維摩經疏第三
維摩経疏 第三
胡 吉藏 撰
胡 吉蔵 撰
菩薩品第四
菩薩の章 第4
菩薩品第四。
菩薩品 第四
所以有此品來者,命問疾。凡命兩眾:第一、命聲聞已竟,今即第二、命菩薩眾也。所以前命聲聞、今命菩薩者,可有數義:一者、欲顯淨名、文殊二人之德。若止命聲聞不堪,未足為奇之人,法不及菩薩。是故聲聞不堪,未足顯二人之德。今次命菩薩亦不堪,始顯二人之德也。問:何故顯淨名德耶?解云:欲令人伏其化道,故顯其德。然此二人,竝絕聲聞、菩薩。此之二聞答,竝是不思議。文殊不思議之問,淨名不思議之答;文殊不思議之賓,淨名不思議之主。此問答,賓主皆不思議也。然復有四句:一者、無得問,有得答;二者、有得問,無得答;三者、有得問,有得答;四者、無得問,無得答。廣作(云云)。此之四句,三句不成問答,唯無得問、無得答成問答。如中論?五陰品云:依空問答成問答。又大經云:無所得者有四無礙,有所得者無四無礙。故無得成問答也。又所以前命聲聞、今命菩薩者,欲顯釋迦一化方便至論道門,未曾三一、未曾大小。故初成道,常樂嘿然,不樂說法。諸法寂滅相,不可以言宣,故未曾大小為緣。故無名相中,假名相說大、說小,緣聞大小,成有得大、有得小。是故淨名破此大小,雖復破大小,不失大小方便。大小無大小無大小,而大小舉佛影譬(云云)。又若但命聲聞不命菩薩,即不窮淨名權智之方便。居士現疾意,為是故今命菩薩。問:聲聞中定有大弟子數,菩薩亦有定數不?解云:聲聞有定數,菩薩無定數。責:何意耶?解云:聲聞菩薩因緣數無數因緣也。難:若數無數因緣,即應有弟子不弟子因緣。解云:我就弟子中判大小數無數因緣也。難:若使此中命問疾有數無數者,如前列眾中亦應有數無數因緣。解云:前列眾不定數,今十大弟子是定數,故不例。責:何意菩薩無定數?解云:聲聞有限、菩薩無限,故聲聞有定數、菩薩無定數。難:若爾,聲聞有位、菩薩無位?解云:例菩薩無量數、菩薩無量位。難:菩薩無量位說有十地,菩薩無量應有十數,未解(云云)。今從所遣菩薩為名,故云菩薩品。就此中為二:第一別遣四菩薩,第二總遣八千,如前命弟子也。今別遣四人者,略攝盡。何以故?此中有道有俗、在家出家、深行淺行攝盡也。此中遣四人即為四。今第一命彌勒者,彌勒是補處菩薩中極,前身子聲聞中㝡,故前命身子。今彌勒是菩薩中極,故前命彌勒也。
そこで、この品が設けられたのは、維摩居士の病気を見舞う者を指名するためである。指名は二つの集団に及ぶ。第一に声聞の衆への指名はすでに終わった。ここで第二に、菩薩の衆への指名である。
まず声聞を指名し、今度は菩薩を指名する理由には、いくつかの意味がある。第一に、維摩居士と文殊の二人の徳を明らかにしようとするためである。もし声聞だけを指名して彼らが引き受けられないとしても、それは驚くほどのことではない。その人々の力量は菩薩には及ばないからである。だから声聞が引き受けられないだけでは、二人の徳を十分に示すことはできない。次に菩薩を指名しても、彼らもまた引き受けられない。ここに至って初めて、二人の徳が明らかになるのである。
問い:なぜ維摩居士の徳を明らかにするのか。答え:人々をしてその教化の道に従わせようとするため、その徳を示すのである。ところでこの二人は、ともに声聞と菩薩を超えている。この二人の問答は、ともに思い議ることのできないものである。文殊の思い議ることのできない問い、維摩居士の思い議ることのできない答え。文殊は思い議ることのできない客、維摩居士は思い議ることのできない主である。この問答は、客も主もともに思い議ることができないのである。
さらに四つの句がある。第一に、得ることのない問いと、得ることのある答え。第二に、得ることのある問いと、得ることのない答え。第三に、得ることのある問いと、得ることのある答え。第四に、得ることのない問いと、得ることのない答え。詳しくは(云云)。この四句のうち、三句は問答として成立しない。ただ、得ることのない問いと得ることのない答えだけが問答として成立する。中論の五陰品に説かれる通りである。空に依る問答が問答として成立する。また大経には、無所得の者には四つの妨げのないものがあり、有所得の者には四つの妨げのないものがない、と説かれている。だから得ることのないものが問答を成立させるのである。
また、まず声聞を指名し、今度は菩薩を指名する理由は、釈迦の一代の教化の便宜と、究極の道の門が、かつて三でも一でもなく、かつて大でも小でもなかったことを示そうとするためである。だから成道の初めには、常に静かに黙しておられ、法を説くことを好まれなかった。すべての法の寂滅の相は、言葉で述べることはできない。だからかつて大や小を縁としてはいなかった。名も相もない中で、仮に名と相を設けて大を説き小を説き、縁ある者たちが大や小を聞いて、大を得た者、小を得た者となった。そこで維摩居士はこの大と小を破った。ただし大と小を破ったといっても、大と小の便宜を失ってはいない。大と小、大でなく小でなく、大でもなく小でもなく、しかも大であり小である。仏の影の喩えを挙げるのは(云云)。
また、もし声聞だけを指名して菩薩を指名しなければ、維摩居士の権智の便宜を極めることはできない。在家の士が病を現すその意図はここにある。だから今、菩薩を指名するのである。
問い:声聞の中には定まった大弟子の数がある。菩薩にもまた定まった数があるか。答え:声聞には定まった数があり、菩薩には定まった数がない。問い:どういう意味か。答え:声聞と菩薩の因縁の数、数のない因縁である。反論:もし数と数のない因縁であるなら、弟子と弟子でないものの因縁があるはずだ。答え:私は弟子の中で大と小の数、数のない因縁を判断しているのである。反論:もしここで病を見舞う者を指名するのに数があり数のないの因縁があるなら、前に並べた衆の中にもまた数があり数のない因縁があるはずだ。答え:前に並べた衆は定まった数ではない。今の十大弟子は定まった数である。だから同じ例にはならない。問い:なぜ菩薩には定まった数がないのか。答え:声聞には限りがあり、菩薩には限りがない。だから声聞には定まった数があり、菩薩には定まった数がない。反論:それならば、声聞には位があり、菩薩には位がないのか。答え:菩薩には量りない数があり、菩薩には量りない位がある。反論:菩薩に量りない位があるといって十地を説くなら、菩薩の量りないものには十の数があるはずだ。まだ理解できない(云云)。
今、派遣される菩薩に名を取って、菩薩品という。この中は二つに分かれる。第一に別に四人の菩薩を派遣し、第二に総じて八千を派遣する。前の弟子を指名したのと同じである。今、別に四人を派遣するのは、簡略にすべてを収め尽くすためである。なぜか。この中には道の人も俗の人もあり、在家も出家もあり、深い修行も浅い修行もあり、すべて収め尽くされている。この中で四人を派遣するのは、すなわち四つとなる。
今、第一に弥勒を指名するのは、弥勒は補処の菩薩の中で最高であり、前に舎利弗が声聞の中で最も優れていたので、前に舎利弗を指名したのである。今、弥勒は菩薩の中で最高であるから、前に弥勒を指名するのである。
於是佛告彌勒菩薩:汝行詣維摩詰問疾。
そこで、仏は弥勒菩薩にこう告げられました。「あなたが維摩詰のもとへ行って、お見舞いしてきなさい。」
就此文為二:第一、命;第二、辭。今即命也。彌勒是南天竺婆羅門種。彌勒,此云慈氏,字阿逸多。阿逸多,此云無勝,亦云莫勝,位行莫過之者,故云莫勝也。
この部分は二つに分けて説明します。第一に「命」(名前の由来)、第二に「辞」(内容の説明)です。ここではまず「命」について述べます。弥勒は南インドのバラモンの家系の出身です。弥勒とは、中国語で「慈氏」といい、字(あざな)は阿逸多です。阿逸多とは、中国語で「無勝」といい、「莫勝」ともいいます。その境地と修行において、これより勝るものがないという意味で、「莫勝」というのです。
彌勒白佛言:世尊!我不堪任詣彼問疾。
弥勒が仏に申し上げた。「世尊、私はその方をお見舞いに行くことはできません。」
彌勒白佛下,第二、辭不堪,為三:標、釋、結。今即標也。
所以者何?憶念我昔為兜率天王及其眷屬說不退轉地之行。
時維摩詰來謂我言:彌勒世尊授仁者記,一生當得阿耨多羅三藐三菩提。
為用何生得受記乎?過去耶?未來耶?現在耶?
若過去生,過去生已滅;若未來生,未來生未至;若現在生,現在生無住。如佛所說:比丘!汝今即時亦生、亦老、亦滅。
若以無生得受記者,無生即是正位,於正位中亦無受記,亦無得阿耨多羅三藐三菩提,云何彌勒受一生記乎?為從如生得受記耶?為從如滅得受記耶?若以如生得受記者,如無有生;若以如滅得受記者,如無有滅。一切眾生皆如也,一切法亦如也,眾聖賢亦如也,至於彌勒亦如也。
若彌勒得受記者,一切眾生亦應受記。所以者何?夫如者,不二不異。
若,彌勒!得阿耨多羅三藐三菩提者,一切眾生皆亦應得。所以者何?一切眾生即菩提相。
若彌勒得滅度者,一切眾生亦當滅度。所以者何?諸佛知一切眾生畢竟寂滅,即涅槃相不復更滅。
是故,彌勒!無以此法誘諸天子,實無發阿耨多羅三藐三菩提心者,亦無退者。
所以者何下,第二、釋不堪,為二:第一、出被呵之由;第二、明能呵之旨。今即第一、出被呵之由。所以被呵者,彌勒為兜率天王說不退轉地之行故被呵者,諸天已著欲,彌勒復為說不退之法,明我已得受記當得菩提,見有能得之人所得之法,此即重增諸天子之倒。其本著五欲即是愛到,今復為其說有能得人所得法,復增其見具足愛見,是故被呵也。兜率天王,餘處云那,兜率天王那即其性也。不退轉地行者,即三不退,故云不退也。
時維摩詰來下,第二、明能呵之旨。為二:第一、破得受記;第二、破得菩提。彌勒謂始得無生之記,終即成無上道,是故居士呵此二條也。又前破得記即破因,欲破菩提即破果,因果一雙。又前破得記即破人,次破得菩提即破法,謂有能得記之人,菩提所得之法也。就初得記中有三門責:第一、就生門責;第二、就無生門責;第三、就如門責。
今即第一、就生門責,為二:第一、前定三開;第二、結三難。今即定三開,前牒,次定。授仁者記,一生得菩提,即牒也。言生者,即是三生,雖三生,只是一生。言三生者,閻浮提是一生,兜率天二生,後生人間作佛即三生,除今閻浮提生。何者?此生已過故不取,上生天亦不取,但取下生人間即作佛,取此一生,故云一生也。為用何生得受記過去耶下,第二、定開,此如中論。中論用三時責有得稟教之人,今居士用三世責有得彌勒也。若過去生,過去生已滅下,第二、結三難。若過去,過去已滅,即無記;若未來,未來未有,亦無記。現在不住,故無得記也。如佛所說者,釋現在住。所以不釋過、未二世者,明過、未二世麤顯,故不須釋。現在細蜜,謂言有住,是故徧釋無有住時。纔言彌勒,彌勒已滅,誰受記者,佛亦爾,纔授即滅,誰授?以無住故,無受無授也。
若以無生得記者下,第二、就無生門責。彼謂生是有為,三世中求不得,今無生中應得記,所以更就無生中責也。明向求三世若得可有無生,既無其三世生,何處有無生耶?又案文破,明無生即正位,正位中無人無法、無記不記,豈有得記?又案語破,既云無生即無得無記,故云無生即正位,正位無受記等也。
為從如生下,第三、就如門責,為二:第一、難;第二、竝。今即難也。問:如無有生、如無有滅,今云何難云為從如生得受記耶?解云:彼謂體如故法忍生、體如故煩惱滅,法忍煩惱皆不離如,法忍若生即是如生、煩惱滅即如滅,是故今難明如無生滅,如無生故法忍不生、如無有滅故煩惱不滅也。一切眾生皆如也下,第二、設竝,前定、次竝。今即定有四句也。若彌勒得受記者下,第二、正設三竝:第一、就得記竝;次、就智竝;第三、就斷竝。前一就因竝、後二就果竝,即因果智斷兩雙也。今即就得記竝,明彌勒亦如彌勒得記、一切眾生得記、一切眾生亦如眾生得記,及結諸難(云云)。若彌勒得阿耨下,第二、就果竝也。若彌勒滅度下,第二、就斷竝,例前可尋。是故彌勒無以此法誘諸天子者,此即結呵彌勒,明菩提之道無得無失無進,汝云何為說不退之行?即不可以不退誘諸天子也。若見退不退,即分別見也。
彌勒!當令此諸天子捨於分別菩提之見。所以者何?菩提者,不可以身得、不可以心得。寂滅是菩提,滅諸相故;不觀是菩提,離諸緣故;不行是菩提,無憶念故;斷是菩提,捨諸見故;離是菩提,離諸妄想故;障是菩提,障諸願故;不入是菩提,無貪著故;順是菩提,順於如故;住是菩提,住法性故;至是菩提,至實際故;不二是菩提,離意法故;等是菩提,等虗空故;無為是菩提,無生住滅故;知是菩提,了眾生心行故;不會是菩提,諸入不會故;不合是菩提,離煩惱習故;無處是菩提,無形色故;假名是菩提,名字空故;如化是菩提,無取捨故;無亂是菩提,常自靜故;善寂是菩提,性清淨故;無取是菩提,離攀緣故;無異是菩提,諸法等故;無比是菩提,無可喻故;微玅是菩提,諸法難知故。世尊!維摩訶說是法時,二百天子得無生法忍。
故我不任詣彼問疾。
彌勒當令諸天捨下,第二、破得菩提之見,即呵果見也。此中讚菩提即是破菩提見。然破有二種:一者、逈破;二者、申破。言逈破者,經有一豪有所得之法逈而破之;申破者,申無所得之法斷常病破。經論具此二意,論中多逈破、經中多申破。何者?論為鈍根故逈破,不得為立,立即不洗;經中為利根故,申因緣法斷常自壞也。今此中明正法菩提,即是破有所得菩提也。言當令捨分別菩提見者,明菩提之道無得無失畢竟清淨,而彌勒分別有能得人所得法等,故今勸捨也。所以者何下,釋勸捨分別,故云不可身心得也。寂滅是菩提者,寂滅一切見,故云寂滅是菩提也。鄣是菩提鄣一切願故者,明此菩提能遮一切煩惱有所得之見,遮一切求願取著之心畢竟不得起故。一家讀法華唯有一門而復狹小,明一豪不得入,故云狹小也。所餘諸句可尋。次二百天子得無生,如文也(云云)。
○次第二、命光嚴童子。問:前聲聞眾中,第一命身子,次命目連,奉左右面弟子,禪定、智慧次第如前。今命菩薩,前彌勒,今命光嚴,有何次第耶?解云:有次第,無次第,何得一向責其次第?有次第者,如前身子、目連;無次第者,如今彌勒次光嚴也。無次第而論次第者,前命彌勒即是命出家菩薩,今命光嚴即命在家。今欲以此四菩薩攝一切菩薩,不出出家之與在家。命彌勒不堪,即一切出家墮彌勒不堪中;今命光嚴不堪,即一切在家墮光嚴不堪中。前命彌勒即是出家,今命光嚴即是在家,道俗次第也。又前命彌勒即是補處窮深菩薩,今命光嚴即是初行極淺菩薩。前彌勒不堪一切深行,墮彌勒不堪中;今命光嚴不堪一切淺行,墮光嚴中。括前該後,即是淺深次第。又前彌勒欲顯破有所得受記,今命光嚴欲顯破有所得座道場,何故前呵受記,今呵道場耶?解云:要得前記,後座道場。又是因緣,前呵受記,今破道場也。就道場中,凡破二種道場之見:一者、謂東天竺國摩伽堺元吉樹下,如來起道之處,謂為道場。何但釋迦如此,一切諸佛竝然。故法華云:大通智勝佛,十劫座道場。耳目之徒莫不言此為道場也。二者、如即世凡夫,誰能至摩伽陀國元吉樹下之道?謂寺舍殿堂中縣繒燈明香華供養之處,即為道場。是故淨名寄光嚴破此二見。何者是道場耶?道場者,成起於道名為場。元吉樹下若為成起於道耶?上有樹、下有地若為成起於道?即又縣繒番蓋復若為成起於道?如此等皆非道場。今云道場者,直以無得萬行為道場,以此無得萬行能成起於道,故名道場也。又只此心即是道場,行住座臥常與道場俱,眾生不知而欲遠求於道場,是故被呵也。
佛告光嚴童子:汝行詣維摩詰問疾。
文段為論如前,命如文。
光嚴白佛言:世尊!我不堪任詣彼問疾。
白佛言下。辭不堪標。釋、結,如文。
所以者何?憶念我昔出毗耶離大城,時維摩詰方入城,我即為作禮而問言:居士從何所來?答我言:吾從道場來。我問:道場者何所是?
答曰:直心是道場,無虗假故;發行是道場,能辦事故;深心是道場,增益功德故;菩提心是道場,無錯謬故;布施是道場,不望報故;持戒是道場,得願具故;忍辱是道場,於諸眾生心無礙故;精進是道場,不懈怠故;禪定是道場,心調柔故;智慧是道場,現見諸法故;慈是道場,等眾生故;悲是道場,忍疲苦故;喜是道場,悅樂法故;捨是道場,憎愛斷故;神通是道場,成就六通故;解脫是道場,能背捨故;方便是道場,教化眾生故;四攝是道場,攝眾生故;多聞是道場,如聞行故;伏心是道場,正觀諸法故;三十七品是道場,捨有為法故;四諦是道場,不誑世間故;緣起是道場,無明乃至老死皆無盡故;諸煩惱是道場,知如實故;眾生是道場,知無我故;一切法是道場,知諸法空故;降魔是道場,不傾動故;三界是道場,無所趣故;師子吼是道場,無所畏故;力、無畏、不共法是道場,無諸過故;三明是道場,無餘礙故;一念知一切法是道場,成就一切智故。如是,善男子!菩薩若應諸波羅蜜教化眾生,諸有所作舉足下足,當知皆從道場來住於佛法矣。說是法時,五百天人皆發阿耨多羅三藐三菩提心。
故我不任詣彼問疾。
所以者何下,第二、釋不堪。今即出被呵之由,明光嚴止出城,維摩詰正入城,兩人相遇,光嚴即作禮,問:居士從何處來?所以作禮者,光嚴童子年少,故為作禮也。其問:何所來?淨名答:我從道場來也。光嚴即問:何者是道場?維摩答曰:直心是也。問:為諂佞之者為曲心,朴素質直為直心,為不爾耶?解云:亦不取此為直心。又問:為取十惡為回心,十善為直心,不爾耶?解云:亦非。此乃凡中自論曲直,於聖道竝回,此乃回中回直、惡中善惡,故亦非直心也。又問:為毗曇見四諦理,成論會一滅諦,明三無學人同會滅諦、同得無生,以為直心,為不爾?解云:此亦非。此乃是二乘生滅心,故大經云:聲聞、辟支佛耶?回見何故不得菩提?即回見寧得菩提?又有大乘亦名回見,故云有所得者名無明,二十五有故是回見。今言直心者,以無得無依正直之觀名直心,離一切有所得見名曰直心,此之直心即成佛之由、起道之本,故云直心是道場也。無虗假故者,無一切有所得虗妄斷常,故云無虗假也。發行是道場,能辨事故者,無所得正觀所起之行,乃得成行,如般若中所明。以般若心行於萬行,乃成於行,以行成故,能辨無上之果,故云發行是道場,辨事故也。深心是道場者,上明直心。直心有二種:一者、淺直心;二者、深直心。是故明是深也。菩提心是道場者,上雖明直深心,此心此心未必大,是故次明大心即菩提心也。次舉六度萬行等為道場,可尋。言忍辱是道場,心無礙故者,明心無瞋。若有礙,即有瞋;若有瞋,即破一切事。故菩薩戒中,瞋為重罪也。善男子,菩薩若應諸波羅蜜教化眾生,舉足下足皆從道場者,明菩薩以般若心舉足下故,舉足下足皆是般若。故大品云:不見產業之事非般若。是故菩薩般若心作一切事故,一切皆般若也。若顛倒心作一切事故,一切事皆顛倒。何者?見身心能作一切事為所作,見有去來等是一切故,皆是顛倒。若以正觀見者,去來等故,皆是般若,皆是道場也。次時眾悟道,如文。
○第三、命持世菩薩見出家菩薩。前第一彌勒是出家菩薩,後善德是在家菩薩。所以爾者,前彌勒出家,光嚴在家,雖復攝盡,然攝大略,是故舉出家兩人、在家兩人。絓出家菩薩,隨彌勒、持世攝;絓在家菩薩,隨光嚴、善德中攝。前隻攝,今即雙攝。此之四人,道俗相簡,即其次也。又前呵彌勒,顯有所得受記、非受記;次呵光嚴,顯有得道場、非道場;今呵持世,顯有所得降魔、非降魔。此之三條,菩薩極行。是故淨名破此三種,明有所得記、非記,道場、非道場,降魔、非降魔。何者?識魔可降魔。既不識魔,翻為魔所降。以降本降魔同菩薩,今菩薩番同魔。何以故?持世畏魔故,所以魔得持世便。故經云:譬人畏時,非人得其便。故持世被魔降。若無所得,菩薩即能降魔。何以故?以識魔故。大品云:菩薩見四魔,來著實際中。只體魔即實際,所以仁王云:煩惱即菩提也。又有所得不能降魔者,只有所得是魔,何能降魔?未見魔能降魔。故有所得不能降魔,無得乃能降伏耳。
佛告持世菩薩:汝行詣維摩詰問疾。
今即第一命持世也。
持世白佛言:世尊!我不堪任詣彼問疾。
所以者何?憶念我昔住於靜室,時魔波旬從萬二千天女,狀如帝釋,鼓樂絃歌來詣我所,與其眷屬稽首我足,合掌恭敬於一面立。我意謂是帝釋,而語之言:善來,憍尸迦!雖福應有不當自恣,當觀五欲無常以求善本,於身命財而修堅法。即語我言:正士!受是萬二千天女,可備掃灑。我言:憍尸迦!無以此非法之物要我沙門釋子,此非我宜。
持世白佛下,辭不堪,即標不堪也。所以者何下,第二、釋不堪。今第一、被呵之由。持世爾時靜室默然,或觀無常、或思禪定,魔即及身為帝釋惱亂。持世所以變身為帝釋者,帝釋是佛天上檀越得初果人,必無惱亂佛法之事,故變為帝釋。持世謂是帝釋,語云善來為其說法。言雖福有不當自恣者,明汝過去修福,今得五欲果報,此果報會當破壞、會應無常,不應五欲自恣也。於身命財而修堅法者,堅即是三堅,明世間身死晚命無常財五家,若忘身修行棄捨財寶,後身命財堅而不壞,故云三堅法也。即語我言受萬二千天女者,明持世墮於魔胃。何者?汝親勸我令修三堅法捨於財物,我今奉命而捨,若不受即違言失,若受即便破戒。今既勸其捨而不受,即違言失也。問:持世是何位人不識?魔解云:是完身菩薩未得五通故不識,設得五通不入定亦不識也。持世所以不受者,不能受而無染,不能如悉達之受,故不受也。
所言未訖,時維摩詰來謂我言:非帝釋也,是為魔來嬈固汝耳。即語魔言:是諸女等可以與我,如我應受。魔即驚懼,念:維摩詰將無惱我?欲隱形去而不能隱,盡其神力亦不得去。即聞空中聲曰:波旬!以女與之,乃可得去。魔以畏故,俛仰而與。爾時,維摩詰語諸女言:魔以汝等與我,今汝皆當發阿耨多羅三藐三菩提心。即隨所應而為說法,令發道意。復言:汝等已發道意,有法樂可以自娛,不應復樂五欲樂也。天女即問:何謂法樂?答言:樂常信佛,樂欲聽法,樂供養眾,樂離五欲,樂觀五陰如怨賊,樂觀四大如毒蛇,樂觀內入如空聚,樂隨護道意,樂饒益眾生,樂敬養師,樂廣行施,樂堅持戒,樂忍辱柔和,樂勤集善根,樂禪定不亂,樂離垢明慧,樂廣菩提心,樂降伏眾魔,樂斷諸煩惱,樂淨佛國土,樂成就相好故修諸功德,樂莊嚴道場,樂聞深法不畏,樂三脫門,不樂非時,樂近同學,樂於非同學中心無恚礙,樂將護惡知識,樂親近善知識,樂心喜清淨,樂修無量道品之法,是為菩薩法樂。於是,波旬告諸女言:我欲與汝俱還天宮。諸女言:以我等與此居士有法樂,我等甚樂,不復樂五欲樂也。魔言:居士!可捨此女,一切所有施於彼者,是為菩薩。維摩詰言:我已捨矣,汝便將去,令一切眾生得法願具足。於是,諸女問維摩詰:我等云何止於魔宮?維摩詰言:諸姉!有法門名無盡燈,汝等當學。無盡燈者,譬如一燈然百千燈,冥者皆明,明終不盡。如是,諸姉!夫一菩薩開導百千眾生,令發阿耨多羅三藐三菩提心,於其道意亦不滅盡,隨所說法而自增益一切善法,是名無盡燈也。汝等雖住魔宮,以是無盡燈,令無數天子、天女發阿耨多羅三藐三菩提心者,為報佛恩,亦大饒益一切眾生。爾時,天女頭面禮維摩詰足,隨魔還宮,忽然不現。世尊!維摩詰有如是自在神力、智慧、辯才。
故我不任詣彼問疾。
所言未訖下,第二、維摩呵責持世不受之言未訖,淨名即來呵持世有二失:一、則不識真偽邪正;二、勸捨而不能受。故失也。即語魔下,前呵持世,今伏波旬。語魔言:汝可與我,我宜應受。持世是出家不得受,我在家人應得受。魔進退亦二失:若與即失女,若不與則違前捨言,所以怖懼欲隱形去,盡其神力不能得去。前則言伏今則威伏,前則口伏今則意伏,前口屈今意伏意屈。何者?神力欲去,淨名神力制不能得去,即意伏也。空中聲曰:動捨女乃得去。魔既神力不及,故捨女也。魔所以畏者,非但失女,復恐被五係縛之畏也。次、維摩受女,令其發心為其說法也。有法樂者,女人之情多存於樂,雖發道意恐猶樂五欲樂,故法樂代之也。天女問:何謂法樂?請問法樂之相。答曰:樂常信佛者,明三寶眾善之基,是故前說,所餘如文。言樂三脫門不樂非時者,三脫即空、無相、願,不樂非時者,明二乘非是得果時,故不樂也。於是波旬語諸女言:前既威力不能得去,今更誘諸女欲還天宮。次、諸女不肯去者,一、則已屬他不得去;二、則樂法不肯去也。魔言:居士!可捨此女者,前來至此二過欲去,今第二求首居士令捨女。求首者,請也。汝既是菩薩,應捨此女。菩薩之體尚不能惜自妻子,豈恡佗女?故云應捨於彼者為菩薩也。維摩言:我已捨矣。維摩捨女。問:菩薩既取,今何故捨?若捨,前不應取。解云:有數意:一者欲明菩薩之道威恩竝行,前即威取、今即恩捨,明菩薩不可思議自在之力,欲取即取、欲捨即捨,隨意無礙,欲令一切有得菩薩及以聲聞學此不思議自在之道。二者所以前取今捨者,前明菩薩堪為福田,今明能為施主。上明一切有得及以二乘竝非福田,一豪不得受,唯無得菩薩是福田堪受也。今亦爾,有得二乘不能為施主,唯菩薩為施主也。又前居士威取者,不如世人威通取為五欲樂,今菩薩取不為五欲樂。菩薩所以取者,為化彼天女令得法樂之益,故取化意所以捨也。問:取天女,天女得益,魔大苦惱,何得取耶?解云:正欲降魔令伏菩薩之道,魔常不伏菩薩,今則伏於菩薩之道即益也。汎解魔為何業所成。餘處出云:昔日經作一無遮會,故得自在天宮果報,所以菩薩座道場時魔戲。今魔觀過去,因汝過去止一無遮施,菩薩無量劫施,故非類也。又前取女今捨女者,取即然燈,捨即傳燈,令其傳化故捨。若不捨,唯此女得益,不能得廣化一切男女,今欲廣化於天宮,是捨也。問:何故不玄化而取化耶?解云:女有三從之義,若不取屬己,即化道不便,以屬己故,即從維摩化也。又前取今以捨者,明菩薩行願具足,故取女即是菩薩行,當捨時即發願,即菩薩願。何者?魔既失女願女,今居士捨,還即願滿。今菩薩因發願,願一切眾生得法願滿足,有此等利益,故菩薩取而今捨。此之取捨,皆為利緣開道,故前歎云:其見聞者無不蒙益,諸有所作亦不唐捐也。於是諸女問居士:云何止魔宮?天女本樂五欲,今聞法樂,今還魔宮,以何為業?故問也。然此天女不復尊敬於魔,而反咲魔。魔者,外道云華箭,佛法云殺人慧命,故云殺者也。今亦名極惡,而不復敬彼,是故云惡也。次居士為說還宮之法,即無盡之法,亦傳化之意,顯此如文可尋也。
○次第四命善德菩薩者,第一彌勒是出家,次光嚴是在家,第三持世是出家,今第四善德是在家。一切菩薩不可具舉,列此四人略攝一切菩薩。若出家菩薩隨彌勒持世攝,若在家菩薩隨光嚴善德中攝也。問:何故不兩出家相逐、兩在家相逐,命彌勒即命持世,命光嚴即命善德,而簡出者耶?解云:前命出家不堪,恐在家應堪。次即命命復不堪,恐出家堪即命之,故簡出也。又所以有此文來者,前第一呵彌勒,明有得受記非受記。次明命光嚴,明有所得道場非道場。次第三持世,明有得不識魔不能降魔。今第四命善德,有所得布施不成布施。此之四條是菩薩要行,是故淨名呵此四條顯無所得也。又前極深今窮淺,始終深淺攝盡也。
佛告長者子善德:汝行詣維摩詰問疾。
就文為二:今第一,命善德問疾也。
善德白佛言:世尊!我不堪任詣彼問疾。
所以者何?憶念我昔,自於父舍設大施會,供養一切沙門、婆羅門及諸外道、貧窮、下賤、孤獨、乞人,期滿七日。
善德白佛言下,第二、辭不堪,標、釋、結。今標不堪也。所以者何下,第二、釋不堪,為二:今第一、被呵之由。所以被呵者,於父舍施會,是故被呵也。言自於父舍施會者,有二義:一者、欲簡淨財,自有非法財施。今善德父舍施其財,此是淨施,故云自於父舍施也。二者、父祖相承作於長會,故云自於父舍也。此會三年聚財、七日布施,竪幢玄番,四方三田皆集,悉平等施之。言三田者:一、悲田;二、敬田;三、亦敬亦悲田。悲田者,一切貧病眾生也。敬田者,即羅漢父母三寶。亦悲亦敬者,病羅漢僧、老病父母也。外國施有二種:一者、依四違陀,謂歌儛施、祠祀施等;二者、直示行施。今之善得非外道法施,直示而施也。又國所以作此施者,欲求梵天福、自在天福,如前明魔作一無遮施,得自在天果與菩薩敵也。
時維摩詰來入會中,謂我言:長者子!夫大施會不當如汝所設,當為法施之會,何用是財施會為?我言:居士!何謂法施之會?法施會者,無前無後,一時供養一切眾生,是名法施之會。曰:何謂也?謂以菩提起於慈心,以救眾生起大悲心,以持正法起於喜心,以攝智慧行於捨心,以攝慳貪起檀波羅蜜,以化犯戒起尸羅波羅蜜,以無我法起羼提波羅蜜,以離身心相起毗棃耶波羅蜜,以菩提相起禪波羅蜜,以一切智起般若波羅蜜,教化眾生而起於空,不捨有為法而起無相,示現受生而起無作,護持正法起方便力,以度眾生起四攝法,以敬事一切起除慢法,於身、命、財起三堅法,於六念中起思念法,於六和敬起質直心,正行善法起於淨命,心淨歡喜起近賢聖,不憎惡人起調伏心,以出家法起於深心,以如說行起於多聞,以無諍法起空閑處,趣向佛慧起於宴坐,解眾生縛起修行地,以具相好及淨佛土,起福德業;知一切眾生心念,如應說法,起於智業;知一切法不取不捨,入一相門,起於慧業;斷一切煩惱、一切障礙、一切不善法,起一切善業;以得一切智慧、一切善法,起於一切助佛道法。如是,善男子!是為法施之會。若菩薩住是法施會者,為大施主,亦為一切世間福田。世尊!維摩詰說是法時,婆羅門眾中二百人,皆發阿耨多羅三藐三菩提心。我時心得清淨,歎未曾有,稽首禮維摩詰足,即解瓔珞,價直百千以上之,不肯取。我言:居士!願必納受,隨意所與。維摩詰乃受瓔珞,分作二分,持一分施此會中一最下乞人,持一分奉彼難勝如來。一切眾會皆見光明國土難勝如來,又見珠瓔在彼佛上,變成四柱寶臺,四面嚴飾,不相障蔽。時維摩詰現神變已,又作是言:若施主等心施一最下乞人,猶如如來福田之相,無所分別,等於大悲,不求果報,是則名曰具足法施。城中一最下乞人,見是神力,聞其所說,皆發阿耨多羅三藐三菩提心。
故我不任詣彼問疾。
時維摩來入會中,即第二明能呵。問:維摩是何時來?答:七日滿來也。問:維摩知其施非,何意第一日不即破,七日方來破耶?解云:此終為相成耳。相成有二義:一者善得七日財施,財施得滿,財施既滿欲行法施,將欲行於法施,前呵財施為法施之由,為是義故七日竟方來呵也。二者其既三年聚財,七日行施福得員滿,恐著於此福成有所得,若有所得福非是福。何者?有所得福非常住之福,但只得人天果報,會當磨滅。是故今淨名將無所得法塗善得之福,令成無所得福,不可破壞。故大論仙人藏藥在石室中,以金剛塗不可破,無得善亦爾。亦如丈夫食少金剛終日不消,亦如金剛般若中明東方可思量不?不也。世尊!無住相布施等十方空也。此中正以無得法施呵有得財施,故云不當如汝所設,當為法施會也。然此中可有四句不可定執:自有財法竝無得竝不呵,自有財法竝被呵,自有呵財不呵法,自有呵法不呵財。財法竝被呵者,有所得六度皆呵不能動出,無所得六度能動能出不被呵,能動即柔順、出即無生也。財呵法不呵如此文,法呵財不呵即五莖華施,此五華勝無量有所得法施也。今此中正斥有所得財、讚無所得法,欲開無所得法故,前呵有所得財也。次善得問法施,次淨名答。答云:法施無前後一切供養,明財法二施差別,凡有十種不同,已如金剛般若中明也。何謂也?以菩提起於慈心,前明四等何意行施?為有大慈悲大憙捨故行施,今既明施,所以四等為道也。此中慈非凡夫二乘之慈,雖復有慈不能遍度一切,遍與大樂與人天樂,小乘非謂大慈,設有其心而無其事,又非有所得慈,今慈者無緣大慈,故云以菩提起慈心。菩提者道也,正道大慈也。以攝智慧起行捨心者,明苦受後多生瞋、樂受多生貪、捨後多生癡,是故明捨心攝智慧也。以離身心相起毗梨耶者,若言身心精進非精進,若能離身心精進乃為精進也。於六和敬起質直心,言六和敬者,同利同見同戒,身慈口慈意慈即三失,為六種和同,於眾生無有耶回,故云於六和敬起質直心也。一切智起般若,應薩婆若心起般若,如大品所明。世尊維摩說法二百人得道者,上明財施益,今明法施益,為此兩益故得失交牙也。善德既聞未曾之法,即脫珠瓔,淨名便受分二分,一尊一卑等于大悲,如如來相福田無別也。是即名曰具足法施者,上開財法二施異,呵財歎法明有得財非法,今合財法不異,無得之財財即是法,故云即名具足法。又取珠瓔奉者,前示法施,今示財施即法也。
如是諸菩薩各各向佛說其本緣,稱述維摩詰所言,皆曰:不任詣彼問疾。
如是諸菩薩下,第二大段、不堪也。