慧遠法師
慧遠法師
法師慧遠。姓賈氏。鴈門樓煩人。幼而好學。年十三。隨舅令狐氏遊學許洛。愽綜六經。尤善莊老。宿儒先進。莫不服其深致。二十一。欲度江。從學范𡩋。適石虎暴死。南路梗塞。有志不遂。時沙門釋道安。建剎於太行常山。一面盡敬。以為真吾師也。初聞安師講般若經。豁然開悟。歎曰。九流異議。皆糠粃耳。遂與母弟慧持投簪受業。精思諷誦。以夜繼晝。因求直道場。沙門曇翼。每給燈燭之費。安師聞之曰。道士誠知人。師神明英越。志與理冥。至二十四。大善講貫。有客聞說實相義。往復問難。彌增疑昧。師為引莊子之說以相比類。惑者釋然。安師因許令不廢外典。常臨眾歎曰。使道流東國者。其在遠乎。後隨安師南遊襄陽。值秦將符丕為宼。乃分張徒屬。各隨所往。耆德臨岐。皆蒙誨益。唯師不聞一言。即跪請曰。獨無訓勅。懼非人類。安師曰。如汝者。復何所慮。師乃與弟子數十人。南適荊州。居上明寺。念舊與同門慧永。約結屋於羅浮。太元六年(晉孝武帝)。至尋陽見廬山間曠。可以息心。乃立精舍。以去水猶遠。舉杖扣地曰。若此可居。當使朽壤抽泉。言畢清流涌出。尋陽亢旱。師詣池側。讀海龍王經。忽見神蛇從池而出。須臾大雨。歲竟有秋。因名龍泉精舍。永師先居廬山西林。欲邀同止。而師學侶𥨊眾。永乃謂刺史桓伊曰。遠公方富弘道。而貧道所棲。隘不可處。時師夢山神告曰。此山足可棲神。願毋它往。其夕大雨雷震。詰旦林麓廣闢。素沙布地。楩柟文梓。充布地上。不知所自至。伊大敬感。乃為建剎。名其殿曰神運。以在永師舍東。故號東林。時大元十一年也。此山儀形九疊。峻聳天絕。而所居盡林壑之美。背負鑪峯。旁帶瀑布。清流環階。白雲生棟(廬山記匡裕先生殷周之際受道於仙人即岩成舘人稱神仙之廬因名廬山尋陽記山高三千三百六十丈周二百五十里其山九疊水亦九派郡國志疊障九層包藏仙跡)。別營禪室。最居靜深。凡在瞻履。神清氣肅。師聞天竺佛影。是佛昔化毒龍瑞迹。欣感于懷。後因邪舍律士。敘述光相。乃背山臨流。營築龕室。淡釆圖寫。望如煙霧。復製五銘。刻于石。江州太守孟懷玉。別駕王喬之。常侍張野。晉安太守殷隱。黃門毛修之。主簿殷蔚。參軍王穆夜。孝廉范悅之。隱士宗炳等。咸賦銘贊(見廬山集)。先是尋陽陶侃刺廣州。漁人見海中有神光。網之。得金像文殊。誌云。阿育王所造。後商人於海東獲一圓光。持以就像。若彌縫然。侃以送武昌寒溪。主僧僧珍常往夏口。夜夢寺火而此像室獨有神護。馳還寺果焚。像室果存。及侃督江州。迎像。將還。至舟而溺。荊楚為之謠曰。陶惟劒雄。像以神標。雲翔泥宿。邈何遙遙。可以誠至。難以力招。及寺成。師至江上。䖍禱之。像忽浮出。遂迎至神運殿。造重閣以奉之。因製文殊瑞像讚。甞謂諸教三昧。其名甚眾。功高易進。念佛為先。既而謹律息心之士。絕塵清信之賓。不期而至者。慧永(同師安公先居西林)。慧持(遠師同母弟)。道生曇順(並羅什門弟)。僧叡曇恒道昺曇詵道敬(並遠師門人)。佛䭾邪舍(此云覺明罽賓國人)。佛䭾䟦陀羅(此六覺賢迦維衛國人)。名儒劉程之(號遺民)。張野周續之張詮宗炳雷次宗等結社念佛。世號十八賢。復率眾至百二十三人。同脩淨土之業。造西方三聖像。建齋立誓。令劉遺民著發願文。而王喬之等。復為念佛三昧詩以見志。師神貌嚴肅。瞻仰者則心戰。沙門有持如意致獻者。不敢陳白。竊留座隅而去。法師慧義。強正少可。謂師弟子慧寶曰。諸君膚淺。故於遠公望風推服。常至山。值師講法華。欲致難。輙內悸流汗。出謂慧寶曰。此公言貌。誠可敬服。殷仲堪任荊州。入山展敬。與師俱臨北㵎松下。共談易道。終日忘倦。仲堪歎曰。師智識深明。實難庶幾。師亦曰。君之才辨。如此流泉(後人名其處曰聰明泉)。司徒王謐。護軍王默。並欽慕風德。遙致敬禮(王謐有書徃反)。盧循據江州。入山詣師。師少與循父嘏同為書生。及見循。歡然道舊。其徒諫曰。循為國宼。得不為人疑。師曰。我佛法中。情無取舍。識者自能察之。此何足懼。及宋武進討循設帳桑尾。左右曰。遠公素王廬山與循交厚。宋武曰。遠公世表之人。何可疑也。乃遣使馳書。遺以錢帛。有行者來侍師。善驅蛇。蛇為盡去。因號辟蛇行者。有一虎往來。時見行迹。未甞傷人。人號遊山虎。師與社眾。每遊憩上方峯頂。患去水遠。它日有虎跑其石。水為之出。因號虎跑泉。又於一峰製涅槃疏。因名擲筆峯。初是大教流行。江東經卷未備。禪法無聞。律藏多𨷂。師乃命弟子法淨法領等。遠越葱嶺。曠歲來還。皆獲梵本。昔安公在關中。請曇摩難提。出阿毗曇心論。其人未善晉言。頗多疑滯。後僧伽提婆至。即請重譯。及三法度論。於是二論乃興。師即製序以貽學者。聞鳩摩羅什入關。遣書通好。什答書曰。傳繹來貺。粗聞風德。經言末代東方有護法菩薩。欽哉仁者善弘其道。曇摩流支入秦。師遣弟子曇邕。請於關中。出十誦律流傳晉國。西土諸僧。咸稱漢地有大乘開士。每東向致禮獻心盧岳。及佛䭾䟦陀羅至。師即請出禪數諸經。於是禪戒典出自廬山。幾至百卷。先是此土。未有泥洹常住之說。但言壽命長遠。師曰。佛是至極。至極則無變。無變之理。豈有窮耶。乃著法性論十四篇。羅什見而歎曰。邊方未見經。便闇與理合。秦主欽風。以大智度論新譯致書求序。師以其文繁廣。乃抄其要為二十卷而為之序(羅什譯智論凡百卷)。桓玄征殷仲堪。要師出虎溪。稱疾不往。玄將入山。左右曰。昔殷仲堪禮敬於遠。請公勿屈。玄曰。仲堪死人耳。及玄見師不覺屈膝。所懷問難。不復敢發。及語至征討。師即不答。玄後以震主之威。勸令登仕。師正辭以答。玄不能強。既而欲沙汰眾僧。下教僚屬。曰沙門之徒。有能申述經誥。禁行修整者。始可以宣寄大化。其有違於此者。悉當罷黜。唯廬山道德所居。不在搜簡之列。師因致書廣立條制。玄悉從之。初庚氷輔政。以沙門應敬王者。何充奏不應禮。及玄在姑熟。復申氷議。師答書曰。袈裟非朝宗之服。鉢盂非廊廟之器。塵外之客。不應致敬王者。乃著沙門不敬王者論五篇。一明在家者有天屬之愛。奉主之禮。二明出家以求志。變俗以達道。豈得與世典同其禮敬。三明求宗不順化。宗謂泥洹不變。以化盡為宅(泥洹即涅槃飜不生不滅)。不順化者。其生可滅。其神可冥。冥神絕境。謂之泥洹。而不隨順於生生化化。流動無窮之境。斯所以不事王侯高尚其事。豈復有所禮敬者哉。四明體極不兼應。謂歷代君王體極之主。但務方內。而不可並御于方外。故曰不兼應。天地之道。功盡于運化。帝主之德。理極于順通。與夫獨絕之教。不變之宗。優劣明矣。若夫如來之道。則無所不應矣。五明形盡神不滅。謂火之傳于薪。猶神之傳于形。火之傳異薪。猶神之傳異形。方生方死。往來無窮。但悟澈者反本。惑理者逐物耳。有頃。玄篡位。即下書曰。佛法宏誕所未能了。初推奉主之情。故令興敬。今事既在己。宜盡謙光。諸道人。勿復致禮也。桓玄西奔。安帝自江陵還京師。輔國何無忌勸師侯迎。師稱疾不行。帝遣使勞問。師上書謝病。帝復下詔慰答。師甞講喪服經(當是禮記小記大記四制等篇)。雷次宗宗炳等。並執卷承旨。次宗後著義疏。首稱雷氏。宗炳寄書責之曰。昔與足下面受于釋和尚。今便稱雷氏耶(陸德明毛詩音義云周續之與雷次宗同受詩義于遠法師亦此類也)。釋惠要患山中無刻漏。乃與水上立十二葉芙蓉。因波隨轉。分定晝夜以為行道之節。謂之蓮花漏。僧澈善篇牘。甞至山南攀松而嘯。和風遠集。眾鳥悲鳴。超然有自得之趣。退諮于師曰。律禁管絃歌舞。若一吟一咲。可得為乎。師曰。苟以亂意。皆為非法。徹唯而止。師居山三十年。迹不入俗。唯以淨土克勤于念。初十一年澄心繫想。三覩聖相沉厚不言。後十九年七月晦夕。於般若臺之東龕。方從定起。見阿彌陀佛。身滿虗空。圓光之中。有諸化佛。觀音勢至。左右侍立。又見水流光明。分十四支。流注上下。演說苦空無常無我之音。佛告之曰。我以本願力。故來安慰汝。汝後七日。當生我國。又見佛䭾邪舍慧持(義熈八年先逝)慧永(義熈十年先逝)劉遺民(義熈六年先逝)在佛之側。前揖師曰。師志在先。何來之晚。師語法淨惠寶曰。吾始居此十一年中三見佛相。今復見之。吾生淨土必矣。又曰。七日之期。斯為漸矣。即𥨊疾。製遺誡曰。吾昔以知命之年。託業此山。自審有必盡之期。便欲絕迹外緣以求其志。良由性弱於斷。遂令同趣相引。時賢過眷。情以類感。不覺形與運頹。今年已八十三矣。仰尋違離之誨。俯慨自負之心。徒令此生虗謝。以悼往疾之深。今于至時露骸松林之下。即嶺為墳。無土木同狀。此乃古人之禮。汝等勿違。苟神理不昧。庶達其誠。大哀世尊。亦當祐之以道。門徒號慟若喪父母。師以世情難割。乃制七日展哀。至期始順寂。即義熈十二年八月六日也。弟子不忍露屍。與尋陽太守阮侃奉全軀舉葬于西嶺。累石為塔。謝靈運立碑以銘。遺德張野作序。自稱門人。宗炳復立碑於寺門。以表德業。師將終耆德請以豉酒治病。師曰律無通文。請飲米汁。師曰。日過中矣。又請食蜜和水。乃令披律尋文。卷未半而終。所著經論諸序銘贊詩記凡十卷。號廬山集(刻梓在越府)。自佛圖澄道安師遠法師曇順僧叡五世為國師云。唐宣宗大中二年。追諡辯覺大師。昇元三年。追諡正覺(南唐李先主年號即晉高祖皇帝天福四年也)。大宋太宗太平興國三年。追諡圓悟大師凝寂之塔。
【慧遠法師】 姓は賈氏、鴈門郡樓煩の人。幼い頃から学問を好み、十三歳で母方の叔父・令狐氏に従い許昌や洛陽で学んだ。儒教の六経を広く学び、特に『荘子』『老子』に精通していた。年長の学者たちも、その深い見識に敬服しない者はいなかった。
二十一歳の時、江南へ渡り范甯に師事しようとしたが、折しも石虎(後趙の皇帝)が急死し、南方への道は塞がれてしまった。志は果たせずに終わった。その頃、僧の道安が太行山の常山に寺を建てていた。法師は一目会って深く敬意を表し、「これこそ真の我が師だ」と感じた。初めて道安が『般若経』を講じるのを聞き、はっと悟りを開いて嘆じた。「諸子百家の説は、すべてもみ殻に過ぎない」。そこで弟の慧持と共に髪を剃り落として弟子となった。経典の諷誦に精進し、夜を日に継いで学んだ。道場で灯明を必要とした時には、僧の曇翼が常に灯油やろうそくの費用を負担してくれた。道安はこれを聞いて、「この修行者は人を見る目がある」と語った。法師の精神は英明で抜きん出ており、その志は真理に一致していた。
二十四歳になる頃には、経典の講説に非常に優れていた。ある客が実相の義について質問し、問答を重ねるうちにますます疑問が深まった。法師は『荘子』の説を用いて比喩的に説明したところ、疑念を抱いていた者はすっかり理解した。道安はこれを許し、外典(仏教以外の書物)を学ぶことを禁じなかった。道安はしばしば大勢の前で嘆じた。「仏法を東方の国に広める者は、きっとこの慧遠であろう」。
その後、法師は道安に従い南へ襄陽に向かった。折しも秦の将・符丕が侵攻してきたため、道安は弟子たちを分散させ、各々好きな所へ行かせた。年長の弟子たちは皆、別れの際に教えを頂いたが、法師だけは一言もなかった。法師はひざまずいて尋ねた。「私だけにお教えがないのは、私が人間ではないからでしょうか」。道安は答えた。「あなたのような者に、何を心配することがあろうか」。法師は数十人の弟子を連れて南の荊州へ向かい、上明寺に住んだ。かつて同門の慧永と、羅浮山に草庵を結ぶ約束をしていたのを思い出した。
太元六年(晋の孝武帝の年号)、尋陽に至り廬山が広々としているのを見て、「ここで心を静めることができる」と感じ、精舎を建てた。水辺から遠いことを気にして、杖で地面を突き「もしここに住むにふさわしいなら、この朽ちた土から泉を湧き出させよ」と祈ると、言い終わる前に清らかな流れが湧き出た。また尋陽が干ばつに見舞われた時、法師は池のほとりに行き『海龍王経』を読誦すると、忽ち神蛇が池から現れ、やがて大雨が降り、その年は豊作となった。そのためこの精舎を「龍泉精舎」と名付けた。慧永は既に廬山の西林寺に住んでいた。彼は法師を誘って一緒に住もうとしたが、法師の学侶が次第に増えていった。そこで慧永は刺史の桓伊に言った。「遠公はまさに仏法を広めようとしておられますが、私の住まいは狭くて手狭です」。その夜、法師は山の神が夢に現れて「この山は神を留めるに十分です。どうか他へ行かないでください」と言うのを聞いた。その夜は大雨と雷が轟き、明け方には林が広く開け、白い砂が敷き詰められ、良質の木々が地面に満ちていた。どこから来たのか分からなかった。桓伊は大いに敬服し感動して、寺を建てた。その殿を「神運殿」と名付けた。慧永の寺の東にあったので、「東林寺」と呼ばれた。時は太元十一年である。
この山の形は九つの峰が重なり、高く聳え立って絶景である。法師の住まいは林と谷の美しさを全て備え、背後には香炉峰を負い、側には瀑布が懸かる。清流は階段を巡り、白雲は棟の間に生じる。別に禅室を設け、最も静かで奥深い場所に置いた。訪れる者は皆、心清らかに気を整えた。法師は天竺の仏影が、仏がかつて毒龍を教化した瑞相であることを聞き、心から感動した。後に邪舎律師が光相を述べたのを聞き、山に背き川に臨んで龕室を築き、淡い彩色で描き、煙霧のように見せた。さらに五つの銘を作り石に刻んだ。
江州太守の孟懐玉、別駕の王喬之、常侍の張野、晋安太守の殷隠、黄門の毛脩之、主簿の殷蔚、参軍の王穆夜、孝廉の范説之、隠士の宗炳らが、皆、銘や贊を賦した。それより以前、尋陽の陶侃が広州の刺史であった時、漁師が海の中で神光を見て網を打ち、金の文殊菩薩像を得た。銘には「阿育王の作」とあった。後に商人が海の東で一つの円光を得て、像に合わせるとぴったりと合致した。陶侃はこれを武昌の寒溪寺に送った。主僧の僧珍が常に夏口に行っていた時、夜に寺が火事になり、この像の室だけが神に守られている夢を見た。急いで寺に戻ると、果たして寺は焼け落ちていたが、像の室だけは残っていた。陶侃が江州を督するようになり、像を迎えようとして舟に乗せると、像は水に落ちてしまった。荊楚の地で謡が作られた。「陶は剣の英雄、像は神の標。雲に舞い泥に宿る、遠く遥かなり。誠は至るべく、力は招き難し。」寺が完成すると、法師は江のほとりで心を込めて祈ると、像が忽然と浮かび上がった。そこで神運殿に迎え、重閣を建てて安置した。そして『文殊瑞像賛』を作った。
法師はかつて言った。「多くの教えの三昧は、その名が非常に多いが、功徳が高く進み易いのは、念仏が第一である。」やがて戒律を守り心を静める者、世俗を離れ清らかな信心を持つ賓たちが、招かずして集まってきた。慧永(同じく安公に師事し、先に西林に住んでいた)、慧持(遠公の同母弟)、道生、曇順(共に羅什の門弟)、僧叡、曇恒、道昺、曇詵、道敬(共に遠公の門人)、仏駄邪舎(覚明と訳す、罽賓国の人)、仏駄跋陀羅(覚賢と訳す、迦維衛国の人)、名儒の劉程之(遺民と号す)、張野、周続之、張詮、宗炳、雷次宗らが、結社して念仏を行った。世に「十八賢」と号された。さらに人々を募り、百二十三人にまで及んだ。共に浄土の業を修め、西方三聖像を造り、斎を設け誓いを立て、劉遺民に発願文を作らせた。王喬之らは更に『念仏三昧詩』を作り、その志を示した。
法師の神貌は厳粛で、拝謁する者は心が震えた。如意を持って献上しようとした僧も、恐れて言葉を発することができず、こっそりと座席の隅に置いて去ったという。法師の慧義は、剛直で人を認めることが少なかった。彼が法師の弟子・慧宝に言った。「諸君は浅薄だ。遠公に対しては、風評だけで敬服しているのだ」。彼は常に山に来て、法師が法華経を講じるのを聞き、問答を仕掛けようとしたが、心臓がどきどきして汗が出た。外に出て慧宝に言った。「この方の言葉と容貌は、実に敬服すべきものだ」。殷仲堪が荊州刺史の時、山に入って敬意を表した。法師と共に北の谷の松の下に臨み、『易経』の道を終日語り合い、疲れを忘れた。仲堪は嘆じて言った。「法師の智慧と識見は深遠明瞭で、私ごときが到達できるものではない」。法師も言った。「君の才能と弁舌は、この流れる泉のようだ」(後にその場所は「聰明泉」と呼ばれた)。司徒の王謐、護軍の王黙も、その風徳に憧れ、遠くから敬意を表した(王謐とは書簡のやり取りがあった)。
盧循が江州を占拠した時、山に入り法師を訪ねた。法師は若い頃、盧循の父・盧嘏と共に書生であった。盧循に会うと、喜んで昔話に花を咲かせた。弟子たちは諌めて言った。「盧循は国の賊です。疑われないでしょうか」。法師は答えた。「我が仏法の中では、情に取捨はない。識者ならば自ら察することができるだろう。何を恐れることがあろうか」。後に宋の武帝(劉裕)が盧循を討伐し、桑尾に陣営を敷いた。側近が言った。「遠公は以前から廬山に住み、盧循と深く交わっています」。宋の武帝は言った。「遠公は世の表に出る人ではない。何を疑うことがあろうか」。そして使いを派遣し、書状と共に銭や絹を贈った。
ある行者が法師に仕え、蛇を追い払うのが上手かった。蛇はすっかりいなくなり、「辟蛇行者」と呼ばれた。一頭の虎が行き来し、その足跡が見られることもあったが、人を傷つけることはなく、「遊山虎」と呼ばれた。法師は社の仲間たちと、よく上にある峰の頂で遊び憩んだ。水が遠いことを憂えていたある日、虎が岩を掘り、水が湧き出した。このため「虎跑泉」と呼ばれた。また一つの峰で『涅槃経』の疏を作ったため、「擲筆峰」と呼ばれた。
初め、仏教は広まっていたが、江南では経巻が十分に整っておらず、禅法は聞かれず、律蔵も欠けているものが多かった。そこで法師は弟子の法浄・法領らに命じ、遠くインドへ赴かせた。彼らは長い年月を経て帰還し、皆梵本を得た。昔、安公(道安)が関中にいた時、曇摩難提に『阿毘曇心論』の翻訳を依頼した。しかし彼は中国語に堪能でなく、多くの疑問が残った。後に僧伽提婆が来たので、法師は彼に再訳を依頼した。『三法度論』と共に、この二つの論が広まることとなった。法師は序文を作り学者に遺した。鳩摩羅什が関中に入ったと聞き、書簡を送って親交を結んだ。羅什は返書にこう書いた。「貴方の手紙を伝え聞き、大まかに風徳を知りました。経には『末代の東方に護法の菩薩が現れる』とあります。敬服いたします。仁者がその道を良く弘められますように」。曇摩流支が秦に入ると、法師は弟子の曇邕を関中に派遣し、『十誦律』を翻訳させ、晋の国に伝えた。西方の僧たちは皆、漢土に大乗の開士がいることを称え、東に向かって礼をし、廬山に心を寄せた。仏駄跋陀羅が来ると、法師は彼に禅数に関する諸経を翻訳させた。これにより、禅や戒律に関する典籍が廬山から出され、その数は百巻に近かった。
これより以前、この国には涅槃常住の説はなく、ただ寿命が長いとだけ言われていた。法師は言った。「仏は至高の存在であり、至高であれば変化しない。変化しない道理に、どうして窮まりがあろうか」。そこで『法性論』十四篇を著した。羅什はこれを見て嘆じた。「辺境の地で未だ経典を見ていないのに、闇のうちに道理に合致しているとは」。秦の主(姚興)はその風徳に憧れ、『大智度論』の新訳が成ると、書簡で序文を依頼した。法師はその文が繁雑で広範であるため、要旨を抄出して二十巻とし、序文を付けた(羅什は『智論』を百巻訳した)。
桓玄が殷仲堪を討伐する時、法師に虎谿の外に出るよう要請したが、法師は病と称して行かなかった。桓玄が山に入ろうとすると、側近が言った。「昔、殷仲堪が遠公に礼を尽くしました。あなた様はどうか無理をなさらないでください」。桓玄は言った。「仲堪など死人のようなものだ」。そして桓玄が法師に会うと、思わずひざまずいてしまった。心に抱いていた問答も、もはや述べることができなかった。話が征討のことに及ぶと、法師は答えなかった。桓玄は後に、主君を震憾させるほどの威光で、法師に官途に就くよう勧めたが、法師は厳しい言葉で答えた。桓玄は強いることができなかった。やがて桓玄は僧侶を淘汰しようとし、部下に命令を下した。「沙門の徒で、経典をよく述べ、行いを整えている者は、大法を宣揚するにふさわしい。それに違反する者は、すべて罷免せよ。ただし、廬山の道徳の住むところは、捜索の対象としない」。法師は書簡を送って多くの規則を定めた。桓玄は全て従った。
初め、庾氷が補政していた時、沙門は王者に礼をするべきだと主張した。何充は奏上して、礼をするべきではないとした。桓玄が姑孰にいる時、再び庾氷の議を復活させた。法師は書簡で答えた。「袈裟は朝廷に参内するための服ではなく、鉢は廟堂(朝廷)の道具ではありません。塵外の客である者が、王者に敬意を表すべきではありません」。そして『沙門不敬王者論』五篇を著した。第一に、在家の者は天属の愛があり、主に仕える礼があることを明かす。第二に、出家は志を求めるためであり、俗を変えて道に達するのであって、世俗の典籍と同様の礼敬をすべきではないことを明かす。第三に、宗を求める者は教化に従わない。宗とは泥洹(涅槃、不生不滅と翻訳する)の不変を言い、変化の尽きたところを住まいとする。教化に従わないとは、その生は滅すべく、その神は冥すべきである。神を冥し境を絶つことを泥洹と言い、生生化化の流動して窮まりない境に随順しないことである。これが王侯に仕えず、その業を高尚とする所以であり、どうして更に礼敬することがあろうか。第四に、極を体得した者は兼ねて応ずることができない。歴代の君主は極を体得した主であるが、ただ方内(世俗)に務めるのみで、方外(世俗外)を兼ね治めることはできない。故に「兼応せず」という。天地の道は、その働きが運化に尽きる。帝王の徳は、その理が順通に極まる。これと独絶の教え、不変の宗とを比べれば、優劣は明らかである。もし如来の道ならば、応じないものはない。第五に、形は尽きても神は滅びないことを明かす。火が薪に伝わるように、神は形に伝わる。火が異なる薪に伝わるように、神は異なる形に伝わる。生まれると同時に死に、往来は窮まりない。ただ悟りに徹した者は本に返り、理に迷う者は物に追われるのである。
間もなく桓玄が帝位を簒奪すると、直ちに詔を下した。「仏法は広大で怪奇であり、まだ十分に理解できていない。初めは主に仕える情を推し量り、礼を興そうとした。今や事は我が身に在る。もっと謙虚であるべきだ。諸道人よ、再び礼をする必要はない」。桓玄が西方へ逃亡すると、安帝は江陵から長安へ帰還した。輔国の何無忌が法師に、皇帝を迎えに出るよう勧めたが、法師は病と称して行かなかった。帝は使いを派遣して慰問し、法師は上書して病気を謝した。帝は再び詔を下して慰問の答えた。
法師はかつて『喪服経』(『礼記』の小記、大記、四制などの篇であろう)を講じた。雷次宗や宗炳らが書巻を手にして教えを受けた。次宗が後に注釈書『義疏』を著し、初めに「雷氏」と称した。宗炳は書簡を送って責めた。「昔、お前は釈和尚から面授を受けた。今、雷氏と称するとはどういうことか」(陸徳明『毛詩音義』に、周続之と雷次宗が共に詩の義を遠法師から受けたとあるのも、これと同じ類である)。
僧の恵要が山中に時計(刻漏)がないことを憂い、水上に十二葉の蓮華を作り、波に従って回転させ、昼夜を分かち、行道の節度とした。これを「蓮花漏」と呼んだ。僧の徹は文章が得意で、かつて山の南で松に攀じながら嘯いた。和風が遠くから集まり、多くの鳥が悲しげに鳴いた。超然として自得の趣があった。後に法師に問うて言った。「律で管弦歌舞を禁じています。もし一吟一笑するなら、してもよいでしょうか」。法師は答えた。「もし心を乱すならば、全て非法である」。徹は「はい」と答えてそのままやめた。
法師は山に三十年間住み、俗界には足を踏み入れず、ただ浄土を克明に念じた。初め十一年間、心を澄まし想いに専念し、三度聖なる相を見たが、沈黙して語らなかった。後の十九年七月三十日の夕方、般若台の東の龕で、禅定から起き上がろうとした時、阿弥陀仏を見た。その身は虚空に満ち、円光の中には多くの化仏があり、観音・勢至が左右に侍立していた。また水流の光明が十四の支流に分かれ、上下に流注し、苦・空・無常・無我の音を演説しているのを見た。仏は彼に告げた。「私は本願の力によって、来てあなたを慰める。あなたは七日の後、我が国に生まれるであろう」。また仏駄邪舎、慧持(義熙八年に先立って逝去)、慧永(義熙十年に先立って逝去)、劉遺民(義熙六年に先立って逝去)が仏の側にいるのを見た。彼らは前に進み出て法師に揖して言った。「師の志は先にあります。どうして来るのが遅いのですか」。法師は法浄と慧宝に語った。「私はここに住み始めて十一年の間に三度仏の相を見た。今またこれを見る。私は浄土に生まれることは必定である」。また言った。「七日の期限は、これ漸きに過ぎない」。そこで病気に臥し、遺誡を作った。「私はかつて知命の年(五十歳)に、この山に身を寄せた。自ら必ず尽きる時があることを省み、外縁を絶ちその志を求めようとした。まさに性が断に弱いため、同じ趣の者に引き寄せられ、時の賢者が過分に顧みてくれた。情は類をもって感じ、知らず識らずのうちに形は運と共に衰えた。今年既に八十三歳になった。仰いで離れ違う教えを尋ね、俯して自負の心を慨く。徒にこの生を虚しく謝し、往きし疾の深きを悼む。今や時に至り、屍を松林の下に露わにし、嶺に従って墳墓とせよ。土や木で覆うな。これ古の人の礼である。汝ら違えてはならない。もし神理が昧(くら)からざれば、願わくはその誠に達せん。大哀世尊もまた道をもって祐けたまえ」。門弟たちは慟哭し、父母を失ったかのようであった。法師は世俗の情を断ち切ることが難しいと考え、七日間だけ哀しみを表すよう定めた。その期限が来て、ついに静かに息を引き取った。即ち義熙十二年八月六日である。弟子たちは屍を露わにするに忍びず、尋陽太守の阮侃と共に全身を西嶺に葬り、石を積んで塔とした。謝霊運が碑文を立て、遺徳を記した。張野は序を作り、自ら門人と称した。宗炳もまた寺門に碑を立て、徳業を表した。
法師が亡くなろうとする時、年長の弟子たちが豉酒で病気を治すよう勧めた。法師は「律に通文はない」と言った。米汁を飲むよう勧めると、法師は「日は既に中を過ぎた」と言った。更に蜜を水に溶かして食べるよう勧めると、法師は律を調べて文を探すよう命じた。巻物を半分も読まないうちに息を引き取った。著した経論の諸序、銘、讃、詩、記は合わせて十巻あり、『廬山集』と号された(版本は越府にある)。仏図澄、道安、師の遠法師、曇順、僧叡の五世は国師となったという。
唐の宣宗・大中二年、「弁覚大師」と追諡された。昇元三年(南唐の先主の年号、晋の高祖・天福四年に当たる)、「正覚」と追諡された。大宋の太宗・太平興国三年、「円悟大師凝寂之塔」と追諡された。