---
title: "大品經義疏 · 大如品第五十四"
description: "大品經義疏由隋唐高僧吉藏撰寫，是對《大品般若經》的重要註釋著作。吉藏是三論宗的創始人，以中觀思想聞名，該疏融合了龍樹中觀學說與中國佛教特色，系統闡釋般若空性思想。內容涵蓋經文逐句解析、名相辨析及修行實踐指導，展現了隋唐佛教義學的嚴密邏輯。作為中國佛教史上關鍵的般若經典疏解，它不僅推動了三論宗的發展，也為後世研究大乘空觀提供了權威依據，在漢傳佛教思想史中佔有重要地位。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmcxdogyg042mk404vywkj1kr"
---

### 大如品第五十四

此第四、合中下根人如如而學，具成上三品。以如如而學故，是有方便；不如如而學，名無方便。如如而學，是近善知識，善知識亦教如如而學。亦如如而學，起一切智；不如如而學，則例趣願也。成論師明如是真諦理，遍即萬法，故言大如。但如是頑境，非是智慧。北釋論師亦云：如是實相般若，亦是頑境。此二如皆言非是善法。地論師云：真如佛性，法界真諦。故如是智慧，但非修習而有，古今當定。今問：若智慧，何因說為學？此非慧，何由成慧耶？答：是因體智慧。古今當定者，復隨外道自然義。今明如何曾境智？亦何曾大小？為物故，強美為大；為物故，隨緣境智也。亦對中下小如，名為大如。下如謂地堅水濕等，中如謂苦無常等，上如無生滅等。今明上如，故云大如。亦如何曾有三耶？假名無三說三也。

> この第四の合は、中下の根の人々が「如如」に学ぶことで、上三品を具足成就することを示します。「如如」に学ぶからこそ、方便があるのです。「如如」に学ばないならば、それは方便がないと言えます。「如如」に学ぶことは、善知識に近づくことであり、善知識もまた「如如」に学ぶことを教えます。「如如」に学ぶことによって、一切の智慧が生じます。「如如」に学ばないならば、願いの方向に進むことになります。 成論師は、このような真諦の理が万法に遍在することを明らかにし、それを「大如」と言います。しかし、この「如」は頑なな境であって、智慧ではありません。北の釈論師もまた言います：このような実相般若もまた、頑なな境であると。この二つの「如」は、どちらも善法ではないと言われています。地論師は言います：真如仏性、法界真諦であると。ですから、この「如」は智慧ですが、修習によって得られるものではなく、古今を通じて定まっているものです。 さて、問います：もしこれが智慧であるなら、なぜ学ぶと言われるのでしょうか？これが智慧でないなら、どうして智慧となるのでしょうか？答えます：これは因体の智慧です。古今を通じて定まっているというのは、外道の自然の義に従っているのです。今、明らかにします：どうして境と智が分かれることがありましょうか？また、どうして大小があるのでしょうか？衆生のために、強いて「大」と美称するのです。衆生のために、縁に随って境と智となるのです。また、中下の小如に対して、大如と名づけるのです。下の如とは、地は堅く水は湿るといったことであり、中の如とは、苦であり無常であるといったことであり、上の如とは、生滅がないといったことです。今、上の如を明らかにするので、大如と言うのです。また、どうして三つがあるのでしょうか？仮の名に三つなくとも、三つを説くのです。

品五，第一餘前人歎菩提甚深，二歎甚深，三明得失，四明菩提難易，五明修菩提行。初歎菩提甚深者，上未明色即薩婆若故，今前歎菩提甚深。菩提以甚深者，由如甚深正遍知甚深耳，故歎如甚深愁。一如無二有悟有還者，良由學有得失故，第三明得失愁。行有方便故菩提易得，無方便故菩提難得，故次明菩提難易也。既識菩提難易，故修起菩提行，第五明修菩提行。

就初段為二：第一諸天歎，第二須菩提歎。諸天歎中為兩：第一甚深歎，無二受無捨歎也。初中先諸天聞佛上說心信，次發言歎。發言歎中二：初作甚深歎，二釋歎。釋歎甚深者，諸天聞佛上說心信，但智慧不及，故言甚深也。一切世間不信者，小分一切也。有所得人與般若相反，故不信也。微妙寂滅智者能知，如幻聽品中明四種人能知，謂下中二人、小乘中二人也。何以故下，第二分上品未成甚深歎也。第二佛述中先述甚深，第二釋歎，次述第一甚深歎。佛初成道樂哩然者，若是生死涅槃二法及淨不淨內理，佛即應說之，何事樂嘿耶？良由未曾生死涅槃，不曾眾生佛真之與俗，不知何所言以樂嘿也。即分此上聞成上如義也。而今說生死涅槃開真俗者，無名相中引導眾生強說也。何以故下，第二述甚深歎中，此初兩何以故，正釋常樂嘿然。諸天子如虗空下，廣舉法譬歎甚深也。剎時諸天子下，第二無受無捨歎。先歎，次佛述。諸天聞所說，知此法無一豪可取，故作無取捨歎。佛述如文。第二須菩作四，云此法及人情今歎歎：一隨順歎，佛及諸天聞歎者隨順也；二無礙歎；三無生；四無處所知，如文也。

> 初めの段を二つに分ける：第一は諸天の讃嘆、第二は須菩提の讃嘆である。 諸天の讃嘆の中をさらに二つに分ける：第一は甚深の讃嘆、第二は無受無捨の讃嘆である。 初めの甚深の讃嘆では、まず諸天が仏の上記の説法を聞いて心に信じ、次に言葉を発して讃嘆する。言葉による讃嘆の中も二つに分かれる：初めに甚深を讃嘆し、次にその讃嘆を解釈する。 解釈において「甚深」とされるのは、諸天が仏の説法を聞いて心に信じるが、智慧が及ばないため、「甚深」と言うのである。「一切世間不信者」とは、一部分のすべてを指す。有所得の人は般若と相反するため、信じることができない。微妙で寂滅した智慧は、それを知ることができる者だけが理解する。『如幻聴品』の中で明かされている四種類の人々、すなわち下・中の二種の人、小乗の中の二種の人などがそれである。 「何以故」以下は、第二に上品の未だ成らざる甚深の讃嘆を分ける。 第二の仏の述べる部分では、まず甚深を述べ、次に讃嘆を解釈し、その後で第一の甚深の讃嘆を述べる。 仏が初めて道を成じた時、黙然としていたのは、もし生死と涅槃の二法や、浄・不浄の内なる理があるならば、仏はそれを説くべきであった。なぜ黙然としていたのか？それは生死も涅槃もなく、衆生も仏も、真も俗も存在しないからである。何を言うべきか分からなかったため、黙然としていたのである。これは上記の「聞いて成ずる」が「如義」に通じることを分ける。 今、生死と涅槃を説き、真と俗を開示するのは、名相のない中で衆生を導くために、強いて説いているのである。 「何以故」以下は、第二の甚深の讃嘆を述べる中で、初めの二つの「何以故」は、常に黙然としていることを正しく解釈する。諸天子よ、虚空の如く以下は、広く法と譬えを挙げて甚深を讃嘆する。 「剎時諸天子」以下は、第二の無受無捨の讃嘆である。まず讃嘆し、次に仏がそれを述べる。諸天は説法を聞き、この法には少しも取るべきものがないことを知り、無取無捨の讃嘆をしたのである。仏の述べる部分は経文の通りである。 第二の須菩提の部分は四つに分かれる。この法と人について今讃嘆するという：第一は随順の讃嘆（仏と諸天が聞いて讃嘆する者は随順である）、第二は無礙の讃嘆、第三は無生の讃嘆、第四は無処所知の讃嘆である。経文の通りである。

是時欲色諸天子下，第二、歎如甚深，為二：第一、就十門廣明如甚深以辨隨生義；第二、三聖共明如體，雖彼諸天所得心明不生義。初中先歎為佛子，論云五佛子四果并法位菩薩，此五親稟佛生故名佛子，緣覺因中稟故、果不稟故，故非佛子也。亦出無文，佛可尊故又非子也。三種菩提中明羅漢辟支佛是菩提、菩薩非菩提，菩提是無學智，菩提未究竟故不與菩提也。五獨菩提唯佛菩薩，菩薩為用、佛菩提為果也。則二乘非菩提，二乘與菩薩皆菩提故，是前為三句也。大經云二乘是野干子非師子，師子者此是有所得，二乘非佛因故不說也。今可具二義：一者、二乘人通稟佛教，佛教生皆名佛子；二者、須菩提是般若，聲聞大小之以皆是般若用，皆名佛子也。論又云共三乘般若與二乘共說，故二乘是佛子，不共般若唯菩薩說，則菩薩是佛子、聲聞非佛子也。次須菩提以十門明隨喜如生，釋諸天從佛教生義。從佛教生者，此是隨佛生也。大意欲明三乘六道同一如，若悟如而生無非佛子。又佛如須菩提如不異，則知天性相關稱為佛子也。十門如文。過去不在未來中者，非是將過去如安置未來如中，論云如空不在空中住世，過去即未來如，三世皆一如故也。動地證說也。爾時天子，第二、三聖共明如體離相，破諸天著情也。先諸天歎，即是著心，謂菩提非皆慧，令一切法皆如佛法，故皆如以辨隨生義，諸天心尊貴此如，故歎也。次破著中，三聖破時眾悟，即四段：初、須菩提以四門破；二、身子就因果門破；三、佛述身子破；四、時眾悟道也。初四門破中，先以四門破，以何以故釋破，就色開即離二門明眾義，即色無有須菩提生，次就離色亦無須菩提生，次就如亦即離二門明無須菩提生義。先是世諦即離，次就第一義即離，俱無生也。何以故釋二諦即離俱無生者，良無有隨生人，無有隨生法，凡論有生，若不人生，便是法生，人法無，從何物隨生也？次身子就因果破者，名為因，如為果，論作說因色故得如，如是果也。色尚無，雖無所生，未明無有能生之如，故今破無有色及妙，何處有生，即破無所生耶？無智無能生，即無境如，此境智如不如，畢竟不可得，眾見寂滅，如名為道，故下時眾得悟也。佛述及時眾道，文處可知。問：此文前後相違，前言是如是實法，後言色尚不可得，況如耶？答：不違也。良以色與如皆不可得，非如不如始是如耶？

> この時、欲界と色界の諸天子たちが降りてきました。第二に、如来の甚深さを讃歎します。二つの点に分けます。第一に、十の観点から広く如来の甚深さを明らかにし、それに従って生じる意義を弁じます。第二に、三人の聖者が共に如来の本体を明らかにし、それによって諸天たちが得た心の明るさが生じない意義を示します。 初めの部分では、まず仏の子として讃歎します。論には、五種類の仏の子（四果と法位の菩薩）が説かれています。この五者は仏に直接教えを受け、仏から生じたので仏の子と呼ばれます。縁覚は因位においては教えを受けますが、果位では受けません。ですから仏の子ではありません。また、仏は尊い存在であり、子ではありません。三種の菩提の中で、阿羅漢と辟支仏は菩提であり、菩薩は菩提ではありません。菩提は無学の智慧であり、菩薩の菩提は未だ究竟していないので、菩提とは認められません。五種の独菩提は仏と菩薩のみです。菩薩はその作用であり、仏の菩提はその果です。つまり、二乗は菩提ではなく、二乗と菩薩は共に菩提であるという三つの文脈があります。大経には、二乗は野干の子であって師子の子ではないと説かれています。師子とは有所得を指し、二乗は仏の因ではないので説かれません。今、二つの意義を備えることができます。一つは、二乗の人々も仏の教えを受け、仏の教えから生じる者は皆仏の子と呼ばれること。二つは、須菩提は般若であり、声聞の大小の教えも皆般若の作用であるので、皆仏の子と呼ばれることです。 論にはまた、共般若は三乗と共に説かれ、二乗も仏の子であるとあります。不共般若は菩薩のみに説かれるので、菩薩は仏の子であり、声聞は仏の子ではありません。次に、須菩提は十の観点から随喜の如来として生じることを明らかにし、諸天が仏の教えから生じる意義を解釈します。仏の教えから生じるとは、仏に従って生じることです。大意は、三乗と六道が同一の如来であることを明らかにすることです。もし如来を悟って生じるならば、仏の子でないことはありません。また、仏の如来と須菩提の如来は異ならないので、天性が関連していることを知り、仏の子と呼ばれます。十の観点は経文の通りです。 「過去は未来の中にない」とは、過去の如来を未来の如来の中に安置することを意味しません。論には、虚空が空中に住まないように、過去は即ち未来の如来であり、三世は皆一如であると説かれています。地動は説法を証するものです。 この時、天子たちに対して、第二に、三人の聖者が共に如来の本体が相を離れていることを明らかにし、諸天の執着を破ります。まず諸天の讃歎は、すなわち執着の心です。菩提は皆智慧であるとは限らず、一切の法が皆仏法であるように、如来に従って生じる意義を弁じます。諸天の心はこの如来を尊貴とするので、讃歎するのです。次に執着を破る中で、三人の聖者が破ると、時に衆生が悟ります。四つの段階があります。初めに、須菩提が四つの観点から破ります。二つ目に、舎利弗が因果の観点から破ります。三つ目に、仏が舎利弗の破りを述べます。四つ目に、時に衆生が道を悟ります。 初めの四つの観点から破る中で、まず四つの観点から破り、「何以故」によって破りを解釈します。色について即と離の二つの観点から衆義を明らかにし、色に即して須菩提の生じることはなく、次に色を離れても須菩提の生じることはありません。次に、如来に即しても離れても須菩提の生じることはないことを明らかにします。まず世俗諦における即と離、次に第一義諦における即と離を説き、共に生じることはありません。「何以故」によって二諦の即と離が共に生じないことを解釈します。すなわち、随って生じる人もなく、随って生じる法もありません。凡そ生じることを論ずるならば、もし人でなければ、法が生じます。人も法もなければ、何によって随って生じるのでしょうか。 次に、舎利弗が因果によって破ります。名を因とし、如来を果とします。論には、色を因として如来を得ると説かれています。如来は果です。色さえも無いならば、生じるものも無く、生じさせる如来も無いことを明らかにします。今、色と妙が無いならば、どこに生じるものがあるでしょうか。すなわち、生じるものが無いことを破ります。智慧が無ければ生じさせるものも無く、境の如来もありません。この境と智慧の如来は、畢竟不可得であり、衆生の見は寂滅します。如来を道と名づけるので、下って時に衆生が悟るのです。 仏が述べ、時に衆生が道を得ることは、経文のところで知ることができます。問う：この経文は前後で矛盾しています。前には「是の如は是の実法なり」と言い、後には「色尚お得可からず、況んや如をや」と言います。答える：矛盾しません。色と如来は共に不可得であり、如来でないものが初めて如来であるわけではありません。

六十菩薩下，第三、明得失。法、譬、合法中，先明失，次明得中，前及料簡如文。問：六十菩薩學般若成二乘，有聞般若成菩薩不？答：文中列應有也。上來明三百比丘得無生，乃至諸天人以得無生亦通得是也。此如服藥成毒也。可具四句：聞大法悟小、聞小悟大、聞大悟大、聞小悟小也。問：聞小悟大出何處？答：中阿含受彌勒記觀，豈非得悟大與記也？問：文云行別異相故得別異果，何得餘處云一切二乘賢聖皆以無為有差別？答：論云佛此中出六十菩薩，先世作有所得行也。當其今世證羅漢時，亦得無分別證。有菩薩不遠離下，第二、明得也。大鳥下，第二、譬也。此是失上聖翅鳥呪，在舍摩梨樹上，如人間之鳥󳭋為也。此鳥不來人中者，其食龍翅頭出毒扇人眼失，故不來也。鳥譬菩薩，大者喻廣劫行行無有二慧之翅，三十三天喻三界，欲飛虗空喻佛法畢竟空，無翅欲飛方便行畢竟空也。以無翅飛則墮土地，受若死等苦及以痛惱。無方便故行空無相，墮二乘地、墮羅漢地為死，墮緣覺次死，失菩薩願為痛惱也。合譬中三：初、具合得失；二、身子領解得失；三、身子結勸恒沙。初者，合大身也。遠離般若及方便，合無翅。墮羅漢，合若死等苦也。有菩薩，明不遠離，明得文。次身子領解及結勸，如文可尋也。

爾時諸天子白佛下，第四、明菩提難得。文六：初、諸天子明菩提難得；二、佛以身子為證，雖難得我亦得；三、須菩云易得；四、身子從易得；五、佛讚成；六、釋疑。天子云難得者，六十菩薩曠劫修行而墮二地，故難得也。文諸天自釋難得，應知一切法實無一切法，此是二慧難成而斷常易起，故難得也。第二、佛言我亦得者，雖復難得而我是親得之人，汝勿言難得不得求也。次云易得者，佛約無方便者為難，今就有方便故為易，難易出緣菩提，未曾難易生死，亦未曾難度易度，如四百觀中說也。第四、身子難易得義，現疑見六十退還。又佛上大明品云：我以佛眼見六十方發菩提心，一人二人住阿󳺎也。云何言易？次須菩四義責學退人，謂即色離色、即如離如，竟無退法，令誰退耶？以見有進退故是退以耳，若知無退則無退也。次問為有一菩薩乘不者，此問言若有一菩薩乘則有退也。答云一乘如退，四求退無從，亦四求一乘不得，故知道門未曾三一也。次明中無三無一恐墮邪見故怖，所以云聞此不怖便得不退也。何者？四義不見退不得，亦四義退無從，令誰怖耶？第五、佛讚，如文。第六、釋疑。身子聞無三無一未曾是何菩提，故佛悟無三無一即是佛菩提，亦有三成有所得，是二乘菩提也。

須菩白佛下，第五、明菩提行。既聞無三無一成佛菩提，故問菩提行。凡成菩提具次福慧，上成明無三無一進退是正慧，今復須修功德後明之也。就文為二：初、明菩提行；二、明時會得道。初二：一、明行無礙因；二、明得無礙果。初二：一、明七心；二、明行等。心慈悲異，等通四等，慈是一等。又直捨怨親為等，起慈心為慈。又等是六道皆無生。平等慈者，雖平等無生而起無緣大慈也。下意者，雖起慈復次下意，如好愛罵不敢生瞋也。自不欲下，第二、明四行，即是自行佛地歎人也。十善四十四行，此是行舊法十二門禪，論云離欲凡夫十二行，謂俗自行十二，即十二門禪也。菩薩則四十八行，十有四十行，文若行十二門禪，十禪即四十，餘二禪後八也。從四禪至六度皆密法也。得是無礙色下，即二、得無礙果下，第五、悟道多告此。此以具明空有義，從品初來多明空義，從七心來明有行，空有二行功平等，令眾生離二見，故得道多也。

## 大品義疏第八卷

本云：

久安六年正月二十七日，以勸修寺本寫了次且交了。

無相大乘，　珍海　執筆。