文帝が金箔の光背を作らせ、彭城寺に安置した。太始年間に入り、明帝がこの仏像を湘宮寺に移した。 <note>僧伝</note> 戊寅（つちのえとら／ぼいん）<note>十五年</note><note>六</note><note>北燕が魏に滅ぼされる</note><note>四</note>

凉釋法盛。譯投身餓虎經○釋道泰。譯大乘論等○浮陀跋摩此云覺鎧。譯毗婆沙論。成一百卷。凉土崩亂失四十。今唯六十卷○羅順為平西府將。戍在上明。放鷹野澤。鷹雉俱落。時火燒野。平唯有三丈許。叢草不然。遂披而覔鷹。乃得金菩薩像。時定襄令謂盜所藏。乃下符界內。無失像者。遂收而奉之感通錄。己卯十六北凉為魏滅魏　太延五

> 涼の釋法盛は、投身餓虎経を翻訳した。 釋道泰は、大乗論などを翻訳した。 浮陀跋摩（注：これは「覚鎧」と訳す）は、毘婆沙論を翻訳し、百巻を完成させた。しかし涼の地に乱が起きて四十巻を失い、今は六十巻のみが伝わっている。 羅順は平西府の将となり、上明で守備していた。ある時、野原で鷹を放って狩りをしていたところ、鷹と雉が共に落ちた。その時、野原が火事で焼けていたが、三丈ほどの茂みだけは燃えずに残っていた。そこでかき分けて鷹を探すと、金の菩薩像を見つけた。当時の定襄の令は、誰かが盗んで隠したものだと考え、管轄内に触れを出したが、像を失った者はいなかった。そこで、その像を受け取って大切に安置した（注：感通録による）。 己卯（注：北涼の年号十六年、魏に滅ぼされる年、魏の太延五年）

釋道冏。入山穴採鍾乳。炬滅冏懼矣。乃念觀音。有頃見一光如螢。引之而出。甞夜乘氷渡河。中道氷破。乃念觀音。忽有一物承脚。乃得到岸本傳○法師靈徹一云僧徹示寂。徹初師遠公。精通經論。文學有名。甞問遠曰。律禁管絃。戒絕歌舞。一吟一咏。可得為乎。遠曰。觸物興想。亂情妨道。弗足為也。徹由是絕棄筆硯。講授大法。學徒宗之本傳一云二十九年卒。○北凉自永安辛丑。至是年。二主三十九年。緇素九人。出經律論三百餘卷。庚辰十七魏　太平真君元

> 道冏という僧が、山の中の洞窟に入って鍾乳石を採っていたが、松明の火が消えてしまい、彼は大いに恐れた。そこで観音に念じていると、しばらくして蛍のような一筋の光が現れ、彼を導いて洞窟の外へと連れ出した。またある時、夜に川の氷の上を渡っていたところ、途中で氷が割れてしまった。そこで再び観音に念じると、突然、足の下を何かが支え、彼は岸にたどり着くことができた＜本伝＞。 ○法師霊徹（一説には僧徹）が亡くなった。徹は最初、遠公に師事し、経典や論書に精通し、文学にも優れていた。かつて遠公に問うた。「戒律では管弦の音楽を禁じ、戒めでは舞踏を断つよう定められています。では、詩を一つ詠むこと、一句吟ずることは許されるのでしょうか。」と。遠公は答えた。「物に触れて想いを起こすことは、心を乱し道を妨げる。そうすることは避けるべきだ。」徹はこの言葉以来、筆や硯を完全に捨て、もっぱら大法の講義と教授に専念し、学僧たちは皆、彼を師として仰いだ＜本伝によれば、二十九年に亡くなったともいう＞。 ○北涼は永安（辛丑）の年よりこの年に至るまで、二代の主、三十九年の間、僧俗合わせて九人が経・律・論（三蔵）三百余巻を翻訳した。庚辰（十七年）（魏 太平真君元年）。

沙門慧光師佛陀。俊異朗悟。時呼聖沙彌。造疏注經甚多。門學如林。入室九人。僧道暉。儒生馮衮等○鍾山沙門法喜。以所居無泉。竭誠禮懺。求西天阿耨池八功德水。經七日掘地。果獲之○廬山曇詵法師示寂。壽七十九○伊葉波羅此云自在。於彭城。譯毗曇心論。辛巳十八二

> 沙門慧光という僧侶は、仏陀のもとで学び、その聡明さと悟りの深さから「聖沙弥」と呼ばれた。彼は多くの注釈書や経典の解説を書き、弟子は林のように多く集まった。その中でも奥義を継承した九人の弟子には、僧の道暉や儒者の馮衮らがいた。 また、鍾山の沙門法喜は、住んでいた場所に泉が無かったため、心を尽くして礼拝と懺悔を行い、西方の阿耨池にある八功徳水を求めた。七日間経って地面を掘ると、ついにその水を得ることができた。 廬山の曇詵法師が入滅した。享年七十九歳。 イエバラ（これは「自在」と訳される）が彭城において、『毘曇心論』を翻訳した。これは辛巳の年（十八年目、第二回目）のことである。

天竺僧伽達多。至宋都。在山禪寂。群鳥獻果。是年康王。請居廣陵○曇摩密多此云法秀。生而連眉。善呪術。常有善神潛護。在京譯出禪經十二卷釋教錄。壬午十九三

> 天竺の僧、伽達多（がだった）は宋の都に来ました。山で静かに坐禅をしていると、たくさんの鳥たちが果物を捧げました。その年、康王が彼を招いて広陵に滞在させました。 ○曇摩密多（どんまみった）—「法秀」とも呼ばれます。彼は生まれつき眉が繋がっており、呪術に優れていました。いつも善神がひそかに守っていました。都で『禅経』十二巻を翻訳しました<note>釈教録</note>。壬午の年<note>十九</note><note>三</note>。

西域獻文帝火浣布袈裟。帝時自衣之統紀○七月曇摩密多。示寂于鍾山上寺。壽八十七○天竺僧伽䟦摩。還西域。癸未二十四

> 西域から文帝に火浣布の袈裟が献上されました。帝は自らそれを身にまといました<note>統紀</note>○七月、曇摩密多が鍾山上寺で入滅しました。八十七歳でした。○天竺の僧伽䟦摩が西域に帰りました。癸未<note>二十</note><note>四</note>

九月三藏求那跋摩。於祇洹寺。奄然而化。自說證第二果。預作遺文偈百餘句。備言悟身妄幻脩進得果。臨終時。眾見一物如龍。自床直上空中○是年釋慧嚴示寂。壽八十一。帝詔曰。嚴法師。學道之匝。奄爾遷神。可給錢五萬。布五十疋本傳○求那跋陀羅。譯楞伽經四卷。後達磨指此土。唯此經義。契禪宗之直指也。甲申二十一五

> 九月、三蔵（僧）求那跋摩が祇洹寺にて静かに亡くなった。自ら第二果（\*一来果、修行の第二段階\*）を得たと語り、予め遺文の偈を百余句作り、悟りによる身心の虚妄からの脱却と修行の成果を詳述した。臨終の時、大勢の人々が見たところ、一つの竜のようなものが、その床から真っ直ぐに空へと昇っていったのである。 同年、釈慧巌が亡くなった。八十一歳であった。帝は詔して言った。「巌法師は学道を極め、静かにその神を遷された。銭五万、布五十匹を賜え」と。 <注>本伝</注> また、求那跋陀羅は『楞伽経』四巻を翻訳した。後に達磨大師はこの地（中国）を指して、ただこの経典の意義だけが禅宗の直指の教えにかなう、と述べたという。 甲申（年）<注>二十一</注><注>五</注>

曇無竭。二十五人。遊西域二十餘年。自餘竝死。唯竭獨還。得觀音受記經。揚都番譯○魏太子晃。被崔𭁵所讒。太武疑之。晃求哀沙門元高。高為作金光明懺。太武夢其先祖。讓之曰。不當以讒疑太子。既寤以語群臣。臣皆稱太子無過。待之如初。崔浩懼太子。將不利於己。白太武曰。太子前實有謀。結高以術。致先帝恐陛下耳。若不早除。必為大害。太武怒。是年九月。收高及慧崇縊之。高弟子元暢。遠奔至泣高。高忽開眸曰。盛衰在迹。理常湛然。善自脩心。言訖長往。又法達見高於空中。進曰。和尚崇公生何所。高曰。我往惡處救眾生。崇歸安養矣出僧傳。時崇乃尚書韓萬德門師。德次於高。亦被疑也。乙酉二十二六

> 曇無竭は二十五人の僧侶と共に西域へ赴き、二十余年にわたって旅を続けました。他の者たちは皆亡くなりましたが、ただ一人、曇無竭だけが帰還しました。彼は『観音受記経』を携えて帰り、揚都で翻訳されました。 ○北魏の太子・晃は、崔浩の讒言によって太武帝の疑いを招きました。太子は僧・元高に助けを求め、元高は彼のために『金光明懺』を行いました。すると太武帝は夢の中で先祖から「讒言で太子を疑ってはならない」と叱責されました。目覚めた後、太武帝はこのことを家臣たちに語り、家臣たちは皆「太子に過ちはありません」と述べました。そこで太武帝は以前のように太子を遇しました。 崔浩は太子を恐れ、自分に不利になることを案じ、太武帝にこう告げました。「太子は以前、実際に謀反を企て、元高の法力を使って先帝を呼び出し、陛下を恐れさせたのです。今早く除かなければ、必ず大きな害となります」。太武帝は激怒し、その年の九月に元高と慧崇を捕らえ、絞首刑に処しました。 元高の弟子・元暢は遠くへ逃げ、泣きながら元高のもとに駆け寄りました。すると元高は突然目を開けて言いました。「盛衰は表面の出来事に過ぎず、真理は常に静かに変わらない。しっかりと心を修めなさい」。そう言い終えると、永遠に息を引き取りました。 また、法達は空中に元高を見かけて尋ねました。「和尚様、慧崇様はどこへ生まれ変わりましたか？」。元高は答えました。「私は悪いところへ行き、衆生を救っている。慧崇は安養浄土に帰ったのだ」<note>僧伝による。慧崇は尚書・韓万徳の門師であり、その徳は元高に次いでいたが、彼もまた疑いの対象となった。</note>。 乙酉<note>二十二</note><note>六</note>

魏釋曇覺一云惠覺。有才解。譯賢愚經十五卷。備載善惡之喻。丙戌二十三七

> 魏の国で、曇覚<note>別名、惠覚とも言う</note>という僧侶がいました。彼は優れた才能と理解力を持ち、『賢愚経』十五巻を翻訳しました。この経典には、善悪を説くたとえ話が詳しく記されています。丙戌年<note>二十三年</note><note>七</note>のことでした。

魏主。與崔浩。皆信𭁵謙之。而奉其道。浩每言於魏主。以佛法虗誕宜除之。及魏主討蓋吳。至長安入佛寺。沙門飲從官酒。官入其室。見有兵器。白魏主。主怒曰。此非沙門所用。必與蓋吳。同謀亂耳。命有司按誅合寺沙門。浩因說帝。將誅天下沙門。毀諸經像。帝從之。宼謙之切諫。以為不可。浩不從。先誅長安沙門。焚其經像。唯留臺下四寺。勅下四方。一依長安法○太子晃素好佛。屢諫不聽。乃緩宣詔書。使遠近預聞。得各為計。沙門多逃匿獲免。或收藏經像。唯塔廟在魏境者。無復孑遺魏史。丁亥二十四八

> 魏の君主は、崔浩とともに寇謙之を信じ、その教えを信奉していた。崔浩はたびたび君主に、仏教は虚偽であり、廃すべきだと進言した。魏の君主が蓋吳を討伐した時、長安の仏寺に入ると、僧侶が従軍の役人に酒を振る舞っていた。役人が僧房に入ると、兵器があるのを見つけ、君主に報告した。君主は怒って、「これは僧侺の用いる物ではない。必ずや蓋吳と共謀して乱を起こそうとしているのだ」と言い、役人に命じて寺中の僧侶を全員処刑させた。崔浩はこれに乗じて、天下の僧侶をすべて処刑し、経典や仏像をすべて破壊するよう進言し、君主はこれに従った。寇謙之は強く諫めて、それはしてはならないと訴えたが、崔浩は聞き入れなかった。まず長安の僧侶を処刑し、経典や仏像を焼き払った。ただ都の台の下にある四つの寺だけは残し、四方に勅令を下して、すべて長安の方法に従わせた。 太子の晃はもともと仏教を好んでおり、たびたび諫めたが聞き入れられず、そこで詔書の発布を遅らせ、遠近の者が事前に知って、それぞれ対処できるようにした。僧侶の多くは逃げ隠れて難を免れ、経典や仏像を隠す者もいた。しかし、魏の領内にある塔や寺院は、一つも残らず破壊された<note>魏史</note>。丁亥<note>二十四</note><note>八</note>

魏雖滅教。而宋猶彌盛。詔童子惠基入內。帝高之。於祇洹寺。設大會。車駕臨幸。集公卿為基落髮基能通經○廬山宗炳卒。壽六十九。炳甞著明佛論。今在弘明集○釋法朗。多異迹。朗師法進。亦有高行。朗能戶籥中出入。魏武滅法。西適龜茲。國王待以聖禮。及卒後焚骸。兩肩湧泉。直上于天本傳。戊子二十五九

> 魏は仏教を滅ぼしたものの、宋ではいっそう盛んになった。詔により童子の恵基が宮中に入れられ、帝はこれを高く評価した。祇洹寺で大法会を設け、帝は自ら臨席し、公卿を集めて恵基の出家の儀式を行わせた。〈基は経典に通じていた〉 ○廬山の宗炳が亡くなった。享年六十九。宗炳はかつて『明仏論』を著しており、現在は『弘明集』に収められている。 ○釈法朗には多くの不思議な迹があった。法朗の師である法進もまた高い行いをもっていた。法朗は戸の鍵穴から出入りすることができた。魏の武帝が法を滅ぼした際、西方の亀茲に向かったところ、国王は聖人として礼遇した。やがて亡くなり、遺体を焼いたところ、両肩から泉が湧き出て、まっすぐ天にのぼった。〈本伝による〉 戊子（二十五年）〈九〉

釋法瑗有講業。刺史庾登之。甞請講法。文帝訪覔述生公頓悟義者。乃勑下都召對。瑗伸辨詳明。何尚之歎曰。意謂生公之歿。微言永絕。今復聞象外之談。可謂天未喪斯文也。勑為南平穆王鑠五戒師。後天保寺成。詔瑗主之。王景文值其講。歎曰。所舉皆所未聞。所指皆出意表。真法中龍也本傳○廬山雷次宗卒。壽八十。己丑二十六十

> 釋法瑗には法を説く力量があった。刺史の庾登之が法瑗に講義を依頼したこともある。文帝が、生公（道生）が唱えた頓悟の義を継承する者を探していたところ、法瑗が召されて都に参内し、その教えを詳しく明快に述べた。何尚之は感嘆して言った。「生公が亡くなってから、その奥深い教えは永遠に途絶えたと思っていた。今、言葉を超えた論議を再び聞くことができた。まさに天がこの道を滅ぼさなかったのだろう」。帝は法瑗を南平穆王の鑠の五戒師とされた。後に天保寺が完成すると、法瑗にその住持を命じた。王景文が法瑗の講義に立ち会い、嘆じて言った。「述べられることは全て未聞であり、指し示されることはすべて意表を突く。まさに仏法の真中の龍だ」<note>本伝</note>○廬山の雷次宗が亡くなった。八十年の生涯であった。己丑<note>二十六年</note><note>十年</note>

釋寶雲示寂。雲歷遊西域。後還長安。隨佛陀跋陀脩禪。及陀為秦擯。雲歸揚都。乃共智嚴。同譯諸經。庚寅二十七十一

魏來攻宋。文帝遣蕭斌禦之。先鋒王元謨。不閑撫馭。士卒畏縮。未戰輙遁。斌怒將誅謨。謨夢人告曰。誦觀音千遍則免。及覺誦之千遍。將就刃。會王慶之諫曰。魏虜武震天下。豈謨能當。未陣而斬副將。以自弱。非䇿也。斌悟。即貸其死。謨仍將兵如故南史○魏滅佛法。初宼謙之爭。而崔浩不從。宼曰。卿今促年壽。滅門戶矣。至是浩刊所撰國史。于郊壇□。書魏先世事。朝野乃言於帝。以為暴揚國惡。帝怒誅浩三族。及僚屬童吏百三十八人。仍令溲浩口以小便。初浩燒毀經像。路見棄像必溺之。及族誅屍無收者。人亦溺其屍。至棄潰乃止魏書。辛卯二十八正平元

> 北魏が宋を攻めた時、文帝は蕭斌に防衛を命じた。先鋒の王元謨は兵を率いることに慣れておらず、兵士たちは怯えて縮み上がり、戦わずして逃げ出した。蕭斌は怒り、元謨を処刑しようとした。ところが元謨は夢の中で誰かに「観音経を千回唱えれば免れる」と告げられた。目覚めてからその通り千回唱えた。まさに処刑されようとした時、たまたま王慶之が「北魏の軍勢は天下にその武勇を示している。元謨一人で敵う相手ではない。戦わずして副将を斬れば、自軍を弱めるだけであり、良い策とは言えません」と諫言した。蕭斌は悟り、すぐに元謨の死罪を赦した。元謨は以前と変わらず兵を率いることとなった<note>『南史』より</note>。○北魏の仏法破壊の出来事。初め寇謙之が崔浩と争ったが、崔浩は従わなかった。寇は「あなたは間もなく寿命を縮め、家門を滅ぼすことになるでしょう」と言った。崔浩は編纂した国史を郊外の祭壇に刻み、魏の先祖の事を記した。朝廷の内外の人々がこれを皇帝に告げ、国家の恥を露わにしたと非難した。皇帝は怒り、崔浩の三族とその部下、役人、子供たち合わせて百三十八人を処刑した。さらに崔浩の口に小便を流し込ませた。かつて崔浩は経典や仏像を焼き捨て、道に捨てられた仏像を見つけては必ず尿をかけたものだった。そのため一族が処刑された後、遺体を引き取る者はいなかった。人々はその遺体に小便をかけた。ついには遺体が腐って崩れるに至ってようやく止んだ<note>『魏書』より</note>。辛卯<note>二十八</note><note>正平元年</note>。

沙門惠始一云曇始。值魏滅法始乃隱。至是知大法將亨。□□朝元。會振錫至宮門。吏白太武。武曰。趣斬之。刃下無傷。而始臨殿陛矣。武怒抽佩劍自斬之。亦不能傷。劍微有痕。比其時。北園養虎于檻。武令以始餧之。虎皆佈伏不敢瞬。左右請以天師試之。虎即󳶑吼。太武大驚。延始上殿再拜。太武許之復教出北山錄○魏太子晃卒○釋惠紹。自積薪誦藥王品。燒身而滅。臨終曰。吾燒身處。當生梧桐。後三日果生焉。壬辰二十九高宗興安元

> 沙門の惠始（別名を曇始ともいう）は、魏の法難に遭い隠れ住んでいた。法の復興が近いと知り、天子を訪ねようと朝廷へ向かい、杖を鳴らして宮門に至った。役人が太武帝に報告すると、武帝は「すぐに斬れ」と命じた。刃を当てても傷つかず、惠始は宮殿の前に立った。武帝は怒って自らの佩剣を抜いて斬りつけたが、やはり傷つけられず、剣にわずかな傷がついたばかりであった。折しも北園の檻の中で虎を飼っていたため、武帝は惠始を虎の餌とするよう命じた。虎は皆、伏して震え上がり、目を開けることすらできなかった。側近が天師（道士）に試させてみるよう進言すると、虎はすぐに吠えかかった。太武帝は大いに驚き、惠始を招いて上殿させ二度礼をした。武帝は仏教の復興を許した（『北山録』より）。 ○魏の太子・晃が亡くなった。 ○釋惠紹は自ら薪を積み、薬王品を唱えながら焼身して果てた。臨終に「我が焼身の地に梧桐が生えるだろう」と言い、三日後、果たして梧桐が生えた。 壬辰の年（29年、高宗興安元年）。

魏武毀佛之後。自正平初。乃遘厲疾兩年。遍身發瘡。膿血交流。於是佛禁稍弛。民間往往有私習者。是年為侍中宗愛所弑而崩○高宗文成皇帝濬晃之子也。十月即位。群臣勸請興復釋氏。乃下詔曰。夫為帝王。必祇奉明靈。顯彰仁道。其能惠著生民。濟益群品者。雖在往古。猶序其風烈。是以春秋嘉崇明之禮。祭典載功施之族。況釋迦如來。功濟大千。惠流塵境。尋生死者。歎其達觀。覽文義者。貴其妙門。助王政之禁律。益仁智之善性。排撥群邪。開演正覺。故前代已來。莫不崇尚。亦我國家。常所尊事。世祖太武皇帝。開廣邊荒。德澤遐被。沙門道士。善行純誠。如惠始之流。無遠不至。風義相感。往往如林。夫山海之深。怪物多有。姧淫之儔。得容假託。講寺之中。致有㐫黨。是以先朝因其瑕釁戮其有罪。有司失旨。一切禁斷。景穆皇帝。每為慨然。值軍國多事。未遑脩復。朕承鴻緒。君臨萬󳬛。思述先志。以隆斯道。今制諸州縣眾居之所。各聽建佛圖一區。其有好樂道法。欲為沙門。性行素篤。鄉里所明者聽出家。足以化惡就善。播揚道教也。於是天下承風。朝不及名。往時圖寺竝還脩復。經像皆出。時罽賓王種沙門師賢。值罷教權假醫術。守道不改。於復教日。即為沙門。同輩五人。帝親為下髮。賢為僧統魏史。癸巳三十二月帝崩二

> 魏の武帝が仏教を破壊した後、正平の初めから、ひどい疫病に二年間も苦しめられ、全身にできものができ、膿や血が流れ出しました。そのため、仏教の禁令は少し緩み、民間ではひそかに信仰する者が出てきました。この年、武帝は侍中の宗愛に暗殺されて崩御しました。 高宗文成帝は濬晃の子です。十月に即位し、群臣は仏教の復興を勧めました。そこで詔を下して言いました。「帝王たる者は、必ず神明を敬い、仁道を顕彰し、民に恵みを施し、すべての生きとし生けるものを救済する者でなければならない。たとえ昔のことであっても、そのような功績を称えるのが道理である。ゆえに『春秋』は明徳を崇める礼を称え、祭典には功績ある者を祀る決まりがある。ましてや、釈迦如来は大千世界に功徳を施し、塵界に慈悲を広め、生死を求める者には達観を歎じ、文義を読む者にはその妙門を貴ばせる。王の政治を助ける禁律であり、仁と智の善性を増し、邪悪を退け、正覚を開き示すものである。それゆえ、前代より尊ばれ、我が国でも常に敬ってきた。 世祖太武皇帝は辺境を開拓し、徳の恵みは遠くまで及んだ。沙門や道士には善行や純真な誠があり、恵始のような者たちは遠くからも集まり、その風義に感じて集う者は林のように多かった。しかし、山海の深い所には怪しいものが多く、悪者やよこしまな者たちも偽って仏教に託することがあった。講寺の中には凶悪な仲間がいたため、先の朝廷はその罪を罰したのだが、役人が誤ってすべてを禁断してしまった。 景穆皇帝はいつもそれを慨嘆していたが、軍事や国の多事で復興を果たせなかった。朕は大業を継ぎ、天下を治める。先の志を継いで、この道を盛んにしようと思う。今、諸州県の民の集まる所には、それぞれ仏塔を一つ建てることを許す。また、仏法を好み沙門になりたい者で、人柄が誠実で晴らしく、郷里で認められている者は、出家を許す。これによって、悪を改めて善に向かわせ、仏教を広めることができるであろう。」 こうして天下はこれに従い、朝廷の令が届くよりも早く、以前の寺院や仏塔はすべて復興され、経典や仏像も現れました。当時、罽賓王の生まれで沙門であった師賢は、廃仏の際に医術に仮託して仏道を守り、改めませんでした。復興の日、すぐに沙門となり、仲間の五人が帝自らの手で剃髪されました。師賢は僧統となりました。<note>魏史</note> 癸巳（三十歳）、二月に帝が崩御。

魏敕有司。於五級大寺。為太祖已下五帝。鑄釋迦像五尊。各長丈六。用金二十五萬斤。沙門曇曜。帝禮為師魏書。甲午世祖孝武帝駿孝建元興光元

> 魏の朝廷は役人に命じて、五級大寺において太祖以下の五帝のために、釈迦像を五体鋳造させました。それぞれの像の高さは一丈六尺で、用いた金は二十五万斤にのぼりました。僧の曇曜は、皇帝から師として礼遇されました<note>魏書</note>。甲午の年<note>世祖孝武帝</note><note>駿</note><note>孝建元年</note><note>興光元年</note>のことです。

譙王義宣。陰謀逆節。求那䟦陀羅諫之不從。及梁山之敗。孝武敕軍中。得陀羅者驛馳至。俄得之。送金陵引見。帝顧問委曲。敕住後堂。供施衣物。一日問曰。尚念譙王乎。對曰。古人不忘一飯。王飯我十年。敢遽忘耶念當從陛下求。為王長脩冥福。帝悽然改容。及中興寺成。有旨命住持。帝宴東府。公卿畢集。召䟦陀至。應對機辨。帝大悅○釋普明。蔬食布衣。專誦法華維摩。每至勸發品。輙見普賢乘象立其前。而誦維摩。亦聞空中樂聲。又善神呪。所救皆愈。一人妻病。請明來呪。明入門婦便悶絕。見一狸從狗穴出。因此而愈。又甞入一神祠。神皆奔走本傳。乙未二太安元

> 譙王の義宣が密かに反逆を企てた際、求那跋陀羅はこれを諫めたが聞き入れられなかった。梁山の戦いに敗れた後、孝武帝は軍中に命じて「跋陀羅を捕らえた者は、すぐに馳せて連れてこい」と命じた。間もなく捕らえられ、金陵に送られて引見された。帝は詳しい事情を尋ね、後堂に留めて衣服や物資を供与した。 ある日、帝が尋ねた。「まだ譙王のことを考えているか？」 跋陀羅は答えた。「古人は一飯の恩も忘れません。王は私に十年の食事を供しました。どうしてすぐに忘れることができましょうか。ただ、陛下にお願いしたいのは、王のために長く冥福を祈らせていただくことです。」 帝はこれを聞いて、顔色を変え、しみじみと感じ入った。 その後、中興寺が完成し、勅命により跋陀羅が住持となった。帝が東府で宴を催し、公卿が皆集まった際、跋陀羅を召して応対させると、その機知と弁舌に帝は大いに喜んだ。 ○普明という僧は、菜食と粗末な衣を身にまとい、ひたすら法華経と維摩経を読誦していた。特に勧発品を読むたびに、普賢菩薩が白象に乗って目の前に現れるのを見た。また維摩経を読誦すると、空中から音楽の声を聞くこともあった。さらに神呪にも優れており、呪いをかけた者は皆治癒した。 ある人の妻が病気になったので、普明に呪いを頼んだ。普明が家に入ると、婦人はすぐに気を失った。すると一匹の狸が犬の穴から逃げ出した。それ以来、婦人は治癒した。またある時、神祠に入ると、神々はみな逃げ去った。 <note>本伝</note> 乙未<note>二</note><note>太安元</note>

孝武詔沙門道猷。為新安鎮寺法主。初文帝深敬之。至是為天下法主。甚允時望。元徽中卒。壽七十一○釋寶亮。年十二。禮青州道明出家。學業既精。後因遊京師。居中興寺。中書袁粲見而異之。以書抵其師道明。略曰。比見亮公。非常人也。日聞所未聞。不覺歲之將暮。然珠生合浦。魏人取以照乘。玉在邯鄲。秦王請以華國。天下之寶。不可自專。當與同之也。自是亮名益重○釋僧瑜。常謂結累三塗情形故也。情既盡矣。形亦宜捐。是年六月。於廬山集薪為龕。發火已。入中端坐。誦藥王品。火焰交至。猶合掌不散。道俗咸見紫氣騰空。後十四日。其房生雙桐。聳成奇樹。丙申三二

> 孝武帝が沙門の道猷（どうゆう）に詔して、新安鎮寺の法主とした。もともと文帝が深く敬っていた人物だが、このたび天下の法主となり、時の人々の期待に十分に応えた。元徽年間に亡くなった。享年七十一。 ■ 釈宝亮（ほうりょう）は、十二歳の時に青州の道明のもとで出家した。学業はすでに優れていたが、のちに京師を遊学し、中興寺に住んだ。中書の袁粲（えんさん）が彼を見て異才を認め、その師の道明に手紙を送り、おおよそ次のように述べた。「近ごろ亮公にお会いしましたが、まことに並々ならぬ人物です。日に日に未聞の道理を聞き、季節が暮れるのも忘れてしまいました。しかし、真珠は合浦で生まれても、魏の人がそれを取り、車の宝飾として用います。玉は邯鄲にありながら、秦王がそれを請い、国を飾らせます。天下の宝を、ひとり占めにしてはいけません。どうか皆で分かち合いましょう。」このことから、亮の名声はますます高まった。 ■ 釈僧瑜（そうゆ）は、常に「三塗の苦しみは、形あるものに執着するから起こる。情（心の執われ）が尽きれば、形もまた捨てるべきだ」と説いていた。その年の六月、廬山の薪を集めて龕（かん）をつくり、火をつけた後、その中に端座して「薬王品」を誦した。炎が身に迫っても、なお合掌したまま乱れることがなかった。修行者や在家の人々は、みな紫気が空中にたなびくのを見た。その後十四日目に、その房に二本の桐の木が生え、そびえ立つ珍しい木となった。丙申年

釋元暢。初事元高。因魏滅法。乃至楊州。深明經律禪要。初華嚴。文旨浩博。未有疏釋。暢乃提章批句。傳講迄今。暢其始也。又善於三論。為學者之宗。文帝深重之。請為太子師。再三辭遜。及太初事故。方知先覺。自是遷憩荊州山。長沙寺講法。丁酉大明元三

> 釋元暢は、初め元高に師事していた。北魏の仏教弾圧により、揚州に至った。経・律・禅の要諦を深く明らかにした。初め、『華厳経』はその文旨が浩瀚で、注釈書が存在しなかった。暢は章句を摘出し解釈を加え、講説して今日に至るまで伝えられた。暢がその先駆けである。また『三論』に秀で、学徒の宗と仰がれた。文帝は彼を深く重んじ、太子の師となるよう依頼したが、再三固辞した。太初の事件が起きた時、初めてその先見の明が知られた。その後、荊州の山に移り住み、長沙寺で法を説いた。丁酉年＜big＞(大明元年)＜/big＞＜small＞(三)＜/small＞のことである。

二十七祖般若多羅。以法付菩提達磨。偈曰。心地含諸種。因心復生理。果滿菩提圓。華開世界起。即於座立。舒左右手。放光二十七道。踊身虗空。化火自焚。空中舍利如雨正宗乃甲午年化○釋惠簡。譯五天使者等經十部。戊戌二四

> 二十七祖・般若多羅は、法を菩提達磨に授けて、次のような偈（うた）を詠みました。 「心の地は、あらゆる種を含んでいる。 この心によって、さらに道理が生まれる。 悟りの果実が満ちれば、菩提（さとり）は円満となり、 花が開けば、世界が立ち現れる。」 般若多羅はその場で立ち上がると、左右の手を広げて二十七本の光明を放ち、空中に身を躍らせて自ら火の中に身を投じ、荼毘に付されました。空中からは、雨のように数多くの舎利が降り注ぎました。 （※『正宗記』によれば、これは甲午年の出来事です。） 釈恵簡は、『五天使者経』など十部の経典を翻訳しました。これは戊戌年のことでした。

時釋僧詮。精練三藏。化洽江南。性好檀施。周贍貧乏。居無縑幣。屢造金像。禪禮無輟。孟顗。張暢。張敷。戴顒。戴勃。竝師事之僧傳○上詔法師曇宗懺罪。上因曰。朕何罪而勞卿為懺。宗曰。舜稱予違爾弼。禹曰萬方有罪。在予一人。陛下履道思冲。寧得獨異。帝大悅統紀。己亥三五

> 当時の僧である釈詮は、三蔵に精通し、江南の地で教化を広めました。彼は布施を好み、貧しい人々を広く救済しましたが、自らは財産を持たず、しばしば金の仏像を造り、禅定と礼拝を欠かしませんでした。孟顗、張暢、張敷、戴顒、戴勃らは皆、師として彼に従いました<note>僧伝</note>。 また、帝は法師曇宗に罪の懺悔を命じました。帝が「朕に何の罪があって、わざわざあなたに懺悔させるのか」と言うと、曇宗は「舜は『我が過ちを正せ』と言い、禹は『万方に罪があれば、その責めは一人の我にあり』と言いました。陛下は道を歩み、謙虚を思われているのですから、どうして特別に異なることがありましょうか」と答え、帝は大いに喜びました<note>統紀</note>。 己亥<note>三</note><note>五</note>

釋道汪。初師遠公。究經律。甞行梁州道。為羗賊所圍。汪念觀音。有頃覺如雲霧者覆汪身。盜尋不見。於是獲免。後止成都。化行巴蜀。孝武帝聞汪德行。迎為中興寺主○二月釋僧慶。於淨名像前焚身。眾見一物如龍。從𧂐升天僧傳。庚子四廣州獻三角牛河南獻舞馬和平元

> 釋道汪は、初めは遠公に師事し、経典や律を極めた。かつて梁州の道中で、羌族の賊に包囲されたことがある。汪が観音を念じると、やがて雲や霧のようなものが汪の身を覆ったように感じられた。盗賊たちは汪を見失い、こうして難を免れた。その後、成都に留まり、巴蜀の地で教えを広めた。孝武帝は汪の徳行を聞き及び、中興寺の住職として迎えられた。 ○二月、釈僧慶が浄名像の前で焚身した。人々は龍のようなものが薪の中から天に昇るのを見た<note>僧伝</note>。 庚子<note>四</note><note>広州が三角牛を献じ、河南が舞馬を献じた</note><note>和平元</note>

十月八日。路昭皇太后。造普賢像成。於中興禪房設齋。所請二百僧已集。忽有異僧預座。氣貌秀發。舉眾驚嗟。齋主問往何寺。曰天安。言對之間。倐然不見。眾乃悟其神僧也。時釋道溫。敕為都邑僧主。京兆尹孔靈符以事表聞。詔仍改禪房。為天安寺。溫後開講。數感神異。帝悅之。賜錢五十萬溫傳○西域功德直。至荊州。釋元暢請出念佛三昧等經。暢刊正文義。辭旨婉切。暢能舒手出香。掌中流水。莫之測也。辛丑五二

> 十月八日、路昭皇太后が造った普賢像が完成した。中興禅房で斎を設け、招かれた二百人の僧が集まった。そこへ突然、見知らぬ僧が席に加わった。その気品ある風貌は際立ち、集まった人々は皆驚き感嘆した。斎の主催者がどこの寺の僧か尋ねると、「天安」と答えた。その言葉を交わす間に、僧はたちまち姿を消した。人々はようやく、その僧が神通力を持つ聖なる僧であったと悟った。当時、釋道溫が勅命により都邑の僧主に任じられていた。京兆尹の孔靈符がこの出来事を上奏すると、詔により禅房を改めて天安寺と名づけられた。道溫は後に説法を行い、幾度も不思議な仏の兆しを感じさせた。帝はこれを喜び、銭五十万を賜った<note>温の伝</note>。 西域から功徳直が荊州に来た。釋元暢が招き、念佛三昧などの経典を訳出させた。元暢が正文の意味を校訂し、その言葉は婉曲で切実であった。元暢は手を伸ばして香りを出し、掌から水を流すことができたが、その理由は誰にも測り知れなかった。辛丑<note>五</note><note>二</note>

釋僧鏡。初止京講法。徐湛之重之。請為門師。後化洽三吳。聲馳上國。世祖欽風。敕止定林。頻建法聚○釋慧通。麈尾一振。軒蓋盈衢。孝武厚加寵秩。敕與海陵建平二王為友。壬寅六三

> 僧鏡という僧は、最初に都で法を説いていました。徐湛之が彼を重んじ、門師として迎えました。その後、三呉の地で教化が広まり、名声は都にまで届きました。世祖（宋の孝武帝）はその風格に敬服し、定林寺に留まるよう命じました。何度も法要を開催しました。 また、慧通という僧は、払子（ほっす）をひと振りすると、多くの貴顕が集まりました。孝武帝は厚く寵愛し、海陵王と建平王の二人の王と交わりを持つよう命じました。壬寅（じんいん）

釋僧遠。初於青州講法。道俗悅服。瑯瑘王僧達。延止眾造寺。遠周貧濟乏。身無留財。斂死撫生。恩加骨肉。孝敬王子鸞。造新安寺。詔遠居之。九月右司諫言。臣聞。佛以謙卑自牧。以忠順為道。不輕比丘。逢人必拜。目連大士。遇長即禮。寧有屈膝四輩。而間禮二親。稽顙耆臘。而直骸萬乘者耶。臣等參議。以為沙門接見。皆當盡禮敬之容。則朝徽有序。帝雖頗信法。而尤自驕縱。奏上之日。詔即可焉。遠歎曰。我本出家求道。何關帝王。即日謝病拂衣。隱定林山理有可行。則萬古不易。理不可行。則一朝難通。制旨雖下。眾竟不遵。逾年制。還復舊矣。○釋法瑤。講法有聲。是年敕吳興郡。禮致上京。與道猷。同止新安寺。使頓漸二悟義各有宗。至便就講。鑾輿降蹕。百辟陪筵本傳○魏釋曇曜。欣三寶再興。於北臺寺。譯付法藏傳等經○初魏帝。於恒安西北三十里。武周山北面。鐫石崖。立靈巖寺。龕之大者。高二十餘丈。可受三千人。鐫諸聖像。相連三十餘里。東頭僧寺。常供千人。太武雖毀敗。而此龕不毀也。癸卯七四

> \### 僧遠 僧遠は、もともと青州で説法を行い、道俗ともに心から服従した。琅琊王の僧達が彼を招いて、眾造寺に住まわせた。僧遠は貧しい人々を広く救済し、自分のために財を残すことはなく、死者を弔い、生者を撫で、その恩愛は実の親子のようであった。孝武王の子鸞が新安寺を建立すると、詔勅により僧遠がそこに住むこととなった。 九月、右司諫が上奏した。「私は、仏は謙虚に自らを修め、忠順を道とし、比丘を軽んじず、人に逢えば必ず礼拝すると聞いています。目連大士も、目上の方に出会えば礼を尽くされました。どうして、四衆（比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷）にひざまずきながら、父母に対する礼を省略し、老練な僧侶に頭を下げながら、天子に対しては礼を失するということがありましょうか。私たちが協議したところ、僧侶が謁見する際は、皆、礼敬の心を尽くすべきだと考えます。そうすれば朝廷の秩序が整うでしょう。」 帝は仏法をかなり信じてはいたが、特に我がままで高慢であった。上奏の日、帝はすぐに詔勅を下し、これを許可した。 僧遠は嘆いて言った。「私はもともと出家して道を求めたのであって、帝王と何の関わりがあろうか」その日、病を理由に辞任し、衣を払って定林山に隠れた。 <note>道理が行われるべきなら、永遠に変わらない。道理が行われるべきでなければ、一時も難しい。詔勅は下されたが、人々はついに従わなかった。翌年、詔勅は以前の状態に戻された。</note> ### 法瑤 法瑤は説法に名声があった。この年、勅命により呉興郡から礼をもって上都に召され、道猷と共に新安寺に住んだ。頓悟と漸悟の二つの悟りが、それぞれに基づく教義を持つようにさせられた。法瑤は上都に着くとすぐに説法を始めた。天子の車駕が訪れ、百官が宴に陪席した。<note>本伝より</note> ### 曇曜（魏） 曇曜（北魏）は、仏・法・僧の三宝が再び興隆することを喜び、北臺寺で『付法蔵伝』などの経典を翻訳した。 ### 霊巖寺建立 もともと北魏の帝は、恒安の西北三十里、武周山の北面に岩を彫り、霊巖寺を建立した。最も大きな石窟は高さ二十丈余りで、三千人を収容できた。諸々の聖なる像が彫られ、三十里余りにわたって連なっていた。東側の僧寺は常に千人を供養していた。太武帝によって破壊されたが、この石窟だけは破壊されなかった。 癸卯年（西暦 463年？）のことである。

天下大旱。帝請求那䟦陀祈雨。陀即燒香祈請。不復飲食。默誦經呪。明日晡時。風震雲合。連日降雨。敕見慰勞。䞋施相續○釋慧益。數年却粒。唯食香油。誓欲燒身。是年四月八日。於鐘山。置鑊辨油。自至雲龍門辭帝。帝躬出門益以佛法。憑囑而辭。帝亦續至。道俗滿山。益入鑊。以吉貝自纏。上加一帽。以油灌之。手自執燭。以然帽。誦藥王品。火及眼乃聲絕。時聞空中笳管。異香芬苾。帝夜夢益振錫至。更囑以佛法。帝明日為設會度人。燒身之處。謂藥王寺也本傳○釋僧璩。譯十誦羯磨。甲辰八五月帝崩太子子業立五

> 天下で大干ばつが起こった。皇帝は那跋陀に祈雨を依頼した。陀はすぐに香を焚いて祈願し、飲食を断ち、ひたすら経文と呪文を唱えた。その翌日の午後、風が激しく吹き、雲が立ち込め、連日の雨が降った。皇帝は彼を呼び寄せてねぎらい、たびたび贈り物を賜った。 一方、僧侶の慧益は、何年も穀物を断ち、ごま油だけを食べて、自らの身を焼くことを誓っていた。その年の四月八日、鐘山に鍋を用意して油を汲み、自ら雲龍門に至って皇帝に暇を告げた。皇帝は自ら門を出て、慧益に仏法を説き、それを託して別れを告げた。また、皇帝も後を追い、道俗の人々が山に満ちた。慧益は鍋に入り、吉貝（木綿）で身を巻き、その上に帽子をかぶり、油を注いだ。自ら蝋燭を手に取り、帽子に点火した。そして『薬王品』を唱え続け、火が目に達すると声が途絶えた。その時、空から笳（あしぶえ）や管楽器の音が聞こえ、異様な芳香が漂った。その夜、皇帝は夢の中で慧益が錫杖を鳴らしながら現れ、再び仏法を託された。翌日、皇帝は法会を開き、人々を救済した。燃やされた場所は、後に「薬王寺」と呼ばれるようになった<note>本伝</note>。 また、僧侶の僧璩は『十誦羯磨』を翻訳した。甲辰の年<note>八</note><note>五月、皇帝が崩御し、太子の子業が即位した</note><note>五</note>。

制沙門復舊。免致敬人主通鑑○天竺阿那摩仾此云寶意。至京。常轉側數百貝子。立知凶吉。善能神呪。以香塗掌。亦見人往事。世祖施其銅唾壺。忽人竊之。仾以席一領空卷之。呪上數遍。經于三夕。唾壺還在席中。道俗敬異焉本傳。乙巳景和元十一月大臣廢君乃奉太宗明帝或即位改泰始元六五月高宗崩顯宗即位

> <note>通鑑</note>沙門を復旧させ、君主への敬礼を免除した。 <note>本伝</note>インドの僧・阿那摩仾（これは「宝意」と訳す）が都に到着した。彼はしばしば数百の貝を転がして吉凶を瞬時に知り、神通力のある呪文に長けていた。また掌に香を塗れば、人の過去の出来事を見通すことができた。世祖（孝武帝）が銅製の痰壺を与えたところ、ある日突然誰かに盗まれてしまった。仾は一枚の茣蓙を空ろに巻き、その上に数回呪文を唱えた。三晩過ぎると、痰壺はその茣蓙の中に戻っていた。僧侶も在家も皆、その不思議を敬い、驚嘆した。 乙巳（景和元年）<note>十一月に大臣が君主を廃し、太宗明帝が即位した</note><note>改元して泰始元年とした</note><note>六</note><note>五月に高宗が崩御し、顕宗が即位した</note>

楊州瓦官寺釋慧果。常誦法華。一日於廁見鬼。禮云。昔為僧作維那。小不如法。墮地獄。出生噉糞鬼中。願師拔濟。昔有錢三千。埋在柿樹下。願取為福。果因告眾掘錢。為造法華設會。後夢見鬼云。已得改生勝處感通錄○釋慧亮。講席有聲。顏延歎曰。安汰吐珠玉於前。斌亮振金聲於後。清言妙緒。將絕復興。至是於莊嚴寺。學徒盛集。敕亮與斌。遞為法主本傳○魏高宗文成帝。五月崩。帝度僧尼。三萬餘人。廣興佛教。脩復諸寺。丙午太始二魏顯祖憲文帝共天安元

> 揚州の瓦官寺に住む僧、釋慧果は、常に法華経を読誦していた。ある日、厠で鬼を見かけ、その鬼が礼を述べて言った。「昔、僧であった時に維那を務めましたが、ほんの少し法に背いたため、地獄に堕ちました。そこから生まれ変わって、糞を啜る鬼の身となってしまいました。どうかお師僧様、お救いください。昔、三千の銭を柿の木の下に埋めておりました。それを取り出して、私のために福徳を積んでください」。慧果がそのことを大衆に告げ、銭を掘り出して法華経の法要を営んだところ、その後、夢の中で鬼が現れて言った。「既に勝れた境涯に生まれ変わることができました」と。─『感通録』─ また、釋慧亮は講席で名高く、顏延之が感嘆して言った。「安和汰は玉の言葉を先に紡ぎ、斌と亮は金の響きを後に鳴らす。清らかな語りと妙なる理は絶えようとして再び興った」と。かくして彼は荘厳寺に集う多くの学徒の中で、法主を引き継ぐよう命じられた。─『本伝』─ 北魏の高宗文成帝は、五月に崩御された。帝は多くの僧尼を擁し、人々を目覚めさせた。三万人余りの僧尼を度した。広く仏教を興し、多くの寺を修復された。丙午（太始二年、天安元年）。

釋僧瑾。初宋孝武。敕為湘東王師王即太宗。王從請五戒。甚加優禮。至是即位。乃敕瑾為天下僧主。給隊仗車輿。月俸三萬。瑾性不蓄金。皆充福業。起靈根靈基二寺。元徽中卒○寶誌大士。往來皖山。劍水之下。髮而徒跣。著錦袍。面方而瑩徹如鏡。手足皆鳥爪。初金陵東陽民。朱氏之婦。聞兒啼鷹巢中。梯樹得之。舉以為子。七歲依鍾山僧儉出家。專脩禪觀。至是顯迹。以剪尺拂子。掛杖頭。負之而行。經聚落。兒童譁逐之。或微索酒。或累日不食。甞遇食鱠者。從而求之。食者分㗖之。而有輕薄心。誌即吐水中。皆成活魚。時時題詩。初若不可解。後皆有驗本傳。丁未三皇興元

> 宋の頃、僧の釋僧瑾は、初め孝武帝の命により湘東王の師となりました<note>この王が後の太宗です</note>。王は僧瑾に五戒を授かるよう求め、手厚く礼遇しました。その後、王が即位すると、僧瑾を天下の僧侶の頂点とし、護衛や車輿を与え、月々三万の俸禄を賜りました。しかし、僧瑾は金銭を蓄えることをせず、すべてを福徳のための行いに充て、靈根寺と靈基寺の二寺を建立しました。元徽の年に亡くなりました。 ○寶誌大士は、皖山や劍水のほとりを往来し、髪は伸ばし放題で裸足、錦の袍をまとい、顔は四角く透き通って鏡のようで、手や足は鳥の爪に似ていました。もともと金陵の東陽の地で、朱氏の婦人が鷹の巣の中で赤ん坊の泣き声を聞き、梯子をかけて木に登り、その子を拾い、わが子として育てました。七歳のとき、鍾山の僧であり、儉という僧に従って出家し、ひたすら禪觀を修行しました。その後、不思議な力を現すようになり、鋏や尺、払子などを杖の先に掛けて背負い、村々を巡りました。子供たちは騒いで彼の後を追いかけました。時に少しばかり酒を欲しがり、何日も食事をとらないこともありました。ある時、魚の切身を食べている人に出会い、それを求めました。食べていた人が少し分け与えましたが、内心で輕んじる思いがありました。すると寶誌はそれを口に含み、水の中に吐き出すと、みな生きている魚になりました。また、時折詩を書き付けましたが、初めは理解できないようでいて、後になって必ずその通りになりました<note>本傳より</note>。丁未年（三年）<note>皇興元年</note>のことです。

釋道猛。學造淵微。初止京寺。太宗時為湘東王。深相崇薦。及登祚。倍加禮接。帝創寺于建陽門外。敕猛為綱領。帝曰。人能弘道。道藉人弘。今法師非直道益蒼生。亦乃有光。世望可目。寺為興皇。敕猛於寺開講成實。序題之日。帝親臨幸。公卿皆集。帝久之詔曰。猛法師。風道多濟。朕素所賓友。可月給錢三萬。使史車轝等。猛隨有所得。皆施貧造寺。元徽三年卒○釋智林。宋明敕下京寺講說。申明二諦義。有三宗不同。時周顒又作三宗論。與林意符。林乃致書於顒謂。此義無人得者幸。已建明斯義。便宜廣宣。故三宗之旨。傳述至今○周顒字伯倫。累遷直侍殿省。明帝慘酷。顒不敢顯諫。輙誦經中罪福因緣之事。帝為少沮。顒於鍾山西。別立精舍。休沐則歸之。終年蔬食。雖有妻子。而遠居山舍。宰相王儉問曰。卿山中何所食。曰赤米白鹽綠葵紫蓼。蕭子顯戲問。菜食何味最佳。顒曰。春初早韭。秋末晚崧。其標致如此。掛冠盛時居山。以壽終本傳○魏於常安北臺。起永寧寺。七級浮圖。高三百餘尺。又於天宮寺。作大像。高四十三尺。用銅十萬斤。黃金六百斤通鑑。戊申四二

> 釋道猛は、学問の奥義を極めた人物である。はじめは京の寺に住していたが、太宗が湘東王であった頃から深く尊敬され推挙された。やがて帝位につくと、いっそう厚く遇されるようになった。帝は建陽門の外に寺を建立し、道猛をその指導者に任じた。帝は言った。「人は道を広めることができる。道は人によって広められる。今、法師はただ道によって人々を救うのみならず、世の人々の模範となるであろう。」この寺は興皇寺と名付けられた。帝は道猛に命じて、寺で『成実論』の講義を開かせた。その序題を述べる日には、帝みずからが臨席し、公卿たちもすべて集まった。帝は長い間その席にとどまり、「猛法師は、その教えによって多くの人を救っている。わたしは以前から師を賓客であり友人と見なしている」と述べ、月々に銭三万を給し、車やかごなどを与えるよう命じた。道猛は得たものをすべて貧しい人々に施し、寺を建立した。元徽三年に死去した。 ○釋智林は、宋の明帝の命により、京の寺で説法を行い、「二諦」（真実の二つの側面）の義を明らかにした。当時、三宗の解釈に違いがあった。ちょうどその頃、周顒が「三宗論」を著したが、それは智林の見解と一致していた。智林は周顒に手紙を送り、「この義を理解した者は今までいなかった。あなたがすでにこの義を明らかにしたのだから、ぜひ広く説くべきである」と述べた。そこで三宗の教えは、今日まで伝えられている。 ○周顒は、字を伯倫といい、累進して殿省に仕えた。明帝は残酷であったため、周顒は直接諫めることができず、経典の中の罪福や因果の話をしばしば語った。帝はそのたびにいくぶん気落ちした。周顒は、鍾山の西に別荘を建て、休日にはそこに帰った。一年中菜食で過ごし、妻子がありながらも、山の庵に離れて住んだ。宰相の王儉が問うた。「山中では何を食べているのか。」答えて、「赤米、白塩、緑葵、紫蓼です。」蕭子顕が冗談交じりに、「菜食で一番おいしいものは何か。」と問うと、周顒は答えた。「春先の初物の韮、秋の終わりの白菜です。」その風雅さはこのようなものであった。盛んなる時に官を辞して山に住み、天寿を全うした。<本伝> ○魏は、常安の北台に永寧寺を建立した。七重の塔は、高さ三百余尺であった。また、天宮寺には、高さ四十三尺の大仏像を造り、銅十万斤、黄金六百斤を用いた。<通鑑> 戊申<四><二>

正月天竺求那䟦陀羅。朝辭天子。公卿言。將示滅。帝親臨決別。陀談笑而逝。壽七十五。陀蔬食。終身香爐。未甞離手。每食輒分食飛鳥。鳥皆集手取食。祈譯經論五十二部。一百三十四卷○帝造湘宮寺。新成大開講肆。妙選英僧。敕請法瑗。為法主。帝降蹕法筵。公卿會坐。一時之盛。觀者榮之僧傳。己酉五三

> 正月、天竺の求那跋陀羅は、朝に天子に別れを告げました。公卿たちは彼が入滅しようとしていると告げると、帝は自ら臨んで別れを告げました。陀羅は談笑しながらそのまま逝きました。享年七十五歳でした。陀羅は生涯菜食で、常に香炉を手放さず、食事のたびに食べ物を分けて鳥に与えました。すると鳥たちは皆、手に集まって食べ物を取ったといいます。彼が翻訳した経論は五十二部、百三十四巻に及びました。 また、帝は湘宮寺を建立し、新しく完成すると大いに講席を開き、優れた僧侶を選びました。そして、帝は法瑗を法主に招くよう命じました。帝自ら法座に臨み、公卿たちも集まり、その席は当時大いに盛り上がり、見る者は皆、それを名誉に思いました<note>僧伝</note>。己酉<note>五</note><note>三</note>

釋弘充。思入玄微。口辨天逸。王臣皆重之。明帝起湘宮寺。請充為綱領。時湘宮又有法鮮。聰哲有力。與充齊名○釋超進。詔徵至都。講法鼓經。後還會稽。元徽中卒。壽九十四○七月趙泰死。十日復甦云。有二人。弘入黑門。見絳衣人。次第呌名。問生時行業。主者言。常遣使者在人間。記人善惡。以相檢校人死。有三惡道。殺生禱祀最重。持佛善戒。則死在福舍。又到地獄。案行見泰。父母弟在泥犂獄。又見受獄報已。更受變報者。又見供佛脩福。得脫生者。又入開光門。見佛度諸地獄。地獄即空。泰乃問天道地獄道門。相去幾何。曰天道地獄道門相對。又間人死何者為樂。曰唯奉佛持戒者樂耳。又問未奉佛時造罪。今奉佛其過除否。曰皆除。主者乃召都錄。問泰何死。令取籍看。有餘筭三十年。橫為鬼所取。令放還。由是一家發心奉佛。為祖父母弟。製幡蓋。作福會也。庚戌六四

> 釈弘充は、玄妙な真理の奥深くまで思いを巡らせ、その弁舌は天のごとく鮮やかであった。王や大臣たちも皆、彼を重んじた。明帝が湘宮寺を建立すると、弘充を招いて寺院の統括とした。その頃、湘宮寺には法鮮という僧侶もおり、聡明で力強さがあり、弘充と名声を同じくしていた。 釈超進は、詔により都に招かれ、『法鼓経』を講じた。後に会稽に戻り、元徽の年中に没した。享年九十四であった。 七月、趙泰という者が死んだが、十日後に蘇生し、次のように語った。「二人の者に連れられて黒い門の中に入ると、緋色の衣を着た人がいて、次々に名を呼び、生前の行いを問いただした。主者（支配者）が言うには、『常に使いを人間界に派遣し、人々の善悪を記録させ、死後に照合するのだ。人には三つの悪道がある。殺生や祈禱は最も重い罪である。仏の善い戒めを守る者は、死後、幸いの住まいに行く。』また地獄に行き、調査すると、趙泰の父母と弟が泥犁（地獄）にいるのを見た。また、地獄の報いを受けた後、さらに変異した報いを受ける者たちを見た。また、仏に供養し福徳を積むことで、そこから脱して生まれ変わる者たちも見た。さらに開光門に入り、仏が地獄の者たちを救済し、地獄が空になるのを見た。」 そこで趙泰は、天道と地獄道の門は、どれほどの距離があるのかと尋ねた。答えは、「天道の門と地獄道の門は向かい合っている。」であった。また、「人が死んだ後、何が最も楽しいのか。」と尋ねると、「ただ仏を敬い戒めを守ることだけが楽しいのである。」と答えた。さらに、「仏を敬わなかった時に罪を犯しましたが、今、仏を敬うことで、その罪は除かれるのでしょうか。」と尋ねると、「すべて除かれる。」と答えた。 主者は、記録官を呼び寄せ、趙泰がなぜ死んだのかを問い、戸籍を調べさせた。すると、なお三十年の寿命が残っているのに、不当に鬼に取られたことが分かり、還すように命じた。このことにより、一家は心を発して仏を敬い、祖父母と弟のために幡蓋（のぼりや天蓋）を作り、福徳のための法会を行った。庚戌（年）

東海何敬叔。少奉法。因得栴檀。製以為像。而無圓光。屢求不獲。因夢沙門杖錫來曰。檀非可得縣後。何家桐盾可求之。次早因求買之。何曰曾未示人君何得知敬。叔以事告之。何氏驚喜。奉以製光。後為湘府直省。又夢像現感通。辛亥七魏孝文帝延興元

> 東海の何敬叔は、若い頃から仏法を信奉していた。ある時、栴檀の木を手に入れ、それで仏像を造ったが、光背（円光）だけはどうしても得られなかった。何度求めても手に入らなかったところ、ある夜の夢に僧侶が錫杖を携えて現れ、こう言った。「栴檀は手に入らなくとも、県の後ろにある何家の桐の盾を求めなさい。」翌朝、早速その盾を買い求めに行った。すると何氏が言った。「まだ人に見せたこともないのに、どうしてご存知なのですか。」敬叔が夢の出来事を話すと、何氏は驚き喜び、その盾を差し出した。敬叔はそれで光背を造った。後に湘府の直省となった時、再び夢に仏像が現れたという。 <note>感通</note>　辛亥<note>七</note><note>魏孝文帝延興元</note>

魏顯祖。即位六年。聰睿夙成剛毅有斷。而深信釋氏之學。每引朝士及沙門。共談玄理。雅薄富貴。常有遺世之心。六月乃禪位於太子宏。是為高祖孝文皇帝。宏時年五歲。乃尊顯祖。為太上皇帝。上皇徙居崇光宮。宮在北苑中。又建鹿野寺。於苑之西山。與僧居之。時談禪理北史。壬子泰豫元二

> 魏の顕祖（けんそ）は即位から六年が経っていました。彼は幼い頃から聡明で、剛毅果断な性格でありながら、深く仏教の教えを信仰していました。よく朝廷の役人や僧侶を招き、共に玄妙な仏理を語り合いました。富貴を薄く見なし、常に俗世を離れたいという心を持っていました。六月、ついに皇位を太子の宏（こう）に譲りました。これが高祖孝文皇帝です。宏は当時五歳でした。顕祖を太上皇帝と尊称し、上皇は崇光宮に移り住みました。この宮殿は北苑の中にあり、さらに鹿野寺を苑の西山に建て、僧侶たちと共にそこに住みました。その時、彼はよく禅の理を語り合っていました<note>北史</note>。壬子の年<note>泰豫元年</note><note>二</note>のことです。

四月太宗崩。在位八年。至治克昌。造丈八金像。旦食常齋。日誦般若。爰感舍利。造弘普寺六帖○魏西域吉迦夜此云言可。番譯寶藏等經二十四卷。癸丑蒼梧王　元徽元三

> 四月、太宗が崩じました。在位は八年でした。政治はよく治まり、よく栄えました。一丈八尺の金の仏像を造り、朝の食事は常に精進料理とし、毎日『般若経』を誦経しました。そして舎利を感得し、弘普寺を建立しました<note>六帖</note>。 〇魏の西域の僧、吉迦夜<note>漢訳では「言可」という意味</note>は、『宝藏経』などの経典二十四巻を翻訳しました。これは癸丑の年<note>蒼梧王　元徽元年</note><note>三</note>のことです。

沙門邵碩。康居國人。與誌公最善。出入經行。不問夜日。意欲求之。則去遊益州。以滑稽言事。能發人懽笑。因勸以善。家家喜之。至人家眠地者。家必有死。能分身於數處。刺史劉孟明挹事之。忽著布帽詣明。少時明卒。先是孟明長史沈仲玉。改鞭杖之格嚴重常科。碩謂玉曰。天地嗷嗷從此起。若除鞭格得刺史玉除之。及明卒。仲玉果行州事。是年九月將亡。謂沙門法進曰。願露骸松下。然脚須著屐。進諾之已而化。舁其屍露之。明日往視失所在。俄有自郫縣來者曰。昨見碩公著一履行市中曰。為我語進公。小兒見欺止為我隻履。進驚問。沙彌答曰。舁屍時一履墮行。急不及繫也。甲寅二四乙卯三東莞人徐垣妻懷身兒在腹中啼五

> 沙門の邵碩（しょうせき）は、康居国（こうきょこく）の人で、誌公（しこう）と最も親しかった。外出や修行の際、昼夜を問わず、その心のままに行動した。ある時、蜀の地へ遊歴しようと思い立ち、道中で滑稽な話をして人々を笑わせ、その笑いを通して善を勧めた。どの家でも彼を喜んで迎えたが、彼が家で地面に寝ると、その家には必ず死者が出た。また、彼はいくつもの場所に同時に姿を現すことができた。 刺史の劉孟明（りゅうもうめい）は彼を敬い、世話をしていた。ある日、忽然と布の帽子をかぶって孟明を訪ねたが、しばらくして孟明は亡くなった。それ以前に、孟明の長史（ちょうし）である沈仲玉（しんちゅうぎょく）が鞭打ちや杖刑の規則を改め、通常より厳しい刑罰を定めていた。邵碩は仲玉に言った。「天地が声をあげて泣き叫ぶのは、まさにこれからだ。もし鞭打ちの規則を廃すれば、お前は刺史になるだろう」。仲玉がこれを廃すると、孟明の死後、仲玉は実際に州の政務を執り行った。 その年の九月、邵碩は死の間際に沙門の法進（ほうしん）に言った。「願わくば、私の遺体を松の下に露わにさらしてほしい。ただし、足には木履（きり）を履かせてほしい」。法進がこれを承諾すると、邵碩は息を引き取った。法進がその遺体を運び出し、露わにしておいた。翌日見に行くと、遺体は消えていた。すぐに郫県（ひけん）から来た者が言った。「昨日、碩公が一足の木履を履いて市場に現れ、『法進師にこう伝えてくれ。小僧にだまされた。片方の履だけにされてしまった』と言っていました」。法進が驚いて小僧に尋ねると、小僧は答えた。「遺体を運ぶ時、片方の履が落ちました。急いでいたので結び直す余裕がありませんでした」。 甲寅年<note>二</note><note>四</note>、乙卯年<note>三</note><note>東莞の人、徐垣の妻が妊娠し、子が胎内で泣いた</note><note>五</note>

釋曇斌。講法有聲。孝建初。敕王謨資發出京。止新安寺。講頓漸之旨時皆悅服。至是示寂本傳。丙辰四承明元　太上皇崩

> 釈曇斌（しゃく どんひん）は、法を説く声が素晴らしかった。孝建の初め、勅命により王謨が旅費を出して都へ送り出し、新安寺に留まった。頓（とん）と漸（ぜん）の教えの要旨を講じたところ、当時の人々は皆、喜び従った。やがて入寂された<note>本伝</note>。丙辰の年<note>四</note><note>承明元　太上皇崩る</note>。

魏造建明寺。自後建福度僧立寺非一。北臺有百餘寺。僧尼二千人。四方諸寺。六千餘所。僧尼七萬七千餘人北史。丁巳五七月蒼梧王遇弑順帝准立改昇明元太和元

> 魏の時代に建明寺が建てられました。それ以降、福徳を積み、僧を度し、寺院を建てることが絶えませんでした。北台には百余りの寺院があり、僧尼は二千人いました。四方の諸寺院は六千余り、僧尼は七万七千人余りでした<note>北史</note>。丁巳年<note>五</note><note>七月、蒼梧王が弑逆され、順帝准が立つ</note><note>昇明元年と改元</note><note>太和元年</note>

時逸士顧懽尚黃老。以佛道二教。學者互相非毀。乃著夷夏論。略曰道則佛也。佛則道也。其聖則符其迹則返。或和光以明近。或耀靈以示遠。道濟天下故。無方而不入。智周萬物故。無物而不為。其入不同。其為必異。各成其性。不易其事。是以端委搢紳。中華之容。剪髮曠衣。西域之服全形。守禮繼善之風。毀貌易形。絕惡之學。無盡世界。聖人代興。或昭五典。或布三乘教。華而華言化。夷而夷語尋。夫聖道雖同。而法有左右。泥洹仙化。各是一術。佛號正真。道稱正一。一歸無死。真會無生。在名則返。在實則合。但無生之教。賖無死之化。切切法可以進。謙弱賒法可以退。夸強佛教文而愽。道教質而精。精則精人獨能。愽則粗人廣化。佛言華而引。道言實而抑。佛經繁而顯。道經簡而幽。幽則妙門難見顯則正路易遵。此二法之辨也。聖匠無方。方圓有體器。既殊用教。亦異施佛。是破惡之方道。是興善之術。興善則自然為高。破惡則勇猛為貴。佛迹光大。宜以化物。道迹密微。宜用為己。優劣之分。大略在茲○懽雖同二法。而意黨道教。司徒袁粲。為文駁之。略曰。孔老教俗為本。釋氏出俗為宗。發軫既殊。其歸亦異。又仙化以變形為尚。泥洹以陶神為先。變形者。白首窮玄。而未能無死。陶神者。塵惑日損。而湛然常住。泥洹之道。無死之地。陶神若此。何謂其同○時何常侍鎮之。覩懽和同二教大不平之。以書抵懽。劇言道教不足以擬釋氏。又重與書。略曰。太極剖判形識謬。彰識以流染因。結形以愛滯緣生。及其沉欲淪波觸涯思濟。思濟則祈善。祈善則聖應。聖者何感。而遂通者也。夫通不自通。感不自感。感常在此。通每自彼。自彼而言懸鏡高堂。自此而言萬像斯歸。故知天竺既中土。於大千斯感通於至聖。聖應既彼聲被則此雲行法。教雨施華夏。道者一也。形者二也。道者真也。形者俗也。盡二得一。宜一其法。滅俗歸真必其違俗。是以孔以全形守祀。恩接六親。老以攝生養性。自我外物。乃為盡善。不為盡美。蓋是有涯之制。未鞭其後也。何得擬道菩提。比聖牟尼哉○時復有朱常侍昭之作難夷夏論。朱廣之作諮夷夏論。竝章分句。解以破顧。懽之蔽於淺也。汝南周顒高僧慧通竝著駁夷夏論。懽之作遂不勝其謬矣。復有法師紹正。著二教論。略曰。佛明其宗。道全其生。守生者蔽。明宗者通云云南史。戊午二二

> 当時、隠士の顧懽は黄帝や老子の教えを尊び、仏教と道教の学者たちが互いに批判し合っていたことを憂い、『夷夏論』を著しました。その中で大要を述べています。「道とは仏であり、仏とは道である。その聖なる本質は一致するが、その現れ方は異なる。ある時は和光同塵で近しいものを明らかにし、ある時は霊光を輝かせて遠大なものを示す。その道は天下を救うゆえ、方々を遍く照らし、智は万物を包むゆえ、為せぬことはない。その入り方は同じでなく、その為すことは必ず異なる。各々が自らの本性を完成させ、その業を変えない。ゆえに、端委（正装）を身にまとい紳士となるのが中華の姿であり、頭を剃り衣を粗末にするのが西域の風習である。全身を保ち礼を守り善を継ぐのが我々の風であり、姿を毀ち形を変えるのが悪を絶つ学問である。 尽きせぬ世界に聖人は代々現れる。時に五経を明らかにし、時に三乗の教えを説く。華やかな地では華やかな言葉で教え、辺境では辺境の言葉で求める。聖道は同じであっても、法には左右がある。涅槃と神仙は各々一つの術である。仏は正真と号し、道は正一と称する。一は不死に帰し、真は不生に合う。名称は逆であるが、実質は一致する。ただし、不生の教えは緩やかであり、不死の教化は切実である。切実な法は謙虚な者を進め、緩やかな法は誇り高い者を退ける。仏教の文は華やかで博識であり、道教の文は質素で精妙である。精妙であれば賢者だけが理解でき、博識であれば凡庸な者も広く教化される。仏の言葉は華やかで人を引きつけ、道の言葉は実直で抑制する。仏経は繁雑だが明らかであり、道経は簡潔だが奥深い。奥深ければ妙なる門は見えにくく、明らかであれば正しい道は歩みやすい。これが二つの教えの違いである。 聖なる匠は一つの型にはまらず、方と円は器に応じて形づくられる。用途が異なれば教えも異なる。仏は悪を破る方法であり、道は善を興す術である。善を興すなら自然が最も高く、悪を破るなら勇猛が貴ばれる。仏の跡は光り輝き、物事を教化するのに適する。道の跡は密かで微妙であり、自己を修めるのに適する。優劣の差は、おおよそこのようなものである。」 顧懽は二つの教えを同一視しながらも、内心では道教を支持していました。司徒の袁粲は文を著してこれを批判しました。大要は次の通りです。「孔子と老子の教えは世俗を教化することを根本とし、仏教は世俗を離れることを宗旨とする。出発点が異なれば、その帰着するところも異なる。また、神仙は形体を変えることを重視し、涅槃は心を陶冶することを優先する。形体を変える者は、白髪になるまで深遠を究めても不死を得られない。心を陶冶する者は、塵のような惑いが日々減り、清らかに常住する。涅槃の道は不死の境地である。心を陶冶することがこのようであるのに、何をもって同じとするのか。」 当時、常侍の何鎮之という者が、顧懽が二教を同一視したのを見て大いに不快に思い、手紙を顧懽に送り、道教は仏教に遠く及ばないと激しく論じました。さらに重ねて手紙を送り、大要を述べています。「太極が開かれて以来、形と識は誤って顕われた。識は流れに染まる因によって結ばれ、形は愛着に留まる縁によって生まれる。欲望の波に沈み、岸に当たって渡ることを願う。渡ることを願えば善を祈り、善を祈れば聖人が応じる。聖人とは何か。感じて通じるものである。通じることは自ら通じるのでもなく、感じることは自ら感じるのでもない。感じることは常にこちらにあり、通じることは常にあちらから来る。あちらから言えば、高堂に掛けられた鏡のようであり、こちらから言えば、全ての像が帰するところである。ゆえに天竺は大千世界において中土であり、ここにおいて至聖に感じ通ずる。聖人の応じる声があちらに及べば、こちらにはその教化が雲のように行き渡り、法の雨が華夏に降り注ぐ。 道は一つであり、形は二つである。道は真であり、形は俗である。二つを尽くして一つを得るなら、その法を一つにすべきである。俗を滅し真に帰るには、必ず俗に背くことになる。ゆえに孔子は全身を保ち祭祀を守り、恩をもって六親に接する。老子は心身を整え本性を養い、自己をもって外物と為す。これらは善を尽くしてはいるが、美を尽くしてはいない。すなわち有限の境を定めたものであり、その奥を追うには至らない。どうして菩提に擬え、牟尼（釈尊）と比べることができようか。」 当時、また朱常侍の昭之という者が『難夷夏論』を著し、朱広之という者が『諮夷夏論』を著し、いずれも章句を分けて顧懽の浅はかな見解を打ち破ろうとしました。汝南の周顒、高僧の僧通も共に『駁夷夏論』を著し、顧懽の論はついにその誤りを示されてしまいました。また、法師の紹正という者が『二教論』を著し、大要を述べています。「仏はその宗旨を明らかにし、道はその生命を全うする。生命を守る者は暗く、宗旨を明らかにする者は通じる。」などと記されています（『南史』による）。 戊午（二）（二）

昇明三年四月。順帝禪位于齊。王蕭道成○宋六十年中。寺一千九百十三所。僧尼三萬六千人。譯師二十三人。所譯經律論四百九十卷。釋教隆盛。篤信倍多方志。

> 昇明三年四月、順帝が位を斉に譲り、王は蕭道成となりました。宋の六十年の間、寺院は千九百十三か所、僧尼は三万六千人、訳経師は二十三人で、翻訳された経・律・論は四百九十巻にのぼります。仏教は非常に盛んで、信心深い人々もとりわけ多かったのです<note>方志</note>。

齊　蕭姓　都建康七主二十四年禪于梁魏。己未太祖高道成建元元太和三

> 斉。蕭姓。都は建康。魏。己未。

四月齊太祖即帝位。欽崇三寶。愽濟群生。用心以仁。垂化以儉六帖○彭城宋王寺。有丈八金像。北境兵起。像輙流汗。是年像忽流汗。冬魏宼淮。時兗州驅迫。沙門助其戰守魏軍。誣以助亂。須及斬決。像大汗流。地魏徐州刺史。梁王奉法。王使數人以帛拭。隨出不已。王乃拜曰。眾僧無罪。誓自營護。必不加罪。若幽誠有感。當隨拭即止。言已自拭。應手而燥。王具表聞。下詔皆見原宥云感通錄○王琰久奉觀音金像。初寄揚都南㵎寺。琰忽夢像立于座隅。即馳迎還。其夕南㵎。失像十餘。為盜毀鑄錢也。宋大明七年。放光三尺。合家同覩。後以此像。寄多寶寺。琰適荊楚十載。不知像處。及還揚都。夢在殿東詰旦造寺。如夢便獲。是年七月十日也琰冥祥記釋元暢。自宋末適成都。是年至民嶺齊后山。有終焉之志。四月二十三日。建剎立寺。名曰齊興。正齊祖受命之辰天時人事萬里。懸合時傅。琰鎮成都。欽暢風軌待。以師敬琰。因以暢迹表聞。敕蠲百戶。以充俸給本傳。庚申二四

> 四月、斉の太祖が帝位に即位した。仏法を深く敬い、三宝を尊び、広く生きとし生けるものを救済した。その心は仁をもってし、教化は倹約をもって行われた<note>六帖</note>。 彭城の宋王寺には、丈八の金の像があった。北方で兵乱が起こると、その像は必ず汗を流した。この年、像が突然汗を流した。冬、魏が淮に侵攻した。その時、兗州は民衆を無理やり動員し、僧侶たちも戦闘や防衛を手伝わされた。魏の軍は彼らを謀反の手助けと偽って告発し、処刑しようとした。すると像から大汗が流れ、地面にまで及んだ。魏の徐州刺史である梁王は仏法を敬っていた。王は数人の使いに絹布で汗を拭かせたが、拭いても次々と出て止まなかった。そこで王は礼拝して言った。「僧たちに罪はありません。私は必ず彼らを守り、罪に問われることのないように誓います。もし私の誠実な願いが感じられるなら、どうか拭くと同時に汗が止まりますように」。そう言って自ら拭くと、手に応じてすぐに乾いた。王は詳しくこのことを上奏し、詔が下って皆が赦免されたという<note>感通録</note>。 王琰は長い間、観音の金の像を大切に祀っていた。初めは揚都の南澗寺に預けていたが、ある夜、琰は夢の中でその像が座席の隅に立っているのを見た。すぐに急いで迎えに行くと、その夜、南澗寺では十数体の像が盗人に壊され、溶かされて銭にされてしまった。宋の大明七年、その像からは三尺の光が放たれ、一家で同時にそれを見た。後にこの像を多宝寺に預けた。琰が荊楚の地に十年ほど赴いている間、像の在りかはわからなかった。揚都に戻った時、夢で寺の東の殿にあるのを見た。翌朝、寺に出向くと、夢の通りに像を見つけた。その年は七月十日だった<note>琰冥祥記</note>。 釈元暢は、宋の末頃から成都に赴いていた。この年、民嶺の斉后山に至り、そこに終焉の地と定める志を立てた。四月二十三日、寺を建立し、「斉興」と名付けた。これはまさに斉の太祖が天命を受けた時であり、天の時と人の行いが遠く隔たっていても見事に合致した。当時、傅琰が成都を鎮めていた。琰は元暢の気風や行動を敬慕し、師として遇した。琰は元暢の事績を上奏し、詔によって百戸の税が免除され、寺の費用に充てられた<note>本伝</note>。庚申<note>二</note><note>四</note>。

釋僧慧。講法為西學所師。至是敕為荊州僧主。年衰常乘輿赴講。觀者號為禿頭。官家與元暢同。時人謂黑衣二傑○時番禺毗耶精舍。有扶南大石像。七八十人。擡之方起。此寺遇火近矣。尼三四人試捧之。飄然而起。像既移矣。屋亦焚焉。每有神光。遇有𭁵則淚汗。後廣州送出都。安蔣州寺中感通○魏詔以僧顯。為沙門都統。辛酉三五

> 釋僧慧は法を講じて、西学の師とされたが、この時、荊州の僧主に任じられた。年老いても輿に乗って講義に通い、見る者は彼を「禿頭（とくとう）」と呼んだ。官家（役人）としての待遇は元暢と同じで、当時の人は彼らを「黑衣の二傑」と呼んだ。 その頃、番禺の毘耶精舎には、扶南（ふなん）から来た大きな石像があった。これを七、八十人がかりでやっと持ち上げられるようなものだった。ある時、この寺で火事が起きそうになった。尼僧三、四人が試しに像を捧げると、それはひらりと軽く動いた。像を移した直後、寺は焼けてしまった。像はしばしば神光を放ち、賊が来ると涙を流したり汗をかいたりした。後日、広州から都に送られ、蒋州寺に安置された<note>感通</note>。 また、魏の詔により、僧顕が沙門都統とされた。辛酉<note>三</note><note>五</note>。

魏釋僧淵。風姿宏偉。腰帶十圍。慧解有聲。劉因之捨所住山。給為精舍。有弟子慧記道登。竝為文帝所重是年淵卒本傳○又釋道慧有慧學。是年卒○代京閹䆠。自慨刑餘。奏乞入山服道。敕許之。乃賷華嚴。晝夜讀誦。禮懺不息。忽生髭鬚。得丈夫相。以狀聞帝。大驚異之。一國敬華嚴矣感通○齊天竺曇摩伽陀耶舍此云法生。出無量義經。壬戌四六

> 魏の時代、僧の釋僧淵は、風格が雄大で、腰回りは十囲もあった。その智慧と解釈は評判であった。劉因は自分の住んでいた山を譲り、僧淵に精舎として与えた。弟子に慧記と道登がおり、ともに文帝の厚い信頼を受けていた。この年、僧淵は亡くなった。 また、釋道慧も優れた学識を持ち、この年に亡くなった。 代京の宦官が、自らの身体の欠損を嘆き、山に入って修行に専念したいと願い出た。帝はこれを許した。そこで彼は『華嚴経』を携え、昼夜読誦し、礼拝と懺悔を絶え間なく行った。すると突然、鬚や髭が生え、男らしい姿を取り戻した。この様子を帝に報告すると、帝は大いに驚き、異とした。国中が『華嚴経』を敬うようになった。 斉の時代、天竺から来た曇摩伽陀耶舍（法生と訳す）が『無量義経』を翻訳した。壬戌の年（四六六年）のことである。

正月高帝。幸莊嚴寺。聽法師行遠講維摩經。公卿畢集。帝坐稍遠不聞法音。中書張緒勸遠遷坐近。帝遠不從俄頃。帝自遷坐近之○三月高帝崩。在位四年常誦般若。寫法華。四月八日常鑄金像。七月十五普寺送盆。供僧三百。造陟屺正觀二寺。帝每曰使我治天下十年。當使黃金與土同價。惜乎享年不永。壽五十六方志等○世祖武帝維即位○四月十五日。皇太子集大乘僧於玄圃。安居九旬講法。至七月十五。解講乃捨身。及輿冕自纓已降凡九十九物。願以此力。普被幽明。淪苦海者。得隨理悟。癸亥世祖武帝永明元七

> 正月、高帝は莊嚴寺に行幸された。法師の行遠が『維摩経』を講じるのをお聞きになるためである。公卿たちは皆集まったが、帝のお座りがやや遠く、法の音声が聞こえなかった。中書の張緒が行遠に近くへ席を移すよう勧めたが、行遠は従わなかった。しばらくして、帝自らが進んで近くにお座りになった。 ○三月、高帝は崩御された。在位は四年であった。常に『般若経』を誦経し、『法華経』を写経された。四月八日には常に黄金の仏像を鋳造し、七月十五日には全ての寺で盂蘭盆会を行い、三百人の僧侶に供養された。また、陟屺寺と正観寺の二つの寺を建立された。帝は常に、「もし我に天下を十年治めさせれば、黄金を土と同価にしてみせよう」と言われた。惜しいことに、その御年は長くなく、五十六歳で亡くなられた。<注>方志等</注> ○世祖武帝（諱は頤）が即位された。 ○四月十五日、皇太子は玄圃に大乗の僧侶を集められ、安居の九旬の間、講法を行われた。七月十五日に至り、講を解くにあたって、自らの身を捨てることを誓われ、車や冠、その他の品々、合わせて九十九品を施された。願わくは、この功徳の力によって、幽冥の世界にまで広く行き渡り、苦しみの海に沈む者たちが、真理に従って悟りを得ることができますように。 癸亥（世祖武帝・永明元年）<注>七</注>

二月八日。齊竟陵王置講席。於上邸之法雲精廬。廣集僧眾。演法六宵弘明○釋僧鍾。善三論有才辨。止中興寺。是年魏使李道固來朝。帝召鍾為館伴。與道固語。日差中鐘不食。固曰。何以不食。鐘曰。先佛遺法過中不食。固曰。無乃為聲聞耶。鐘曰。應以聲聞得度者即現聲聞。為說法時。以為名對。爾後盤桓。講說稟聽成群。文惠太子。及竟陵王數請。南面七年卒○文惠太子。及竟陵文宣王子良。竝精佛理。而子良尤深焉。每招致名僧。講論佛法。道俗之盛江左未有。或親為眾僧賦食行水。世頗以為失宰相體。而子良之信愈篤南史。甲子二八

> 二月八日、斉の竟陵王は講席を設け、上都の法雲精舎にて広く僧侶を集め、六晩にわたって法を説かれた<note>『弘明集』</note>。 釈僧鍾は三論に秀で才弁に長け、中興寺に住していた。同年、魏の使者李道固が来朝すると、帝は僧鍾を召して館伴とし、道固と対談させた。日が中天に差し掛かり、僧鍾が食事をとらないのを見て、道固が「なぜ食べないのか」と尋ねると、僧鍾は「先仏の遺法により、過ぎてからは食べないのです」と答えた。道固が「それは声聞の戒律ではないか」と言うと、僧鍾は「声聞によって度すべき者には、声聞の姿を現すのです」と応じた。法を説く際、このような名対（適切な対話）となった。その後も長く法を講じ、教えを聴く者は群れをなした。文恵太子と竟陵王はたびたび招請し、僧鍾は南面して説法した。七年後に亡くなった。 文恵太子と竟陵文宣王の子良は、共に仏教の哲理に精通していたが、子良は特に深く悟っていた。しばしば名僧を招いて仏法を講じ議論させた。道俗ともに盛んで、江左においてかつてないほどであった。時に自ら僧侶たちに食事や水を配ることもあった。世間ではこれを宰相の姿にそぐわないと批評する者もいたが、子良の信仰はますます篤くなるばかりであった<note>『南史』</note>。 甲子<note>二</note><note>八</note>

釋僧遠。自隱定林山。遊心法苑。緬想人外。時之名士。何點周顒吳苞張融等。皆投身接足咨其戒範。齊太祖。將升位入山尋遠。遠固辭。老疾足不垂床。太祖躬自降禮。咨訪委悉。及登禪。復鑾駕臨幸。將詣遠房。而房。狹不容輿。蓋太祖欲見遠。遠持操不動。乃遣使勞問。轉蹕而去。遠曾不屑焉。至于𥨊疾。文惠文宣。伏膺師禮。數往參候。時貴卿士。往還不絕。遠蔬食五十餘年。㵎飲二十餘載。是年正月卒。帝致書於法獻曰。承遠上無常。弟子夜中已自知之。遠上此去。甚得好處。遲見法師。可敘瑞夢也。今正為作功德。所須可具。數來竟陵文宣王又書曰。遠法師一代名德。四海飡風。弟子闇昧。謬蒙師範。方欲仰稟仁化。用洗煩慮。不謂奄成異世。悲痛曷忍。師既業行。希有不應。雜處僧墓。當別小地。樹剎表奇。刻石銘德也。即營墳於山南。王儉製󳬴本傳○十一月。釋元暢。因武帝可徒。文宣王。文惠太子。皆遣徵迎。於是汎舟東下本傳云。至京少時而卒。壽六十九。又於法獻。傳中載。暢以建武初亡。壽七十五。然僧傳同出惠皎之手。而二說不同如此。還只一暢耶。或有二暢耶人正通之。乙丑三九

> 釋僧遠は、定林山にこもり、心を仏法の庭に遊ばせ、俗世を離れた境地を思いめぐらしていた。当時の名士である何点、周顒、呉苞、張融らは皆、身を投げ出してその戒律の指導を仰いだ。斎の太祖（高帝）は即位する前に山に入り、僧遠を訪ねたが、僧遠は頑なに断り、「老いて病み、足も床につかない」と言って応じなかった。太祖は自ら礼を尽くして尋ね、細かいことまで相談した。そして禅譲を受けて即位した後、再び車駕で訪れ、僧遠の部屋に行こうとしたが、部屋が狭くて車が入れなかった。太祖は僧遠に会いたいと思ったが、僧遠は立場を変えず、動かなかったので、使者を遣わして労い、方向を変えて立ち去った。僧遠はそれに対して少しも気にかける様子がなかった。 やがて病に伏せると、文恵太子と文宣王（竟陵王・蕭子良）は師としての礼を尽くし、たびたび見舞いに訪れた。当時の貴族や役人たちも絶え間なく往来した。僧遠は五〇年以上菜食を続け、二〇年以上は谷川の水だけを飲んでいた。その年の一月に亡くなった。帝（斎の武帝）は法献に手紙を送って言った。「遠上人が亡くなったとのこと、弟子（朕）は夜中にすでにそれを知っていました。遠上人があの世へ行かれたのは、素晴らしい場所を得たのです。遅ればせながら法師（法献）にお会いし、瑞夢のことをお話ししたいものです。今、功徳を積もうとしていますので、必要なものがあれば用意しなさい。すぐに来るように」。さらに竟陵文宣王（蕭子良）も手紙を送った。「遠法師は一代の名高い徳者であり、天下の人々がその風を慕っていました。弟子（私）は愚かでありながら、誤って師範と仰ぎ、まさにその慈愛ある教えを仰ぎ、煩わしい思考を洗い清めようとしていました。まさか突然あの世と変わってしまうとは、悲しみに耐えられません。師はすでに業行を積み、並ぶ者はいません。僧侶の墓に交えて葬るべきではなく、別に小さな地所を設け、塔を建ててその異彩を表し、石に刻んでその徳を銘記すべきです」。すぐに山の南に墳墓が営まれ、王倹が碑文を撰した。＜注：本伝＞ 一一月、釋元暢は、武帝、司徒（竟陵王・蕭子良か）、文恵太子が皆、使いを遣わして招いたため、舟で東へ下った。＜注：本伝には「京に至り、ほどなくして亡くなった。享年六九」とある。また、法献の伝には「暢は建武の初めに亡くなった。享年七五」とある。しかし、僧伝はいずれも恵皎の手によるものだが、両説がこのように異なる。ただ一人の暢なのか、それとも二人の暢がいるのか、人は正しく通じていない。＞ 乙丑（三）、（九）

敕沙門法獻元暢。同為僧主。分任南北兩岸。獻公律行精純。德為物範。初西遊于闐。獲佛牙舍利經像而還。暢公亦律禁清白。文惠太子舉為戒師。獻後被敕三吳。使妙簡二眾。暢亦東行。重伸受戒之法。暢以建武初亡。壽七十五。獻以建武末卒。年與暢同僧傳○釋法度。宋末至京。高士明僧紹。隱居瑯瑘𭗵山。捨所居為棲霞精舍。請度居之。先有道士。欲以寺地為館。住者輙死。後為寺自度居之。群妖皆息。一日神來。通名曰靳尚。弟子王有此山七百餘年。法師道德所歸。謹捨以奉。并願授五戒。度曰。檀越血食世祀。此最戒所禁也。尚曰。若備門徒。輙先去殺乃辭去。閱日又來。送錢設供。同眾禮拜。度為受戒。而去𭗵山。廟巫夢神告曰。吾已受度法師戒。祀我勿得殺戮。由是廟祭止菜脯而已。度後有疾。神又奉藥水。而度疾瘥云。丙寅四十

> 敕により沙門の法献と元暢が共に僧主とされ、南北の両岸にそれぞれ任じられた。献公は律行が精純で、その徳は人々の模範となった。初め西方の于闐に遊学し、仏牙舎利や経像を得て帰還した。暢公もまた律の禁を清らかに守り、文惠太子により戒師に推挙された。その後、献は勅命により三呉に派遣され、僧尼二衆の選別を適切に行った。暢も東へ赴き、改めて戒律を受ける法を広めた。暢は建武の初めに亡くなり、享年七十五歳であった。献は建武の末に亡くなり、その年齢は暢と同じであった<note>僧伝</note>。 ○ 釈法度は、宋の末年に都に至った。高士の明僧紹は瑯琊の攝山に隠棲し、住居を捨てて棲霞精舎とし、法度に請じてそこに住まわせた。以前、道士がこの寺の土地を道観にしようとしたが、住もうとする者は皆死んでしまった。後に寺となり、法度が住むようになると、様々な妖怪はすべて鎮まった。ある日、神が来て名乗りを「靳尚」と言った。「私はこの山を七百年余り所有してきました。法師の道徳に帰依すべきですので、謹んでこの山を差し上げます。どうか五戒を授けてください」と。法度が言うには、「檀越は血の供え物をする世間の祭祀を行っておられる。これこそ最も戒律で禁じられていることです」。尚が言うには、「もし御弟子の列に加えていただけるなら、すぐに殺生をやめましょう」と言って去った。数日後、再び来て金品を納め供養を設け、皆と共に礼拝した。法度は戒を授け、攝山を去った。廟の巫女は神の夢を見て告げられた。「私はすでに度法師から戒を受けている。私を祭る時には殺生をしてはならない」。これにより廟の祭りは野菜と干し肉だけとなった。その後、法度に病気があり、神はまた薬水を捧げ、法度の病は快癒したという。丙寅<note>四</note><note>十</note>

三月有大石。從海浮入江取以獻鑿為像。坐高三尺餘三寶紀。○釋僧慧卒。壽七十九。自佛圖澄至道安。安至慧遠。遠至曇順。順至僧慧。凡五世價重。帝王風動四方。事標史冊北山錄○慧有弟子僧岫。亦以學顯。名有慧敞。亦志業純正。代慧為僧主僧史○會稽釋弘明卒。壽八十四。明誦法華。習禪禮懺為業。每旦水瓶自滿。天童為其給。使虎甞入室。伏其床前。久之乃去。又山精來惱。明以腰繩繫之。鬼謝乃放。丁卯五十一

> 三月、大きな石が海から川へと浮かび入ってきた。それを取り上げて献上し、彫って像とした。座った姿で高さは三尺余りある<note>三宝紀</note>。 ○僧である釈慧が亡くなった。享年は七十九。仏図澄から道安、道安から慧遠、慧遠から曇順、曇順から僧慧まで、五代にわたりその価値は重く、帝王たちも感化され、その名声は四方に広まった。これらの出来事は史書に記録されている<note>北山録</note>。 ○慧には弟子の僧岫がおり、学問で名を成した。また慧敞という者もおり、志と業が純粋で正しく、慧の後を継いで僧の主となった<note>僧史</note>。 ○会稽の釈弘明が亡くなった。享年は八十四。弘明は法華経を誦し、禅を修行し、礼拝や懺悔を日課としていた。毎朝、水瓶が自然に満ち、天の童子が彼に仕えた。虎が時折部屋に入り込み、彼の前にうずくまって、しばらくしてから去っていった。また山の精が現れて彼を悩ませたが、弘明は腰紐でその精を縛った。精が謝ると、彼は放してやった。丁卯の年<note>五</note><note>十一</note>。

正月交州獻一珠。高二寸。中含佛像。几臺座眉目皆具三寶紀○吳興道士孟景。翼造正一論。略曰。佛以一乘為法。老以抱一為式。在佛為實相。在道為玄牝。道之大象即佛之法身。司徒中郎張融作門律。略曰。道之與佛。逗極無二。以示汝南周顒。顒難之曰。虗無法性其寂雖同。位寂之方其旨則別云云南史○釋淨度。辟穀餌松肪。能講誦禪律。甞誦寶積經。及半而疾命。侍者代之。閱遍而化。人見空中有寶馬負棺而去。戊辰六十二冀州送九尾狐大赦

> 正月、交州から一つの宝玉が献上された。高さ二寸、中に仏像が宿っている。台座や眉目まで全てを備えていた<note>三宝紀</note>。 ○ 呉興の道士、孟景が『正一論』を著し、大意はこう述べている。「仏陀は一乗を教えの根本とし、老子は一なるものに抱かれることを規範とした。仏教ではこれを実相と呼び、道教ではこれを玄牝という。道の大いなる姿こそ、すなわち仏の法身である。」司徒中郎の張融は『門律』を書き、その大意は次の通り。「道と仏とは、その究極に至れば二つではない。」これを汝南の周顒に示したところ、周顒は反論して言った。「虚無や法性の寂静は同じように思えるが、寂に至る道筋はその趣旨が異なるのである」云々<note>南史</note>。 ○ 釈浄度は穀物を断ち、松脂を養いとし、経典や禅定、戒律を説くことに長けていた。かつて『宝積経』を誦していたが、途中で病にかかり、侍者に代読させた。経典を読み終えるとそのまま入滅した。人々は虚空の中に宝馬が棺を背負って去って行くのを見たという。戊辰<note>六</note><note>十二</note><note>冀州より九尾の狐を送り大赦</note>

釋曇度。精通論學。獨步當時。魏孝文。遣使請至平城。大開講席。帝致敬下筵。親詢理味。學徒由是而盛。是年卒○釋道盛善講論。初宋明帝。及謝超宗。皆師敬之。齊帝敕代曇度。為僧主○法師寶亮。齊竟陵文宣王聞。其名。躬身至房。請為法匠。後移止靈味寺講經。鋒辨天逸。講涅槃凡八十四遍。勝鬘四十二遍。維摩。成實。大品。小品。法華。十地。楞嚴。無量壽等。各近十遍。黑白弟子三千餘人。諮稟門徒。不可勝數本傳○釋普恒常習禪。與蜀韜公友善。甞入火光三昧。見先身業報等事。後坐脫而化○僧伽䟦陀羅此云僧賢。出善見毗婆沙律十八卷○六月東陽獻六眼龜。腹下有文字。又禪靈寺剎上放光三寶紀○魏徐州僧統僧逞卒。帝詔徐州。施帛三百疋。又設五千人齊。以供追福。己巳七十三

> 曇度は経典研究に秀で、当時第一人者として名を馳せた。北魏の孝文帝は使者を遣わして平城に招き、盛大な講席を開かせた。帝自ら下座に控え、敬意を表して学問の真髄を尋ねた。そのため学僧たちは大いに盛んになった。この年に没した。 ○道盛は議論が巧みで、宋の明帝や謝超宗も師として敬った。齊の武帝は勅命を下し、曇度の後任として僧主に任じた。 ○法師寶亮は、齊の竟陵文宣王がその名声を聞きつけ、自ら房まで訪ねて法匠に請うた。後、靈味寺に移り住んで経典を講じた。その機弁は天衣無縫で、涅槃経は実に八十四回、勝鬘経は四十二回、維摩経・成実論・大品般若経・小品般若経・法華経・十地経・楞厳経・無量寿経などはそれぞれ十回近く講じた。在家・出家の弟子は三千余人、教えを請う門徒は数えきれないほどであった<note>本伝</note>。 ○普恒は常に坐禅を修行し、蜀の韜公と親交があった。かつて火光三昧に入り、前世の業報などを見た。後、坐ったまま入滅した。 ○僧伽跋陀羅<note>僧賢と訳す</note>は『善見毘婆沙律』十八巻を漢訳した。 ○六月、東陽から六つ目の亀が献上された。腹の下に文字があった。また、禅霊寺の塔から光明が放たれた<note>三宝紀</note>。 ○北魏の徐州僧統・僧逞が亡くなった。帝は徐州に詔を下し、帛三百疋を施し、また五千人の斎を設けて追福を供養させた。己巳<note>七</note><note>十三</note>

帝怒大士寶誌惑眾。收逮建康獄。是日人見大士遊行市井。而檢校仍在獄中。其夕語吏曰。門外有兩輿食。金鉢盛飯。汝可取之。果文惠太子竟陵王。送供至建康。令呂文顯以聞。帝悔謝迎至禁中。俄帝宴後宮誌乃暫出。已而猶見行道于顯陽殿。帝驚遣吏至問。吏白誌久出在省中。帝益神敬之。後誌假神力。於武帝見高。帝於地下。受錐刀之苦。帝自是永廢錐刀。誌之神異。化人非一本傳○有瑞石浮海來入吳境。朱法讓獲之獻于朝。帝方建禪靈寺。乃以石造佛像。高六尺餘。而嚴奉焉珠林○是年釋僧鍾卒。鐘初見武帝於乾和殿。稱貧道。時暢獻見帝。每稱名而不坐。帝因問尚書王儉先輩。沙門見帝王何所稱。及預坐否。儉答。東晉時諸國僧。皆稱貧道而預坐。中代庾氷桓。元欲使僧盡敬。朝議紛紜。事皆休𥨊。自宋至今。多預坐而稱貧道。帝曰暢獻二僧道業如此。尚自稱名。況復餘者。挹拜則太甚稱名亦無嫌。自是僧稱名。於帝王。自獻暢始也僧傳○釋法匱出家。於枳園寺。誦經守素。一日還其舊居。又至定林。復還枳園。後三處考之。皆見匱來中食。實是一時。而三處焉。是晚奄然而卒。屍甚香軟。眾咸悟其得果。遂聞於帝。帝親臨幸。為設僧供。文惠文宣。皆來頂禮。為營理殮葬。䞋施雲集。仍以其錢起枳園寺塔僧傳。庚午八十四

> 帝は僧・宝誌が民衆を惑わしていると怒り、彼を捕らえて建康の牢獄に下した。しかしその日、人々は宝誌が街を歩いているのを見たが、獄中の記録は変わらなかった。その夜、宝誌は役人に言った。「門の外に食べ物を載せた二台の輿があり、金の鉢に飯が盛られている。それを取ってきなさい。」果たして、文恵太子と竟陵王が差し入れた供物であった。建康の役人・呂文顕がこれを奏上すると、帝は悔いて謝罪し、宝誌を宮中に迎え入れた。 その後まもなく、帝が後宮で宴会を催していると、宝誌は一時的に姿を消したが、すぐに顕陽殿を行脚しているのが見えた。帝は驚き、使いの者を遣わして尋ねさせた。役人は「宝誌はとっくに出て、省（官署）にいます」と答えた。帝はますます彼を神のように敬うようになった。後日、宝誌は神通力を借りて、武帝に地獄を見せた。そこでは高帝（武帝の父）が、刀や錐による責め苦を受けていた。帝はこれ以降、刀や錐の使用を永久に禁じた。宝誌の神異は数多く、民を教え導く例は一つではなかった（『本伝』）。 また、この年、祥瑞の石が海を渡って呉の地に流れ着き、朱法譲がそれを得て朝廷に献上した。帝はちょうど禅霊寺を建立しており、その石で高さ六尺余りの仏像を造り、大切に安置した（『珠林』）。 同年、僧・鍾が亡くなった。鍾はかつて乾和殿で武帝に拝謁した際に「貧道」と自称した。その時、暢と献という二人の僧も帝に拝謁したが、彼らは常に名を名乗り、座にも着かなかった。帝は尚書の王倹に「昔の沙門は帝王に会う時、どのように自称し、座に加わったのか」と尋ねた。王倹は答えた。「東晋の時代、諸国の僧は皆『貧道』と自称し、座に加わりました。中ごろ、庾氷や桓玄は僧に敬意を尽くさせようとしましたが、朝廷の議論は紛糾し、結局実現しませんでした。宋の時代から現在に至るまで、多くの僧は座に加わり、『貧道』と自称しております。」帝は言った。「暢と献の二人の僧はこのような道業を持つ者ですら、自ら名を名乗っている。まして他の者がどうしてそうすべきであろうか。拝礼させるのは過ぎているが、名を名乗るのは構わない。」こうして僧が帝王に対して名を名乗るのは、暢と献から始まった（『僧伝』）。 僧・法匮は枳園寺で出家し、経典を誦し、質素な生活を守っていた。ある日、彼はかつての住まいに戻り、次に定林寺に行き、再び枳園寺に戻った。後日、この三か所でそれぞれ尋ねると、いずれの場所でも法匮が来て食事をしていたことが確認された。実際は同じ時間であったのに、三か所に現れていたのである。その夜、法匮は突然亡くなった。遺体は非常に香ばしく柔らかく、人々は皆、彼が悟りを得たことを理解した。このことが帝に伝えられ、帝は自ら訪れて僧侶への供養を設けた。文恵太子と文宣王も来て頂礼し、葬儀を執り行った。布施は雲のように集まり、その金で枳園寺の塔が建てられた（『僧伝』）。 庚午（八年、十四年）

西域達摩提此云法意。於齊譯提婆達多等經二卷○釋法道甞入定。登內院。見彌勒。自臍輪放光。照三塗苦道。由此勵精。常坐不臥。及終而貌黑反白○釋慧次。論學馳譽。沙門智藏僧旻法雲等。竝就次請業文慧文宣。悉敬以師禮。是年講百論。至破塵品。忽然奄化○釋慧隆。善講論。宋明帝請於湘宮。開講成實。其後王侯貴勝。屢招講說。凡舊義磐滯。隆皆顯發。昭然可了。周顒目之曰。隆蕭散森疎。若霜下之松竹。是年卒本傳○竟陵王蕭子良。自立淨住淨行法門。淨住者。即布薩之翻名。謂淨身口意。如戒而住也。淨行法門者。以諸業淨。則化行於世。了諸法門故。有性相差別也文有兩袠唐終南山。釋氏統乃略成一卷。是以啟初心之𧿉步。標後銳之前蹤。敬而信者是稱淨行之人。信而行之不亡。淨住之目。一皇覺辨德門。以佛道最勝。常志大乘也。二開物歸信門。以洗除心垢。方覩法身也。三滌除三業門。以滅苦之要。莫過懺悔也。四脩理六根門。以莊嚴法體。須淨六根也。五生老病死門。以四相大苦。當生厭心也。六克責身心門。以檢察三業。無善不歸也。七檢覆三業門。以常撿己身幾善樂惡也。八呵詰四大門。以四大無耻。令我嬰苦也。九出家順善門。以知過出家功德清勝也。十在家從惡門。以在家愛欲苦惱無邊也。十一沉冥地獄門。以受三塗報。唯在三毒也。十二出家懷道門。以常須遮制妙行必成也。十三在家懷善門。以既知其患。當順佛教也。十四三界內苦門。以世相皆苦。無可樂者也。十五出三界外樂門。以脩證法身。得大自在也。十六斷絕疑惑門。以有智則去惑也。十七十種慚愧門。以我無道業。深可愧耻也。十八極大慚愧門。內外省察。極大慚愧也。十九善友勸獎門。以常相警戒也。二十戒法攝生門。以戒生善德也。二十一畢故止新門。以種種自慶也。二十二大忍惡對門。以忍力大也。二十三緣境無礙門。以當行解脫法也。二十四一志努力門。以勇猛進脩也。二十五禮舍利塔。二十六敬重正法。二十七奉養僧田。以常敬三寶也。二十八勸請增進門。二十九隨喜萬善門。三十迴向佛道門。三十一發願莊嚴門。皆成就淨行也。諸門皆廣有其辭。詳見弘明集○魏沙門應統詔歲施帛三百疋。辛未九十五

> 西域のダルマッタ（この名は「法意」という意味である）は、斉の時代に『提婆達多経』などの二巻を翻訳した。 ○ 僧の法道は、かつて禅定に入り、内院に登り、弥勒菩薩を拝した。その臍の輪から光を放ち、三塗の苦しみの道を照らした。これにより精進に励み、常に坐って横にならなかった。臨終の際には、顔の色が黒から白に変わった。 ○ 僧の慧次は、論学で名声を得ていた。僧侶の智蔵、僧旻、法雲などが、皆慧次のもとで学問を請い、文慧と文宣も師の礼をもって敬った。この年、『百論』を講じ、「破塵品」に至ったとき、忽然として亡くなった。 ○ 僧の慧隆は、講論を得意とした。宋の明帝は彼に湘宮で『成実論』を講じるよう依頼した。その後、王侯や貴顕がたびたび講説を招いた。これまでの解釈で滞っていたものがあれば、慧隆はすべて明らかにし、はっきりと理解できるようにした。周顒は彼を評して、「隆は蕭散として森疎、あたかも霜の下の松竹のごとし」と言った。この年に没した（本伝による）。 ○ 竟陵王の蕭子良は、自ら「浄住」と「浄行法門」を定めた。「浄住」とは、布薩を訳した名称であり、身・口・意を清め、戒のままに住することを意味する。「浄行法門」とは、すべての行いが清らかになれば、教化が世に行われ、すべての法門を理解することにより、性・相の違いがあることを意味する（文章は二巻あり、唐の終南山の僧統が略して一卷にまとめた。これは初心者の歩みを導き、後進の先蹤を示すものである。敬い信じる者は、これを「浄行の人」と呼び、信じて行い、これを失わないことは「浄住」の目指すところである。一、皇覺辨徳門：仏道が最も優れており、常に大乗を志すこと。二、開物歸信門：心の汚れを洗い清めて、初めて法身を観ることができること。三、滌除三業門：苦しみを滅する要は、懺悔に勝るものはないこと。四、脩理六根門：法体を荘厳するには、六根を清める必要があること。五、生老病死門：四相の大苦は、厭離の心を起こすべきこと。六、克責身心門：三業を点検し、善に帰さないものはないこと。七、検覆三業門：常に自己を点検し、どれだけ善を好み悪を楽しむかを見ること。八、呵詰四大門：四大は恥知らずで、私に苦しみを与えること。九、出家順善門：過ちを知って出家すれば、功徳は清らかで優れていること。十、在家従悪門：在家では愛欲の苦しみが限りなくあること。十一、沉冥地獄門：三塗の報いを受けるのは、ただ三毒によること。十二、出家懷道門：常に防ぎ制御し、妙行を必ず成就しなければならないこと。十三、在家懷善門：すでにその患いを知ったならば、仏の教えに従うべきこと。十四、三界内苦門：世の相はすべて苦しみであり、楽しいものは何もないこと。十五、出三界外樂門：法身を修行し証得して、大いなる自在を得ること。十六、斷絶疑惑門：智慧があれば疑惑を取り除くことができること。十七、十種慚愧門：私には道業がなく、深く恥じるべきこと。十八、極大慚愧門：内外を省察し、極めて大きな慚愧を抱くこと。十九、善友勸奨門：常に互いに戒め合うこと。二十、戒法攝生門：戒は善い徳を生み出すこと。二十一、畢故止新門：様々に自ら慶ぶこと。二十二、大忍惡對門：忍耐の力が大きいこと。二十三、縁境無碍門：解脱の法を行うべきこと。二十四、一志努力門：勇猛に精進すること。二十五、禮舍利塔：二十六、敬重正法：二十七、奉養僧田：常に三宝を敬うこと。二十八、勸請増進門：二十九、隨喜萬善門：三十、廻向佛道門：三十一、發願荘嚴門：すべては浄行を成就するものである。これらの門にはそれぞれ広大な言葉があり、詳細は『弘明集』に見える。） ○ 魏の僧は、詔によって毎年三百匹の絹を支給された。 辛未（九年）（十五）

西域求那毗地此云安進內外書學。莫不窮究。於齊譯經。壬申十十六

> 西域の求那毘地（この人は安進ともいう）は、内外の書物や学問を全て極めた。そして斉の時代に経典を翻訳した。壬申の年（十六番目の十、つまり十六歳）のことである。

帝以中書侍郎。徵隱士何點。點不赴。點門世事佛甚精。與張融孔雉圭。為方外交招携勝侶。清言賦詩優遊自得。宰相王儉豫章王嶷往造之。皆不得見。後點在法輪寺。竟陵王子良就見之。點角巾登席。子良對之。忻然無已。點少時甞病渴。積歲不止。後在吳中石佛寺。講維摩於講堂。晝寢夢異僧授丸一掬。夢中服之即愈。時以為純德所感○魏下詔每年四月八日。七月十五日。聽大州一百人為僧尼。中州五十。下州二十人。著令以為常淮○釋超辨。止京定林寺。日誦法華一遍。有餘力禮千佛。一百五十餘萬拜。足不出門三十餘載。是年示寂○釋曇超。禪道弘化。因止錢唐靈苑山。入定累日。忽見一人來禮曰。弟子居在七里。以富陽縣人。鑿麓山下。侵壞龍室。群龍其忿。誓三百日不雨。今已百日。田池枯涸。欲屈道德前行必能感。致潤澤蒼生。功有歸也。超許之。神乃去。超南行五日至赤亭山。為龍呪願。至夜群龍化作人。來禮拜。超更說法。因歸乞三歸。自稱是龍。超請其降雨。乃相看無言。其夜與超夢云。本因忿立誓。師既導之以善。不敢違命。明日晡當降雨。至期沾足。歲以獲收。是年師卒本傳○魏徐州法師慧紀卒。敕敕州。施帛三百疋。并設五百人齋。以崇追益。癸酉十一七月帝崩󳬂林王昭業立十七

> 時に帝は中書侍郎をもって隠士何点を召したが、点は赴かなかった。点の家は代々仏法を篤く信じ、張融や孔雉圭と親しく交わり、気の合う仲間を招いて清談し詩を詠み、悠々自適に過ごしていた。宰相の王儉や豫章王蕭嶷が訪ねても、会うことはできなかった。その後、点が法輪寺にいた時、竟陵王蕭子良が会いに行くと、点は角巾をつけたままで席に着いた。子良はそれを見て、限りなく喜んだ。点は若い頃、喉が渇く病にかかり、何年も治らなかった。後日、呉中の石仏寺で維摩経を講じている時、昼寝をして異僧が一掴みの薬を授ける夢を見て、夢の中で飲んだところ即座に治った。当時、人々は純粋な徳の感応によるものと語った。 ○魏の朝廷は詔を下し、毎年四月八日と七月十五日に、大州は百人、中州は五十人、下州は二十人の出家を許し、これを恒例とした。 ○釈超辨は京の定林寺に住み、毎日法華経を一巻誦し、余力があれば千仏に礼拝した。その数は百五十万回を超え、三十余年も足を門の外に出さず、この年に示寂した。 ○釈曇超は禅道を広く弘め、銭唐の霊苑山に留まって数日にわたり入定していた。そこへ突然、一人の者が現れて礼をし、こう言った。「私は七里の地に住んでおります。富陽県の人々が麓山のふもとを掘り、竜の住まいを侵したため、群竜は怒り、三百日間雨を降らさないと誓いました。すでに百日が過ぎ、田や池は干上がってしまいました。どうかあなた様の徳をもってお越しいただき、必ずや雨をいただき、民を潤して下さい。その功徳はあなた様に帰するでしょう。」超はこれを承諾し、神は去って行った。超は南へ五日かけて赤亭山に到り、竜のために呪願した。夜になると、群竜は人の姿となって来て礼拝した。超はさらに法を説き、彼らは三帰依を求めて自ら竜であると名乗った。超が雨を請うと、互いに見つめ合って黙り込んだ。その夜、超に夢告げて言った。「元々は怒りによって誓いを立てましたが、師が善をもって導いて下さったので、命に背くことはできません。明日の午後に雨を降らせましょう。」約束の時になるとたっぷりと雨が降り、その年の収穫は得られた。この年、師は亡くなった<note>本伝</note>。 ○魏の徐州の法師慧紀が亡くなった。勅命により州に帛三百匹を施し、五百人の斎を設けて追善の功徳とした。 癸酉年<note>十一</note><note>七月に帝が崩御し、郁林王蕭昭業が立った</note><note>十七</note>

七月武帝崩。帝在位十二年。大崇法教。造招賢遊玄二寺方志○初寶誌大士。在華林園。忽重著三頂布帽未幾帝崩。而文惠太子豫章王相繼而殂。果如其讖。王仲熊問仕何。所至不答解。杖頭左索與之。熊後果至尚書左丞。徐陵兒時父携之謁誌。誌摩其頂曰。此兒天上石麒麟也。陵後果顯于世○釋僧卞。善梵音。甞讀經。有群鶴。下集階前。經終則去是年卒。甲戌正月󳬂林王改隆昌元七月遇弑海陵王昭文立改元興元十月高宗明帝立改建武元十八遷都洛陽

> 七月、武帝が崩御した。帝は在位十二年、仏法を大いに尊崇し、招賢寺と遊玄寺の二つの寺を建立した<note>方志</note>。 ○初め、宝誌大士は華林園にいたが、突然三つの頂きがある布の帽子を重ねてかぶった。間もなくして武帝が崩御し、文恵太子と豫章王が相次いで死去し、まさにその預言の通りとなった。王仲熊が仕官の際にどこに至るかを尋ねたが、答えはなかった。杖の頭に左の縄を結んで与えたところ、熊は後に尚書左丞にまで至った。徐陵が幼い頃、父に連れられて誌に謁見した。誌はその頭を撫でて言った。「この子は天の石麒麟である」。陵は後に世に名を顕した。 ○僧の卞は、梵音に優れていた。かつて経を読誦していると、一群の鶴が降りてきて階段前に集まり、経が終わると去っていった。その年に死去した。甲戌<note>正月に鬱林王が立ち、隆昌と改元。七月に殺害され、海陵王の昭文が立って興元と改元。十月、高宗の明帝が立つ</note><note>建武と改元</note><note>十八年</note><note>洛陽に遷都</note>

釋僧柔。少登講席。入剡山靈鷲之夢。僧緒夜神人旗紳。滿山迎之。齊太祖。皆建寺集僧。以柔耆素。有聞故徵書歲。及文宣諸王。再三招請。乃出京止定林寺。躬為元匠。四遠欽服。文惠文宣竝服膺入室。常誓生安養。是年體無餘患。西向虔禮。奄然而逝○釋慧約。少有風德。齊太宰文簡公。褚淵太尉王儉。皆請講法。淵遇疾夢神云。菩薩當至。俄約來。而淵病即愈給事中婁幼瑜。約族祖也。每見輒起為禮。或問此乃君族下頒。何乃恭耶。瑜曰。菩薩出世。方師於天下。豈老夫致敬而已。至是沈約外任。携行在郡。惟禪誦為樂。異香入室。猛獸馴階。有道士下。德靜於館。暴亡傳云。山精所弊長山。令徐伯超請約居之。神魅弭息。後見二青衣女子。從㵎水出禮云。夙障深重。墮此水精。晝夜煩惱。約即為授戒。自是災怪永絕本傳。乙亥建武二十九

> 釋僧柔は、若くして説法の席に上った。ある日、剡山の霊鷲寺で夢を見た。夜中に神人が旗や衣服を従え、山全体に迎えに来たのだ。斉の太祖皇帝は寺を建て僧を集め、僧柔が古くから名声があることを聞き、毎年招きの書を送った。文宣王をはじめ王たちも再三招請したため、彼は都に出て定林寺に住み、自ら指導者となった。四方から人々が敬い従った。文惠太子と文宣王は彼の教えを心から受け入れた。彼は常に安養浄土に生まれ変わることを誓い、その年、体に少しの病もなく、西を向いて敬虔に礼拝し、静かに息を引き取った。 ○釋慧約は、若い頃から風格と徳があった。斉の太宰文簡公・褚淵や太尉・王儉も彼に法を説くよう請うた。褚淵が病で倒れた時、夢に神が現れ「菩薩が来るだろう」と言った。やがて慧約が来ると、褚淵の病はすぐに治った。給事中の婁幼瑜は慧約の一族の祖であったが、彼に会うたびに立ち上がって礼をした。ある人が「あなたの一族の下の者でしょう。なぜそんなに丁寧にするのですか」と尋ねると、幼瑜は答えた。「菩薩が世に現れたなら、天下の師となる方です。私が敬意を示すのは当然でしょう」。その後、沈約が地方に赴任する際、慧約を連れて行った。彼はただ禅と読誦を楽しみ、部屋には異香が立ち、猛獣も階段でおとなしくした。道士の下德靜という者が道観で突然亡くなったという話があった。山の精霊に害されたと伝えられた。長山の令・徐伯超が慧約を招いて住まわせると、奇怪なものは治まった。その後、二人の青衣の女性が渓谷の水から現れて礼をし、「前世の罪が深く、この水の精に堕ちて昼夜苦しんでいます」と告げた。慧約はすぐに戒を授けた。それ以来、災いや怪異は全く起こらなくなった<注>本伝</注>。乙亥年（建武二年、十九歳）のことである。

中書何胤點弟也。愽學有重名。甞入鍾山定林寺。聽內典。其業皆通。至是拜中書令。尋拜表解職胤。以會稽多靈異。往游之居若耶山雲門寺。既與兄偕隱。時號點曰大山。胤曰小山。尋徙居𥘿望山。起講堂即林成院。高風傾天下○沙門慧安。年十八為沙彌。止江陵寺。當眾坐時。輙起行水。常執空瓶。自上及下。水用不竭。眾訝之。及受具。靈異益著。甞與沙門惠濟。上堂布薩。堂戶未開。安自壁出入無碍。濟駭之。後附商入湘。中路示寂。將死謂商曰。我死即露屍岸上。不須設棺。商如其旨。以屍投岸。夜有焰從其身出。商大怖。及舟至湘中。則安已先至。欲就語。又失所在○魏文帝。幸徐州白塔寺。寺有道登法師。雅有義業。帝眷賞之。常侍講於禁內。及卒帝下詔傷悼。施帛千疋。設一切僧齋。京城七日行道魏書○荊州隱士劉虬。宋太始中。為當陽令。又為南郡丞。始事拂衣。時年三十二。年遂辟穀却粒餌木。衣麻布衣。草屩茅室。上帳禮誦。長齋六時。不闕世諦。書藝一切屏絕。惟研精佛理。注講諸經。舉世莫不高尚其風。齊建元初。詔徵通直散騎侍郎不就。建武初微為國子博士。是年冬移止江州白雲。徘徊似入櫩戶。及有異香。空中鍾梵之音。因卒。年六十。粱大通中。諡文範先生弘明集。丙子三二十

> 中書の何胤は、点の弟である。博学で名声高く、かつて鍾山の定林寺に入り、仏教経典を聴聞した。その学業はすべてに通じていた。後に中書令に任じられたが、すぐに表を奉じて辞職した。胤は会稽に多くの霊異があると聞き、そこへ遊びに行き、若耶山の雲門寺に住んだ。兄と共に隠棲したことから、当時、点を「大山」、胤を「小山」と称した。後に秦望山に移り住み、講堂を建て、林をそのまま寺院と成した。その高邁な風格は天下に響き渡った。 ◇沙門の慧安は、十八歳で沙弥となり、江陵寺にいた。大衆が坐禅している時、いつも立ち上がって水を運び、常に空の瓶を持って、上から下まで水を使っても尽きることがなかった。大衆はこれに驚いた。具足戒を受けてからは、ますます霊異が著しくなった。かつて沙門の惠済と共に上堂して布薩を行った時、堂の戸が開いていないのに、慧安は壁を通り抜けて出入りし、何の支障もなかった。惠済は驚き恐れた。後に商人に従って湘に入り、途中で入滅した。死に臨んで商人に言った。「私が死んだら、そのまま屍を岸にさらし、棺を設ける必要はない」と。商人はその言葉に従い、屍を岸に置いた。夜になると、その身体から焔が立ち昇り、商人は大いに怖れた。船が湘中に着くと、すでに慧安が先に到着していたので、話しかけようとしたが、姿は消えていた。 ◇北魏の文帝が、徐州の白塔寺に行幸した。この寺には道登法師がおり、見事な学識を持っていたので、帝は寵愛し、宮中で常に侍講させた。道登が亡くなると、帝は詔を下して哀悼し、絹一千匹を施し、一切僧斎を設け、京城では七日間行道を行った。<note>魏書</note> ◇荊州の隠士である劉虬は、宋の太始年間に当陽県令となり、さらに南郡の丞となった。その任を辞したのは三十二歳の時である。以降は穀物を断ち、木の実を食べ、麻布の衣を着て、草鞋を履き、茅葺きの家に住み、帳を上げて礼拝と読誦に励み、六時の斎戒を長く続けた。世俗の書芸は一切断ち切り、ただ仏理を研鑽し、諸経の注釈と講説に専念した。世の人々はその高潔な風格を尊ばなかった者はなかった。斉の建元初年、詔で通直散騎侍郎に任命されたが応じず、建武初年には国子博士として招聘された。その年の冬、江州の白雲に移り住んだ。堂の戸に彷徨うようにして入り、異香が漂い、空中に鐘や梵唄の音が聞こえたため、そこで亡くなった。享年六十歳。梁の大通年間に、文範先生と諡号された。<note>弘明集</note> 丙子<note>三</note><note>二十</note>

釋惠基。甞兩被宋帝之詔。稱疾不行。乃於會邑龜山。立寶林精舍。周顒張融。竝申師禮。又為文宣王。著法華義疏。基既德被三吳。聲馳四海。乃敕為僧主。掌任十城。四遠從風。五眾歸伏。基性烈而能溫氣。清而且穆故。預在門人。莫不矜戰。是年十一月卒。壽八十五○釋僧宗。善講經。而任性放蕩。得意便行。不以為礙。文惠太子將擯之。而通夢有感。乃改意歸焉。魏文帝遙挹風德。屢致書請開講。齊世祖。不許外出。乃止宗以信施。造太昌寺。是年卒本傳。丁丑四二十一

> 釈慧基は、かつて宋の皇帝から二度も出仕を命じられたが、病と称して応じなかった。そして会邑の亀山に宝林精舎を建立した。周顒や張融も皆、師の礼を執った。また、文宣王のために『法華義疏』を著した。慧基は徳が三呉に広まり、名声が天下に馳せていたので、詔によって僧主とされ、十城を統括する任に就いた。四方から人々がその風に従い、五衆（出家の男女五部）が帰依した。慧基は気性が剛直でありながら温かみがあり、清らかでありながら和やかであった。それゆえ門人の誰もが慎み敬い、努め励まない者はなかった。この年の十一月に亡くなった。八十五歳であった。 一方、釈僧宗は経典を講じるのが巧みであったが、気ままに振る舞い、思いのままに行動して妨げとしなかった。文恵太子は彼を追放しようとしたが、夢のお告げがあって考えを改め、かえって帰依した。魏の文帝は遠くからその風格と徳を慕い、たびたび書簡を送って講義を請うた。しかし斉の世祖が国外への外出を許さなかったため、やむなく中止した。僧宗は信者からの布施を用いて太昌寺を建立した。この年に亡くなった。 <note>本伝</note> 丁丑（四、二十一）

天竺佛陀禪師此云覺者。初至魏北臺恒安孝文。別加資供。後隨帝南遷。定都伊洛。復設靜院處之。而志愛嵩岳。敕就少室山。為之造寺。今之少林是也。度弟子慧光。及僧稠。皆深定業。有一善神。常隨影護。後報欲終。自𦘕神像于壁本傳○五月八日。傅大士生於婺州義烏縣。名翕字玄風○八月廬山僧景法師示寂。師久斷粒食。甞有兩神立侍弘明○法雲法師。年三十講經之妙。獨步當時本傳。戊寅永泰元七月帝崩東昏侯寶卷立二十二

> 天竺の仏陀禅師（これは「覚者」という意味です）が初めて北魏の北台・恒安に到着した時、孝文帝が特別に資金や物資を供養しました。後に帝に従って南へ遷り、都を伊洛に定めると、再び静かな院を設けて住まわせました。しかし師は嵩岳を愛し、帝の命により少室山に寺を建立しました。これが現在の少林寺です。弟子の慧光と僧稠を出家させましたが、二人とも深い禅定の業を修めました。一つの善神が常に師の影に従い守護していました。後に師が命終を迎えようとした時、自ら壁に神像を描きました（本伝より）。○五月八日、傅大士が婺州義烏県に生まれました。名は翕、字は玄風です。○八月、廬山の僧景法師がお亡くなりになりました。師は長年断食をしており、かつて二神が立って侍っていたことがあります（弘明集より）。○法雲法師は三十歳の時、経典を講じる妙技が当時並ぶ者なく傑出していました（本伝より）。戊寅（永泰元年）（七月に帝が崩御し、東昏侯宝巻が即位）（二十二）

七日明帝崩。帝在位五年。常持六齋。務脩十善。誦法華般若等經。寫一切經。建歸依寺造千金像方志○釋法安。少有慧聲。立年即當法匠。文宣何胤。一時名士。竝稟服文義。是年卒○釋法願。善唱導。又能占相。王侯士庶。竝師受戒法。時寺側遭燒火必及寺。弟子欲輿願出寺。願曰。佛若被燒我何用活。即苦心歸念。於是三面被焚。唯寺不燼本傳。己卯東昏侯　永元元二十三

釋僧印。學涉眾典。而偏以法華著名。宋大明中。何點請印為法匠。聽者駢集。文宣徐孝嗣。皆敬其風。是年卒○釋慧通。自宋元嘉中。言未然之事皆驗。是年忽就人求酒云。欲遠行為謝諸相識。竝宜精勤脩善為先。酒畢至墻邊臥地。就看已死。後復有人時見之本傳○四月魏高祖孝文帝崩。帝在位二十九年。甞於鄴造安養寺。手不釋卷。暇則自講六宮侍女。皆持六齋。其精進誦經。慕道者。放令出家。供施諸僧。每加豐厚。所度僧尼。萬四千人辨正論等○是月世宗宣武皇帝恪即位。下詔曰。緇素既殊。法律亦異故。道教彰於幽顯禁勸各有所宜。其僧犯殺人。已上罪者。依俗格斷餘犯。悉付昭玄。以內律僧制判之魏書。庚辰二宣武帝　景明元

> 僧印という僧は、多くの経典を学んだが、特に『法華経』で有名だった。宋の大明年間（457～464年）、何点が僧印を師として招いたところ、聴衆が大勢集まった。また、文宣王の徐孝嗣もその風格を敬った。この年、僧印は亡くなった。 ○ 慧通という僧は、宋の元嘉年間（424～453年）以来、まだ起きていない出来事を語ると、それがすべて的中した。この年、突然誰かに酒を求めて言った。「遠くへ行く用事があるので、知り合いの人々に伝えてほしい。皆、精進して真剣に善行を積むことを第一とせよ」。酒を飲み終えると、壁際に寄りかかって横になり、見に行ったところ、すでに亡くなっていた。その後も、人が彼を見かけることが時々あった<note>本伝</note>。 ○ 四月、北魏の高祖孝文帝が崩御した。帝は29年間在位し、かつて鄴に安養寺を建立した。常に書物を手放さず、暇な時は自ら後宮の侍女たちに教えを説き、皆が六斎日を守った。熱心に経を誦し、道を慕う者があれば、出家を許し、僧たちへの供養や施しは、いつも手厚く行った。帝が得度させた僧尼は一万四千人にのぼる<note>『弁正論』等</note>。 ○ 同月、世宗宣武皇帝（元恪）が即位した。詔を下して言うには、「僧侶と在家の者には違いがあり、法律もまた異なる。ゆえに、教えは幽冥と顕れたる世界に及ぶが、戒めと勧めはそれぞれに適したものがある。僧が殺人罪を犯した場合は、一般の法に従って断罪し、その他の罪はすべて昭玄寺に付し、内律と僧制に基づいて判決せよ」と命じた<note>『魏書』</note>。 庚辰（2年）（宣武帝　景明元年）

釋法度法紹。時號北山二聖。紹業行清苦。譽齊於度。而學解優之。竝為竟陵王子良等師敬。度甞為琅琊山神受戒。又常願生安養。故偏講無量壽經。是年遷逝傳史○釋僧侯。宋孝建初。至京誦法華維摩光明。常二日一遍。如此六十餘年。一生食素過中不食。是年合掌而化。壽八十九○釋僧惠。初南陽劉虬。立陟𡵆寺。請以居之。惠常欲渡江。津吏以舟小未及過之。惠已在彼岸。又至病人家。惠嗔者必死。喜者必差。又能分身赴人之供。是年示寂。神異甚多本傳○東昏侯。於瓦官寺解王像琢釵。釧賜嬖姬。以為盛飾。東昏之毀玉像也。初截其二臂琢釵。及其亡也御刀黃。泰平夜以刀傷其膝仆地。遂遇害其報速哉。辛巳和帝寶融三月改中興元十二月東昏侯遇弑而卒二

敕釋慧球。為荊州僧主。訓勗之功。有譽當世。天監三年卒○智稱律師。說法四十餘年。道俗欽慕。是年卒弘明。

> ＜弘明＞恵球を勅して荊州の僧主と為し、その指導と励ましの功績は当代に誉れ高かった。天監３年に亡くなった。また、智称律師は四十余年にわたり説法し、道俗ともに敬慕されたが、同年に亡くなった。

壬午二

> 壬午の二

三月和帝遜位于梁王蕭衍○齊七主二十四年中。譯師二十人。所出經律論錄七十二部三百五十卷。寺二千十五所。僧尼三萬二千餘人。

> 斉の和帝は、帝位を梁王蕭衍に譲りました。 斉の国は、七人の君主が交代しながら、二十四年間続きました。この時代に活躍した訳経師は二十人。彼らが翻訳した経典・律・論は、全部で七十二部、三百五十巻にのぼります。寺院は二千十五か所あり、僧侶と尼僧は合わせて三万二千人余りでした。

## 歷代編年釋氏通鑑卷之四

> 歴代編年 釈氏通鑑 巻之四